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No.208 - 中島みゆきの詩(11)ひまわり [音楽]

今までに中島みゆきさんの詩について11回、書きました。次の記事です。

No.  35 - 中島みゆき「時代」
No.  64 - 中島みゆきの詩(1)自立する言葉
No.  65 - 中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉
No.  66 - 中島みゆきの詩(3)別れと出会い
No.  67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間
No.  68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録
No.153 - 中島みゆきの詩(7)樋口一葉
No.168 - 中島みゆきの詩(8)春なのに
No.179 - 中島みゆきの詩(9)春の出会い
No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて

今回はその続きで《ひまわり“SUNWARD”》を取り上げます。なぜかと言うと、前回の No.207「大陸を渡った農作物」で、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物として向日葵ひまわりに触れたため、この曲を思い出したからです。

実は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でもこの詩を取り上げたのですが、その時はいくつかの中の一つであり、また詩の一部だけだったので、再度この詩だけに絞って書くことにします。


ひまわり“SUNWARD”


《ひまわり“SUNWARD”》は、1994年に発売されたアルバム『LOVE OR NOTHING』に収められた曲で、その詩は次のようです。


ひまわり“SUNWARD”

あの遠くはりめぐらせた
妙な棚のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く
夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが
燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて
赤ん坊が泣く

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

A1994 『LOVE OR NOTHING


Love or Nothing.jpg
中島みゆき
LOVE OR NOTHING」(1994)
①空と君のあいだに ②もう桟橋に灯りは点らない ③バラ色の未来 ④ひまわり“SUNWARD” ⑤アンテナの街 ⑥てんびん秤 ⑦流星 ⑧夢だったんだね ⑨風にならないか ⑩YOU NEVER NEED ME ⑪眠らないで


最初に出てくる「柵」と「銃声」という言葉が、この詩の情景を端的に表しています。それは戦争、ないしは抗争です。柵の両側に分かれた勢力が銃を撃ち合っているという状況です。

「柵が作られ、銃声が鳴り響く場所」はどの地域(国)のことだとはありませんが、具体的に想像することも可能です。たとえばこのアルバムが発売された頃は、ユーゴスラビア内戦(1991-1995)のまっただ中でした。旧ユーゴスラビア連邦が共和国に解体していく過程で起こった内戦、ないしは紛争です(スベロニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニアに解体した)。複数の民族と宗教(カトリック、ギリシャ正教、イスラム教)と地域性が複雑に絡み合った戦争です。従来は仲良く暮らしていた隣同士の村が、いがみ合い、殺し合いになることもあった。

  私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

とあります。従来、柵(壁、境)がなかった所に柵が作られていく。しかも「私」には柵の両側の2つの血が流れている。両親の出身地は柵の両側に分かれてしまった・・・・・・。多民族国家ではこのような状況が頻発したと考えられます。


戦争で分断された家族


戦争(ないしは抗争・紛争)というこの詩の背景を補強するのが《ひまわり“SUNWARD”》という題名です。この題名が昔の名画『ひまわり』(1970)を連想させるからです。

映画『ひまわり』はイタリア人夫婦の物語です。旧ソ連戦線に出征して音信不通になった夫を、妻がロシアまで探しに行く。しかしやっと見つけた夫は命の恩人のロシア人女性と結婚していた、というストーリーでした。戦争のもたらす悲劇を描いた映画です。

girasoli-hd-movie-title.jpg
映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語の「ひまわり」。このタイトルバックを始めとして映画には "一面のひまわり畑" のシーンが出てくるが、それが強烈な印象を残す。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの主演で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。ヘンリー・マンシーニ作曲の "せつない" 音楽が印象的な作品でした。そしてそれ以上に印象的なのが見渡す限り一面のひまわり畑の映像で、このショットが強烈に心に残る作品です。

なぜここで「ひまわり畑」なのか。ひとつは、No.207「大陸を渡った農作物」で書いたようにロシアやウクライナがヒマワリの大産地だからです。しかしそれだけの理由ではありません。この「ひまわり畑」の下には戦争で死んだイタリア兵やソ連兵が眠っているというのが映画での設定です。「ひまわり畑」は戦争(ないしは戦場)の象徴でもある。

この映画を若い時に見た人は「戦争で分断された家族 ひまわり」ないしは「戦場 ひまわり」という連想が容易に働くのではないでしょうか。何回か書きましたが、映画(名画)のもたらすインパクトは強いのです。そのインパクトは、物語やストーリーよりも、むしろ特定の映像・場面・シーンが印象に残る強さだと思います。そして中島さんも連想が働いたのではないか。

というのも『ひまわり』の日本公開は1970年秋であり、中島さんは大学の1年生です。中島さんはこの映画を札幌で見たのではないかと、ふと思ったのです。

ふと思ったのには理由があります。1970年秋にもうひとつの外国映画が公開されました。学生運動を背景に、青春の高揚と挫折を描いた『いちご白書』です。No.35「中島みゆき:時代」に、中島さんの名曲「時代」は『いちご白書』の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響されたのではという推測を書きました。そこから同時期に公開された『ひまわり』を連想したわけです。

映画「ひまわり」.JPG
映画「ひまわり」は2011年にデジタル・リマスター版が公開されたが、その予告編より。ちなみに「いちご白書」も同じ年にリマスター版が公開された。

とにかく「ひまわり」=「戦場、ないしは戦争で分断された家族」というのが詩の背景です。柵ができ、銃声が鳴り響き、「私」の両親は柵の両側に属することになってしまった状況です。


ロミオとジュリエット


ところで、この詩における最も重要なフレーズは、何回か繰り返される、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

だと思いますが、これはシェイクスピアを踏まえているのではないでしょうか。

juliet-house.jpg
ジュリエットの家
(ヴェローナ市のHP)
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、北イタリアのヴェローナの街が舞台です。キャピュレット家のジュリエットはロミオと恋に落ちますが、そのロミオが敵同士として憎みあってきたモンタギュー家だと知って嘆き、悲しみます。そして自宅の2階バルコニーでロミオへの想いを語ります。それを実はロミオが下で聞いているという、ドラマの前半のヤマ場というか、劇的な場面です。ちなみに No.53「ジュリエットからの手紙」で書いたように、現在のヴェローナの街にはバルコニー付きの「ジュリエットの家」があって観光名所になっています。

このバルコニーの場面におけるジュリエットの「おお、ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオ?」というせりふは大変に有名ですが、その続きの部分を引用すると次の通りです。


ジュリエット
おお、ロミオ、ロミオ!どうしてあなたはロミオ?
お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。
それがだめなら、私を愛すると誓言して。
そうすれば私もキャピュレットの名をすてます。

ロミオ(傍白)》
もっと聞いていようか、いま話かけようか。

ジュリエット
私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ、
モンタギューの名をすてても、あなたはあなた。
モンタギューってなに?
手でも足でもない、腕でも顔でもない、
人間のからだのなかのどの部分でもない、
だから別のお名前に。
名前ってなに?バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

だからロミオというお名前をやめたところで
あの非のうちどころのないお姿は、
呼び名はなくてもそのままのはず。
ロミオ、その名をおすてになって、
あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、
この私を受けとって。

シェイクスピアロミオとジュリエット
第2幕 第2場より
(小田島 雄志・訳。白水社。1985)

アンダーラインを付けたところの原文は、

  that which we call a rose by any other name would smell as sweet.

です。この「A rose by any other name would smell as sweet.」という一文は、シェイクスピアの引用ということを越えて、格言として英語圏で通用しているようです("名前より本質" という意味)。余談ですが、No.77「赤毛のアン(1)文学」で書いたように、このジュリエットのせりふを踏まえた表現が『赤毛のアン』に出てきます。


「そうかしら」アンは思いにふけった顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キヤベツという名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。・・・・・・」

松本侑子・訳『赤毛のアン』
第5章「アンの生い立ち」
(集英社文庫)

本が好きで、ちょっと変わった考え方をするアンの性格がよく出ているところです。中島みゆき《ひまわり“SUNWARD”》に戻りますと、

  シェイクスピア
  バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

中島みゆき
  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

の2つは発想が酷似しています。これはまったくの偶然でしょうか。そうかも知れません。アンは「本で読んだ」と言っているので、作者のモンゴメリがシェイクスピアを踏まえたことが明白ですが、中島さんの場合は偶然かもしれない。

ただし、そうとも言えない「気になる点」が2つあります。その一つ目ですが、《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、

  柵の両側に分かれた二つの勢力が抗争している、その象徴が銃声

という状況設定の詩です。一方「ロミオとジュリエット」は、

  ヴェローナの町におけるモンタギュー家(ロミオの実家。ローマ教皇派)とキャピュレット家(ジュリエットの実家。神聖ローマ皇帝派)の抗争を背景にし、若い2人の死で終わる悲劇

です。二つの勢力の抗争が背景になっているという点で似ているのです。

2つ目の気になる点は「花は香り続けるだろう」という言葉が、題名の "ひまわり" と軽いミスマッチを起こしていることです。もちろんひまわりも香りますが、一般的に「香りのよい花」だとは見なされていません。香りがでられる花は、ジュリエットが引き合いに出しているバラを筆頭に、スイセン、ジャスミン、ラベンダー、ユリ、キンモクセイ、クチナシ、梅、沈丁花じんちょうげなどだと思います。バラは香水の成分になったりするほどです。

一方、キク、チューリップ、アサガオ、シクラメン、コスモス、桜などは「香り」というより「花の形や色、咲く姿」が評価されるわけです。香りはあっても弱い香り、淡い香りです。品種によって程度の違いはあると思いますが、一般的に「香りの花」という意識はない。詩の題名になっているひまわりはキク科の植物です。野菊やデイジー程度の香りはするが、そんなに香りが引き立つ花ではありません。従って、題名のひまわりと詩の表現をマッチさせるなら、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は咲き続けるだろう

ぐらいが適切な感じもします。その方が「いかにも生命力が強そうな」ひまわりに合っていそうです。しかしこの詩は「咲く」ではなくて「香る」という言葉になっている。この「ひまわり」と「香る」の組み合わせには軽い(あくまで軽い)ミスマッチを感じるのですが、一般的に言って中島さんの詩は一つ一つの言葉が慎重に選ばれています。ここは「香る」でなければならない理由があるはずです。



以上の2つの「気になる点」から判断すると、やはり中島さんは意図的に「ロミオとジュリエット」を踏まえたのではと思います。だとすると《ひまわり“SUNWARD”》から具体的な何らかの戦争や内戦(たとえばユーゴスラビア内戦)を思い浮かべるよりも、民族・国籍・宗教・政治・信条・思想・家系などに起因する、もっと一般的なあらそいや対立をイメージすべきでしょう。

中島さんの詩を "狭く受け取る" と誤解してしまう、そういったことがよくあります。いかにも具体的事物を指していそうな言葉でも、よく考えるともっと汎用的というか、広い意味で使われていたりする。中島さんは言葉に象徴性を持たせることが多いし、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、彼女は象徴詩が得意なのです。

というように考えると《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、たとえば現在、世界各地の "多民族国家" や "移民受け入れ国家" で問題になっている「民族間の軋轢あつれき、ないしは対立、反目」を想像してみても良いと思います。現に、「分断派」と「融合派」が政治的に対立する構図の中で大統領選挙が行われたりしているのです(2016年:アメリカ、2017年:フランス)。

ここまで書いて思い出すことがあります。「ロミオとジュリエット」を換骨奪胎して現代アメリカに置き換えた有名なミュージカルがあります。『ウェストサイド・ストーリー』です。このミュージカルは、ポーランド系アメリカ人の少年グループ(=ジェット団)とプエルトリコ系アメリカ人の少年グループ(=シャーク団)の対立が、ストーリーの骨格になっています。つまり移民国家・アメリカにおける出自の違いによる対立が背景です。

「ロミオとジュリエット」は北イタリア・ヴェローナの名門家系の "争い" ですが、それをグッと小さくするとニューヨークの "チンピラ" 少年グループの抗争になる。一方、ぐっと視点を広げて一般化すると《ひまわり“SUNWARD”》が描いているような世界観になる。そう考えることもできると思います。

「たとえどんな名前で呼ばれるときも / 花は香り続けるだろう」という一節は、「たとえどんな名前やレッテルで呼ばれようとも、人間であることは変わらない」というメッセージになっています。それはジュリエットがバルコニーで訴えた心の叫びと本質的に同じです。


ひまわりが象徴するもの


この曲の題名の英語部分は "sunflower" = ひまわり ではなく "sunward" です。sunward は「太陽に向かう」という意味の形容詞ないしは副詞で、向日葵ひまわりの "向日" の部分の英訳になっています。

なぜ日本語で「ひまわり = "向日" あおい」なのかというと、ひまわりは常に太陽に花を向けるという "伝説" があるからです。それは必ずしも正しくないのですが(成長の初期段階ではそういう傾向がある)、そう思われているからこそ向日葵ひまわりという和名になった。実はあおいも「仰ぐ日」からきているらしい。葉に向日性があると言います。

「太陽に向かう」ということの含意は、"前向き" とか "希望" とか "未来へ" といったイメージでしょう。そしてなぜ「太陽に向かう」のか、それは「太陽の光 = 誰にでも均等に降り注ぐもの」を求めるからです。そのことが詩の中で力強く宣言されています。

  あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

わざわざ英単語の sunward を持ち出したのは「太陽に向かう」ということを明確にしたかったからでしょう。『ひまわり』とか『向日葵ひまわり』だけよりも、タイトルの意図が明確になります。そして中島さんはタイトルでこの詩の「主題」を示した。

「日本語の題名に英語の副題」をつけるということで思い出すのは、『LOVE OR NOTHING』(1994)の前年に発表されたセルフ・リメイク集『時代 - Time goes around』(1993)です。Time goes around は「時は回る」という意味ですが、この副題によって中島さんは《時代》という詩のテーマが「時の循環」だと(改めて、題だけで)明確にしたわけです。《ひまわり“SUNWARD”》というタイトルは、それとよく似ています。


ひまわりの2重の意味


《ひまわり“SUNWARD”》についてまとめると、この詩は "ひまわり" に2重の意味を込めたと考えられます。

戦場、ないしは戦争で分断された家族、それをもっと一般化した世の中の "争い" 全般を象徴するものとしての "ひまわり"

太陽の光に向かう、誰もが均等に与えられる愛を求める、という意味での "ひまわり"

の2つです。この詩は "ひまわり" という花が発想の最初にあって、そこから全体の詩を構成したという気がします。ひまわりをモチーフにした絵画や歌はいろいろあります。それらの作品がひまわりにイメージしているものは、

夏という季節
太陽を思わせる色と形の花
大きくて印象的な花
背が高く、まっすぐに立つ姿

などです。しかしこの中島作品はそれらとはちょっと違います。そこが彼女の独特さというか、個性なのでしょう。考えてみると ② の「太陽を向く」というのは、実物のひまわりを見たとしても実感できるわけではありません。しかし言葉としては向日葵ひまわりであり、「太陽に向く」が本来の意味です。このあたり、言葉そのものにこだわる中島さんの詩人としての感性がよく現れていると思いました。


誰にでも降り注ぐ光


この詩は "争い" を解決するものとしての「誰にでも降り注ぐ光(=愛)」がテーマになっています。はたしてそれは何なのか、どこに求めたらいいのかと・・・・・・。普通に考えるとその有力候補は宗教なのでしょうが、その宗教や宗派が抗争の発端になり排他性の原因になっていることが多々ある。また「誰にでも降り注ぐ光は嫌だ。自分たちだけに降り注ぐ光が欲しい」と声高に叫ぶ人たちもいる。

この詩は No. 67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で取り上げたように "社会" に関わった詩ですが、発表から23年たった現在、社会との関係性においても十分に通用する詩であり、それどころか増々輝いてみえます。それだけ普遍性のある内容だと思います。




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No.207 - 大陸を渡った農作物 [文化]

前回のNo.206「大陸を渡ったジャガイモ」の続きです。アンデス高地が原産のジャガイモは16世紀以降、世界に広まりました。もちろん日本でもジャガイモ料理は親しまれていて、肉じゃがやポテトサラダ、ポテトコロッケなどがすぐに浮かびます。ジャガイモはドイツの「国民食」であり、ジャガイモのないドイツ料理など想像もできないわけですが、ドイツだけでなく世界中の食卓にあがっています。

フライド・ポテト(アメリカでフレンチ・フライ、英国でチップス)とその仲間も世界中で食べられています。ベルギーに初めて旅行したとき、食事のときにもベルギー・ビールのつまみにも、現地の人はフライド・ポテト(ベルギーで言う "フリッツ")にマヨネーズをつけて食べていました。極めて一般的な食べ物のようで、それもそのはず、フライド・ポテトはベルギーが発祥のようです。

ムール貝とフリッツ.jpg
ムール貝の白ワイン蒸しとフリッツ。これを食べないとベルギーに行ったことにならない(?)、代表的なベルギー料理(Wikipedia)。

ジャガイモと同じようにアメリカ大陸が原産地で、16世紀以降に世界に広まった農作物や食品はたくさんあります。No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、世界で作付け面積が多い農作物は、小麦、トウモロコシ、稲、ジャガイモだと書きましたが、そのトウモロコシもアメリカ原産で、その栽培種は中央アメリカのマヤ文明・アステカ文明で作り出されたものです。


トウモロコシ


トウモロコシは食用にしますが、それよりも重要なのは飼料用穀物としてのトウモロコシです。日本の畜産業で使われる飼料は、そのほとんどがアメリカなどからの輸入で、その飼料の重要な穀物はトウモロコシです。日本はヨーロッパや南北アメリカ、オーストラリアなどと違って、家畜を放牧する広大な草地が少ないわけです。マクロ的に言うと(輸入)トウモロコシが日本の畜産を成り立たせています。

司馬遼太郎氏は小説家であると同時に、日本や世界の文明についての思索を巡らせ、数々のエッセイや旅行記、対談集を発表されました。その対談集の中に次のような文章があります。


遊牧という地球規模のスペースを必要とした生産が消えていった原因の一つは、15世紀末にコロンブスが新大陸で発見したトウモロコシでした。トウモロコシの原種というのはつまらないものだったらしいですけど、ああいうふうにふっくらさせたのはアメリカ人だそうで、それができて、濃縮飼料というか、濃密飼料というか、濃密の食べ物ですから、動物が移動しなくてもよくなった。だから、スペインなどでも、大きな牧場を必要とせずに、トウモロコシ畑を作っておけばたくさんの家畜を飼うことができる。

司馬遼太郎
対談集「日本人への遺言」
(朝日文庫 1999)

司馬氏はモンゴルや遊牧文化に造詣が深く、遊牧の視点からの発言です。トウモロコシが遊牧、ないしは牧畜の "ありよう" を変えてしまったという主旨です。

ヨーロッパ大陸を列車やバスで旅行するとします。日本と違って都市部を離れると一面の田園地帯になることが多いわけです。フランスなどは国土の70%が農地だと言います。車窓から何が植えられているかを見ていると、しばしばトウモロコシを見かけるのですね。牧草も見かけるがトウモロコシ畑も多い。トウモロコシが牧畜を変えたことを実感できます。

Field of maize in Liechtenstein - Wikipedia.jpg
オーストリアとスイスの間にある小国、リヒテンシュタインのトウモロコシ畑(Wikipedia)

トウモロコシは牧畜を変えただけでなく、肉質も変えたと言えるのではないでしょうか。オーストラリア産の牛肉は "赤み肉" が多いわけです。放牧で草を食べて育った牛は脂身が少なく赤み肉が多くなるからです。それが牛の自然な姿です。一方、牛舎で飼料だけで育てると脂身が多くなる。オーストラリアは日本への輸出のために牛舎での肥育も取り入れてきていると言います。

和牛は輸入飼料(トウモロコシ、大豆、大麦が主)があって成立するものです。その頂点として、世界に名をとどろかせている "神戸ビーフ"(No.98「大統領の料理人」参照)をはじめとする日本各地の "ブランド牛" がある。日本では「脂身が多い牛肉を前提とした食文化」が出来上がったのですが、その陰には飼料としてのトウモロコシがあることも覚えておくべきでしょう。


サツマイモとカボチャ


サツマイモとカボチャもアメリカ大陸原産です。サツマイモの原産地は南米のペルー付近と言われています。痩せた土地でもよく育ち、ジャガイモと同じで初心者でも育てやすい。日本では江戸時代以降、飢饉対策として広く栽培されました(教科書で習った記憶があります)。食糧難に陥ったときにそれを救う意味で栽培される食物を「救荒食物」と呼びますが、その代表的なものです。太平洋戦争中、戦後の食料難の時代にも栽培が広がりました。国会議事堂の前を耕地にしてサツマイモを作っている写真を見たことがあります。

カボチャも、トウモロコシと同じく中央アメリカ原産の野菜です。野菜の中でも生命力が強く、栽培が比較的容易です。江戸時代以降は救荒食物としても重要でした。

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国会議事堂の前が耕地になり、サツマイモが栽培された。1946年の画像(Wikimedia)


トマト


トマトは南米のアンデス高地が原産で、中央アメリカのアステカ文明で栽培種が作られました。トマトはサラダなどで生食すると同時に、トマトソースなどにして料理に使います。特にイタリア料理です。ジャガイモがないドイツ料理が想像できないように、トマトがないイタリア料理も考えられないわけです(まずピザが成り立たない)。またトルコ料理もトマトを使うことで有名です。生食するとともに、煮込み料理にトマトを多用します。これらは17-18世紀かそれ以降に本格的に広まったことに注意すべきでしょう。

少々意外なことに、トマトは世界の野菜で最も収穫量の多い野菜(重量ベース)のようです。これはトマトケチャップなども含む調味用食材としての利用が多いからです。その理由ですが、トマトはズバ抜けてグルタミン酸の含有量が多い野菜です。No.108「UMAMIのちから」で書いたように、グルタミン酸は「第5の味覚」である "UMAMI" の主要成分です。だからトマトなのでしょう。それに加えて爽やかな酸味がある。

以前、テレビの紀行番組で見たのですが、南イタリアでは今でも自家製のトマトの瓶詰めを作る家庭があるようです。収穫されたイタリアン・トマトを少々熟成し、煮込んだあと潰して瓶に詰める。それを大量に作る。北イタリアに別居している息子夫婦も帰省して手伝う、それがマンマの味を支えている・・・・・・みたいな。

サンマルツァーノ.jpg
調理用イタリアン・トマトの代表的な品種、サンマルツァーノ
(site : natural-harvest.ocnk.net)

日本人は昆布からグルタミン酸を抽出したダシを料理に使うわけですが、イタリア人は類似のことをトマトでやったという見方ができると思います。もちろん日本でも料理にトマトは使うわけで、和製洋食ともいえるオムライスやナポリタンはトマト(ケチャップ)の味付けが必須です。カゴメ株式会社はトマトで成り立っています。


トウガラシ


トウガラシ(唐辛子)も中央アメリカ原産の野菜です。日本へは16世紀末から17世紀初頭に伝えられました。その日本を経由して朝鮮半島に伝わったというのが定説です。朝鮮半島では以降、200年かけてトウガラシが広まりました。つまり日本の江戸時代に広まったわけです。それまでのキムチは辛くなかった(と考えるしかない)。

鷹の爪.jpg
日本で栽培されているトウガラシの品種の一つ「鷹の爪」。熊本県人吉市のホームページより
(site : www.city.hitoyoshi.lg.jp)

今となってはトウガラシを使わない韓国料理は想像できないわけです。キムチは言うに及ばず、鍋にトウガラシ、スープにトウガラシ、刺身にもトウガラシです(!!)。少々古いですが1975年の統計で、韓国人一人あたりの平均一日のトウガラシの使用量は5~6グラム、それに対して日本の使用量は一人年間1グラムだそうです(丸谷才一「猫だって夢を見る」より。元ネタはハウス食品が発行した『唐辛子遍路』という本)。韓国料理だけでなく中国の四川料理や(麻婆豆腐、豆板醤・・・・・・)、タイ料理でもトウガラシを多用します。トウガラシの辛みに魅了される、ないしは "やみつき" になるのは何となく分かる気がします。

ハンガリー産パプリカ.jpg
ハンガリー産のパプリカ。ハンガリー食品・雑貨輸入販売店「コツカマチカ」のホームページより
(site : www.kockamacska.com)

ピーマンとパプリカは、辛み成分(=カプサイシン)が少ないトウガラシの栽培品種です。ハンガリーに行くと、やたらとパプリカが目につきます。そもそもハンガリーで作り出されたもので、パプリカはハンガリー語(マジャール語)です。パプリカのないハンガリー料理も考えられない。これらはいずれも日本でいうと江戸時代以降に広まったことに注意すべきでしょう。


カカオ


カカオは中南米原産の植物です。カカオの果実の中の種子(カカオ豆)がココアやチョコレートの原料になります。

カカオ-4.jpg
カカオの実とカカオ豆(Wikipedia)

チョコレートは菓子の中でも独特のポジションにあります。つまり菓子職人の中でもチョコレート(ショコラ)職人はショコラティエと呼ばれていて、その地位が確立しています。このブログの記事では No.117「ディジョン滞在記」で、フランスのディジョンにあるファブリス・ジロットの本店のことを書きました。

アメリカのギラデリ社は、世界のチョコレート・メーカーの中でも最も古い会社の一つです。その創業は1850年頃で、日本で言うと江戸時代です。160年以上続く会社というのは世界でもそう多くはないわけで、チョコレート文化の強さを感じます。ギラデリ社はサンフランシスコが発祥で、その歴史的な工場跡やショップ群は "ギラデリ・スクウェア" と呼ばれていて、観光スポットになっています。かつての工場跡などを見学するとチョコレート産業の歴史を感じます。

Ghirardelli Square.jpg
ギラデリ・スクウェア(サンフランシスコ)
(site : www.destination360.com)

チョコレートは人間が食べると何ともないが、動物が食べると中毒を起こすそうです。コロンブス到達するはるか以前からのアメリカ大陸の住人が人類に与えてくれた「贈り物」だと言えるでしょう。


落花生


落花生も南米、ペルーが原産地です。落花生は「地中で実を結ぶ」という特異な豆です。花をつけたあと、花の根元から "つる" が伸び、それが地中に潜り込んで、地中に鞘ができ、その中に実ができる。よくよく考えると奇想天外な植物です。

落花生の成長.jpg
落花生のできかた。千葉県八街市のホームページより引用。
(www.city.yachimata.lg.jp)

栄養価が高く、ピーナッツ油をとったりもできます。すりつぶしてピーナッツバターにしても独特のうま味がある。

Peanuts a Golden Celebration 2.jpg
Peanutsの50年の歴史をたどった、作者・シュルツ氏の本


スヌーピーやチャーリー・ブラウンが登場する、シュルツ作の漫画のタイトルは「ピーナッツ」です。「ピーナッツでも食べながら気楽に読める漫画」という意味だと言われていますが、Wikipedia によると、この題名は作者のシュルツが決めたものではなく出版エージェントが決めたもののようです。英語の peanuts には「つまらないもの、とるに足らないもの」という意味があり、シュルツはこのタイトルが不満だったと・・・・・・。

しかし「ピーナッツでも食べながら」とか「とるに足らない」と言われるということは、裏を返せば、それだけ広まっていて愛されている証拠です。あたりまえ過ぎて、愛されていること自体があまり意識されていないということでしょう。シュルツさんはこのタイトルに誇りを持ってもよかったと思います。


タバコ


タバコもアンデス地方原産の植物ですが、世界中に広まってタバコ文化を形成してしまいました。紙巻きタバコ、キセル、パイプと、喫煙方法も多彩です。

宮崎市のタバコ畑.jpg
葉たばこの栽培。宮崎市のホームページより
(site : www.city.miyazaki.miyazaki.jp)

この数十年、タバコを吸うことによる肺ガンの発症や、受動喫煙による健康被害に関する知識が広まり、喫煙人口は減少してきました。受動喫煙だけをとってみても、日本国内で受動喫煙が原因で年間約15,000人が亡くなっており(国立がん研究センターの推計)、受動喫煙による医療費の増加は年間3200億円にのぼるそうです(厚生労働省研究班の推計)。

この状況に対応するためタバコ会社は "電子タバコ" に力を入れています。液体ないしはペースト状の "専用タバコ" を加熱して蒸気を発生させる電子機器ですが、日本ではフィリップ・モリス社のアイコス(iQOS)がブレイクしていて、現在は入手困難らしい。

そこまでして "タバコもどき" を吸う必要があるのかと思いますが、中毒性のある文化を変えるのでは容易ではないということでしょう。アメリカでは30年ほど前から「建物の中は全部禁煙」というケースがよくありました。禁煙文化が最も進んでいるのはアメリカではないかと思います。肥満と同じで「禁煙できないのは意志薄弱な証拠」のように見なされている感じもあります。

とにかく、アメリカ大陸原産で世界に広まり、歴史に影響を与え、その程度が大だった農作物としては、タバコが一番かもしれません。


ヒマワリ


ヒマワリ(向日葵)原産は北アメリカの西部です。日本では農作物というイメージは薄いと思いますが、世界的にみると種子を食用にしたり、またヒマワリ油をとったりと、重要な農作物です。

ヒマワリの大産地はロシアとウクライナで、この2国の国花はヒマワリです。このことを如実に示したのが、1970年公開のイタリア・フランス・ソ連(当時)合作映画『ひまわり』でした。とにかく、あたり一面、見渡す限りのヒマワリ畑は極めて強い印象を残しました。ヒマワリは農作物ということを実感できます。

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映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語のヒマワリ。

前回の No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、ジャガイモを描いた名画としてミレーの『晩鐘』とゴッホの『ジャガイモを食べる人々』を引用しました。そのゴッホはヒマワリを連作で描いたことで有名です。(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。しかしゴッホとともにヒマワリを描いた有名な絵は、アンソニー・ヴァン・ダイクの『ひまわりのある自画像』でしょう。

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アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
ひまわりのある自画像」(1633)

強い印象を残す不思議な自画像です。シュール・レアリズムの絵の感じがないでもない。まるでダリが描いたような・・・・・・。いわゆる "ヴァンダイク髭" を蓄えた姿が、髭の画家・ダリを連想させるのでしょう。

ヴァン・ダイクはイングランドの宮廷画家で、主人はチャールズ1世です。絵に描かれた金の鎖はチャールズ1世から贈られたものです。そして画家が指さしているヒマワリは、チャールズ1世ないしはイングランド王室を象徴していると言われています。だとすると、左手に持った金の鎖は国王にもらったのだと誇示しているような・・・・・・。ヴァン・ダイクは若い時に「いかにもナルシスト」という感じの自画像を描いていますが、この絵もその系統にあたると思います。振り向いた姿を描いていることも。

注目すべきは、ここにヒマワリがあることです。この絵はコロンブスのアメリカ大陸発見から140年後に描かれました。スペイン人が本国に種を持ち帰ってから100年間は、ヒマワリはスペイン本国外には出なかったといいます。ということは、ヒマワリがヨーロッパに普及しはじめて20~30年後にこの絵が描かれたということになります。

その時すでにイングランド宮廷ではヒマワリが栽培されていて、画家はその大柄でインパクトの強い花を見て、ある種の象徴性を感じたものと想像されます。また、イングランド王室の伝統とは無縁な "新参者の植物" を持ち出したところに意味があるのかもしれません。つまり、ヴァン・ダイクはフランドル人であり、外国人である自分がイングランド宮廷で成功したことをひまわりに重ね合わせたとも考えられます。



以上のほかにも、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物はいろいろあります。パイナップル、インゲンマメ、アボガド、パパイヤ、ゴム、バニラ(香料)などがそうです。


食文化は変化する


ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、トウガラシ、チョコレート(原料のカカオ)、ピーナッツ、喫煙の習慣などは、16世紀にアメリカ大陸からもたらされ、17-18世紀に広まったものです。それぞれの国で時期は違うものの、長くても200年~300年の歴史のものです。国によっては100年程度の歴史しかない作物もある。

「ジャガイモとドイツ料理」「トウガラシと韓国料理・ハンガリー料理」「トマトとイタリア料理・トルコ料理」は切っても切れないものであり、それが昔からの伝統だと暗黙に思われています。しかしそんなに古いものではない。一般的に言って食習慣は想像以上に迅速に変化します。「昔からの伝統的な ・・・・・・ 料理」といっても、その「昔」とはせいぜい数十年のこともあります。

そして「大陸を渡った農作物」をながめて見ると、食文化は日本の江戸時代の頃からずっと「グローバル化」の影響を受けてきた、そのこともまた理解できるのでした。




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No.206 - 大陸を渡ったジャガイモ [文化]

前回の No.205「ミレーの蕎麦とジャガイモ」で、ミレーの『晩鐘』に描かれた作物がジャガイモであることを書きました。小麦が穫れないような寒冷で痩せた土地でもジャガイモは収穫できるので、貧しい農民の食料や換金作物だったという話です。今回はそのジャガイモの歴史を振り返ってみたいと思います。

ジャガイモは、小麦、トウモロコシ、稲、に次いで世界4位の作付面積がある農作物です。1位~3位の「小麦・トウモロコシ・稲」は穀類で、保存が比較的容易です。一方、ジャガイモは "イモ" であり、そのままでは長期保存ができません。それにもかかわらず世界4位の作付面積というのは、寒冷な気候でも育つという特質にあります。これは、ジャガイモの原産地が南米・アンデス山脈の高地だからです。

そのアンデス高地でジャガイモはどのように作られているのでしょうか。以下、山本紀夫氏の著作「ジャガイモとインカ帝国」(東京大学出版会。2004)からたどってみたいと思います。

  山本紀夫氏は国立民族学博物館(大阪府・吹田市)の教授を勤められた方です。植物学と文化人類学の両方が専門で、ペルーのマルカパタという村に住み込んで農耕文化の調査をされました。また家族帯同でペルーに3年間滞在し、ペルーの首都・リマの郊外にある国際ポテトセンター(ジャガイモの研究機関)で研究されました。ジャガイモを語るには最適の人物です。


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インカ文明を支えたジャガイモ


ジャガイモ文化をはぐくんだのは南米のインカ文明です。最盛期のインカ帝国の時代、その人口は1000万人以上と見積もられていますが、半分以上は3000メートル以上の高地に住んでいました。帝国の首都のクスコの標高は3400メートルです。3000メートル以上の高地で発達した高度文明は、世界史でも他に例がありません

文明の基盤となる産業は、近代以前はもちろん農業です。その農作物では、南北アメリカ原産のトウモロコシが有名です。トウモロコシは南北アメリカ大陸の広い範囲で見られる作物で、もちろんアンデス地方でも栽培されています。しかし、トウモロコシは温暖な気候に適した作物です。寒冷な高地では栽培できません。現在のアンデス地方でもトウモロコシは主に山麓や海岸地帯で栽培されています。

一方、ジャガイモは寒冷な気候に強く、3000メートル以上の高地でも栽培が可能です。ジャガイモは南米・アンデス高地を原産地とし、アンデスの民が育ててきた作物なのです。アンデス高地が原産地である証拠に、現在でもジャガイモの野生種が自生しています。野生種の "イモ" は小指ほどの大きさしかなく、ソラニンという毒が含まれるため食用には向きません。

この野生種から栽培種を作り出したのがアンデスの人々です。栽培種は、芽の部分にはソラニンがありますが、基本的に煮るだけで食べられます。ジャガイモの栽培種は植物学的には(= 学名がついた種は)7種ありますが、現在のアンデス地方にはこれら全部が揃っていて、その品種は数千種あると言われています。現在、アンデス以外の世界中で栽培されているのは7種のうちの1種(トゥベローサム種)だけであり、この1種からさまざまな品種("男爵" とか "メイクイーン" とか)が作り出されました。

野生種が存在し、かつ、現在知られている栽培種がすべて揃っていることは、ジャガイモを食料として育ててきたのがアンデスの民であることを物語っています。



そのジャガイモを、現在のアンデスの人々はどのように利用しているのでしょうか。特に、インディオと呼ばれる、伝統農業を守っている人々のジャガイモ作りです。山本紀夫氏がペルーのマルカパタという村で現地調査した結果を以下に紹介します。マルカパタ村はかつてのインカ帝国の首都であるクスコから東に100kmほどにあり、人口は約6000人、村の中心地(=プエブロ・マルカパタ。ヤクタとも言う)の標高は 3100メートルです。


高度差利用農業


次の図はマルカパタ村の「断面図」で、高度による農業の違いを示しています。まず、標高4500メートル程度の高地では農業ができないので、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの放牧が行われます。こういった家畜の糞は肥料としてジャガイモ栽培に活用されます。

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マルカパタ村の高度差利用農業。上から順に、牧畜、ジャガイモ、トウモロコシ、熱帯植物の農業が営まれる。村の中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にある。「ジャガイモとインカ帝国」より

その下がジャガイモを栽培する地区で、高度によって「ルキ」「プナ」「チャウピ・マワイ」「ワマイ」という耕地名で呼ばれます。インディオたちの家は「プナ」にありますが、「出作り小屋」や「家畜番小屋」があり、これらを利用して放牧や農業が行われています。インディオの言葉は昔からのケチュア語です。

高度3000メートルから2000メートルはトウモロコシの栽培地区です。マルカパタの中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にあり、ミスティ(=スペイン人との混血の人たち。スペイン語を話す)たちの家があります。2000メートルより下は熱帯作物の栽培地区です。

ジャガイモに着目すると、高度差1000メートルの中に4つの耕地ありますが、インディオの1家族は、この4つの耕地それぞれでジャガイモを栽培します。つまり1000メートルもの大きな高度差に分散してジャガイモの栽培をしているわけです。このため、植え付けの時期を変えることによって、年4回収穫することができます。つまり、新鮮なジャガイモが長く食べられるわけですが、分散には他にも理由があります。


もうひとつの理由がある。それは収穫の危険を分散するためである。もともとジャガイモは寒冷な気候に適した作物であるが、そのような高地は作物を栽培するうえでは厳しい環境、すなわち収穫の危険性が大きい環境である。そして、この危険性は高度の増加とともに大きくなる。高地ほど気温が低く、雨量も少なくなるからである。とくに乏しい降雨はジャガイモ栽培に深刻な影響を与える。アンデスではジャガイモは伝統的に自然の降水のみに頼って栽培しているからである。

それでは、このような危険性を回避したり、減少させるためにはどうすればよいのか。その方法の一つが、大きな高度差のなかで生じる気温や雨量の違いを利用して、少しずつ時期をずらして植え付けることである。具体的には、標高の低いところほど早く植え付け、高地にいくほど植え付け時期を遅らせるのである。実際に、マワイの耕地での植え付けは8月であるのに対して、もっとも高いところにあるルキの耕地での植え付けは10月末ごろと、そのあいだには2~3ヶ月のズレがある。

山本紀夫「ジャガイモとインカ帝国」
(東京大学出版会。2004)


休耕システム


ジャガイモの耕地は垂直方向に分散すると同時に、水平方向にも分散しています。つまり4つの耕地のそれぞれを5つの耕区に分け、そのうちの一つだけを使い、残りは休耕しています。こういった休耕は地力を回復するためと考えるのが普通ですが、しかし山本さんが現地で調査したところ、4年間休耕しても土壌養分はほとんど変わらないことが分かりました。4年間休耕してもその土壌養分だけでジャガイモの栽培はできず、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの家畜の糞を肥料として与える必要があるのです。


それでは、ジャガイモ耕地は何のために休閑しているのであろうか。その最大の目的は病虫害の防除にあるとわたしはみている。じつは、ジャガイモは病虫害に弱い作物であり、特に連作すると病虫害の発生率は高くなる。その病虫害で最大のものがアンデスではセンチュウによるものであり、その有効な駆除策として知られるのが休閑なのである。しかも、「センチュウの生息密度が高いときにジャガイモの収量を確実にするためには5年間に一度だけ栽培するようなローテーションが必要である」とされるのである [Hooker 1981]。

このような事実は、いずれも休閑の最大の目的が地力の回復よりも、ジャガイモの病虫害の防除にあることを強く示唆するであろう。もちろん、このような方法では、毎年使われる耕地が全体の数分の一でしかないため、生産性という点ではきわめて低いレベルにとどまらざるを得ない。しかし、このことはまた、アンデスの農民が生産性よりも安定的な収穫を最大の目的にしていることを物語る。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」


ジャガイモの品種は100種類


マルカパタ村のジャガイモ栽培で驚かされるのは、きわめて多くの品種があることです。マルカパタ村全体では約100種類のジャガイモの品種があり、村人はそれぞれに品種名をつけています。その一部の例が下図です。

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マルパカタ村で栽培されているジャガイモの品種の例。村全体では100種ほどあり、すべてに名前がついている。「ジャガイモとインカ帝国」より

しかもマルカパタの人々は、一つの畑に20~30種類もの品種を混ぜて栽培します。いったい何のためなのでしょうか。


その理由のひとつとして考えられるのが、多様な品種の栽培による危険の分散である。さきにマルカパタのジャガイモは形態や色などが異なっていることを指摘したが、これらの品種は形態が異なっているだけでなく、病虫害や気候、さらに環境などに対する適応性も異なっていると判断される。実際に、マルパカタの村びとは、イモの形態の違いだけでなく、それぞれの品種による栽培特性の違いにつていもよく知っている。この点の調査は十分ではないが、少なくとも耐寒性や耐病性、そして雨の多少などに対する適性について熟知している品種が少なくなかった。

したがって、一枚のジャガイモ畑に多様な品種を栽培するのは、やはり収穫の危険性を回避するためであると考えてよさそうである。耐寒性や耐病性などの点で様々に異なる品種を混植することで、天候の異変や病虫害の発生に対して収穫の減少を少しでも防ぐ工夫と考えられるのである。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」

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アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。



以上、マルカパタ村のジャガイモ栽培は、まとめると次の3つの特徴をもっています。

高度差利用栽培
1000メートルの高度差を4つの耕地にわけ、時期をずらせてジャガイモを植え付ける。

休耕
一つの耕地をさらに5つの耕区にわけ、5年に一度のローテーションでジャガイモを栽培する。

数10品種のジャガイモを混植
一つの畑に20~30品種のジャガイモを混植する。マルパカタ村全体では約100品種のジャガイモがある。

マルパカタの村人に聞いても「昔からそうやっているから」との答えしか返ってきません。従って栽培方法の「理由」については山本さんの推測が入っていますが、それはやむをえないと思います。

とにかく、アンデスのジャガイモ栽培は、寒冷な土地で食料を確保するための知恵と工夫の積み重ねの上に成り立っていることは間違いないでしょう。もちろん、食料にできない野生種から栽培種を作りだしたのがアンデスの民の「知恵と工夫」の第1歩だったわけです。


世界への伝搬


アンデスの民が育てたジャガイモは16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰り、徐々に世界中に広まっていきました。その本格的な普及は18世紀あたりからのようです。アンデス高地が原産ということで何よりも寒冷な気候に強く、また地下茎にイモをつけるので鳥に食べられる心配がありません。特に、飢饉や戦争での荒廃を契機にジャガイモ栽培が広まることが多かったようです。

ジャガイモの普及に関しては数々のエピソードがありますす。たとえば第二次世界大戦後の日本人捕虜のシベリア抑留(=強制労働)では、ジャガイモに助けられたという声が多々あります(助かった人は、という前提ですが)。伊藤章治「ジャガイモの世界史」(中公文庫 2008)にはそのあたりの事情が書かれています。また20世紀になるとネパールのシェルパ族にもジャガイモ栽培が広まり、人口が急増しました(山本紀夫「ジャガイモのきた道」岩波新書 2008)。

ジャガイモを題材にした絵画作品で最も有名なのは、ゴッホがオランダ時代に描いた『ジャガイモを食べる人たち』でしょう。この絵を見ると、食卓にはジャガイモしかないのですね。そこがポイントです。従って絵の題名は「ジャガイモだけを食べる人たち」が正確です。ジャガイモは炭水化物のほかにビタミンCなどの栄養素も多い食物です。ジャガイモが当時のヨーロッパの貧しい農民たちの "命綱" だったことがよく分かります。

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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ジャガイモを食べる人たち」(1885)
(アムステルダム・ゴッホ美術館)

ジャガイモに関する数々のエピソードで非常に有名なのが、アイルランドの「ジャガイモ飢饉」です。それを伊藤章治・著「ジャガイモの世界史」と山本紀夫・著「ジャガイモのきた道」からたどってみます。


アイルランドのジャガイモ飢饉


イギリス英語でfamine(飢饉)に定冠詞をつけてThe Great Famine(=大飢饉)というと、19世紀半ば、1845年から起こったアイルランドのジャガイモ飢饉のことを指します。


16世紀末、アイルランドにもたらされたとされるジャガイモは、岩盤だらけのアイルランドの土地でも「貧者のパン」としての役割を十二分に果たす。ほとんど手入れなしでも1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため、ときにはジャガイモ畑は「怠け者のベッド」と呼ばれたほどだ。

ジャガイモからのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保証されたため、この国の人口は1760年の150万人から、1841年には約800万人に膨れ上がった。そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」と呼ばれるジャガイモ飢饉(アイルランド語 An Gorta Mor。英語 The Great Famine)である。

伊藤章治「ジャガイモの世界史」
(中公文庫 2008)

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上の引用にあるように、アイルランドにジャガイモが本格的に普及したのは、18世紀半ばから約100年かけてのことでした。そこに「大飢饉」が襲った。

ジャガイモ飢饉の原因は1845年に始まった「ジャガイモ疫病」の発生で、英語で "Potato Blight" と呼ばれているものです(Blightは "枯れる" という意味)。この病気の原因は、フィトフトラ・インフェスタンスという真菌類です。アメリカ起源といわれているこの病気は、1845年の6月にイギリス南部のワイト島に発生し、イギリス本土、ベルギー、フランス、ドイツなどに広がり、そして8月末にアイルランドに上陸しました。この真菌の胞子はものすごいスピードで広がり、ジャガイモの葉や茎で発芽すると葉は斑点ができて黒く変化し、イモは腐って悪臭を放つようになります。


1845年、ジャガイモ疫病によるアイルランドの損害は平均で約40パーセントに達した。この年夏の湿気の多い天候と変わりやすい風が、ジャガイモ疫病の胞子を各地の畑に飛散させたのだ。

翌1846年は、ジャガイモの植え付け面積が三分の一ほど縮小する。人々が種イモまで食べつくしたからだ。その年もジャガイモ疫病は8月のはじめには姿を現し、卓越風に乗って瞬く間に広がった。さらに収穫期には豪雨が降り、霧が出た。ロンドンの『タイムズ』紙が、「ジャガイモ全滅」と報じたのがこの年である。

1847年は見事な収穫に恵まれたものの種イモの不足で通常の五分の一しか植えられず、飢饉は続く。1848年は2月に大雪が降ったが、5月、6月の天候は順調で、人々に期待を持たせた。しかし7月には雨ばかりの天候となり、またもジャガイモ疫病は一気に拡散した。結果は1846年と並ぶほどの凶作だった。収穫が皆無となるなか、働き手はこぞって米国などに海外移民、残された者たちはペットを食べ、雑草を食べ、さらには人肉までも口にしたという話が伝わるほどの地獄絵図が現出した。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

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ジャガイモ疫病
ジャガイモ疫病にかかると、まず葉に病斑ができ、たちまち葉全体に広がって、地中のジャガイモは腐る。ビル・プライス「世界を変えた50の食物」(原書房 2015)より引用。

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アイルランド、ダブリン市内にある「飢饉追悼碑」(Wikipedia)

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人口調査によると、アイルランドの人口は1841年には817万人でしたが、1851年には655万人にまで減少してしまいました。飢饉がないと1851年には900万人程度になったはずという見積りがあります。つまり250万人の人口が失われたことになり、そのうち約100万人が海外へ移住、残りは死んだといわれています。死因には栄養失調や餓死もありますが、それより多かったのが栄養不足で病気にかかることによる病死でした。

この大飢饉のダメージは大きく、アイルランドの人口はその後も減り続け、現在でも人口は450万人程度です。一方、"アイルランド系"の人口はアメリカで4300万人、全世界では7000万人と言われています。有名な話ですが、この「アイルランド系アメリカ人」から、大統領が2人出ています。ケネディ大統領とレーガン大統領です。どちらも大飢饉の時代にアメリカに移民したアイルランド人の子孫です。


飢饉をもたらしたもの


1845年のジャガイモ疫病はアイルランドだけではなく、ヨーロッパ各国で発生しました。しかし大飢饉はアイルランドだけで起こった。それはなぜでしょうか。


なぜ、アイルランドだけでジャガイモ疫病が大飢饉を引きおこしたのだろうか。それは、一口にいえばアイルランド人が「ジャガイモ好き」だったからである。つまり、あまりにもジャガイモに依存しすぎたせいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからである。

さらに、この状態に拍車をかけたのが、単一品種ばかりを栽培したことである。ジャガイモには数多くの品種があるが、アリルランドでは19世紀の初め頃からもっぱらランパーとよばれる品種のみを栽培するようになっていた。この品種は、栄養価では他の品種にくらべて劣っているが、少ない肥料と貧弱な土壌でも栽培ができたため、アイルランド全土に普及していたのである。しかし、ジャガイモは塊茎で増える、いわゆるクローンであるため、単一品種の栽培は遺伝的多様性を失わせることになる。したがって、ある病気が発生すれば、それに抵抗性をもたない品種はすべての個体が同じ被害を受けることになる。アイルランドの大飢饉は、まさしくこうして生じたのであった。

山本紀夫「ジャガイモのきた道」
(岩波新書 2008)

しかし、ここでよく考えてみる必要があります。ヨーロッパ各国に比べてなぜアイルランドだけが「ジャガイモに依存しすぎた」のでしょうか。その背景にはアイルランドと英国の長い抗争の歴史がありました。


英国が作り出した大飢饉


12世紀から始まった英国のアイルランド支配は、プロテスタント(英国)によるカトリック(アイルランド)の弾圧の歴史でした。


その抗争の歴史に「苛斂誅求かれんちゅうきゅう」というほかない苛酷な支配を持ち込んだのが、熱烈な清教徒で、わずかな年数で宗教改革を成し遂げ、英国国王チャールズ一世を処刑して共和制を築いたオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)である。

1641年、英国支配に対するアイルランド側の反乱、「カトリック一揆」が起こる。英国本土には、混乱のなかで2000人以上の新教徒入植者が殺されたと誇張して伝えられたといわれる。その「新教徒虐殺」への報復、見せしめとして、二万人の精鋭を率いて攻め入ったクロムウェルは、カトリック教徒であるアイルランド人を大虐殺した。カトリック教会組織は手当たり次第に破壊され、教徒の資産は没収された。農地もまたそのほとんどが没収され、アイルランド人は英国人地主の小作人に転落する。17世紀初頭には59パーセントだったカトリック教徒の所有地は、18世紀初頭にはわずか」14パーセントとなった。そしてアイルランド人は岩盤と石ころだらけの西部の土地へと追いやられたのだった。

「アイルランド人は地獄かコノートに行け」とクロムウェルは、公言したといわれる。アイルランドの西部に位置するコノートは、アイルランドのなかでも最も生活条件の厳しい土地だ。

・・・・・・・・・・

小作人となったアイルランド農民は、農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてを英国人地主に納めた。ではどうやって彼らは生き延びることができたのか。彼らは残りの三分の一の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食としたのである。

・・・・・・・・・・

アイルランドのジャガイモ飢饉は、ジャガイモ単作(モノカルチャー)のゆえに起こったのだといわれる。しかし、英国による土地と作物の厳しい収奪のもと、残された石と岩盤だらけの狭隘きょうあいな土地でアイルランド国民が生き残るには、ジャガイモ単作という選択しかなかったのだ。

ヨーロッパの他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物で補い、飢饉を回避している。さらに、飢饉がもっとも深刻なときでさえ、穀物を満載したアイルランドの船が英国に向かっていた

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

伊藤氏は「社会構造が生んだ飢饉」「英国によってつくられた飢饉」と呼ぶしかないと書いていますが、その通りでしょう。

農作物の発育不全を引き起こすのは天候不順(冷害、干魃など)や病害虫です。しかしそれを飢饉にまでしてしまうのは、一言でいうと "政治" です。それは現代でも同じですで、「国民の20%が飢餓状態なのに、80%は何ともない」というような例があります。国連が食料の緊急援助に乗り出したりしますが、要するに国全体としては食料は足りているわけです。また国民のすべてに最低限の所得があると(所得が保証されると)、食料を買うことができます。

アイルランドの悲劇がなぜ起こったかをまとめると、アイルランドは、

英国に植民地的支配を受けており、
英国=支配者から「アイルランド人は死んでもよい」と思われていて、
食料をジャガイモに頼っており、
そのジャガイモを壊滅させる病気が蔓延した

ということでしょう。③④の条件に当てはまるヨーロッパの地域はほかにもあったはずです。しかしそれと同時に①②の条件にも当てはまるのがアイルランドだけだった。そういうことだと思います。②に関して言うと、ジャガイモ飢饉は、カトリック教徒絶滅を狙った「不作為によるジェノサイド」という見方もアイルランドにはあるようです。当時、アイルランドは英国の一部であったわけであり、そういう見方が出てくるのも当然でしょう。

  飢饉が "政治" で起こるというのは、江戸時代に何回か起こった "大飢饉" をみてもそう思います。過度の稲作の奨励はいったん冷害になると恐ろしいし(稲は本来、亜熱帯の作物です)、米の代用になる食物も日本古来の稗や粟からはじまって、サツマイモなどの "外来食物" も(江戸後期では)あったはずです。経済的に破綻している藩では何ら有効な手が打てないこともあった。餓死者が続出した藩もあれば、一人の餓死者も出さなかった藩もある、というのが実態でした。


現代のジャガイモ


ジャガイモは寒冷地で痩せた土地でも育ち、また栽培に手手間がかからないというメリットがあります。これらの特質があるからこそ、アンデスの民が作り出したジャガイモが全世界に広まったわけです。しかしアイルランドの例にみられるように、ジャガイモの弱点は病気に弱いことです。この弱点をカバーするため、現代日本では種イモが厳重に管理されています。


ジャガイモの弱点は病気に弱いことだ。ウイルスによる葉巻病やYモザイク病、菌類や細菌が原因のジャガイモ疫病、軟腐病、さらには虫が引き起こすジャガイモシストセンチュウなどが難敵だ。アイルランドのジャガイモ飢饉を引き起こしたのがジャガイモ疫病、人間の病気にたとえれば「コレラより恐ろしい」といわれるのがジャガイモシストセンチュウである。

ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度により、種イモの生産と流通は独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。

種イモの元になるのが原原種。「元ダネ」と呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるほか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。

原種農家、採種農家が増殖した種イモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。

合格した種イモで一般農家はジャガイモ栽培を行うのだが、そこでできたイモを次のシーズンの種イモにすることは「同一県内で自家栽培に利用する」場合のみ、検査なしで許される。他県向けなどのケースでは植物防疫官による厳しい検査を受けなくてはならない。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

現代の我々が容易にジャガイモを入手できるのには、このような厳密な管理体制があるわけです。そして、その前史としてアイルランド大飢饉のような悲惨な経験があったことを忘れてはならないでしょう。

北海道更別村のジャガイモ畑.jpg

北あかり.jpg
北海道十勝平野の更別村のジャガイモ畑。下のジャガイモは "北あかり"。


モノカルチャーの怖さ


もう一度、アンデス高地のインディオの人々の農業を振り返ってみると、

アンデス高地のジャガイモ栽培は、
高度差を変えた3つの耕地で栽培
5つの耕区をローテーションで休耕
20~30種類の品種を混植
という特徴をもつ。
主要作物はジャガイモとトウモロコシ

とまとめられるでしょう。山本氏の著書には主要作物以外にも、各種の農作物の記述が出てきます。そのほとんどは、我々になじみがないものです。一言でいうと「多様性を維持した農業」だと言えます。

このような農業形態は、生産性の観点からはマイナスです。山本氏の本には「アンデス高地のジャガイモの生産性は、現代アメリカのジャガイモ生産の 1/10」という意味の記述が出てきます(休耕はカウントせずに、です)。その生産性の低さと引き替えに、食料の安定生産が維持され、悪天候や病害虫による被害リスクが回避されている。

対照的な風景が、19世紀半ばのアイルランドのジャガイモ畑です。そこは遺伝的に均一な単一品種の畑が広がっていました。ジャガイモは種イモから増殖させるので(いわゆる "クローン")、これを続ける限り遺伝子が全く同じになります。19世紀のアイルランドでは「見渡す限りの畑のジャガイモのDNAが全く同じ」という状況があったと想像できます。多様性とは真逆の人工的な世界であり、これは極めて危険な状況です。

もちろん現代日本のジャガイモ生産の8割を占める北海道のジャガイモ畑も、似たような状況です。それが危険だからこそ、国の機関による種イモの厳重な管理がされているわけです。それによって高い生産性が維持されている。

この話の教訓は、生命体は多様性が "命" だということでしょう。振り返ってみると、No.56「強い者は生き残れない」で書いた生命の進化のメカニズムの根幹は「多様性」でした。多様性の中から新しい環境に即した生命が生き残って進化していく。

No.69-70「自己と非自己の科学」で書いた人間の免疫システムも、多様性が根幹にありました。病原菌に対する防御反応は人それぞれに違っている。だからこそ人類は生き延びてきました。アイルランドのジャガイモ飢饉は「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」だそうです(伊藤章治「ジャガイモの世界史」)。その14世紀の黒死病(ペスト)の惨禍では人口の1/3が死んだ地域がヨーロッパのあちこちにあったといいます。考えられないほどの膨大な死者の数です。しかしペスト患者に接しても何ともなかった人も、また多かった。当時はペスト菌が原因という知識は全く無いわけです。だけど死なない(人も多かった)。



モノカルチャーは "単一文化" という意味ですが、もともとカルチャーとは耕作の意味です。"単一作物耕作" という意味でもある。そしてモノカルチャーは本質的にまずいし、危険なのですね。それは生命体だけでなく文化もそうでしょう。

アンデス高地のジャガイモ耕作のスタイルを、現代の農業が踏襲することはできません。膨れ上がった地球の人口を養うために、農業の生産性は非常に大切だからです。しかしアンデス高地の人々が何千年という期間で作り出してきたジャガイモとその耕作スタイルには学ぶものが多いと思いました。

続く


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No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


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No.204 - プロキシマ b の発見とスターショット計画 [科学]

いままで科学雑誌「日経サイエンス」の記事に関する話題を何件か書きました。振り返ってリストすると以下の通りです

  No. 50絶対方位言語と里山
  No. 70自己と非自己の科学(2)
  No.102遺伝子組み換え作物のインパクト(1)
  No.105鳥と人間の共生
  No.16910代の脳
  No.170赤ちゃんはRとLを聞き分ける
  No.177自己と非自己の科学:苦味受容体
  No.178野菜は毒だから体によい
  No.184脳の中のGPS

日経サイエンス 2017年5月号.jpg
日経サイエンス 2017.5
なぜ科学に興味があるかというと、科学的な知見が人間社会の理解に大いに役立つことがあると思うからです。その観点でリストをみると、ほとんどが生命科学の記事であることに気づきます(No.50、No.105以外の全部)。また No.50(絶対方位言語)は心理学の話(人間の認知のしくみと言葉の関係)、No.105は人類学の話なので、これらのすべては「生命・人間科学」と一括できます。「生命・人間科学」の知見が人間社会の理解に役立つのは、ある意味では当然でしょう。

しかし「生命・人間科学」とは全く違う分野のサイエンスが社会や人間の理解につながることもあると思うのです。その意味で、今回は全く違った分野である天文学・宇宙物理学の話を書きたいと思います。最近の「日経サイエンス 2017年5月号」に掲載された記事にもとづきます。


アルファ・ケンタウリ


アルファ・ケンタウリという星の名前を知ったのはいつだったか、思い出せません。おそらく小学生の頃だったと思います。理科の図鑑に「宇宙」の説明がありました。地球と月、太陽とその周りの惑星や小惑星、彗星からなる太陽系。その太陽は銀河系に属していて、銀河系は無数の太陽のような恒星からできている。同じような銀河が宇宙にいっぱいある、というような絵と説明でした。

そして太陽から一番近い恒星がアルファ・ケンタウリで、4光年の距離にある。1秒間に地球を7周半する光でも到達するのに4年かかる・・・・・・。興味津々で図鑑に見入っていたような記憶があります。

中学生になってから SF小説を読み始めて以降、アルファ・ケンタウリはたびたび出てきたと思います。宇宙船で行く話もあったはずですが、行かないまでも太陽に最も近い恒星としてよく話に登場したので、アルファ・ケンタウリの名前はなじみのあるものになりました。


アルファ・ケンタウリ恒星系


アルファ・ケンタウリは、ケンタウルス座で最も明るい星(=アルファ星、α星)です。ケンタウルス座は南十字星のすぐそばにあり、本州からは見ませんが沖縄や小笠原からは見えます。α星のアルファ・ケンタウリは非常に明るく、全天でも大犬座のシリウス、りゅうこつ座のカノープスに次いで3番目の明るさです。地球からは約4.3光年の距離にあります。

Alpha Centauri-2.jpg
ヨーロッパ南天天文台(ESO)が運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)から見た南天の様子。ケンタウルス座(Centaurus)の上に南十字星(Crux)が見える。αがアルファ・ケンタウリで、その上にプロキシマ・ケンタウリの位置が示してある。ケンタウルス座の右はコンパス座(Circinus)。
(日経サイエンス 2017年5月号)

アルファ・ケンタウリは肉眼では一つに見えますが、連星です。アルファ・ケンタウリAは、質量が太陽の1.1倍、光度は太陽の1.5倍です。アルファ・ケンタウリBは、質量が太陽の0.9倍、光度は0.5倍です。この二つの星は互いの周りを約80年の周期で回っていて、2つの星の距離は10天文単位(太陽と土星の距離の相当)から40天文単位(太陽と冥王星の距離の相当)の間で変動します。1天文単位(= au)とは太陽と地球の間の平均距離で、約1億5000万kmです。

実はアルファ・ケンタウリは、さらにもう一つ、重力的に結びついた恒星を伴っています。それがプロキシマ・ケンタウリです(アルファ・ケンタウリCとも言う)。つまりアルファ・ケンタウリ恒星系は "3重連星" なのです。

プロキシマ・ケンタウリの質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍で、肉眼では全く見ることができません。アルファ・ケンタウリA・Bの連星とプロキシマ・ケンタウリの距離は1万5000 au(約 0.2光年)もあり、かなり離れています。プロキシマ・ケンタウリはアルファ・ケンタウリA・B連星の周りを回っていますが、その周期は50万年以上と見積られています。

実は、このプロキシマ・ケンタウリは、アルファ・ケンタウリより 0.1光年ほど地球に近い距離にあります。つまり地球に最も近い恒星はプロキシマ・ケンタウリということになります。

アルファ・ケンタウリ恒星系(3重連星)
 ┣━アルファ・ケンタウリ(連星)
 ┃  ┣━アルファ・ケンタウリA
 ┃  ┗━アルファ・ケンタウリB
 ┗━プロキシマ・ケンタウリ
    (=アルファ・ケンタウリC)

Alpha Centauri-3.jpg
アルファ・ケンタウリ恒星系の撮像写真。左の連星がアルファ・ケンタウリで、右がプロキシマ・ケンタウリ。
(日経サイエンス 2017年5月号)


プロキシマb の発見


2016年8月14日、ドイツのミュンヘン近郊にあるESO(ヨーロッパ南天天文台。European Southern Observatory)の本部で重大発表がありました。ESOが運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)での観測で、プロキシマ・ケンタウリに惑星があることが発見されたのです。この惑星は「プロキシマb(プロキシマ・ケンタウリ b)」と命名されました。

いったいどうやって惑星の存在を確認したのでしょうか。惑星がプロキシマ・ケンタウリの周りを公転すると、その公転によってプロキシマ・ケンタウリが僅かながら "揺さぶられ" ます。これは地球と月の関係と同じです。月が地球の周りを回ることによって地球が揺さぶられ、それが潮汐の(一つの)原因になっています。

一般に恒星が惑星の公転の影響で揺さぶられると、その恒星は地球からみて遠ざかったり、近づいたりします。つまり地球からみた速度が周期的に変化する。それによって恒星の放つ光が周期的に短波長(青色)側にずれたり(地球の近づく場合)、長波長(赤色)側にずれたりします。いわゆる「ドップラー偏移」です。この偏移を観測するのです(=ドップラー法)。

Alpha Centauri-1.jpg
ラ・シヤ天文台で観測したドップラー偏移から計算されたプロキシマ・ケンタウリの速度変化(地球からの視方向の時速)。赤丸が測定値で、縦棒が測定誤差。波形が推測値である。速度は5km/時(1.4m/秒)の振幅があり、約11日の周期で変動する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ドップラー法による観測が始まった1970年代では、判別できる恒星の揺れのスピードは秒速100メートル程度が限界でした。しかし現代では観測精度が格段に向上し、ESOのラ・シヤ天文台の望遠鏡は秒速 1 メートルの速度変化を検出できます。光の速度は秒速30万キロメートル=3億メートルなので、3億分の1の速度変化を検出できるという、ものすごい精度です。プロキシマ・ケンタウリの 1.4m/秒 という速度が検出できたのも、この高精度観測によります。

観測されたプロキシマb の公転周期は約11日、公転軌道半径は 0.05 au(au:天文単位 = 太陽・地球の距離)でした。


プロキシマb はハビタブル・ゾーンにある


さらにこの発表には重要なことがありました。

  発見された惑星・プロキシマb は、プロキシマ・ケンタウリのハビタブル・ゾーンに入っている

のです。ハビタブル・ゾーンとは、惑星表面に水が液体として存在できる暖かさになる公転軌道の範囲です。ハビタブルとは居住(habit)可能という意味ですが、天文学では生命が存在可能という意味で使われます。惑星(表面)に生命が存在するとすると、まず最初の条件としてその惑星がハビタブル・ゾーンに入っていなければならない。太陽系のハビタブル・ゾーンは太陽からの距離が 0.9 ~ 1.4 au の範囲です。金星はハビタブル・ゾーンの内側(0.7 au)であり、火星は外側(1.5 au)です。太陽系では地球だけがハビタブル・ゾーンにあります。

プロキシマ・ケンタウリは太陽よりかなり小さい星で(質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍)、温度も低い。太陽の表面温度は6000K(絶対温度6000度)ですが、プロキシマ・ケンタウリの表面温度は半分の3000Kです。そのためハビタブル・ゾーンも恒星に近接していて、恒星からの距離が 0.05 auというプロキシマb の軌道でもハビタブル・ゾーンに入るのです。太陽系でいうと水星(0.4 au)よりもかなり内側の軌道です。

しかしハビタブル・ゾーンにあるからといって、本当にハビタブルかどうはわかりません。たとえば大気の存在ですが、プロキシマb がプロキシマ・ケンタウリから受ける磁場の影響は地球より遙かに強いため、大気が逃げてしまっている可能性があります。一方、プロキシマb も強い磁場を持っているとすると、そうならないこともありうる。

また主星の非常に近くを周回する惑星・衛星では、ちょうど地球を回る月のように、常に同じ面を主星に向けるという現象がよく起きます。これを「潮汐ロック」と言いますが、惑星で潮汐ロックが起きると、主星に向いている昼側は高熱になり、向いていない夜側は極寒になり(=水が存在しても凍結状態になり)、ハビタブルでは無くなります。しかし潮汐ロックが起きていたとしても、昼側と夜側の境目では大気の循環などで温和な環境があるかもしれない。

つまり、プロキシマb が本当にハビタブルかどうかを調べるためには、ドップラー偏移を調べること以上の観測が必要になります。今、試みられているのは「トランジット観測」です。

もしプロキシマbの公転軌道面が、地球からプロキシマ・ケンタウリを見た方向と平行か平行に近い場合、プロキシマb はプロキシマ・ケンタウリの手前を横切ることになります。これをトランジットと言います。トランジットが起こるとプロキシマ・ケンタウリが少し暗くなる(=減光)。この光を観測することで、プロキシマb の

公転軌道の角度
大きさ
質量
密度

が計算でき、そこから物質組成を推定できます。もしプロキシマb に大気があれば、プロキシマ・ケンタウリの光はそこを通過してくるので、大気の組成の情報が得られます。

プロキシマb のトランジット観測は、現在までには成功していません。これは減光の量が観測精度を越えて小さいのかもしれないし、そもそも公転軌道面が地球から見て平行ではない(=トランジットは起こらない)のかもしれない。

しかしトランジットが起こらないとしても、まだ観測の道はあります。それは観測装置を超高精度化して、プロキシマb を直接撮像するという可能性です。本当にできるかどうかは分かりませんが、挑戦が始まっているところです。プロキシマbは地球に最も近い惑星なので、可能性はあるのです。

プロキシマb.jpg
プロキシマb の想像図。明るい星がプロキシマ・ケンタウリ。その右上の連星がアルファ・ケンタウリA・B。
(日経サイエンス 2017年5月号)



とにかく、地球に最も近い恒星に惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにあるというのは大発見です。この惑星のことを詳しく調べたいと思う科学者は多いことでしょう。

そしてまさに現在、アルファ・ケンタウリ恒星系に直接観測装置を送り込む計画が持ち上がっているのです。それが「スターショット計画」です。しかし、地球に最も近いといっても約4光年離れています。光でも4年かかる距離であり、従来の宇宙探査機を送るとすると1万年のオーダーの時間がかかります。いったいどうやって観測機器を送るというのでしょうか。


スターショット計画


スターショット計画の推進者は、ユーリ・ミルナーという人です。ロシア出身で、1961年にモスクワで生まれました。1961年というとガガーリンが人類で初めて宇宙に出た年です。両親はそのガガーリンと同じ名前を息子につけました。「誰も到達したことのない所に行く」という期待を込めたといいます。

ミルナーはアメリカに渡り、シリコンバレーで起業家・投資家として成功し、巨万の富を築きました。その資産は30億ドルと言います。そして彼は「遠くへ行く」という子供の頃からの夢を実現すべく動き出し、初期開発費として1億ドルを拠出し、プロジェクト・チームと顧問委員会を編成しました。

  プロジェクト・チームのエグゼクティヴ・ディレクターは、NASAエイムズ研究センターの元所長のピート・ワーデン(Pete Worden)、技術ディレクターはエイムズ研究センターでワーデンの部下だったピート・クルーパー(Pete Klupar)です。

また顧問委員会の委員長はハーバード大学の天文学科長のアヴィ・ローブ(Avi Loeb)で、委員にはそうそうたるメンバーが名前を連ねています。ホーキング博士やフェイズブックのザッカーバーグCEOも加わっています。

プロジェクト・チームは目標を「アルファ・ケンタウリに無人飛行で観測装置を送り込む」ことに絞り込みました。そして発案したのが「スターショット計画」です。

この計画は2016年4月12日に、ホーキング博士も同席して発表されました。そして全くもって運のよいことに、4ヶ月後の8月14日に「アルファ・ケンタウリ恒星系のプロキシマ・ケンタウリには惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにある」ことが発表されたわけです。この発表によってスターショット計画は、誰も到達したことのない所に行くという「億万長者の道楽」から「太陽系外にある惑星を探査する現状で唯一の計画」に大昇格し、俄然、注目を集めるようになりました。

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スターショット計画の発表会見より。後列左から3人目がユーリ・ミルナー。右から3人目がピート・ワーデン(エグゼクティヴ・ディレクター)、同じく2人目がアヴィ・ローブ(顧問委員会の委員長)。
(site : breakthroughinitiatives.org)

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スターショット計画の想像図
(site : breakthroughinitiatives.org)

アルファ・ケンタウリに送り込む観測装置は「ナノクラフト」と呼ばれ、「ライトセイル」と「スターチップ」から構成されます。ライトセイルは4メートル四方の極薄の "帆" で、光の反射率が 99.999% の物質で出来ています。ライトセイルに搭載するスターチップは1cm程度の多機能コンピュータ・チップで、ここに電源、観測用の各種センサー、地球との通信機能、制御回路のすべてが埋め込まれます。

ナノクラフトは通常のロケットに搭載し、上空6万キロメートルで宇宙空間に放たれます。そのライトセイルに地上の「ライトビーマー」から100ギガワットという超強力なレーザ光を数分間照射し、光速の20%まで加速します。加速したあとはレーザ光を切り、慣性飛行でアルファ・ケンタウリに向かいます。

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スターチップのプロトタイプ。チップの中に各種センサー、地球との通信機能、電源などが埋め込まれる。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ナノクラフトは同じものを多数制作し(1000個以上)、それを搭載したロケットは1日1個の割合で3年間以上にわたってナノクラフトを宇宙空間に放出し続けます。約20年経つと "運のよかった" ナノクラフトはアルファ・ケンタウリの近傍を通り過ぎるはずで(=フライ・バイ)、通り過ぎる数分の間にスターチップのセンサーで観測した結果を4年かけて地球に送り返します。


荒唐無稽 ?


スターショット計画は "気宇壮大" と言うか、壮大すぎて荒唐無稽に見えます。しかしこの計画は現代知られている物理学の法則に合致しています。ここがまず重要なポイントです。

SF小説によくある「恒星間飛行」は、その物理学的根拠が不明だったり、あるいは物理法則を真っ向から否定しているものがほとんどです。しかしこのスターショット計画は一流の科学者が考えた(ないしは顧問としてアドバイスした)計画です。物理学に合致という最低限の条件が守られている。このことが、サイエンス・フィクションではなくて "計画" と言えるゆえんです。

次に重要なのは、スターショット計画に必要な各種の技術は、その基本原理が確立していて実証済みであることです。開発すべき技術は、ライトビーマー、ライトセイル、スターチップの3つです。たとえばこのうちのライトセイルですが、「光を反射することによって進む帆」は、一般的に「宇宙ヨット」と呼ばれています。そして宇宙ヨットはすでに日本のJAXAが開発し、打ち上げて、実運用までしているのです。レーザー光を受けて進むのはなく、太陽光で進む宇宙ヨット(=ソーラー・セイル)です。


JAXAのイカロス


光は波であると同時に粒子としての性質があり、その粒子は「光子」と呼ばれています。光子に質量はありませんが運動量をもつので、光子が当った面、特に光を反射する面は圧力を受けます(=光圧)。帆を宇宙空間に置くと、完全に片面だけに光が当たる状況を作り出せます。つまり光圧による推進力が生まれます。これが宇宙ヨットの原理です。光が当たり続けると、原理的には光速に近い速度まで加速することができます。

宇宙ヨットを提唱したのはロケットの父と呼ばれるロシアのツィオルコフスキーで、1910年代のことでした。しかし20世紀後半、宇宙ロケットが盛んに打ち上げられるようになっても、宇宙ヨットは実現できなかった。それは帆の材料が見つからなかったからです。帆はアルミを蒸着させたフィルムで作りますが、宇宙空間で太陽に向いたアルミの反射面は120度になり、反対側の面は -270度です。つまり極薄のフィルムに400度の温度差ができます。この温度差に耐えられる材料が見つからなかったのです。

ところが "ポリイミド" という高分子材料がロケットの断熱材として1960年代に実用化され、1990年代になると薄くで大面積のポリイミド・フィルムが製造可能になりました。そして2000年代になるとこのフィルムを使った宇宙ヨットが構想されるようになりました。

日本のJAXAは2010年5月21日に、宇宙ヨット「イカロス」を金星に向けて打ち上げました。宇宙ヨットを打ち上げたのは日本だけではありませんが、地球周回軌道を離れて他の惑星に向かったのはイカロスだけです。イカロスの帆は14メートル四方という大きなもので、反射面が太陽を向くように制御され、太陽の光を受けて進みます。イカロスの大きな帆でも太陽光の光圧は非常に小さく、地上で 0.1g の物体が受ける重力とほぼ同じです。

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JAXAの宇宙ヨット、イカロス。太陽光の光圧で進む「ソーラー・セイル」を実証した。帆には極薄のアモルファス・シリコン製の太陽電池を装着していて(青色の部分)、これによる発電実験にも成功した。これは将来、太陽電池の電力によってイオン・エンジンを駆動するための基礎技術となる。さらに帆の周辺は薄膜液晶があり(黄色の部分)、電流をON/OFFすると液晶の透明・不透明が切り替わる。これによって太陽光の光圧が変わり、搭載している燃料噴射装置を使わなくても姿勢制御ができる。この実験にも成功した。
(JAXAのホームぺージより)

イカロスは打ち上げて半年後に金星付近を通過(=フライ・バイ)し、当初予定されていたミッションは全て成功裏に終わりました。現在は地球・金星の間の軌道を約10ヶ月の周期で公転しています。しかしこの間、当初は予想されなかった問題も発生しました。その一つを日経サイエンスから引用します。


半年間の航海で見えてきた想定外の現象がある。1つは帆の形状だ。イカロスの正方形の帆の四隅から伸びる短いワイヤの先には 0.5kg の重りが付いており、それらに十分な遠心力を与えて帆の張りを保つため、毎分1回転以上の回転速度を維持するようにう姿勢制御用のスラスタを使って制御している。想定では、帆はピンと張ってほぼ平面になるはずだったが、搭載した広視野カメラで帆の状態を調べると、帆は平面ではなく、微少なたわみが生じていることがわかった。

中島林彦(日経サイエンス編集部)
協力:森 治(宇宙航空研究開発機構:JAXA)
「日経サイエンス」2017年5月号

宇宙ヨットがまず解決すべき課題は、折り畳んだ状態でロケットに搭載した帆を、宇宙空間でピンと張った状態に開き、それを維持することです。これが難しい。イカロスはそれに成功したのですが、それでも想定外のたわみが生じた。

このたわみの原因と解消策が日経サイエンスに書いてあるのですが、詳細になるので割愛します。要するに、こういった宇宙ヨットに関する細かいノウハウがJAXAには蓄積されているわけです。イカロスの当初のミッションは終わったのですが、JAXAはこれからも運用を続けるようです。帆の耐久性や劣化などについての貴重なデータが得られるかもしれないからです。宇宙ヨットに関しては日本が先進国です。


スターショット計画に実現可能性はあるか


しかし金星に行く宇宙ヨットができても、アルファ・ケンタウリに行く宇宙ヨットができるとは限りません。果たしてスターショット計画に実現の可能性はあるのでしょうか。ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップの、それぞれの実現の難易度はどうなのでしょうか。

 ライトビーマー(レーザー照射装置) 

まずライトビーマーですが、ナノクラフトを光速の20%まで加速するには100ギガワットという超高出力のレーザーが必要です。アメリカ国防総省はこれ以上に強力なレーザーを開発済みですが、その持続時間は1億分の1秒とか1兆分の1秒しかありません。ナノクラフトを光速の20%まで加速するには数分間、最大10分程度レーザー光を照射する必要があります。

解決策としては、10分間程度の連続出力が可能なキロワット級のレーザーを1億個用意し、それを地上に格子状に並べ、レーザー波を一つに集めて位相が揃った状態でナノクラフトに到達させるしかありません。その設置面積は1キロメートル四方になると見積もられています。

複数個の電波アンテナを格子状(=アレイ状)に配置し、集束して位相の揃った一方向の電波にする装置をフェーズド・アレイ・レーダーといい、すでに確立された技術があります。複数の電波の位相を微妙にズラして放射し、任意方向の強い電波を発生させる技術です。同じ原理でレーザー光を放射するのがフェーズド・アレイ・レーザーです。しかし同じ電磁波でも光は電波の数万倍の周波数があり、位相のコントロールが難しい。アメリカ国防総省はすでに完成させていますが、それはレーザーが数十個という規模のようです。ライトビーマーの1億個のレーザーというのは桁違いです。

しかもスターショット計画の場合、大気圏を通過して上空6万キロメートルにあるナノクラフトのライトセイル(4m×4m)にピンポイントで照射する要があり、これには奇跡的な技術革新が必要です。アメリカのサイエンス・ライター、アン・フィンクベイナーの取材記事を「日経サイエンス」から引用します。


1億個のレーザーからの光は大気の自然な乱れによってそれぞれ曲げられる。それでも最終的には、それらすべてを集束して上空6万kmにある4m四方の帆に当てる必要がある。顧問委員会のメンバーで空軍指向性エネルギー兵器部門のOB科学者であるフューゲート(Robert Fugate)は「1億個のレーザーを、乱流大気を通して位相をそろえた形で6000万メートル先にあるメートルサイズの標的に当てることが、現時点での私の関心事だ」と淡々と語る。光は帆から完全に外れるかもしれず、あるいは不均一に当たって帆の一部分が強く押され、帆が転げ回ってビームからずれてしまうだろう。

ここでも考えうる解決策はあるが、その解決策自体が一連の問題をはらむ。大型望遠鏡にすでに使われている「補償光学」という技術だ。大気の乱れによって生じた歪みを、可変形ミラーで作り出した逆向きの歪みで打ち消す。だがこれをスターショットに応用するには大幅な改変が必要だろう。ライトビーマーの場合、可動鏡ではなく、それぞれのレーザーファイバーを微調整することで大気の影響を補正する必要がある。現在の望遠鏡向け補償光学系の分解能は30ミリ秒角だが(ミリ秒角は対象物が天空上で占める大きさの指標)、スターショットの場合、ビームを0.3ミリ秒角の範囲に絞り込む必要がある。前例のない水準だ。

アン・フィンクベイナー
「日経サイエンス」2017年5月号

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地上のライトビーマー(フェーズド・アレイ・レーザー)からレーザー光を照射し、母船から放出されたナノクラフトを加速する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

 ライトセイル(帆) 

次に "ライトセイル" と呼ばれる4m四方の帆ですが、まずこの帆は99.999%の反射率が必要です。反射率が高いということは、それだけレーザー光の反射でよく加速されるということであり、亜光速を目指すナノクラフトとしては当然の要求でしょう。

しかし加速以上に重要な点は「反射されなかった光は熱に変換されてしまう」ことです。超強力レーザーを照射することを考えると、この程度の反射率がないとナノクラフトは一瞬で "燃え尽きて" しまうのです。ちなみにJAXAのイカロスはポリイミド樹脂にアルミを蒸着していますが、反射率は75%~80%です。アルミを徹底的に研磨したとしても反射率は95%程度にしかなりません。

さらにナノクラフトを亜光速に加速するためには、ナノクラフトの重さを数グラムに押さえる必要があります。そのためにはライトセイルの膜の厚さをシャボン玉の膜以下にする必要があると推定されています。シャボン玉の膜厚は1マイクロ・メートル(=ミクロン。1/1000ミリ)以下であり、光の波長に近い極薄ために光の干渉が起こって虹色に見えるわけです。JAXAのイカロスの膜の厚さは7.5マイクロ・メートルです。ライトセイルはその10分の1で作る必要がある。

問題はまだあります。耐久性です。5分~10分で光速度の20%(6万キロメートル/秒)に加速するということは、10万~20万メートル/秒の速度を毎秒加速する(=平均)ということです。この加速度は地球上の重力加速度の1万~2万倍です(=10,000g~20,000g)。瞬間的にはもっと強い加速度がかかると考えられる。ライトセイルはこの加速度に耐える必要があります。

また宇宙空間には微細な塵があります。レーザー照射中に塵で帆に穴があいてはまずく、ライトセイルには強さと耐久性が必要です。

高反射率で耐熱性に優れ、軽く、強くて耐久性があり、とんでもない高価格ではない素材は、まだ存在しません。ここでも奇跡的発明が必要です。

 スターチップ 

スターチップはすべての機能を埋め込んだ "観測装置" ですが、1cm程度の大きさで、重さは 1g 程度に押さえる必要があります。従って、4個搭載予定のカメラ(光センサー)にレンズは使えません。レンズは重すぎるのです。解決策として「平面フーリエ・キャプチャー・アレイ」という小さな回析格子を光センサーの上に配置する方法が検討されています。入射光を波長別にとらえ、チップのコンピュータ処理で望みの焦点距離の像を再構成する技術です。

スターチップには分光計や磁気センサーなどの各種センサーが搭載される予定ですが、難問はアルファ・ケンタウリに到達するまでの電源をどうするかです。現在のところ、暗く冷たい環境で動作し、重さが 1g 未満で、スターチップのすべての機能を実現するだけの十分な電力を得られる電源は存在しません。解決策としては、医療用に使われている小さな原子力電池を改造する方法が考えられています。原子力電池は、半減期の長い放射性同位元素の放射エネルギーを利用する電池で、宇宙探査機や人工衛星、医療(人体に埋め込む小型電池)での利用実績があります。

さらに問題は観測データを地球に送る方法です。方法としては半導体レーザーを使うしかないのですが、4.3光年という距離が問題です。


アルファ・ケンタウリからレーザービームで地球を狙うには非常に高い精度で向きを合わせる必要がある。さらに、4年かけて地球に到達するまでにビームは拡散して薄まり、たった数百個の光子しかとどかない。解決策としては、一定の間隔で飛んでいるスターチップの間で信号をバケツリレーのように受け渡して届ける方法が考えられる。情報を地球に送り返すのが「依然として実に難しい問題だ」と顧問委員を務めるハーバード大学のマンチェスター(Zac Manchester)は言う。

(同上)

スターチップを20年の航行中にガスや塵などの星間物質から守る方法も問題です。


顧問委員を務めるプリンストン大学のドレイン(Bruce Draine)は星間物質をタバコの煙がごく薄くなったようなものだと説明する。だが、その濃度や微粒子のサイズは正確には不明なので、これがもたらす危険は推測しにくい。スターチップと微粒子が光速に近いスピードで衝突すると、小さな傷から完全な破壊まで、様々なダメージが生じるだろう。スターチップのサイズを1cm角として、異星への旅の間に「非常に多数のものと衝突するだろう」とドレインはいう。

保護としてチップを厚さ2mmほどのベリリウム銅でコーティングする方法があるかもしれないが、それでも破壊的な損傷が生じる恐れは残る。

(同上)

スターチップは衝突を生き残るかもしれないし、ダメかもしれない。しかし運がよければ送り出された1000個以上のチップのうちのあるものはアルファ・ケンタウリに到達する・・・・・・。



いずれにせよスターショット計画は、ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップのすべてにおいて「奇跡的な技術革新」が必要であり、これらの全部の技術革新がでることを前提に2040年前後に打ち上げ、その20年後にアルファ・ケンタウリに到達する、そういう計画なのです。


問題は技術だけではない


解決すべき課題は技術だけではありません。打ち上げにかかる費用が問題です。ユーリ・ミルナーが拠出した1億ドルは、あくまで初期開発費用に過ぎません。完成までの費用は不明で、特に「キロワット級のレーザー・1億個」に莫大なお金がかかりそうです。


ハーバード・スミソニアン天体物理学センターのシャルボノー(David Charbonneau)は、このプロジェクトは結局とても高価になり、「米国の国家予算の 5% を注ぎ込まねばならなくなるだろう」という。「アポロ計画と同じ割合だ」。

(同上)

さらに問題はその科学的意義です。プロキシマb の調査は確かに意義がありますが、それが目的だとすると、アルファ・ケンタウリまで行かなくても調査の方法はあるのです。


チップで惑星を撮影することは可能で、磁場を調べ惑星大気を採取することもできるかもしれないが、それらすべてを数分の飛行中に行うことになる。打ち上げまでにかかるのと同じ時間と総費用があれば、「口径12~15メートルの光学望遠鏡を宇宙に上げ、この惑星を何ヶ月も観測して、束の間のフライバイでつかむよりもずっと多くの情報が得られるだろう」とプリンストン大学の天体物理学者スパーゲル(David Spergel)はいう。

(同上)

宇宙空間の望遠鏡(=宇宙望遠鏡)は、すでに1990年から実績があります。つまり「ハッブル宇宙望遠鏡」で、主鏡の口径は2.4メートルです。一方、口径12メートルの地上望遠鏡は実用化されていて、30メートルの望遠鏡もハワイで建設が始まっています(日本も参加)。「口径12~15メートルの宇宙望遠鏡」は、確かに前例がない巨大なものですが、現代の技術で可能であり、費用もスターショット計画よりは少ないはずです。


スターショット計画を推進する理由


以上をまとめると、スターショット計画は、

技術的に実現できる見込みが薄く、

たとえ実現できたとしても、必要資金が膨大で

そのうえ科学的価値は、皆無とは言わないが、あまりない

わけです。要するにこの計画を一言でいうと「バカげている」となるでしょう。しかし推進する側としては、そんなことは百も承知のようです。日経サイエンスでは、このプロジェクトのオーナーであるユーリ・ミルナーの発言を次のように紹介しています。


だが結局のところ、別の星に行きたいという欲求は彼(引用注:ミルナー)も認める通り、その理由を説明できないものだ。「なぜだと問いつめられたら、わからないと答えるしかなくなる。重要であると思うだけだ」。

(同上)

そしてこのような発言は、シリコンバレーの億万長者で天文学には素人のユーリ・ミルナーだからの発言ではないのです。記事を書いたフィンクベイナーによると、プロジェクトを推進する側にいる立派な科学者が、同様の発言をしています。


私が尋ねた人のほぼ全員が同じことを言った。納得していない誰かに対してこの理由を説明することはできない。ただ行きたいのだ。プリンストン大学 宇宙物理学科の名誉教授 ガン(James Gunn)はスターショットが成功する見込みは薄く科学的意義もないと考えているが、それでもこう語る。「私はほとんどの事柄につて合理的な考え方をしているが、遠くを目指すという人間性に関しては理屈では考えられない。私は子供のころから別の星に行くことを夢見てきた」。

(同上)


スターショット計画の意義


以下は日経サイエンスのスターショット計画に関する記事を読んだ感想です。まず思ったのは、スターショット計画の「実現の可能性」や「科学的価値」は薄くても(ほとんど無くても)、その技術開発の過程で興味深い成果が生まれそうだという点です。

アルファ・ケンタウリまでは行けないが、太陽系の惑星には到達できる "簡易ナノクラフト" ができたとします。そうすると、太陽系の探査は格段に進むでしょう。宇宙物理学の新たな成果が続々と出てくるかもしれない。

2017年4月14日、NASAは土星探査機・カッシーニの観測結果から、土星の衛星エンケラドスが水蒸気を吹き出しており、そこには水素が含まれると発表しました。衛星の内部に生命を育む環境が存在する可能性あるとのことです。これを観測したカッシーニは1997年に打ち上げれた探査機で、2004年に土星をまわる軌道に入りました。土星まで7年かかっているわけです。

土星と地球の間を光が進む時間は70分~80分程度です。もし仮に、光の速度の1/1000(ナノクラフトの1/200の速度)に加速できる "簡易ナノクラフト" を土星に向かって発射すると、50日程度で到達できる計算になります。太陽系の探査が格段に進むのではないでしょうか。スターショット計画ならぬ、「サターン・ショット計画」や「ジュピター・ショット計画」です。

ライトビーマーについて言うと、顧問委員としてアメリカ空軍の指向性エネルギー兵器部門の出身者が加わっているように、これは軍事技術そのものです。しかし技術には2面性があります。こういった技術が地球の周りを周回している「宇宙ゴミ」の除去に役立つかもしれない。

スターチップを開発する過程では、超小型電源や各種のセンサー、省電力の半導体レーザー技術が開発されるはずですが、これらを簡易化・低コスト化したものは地上におけるセンサーとして役立つと考えられます。IoTと言われる時代、こういうったチップ型センサーの役割は大きいのでです。

億万長者が何にお金を使おうと本人の自由で、ミルナーはポンと1億ドル = 約100億円を拠出しました。これはあくまで初期開発費用であり、第1ステップの技術開発費用です。1億ドルが尽きたとき、次のステップに進めるかどうかは大いに疑わしい。しかし仮にこの計画が第1ステップだけで終わったとしても、他に応用可能な新技術が生まれる可能性が高いと思います。それは1億ドルに見合わないかも知れないが、もしそうなればミルナーの名前とスターショット計画は "伝説" として科学史に残るでしょう。



振り返ってみると、研究者の「興味」「好奇心」「探求心」「理由は言えないが大切だという思い」を原動力とし、それが社会にどういう恩恵をもたらすかは不明なままに始まったプロジェクトや研究で、結果として社会に大きなインパクトを与えた例は多いわけです。もちろん興味だけで終わってしまうも多数あるし、逆に明確な目的意識をもった研究も多い(青色半導体レーザーなどはそうでしょう)。しかしそれだけではない。

スターショット計画とはスケールが全く違いますが、このブログで書いたリチウムイオン電池の発明物語を思い出しました(No.39「リチウムイオン電池とノーベル賞」)。旭化成の吉野彰氏が世界で初めてリチウムイオン電池を作ったのですが、そのトリガーを引いたのは、白川英樹・筑波大名誉教授が1977年に発見した導電性ポリアセチレンでした。吉野氏はこれを負極に使ってリチウムイオン電池の原型を完成せた(1983)。その吉野氏も「導電性ポリアセチレンを使った新素材」の研究から入ったわけで、電池に使おうとは(当初は)思っていなかったのです。

なぜ白川先生が導電性ポリアセチレンの発見に至ったかというと「何に使えるか分からないけれど、電気を通す高分子に興味があったから」です。2000年にノーベル化学賞を受賞したあと、白川先生はそう語っています(No.39参照)。研究者の興味や好奇心が、結果として想定外の発明につながり、社会に大きなインパクトを与えたわけです。



スターショット計画はあまりにも壮大であり、どう考えたらよいか、評価に迷うところです。推進者のミルナーにとって科学観測はあくまで付帯的なものであり、アルファ・ケンタウリに到達したという何らかの証拠が得られればそれで満足なのでしょう。

しかしこの計画が、参画している科学者の探求心や好奇心、「理由は言えないが大切だという思い」に支えられていることは確かだと思います。そのマインドは科学の発展にとって極めて大切なことです。スターショット計画の記者発表会に出席したスティーブン・ホーキング博士は、そのことを言いたかったのでは、と思いました。




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No.203 - ローマ人の "究極の娯楽" [歴史]

今まで古代ローマに関する記事をいくつか書きました。リストすると次の通りです。

  No. 24ローマ人の物語(1)寛容と非寛容
  No. 25ローマ人の物語(2)宗教の破壊
  No. 26ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ
  No. 27ローマ人の物語(4)帝国の末路
  No.112ローマ人のコンクリート(1)技術
  No.113ローマ人のコンクリート(2)光と影
  No.123ローマ帝国の盛衰とインフラ
  No.162奴隷のしつけ方

発端は、No.24-No.27 で塩野七生氏の大作『ローマ人の物語』の感想を書いたことでした。ローマ人の宗教だけに絞った感想です。また、No.112、113、123 はインフラストラクチャ(のうちの建造物)の話で、その建設に活躍した古代ローマのコンクリートの技術のことも書きました。No.162 は奴隷制度の実態です。

今回はこの継続で、古代ローマの円形闘技場で繰り広げられた闘技会のことを書きたいと思います。「宗教 = ローマ固有の多神教・キリスト教」や「巨大建造物・コンクリート技術」は、古代ローマそのままではないにしろ現代にも相当物があり、私たちが想像しやすいものです。奴隷制度は現代では(原則的に)ありませんが、奴隷的労働はあるので、それも想像しやすい。

しかし大観衆が見守る円形闘技場での "剣闘士の殺し合い" は現代人の想像を越えていて、そこが非常に興味を引くところです。ボクシングの試合で相手を倒すのとは訳が違う。その想像を越えたところに古代ローマの(一つの)特徴があると思うし、歴史から学ぶポイントもあるかもしれないと思うのです。

ローマ人の物語04.jpg
今までのブログで円形闘技場での闘技会について触れたことがありました。No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」で書いたユリウス・カエサルの話です。カエサルは財務官に当選したとき(BC.65 カエサル35歳)、ローマで一番の資産家であったクラッススから2500万セステルティウスを借金し、当選祝いに320組の剣闘士を借り切った闘技会を開催しました。のべ25万人のローマ市民を集めたこの闘技会で、カエサルは借金を全部使い切りました。2500万セステルティウスという金額は、現在の貨幣価値にして約30億円程度です。この記述は、本村凌二『はじめて読む人のローマ史 1200年』祥伝社(2014)によったのですが、塩野七生氏も『ローマ人の物語』でこの闘技会のことを書いていました。


320組となれば、640人になる剣闘士を(カエサルは)借り切ったことになる。しかも剣闘士たちには、右腕を守るために着ける腕鎧うでよろいを、すべて銀で制作して着用させた。試合場に出たときに、陽光を浴びて光り輝く効果を狙ったのである。


これは、当時のローマの貴族階級の財力がものすごかったという例として引用したのですが、では、その剣闘士の闘技会とはどいうものだったか、それが以降です。


差し下ろされた親指


古代ローマの剣闘士(=グラディエーター)を描いた絵画として、ジャン = レオン・ジェロームの傑作『差し下ろされた親指』(1872)があります。まず例によって中野京子さんの解説で、この絵を見ていきたいと思います。引用にあたっては漢数字を算用数字に置き換えました。一部段落を増やしたところがあります。

Pollice Verso (Gerome).jpg
ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
差し下ろされた親指」(1872)
(フェニックス美術館。米:アリゾナ州)


周囲 524メートル、4層のアリーナに5万人を収容できるコロセウムは、びっしり人で埋まっている。建物に屋根はなく、日よけのカンバス地が掛けられていたが、画面に布自体は描かれていない。その代り隙間すきまから強い日差しが落ちていることを、幾筋もの光線が物語る。


画家は歴史考証を踏まえて描いています。画面に描かれた数本の白っぽい筋は何かと思ってしまいますが、これはコロセウムの上を覆う天幕の間から漏れてくる光線なのですね。実際にこのように見えるかどうかはともかく、歴史を踏まえて描いていることを示していて、画家の芸の細かいところです。


砂の敷きつめられたグラウンドでは、戦闘はすでに終わっている。勝ち残った金兜きんかぶとの剣闘士が、瀕死ひんしの敵の喉首を片足で踏みつけ、顔をあげたところだ。最前列に座る白いストーラ姿の女性全員と、すぐ後ろの席の男たちのほとんどが、親指を下に向ける激しい身振り(サムズダウン thumbs down)とともに「殺せ、殺せ」を大合唱している。胸を刺されて倒れた敗者にもその声は届き、慈悲じひうように最後の力を振りしぼって右腕を伸ばすのだが、砂地を赤く染める血に興奮した彼らはヒートアップする一方だ。

(同上)

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中野さんが指摘しているのですが、画家はサムズダウンをしている右手の観客たちの表情を意図的に醜く描いています。そして上段の男性観客ですが、中には沈痛な表情の老人も混じっている(上の部分図の左上の男など)。敗者を応援していたのでしょうか。それに呼応するかように左手のアリーナ観客は、ヒートアップしている右手の観客とは様子が違うのです。


勝者はとどめを刺すのか?

まだわからない。なぜなら左側のアリーナにいる観客の誰ひとり、サムズダウンをしていない。それどころか身を乗り出して、右側前列の異様なたかぶりに非難の、あるいはいぶかしげな視線を送っている。敗者は立派に戦った。殺すまでもない、と考えていたのかもしれない。

決定は皇帝がくだす。

画面やや左に突き出たボックス席がある。その左半分は4本の円柱で囲まれている。手前の太い円柱は、翼を拡げたわしの装飾をいただく。手すりにも鷲が太陽といっしょに刺繍ししゅうされた深紅の垂れ幕が下がる。鷲は皇帝のシンボルなので、ここが皇帝の定席だ。金ぴかの大きな椅子に座り、これまた金でまれた月桂冠をかぶった皇帝は、右手を上げかけてはいるものの、親指はまだ見えない。サムズダウンで殺せと命じるつもりか、サムズアップ(thumbs up)で慈悲を示すのか。

(同上)

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まさに劇的瞬間というのでしょうか。「殺せ、殺せ」と叫ぶ右側のアリーナの観客、それには同調していない左のアリーナの観客、そして描かれていない皇帝の親指・・・・・・。補足しますと、中野さんが「決定は皇帝がくだす」と書いているのは、詳しく言うと、

  決定は闘技会の "主催者"(=エーディトル)が下す。この絵の場合、主催者は皇帝

ということであり、それが正しい理解の仕方です。カエサルが主催者の闘技会だと、敗者の生死を決めるのは費用を負担したカエサルです。


皇帝にしても、必ずしも自分の気分だけで親指を上げ下げできたわけではない。観客が皆サムズダウンしているのにアップするなら、またその逆なら、それ相応の納得させる理由がないと大衆人気を失う。失うと政敵に付け入られ、引きずり下ろされたり、コンモドス(引用注:映画「グラディエーター」に登場するローマ皇帝。2世紀末)のように暗殺されるかもしれない。

本作の皇帝はいったいどんな結論を出すのだろう?

今のところごく一部の者がサムズダウンしているだけだが、逆にサムズアップしている者もいないので、血を求める激しい渇望かつぼうが次第に場内に感染してゆくと、爆発的な「殺せ」コールに変わらないとも限らない。慈悲を求める声というのは、アドレナリンの噴出している相手に対していつだってか細すぎるものなのだ。

(同上)

中野さんによると、画家・ジェロームはこの絵で敗者を美形に描いているといいます。思想家・セネカの「もっとも価値のある剣闘士は美形の者だ」という言葉が思い出されると・・・・・・。しかし画家が敗者を美形に描いたのには、さらに理由があります。それはこの敗者が「投網とあみ闘士」だからです。


ジェロームは万全の歴史考証を踏まえて作品を制作する画家だった。

勝者の金兜に魚の装飾がほどこされているのがわかる。よく見ると右腕を守るそで防具はうろこ状だし、弱い腹を守る帯にも魚の文様が付いている。これは彼が「魚兜闘士」だからだ。剣闘士は武装の種類によって、「長槍闘士」だの「騎馬闘士」だのに分けられていた。

魚兜闘士は一番人気で、武器はローマ軍歩兵と同じ剣とたて。画中の勝者が右手に握る真っ直ぐな両刃もろはの短剣はグラディウスと呼ばれ、グラディエーターの語はここからきた。日本の細身の刀と違い、もっぱら突いて使う。盾も必須だ。この絵は円盾の内側が描かれており、使用法がよくわかる。手首と腕の二ヵ所をベルトで固定し、いわば鋼鉄化したひじで守りと攻めを同時にできる。

一方の敗者は「投網とあみ闘士」。名のとおり漁師の持つ投げ網と、海神ポセイドンのアトリビュート(そのい人を特定する持ち物)たる三叉鉾さんさほこで戦う。それらの武器は今や彼同様無力化され投げ出され、半ば砂に埋もれている。この「投網闘士」は盾の代わりに青銅製の防具を肩にかけ、兜もかぶらなかった。そのため戦闘中にも観衆から顔が見え、どうせ見るならばと、興業主はハンサムな若者を選んだという。先述したセネカの言葉どおりであり、ジェロームが美形に描いた理由もこれだ。

(同上)

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魚兜闘士の肘防具にも注目したいと思います。カエサルは財務官就任記念に開催した「大闘技会」で、640人の剣闘士全員に銀製の腕鎧(肘防具)を新調して着用させたと『ローマ人の物語』で塩野七生氏が書いていました(最初の引用)。この絵を見るとその意味がよく分かります。陽光にきらめく銀の効果です。

もう一つこの絵で気づかされるのは、魚兜闘士と投網闘士が戦っていることです。つまり魚と漁師が戦っている。これは興業的なおもしろさを狙ったと考えられますが、単に「魚と漁師」のおもしろさだけではないでしょう。武器が違います。武器にはそれぞれ長所・短所があります。つまりこの絵の試合は、現代でいうと異種格闘技の試合のようなものだと思います。空手とプロレスのどっちが強いか、みたいな・・・・・・。あるいは時代劇に出てくる日本刀(ヒーロー)と鎖鎌(悪役)の戦いです。異種の武器での戦いは観衆の興味を大いに引いたと考えられます。

我々は剣闘士の試合というと、奴隷同士が戦ったというイメージが強いのですが(スタンリー・キューブリック監督の「スパルタカス」という映画がありました)、ローマも帝政の時代になると変質していったようです。


現代のプロスポーツ選手のように、いや、それをはるかに上回る大衆の支持が、強い剣闘士に集中した。強ければ強いほど、さらに美しければ美しいほど、人々は熱狂した。当然ながら剣闘士という職業にも人気が出る。

ローマ時代の共和制期には奴隷や罪人、下層階級出身者ばかりで、「剣奴けんど」の訳がふさわしかったが、帝政期になるとさま変わりしていた。自由市民の中から自らの意志で剣闘士になる者まで出てきたのだ。時には皇帝自ら出場して剣をふるい、矢を射た。コンモドス帝もヘラクレスに扮して何度も戦っている(いかなる場合でも自分が勝ように算段してあったが)。

人気剣闘士は結婚もできた。皇帝から木剣ぼつけんを授与されて自由を与えられた例も少なくない。彼らはたいてい剣闘士を養成する学校を作ったり訓練師になったり、あるいは自身の剣闘士団を持って巡業した。そうした興業こうぎょう形態が確立すると、時間と費用をかけて育てあげた剣闘士を軽々けいけいに殺されたくないのは理の当然だ。傭兵ようへい同士の戦争と同じで、常に徹底的な殺し合いを行うのは双方にとって損失が大きすぎる。

殺戮さつりくを見たい観衆に投げるえさとしての犠牲者はいくらでもいた。なにしろローマ帝国は領土拡大によって大量の戦争捕虜を手に入れていたので、異民族の若く屈強な男を奴隷剣闘士にして殺せば反乱も防げて一石二鳥なのだ。スター・グラディエーターはローマ人でまかなう。そのあたりは観客と興業主の駆け引きがあった。

(同上)

このジェロームの絵は、映画『グラディエーター』の制作に一役買ったようです。20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は・・・・・・。


制作サイドは監督にリドリー・スコットを望んだ。『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『白い嵐』など、芸術性とエンターテインメント性を合体させたヒット作を連打していたスコットなら、古代ローマものを再創造してくれるに違いない、と。

だがスコットは最初はあまり乗り気ではなかったらしい。そこで制作総指揮者は彼に『差し下された親指』を見せた。フランスのジェロームが百年以上も昔に発表した歴史画である。後にスコット曰く、「ローマ帝国の栄光と邪悪じゃあくを物語るこの絵を目にした途端、わたしはこの時代のとりこになった」(映画パンフレットより)。

こうして完成された『グラディエーター』(2000年公開)は、アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ラッセル・クロウ)、衣装デザイン賞などいくつも獲得し、全世界で大ヒットを記録した。剣闘士同士の息もつかせぬ戦闘シーンとリアルな迫力に、一枚の絵が運命的な役割を果たしたということになる。

(同上)

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2000年前に5万人を収容できるアリーナを建設できる圧倒的な技術力と高度な文明、そのアリーナで繰り広げられる "人間同士の殺し合いショー" と、瀕死の敗者を殺せと連呼する観衆・・・・・・。リドリー・スコット監督は「栄光と邪悪」と言っていますが、この絵が表しているものはまさにそうだし、現代人が古代ローマの歴史に惹かれる理由もそこなのでしょう。

ちなみに cinemareview.com の記事によると『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサは、スコット監督に脚本を見せる以前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそもプロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だと言います。この絵にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるのでしょう。


皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち


画家のジェロームは『差し下ろされた親指』(1872)より以前にも剣闘士をテーマとした作品を描いています。『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』という作品です。

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ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」(1859)
(イェール大学アート・ギャラリー。米:コネチカット州)

この絵を所有しているイェール大学アート・ギャラリーの公式サイトにもあるのですが、ジェロームは歴史考証を踏まえてこの絵を描いています。その考証の一つですが、この絵にはコロセウムを覆う天幕が描かれていて、その構造がよくわかります。中心部を円形にあけ、その周りにアリーナの最高部まで部分的に布が張られる。布の下の観客席は日陰になり、闘技舞台には日光が差し込むというわけです。『差し下ろされた親指』もそういう絵になっていました。ユリウス・カエサルの闘技会のように剣闘士が銀製の腕鎧をつけたとしたら、陽光が銀に反射して日陰の観客席にきらめき、その効果は抜群だったと想像できます。

この絵の原題は「Ave Caesar, Morituri te Slutant」というラテン語で、「皇帝万歳! 我ら死にゆく者が敬意を捧げます」というような意味です。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」にある語句です(第5巻 クラウディウス帝)。その「皇帝万歳」と叫ぶ剣闘士たちは、描かれた盾と三叉鉾の数から4人の魚兜闘士と4人の投網闘士でしょう。皇帝に敬意を表してから試合に臨むようです。

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画面の左手前には、試合が終わった投網闘士と網をかぶせられた魚兜闘士の2人が倒れています。相討ちになったのでしょうか。そのうしろ方のハイライトの部分では、奴隷が剣闘士の死体を引きずってアリーナから出そうとしています。

Ave Caesar-2.jpg

『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』は、13年後に描かれた『差し下ろされた親指』と似ています。ともに剣闘士と皇帝を低い位置からとらえた構図であり、あえて試合中の剣闘士を描かず、魚兜闘士と投網闘士の武器や防具、そしてアリーナの構造が歴史考証をもとに描かれています。しかし明らかに試合の決着がついた直後、生か死かという瞬間を描いた『差し下ろされた親指』の方が劇的です。殺せと叫ぶ観衆を間近に描いたのもインパクトがある。アリーナの巨大さを実感できる空や天幕を描くのをあきらめざるを得なかったが、その代わりに天幕から漏れてくる光の筋を描き込んだ。2つの絵を比べると『差し下ろされた親指』を制作した画家の意欲が分かるのでした。



補足ですが、古代ローマの剣闘士については Wikipedia日本版に詳しい情報があります。また画家のジェロームについては、以前の記事で次の3つの作品をとりあげました。
  『奴隷市場』No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」
  『虎と子虎』No.94「貴婦人・虎・うさぎ」
  『仮面舞踏会後の決闘』No.114「道化とピエロ」


野獣狩り


最初に引用した塩野七生氏の「ローマ人の物語」の他に、このブログで古代ローマの闘技会について引用したことがあります。ウィリアム・ソウルゼンバーグの「捕食者なき世界」にあった、"人間が大型捕食動物を根絶してきた歴史" です(No.127「捕食者なき世界 2」)。人間が大型動物を狩る第一の理由は食料を確保するためでしたが、歴史を振り返ると理由はそれだけではありません。


大型捕食動物を根絶しようとする強い動機がも、少なくとももう一つあった。猛獣を殺すのは、最高に楽しい娯楽だったのだ。都市化が進み、平凡な仕事が多くなると、人々は刺激のない生活に退屈するようになった。

ローマ人は巨大な円形闘技場コロセッウムを建設し、はるばるメソポタミアやアフリカから何千頭ものゾウやカバやライオンを連れてきて、大がかりな見せ物として殺すようになった。ローマのコロッセウムでは、1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった。ライオン500頭というのが、現在アジアに生息するライオンを一掃する以上の数であることを思うと、その数の多さが実感できる。


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ソウルゼンバーグが書いているのは、円形闘技場で行われた「野獣狩り」のことです。それは「最高に楽しい娯楽」でした。このあたりの歴史を別の本から引用してみたいと思います。

アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(関口英子訳。河出書房新社 2010)は最新の歴史研究を踏まえて、紀元115年のトラヤヌス帝の時代のローマの一日を民衆の視点からの「実況中継風の記述」とその「解説」で綴った本です。以前の No.26「ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ」では "ウェスタの巫女" に出会う部分を引用したのですが、この本には円形闘技場の描写も出てきます。以下にその記述を引用します。


まだ午前中だというのに、喚声をあげて応援しながら見守る何千人もの観衆の視線が、その一挙手一投足に注がれる・・・・・・。

コロッセウムでの闘技がはじまったのだ。一日の最初の見せ物は野獣狩り(ウェナティオ)である。剣闘士と剣闘士の闘いではなく、人間と野獣の闘いだ。コロッセウムだけでなく、帝国のどこの円形闘技場でも見せ物の順番は同じだ。最初に野獣狩り、続いて犯罪人の公開処刑、そして午後になるとようやく、待ちに待った剣闘士どうしの闘いがはじまる


円形闘技場での剣闘士の闘技会の前には、実は "前座" があったわけです。前座の最初は「野獣狩り」です。


コロッセウムをはじめ、帝国の各所に点在していた円形闘技場では、膨大な数の動物が殺された。ときには、弓矢をもった闘獣士が鹿やガゼルを倒す光景もみられた。また、ダチョウなどの外来の動物が殺されることもあった(中略)。場合によっては、両者がほとんど互角の闘いも繰り広げられた。剣闘士の服装をした数人の男が、かぶと、盾、剣で武装して、ライオンやヒョウや熊の攻撃をかわし、相手を倒さなければならなかったのだ。

「古代ローマ人の24時間」第35章

野獣狩りは闘獣士が野獣を "狩る" というショーですが、中には闘獣士と野獣の "互角の闘い" もあった。その互角の闘いをする猛獣の例として、当時有名だったウィクトルという名前のヒョウの話が出てきます。


一般的に考えられているのとはことなり、ウィクトルは空腹だから相手を攻撃しているのではない。コロッセウムで闘っている野獣はすべてそうだが、幼時の時に捕まえられ、特別な飼育を受け、闘犬と同じようにひたすら相手を攻撃するよううに調教されてきたのだ。相手のどこをどのように襲うべきなのかを教えこまれている。それでなくてもヒョウは、人間を襲うときにいきなり喉を狙うという恐ろしい習性がある。喉に牙を突き刺し、力強い両足の爪で胸部を掻きむしり、引き裂くのだ。

このような被害は現代でも見られる。以前、古生物関係の発掘調査のため、アフリカに滞在していた時に出会った医師から聞いたことがある。ライオンに襲われた人が病院に運ばれてきた場合は助かる可能性もおあるが(ライオンは咬みついてふりまわすだけの場合が多い)、ヒョウに襲われた場合、病院に運ばれてきた時にはすでに死んでいるそうだ。

ヒョウに罪があるわけではない。たまたま肉食動物に生まれつき、自然の摂理にしたがっているだけだ。だがコロッセウムでは、ヒョウの生まれつきの攻撃性が調教師によって大きく歪められ、見せ物のために利用される。まさに「殺戮機械」に改造されてしまった動物なのだ。ウィクトルは闘いで多くの闘獣士を死に至らしめただけでなく、調教する際の「標的」役をさせられた奴隷を何人も殺してきた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

単に闘獣士が動物を殺すだけの "野獣狩り" よりも、闘獣士と猛獣のどちらが勝つかわからない「互角」の闘いの方がショーとしての価値があるわけです。「古代ローマ人の24時間」にはスピッタラという名前の闘獣士とヒョウのウィクトルが闘う場面がでてくるのですが、闘獣士は鎧も兜も剣も無しにすね当てだけをつけ、1本の槍でヒョウと闘います。これもショーをおもしろくする工夫でしょう。完全武装ではつまらない。


帝国内のおもな円形闘技場で、トラに代表される外来動物を頻繁に用いたことで、ヨーロッパ、北アフリカ、中東の野生動物は次第に減少し、絶滅した種も少なくなかった。捕獲された各種の動物(クロコダイルやサイを含む)のうち、荷車に乗せられたり、船倉に詰めこまれたりして長旅を続けたあげく、生きて目的地に到着できたのはほんの一部でしかなかったことも要因になっていた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

ローマ帝国の特別のイベントでは、多数の剣闘士が殺されると同時に、夥しい数の野獣も殺されたようです。


紀元80年には、ウェスパヌシアス帝の息子で後継者のティトス帝によってコロッセウムの落成式が行われ、100日間でじつに5000頭もの猛獣が殺されたことがあった。

そのほか、私たちが探索している時代に関連する出来事としては、トラヤヌス帝のダキアに対する勝利の祝賀会がある。この時、コロッセウムは120日間も連続して使用され、その間、12,000頭もの野獣と1万人もの剣闘士が殺された。

「古代ローマ人の24時間」第43章

ソウルゼンバーグは「1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった」と書いていましたが(=1日に1000頭を殺害)、いかにありそうです。


公開処刑


前座の第2弾は犯罪人の公開処刑です。『古代ローマ人の24時間』には、後ろ手に縛られた罪人を2人の死刑執行人がコロッセウムの闘技場に連れ出す場面が描写されています。コロッセウムでは数万人の観衆がざわめいています。罪人が受けた判決は「猛獣による食い殺しの刑」です。


罪人は自分の最期が近づいてくるのを見た。大きくて迫力に満ちたライオンの頭・・・・・・。なかでも恐ろしいのは、爛々らんらんと輝くハシバミ色の目だ。その目には慈悲のかけらもない。

あらんかぎりの声で叫ぶ罪人。一歩も進むまいと両足を踏ん張り、身体を強張らせている。だが、死刑執行人二人の力にはかなわない。一人は慣れた手つきで罪人の縮れた髪の毛をつかみ、餌を差し出すかのように野獣に向かって突き出す。もう一人はまるで蹴破られまいと必死でドアを押さえているように、罪人の背後で身を隠している。その体勢で罪人を猛獣のほうへ押し出しているのだ。罪人の両手をしっかりを押さえ、頭巾をかぶった頭を低くして、がぶりと咬みつく瞬間を待っている。

獲物に飛びかかる直前、ライオンは歩みを速め、まったく音を立てずに動く。目を閉じ、顔をそむける罪人。ライオンの足が地面から離れ、飛びかかる瞬間、息をのむ観衆。断末魔の叫び・・・・・・。

すべてが一瞬の出来事だった。つかんでいた手を放し、身をかわす死刑執行人。ライオンの白い牙が見える。顔面に生ぬるい息を感じたと思った瞬間、罪人は野獣の下敷きになっていた。

観衆のどよめきのなか、身の毛もよだつショーが展開する(以下、省略)。

「古代ローマ人の24時間」第40章

コロッセウムにおける公開処刑は、上に引用したような "単純な" もの以外に、見せ物・ショーとしての "演出" がされることもありました。


観衆は、しばしば「思いがけない演出」が処刑に隠されているのを知っていて、それを大いに期待していた。そのため、主催者はときに奇抜な舞台装置を準備し、神話や歴史的な筋書きに添った処刑を実施することもあった。(中略)

こうして、たとえばイカロスが飛ぼうとする場面が再現されることになる。失敗終わるイカロスの飛翔を真似た罪人が、まっさかさまに落ちていき、地面に激突し、列席している皇帝の上にまで血しぶきが飛び散る。これはスエトニウスの記述によるものだ。(中略)

マルティアリスはコロッセウムの落成式でオルフェウスの神話が再現されたと記している。神話では、エウリュディケの死に失望したオルフェウスが、その歌声で猛獣をてなずけたとされている。それを模して、アレーナ(闘技舞台)の床下から徐々にせりあがってくる岩山や木々のある舞台装置(数ある特殊効果のひとつだった)の中に、多くの野獣と一緒に罪人が放置された。だが残念になことに、罪人は熊を手なずけることができなかった。観衆の狂喜のなか、「歌い手は、恩知らずな熊にずたずたに引き裂かれた」とマルティアリスは記している。

「古代ローマ人の24時間」第40章

こういう記述を読むと、古代ローマの文明のレベルの高さが直感できます。まず観衆はギリシャ神話を知っているわけです。知っているからこそ演出としての価値が出てくる。さらに引用にあるコロッセウムの有名な「せり上がり舞台」の仕組みも、それが2000年前だと考えるとすごいものだと思います。

  蛇足ですが、現代の "アリーナ" は「舞台」の部分とそのまわりを取り囲む観客席の部分の両方を言いますが、語源となった "アレーナ" は「舞台」だけを指すようです。

この記述から、よく言われるローマ帝国における「キリスト教徒迫害」を思い出しました。キリスト教徒は捕らえられ、闘技場に引き出され、猛獣の餌食になったと・・・・・・。決まって引き合いに出される悪役は皇帝ネロです。しかし注意すべきは、古代ローマにおける猛獣刑は "死刑と決まった罪人" を処刑する方法の一つだったことです。キリスト教徒だけが猛獣刑にあったわけではありません。ちなみに弾圧された宗教もキリスト教だけでもありません。紀元前186年のディオニュソス教徒の弾圧では7000人が処刑されたと、古代ローマの歴史家が書いています(No.24「ローマ人の物語(1)寛容と非寛容」)。



歴史をひもとくと、公開処刑は古代ローマだけでなく日本を含む世界各国で行われてきました。現代でも東アジアの某国や中東のある種の国では行われています。むしろ「見せしめ」や「戒め」のために、罪人の処刑は公開が原則だったと言えるでしょう。

しかし古代ローマの公開処刑の特徴は、それが見せ物、ショー、エンターテインメントとして実施されたことです。しかも最大数万人の観衆の注視の中でのショーであり、演出上の工夫があり、猛獣刑の場合は食いちぎられた人体のパーツがアレーナに散乱する陰惨な光景で終わる見せ物です。こういった例は世界史でも希有でしょう。


剣闘士の戦い


「野獣狩り」と「公開処刑」という前座が終わると、いよいよ待ちに待った剣闘士の闘いが始まります。

ジェロームが『差し下ろされた親指』で描いたのは、魚兜闘士と投網闘士の戦いでした。『古代ローマ人の24時間』では「魚剣闘士」(=ムルミッロ)と「投網剣闘士」(=レティアリウス)と訳されています。そして魚剣闘士と投網剣闘士の戦いの様子が、剣闘士の視点で描写されています。魚剣闘士の名前はアステュアナクス、投網剣闘士の名前はカレンディオです。魚剣闘士の装備は兜、盾、腕当て、両刃の短剣(グラディウス)であり、投網剣闘士は投網と三叉鉾、肩防具、短剣(とどめを刺すために使用)で、兜は無しです。

戦いが始まるとすぐ、投網剣闘士は魚剣闘士の周りをぐるぐる走り回ります。


以下の戦いの様子は実話であり、名前も実在した剣闘士のものだ。

突然投網剣闘士カレンディオの動きが止まり、向きを変えるかのように身を屈めた。だが、これは策略であり、網を投げる準備をしているのだ。実際、相手の隙をついてカレンディオの身体が伸び、稲妻のような速さで網を投げつける。すべてが一瞬の出来事だった。

魚剣闘士のアステュアナクスは、背中に何か重いものがのしかかってくるのを感じた。まるで何かが上から落ちてきて、押さえつけているかのような感覚だ。兜の格子の向こうに、目の粗い網が見えた。漁で用いられる網とは異なり、わざと重みをかけて剣闘士を動けなくするように工夫された特殊な網だ。なにかの生き物に捕まえられ、死の抱擁を受けているようだ。

「古代ローマ人の24時間」第44章

投網剣闘士のカレンディオは、すぐには攻撃しません。相手が網から逃れようともがくうちに、ますます網に絡まるか、あるいはつまづく。それを待っているのです。


投網剣闘士カレンディオの最初の一撃は、高い位置に飛んできた。肩と喉のあいだを狙ったようだ。網の重みのせいで、盾が下がりぎみになっているのを見越してのことだろう。アステュアナクスの肩に痛みが走った。鋭い三叉の先端が、まるで稲妻のように網の目をすり抜け、肩をかすめたのだ。しかし教官に教わった「低い構え」のおかげて致命傷にはならずにすんだ。身につけている腕当ても突きを弱めてくれた。腕あての金属製の小札こざねから血が流れているものの、試合が中断されるほどの深手ではない。

観客は流れでる血に気づき、熱狂する。

「古代ローマ人の24時間」第44章

「教官」と出てきますが、これは剣闘士養成所の教官という意味です。剣闘士は養成所での厳しい訓練を経てきているのです。二人は投網剣闘士が有利のうちに一進一退を繰り返すのですが、途中で状況が変わります。


ここで、観客をあっといわせるハプニングが起こった。アステュアナクスはおかしなことに気づく。カレンディオが前へ後ろへと、繰り返し三叉を動かしているのだ。一瞬、自分が攻撃され、カレンディオに肉をずたずたに突き刺されているのに、緊張のあまり痛みを感じていないのかもしれないという恐怖にかられる・・・・・・。

だが、そうではなかった。網があちこりに引っ張られるのを感じ、アステュアナクスは何が起こったのかを理解した。完璧な一撃を狙うあまり、カレンディオは三叉で網目の中心を突き、抜けなくなってしまったのだ。自分自身の網に捕らわれた恰好になり、なんとかして三叉を網から外そうと必死になっている。だが、外れないばかりか、動けば動くほど状況がひどくなる。漁師が自分の網にかかってしまったわけだ。

アステュアナクスは、またとない挽回のチャンスだと見てとった。焦るあまり、長い三叉を網から外すことしか頭にないカレンディオを引きずったまま、勢いよく三歩か四歩後ろに下がる。そして、胸いっぱいに息を吸いこむと、カレンディオに襲いかかる。盾がカレンディオの身体に触れた瞬間、アステュアナクスは思い切り短剣を突き立てた。ほとんど反射的な動きだったにもかかわらず、盾にぶつかった衝撃から相手のいる位置を読んだのだ。何年もの訓練が正しい判断を導いてくれた。

まるで銀色に光る猛獣の爪のように、短剣が網の下から飛び出してきた。観衆の目に、銀色にきらめく短剣がほんの一瞬映ったかと思うと、すぐに消えた。次に見えたのは、地面にくずれ落ちたカレンディオの姿だ。KOをくらったボクサーのように目を見開いている。それでもなお、両手をついて立ち上がろうとするが、無駄だった。右の大腿の内側に深い傷を負い、大量の血が流れ出している。アレーナがどす黒い血に染まっていく。

「古代ローマ人の24時間」第44章

審判が大声を張りあげ試合の中断を命じたのも、あやうく聞き逃すところだった。アステュアナクスは動きをとめ、荒い息をしている。まるで周囲の空気に噛みつかんばかりの荒々しさだ。やがて乱れた呼吸が整いはじめると、アステュアナクスは地面に倒れている敵を見やった。敵も彼の目をじっと見ている。その陰鬱な目を、彼は一生忘れないだろう。その視線には、ほとんど命令に近い懇願の色が浮かんでいた。カレンディオが短剣を差し出す。命乞いに一縷いちるの望みをかけてのことだろう。

だが、決めるのはアステュアナクスではない。審判たちにも決められないため、腕をのばし、親指を上に向けててのひらを開いたジェスチャーで、主催者の指示を仰ぐ。

判決は「死」だった。魚剣闘士アステュアナクスが歩み寄る。その時ようやく、投網剣闘士カレンディオはすべて終わったと観念し、顎を上にあげた。まるでこの世で最後の愛撫のように、そよ風が彼の髪を撫でる。次の瞬間、カレンディオの身体に激痛が走り、やがてすべてが闇となった・・・・・・。

この戦いの模様を忠実に再現したモザイク画が、アッピア街道で発掘されており、現在はマドリードの国立考古学博物館に所蔵されている。

「古代ローマ人の24時間」第44章

もちろん以上の記述は著者の想像です。ただし最後に書いてあるように、著者はこの戦いの経過を描いた当時のモザイク画をもとに文章を書いています。細部の描写はともかく、古代ローマの剣闘士の試合がどんなものだったかが理解できます。最後の方の「そよ風が彼(=投網剣闘士)の髪を撫でる」というところは、投網剣闘士だけは兜を被らなかったという歴史的事実を反映しています。

追撃闘士と網闘士.jpg
追撃剣闘士(セクトル)のアステュアナクスと投網剣闘士(レティアリイ)のカレンディオの戦いを描いたローマ時代のモザイク画。時間の経過は下から上である。上の絵でカレンディオは傷つき、短剣を差し出している。カレンディオの名前の後にある丸と棒の記号は "NULL" を示していて、主催者(エーディトル)の決定は「死」であったことを示す。投網剣闘士は追撃剣闘士と組まされることが多かった。追撃剣闘士の装備は魚剣闘士と似ているが、兜に突起物はなく、投網剣闘士の網から逃れやすかったという。「古代ローマ人の24時間」の記述はこのモザイク画をもとにしているはずである。
(スペイン国立考古学博物館:マドリード)

最初のジェロームの絵『差し下ろされた親指』に戻ります。ここにはまさに魚剣闘士と投網剣闘士との戦いが終わったばかりの場面が描かれています。そして右の観客席の観衆は「殺せ」とコールしている。

ここで想像すると、全員とまでは言わないまでも「殺せ」と叫んでいる観衆は、午前中の「猛獣狩り」で動物が死ぬ場面を見物し、その次には公開処刑を見学し、そして剣闘士の試合と流れる血に興奮して「殺せ」と叫んでいるわけです。「死」と「血」が充満した円形闘技場に長時間いた人間が「殺せ、殺せ」と連呼するのは、当然そうなるだろうという気がします。

Pollice Verso (Gerome).jpg
ジャン=レオン・ジェローム「差し下ろされた親指」


究極の娯楽


今まで書いた「死を見せ物にする」古代ローマの歴史を、我々はどう受けとめればいいのでしょうか。"歴史から学ぶ" とすると、何か学ぶものはあるのでしょうか。このことについて2つのことを考えました。

確実に言えるのは、この見せ物=娯楽は「これほど刺激の強いものはない、究極の娯楽」だということです。長いローマの歴史の中でより強い刺激を求めてエスカレートした結果なのでしょうが、もうこれ以上エスカレートのしようがないわけです。ものごとは究極に達すると後は下降しかありません。「パンとサーカス」と言われるように、闘技会(=サーカス)は、民衆が皇帝に要求する権利だったわけですが、そのローマ市民が要求するものを皇帝がいずれ与えられなくなることは目に見えています。人間は誰しも死にたくはないので、死を前提にした見せ物はエスカレートすればするほど、どこかで無理がきます。

ローマの高度なインフラを思い出します。No.112-3「ローマ人のコンクリート」No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」で書いたように、2000年前の高度文明で作られた水道網、道路、橋、テルマエ(公衆浴場)などは、メインテナンス・コストとエネルギー資源の問題で "持続可能" ではなくなり、次第に劣化・縮小していったわけですね。究極に達すると下降しかない。これが第一に思ったことです。

2つ目に思ったのは「人や動物が殺される様子を娯楽として楽しむ」のは "人間性" とどういう関係があるかです。それは古代ローマ人だけの特殊なものだとも考えられます。しかし動物を殺して楽しむというのは、現代のスペインやポルトガル(および文化を受け継いだ中南米の国)の闘牛がそうだし、大型動物を狩るレジャー・ハンティングがそうです。現代のテロリストの中には殺人を楽しんでいるとしか思えないものもいる。人間にはそういった性向がないとは言えないでしょう。では「ローマ人の究極の娯楽」はどう考えればよいのか。

最も妥当な解釈は「人間は本能が崩れた動物だ」ということだと思いました。これは岸田秀氏(和光大学名誉教授)の言い方ですが、人間の行動は本能によるのではないということです。つまり、生存のために必須の行動を除き、人間の行動は生得のものではない。人間の行動は "文化"(広い意味での文化)によって決まります。文化が人間の行動規範になり、文化が人間を行動に駆り立てる。岸田流に言うと「文化は本能の代替物」ということになります。

その "文化" は人間が作りあげてきたものなので、生物学的条件からくる根拠がありません。従って極めて多様であり、社会によって千変万化します。二人が戦う格闘技を観客が見て楽しむという競技は世界中にありますが、「剣闘士=殺し合い」から「相撲=倒れたら負け」までのバリエーションがある。

全くの想像ですがローマの闘技会も、もとはと言えば戦争捕虜同士を戦わせて楽しむ程度のものではなかったのでしょうか。それが剣を使うようになり、次には殺してもよいことになり、さらには敗者が殺されるようになり、猛獣とも戦うようになりと、そういう風に文化が "発展" してきた。生物学的な歯止めがない人間はどこまでもエスカレートしていく(ことがある)。その文化の中で生まれてからずっと生活していると、別に何とも思わない。世界中のほとんとの地域はそういう "発展" はしなかったが、古代ローマは(たまたま)そういう経緯をたどったのではないでしょうか。

古代ローマ史の闘技会で思うのは、人間社会は「何でもアリ」だということです。だからこそ「何でもアリではない社会」を構成するための "文化的装置" を作る努力が必要なのでしょう。「人間は生まれながらにして基本的人権をもつ」という近代国家ではあたりまえのコンセプトも、実は、生まれながらに持っているものや行動規範が無いからこそ「人権」というものを仮想し、それをベースに社会の体系を作ろうとする(作ってきた)人間社会の努力だと考えられます。そして、その努力は大切なものだということを思いました。




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No.202 - ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで6回書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン

の6つです。いずれも19・20世紀の実業家の個人コレクションが美術館設立の発端となっています。今回はその続きで、オランダのロッテルダムにある「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」をとりあげます。


美術館のロケーション


オランダの美術館で No.158 で書いたクレラー・ミュラー美術館は、ゴッホの作品が好きな人にとっては是非とも訪れたい美術館ですが、この美術館はオッテルローという郊外の町の国立公園の中にあります。アムステルダムから公共交通機関を使うとすると、列車(直通、または乗り継ぎ)とバス2系統の乗り継ぎで行く必要があります。

それに対してボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダムという大都市の中心部にあり、アムステルダムからは列車1本で行けます。また途中のデン・ハーグにはマウリッツハイス美術館があるので、この2美術館をアムステルダムからの日帰りで訪問することも十分に可能です。

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダム駅から歩いて行けます。地下鉄なら駅一つですが、運河ぞいを散策しながら行くのがいいでしょう。駅から南方向へゆっくりと歩いて20分程度です。ちなみにロッテルダムはライン河の河口に近い港湾都市で、オランダ第2の大都市です。ここからヨーロッパ内陸の都市へ水路で行けるので、貿易や水運で大いに発展しました。

ロッテルダム.jpg
(青矢印はクレラー・ミュラー美術館 - Google Map)


ボイマンスとファン・ベーニンゲン


ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(Museum Boijmans Van Beuningen)はオランダで最も古い美術館の一つで、中世ヨーロッパから20世紀のモダンアートまでの幅広いコレクションがあります。もともと、弁護士のフランス・ボイマンス(1767-1847)が1841年に自身のコレクションをロッテルダム市に寄贈したのが始まりでした。その1世紀後、1958年に大実業家のダニエル・ファン・ベーニンゲン(1877-1955)がコレクションを市に寄贈し、これによって "ボイマンス・ファン・ベーニンゲン" という美術館の名称になりました。以下、この美術館の絵画作品を何点か紹介します。

BVB.jpg


ブリューゲル : バベルの塔(第2バージョン)


The Tower of Babel(Boijmans).jpg
ピーテル・ブリューゲル(1525/30-1569)
「バベルの塔」(1568頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この美術館の "目玉" 作品は何と言ってもブリューゲルの『バベルの塔』です。ウィーンの美術史美術館にブリューゲルの作品が展示されている部屋があり、そこに第1作目の『バベルの塔』がありますが、ブリューゲルが描いた2作目がこの作品です。ウィーン作品よりも塔の建設が進んだ段階のようです。

The Tower of Babel(Wien).jpg
ピーテル・ブリューゲル
「バベルの塔」(1563頃)
(ウィーン美術史美術館)

ロッテルダムの2作目を実際に見ると、ものすごく小さな作品です。特にウィーンの作品を先に見ているとその感じが強い。ウィーン作品は約114cm×155cmの大きさですが、ロッテルダム作品は約60cm×75cmであり、大きさでウィーンの半分、面積にすると4分の1しかありません("小バベル" と呼ばれている)。しかしそこに描かれた人の数は膨大で、約1400人といいます。これは60cm×75cmの大きさの「巨大なミニチュア画」といえるでしょう。

もちろん、美術館の展示で細部まで鑑賞するのは不可能です。鑑賞のためには近接してルーペで見る必要がありますが、ブリューゲルの傑作にそんなことはできません。ただし「現代のルーペ」があります。つまりハイビジョンや4Kの画像を撮影できるので、それを大画面で細部を順に拡大して見ることが可能なはずです。是非、美術館の常設展示としてそういったビデオ展示をやってほしいと思いました。

この絵は画家が自らの技量を示すために限界に挑戦したものと考えられます。ウィーン作品の半分の大きさにしたのもチャレンジ精神の発揮でしょう。しかし単に技量を示すためだけではない感じもします。「バベルの塔」を見て思うのは、画家の膨大で気の遠くなるような緻密な作業の積み重ねです。それは天に届く塔を作ろうとした聖書の中の人々営みの総体に重なって見えます。つまり「絵のモチーフ」と「絵の描き方」が非常にマッチしている。

ここまで書いて、No.150「クリスティーナの世界」で引用したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』を思い出しました。あの絵はテンペラ技法を使い、草の1本1本まで緻密に描き込まれています。絵を一瞥して感じるのは、制作につぎ込まれた膨大な画家の作業量です。それは、小児麻痺のクリスティーナが草原をはいつくばって自宅の小屋に少しづつ少しづつ向かう姿と重なります。またクリスティーナの人生における彼女の多大な努力の積み重ねを想像させる。

バベルの塔に戻りますと、この絵は "描き方" と "描かれたモチーフの意味内容" がピッタリとはまっています。そのあたりに絵の価値というか、見る人が暗黙に感じる魅力があるのだと思います。

この絵は日本で開催される "ブリューゲル「バベルの塔」展" で公開されます(東京都美術館 2017.4.18 ~ 7.2。大阪・国立国際美術館 2017.7.18 ~ 10.15)。展覧会のウェブサイトには次のように書かれていました。


今回の展覧会では新しい試みとして(中略)東京藝術大学COI拠点の特別協力により芸術と科学技術を融合させ、原寸を約300%拡大したブリューゲル「バベルの塔」の複製画を制作・展示します。また同拠点は「バベルの塔」の3DCG動画も制作し、多様なメディアを駆使してこの傑作の魅力に迫ります。

ブリューゲル「バベルの塔」展
公式ホームぺージより

「約300%に拡大した複製展示」は、ビデオ画像による詳細表示とともに是非やってほしいと思っていたものでした。このような展示によって初めて、この絵の真価がわかるのだろうと思います。


ファブリティウス : 自画像


ファブリティウスの絵は、以前にマウリッツハイス美術館の『ごしきひわ』という作品を引用しました(No.93「生物が主題の絵」。小品だが傑作です)。レンブラントの最高の弟子と言われるファブリティウスは、デルフトの弾薬庫の大爆発事故に巻き込まれ、32歳の若さで亡くなりました。そのときにアトリエも破壊されたので、現存する作品は10点程度といいます。その中の貴重な作品がこの自画像です。

Self-Portrait.jpg
カレル・ファブリティウス(1622-54)
「自画像」(1645頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵に描かれているファブリティウス本人は、一見すると "画家" という感じがしません(個人的印象ですが)。といって「画家らしい風貌とは何ですか」と問われると答えに困るのですが、この肖像から受ける "ワイルドな感じ" は、我々が一般的に思っている画家のイメージとは少しズレています。現代で言うと、激しい運動をともなうスポーツの選手、たとえばサッカー選手のような感じです(ヘアスタイルは別として)。

厚い唇は強い意志を感じさせます。野心を秘めた若手画家という風にも見える。つまり、画家のトップに君臨してやろうという意志を込めている感じです。レンブラントの最高の弟子といわれるだけあって、そういう野心をいだいてもおかしくないだけの技量があります。『ごしきひわ』を見ればその技量が直感できるのですが、この絵もそうです。注文を受けて描く肖像画とは全く違い、生身の人間をリアルに描いた感じが強い。17世紀の作品ですが、ゴヤを先取りしたような、近代絵画的な絵です。ちなみにファブリティウスは、おなじデルフトの画家・フェルメールより10歳年上です。

No.19「ベラスケスの怖い絵」で書いたように、人は顔を見ただけでその人の内面を推定・想像することを無意識にやっています。そういった想像をよりかき立てる絵が、肖像画としては良い絵なのでしょう。その意味で優れた絵だと思います。


クールベ : 果樹があるオルナンの山の風景


Mountainous landscape with fruit trees in Ornans.jpg
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)
「果樹があるオルナンの山の風景」(1873)
(Mountaineous landscape with fruit trees in Ornans)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵からゴッホのポプラ並木までの4作品は印象派と関係しています。まずこのクールべの絵ですが、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館には類似の風景を描いた絵が2作品あり、そのうちの1つです。オルナンはクールべの故郷です。

以前にクールベの故郷にちなんだ絵として『フラジェの樫の木』(1864)『雪の中を駆ける鹿』(1856/57)を引用しました(No.93「生物が主題の絵」)。この両方ともいかにも "写実派" クールベらしい作品でした。しかしこのオルナンの山岳風景はちょっと違っていて、印象派の作風に似た感じがします。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のウェブサイトの解説には「クールベは写実派として出発したが、後期には印象派に近づいた」という主旨の解説がありました。


モネ : ヴァランジェヴィルの漁師小屋


La maison du pecheur Varengeville.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
「ヴァランジェヴィルの漁師小屋」(1882)
(La maison du pecheur, Valegeville)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ヴァランジェヴィルはノルマンディーの英仏海峡に面した海岸地方で、避暑地として有名です。この絵を見て思い出すのはボストン美術館にある漁師小屋の作品で、ボストンに数々あるの印象派の名画の中でも最も記憶に残る絵の一つです。小屋がポツンと一つあるというモチーフが印象に残るのだと思います。

Fisherman's Cottage on the Cliffs at Varengeville.jpg
クロード・モネ
「ヴァランジェヴィルの漁師小屋」(1882)
(ボストン美術館)
ということから類推できるように、モネの漁師小屋の絵は連作です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の解説によると、モネは少なくとも8枚の漁師小屋の絵を描いたそうです。

本作品はいわゆる対角線構図であり、左上から右下の直線で画面が2分されています。さらに「高い位置から風景を俯瞰し、水平線を画面の上の方にとる構図」は、日本の版画の影響でしょう。美術館の解説にもそう書いてありました。


ゴーギャン : 休息する牛


Vaches au repos.jpg
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
「休息する牛」(1885)
(Vaches au repos)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

よく知られているようにゴーギャンはビジネスマン(株仲買人)から職業画家に転身した人ですが、その転身したあとの初期の作品で、ノルマンディーの風景です。

絵の構図はモネの絵と同じく対角線構図で、2つの対角線に沿って牛や木々、池が配置されています。構図の安定感は抜群といえるでしょう。筆使いは当時のトレンドの印象派そのものという感じですが、色使いに後のゴーギャンを感じさせるものがあります。


ゴッホ : ニューネンのポプラ並木


Poplars near Nuenen.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「ニューネンのポプラ並木」(1885)
(Poplars near Neunen)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのオランダ時代の絵です。その時期のゴッホの絵というと "コテコテの暗い絵" が多いのですが、この並木道の絵はそうでもありません。明け方でしょうか、空が明るく輝きはじめています。木々の葉にも明るい色が配されている。美術館の解説によると、ゴッホはパリへ移る時にこの絵を持って行き、パリで手を入れたそうです。当時のトレンドであった印象派の影響を受けた絵といえるでしょう。


ゴッホ : アルマンド・ルーランの肖像


Portrait of Armand Roulin.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「アルマンド・ルーランの肖像」(1888)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのアルル時代の絵です。ゴッホは郵便配達人のルーランとその家族の絵を何枚か描きました。このブログでも No.95「バーンズ・コレクション」(ルーラン)、No.158「クレラー・ミュラー美術館」(ルーランと妻)で引用しました。MoMAにもあったと思います。この絵はそのルーランの息子を描いた作品です。

アルマンド・ルーランは当時17歳ですが、この絵を見ると髭をたくわえる伝統がある一家のようです。肖像画にはめずらしく、沈んで憂鬱そうな表情で、青春のそういう瞬間をとらえた絵なのだと思います。


ピカソ : カフェのテラスに座る女


Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「カフェのテラスに座る女」(1901)
(Femme assise a la terasse d'un cafe)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ピカソはパリに出てきた20歳頃に、大都会の "ナイトライフ" に関係した作品をいろいろ描いています。No.163「ピカソは天才か(続)」で引用した『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、夜のダンスホールの少々 "怪しい" 光景でした。この絵もド派手な身なりの女性を描いていて、一見して "その筋の女性" を想像させます。

形は非常に曖昧です。崩れてきていて、カンヴァスに溶解していくような感じです。その中で色彩だけが自己主張しています。色がもつ効果を示したかったのかもしれません。


シニャック : ロッテルダム港


Le port de Rotterdam.jpg
ポール・シニャック(1863-1935)
「ロッテルダム港」(1907)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館があるロッテルダムの波止場を描いた作品です。いわゆる "点描" の作風ですが、シニャック流の、筆致が分かる大きめの "点" で描かれていて、画面に独特の躍動感があります。全体的にシックな色調ですが、それは蒸気船に代表される近代文明と産業がテーマだからでしょう。波止場のにぎわい、ざわめき、波のきらめき、船やボートや煙の動きが伝わってきます。


カンディンスキー : The Lyrical


The Lyrical.jpg
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
「The Lyrical」(1911)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

美術館が示している英語題名は "The Lyrical" というものです。直訳は難しいですが、意訳すると "熱狂" としてもよいと思います。カンディンスキーが抽象絵画を始めた初期の作品です。

疾走する競争馬と騎手が描かれていて、その周りに赤・青・茶・緑が配置されています。抽象に踏み込んだ絵なので解釈は個人の自由ですが(もし解釈したいのならですが)、たとえばこの4色は人馬をとりまく群衆・池・大地・芝生という感じでしょうか。自由に描かれた馬と騎手の線が心地よい一枚です。




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No.201 - ヴァイオリン弾きとポグロム [アート]

前回の No.200「落穂拾いと共産党宣言」で、ミレーの代表作である『落穂拾い』の解説を中野京子・著「新 怖い絵」(角川書店 2016)から引用しました。『落穂拾い』が "怖い絵" というのは奇異な感じがしますが、作品が発表された当時の上流階級の人々にとっては怖い絵だったという話でした。

その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。


ヴァイオリン弾き


Le Violoniste.jpg
マルク・シャガール(1887-1985)
ヴァイオリン弾き」(1912)
(アムステルダム市立美術館)

"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの製作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。

この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。


緑色の顔の男がまっすぐこちらを見据え、三角屋根の上に片足を載せリズムをきざみつつ、ヴァイオリンをかなでる。ロシアの小村。木造りの素朴な家が点在し、屋根にも広場にも雪が積もる。煙突からは巻いたコイルのような煙が吐き出され、手前の木には鳥がつどう。画面左上に小さく、右端に大きく、教会が見える。幻想の画家シャガールらしい不思議な魅惑の世界。

ヴァイオリン弾きのコート及び背景を分割する白と暗色の組み合わせが、実に効果的だ。画面からは音楽までも流れだす。けれどそれは陽気なばかりのメロディではない。哀愁漂い、不安を内包した弦の響きに違いない。なぜなら真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっているからだ。ヴァイオリン弾きを見上げる三人の人物も不安そうだ。


この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。

二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板しばんを持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。

三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、

  誰かが右手からユダヤ人の住居に押し入り、そこで鮮血が床に流れるような行為をし、その鮮血を片足で踏んで家から出て、左の方向に去った

と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。


ポグロム



世紀末からロシア革命に至る期間、激しく大規模なポグロムがロシアに何度も何度も荒れ狂った。ポグロムはロシア語ではもともと「破壊」の意だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。

ポグロムに加わり、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や店を襲っての金品強奪ごうだつ、老人にも女・子どもにも見境なしの暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだのは、都市下層民や貧農、コサックなど経済的弱者が大半と言われる。だが各地で頻発ひんぱつするにつれ、ポグロムは政治性を帯びて組織化した。警官や軍人も加わったのだ。

(同上)

誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。

シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。


ミュージカル(引用注:屋根の上のヴァイオリン弾き)における表現はソフトで、村民が全員追放されるだけだったが、現実のポグロムでは死者が数万人も出ている(数十万人という研究もあるが、正確な数字は把握されていない)。カメラの時代になっていたから、自分が殺した相手といっしょに記念写真を撮るというようなおぞましい記録まで残っている。シャガールは直接ポグロムを経験していないが、小さなころから重苦しい不安は日常だったし、キエフでなまなましい体験をした芸術家仲間から具体的な話を聞いたこともある。昨日まで挨拶を交わしていた近所の住人が、突然棍棒こんぼうだの鋤鍬すきくわだのを振り上げて襲ってくる恐怖は、いつ現実のものとなってもおかしくなかったのだ。

シャガールは絵の中にそれを描き込んでいる。もう一度『ヴァイオリン弾き』の画面に目をらしてほしい。白い雪の上にはいくつも靴跡がある。それは右からユダヤ人の家を目指して進み、左の家から出てくるが、その出てきた靴跡の一つは、何と、鮮血を踏んだごとく真っ赤ではないか !

(同上)


絵の歴史的背景


『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。

この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、

片足を屋根に乗せてヴァイオリンを弾くという、まったく釣り合いのとれない感じ
まともな音が出せそうにない、ヴァイオリン弾きの指の使い方
巨人として描かれたヴァイオリン弾きを不可解そうに見上げる3人の人物
何かから逃げているような聖人の姿

などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。

しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。

そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換あびきょうかんをよそにただ一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。

ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。

必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。




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No.200 - 落穂拾いと共産党宣言 [アート]

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」で、フィラデルフィア美術館が所蔵するミレーの絶筆『鳥の巣狩りBird's-Nesters)』のことを書きました。その継続で、今回はミレーの "最高傑作" である『落穂拾い』(オルセー美術館)を話題にしたいと思います。実は『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』には共通点があると思っていて、そのことについても触れます。

  ちなみに、このブログで以前にとりあげたミレーの絵は『鳥の巣狩り』『晩鐘』『死ときこり』(以上、No.97)、『冬』『虹』(No.192「グルベンキアン美術館」)ですが、それぞれミレーの違った側面を表している秀作だと思います。

まず例によって、中野京子さんの解説によって『落穂拾い』がどういう絵かを順に見ていきたいと思います。


貧しい農民と旧約聖書


落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

この絵に描かれた光景と構図について、中野京子さんは著書「新 怖い絵」で次のように解説しています。


大地は画面の七割を占め、厚みを帯びて広がっている。『晩鐘ばんしょう』と同じく、明暗のコントラストが鮮やかだ。夕暮れのやさしいを浴びた豊穣ほうじょうな後景と、影の濃い貧困たる前景。麦藁むぎわらが天まで届けとばかりに積み上がった後景と、やっとの思いで集めた数束が画面右端に見えるだけの前景。干し草のかぐわしい匂いが漂う後景と、じめじめした土の臭いを感じさせる前景。おおぜいの人間が収穫に沸くにぎやかな後景と、三人一組であるかのような女性が腰を折って黙々と落穂を拾う前景・・・・・・。


『落穂拾い』の構図は、前景と後景の対比で成り立っています。中野さんの文章を整理してみると、

後景
明暗の対比の「明」
夕暮れのやさしい陽を浴びて豊穣
麦藁が天まで届けとばかりに積み上がる
干し草のかぐわしい匂いが漂う
大勢の人間が収穫に沸き、賑やか

前景
明暗の対比の「暗」
影が濃く貧困としている
やっとの思いで集めた数束が画面の右端に見える
じめじめした土の臭いを感じさせる
三人の女性が腰を折って黙々と落穂を拾う

となります。そしてもちろん絵の主役は "じめじめした土の臭いを感じる中で腰を折って黙々と落穂を拾う" 前景の三人です。


だがこのヒロインたちの、どっしりした存在感はどうだ。彼女らは今ここにまぎれもなく生きている。単調で厳しい労働に耐え抜く太い腰。あかぎれした無骨な手を持つ彼女らは、バルビゾンの農婦だった時代をはるかに超え、古典古代の力強い彫像のように永遠の命を与えられてここにいる。

ミレーのさりげない上手うまさが光る。画面構成はもちろんのこと、人物の動きと配置も完璧だ。はいいつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン。もう一人は、おそらく少し休んで伸びをしていたのだろう。再び目を地面に落とし、かがみ込むところだ。全体に色彩の乏しい中、かぶりものの赤と青が印象的だ(聖母マリアが身にまとう赤と青を思い出させる)。

(同上)

中野さんは、落穂を拾う三人の「どっしりした存在感」と書いていますが、確かにその通りです。西洋絵画における "モデリング" というのでしょうか、骨太の立体感が伝わってきます。絵の中に彫刻作品があるような、造形の確かさがあります。実際に見た通りに描くと、こうはならないでしょう。絵画でしか成しえない世界を作ったという感じがします。それに加えて完璧な構図と色使いのうまさがあり(赤と青が利いている)、この絵が絵画史上の名画中の名画とされていることも分かります。

ミレーによって "永遠の命を与えられた" 三人の女性、表情は定かではないが存在感抜群の三人の女性は、いったいどういう人たちだったのでしょうか。これはよく知られています。中野さんは次のように書いています。


それにしても三人はなぜ後景の皆といっしょに働いていないのだろう? 村八分にでもあっているのか?

まあ、それに近いかもしれない。広大なこの麦畑は彼女たちには何の関わりもない。雇われてさえいない。刈り取りが終わった畑に勝手に入り、おこぼれにあずかっているだけなのだ。迷惑がられていた可能性もある。入るな、拾うなと言われれば従うしかない。こうして拾っていられるのは、地主側の黙認による。それも昼の刈り入れ後から日没までのわずかな時間のみなので大急ぎだった。

(同上)

さらに "落穂拾い" が聖書で言及されていることも、よく知られていると思います。


落穂拾いについては、旧約聖書の『レビ記』や『申命しんめい記』に記述がある。いわく、畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しいもの、孤児、寡婦かふのために残しておきなさい、と。

こうした「喜捨きしゃの精神」、反転するなら「貧者の権利」は、近年になってもまだ続いていた。ただし貧しい地方、たとえばミレーの育った寒冷で土地のせたノルマンディー地方には見られない慣習だった。だから彼は、農村の最下層たる寡婦(あるいは夫が病に倒れた女性)が落穂を拾う姿に胸を打たれたのだろう。

(同上)

ミレーは敬虔なクリスチャンであり、有名な『種まく人』も聖書に由来があります。まず、そういった信仰がベースにあり、そこに懸命に生きる人間の "けなげさ" が加わり、さらに絵としての構図や描写の素晴らしさが重なって、この絵は当時から大いに人気を博しました。数々の複製画が出回ったと言います。



以上のように「最下層の農民」と「キリスト教」が、この絵の二つの背景です。しかしこういった見方とは別に、この絵が発表された当時は全く別の観点から見る人たちがいたのです。


共産党宣言


『落穂拾い』は人々の共感を呼んだと同時に、ミレーと同時代の一部の人たちに強い反感をもたらしました。


だがミレーと同時代人の中には、この絵を「怖い」と思う人々がいた。本気で怖がり、それゆえにみ嫌う人々が・・・・・・。

当時ヨーロッパ中が揺れていたからだ。

「ヨーロッパに幽霊が出る ── 共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」

あまりに有名な『共産党宣言』(マルクス エンゲルス、岩波文庫)の冒頭である。締めくくりの言葉、「万国のプロレタリア団結せよ!」もまた、人口に膾炙かいしゃした。

この書物は『落穂拾い』が発表される9年前の1848年に刊行され、次第に広く深く影響を与えつつあった。上流階級は、「下層の労働者」が分をわきまえぬ欲望を抱き、団結し、生まれついての、しかも必然的永久的であらねばならぬ「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域へ割り込む気ではないかと心配し、おびえ、憤慨ふんがいした。彼らは少しでもそんな芽を感じると、文学であれ美術であれすばやく反応し、たたつぶそうとした。

(同上)

実は "落穂拾い" の主題は多くの画家によって取り上げられてきました。聖書に言及があるので当然とも言えるでしょう。その典型例がジュール・ブルトン(1827-1906)の『落穂拾いの女たちの招集』(1859)で、ミレーの『落穂拾い』(1857)と同時期に発表された作品です。

落穂拾いの女たちの招集.jpg
ジュール・ブルトン(1827-1906)
「落穂拾いの女たちの招集」(1859)
(オルセー美術館)

官展で1等をとったこの絵は、聖書の世界をあくまで美的に表現していて、ミレーが描いた現実の農民の姿とは全く違います。登場する女性は若々しく健康的で(非現実的)、前列の2人は裸足であり(これも非現実的)、拾い集めた麦も穂がたっぷりとついています(とても落穂とは思えない)。


ミレーだとこうはゆかない。保守派が猛然とみつく道理で、『落穂拾い』が発表されるや、「三人の女性には大それた意図がある。貧困の三美神のようにポーズをとっている」だの、「秩序をおびやかす凶暴な野獣」などと評された。詩人ボードレールのミレー嫌いも徹底していた。曰く、「取り入れをしていようと、種をいていようと、牝牛めうしに草をませていようと、動物たちの毛を刈っていようと、彼らはいつもこう言っているように見えます、『この世の富を奪われた哀れな者たち、だがそのわれわれが、この世を豊穣ほうじょうならしめているのだぞ!』(中略)彼らの単調な醜さの中に、これらの小賤民パリアたちは皆、哲学的でメランコリックでラファエルロ的な思い上がりをもっています。」(阿部良雄訳「一八五九年のサロン」/『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫)。

肉体労働に従事する者は「醜い小賤民」で、詩を書く自分は貴族的というわけであろう。となるとそんなやから下克上げこくじょうされたらたまったものではない。持てる者の不安と恐怖が、ミレー作品の本質を見誤らせてしまった。

(同上)


絵を見る視点


中野京子さんが「新 怖い絵」という本に『落穂拾い』をとりあげたのは、この絵が発表された当時、ある種の人たちにとっては本当に "怖い絵" だったからでした。その背景になったのは、産業革命以降の資本主義の発達と貧富の差の拡大です。そこから社会主義運動が起こってきた。それは労働者の権利の主張という範囲を越えて、階級社会の否定、ないしは革命を目指す運動にもつながってくる。特にフランスの富裕層は、70年前に大革命が起きて王制や教会が打倒されたことを想起したでしょう。ミレーに階級社会を否定する意図が無かったようですが、意図があると見なされる社会的な素地があったわけです。

現代人である我々が『落穂拾い』を見るとき、キリスト教や聖書の背景を考えないとしても、

  貧しい中で黙々と働く農婦への共感を覚え、労働の尊さに想いを馳せる

のが普通でしょう。ところが19世紀半ばのフランスでは、必ずしもそうではなかったのですね。つまり、ボードレールに代表される『落穂拾い』への非難、ないしは反感が示しているのは、

現代人の感覚だけで過去を判断してはいけない。一面的な(ないしは誤った)見方をしてしまうことがある。
絵画は描かれた時代を映すものでもある。
絵画は、見る視点のとり方によって、その解釈がガラッと変わることがある。

ということだと思いました。


『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』


鳥の巣狩り.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
鳥の巣狩り」(1874)
(フィラデルフィア美術館)

ところで、冒頭に書いた『鳥の巣狩り』のことです。この絵に初めてフィラデルフィア美術館で出会ったとき、パッと見て何を描いているのか分かりませんでした。題名も "Bird's-Nesters" となっていて、ちょっと不可解な題です(nesters という語の意味が分かりにくい)。しばらく絵をじっと見ていると理解が進んできました。登場人物は4人で、夜の光景です。おそらく2組の夫婦なのでしょう。2人の男が明かりをかざして、画面を覆う鳥を棍棒で叩き落としています。2人の妻は、地面にいつくばるようにして叩き落とされた鳥(実際は野鳩)を拾っているところです。

現代なら、立てた棒の間にネットを張って鳥を追いこむのでしょうが(=かすみ網。日本では禁止)、棍棒で鳥を撲殺するというのは随分 "原始的な" 方法です。夜に突如として強い光を当てられると鳥はパニックになって飛び去れない。そこをうまく突いた狩猟方法のようです。

  ちなみに、この絵を所蔵しているフィラデルフィア美術館は題名を『Bird's-Nesters = 鳥の巣狩り』としています。この題名通りに鳥の巣を狩るとしたら、その目的は鳥の卵か雛をとることです。しかしこの絵は "鳥そのものを狩る" 光景です。なぜ Bird Hunting(鳥狩り)か Bird Hunters(鳥狩り人)ではないのか。その理由の推測を No.97「ミレー最後の絵」に書きました。

この『鳥の巣狩り』という絵は『落穂拾い』を連想させるところがあります。それは絵の中の2人の農婦です。

  地面に屈み込んでいる(あるいは這いつくばっている)2人の農婦が、
小麦の穂
瀕死の野鳩(ないしは死んだ野鳩)
を拾っている光景

という点で連想が働くのです。絵の中の雰囲気はまるで違います。『落穂拾い』では、静かな夕暮れ時に2人の農婦がリズミカルに小麦の穂を拾っています。静寂の中、足音と小麦を掴むわずかな音だけが響くという光景です。一方の『鳥の巣狩り』は、野鳩の大群の啼き声と羽ばたき音が充満するなか、地面でまだバタバタと羽を動かしている瀕死の鳩を拾う光景です。地に落ちた野鳩の阿鼻叫喚あびきょうかんの中での作業です。

しかし地面に屈み込んで(あるいは "這いつくばって")何かを拾うことでは、2つの絵は共通しています。中野京子さんは『落穂拾い』を評して「這いつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン」と書いていますが、『鳥の巣狩り』の2人の方がもっと "這いつくばって" いる。もちろん "リフレイン" どころではない光景だけれど。

落穂拾い(部分).jpg
落穂拾い」(部分)

鳥の巣狩り(部分).jpg
鳥の巣狩り」(部分)

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」に書いたように『鳥の巣狩り』はミレーの絶筆です。描いた時点でミレーは死期を悟っていました。病床にあった彼は最後の最後まで手を入れ続けたといいます。なぜ彼がこの絵を描いたのか、その推測を No.97 に書きました。ミレーはノルマンディー地方の農家に生まれ、バルビゾンで農民を描いて成功した画家です。その人生の総決算が『鳥の巣狩り』だというような想像でした。

そして付け加えるなら、ミレーはこの絵を描くときに『落穂拾い』が念頭にあったのではないでしょうか。ミレーの代表作は『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』『羊飼いの少女』であり、当時からそう見なされていました。画家自身も自らの代表作と意識していたはずです。これらのうち一つをあげるとすると、やはり『落穂拾い』だと思います。ミレーは『落穂拾い』で地面に手を延ばしている2人を、人生最後の作品である『鳥の巣狩り』に再び登場させたのではないでしょうか。全く違うモノに手を延ばす2人として・・・・・・。



ミレーやコローを代表格とするバルビゾンの画家は、当時のパリで大いに人気を博したようです。都市化が進んだパリ市民には「自然へのあこがれ」があり、また「農村の牧歌的風景」や「農民の素朴さ」が求められたからでしょう。それはあくまで都会人の視点での農村・農民です。近・現代の日本でも、そういう "古きよき農村風景" を描いた絵はいろいろありました。

しかしミレーはそう単純ではなかった。あくまで農民の側に立って、農村の真実を描いたわけです。そこには、農民たちの喜び、神への感謝と祈り、労働の辛さと過酷さ、さらには "報われることがない人生に対する悲しみ" までが表現されているようです。だからこそ、見る人が見れば社会を告発している "怖い絵" にも思えたのでしょう。

そしてミレーという画家の人気の源泉、人の心を打つ理由は、まさにその点にあるのだと思います。

続く


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No.199 - 円山応挙の朝顔 [アート]

円山応挙展ポスター.jpg
No.193「鈴木其一:朝顔の小宇宙」で、メトロポリタン美術館が所蔵する鈴木其一(1795-1858)の『朝顔図屏風』のことを書きました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手 展」で展示された作品です。

実はこのすぐあとに、もう一枚の "朝顔" を鑑賞する機会がありました。円山応挙(1733-1795)が描いた絵です。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』展(2016年11月3日~12月18日)に、その朝顔が展示されていました。今回はこの展覧会のことを書きます。

この展覧会は応挙の画業を網羅していて、多数の作品が展示されていました。国宝・重要文化財もあります。その中から朝顔を含む4作品に絞り、最後に全体の感想を書きたいと思います。


朝顔図


朝顔図.jpg
円山応挙 「朝顔図」
天明四年(1784)51歳
(相国寺蔵)

並んで展示されていた『薔薇ばら文鳥図』と二幅一対の掛け軸で、この二幅は元々 "衝立て" の両面だったと言います。朝顔の銀地に対して、薔薇文鳥は金地でした。

この絵は、画面右下のほぼ4分の1に朝顔を密集させ、それによって銀地の余白を引き立てています。朝顔の蔓は左方向横と左斜め上に延び、銀地を心地よく分割しています。花と葉の集団は画面の右端でスパッと切断されていて、さらに右への朝顔の広がりが感じられます。"完璧な構図" といったところでしょう。

"完璧な構図" と書きましたが、これは日本的な美意識だと思います。つまり、不均衡で非対称な美と、何かがあることを想像させる余白の美です。また、モチーフのカットアウトによってズームインしたような印象を与え、それによって画面の外への広がり感を出す構図のとり方です。江戸期の美術の一つの典型がここにあるような感じがしました。

それと同時に、この作品は琳派を思わせます。つまり「全面の銀の箔押し中に草花を描く」というところです。広い余白で草花を強調し、同時に銀地も映えるようにする・・・・・・。この絵の優美で、落ち着いて、洒落た感じは、江戸琳派の祖、酒井抱一(1761-1829)の絵といってもおかしくはないと思いました。

円山応挙は「写生」の画家と言われていて、それはその通りですが、今回の展覧会のテーマは「写生を超えて」となっていました。つまり「写生」を基調にしつつ、応挙が試みた様々な画風というか、スタイルの絵が展示されていました。酒井抱一を先取りするような『朝顔図』も、まさに "超えた" 絵の一枚だと思います。


白狐びゃっこ


白狐図.jpg
円山応挙 「白狐図」
安永八年(1779)46歳
(個人蔵)

白狐は日本古来の信仰である「稲荷神」であり、人々に幸福をもたらす "善狐" です。日本に生息している狐に "白狐" はいないと思うのでですが、動物の常で、稀に白い個体が出現することはあるのでしょう。なお、No.126「捕食者なき世界(1)」で書いた "ホッキョクギツネ" は冬毛が真っ白で、まさに白狐です。

この絵のポイントは、白狐を "白く描いていない" ことです。つまり絹地に何も描かないことで白狐を表現している(=塗り残し)。墨で描いた毛は体の外周から少し内側にあり、そのことで毛並みの "ふわふわ感" や "ソフトな感じ" を出しています。その感じが、全く何も描かれていない体の中の方にもつながっていると想像させます。絵画技法がピタッと決まった絵という感じです。

円山応挙は、有名な国宝『雪松図屏風』(今回の展覧会で前期に展示)の雪の表現で "描かないことで描く" 手法をとりました。それ以外にも、雪を同一の技法で描いた作品が展示されていました。たとえば『雪中水禽図』です。雪のフワフワした、軽い感じがよく出ていると思いました。

雪中水禽図.jpg
円山応挙 「雪中水禽図」
安永六年(1777)44歳
(個人蔵)

余談ですが、近代の画家で "描かないことで描く" 達人は川合玉堂だと思います。玉堂が雪景色を描いた作品を引用しておきます。「塗り残し」で動的な表現(=風)まで踏み込んでいるのが素晴らしいところです。

川合玉堂・吹雪.jpg
川合玉堂「吹雪」
大正15年(1926)

川合玉堂は岐阜出身ですが、京都に出て「円山・四条派」を学んだ人です。川合玉堂もまた円山応挙の弟子なのでしょう。

この技法が使えるのは玉堂作品にもあるように "雪" が一般的だと思いますが、それ以外では動物が考えられます。白い鳥(白鳥やシラサギなど)や白ウサギが思い浮かびますが、応挙が選んだのは神獣である狐でした。 "描かないことで描く" 手法が、ボーッと浮かび上がるような、現実の動物ではないような感じを出していて、そこが印象的でした。


藤花図屏風


重要文化財である『藤花図屏風』は、今回の展覧会で是非とも見たかった絵です。『朝顔図』と違って、こちらは総金地です。その中に、日本の和歌や絵画の伝統的なモチーフである "藤" が描かれています。

藤花図屏風.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」
安永五年(1776)43歳
(根津美術館蔵)

藤花図屏風・左隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻

藤花図屏風・右隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻

この屏風では、藤の幹・枝・蔓を描くのに、いわゆる「付け立て」の技法が使われています。筆や刷毛の全体に薄い墨を含ませ、先の方に濃い墨をつける。その状態で "一気呵成いっきかせいに" 一筆で描く。墨の濃淡やムラがあちこちに出現し、それによって幹・枝・蔓が表現されています。

もちろん事前にデッサンを重ねて、全体の構図を精密に決めてから描くのでしょうが、描く行為はそのものは一瞬です。やり直しはききません。いくら名手の応挙といえども、意図した以外の濃淡やムラも出るはずで、そういった偶然性も内包していると言えるでしょう。ここだけをとると、写生や写実とはほど遠い "前衛手法" という感じがします。まさに展覧会のテーマである「写生を超えた」表現です。

その一方で、藤の花と葉は時間をかけて丁寧にリアルに描いています。葉をバックに、空から降ってくるような花は華麗で美しい。その「リアルな美しさ」と「一気呵成」が違和感なく同居しているのが『藤花図屏風』です。異質なものを同居させて一つの屏風を仕立てた応挙の技量は、ちょっと感動的です。

「付け立て」に戻りますと、西欧の近代絵画に「筆触を残す描き方 = ブラッシュワーク」があることが思い出されます。つまり印象派の画家の描き方です。しかし応挙のブラッシュワークは濃淡のコントロールがあって大変に高度です。「付け立て」は日本画によくある手法ですが、その最良の例が応挙のこの絵でしょう。なお上で引用した川合玉堂ですが、玉堂の作品には「付け立てを使った藤の絵」があります。 明白に ”自分は応挙に習った” と宣言しているのです。

この『藤花図屏風』から連想したのは、印象派の絵というより、No.46「ピカソは天才か」で引用した『カナルス夫人の肖像』(バルセロナのピカソ美術館)でした。この絵においてピカソは肖像そのものを極めてリアルに描いています。しかしモデルがまとっているショールは、筆跡を生かした非常に素早いタッチです。薄いショールに最適な描き方だったのでしょう。つまり「リアルに描く緻密な筆」と「躍動する素早い筆」が同居しています。

ピカソと円山応挙は何の関係もありませんが、2枚の絵だけを見ると "一脈通じるもの" を感じます。文化的・歴史的背景や描かれたモチーフや絵画技法は全く違うのですが、絵であることは変わりません。描き方に類似のコンセプトがあったとしてもおかしくはない。こういうところに想いを馳せるのも、絵画を鑑賞する楽しみの一つだと想います。

藤花図屏風・左隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻・部分

藤花図屏風・右隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻・部分


瀑布亀図


瀑布亀図.jpg
円山応挙 「瀑布亀図」
寛政六年(1794)61歳
(個人蔵)

円山応挙が亡くなる前年に描いた絵です。この作品も異質な表現の対比が目を引きます。2匹の亀は写実的に描かれています。よく見ると簡易化しているところもありますが、受ける印象は親子亀をリアルに描いたという感じです。

一方、滝は直線をいくつか描いただけで表現されています。亀が乗っている岩も、"たらし込み" というのでしょうか、墨が滲んだ感じで、ぼんやりと描かれているだけです。滝壺は描くことさえなく、わずかな水しぶきだけで暗示されている。これらの表現は非常に抽象的です。特に滝が真っ直ぐな線だけというのが極端な抽象化で、現実とはほど遠い。これは「"勢い" の視覚表現」なのでしょう。単純な形が持つイメージの喚起力を引き出そうとしたようです。

『藤花図屏風』のような大作ではないけれど、"写実的" と "抽象的" を同居させた対比の妙という点では似通っています。晩年の応挙が描画力を自在に駆使して描いた洒落た絵、と感じました。


スタイルを超越する


今回の『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会でよく理解できたのは、応挙にはさまざまな "画風" というか、描き方のスタイルがあることです。朝顔図の "琳派風" だけでなく、大和絵や南画を連想させる作品があり、絵巻物があり、また西洋っぽい遠近法を使った眼鏡めがね絵("覗き眼鏡" 用の絵)まであります。多数あった動植物の写生は素晴らしく、そういった写生が基本であることは間違いなのですが、全体を見渡すとスタイルはいろいろです。応挙は一つの画風に収斂しゅうれんする画家ではないのです。

葛飾北斎もそうですが、応挙はスタイルを超越した画家であり、その意味において江戸絵画の巨人、そういう感想を持ちました。




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No.198 - 侵略軍を撃退した日本史 [歴史]

No.37「富士山型の愛国心」の中で元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)についてふれたのですが、今回はその継続というか、補足です。

最近の新聞に、元寇について近年唱えられた説の紹介がありました。日本の勝因は「神風」ではなかったという説です。それを紹介したいと思います。


日本の勝因は「神風」ではなかった


くまもと文学・歴史館の館長・服部英雄氏(日本中世史)は著書の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)で「神風=暴風雨」説を否定し、学界の内外にセンセーションを巻き起こしました。


(神風が勝因という)見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。

元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。

では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。

続く弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。

編集委員・宮代栄一
朝日新聞(2017.1.8)

服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈祷きとうをした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」

しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲わいきょくされ、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになる。

(同上)

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朝日新聞(2017年1月8日)
(www.asahi.com より)

ちなみに「モンゴル軍」と書いてあるところは「モンゴル・高麗連合軍」の方がより正確でしょう。記事の内容をまとめると次の通りになります。

文永の役で嵐があったという史料はない。嵐があったとしてもモンゴルの軍船に被害が出たという史料はない。

弘安の役では嵐があったが、嵐によるモンゴルの被害は一部にとどまる。

鎌倉武士は勝因を神風とは考えていなかった。武士は自らの戦績を誇った。

「神風」の主張したのは敵国調伏の祈祷をした神社・仏閣である。

明治期と第2次世界大戦中の2度にわたり「神風」が勝因だと叫ばれた。

① ② は歴史資料から見えてきた事実であり、③ の「鎌倉武士は戦果を誇った」というのは当然です。また ④ の「敵国調伏の祈祷の成果だと誇った」のも、神社・仏閣の立場としては当然でしょう。

しかし異常なのは明治から昭和にかけての「神風勝因説」( ⑤ )です。これは国家とマスコミが宣伝したわけですが、侵略軍を撃退した自国の歴史を否定し、暴風雨によって敵が去ったと主張することは、長い歴史を有し独立性を維持してきた国家としては異常だと思います。


無敵艦隊を撃退したアルマダの海戦


視野を広げて考えてみるために、外国の例をあげてみたいと思います。「侵略軍の撃退と暴風雨」というテーマでひとつ思いつくのは、16世紀に英国とスペインが戦った「アルマダの海戦(アルマダ戦争)」です。

1588年、スペインのフェリペ2世は無敵艦隊(アルマダ)をイギリスに向かわせました。時の英国国王はエリザベス1世です。フェリペ2世が無敵艦隊を出撃させた経緯は少々複雑なので省略します。とにかく、フェリペ2世はイギリスを "やっつける" ために無敵艦隊(約130隻)を差し向け、イギリス上陸をめざした(艦隊に軍馬を積んでいます)。対するエリザベス1世も海上で迎え撃つために艦隊を繰り出します。イギリス艦隊の副指令官は、元海賊だったフランシス・ドレークで、これは有名な話です。

決戦は英仏海峡付近の数回の海戦(=アルマダの海戦)でした。近年の歴史家の研究では、戦いはほぼ互角です。もちろんスペインは苦戦したし、イギリス側が有利に終わったとする見解もあります。しかし決定的な差がついたわけではない。スペインの誤算は、短期決戦で決定的に勝利できなかったことです。スペインにとっては完全に "アウェイ" の戦いなので、戦争が長引けば補給などの関係で不利になります。スペインはいったん自国に引き上げることにしました。

Invincible_Armada.jpg
無敵艦隊とイギリス艦隊
16世紀の作者不詳の絵(Wikipediaより)

無敵艦隊は、英仏海峡からスコットランドの北をグルッと迂回して北海から大西洋に出るルートでスペインに帰ろうとしました。ところがアイルランド沖で暴風雨に遭遇し、多くの船を失ってしまいます。スペインに帰港できたのは約半数と言います。



この戦争を、その後のイギリスではどのように自国民に宣伝したのでしょうか。当然、

  イギリスの軍人と兵士は勇敢に戦い、世界最強と言われたスペインの無敵艦隊を撃破した。その上、神の加護(嵐)もイギリス側にあった。

です。神の加護を言うにしても、まず最初に自国を侵略から守ったイギリス国民の勇気と働きを称え、その次に(補足として)神の加護です。神の加護に全くふれない(無視する)のもいいでしょう。それが普通の、正常な国家のあり方です。事実、エリザベス1世はイギリスの勝利を大々的に宣伝したし、その後のイギリスの歴史でも「無敵艦隊の撃破」が語り継がれました。

Elizabeth_I_(Armada_Portrait).jpg
エリザベス1世の肖像画。いわゆる「アルマダの肖像」で、背後にわざわざ無敵艦隊が描かれている。無敵艦隊を破ったあとの1588年の絵で、右手を地球儀の上に置いているという念の入れようである。Wikipediaより。


侵略軍を撃退した事実を否定する史観


蒙古襲来絵詞.jpg
蒙古襲来絵詞 [部分](宮内庁・三の丸尚蔵館)。肥後の御家人・竹崎季長(すえなが)が、自分の戦いぶりを描かせたものと言われる。図は、モンゴル・高麗連合軍の船に乗り込む季長たち(至文堂 日本の美術 第414号 2000 より引用)

日本史に話を戻します。文永・弘安の役ですが、史料によると「暴風雨はなかったか、あったとしてもモンゴル軍の被害は軽微」だったようです。もちろん、史料に残っていない(ないしはまだ確認されていない史料に記載されている)暴風雨があったのかも知れません。モンゴル軍の被害も、史料にないだけで大きかったのかも知れない。しかし百歩譲って、たとえ暴風雨が主たる勝因だったとしても、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した。さらに神風の追い打ちもあって、モンゴル軍は退散した

と説明するのが正常な国家というものでしょう。もちろん暴風雨には一切ふれずに、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した

とするのもいいと思います。文永・弘安の役は、日本史において一方的に迫ってきた外国侵略軍を撃退した貴重な歴史です。勝因を「神風」だと言うことは、勇敢に戦った武士たちを愚弄するものだし、死んでいった武士たちや虐殺された対馬の住民の魂に唾をかけるようなものです。武士だけでなく、日本人そのものをおとしめています。さらに、勝因は神風などと言っている限り、"自らの手で国を守る気概" など生まれようがないと思います。

自虐史観というのはイヤな言葉で、あまり使いたくはないのですが、自虐史観と呼ぶに値する唯一のものは「文永・弘安の役の勝因は暴風雨」説だと思います。




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No.197 - 囲碁とAI:趙治勲 名誉名人の意見 [技術]

2016年3月、韓国のイ・セドル九段とディープマインド社の「アルファ碁」の5番勝負がソウル市内で行われ、アルファ碁の4勝1敗となりました。イ・セドル九段は世界のトップクラスの棋士です。コンピュータはその棋士に "勝った" ことになります。この5番勝負とアルファ碁については次の三つの記事に書きました。

No.174 ディープマインド
No.180 アルファ碁の着手決定ロジック(1)
No.181 アルファ碁の着手決定ロジック(2)

その8ヶ月後の2016年11月に、今度は日本最強の囲碁プログラム、DeepZenGoと趙治勲ちょうちくん名誉名人の3番勝負(第2回 囲碁電王戦)が開催され、趙名誉名人の2勝1敗となりました(11/19, 11/20, 11/23の3戦)。"人間側" の勝利に終わったわけですが、日本の囲碁プログラムが互先たがいせんでプロ棋士に勝ったのは初めてです。第1回 囲碁電王戦(2014)ではプロ2人とアマ名人相手に1勝もできなかったことを考えると、格段の進歩だと言えます。

以上の、アルファ碁 対 イ・セドル九段、DeepZenGo 対 趙名誉名人の棋戦を、趙名誉名人本人が振り返ったコラム記事が新聞に掲載されました。実際に囲碁プログラムと互先で戦ったトップ棋士の意見として貴重なものです。また大変に興味深い内容だったので、以下にそれを紹介したいと思います。

なお、DeepZenGo の前身は日本の有名な囲碁プログラム、"Zen" です(市販されている)。それに深層学習を取り入れた強化版が DeepZenGo です。以下、Zen と DeepZenGo を区別せずに "Zen" と書きます。趙名誉名人の記事もそうなっています。Zen の開発者は尾島陽児氏と加藤英樹氏(開発チーム代表)で、強化版の開発にあたっては深層学習の権威である松尾豊・東大准教授の研究室が協力しました。


イ・セドル九段 対 アルファ碁


まず趙さんはアルファ碁とイ・セドル九段の対局にふれ、その数ヶ月前に欧州チャンピオンに勝ったときと比べて、アルファ碁が急速に強くなったことを説明します。


欧州王者を下した時のアルファ碁を見るかぎり、アルファ碁は弱かった。勝負もどっこいどっこいで、どちらが勝つこともありえた。

欧州王者はセドルには到底及ばない。周囲にはセドルが100%間違いなく勝つと断言していた。ただ、欧州王者からセドルとの対局までの2ヶ月間で、ものすごく強くなっていた。人間だと200年か2000年かかる成長だ。天才でも最低20年はかかる。

趙治勲名誉名人「囲碁とAI」
(日刊工業新聞 2016.12.15, 16, 20, 21)

ここで趙さんが強調しているのは「アルファ碁は短期間で急激に強くなった」ということです。20年・200年・2000年という数字が出てきますが、これは趙さん独特の表現でしょう。なおアルファ碁と欧州王者との対戦は2015年10月、イ・セドル九段との対戦は2016年3月なので、その間は4~5ヶ月あります。趙さんが「2ヶ月間で」と書いているのは勘違いだと思います。

そのイ・セドル九段とアルファ碁の対局(5回戦)ですが、第1局、第2局と、イ・セドル九段はアルファ碁に連敗を喫してしまいます。この戦いを趙さんは次のように解説しています。


1局目は途中までセドルが勝っていた。アルファ碁の手は完璧ではなかった。ただ一発、いい手が入りセドルの動揺を誘った。正しく対応すれば大丈夫だったはずが、逆転されそのまま負けてしまった。相手が人間なら逆転したことで、自身も浮足立つ。ただAIは動揺せず押し切られた形だ

この負けがセドルをおかしくした。2局目はアルファ碁が良い碁を打った。人間なら疲れを持ち越してしまうがAIに疲労はない。セドルが完敗した。

(同上、以下同じ)

第1局と第2局の敗戦をふまえ、イ・セドル九段は第3局で対局の方針を変えたと趙さんは言います。


セドルはアルファ碁のとの対局で先に2敗し、後がなくなって仲間と人工知能(AI)を分析したそうだ。序盤に優勢に持ち込む必要があると結論が出て、戦略を持って3局目に臨んだ。

ただ、普段のセドルは相手の弱点を突く碁は打たない。自身の強さに絶対の自信を持っていて、ただ最善手を打って勝ってきた。セドルが相手の弱点を探すこと自体、動揺の表れだろう。3局目に敗れて負け越しが決まった。


3連敗したあとの第4局で、イ・セドル九段は妙手を放って勝ちます。


そこで最善を尽くす本来の姿に戻った。4局目も苦しい碁だったが、セドルは妙手を打った。これでコンピュータが狂い、素人同然のめちゃくちゃな手を打ち出した。


続く第5局はアルファ碁の勝ちに終わり、結局4勝1敗でアルファ碁が勝利しました。この棋戦全体を、趙さんは次のように振り返っています。


結果、4勝1敗でアルファ碁が勝ったが、1局目も2、3局目も弱点はたくさんあった。

セドルはアルファ碁を甘く見ていたため、動揺して弱点が見えなくなってしまったのだろう。驚き、AIの強い部分だけを見ると弱い部分が見えなくなってしまう。

セドルが平常心で打てば力量はアルファ碁に勝っていた。AIは完璧ではないし、最後の詰めが甘い。私も勝つ自信がある。ただ3ヶ月で欠点を克服したと聞く。どこまで強くなっているのか試したい



イ・セドル九段の敗戦の理由


趙治勲名誉名人といえば、歴代最多のタイトル獲得(74回)を誇り、第25世本因坊でもあるトップ棋士です。その趙さんが考えるイ・セドル九段の敗戦の理由は、

  アルファ碁を甘く見ていために、動揺し、平常心を失った

という極めて人間的なものです。「セドルが平常心で打てば、力量はアルファ碁に勝っていた」と趙さんが書いているのは(対戦当時のアルファ碁では)その通りなのでしょう。

逆にアルファ碁は、平常心というか、"心" はないので常に "平常" だったと言うべきです。趙さんも書いているように、人間なら「逆転して有利になった」と思った瞬間、浮き足立って逆に悪い手を打ってしまうことがあるのですが、そういうこともない。動揺、焦り、浮き足立つ、疲れ、うっかり、 ・・・・・・ そういうものに一切関係がありません。

アルファ碁を甘くみていたとの趙さんの見解ですが、しかしこれはやむをえないとも言えます。「欧州王者を下した時のアルファ碁を見るかぎり、アルファ碁は弱かった(趙さん)」のだから・・・・・・。No.181「アルファ碁の着手決定ロジック(2)」に書いたように、アルファ碁を開発したディープマインド社が英雑誌「Nature」に投稿した論文によると、欧州王者を下した時のアルファ碁の棋力はプロ五段相当です。イ・セドル九段に比べると断然弱い。従って趙さん自身も「周囲にはセドルが100%間違いなく勝つと断言していた」わけです。イ・セドル九段も、またイ・セドル九段の周囲も、おそらくそう思っていたでしょう。

しかしアルファ碁は急速に強くなった。その詳細は明らかではありませんが、自己対戦を繰り返して強化学習をさらにやったのかも知れないし、ハードウェアを増強してより深く読めるようになったのかも知れない。そのどうであれ、ここでわかることは「急速に強くなることがある。それがAI」ということです。人間の天才が20年かかる進歩(趙さんの表現)を数ヶ月で成し遂げることもあり得る。

趙さんによるとアルファ碁には弱点もあって、それは「最後の詰めが甘い」ことです。趙さんは「イ・セドル九段と対戦した時のアルファ碁には勝つ自信がある、その後に欠点を克服したと聞くが、どこまで強くなっているのか試したい」と書いています。



「どこまで強くなっているのか試したい」とあるように、趙さんはアルファ碁と対戦してみたいと公言していました。その対局は実現していませんが、日本製の囲碁AI、Zen との対戦が実現する運びになりました。


趙治勲名誉名人 対 Zen


イ・セドル九段とアルファ碁との対戦の8ヶ月後の2016年11月、日本最強の囲碁プログラム Zen と趙さんの対局が実現することになりました。冒頭に書いたように、深層学習で強化した Zen(正式名:DeepZenGo)です。なお、以下の引用の 《第1局》 《第2局》 《第3局》 は記事に付け加えたものです。

電王戦3局.jpg
電王戦第3局(2016.11.23)の趙治勲名誉名人(右)と開発チームの加藤英樹代表
(site: newswitch.jp)

日本製の囲碁AI「Zen」は以前から実力を知っていた。6ヶ月前に3子を置いて棋士に勝ったが、3子は片手片足で相撲をとるようなもの。勝負ではなくレッスンだ。その碁を解説したが負ける気はしなかった(引用注:Zen が小林光一名誉棋聖に3子を置いて4目半勝ちした碁を指す)。

《第1局》
Zenもアルファ碁同様、石の捨て方がうまい。序盤に布石のうまさが出た。布石は私より上手だろう。序盤は私が劣勢。中盤、形勢が良くなり、楽観しながら堅めに打ち、後半は良い勝負。Zen は形勢が悪くなると悪手が出る。悪手を見て勝ちを確信した。

《第2局》
反対に2局目は序盤で私がひどい手を打ってしまった。棋士としてはずかしい。

《第3局》
これで開き直り、(ゴルフの)OB覚悟で打ったら、Zen も気が緩んだのか、人間のようなミスをした。私は勝ちに行く手を選び、(Zenは:引用注)強引になってしまった。それで負けが決まった。

趙治勲名誉名人「囲碁とAI」
(日刊工業新聞 2016.12.15 - 12.21)

趙治勲名誉名人は Zen との対戦の経験をふまえて、AIの棋力について、次のように書いています。


AIの序盤の布石は素晴らしい。私は欲深い手を打って、相手をリードしようとしてしまう。AIは損得でなく、自然体だから強いのだと思う。真っ白なキャンバスに自由にデッサンしているようだ。創造性を身につけたように思える。

一方、終盤は未知数だ。まだまだ精進する必要がある。これは勉強すれば何とかなる。ただ創造性の部分は鍛えるには限度がある。最初の50手は創造の世界なのだ。AIが絵画や音楽などの芸術の分野でも活躍できるのではないかと思う。

(同上、以下同じ)


AIによって囲碁は発展する


趙治勲名誉名人はコラムのまとめとして、AIによって囲碁界は発展するだろという主旨の見解を述べています。


人工知能(AI)の台頭を恐れる考えもあるが、囲碁にとっては良いことだらけだ

トーナメントプロでは、日本でチャンピオンになっても世界にはまだ上がいる。ここにAIが入ってきただけだ。人間は世界チャンピオンになると、自分が最強だからとおごってしまう。AIは謙虚なままだ。チャンピオンは人間でもAIでもいい。棋士は、より強くなるために勉強し続ける。

レッスンプロはAIの手を借りられる。アマチュアが強くなり裾野が広がる。指導する一人ひとりに合わせた人間味のある教え方や、かゆいところに届く指導がちゃんと評価されるようになる。


このくだりで趙さんは、トーナメントプロ、レッスンプロ、アマチュアのそれぞれで、"AIの使い方" や "AIに対する向き合い方" があることを述べています。AI技術を使うと囲碁のアマチュアに対する完全個別指導がいつでも行える環境を作れる可能性があるわけです。これは囲碁人口を増やすことにつながります。

趙さんの "自信" の背景にあるのは、囲碁がとてつもなく奥深いものだという絶対の確信でしょう。この奥深さは、次のように表現されています。


碁は本当の面白さがわかるまで年月がかかる。例えばアルファ碁とイ・セドル九段の対局を理解できる人は世界に1000人もいない。私も中国や韓国のトップ棋士の対局は一度石を並べるだけではわからない。現在もトップ棋士はどんどん進化しているからだ。何度も石を並べ直して理解している。

普通の人も AI の助けを借りて強くなれば、トップの奥深さがわかり、その魅力に一生離れられなくなるだろう。それは6ヶ月前の Zen くらいだろうか。囲碁の競技人口は4000万人。10億人が打つようになればまったく新しい手も出てくる。AI も強くなり、棋士はもっと勉強して高みを目指す。



井山裕太 六冠の意見


趙治勲名誉名人に続いて、井山裕太 六冠(六冠は2017.1 現在)の意見も付け加えておきたいと思います。井山さんは囲碁プログラムと互先で戦った経験はありませんが、2017年3月に DeepZenGo と戦う予定があります。また言うまでもなく現代日本の最強の棋士であり、その方が AI をどういう風に見ているかは重要でしょう。


アルファ碁の棋譜をみると、部分的なヨミでは常に正しい正解を打っている感じてもなく、まだまだ人間の方が上かと思いましたが、人間的にいう大局感というのか、部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている局面が多かったように感じました。

井山裕太 六冠
朝日新聞(2017.1.3)

今の段階では、ぱっとは目がいかないけれど、打たれてみるとなるほどと感じる部分はある。AI が生み出す新たな撃ち方、考え方を吸収できる。それで囲碁の可能性が広がればいいと、ポジティブに受け止めています。

AI が人間を完全に凌駕りょうがしてしまったら、今までと同じようにファンのみなさんが棋士同士の戦いを楽しんでくださるのか、気になるところです。でも自動車が出現しても、陸上競技の魅力は色あせません。人間には感情がある、疲れがある、ミスが出る。それらを含めての魅力が、人間同士の戦いにはあります

囲碁はまだわからないことだらけですが、私も徐々にではあるけれども強くなっている、進歩しているという感覚があります。強い気持ちで新たなステージに臨もうと思います。

(同上)

ちなみにこの朝日新聞の記事の中で井山 六冠は、「アルファ碁は、うわさレベルではさらに強く、とてつもないレベルに達していると聞きます」と発言しています。まさにその通りのようで、2016年末から 2017年初頭にかけて "新アルファ碁" が 囲碁対局サイトの「東洋囲碁」と「野狐のぎつね囲碁」に登場し、トッププロと対戦して60連勝しました。井山 六冠もその中の一人だとされます。

これはもちろん早碁ですが、持ち時間が十分ある碁ではどうなのでしょうか。それでも「ものすごく強いだろう」という大方の推測です。日本棋院は所属の棋士に全60局の棋譜を配布するとありました。"新アルファ碁" は日本だけでなく中国、韓国の棋士によって徹底的に研究されるでしょう。"新アルファ碁" とトッププロとの本格対局も予定されているようなので、注視したいと思います。


AIの "大局感"


これ以降は趙治勲名誉名人と井山裕太 六冠の意見についての感想です。

趙治勲名誉名人と井山裕太 六冠の意見に共通することは、二人とも AI囲碁にポジティブなことです。それは、囲碁のプロフェッショナルとして、

強い相手と対戦してみたい
囲碁の神様がいるなら、それを感じてみたい
そのことによって自らも進歩したい

という意欲・意識だと思います。では AI のどこが強いのか。二人の意見を総合してその強さを一言でいうと「大局感」だと思います。

AIの序盤の布石は素晴らしい(趙)。
Zen もアルファ碁同様、石の捨て方がうまい(趙)。
部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている(井山)。

などをまとめると「大局感に優れている」ということだと思うのです。我々は普通、コンピュータの得意なところは細部の緻密な計算やヨミだと考えます。全体を見渡してマクロ的・直感的にものごとを把握するのは苦手だと考えるのが普通です。しかし囲碁の AI は逆です。全体を俯瞰する大局感の方が優れていて、細部に関しては「最後の詰めが甘い(趙)」とか「部分的には最善ではない(井山)」のです。



その理由を考えてみると、次のようだと想像できます。DeepZenGo も基本的にアルファ碁のロジックにのっとっているそうなので(日経ITpro 2016.11.09 の記事による)No.180-181「アルファ碁の着手決定ロジック」に沿って考えてみます。

アルファ碁の基本ロジックは「モンテカルロ木検索 - Monte Carlo Tree Search : MCTS」です。MCTSでは局面の勝率を判定しながら、有力な候補手を次々と木探索するのですが、局面の勝率を推定するのに使われるのが「ロールアウト(=プレイアウト)」です。ロールアウトとは、とにかく一定のロジックに従って終局までプレーしてみて勝ち負けを判定し、それを多数繰り返えし、その勝率を局面の勝率とするというものです。

No.180-181で書いたように、アルファ碁は独自の rollout policy でロールアウトをします。しかしそれだけではありません。policy networkvalue network という2つの多層ニューラルネットワーク(Deep Neural Network。DNN)をもっています。その働きは次の通りです。

policy network
囲碁のルール上許されるすべての手について、次に打つ手としての有力度合いを数値(確率分布)で示すDNN。

value network
局面の勝率を推定するDNN。膨大な局面のサンプルをもとに policy network を使ってロールアウトした事前シミュレーションに基づいて作成される。

というものです。そしてアルファ碁の勝率判定は rollout policy を使ったロールアウトによる勝率判定と、value networkによる勝率判定ををミックスして行われています。

結局のところ「アルファ碁の勝率判定はロールアウトによる」と言えるでしょう。ロールアウトは「とにかく終局まで打ってみたらどうなるか」というシミュレーションです。これを候補手(合法手)について、手の有力度合いに従って繰り返し、勝率の高い手を選ぶ。

つまり、常に白紙の状態で、終局までを見据えて(=最後までヨセて)最適な手を選んでいるのがアルファ碁です。一切の "こだわり" がない。これが「自然体」とか「真っ白なキャンバスに自由にデッサンしているよう」という趙名誉名人の感想や、「部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている」という井山 六冠の発言につながり、それが大局感に優れていると見えるのだと思います。


AI は意味を説明できるか


趙名誉名人の新聞コラムの中に、AI によって囲碁の裾野が広がるという主旨の発言がありました。つまり「AI によって一人一人に合わせた教え方や、かゆいところに届く指導ができる。アマチュアが強くなり裾野が広がる」との主旨です。これは果たしてどこまで正しいのでしょうか。

もちろん、アマチュアを指導する囲碁の先生が、AI を参考にしながら指導するのは可能であり、大いに役立つと思います。しかし AI だけがアマチュアを指導する(=AI指導碁)というのは、どうなのでしょう。

"AIの先生" が打つべき候補手を数手示し、それぞれの勝率を示すのはいつでも可能です。しかし、たとえば候補手① の勝率は 60%、候補手② の勝率は 50%としたとき、①が 10%だけまさる理由を AI は説明できるのでしょうか。「②は相手の厚みに近寄り過ぎていて攻められる恐れがある、①のように控えるのが正しい」というようにです。また逆に「形勢が悪いので、思い切って相手の厚みに近寄ってでも模様を張る①が正解」という風にです。結論だけを言われても、人は納得はできないのです。

"捨て石" に関して言うと、趙名誉名人は、AI は捨て石がうまいと語っています。これは井山 六冠の「部分的に最善でなくても全体ではリードしている」という発言とも関係しているのでしょう。では、なぜその場面で石を捨てるのがいいのか、石を助けずに別の場所に打つのがより勝率をあげるのか、AI は説明できるでしょうか。「捨てたと見える石も完全に死んだわけではなく、あとあとの進行でこういう風に有効に生かせるから」というような、"捨てる理由" を説明できるかという問題です。

もちろん中には説明できるケースもあるでしょう。No.180-181「アルファ碁の着手決定ロジック」でもわかるように、シチョウに取られないようにするとか、ナカデで死なないようにするとか、ダメヅマリを回避するとか、そういった理由は説明できそうです。しかしこれらはアマチュアの囲碁初級者でも分かる理由です。かつ、局所的・部分的な打ち手に関する理由です。AI が得意なのは局所的・部分的ではなく、大局的な最善手を打つことでした(趙、井山両氏による)。その大局的な最善手について、そう打つ理由を AI は説明できるでしょうか。

このあたり、現代のAIの本質的な問題点がありそうです。「なぜだか分からないし、理由はさだかではないが、結構正しい」のが AI の出す回答だということがよくある。囲碁のプロなら AIが打つ手の意味を即座に解説できたとしても、AI 自身は分かっていない。逆に言うと、意味を無視して膨大なデータを統計的に処理するからこそ、AIの有効性や可能性があると言えるのでしょう。

もちろん囲碁に限っていうと、AI のヨミ筋はコンピュータに蓄えられているので、そのヨミ筋の解析から打ち手の理由や意味を解説できるようになるかもしれません。ただしこれは機械学習では無理でしょう。「ある局面における次の一手とその意味」を蓄積したビッグデータが存在しないからです。「ある局面と次の一手」というデータは膨大にあるけれども・・・・・・。従って人間が教え込む必要があるのですが、かなりの難作業ではないでしょうか。

アルファ碁が打った手の意味を真に解説できるのは、開発会社のディープマインド社の社員ではなく、アルファ碁の棋譜を詳しく研究したプロ棋士だと確信します。



ここで思い出すのは、前回の No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」で引用した、国立情報学研究所の新井教授("ロボットは東大に入れるか" プロジェクトのリーダ)の発言です。新井教授は中高生向けに講演するとき次のように話すそうです。


(AI は)数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からず AI に奪われる。私は次のように講演を締めくくる。

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください。それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AI によって不幸にならない唯一の道だから」

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016.11.25)

人間は普通、暗黙であれ意識的であれ、意味・意図・理由を持って(込めて)行動します。だからこそ、良い結果の経験を蓄積したり、逆に悪い結果から反省をして進歩するわけです。無意味に(意味も分からずに)行動していたのでは進歩がありません。

囲碁とAIというテーマで見えてくるもの、それはやはり「機械学習によるAI」の驚くべき可能性と、その裏にある課題、ないしは限界だと思いました。




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No.196 - 東ロボにみるAIの可能性と限界 [技術]

No.175「半沢直樹は機械化できる」で、国立情報学研究所の新井紀子教授をリーダとする「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト(略称 "東ロボくん")の話を書きました。東ロボくんの内容ではなく、プロジェクトのネーミングの話です。つまり、

プロジェクトの存在感を出すために、是非とも "東大" にしたかったのだろう(本来なら "ロボットは大学に入れるか" でいいはず)。

新井教授は「ロボットは東大に入れない」と思っているのではないか。その証拠にプロジェクト名称が疑問形になっている。

の2点です。

「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトは2011年に開始され、2013年からは模擬試験を受験しています。2016年11月14日、今年の成果発表会が開催されました。以下はその内容です。

ロボットは東大に入れるか.jpg
国立情報学研究所ニュース(NII Today)No.60(2013.6)。特集「ロボットは東大に入れるか」の表紙


東大は無理、MARCH・関関同立は合格可能


まず、新井教授が朝日新聞デジタルに寄稿した文章から引用します。


今年も「東ロボくん」の受験シーズンが終わった。今年ついに、関東ならMARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)、関西なら関関同立(関西、関西かんせい学院、同志社、立命館)と呼ばれる難関私大に合格可能性80%以上と判定された。だが、東京大学には及ばなかった。現状の技術の延長線上では、AIが東京大学に合格する日は永遠に来ないだろう

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016年11月25日)

この合格可能性判定は、ベネッセコーポレーションの「進研模試」(大学入試センター試験模試)で行われました。東ロボくんの5教科8科目の成績は525点であり(950点満点。全国平均:437.8)、偏差値は57.1でした。

やはり東大合格は無理、今のAI技術では、というのが新井教授の所感です。しかし「MARCH・関関同立」なら合格可能性80%以上というのは、それはそれですごいことではないでしょうか。ちなみに、全国の大学を対象とした東ロボくんの合格可能性は以下の通りでした。

  調査対象 合格可能性80%以上
大学 学部 学科 大学 学部 学科
国公立 172 576 2096 23 30 53
私立 584 1753 4309 512 1343 2993
756 2329 6405 535 1373 3046
(site : pc.watch.impress.co.jp より)

どの大学のどの学部が合格可能なのか、個別の発表はありませんでしたが、「MARCH・関関同立」については学部・学科の平均として、ないしは一部の学部・学科が80%ラインに入っているということでしょう。また国公立大学でも、23大学の30学部・53学科で合格可能性80%以上と判定されていることも注目すべきです。この結果で、プロジェクトの当初目標が達成されたと新井教授は言います。


11年にプロジェクトが始まり、私は目標を立てた。3年でどこかの大学に合格させる。4年目には箱根駅伝に出るような名のある大学に、5年目は国公立大学に。そして6年目に、MARCH・関関同立に合格させたいと思った。可能性は五分五分だろう。

(同上)

「東ロボくん」2016年成果報告会のポスター.jpg
「東ロボくん」2016年成果報告会のポスター

6年目に「MARCH・関関同立に合格」という目標は達成されたようです。これは "よくやった" とも言えるし、逆に言うと、アッと驚くようなブレイク・スルーは無かったとも言えます。ディープマインド社の "アルファ碁" は世界トップクラスの棋士を破ってAI研究者たちをアッと言わせたのですが(No.174「ディープマインド」No.180-182「アルファ碁の着手決定ロジック」)、そういうわけにはいかなかった。これはもちろん、碁と違って大学入試には多種の科目があり、科目ごとにAIの適用技術が違うからでしょう。大学入試は総合的な知力の勝負です。特に難関国立大学はそうです。

従って東ロボくんが東大や「MARCH・関関同立」に入れる・入れないということより、科目に得手・不得手があって、そこが明らかになったことにこそ、「東ロボくん」というプロジェクトの意義がありそうです。その、科目別成績は次のようです。


東ロボくんの科目別成績


大学入試センター模試の成績
ベネッセコーポレーション「進研模試」
(カッコ内は昨年の成績)
  得点 全国平均 偏差値
英語(筆記) 95(80) 92.9 50.5(48.4)
英語(リスニング) 14(16) 26.3 36.2(40.5)
国語(現代文+古文) 96(90) 96.8 49.7(45.1)
数学 I A 70(75) 54.4 57.8(64.0)
数学Ⅱ B 59(77) 46.5 55.5(65.8)
世界史 B 77(76) 44.8 66.3(66.5)
日本史 B 52(55) 47.3 52.9(54.8)
物理 62(42) 45.8 59.0(46.5)
合計(950点満点) 525(511) 437.8 57.1(57.8)
朝日新聞(2016.11.15)

昨年と比較すると、科目合計の偏差値で 0.7 ポイント下がっていますが、全体的には昨年同様の成績と言えるでしょう。上がった科目もあり、下がったものもあります。

得意科目をみると、世界史の66.3という偏差値が光っています。世界史は、教科書やインターネットなどから歴史記述や文献を大量に集め、それをもとに回答するという「従来からの得意分野」のようです。不得意科目は、英語、特にリスニングです。なぜ不得意かについては新井教授の解説があるので、それをあとで紹介します。

とにかく、東大に合格するためには最低でも100点満点で80点以上は必須ということなので、東ロボくんは "東大合格にはほど遠い" ということが分かります。



また東ロボくんは、東大の2次試験模試も受験しました。その成績が次です。

東大2次試験向け模試
代々木ゼミナール・論述式
  得点 全国平均 偏差値
世界史 16 14.5 51.8
数学(文系) 46 19.9 68.1
数学(理系) 80 30.8 76.2
朝日新聞(2016.11.15)

センター模試とは違って世界史が全国平均をわずかに上回る程度の成績です。これは「問題の趣旨を理解できなかったり、時代や地域を取り違えたりして取りこぼした」そうです(毎日新聞デジタル。2016.11.14による)。

一方、数学(理系)は偏差値76.2という立派な成績、というより凄い成績です。この数学の数字だけをみると、全国で最難関の東大理Ⅲに合格できそうです。東大理Ⅲに合格する人の数学の偏差値は70代後半から80越えのあたりだと言います。しかも東大理Ⅲの受験生で差が付くのは数学です。そこをAIは突破した

しかし、理Ⅲを含め東大は "一芸" で入れるような大学ではありません。そこが難しいところです。数学だけでは東大理Ⅲクラスだが、受験科目全体ではMARCH・関関同立レベルであるところが、AIという技術を象徴していると思います。



センター模試に成績にもどりますと、全体的に昨年と似た成績であり、1年間の "猛勉強" の成果は(試験結果で見る限りでは)あまりなかったと言えるでしょう。この結果を踏まえて新井教授は以下のように語っています。


昨年同様の成績だったことで、AIの可能性や限界が分かった。今後は得意分野を伸ばし、産業応用レベルに高めることを目指す。

新井紀子
朝日新聞(2016.11.15)

要は、東大は断念ということです。しかし新井教授の話にあるように、東ロボくんの目的は「AIの可能性と限界」を明らかにすることでした。AIの可能性というのは「AIの威力」と言ってもいいと思います。全く問題文の「意味」を把握していない東ロボくんが、MARCH・関関同立に合格できる。このAI技術の威力はすごいと思います。逆にいうと、問題文の意味を把握している(はずの)受験生がMARCH・関関同立に合格するのはどういう意義があるのだろう、と考えてしまうわけです。要するにMARCH・関関同立の受験問題を解くというレベルにとどまっている限り、人間の(その部分の)能力はAIに代替されるだろうということです。これはひとつの警鐘です。

それでは逆に、東ロボくんで見えた「AIの限界」とはどういうことでしょうか。ここが核心です。


AIの限界


東ロボくんで見えてきた「AIの限界」について、新井教授は日経産業新聞に大変分かりやすい解説を寄稿していました。それを紹介したいと思います。


めったにお目にかからない事例が全体のかなりの割合を占めている状態を棒グラフにすると、長い尾のように見える。

こうした現象は「ロングテール」と呼ばれ、物販ではよくある。米アマゾン・ドッド・コムでは、売り上げの過半を1年に数点しか売れないような商品が占める。実は大学入試の問題を人工知能(AI)に解かせようとしたときに直面するのもロングテール現象だ。

新井紀子
日経産業新聞(2016.12.8)
(コラム:Smart Times)

新井紀子教授.jpg
「東ロボくん」2016年成果報告会で、新井紀子教授(2016.11.14 一橋講堂)
(www.itmedia.co.jp)
まず新井教授が持ち出すキーワードは、ネットワーク社会でしばしば見られる現象を示す「ロングテール」という、ちょっと意外な用語です。

アマゾン・ドッド・コムは、もともと書籍の販売から始まりました。街の書店だと、1年に数冊しか売れない本を置くのはビジネスの効率を下げるので限界があります。しかし地価の安いところに巨大な物流倉庫を作り、本を在庫してネットで販売すれば、ほとんど売れない本でも利益が出る。アマゾンが創造したビジネスモデルです。結果として「あまり売れない多数の本 = ロングテール」に光が当たるわけで、本に関して言えばこれが本来の文化のありかたでしょう。ちなみに、iTunes Music Store ではすべての曲が一度はダウンロードされたという話を以前に聞いたことがありますが、同類の現象です。この "ロングテール" が入試問題とどういう関係があるのでしょうか。


大人に「大学入試にはどんな問題が出たか」と聞くと、たいていが「暗記と計算」と答える。科目を指定して、「英語ではどんな問題が出たか」と聞くと、「発音と文法問題」「和文英訳と英文和訳」と答えたりする。

だが、数学のセンター入試において単純な計算問題は全体の1割程度しかない。英語において発音と文法問題が占める割合も同じぐらいだ。

AIプロジェクト「ロボットは東大に入れるか」を2011年に始めた後、1年かけて過去20年のセンター入試と旧帝大の個別学力試験(2次試験)を分析した。その結果、「これは何の問題」と分類できるような問題群は、どんなに多く見積もっても全体の半数にとどまることがわかった。

(同上)

半数以上の問題は分類できない問題であると分析されています。分類できないとは、同一傾向の問題が他にないか、あったとしてもわずかなので、分類を始めるとキリがないということでしょう。つまり半数以上の入試問題はロングテールを構成しているわけです。


もうすこし具体的に説明しよう。あるリスニングの問題。母と息子の会話が流れる。父親のためにバースデーケーキを手作りしているらしい。息子がたずねる。「ブルーベリーはクリームの上に置いたほうがいいかな、それともクリームとクリームの間に置いたほうがいいかな」

東ロボは完全に音声認識できた。しかし、そこで問われたのは「この結果としてできあがったケーキはどれか。次の4枚のイラストから選びなさい」である。これはリスニングの問題ではない。リスニングをし、文書の意味とイラストの内容を理解し、そこから常識推論して判断する ── という複合問題なのである。

デコレーションケーキの問題は一度出たら、たぶん二度と出ない。翌年には、ダンスパーティーへの誘い方が、翌々年にはハンバーガー店での注文の仕方が問われた。

英語では、航空チケットや博物館の入場料金表のような、広い意味での表の読解も求められる。航空チケットの読み方をAIに覚えさせても、料金表には対応できない。そして航空チケットがテストに登場するのは一度だけだ

(同上)

この説明でロングテールの意味が明確になるとともに、東ロボくんがなぜリスニングが不得意か(他の教科と比べて)が理解できます。リスニングの問題というのは、実は「リスニングもある常識推論の問題」なのですね。だから、毎年新しい "ジャンル" の問題が作れる。高校3年生の常識の範囲に限っても、ほとんど無尽蔵に新しいジャンルの問題を出せるわけです。デコレーションケーキの作り方、ダンスパーティーへの誘い方、ハンバーガー店での注文の仕方の3つには何の関連性もないのだから・・・・・・。リスニングの問題というのは問題の本質を分析すると、リスニングというジャンルではくくれない、一つ一つがそれぞれ違う "ロングテールの典型" ということです。そして東ロボくんはロングテールに弱い


このように多様な「状況」が無尽蔵にあるのが人間の社会なのだ。状況が比較的限られる数学や、試験で問うことができる確実な事実に限りがある日本史や世界史とは異なり、英語や国語、物理といった科目では、いくらでも自然に状況を生み出すことができる。

こうした科目では、パターンで解ける問題は限りがあり、ビッグデータによる統計的手法に頼らざるをえない。では、どれだけのデータが必要になるか。

今年、東ロボの英語チームは次のような見解を示した。語順整序や文法の穴埋め問題のような「一文を正しくする」問題の正答率を9割程度に上げるために、AIが学習に要したのは約500億文であった。会話文を完成させるような複文問題で9割程度の正答率を達成するには、少なくとも500億の会話のパターンが必要だろう。

しかしそのようなデータは存在しないし、自動的に収集できる見込みもない。人手に頼って作成するにはざっと500兆円かかる計算になる。

(同上)

ちなみに、会話文(複文)の完成問題は、たとえば次のようなものです(これは今まで引用してきた日経産業新聞に新井教授が寄稿した記事ではありません)。


次の会話の(  )内に入る最も適当なものを①~④の中から選べ。

Parker : I hear your father is in hospital.
Brown : Yes, and he has to have an operation next week.
Parker : (   ) Let me know if I can do anything.
Brown : Thanks a lot.

① Exactly, yes.
② No problem.
③ That's a relief.
④ That's too bad.

問題提供:代々木ゼミナール
(www.itmedia.co.jp より)

これが単なる英文解釈でないことは明らかでしょう。それぞれの発話の意図を理解し、会話として自然な人間の感情の流れを答える問題です(正解は④)。



AIの限界の一つは「無尽蔵にある状況への対応」です。少なくとも現代のAI技術では、そこに限界がある。今のAI技術の主流を極く簡単に言うと「問題に関連するビッグデータを収集し、統計手法で答えを導く」というものだからです。

従って、たとえば世界史の論述問題は東ロボくんの得意分野になります(今回の東大模試では "取りこぼした" ようですが)。高校3年生がアクセスしうる世界史の情報には限度があり、かつ高校3年生に出題してよい世界史の知識レベルや事実の数にも限度があるからです。従って、例をあげると「732年、フランク王国の軍はトゥールとポアティエの間で侵攻してきたウマイヤ朝のイスラム軍を破りました。この戦いの結果がその後の西ヨーロッパに与えた影響を、政治と経済の観点から200字以内で述べなさい」というような論述問題は得意なはずです(全く仮想の問題です)。

しかし統計手法には限界があるというのが新井教授の主旨です。英語の単文の「穴埋め問題」や「語順を正しくする問題」を、ビッグデータをもとに90%以上の正解率で解くため、東ロボくんは500億の単文を収集したわけです。インターネットの発達があったからこそ出来たことでしょう。例文(単文)をネットから自動収集できる。しかし、この手法を会話文を完成させる問題には適用できません。適用するには500億の "複文の会話サンプル" が必要であり、その収集は現実的に不可能だからです。実現のためには全く違うアプローチのAI技術を開発する必要があるが、その技術開発のコストは、それがもたらす成果に全く見合わないと考えられます。新井教授の結論は次のとおりです。


これがAIと呼ばれるソフトウェアが抱えている根本的な課題である。このことを再認識するために、私は5年間、このプロジェクトを率いてきた。東ロボが示した可能性と限界が、日本の企業がAI投資を検討する上での客観的データとして活用されることを心から願っている。

新井紀子
日経産業新聞(2016.12.8)
(コラム:Smart Times)


東ロボくんの意義


新井教授の解説を読んで、AIのプロジェクトに大学入試の模試を選んだ理由がわかりました。試験問題は基本的に一度きりなのですね。全く同じ問題は出ない。もちろん科目によっては過去問に類似しているケースもあるでしょう。しかし問題作成者は、まず自分の知識に照らして過去にないはずの問題を複数個作成し、次に手分けして本当に過去に出題されていないのかを徹底的に検証すると思います。特定の受験生に有利にならないようにするためです。この検証でOKとなった問題だけが出題される。一度きりの問題が出るテストが、毎年決まった時期に行われ、成績の履歴がトレースできるのは大学入試の模試しかない。だから東ロボくんなのです。

ちょっと話を広げますと、我々は人生やビジネスにおいてさまざまな "問題" に答えを出し、意志決定する必要が出てきます。もちろん同じ(ないしは類似の)問題も多いのですが、中には1回きりという場合もあります。類似の問題であっても、シチュエーションが違うという意味で初めての問題もある。そして大事なことは、人生においてもビジネスおいても、重要な問題ほど1回きりの問題なのです。経験のない状況で答えを見つける必要がある。それが人生であり、社会です。



東ロボくんの模試で分かったことは、東ロボくんの目的である「AIの可能性と限界を明らかにする」ということの意義です。

AIについては "アバウトな" 言説が充満しています。2030年には人間の頭脳を越えるとか、人間を越えることは絶対に無理だとか、いろいろあります。しかしそれらはどれも実証的データにもとづく推定ではありません。No.175「半沢直樹は機械化できる」で紹介したオックスフォード大学の「雇用の未来」も、あくまでAI専門家の「AIに置き換えられる仕事、置き換えられない仕事」という "意見" の集約です。それらに反して東ロボくんは、数年をかけて、入試問題という範囲ではあるが、実際にAIのプログラムを開発し、その可能性と限界を明白な成績とともに検討してきたわけです。

その可能性と限界ですが、一般的にはAIの可能性(威力)について目にする事が多いと思います。このブログでも、

No.166  データの見えざる手(2)
No.173  インフルエンザの流行はGoogleが予測する
No.180  アルファ碁の着手決定ロジック(1)
No.181  アルファ碁の着手決定ロジック(2)

などがそうでした。従来ありえなかった推論をコンピュータがやってしまう。これらの特徴は、いずれもビックデータの解析をもとにした推論だということです。碁の世界チャンピオンに勝ったアルファ碁も、アマチュア高段者が打った16万局の囲碁データを出発点にしています。これらの例だけでなく、現代のAI研究の主流はビックデータの解析による推論です。

一方で我々はAIの限界の具体例を目にすることは少ないというか、ほとんど無いといってもいいでしょう。しかし東ロボくんは、数年かけて丹念に、AIの可能性とともに限界をも明らかにしてきました。

新井教授が日経産業新聞への寄稿で、英語の文章完成問題における単文と複文の大きな溝を述べていました。単文のビッグデータは何とか得られるが、複文では実質上無理である。論理上可能であってもコストの視点で無理という話でした。ビックデータが得られないか、実用上リーズナブルなコストで得られる見込みのない問題は、現代主流のAI技術では無力なのです。こういった実証的研究の大切さを示したこと、それが東ロボくんというプロジェクトの意義でしょう。


意味を理解すること


AIに使われているのは、コンピュータ・サイエンスを含む、広い意味での数学です。東ロボくんのプロジェクト・リーダである新井教授も数学者です。

数学を割り切って分類すると「論理」と「統計」の二つでしょう。「統計」と「統計以外のすべて」と言った方がいいかも知れません。ビックデータをもとにした推論は統計のジャンルであり、現代の主流の(華々しい成果を出している)AIは統計に偏っています。

一方、人間の行動はそれだけではありません。論理の部分も重要視します。問題の意味を理解し、原則はこうだからとか、そもそもの目的はこうだからとか、こういう理由だからこうするとか、意図を込めて意志決定したり、行動したりします。新井教授は中高校生向けの講演のとき、最後は次のように締めくくるそうです。


(AIは)数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。私は次のように講演を締めくくる。

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください。それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AIによって不幸にならない唯一の道だから」

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016年11月25日)

この最後の「みなさん」から始まる一行を確信をもって中高生に言える。これが『ロボットは東大に入れるか』の大きな成果だと思いました。


3つの余談


プロジェクトの目的とは無関係ですが、東ロボくんで分かったことは、「MARCH・関関同立」に入学する学力と東大に入る学力には大きな差があり、その差は連続的変化ではなく不連続な落差だということです。なぜなら、東ロボくんが東京大学に入学できる日は、現在のAI技術だと永遠に来ないのだから・・・・・・。AIと人間の学力を同じ土俵で比較はできない思いつつも、「80%の確率で合格」と「永遠に合格できない」との差は決定的だと思いました。そこで思ったのは、東大と「MARCH・関関同立」の間にある大学です。おそらく京大は「落差の東大側」でしょう。では、たとえば早稲田と慶応はどうか。落差のMARCH側なのか東大側なのか。もちろん学部によるでしょうが、ちょっと気になりました。

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デンソーが開発した、解答代筆ロボットアーム「東ロボ手くん」
(www.itmedia.co.jp)
2つ目の余談は、今回の成果発表会に、デンソーが開発した "解答代筆ロボット" である「東ロボ手くん」が登場したことです。ボールペンで筆記ができるロボットアームです。No.176 「将棋電王戦が暗示するロボット産業の未来」に書いたように、デンソーは将棋電王戦のために「電王手さん」という "代指しロボット" を開発しています。そしてこのロボットは「人間の手と指の微妙な動きを完全に模擬できるロボットを開発するという、デンソーの大きな企業目標の一つとして位置づけられているのかも」と書きました。今回の「東ロボ手くん」もその一環でしょう。ここまで来たら、次には囲碁電王戦のために "代打ちロボット" を是非開発してもらいたい。碁石は丸みがあるので難しそうですが、デンソーの技術力をもってすれば可能でしょう。日本の "3大AIチャレンジ"(東ロボくん、将棋電王戦、囲碁電王戦)のすべてに参戦してこそ、デンソーのロボット技術の優秀性が証明されるはずです。特に囲碁は欧米、中国、韓国に広まっているので、"代打ちロボット" が活躍できる場はグローバルです。デンソーはあとには引けないはずです。

3つ目の余談です。日経産業新聞への寄稿文で新井教授は「東ロボくん」を「東ロボ」と "呼び捨て" にしています。これはおそらく「自分の身内は呼び捨てにする」という、日本語の慣習に忠実に書いているのでしょう。これでちょっと思い出しました。私は新井教授の講演を一回だけ聞いたことがあるのですが、彼女は講演に熱が入ってくると「東ロボ」とも言わずに「うちの子」と、母親的雰囲気の言い方になってしまうのですね。「呼び捨て」なり「うちの子」なり、新井教授がプロジェクトに賭けた意気込みを感じました。




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No.195 - げんきな日本論(2)武士と開国 [歴史]


江戸時代の武士という特異な存在


げんきな日本論.jpg
橋爪大三郎・大澤真幸
「げんきな日本論」
(講談社現代新書 2016)
第16章「なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか」には、江戸時代における武士が論じられています。まずイエ制度にささえられた幕藩体制の話があり、その中での武士の存在が議論されています。以下のようです。

 幕藩体制 

徳川家康が作った「幕藩体制」において、日本は300程度の独立国ないしは自治州(藩)に別れ、各藩は徴税権、裁判権、戦闘力を持っていました。圧倒的な軍事力は幕府にはありません。直接国税もない。それでいて250年ものあいだ平和が続いたのは驚異的です。なぜ平和が維持できたのか。


大澤
「空気」ってあるじゃないですか。空気を読むとか。空気は、全員の総意だという想定になっていて、誰もがそれを前提に行動するわけですが、実は個人的には全員、空気と違っていることを思っているということがあります。しかも、そのことを、つまりほとんどの人が個人的には空気とは違った見解をもっているということを誰もが知っている。それでも空気は機能し、人びとの行動は空気に規定される。幕藩体制にこれに似たものを感じます。

この場合、空気に帰せられている判断は、徳川家(幕府)がずば抜けて強いということ。関ヶ原の戦いに勝った以上は、徳川家が圧倒的に強い、ということになっている。まあ、強いことは強いんですよ。しかし、その強さは、相対的なもので、絶対に勝てないかっていうとそうではなく、少なくともいくつかの藩を束ねて勝負すれば勝てるわけで、そんなことはどの大名もわかっているのです。しかし、そんなことがわかっていても、誰もが空気を読んで、他の大名がたちが皆「徳川家が強い」という想定で行動することを知っているので、あるいは少なくともそのような想定で行動すると予期するので、どうしても、徳川家に刃向かうことができない。だから、結局は完全な自己言及です。誰もが徳川家が強いという前提で行動するから徳川家は強い、と。

橋爪大三郎・大澤真幸
『げんきな日本論』
(講談社現代新書 2016)

もちろん幕府は "空気" を維持するために、さまざまな手を打ちました。大名がしくじると改易したり領地をとりあげたりします。参勤交代をやらせたり、大名の妻子を江戸に住まわせて人質にしました。空気を維持する上で、かなり成功したわけです。

しかし空気は "水を差す" とすぐにしぼみます。誰かが公然と空気に反して行動すると、皆が空気通りに行動するだろうという予期が壊れるので、しぼんでしまうのです。幕藩体制の場合、水を差したのは幕末にアメリカからやってきたぺリーでした。幕府はペリーに対して「圧倒的に強いもの」として振る舞えなかったので、空気が消えてしまった。その後「いくつかの藩を束ねて勝負すれば勝てる」ことが実証されました。

 イエ制度 

幕藩体制を下部構造としてささえたのが「イエ制度」です。イエは、次男・三男には行き場所がない「単独相続」です。また血統とは無関係に養子をとってもよい。女の子がいれば男の養子をとって跡を継がせる。誰もいなければ男と女を養子にとって結婚させ、跡を継がせる(=両養子)。両養子の制度は世界中で日本だけです。

イエ制度は最小の経済単位であるだけでなく、世間のすべての業務を分担するシステムとして機能しました。


橋爪
イエ制度は ──[中略]── 幕藩体制と緊密に結びついている。これは、日本のすべての業務を、それぞれのイエに分担させるという壮大なシステムです。武士が担当する行政も、農家が担当する農業も、商家が担当する商業も、すべてイエが分担し、イエが事業体となる。このためにまず、イエを、士農工商のカテゴリーに分離する。個人はイエに属し、イエはカテゴリー(身分)に属する。それが固定されて、移動できない。身分で世襲だから、本人の選択の余地がない。日本のすべての業務が安定的に運行するため、イエの存続が至上命令になります。

(同上)

その一方で、イエ制度は日本の近代を準備するものともなりました。イエが割り当てる職務を果たしさえすれば、あとは自由です。そうすると、イエ制度の力学から相対的に自由な人びとが精神的自由の担い手になります。次男・三男坊、上層の農民、上層の町人などです。その人たちが、文化や学問(儒学、国学、蘭学)の担い手となりました。

この単独相続(=長子相続)のイエ制度と、その上部構造の幕藩体制は、世界史にも例がない空前絶後のシステムです。

 武士の矛盾 

イエ制度に支えられた幕藩体制を支配していたのは武士階級ですが、この体制の中で大きな矛盾を抱えていました。

武士は生まれながらの戦闘者であり、小さいころから武芸の鍛錬をします。しかしそれを戦闘には使わないし、平和が続いているので使いようがありません。もし仮に戦争が起こったとしても、刀と槍では敵に勝てません。すでに鉄砲の時代であり、鉄砲を持つものが圧倒的な戦闘能力を持つことは、信長をはじめとする戦国大名が証明済みです。鉄砲どころか、世界史的には大砲の時代に入っていて、そのことは幕末に、70門以上もの大砲を搭載した4隻のペリー艦隊で実証されました。

武士が実際にやっていることはデスクワークです。番方(軍事系)と役方(行政官僚系)があって、番方が上ということになっているのですが、実際に藩で重要であり、藩を動かしていたのは役方です。つまり武士は「戦闘なき戦闘者集団」という矛盾を抱えていた。これを象徴するのが『葉隠』という書物です。


大澤
葉隠はがくれ』という本があるじゃないですか。佐賀鍋島藩の藩士・山本常朝が武士を心得を口述筆記したものです。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という一文が有名です。でもね、世は泰平で、武士たちが死ななきゃいけなくなるときなんてないんです、戦わないんだから。かっこいい言葉だけど、ドン・キホーテみたいに現実から遊離している。

これは、実はとても変な本です。この有名な一文とはまったく対照的に、大半の内容は、サラリーマンのちまちました処世術のようなことが書いてある。あまり好きでない上司に酒を勧められたときにはどうやって断るとか、他人の面前であくびをするのをどうやってこらえるかとか。こちらは、実は当時の武士の現状にとてもマッチした実用的なアドバイスなのです。

・・・・・・・・・・・・

いざとなったら死ぬんだ、と思いながら、上司の酒の勧めを回避する策を練ったり、つまらない話を聞きながらあくびをこらえたりする。すると、ちょっとは何か意味のあることをやっている気分になる。『葉隠』は、武士道なんていうものは、ほとんどもうないからこそ語られていることだと思います。

(同上)

江戸時代の武士がかかえる「矛盾」を最も端的に、かつ時代錯誤的に体現したのが幕末の新撰組です。すでに鉄砲はライフル銃の時代です。アメリカから最新鋭のライフル銃が輸入されていた。そういう時代に、幕府方は剣術の使い手を取り立てて京都で人殺しをさせた。


大澤
新撰組のメンバーは、最底辺の武士か、もしくは武士でさえないものたちなのに、いやそれゆえかもしれませんが、武士の原理に徹底的に執着した人たちです。考えてみると、江戸時代は、一応武士の時代の範囲ということになっていますが、武士は、すでに武士としては死んでいるんですよね。つまり、武士は、自分がすでに死んでいることに気づかないので、刀なんか差して、武士をやっていた。でも、もしかして俺は死んでいるんじゃないか、という不安も抱いていた。

これに対して、新撰組は、幕末になって「武士はまだ生きている」という抗議をしているわけです。だから、刀を単に腰に差しているだけではなく、実際に人を殺すのに使う。だから時代錯誤です。これに対して、武士はもうとっくに死んでいるという現実に合わせて行動した人たちが、勝者になっていった

(同上。この引用は18章)

江戸時代の武士は「戦闘なき戦闘者」であり「戦闘者でありながら現実にやっていることはデスクワーク」という矛盾をかかえていました。これでは武士は "アイデンティティ・クライシス" に陥ります。

幕府はこの矛盾を緩和するため、儒学、特に朱子学を奨励しました。儒学によって武士の倫理を保とうとしたのです。日本に儒学が入ってきたのは6世紀ですが、それ以降、儒学者はほとんどいません。江戸時代になって急に儒学者がいっぱい出てきたのはこういう事情によります。

しかしこの朱子学が尊皇思想の土壌になりました。それは朱子学が中国の天子の正統性を説明する学問でもあったからです。さらに、古事記が成立した時代を研究した国学は、武士が天下を支配する以前の日本を明らかにしました。朱子学と国学が尊皇思想を生み、それがと倒幕へとつながっていきました。



第16章には儒学、国学の社会的意味が詳しく語られているのですが、それは省略しました。この第16章(と18章)の感想ですが、江戸時代の武士は非常に特異な存在だという認識を新たにしました。18章では新撰組のことが論じられていて「新撰組は時代錯誤的に武士の原理に執着した人たち」だと大澤氏は述べていますが、ここで連想したのが「赤穂事件」です。忠臣蔵のもとになった、江戸城松の廊下の刀傷にんじょうから四十七士の切腹までを「赤穂事件」と呼ぶとすると、この事件は非常に不可解なものです。

まず発端が不可解です。江戸城で刃傷に及ぶなど絶対のご法度であって、そんなことをすれば本人は死罪、お家断絶になることは誰もが知っていたわけです。幕藩体制は "戦争禁止" であり、江戸城に昇殿する武士が帯刀を許されなかったことがその象徴でした。浅野長矩ながのり内匠頭たくみのかみ)は錯乱したか、コトの意味を全く理解できない精神状態に陥ったとしか考えられないわけです。しかし、そもそも一国の主がそのようになるのだろうかと思います。もしそうだとしたら完全に藩主失格です。

四十七士の討ち入りという "復讐" も不可解感が否めません。浅野内匠頭と吉良上野介が殿中で取っ組み合いの喧嘩でもしたのなら、喧嘩両成敗で、たとえば「両名、数ヶ月の蟄居」のような処罰を受けたのでしょうが、問題は内匠頭が江戸城で小刀を抜いたことなのです。幕府(将軍)はそれに怒って即日切腹を申し付けた。吉良上野介に何の咎めもなかったのは幕府の手落ちでしょうが、だからといって浅野内匠頭の切腹が無くなるわけではない。仮に吉良上野介に「数ヶ月の蟄居」のような処分があったとしても、四十七士は吉良邸に討ち入ったのではないでしょうか。何となく割り切れない感じがします。

しかし「武士という矛盾した存在」という視点でみると、少しは理解できるかもしれないと思いました。つまり、

浅野内匠頭は「侮辱されたのなら刀を抜くのが本来の武士」だということを、身をもって示した。

四十七士は、たとえ主君が藩主としてふさわしくなくとも、主君のために命を捨てるのが武士だということを示した。また、自らの命をかけて敵を殺すのが「本来の武士」だと、行動で示した。

というような理解です(考えにくい面もありますが)。とにかく新撰組も赤穂事件も、江戸時代の "武士の矛盾" が露呈したものという感じがしました。こういった矛盾が頂点にまで達し、爆発して一挙に解消に向かったのが明治維新なのでしょう。

・・・・・・・・・・・・

大澤氏は上に引用した文章の中で、『葉隠』は、武士道なんていうものは、ほとんどもうないからこそ語られていることだ、と言っています。これはちょっと違うと思いました。

  武士道は、平和だからこそ語られ、戦闘をする必要がないからこそ完成された概念

だと思います。「死ぬことと見つけたり」とは平和だからこそ言えることであって、隣国との戦争が続いている時にこんな悠長なことは言ってられません。戦争に勝つためには「生き延びて機会をうかがい、反撃に出て国を守る」ことが必須です。

主君のために命をかけるものよいが、愚鈍な主君だと国が滅びます。謀反を起こさないまでも、さっさと主君を取り替えるべきであり、そういう例が戦国時代にはありました。そもそも、自分が仕える主君を替える武将が数々いたわけです(典型は藤堂高虎)。戦国時代の合戦は、寝返りで勝敗が決まったものが多々あります。国や領地を守るためには当然でしょう。

鉄砲があれだけ急速に広まり、フランスの10倍の数を保有するに至ったのも(No.194「げんきな日本論(1)定住と鉄砲」参照)、戦国武将たちが、戦いに勝つためには何をすべきかを理解した "リアリスト" だったからでしょう。鉄砲は卑怯ひきょうだと言っているのでは戦争に勝てません。

江戸時代の武士は、刀のつばや武具のモチーフによくトンボを使いました。トンボは前に進むだけで後退しない(後退できない)からです。恐れずに前に進むことは重要ですが、後退を一切しないのでは、これも戦争に勝てません。全国の統一寸前までいった織田信長は、まずいと判断すれば兵を引き、じっと戦力を蓄えて機が熟するのを待つタイプでした。もちろん家康もそうです。

越前・朝倉家の家臣であった朝倉宗滴そうてきの『朝倉宗滴話記』の有名な一節に「武者は犬ともいへ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」というのがあります。全くその通りです。要するに、一般に理解されている「武士道」で戦争はできない。「武士道」は平和な時代の産物です。

従って、幕末のリアリストたち、たとえば高杉晋作は鉄砲が政権を生むと確信していて、町民と農民を組織し、鉄砲を持たせて戦ったわけです。官軍の方にリアリストがより多かったのが、倒幕が成功した要因でしょう。幕末の会津戦争において、官軍の板垣隊は会津若松への急襲を成功させますが、山道を道案内したのは会津藩の農民だったという話を読んだことがあります。会津藩では武士が戦って農民は見物していたのですね。幕府方が敗北した理由につながる象徴的なエピソードだと思います。

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明治維新で武士はなくなりましたが、その後も「武士道」は生き残り、その概念が "一人歩き" するようになったと考えられます。そもそも武士道という言葉が広く認知されるようになったのは、新渡戸稲造の『武士道』(明治33年。1900年)からといいます。そして「一人歩きした武士道」は桜の花と結びつけられるまでになった。パッと咲いてパッと散るというわけです。

小川和佑かずすけ著『日本の桜、歴史の桜』(NHKライブラリー 2000)によると、桜が武士と結びついたのは江戸時代中期以降とあります。まさに武士道は平和な時代の産物なのです。その桜が明治になって「軍国の花」となり、国民思潮に強烈な影響を及ぼしました。パッと散るというのは、戦争をするには最も不適切な価値観です。パッと散ったとすると、敵方は大歓迎でしょう。さらに、捕虜になるぐらいなら死ねと言わんばかりの教えがありましたが、このような考えで戦争はできません。旧日本軍の将校は日本刀を持っていたという話も暗示的です。「一人歩きした武士道」は極めてゆがんだものになり、国民に多大な惨禍をもたらした。

江戸時代の武士の矛盾は、あとあとまで尾を引いた・・・・・・。そう感じました。まだ尾を引いているのかもしれません。今も、日本人は忠臣蔵と新撰組が好きです。


日米和親条約:攘夷から開国への転換


第18章「なぜ攘夷のはずが開国になるのか」では、日本の開国、特に日米和親条約が論じられています。以下の引用は長くなりますが、重要な指摘がしてあると思いました。



日本が尊皇思想でまとまったのは、外国と戦争することを想定したからです。そして勤王派も幕府も、戦争をするためには何をすべきかが分かっていた。

アメリカの南北戦争が終結すると、余った中古のライフル銃を商人が売り込みに来ました。これを買ったのが中国と日本です。長州も薩摩も、そして幕府も買った。こんな最新式の銃の前では、武士の伝統的な戦闘能力は役にたたないことがますます明らかになりました。

攘夷とは戦争をすることであり、つまり日本の独立を保つということです。明治維新前後の歴史をみると「攘夷」のはずが「開国」へと180度変化したように見えますが、攘夷と開国は2つの対立するオプションではありません。独立を保つこと=主権を維持することが最重要事項です。その主権を保つことになったのが「日米和親条約」でした。


橋爪
大変幸運なことにアメリカが、日本と条約を結んでくれた。日本側では、朝廷に断りがなかったと、このあと問題にされたが、そんなことは実はどうでもよい。条約を結ぶことは、日本を、対等な主権国家として認めたということ。このことをよく理解しなければならない。

日米和親条約には、どこの港を開くとか、水や食料を提供するとか、書いてあるかもしれないが、そんな中身は、どうでもよい。アメリカにとってこの条約を結んだ意味は、

1. 日本は独立国である。
2. アメリカはそれを承認した。
3. ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、そのほかは勝手なまねはするな。

なんですね。要するに、日本を植民地にしたら承知しないぞ、とアメリカが国際社会に意思表示をしてくれた。日本にとって、これぐらい好都合なことはないのです。

条約で、日本の独立が保証された。それなら、戦争をするまでもない。攘夷は必要なくなってしまった。ゆえに、開国しても、なんの問題もない

これは日本の国益にとって大変なプラスで、外交的大勝利だった。日本がそれを意図していたかどうかは別として。

・・・・・・・・・・・・

なぜこんなにうまくいったか。それは、幕府(日本政府)のパフォーマンスがそれなりだったから。加えて、日本の社会秩序が整然としているとか、清潔で勤勉だとか、さまざまな物産や工芸品があるとか、自立できる基礎があり、植民地にしないとどうしようもないひどい状態の国ではないと思ってもらった、ということでしょう。

(同上)

条約を結ぶことによって、国際社会に独立国として認められるという意味では、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講話条約と似ています。


大澤
サンフランシスコ講話条約が結ばれて、日本は主権国家として、いちおう独立を認められた。でも同時に、無理やり日米安保条約を結ばされた ─── というのはちょっと言い過ぎですが、日本としては、「やむをえない」という気持ちをもちながらアメリカと安保条約を結んだ。中身的に見ると、「ちょっとこれはかなり不平等じゃないの」みたいなところはあるのだけど、それ以前に、独立の主権国家であることを認めた上でのことではある。

開国のときも、向こうは条約を結んだ以上 ── 条約の中身の上ではかなりこっちを見下してる感じはあるんだけでども ── 建前上は対等になった。いきなりぶん殴られるより全然いい、ということかもしれないですね。結論的に言えば、条約の内容は不平等かもしれないけれども、条約という形式は、両者の対等性を前提している。そして、内容よりも形式の方が重要だ、と。

橋爪
今でも意識していないと思うけど、これって世界的に見て、超例外だと思うよ。

大澤
けっこい運のいい展開になったということですねえ。でも、最初の国がアメリカじゃなかった場合に、どうなったのだろうか。

橋爪
それは日本の蘭学者らが十分に研究を重ねていて、まずアメリカがイギリスと戦争をして、独立国になったという情報は、わりに早くに知られている。地理の本がけっこう翻訳されているんだけれども、アメリカ独立前の地理書には、植民地として出ていた。そのあと翻訳された本では、アメリカが独立したと紹介してある。「合衆国」という言葉はまだないので、共和政治とか、結構工夫した訳語がしてある。それらを通じて、アメリカはもともと植民地だったけれど独立したという認識はあった。

アメリカと接触するようになってからは、ブリーフィング(情報提供)もいろいろあって、ロシアには注意しなきゃいけないとか、いろんなことを教えてもらった。アメリカに対する好意的な感覚は、だから、日本外交のはじめからあった。

大澤
なるほどね。

橋爪
アメリカが、ヨーロッパ列強と違って、海外に植民地を持たないというポリシーを持っていることは、公然の主張だったから、日本側にも知られていたという可能性がある。

(同上)



この章の感想ですが、引用した日米和親条約についての指摘は重要だと思いました。日米和親条約(を始めとする欧米との条約)は、その不平等面が強調され、明治政府はその解消のために多大な努力をしたと、学校の日本史で習いました。現代の視点からすると確かに不平等条約です。しかしその視点だけで過去を見てはいけないのですね。幕末に視点を移すと、交渉当事者の思いがどうであれ、たとえ不平等であっても主権国家としてアメリカと条約を結べたのが大きいわけです。欧米諸国に侵略されて領土をもぎ取られ、ボロボロになっていた東アジアの状況を考えれば・・・・・・。

橋爪さんは「世界的に見て、超例外」と言っています。確かにその通りなのでしょう。ラッキーだったという言い方があたるかもしれません。しかし幕府の方としても蘭学者からの情報でアメリカがどういう国かを知っていたはず、というのが橋爪さんの指摘です。アメリカは海外に植民地を持たない国(当時)だと・・・・・・。

ちょっと思い出したことがあります。ペリーが日本に開国を迫った大きな理由は、アメリカの捕鯨船の補給だったことはよく指摘されます。No.20「鯨と人間(1)欧州・アメリカ・白鯨」で書いたように、当時の日本近海にはアメリカの捕鯨船がウヨウヨいたわけです。日本沿岸まできて薪と水を要求したり、沿岸住民とトラブルになったこともあった。捕鯨船に物資を密輸する日本人さえいたようです。捕鯨船の補給はアメリカにとって重要な問題でした。「日本を開国させることができたら、それはアメリカの捕鯨産業の功績だ」という意味のことを『白鯨』の著者であるハーマン・メルヴィルは書いています(ペリー来航以前にそう書いている。No.20参照)。

地球儀を念頭に当時の日本を想像してみると、たとえば鹿島灘にはボストン近郊の捕鯨基地からやってきた捕鯨船がいた。航行ルートは南アメリカ大陸南端(ホーン岬)まわりか、アフリカ大陸南端(喜望峰)まわりです。なぜわざわざ地球を半周以上も航海してきたかというと、大西洋で鯨がとれなくなったからです。そして、アメリカ東海岸のヴァージニアを出航したペリーは、喜望峰をまわって浦賀にやってきた。

なぜ捕鯨船とペリーが日本に来たかというと、日本近海が鯨の格好の漁場であることに加え、日本がアメリカからみて一番近いアジアの国だからです。距離は数千キロ離れているが「一番近い」。そして、その地政学的ポジションは今も変わらないのです。鎖国をしていた日本が開国の条約を最初に結んだのがアメリカだったのは確かにラッキーでしたが、それは必然だったのかもしれないと思いました。


社会学という武器


『げんきな日本論』を通読しての印象ですが、この本は2人の社会学者の対論です。そこに感じるのは、社会の成り立ちや "ありよう" をミクロからマクロまで研究する「社会学という方法」の意義です。

社会学者は、社会の成り立ちという観点から日本史を論じてもいいし、前著の『ふしぎなキリスト教』のように "西欧社会を作ったキリスト教" を論じてもいい。さらに、戦争史、マスメディア、資本主義、日本語、文学、芸術などを議論してもいいわけです。社会の成り立ちという観点から考察することで、それぞれのジャンルを深堀りする専門家とはまた違った切り口が見いだせそうです。橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の次作に期待したいと思います。




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No.194 - げんきな日本論(1)定住と鉄砲 [歴史]

No.41No.42で2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対論を本にした『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2012)を紹介しました。この本はキリスト教の解説書ではなく、"西欧社会を作った" という観点からキリスト教を述べたものです。社会学の視点から宗教を語ったという点で、大変興味深いものでした(2012年の新書大賞受賞)。

げんきな日本論.jpg
橋爪大三郎・大澤真幸
「げんきな日本論」
(講談社現代新書 2016)
その橋爪氏と大澤氏が日本史を論じた本を最近出版されたので紹介したいと思います。『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)です。「二匹目のドジョウ」を狙ったのだと思いますが、社会学者が語る日本史という面で数々の指摘があって、大変におもしろい本でした。多数の話題が語られているので全体の要約はとてもできないのですが、何点かをピックアップして紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・

そもそも我々は「日本論 = 日本とは何か」に興味があるのですが、それは本質的には「自分とは何か」を知りたいのだと思います。日本語を使い、日本文化(外国文化の受容も含めて)の中で生活している以上、"自分" の多くの部分が "日本" によって規定されていると推測できるからです。

「日本とは何か」を知るためには「日本でないもの」や「諸外国のこと」、歴史であれば「世界史」を知らなければなりません。社会学とは簡単に言うと、社会はどうやって成り立っているか(成り立ってきたか)を研究する学問であり、それは日本を含む世界の社会について、歴史的な発展経緯を含めて研究対象としています。その意味で、歴史学者ではない「社会学者が語る日本とは何か」に期待が持てるのです。この本を読んでみて、その期待は裏切られませんでした。


げんきな日本論


『げんきな日本論』は3部、18章から成っていて、その内容は以下の通りです。

 第1部 はじまりの日本
 1. なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか
2. なぜ日本には、青銅器時代がないのか
3. なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか
4. なぜ日本には、天皇がいるのか
5. なぜ日本人は、仏教を受け入れたのか
6. なぜ日本は、律令制を受け入れたのか

 第2部 なかほどの日本
7. なぜ日本には、貴族なるものが存在するのか
8. なぜ日本には、源氏物語が存在するのか
9. なぜ日本では、院政なるものが生まれるのか
10. なぜ日本には、武士なるものが存在するのか
11. なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか
12. なぜ日本人は、一揆なるものを結ぶのか

 第3部 たけなわの日本
13. なぜ信長は、安土城を造ったのか
14. なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか
15. なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか
16. なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか
17. なぜ武士たちは、尊皇思想にとりこまれていくのか
18. なぜ攘夷のはずが、開国になるのか

章のタイトルからも明らかなように、縄文時代から幕末までの日本史が取り上げられています。この中から最初と最後、つまり第1章の縄文時代と、第15章以降の江戸時代の中か何点かのポイントを以下に紹介します。


森と定住と土器


第1章は「なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか」と題されています。日本の土器の起源は世界史的にみて極めて古いことはよく指摘されますが、これについての論考であり、以下のようです。



まず日本の自然環境条件ですが、現在、国土の森林被服率は60%を越えています。これは先進国ではめずらしい状況です。一つの理由は山地が多く、可住面積が国土の25%程度と少ないことです。フランスやイギリスの可住面積は70%~80%程度もあります。このあたりが日本を考える上での初期条件として重要です。


大澤
中東は、世界史では、「肥沃な三日月地帯」といわれるあたりで、農業もそこから始まったし、豊かな場所だった。いまは砂漠で、どこが肥沃なのかと思うんだけど、文明化・都市化の過程で、木をたくさん切り出し、森林がなくなったために、土地の保水力がなくなってしまった。そのために、不毛地帯になってしまった。

森林があっても、人間が住んでいると、まあ、1000年ぐらいの間になくなってしまうんです。森林が残るとすれば、ジャングルみたいに、そもそも人が住めない場所。だから、人間がおおぜい住んでいるけれど森林が残っているのは、日本だけだということは、驚くべき初期条件なのですね。その意味を、考えなきゃいけない。

橋爪大三郎・大澤真幸
『げんきな日本論』
(講談社現代新書 2016)

日本には照葉樹林があり、ドングリやクルミなどがとれます。根菜類ではヤマイモなどがある。青森県の三内丸山遺跡の周辺には栗林があって食用にしていたことが分かっています。

また日本の水系は細かく分かれていて、飲める水にこと欠きません。このような場所が数百、数千とあります。海岸線は長く、貝や魚がとれて、それはタンパク源になります。

このような自然環境条件を前提に、農業が始まる前から定住が始まったことが日本の大きな特徴です。定住しても狩猟採集でやっていける環境にあったわけです。世界史的には、農業が始まってから定住するのが普通です。

もちろん農業は狩猟採集より効率的であり、同一面積で養える人口は狩猟採集の10倍から100倍だとい言います。従って、いったん農業で人口が増えると農業が大前提となります。しかし日本ではそうなる以前から定住が始まった。そして、定住の結果として生まれたのが土器です。


大澤
縄文の人々は、土器を造った。この土器が異様に古いですよねえ、世界的にみて。

橋爪
ええ。

大澤
同じぐらい古いものも、よく探せばあるのかも知れませんが、少なくとも地球で指折り数えるほど古いことは確か。ほかのものがなんにもないわりに、土器だけ造ったというのは、異常じゃないか。わざわざ重い土器を持って移動するひとはいないですね。土器は、ほかの道具と違って、定住している人びどだけが使う道具ですね。

橋爪
定住の結果だと思います。

大澤
なるほど。

橋爪
土器みたいなものとして、カゴなどをつくってもいい。このほうが軽くて便利ですけど、耐久性がない。数年したら壊れちゃう。土器は丈夫だが、重い。定住して、持ち運ぶ必要がない時に限って、土器をつくるわけです。粘土を火に入れて、焼成したものをカゴみたいにつくれば便利だと、誰かが考えた。

土器は、定住していることの結果で、農業の結果ではないんです。農業は定住するから、必ず土器をもっているけども、土器をもっているから、農業をしている、ではない。

(同上)

なぜ定住したのか、一言でいうと、気候も含めて自然環境が「住みやすい」からなのです。



第1章の感想ですが、日本の歴史を語る上でまず自然環境から入るのは大正解だと思います。キーワードは森林ですね。森林を起点として、森林 → 水・食料 → 定住 → 土器と連鎖しています。

No.37「富士山型の愛国心」にも書きましたが、森林被服率が60%を越えて70%近い国は、先進国(たとえばG20)ではまずないわけです(最も多い高知県は84%もある)。この数字はスウェーデン、フィンランドなみです。しかしスウェーデン、フィンランドの人口密度は日本の1/20とか、そういう値であって、人口も全く違います。No.37では森林の多さと人口の多さに関する象徴的な例として「熊と人間が近接して生活している」をあげました。小学生が熊よけの鈴をつけて登校する例が全国のあちこちにある国は、まず他にないと思います。

森林の保水力が河川の源泉になっています。さらに森林から流れ出した栄養分は海にそそぎ、沿岸の漁業資源を増やします。森林が水や食料をもたらす元になっています。

山地が多くても、森林を伐採してしまったのではダメなのですね。文明が古くから発達したギリシャやトルコの海岸をエーゲ海から撮った観光写真を見ると、海岸の山地が写っていても木がありません。ギリシャ神話を読むと、鬱蒼とした森がないと成り立たない話がいろいろとあるのですが、現在は禿山だらけです。「人が住むと1000年ぐらいの間に森がなくなってしまう」と大澤氏が言うのは、まさにその通りだと思います。そうなると土地の保水力がなくなり、表土は流出して岩だらけになり、河川は埋まり、海に栄養分が届かなくなる。森林からの水分の蒸発がなくなって、気候も変わってしまいます。降水量が減って悪循環に陥る。

日本は海岸の景観を見ても違います。そこが山地だと木が密集しているのが普通であり、それが内陸までつながっています。日本はこのような環境条件にあり、それは縄文時代から続いているということに、まず着目すべきでしょう。まとめると、

日本の土器は、世界史で考えても最も古いもののひとつである。
それは定住の結果である。
農業なしに、狩猟採集だけでも定住できる自然環境条件が日本にあった。
その環境の源泉は森林である。

ということになります。日本史を考える上での出発点です。



以下、『げんきな日本論』の第2章以降は、

  鉄器と青銅器、古墳、天皇、仏教、律令制、貴族、漢字と仮名、院政、武士、幕府、一揆、信長と安土城、秀吉と朝鮮出兵

などのキーワードをもとに日本史が俯瞰されています。特に、漢字と仮名の問題をとりあげた章(第5章:なぜ日本人は仏教を受け入れたのか、第8章:なぜ日本には源氏物語が存在するのか)は、日本史を語る上で欠かせないものだと思いました。

以降は、江戸時代を中心にその前後を含めて何点か紹介します。


武家政権という希有な歴史


江戸時代とその前後を語るためには、武士について触れないわけにはいかないのですが、第11章「なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか」の冒頭に次のような指摘があります。


橋爪
日本では幕府、すなわち、武家政権なるものが成立します。これは、とても特異なことである。ヨーロッパには、武家政権にあたる現象がない。ましていわんや、中国では絶対ありえない。

まず、ふつうありえないことが起こったことに、驚かないといけないわけですね。

大澤
その通りですね。

(同上)

我々日本人は、小学校以来の教育、時代劇、大河ドラマなどから、日本にはかつて武士がいて、武士が政権を担当していたということに何の疑問も抱きません。鎌倉幕府の成立から大政奉還まで武家政権だった。そして我々は暗黙に、鎌倉幕府以降が今の日本に直結していると感じています。特に戦国時代以降、もっと絞ると安土桃山時代以降です。平安時代、ないしは奈良時代やそれ以前となると、あまりに今とは違いすぎて遠い昔に感じます。今の日本のいしずえになり、また日本独自の文化や精神面でのカルチャーは安土桃山時代以降に確立したと、我々は暗黙に感じていると思います。その時代はというと "武家政権の時代" なのです。

その武家政権は、世界史の視野でみると極めて特異なものというのが橋爪・大澤両氏の指摘です。これは我々が気づきにくい点です。

武家政権を担った武士は、生まれながらの戦闘員です。小さいときから刀や槍や弓や乗馬の練習をしてきたプロフェショナルであり、代々受け継がれた階級です。そういった武士の政権が世の中を支配するのが世界史的に特異だということは、そこに日本史や日本の独自性につながるさまざまな事柄が派生すると想像できます。この視点に関係したことを以下に何点か書きます。まず鉄砲の話です。


鉄砲が歴史を動かす


世界史をひもとくと武器の革新が歴史を動かし、社会を変革してきた例が数々あります。騎兵(乗馬)がそうだし、馬を使った戦車がそうです。もっと古くは鉄製の武器(剣、槍、矢尻、など)もそうだった。鉄砲(銃)も、そういった歴史を動かした武器です。

第15章「なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか」では「鉄砲史観」とでも言うべき "鉄砲と歴史の関係" が、ヨーロッパと日本を対比させて語られています。その概要は以下のようです。



 ヨーロッパでは 

火薬は中国で発明されましたが、火薬を応用した鉄砲はヨーロッパで実用化されました。鉄砲の製造は難しいのですが、いったん製造できたとなると誰でも引き金を引けば人を殺せる武器になります。甲冑を射抜いて敵を倒せるわけであり、重装備の歩兵も騎兵も無力になります。

さらに大型の「大砲」となると要塞を破壊できます。戦史の本では、ナポリにあった難攻不落の要塞は7年持ちこたえたが、大砲で攻撃したら7時間で打ち壊されたとあります。結果として、封建領主の騎兵と要塞は無意味になりました。

鉄砲は強い軍事力をもたらすともに、個人戦から集団戦へと戦い方を変えました。また、鉄砲をコントロールしていたのが都市の住民だったので、軍事力の中心は市民階級や傭兵になりました。これに目をつけたのが絶対君主です。傭兵を使って鉄砲を装備した常備軍を組織し、貴族をやっつけて強力な政府を作りあげました。傭兵はスイス人が多かったのですが、その理由はスイスが中立だからで、つまり戦いの相手に寝返ることがないからです。

鉄砲を撃つ兵士を「銃士」と言います。デュマの小説「三銃士」(時代設定は17世紀)の "銃士" がそうです。この小説でもわかるように、ヨーロッパでは銃が得意だということが威信の根拠になりました。

絶対君主の次の時代に起こったのが、鉄砲で武装した市民による革命です。以上のようにヨーロッパでは「鉄砲のない封建制」→「鉄砲のある傭兵制(絶対君主)」→「鉄砲のある市民革命」というように社会が変化した歴史があります。鉄砲によって社会変動が生じたわけであり、社会の変化と武器の変化は連動していました。

  ちなみに中国は先進文明でありながら、鉄砲をあまり使わなかった文明です。この結果、軍事技術にヨーロッパと差がついただけでなく、社会のタイプがヨーロッパとは異なるものになりました。

 日本では 

一方の日本はというと、鉄砲がヨーロッパからもたらされたことは衆知の事実です(1543年)。そしてすぐさま日本で製造されるようになり、鉄砲は急速に普及しました。それだけの製鉄や鍛冶かじ冶金やきんの技術が日本にあったわけです。しかし鉄砲の社会的意味はヨーロッパとはかなり違った。


橋爪
鉄砲がこんなにあっと言う間に普及して、全国を統一する決め手になったにもかかわらず、最後まで武士が、鉄砲をコントロールしている。それ以外の人々の手にまず渡らなかった。ここが日本の歴史を理解する、一番の急所ではないか

大澤
なるほど。おもしろいですね。ジャレット・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』で、江戸時代の直前、つまり1600年の段階でみたとき、日本は、世界でもっとも高性能な銃を世界のどの国より多く持っていた、と書いています。短期間にこれほど銃が普及したのに、日本で、ヨーロッパのような社会変動が生じなかったのは奇妙ですね。

(同上)

戦国時代、鉄砲の使い方がうまかったのが織田信長です。刀と槍で相手に襲いかかる戦法をとり(桶狭間など)、鉄砲では襲ってくる敵を向かえ打つというように(長篠など)、両方の特性をうまく使い分けた。そして何よりも、戦争は個人戦ではなく集団戦であることを徹底させました。

しかし信長は同時に、今まで武器を持っていなかったものが鉄砲を持つことによって政治的な力にならないよう、注意を払いました。いわゆる「兵農分離」もそれが念頭におかれています。信長だけでなく、鉄砲伝来から関ヶ原の戦いに至るまで、戦国武将は鉄砲を使いました。鉄砲隊を組織し、鉄砲の数もジャレット・ダイアモンドが言うように世界史的にみても非常に多かった。しかし鉄砲は、戦術として補助的に使われました。関ヶ原の戦いでも中心は騎兵や歩兵です。

そして日本の特徴は、武士が常に鉄砲をコントロールしたことです。ヨーロッパでは都市が発達し、都市に富が集中して、そこに鉄砲が蓄えられました。日本ではそういう都市の発達がなかったことが一つの原因だと考えられます。また、日本では伝統的に武士だけが戦闘員資格をもち、農民や商人は戦闘員にはなれませんでした。必然、武士が鉄砲を独占することになった。例外は紀州の雑賀さいか衆ぐらいです。

武士は生まれながらの戦闘員です。小さいときから刀や槍や乗馬の練習をしてきたプロフェッショナルです。刀や槍で戦う限り、付け焼き刃では武士に太刀打ちできません。従って武士と農民が戦えば必ず武士が勝ちました。例外は島原の乱ですが、天草四郎の軍には武士も加わっていました。

  ちなみに中国史では、しばしば皇帝の軍が農民軍に負けました。農民を雇って武器の訓練をさせたものが皇帝軍だからです。

しかし、急速に普及した鉄砲は誰でも使える武器です。しかも刀や槍より圧倒的に強い。これは武士の地位を危うくします。従って武士は刀狩りをやって兵(武士)と農(農民)を分離し、身分を固定化する方向にいった。もともと鉄砲は平民性(=誰でも使える)と反武士性(=武士の地位を危うくする)がありますが、それが抑止されたわけです。

その抑止が完成された江戸時代においては、銃が得意だということが戦闘者としての威信の根拠にはなりません。あくまで刀が武士の威信の最大の根拠です。刀は一騎討ち向きであり、個人の英雄性に結びつく武器です。武士は刀に異様にこだわることになりました。

鉄砲は威信の根拠にならないだけでなく、軽蔑されました。武士は子供の頃から10年、20年と鍛錬を重ねて刀が槍を使いこなせるようになったのに、鉄砲はすぐに使えます。しかも刀や槍より強い。鉄砲に対する軽蔑は武士の屈折した心理と言えるでしょう。

従って、鉄砲を持っているからといって政治的主体にはならなかった。鉄砲は威力があるが、鉄砲を持っている人間は威力がないということにしたわけです。日本では鉄砲の戦術的効果と社会的無効性の対比が際だっています

江戸時代を特徴づけるのは「戦争の禁止」と「幕藩制による現状凍結」ですが、以上の考察からすると、幕藩制は鉄砲が入ってきたことによる武士の防衛反応だと考えられます。鉄砲によってヨーロッパは身分の平等化が促進されましたが、日本では逆に武士が上位となる身分化が固定されたのです。



これ以降は、第15章「なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか」の感想というか、補足です。大澤氏はジャレット・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』で「1600年の段階でみたとき、日本は世界でもっとも高性能な銃を世界のどの国より多く持っていた」と書いていることに言及しています。このブログでも、No.33「日本史と奴隷狩り」で堺屋太一氏の文章を引用しました。再掲すると次の通りです。


1600年の関ヶ原の戦いを頂点とする戦争では、東西両軍合わせて約6万丁の鉄砲が動員されたというから、おそらく日本全体では10万丁に近い鉄砲があったと推定される。その当時、ヨーロッパ最大の陸軍を誇ったフランス王の軍隊には、鉄砲は1万丁しかなかったというから、全ヨーロッパを合わせても、日本一国に及ばなかったであろう。

堺屋太一『日本とは何か』
(講談社 1991)

しかしその鉄砲を、武士は(武士であるがゆえに)放棄してしまった。鉄砲を作る技術は急速に衰えていきました。そのあたりの経緯を『銃・病原菌・鉄』から引用すると次の通りです。


江戸時代の日本で、銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。日本人は、1543年に、中国の貨物船に乗っていた二人のポルトガル人探検家から火縄銃(原始的な銃)が伝えられて以来、この新しい武器の威力に感銘し、みずから銃の製造を始めている。そして、技術を大幅に向上させ、1600年には、世界でもっとも高性能な銃をどの国よりも多く持つまでになった。

ところが、日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。日本の武士には多数の階級があり、サムライにとって刀は自分たちの階級の象徴であるとともに芸術品であった(低い階級の人びとを服従させる手段でもあった)。サムライたちは、戦場で名乗りをあげ、一騎討ちを繰り広げることに誇りをもっていた。しかし、そうした伝統にのっとって戦う武士は、銃を撃つ足軽たちの格好の餌食になってしまった。

また、銃は、1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様、異国で発明されたということで、所持や使用が軽蔑されるようになった。そして幕府が、銃の製造をいくつかの都市に限定するようになり、製造に幕府の許可を要求するようになり、さらに、幕府のためだけに製造を許可するようになった。やがて幕府が銃の製造を減らす段になると、実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまったのである。

ジャレット・ダイアモンド
『銃・病原菌・鉄』
(草思社 2000)

ジャレット・ダイアモンドがここでなぜ江戸時代の銃の放棄を説明しているのかというと、世界史では一度獲得した重要技術が放棄されることがあり、その典型例としてあげているのです。ダイアモンドによると、ヨーロッパでも銃を嫌い、銃の使用を制限した人がいた。しかしヨーロッパでは国と国が始終戦争をしていたので、銃の制限や放棄は長くは続かなかった。一方、日本は孤立した島国だったので銃の放棄が現実化した。しかしそれは大砲を備えたペリー艦隊で終わりを告げた・・・・・・。そういう文脈です。

  ちなみに「一度獲得した重要技術の放棄」は中国でも起こりました。外洋船・外洋航海(鄭和ていわはアラビア半島やアフリカまで航海した!)、水力紡績機、機械式時計がそうだと、ジャレット・ダイアモンドは書いています。

武士が政権を担当し社会の支配層である状況(=世界史てみると特異な状況)の中に鉄砲が突如入ってきて、全国統一の決め手になった。決め手なったからこそ鉄砲は捨てられ非武装社会(=江戸時代)が出来上がった・・・・・・。こういう風に理解できます。



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No.193 - 鈴木其一:朝顔の小宇宙 [アート]

No.85「洛中洛外図と群鶴図」で尾形光琳の『群鶴図屏風』(フリーア美術館所蔵。米:ワシントンDC)を鑑賞した感想を書きました。本物ではなく、キヤノン株式会社が制作した実物大の複製です。複製といっても最新のデジタル印刷技術を駆使した極めて精巧なもので、大迫力の群鶴図を間近に見て(複製だから可能)感銘を受けました。

鈴木其一展.jpg
「鶴が群れている様子を描いた屏風」は、光琳だけでなく江戸期に数々の作例があります。その "真打ち" とでも言うべき画家の作品、光琳の流れをくむ江戸琳派の鈴木其一きいつの『群鶴図屏風』を鑑賞する機会が、つい最近ありました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展です。今回はこの展覧会から数点の作品をとりあげて感想を書きます。

展覧会には鈴木其一(1795-1858)の多数の作品が展示されていたので、その中から選ぶのは難しいのですが、まず光琳と同じ画題の『群鶴図屏風』、そして今回の "超目玉" と言うべき『朝顔図屏風』、さらにあまり知られていない(私も初めて知った)作品を取り上げたいと思います。


鈴木其一『群鶴図屏風』


群鶴図屏風・其一.jpg
鈴木其一群鶴図屏風
ファインバーグ・コレクション
(各隻、165cm×175cm)

群鶴図屏風・其一(左隻).jpg
鈴木其一「群鶴図屏風・左隻」

群鶴図屏風・其一(右隻).jpg
鈴木其一「群鶴図屏風・右隻」

この屏風を、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で紹介した尾形光琳の「群鶴図屏風」(下に画像を掲載)と比較すると以下のようです。

光琳の「群鶴図」は、かなり様式性が強いものです。水辺は抽象化されていて、川なのか池や沼なのかはちょっと分かりません。鶴の描き方もそうです。「デザインとして鶴を描いている」感じがあり、その形はスッキリしていて、あか抜けています。

そして、じっと見ていると、鶴は鶴であって鶴でないように見えてきます。鶴の一群は "何か" を象徴しているかのようです。二つの勢力が対峙している様子が描かれている、つまり「何か非常に存在感がある群れが対峙している、そのシチュエーションそのものを描いた」ような感じがします。



そして鈴木其一の「群鶴図」です。二曲一双ということもあって鶴の数は少ないのですが(光琳:19羽、其一:7羽)、水辺を抽象化して描いたのは光琳と同じです。その水辺の描き方はそっくりであり「光琳を踏まえている」と宣言しているかのようです。

しかし光琳と違うのは "鳥そのものを描いた" と感じさせることです。鶴の姿態の変化などを見ると、鶴の生態をさまざまな角度から描写している感じです。羽の具体的な様子が描き込まれているし、羽毛の表現もあります。

鈴木其一は別の「群鶴図屏風」(プライス・コレクション所蔵)を描いていて、それは光琳の「群鶴図屏風」の模写になっています。それにひきかえ、このファインバーグ・コレクションの屏風は、光琳からは離れた個性的な「群鶴図屏風」になっていると思いました。

群鶴図屏風・光琳.jpg
尾形光琳群鶴図屏風
フリーア美術館(ワシントンDC)
(各隻、166cm×371cm)

群鶴図屏風・光琳(左隻).jpg
尾形光琳「群鶴図屏風・左隻」

群鶴図屏風・光琳(右隻).jpg
尾形光琳「群鶴図屏風・右隻」



展覧会には其一のさまざまな作品があったのですが、その中でも其一の画業の集大成というべきが、次の『朝顔図屏風』です。


鈴木其一『朝顔図屏風』


メトロポリタン美術館が誇る日本美術コレクションでは、尾形光琳の『八橋図屏風』とともに、この『朝顔図屏風』が最高のクラスの作品でしょう。日本にあれば当然、国宝になるはずです。

私はメトロポリタン美術館に2度行ったことがあるのですが、いずれも『朝顔図屏風』は展示されていませんでした。季節感を配慮して夏によく展示されるということなのですが、8月中旬に行った時にも展示はなかった。作品保護のためでしょうが、こういった屏風はそれなりの展示スペースが必要なので、広大なメトロポリタン美術館といえども常設展示は困難なのかも知れません。その意味で、あこがれていた作品にやっと出会えた気分であり、今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は貴重な機会でした。

朝顔図屏風.jpg
鈴木其一朝顔図屏風
メトロポリタン美術館
(各隻、178cm×380cm)

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鈴木其一「朝顔図屏風・左隻」

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鈴木其一「朝顔図屏風・右隻」

『朝顔図屏風』の実物を見てまず思うのは、非常に大きな屏風だということです。各隻は 178cm×380cm の大きさです。比較してみると、尾形光琳の『燕子花かきつばた図屏風』(根津美術館)は 151cm×339cm (各隻)なので、それよりも一回り大きい。面積比にすると 1.3倍です。その大きさの中に多数の朝顔が、うねるように、ほとんど画面いっぱいに描かれています。

『朝顔図屏風』は光琳の『燕子花かきつばた図屏風』を連想させます。花だけをモチーフにしていることと、色使いがほぼ同じという点で大変よく似ているのです。其一は描くにあたって光琳を強く意識したことは間違いないでしょう。具体的に『燕子花図』と比較してみます。

光琳の『燕子花かきつばた図』の描き方は写実的です。一本一本の燕子花かきつばたもそうだし、群生している姿もリアルにみえる。咲いている姿そのままを描き、そこから背景を取り去ったと、まずそう感じます。構図はエレガントでシャレています。リズミカルな花の連続が気持ちよく、画面の端で群生を切り取る構図が上下左右へのさらなる広がりを感じさせます。

さらにじっと見ていると『群鶴図屏風』と同じで、燕子花かきつばたは何かの象徴のように思えます。金地に燕子花だけという極限までに単純な造形がそう思わせるのでしょう。たとえば、それぞれの燕子花は "人" の象徴であり、何らかの "行列" を描いたというような・・・・・・。何の行列かは、いろんなことが考えられるでしょう。



鈴木其一の『朝顔図屏風』も、朝顔の花と葉とツルはリアルに描かれています。その特徴は、一個一個の花の表情が全部違えてあり、それがリズムとなって屏風全体を覆っていることです。また、青色岩絵具を使った花の描き方には暖かみや柔らかさがあり、花弁には微妙な色の変化がつけてあります。

以前のNHK「日曜美術館」(2013年)で放映されたメトポリタン美術館の科学分析の結果を思い出しました。其一は『朝顔図屏風』の花弁の青を描く時に、岩絵具(群青)に混ぜるニカワの量を通常より減らしているそうです。その結果、絵の表面に岩絵具の粒子が露出し、それによって光が乱反射してビロードのような花のタッチになった・・・・・・。そういった内容でした。其一は独自の工夫をこの絵に盛り込んでいます。

そして『朝顔図屏風』が光琳の『燕子花図』と違うところ、其一のこの絵の独自性の最大のポイントは、

  『朝顔図屏風』は、全体としては現実を描いたものではないと、一見して分かるところ

です。まず、この屏風のように朝顔が生育するためには、背景として何か "格子状の竹垣のようなもの" を想定しなければなりません。しかしそういった格子は現実には見たことがありません。たとえ格子があったとしても、朝顔はこの様に渦巻くようには生育しません。あくまで下から上へと、重力に逆らって伸びるのが朝顔です。この絵は朝顔の生態を無視して描かれています。

鈴木其一は『朝顔図屏風』で何を表現したかったのでしょうか。考えられるのは、朝顔の "みずみずしさ" とともに、植物が持っている生命力です。六曲一双の小宇宙の中に蔓延する植物を描き、その生命力をダイレクトに表現した・・・・・・。それはありうると思います。

さらに考えられるのは、光琳の『燕子花かきつばた図』と同じで、何かの象徴かもしれないということです。この六曲一双の屏風を少し遠ざかって眺めると、そういう思いにかられます。つまり、朝顔の集団によって別のものを表そうとしているのでは、という感じです。

左隻には "何らかの勢力" が渦巻いています。そして右隻にも "何らかの別の勢力" がある。その二つの勢力が拮抗している、そういった印象です。京都・建仁寺の天井画では二匹の龍が絡み合っていますが、そういった絵を連想します。あるいは、葛飾北斎が信州小布施の祭屋台に描いた二面の怒濤図(男波と女波)を思い出してもいいと思います。

しかし「左隻と右隻が向かい合って、二つの勢力が拮抗している、ないしは対峙している」ということで思い出すのは、俵屋宗達以来の琳派の伝統である『風神雷神図』です。全くの個人的な想像なのですが、この『朝顔図屏風』は『風神雷神図』のもつダイナミズムを、風神・雷神とは全くの対極にある "朝顔" という、小さくて、はかなげで、清楚で、しかし生命力の溢れた存在で表現しようとしたのではないか・・・・・・、ふとそう思いました。

鈴木其一の『朝顔図屏風』は、其一の画業の集大成だと言われています。生涯のそういう時期に描かれたわけです。その集大成において其一は、朝顔という日常よく見かける花を用いて六曲一双の中に小宇宙を作り上げた。宗達や光琳以来の光琳の伝統を踏まえつつ、あくまで独自の世界、この絵しかないという世界を築いた。そいういう風に感じました。

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尾形光琳燕子花図屏風
根津美術館
(各隻、151cm×339cm)

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尾形光琳「燕子花図屏風・左隻」

燕子花図屏風(右隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・右隻」


鈴木其一『花菖蒲に蛾図』


『朝顔図屏風』という傑作のあとに何を取り上げようかと迷ったのですが、1点だけ『花菖蒲に蛾図』ということにします。これもメトロポリタン美術館所蔵の作品です。

花菖蒲に蛾図.jpg
鈴木其一
花菖蒲に蛾図
メトロポリタン美術館
(101cm×33cm)

今回の展覧会に多数展示されていた鈴木其一の作品の中には、花、草、昆虫、小動物を描いた作品がいろいろとありました。この『花菖蒲に蛾図』もそうした絵の中の一枚ですが、注目したいのは "蛾" が描かれていることです。

蛾を描いた絵というと、真っ先に思い出すのは速水御舟の『炎舞』(山種美術館。重要文化財。No.49)です。夜、焚き火の明かりに誘われた数匹の蛾が、互いに絡みあうように炎の上を舞う・・・・・・。この絵は我々が蛾に抱くイメージとピッタリ重なっています。蛾は基本的に夜行性だし、何となく "妖しい" イメージがある。それと合っています。

しかし其一の蛾は違います。夜とか夜行性をイメージさせるものは何もなく、明らかに昼間の "健康的な" 光景です。昼間に蛾がこのように花菖蒲に飛んでくることは普通ありえず、これは現実の光景ではありません。何か夢でも見ているような画題になっています。『朝顔図屏風』について "一見して現実を写したのではないことが分かる" と書きましたが、『花菖蒲に蛾図』もそれとよく似ています。

もし花菖蒲に飛んできているのが蝶だとすると、それは普通の絵です。今回の展覧会にも芍薬しゃくやくに黒アゲハ蝶がとまっている絵がありました。しかしこの絵では蛾が配置されていて、それがちょっと変わっているというか、独特です。

ここで "蛾" のイメージを考えてみると、昆虫愛好家は別として、我々の普通の感覚は「蝶は好きだが蛾は好きではない」というものです。蝶をる人の方が、蛾を愛でる人より圧倒的に多いはずです。但し、そういった現代の感覚を単純に江戸期に当てはめるのは注意すべきです。江戸時代が現代と同じだとは限りらないからです。そこは要注意です。

其一はなぜここに蛾を描いたのでしょうか。その理由は、描かれている蛾そのものにあるような気がします。この絵に描かれている蛾はオオミズアオ(大水青)です。大きさが10cm程度の、比較的大型の蛾で、その画像例を次に引用します。

オオミズアオ.jpg
オオミズアオ(大水青)

早朝に竹垣にとまっているオオミズアオを見たことがあります。今でもその場所が記憶に残っていますが、その理由は、朝の散歩で意外な蛾に出会ってギョッとしたことと、薄い緑白色というのでしょうか、独特の色をした大きな蛾の存在感に圧倒されたからだと思います。調べてみるとオオミズアオは蛾の中でも最も美しいもののひとつで、昆虫愛好家・蛾愛好家のファンも多いようです。オオミズアオは英語で Luna Moth というそうです。Luna とは月のことで、つまり青白い月光をイメージした名前であり、なるほどと思います。以上を踏まえると、鈴木其一は現実の光景とは無関係に「美しい花」と「美しい昆虫」を一つの絵に同居させた、そういうことでしょう。

そこで思い出すのが、No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたフランスとドイツの事情です。フランス語にもドイツ語にも、一般的な言葉として蝶と蛾を区別する言葉はなく、普通使われるのは鱗翅類全体を表す単語であり(=仏:パピヨン、独:シュメッタリンク)、それは蝶も蛾も分け隔てなく指すのでした。No.49では、ドイツ人であるフリードリッヒ・シュナックが書いた「蝶の生活」の序文から、著者が蛾をこよなく愛する言葉を引用しました。再掲すると次のような文章です。


ささげる言葉

この地上のずべての鱗翅類にこの書をささげる。そのすべてがここに登場するわけではないけれども。昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる。たそがれのスズメガに、心を浮き立たせるように庭園や草原の花の蜜が香り、草木の茂みから薫り高い芳香がしたたるたそがれどきに活動するスズメガ類にこの書をささげる。ヤママユ類やシャクガ類に、ヤガ類やヒトリガ類にこの書をささげたい。みんな愛すべきものたちだ。

フリードリッヒ・シュナック
『蝶の生活』
(岡田朝雄訳。岩波文庫。1993)

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トビイロスズメ
シュナックがあげているスズメガの一種である。「理科教材データベース・昆虫図鑑」より。
この引用にあげられてる鱗翅類の名前はすべて蛾です。ちなみに『蝶の生活』という題名は、原文のドイツ語を正確に訳すと『鱗翅類の生活』となるのでした。

シュナックが愛情を捧げる蛾として真っ先にあげているのはスズメガですが、スズメガとオオミズアオを比較してみると、普通の人の感覚ではオオミズアオの方が美しいと感じるのではないでしょうか。もちろん人の感覚はそれぞれだし、見た目以上に蛾の習性も大切なのだろうと思います。

とにかく、シュナックの文章からも思うことがあります。つまり、文化的背景を抜きにすると、蝶も蛾も「美しいものは美しい」ということです。あたりまえだけれど・・・・・・。鈴木其一もそういった感性をもった人だったのではと想像しました。

鈴木其一の『花菖蒲に蛾図』に戻ると、花菖蒲もオオミズアオも「美しいものは美しい」わけです。蝶ではなく蛾が描かれている、と議論すること自体がおかしいのでしょう。この絵は画家の確かな観察眼、審美眼と、約束ごとや決まりにとらわれない姿勢を示しているように思いました。



以上あげた鈴木其一の3点は、いずれもアメリカの美術館や個人コレクションの所蔵作品です。こういった展示会がないと、まず作品を見るのが難しいわけです。その意味で今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は大変に貴重な機会でした。




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No.192 - グルベンキアン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで5回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード

の5つです。今回はその "個人コレクション・シリーズ" の続きで、ポルトガルの首都、リスボンにある「グルベンキアン美術館」をとりあげます。今までの5つの美術館はいずれも、19世紀から20世紀にかけて事業で成功した欧米の富豪が収集した美術品を展示していて、コレクターの名前が美術館の名称になっていました。グルベンキアン美術館もそうです。


カールスト・グルベンキアン


カールスト・グルベンキアン(1869-1955)は、イスタンブール出身のアルメニア人です。石油王と呼ばれた人で、石油の売買で膨大な財を成しました。そして美術品のコレクターでもあった。晩年、グルベンキアンはポルトガルに移住し、遺言によって遺産と美術品がポルトガルに寄贈されました。それを元にグルベンキアン財団が設立され、財団は美術館だけでなく、オーケストラやバレエ団の運営、各種の芸術・文化活動を行っています。

以上の美術館設立の経緯は、何となく No.167 で紹介したティッセン・ボルネミッサ美術館に似ています。マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館には、ドイツの鉄鋼王、ティッセン家のティッセン・ボルネミッサ伯爵がスペイン(=5度目の妻の祖国)に売却した美術品が展示されています。「コレクターの出身国ではない国にある個人コレクション」という点が似ているのです。

スペインとポルトガルは、大航海時代に始まる "栄光の時代" に繁栄を誇りますが(その遺産がプラド美術館)、産業革命以降の資本主義の時代にはイギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国の後塵を拝しました。それでも大量の第一級の美術品が "タナボタ" 的にもたらされる・・・・・・。そういう巡り合わせの国なのかと思ってしまいます。


グルベンキアン美術館


グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部から少し離れた北の方向にあります。メトロで言うとブルー・ラインのサン・セバスティアン駅かプラザ・デ・エスパーニャ駅が最寄駅になります。

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ゆったりとしたグルベンキアン財団の敷地の中に、数個の建物が配置されています(次の図)。その中の "Founder's Collection" となっている建物にカールスト・グルベンキアンが収集した美術品が展示されています(グルベンキアン美術館)。

Gulbenkian - Layout.jpg
この図は上が南方向(リスボン中心部の方向)である。敷地の中には3つの建物がある。左下がFounder's Collection棟で、それとつながっているのがグルベンキアン財団のビルである。上の方のModern Collection棟には現代ポルトガルのアーティストの作品がある。

Gulbenkian - Museum.jpg
Founder's Collection棟のエントランス



"Founder's Collection" として展示されている美術・工芸品は極めて幅広いものです。年代・地域で言うと、古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ・ローマ、ヨーロッパ、東アジア、アルメニアなどであり、美術・工芸品のジャンルも、絵画、彫刻、家具、銀器、装飾品、タペストリー、絨毯、タイル、陶磁器など多岐に渡っています。またカールスト・グルベンキアンはルネ・ラリックと親交があり、ラリックのガラス工芸作品が展示されています。これらの中から絵画作品を何点か紹介します。


美術館の顔


まず取り上げるべきは「美術館の顔」とも言うべき女性の肖像画で、ドメニコ・ギルランダイヨの「若い女性の肖像」です。以下、絵の英語題名はグルベンキアン美術館のもので、その日本語試訳を付けました。

Portrait of a Young Woman.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1449-1494)
Portrait of a Young Woman(1490)
(若い女性の肖像)
グルベンキアン美術館

思い起こすと、マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館の「顔」となっている絵も、ギルランダイヨの女性の肖像画でした。この点もグルベンキアンがティッセン・ボルネミッサと似ているところです。

ティッセン・ボルネミッサのギルランダイヨの絵は真横からの横顔(= Profile)でしたが、グルベンキアンの絵は典型的な "4分の3正面視(= Three Quarter View)" の絵です。しかも女性の視線は真横方向に注がれていて、まさに今、その方向に目をやった瞬間をとらえたような感じがあります。ほんのりと赤い、ふくよかな頬と、キリッと引き締まった小さな赤い唇が印象的で、何となくこのモデルとなった女性の意志の強さを感じます(個人的印象ですが)。いい絵だと思います。


近代絵画


 ターナー 

以下、グルベンキアン美術館の展示方法に従って、年代順に近代絵画を何点か紹介します。ターナーの絵は2点ありますが、その中の1点が次です。

Quillebeuf - Mouth of the Seine.jpg
ジョセフ・M・W・ターナー(1775-1851)
Quillebeuf, Mouth of the Seine(1833)
(キュバッフ、セーヌの河口)
グルベンキアン美術館

セーヌの河口の町、キュバッフ=シュル=セーヌを描いたた絵です。ターナーの絵にしばしばある、水面と空が一体になったような描き方で、その中に河口の町が小さく配置されています。人間の営みに比べた自然の大きさを表現しているように見えました。ちなみに、もう一枚あるターナーの絵は「輸送船の難破(ミノタウルス号の難破)」です。Wikipedia(日本語版・英語版)にターナーの代表作の一つとして掲載されています(2016.11現在)。

 ドガ 

Self-portrait (Degas Saluant).jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
Self-portrait or 'Degas Saluant'(1863)
(自画像、または "挨拶するドガ")
グルベンキアン美術館

ドガは自画像を何枚か描いていますが、最も有名なのは No.86「ドガとメアリー・カサット」で引用したオルセー美術館の自画像でしょう。しかしこのグルベンキアンの自画像もオルセーに匹敵する出来映えです。ちなみに Wikipedia の「ドガ」の項で引用されている自画像は、日本語版・英語版ではオルセーのものですが、フランス語版 Wikipedia ではこのグルベンキアンの自画像になっています(2016.11現在)。

 マネ 

Boy Blowing Bubbles.jpg
エドアルド・マネ(1832-1883)
Boy Blowing Bubbles(1867)
(シャボン玉を吹く少年)
グルベンキアン美術館

グルベンキアンの絵画では、このマネの絵が "最も記憶に残る絵" かもしれません。男の子が一人でシャボン玉を吹いているというモチーフがユニークだからです。他にあるかもしれませんが、記憶にはこの絵しかありません。例によって背景を描かず、真剣に大きなシャボン玉を作ろうとしている男の子の姿だけを捉えています。

 ミレー 

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ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
Winter(1868)
(冬)
グルベンキアン美術館

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ジャン=フランソワ・ミレー
The Rainbow(1872/73)
(虹)
グルベンキアン美術館

この2枚のパステル画は、ミレーがパステルという画材をを使いこなした絵、という感じがします。「冬」は、殆ど単色と思える暗い色調の中に、雪に覆われた畑とポツンと配置された積み藁が凍えつくような空気感を表現しています。ミレーは冬のバルビゾンを好んだようです。


ミレーは冬の風景が好きで、誰も描かない雪のバルビゾンを喜んで写生した。冬の間、画家仲間たちはパリで過ごし、村にはミレーしか残らなかったが、冬を越した者でしか春の訪れは理解できない、とミレー自身も語っている。

井出洋一郎
「農民画家」ミレーの真実
(NHK出版新書 2014)

一方の「虹」の方は、雨があがり、画面後方から太陽がさし込み出したその一瞬の光景で、全体に暗い色使いの中で、日光に照らされた緑の表現が美しい絵です。この絵で直観的に思い出すのはオルセー美術館の「春」という油絵作品で、構図がほぼ同じです。「虹」もまた春の光景ということでしょう。

Millet - Le Printemps.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
春 (1868/73)
(オルセー美術館)

 ルノワール 

Portrait of Madame Claude Monet.jpg
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
Portrait of Madame Claude Monet(1872/74)
(モネ夫人の肖像)
グルベンキアン美術館

若い頃のルノワールの絵の典型という感じで、青を中心に白を配した色使いが大変に美しい。シンプルで落ち着いて鮮やかな配色が、描かれたモネ夫人・カミーユを引き立てています。

 モネ 

The Break-Up of the Ice.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
The Break-Up of the Ice(1880)
(解氷)
グルベンキアン美術館

セーヌ河が結氷したあと、気温が上がり、氷が割れて流れ出す・・・・・・。その光景をモネは何枚か描いていますが(オルセーの絵が有名)、その中の1枚です。こういう光景は現代だと、たとえばロシアのアムール河を描いたという感じです。当時でもセーヌ河はめったに結氷しなかったと言いますが、それでも大寒波が来るとこのような光景になる。「19世紀のセーヌ河は結氷したのだ」と改めて認識させられます。

モネの "解氷" の絵については、原田マハさんの評論があるので紹介します。モネはセーヌ河畔のヴェトゥイユに住んでいるとき(1878-81。38歳-41歳)に、最愛の妻であるカミーユを亡くします(1879)。モネは絵を描く意欲を失ってしまいました。


そんなとき、冬の大寒波がパリとその近郊を襲い、めったに凍らないセーヌ河が氷結します。滔々とうとうと流れるセーヌ川。そのセーヌ川さえも凍ってしまった。ここからは私の想像ですが、モネは自分の状況をセーヌに重ねて、「ついにセーヌも凍った。そして自分の心も凍りついてしまった」と思ったのではないでしょうか。

ところが、春も近づいたある朝、目覚めたら、セーヌ川の氷が解け、水面が動きはじめたのです。その瞬間に、モネは気づいたのかもしれません。「この世界は一刻たりとも止まっていない。同じ風景を見ているようでも、時間が流れている限り、それは一瞬しかない。その移りゆく世界を、自分はカンヴァスの中にとどめたい」と。

「この世界の一瞬を、生涯かけて追い求めよう」という決意。

ヴェトゥイユでの1880年の冬の経験は、モネにとって大きなターニング・ポイントになったのではないでしょうか。モネがその冬ヴェトゥイユにいて、セーヌ川の氷解を見たのは奇跡です。その瞬間がモネに訪れなかったら、私たちはモネの作品を、いまこのような形で見ることができなかったかもしれません。

このセーヌ川の氷結という出来事の中に、私はモネの連作の萌芽を感じます。

原田マハ
『モネのあしあと』
(幻冬舎文庫 2016)

モネの連作には「クルーズの峡谷」「積み藁」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」などがありますが、その先駆けとなったのがセーヌの "解氷" の絵だ、というのが原田さんの見立てです。ちなみに、引用した文章はオルセー美術館の "解氷" の絵を念頭に書かれたものですが、グルベンキアンの絵の評論としてもそのまま通用するものです。

ちなみにモネは "解氷" を10数枚描いていると思いますが、それらは数個のグループに分けることができ、各グループの絵は同じ場所から同じ構図で描いています。ただし描いた日が違う。グルベンキアン美術館の "解氷" と同じ構図の絵は、リール宮殿美術館(Palais des Beaux-Arts de Lille:フランス)と、ダニーデン市立美術館(Dunedin Public Art Gallery:ニュージーランド)にあります。

La Debacle(Musee des Beaux-Arts, Lille).jpg
リール宮殿美術館

La Debacle(Dunedin Public Art Gallery).jpg
ダニーデン市立美術館

最初に描かれたグルベンキアン美術館の絵では、セーヌ河の多くが氷に覆われています。その次のリール宮殿美術館の絵は氷がだいぶ溶けてボートが航行している。最後のダニーデン市立美術館になると氷はあまりない。つまり「定点観測」で風景と光の変化を描いています。これって、時刻によるモチーフの変化を描いた "積み藁" や "ルーアン大聖堂" と極めて似ていると思うのですね。まさにモネの連作の先駆けが "解氷" だと思います。

 カサット 

The Stocking.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
The Stocking(1887)
(ストッキング)
グルベンキアン美術館

このブログで何回かメアリー・カサットについて書きました。No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」No.125「カサットの少女再び」No.187「メアリー・カサット展」ですが、その中には「母と子」や「子ども」のモチーフが多数ありました。この絵は、パッと見てカサットだと分かる作品(パステル画)です。

ストッキングを履かせてもらう子どもの自然な仕草がとらえられています。左手は何をしているのでしょうか。描かれた女性は家政婦で、子どもは母親の方を指しているのかもしれません。ストッキングを履くのをいやがっている感じもします。

 サージェント 

Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows.jpg
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows(1887)
(柳の下のパントで眠る母と子)
グルベンキアン美術館

パント(Punt)とは、イギリスでよく見かける平底の小舟です。Puntで川を漕いて回る遊びを Punting(パンティング)と言ったりします。テムズ河、ないしはその支流の光景だと思います。サージェントの絵は、No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、

『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(ボストン美術館)
『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(テート・ギャラリー)

を引用しました。いずれもサージェントの代表作と言うべき作品です。No.96「フィラデルフィア美術館」の『A Waterfall(滝)』という作品もありました。

グルベンキアンのこの作品は、サージェントの代表作とは雰囲気が違います。垂れ下がった柳、画面の端で切り取られた小舟、その上の女性、川面を見下ろす構図、カンヴァス全体に筆触を残す描き方・・・・・・、これらは "正統的" な印象派のモチーフや構図、描法そのものです。モネの絵だといっても通用するのではないでしょうか。この絵はサージェントが最も印象派の手法に寄り添って描いた作品でしょう。その意味で記憶に残る作品です。


The Church of Santa Maria della Salute - Venice.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
The Church of Santa Maria della Salute, Venice(1904/1909)
(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 - ヴェネチア)
グルベンキアン美術館

この水彩画は、前作とは違ったサージェントらしい作品です。おそらく朝の光景でしょう。サルーテ教会と水路をはさんて北側(サン・マルコ広場のある側)から南を見た構図のようであり、画面の左方向、つまり東方向から光があたっています。ヴェネチアの朝の空気感と水彩画の淡くてやわらかな感触がマッチした、すがすがしい作品です。



画像の引用は以上で終わりますが、その他の主な画家では、ファン・デル・ウェイデン、カルパッチョ、ルーベンス、レンブラント、ハルス、ルイスダール、ヴァン・ダイク、フラゴナール、コロー、ファンタン=ラトゥール、ゲインズバラ、ブーディン、テオドール・ルソー、ドービニー、ボルディーニ、タウロヴなどの作品があります。

ちなみに Google Street View で内部が閲覧できる美術館というと、メトロポリタン美術館などの "超メジャー館" が思い浮かびますが、意外にもグルベンキアン美術館は Google Street View で閲覧可能です(2016.11 現在)。あくまで "小じんまりした" 美術館なので、Street View で見るにはちょうどいいと思います。

Gulbenkian - Street View.jpg
Google Street View で内部が閲覧できる美術館はメトロポリタン、MoMA、大英博物館、テート・モダン、オルセー、ウフィツィ、ウィーン美術史美術館などであるが、意外にもグルベンキアン美術館(と財団の庭園)は閲覧できる(上の画像)。マネの「シャボン玉を吹く少年」の右の絵はモネの静物画である(画像はグルベンキアン美術館のホームページで公開されている)。


グルベンキアンの北斎


下の写真は、グルベンキアン美術館のショップで見かけたカードの棚です。現代作家の作品に混じって、真ん中にあるのは葛飾北斎です。

Gulbenkian - Postcard.jpg
グルベンキアン美術館のショップにあったカードの棚。真ん中にあるのは葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中の1枚である。

この作品は、北斎の「諸国名橋奇覧」の11枚の連作の一つで、『上野こうずけ佐野舟橋の古図』です。"佐野の舟橋" というと、万葉集に歌われた歌枕であり、はかない恋を象徴しました。枕草子の「橋」の段にも出てきます。北斎の時代、佐野(今の栃木県)に舟橋はもう無かったようです。しかし舟橋そのものは日本にあり、北斎は過去を想像して描いたようです。「古図」としてあるのはその意味です。

グルベンキアン美術館はこの作品を所蔵しています。欧米の美術館で北斎の作品を見かけることはよくあるのですが、このポルトガルの首都でもそうであり、欧米における北斎の "メジャー感" が認識できます。

佐野の舟橋.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
上野こうずけ佐野舟橋の古図
(かうつけ佐野ふなはしの古づ)
「諸国名橋奇覧」より


美術館から少し歩くと・・・・・・


ここからは余談です。グルベンキアン美術館からリスボン中心部の方向(南方向)に5分程度歩くと、エル・コルテ・イングレスというデパートがあります(上に掲げた地図参照)。スペイン各地にあるデパートですが、リスボンにも進出しています。

ここの地下1階はスーパーになっていて、また高級食料品(というか、スーパーよりワンランク上の食品や菓子)を売る店が併設されています(この店があることがポイントです)。ポルトガルの土産物を買うには最適のスポットだと思います。もしグルベンキアン美術館を訪れたなら、近くのエル・コルテ・イングレスに立ち寄られることをお勧めします。

El Corte Ingres.jpg
リスボンのデパート、エル・コルテ・イングレス。グルベンキアン美術館の方向から見た画像(Google Street View)。




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No.191 - パーソナリティを決めるもの [本]

小説『クラバート』に立ち帰るところから始めたいと思います。そもそもこのブログは第1回を『クラバート』から始め(No.1「千と千尋の神隠しとクラバート」)、そこで書いた内容から連想する話や関連する話題を、尻取り遊びのように次々と取り上げていくというスタイルで続けてきました。従って、折に触れて原点である『クラバート』に立ち戻ることにしているのです。

クラバートは少年の物語ですが、他の少年・少女を主人公にした小説も何回かとりあげました。なぜ子どもや少年・少女の物語に興味があるのか、それは「子どもはどういうプロセスで大人になるのか」に関心があるからです。なぜそこに関心があるかというと、

自分とは何か
自分は、どうして自分になったのか

という問いの答が知りたいからです。

就職以来の仕事のスキルや、そのベースとなったはずの勉強の蓄積(小学校~大学)は、どういう経緯で獲得したかがはっきりしています。記憶もかなりある。一方、人との関係における振る舞い方やパーソナリティ・性格をどうして獲得してきたか(ないしは醸成してきたか)は、必ずしもはっきりしません。ただ、自分の振る舞い方やパーソナリティの基本的な部分は子どもから10歳代で決まったと感じるし、20歳頃から以降はそう変わっていない気がします。だからこそ「自分はどうして自分になったのか」を知るために、人の少年時代に興味があるのです。

人の個性は遺伝と環境で決まります。「生まれ」と「育ち」、「もって生まれたもの」と「育った環境」で決まる。パーソナリティ(性格・気質)に「遺伝=もって生まれたもの」が影響することは明白で、これは子どもを二人以上育てた人なら完全に同意するでしょう。全く同じように育てたつもりでも、兄弟姉妹で性格が大きく違う。「もって生まれたもの」が違うとしか考えられないわけです。

では「環境」ないしは「育ち」はどう影響するのでしょうか。人のパーソナティ(性格や気質に関係する個性)に影響を与え、自分が自分になったその「環境」とは一体何なのでしょうか。

実はこれについては『子育ての大誤解』(ジュディス・リッチ・ハリス著。早川書房 2000)で展開されていた「集団社会化説」が、私にとっては最も納得できた説明です。この「集団社会化説」を踏まえて、最初に書いた小説『クラバート』を考えてみるのが、この記事の趣旨です。



そこで、まずその前に「遺伝=もって生まれたもの」が人にどの程度影響するのかという科学的知見をまとめておきます。以下の行動遺伝学の話は、安藤寿康『心はどのように遺伝するか』(講談社ブルーバックス 2000)によります。安藤寿康氏は慶応義塾大学教授で、日本の行動遺伝学の第一人者です。


行動遺伝学


人の一生変わらない形質が遺伝で決まるというのは、非常に分かりやすいわけです。血液型、髪の毛の色、虹彩の色はそうだし、特定の病気(血友病とか若年性糖尿病など)は遺伝で決まることがよく知られています(その他、多数ある)。

遺伝とは「親と似る」ということではありません。血液型で言うと、A型の両親から生まれた二人の子どもが二人ともO型というのは十分ありうるわけです。遺伝とは、親から子へと形質を伝達すると同時に、多様性を生み出す仕組みでもある。「蛙の子は蛙」であると同時に「鳶が鷹を生む」こともある、それが遺伝です。

  遺伝で決まるとは、遺伝子(=もって生まれたもの)で決まるという意味

だということを、忘れないようにしなければなりません。



一生変わらない形質が遺伝子で決まるというのは分かりやすいのですが、では、たとえば「体重」はどうでしょうか。普通に考えて、

  体重は遺伝と環境で決まる

はずで、この場合の環境とはもちろん生活習慣(食生活)のことです。このうち遺伝の影響はどの程度でしょうか。

こころはどのように遺伝するか.jpg
安藤寿康
「心はどのように遺伝するか」
(講談社ブルーバックス 2000)

行動遺伝学(Behavioral Genetics)という学問があります。この行動遺伝学の手法を使えば、体重についての遺伝の寄与率を求めることができます。行動遺伝学の研究手法は双子の研究です。双子には「一卵性双生児」と「二卵性双生児」があり、一卵性双生児の遺伝子は全く同じです。一方、二卵性双生児は同時に生まれた兄弟であり、両親から半分ずつ遺伝子を受け継ぐので、双子同士の遺伝子は約50%が同じです。双子の家庭内での育児環境は同じだと考えられ、ここがポイントです。

そこで、一卵性双生児と二卵性双生児、それぞれ数百の体重データを集め、「一卵性双生児の体重の相関係数」と「二卵性双生児の体重の相関係数」を算出します。相関係数は統計学の手法で、二つの量が完全な比例関係(一方が大きければ他方も大きいなど)にある時は "1"、全く無関係なら "0"になります。調べてみると、

一卵性双生児の体重の相関係数:0.80
二卵性双生児の体重の相関係数:0.43

となりました。一卵性双生児の体重は非常に似通っているが、二卵性双生児の体重はそれなりに似ている、という常識的な結果です。ここから遺伝子の影響を算出することができます。つまり、双子の体重が似ているのは、遺伝子が似ている(一卵性双生児は全く同じ)ことと、同じ家庭環境で同時に育ったからと仮定します。つまり

  G:相関係数に対する遺伝子の寄与率
C:相関係数に対する同一環境(家庭)の寄与率

とすると、

  0.80 = C + G
0.43 = C + 0.5*G

という連立方程式が得られます。0.5という係数は二卵性双生児の遺伝子の類似性が0.5であることによります。この式を解くと

  G = 0.74
C = 0.06

となり、遺伝子の寄与率(G)が求まります。行動遺伝学の実際の統計処理はもっと複雑なようですが、本質は上のようなものであることは間違いありません。安藤寿康氏の『心はどのように遺伝するか』にも、この計算方法が紹介されています。



行動遺伝学では環境を二つに区別し「共有環境」と「非共有環境」という概念を使います。

  共有環境
  同居する兄弟を類似させる環境要因。主として家庭環境。上の式の C。

非共有環境
  同居する兄弟の差異を増大させる環境要因。これは一般的には家庭の外の友人関係や、学校のクラスといった、兄弟で相違する環境です。また家庭内環境でも、親の育て方が兄弟で違うと、それは非共有環境になります。さらに、双子であっても一人が外出している時にもう一人が家庭内で偶然の重大な経験をしたような場合は、その経験が非共有環境になります。

非共有環境は多様で、ランダムで、特定しにくいものです。一卵性双生児の体重で言うと、その相関係数は 0.8 にとどまり "1" にはなりません。この残りの 0.2 の部分が非共有環境の寄与ということになります。

このたあたりは定義の問題です。人の形質や性格、行動について、遺伝の影響を除いたものが環境、環境から兄弟で共有される環境を除いたものが非共有環境です。従って非共有環境は「残りすべて」であり、雑多で、訳の分からないものまで含むことになります。

この「遺伝率」「共有環境」「非共有環境」という言葉を使うと、体重については以下のようになります。

遺伝率 共有環境 非共有環境
体重 0.74 0.06 0.20

この表の解釈は、体重は、その74%が遺伝で説明できるということです。また残りの影響のほとんどは非共有環境(家庭外の環境)だということです。ただし、この数値は統計データであって、多くの人の平均をとってみたらそうなるということに注意すべきです。個々の人に着目すると、過食でメタボリック症候群の人もいれば、ダイエットが趣味で痩せている人もいます。


パーソナリティは遺伝と非共有環境で決まる


では人間の「行動」はどうでしょうか。行動遺伝学で言う行動は、単に「対人関係における振る舞いかた」という意味だけではありません。一般知能(IQ)や論理的推論能力、記憶力などの「認知能力」も含まれます。また「性格・気質」(パーソナリティ)も重要な研究分野で、外向性、神経質傾向、協調性、新規性追求などが含まれます。さらに音楽、数学、美術などの「才能」もあります。

これらの認知能力や性格、才能は、何らかのテストや観察で測定するしかなく、つまり人間の「行動」として外面に現れたものを計測して分析するわけです。それについての遺伝の寄与を研究するのが行動遺伝学です。行動遺伝学の研究で分かってきた重要な点を3点だけあげます。

 遺伝的影響が年齢とともに増大する 

IQテストで計られる一般知能(IQ)は、決して固定的なものではなく年齢によって変化することが知られていますが、この一般知能についての遺伝の影響は年齢とともに増加する傾向にあります。下の図は一卵性双生児と一卵性双生児の一般知能の相関係数の年齢変化ですが、遺伝的に同一な一卵性双生児は年齢とともに似てくる傾向にあります。

IQの類似性の発達的変化.jpg
一般知能(IQ)の類似性の発達的変化
(安藤寿康「心はどのように遺伝するか」より)

さらに次の図が示しているのは、一般知能に対する遺伝の影響が年齢とともに増加するとともに、共有環境(家庭環境)の影響が年齢とともに低下することです。それに対し、非共有環境の影響はほぼ一定しています。

IQへの遺伝と環境の寄与率の発達的変化.jpg
一般知能への遺伝と環境の寄与率の発達的変化
(安藤寿康「心はどのように遺伝するか」より)

この「遺伝的影響が年齢とともに増大」というのは認知効力に特有の現象のようです。安藤寿康氏の『心はどのように遺伝するか』には次のように説明されています。


IQで測られる一般知能だけでなく、記憶や推理能力などの下位の認知能力で見た場合でも、遺伝的影響が発達とともに増大するというこの傾向は、さまざまな研究でくり返し報告されており、人間行動遺伝学の知見としては、ほぼスタンダードになったといえる。ちなみにこの傾向は、外向性や神経質さといったパーソナリティ特性では見ることができない。認知能力に特殊な現象のようである。

安藤寿康
『心はどのように遺伝するか』
(講談社ブルーバックス 2000)

 遺伝と非共有環境が性格に影響 

外向性、神経質傾向、協調性、新規性追求などの性格(パーソナリティ)は、遺伝の影響が50%程度、非共有環境の影響が50%程度です。共有環境の影響は小さいかほとんどない、というのが行動遺伝学の結論です。

 遺伝的傾向が家庭外環境を選択する 

『心はどのように遺伝するか』には、家庭外環境における子供の「人気者度」「非行傾向」「大学志望傾向」を調査した結果が記載されています。それによると、遺伝的に近いものほど、「人気者度」でも「非行傾向」でも「大学志望傾向」でも、より類似した仲間をもつ傾向が強いことが分かりました。子どもは自分と似た子どもに引かれる、というわけです。



以上のような行動遺伝学の成果を踏まえて書かれたのが、ジュディス・リッチ・ハリスの『子育ての大誤解』です。以降はこの本の内容、特に「非共有環境」とは何かについて紹介します。


環境とは何か


『子育ての大誤解』においてハリスはまず、行動遺伝学の知見にもとづいて「子育て神話」を否定します。子育て神話とは、

  子ども時代の家庭での親の育て方が、子どもパーソナリティを決め、その影響は大人になっても続

という言説ですが、それは "神話" であり、根拠のない思い込みに過ぎないと・・・・・・。

子育ての大誤解.jpg
ジュディス・リッチ・ハリス
「子育ての大誤解」
(早川書房 2000)

もちろんハリスも、育児の重要性を否定しているわけはありません。体や脳の発達、言語の習得に育児は大変重要です。また、親から虐待を繰り返された子どもは性格が変わったり、場合によっては脳に回復不可能な損傷を受けることも分かっています。

しかし「普通の」家庭では、育てかたや家庭環境は子どものパーソナリティに影響は与えないか、あったとしても少しなのです。このことをハリスは数々の例をあげて説明してます。そのうちの2~3を紹介します。

まず一卵性双生児の性格です。同じ家庭で育った一卵性双生児も、性格は同じにはなりません。では別々の家庭で育った一卵性双生児の性格はどうでしょうか。世の中には、生まれて直後に養子に出された一卵性双生児があります。双生児の一人を養子に出すという慣習は世界中にあります。別々の家庭で育った一卵性双生児を調査すると、その性格の類似性は、同じ家庭で育った一卵性双生児の性格の類似性とほぼ同じなのです。

出生順は子どもの性格に影響しないというも重要です。ハリスは多くの研究を調査し、出生順は子どもの性格に影響しないか、影響したとしてもわずか、と結論づけています。ではなぜ人々は、出生順が子どもの性格に影響すると思い込むのでしょうか。

それは家庭内での子どもの行動を観察するからです。家庭内で子どもは、第1子は第1子らしく、末子は末子らしく行動するのが普通です。親もそのように教育する。しかし子どもはそれを家庭外には持ち出さない。つまり、子どもの本質的な性格ではないのです。ハリスは次のように書いています。


今まで明らかにされてきた証拠によると、家庭内での適所選びや家庭で割り当てられた役割は、性格にはなんら永続的な痕跡を残さない。子どもたちが決まった役を割り当てられる一つの例が出生順位だ。上の子は親から見ると責任感があり、感受性が豊かで人に頼る傾向にある。弟や妹の目には威張っているように映る。しかし出生順位によって見られる一貫した違いは、一般的には成人向けの性格テストでは現れてこない。また研究者たちも一人っ子と兄弟のいる子の間で一貫性のある性格上の違いがあることを証明できずにいるのだ。

ジュディス・リッチ・ハリス
『子育ての大誤解』 p.409
(早川書房 2000)

両親の離婚は子どもの性格に影響しないことも書かれています。離婚した両親の子どもは、離婚する前から情緒障害や行動傷害を起こすことがあります。つまり離婚に至るまでの両親の確執の時期からです。しかしこれをもってして、両親の確執や離婚が子どもの性格に影響するとは言えません。

話は逆だというのがハリスの主張です。離婚は「共同生活は無理」と夫婦のどちらか(ないしは双方)が確信するときに起こりますが、それを引き起こすのは夫婦の(ないしはどちらかの)性格特性であることが多い。その性格特性が子どもに遺伝し、両親の確執がトリガーとなって情緒障害を引き起こす。親の離婚と子どもの情緒障害は、遺伝による性格特性の類似がポイントなのです。

この議論から言えることは、家庭環境が子どもに与える影響を議論するときには、親と子ども、兄弟同士で共有されているもの、つまり遺伝子の影響を除外して議論をしないと意味がないということです。



なお性格特性ではありませんが、肥満度の遺伝率は70%程度であり、かつ家庭からの影響は受けないことが書かれています。これは安藤寿康『心はどのように遺伝するか』の体重の遺伝率が 74% であり、残りのほとんどは非共有環境という記述と整合的です。肥満児をさして「親の育て方が悪い」というようなことを言う人がいますが、一般論としては根拠がありません。


集団社会化説


ジュディス・リッチ・ハリスが『子育ての大誤解』に数々の事例をあげているように、家庭環境(子育ての環境。共有環境)はパーソナリティに影響しないか、影響があったとしも少しです。行動遺伝学の知見によると、パーソナリティに影響する環境とは「非共有環境」です。

これは言葉の定義なのですが、遺伝では説明できないものが環境、環境から共有環境(=兄弟に均等に与えられ、兄弟をより類似させる環境。主として家庭環境)を除いたものが非共有環境です。では、パーソナリティに影響する非共有環境とはいったい何なのでしょうか。

ジュディス・リッチ・ハリスはこの問いに対する回答として、以下のような「集団社会化説」を唱えています。

  集団社会化説
  子どもが「仲間集団」に属することによる「同化」と「分化」が、社会における振る舞い方とパーソナリティ(性格)を決める

用語ですが、「集団」とは同年齢、または近い年齢の、二人以上の子どものグループです。子育てをした人なら分かるはずですが、子どもは赤ちゃんの時から自分と年齢が近い、自分に似た子どもに引かれます。子どもは自然と年齢の近い仲間で集団を作る。具体的には、仲のよい友達、近所の遊び仲間、男の子・女の子のグループ、学校のクラスの中のグループ、学校・学校外の各種のサークルでのグループなどです。もちろん、同時に複数の集団に属するのが可能です。

社会化」とは、集団や社会における「振る舞い方」と「パーソナリティ(性格)」が形作られることを言います。社会化というと一見「振る舞い方」だけを指しているように思えますが、ハリスが言っているのはそうでなくパーソナリティ(性格)も含みます。むしろ、行動遺伝学が対象とする「行動」の全部を指すと言ったほうがいいでしょう。

同化」とは、自分が属する集団の行動様式に自らを合わせようとすることです。それによって振る舞い方と性格がグループで共有されたものに近づいて行く。

分化」とは、子どもが集団内で自分なりの役割やポジションを見つけ、集団においてもその子独自の行動様式を身につけていくことです。集団で共有された行動様式の中でも、たとえばリーダーとして振る舞うとか、世話役として振る舞うとかといった「個性」がでてくる。そのことを言っています。

ハリスは「集団対比効果」にも触れています。二つの近接する集団があると、集団の行動様式をより鮮明にするような力学が働く。たとえば男の子グループと女の子グループがあったとき、女の子の行動様式を男の子がやったとすると「女の子みたいだ」と仲間から言われて、その行動は二度とやらなくなる。そういった意味です。

日本ではあまりないのですが、米国には人種問題があります。白人の子どもグループで共有された価値観が「勉強してテストでいい点をとる」ことだとすると、黒人の子どものグループの価値観は全く別の方向に行き(たとえばスポーツ)、勉強していい点をとる黒人の子どもはグループでは異端とされる。そういうことも一つの例になります。



ジュディス・リッチ・ハリスの「集団社会化説」のきっかけになったものの一つは「移住者の子どもが綺麗な英語を話す」という、彼女がハーバード大学の学生の頃の観察だったようです。


学生時代、私はマサチューセッツ州ケンブリッジで下宿をしていたが、大家さんはロシア人夫妻で三人の子供たちとともに一緒に住んでいた。夫妻はお互いに対しても、子どもたちに対してもロシア語で話した。彼らは英語がへたで、ロシア訛りが強かった。ところが五歳から九歳までの彼らの子どもたちはというと、まったく訛りのないきれいな、すわわち近所の子どもたちが話すボストン=ケンブリッジ・アクセントの英語を話していた。外見も近所の子どもたちとそっくり。親の方はその洋服のせいなのか、身振り顔つきなのか、どこか「外人くささ」が漂っていた。しかし子どもたちはまったく外人には見えない。ごく普通のアメリカの子どもたちだった。

私は不思議に思った。もちろん赤ちゃんは独自に言語を覚えるわけではない。話す言葉はもちろん親から習う。しかしこの子どもたちの話す言葉は親から習ったものではない。五歳の子どもでさえ親より流暢な英語を話していた。

ジュディス・リッチ・ハリス
『子育ての大誤解』 p.27

これは言語習得のケースですが、パーソナリティもそうだという数々の研究報告を、ハリスは掘り起こしていきました。ラリー・アユソという少年のケースが書かれています。


少年非行が横行する地域で育つ子どもたちや非行少年たちとかかわりあう子どもたちは問題を起こしやすいということは長年、心理学者や社会学者の間では周知の事実とされてきた。そうしたことから、問題を起こす可能性のある子どもを救う一つの手段として、彼をその地域から連れだし、非行少年の仲間たちとの接触を断つことが編み出された・

ラリー・アユソの場合はそれが功を奏した。16歳のラリーはサウス・ブロンクスに住んでいた。バスケットボールのチームに入りたかったが、成績不振で入部が認められなかった。友人のうち三人は麻薬がらみの殺人事件に巻き込まれ、命を落とした。彼は高校を中退し、まさに犯罪まみれの生活(もしかすると死んでいたかもしれない)に足を踏み入れようとしていたその矢先に救われたのだ。

彼を救ったのは、スラム街から子どもたちを連れだし、遠く離れた別の土地に転居させるプログラムだった。落ち着き先は、ニューメキシコ州の小さな町で、彼は中流階級の白人家族とともに暮らすことになった。

二年後の彼は、成績もAとBばかりで、高校のバスケット・チームの所属し、1試合平均28点を稼ぎ、大学進学を目指していた。

彼がサウス・ブロンクスの古巣を訪れたとき、友人たちは彼の服装に驚き、話し方がおかしいと言った。ラリーはもはや彼らのような話し方はしない。服装も違えば、振る舞い方も違う。話し方まで違うのだ。

ジュディス・リッチ・ハリス
『子育ての大誤解』 p.263

ラリーの変身は、ラリーを引き取った白人夫婦の功績ではなく、ラリーの仲間集団が劇的に変わったからだというのがハリスの結論です。ラリーのケースはいかにも(アメリカらしい)極端なケースですが、集団社会化説を象徴する事例として引用しました。



集団社会化説によると、行動遺伝学の知見である「別々の家庭の育った一卵性双生児の性格が似る」理由は次のように説明できます。つまり「遺伝的傾向の似ている子どもは、より類似した仲間をもつ傾向が強い」という研究成果がありました。子どもは自分と似た性格の仲間たちでグループ・集団を作る傾向にある。その集団の行動様式に同化する中で、性格が似てくるわけです。

一卵性双生児の遺伝子は全く同じですが、パーソナリティの遺伝率は 50% で、残りは非共有環境の影響です。しかし「遺伝的傾向が非共有環境を選択する」としたら「別々の家庭の育った一卵性双生児の性格の類似性も、同じ家庭で育った一卵性双生児の性格の類似性と同じ程度」であることが理解できます。日本のことわざにある、

類は友を呼ぶ
朱に交われば赤くなる

ということです。子どもはそうして属した集団の中で、自分なりの、自分に合った役割やポジションを見つけていく。そこで「分化」が起こり、パーソナリティが形成される。それが集団社会化説です。



集団社会化説から導かれる結論の一つは、子どもの居住地域の重要性です。特にアメリカでは、親の年収や社会的地位、人種によって住む地域が決まってくる傾向が強い。もちろん、日本を含むどこの国にでもある傾向です。どこに住むかで、子どもの遊び仲間、幼稚園、小学校が決まり、仲間集団の振る舞いや価値観は居住地域によって違ってきます。

ここで直感的に思い出すのは、中国の故事である「孟母三遷」です。孟子は子どもの頃、墓地の近くに住んでいた。すると葬式の真似ごとをするようになった。まずいと思った孟子の母親は、市場の近くに引っ越した。すると孟子は商売の真似ごとをするようになった。これではいけないと、母親は学校の近くに引っ越した。すると孟子は学生がやっている礼儀作法の所作を真似るようになり、母はやっと安心した。そして孟子は中国を代表する儒家になった・・・・・・という故事です。

孟子の母親が偉かったのは、息子に学問の道を歩ませるために、いわゆる「教育ママ」にはならなかったことです。あくまで息子の生活環境を変えた。行動遺伝学の言葉でいうと、孟子の母親は、子どもの成長にとって非共有環境が大切だと理解していたわけです。ジュディス・リッチ・ハリスの集団社会化説は、実は2000年以上前の昔から理解されていたということだと思います。



以上の集団社会化説を踏まえて、小説『クラバート』を振り返ってみたいと思います。


『クラバート』の意味


No.1「千と千尋の神隠しとクラバート(1)」であらすじを紹介したプロイスラー作の小説『クラバート』ですが、舞台はドイツ東部のラウジッツ地方の水車場(製粉所)でした。この水車場は厳しい親方(魔法使いでもある)が支配していて、粉挽き職人はクラバートを含めて12人です。クラバートはこの水車場の職人としての3年間で、自立した大人になっていきます。

No.2「千と千尋の神隠しとクラバート(2)」で書いたように、クラバートの自立に影響を与えたのは粉挽き職人としての労働だと考えられます。人間社会では、労働が人間性を形作る基礎となっているからです。

さらに No.79「クラバート再考:大人の条件」で書いたように、人間にとっては「自己選択できない環境で最善を尽くせる能力」が重要だということも『クラバート』は暗示しています。そのためには、自分自身が「変化する能力」が必要だし、また「努力を持続できる」ことも重要です。それに関係して、No.169「10代の脳」では最新の脳科学の成果から、10代の少年少女は冒険心や適応し変化する能力があることを紹介しました。

しかし、上に紹介した集団社会化説に従って考えると『クラバート』は、

  水車場の職人という仲間集団における "同化" と "分化"で、クラバートが自己のパーソナリティを確立していく物語

だとも言えるでしょう。水車場に来るまでのクラバートは、物乞いで生活している孤児であり、引き取られたドイツ人牧師の家を飛び出した浮浪児です(クラバートはスラブ系民族)。物語に親や家庭生活の影は全くありません。

しかし彼は水車場に来て成長し、物語の最後では水車場を根本から変えてしまうような "強い" 行動に出ます。そこまでの過程にあるのは、11人の職人仲間たちとの共同生活であり、いろいろな性格の職人たちとの人間関係です。その中でクラバートは自己を確立していった。そういう物語として読めると思いました。

クラバート1.jpg クラバート2.jpg


少年・少女の物語


結局のところ、人間が一番興味をもつのは人間であり、その中でも一番の関心は「自分」だと思います。自分は、どうして自分になったのか、ということを是非知りたい。

  日本とは何かを知りたいのも、その一環です。自分の思考パターンが日本文化、その中でも特に日本語に強く影響されていることは確かです。ではその文化の特質は何か。それを知るためには「日本でないもの」を知る必要があります。特に、現代日本が強く影響されている欧米文化を知りたいわけです。

人の性格形成に子ども時代から中学・高校あたりまでが重要なことは言うまでもないでしょう。最近の脳科学からしても、その時期に脳は急速に成熟します(No.169「10代の脳」)。才能面でも、たとえば画家の才能は、環境さえあれば10代で開花することは明らかです(No.190「画家が10代で描いた絵」)。ヴァイオリニストなどもそうです(No.11「ヒラリー・ハーンのシベリウス」)。

世界中で少年・少女の物語が書かれてきました。このブログでも『クラバート』のほかに、『少公女』『ベラスケスの十字の謎』『赤毛のアン』について書きました。映画では『千と千尋の神隠し』です。これらのいずれの物語も親の影は薄く(千尋以外は、孤児か、孤児相当)、主人公はそれまでとは全く異質な環境に放り込まれて、そこで仲間とともに成長していくことが共通しています。

それ以外にも、少年・少女を主人公にした数々の名作があります。我々が大人になっても少年・少女の物語に惹かれるとしたら、それは「自分とは何か」を知りたいからであり、その答えの重要なポイントが少年・少女の時期にあると直観してるからだと思います。




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No.190 - 画家が10代で描いた絵 [アート]

No.46「ピカソは天才か」で、バルセロナのピカソ美術館が所蔵するピカソの10代の絵をとりあげ、それを評した作家の堀田善衛氏の言葉を紹介しました。

実は、ピカソの10代の絵は日本にもあって、美術館が所蔵しています。愛知県岡崎市に「おかざき世界こども美術博物館」があり、ここでは子どもたちがアートに親しめる数々のイベントが開催されているとともに、日本を含む世界の有名画家が10代で描いた絵が収集されています。この中にピカソの10代の絵もあるのです。

私は以前からこの美術館に一度行ってみたいと思っていましたが、そのためだけに岡崎市まで行くのも気が進まないし、何か愛知県(東部)を訪問する機会があればその時にと思っていました。

ところがです。今年(2016年)のお盆前後の夏期休暇に京都へ行く機会があったのですが、たまたま京都で「おかざき世界こども美術博物館」の作品展が開催されていることを知りました。会場はJR京都駅の伊勢丹の7階にある「えき」というギャラリーで、展示会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」(2016.8.11 ~ 9.11)です。これは絶好の機会だと思って行ってきました。

世界の巨匠たちが子どもだったころ.jpg


ピカソのデッサン


今回の展覧会の "目玉作品" がピカソの14歳ごろの2つの絵で、いずれも鉛筆・木炭で描かれた石膏像のデッサンです。展覧会の図録によると、ピカソの石膏像のデッサンは30点ほどしか残されていないそうで、つまり大変貴重なものです。振り返ると、No.46「ピカソは天才か」ではバルセロナにある別のデッサンと堀田善衛氏の評言を紹介しました。

この2点は、2000年に「おかざき世界こども美術博物館」がスペインの個人収集家から買い取りました。つまり岡崎で世界初公開された絵であり、それを京都で鑑賞できたというわけです。

ピカソ:女性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆
(1894-95 頃。13-14歳)

ピカソ:男性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ
男性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆と木炭
(1895。14歳)

この2つのデッサンは、比べて見るところに価値がありそうです。石膏の女性像と男性像ですが、「静」と「動」の対比というのでしょうか。女性像の顔や髪は大変なめらかで、静かな雰囲気が出ています。特に、目尻から頬をつたって口元に至る造形と陰影の美しさは格別です。伏し目で静かにたたずんでいる女性。そういった感じが出ています。

比較して男性像の方は、顔が少しゴツゴツした感じです。髪もボリューム感がずいぶんあって "波打っている" ようです。荒々しいというと言い過ぎでしょうが、それに近い感じを全体から受けます。大きく描かれた影が強烈な光を想像させ、石膏像はその光に "立ち向かっている" というイメージです。

この2枚は、単に石膏像をリアルにデッサンしたという以上に、対象の本質に迫ろうとするピカソ少年の意図を感じます。13-14歳でこのような描き方ができたピカソは、やはり希有な画家だと思いました。



展示されていたピカソ以外の絵は、ヨーロッパの画家でいうと、モネ、ムンク、ロートレック、デュフィ、クレー、ビュッフェ、カシニョール、シーレなどでした。

また、日本人画家の10代の絵も多数展示されていました。日本画と洋画の両方です。以下はその中から何点か紹介します。


水彩画・2点


日本人画家の絵は多数あったので迷うのですが、まず水彩画を2点、岸田劉生と佐分 真さぶり まことの絵を取り上げます。

岸田劉生:秋.jpg
岸田劉生(1891-1929)

紙、水彩
(1907。16歳)

この岸田劉生の水彩の一番のポイントは、まず画面下半分の「道、土手、川」を大きく右に湾曲させた構図でしょう。「道、土手、川」の曲がり具合いが少しずつ違っていて、絵にリズムを生んでいます。画面の上半分に描かれた樹と家屋はどっしりと落ち着いていて、この上半分と下半分の対比が構図のもう一つのポイントです。全体の描き方は細やかで写実的です。

風景画はこういう風に描くのだという、お手本のような絵です。16歳のときの絵ですが、すでに "できあがっている" という感じがします。劉生は38歳という若さで亡くなったのですが、もっと長生きすれば「麗子像」のように強烈なインパクトを与える作品をいろいろと生み出したはずと思いました。16歳にしてこれなのだから。

佐分真:裏庭.jpg
佐分 真(1898-1936)
風景(裏庭)
紙、水彩
(1912。14歳)

佐分真は、岸田劉生と同じく38歳で亡くなった画家です。この絵も劉生と同じく構図がいいと思いました。庭の縁と屋根の線が画面の中心に向かっていて、それによって遠近感を出しています。画面の上に描かれた木の枝と、下の方の木の陰もうまく配置されている。

全体は淡い中間色ですが、各種の色がちりばめられています。のどかな昼下がりの裏庭の感じが、その空気感とともに伝わってきます。画家になってからの佐分真の絵は、明暗を利かせた、重厚で厚塗りの油絵が多いのですが、それとはうって変わった "爽やかな" 絵です。14歳で描いたのだから、あたりまえかも知れません。



その他、日本の洋画家では、坂本繁二郎、青木繁、安井曾太郎、小出楢重、古賀春江、村山隗多、東郷青児、関根正二、山下清などが展示されていました。


日本画


日本画もいろいろありました。鏑木清方、奥村土牛、山口華陽、平山郁夫、田渕俊夫などです。この中からひとつを取り上げると、伊東深水の「髪」と題した作品が次です。

伊東深水:髪.jpg
伊東深水(1898-1972)

絹本着彩
(1913。15歳)

伊東深水:髪(部分).jpg

伊東深水は佐分真と同年の生まれで、この「髪」は佐分の水彩画と同時期に描かれました。伊東深水は美人画で有名ですが、15歳で描いたこの絵をみると、すでに画家として成り立っている感じです。絹本けんぽんを横長に使い、女性の横顔をとらえて髪を表現するという描き方が斬新です。一目みて忘れられない印象を受けました。


高村咲子の日本画


高村咲子さくこは、高村光太郎の6歳上の姉です。この展覧会では、高村咲子が9歳から14歳で描いた5点が展示されていました。今回はじめて、光太郎に "画家" の姉がいたことを知りました。

高村咲子が "画家" として知られていないのは、わずか15歳で亡くなったからです。光太郎が10歳の時です。せめて関根正二のように20歳頃まで生きたとしたら「夭折の画家」と言われたのかもしれませんが、咲子は「夭折の画家」にもなれなかった。

しかし咲子の技量は、子どもにしては卓越しています。下に掲げた「鶴」と「猿」は、今でいうと小学生の高学年の絵ですが、とてもその年頃の子どもが描いたとは思えません。

今回の展覧会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」でした。多くの画家の10代の絵が展示されていたのですが、高村咲子だけは「画家が子どもだった頃の絵」ではなく「子どもで人生を終えた "画家" の絵」というのが印象に残りました。

高村咲子:鶴.jpg
高村咲子(1877-1892)

絹本墨彩
(1888。11歳)

高村咲子:猿.jpg
高村咲子
絹本墨彩
(1889。12歳)


絵画の原点


展覧会全体の感想です。有名画家の絵がいろいろあったので、画家として名をなした以降の作品を思い浮かべながらの鑑賞もできました。

芸術家としての画家は個性を追求します。自分にしかない画風というのでしょうか、描くモチーフや描き方について、その人にしかないという独自性を追求するわけです。絵をみて「あの画家の作品だ」とか「見たことのある画風の絵だ」と思わせる "何か" です。

しかしこの展覧会の絵は、そういった画風を確立する以前に描かれたものです。そこに感じるのは、描く対象を見きわめようとする少年・少女の真剣な姿勢です。そこは多くの絵で共通している。絵画の原点がよく分かった展覧会だったと思いました。




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No.189 - 孫正義氏に潰された日本発のパソコン [技術]

No.175「半沢直樹は機械化できる」の補記(2016.9.18)に書いたのですが、みずほ銀行とソフトバンクは 2016年9月15日、AI(人工知能)技術を使った個人向け融資の新会社設立を発表しました。そのソフトバンクとAIについては、AI技術を使ったロボット「ペッパー」のことも No.159「AIBOは最後のモルモットか」で書きました。

二つの記事でソフトバンク・グループの孫正義社長の発言や人物評価に簡単にふれたのですが、今回は、その孫正義氏に関することを書きます。最近、ソフトバンク・グループが英国・ARM(アーム)社を買収した件です。以前に強く思ったことがあって、この買収でそれを思い出したからです。


ソフトバンクが英国・ARM(アーム)社を買収


ソフトバンク・グループの孫正義社長は、2016年7月18日にロンドンで記者会見をし、英国・ケンブリッジにあるARM社を240億ポンド(約3兆3000億円)で買収すると発表しました。ソフトバンクがボーダフォン日本法人を買収した金額は1兆7820億円、米国の電話会社・スプリントの買収は1兆8000億円ですから、それらを大きく上回り、もちろん日本企業の買収案件では史上最大です。

ARM(アーム)は、コンピュータ、パソコン、スマートフォンなどの心臓部である「マイクロ・プロセッサー」を設計する会社です。

  コンピュータで演算や情報処理を行う半導体チップがマイクロ・プロセッサー(Micro Processor)であり、MPU(Micro Processing Unit)とか、CPU(Central Processing Unit)とも呼ばれます。以下「マイクロ・プロセッサー」ないしは単に「プロセッサー」と書きます。

現代のマイクロ・プロセッサーの有名メーカーはインテルで、Windowsが搭載されているパソコンにはインテル製、ないしはそれと互換性のある(=代替可能な)マイクロ・プロセッサーが組み込まれています( "インテル、はいってる" )。

ARMがインテルほど一般に有名でないのは、ARMはマイクロ・プロセッサー(= 半導体チップ)そのものを製造する会社ではなく、マイクロ・プロセッサーの "設計仕様" と、その仕様に基づいて作られた "設計データ" を開発している会社だからです(専門用語で "アーキテクチャ" と "IPコア")。マイクロ・プロセッサーの開発会社はARMから "設計データ" を購入し、それに自社の設計データも付加して、そのデータをもとにマイクロ・プロセッサーを製造します。製造は自社の工場で行うか、ないしは台湾などの製造専門会社に委託するわけです。

ARMの "設計データ" の大きな特長は、それをもとに作られたマイクロ・プロセッサーの電力消費量が少ないことです。そこがARMのノウハウであり、技術力です。この特質があるため、現在の世界のスマートフォンの90%以上は、ARM仕様の(=ARMの "設計仕様" か "設計データ" を使った)半導体チップになっています。Androidのスマートフォンのみならず、アップルもARMから設計仕様を購入しています。

ちなみに、日本最速のスーパー・コンピュータ "けい" の後継機種である "ポスト京" を計画している富士通は、そのプロセッサーとして「スパコン拡張版のARM仕様」の採用を発表しました(2016.6.20)。富士通が出した拡張要求に ARM社が同意したことがポイントのようです。ARMはスパコンにも乗り出すということです。そしてスパコンで磨いた技術をもとに、現在はインテルなどが席巻している「業務用サーバ機」という巨大なコンピュータ市場を狙うのでしょう。

ARM-HP-Printer.jpg
ヒューレット・パッカード(HP)のプリンタに搭載された、ARM仕様のマイクロ・プロセッサー。半導体チップの製造メーカ・STマイクロエレクトロニクスのロゴとARMのロゴが見える(画像はWikipediaより)。

ところで、ARMという会社の名前は元々、

  Acorn RISC Machine

の略称でした。今は Advanced RISC Machine の略とされているようですが、元々は Acorn RISC Machine だった。この英単語の意味は以下の通りです。

  Acorn
  ドングリ
RISC
  Reduced Instruction Set Computer の略。処理可能な命令の種類が少ないマイクロ・プロセッサー。処理可能な命令の種類が少ないとプログラムの量が増えて非効率にみえますが、マイクロ・プロセッサーの回路がシンプルになり、個々の命令の実行速度は上がります。その兼ね合いの最適なところを狙って設計するのがRISCです。

ここでなぜ "Acorn(=ドングリ)" なのかというと、ARM社の前身が「エイコーン・コンピュータAcorn Computers)」という、英国のケンブリッジに設立された会社だったからです。


エイコーン・コンピュータ


エイコーン・コンピュータは、1978年に設立されたコンピュータ会社です。Acornと命名したのは、そこから芽が出て大きな木に成長するという意味だとか、また電話帳で Apple より前に記載されるようにだとか言われています。余談ですが、そのAppleという名前はスティーヴ・ジョブズが働いたこともあるゲーム会社・Atariより電話帳で前に来るようにしたという説があります。

エイコーン・コンピュータが大きく伸びたのは、1980年代から1990年代前半にかけて、イギリスの教育用コンピュータ(当時のマイコン。今のパソコン)の市場を独占したからです。

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BBC Micro(1982~1986)。画像はWikipediaより
イギリスの公共放送のBBCは、これからの時代におけるコンピュータの重要性に気づき、コンピュータ教育を推進するため、BBC Computer Literacy Project を1980年に開始しました。この一環で "BBC Micro" というマイコンを開発することになりました。このときイギリス政府は、開発企業を英国企業にするようにという強い指導を行ったのです。いろいろと経緯があって、最終的に選ばれたのはエイコーン・コンピュータでした。その "BBC Micro" は1982年に発売されました。ちなみに、公共放送が教育に関与するのは日本と似ています。

1980年代、イギリス政府は全国の学校にコンピュータを導入する補助金をばらまき、また教師の訓練やコンピュータ関連プロジェクトにも補助金を出しました。このとき最も売れたのが "国策コンピュータ" の "BBC Micro" とその後継機種だったわけです。当然、エイコーン・コンピュータの売り上げは伸び、会社は発展を遂げます。そして1980年代の半ばにエイコーン・コンピュータ社内で始まったのが、全く新しい設計思想(=RISC)のマイクロ・プロセッサーを開発する "ARMプロジェクト" だった。だから "Acorn RISC Machine" なのです。そのARMプロセッサーを搭載した BBC Micro の後継機種は英国の学校にも導入されました。

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BBC Microの後継機種である, Acorn Archemedes(1987)。ARM仕様のマイクロプロセッサーが搭載されている。下位機種はBBC Archemedesのブランドで学校に導入された(画像はWikipediaより)
エイコーン・コンピュータはその後、いくつかの会社に分割されましたが、マイクロ・プロセッサー部門は ARM社として生き残り、現代のスマートフォンで世界を席巻するまでになりました。

以上の経緯を振り返ってみると、ソフトバンク・グループが買収した ARM は、英国政府と公共放送の施策に従って開発された「英国発の学校用コンピュータ」にルーツがあると言っていいわけです。もちろん現代のARMは、当時のマイクロ・プロセッサーからすると技術的に比べられないほど進化を遂げています。あくまでルーツをだどるとそこに行き着くという意味です。

1990年代半ばより、マイクロソフトのWindowsがメジャーになり、それに従って、マイクロ・プロセッサーとしてはインテル製品が普及しました。インテル(とアップル)のプロセッサーが、パソコン用として世界を制覇したわけです。

しかしARMは "英国発" の技術として生き残り、生き残っただけではなく特定分野(スマートフォン)では世界を席巻するまでになりました。その源流はと言うと、政府肝入りの教育用コンピュータだったのです。



ここで話は日本に飛ぶのですが、実は日本においても、日本発のコンピュータの基本ソフト(OS)とパソコンが、日本の教育現場に大量導入されてもおかしくない時期があったのです。そのコンピュータ基本ソフトが、坂村健・東大教授の TRON(トロン)です。


TRONプロジェクト


TRONはコンピュータの基本ソフト(OS:Operating System)です。コンピュータの作りを簡略化して言うと、まずハードウェアがあり、その中核がマイクロ・プロセッサーです。そのマイクロ・プロセッサーで動作するのが基本ソフト(OS)であり、基本ソフトの上で動作するのが各種のアプリ(アプリケーション・プログラム)です。現代のパソコンの基本ソフト(OS)の代表的なものは、マイクロソフト社の Windows や、アップル社の iOS です。

その意味で、TRON(= OS)は ARM とは位置づけが違います。ARMはマイクロ・プロセッサー(=ハードウェア)の設計仕様だからです。しかし TRON も ARM も、コンピュータの動作を基礎で支える基本的な技術であることには変わりません。むしろパソコンやスマートフォンを考えると、一般利用者から見た使い勝手はマイクロ・プロセッサーよりも基本ソフト(OS)に強く影響されます。そのためパソコンメーカーは、基本ソフト(OS)の仕様に合うようにパソコンのハードウェア全体を設計し、販売しています。

  なお、TRONプロジェクトでは各種の技術が開発されていて、中には "TRONチップ" のようなマイクロ・プロセッサーそのものもありますが、以下の記述での TRON は基本ソフト(OS)としての TRON に話を絞ります。

TRONプロジェクトではまず、機械に組み込まれたマイクロ・プロセッサーでの使用を前提とした ITRON( I は Industry )が開発されました。TRONは The Real-time Operating system Nucleus であり、Real-timeというところに「機器組み込み用」という本来の狙いが現れています。さらにTRONプロジェクトでは、一般の個人が家庭や学校、職場で使うパソコン用に BTRON( B は Business )が開発されました。以下はその BTRON の話です。


BTRON


BTRON プロジェクトを主導したのは、坂村教授と松下電器産業(現、パナソニック)であり、1985年に開発がスタートしました。BTRONを開発し、その仕様に合ったパソコンを開発しようとしたのです。BTRONは次第に知名度を高め、賛同するパソコン・メーカーも増えてきました。そしてこの開発と平行して、全国の学校にパソコンを設置する話が持ち上がったのです。イギリスから数年遅れということになります。

以下、日経産業新聞に連載された坂村教授の「仕事人秘録」から引用します。下線は原文にはありません。


当時の文部省と通産省が作ったコンピュータ教育開発センター(CEC、現日本教育情報化振興会)という団体があった。86年にCECはパソコン教育の必要性から、全国の学校にハソコンを配備しようとしていた。そのパソコンの標準OSとしてBTRONを検討したのだ。

その理由は私がロイヤルティー ── つまり使用料をとらなかったのと、世界中のメーカーが開発に参加できるようにしたことへの評価だった。全国の学校にトロン仕様のパソコンを配備するとなればその影響は大きい。我々は勇みたったが、そのことが大きな反動を生むとは、このときは思いもしなかった。

坂村 健「仕事人秘録⑧」
日経産業新聞(2014.7.31)

コンピュータ教育開発センター(CEC)がBTRONを教育用パソコンの標準OSとして検討するというニュースは大きく報道され、パソコンに関心があるメーカーが次々に参入した。

そのなかで乗り気でなかったのがNEC。すでにマイクロソフトのOS「MS-DOS」を使った「PC98」シリーズで成功を収めていた。BTRON仕様のパソコンとは食い合わせが悪かったのだろう。教育用パソコンの標準化自体にも反対していたが、最終的にはMS-DOSでもBTRONでも動くパソコンを作ることで合意した。

坂村 健「仕事人秘録⑨」
日経産業新聞(2014.8.1)

教育用パソコンの標準OSにBTRON、という動きに対して、当時はマイクロソフトのOS、MS-DOSをかつぐ勢力があり、それで成功していた会社もあったというのがポイントです。このことが、その後の "異様な" 展開を引き起こすのです。


潰された BTRON



そんな時、いきなり飛び込んできたのが、米通商代表部(USTR)がトロンを米通商法スーパー301条の候補に入れたというニュース。

今でもはっきり覚えている。1989年のゴールデンウィークで、私は長野県内の山小屋で休暇を過ごしていた。衛星放送でテレビを眺めていたら、突然トロンの名前が持ち上がったのだ。

これには驚いた。なにしろトロンは米国へ輸出などしていないし、誰でも無料で使える。米IBMも使っていたほどで、IBMの三井信雄副社長(当時)からは「ウチもトロンパソコンを作ろうとしていたのに、こういう間違いがどうして起こったのか」という心配の電話をもらった。

しかし、米国の不動産を買いあさるなどした日本の経済力への警戒が米国内で高まっており、冗談事ではないとすぐにわかった。ただ、マスコミは面白がって煽り、TRONがやり玉にあがった

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.1)

1980年代後半というと、日本の経済力が飛躍的に伸びた絶頂期であり、バブル景気とも言われた時期です。アメリカとの貿易摩擦もいろいろと起った。そういう時代背景での出来事です。


米国のUSTRに文句を言ったら、すぐに会いたいとのこと。面会すると「どこからの申請とは言えないが、米国の企業に不利との訴えがあれば、まず制裁候補に挙げる。だから何か反論があれば言ってほしい」と言う。私は米国のメーカーだって使っているOSで、米国の不利益にはならないと主張したら、「調査する」と約束してくれた。

1年ほどして結局、トロンは制裁対象から外れるが、面倒事に関わりたくないメーカー100社近くがBTRONから手を引いた。政府内でも米国の機嫌を取りたい人たちは「パソコンのOSなんか米国から買えばいい」と言う。

まだ大した市場になっていないパソコンの、それもOSの規格などどうでもいいと思ったのだろう。今振り返れば、この先見性の無さが現在の情報通信分野における日本の苦境につながったと思う


マスコミは日の丸パソコンが日米の貿易障壁のように書き立てた。この件は米マイクロソフトが仕組んだに違いないとか様々な噂が流れたが、後に思いがけない事実が明らかになる

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.1)

無料の(今で言う "オープン・ソース" の)基本ソフト(OS)を "国を越えて" 使っても、それは貿易ではないので貿易摩擦を生むはずがありません。唯一、BTRONが広まると困るのは「既存の有料のパソコン用OSやそのアプリでビジネスを展開している日米の人たち」であることは明白なわけです。そして実際その通りだったことは、坂村教授が「後に思いがけない事実が明らかになる」と書いているように、後で判明します。


1999年に出版された「孫正義 起業の若き獅子」(大下英治著、講談社)。孫氏の自伝的なノンフィクションだ。この本によると、当時の孫氏はパソコン用ソフトを米国から輸入していた。国がトロンを優遇し、ほかのソフトを閉め出そうとしているとして、トロン潰しに動いたという

後にある人の仲介で孫氏に会った。彼は「若気の至りで ・・・・・・。不愉快に思われたら、遺憾です」と言った

制裁対象から外れた後、米国政府から食事をしながら話がしたいという誘いがあった。港区にあるホテルに出向くと「調査の結果、トロンにまったく問題ないことがわかったが、先生に迷惑がかかったなら残念だ」と言われた。

米国の大学の先生も一緒にいて、技術論で盛り上がった。私の研究を高く評価し「米国の大学に来ませんか」と誘ってきた。そのときに「今回の件は日本側の事情のようですね」とやんわり言われた。当時は何の話かわからなかったが、後から考えると孫氏のことだったのだろう

この事件が与えた影響は大きく、BTRONから次々に日本の企業が脱退した。文部省などによる教育用パソコンの事業もなくなった。

坂村 健「仕事人秘録⑩」
日経産業新聞(2014.8.4)

現在のソフトバンク・グループは「情報通信業」であり、数々の事業を手がけていますが、元はというとソフトウェアの卸(=流通業)や出版をする会社でした。上の引用にあるような米国のソフトを輸入販売する立場から言うと、そのソフトはマイクロソフトやアップルのOSで動くように作られたものです。従って、日本で BTRON ベースのパソコンが広まるのは、孫氏のビジネスにとってはまずいわけです。だから "トロン潰し" に動いた。

この事件が坂村教授に「不愉快な思い」をさせただけならどうということはないのですが、それよりも坂村教授が一つ前の引用で語っているように、日本の情報通信産業に与えたダメージが大きかったわけです。

しかし、トロンが無くなったわけではありません。坂村教授の述懐を続けます。


トロンプロジェクトの本命である組み込み機器用ITRONは着実に広がっていた。デジタルカメラの普及のきっかけとなるカシオの「QV-10」や、90年代に立ち上がってきた携帯電話などに使われた。

ただ、貿易摩擦時に政府やマスコミがトロンを悪役扱いした影響か、トロンを自社製品に使っていることを公にしたいメーカーはほとんどなかった。

ただ、90年代後半になると、このようなトロンの現状に同情してくれたのか、トロンを正当に評価すべきだと言ってくれる人々が現れた。特に当時の三菱電機の常務で、トロン協会の専務理事にもなった中野隆生氏にはお世話になった。中野氏はあらゆる機会でトロンの独自技術や自由な開発環境を整える重要性を主張してくれた。

中野氏は多くのメーカーに「トロンを使っているならば公表してほしい」とまで言ってくれた。こうした手助けのおかげで99年にトヨタ自動車が SUV「プラド」にトロンを使ったことを発表。2003年にはNHKの番組「プロジェクト X」でトロンが取り上げられるなど、徐々に再認識されるようになった。

坂村 健・日経産業新聞(2014.8.4)


孫正義氏の "TRON 潰し"


孫正義.jpg
「孫正義 起業の若き獅子」
大下英治著
(講談社。1999)
坂村教授が言っているように、孫正義氏の "TRON 潰し" は「孫正義 起業の若き獅子」(大下英治著。講談社。1999)に書かれています。

当時、孫正義氏は情報産業や学界に"TRON反対" を説いて回るのですが、コンピュータ教育開発センター(CEC)は1988年1月にBTRONを教育用パソコンの標準OSとすることを決めます。一発逆転を狙った孫正義氏は1989年に入ってまもなく、ソニー会長の盛田昭夫氏に依頼し、通産省の高官とじかに話をしようとします。そのあたりの記述です。

(以下の引用では、漢数字を数字にしました。また段落を再構成しました。下線は原文にはありません)。


翌日、さっそく盛田から電話が入った。「機械情報産業局長の棚橋祐治君に電話を入れた。彼も、ぜひ君に会いたいと言っている」

孫はその日の夕方、棚橋局長と会った。棚橋局長は、あらためて孫から話を聞き眉をひそめた。「こいつは、ちょっとやっかいですね。どうしたらいいでしょう」

孫は言った。「僕に転換させるいいアイデアがあります。方法論については後日お話しますから、ちょっと待っていてください」「わかりました。では事務方については林という課長がいますので、そのものと話を詰めてください」

孫は林良造情報処理振興課長と話を詰めた。いよいよ通産省の幹部を巻きこみ、TRON壊滅へのレールが敷かれはじめた

そんな矢先の1989年4月28日、アメリカ通商代表部が各国ごとの貿易障壁を調査した「貿易障壁報告」を発表した。日本に対しては、たばこ、アルミニウム、農産物、医薬品・医療機器、電気通信・無線・通信機器、自動車部品、流通制度など34項目がヤリ玉にあげられた。その中の一つにTRONも含まれていた。

孫が危ぶんでいたように "TRONを小・中学校に導入しようとしているのは、政府による市場介入" だとする懸念を指摘していた。「貿易障壁報告」はスーパー301条の参考になる。つまり、TRON はスーパー301条の対象となっていた。孫は日本の報道機関が発表する前に、その情報を手に入れていた

(それみたことか!)

孫が林課長に電話を入れようとしてたときに、林の方から電話が入った。林の声は上ずっていた。「えらいことになりました」

孫はにやりとした。

「いえ、そうでもないですよ。このときこそ千載一遇のチャンスです。この機を逃したら、予算もなにもつけて動いている国家プロジェクトを潰すチャンスは二度とないでしょう。スーパー301条をたてにすれば相手もほこをおさめやすい。これを口実に一気にTRONを潰したほうがいいです」

「そうだ。きみのいうとおりだ」

通産省は小・中・高校における TRON仕様機を中止した。教育機関に TRON が蔓延するのをまさに波打ち際で止めることができたのであった。

大下英治
「孫正義 起業の若き獅子」
(講談社。1999.8.2)

坂村教授がアメリカ通商代表部に面会したとき、通商代表部側は「どこからの申請とは言えないが、米国の企業に不利との訴えがあれば、まず制裁候補に挙げる」と答えました。誰が TRON をアメリカ企業に不利だと申請したのか、大下英治氏の本には書いていません。しかしその申請者は、ソフトの流通業をやっていたソフトバンク=孫氏だと推測させるような書き方がされています。つまり、

「僕にいいアイデアがあります」と、孫氏が語ったこと
貿易障壁報告の内容を、報道される前に知っていたこと

の2点です。孫氏の「いいアイデア」とは何か、本には書かれていませんが、その後の経緯から推測できます。また坂村教授は、長野県の山小屋での休暇中に衛星放送テレビの報道で貿易障壁報告を知りました。つまり坂村教授にとってUSTRの貿易障壁に TRON があげられることは、全くの "寝耳に水" だったわけです。事前に何らかの噂でもあったのなら、TRONプロジェクトのリーダーの耳に入らないはずがない。

しかし孫氏は明らかに報告が出るのを注視していました。注視していたからこそ、報道以前に知り得たのです。わざわざ注視していた理由は一つしかないと思われます。


英国と日本の落差


孫氏の "TRON潰し" の行動は、別に悪いことではないと思います。孫氏のような「政治的な動き」も駆使して自社ビジネスに有利な状況を作ろうとすることは、大企業なら多かれ少なかれやっているし、米国企業だとロビイストを使った "正式の" 手段になっています。

そもそもソフトバンクの過去からの企業行動を見ていると、独自技術をゼロから育てるつもりはなく、技術は買ってくればよいという考えのようです。ましてや、日本発の技術を育てようとは思わないし、そこに価値を見い出したりはしない。

そのような企業のトップとして孫氏は「TRON潰しは、我ながらよくやった」と、今でも思っているはずです。孫氏が坂村教授に語った「若気の至り」は、あくまで社交辞令であって、そんなことは心の中では全く思っていないでしょう。しかし、TRONプロジェクトのリーダに会った以上、そうとでも言うしかない。



それよりも、日本の "BTRON事件" で思うのは、このブログの最初に書いた英国と比較です。つまり、日英の官庁とマスメディアの、あまりにも大きい落差です。英国政府とマスメディア(BBC)は、断固として英国発の技術を使ったコンピュータを全国の学校にばらまく。それは(今から思うと)最終的には Windowsパソコンに置き変わることになったとしても、その中からARMのような世界を席巻する技術が生まれる。

片や日本の官僚は、ソフト流通業のトップといっしょになって日本発のコンピュータを潰しにかかる。通産省(当時)の機械情報産業局というと、日本の情報産業を育成する立場の組織です。その官僚が日本発の技術をつぶしていたのでは "日本国の官僚組織" とは言えないでしょう。まるでアメリカ商務省の出先機関です。それに輪をかけて、日本のマスメディアは貿易摩擦をおもしろおかしく書き立て、火に油を注ぐ。結果として起こった火災は、日本発のパソコンを壊滅に導いた・・・・・・。



最初に「ソフトバンク・グループの ARM 社買収で、以前に強く思ったことを思い出した」と書いたは、ARM(英国)とTRON(日本)の対比であり、日英の官庁の落差でした。

この対比において、日英の官庁の落差に加えてもう一つ重要なことがあります。官僚がTRON潰しに邁進したにもかかわらず、TRONは機器組み込み用のITRONとして生き残ったという事実です。ARMほどではないにしても・・・・・・。それは坂村教授というより、TRONを支えた日本の多数の技術者の功績のはずです。

新しいものを生みだそうという努力には敬意を払いたい、それが英国の ARM であっても日本の TRON であっても・・・・・・。そういう風に思いました。



 補記:ソフトバンクの ARM 買収 

記事の最初に書いたソフトバンクグループの ARMアーム社買収について、朝日新聞の大鹿記者が内情を書いていました。興味ある内容だったので、その前半3分の2ほどを紹介します。記事全体の見出しは「3.3兆円で買収した千里眼」です。「千里眼」の意味は以下の引用の最後に出てきます。まず、孫正義社長が買収を切り出した場面です。


エーゲ海に臨むトルコの景勝地マルマリス。ソフトバンクグループの孫正義社長は今年7月4日、ここのヨットハーバーに面するレストランを借り切った。

ランチに招いたのは、英半導体設計会社ARMアームホールディングスのスチュアート・チェンバース会長(当時)とサイモン・シガースCEO(最高経営責任者)。地中海で休暇中のチェンバース氏に、孫氏が急な面談をもちかけたところ、指定されたのが彼のヨットが寄港するこの港町だった。

ふだんは米シリコンバレーにいるシガース氏は、トルコへ呼び出されたことをいぶかしんだ。その1週間前、夕食をともにした孫氏から「IoT(モノのインターネット化)に関して何か一緒にできないか」と意味深長な提案を受けていたからだ。「買収だろうか。いやいや提携の申し入れぐらいだろう・・・・・・」

打ち解けた雰囲気のなか料理を楽しんでいると、孫氏が切り出した。「我が社なら御社の事業を加速できる。だから買収したい」

日本企業として過去最高の3.3兆円の巨額買収という大勝負に出た瞬間だった。それは、彼が10年越しで温めていた案だった。

朝日新聞(2016.10.24)
(大鹿靖明)

記事では続いて、この10年間の孫社長の動きが紹介されています。ボーダフォン日本法人を買収した直後から、アーム社買収の構想を練り始めたようです。


孫氏がアームに魅力を感じたのは、2006年に英ボーダフォンの日本法人(現ソフトバンク)を買収して間もないころ。シガース氏は、すでに「アームに淡い気持ちを抱いていた」という孫氏と東京で携帯電話の将来について語り合っている。孫氏側近の後藤芳光財務部長は当時をこう語る。「孫さんは『通信事業も大事だが携帯に入るチップ(半導体)はより重要だ。アームという面白い会社があるんだ』と言い出した。僕らへの刷り込みが始まっていた」

米通信大手スプリント買収を計画した12年、孫氏の念頭にアーム買収もよぎったが、「より直接的な相乗効果がある」と同業のスプリント買収を先行させた。だが、「毎年のようにアーム買収の研究をしてきた」(後藤氏)という。

パソコンのCPU(中央演算装置)は米インテルが制したが、携帯電話やスマートフォンの9割以上にアームが設計した中核回路(コア)が搭載。アームは低消費電力で小型化できる利点から携帯むけ回路設計で頭角を現し、今やアームのコアが組み込まれた半導体の年間出荷数は148億個以上にもなる。

孫氏は、保有する中国ネット通販大手アリババ株を一部売却するなど2兆円余りの軍資金を用意すると、一気に動きだしたのだった。

朝日新聞(2016.10.24)

2006年にソフトバンクがボーダフォンの日本法人を買収して間もないころ、アームのシガース氏は孫氏と東京で携帯電話について語り合った、とあります。このころ、スマートフォンはありません。iPhoneの米国発売は2007年、日本発売は2008年です。アームとソフトバンクを引きあわせたもの、それは日本の携帯電話だったわけです。日本の高度に発達した携帯電話のチップとして、省電力性能に優れたアーム仕様のチップが広まった。アームと日本のかかわり合いを示すエピソードです。

続く記事では、ソフトバンクがアームを買収した理由が出てきます。


IoT「次」は何?

英ケンブリッジ大に近いアーム本社の展示室には、一見ハイテク機器とは無縁な帽子やフォークが並んでいる。「中にチップが入っています」と社員。「この靴の中敷き。寒くなると自然と発熱します。スキー場や冬山で使えますね」。IoTで意外なものへのチップ搭載が進み、アームのコアへの需要は激増しそうなのだ。

アームは1990年、英コンピュータ会社から独立した12人のエンジニアが創業した。半導体業界でその成り立ちは特異だ。インテルや東芝などの半導体メーカーは開発から製造、販売まで自社で担う垂直統合型が一般的。だがアームは設計に特化した。回路の設計図をメーカーに売り、製品に搭載されたコアの知的財産権の使用料も収入源となる。量産工場はもたない。

創業メンバーの一人、マイク・ミュラーCTO(最高技術責任者)は「アイデアはあったが資金がなかったからね」と笑う。垂直統合型の半導体メーカーは毎年巨額投資が必要だし、過剰生産は値崩れを呼ぶ。量産工場をもたないアームはそうしたリスクを避けられる。売上高営業利益率は40%という高業績ぶり。企図せずに進化したビジネスモデルとなった。

最終製品の性能を決定する回路設計の担うだけに、注文は早い段階で舞い込む。シガース氏は「開発中のものは2、3年後に完成し、その後、出荷に1、2年かかる。消費者が製品として手にするまでにさらに数年」と言う。5~10年先の製品の回路設計に、いま取り組んでいるのだ。

シガース氏はソフトバンクとの相乗効果について「まったくない」と即答。むしろ孫氏に買収された背景をこう受け止める。「孫社長は『次に何がくるのか』と非常に気にしている。アームを買収したことで、次は何が重要なのか、どんな分野に投資すればいいのか、そいういうことが分かるのではないか

設計図の納入先との契約は新オーナーの孫氏にも秘密だが、今後の潮流ぐらいは占うことができる。孫氏の側近の後藤氏は「アームに集まる情報で未来を予測できる。ライフスタイルがどう変わるのか予見できるようになる」とみる。アームは孫氏にとって未来を見通す「千里眼」になりそうだ。

朝日新聞(2016.10.24)

「アームは1990年、英コンピュータ会社から独立した12人のエンジニアが創業した」という表現には注意が必要です。アーム仕様を最初に開発したのは、このブログ記事に書いたように "エイコーン・コンピュータ" です。アーム(ARM)の "A" は、もともとエイコーン(Acorn = ドングリ)の "A" だった。そのエイコーンの半導体回路設計部門が独立してアーム社になった。アーム仕様はベンチャー企業が独自に開発したのではありません。そのアームのルーツをたどると英国の学校用コンピュータに行き着くことは、このブログ記事に書いた通りです。

シガース氏がアームとソフトバンクの相乗効果は全くないと即答したのは、全くその通りだと思います。相乗効果が無いからこそ、独占禁止法に触れることなく買収できたのでしょう。インテルがアームを買収するのは無理というものです。

しかし記事にあるように、孫氏が「千里眼」を獲得するためにアームを買収したというのはどうでしょうか。確かにそういう面もあるでしょうが、「千里眼」のために3.3兆円というのはいかにも高すぎる。3.3兆円の裏には冷徹な計算があるはずです。

アームのビジネスモデルは、チップの設計仕様(アーキテクチャ)や回路設計データ(コア)を半導体メーカーに供与し、半導体が売れるたびに製品価格の何%かを収入として得るというものです。これは特許ビジネスと同じです。しかもアームのコアは、情報産業で言う "プラットフォーム" の一種です。いったんプラットフォームを握ると、そのビジネスは長期に続く可能性が高い。パソコン・スマホのOS(マイクロソフト、アップル、グーグル)、パソコンのCPU(インテル)がそうです。プラットフォームを乗り換えるには "コスト" がかかるのです。

プラットフォームを握り、日銭ひぜにを稼ぐ。それがアームのビジネスモデルです。つまり安定的な売り上げが見込める。この点は、ソフトバンクが過去に買収したボーダフォン日本(その前身はJ-Phone)、スプリントという携帯電話のビジネスと似ています。激しい競争はあるものの安定している。1年後に売り上げが30%ダウンなどどいう状況は、まず考えられません。しかもアームは設計に特化しているため、営業利益率が40%という高収益企業です。孫社長は今後のソフトバンクグループの成長戦略を描くために、そこに魅力を感じたのだろうと思いました。

(2016.11.7)



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No.188 - リチウムイオン電池からの撤退 [技術]

今までの記事で、リチウムイオン電池について2回、書きました。

No.39 リチウムイオン電池とノーベル賞
No.110 リチウムイオン電池とモルモット精神

の二つです。No.39はリチウムイオン電池を最初に作り出した旭化成の吉野氏の発明物語、No.110はそのリチウムイオン電池の製品化(量産化)に世界で初めて成功した、ソニーの西氏の話でした。

そのソニーですが、リチウムイオン電池から撤退することを先日発表しました。その新聞記事を振り返りながら、感想を書いてみたいと思います。No.110にも書いたのですが、ソニーのリチウムイオン電池ビジネスの事業方針はブレ続けました。要約すると次の通りです。

盛田社長・岩間社長・大賀社長時代(1971-1995)
  携帯機器用電池・自動車用電池を推進。1991年、世界で初めて携帯機器用を製品化。車載用は日産自動車のEVに供給。
出井社長時代(1995-2000)
  自動車用電池から撤退(1999年頃)
安藤・中鉢・ストリンガー社長時代(2000-2012)
  自動車用電池に再参入を表明(2009年、2011年の2回)
平井社長時代(2012-)
  電池ビジネス全体の売却を検討し(2012年末)、それを撤回(2013年末)

この詳しい経緯は、No.110「リチウムイオン電池とモルモット精神」に書きました。こういった事業方針の "ブレ" が過去にあり、そして今回の発表となったことをまず押さえておくべきだと思います。

SonyLion.jpg
(site : www.sony.co.jp)


撤退の発表、村田製作所への事業売却


2016年7月28日、ソニーはリチウムイオン電池から撤退を発表しました。それを報じた日本経済新聞の記事から引用します。以下、アンダーラインは原文にはありません。

(日本経済新聞 1面記事)

ソニー、電池事業売却
 リチウムイオン 村田製作所に

ソニーは28日、電池事業を村田製作所に売却すると発表した。ソニーはスマートフォン(スマホ)などに使うリチウムイオン電池を世界で初めて実用化したが、韓国勢との価格競争などで赤字が続き、事業継続は難しいと判断した。業績回復が続くなかでも不採算事業の切り離しを進め、競争力の高い画像センサーなどに集中する(関連記事11面に)。

福島県郡山市やシンガポール、中国など国内外に5カ所ある電池工場を2017年3月末をメドに売却する。ソニーブランドのアルカリ乾電池などの消費者向け販売事業は売却の対象外となる。

ソニーの電池事業の15年度の売上高は1600億円。今後具体的な売却条件を詰め、10月に正式に譲渡契約を結ぶ。売却額は400億円を下回る見通しで、売却損が発生する可能性がある。

同社は2次電池として幅広く使われるリチウムイオン電池を1991年に世界で初めて実用化したが、電池事業は10年度以降、14年度を除いて営業赤字が続いていた。

村田はスマホ部品でシェアを高めており、電池などエネルギー分野の強化も目指している。産業機器向けや車載向けのリチウムイオン電池の開発を続けてきた。

日本経済新聞(2016.7.29)

高性能2次電池の重要性は誰もが理解できるわけです。スマホや電気自動車は言うに及ばず、ロボットやドローンが21世紀に真に普及するかどうかの重要な鍵は "電池" です。ソニーの経営陣も存続させるかどうか迷ったでしょう。しかし存続するためには投資をしなければならないが、その投資は "非中核事業" と位置づけてしまった以上、優先度の観点から難しいということだと思います。「関連記事11面に」とあるように、日本経済新聞の11面に解説記事がありました。

(日本経済新聞 11面記事)

ソニー、収益改善を優先
 電池事業売却 赤字体質抜け出せず

ソニーが電池事業の切り離しを決めた。1991年に繰り返し充電できるリチウムイオン電池を世界で初めて実用化したが、パソコン向けの電池で過熱・発火の問題が発生して増産投資を手控えると、サムスンSDIなど韓国勢との競争が激化して赤字体質から抜け出せなかった。非中核事業となった電池に見切りを付けて収益改善を優先する。

ソニーは2012年ごろに日産自動車などとの事業統合を試みるなど、電池事業のリストラを模索した経緯があるが、スマートフォン(スマホ)向けの受注が増えた13年末には単独で事業を延ばす方針に転換していた。

だが競争環境は厳しいままだ。15年のリチウムイオン電池の世界シェアは前年の4位から5位に後退した。電気自動車向け電池への再参入も表明したが実現していない。画像センサーやゲームを中核事業に位置づけるソニーにとって、赤字が続く電池事業に「これ以上投資するのは難しい」(幹部)状況になった。

村田製作所は自動車やエネルギー分野に注力する方針を示している。車載部品は連結売上高の15%まで育ったが、エネルギー事業の規模は小さく、M&Aが必須とされていた。

村田はソニーから電池事業を買収すれば生産設備や事業ノウハウを一気に取得できると判断した。採算が厳しいモバイル機器向けのリチウムイオン電池も、村田の生産技術や顧客網を活用すれば改善できると見ている

村田はリチウムイオン電池より性能や安全性が優れた「全固体電池」と呼ぶ次世代電池も見据える。「全固体電池の研究が進んでいる」(村田製作所の藤田能孝副社長)というソニーの技術と村田の生産技術を組み合わせ、将来の市場で先行する戦略を描いている。

日本経済新聞(2016.7.29)

記事の中に「パソコン向けの電池で過熱・発火の問題が発生して」とあるのは、2006年のことです。ソニー製リチウムイオン電池の不具合により、米国を含むパソコンメーカが回収を余儀なくされまた。

リチウムイオン電池の過熱・発火事故というと、ソニーの事業売却の発表があった1ヶ月後の 2016年9月2日、韓国サムスン電子は、Galaxy Note7の回収を発表しました。グループ会社であるサムスンSDIが製造したリチウムイオン電池の発火事故が報告されたからです。対象となる台数は全世界で250万台といいます。ソニーの撤退の理由の一つとして「サムスンSDIなど韓国勢との競争が激化して」と日経の記事にあったのですが、ほかならぬそのサムスンSDIが問題を起こしたわけです。

振り返ってみると、2016年1月にも パナソニック製の一部の電池に、最悪の場合は発火の危険性があることが判明し、東芝のノートパソコンなどの該当機種が回収されました。ソニーの2006年の事故以来、消費者向け製品の回収事件はこれだけでなく、もっとあったと記憶しています。

リチウムイオン電池の安全性については、当初からの課題だったわけです。No.39「リチウムイオン電池とノーベル賞」の「補記4」に、ソニーで世界初の製品化を主導した西氏が「開発をためらった」という話を書きましたが、それはつまり安全性に懸念があったからです。ソニーが1991年に最初に製品化してから既に25年が経過しました。25年もたってまだ安全性の問題が解決できないのかと思ってしまいますが、この25年の間、リチウムイオン電池に求められ続けたのはコンパクト化・大容量化・低コスト化です。これらの市場の要求と安全性の両立が非常に難しいようです。この課題を根本的に解決するのが、日本経済新聞の記事にある「全固体電池」です。

「全固体電池」とは、電池の電解質に固体を使う電池です。リチウムイオン電池は、正極、負極、正極と負極の間の電解質、正極と負極を分離するセパレータから構成されていますが、現在の電池は電解質に有機溶媒液を使っています。このため液漏れのリスクがあり、最悪の場合は過熱から発火事故につながったりします。この電解質を固体(たとえばリチウムイオンを伝導できるセラミックス)で置き換えるのが全固体電池です。現在、各社が開発を競っていて、試作品も作られています。

とにかく、村田製作所への事業譲渡は決まりました。村田製作所に果たして成算はあるのかどうか。上の引用における「生産技術」と「全固体電池」がキーワードのようです。これについて日本経済新聞・京都支社の太田記者が、村田製作所の立場から解説を書いていました(村田製作所は京都が本社です)。


ソニーの電池事業は「利益は(黒字と赤字の)トントン」(藤田ソニー副社長)。ただ毎年10%の値下げを要求される電子部品の世界で培った(村田製作所の:引用注)生産技術と緻密な生産管理は定評があり、採算改善は可能とみているようだ。

さらに村田が見据えるのはリチウムイオン電池に比べ容量や寿命が格段に大きい「全固体電池」と呼ぶ次世代電池。同電池は村田が高い世界シェアをもつセラミックコンデンサの基盤技術である「積層技術」が必要とされる。ソニーの技術と、村田の生産技術を組み合わせ、次世代市場でも先行を狙う考えだ

日経産業新聞(2016.7.29)
(京都支社 太田順尚)

村田製作所の経営陣の判断を日経の記事から要約すると、以下のようになるでしょう。

村田製作所の生産技術と生産管理のノウハウをもってすると、現在のソニーのリチウムイオン電池事業は黒字化できる。

ソニーの「全固体電池」の研究は優れている。村田製作所が持つセラミックコンデンサの積層技術とを合わせて、次世代の「全固体電池」を新事業に育てられる。

の2点です。この村田製作所の経営陣の判断が正しいかどうかは分かりませんが、リチウムイオン電池を研究中という村田製作所にとっては、一気にエネルギービジネスに進出するチャンスと見えたのでしょう。村田製作所はまだ電池の生産ラインさえ持っていない段階です。

しかし「全固体電池」は世界的にみても試作レベルであり、量産技術が確立しているわけではありません。現在のリチウムイオン電池より安全性で上回ったとしても、大容量・コンパクト・コストのすべてで上回わらないと製品化はできないわけで、これは並大抵ではないと思います。従って、少なくとも現在のリチウムイオン電池が韓国勢と競争できるレベルになるのが必須条件でしょう。村田製作所の経営陣は、これが可能だと判断したと考えられます。


技術評論家の見方


ソニーが電池事業を村田製作所に売却する発表を受けて、技術評論家の志村幸雄氏がコラムを書いていました。以下にコラムの感想とともに引用します。アンダーラインは原文にはありません。


ソニー、電池事業売却
 往年の活力いまいずこ

7月下旬、ソニーが電池事業を電子部品大手の村田製作所に譲渡することで合意した。両社共同の報道資料によれば、双方のポートフォリオ戦略上の観点からも、事業の持続的拡大を図るうえでも、適切な対応だったとしている。だが、ソニーが1991年、今日主流のリチウムイオン電池を世界で初めて製品化し、長らく市場で先導的な役割を果たしてきたことを考えると、それほど説得力のある判断とは言いがたい。

志村幸雄
日経産業新聞(2016.9.6)

ソニーは1991年、リチウムイオン電池を世界で初めて製品化(量産技術を確立)しました。しかし、このブログの最初に書いたように、その後のソニーの電池ビジネスの方針はブレ続けたわけです。2012年末から2013年にかけて(現・平井社長の時代)は、一度、電池ビジネスの売却を検討しています。志村氏が言うように「長らく市場で先導的な役割を果たしてきた」のかどうか、それは疑問でしょう。志村氏のコラムを続けます。


ソニー側にしてみれば、リチウムイオン電池といえども価格競争によるコモディティ(日用品)化の波に洗われ、2010年度以降は14年度を除いて赤字事業と化していた。その元凶が韓国勢の安値攻勢にあるというのだが、高い技術力を蓄積してきたはずのソニーの実力をもってしても、性能・品質面での勝機はつかめなかったのか。

聞くところでは、ソニーは売り上げ構成比の大きいスマートフォン向けで米アップル社の iPhone 最新機種への採用を逸したとされ、その原因が「容量や充電速度に問題があった」と同社首脳の1人も認めている。「バッテリーウォーズ」などという言葉が飛び交う過剰な熱気の中で、こんな腰の引けた対応ではいかにもふがいない。

日経産業新聞(2016.9.6)

志村氏の指摘は、ソニーの電池事業の売却の要因は「技術力の低下」ではないかということであり、その象徴が「米アップル社の iPhone 最新機種への採用を逸した」ことだというわけです。この iPhone 最新機種とは、2016年9月8日に発表された iPhone7 /7 Plusのことでしょう。


リチウムイオン電池は技術的に成熟したと見る向きもあるが、異常発熱などの安全性の問題や大容量材料の開発も含めてまだ課題が山積しており、その限りで伸びしろのある技術領域なのだ。

一方、ソニーは今回の決定にあたって、リチウムイオン電池の市場性を過小評価してはいなかったか。最近では、電気自動車、電力貯蔵装置への急ピッチな普及、ロボット、ドローン、電動工具、そしてフォークリフトなど重機への採用が進んでいる。ソニーが得意とする消費者向けでも「ポケモンGO」の爆発的な人気による特需が生まれた。

日経産業新聞(2016.9.6)

志村氏が「リチウムイオン電池は伸びしろのある技術領域」というのは全くのその通りだと思います。上に書いたように、ソニーもパナソニックもサムスンSDIも問題を起こしている。それだけ難しい技術領域であり、逆にいうと未開拓技術がある領域なのです。

一方、志村氏が「ソニーは今回の決定にあたって、リチウムイオン電池の市場性を過小評価してはいなかったか」と書いているのは、ハズレていると思います。リチウムイオン電池の市場性は誰もが理解できるからです。ドローンをとってみても、積載重量を増やして長時間の飛行を可能にするには、電池の大容量化(かつコンパクト化)が必須です。ドローンが真に21世紀の大産業になるかどうかは、電池にかかっているわけで、これは素人でも理解できます。

そもそも "経営判断" というのは、

誰しも将来性を疑っている分野ではあるが、事業の成長を見越して経営資源を投入する

誰しも成長領域だと思っているが、経営資源を別領域に集中させるために、あえて撤退する

のどちらかです。「誰もが将来性を疑っている分野から撤退」したり、「誰もが成長分野と思っている事業に経営資源を投入」するのは、どの企業でもやっている "普通の事業の進め方" であって、経営判断と言うには "おこがましい" わけです。

ソニーの「リチウムイオン電池からの撤退」が正しい経営判断かどうかは分かりませんが、少なくとも "経営判断" と言うに値することは確かでしょう。「誰もが成長領域だと思っているが、あえて撤退する」のだから・・・・・・。志村氏のコラムは次のように結ばれています。


こんなことを考えながら、ソニー創立50周年記念誌「源流」を開くと「夢のリチウムイオン電池」と題した1章がある。新会社ソニー・エナジー・テックを中核に、ソニーグループ挙げての事業となった経緯を詳述。最後に「ソニーは先陣を切って開発に成功した後、高いシェアを維持し、リーディングカンパニーとしての地歩を固めた」と結んでいる。

ソニーこれまでにも、いったんは製品化したロボット、有機ELモニターなどに、なぜか中断や撤退策を講じている。世に言う「モルモット企業」から「日和見企業」に転じては、往時の活力いまいずこと言わざるをえない。

日経産業新聞(2016.9.6)

以降は、ソニーのリチウムイオン電池からの撤退についての感想です。


継続発展の難しさ


ソニーの電池ビジネス売却のニュースを読んで思うのは、新事業を創出し、かつそれを発展させることの難しさです。No.110「リチウムイオン電池とモルモット精神」に書いたように、いわゆる「モルモット精神」を発揮して世界で初めてリチウムイオン電池の量産技術を確立したのがソニーでした。しかし、そうして新事業を創出したあとの第2ステップが問題です。

第2ステップで必要なのは、参入してくる企業とのグローバルな競争に勝つことと、次世代技術への開発投資です。競争を勝ち抜くためにはコスト優位性が必須であり、そこでは生産技術や生産管理が大きなポイントになります。しかしこの領域は、新事業を創出するマインドや人材とは必ずしも同じではない。

またコスト優位性を確立できたとして、そこで得た利益を次世代技術の研究開発に投資する必要がありますが、「今成功しているのに、あえてリスクをとる必要があるのか」という意見が上層部から出てきます。

ソニーでリチウムイオン電池の製品化をした西氏によると、ソニーが角型リチウムイオン電池(携帯電話やノートPC用)に出遅れたのは「丸型で儲かっているのだから、あえてリスクをとる必要はない」という、当時の事業部長の反対だそうです(No.110「リチウムイオン電池とモルモット精神」の「補記1」参照)。リスクを恐れて保身に走る上層部の "不作為" がビジネスの足を引っ張るわけです。丸型・角型の件は、リチウムイオン電池の歴史全体からすると小さな件かもしれませんが、一つの典型例だと考えられます。

第2ステップでも成功するには、第1ステップ以上のハードルがある。そういうことを思いました。


ブレ続けた経営方針


最初に書いたように、ソニーのリチウムイオン電池ビジネスについての経営方針はブレ続けたわけです。自動車用電池については、1990年代に日産自動車のEVに電池を供給しながら、そこから撤退し、2000年代後半に再参入を表明したもののそれを実現させず、2012~2013年には電池ビジネス全体の売却を検討し、それを撤回する、といったブレようです。志村氏のコラムに「腰の引けた対応」とありましたが、それは今に始まったことではなく "歴史" があるのです。

こうなると、優秀な人材の継続的な確保は困難でしょう。たとえば自動車用電池に参入するときには、モバイル用電池の世界初の製品化を行った優秀な人材を投入したはずです。自動車メーカの安全に対する要求はモバイル用とは比較にならないぐらい厳しいからです。しかしそのビジネスから撤退してしまう・・・・・・。中核となっていた技術者は「やってられない」と思ったでしょう。2012~2013年に撤退の検討をしたときには、もうこれで終わりと、多くのこころざしがある技術者が思ったはずです。競合他社に移籍した人も多いのではないか。転職のオファーは国内外を含め、いくらでもあったでしょう。ソニーでリチウムイオンをやってるのだから。

リチウムイオン電池のような "奥深い" 技術領域については、志のある優秀な研究者、技術者、人材の継続的な確保が必須だと思います。それには、電池を会社のコア事業と位置づける一貫した経営方針が大前提となるはすです。


"世界初" から撤退する意味


技術評論家の志村氏が指摘しているように、ソニーは「自らが作り出した世界初の製品」について、撤退や中断の判断をしています。

AI型ロボット(AIBO)
有機ELテレビ
リチウムイオン電池

の3つです。AI型ロボット(AIBO)については、No.159「AIBOは最後のモルモットか」No183「ソニーの失われた10年」に書いた通りです。2006年に撤退し、2016年に再参入を発表しました。

この3つとも、ソニーが初めて製品化したのみならず、「誰もが今後伸びるだろう、重要だろうと思える領域」であるのが特徴です。もちろん、先ほど書いたように「伸びる領域だが、経営資源をコアビジネスに集中させるために撤退・中断する」という意志決定はありうるわけです。

ここで不思議なのは、有機ELテレビの表示装置である「有機ELディスプレイ(パネル)」です。

ソニーという会社は「映像と音響に関するビジネスをコアだと位置づけていて、そこからは撤退しない会社」だと思っていました。テレビ、ウォークマン、ビデオ、デジタル・カメラ、画像センサー、放送局用の映像装置、ゲーム機、映画などです。最新の製品でいうと、VR(仮想現実)機器もそうでしょう。「映像と音響」はソニーの "祖業" ともいえるもので、だからコアなのです。この定義からすると、AI型ロボット(AIBO)とリチウムイオン電池は「コア領域ではない」と言えないこともない。

XEL-1.jpg
ソニーの11型有機ELテレビ XEL-1。2007年12月発売。2010年1月生産終了。
(site : www.sony.co.jp)
しかし有機ELディスプレイは違います。それはソニーにとってコアのはずです。かつてソニーはブラウン管の時代にトリニトロンを発明し、かつ、平面トリニトロンまで開発・実用化しました。この大成功が、逆に液晶ディスプレイに出遅れることになったわけですが、それを取り戻すべく、液晶の次と位置づけたのが有機ELディスプレイだったはずです。ソニーは2007年12月に11インチの「有機ELテレビ」を世界で初めて商品化しました。しかしなぜか中断してしまった(最終的には、パナソニックとともに有機ELディスプレイの事業をジャパンディスプレイに事業統合。2015年にJOLED - ジェイオーレッド - が設立された)。

困ってしまった日本の有機EL材料メーカ(出光興産など)や製造装置メーカ(キヤノントッキなど)は、韓国メーカとの提携を進め、現在、有機ELディスプレイはLG電子(テレビ向け)とサムスン電子(スマホ向け)の独壇場です。

リチウムイオン電池からの撤退を報じた日経新聞に「画像センサーなどに集中する」とありました。「映像の入り口」が画像センサー(イメージセンサー)です。では「映像の出口」であるディスプレイはどうなのか。それはコア事業ではないのか。もちろん液晶テレビの建て直しに資源集中するためなどの経営判断なのでしょうが、不可解感は否めません。

人のやらないことをやるのが "ソニー・スピリット" だとすると、リチウムイオン電池、AIBO、有機ELディスプレイには、それを開発した技術者の "誇り" と "思い" が込められているはずです。自分たちこそ "ソニー・スピリット" の体現者だという・・・・・・。その世界初のビジネスからの撤退は、当然、人材の流出を招くでしょう。No.55「ウォークマン(2)」で引用しましたが、元ソニーの辻野晃一郎氏(VAIO開発責任者)は「未踏の領域に足を踏み入れて全く新しいものを生みだそうというソニーのスピリット」を踏まえて、次のように語っています。


私は、ソニーとは企業ではなく、生き方だと考えています。

辻野晃一郎
元ソニーのVAIO開発責任者
朝日新聞(2012.3.14)

VAIOは斬新な機能をもったパソコンだったのは確かですが、パソコンそのものは世界初でも何でもありません。パソコンの開発責任者でさえこうなのだから、世界初の製品(リチウムイオン電池、AIBO、TVに使える中大型の有機ELディスプレイ)を作り出した技術者は、辻野氏のような思いが人一倍強いのではないでしょうか。撤退することは、"ソニーという生き方" をしてきた、その人たちの存在理由を否定することになるでしょう。


ソニー・スピリット


リチウムイオン電池の話に戻ります。紹介した志村氏のコラムの最後に、ソニーは世に言う「モルモット企業」から「日和見企業」に転じたと、手厳しいことが書いてありました。

ソニーが、当時発明されたばかりのリチウムイオン電池の製品化に乗り出したのは1987年です(No.39「リチウムイオン電池とノーベル賞」の「補記4」参照)。2017年3月に村田製作所への事業譲渡が完了するとしたら、ソニーのリチウムイオン電池事業の生命いのちは30年だった、ということになります。

もし今後、仮にです。村田製作所がリチウムイオン電池を黒字転換させ、かつ、次世代電池(全固体電池)でも成功をおさめるなら、巨視的に長いスパンで見て「ソニーはモルモットの役割だった」と言えるでしょう。しかし、それでもいいから "人のやらないことをやれ" というのが、ソニー創業者である井深大氏の教えでした。それを改めて思い返しました。



 補記1 

SONY A1Eシリーズ(77型)-CES2017.jpg
SONY AE1シリーズと平井CEO
- CES 2017 にて -
(site : www.phileweb.com)
2017年1月5日から8日の日程で、米・ラスベガスでCES(セス)が開催されました。ここでソニーの平井社長は有機ELテレビへの再参入を発表しました。ブラビア A1E シリーズで、画面は 77/65/55型の3種類(4K)です。ユニークなのは「画面そのものから音を出す」機能があることです。有機ELだからこそできた、とありました。もちろん有機ELディスプレイ(パネル)は他社から調達するそうです。

このブログ記事で「ソニーは映像と音響に関するビジネスからは撤退しない会社と思っていたが、有機ELディスプレイからは撤退してしまった」との主旨を書きました。確かに有機ELディスプレイからは撤退したのですが、有機ELテレビのビジネスは中断しただけであり、撤退はせずに再参入したということでしょう。

しかも新しい有機ELテレビは「映像と音響を一体化させた」製品であり、スピーカーなしでちゃんとステレオ・サウンドが出る。いかにもソニーらしいし、誰もやらないことをやるというソニー・スピリットの発揮に見えます。有機ELテレビに再参入ということより、未踏の世界に挑戦した(している)ことの方が大切でしょう。これからのソニーに期待したいと思います。

(2017.1.6)


 補記2 

このブログの本文に、村田製作所がソニーのリチウム電池事業を買収することを書きました。買収は2017年4月に完了する見込みです。一方、2017年2月3日付の日本経済新聞に、サムスン電子が村田製作所とリチウム電池の調達交渉中とありました。これには本文にも書いた Galaxy Note7 の発火事故が関係しています。日経新聞の記事を以下に引用します。


村田製作所と協議
 サムスン スマホ充電池の調達

【ソウル=山田健一】  韓国サムスン電子が今春発売予定の新型スマートフォン(スマホ)「ギャラクシーS8」に採用する充電池の調達について、村田製作所と協議を始めたことが、2日分かった。サムスンは昨年発売した最上位機種の発火事故で、足元のスマホ販売が低迷。信頼回復が最優先課題となるなか、日本メーカーとの取引を通じて信頼性の高い調達体制の構築をめざす。

サムスンは「S8」を、昨年の発売後に発火事故が相次いだ「ギャラクシーノート7」に代わる最上位機種に位置づける。同社は先月下旬、「発火事故は充電池が原因」とする調査結果を発表した。充電池の調達戦略はスマホ事業復活のカギを握る。

村田は昨年7月、ソニーの電池事業を買収すると発表した。買収は今年4月中に完了する見通し。サムスンはソニーが開発したリチウムイオン電池の実績と信頼性を評価しているもよう。

ノート7の充電池は、サムスンSDIとTDK子会社のアンプレックステクノロジーの2社購買だった。サムスンによると2社の充電池は、設計ミスと製造ミスといったそれぞれ別々の原因で発火事故を誘発した。

2社購買を3社購買に改めれば、リスクは低減する。サムスンは充電池を韓国LG電子から調達することも検討したが、S8での搭載は見送る公算が大きい。S8にアンプレックス社の充電池を採用することも確定していない。サムスンと村田の協議次第では、SDI社と村田の2社購買に変わる可能性も残る。

日本経済新聞(2017.2.3)

村田製作所のリチウム電池事業の買収と、Galaxy Note7 の発火事故の経緯を時間を追って書くと以下のようになります。

2016年7月28日
ソニーはリチウムイオン電池事業を村田製作所に売却すると発表。

2016年8月19日
サムスン電子がGalaxy Note7 を発売。その直後から発火事故が相次いだ。

2016年9月2日
サムスン電子が Galaxy Note7 の全世界での出荷と販売を停止。販売済みの250万台を回収へ。それまでの発火事後は35件と報告された。

2017年1月23日
サムスン電子は発火事故の原因がバッテリーにあったと最終的に発表。バッテリーの供給会社はサムスンSDIとアンプレックス・テクノロジー(Amperex Technology Limited = ATL。香港)であるが、それぞれ別の原因であるとされた(報告で供給会社の名称は伏せられていた)。なお、アンプレックス・テクノロジーは日本のTDKが2005年に買収しており、TDKの子会社である。

2017年2月3日
日本経済新聞が「サムスン電子が村田製作所とリチウム電池の調達を交渉」と報道。

もし仮に、サムスン電子が村田製作所からリチウムイオン電池を調達することになると、村田製作所は大手供給先を確保することになります。これは赤字続きだった旧ソニーのリチウムイオン電池事業を立て直す上で大きなプラス要因になるでしょう。ソニーはアップルの最新スマホの受注を逃したわけであり(本文参照)、それ挽回する商談です。サムスンとの取引で利益が出るかどうかは分かりません。サムスンは厳しい品質基準を突きつけてくるはずだし、競争相手が韓国・香港企業では価格的にも厳しいでしょう。しかし一般に生産規模の拡大はリチウムイオン電池の部材調達コストを下げるので、事業全体としてはプラスになることは間違いないと思います。

こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、村田製作所がソニーのリチウムイオン電池事業を買収した直後に起こったサムソン製品の発火問題は、結果として村田製作所にとってラッキーだったと言うしかないでしょう。しかも、発火事故の当事者の一つであるアンプレックス・テクノロジーは TDK の子会社であり、その TDK は電子部品事業において村田製作所の最大のライバルメーカーなのです。またサムスン電子にとって「ソニーからリチウムイオン電池を調達するのはハードルが高いが、村田製作所からだとやりやすい」ということが当然考えられるでしょう。

急激に技術が進歩していくエレクトロニクス業界においては何が起きるか分からない例として、日経新聞の記事を読みました。

(2017.2.7)



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No.187 - メアリー・カサット展 [アート]

今回は、横浜美術館で開催されたメアリー・カサット展の感想を書きます。横浜での会期は 2016年6月25日 ~ 9月11日でしたが、京都国立近代美術館でも開催されます(2016年9月27日 ~ 2016年12月4日)。

メアリー・カサットの生涯や作品については、今まで3つの記事でとりあげました。

No.86 ドガとメアリー・カサット
No.87 メアリー・カサットの「少女」
No.125 カサットの「少女」再び

の3つです。また次の2つの記事ですが、

No.93 生物が主題の絵
No.111 肖像画切り裂き事件

No.93では、カサットの愛犬を抱いた女性の肖像画を引用し、またNo.111では、ドガが描いた「メアリー・カサットの肖像」と、その絵に対する彼女の発言を紹介しました。これら一連の記事の継続になります。

メアリー・カサット展ポスター.jpg
メアリー・カサット展
横浜美術館
(2016年6月25日~9月11日)
絵は「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880。36歳。ロサンジェルス美術館蔵)


浮世絵版画の影響


Mary Cassatt - Photo.jpg
1867年(23歳)に撮影されたメアリー・カサットの写真。彼女がパリに到着した、その翌年である。手にしているのは扇子のようである。フィリップ・クック「印象派はこうして世界を征服した」(白水社。2009)より。
今回の展覧会の大きな特徴は、画家・版画家であるメアリー・カサット(1844-1926)の "版画家" の部分を念入りに紹介してあったことです。カサットの回顧展なら当然かもしれませんが、今まで版画をまとまって見る機会はなかったので、大変に有意義な展覧会でした。

彼女が版画を制作し始めたのは日本の浮世絵の影響ですが、その浮世絵の影響はまずドガ(1834-1917)との交流から始まりました。カサットがドガに最初に出会ったのは1877年(33歳)です。その時点でドガ(43歳)は、モネやマネやといった初期印象派の仲間でも熱心な日本美術愛好家でした。横浜美術館の主席学芸員の沼田英子氏は、メアリー・カサット展の図録の解説「メアリー・カサットと日本美術」で、次のような主旨の解説しています。

 ・・・・・・・・

カサットの『桟敷席にて』にみられるような、人物をクローズアップして遠景との関係を際立たせる手法は、ドガが広重などの浮世絵から想を得て、オペラのオーケストラやカフェ・コンセールの場面に用いたものと類似しています。

オーケストラ席の楽師たち.jpg 桟敷席にて.jpg
エドガー・ドガ
「オーケストラ席の楽師たち」
(1870/72)
シュテーデル美術館
(フランクフルト)
メアリー・カサット
「桟敷席にて」(1878)
ボストン美術館
この絵はロンドンのコートールド美術館にあるルノワールを絵を踏まえて描かれたと想像するのだが、どうだろうか。

浜辺で遊ぶ子供たち.jpg
メアリー・カサット
「浜辺で遊ぶ子どもたち」(1884)
ワシントン・ナショナル・
ギャラリー
また『海辺で遊ぶ子供たち』のように場面を俯瞰的にとらえ、地面や床面を "地" のようにして人物を浮き上がらせる構図は、ドガがバレエのレッスン場面でよく用いているものです。ドガはそれを浮世絵の室内表現から着想したと考えられています。─── そう言えばカサットの『青い肘掛け椅子の少女』も室内を俯瞰的な構図で描いていました(No.87「メアリー・カサットの少女」No.125「カサットの少女再び」参照)。

ドガは1886年の印象派展に沐浴する裸婦のパステル画を出品してセンセーションを起こしました。西洋画の伝統での裸婦は、神話の女神として描かれていたからです。しかし浮世絵では、半裸の女性が行水をする場面や髪をくしけずる場面はよく描かれていた画題です。ドガはこれを取り入れ、普通の女性が沐浴する一瞬を覗き見たような視点で描きました。そしてカサットも、タオルで体を拭くセミヌードの女性や、髪を整える女性の姿を描いています。

さらにドガは、西洋銅版画の技法を使って絵画的な版画を作る試みを始めていましたが、カサットもドガにさそわれ、ドガの版画の道具とプレス機を借りて版画を制作しました。

 ・・・・・・

以上のように、カサットはまずドガを通して浮世絵版画の影響を受けたのですが、版画家・カサットの誕生にとって決定的だったのは、1890年にパリで開かれた日本版画展でした。


版画家:メアリー・カサット


1890年4月25日から5月22日まで、パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で「日本版画展」が開催されました。カサットが46歳になる直前のころです。


カサットは、この「日本版画展」に感激し、少なくとも二回は会場に足を運んでいる。一回目は開催初日にドガと一緒に出かけている。その4日後にはベルト・モリゾに次のように書き送っている。

「もしよろしかったら、こちらで私たちと食事をしませんか。その後で、ボザールで開催中の日本版画展を一緒に見に行きましょう。あなたはこの展覧会を絶対に見逃してはいけません。色彩版画を作りたいのなら、これ以上美しいものなど想像できないでしょう。それは私の夢にも現れ、色彩銅版画のことしか考えられません」

カサットがいかにこの展覧会に夢中になったかがわかるだろう。モリゾは、1988年頃から多色刷りリトグラフに関心を寄せており、この喜びを共有できる仲間だったのである。モリゾはマラルメに宛てた手紙の中で、

「水曜日にカサットさんのところで食事をし、ボザールのすばらしい日本美術を見に行きます」

と書いている。ふたりは、5月7日に一緒に展覧会を見に行ったと考えられる。これらのエピソードは、カサットがこの展覧会でいかに浮世絵版画に夢中になったかを伝えているが、それは、この後の作品にも影響を与えることになる。

沼田英子(横浜美術館・主席学芸員)
「メアリー・カサットと日本美術」
メアリー・カサット展・図録 所載
(改行を付加しました)

日本版画展.jpg
日本版画展のポスター
(1890。パリ・国立美術学校)
カサットは少なくとも2回「日本版画展」を見に行った、1回はドガと一緒に(4月25日)、1回はベルト・モリゾと一緒に(5月7日)というわけです。会期は5月22日までなので、さらに行ったことも十分に考えられるでしょう。

彼女はこの「日本版画展」を見た後、すぐに多色版画の制作に取りかかり、1891年に25部限定の10点組の銅版画を完成させました。いずれもパリの女性の日常生活のシーンをとらえたものです。近代版画の傑作ともいうべき作品ですが、メアリー・カサット展ではこの10点の版画が全部展示されていました。今回の展覧会の "目玉展示" と言っていいと思います。

  ちなみにこの展覧会では、銅版画の各種の技法を実物とともに解説した展示がありましたが、よい企画だと思います。その銅版画技法の中から、カサットの版画作品に使われている「ドライポイント」「エッチング」「ソフトグランド・エッチング」「アクアチント」の制作工程を、この記事の最後に掲載しておきます。

その、10点組の多色銅版画ですが、以前の記事で紹介した作品を含めて3点だけをあげます。

The fitting.jpg
メアリー・カサット
「仮縫い」(1890/91)
アメリカ議会図書館
(site : www.loc.gov)

No.87「メアリー・カサットの少女」でも紹介した『仮縫い』という作品です。No.87ではタイトルを『着付け』としましたが、英語題名は『The Fitting』なので『仮縫い』がより適当でしょう。用いられた技法はドライポイントとアクアチントです。ドライポイントで銅版に直接線を描き、アクアチントで作った版で色をつけるという技法です(この記事の末尾の銅版画の説明参照)。

この版画の女性の姿態、ポーズで直感的に思い出すのは、喜多川歌麿や鈴木春信の浮世絵作品です。歌麿の作例を次にあげます。カサットは、こういったタイプの浮世絵を踏まえて制作したのだと思います。

歌麿・青楼十二時 子の国.jpg
喜多川歌麿
青楼十二時せいろうじゅうにときの刻
川崎・砂子の里資料館
(大浮世絵展・2014 図録より)

次の『沐浴する女性』は、No.86「ドガとメアリー・カサット」の「補記」で紹介したように、ドガが「女性にこれほどみごとな素描ができるとは、認めるわけにはいかない」と評したものです。この作品もドライポイントとアクアチントで制作されています。No.86では『化粧』としましたが、英語題名は「Woman bathing = 沐浴する女性」です。

Woman bathing.jpg
メアリー・カサット
「沐浴する女性」(1890/91)
アメリカ議会図書館

次の『ランプ』は、ソフトグランド・エッチングとドライポイント、アクアチントが使われています。まず紙に下絵を描き、ソフトグランド・エッチングで輪郭線をなぞって版を作る(この記事の末尾の銅版画の説明参照)。細部はドライポイントで直接描き、さらにアクアチントの版で色を付けるという作り方です。

The lump.jpg
メアリー・カサット
「ランプ」(1890/91)
アメリカ議会図書館

いずれの作品でも目立つのは線の美しさです。版画なので陰影は(ほとんど)なく、線だけで女性の仕草の美しさやふくよかさを表現しています。ドガが感嘆するのも分かります。


デッサンの技量


もちろん版画家・カサットの作品は、浮世絵版画の影響で作られたものだけではありません。伝統的な西洋銅版画の技法、デッサン、絵のモチーフで作られたものも多いわけです。その例が「メアリー・カサット展」の出口付近に展示されていたドライポイントの12作品です。その中の一つが次の版画です。

ソファに腰かけるレーヌとマーゴ.jpg
メアリー・カサット
「ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ」
(1902。58歳)
アメリカ議会図書館

こういった版画作品は "モノトーンの小品" なので、油絵の大作が並んだ中に展示されると見過ごすことが多いと思うのですが、この12作品は必見です。とにかく、カサットのデッサンの技量が優れていることが直感できます。ドライポイントは、銅版の表面をニードルで直接に線刻する技法です。もちろん紙に鉛筆などで素描を何枚か描き、構想を固めたところで銅版にとりかかるのでしょうが、線刻のやり直しはできません。的確な線の集まりで対象をとらえるメアリー・カサットの技量に感心しました。



デッサンの技量に関係すると思うのですが、油絵や版画にかかわらず、カサット作品には「難しいアングルから顔を描いた」ものがいろいろあることに気づきました。実は『バルコニーにて』という油絵作品の音声ガイドで、そう指摘していたのです。

On th Balcony.jpg
メアリー・カサット
「バルコニーにて」(1873。29歳)
フィラデルフィア美術館

「難しいアングル」とは、顔を上方から見下ろしたり、下方から見上げたり、また斜め後ろ方向から捉えたりといったアングルです。上に引用した『ランプ』や『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』のマーゴ(少女)がまさにそうで、普通の絵画・版画作品にはあまりないような方向から女性の顔をとらえています。この記事の最初に掲げた展覧会のポスターになっている『眠たい子どもを沐浴させる母親』の母親もそうでした。

『バルコニーにて』は、カサットがパリに定住する前、スペイン滞在中に描いた作品です。つまり彼女は若い時からそういう "チャレンジ" をしていたようで、また自分の素描の技術に自信があったのでしょう。

なお『バルコニーにて』は、ゴヤの『バルコニーのマハたち』を連想させます。そのゴヤの絵を踏まえて、マネは『バルコニー』を描きました(ベルト・モリゾが描かれている有名な作品)。カサットも絵画の伝統をしっかりと勉強した画家だということが分かります。


母と子


メアリー・カサットというと "母と子" を描いた一連の作品で有名です。上に引用した銅版画『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』も、そのテーマです。では、なぜ母と子のモチーフなのか。それは、西洋絵画の伝統(=聖母子像)の影響だと思っていました。もちろん「母と子」は最も根源的な人間関係であり、また画家・カサットを常に支援してくれた母親との関係も影響しているのでしょう。

しかし、女性、子ども、母と子などのモチーフは、当時の女性画家に暗黙に "許された" 画題でした。カサットの友人であるベルト・モリゾの画題もそうです。このことについて、横浜美術館の主席学芸員の沼田氏は、次のように解説していました。


若い頃に因襲的サロン絵画に抵抗して前衛的なグループに身を投じたカサットが、なぜ女性画家の画題とされていた「母子」を積極的に描いたのだろうか。

ひとつには、19世紀後半のフランスで起こった子どもの人権を見直す動きが指摘される。子どもの人権保護の観点から、若年労働の禁止や学校の整備に加え、乳児を母親自身で育てることが推奨されるようになっていた。当時、パリで出生した子どもの約半数が里子に出され、多くのブルジョア階級では家庭内で乳母が育てていた。親は子どもの様子に無関心で乳幼児の死亡率も高かったといわれる。

それに対して、この頃から母親が母乳で育て、子どもの健康のために、衛生、入浴、運動、睡眠をとりしきることが推奨されるようになったのである。社会的意識が高く女性参政権運動にも協力したカサットが、この問題を考えていたという可能性は大きい。

沼田英子
「メアリー・カサットと日本美術」
メアリー・カサット展・図録 所載

我々は「母親が子どもを(母乳で)育てるのはあたりまえ」と思ってしまうのですが、それは現代人の感覚なのです。その感覚で19世紀のパリを(ヨーロッパを)想像してはいけない。カサットの「母と子」の絵には、二人がいかにも親密な状況にある一瞬を捉えた絵が多いのですが、それは当時としては "社会的な意味のある絵画" だったのでしょう。



そして、今回のメアリー・カサット展でもう一つ示してあったのは「母と子」というテーマについての浮世絵版画の影響です。日常生活における母と子のなにげない情景、母の愛情溢れるしぐさという画題は、実は浮世絵にしばしばあるのですね。そのテーマの歌麿の作例と、カサットの「10点組の多色銅版画」からの一枚を引用します。なるほど、そういう面もあるのかと思いました。

歌麿・行水.jpg
喜多川歌麿「行水」
メトロポリタン美術館

The bath(The tub).jpg
メアリー・カサット
「湯浴み(たらい)」(1890/91。46歳)
アメリカ議会図書館



母子関係が大切だという当時の社会の動きや、浮世絵版画からの影響があるのでしょうが、やはりカサットは西洋絵画の伝統=聖母子を意識して描いたと思ったのが、次の油絵による作品です。

The Family.jpg
メアリー・カサット
「家族」(1893。49歳)
クライスラー美術館
(ヴァージニア)

美しき女庭師.jpg
ラファエロ
「美しき女庭師」
(ルーブル美術館)
この絵を見て直感的に思うのは、西洋絵画の伝統的なモチーフである「聖母子と聖ヨハネ」との類似性です。もちろん、その画題で最も有名なのはルーブル美術館にあるラファエロの作品です(いわゆる "美しき女庭師")。パリ在住のカサットは何回となく見たはずです。「家族」という絵は、このルーブルのラファエロを踏まえて描かれているのではないでしょうか。

カサット作品を見ると、どっしりした三角形の左右対称的な構図です。ドガやカサットは、浮世絵版画から学んだとされる "左右非対称で、モチーフを画面の縁で切断するような構図" の絵をいろいろ描いていますが、それとは全くの対極にある伝統的な描き方です。ただし伝統的だけではありません。多視点描法というと大げさですが、この絵には二つの視点があります。母と男の子と後の風景は、少し上から見下ろす視点です。一方、女の子は真横からの視点で描かれている。女の子は「母と男の子」とは少し違った存在であることを暗示しているようです。こういうところも「聖母子と聖ヨハネ」を想起させる。

メアリー・カサット展の解説で、女の子が差し出しているカーネーションは受難の象徴とありました。確かに伝統的にはそうなのでしょうが、そこまで考えなくても、この絵が古典と現代をミックスさせ、それを貫く "永遠なるもの" を表現しようとしたことは明白だと思いました。



"版画家" と "母子像の画家" の接点とも言うべき「版画の母子像」もありました。『池のほとりで』という作品です。

By the Pond.jpg
メアリー・カサット
「池の畔で」(1896。52歳)
フィラデルフィア美術館

この版画も「現代版の聖母子像」といったおもむきがあります。独自の意志を感じるような子どもの表情も聖母子を連想させる。その子を母親が慈しみをこめて見つめています。

構図は斬新で、かなりのクローズアップで描かれています。『池の畔で』というタイトルなので、池の畔にたたずむ(ないしはベンチに腰掛けている)母子です。二人のクローズアップと、背景の池と木々を対比させる構図が印象的です。

ドライポイントとアクアチントで制作された版画です。母と子はドライポイントの線で陰影と立体を感じさせるように描いてあります。また背景の池と木々も、平面的ではあるものの、それなりに立体感を感じさせる表現です。

この作品は「10点組み多色版画」にみられる "線と平面で構成された浮世絵的な銅版画" とはまた違った、"西洋絵画的な銅版画" だと言えるでしょう。メアリー・カサットが作りあげた「独自の世界」であり、いい作品だと思いました。



メアリー・カサットは白内障のため視力が衰え、1910年代になるとパステル画がほとんどになり、1915年頃には絵画制作を断念したようです。版画や油絵を制作したのは1900年代までなのですが、その最後期の油絵で「母と子」を描いた作品が今回展示されていました。その作品を最後に引用しておきます。

ボートに乗る母と子.jpg
メアリー・カサット
「ボートに乗る母と子」(1908。64歳)
アディソン美術館
(マサチューセッツ)

ボートを断ち切る構図や俯瞰的に水面を見る描き方は、元はと言うと浮世絵の影響だと思います。国立西洋美術館にモネの『舟遊び』という有名な絵がありますが、同じ発想です。

しかしカサットのこの絵の特徴は、右上から左端の中央、右下から左端の中央へと視線を誘導する、横向き三角形の伝統的な構図です。俯瞰的な構図にマッチするように、母親の顔を斜め上方から描いているのもカサット的です。水面に映った少女の足を描くという試みも光っている。少女の足もとに視線を誘導する構図になっています。そして何よりも、彼女が追求してきた「母と子」のテーマです。画家・メアリー・カサットの集大成とでも言うべき優れた作品だと思いました。

Mary Cassatt(in Grasse - 1914)a.jpg
メアリー・カサット
1914年撮影。70歳。
(メアリー・カサット展の図録より)


シャトー・ド・ボーフレーヌ


ここからは補足です。メアリー・カサットは1894年(50歳)に、パリの北北西、約70kmにあるル・メニル・テリビュ村の "シャトー・ド・ボーフレーヌ" という館を購入し、毎夏はここで過ごすようになりました。上に引用した『ソファに腰掛けるレーヌとマーゴ』の二人のモデルはこの村の住人です。また『池の畔で』も館付近の光景です。彼女は1926年にボーフレーヌで亡くなり(82歳)、村の共同墓地に葬られました。現在、ル・メニル・テリビュには「メアリー・カサット通り」があり、カサットは村民の記憶に受け継がれています。

このル・メニル・テリビュ村のシャトー・ド・ボーフレーヌまで旅した記事が、NHKの日曜美術館のサイトに掲載されています。現地に行かないと分からない情報がいろいろと書かれていて、メアリー・カサットのことを知りたい人にとって必見のサイトです(http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/249960.html)。

ル・メニル=テリビュ.jpg
ル・メニル・テリビュの位置(赤印)
- Google MAP -

以下、シャトー・ド・ボーフレーヌの現在の写真(2014年時点)を掲載しておきます。引用元は「American Girls Art Club in Paris」というブログ・サイトです(https://americangirlsartclubinparis.com/2014/11/

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館の正面(北側)

ボーフレーヌ2.jpg
館の南側

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室内から南側の庭を望む

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敷地にある水車小屋。NHK・日曜美術館のサイトによると、カサットはこの小屋を版画の工房として使っていた。

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館の敷地は広大な庭園になっていて、小川が引き込まれ、池もあり、水辺には柳の木もある。モネがここに移り住んでいたとしたら、風景画を量産したに違いない。そう言えばカサットは印象派の絵とともに浮世絵を100点ほど館に飾っていたが、その面でもモネのジヴェルニーの館と似ている。

ボーフレーヌ6.jpg

カサット家墓所1.jpg

カサット家墓所2.jpg
ル・メニル・テリビュ村の共同墓地にカサット家の墓がある。メアリーの上の墓碑名は、若くしてドイツで死んだ弟、ロバートの名前である。

なお、カサットがシャトー・ド・ボーフレーヌに飾っていたセザンヌの「ラム酒の瓶がある静物」(ポーラ美術館蔵)という絵の話を、No.125「カサットの"少女"再び」の「補記」に書きました。


カサットが用いた銅版画技法


二つ目の補足です。メアリー・カサットが「10組の色刷り銅版画」で用いた銅版画の技法をまとめておきます。図は女子美術大学・版画研究室のホームページ(http://www.joshibi.net/hanga/)から引用しました。

 ドライポイント 


ドライポイントは銅板に直接、ニードルで線を刻んで版を作ります。線を刻むときに銅の "めくれ" が生じ、その状態によってインクのたまり具合が違ってきて、線にさまざまな表情が生まれます。


DrypointPic01.jpg
鋼鉄製のニードルで銅版面を引っ掻く。①ニードルを引く方向に倒して描画、②ニードルを立てて描画、③ニードルを寝かせて描画、などの方法があり、それぞれ特徴のある "めくれ" ができる。

DrypointPic02.jpg
スクレイパーを使い、不要なめくれを取る。

DrypointPic03.jpg
インクを詰める。

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プレス機で紙にインクを刷り取る。


 エッチング 


エッチング、ソフトグランド・エッチング、アクアチントは、いずれも腐蝕液(硝酸や塩化第二鉄の溶液)で銅版を腐蝕させて版を作る技法です。エッチングはその中でも基本的な技法で、アスファルト・松脂・蝋などの防蝕剤で銅板をコーティングし、そこに描画します。


EtchingPic01.jpg
銅板の裏面に防蝕剤を塗る。

EtchingPic02.jpg
銅板の表面を防蝕剤(グランド)で覆う。グランドはアスファルト、松脂、蝋などを溶剤で溶かしたものである。エッチングで用いるグランドは、溶剤が揮発すると固まる「ハードグランド」である。

EtchingPic03.jpg
ニードルで描画する。

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腐蝕液につけて、腐蝕させる。

EtchingPic05.jpg
溶剤でグランドをとる。

EtchingPic06.jpg
インクを詰める。

EtchingPic07.jpg
紙にインクを刷り取る。


 ソフトグランド・エッチング 


ソフトグランドとは、防蝕剤を油脂で練ってペースト状にしたものです。エッチングに使う防蝕剤(=ハードグランド)は銅版に塗ると固化しますが、ソフトグランドは柔らかいままで、容易にはがせます。この性質を利用したエッチングがソフトグランド・エッチングです。エッチングより少しにじんだような線になります。


SoftgroundPic01.jpg
版の裏を防蝕し、版面にソフトグランドを塗る。

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表面がざらざらした紙をあて、鉛筆などで描画する。紙に描いておいた下絵をなぞってもよい。

SoftgroundPic03.jpg
紙をとるとソフトグランドが紙に付着してはがれる。また、表面に凹凸がある素材を直接あててソフトグランドを取ってもよい。

SoftgroundPic04.jpg
腐蝕液につけて腐蝕させる。

SoftgroundPic05.jpg
インクを詰める。

SoftgroundPic06.jpg
紙にインクを刷り取る。


 アクアチント 


アクアチントは銅板画で面を描く技法です。松脂の粉の振り方、加熱や腐蝕の時間によって、インクの濃淡の違うさまざまなテイストの面を作り出せます。


AquatintPic01.jpg
版の裏を防蝕し、版面の腐蝕させない部分(インクをのせない部分)を黒ニスなどで防蝕する。

AquatintPic02.jpg
松脂まつやにの粉末を散布する。

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版の下から加熱して松脂を溶かし、版面に定着させる。

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腐蝕液につけて、短時間腐蝕させる。

AquatintPic05.jpg
色の薄い部分には黒ニスを塗り、これ以上の腐蝕を止める。

AquatintPic06.jpg
再度、腐蝕液につけて腐蝕させる。

AquatintPic07.jpg
黒ニスと松脂を溶剤で取り去る。

AquatintPic08.jpg
インクを詰める。

AquatintPic09.jpg
紙にインクを刷り取る。

アクアチント.jpg
アクアチント- 武蔵野美術大学のサイトより
(site : zokeifile.musabi.ac.jp)




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No.186 - もう一つのムーラン・ド・ラ・ギャレット [アート]


ポンピドゥー・センター傑作展


2016年6月11日から9月22日の予定で「ポンピドゥー・センター傑作展」が東京都美術館で開催されています。今回はこの展示会の感想を書きます。この展示会には、以下の4つほどの "普通の展示会にあまりない特徴" がありました。

 1年・1作家・1作品 

まず大きな特徴は「1年・1作家・1作品」という方針で、1906年から1977年に制作された71作家の71作品を制作年順に展示したことです。展示会の英語名称は、

Masterpieces from the Centre Pompidou : Timeline 1906-1977

とありました。つまり Timeline = 時系列という展示方法です。制作年順の展示なので、当然、アートのジャンルや流派はゴッチャになります。

デュフィ「旗で飾られた通り」.jpg
デュフィ
「旗で飾られた通り」(1906)

しかし、だからこそ20世紀アートの同時平行的なさまざまな流れが体感できました。Timeline 1906-1977 だと72作品になるはずですが、71作品なのは1945年(第2次世界大戦の終了年)だけ展示が無いからです。

ちなみに、最後の1977年はポンピドゥー・センターの開館の年です。では、なぜ1906年から始まっているのでしょうか。なぜ1901年(20世紀最初の年)ではないのか。おそらくその理由は、1906年のデュフィの作品 = フランス国旗を大きく描いた作品を最初にもって来たかったからだと思いました。"世界のアートの中心地は20世紀においてもフランス(パリ)である" と明示したかったのだと想像します。

 幅広いジャンル 

ここに展示されているのは絵画だけではありません。彫刻、写真、建築(ポンピドー・センターの設計模型)と、幅広い。レディ・メイド作品(= マルセル・デュシャン)や、梱包(= クリスト)、ガスマスクを並べた作品まであります。絵画も抽象絵画からスーパー・リアリズムまである。現代アートの "何でもあり感" がよく出ていた展示会でした。

 言葉とアートの結合 

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「ポンピドゥー・センター傑作展」のポスター。絵はピカソの「ミューズ」
作品とともに、それぞれアーティストの芸術に関する短い言葉が添えられています。1年・1作家・1作品・1言葉というわけですが、この言葉を選ぶにもかなりの調査と検討が必要だったと思われます。マイナーなアーティストだと言葉を探すのにも苦労するだろうし、また、展示作品に全くそぐわない言葉も選びにくいからです。

さらに、"言行録" がたくさん残っているメジャーなアーティストだと、最も展示作品にマッチした言葉を選ぶ検討をしたと思います。たとえば、ピカソの「ミューズ」に添えられていた言葉は「私は、他の人たちが自伝を書くように絵を描く」というものでした。この言葉どおりに「ミューズ」が自伝だとすると「描かれている2人の女性は誰だ」ということになり、一人はマリー=テレーズだろうが、もう一人は "正妻" のオルガかもしれない ・・・・・・ みたいなことになってくるわけです。

言葉を "味わい"、作品を "鑑賞する" という、この展示方法は確かに新鮮でした。一人のアーティストにフォーカスした展示会での「言葉」はよくありますが、このようにすべての作品にアーティストの言葉を付けたのはめずらしいのではないでしょうか。

 展示場デザインというアート 

会場のデザインもユニークです。デザインしたのは建築家の田根剛たねつよしさんです。東京都美術館の地階から2階までの3フロアを使った展示場ですが、その様子を以下に示します。

ポンピドゥーセンター傑作展・展示場・レイアウト.jpg
「ポンピドゥー・センター傑作展」の展示場の画像とレイアウト。3フロアで赤・青・白のトリコロールを使い分け、展示パネルのデザインもフロアごとに変えてある。画像は www.museum.or.jp、www.asahi.com より引用。レイアウト図は、会場で配布された出品作品リストより引用した。

3フロアで赤・青・白のフランス国旗色を使い分け、展示パネルのデザインも変えてあります。これは「展示場デザイン」というアートであり、実は72番目の作品なのでした。色までトリコロールというのはちょっと "やりすぎ" の感がありますが、それだけフランス関係者の "肝入り" だということでしょう。



実際に展示されていた作品ですが、以前にこのブログでとりあげた作品と関係の強い2作品だけを紹介します。たまたまですが、展示の一番最初のパートである 1906-1909 の中の2作品です。


1907年 ジョルジュ・ブラック


レック湾.jpg
ジョルジュ・ブラック(1882-1963)
『レック湾』(1907)
(ポンピドゥー・センター)

No.167「ティッセン・ボルネミッサ美術館」で、ジョルジュ・ブラックの『海の風景、エスタック』(1906)という作品を紹介しましたが、それとほぼ同時期の作品です。レック湾はマルセイユの東の近郊、サン・シル・シュル・メールにあります。つまり、マルセイユの漁村を描いた『海の風景、エスタック』とほぼ同一の画題です。

海の風景、エスタック.jpg
ジョルジュ・ブラック
「海の風景、エスタック」(1906)
(ティッセン・ボルネミッサ美術館)

この2作品は、近景=土地と木、中景=海、遠景=山と空、という構図がよく似ています。No.167で『海の風景、エスタック』は、マティスの『生きる喜び』(バーンズ・コレクション所蔵)と似ていてその影響を感じるとしたのですが、その意味ではこの絵もマティスに似ていると言えるでしょう。もっともそう言ってしまうと、フォーヴィズムっぽい絵は全部マティスに似ていることになってしまって意味がないかもしれません。

原色に近い強い色彩も使われていますが、そうでない色もある。しっかりとした造形の中の自由に発想した色使いが素敵な感じで、いい作品だと思います。



絵とともに掲げられていたジョルジュ・ブラックの言葉は、

  当初の構想が消え去ったとき、絵画は初めて完成する

というものでした。ちょっと分かりにくい言い方ですが、まじめな解釈もできそうです。つまり、

  画家は絵を描こうとするとき、まず形や色の構想をたてる。しかしいったん描き始めると、描いた部分に触発されて構想が変化する。その繰り返しで次々とカンヴァスが埋められていき、描き終わった時には当初の構想は消え去っている。そういった "創発的な" プロセスが絵を描くという行為だ

と言いたいのでしょう。『レック湾』についての発言ではないはずですが、そういう視点でみるとこの『レック湾』の色使いは、描いているうちに色が色を呼び寄せて、当初の構想とは違った "色彩のハーモニー" に仕上がったのかもしれません。


1908年 オーギュスト・シャボー


オーギュスト・シャボーは、ジョルジュ・ブラックと同年生まれのフランスの画家です。この画家の名前と絵は、ポンピドゥー・センター傑作展で初めて知りました。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(シャボー).jpg
オーギュスト・シャボー(1882-1955)
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1908/9)
(ポンピドゥー・センター)

モンマルトルのダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットと言えば、オルセー美術館のルノワールの絵(1876)が超有名で、いわゆる印象派の代表作の一つになっています。この絵はポンピドゥー・センター傑作展より一足先に始まった国立新美術館のルノワール展(2016年4月27日~8月22日)で展示されました。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ルノワール).jpg
ルノワール
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876)
(オルセー美術館)

さらに、ピカソも『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いています(1900)。グッゲンハイム美術館にあるその絵は、No.46「ピカソは天才か」と、No.163「ピカソは天才か(続)」で取り上げました。特にNo.163では中野京子さんの解説に従って、ピカソの時代のこのダンスホールが夜は "レズビアンの溜まり場" としても有名だったことを紹介しました。

Picasso - Le Moulin de la Galette2.jpg
ピカソ
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1900)
(グッゲンハイム美術館)

このブログでは取り上げませんでしたが、ゴッホやロートレック、そしてユトリロも『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』をそれぞれ何枚か描いています。次のゴッホの絵は風車をポイントにした風景画であり、ロートレックの絵は人物に焦点が当たっている絵です。ルノワール、ピカソ、ゴッホ、ロートレックのそれぞれの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は、"四者四様" と言えるでしょう。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ゴッホ).jpg ムーラン・ド・ラ・ギャレット(ロートレック).jpg
ゴッホ
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1886)
(ベルリン新国立美術館:Wikipedia)
ロートレック
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1891)
(ポーラ美術館)

そして "もうひとつのムーラン・ド・ラ・ギャレット" が、今回のオーギュスト・シャボーの絵です。この絵は "夜の外観" を描いたという点で、以前の4人の絵とはまた違います。目立つのは光の黄色で描かれた店の名前とBAL(=ダンスホール)という文字、店の内部からの光です。暗い青で描かれた風車があり、黒っぽい人物や馬車が店の前に配置されている。ところどころに、星や反射光を表す橙や青の点がちりばめられています。

ピカソより8年ほど後の絵ですが、この時点でもムーラン・ド・ラ・ギャレットが "レズビアンの溜まり場" だったのかどうかは知りません。ただ、店の前に馬車が2台とめてあるのをみると、やはり富裕層がナイトライフを楽しむ場だったことが想像できます。

絵で目立つのが黄色です。特に店の中から漏れ出てくる強烈な光が印象的です。おそらくピカソが描いた時期より電灯が高性能になり普及したのでしょう。また「夜景の中の黄色の光」ということでは、ゴッホの『夜のカフェテラス』を連想しました。



絵とともに掲げられていたオーギュスト・シャボーの言葉は、

  芸術作品が成立する根底に欲求や喜びがあるなら、そこにはまた人々の生活との接触、つまり人間的な触れ合いがある

でした。別に解釈の必要がない文章ですが、オーギュスト・シャボーはパリの市民生活を題材にした絵をいろいろ描いたと言います。この絵もそういった絵の中の1枚でしょう。20世紀初頭の大都市・パリの繁栄も感じさせる絵です。


編集の威力


最初に書いたように、この展示会は「1年・1作家・1作品・1言葉・制作年順展示」という方針で構成されているのですが、この展示会を立案したキュレーターの方の実力というか、その企画力に大いに感心しました。

そもそも「1年・1作家・1作品」という制約を前提としつつ、20世紀アートを(なるべく)概観できるようにするためには、パズルを解くような検討が必要だったはずです。ポンピドゥー・センターには膨大なコレクションがあるとはいえ、いろいろとシミュレーションを繰り返したと思います。制約の中で企画展として成立させるための検討です。たとえば展示会に入場してすぐ、最初の展示パネルに掲げてあるのは1900年代に描かれた4枚の絵であり、順に、

1906年 デュフィ
1907年 ブラック
1908年 シャボー
1909年 ヴラマンク

です。展示場に入ると、まずこの4作品だけが目に入るようになっていますが(展示場の LBF のレイアウト参照)、これらはいずれも "フォーヴィズム" の範疇に入る絵です。マティスに導かれたフォーヴィズムがモダンアート(20世紀アート)の幕開けだ、と言っているようなキュレーターの意図を感じました。

もっとも、こういう制約条件で絵を選ぶ以上、ポンピドゥー・センターのコレクションの縮図というわけにはいきません。たまたま選ばれた作品もあるでしょう。また、どのようにしようとピカソはたった1点しか出せないし、ブラックのフォーヴィズムの絵を出した以上、最も有名なキュビズムの絵は選ばれない。

しかし71人のアーティストを展示することのメリットは、中には(日本では)ほとんど知られていないアーティストの作品も展示されるということです。ちなみに、2016年8月11日の朝日新聞(夕刊)に、東京都美術館でこの展覧会をみた1300人にベストワンを選んでもらったアンケートの結果が出ていました。

1位 146票 アンリ・マティス 大きな赤い室内 1948年
2位 84票 パブロ・ピカソ ミューズ 1935年
3位 82票 マルク・シャガール ワイングラスを掲げる二人の肖像 1917年
4位 62票 ヴァシリー・カンディンスキー 30 1937年
5位 52票 セラフィーヌ・ルイ 楽園の樹 1929年
6位 45票 ヤコブ・アガム ダブル・メタモルフォーゼⅢ 1969年
7位 44票 ラウル・デュフィ 旗で飾られた通り 1906年
7位 44票 ロベール・ドローネー エッフェル塔 1926年
9位 40票 マリー・ローランサン イル=ド=フランス 1940年
9位 40票 ベルナール・ビュッフェ 室内 1950年

マティスがダントツの1位(上に掲げた 1F の画像の一番手前の絵)というのは納得だし、著名アーティストが大半とも言えます。しかし、セラフィーヌ・ルイ(5位)やヤコブ・アガム(6位)は、あまり知られていないのではないでしょうか。セラフィーヌ・ルイは30代で聖母のお告げにより絵を独学で描き始めたという女性です。ヤコブ・アガムはキネティック・アートで有名なイスラエル出身の彫刻家です。ちなみに、この個人のベストワン・1点だけの投票で、71作品全部に票が入ったそうです。アンケート上位の10作品の制作時期も、60年以上に渡っています。展覧会を企画したキュレーターの狙いは成功したということでしょう。その「知らないアーティストの作品」の例が(私にとっては)上にあげたオーギュスト・シャボーでした。



キュレーターは作品を創り出しません。アートについての膨大な知識をもとに、作品を選択し、配置し、構成するわけです。これは広い意味での「編集」の一つの形態です。新聞、雑誌、各種の情報誌、図鑑、短編集、企画展、インターネットのまとめサイトなどでは、編集者のスキルや力量が非常に大切です。「編集」という仕事は、個々の作品を創り出すのとは別の意味の「創造」である・・・・・・。「ポンピドゥー・センター傑作展」を見てそう思いました。その意味では、73番目の "作品" はこの企画展そのものということでしょう。




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No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて [音楽]

No.35「中島みゆき:時代」から始まって、No.179「中島みゆきの詩(9)春の出会い」まで、中島みゆきさんの詩をテーマに10回書きました。今回はその続きです。


定点写真


「怒り新党」というテレビ朝日の番組があります(水曜日 23:15~)。例の、マツコさんと有吉さんと青山アナウンサー(以前は夏目アナ)のトーク番組です。2016年8月3日に放映されたこの番組の中での「新三大〇〇調査会」はちょっと感動的な内容でした。

テーマは「新三大 写真家・富岡畦草けいそうの次世代に託したい定点写真」です。富岡畦草さんは大正15年(1926)生まれで、現在90歳です。人事院に勤めたこともあるカメラマンで、現在も写真を撮っています。そのライフワークは「定点写真」です。つまり富岡さんは昭和33年(1958年)から半世紀以上ものあいだ、決まった場所で決まったアングルで写真(フィルム写真)を撮り続けています。しかもこの定点写真を次世代に託したいということで、娘の三智子さんと孫の碧美たまみさんも加え、今は3人で撮っています。番組で紹介された定点写真は次の3つでした。

銀座4丁目交差点
新橋駅前広場
家族写真(銀座中央通りで)

素晴らしいと思いました。銀座4丁目交差点は北の方向を見て撮っているのですが、半世紀の移り変わりが手にとるようにわかります。改装中の三越では命綱なしのとび職人が写っていたり、路面電車が走っていたりします。新橋の駅前広場の定点写真は、駅のホームからSLの置いてある方向を撮っているのですが、初期の写真にSLはないのですね(下の画像)。大勢の人が集まって街頭テレビを見ています。銀座中央通りでの家族写真も、あたりの風景の変遷とともに富岡さん家族の「歴史」が捉えられていて、ほのぼのとした気持ちになりました。

新橋駅前広場.jpg
http://matomame.jp/より引用)

番組の最後でマツコさんが「(この企画を)なんでこの番組でやったのかしら」と言ってました。確かにNHKかNHK・BSでやるような内容かもしれません。しかしテレビ朝日だって負けてはいられない。テレビ朝日でやるとしたら、実は「怒り新党」のようなバラエティの中が最適ではないでしょうか。それなりに視聴率がある番組だし、今日も楽しくおかしく(そして少々バカバカしく)終わると思っているそのときに意外にも、極めてまじめで感動的な定点写真が出てくる・・・・・・。そのインパクトは大きかったと思います。


BGM


ここで書きたいのは「新三大 写真家・富岡畦草けいそうの次世代に託したい定点写真」に使われたBGMのことです。といっても、最初の「銀座4丁目交差点」に関しては、全く記憶がありません。何か音楽があったはずですが、おそらく全く知らない曲だったのだろうと思います。しかし次の「新橋駅前広場」と最後の「家族写真」のBGMはすぐに分かりました。

奇跡の街.jpg
ジャニス・イアン
「奇跡の街」(1977)

「ウィル・ユー・ダンス」が収録されている。アルバムの原題は「Miracle Row」

最もこのコーナーにふさわしいと思ったのは「家族写真」で流れたジャニス・イアンの『ウィル・ユー・ダンス』です。この曲が(日本で)一躍有名になったのは、1977年(昭和52年)のTBSドラマ「岸辺のアルバム」の主題歌に使われたからでした。「岸辺のアルバム」は山田太一さん原作・脚本のドラマです(八千草薫さんが出演していました)。1974年、多摩川の水害で堤防が決壊し、東京都狛江市の多数の家が川に流されました。その災害に触発されて作られた家族のストーリーです。ラストの家が流されるシーンでは、実際の報道映像が使用されました。そしてこのドラマでは「写真アルバム」が「家族の象徴」であり、さらには「家族そのもの」として扱われていました。その意味で、家族の定点写真に「ウィル・ユー・ダンス」はピッタリだと思いました。

ところで、そもそもなぜBGMに注意がいったのかと言うと、2番目の定点写真、新橋駅ホームから撮った駅前広場のところで、中島みゆきの『ホームにて』が流れたからです。「ホームから撮った新橋駅前広場の定点写真」に『ホームにて』を使うのは "安易" に思えましたが、しかしたとえ安易であっても久しぶりにこの名曲を聴けたのが(思い起こせたのが)私にとっては幸いでした。


ホームにて


『ホームにて』は、1977年6月25日に発表された中島みゆきさんの3作目のアルバム「あ・り・が・と・う」に収録された曲で、その詩は次のようです。


ホームにて

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ

振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う

走りだせば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる

振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う

ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券

涙の数 ため息の数
溜ってゆく空色のキップ
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

たそがれには 彷徨う街に
心は今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

A1977「あ・り・が・と・う」

ありがとう.jpg
中島みゆき
あ・り・が・と・う」(1977)

①遍路 ②店の名はライフ ③まつりばやし ④女なんてものに ⑤朝焼け ⑥ホームにて ⑦勝手にしやがれ ⑧サーチライト ⑨時は流れて

"私" がいま住んでいる場所(=街)と、出身地(=故郷)を対比させ、それをつなぐ存在としての駅のホームがこの詩のテーマです。

  たそがれには 彷徨さまよう街に
心は今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

というところが "私" の気持ちを表しています。出身地・故郷につながるのは、乗車券、切符、汽車、けむり、空色などであり、街の象徴はネオンサインです。どんな街でどんな故郷かは想像に任されていますが、少なくとも故郷にはネオンサインがまったく無く、現在の街はそれが目立つような大きめの都市でしょう。

特に何等かの "解釈" の必要のないストレートな詩です。"都会と故郷をつなぐ駅のホーム" という題材も、石川啄木の短歌を引き合いに出すまでもなく「定番」だと言えます。ただこの詩は、アルバムの中の詩として見る必要があるでしょう。「あ・り・が・と・う」は第1曲が『遍路』で、最後の第9曲が『時は流れて』です。「過去の私」ないしは「過去から現在までの私」を振り返り、それとの対比で「今の私」を浮かび上がらせる内容の曲が多い。その中の『ホームにて』です。

しかし『ホームにて』が名曲なのは、やはりこの曲のメロディーです。ゆったりと流れる伸びやかな旋律で、意外性のある音の運びも所々に仕組まれています。聴いていて受ける感じを言葉で表現すると「なつかしさ」や「やさしさ」であり、何となく「ほっとするような」感じです。それは "心は今夜も ホームにたたずんでいる私" の心情にピタリと一致している。中島みゆきさんの作曲家としての才能が如実に分かる優れた作品だと思います。


同世代の1977年(昭和52年)


ところで『ウィル・ユー・ダンス』も『ホームにて』も 1977年(昭和52年)のアルバムで発表された曲です。『ウィル・ユー・ダンス』は「奇跡の街 - 原題: Miracle Row」(1977)の収録曲でした。また、ジャニス・イアンは1951年生まれ、中島さんは1952年生まれなので、同世代ということになります。1977年当時は26歳と25歳であり、まさに日米の若手のアーティスト、若手シンガーソングライターでした。

1977年といえば今から約40年前、富岡畦草けいそうさんが定点写真を撮り始めてから約20年後です。BGMつながりで1977年の音楽シーンを振り返ると、ABBAの「ダンシング・クィーン」の世界的大ヒット、山口百恵の「秋桜コスモス」、キャンディーズの突然の解散発表(翌年に解散)、沢田研二の「勝手にしやがれ」、ピンクレディーの「渚のシンドバッド」などがありました。したがって、サザンオールスターズのデビュー作「勝手にシンドバッド」は翌年(1978年)ということになります。

そしてジャニス・イアンの『ウィル・ユー・ダンス』を主題歌にした「岸辺のアルバム」も1977年のテレビドラマなのでした。まったくの偶然でしょうが、半世紀以上に渡る「定点写真」を紹介するBGMとして『ホームにて』と『ウィル・ユー・ダンス』はまさにピッタリであり、印象に残りました。



補足です。気になったのでネットで検索してみると、銀座4丁目交差点で使われたBGMは、NHKスペシャル「ミラクルボディー」のテーマ曲である、関山藍果あいかさんの「The Moment of Dreams」(2008)ではないかと書いている方がいました。もしそうだとすると、私が全く気が付かなかったはずだと納得できました。

続く


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No.184 - 脳の中のGPS [科学]


空間位置を把握する能力


今回はNo.50「絶対方位言語と里山」の続きです。No.50 で "絶対方位言語" を話す少数民族の話を書きました。要約すると、

絶対方位言語とは、空間上の位置関係を示すのに、右・左・前・後というような「相対方位」の語彙がなく、東・西・南・北のような「絶対方位」を示す語彙だけをもつ言語である。たとえばオーストラリアのアボリジニにはそういう言語を話す種族がいる。

絶対方位言語の話者は、たとえばテーブルの上のモノの位置関係を示すにも「コップの南東に皿がある」といった表現をする。

絶対方位言語の話者は、方位や自分が現在いる位置の把握能力に優れており、たとえば次のようなことができる。
どの場所に来ても、東西南北の方位を正確に示せる。
家から離れたとろころ(数キロ~100キロ)に来ても、家の方向を正確に示せる。

ということでした。我々はこういう話を聞くと「絶対方位言語の話者は、相対方位の語彙がないために空間位置の認識能力が発達した。一方、(特に近距離において)相対方位を多用する我々は、そういった能力が発達しなかった。」と考えます。それが普通の考え方でしょう。

しかし No.50 の「補記」で紹介した、今井むつみ著「ことばと思考」(岩波新書。2010)には、次の主旨のことが書かれていました。

「相対枠組みが主流の言語」の子どもが「左」と「右」という言葉を学習する時期は、モノの名前などに比べてかなり遅く、これらの言葉を間違えなく使えるようになるのは、5、6歳であると言われている。

「左」「右」などの相対枠組みに依拠した言葉を学習する前の子どもの場合、空間上のモノの位置の認識は、ヒト以外の動物と同様に絶対枠組みに従っているようだ。

ヒトの子どもを含め、動物全般に普遍的に共有される認識は絶対枠組みの認識であり、相対枠組みに従った空間の位置の認識は言語によって作りだされたものであるようだ。

つまり、ヒトの4歳以下のこどもと動物は、絶対的な枠組みで空間の位置関係を把握するということなのです。これは少々意外です。つまり大人である我々は「絶対的な枠組みで空間の位置関係を把握する能力」が自分にあるようには到底思えないし、また4歳以下のときにどうだったかなど覚えていないからです。

しかし実は、ヒトを含む哺乳類は空間での自位置を把握する生物的な能力を持っていて、それは脳科学の進展で実証されてきました。2014年のノーベル生理学・医学賞は、その研究をした3人の科学者に与えられたのですが、以下はその話です。


脳のナビゲーション機能


2014年のノーベル生理学・医学賞は、脳の中の "ナビゲーション機能" を発見した英国・ロンドン大学のオキーフ教授と、ノルウェー科学技術大学のモーザー夫妻に与えられました。日経サイエンスの2016年6月号で、そのモーザー夫妻が脳内のナビゲーション機能を解説していました。そこから引用します。まず最初に次のように出てきます。


近年の研究によって、哺乳類の脳にはGPSに似た極めて成功な追跡システムがあり、脳はそれを使ってある場所から別の場所に私たちを導いていることが明らかになった。

・・・・・・・・・・・・

自分がどこにいてどこに行く必要があるのかを把握する能力、つまりナビゲーション機能は、生きていく上で重要だ。この機能がなければ私たちも他の動物も食物を見つけたり繁殖することはできない。そうした個体は生き延びられないし、それどころかその動物種は絶滅してしまうだろう。

エドバルト・モーザー
マイブリット・モーザー
(ノルウェー科学技術大学)
日経サイエンス(2016年6月号)

日経サイエンス 2016年6月号.jpg
日経サイエンス 2016.6
脳の中にGPSに似たナビゲーション・システムがあると聞くと、えっ!と思ってしまいますが、考えてみるとモーザー夫妻が言うように、動物にとっては必須の能力なのですね。言葉やメモに頼れない動物としては、本能の仕組みで自分の位置の推定とナビゲーションができないと、まずいことになります。絶滅するかどうかは別にしても、発見した餌場と巣穴を間違いなく往復できる個体が生き残り易いことは容易に想像できる。自然淘汰によって動物は、そういう能力を発達させる方向に進化してきたと考えられるのです。さらにモーザー夫妻の解説は続きます。以下の引用で、アンダーラインは原文にはありません。


哺乳類は他の動物と比べて、脳が作る周辺環境の地図、つまり「脳内空間地図」に大きく依存してナビゲーションを行っている。脳内空間地図とは、動物がどのような環境のどの場所にいるかを、神経細胞集団が電気信号で表現したものだ。


脳内空間地図がどのように作られ、移動の際にどのように補正されているのか、過去数十年間で理解が大いに深まった。主に齧歯(げっし)類を対象に行われた近年の研究から、脳内空間地図が数種類の特殊な神経細胞によって構成されており、それらの細胞が現在位置や移動距離、移動の向き、移動の早さを絶えず計算していることが明らかになった。これらの異なる神経細胞が共同で働くことによって、脳内空間地図ができ上がる。この地図は現時点で役立つだけでなく、将来の使用に備えて記憶として保存しておくことも可能だ。



場所細胞とグリッド細胞


最初に発見された「脳内空間地図を構成する特殊な神経細胞」は「場所細胞」(place cell)です。それは、ラットの脳の中の "海馬かいば" で発見されました。なお海馬とはタツノオトシゴの意味です。


英ロンドン大学ユニバーシティカレッジのオキーフ(John O'Keefe)は微小電極を使ってラットの海馬で活動電位を測定した。海馬は記憶機能において重要な働きをすることがかねて知られていた脳領域だ。そして1971年、箱に入ったラットが特定の場所にいるときに発火する神経細胞が海馬に存在することを報告し、それらを「場所細胞」と名づけた(引用注:発火とは神経細胞が情報交換に使っている電気パルスが出ること)。オキーフはまた、箱内の別の場所では別の場所細胞が発火すること、そしてこれらの場所細胞の発火パターン全体が箱内の空間地図を作り出していることに気づいた。多数の場所細胞の活動を電極を使って読み取ることで、ラットの正確な位置をいつでも特定できた。


Place Cell.jpg
一つの場所細胞(place cell)は、ラットがある特定の地点を通過したときに発火する。2014年ノーベル賞の受賞理由をノーベル財団が解説した資料より。
(site : www.nobelprize.org)

この文章を書いているモーザー夫妻はオキーフの弟子です。そしてオキーフの発見から30年以上たったあと、新たな発見をしました。それは脳の中で海馬に隣接する「嗅内皮質きゅうないひしつ」という部位の研究でした。


2002年、私たちは微小電極をラットの嗅内皮質に挿入し、場所細胞の実験と同様の課題をラットが実行しているときの神経活動を記録した。電極を挿入したのは、以前の研究で場所細胞が確認された海馬の部位と、直接つながっている嗅内皮質領域だ。この実験から、この領域の多くの細胞が、海馬の場所細胞と同様、ラットが自分の環境のなかの特定の場所にいるときに発火することが判明した。だが、1つの場所細胞が発火するのは自分のいる環境のなかの1カ所だけなのに対し、嗅内皮質細胞の場合は1つの細胞が複数の地点で発火した

嗅内皮質細胞の最も顕著な特徴は発火の仕方にあった。それが明らかになったのは2005年、ラットが動き回る空間サイズを広げたときだった。私たちは、1つの嗅内皮質細胞が発火する地点を結ぶと正六角形ができ上がることに気づいた。この細胞はラットが正六角形の頂点または中心を通過する際に発火する。私たちはこの細胞を「グリッド(格子)細胞」と名づけた


「正六角形の頂点または中心を通過する際に発火する」との説明がありますが、ということは「正三角形のグリッドの格子点のどれか」を通過するときに、一つのグリッド細胞が発火するということです。

Grid Cell.jpg
一つのグリッド細胞(grid cell)は複数の地点をラットが通過するときに発火し、その地点は正三角形の格子点になっている。
(site : www.nobelprize.org)

このグリッドの間隔は、実空間上の30~35cmに対応しています。そして嗅内皮質にはこのようなグリッド細胞が何千個もあり、1つ1つのグリッド細胞は「正三角形グリッド」の配置位置が少しずつズレています。これはどういうことかと言うと、下の図でA(赤)に相当するグリッド細胞が発火したあとにB(緑)、C(青)の順に発火したとすると、ラットは南西方向に移動したということになります。Aの格子点に最も近接したBとCの格子点は南西方向にあるからです。また移動距離もわかる。つまり、グリッド細胞はラットの移動方向と移動距離を常時計測できるのです。この絵は仮説ですが、具体的な計測の仕組みは現在も研究中です。

Grid-Cell-Module.jpg
多数のグリッド細胞は、それぞれ発火する正三角形格子点がずれており、全体として空間を覆いつくす。ラットの位置によってどれかが発火していて、ラットが移動すると次々と違うグリッド細胞が発火していく。この発火のパターンにより、移動の方向や距離、速度がわかる。
(site : blog.brainfacts.org)

さらにモーザー夫妻の研究で、グリッド細胞が発火する格子のサイズは1つではないことが分かってきました。嗅内皮質は複数の部位(モジュール)に分かれているのですが、部位によって様相が違います。