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No.216 - フィリップス・コレクション [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで7回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム

の7つです。今回はその継続で、アメリカのワシントン D.C.にあるフィリップス・コレクションを取り上げます。


フィリップス・コレクション


フィリップス・コレクションが所蔵する絵について、今まで2回とりあげました。まず No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」では、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』という作品について、中野京子さんの解説を中心に紹介しました。

ヴァイオリンを奏でるパガニーニ.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』(1831)
フィリップス・コレクション
(site : www.phillipscollection.org)

この絵は「大アーティストが描いた大アーティスト」であり、パガニーニの音楽の本質までとらえているという話でした。さらにその次の No.155「コートールド・コレクション」ではセザンヌの『サント=ヴィクトワール山』を取り上げています。

Mont Sainte-Victoire.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
サント=ヴィクトワール山」(1886/87)
La Montagne Sainte-Victoire(1886/7)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

これはコートールド・コレクションにある『サント=ヴィクトワール山』との比較対照のためです。両方の絵とも近景に松の木があるのが特徴で(コートールドの絵は1本の松)、松の枝の形と山の稜線がピッタリ一致することを含めて浮世絵の影響を感じるという話でした。



今回はこれらの絵を所蔵しているフィリップス・コレクションについて、ほかにどんな絵があるのか、そのごく一部ですが紹介したいと思います。フィリップス・コレクションは鉄鋼業で財をなしたフィリップス家の次男、ダンカン・フィリップス(1886-1966)が1921年に開設した美術館で、ダンカンの邸宅がそのまま美術館になっています。開館当初は237点の絵画作品でしたが、その後増え続け、現在所蔵しているアートは約3000点だそうです。

Phillips_Collection.jpg
フィリップス・コレクション
2つの建物が連結されて美術館になっている。入り口は奥の方の建物にある。


ルノワール


この美術館の "顔" となっている絵が、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』(1880/81)です。フィリップス・コレクションと言えばこの絵、ということになっています。

Luncheon of the Boating Party - Renoir.jpg
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
舟遊びをする人々の昼食」(1880/81)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

パリの西の郊外、シャトゥーの町のセーヌ川に浮かぶ島は "印象派の島"(アンプレッショニスト島)と言われ、数々の印象派の画家が訪れたところです。ルノワールはここのレストラン「メゾン・ラ・フルネーズ」の常連客でした。ここのテラス席ので光景を描いた作品です。画面に登場する14人はすべてルノワールの友人や知人で、全員の名前が特定されています。一人だけあげると、画面右下に座っている男性は画家であり印象派の後援者でもあったカイユボットです。

この絵は "屋外の光の中での人物群" を描いたという意味で、この5年前に描かれた『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』に似ていますが、郊外に出かけて舟遊びに興じるという当時最先端の "レクレーション" を描いていて、より印象派っぽい感じがします。二つの対角線を基本とする構図が心地よく、背景の草木と人物群とテーブルの上の食器を異なる筆致で描き分けているのも特徴的です。ルノワールを代表作を1枚だけあげるとすると、時代の先端の雰囲気を伝えているという意味でこの絵をあげるのもアリだと思います。


フィリップス・コレクションの名画


 悔悛する聖ペテロ 

まず宗教画ですが、フィリップス・コレクションには『悔悛する聖ペテロ』と題した絵が2点あります。2つとも超有名アーティストの作品で、エル・グレコとゴヤです。2枚の絵の対比が鮮明なのでここで取り上げます。

エル・グレコ:悔悛する聖ペテロ.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
悔悛する聖ペテロ」(1600/1605)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ゴヤ:悔悛する聖ペテロ.jpg
フランシス・ゴヤ(1746-1828)
悔悛する聖ペテロ」(1820/1824)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ペテロが「キリストの弟子ではない」と否認したことを悔いる場面です。2つともペテロの代表的なアトリビュートである鍵を持っています。エル・グレコの聖ペテロは、ほぼ同じポーズの作品が6点ほどあるといいます。その作品はキリストの図像化によくあるような人物の風貌であり、いかにも使徒・聖人という感じに溢れています。エル・グレコなりの細身の顔の表現を割り引いたとしても、このような感じが一般的な使徒・聖人像でしょう。

一方のゴヤの方は「腕っぷしの強い漁師のおじさん」という仕上がりです(ペテロは漁師)。ゴヤはスペインの宮廷画家なので使徒の作例を熟知しているはずですが、この絵はあえて一般的な聖ペテロ像の真逆を行った感じがします。しかしキリストの徒であることを否認した "前科" があるという意味では、それにふさわしい人間っぽさがあるとも言える。フィリップス・コレクションの Web Site の解説によると「ゴヤは使徒の絵をほとんど描かなかったが、彼はこの絵をスペインを離れてフランスのボルドーに旅立つ(つまり移住する)直前に描いたと推定できる」とのことです。画家の何らかの思いがもっているのでしょう。

 マネ 

Spanish Ballet - Manet.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
スペイン・バレエ」(1862)
Spanish Ballet
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

1862年にパリで公演したスペイン舞踊団「カンプルビー座」を描いた作品です。公演に感動したマネは休演日に一座を自分のアトリエに招いてデッサンをし、この絵を完成させたといいます。No.36「ベラスケスへのオマージュ」に、マネが33歳の時に(この絵の3年後)スペインに旅行してベラスケスに感激したことを書きましたが、スペインへの憧れは以前から強かったことを感じさせます。

画面には女性2人、男性6人の合計8人が描かれていますが、描き方の程度の差が鮮明で、左奥の2人はほとんど描かれていない状態です。対して最もはっきりと存在感があるのは椅子に腰掛けている女性で、プリマ・バレリーナというのでしょうか。背景は無いに等しく、白灰色と暗茶色の2色に塗り分けられているだけです。その中で白と黒との強烈なコントラストが、スペイン舞踊の熱気を伝えています。

 ゴッホ 

The Road Menders - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
道路工たち」(1889)
The Road Menders
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

道路の補修工事をする人たちを描いたサン・レミ時代の作品で、場所はサン・レミの街路です。この絵の黄色系の色の使い方と筆致は、No.157「ノートン・サイモン美術館」でとりあげた同時期の『桑の木』(1889)に良く似ています。もちろん『道路工たち』の木は街路樹なので桑ではありません。日本だと黄葉する街路樹と言えばまず銀杏イチョウですが、フランスなのでプラタナスかマロニエ(トチノキ)か何かでしょう。それにしては幹の樹形が少々違いますが(特に奥の方の木)、もちろん実物どおりに描くわけではなく、ゴッホはこのように感じたということだと思います。

黄葉した樹木と落ち葉で、あたりは黄色の染まっています。『桑の木』もそうですが、画家は "一面の真っ黄色" に触発されてたように思います。道路工事をする人は、あくまで脇役のように見えます。

 ボナール 

The Palm - Bonnard.jpg
ピエール・ボナール(1867-1947)
棕櫚の木」(1926)
The Palm
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションの創設者のダンカン・フィリップスは、1920年代に当時のアメリカでは無名だったボナールに着目しました。そのボナール・コレクションはアメリカ随一と言います。

南フランスのル・カネ(カンヌの隣)にあった自分の別荘からの眺めを描いた作品です。遠景の海(カンヌの入り江でしょう)と中景の家並みは光の中に輝き、対照的に近景の棕櫚や木々は日陰になっています。それに従って中央下の女性も逆光になっていて、ちょっぴり幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 モディリアーニ 

Elena Povolozky - Modgiliani.jpg
アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)
エレーナ・パヴォロスキー」(1917)
Elena Pavolozky
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

エレーナはランス出身で、画家を目指してパリにやってきて、ロシア移民で画廊を経営しているパヴォロスキーと結婚したという経歴の女性です。モディリアーニの友人であり、金銭的な援助もしたといいます。この絵はまさにモディリアーニ的肖像画の典型で、ファンには見逃せない作品でしょう。

 ピカソ 

The Blue Room - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
青い部屋」(1901)
The Blue Room
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

このピカソの『青い部屋』は、『舟遊びをする人々の昼食』とともにフィリップス・コレクションの必見の作品です。と言うのも、これはピカソの "青の時代(1901-1904)" のごく初期の作品で、自殺した親友(カサヘマス)のアトリエで描いたとされる絵であり、この絵から青の時代が始まったとも言えるからです。我々は普通、ピカソの "青の時代" の作品と言うと、

社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち
悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情

のどちらか、あるいは両方が絵の主題になっていると考えます。フィリップス・コレクションと同じワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーに、その典型のような作品があります。「悲劇」という作品です(「海辺の貧しい家族」と呼ばれる)。

Tragedy - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
The Tragedy
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

日本で言うとポーラ美術館の『海辺の母子像 - 1902』がそのタイプの作品であり、このブログで取り上げた例だと『苦行者 - 1903』(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wallにある)や『シュミーズの少女 - 1903』(No.163「ピカソは天才か(続)」)がそうです。

しかしフィリップス・コレクションの『青い部屋』は少々違っています。つまり「社会的弱者」や「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情」がテーマになっていません。部屋の中で女性が入浴している(日本的感覚からすると行水をしている)姿ですが、これはドガかロートレックが描くモチーフです。後ろの壁の右の方に描かれているのはロートレックのポスターだといいます。入浴しているのが娼婦だとすると「社会の底辺で生きる人」でしょうが、それは絵からは分かりません。何気ない都会の部屋の風景です。ただし部屋が青く、青を多用した絵なのです。

思い出す絵があります。「悲劇」を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーにはもう一枚の "青の時代" の傑作があります。『グルメ』と題した作品で、これも "青の時代" の初期のものです。

Le gourmet - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
Le Gourmet
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

「食いしん坊の子供」という別名があるようですが、この絵の日本語タイトルをつけるなら "Le Gourmet" を意訳して「食いしん坊」がピッタリでしょう。何となくユーモアを感じるモチーフです。また青だけでなく暖色も使っている。

日本からフィリップス・コレクションを訪れる人は、必ずワシントン・ナショナル・ギャラリーへも行くはずです。その時には是非 "青の時代" の3作品を見比べましょう(展示してあったらですが)。その幅広さが分かると思います。なお、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには『サルタンバンクの家族』(1905)という "バラ色の時代" の代表作もあります。

 ホッパー:日曜日 

Sunday - Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
日曜日」(1926)
Sunday
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

一見してホッパーと分かる作品で、強い光が生み出すコントラストが際だっています。普段は人が行き交う都会の歩道が、日曜日の朝(だと思います)には人気がなく、全く違った様相を見せる・・・・・・。分かる感じがします。そこに葉巻をくゆらす男をポツンと配置することで、画家はアメリカの文明社会の "別の面" をすくいい取りたかったのだろうと思います。


アメリカン・モダンアート


フィリップス・コレクションの特色は、20世紀アメリカのモダン・アートが非常に充実していることです。というよりここは、MoMA(ニューヨーク近代美術館。1929年開館)より先にできたモダン・アートの殿堂という性格をもっているのです。その中から、創立者のダンカン・フィリップスと同世代の5人のアーティストを取り上げてみます。

 マーク・ロスコ 

Mark Rothko Room.jpg
ロスコ・ルーム
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションには、マーク・ロスコ(1903-1970)の作品だけが展示してある「ロスコ・ルーム」があり、これが美術館の大きな "ウリ" になっています。「ロスコの作品のみで出来上がった空間」は日本の川村美術館にもありますが、川村美術館のサイトの説明によるとそのような空間は世界に4つしかありません。

テート・ギャラリー(英:ロンドン)
川村美術館(千葉県佐倉市)
フィリップス・コレクション(米:ワシントン D.C.)
ロスコ・チャペル(米:ヒューストン)

の4つです。ロスコはこのような展示方法を強く望んだと言います。その意味で、日本のモダンアート愛好家は、是非ともまず佐倉に行くべきでしょう。

 ジョージア・オキーフ 

Red Hills - OKeeffe.jpg
ジョージア・オキーフ(1887-1986)
レッド・ヒル、ジョージ湖」(1927)
Red Hills, Lake George
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョージア・オキーフは夫と死別したあと、ニューメキシコ州の荒野に移り住んだことで有名です。それもあって、この絵はニューメキシコの風景を描いたものと一瞬思いますが、違います。ジョージ湖はニューヨーク州の北部にある湖で、オキーフは避暑によく訪れたといいます。

ジョージ湖の対岸の、夕日に染まる山並みを描いたものでしょう。まるで太陽の光が山々を透過してこちらに届いているように見えます。手の掌を太陽にかざしたような・・・・・・。山をこのように描いた画家はいないのではと思います。オキーフの独特の感性に惹かれる絵です。

 ジョン・マリン 

Quoddy Head - Marin.jpg
ジョン・マリン(1870-1953)
コディ・ヘッド、メイン州海岸」(1933)
Quoddy Head, Maine Coast
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョン・マリンは、ニューヨークの摩天楼や橋などの題材が多い画家・版画家ですが、この水彩画は、都会とは対象的なメイン州の岬を描いています。水彩画の名手と言われたマリンらしい作品です。

 アーサー・ダヴ 

Morning Sun - Dove.jpg
アーサー・ダヴ(1880-1946)
朝日」(1935)
Morning Sun
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

アーサー・ダヴは、ヨーロッパ画壇を含めても最も早く抽象画に取り組んだ画家と言われています。とくにアメリカの土地と自然に想を得たカラフルで有機的なフォルムの作品が多い。この絵はアーサー・ダヴの作品にしてはめずらしく具象的です。

 マージョリー・フィリップス 

最後にフィリップス・コレクションで印象に残った作品を一つ。マージョリー・フィリップスの「夜の野球」です。

Night Baseball - Marjorie Phillips.jpg
マージョリー・フィリップス(1894-1985)
夜の野球」(1951)
Night Baseball
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

マージョリー・フィリップスはダンカン・フィリップスの妻であり、画家です。フィリップス・コレクションの共同設立者と言えます。

この絵は野球のナイトゲームを題材にしたという点で、妙に記憶に残る絵です。他にこういうテーマの絵がないからでしょう。考えてみると野球のナイト・ゲームは、強烈な人工の光、それに照らされた緑の芝生、その上に散らばる白いユニフォーム、色とりどりの観客席、青黒い空など、"絵になる" 要素がいろいろあると言えます。そこをうまくとらえています。


生活空間に美術品を展示する


最初にも書きましたが、この美術館はコレクターの屋敷をそのまま美術館にしたものです。そこが、同じ個人コレクションでも冒頭にあげた6つの美術館とは違います。写真のように煉瓦造りの瀟洒しょうしゃな建物がそのまま美術館になっている。このような "私邸美術館" は、著名な美術館ではめずらしいのではと思います。ニューヨークのフリック・コレクションも私邸ですが(フェルメールが3枚もある)、石造りの威風堂々とした建物であり、生活空間という感じはしません。No.19「ベラスケスの怖い絵」で、ベラスケスの「インノケンティウス十世の肖像」を取り上げましたが、この絵があるローマのドーリア・パンフィーリ美術館も私邸です。ただこの "私邸" は "ドーリア・パンフィーリ宮殿" であり、その一部が "美術館" になっている。フリック・コレクション以上に生活空間という感じはしません。

その意味でフィリップス・コレクションは、ボストン美術館の近くにあるイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館や、ミラノのポルディ・ペッツオーリ美術館に近いものです。しかしフィリップス・コレクションの方が作品の年代やバリエーションも多様で、特に近代絵画やモダン・アートが充実しています。

生活の場と感じられる場所が、美術鑑賞には最適である・・・・・・。これは創立者のダンカン・フィリップスの信念だったようです。ここを訪れた人は、暖炉があり長椅子がありといった家庭的雰囲気が横溢する空間の中で、さまざまな年代の個人コレクションを鑑賞することになります。フィリップス・コレクションの最大の特色はこの点でしょう。



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No.215 - 伊藤若冲のプルシアン・ブルー [アート]

No.18「ブルーの世界」で青色顔料(ないしは青色染料)のことを書いたのですが、その中に世界初の合成顔料である "プルシアン・ブルー" がありました。この顔料は江戸時代後期に日本に輸入され、葛飾北斎をはじめとする数々の浮世絵に使われました。それまでの浮世絵の青は植物顔料である藍(または露草)でしたが、プルシアン・ブルーの強烈で深い青が浮世絵の新手法を生み出したのです。絵の上部にグラディエーション付きの青の帯を入れる「一文字ぼかし」や、輪郭線を黒ではなく濃紺で刷るといった手法です(No.18)。プルシアン・ブルーが浮世絵に革新をもたらしました。

そして日本の画家で最初にプルシアン・ブルーを用いたのが伊藤若冲だったことも No.18「ブルーの世界」で触れました。その若冲が使ったプルシアン・ブルーを科学的に分析した結果が最近の雑誌(日経サイエンス)にあったので、それを紹介したいと思います。


伊藤若冲『動植綵絵』


宮内庁・三の丸尚蔵館が所蔵する全30幅の『動植綵絵』は、伊藤若冲の最高傑作の一つです。この絵を全面修復したときに科学分析が行われ、プルシアン・ブルーが使われていることが判明しました。その経緯を「日経サイエンス」から引用します。以下の引用で下線は原文にはありません。


伊藤若冲の代表作『動植綵絵』は、1999年度から6年間にわたり、大規模な修理が行われた。絹に描かれた絵から裏打ちの和紙をすべてはがし、新たに表装しなおす「解体修理」だ。作品を裏からも見ることができるまたとない機会にもなり、画面表裏からの様々な作品調査が平行して進められた。

調査の結果で最も驚きをもって受け止められたのは、作品の1つに、当時西欧から日本に伝えられたばかりの人工顔料、プルシアンブルーが用いられたいたことだ。明和3年(1766年)に描かれたとみられる「群魚図」の中のルリハタの絵である(引用注:「蛸」と「鯛」がある群魚図のうちの「鯛」)。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

群魚図(鯛).jpg
伊藤若冲『動植綵絵』より
「群魚図(鯛)」(1766)
(宮内庁 三の丸尚蔵館 所蔵)
絵の左下の隅に黒ずんだ濃紺色で描かれているのがルリハタである。黒ずんでいる理由は後述。

ルリハタ.jpg
ルリハタ
ハタ科の魚だが、鮮やかな青色の(瑠璃色の)体色と黄色の線が目立つ。"瑠璃" とはもともと仏教用語であり、鉱物としてはラピスラズリを意味する。ラピスラズリはウルトラマリン・ブルーとして西欧絵画の青に使われた。No.18「ブルーの世界」参照。

若冲の「群魚図」の分析に使われたのは「蛍光X線分析」という手法です。絵の表面に直径約2mmの微弱なX線をスポット照射します。そうするとそこにある元素が励起され、元の状態に戻るときに2次的なX線(=蛍光X線)を出します。元素が出す蛍光X線のエネルギーは元素ごとに決まっているので、どんな元素が存在するかが分かります。


『動植綵絵』全30幅の919ポイントに照射したところ、ルリハタの濃紺色の部分に鉄の存在を示すピークが現れた(下図)。鉄を含む青色であればプルシアンブルーの可能性が高い。当時、日本で青色の彩色に使われていたのは主に、藍銅鉱という鉱石を粉末にした群青か、植物からとった藍だ。いずれも鉄を含まない。

(同上)

蛍光X線スペクトル.jpg
ルリハタの蛍光X線スペクトル
鉄のピークがみられる。一般的な青色顔料である群青(藍銅鉱)や藍に鉄分は含まれない。Ca(カルシウム)のピークは下地に塗った胡粉を示している(胡粉は貝殻を砕いて作る)。
(日経サイエンス 2017.10 より)

分析を担当した早川康弘氏(東京文化財研究保存修復センター = 東文研)は、当初このデータを見落としていたといいます。というのも、プルシアン・ブルーが絵の具として頻繁に使われるようになったのは江戸時代末期の19世紀になってからであり、若冲が使っていたとは思われなかったからです。


日本に初めてプルシアンブルーが輸入されたの延享4年(1747年)である。このときは全量がオランダに返送され、日本で消費されたのは宝暦2年(1752年)からだ。1760年代までに輸入された量は全体で2.5ポンド(約1.3kg)で、極めて稀少な品だったとみられる。

絵画に用いたのはそれまで、平賀源内が1770年代前半に油彩「西洋夫人図」のドレスの胸元の模様を描いたのが最も早い例だとみられていた。本草学者で蘭学者、大名たちとも親交のあったマルチタレントの源内がいちはやく西洋の絵の具を入手し、西洋の技法で描いた絵に用いたというのは想像しやすい。だが西洋の素材や技法とあまり縁のない若冲が、その5年以上も前に使っていたというのは意外感がある。

(同上)

では、プルシアン・ブルーだと断定するにはどうするのか。江戸時代に輸入されて現在も残っているプルシアン・ブルーがあります。それと比較分析をします。


早川氏らは、ルリハタの絵を別の方法で調べてみることにした。絵の表面に白色光を照射し、反射光のスペクトルを測定する分光分析だ。古典的な手法だが、プルシアンブルーの同定にはよく用いられる。比較対照として、19世紀に鍋島藩で購入された「紅毛群青」を用いた。こちらはX線回折によってプルシアンブルーの結晶構造が確認されている。

結果は明快だった。400~850nm の広い波長域で反射率があまりかわらないプルシアンブルーに特徴的なスペクトルが得られ、鍋島藩の試料とも一致した。若冲は確かに、プルシアンブルーを使ってルリハタを描いたのだ。この結果は2009年、東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において公表された。

(同上)

可視分光スペクトル.jpg
ルリハタの可視分光スペクトル
400~850nm の広い波長域で反射率があまり変わらない。プルシアン・ブルーに特徴的な可視光スペクトルである。
(日経サイエンス 2017.10 より)







プルシアン・ブルー
この色はRGB値が "192f60"(16進数)であるが、あくまで一例である。実際に顔料・染料として使う方法によって色は変化する。


プルシアン・ブルーの合成


プルシアン・ブルーは世界初の合成顔料です。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、その発見は18世紀初頭のベルリンでした。当時ベルリンはプロイセン領だったので「プロイセンの青=プルシアン・ブルー」と呼ばれたのです。江戸時代の日本では「ベロ藍」ですが、ベロとはベルリンの意味です。その発見は全くの偶然でした。


「群魚図」から遡ること60年前の1706年ごろ、ベルリンの錬金術師ディッペル(Johann C. Dippel)の工房の一角で、染料・顔料の製造業者ディースバッハ(Johann J. Diesbach)が、カイガラムシから抽出した赤い色素、コチニールからレーキ顔料を作ろうとしていた。

(引用注) コチニールはカイガラムシから作る赤色の色素で、かつては絵の具のクリムゾンやカーマインに使われた。レーキ顔料とは、水溶性の顔料を何らかの方法で不溶性にしたもの。不溶性にすることをレーキ化と言う。

作業にはアルカリが必要だったが、たまたま切らしていたため、ディッペルから拝借した。ディースバッハがそのアルカリと硫酸鉄をコチニールに加えたところ、鮮やかなブルーが現れた

2人はさぞ驚いたに違いない。どのような反応が起きたのかはわからなかったが、予想外の青色が生じた原因がディッペルから借りたアルカリにあったことは推測できた。ディッペルは錬金術師であるだけでなく、神学者でかつ医者でもあった。動物の角や骨、血液などにアルカリを加えて乾留した「ディッペル油」を作り、薬品原料として売っていた。乾留後はアルカリを水に溶かして回収し、再び乾留に用いた。ディースバッハに渡したのは、すでに何度か乾留に使ったアルカリの炭酸カリウム溶液だった。

(同上)

動物の角や骨や血液などから作った油というのは、いかにも錬金術師が作りそうな "あやしげな" ものですが、まさにそこがこの発見物語のポイントです。ディースバッハが作ろうとしていた赤色染料・コチニールは、青色=プルシアン・ブルーの出現には関係ありません。「動物由来の成分が溶け込んだ炭酸カリウム液」と「硫酸鉄」が鍵です。日経サイエンスの記事によるとプルシアン・ブルーが生成した過程は次のようです。

ディッペルが動物の角や骨、血液などに炭酸カリウム液を加えて加熱したとき、骨や血液に含まれる炭素(C)と窒素(N)からシアン化物イオン(CN-)が生成し、それが炭酸カリウムと反応してシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)がきた。

シアン化カリウムが血液や鉄製の反応容器の含まれる鉄分(Fe)と反応して黄血塩(フェロシアン化カリウム。その名の通り黄色)ができた。

黄血塩に硫酸鉄が加わってプルシアン・ブルーができた。

日経サイエンス2017年10月号には、上記の過程をそのままに再現した実験が載っていて、見事にプルシアン・ブルーができています。それを使って画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵も掲載されています。

プルシアン・ブルーで描いたルリハタ.jpg
日経サイエンスにはプルシアン・ブルーを発見当時の製法で再現した実験が載っている。用いた動物原料は豚のレバーである。この絵は実験で作ったプルシアン・ブルーを用いて画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵。紙の上に描かれている。
(日経サイエンス 2017.10)

プルシアン・ブルーの結晶構造.jpg
プルシアン・ブルーの結晶構造
2価の鉄(Fe2+。黄色の丸)と3価の鉄(Fe3+。赤色の丸)が交互に結晶を作っている。
(日経サイエンス 2017.10 より)

プルシアン・ブルーの結晶の特徴は、2価の鉄(Fe2+)と3価の鉄(Fe3+)が交互に結晶を作っていることです。このように酸化度が違う金属が混在している結晶では、電子はその金属に集まります。かつ、電子は2価の鉄と3価の鉄を間を容易に移動できる。移動するときに強い光の吸収が起き、普通の物質より鮮やかな色になります。プルシアン・ブルーの場合は橙色が吸収されて青く見えます。この青は非常に "強い青" です。


プルシアンブルーの色の強さは、天然顔料のウルトラマリンの10倍以上といわれる。画家の浅野信二氏は「少し混ぜただけで全体がこの色になる。古楽器の演奏にエレキギターを持ち込むような影響力」だと語る。安定で退色しにくく、天然由来の顔料と違って確実に同じ色を作れるのも利点だ。

(同上)

しかし "強い色" は欠点にもなります。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、19世紀のフランス画壇ではプルシアン・ブルーは危険な色とされ、扱いには注意が必要だったようです。No.18に書いたことを再掲します。


プルシアン・ブルーは印象派の画家が好んで使った色です。印象派は「影にも色があることを発見した」とよく言われますが、ルノアールの有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876。オルセー美術館) には、その影や衣服の表現にプルシアン・ブルーが使われています。またゴッホもこの色を好みました。アルル時代の傑作である「星降る夜」(1888。オルセー美術館)にもプルシアン・ブルーが使われています。時代が進んで、ピカソ・20歳台のいわゆる「青の時代」の諸作品は、プルシアン・ブルーを他の色とまぜて多様な青を作り出しています。この時期のピカソは深い青を特に好んだようです。

しかし、プルシアン・ブルーは次第に使われなくなり、あとで開発されたコバルト・ブルーなどの合成青色顔料にとって代わられました。それは「プルシアン・ブルーは使い方が難しい」色だったからです。パリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長は、次のようにインタビューに答えています。

  とにかく、プルシアン・ブルーは使いこなすのが難しい色です。たとえば1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。その美しさにもかかわらず、使い方がとても難しい色なのです。

ルノワールもこの色の難しさに気づいて、画家仲間に注意書きのメモを残したと言います。油絵は浮世絵と違って色と色を混ぜ、かつ重ね塗りをします。プルシアン・ブルーは油絵にとっては「危険な色」なのです。しかし巨匠たちはその危険な色に挑み、名画を生み出しました。危険を承知で挑む強烈な魅力がこの顔料にあったということでしょう。



プルシアン・ブルーの歴史


日経サイエンスの記事に戻って、プルシアン・ブルーの歴史をまとめると、以下のようになります。

(1706年)ベルリンでディッペル(錬金術師)とディースバッハ(染料・顔料業者)がプルシアン・ブルーを偶然に合成。

2人はプルシアン・ブルーの製造を開始。製法は秘匿した。1712年頃には「需要に応えきれない」との手紙が残っている。

(1724年)英国の学者がドイツから入手したプルシアン・ブルーの製法を学術誌に発表。プルシアン・ブルーの科学的研究が始まる。

(1747年)日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入された。この時は全量が返送されたので、実質的な最初の輸入は1752年。

(1766年)伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使用。

(1770年代前半)平賀源内が油彩画「西洋夫人図」にプルシアン・ブルーを使用。

(19世紀~)プルシアン・ブルーが浮世絵に多数使用される。たとえば葛飾北斎の『富嶽三十六景』であり、その制作・出版は1823年頃~1835年頃。

(19世紀~)印象派の画家が好んで使用。ピカソも「青の時代」の絵に多用。

(2009年)東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において、伊藤若冲がプルシアン・ブルーを使ったことが公表された。


1回きりのプルシアン・ブルー


ただし、伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使った理由は謎が残ると、日経サイエンスの記事は言います。


ひとつ疑問が残っている、なぜ伊藤若冲はこのルリハタに、プルシアンブルーを使ったのだろうか? しかも絵の具の上から墨を筋状に重ね塗りしており、もとの色があまりわからない。「この色なら、若冲のパレットにあるほかの絵の具で簡単に作れる」と東文研の早川氏は首をかしげる。貴重品だったプルシアンブルーをわざわざ使う理由が見当たらない。プルシアンブルーは若冲のほかの作品では見つかっていない。1回限りの実験だったのか。私たちが知らない理由があったのか。その点は謎のままだ。

(同上)

記事に「1回限りの実験か」と書いてありますが、実験ではないでしょう。『動植綵絵』は若冲の禅の師である大典顕常だいてんけんじょうがいる京都・相国寺に寄贈した絵です。若冲にとって "渾身の作" だろうし、事実、その出来映えは最高傑作と呼ぶにふさわしい。いいかげんな気持ちでプルシアン・ブルーを用いたはずがないと思います。当時は貴重で高価な絵の具です。初めて使う絵の具ということは、何度も下絵を書いて発色の具合を調べたはずです。そして『動植綵絵』に用いたと考えられる。

若冲がプルシアン・ブルーを用いたのは1回きりです。なぜかを推測すると、これは "自分には向かない絵の具" だと思ったからではないでしょうか。引用した画家の浅野信二氏やパリの絵の具専門店の店長の発言にあるように、プルシアン・ブルーは極めて "強い絵の具" であり、もっと言うと "危険な絵の具" です。上に引用したパリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長の発言をもう一度思い出すと、

1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。」

でした。近接して塗った絵の具を "食ってしまうほどの強力な青色" なのです。

一方、若冲の『動植綵絵』はどうでしょうか。この絵には「裏彩色うらざいしき」の技法が駆使されていることが分かっています。再び「日経サイエンス」から引用します。


共同で調査に当たった宮内庁三の丸尚蔵館の太田彩・主任研究官は、若冲を「色に執着した画家」と評する。例えば絹の裏面に色を置くと、表から絹目を通して見ることでやわらかい色になる。「裏彩色」と呼ばれる技法で、表から色を重ねるとさらに複雑な表情が生まれる。調査によって、若冲が『動植綵絵』に緻密な裏彩色を施していることが明らかになった。無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされていたのだ。

「若冲は、自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」と太田氏はいう。絵の具は質の良いものをふんだんに使い、どう使うとどのような色が生まれるのかを詳細に研究していた

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月

最も有名な裏彩色の技法は『動植綵絵』の「老松白鳳図」ですね。絹地の表から白、裏から黄を塗ることで、鳳凰の羽が金色に見えるという驚きの効果を生み出してます。その裏彩色は「老松白鳳図」だけではないのです。裏打ちしてある和紙を全部はがす解体修理をしてみると、南天の実、紅葉の葉にまで裏彩色が使われていた。この事実を考えると、若冲は『動植綵絵』以外の絵でも裏彩色を多用しているはずです。

そこでプルシアン・ブルーです。推測すると、プルシアン・ブルーは「裏彩色の技法が利かない絵の具」なのではないでしょうか。あまりに強い色であり、他の色を食ってしまうために・・・・・・。だとすると、裏彩色を駆使して「自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」若冲にとっては "使いにくい色" ということになります。実は若冲は、プルシアン・ブルーの性質(=難しさ)を良く理解していたのではないか。画家仲間に注意書きのメモを残したルノワールのように。

さらに推測を重ねると、若冲が「群魚図」のルリハタにあえて「1回きりのプルシアン・ブルー」を使った理由は、この絵に「秘密を仕掛けた」のではと思います。裏彩色もそうですが、若冲の絵には "秘密" がよくあります。肉眼では判別しがたいような細かい点々を描き込むとか、絵の具を4回も塗り重ねる(日本画で!!)といったような・・・・・・。

渾身の作に、オランダから輸入されたばかりの高価で貴重な絵の具を "そっと" 使う。それはルリハタの美しい瑠璃色を描くにはピッタリでしょう。しかも上から墨を重ねて分からないようする。それによって「群魚図」のプルシアン・ブルーを "封印" し、そしてプルシアン・ブルーの使用そのものも封印してしまう。「1回きりの秘密を仕掛けた」という解釈が最も妥当だと思います。そしてその秘密は、描かれてから243年後に現代科学の分析手法で解き明かされたわけです。


プルシアン・ブルーの現在


顔料としてのプルシアン・ブルーは、その後に開発された合成顔料であるコバルト・ブルーやセルリアン・ブルー(No.4「プラダを着た悪魔」でアンディが着ていたセーターの色)などに押されて使われなくなりました。しかしプルシアン・ブルーは顔料とは別の用途で発展します。


プルシアンブルーには色のほかにもユニークな性質が2つあり、幅広い分野で機能性材料として利用されている。

1つは鉄イオンの酸化・還元によって色が変わることだ。この性質を利用した有名な例が、図面などによく使われる青写真だ。また電気で色が変わるエレクトロクロミック材料として、電子カーテン電子ペーパーにも応用されている。(中略)

もう1つは、ジャングルジム状の結晶構造の中に様々な陽イオンや分子を出し入れできることだ。放射性セシウムの吸着剤になるほか、リチウムイオン電池やカリウムイオン電池の正極材料としても期待されており、開発が進んでいる。

(同上)

プルシアン・ブルーが放射性セシウムの吸着剤やカリウムイオン電池の正極材料になることは、No.18「ブルーの世界」の「補記」に書きました。電子カーテンは透明から不透明に多段階に変化する "ガラス" で、ボーイング 787 の窓がそうです。787 の窓の材料は非公開なのでプルシアン・ブルーが使われているかどうかは分かりませんが、こういう使い方も可能な機能性材料がプルシアン・ブルーです。プルシアン・ブルーが強い青を発色して顔料になるのは、あくまで一つの機能に過ぎないのです。



18世紀初頭のベルリンで、顔料・染料業者と錬金術師が全くの偶然で合成したプルシアン・ブルーを、フランス画壇の著名画家たちが使い、若冲や北斎も使い、浮世絵に革新を起こし、さらには東日本大震災からの復興に陰で役立ち(放射性セシウムの吸着剤)、今後は次世代電池に使うべく研究されている・・・・・・。

プルシアン・ブルーは今で言う "化学" で作り出されたものですが、その化学が作り出した "機能性材料の奥深さ" がよく理解できた記事でした。




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No.214 - ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲 第2番 [音楽]

No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」からの連想です。No.209 において、リストのロ短調ソナタは "多楽章ソナタ"と "ソナタ形式の単一楽章" の「2重形式」だと書きました。そしてその2重形式を弦楽でやった例がツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』だとしました。今回はそのツェムリンスキーの曲をとりあげます。

ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」にオペラ作品『こびと』(原作:オスカー・ワイルド)と、それにまつわるエピソードを書きました。今回は2回目ということになります。


ツェムリンスキー(1871-1942)


アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)はウィーンに生まれたオーストリアの作曲家です。指揮者としても著名だったようで、ウィーンのフォルクス・オーパーの初代指揮者になった人です。作曲家としての代表作品は各種Webサイトに公開されているので省略します。

このブログで以前とりあげた当時のウィーンの音楽人との関係だけを書いておきます。まず、No.72「楽園のカンヴァス」でシェーンベルク(1874-1951)の「室内交響曲 第1番」について書きましたが、ツェムリンスキーの妹がシェーンベルクと結婚したため、ツェムリンスキーとシェーンベルクは義理の兄弟です。また No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」で書いたように、マーラー(1860-1911)の夫人のアルマはツェムリンスキーのかつての恋人でした。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたコルンゴルト(1897-1957)はツェムリンスキーに作曲の指導を受けた一人です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲第2番 - LaSalle(LP - DG 1978).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲 第2番」Op.15
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1978(LP)

以降、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』がどういう構成になっていて、どういう主題や動機が出てくるのかを順にみていきたいと思います。

括弧内の数字の表記で(1-122:122)の "1-122" は "第1小節から第122小節まで" の意味で、":122" と書く場合は "合計が122小節" あることを示します。"(122)" であれば "第122小節" の意味です。


第1楽章(1-122:122)


『弦楽4重奏曲 第2番』は演奏に40分程度かかりますが全曲に切れ目はなく、続けて演奏されます。しかし実質的には "4つの楽章を続けて演奏する曲" と見なすことができます。以下は4楽章に分けて曲の流れを追っていきます。ただし作曲家が楽章の切れ目を明示しているわけではないので、人によって少々の解釈のズレが生じるでしょう(後述)。

 主題とその展開(1-104:104) 

まず冒頭は第1ヴァイオリンの譜例81で始まります。この冒頭4小節の後半2小節を《主題》と呼ぶことにします。この《主題》は以降さまざまに変奏されながら、最後の第4楽章まで随所に現れます。特に楽章の切れ目には必ず《主題》が回帰し、次の楽章への "橋渡し" となります。また第4楽章の最後も《主題》の変奏で締めくくられます。その意味で、これは『弦楽4重奏曲 第2番』の全体を支配する動機です。

 ◆譜例81(1-4) 《主題
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ここでは、冒頭の(1-2)は「主題の前触れ」であり(3-4)が《主題》であると考えています。もちろん4小節全体を主題としてもいわけです。第1楽章を「ソナタ形式」だとすると、ソナタ形式は「主題の提示・展開・再現」という構造なので、この第1楽章の場合、2小節だけの「序奏」があり、2小節の「主題の提示」があって、第5小節目からすぐに「展開」が始まると考えられるでしょう。「再現」もちゃんとあります(後述)。

  以降の記述では原則として「主題」も「主題の変奏」も区別せずに《主題》と書くことにします。後の第2楽章の《副主題》についても同様です。

音が次第に速く強くなっていき、フォルテの譜例82に続いてフォルテシモの譜例83が現れます。

 ◆譜例82(11-12)
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 ◆譜例83(16-17)
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譜例82の動機はこのあとの第1楽章で何回か現れます。また譜例83の動機は第4楽章の再現部に現れます(後述)。譜例83のすぐあとに続くのが《主題》のリズムを少し変えた譜例84です。

 ◆譜例84(23-25) 《主題
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このあと曲は静かになり、第1ヴァイオリンが奏でる主題の変奏が続きますが、再び《主題》が復帰してきます(譜例85)。

 ◆譜例85(41-43) 《主題
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譜例85は主題の後半を取り出したものです。この動機が第1ヴァイオリンで繰り返されて譜例86へと続きます。譜例86は譜例82が変形されたものです。そのあとには符点音符のリズムがたびたび現れ、ついには4つのパートが符点音符のリズムをフォルテシモで演奏する譜例87に至ります。

 ◆譜例86(50-51) [譜例82の変奏]
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 ◆譜例87(75-76)
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符点音符のリズムが8小節続いたあとに現れるのが、同じフォルテシモの譜例88です。このあと曲は譜例82(または譜例86)の変奏を経たあとに譜例89に至ります。譜例89は譜例88を短縮した音型になっています。譜例89のあたりは、第1楽章の「主題とその展開」の最後の部分です。

 ◆譜例88(83-84)
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 ◆譜例89(99-100) [譜例88の変奏]
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 主題の再現(105-122:18) 

突如として譜例90の《主題》が再現し、第1楽章の再現部に入ります。この再現部は18小節の短いものです。またその中に次の第2楽章の副主題の断片も現れます。従ってこの18小節は、第1楽章から第2楽章への "移行部分" です。また譜例90のところから第2楽章が始まると考えて、18小節は "第2楽章の序奏" だと見なすこともできるでしょう。

 ◆譜例90(105-110) 《主題
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このように楽章の転換部分、ないしは楽章の中の大きな区切りのところで《主題》が再現するのが、この弦楽4重奏曲の大きな特徴になっています。


第2楽章(123-360:238)


第2楽章はアダージョの緩徐楽章です。この楽章は「第1部」と「第2部」に分かれていて、各部の終わりに《主題》が再現します。

第2楽章で主要な動機を副主題と呼ぶことにします。ソナタ形式の用語の第1主題が《主題》、第2主題が副主題というわけです。この曲の場合、副主題は複数の副主題群を構成しています。以下ではそれを4つにわけ、副主題A,B,C,D と表記します。この4つは互いに関係しています。

 第1部(123-263:141)アダージョ 

まず第2楽章の冒頭に出てくるのが譜例91の《副主題A》です。この断片は第1楽章の「主題の再現」のところに出てきました。《副主題A》はこの曲には珍しく "息の長い" 旋律です。

 ◆譜例91(123-130) 《副主題A
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譜例91のすぐあとに5連符を含む特徴的な動機(譜例92)が出てきます。これを《副主題B》と呼ぶことにします。この音型は以降たびたび現れ、第4楽章の終結部でも重要な役割を果たします。《副主題A》と《副主題B》は「静と動の対比」と言えるでしょう。

 ◆譜例92(137-138) 《副主題B
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副主題B》は各パートで繰り返されますが、ヴィオラが《副主題A》を奏でたあと、その次に第1ヴァイオリンに現れるのが譜例93の《副主題C》です。

 ◆譜例93(156-157) 《副主題C
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副主題C》は《副主題A》と似ていて、変奏と言ってもよいでしょう。譜例93は第1ヴァイオリンのパートですが、同時に第2ヴァイオリンに《副主題B》が付随しています。

ちなみに、ラサール弦楽4重奏団が演奏したこの曲のCDの解説に、この《副主題C》はシェーンベルクの『浄められた夜(浄夜)』(1899)からの引用だとありました。確かに『浄夜』の第1部~第2部に似たような旋律が出てきます。単純な音型なので引用と断言するのは難しいはずですが、ツェムリンスキーはこの曲をシェーンベルクに献呈しているので、解説どおりなのでしょう。

そのあとに続くのが譜例94の《副主題D》です。この動機も以降さまざまに変形されて出てきます。第2楽章だけでなく、第3楽章(スケルツォ)の中間部(トリオ)も《副主題D》が主役です。

 ◆譜例94(161-163) 《副主題D
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第1ヴァイオリンが譜例95を演奏するあたりから、《副主題D》の変奏が始まります。まずチェロに譜例96が現れ、次にヴァイオリンの16分音符の早い動きに呼応してヴィオラに譜例97が現れます。ヴァイオリンの16分音符の動きは次第に高まっていき、譜例98のあたりになると第2楽章の「第1部」も最終段階です。

 ◆譜例95(180-182)
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 ◆譜例96(184-186) 《副主題D
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 ◆譜例97(201-202) 《副主題D
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 ◆譜例98(229-230)
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副主題A》の断片が現れたあとに、第1楽章冒頭の《主題》が再現し(譜例99)、第2楽章の「第1部」は終わります。まとめると「第1部」ではまず副主題群が提示され、《主題》で締めくくられました。

 ◆譜例99(254-256) 《主題
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 第2部(264-360:97)アダージョの展開部 

第2楽章の「第2部」は「アダージョの展開部」とも言えるものです。まず最初は、第1ヴァイオリンの《主題》です(譜例100)。それが発展していき、譜例101のところでチェロも《主題》を奏でます。

 ◆譜例100(264-265) 《主題
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 ◆譜例101(276-277) 《主題
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そのあとに譜例102が続きます。この動機は《副主題A》の断片と《主題》の断片をミックスしたような音型になっています。

 ◆譜例102(279-280)
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そのあと譜例103の《副主題B》が現れ、譜例104へと続きます。譜例104は譜例102を2度下げたものです。

 ◆譜例103(286) 《副主題B
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 ◆譜例104(292-293)
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さらにヴィオラと第1ヴァイオリンが印象的なリズムの譜例105を演奏します。このリズムは継続してチェロの譜例106にも引き継がれます。

 ◆譜例105(299-300)
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 ◆譜例106(307-308)
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 ◆譜例107(315)
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ヴィオラが譜例107の動機を演奏し、同時にチェロは譜例105の変化形をヴィオラより高い音域で演奏します。このあたりから「第2部」はクライマックスに向かいます。譜例105,6,7の音型がさまざまに変容し、音の跳躍もあり、3連符も多数現れて最高潮を迎えます。そして音楽は静かになっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

譜例108の《主題》が再現して、第2楽章「第2部」の再現部となります。このあと《副主題B》《副主題C》も再現し、第2楽章全体が終わります。

 ◆譜例108(348-349) 《主題
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第1楽章から第2楽章へと移る部分と同じく、この《主題》が再現する部分(348-360:13)は、第2楽章から第3楽章への "移行部分" です。従って譜例108のところから第3楽章が始まり、第3楽章には13小節の序奏が付いていると考えてもよいと思います。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(CD - DG 1989).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1989(CD)
(録音は1977~1981)


第3楽章(361-744:384)


第3楽章はいわゆるスケルツォです。この楽章も「第1部」と「第2部」に分けて考えるのが分かりやすいと思います。第3楽章に出てくる主要な動機4つをスケルツォ動機A,B,C,D と呼ぶことにします。

 第1部(361-450:90)スケルツォ 

第3楽章はチェロの重音のピツィカートが鳴って始まります。ピツィカートは2回ですが、1回目だけがスフォルツァンドで目立ちます。

まずヴィオラに出てくるのが譜例109の《スケルツォ動機A》です。これは明らかに《主題》の最初の小節の変形です。その次に第1ヴァイオリン伸びやかな《スケルツォ動機B》を演奏します。その後、曲は《スケルツォ動機A》を中心に進んでいきます。

 ◆譜例109(364-367) 《スケルツォ動機A
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 ◆譜例110(382-386) 《スケルツォ動機B
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 第2部(451-744:294)スケルツォの展開部 

譜例111の《スケルツォ動機C》が現れるところから「第2部」に入ります。この「第2部」は、A1→B→A2の3部形式になっています。以下、その表記をします。

 第2部・A1(451-631:181) 

この「A1」の部分は譜例111の《スケルツォ動機C》(第1ヴァイオリン)と、それに続いて現れる譜例112の《スケルツォ動機D》が支配しています。

 ◆譜例111(451-452) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例112(459-460) 《スケルツォ動機D
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これらの《スケルツォ動機A,C,D》の音型やリズムの断片がさまざまに変奏され、「A1」を形づくっていきます。その中に、2つのヴァイオリンとヴィオラが同時に演奏する「下降のグリッサンド」がありますが、特徴的で目立つところです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

譜例112から約100小節後の譜例113のあたりになると、第2部の「A1」も終わりに近づきます。そして譜例114の《スケルツォ動機B》が復帰したのち、曲は次第に静かになって「B(中間部)」へと移っていきます。

 ◆譜例113(574-577)
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 ◆譜例114(604-608) 《スケルツォ動機B
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 第2部・B(632-682:51) 

「B(中間部)」はチェロだけの音で始まります。最初に出てくるのは譜例115の《副主題D》です。

 ◆譜例115(636-640) 《副主題D
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この中間部は、《副主題D》→《スケルツォ動機A》→《副主題D》→《スケルツォ動機B》という構成です。

 第2部・A2(683-744:62) 

再び譜例116の《スケルツォ動機C》が戻ってきて3部形式の「A2」になります。「A2」は「A1」に比べて約3分の1の長さです。3連符が連続したあとには譜例117の《スケルツォ動機D》も復帰します。

 ◆譜例116(683-684) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例117(720-721) 《スケルツォ動機D
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スケルツォ動機C,Dは符点音符のリズムが特徴的ですが、このリズムが繰り返されてからスケルツォ動機Aが復帰し、そのあと突如として《主題》が回帰して第4楽章に突入します。


第4楽章(745-1221:477)


第4楽章は「再現部」「展開部」「終結部」の3つに分けるのが考えやすいでしょう。最初の「再現部」は、曲全体を「単一楽章のソナタ形式」と考えたときの「再現部」に相当します。

 再現部(745-823:79) 

まず第1ヴァイオリンに譜例118の《主題》が再現します。このあと、第2楽章「第1部」で提示された4つの副主題が順に再現します。まずヴィオラに譜例119の《副主題A》が現れ、その次に第1ヴァイオリンに譜例120の《副主題B》が現れます。そして譜例121の《副主題C》、譜例122の《副主題D》と続きます。

 ◆譜例118(745-747) 《主題
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 ◆譜例119(758-765) 《副主題A
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 ◆譜例120(767-768) 《副主題B
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 ◆譜例121(777-778) 《副主題C
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 ◆譜例122(783-785) 《副主題D
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曲は高揚していき、フォルテシモの譜例123になります。これは第1楽章の譜例83と同じ動機です。その後《主題》の断片が演奏されるなか、再び譜例123の動機が出てきて再現部は終わりに近づきます。

 ◆譜例123(801-802) [譜例83の変奏]
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 展開部(824-1136:313) 

Allegro molto の譜例124がフォルテシモで演奏されて、第4楽章の「展開部」に入ります。この譜例124は《副主題D》の変化形といえるでしょう。

 ◆譜例124(824-826) [副主題Dの変化形]
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第4楽章の「展開部」には、ここだけに現れる2つの特徴的な動機があります。それを《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》と呼ぶことにします。譜例125が《フィナーレ動機A》で、このリズムは展開部に入る直前にも出てきました。また譜例124の直後もこのリズムです。譜例125の次に出てくるのが《フィナーレ動機B》です(譜例126)。この2つの動機は「展開部」にたびたび現れます。

 ◆譜例125(835-836) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例126(859-861) 《フィナーレ動機B
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フィナーレ動機B》が展開されたあと、曲は静かになり、チェロが譜例127を演奏します。この音型は《副主題A》と《副主題D》の断片がミックスされたような感じです。そのあと、はっきりとチェロが《副主題A》を演奏し(譜例128)、第1ヴァイオリンへと引き継がれます(譜例129)。

 ◆譜例127(894-902) [副主題A,Dの変形]
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 ◆譜例128(912-919) 《副主題A
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 ◆譜例129(932-939) 《副主題A
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再び最初のテンポ(Allegro molto)に戻って、チェロが単独で《フィナーレ動機B》を演奏します(譜例130)。ここからは《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》がさまざまに発展して曲が進みます(譜例131,132,133)。

 ◆譜例130(949-951) 《フィナーレ動機B
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ◆譜例131(990-991) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例132(1028-1029) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例133(1034-1036) 《フィナーレ動機B
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この展開が進むうちに《副主題A》の断片が挟みこまれてきます。そして明瞭な形で譜例134の《副主題A》が第1ヴァイオリンに出てきます。そして《フィナーレ動機B》が展開されたあと《副主題D》が出てくるあたりになると(譜例135)、第4楽章の展開部も終わりに近づきます。

 ◆譜例134(1091-1093) 《副主題A
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 ◆譜例135(1109-1112) 《副主題D
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 終結部(1137-1221:85) 

 ◆譜例136(1138-1141) 《主題
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ヴィオラに先導されて譜例136の《主題》が第1ヴァイオリンに回帰し、第4楽章の「終結部」が始まります。しばらくして Andante の譜例137が出てきます。これは《主題》の変奏ですが、gesangvoll(歌うように)という指示があります。弦楽4重奏曲 第2番は40分に及ぶ長大な曲ですが「歌」を感じるほとんど唯一の部分がここです。

 ◆譜例137(1167-1176) [主題の変奏。"歌うように" の指示]
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そのあと、ヴィオラに譜例138の《副主題B》が出てくると、各パートがこの動機を競います。その間、譜例139の《副主題C》が出てきます。そして《副主題C》と《副主題B》が融合した譜例140に至ります。曲は最終段階です。

 ◆譜例138(1177) 《副主題B
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 ◆譜例139(1192-1195) 《副主題C
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 ◆譜例140(1202-1204) 《副主題C,B
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全曲の最後において、第1ヴァイオリンはE線(第1弦)の高い方の「ラ」の音から、高い方の「レ」の音へと登り詰めます。その間、第2ヴァイオリンが《主題》を長調に変奏した譜例141を静かに奏でます。そして最後の2小節は譜例142の二長調の主和音で終わります。

 ◆譜例141(1215-1219) 《主題
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 ◆譜例142(1220-1221) [最終2小節の和音]
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最後の譜例142は4つのパートを合わせたものですが、第1ヴァイオリンだけが単音で、3つのパートは重音です。合計7つの音の和音ですが、第1ヴァイオリンのE線の高い方のレの音から、第2ヴァイオリンのD線のファ♯の音までは3オクターブに近い音の開きがあります。この形の二長調の主和音が『弦楽4重奏曲 第2番』の到達地点です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(Brilliant Classics 2010).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団(CD)
Brilliant Classics 2010


"3重形式" の弦楽4重奏曲


楽曲の形式の観点から振り返りますと、上の説明は "4楽章の弦楽4重奏曲" という視点ですが、これを "ソナタ形式の単一楽章の曲" と見なすことができます。この曲は "多楽章" と "単一楽章" の「2重形式」だと初めに書きましたが、その通りなのです。その構造を図示すると次のようになるでしょう。①~⑦ は《主題》が提示され、再現・回帰する箇所です。

4楽章の見方 単一楽章の見方
第1楽章 提示部

主題と展開

第2楽章
副主題群
(第1部)
展開部

展開
(第2部)
第3楽章
  スケルツォ1  


  スケルツォ2  
(3部形式)
第4楽章 再現部
再現
展開
終結

ポイントとなっているのは第2楽章が2つの部分に分かれていて、その第2部が《主題》から始まっていることです。ここからが "ソナタ形式の単一楽章曲" と考えたときの「展開部」に相当するわけです。

さらにこの曲の構成は別の見方もできます。上の表をみると《主題》は ① ~ ⑦ の合計7回出てきます。ちなみに ⑦ は第4楽章の終結部の《主題》を示していますが、終結部の最初(譜例136)と最後(譜例141)に現れることは説明に書いた通りです。

これはいわゆる「ロンド形式」です。つまり「ロンド主題」が何度も回帰し、そのあいだに「ロンド主題とは別の要素」が挟み込まれるという楽曲の形式です。この曲の場合《主題》が「ロンド主題」となり、その「ロンド主題」のあいだに「ロンド主題とは別の要素」である「副主題群」や「スケルツォ動機」、「フィナーレ動機」などが挟み込まれる形です。

これは意図的にそうなっているのだと思います。「多楽章」と「ソナタ形式の単一楽章」を重ね合わせるだけだと、たとえば③や⑤や⑦(終結部の開始の⑦)で《主題》を回帰させる必要はありません。それがなくても "2重形式" は成立するからです。作曲家は明らかに「何度も回帰する」ことの効果を狙っています。以上を総合するとこの曲は、

4楽章の弦楽4重奏曲
ソナタ形式の単一楽章曲
ロンド形式の単一楽章曲

の3つの形式感が重なり合った "3重形式" の曲だと言えるでしょう。これを可能にしているのは、この曲の《主題》が持つ力です。この動機を変形・変奏することによって多くの動機やモチーフが作られています。聴いていて「主題の回帰」なのか「主題の展開・発展」なのか、どちらにもとれるようなところがいろいろあります。全体として受ける印象は、

  渾然とした一体感と、明晰な形式感が同居している曲

です。この曲は40分間、ブッ続けで演奏されます。これだけ長いと聴くにしても集中力が途絶えがちになるはずです。それを最後まで "もたせて" しまうツェムリンスキーの力量に感心します。



伝記によると、ツェムリンスキーは晩年のブラームス(1833-1897)の薫陶を受けた人です。自分の作品をブラームスに見てもらってアドバイスを求めたこともあると言います。そのブラームスを彷彿とさせるところが、この曲にはあります。つまり、

  比較的少数の短い動機が、幾たびの変奏や発展をとげ、それらが精密に組み立てられて、全体としては壮大な構造物になる

というところが、ブラームスの作品(シンフォニーや室内楽)とよく似ていると思うです。さらに言うと、ベートーベンからつながるドイツ正統派音楽の太い流れを感じます。そういう意味では、同じウィーンで活躍したリヒャルト・シュトラウス(1864-1949。ツェムリンスキーの7歳年上)やシェーンベルク(3歳年下)も同様です。「明晰な形式感」はそのあたりからくるのでしょう。


人の原始的な感性に訴える


「ドイツ正統派音楽の流れ」にある一方で、この曲は全体が短い動機やその展開形・変奏形で埋め尽くされているのが特徴です。息の長い旋律はほとんどありません。美しいメロディーがあるのでもない。

曲は、連想ゲームや尻取り遊びのように次々と変化していきます。常に揺らいでいる感じがあり、不意に変動すると思えるところも多い。これは人のある種の意識状態にマッチするところがあります。つまり、

明白に言語化できない感情や意識の変化を音楽化した感じ

夢うつつの状態での意識の移ろいを音にした感じ

がするのです。「言語化できない」とか「夢うつつ」と書きましたが、そこまでいかなくとも、人には「別に集中して考えるのではなく、いろんな想念をあれこれと思いめぐらしている状態」があります。一つの例を言うと、たとえば日曜日の午後に近くの公園を散歩し、ベンチにたたずんで半分ボーッとしながら、どこを見るともなく想いを巡らしているとします。家族のこと、仕事のこと、公園の風景や聞こえてくる音、自分の過去や将来など、特に脈絡があるというわけではなく、あれこれと連想し、頭に思い浮かべている状態です。ツェムリンスキーのこの曲は、たとえばそういう時の人間の意識を音楽化している感じがします。

その意味ではマーラーの音楽に近いとも言える。「常に揺らいでいて、不意に変動する」ところなど、非常に近いと思えます。しかしマーラーとは違うところがあります。No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」に書いたように、マーラーの音楽は「ドイツ音楽の主流の形式感」を意識的に崩したところが多々あります。そこがマーラーの魅力なのですが、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』にはそういうところがありません。これは「崩れたところがない音楽」です。がっちりとした形式感のなかで、無意識に近いような人間の心の動きを音楽にした感じ・・・・・・。これが大きな特徴でしょう。



別の観点からですが、本曲に出てくる動機はほとんどが短調の動機です。調性が曖昧なものも多いのですが、"短調っぽい" 音型が続きます。人間の感情で言うと「悲しみ」「不安」「苦悩」に近いものです。これにはこの曲が書かれた時代の反映もあるのかと想います。

この曲は1914年7月に着手され、翌1915年3月12日に完成しました。世界史を思い出すと、この時期は第1次世界大戦の勃発と重なっています。オーストリアの皇太子がサラエボでセルビア人民族主義者に暗殺さたのが発端となり、オーストリアがセルビアに宣戦布告したのが1914年7月28日で、ここから第1次世界大戦が始まりました。つまり母国が戦争に突入した時期に書かれた曲が『弦楽4重奏曲 第2番』です。そういった世相も反映しているのでしょう。

しかし、この曲はそれだけではありません。短調の短い動機や音型が連続したそのあと、最後の最後で「歌うように」と指示がある息の長い旋律が出てきます(譜例137=《主題》の変奏形)。その転換点で曲は長調の雰囲気を次第に強め、そしてはっきりと長調になり、最後は二長調の主和音で静かに終わります。譜例137(1167小節目)のところから最後までは、僅か51小節です。全曲の1221小節の中の24分の1にすぎません。

僅かだけれども、最後に歌があり、長調になり、静謐で安らぎを感じる二長調の主和音で終わるのは、作曲家の思いを反映しているのでしょう。それは人間の心情で言うと「希望」とか「望み」とか「救い」に近い何かです。この曲の一番の聞き所はこの最後の最後のところかも知れません。


弦楽4重奏曲の傑作


この曲は "3重形式" が示すように「音楽理論で作られた」という感じがします。聴いていて受ける印象としては、冷静、鋭利、怜悧、はっきりとした輪郭、計画性というようなものがまずある。しかしもう一方で「人間の原始的な感情に訴える」という感じもして、この両者が不可分に融合しています。"音楽学" でありながら "音楽" になっている。

時代は全く違いますが「音楽の父」のバッハにもありますね。フーガ理論の実践訓練のような曲だけれど、それが意外にも聴く人の心を揺さぶる・・・・・・。不思議といえば不思議です。No.62「音楽の不思議」に書いたように、音楽はきわめて人工的なものです。音階などは数学そのもので、No.62 では「1オクターブが12音なのは、3の12乗が最も2の累乗と近くなるからだ」と書きました。その人工物が人間の心を揺さぶり、しかも意識下に近い心の動きと共鳴する力を持っている。音楽の奥深さをあらためて感じます。

ベートーベンが弦楽4重奏の金字塔を打ち建てて以降、このジャンルでは幾多の作品が書かれてきました。ちょっと思いだすだけでも、ブラームス(3曲)、シューベルト(15曲)、ドボルザーク(14曲)、バルトーク(6曲)、ショスタコーヴィッチ(15曲)などがあります。その他にも、ボロディンの『弦楽4重奏曲 第2番』(第3楽章のノクターンは有名)とか、チャイコフスキーの「弦楽4重奏曲 第1番」(第2楽章がアンダンテ・カンタービレ)とか、ウェーベルンの「弦楽4重奏のための緩徐楽章」などの珠玉のような名曲がある。

それらの中でも、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』は屈指の名曲だと思います。"屈指" というより、もし「ベートーベン以降の弦楽4重奏の傑作を1曲だけあげよ」と言われたなら、是非ともこの曲をあげたいと思います。




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No.213 - 中島みゆきの詩(13)鶺鴒(せきれい)と倒木 [音楽]

前回の No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」では、India Goose(= インドがん)という詩にちなんで "鳥" が出てくる中島みゆきさんの楽曲を振り返りました。これはオリジナル・アルバムとして発表された作品の範囲であり、また、漏れがあるかも知れません。

実は前回、鳥が出てくる中島さんの楽曲で意図的にはずしたものがありました。2011年に発表された38作目のアルバム『荒野より』に収められた《鶺鴒(せきれい)》という曲です。今回はその曲をテーマにします。まず題名になっている鶺鴒せきれいという鳥についてです。


セキレイ(鶺鴒)


セキレイ(鶺鴒)はスズメより少し大型の、日本で普通に見られる鳥です。自宅近くの県立公園でも見かけます(セグロセキレイ)。鳴き声もスズメをちょと長くした "チュ~ン" というような感じです。ピンと伸びた長い尾が特徴で、この尾をしばしば上下に振る習性があります。それが地面をたたくようにも見える。セキレイのことを英語で Wagtail と言いますが、wag は振る、tail は尻尾で、セキレイの習性を言っています。

"鶺鴒" とは難しい漢字ですが「角川 大字源」によると、"鶺" は "たたく"(=拓、啄)、"鴒" は "打つ" の意味だとあります。地面をたたく・打つように長い尾を上下させる習性を字にしたようです。この中国名をそのまま音読みをしたのがセキレイです。

セキレイは "セキレイ科" の鳥の総称で、日本で一般的に見られるのはセグロセキレイ(背黒鶺鴒。日本固有種。Japanese Wagtail)、ハクセキレイ(白鶺鴒)、キセキレイ(黄鶺鴒)の3種です。以下にこの鳥の美しい姿を掲げます。

セグロセキレイ.jpg
セグロセキレイ(背黒鶺鴒)
(Wikipediaより。以下同じ。自宅近くのセグロセキレイを見ていると、尾を振る頻度は個体差がだいぶある 。首を前後に振りながらすばしっこく走るのも特徴的。羽の裏側は真っ白で、飛び立つときに黒と白が交錯する姿が印象的である。)

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ハクセキレイ(白鶺鴒)

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キセキレイ(黄鶺鴒)


鶺鴒(せきれい)


中島さんの詩を見ていきたいと思います。《鶺鴒(せきれい)》は、2011年11月16日に発売された38作目のアルバム『荒野より』に収められた曲で、その年の夜会 Vol.17「2/2」(2011.11.19 ~)でも歌われました。次のような詩です。


鶺鴒(せきれい)

1.
心許無く見るものは 野の花僅か草の花
それでも何も無いならば
きのえがく花よ咲け
絵描きの描く花よ咲け

心許無く聴くものは 野の鳥僅か草の鳥
それでも何も無いならば
母御ははごの唄う歌よ咲け
母御の唄う歌よ咲け

永遠とわに在れ山よ 永遠に在れ河よ
人は永遠に在らねど 咲きのこれよ心

2.
心許無く鶺鴒せきれいの ゆく空帰る空を見る
それでも泣けてくるならば
涙の水たまりを見る 涙に映る空を見る

心許無く鶺鴒の 呼ぶ声返す声を聴く
それでも泣けてくるならば
子を呼ぶ人の声を聴く 人呼ぶ人の声を聴く

永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

心許無く鶺鴒の
心許無く鶺鴒の

A2011『荒野より

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中島みゆき
荒野より」(2011)
①荒野より ②バクです ③BA-NA-NA ④あばうとに行きます ⑤鶺鴒(せきれい) ⑥彼と私と、もう一人 ⑦ばりほれとんぜ ⑧ギヴ・アンド・テイク ⑨旅人よ我に帰れ ⑩帰郷群 ⑪走(そう)

この詩は、合計6回繰り返される「心許無く」という言葉がキーワードとなっています。「心許無い」(心許ない、心もとない)は日常生活でも使う言葉で、

不安だ
心配だ
気がかりだ

という心情をいいます。自分のことについて言うし、他人のことにも使います。その「不安で、心配で、気がかり」なムードが、この詩の全体を覆っています。「心許無い」に続く言葉は、1番の詩では、

  心許無く見るものは 野の花僅か草の花
心許無く聴くものは 野の鳥僅か草の鳥

です。この詩は言葉が省略されているところがあるので、補って解釈する必要があります。その意味を丁寧に書いてみると、

  不安な気持ちで野を見れば
花は僅かになり、草の花だけになった
不安な気持ちで耳をすませば
鳥も僅かになり、草むらの鳥だけになった

ということでしょう。これに続く言葉は

  それでも何も無いならば

です。この詩は最初の2行に「無い」という言葉が2回も出てきます。これで漂うのは "喪失感" です。冒頭の「心もとない」という言葉から受ける "不安感" に、さらに "喪失感" が加わる・・・・・・。この雰囲気が詩の全体を支配しています。

詩によると「何も無いところ」があるわけです。つまり「花も無いし鳥も無い」ところがある。そのときに人はどうすればよいのか。そのときには「絵描きの描く花」を見たり「母の唄う子守歌」を聴いたりするのです。絵も子守歌も人間の営みです。花や鳥が無くても見たり聴いたりできる。そして、この状況をふまえて永遠にあって欲しいと願うものが、



人の心

だと、1番が結ばれています。

2番になって、題名になっている鶺鴒が初めて出てきます。鶺鴒は以前と同じように空を飛び、さえずっている。しかしその美しい姿を見たり声を聴いたりしても「泣けてくる」のです。そして泣けてくるときには「涙の水たまり」や「涙に映る空」を見たり、「子を呼ぶ人の声」や「人を呼ぶ人の声」聴いたりする。ここでも人の営みがあげられています。そして1番に呼応して、この状況で永遠に継承して欲しいもの、そう祈りたいものが、



人の心

だと結ばれています。この「国」という言葉が一つのキーワードです。永遠にあって欲しいと願わざるをえないもの、それは「山」「河」「人の心」「空」ときて、その次に「国」です。「国」とは国土という意味でもあり、そこで営まれる人々の生活という意味でもあるのでしょう。

詩の最後の「心許無く鶺鴒の」は、途中で言葉が切れています。あとに続く言葉は聴く人が想像すればよいわけで、普通に考えれば「鶺鴒の飛ぶ空を見る、鶺鴒のさえずる声を聴く」でしょうが、「鶺鴒の行き交う川辺をみる」でも「鶺鴒の姿を見て涙ぐむ」でもよいわけです。そこは聴く人に任されています。



この詩は、2011年3月11日に起こった出来事とそれに続く一連の事態を念頭に作られたというのが自然な解釈だと思います。2011年3月11日からの一連の事態で我々が目にしたのは、多数の犠牲者とともに "国土の喪失" です。永遠にではないにせよ、また完全にではないにせよ国土が喪失した。ここでの "国土" とは自然環境であり、人々の記憶と思い出が詰まった故郷ふるさとです。《鶺鴒》はこの状況をふまえて中島さんが書いた詩でしょう。題名になっている "鶺鴒" は美しい自然環境の象徴だと思います。

《鶺鴒(せきれい)》をこのように解釈すると、どうしても連想する詩があります。《鶺鴒》の翌年(2012年)に発表された《倒木の敗者復活戦》です。


倒木の敗者復活戦


《倒木の敗者復活戦》は、2012年10月24日に発売された39作目のオリジナル・アルバム『常夜灯』に収録された曲です。つまり《鶺鴒》の1年後に発表された曲ということになります。次のような詩です。


倒木の敗者復活戦

1.
打ちのめされたら 打ちひしがれたら
値打ちはそこ止まりだろうか
踏み倒されたら 踏みにじられたら
答はそこ止まりだろうか

光へ翔び去る翼の羽音はおと
地べたで聞きながら

望みの糸は切れても
救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦

あざわらえ英雄よ
わらうな傷ある者よ
傷から芽を出せ 倒木の復活戦

2.
叩き折られたら おとしめられたら
宇宙はそこ止まりだろうか

完膚無かんぷなきまでの負けに違いない
誰から眺めても

望みの糸は切れても
救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦

勝ちおごれ英雄よ
おごるな傷ある者よ
傷から芽を出せ 倒木の復活戦
傷から芽を出せ 倒木の復活戦
傷から芽を出せ 倒木の復活戦

A2012『常夜灯

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中島みゆき
常夜灯」(2012)
①常夜灯 ②ピアニシモ ③恩知らず ④リラの花咲く頃 ⑤倒木の敗者復活戦 ⑥あなた恋していないでしょ ⑦ベッドルーム ⑧スクランブル交差点の渡り方 ⑨オリエンタル・ヴォイス ⑩ランナーズ・ハイ ⑪風の笛 ⑫月はそこにいる

一見してわかるようにこれは "倒木" が何かの象徴になっている詩、あるいは "倒木" に何かを代表させた詩です。一つだけ日常ではあまり使わない言葉があります。「完膚無かんぷなき」です。完膚かんぷとは「傷のない完全な皮膚」という意味なので、「完膚無き」は「無傷のところがない」ということになります。

これ以外は分かりやすい言葉が使われていて、内容もシンプルで力強くストレートな詩です。そして思うのですが、多くの中島みゆきファンの方は "倒木" を "東北" として聴いているのではないでしょうか。おそらく、そのように受け取られることを想定して作られた詩という感じがする。

しかしこの詩において "倒木" をそのまま "東北" と解釈するのは無理があります。なぜなら「東北は敗者ではない」からです。数百年に一度の大災害で多数の人命が失われ、国土が壊滅状態になったとしても、それが敗者だとは言えません。敗者復活戦というのは、あくまで対等な条件で闘って破れた者が勝利を目指して再戦するというものです。

"倒木" なら「敗者」とか「敗者復活戦」という比喩はありうると思います。たとえば台風の暴風雨で街路樹の一部が根こそぎ倒れたり、幹が途中で折れたりすることがあります。ほとんどの樹木が台風に耐えたのに、一部が倒れた。風速30メートル程度の風には耐えてしかるべきなのに、倒木になってしまった。それを「敗者」とか「敗者復活戦」と表現するのはアリだと思います。管理されている街路樹は植え替えるので "復活" は無いでしょうが、山林の中の倒木なら再生はありうる。倒木の養分をもとに新たな木が芽生える「倒木更新」という現象もあります。

やはりこの詩は、人生において "敗者になった" と感じた人が再起をかけて行動を起こすことへのメッセージ(= 望みの糸は切れても / 救いの糸は切れない)だと考えるのが妥当だと思います。それを "倒木" と "敗者復活" という言葉で表した。

そうはいうものの、4回繰り返される(最後に3回繰り返される)、

  傷から芽を出せ 倒木の復活戦

を聴いていると、"倒木" は "東北" のことだと思えてくるのですね。もし仮に題名が《倒木の復活戦》であり、詩の文言に「敗者」がまったく無かったとしたら、完全に "倒木" は "東北" と思えたでしょう。しかしそうではなく「敗者」という言葉が使われているし、また「英雄」と「傷ある者」が対比されている。

中島さんの詩は使う言葉が慎重に選ばれています。ここは言葉どおりに「倒木が敗者で、その "傷ある者" の復活」とまず受け取るのが正しいと思います。それを拡大解釈するのは聴き手の自由です。中島さんは、2016年に出したベスト・アルバム『前途』のセルフ・ライナーノートで《倒木の敗者復活戦》について次のように書いています。


あまりにも悲惨だった2011年東日本大震災は、世の中の例に洩れず私の作品に於いても、当時発表を控えたり、表現を変更せざるを得ない事態が、いくつか起きた。

そんな中で、逆にこの曲の「倒木の」が「東北の」と聴きとれるとして受け入れていただく結果になったのも、大震災の影響のひとつであったと思われるが、それはそれで、否定するまでもないと、考えている。

中島みゆき
A2016『前途』
セルフ・ライナーノート

この文章の後半の主旨を箇条書きにすると、

そのようなつもりは無かったのだが、
"倒木"="東北" と受け取る人が出てきた。
それはそれで良しとしたい。

ということでしょう。この最初の「そのようなつもりは無かった」というのは本当にそうなのでしょうか。詩人としてはあたりまえですが、中島さんは言葉の使い方に鋭敏です。音の響きや言葉の連想性を重視することも多い。「詩の全体の構成からすると "倒木"="東北" ではないが、当然そのような連想が働くだろう」と想定してこの詩を書いたのだと思います。



《鶺鴒》と《倒木の敗者復活戦》は、2011年3月11日に始まる状況を念頭に書かれたと思えるのですが、この流れにあると考えられるのが前回の No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」で書いた《India Goose》です。


India Goose


《India Goose》は2014年11月12日に発売された40作目のオリジナル・アルバム『問題集』の最後に収録された曲でした。詩の内容を短く要約すると、

  "弱さ" をもった鳥の群が困難な目標に立ち向かう(現実の生態としてはインド雁がヒマラヤ山脈を越える)

というものです(No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」参照)。この《India Goose》は《倒木の敗者復活戦》の "続編" のように思えます。改めて3つの詩を並べると次の通りです。

  鶺鴒荒野より2011年11月16日
  倒木の敗者復活戦常夜灯2012年10月24日
  India Goose問題集2014年11月12日

中島さんは2013年にはオリジナル・アルバムを出していません。つまりこの3作品は連続する3つのオリジナル・アルバム(第38、39、40作)で発表された曲ということになります。これらは一連の流れの中にあるのではないでしょうか。つまり、

  状況の "認識" と "祈り"鶺鴒
    ↓ ↓
  "復活" の始まり倒木の敗者復活戦
    ↓ ↓
  困難な目標への挑戦India Goose

という "ワンセットの作品" として聴くことができると思います。中島さんは社会と人間の関わりに焦点を当てた作品を多く書いています。その中島さんが 2011年3月11日とその後に起こったことをふまえた詩を書くのは当然だし、むしろ書いてしかるべきという気がします。No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」の最後に、ここで描かれた "India Goose"(ヒマラヤを越える鳥)は "何か" の象徴と書きました。その "何か" とは 3.11 に起因する困難を乗り越えようとしている人々、というのが(一つの)解釈です。もちろんそれがすべてではないでしょうが、有力な解釈であることは間違いないでしょう。



No.35「中島みゆき:時代」の「補記」に書いたのですが、歌手の一青窈ひととようさんや八神純子さんは《時代》を東日本大震災の被災地で歌って聴衆に感銘を与えました。プロの歌手で他にもこういうケースがあると思います。またそれ以前に、数々のアマチュア合唱団、中高校の合唱部の生徒が被災地で《時代》を歌っています。この状況を中島みゆきさんはつぶさに知っているはずです。

自分の原点とも言える作品が被災地で歌われ、聴衆が涙を流しながら聴いている・・・・・・。作品を作ったアーティストがこの状況を黙って見過ごすなどありえないでしょう。それに呼応して自ら新たな作品を作ろうとするはずです。必ずそうすると思います。中島さんとしては義務感さえあったのかもしれません。


社会と人間


No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」に書いたのですが、中島さんは社会との関わりをテーマにした詩をいろいろ書いています。つまり、

社会と人間の関係
社会の中でひたむきに生きる人間
現代の社会状況

などをテーマにした詩です。No.67ではそれらの題名をあげ、また引用もしました。さらに No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で引用した《僕たちの将来》もそういうタイプの詩でした。これらをリストすると次のようになります。

  アザミ嬢のララバイA1976 『私の声が聞こえますか
  彼女の生き方A1976 『みんな去ってしまった
  世情A1978 『愛していると云ってくれ
  狼になりたいA1979 『親愛なる者へ
  エレーンA1980 『生きていてもいいですか
  傾斜A1982 『寒水魚
  ファイト!A1983 『予感
  僕たちの将来A1984 『はじめまして
  ショウ・タイムA1985 『miss M.
  忘れてはいけないA1985 『miss M.
  白鳥の歌が聴こえるA1986 『36.5℃
  吹雪A1988 『グッバイ ガール
  ひまわり“SUNWARD”A1994 『LOVE OR NOTHING
  流星A1994 『LOVE OR NOTHING
  4.2.3.A1998 『わたしの子供になりなさい
  小さき負傷者たちの為にA2010 『真夜中の動物園
  鷹の歌A2010 『真夜中の動物園

あくまで個人的見解なので、他にもっとあると思います。このリストは2010年のアルバム『真夜中の動物園』で終わっているのですが、リストの最後に付け加えるべきなのが、

  鶺鴒A2011 『荒野より
  倒木の敗者復活戦 A2012 『常夜灯
  India GooseA2014 『問題集

だと思います。この3作品において人は主役ではありません。題名になっているのは鳥(=鶺鴒、インド雁)と樹木(=倒木)です。社会との関連を示すような言葉もほとんどありません(ただ一つ《鶺鴒》に "国" が出てくる)。しかしこの3作品は 2011年から 2014年の社会状況をふまえた詩であり、そこで懸命に生きる "困難に直面した人たち" に寄り添った詩でしょう。それは深読みかも知れないが、是非そう考えたいと思います。

日本のシンガー・ソングライターで、かつメジャーなアーティストで、社会と人間の関係性をテーマにずっと詩を書き続けているのは中島さんぐらいではないでしょうか。やはり中島みゆきというアーティストは希有な存在である。そのことを改めて思います。




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No.212 - 中島みゆきの詩(12)India Goose [音楽]

前々回の No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」では恐竜から鳥への進化に関する最新の研究成果を紹介しました。その中で、鳥は恐竜から引き継いだ "貫流式" の肺をもっていて、極めて効率的に酸素を吸収できることを書きました。その証拠に、ヒマラヤ山脈を越えて渡りをする鳥さえあります。そして全くの余談として、中島みゆきさんがヒマラヤ山脈を越える "インド雁" をモチーフにして作った曲《India Goose》に触れました。

「恐竜から鳥への進化」と「中島みゆき」は何の関係もないのですが、このブログでは過去に12回、中島みゆきの詩について書いているので、思わず余談を書いたわけです。そこで《India Goose》という詩についてです。


インド雁


まず India Goose とは何かですが、そのまま訳すと "インドのがん、ないしは鵞鳥" で、これは「インド雁(学名 Anser Indicus)」という鳥のことです。学名の Anser は雁、Indicus は "インドの" という意味なので、英訳すると India Goose になります。ただし英語ではインド雁のことを "Bar-headed goose" と言います。名前のごとく頭に黒い縞(=bar)があるのが特徴で、他の雁とはすぐに見分けられます。

インド雁(Wikipedia).jpg
インド雁
(Wikipedia)

インド雁はモンゴル高原が繁殖地で、冬は越冬のためにインドで過ごします。この間、ヒマラヤ山脈を越えて往復することが知られています。

  以下の記述は、BBC New(Web版)2015.1.15「Bar-headed geese : Highest bird migration tracked」(http://www.bbc.com/news/science-environment-30799436)によります。

話は半世紀以上前に遡ります。1953年、ヒラリー郷とテムジンは世界で初めてエベレスト(チョモランマ)の登頂に成功しました。この時の登山隊の中にジョージ・ロウというニュージーランドの登山家がいたのですが、彼は「エベレストを越えていく雁を見た」と語ったのです。

鳥がなぜ標高9000メートル近いところを飛行して渡りができるのか、科学者の興味を惹いてきました。BBC Newsの記事(2015.1.15)には、イギリス、ウェールズのバンゴー大学のチームの調査結果が報告されています。チームはモンゴル高原でインド雁にGPSとセンサーをつけ、飛行経路、高度、雁の体の動きを計測しました。その分析によると、インド雁の飛行高度は最高24,000フィート(7,300メートル)に達したそうです。これならエベレスト(8848メートル)を越えるのもうなずけます。さらに調査の結果として次のようなことが指摘してあります。

インド雁は追い風に乗ることはない。
滑空飛行をしないで羽ばたき続ける。17時間も羽ばたき続けた鳥がいた。
しばしば夜間に飛行する。夜は気温が低いが空気の密度が高く、昼間に飛ぶよりエネルギーの節約になる。

エベレストの頂上程度の高度だと、気圧は平地の3分の1しかありません。従って酸素の密度も3分の1です。しかも気温はマイナス10~40度です(飛行機に乗ったときの外気温表示を見ればわかる)。人間の登山家なら酸素ボンベをしょってエベレストに登ります。現在までにエベレストに登頂した人は4000人を越えるはずですが、無酸素で登頂した人は確か数人だったと思います。

このような過酷な条件の中で17時間も羽ばたき続けるというインド雁の能力は驚異的です。これは単に貫流式の肺が効率的に酸素を吸収できるというだけでなく、筋肉に酸素を送る仕組みや老廃物を分解する機能など、多くのことが関係しているのでしょう。羽毛の断熱効果も見逃せません。

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ヒマラヤを飛行するインド雁2(BBC).jpg
ヒマラヤを飛行するインド雁
(BBC - Youtube)

なおインド雁とおなじようにヒマラヤ山脈を越えて渡りをする鳥に、小型の鶴であるアネハヅル(姉羽鶴)があります。これについては2016年10月17日のNHK BSプレミアム、ワイルドライフ「アネハヅル 驚異のヒマラヤ越えを追う」で放映(アンコール放送)されました。

アネハヅル(Wikipedia).jpg
アネハヅル(姉羽鶴)
ツルの中でも最小の種で、翼開長は100-140cm程度である(ちなみにタンチョウヅルは200-240cm)。
(Wikipedia)

ヒマラヤを飛行するアネハヅル(NHK).jpg
ヒマラヤを飛行するアネハヅル
(NHK - ワイルドライフ)


India Goose


そこで中島みゆきさんの《India Goose》です。この曲は2014年に発表された40作目アルバム『問題集』の最後の曲として収録されました。次のような詩です。


India Goose

次の次の北風が吹けば
次の峰を越えてゆける
ひとつひとつ北風を待って
羽ばたきをやめない

さみしい心 先頭を飛んで
弱い心 中にかばって
信じる心いちばん後から
歌いながら飛ぶよ

ほら次の雪風にあおられて
小さな小さな鳥の列がなぎ払われる
小さな小さな鳥の列が組み直される

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

強い鳥は雪が来る前に
既(すで)に峰を越えて行った
薄い羽根を持つ鳥たちは
逆風を見上げる

いつの風か約束はされない
いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう
羽ばたきはやまない

ほら次の雪風にあおられて
小さな小さな鳥の列がなぎ払われる
小さな小さな鳥の列が組み直される

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

A2014『問題集

中島みゆき「問題集」1.jpg

中島みゆき「問題集」2.jpg
中島みゆき
問題集」(2014)
①愛詞 ②麦の唄 ③ジョークにしないか ④病院童 ⑤産声 ⑥問題集 ⑦身体の中を流れる涙 ⑧ペルシャ ⑨一夜草 ⑩India Goose

とりあえず言葉どおりに受け取ってよい詩、ストレートで、真っ直ぐな直球という感じの詩です。思うのですが、この詩にある、

いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう
羽ばたきはやまない
飛びたて 夜の中へ

という表現は、"科学的" というか、BBC News にみるようなインド雁の生態と合致しているのですね。中島さんも調べて書いているのだと思います。それはさておき、この詩の特徴は、

さみしい心
弱い心
小さな小さな鳥の列
薄い羽根

という言葉使いでしょう。鳥はヒマラヤを越えるほどの "強靱さ" があると同時に、ある種の "弱さ" を持っているのです。このあたりから受けるイメージは、《India Goose》の30年前に発表された《ファイト!》を思い起こさせます。


ファイト!

・・・・・・・

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

・・・・・・・・
A1983『予感

「冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」とは、川を遡上する魚に見立てた表現ですが、魚をテーマにした作品は他にもありました。


サーモン・ダンス

・・・・・・・・

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

・・・・・・・・
A2005『転生

この2つの詩には「ふるえながら」や「涙」があり、《India Goose》の「さみしい心」「弱い心」「薄い羽根」との類似性が明らかだと思います。そもそも中島さんの詩には

弱い立場にある者が
厳しい環境の中
目的、ないしは目標方向に進む
そこに共感のメッセージを送る

というタイプの詩がいろいろあったと思います。《India Goose》はそれらの頂点に位置づけられるでしょう。

しかしここで気になるのは鳥が主人公だということです。中島作品には "鳥" がしばしば登場するのですが、鳥が主人公というのはそう多くはない。さらにこの《India Goose》は中島作品における "鳥" の新しいイメージではないかと思うのです。

そこで、これを機会に過去からの中島さんの詩における "鳥" の扱われ方を振り返ってみたいと思います。"中島みゆき 鳥類辞典" を作ったらどうなるか。


カモメ


中島さんの詩に "鳥" がいろいろ出てきますが、繰り返し何回も出てくる鳥はカモメです。そもそもファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)からカモメが出てきます。


渚便り

・・・・・・・・

風とたわむれながら
カモメが一羽
波から波のしぶきを
越えて ひくく 飛んでゆく

サヨナラの物語
やさし歌に 変えて
甘い調べを ささやきながら
漂ってゆくわ

・・・・・・・・
A1976『私の声が聞こえますか

《渚便り》は "恋の終わり" の詩ですが、それを "渚" が癒してくれるという内容で、その癒してくれるものの一つがカモメです。3枚目のアルバム『あ・り・が・と・う』にもカモメが出てきました。


朝焼け

・・・・・・・・

繰り返す 波の音の中
眠れない夜は
独り うらみ言 独りうらみ言並べる
眠れない夜が明ける頃
心もすさんで

・・・・・・・・

かもめたちが 目を覚ます
霧の中 もうすぐ
ああ あの人は いま頃は
例の ひとと 二人

・・・・・・・・
A1977『あ・り・が・と・う

これは失恋した女性(というか、男をとられた女)の心情です。一睡もできない夜があけ、朝焼けを迎える。カモメの鳴き声が聞こえ始めた、という情景です。

《渚便り》も《朝焼け》も海辺、ないしは海に近い場所が背景になっています。もちろんカモメはそいういう場所に多いのですが、河口から遡って街に現れることもある。18枚目のアルバム『夜を往け』にそういう詩がありました。


3分後に捨ててもいい

3分後に捨ててもいいよ
通りがかりゆきがかり
知らない話にうなずいて
少しだけ傍にいて

身代わりなんかじゃないけどさ
似てる人を知ってるわ
恋と寂しさの違いなど
誰がわかるのかしら

・・・・・・・・

こんなビルの隙間にも
白いカモメが飛んでいる
紙きれみたいな人生が
ねぐら探している

あぁ 流れてゆく車のヘッドライトは天の川
あぁ 流れてゆく人の心も天の川
3分後に捨ててもいいから
いまだけ傍にいて

・・・・・・・・
A1990『夜を往け

行きずりの男と(おそらく)ホテルの一室にいる情景です。ふと窓の外を眺めるとクルマのヘッドライトの流れの上を一羽のカモメが飛んでいる。その一瞬にかいま見た紙切れみたいな姿に自分の人生を重ね合わせる・・・・・・。「3分後に捨ててもいい』という "強烈な" タイトルであり、女性の "投げやり" で "あてどなく漂っている" 心情が綿々と語られるのですが、その中に一瞬だけ現れる(詩としては一回しか現れない)真っ白なカモメが効果的です。

カモメで最も有名な中島さんの曲は、セルフカバー・アルバム『御色なおし』に収録された《かもめはかもめ》でしょう。


かもめはかもめ

あきらめました あなたのことは
もう 電話も かけない
あなたの側に 誰がいても
うらやむだけ かなしい
かもめはかもめ 孔雀(くじゃく)や鳩や
ましてや 女には なれない
あなたの望む 素直な女には
はじめから なれない

・・・・・・・・
A1985『御色なおし
研ナオコへの提供曲(1978)

カモメがタイトルになっている曲は他にもありました。21枚目のアルバム『時代』(1993)に収録された《かもめの歌》がそうです。


かもめの歌

いつかひとりになった時に
この歌を思い出しなさい
どんななぐさめも追いつかない
ひとりの時に歌いなさい
おまえより多くあきらめた人の
吐息をつづって風よ吹け
おまえより多く泣いた人の
涙をつづって雨よ降れ

生まれつきのかもめはいない
あれは其処で笑ってる女
心だけが身体をぬけて
空へ空へと昇るよ

・・・・・・・・
A1993『時代

そのほかカモメが出てくる曲は、

  海と宝石A1985『御色なおし』
  白鳥の歌が聴こえるA1986『36.5℃』
  紅灯の海A1996『パラダイス・カフェ』
  裸爪(はだし)のライオンA2002『おとぎばなし』

がありました。工藤静香への提供曲である《激情》(1996)を中島さんはセルフカバーをしていないのですが、カモメが出てきます。


激情

2人になりたい 1つになりたい
心細さを見せずに生きるときも
かもめになりたい 空気になりたい
あなたを傷つけないものになりたい

・・・・・・・・


以上のように見てみると、中島作品におけるカモメのイメージは、

鳥の代表としてのカモメ
普通の鳥であり、際だった個性を感じるものではない
海と結びついて "癒される" というイメージをもつことがある
空を飛び回る自由な存在

といったところでしょう。中島作品において繰り返し出てくる鳥はカモメしかありません。鳥の代表であり、よく見かける普通の鳥としてカモメが位置づけられています。


名前のある鳥


中島作品においてカモメ以外に名前が明示してある鳥に、スズメがありました。


すずめ

・・・・・・・・

別れの話を する時は
雨降る夜更けに 呼ばないで
あなたと私の 一生が
終わるように 響くから

・・・・・・・・

雀 雀 私の心
あなたのそばを 離れたくない
なのに なのに ふざけるばかり
雀のように はしゃいでるばかり

・・・・・・・・

雀 雀 私の心
あなたのそばを 離れられない
呼んで 呼んで 雀のように
あなたのあとを 追いかけてゆくの

A1985『御色なおし
増田恵子への提供曲(1981)

スズメを観察すると「はしゃぐ」とか、他のスズメを「追いかける」ように見えることがあります。この詩はそんな雀を主人公である "私" の比喩に使ったものです。このように鳥を人間の形容に使った詩は他にもあります。

  あほう鳥A1978『愛していると云ってくれ』
  僕は青い鳥A1984『はじめまして』
  白鳥の歌が聴こえるA1986『36.5℃』
  ロンリー カナリアA1989『回帰熱』
  みにくいあひるの子A2002『おとぎばなし』
  鷹の歌A2010『真夜中の動物園』

などです。《白鳥の歌が聴こえる》(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で引用)では、港町の夜の女性を "白鳥" と形容しています。白鳥は死ぬ前に美しい声で歌うという伝説があるので、そのイメージが重なっています。カナリアは "小さく弱い鳥" というイメージですが、《B.G.M.》(A1982 寒水魚)という曲にも、電話に出た恋敵の女性の声が「カナリヤみたい」と形容されていました(No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用)。また、《鷹の歌》については、No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で書いた通りです。これらはいずれも特定の人間を表現するのに鳥の名前を使ったものです。



一方、人間の形容ではなく、鳥そのものに意味を持たせ、鳥がテーマになっている、ないしはテーマに直結する重要な役割を担っている曲があります。"ツバメ" と" オジロワシ" です。

 ツバメ 

中島さんの最もよく知られている楽曲の一つに《地上の星》があります。ここではツバメが重要な役割をもっています。


地上の星

・・・・・・・・

地上にある星を誰も覚えていない
人は空ばかり見てる
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

・・・・・・・・
A2000『短篇集

我々はつい見過ごしてしまうけれど、地上にこそ「星」がある。それを、高い空にいるツバメは知っているはずだ、という詩の構成になっています。

 オジロワシ 

『短編集』(2000)の翌年にリリースされたアルバム『心守歌』(2001)では、寒帯に住む鳥、オジロワシがテーマとなりました。


ツンドラ・バード

お陽さまと同じ空の真ん中に
丸い渦を描いて鳥が舞う
あれはオジロワシ 遠くを見る鳥
近くでは見えないものを見る

寒い空から見抜いているよ
遠い彼方まで見抜いているよ
イバラ踏んで駈け出してゆけば
間に合うかも 狩りに会えるかも

・・・・・・・・
A2001『心守歌

オジロワシ(Wikipedia).jpg
オジロワシ(尾白鷲)
その名の通り、尾羽が白い。詩のタイトルにツンドラとあるように寒帯の鳥だが、北海道にも生息する。
(Wikipedia)

ツバメとオジロワシのイメージを書いてみると

空に舞い上がって自由に飛行し
地上のすべてを見通せる、知恵のある存在

といったところでしょうか。


無名の鳥


中島作品には単に "鳥" とあって名前は出てこないけれど、鳥が詩のポイントの一つになっているものがあります。


泥海の中から

・・・・・・・・

おまえが殺した名もない鳥の亡骸は
おまえを明日へ連れて飛び続けるだろう

・・・・・・・・
A1979『親愛なる者へ


小石のように

・・・・・・・・

旅をとめる親鳥たちは
かばおうとするその羽根がとうに
ひな鳥には小さすぎると
いつになっても知らない

・・・・・・・・
A1979『親愛なる者へ


春までなんぼ

・・・・・・・・

いらない鳥を逃がしてあげた
逃がしてすぐに 野良猫喰べた
自由の歌が親切顔で
そういうふうに誰かを喰べる

・・・・・・・・
A1984『はじめまして


やばい恋

閉じかけたドアから鳥が飛び込んだわ
夜のエレベーターは私一人だった
ナイフだと思ったわ ありうるわ この恋
頬をかすめて飛んだ小さな影
非常ベルが鳴り続けている 心の中ではじめから
いまさらどこでどんな人探せばいいの

・・・・・・・・
A1992『EAST ASIA


二隻の舟

・・・・・・・・

時流を泳ぐ海鳥たちは
むごい摂理をささやくばかり
いつかちぎれる絆見たさに
高く高く高く

・・・・・・・・
A1992『EAST ASIA

以上の、詩の一部を引用したものの他にも、"無名の鳥" が出てくる楽曲はいろいろあります。そのリストをあげておきます。

  忘れられるものならばA1976『みんな去ってしまった』
  ルージュA1979『親愛なる者へ』
  最後の女神S1993
  ひまわり“SUNWARD”A1994『LOVE OR NOTHING』
  伝説A1996『パラダイス・カフェ』
  You don't knowA1998『わたしの子供になりなさい』
  LAST SCENEA1999『月 - WINGS』
  後悔A2000『短篇集』
  天使の階段A2000『短篇集』
  夜の色A2009『DRAMA !』
  真夜中の動物園A2010『真夜中の動物園』
  リラの花咲く頃A2012『常夜灯』
  月はそこにいるA2012『常夜灯』

さらに中島作品には、"無名の鳥" が詩のテーマそのものになっている、ないしは詩の中で極めて重要な役割を果たしているものがありあます。《この空を飛べたら》と《鳥になって》です。


この空を飛べたら

空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えているのさ
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ

暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに空を見ている
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる

ああ人は昔々鳥だったのかもしれないね
こんなにもこんなにも空が恋しい

飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
戻る筈のない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている

・・・・・・・・
A1979『おかえりなさい
加藤登紀子へのへの提供曲(1978)

空を飛ぶという、できるはずがないことを願うことで、そうとでも思うしかない主人公の心情が表現されています。


鳥になって

・・・・・・・・

流れる心まかせて 波にオールを離せば
悲しいだけの答が見える
すれ違う舟が見える
誰も眠りの中まで 嘘を持ってはゆけない
眠る額に 頬寄せたとき
あなたは 彼女を呼んだ

眠り薬をください 私にも
子供の国へ帰れるくらい
私は早く ここを去りたい
できるなら 鳥になって

・・・・・・・・
A1982『寒水魚

《鳥になって》という詩は《この空を飛べたら》と共通点があります。つまり主人公の絶望感を "鳥になりたい" と表現したところです。その意味内容は違うものの "鳥になりたい" ところが同じです。さらに《鳥になって》は絶望感を越えて睡眠薬自殺を匂わせたような詩になっている。「私は早く ここを去りたい / できるなら 鳥になって」というところなど、"ここ" は主人公が男性と寝ているベッドであると同時に "この世" ともとれる。ここまでくると「鳥 = 主人公の魂」ということでしょう。


中島みゆきの "鳥" と India Goose


今まで紹介した中島さんの "鳥" に関した楽曲を総括すると、

名前のある鳥
無名の鳥

の2種類があります。名前のある鳥ではカモメがたびたび登場し、それ以外の鳥は1回きりです。カモメが最も一般的な "鳥" であり、それ以外は人がそれぞれの鳥に抱いている独自のイメージが投影されます。総じて言うと中島作品における鳥のイメージは、

自由、ないしは "束縛の不在" の象徴
不可能を実現している存在
すべてを見通せるポジションにある存在
人とってのあこがれ

といったところでしょう。ただし、これらの中でも《ツンドラ・バード》(2000)と《India Goose》(2014)は特別です。つまりこの2作品は "オジロワシ" と "インド雁" という、鳥そのものがテーマになっている詩、鳥が主人公の詩なのです。しかも2つの詩には、

強い意志を持って何かを達成する存在

という新たなイメージが加わっている。さらに《India Goose》は「厳しい環境のなか、逆境を乗り越えて目的に到達しようとする」鳥を描いています。このようなコンセプトで鳥をテーマにしたのは《India Goose》しかありません。前に掲げた画像を見ても分かるように、オジロワシはいかにも "鳥の王者" であり、"頑強な鳥" という感じです。タダ者ではない感じがありありとします。それと比べてインド雁は、何となくひ弱で平凡な普通の鳥に見える。それでもヒマラヤを越えていく。このあたりがポイントでしょう。その意味で《India Goose》は中島作品の中でも特別なポジションにあると思います。

最後に付け加えると、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で《ツンドラ・バード》を紹介したときに、ここに登場するオジロワシは何かの象徴だということを書きました。中島さんは言葉を象徴的に用いるのがうまく、詩全体が象徴だらけという "象徴詩" も書いています。さきほど《India Goose》について「言葉どおりに受け取ってよい詩」と書きましたが、決してそれだけではない。ここに登場するインド雁も何かの象徴と受け取ってかまわないし、そう受け取るべきだと思います。どう受け取るかは聴く人によって違うだろうけれど。

続く


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No.211 - 狐は犬になれる [科学]

前回の No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」と同じく、進化に関連したテーマです。今までに生物の進化について No.210 を含めて3つの記事を書きました。

  No.  56 - 強い者は生き残れない
No.148 - 最適者の到来
No.210 - 鳥は "奇妙な恐竜"

の3つです。この中の No.148「最適者の到来」でイヌを例にとって、高等生物はその内部に(具体的には遺伝子に)ものすごい変化の可能性を秘めている、としました。No.148「最適者の到来」は、アンドレアス・ワグナー・著『進化の謎を数学で解く』(文藝春秋。2015)を紹介したものですが、この中で著者はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』に関連して次のように書いています。


『種の起源』の第一章全体が、人間の育種家がつくりだしたイヌ、飼いバト、作物品種、鑑賞用の草花の多様性への驚嘆に満ちている。人間が単一の共通祖先であるオオカミに似た祖先から、それもわずか数世紀のうちに、グレートデーン、ジャーマンシェパード、グレイハウンド、ブルドッグ、チャウチャウのすべてをつくりだすことができたというのは、考えてみるとまったく驚くべきことである。

アンドレアス・ワグナー
『進化の謎を数学で解く』
(垂水雄二・訳。文藝春秋。2015)

イヌは、1万年ほど前に(あるいはもっと以前に)人間が(今で言う)オオカミを家畜化したものです。そして家畜としての品種改良が本格的に行われたのは、たかだかこの数百年です。しかもその「改良」は現代で言う "遺伝子操作技術" などのバイオテクノロジーを使ったわけではありません。あくまで「選別」や「交配」で行われた。それでいて、出来上がったイヌの外見の多様性は驚くべきものです。

Grey Wolf.jpg
ハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)
普通オオカミというと、このハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)のことを指す。世界各地にさまざまな亜種が分布している。絶滅したニホンオオカミも亜種とされている。No.127「捕食者なき世界(2)」に掲載した写真を再掲。
( site : animals.nationalgeographic.com )


グレート・デーン.jpg
グレート・デーン

ジャーマン・シェパード.jpg
ジャーマン・シェパード



ワグナーがあげている
5つの犬種
No.148「最適者の到来」より
グレイハウンド.jpg
グレイハウンド

ブルドッグ.jpg
ブルドッグ

チャウチャウ.jpg
チャウチャウ

ということはつまり、現代のイヌの多様な姿・形は、すでに1万年前のオオカミの遺伝子に内在していたと考えざるを得ません。その「内在するもの」を、人間が "有用性" や "好み" に従って顕在化させた・・・・・・。高等生物が持っている変化の可能性はすごいわけです。上の引用にもあるように、ダーウィンの『種の起源』の発想の原点は「人間の育種家がつくりだした種の多様性への驚嘆」でした。それを "自然" がやったのがすなわち進化(=自然選択。Natural Selection)ではないのかと・・・・・・。進化論の出発点です。

人間が作り出してきた種の多様性は、生物の進化を考察する上で重要なポイントになると考えられます。たとえば上の写真に掲げたイヌの多様性を人間はどうやって生み出してきたのか。その前提として、そもそも人間はどうやってオオカミをイヌに変えたのか。その家畜化の過程は今となっては歴史の中に埋もれてしまって、うかがい知ることができません。



ここからが本題です。その家畜化の過程を実験で再現しようとする試みがこの60年間、続けられてきました。選ばれたのはキツネです。キツネを家畜化して人間のパートナーにする、つまり "キツネをイヌに変える実験" です。


キツネの家畜化実験の発端


日経サイエンス 2017-8.jpg
「日経サイエンス」
2017年8月号
「日経サイエンス」2017年8月号に「キツネがイヌに化けるまで」と題した興味深い解説が掲載されました。著者はリュドミラ・トルート(ロシア)とリー・アラン・リュガトキン(アメリカ)です。トルートはロシアの「細胞学・遺伝学研究所」の教授で、進化遺伝学が専門です。リュガトキンはアメリカ、ケンターキー州のルイビル大学の行動生態学者です。本解説はトルート教授が行った実験の成果をリュガトキンがまとめるという形で執筆されました。

トルート教授は現在83歳で、1958年から現在まで約60年に渡ってキツネの家畜化実験を続けています。彼女がこの実験に参加することになった契機が記事に書かれています。その発端は、家畜化実験の中心人物であるドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985。ロシアの遺伝学者)に出会ったことでした。以下、下線は原文にありません。


当時(引用注:1958年)私はモスクワ大学を卒業するところで、ベリャーエフが新設の細胞学・遺伝学研究所に加わるためノボシビルスクに向かう準備をしていて、新たに始める家畜化実験を手伝う学生を探していることを耳にした。

ベリャーエフを初めて会ったとき、一介の学部学生にすぎない私を彼が対等に扱ってくれたことに私は驚いた。彼はこの研究を、基本的には家畜化の過程を "早回し" にして観察するものだと説明した。「キツネからイヌを作ろうと思っている」と彼は話した。人間と前向きに交流するタイプのキツネを選抜しながら、何世代にもわたって育種する。これが私たちの想定どおりに機能すれば、オオカミがイヌに変わった際に起こったと同じような家畜化の過程をこの目で観察できるだろう。

ベリャーエフの居室を辞すとき、私はこの研究に加わろうと決めていた。シベリア随一の都市ノボシビルスクへ引っ越しだ。そこに新たにできた科学研究都市アカデムゴロドクの第1世代の研究者になるのだ。そして革命的な考えを持つ1人の男と一緒に研究できるのだという思いで、私の胸は高鳴った。間もなく、私は夫とまだ赤ん坊だった娘と一緒にモスクワから列車に乗り、遠く東へ向かった。

「キツネがイヌに化けるまで」
リュドミラ・トルート(ロシア)
リー・アラン・リュガトキン(アメリカ)
「日経サイエンス」2017年8月号

Lyudmila Trut.jpg
Lyudmila Trut
(Science News 2017.5 https://www.sciencenews.org/
実は「日経サイエンス」の「キツネがイヌに化けるまで」でまず印象的なのは、ここに引用した冒頭のところです。リュドミラ・トルートは学生結婚をして子供をもうけたが、それでも「キツネをイヌにする」研究に加わることを即決し、大都会の首都・モスクワを離れ、一家で "最果ての地" に向かう・・・・・・。すごいものだと思いますが、それは当時の国の状況も影響しているかも知れません。

つまり、トルートがシベリアに向かったのは1958年です。旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が世界初の人工衛星・スプートニクを打ち上げてアメリカを出し抜いたのは1957年です(スプートニク・ショック)。当時のソ連には「科学技術で切り開く社会主義の明るい未来」みたいな雰囲気が横溢していたことでしょう。シベリアに新たに建設された科学研究都市に様々な科学者が結集したのも、そういう雰囲気の中でのことだと想像されます。


ベリャーエフの仮説


キツネの家畜化実験は、リュドミラ・トルートの恩師であるドミトリ・ベリャーエフの次のような仮説にもとづいていました。


動物の家畜化に関するベリャーエフの仮説は大胆にして明快だ。すべての家畜に共通する決定的な特徴はその従順さである、と彼は考えた。したがって、進化の観点からすると、家畜化を進めた原動力は主に、攻撃性が弱く人を恐れない動物を昔の人々が好んだことによる。従順さは、その動物を育種して他の望ましい形質を導入する上でもカギとなった。

イヌやウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジ、ブタ、ネコなど、私たちが家畜とした動物はすべて、おとなしく率直でなければならない。人間が家畜に期待しているのが護衛かミルクか、食肉か、仲間づきあいか、その他の物品や特質であるかにはよらず、家畜動物はみな従順でなくてはならない。

「キツネがイヌに化けるまで」

ここで書かれている「ベリャーエフの仮説」は、我々の思考のちょっとした盲点をつくものです。我々はイヌ・ネコを含む家畜にあまりに慣れすぎていて、家畜が人間に従順なのはあたりまえで、それが家畜の特質だとは意識しません。また野生動物が人間に従順でないのも、あたりまえだと考えます。野生のクマ、キツネ、サル(あくまで野生のサル)、タヌキ、イタチなど、みなそうです。たまに人間を恐れない野生のタヌキがいて、餌をもらいに家の庭先に毎日現れたりすると、それが地域ニュースに取り上げられたりします。なぜかと言うと、それが珍しいからです。

野生のイノシシと家畜のブタを考えてみると、ブタは(今でいう)イノシシを飼い慣らして家畜化したものです。野生のイノシシは獰猛で、イノシシに遭遇して大怪我をしたというような話もよくある。人間を見ると牙をむき出して突進してきたりします。猪突猛進、という4字熟語もあるくらいです。一方の家畜のブタは、獰猛という雰囲気は全くありません。餌を食べるか寝そべっています。よくよく考えてみると、動物として同じ仲間であるイノシシとブタの「性格・気性」の違いは大きいわけです。しかし我々はそういうことに慣れてしまっていて、明らかな違いに気を留めることはありません。

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イノシシはブタと顔つきが違うが、ブタの「先祖」であることは分かる。顔つき以外の違いは何だろうか。豚肉は美味しいという意見もあるだろうが、冬季の猪肉もそれなりに美味しいことで有名である(牡丹鍋)。もちろんブタは食肉用に品種改良されているので、肉の量が多いことは確かである。ベリャーエフによると決定的な違いは「人間に対する従順さ」である。さらにベリャーエフ仮説によると、ブタの顔つきが丸みを帯びているのは従順な個体を人間が選別していった結果である。

野生動物は従順でなく、家畜は従順である。そんなあたりまえすぎることに着目したベリャーエフは優れた学者だったのでしょう。ベリャーエフは、家畜は従順であるという事実を180度逆転させ、人間を恐れず従順な個体を選別していった結果として家畜が誕生したと考えたのです。さらにベリャーエフの仮説は続きます。


ベリャーエフはさらに、多くの家畜の特徴のすべてとは言わないまでも
大半は、従順な個体を選抜して育種したことの副産物と考えた。巻き上がった尻尾や垂れ耳、ぶちの入った毛皮、幼い顔の特徴(丸みを帯び、鼻づらが尖っていないこと)を成体でも維持していること、繁殖が季節にあまり縛られないこと、現在「家畜化症候群」と呼ばれている一連の形質が、従順な個体を選抜したことの副産物であるという考え方だ。

そこで私はベリャーエフの指導の下、日々の取り組みに自分でもかなりの工夫を加えながら、旧ソ連各地にあった毛皮動物飼育場から集めたキツネを出発点に、もっとも従順な個体を選んで交配する育種を何代も続けた。

「キツネがイヌに化けるまで」

ここまで読むとなぜキツネが選ばれたのかが分かります。キツネなら各地にある毛皮動物飼育場から大量に購入できるのですね(解説には数百匹とあります)。オオカミで実験できればいいのですが、オオカミを大量に集めるのは至難の技です。キツネはオオカミと同じイヌ科の動物なので、次善の策としては最適でしょう。

毛皮動物飼育場から大量に集められる他の動物としては、"ロシア産" が有名な "黒テン"や "ミンク" もあるでしょう。しかしテン、ミンクはイタチ科だし、値段が高い(と思います。毛皮が高価だから)。それに、テンやミンクを家畜化してもあまり感激はしない。やはりキツネです。キツネは "化ける" と言われている動物なので、その点でもピッタリです(ロシアでも "化ける" かどうかは知りませんが)。

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家畜化実験施設におけるキツネ
(日経サイエンス 2017年8月号)


実験の開始


トルートがシベリアで始めた実験の最初の様子が書いてあります。


私は毎年、何百頭ものキツネを自分たちで開発した手順を用いてテストした。防護のために厚さ 5cm の分厚い手袋をはめてケージに近づき、扉を開けて棒を差し入れる。その際のキツネの反応を点数づけして評価する。最もおだやかでおとなしいキツネが最高点となる。

実験の最初の数年間、大多数のキツネはイヌどころではなく、火を吐く竜のようだった。ケージに近づいて棒を差し込むと、極めて攻撃的に反応した。これら低スコアのキツネは私の手を食いちぎろうとしていたのだと思う。別の低スコアのキツネはおびえてケージの隅に縮こまった。少数のキツネはテストの間ずっとこちらの様子を見ていたが、特に何の反応をするわけでもない。これらのおとなしい個体が選ばれ、交配して次の世代を生む。

生まれた子ギツネが成体になるまで、発達過程を詳しく記録した。また近親交配を避けるよう特に注意した。望ましくない遺伝的結果が生じて実験が混乱するのを避けるためだ。

「キツネがイヌに化けるまで」

この引用のように、最初はスコアの低い(=攻撃的か、怯える)キツネがほとんどでしたが、高いスコアの(=おとなしい)キツネを選んで交配していくと、次第に変化がみられるようになりました。


最初の数世代は、最もおとなしいキツネも人間に対して愛想がよいわけではなかった。人がそばにいることを受容はしても、歓迎はしていない様子だ。だが、4世代目と5世代目になると、興味深い兆候が見えた。歩けるようになったばかりの子ギツネが、私が近づくと何かを期待して小さな尻尾を振った。そして6世代目が生まれた。

「キツネがイヌに化けるまで」


エリートの出現



6世代目になると、子ギツネは尻尾を振るだけでなく、クンクンと哀れっぽく鳴き、イヌがするように人をなめるなど、人間との接触を積極的に求めているように見えた。こうした一連の行動の出現は非常に印象的だったので、私たちはこれらの個体を「エリート」と呼んだ。エリート子ギツネのなかには、名前を呼ばれると顔をあげるものまでいた。

「キツネがイヌに化けるまで」

6世代目において「エリート」は全体の2%でしたが、現在は70%に達しているそうです。ちなみに現在は58世代目です。エリートたちにしばしば見られる特徴をまとめると、まず生態学的には、

生まれてはじめて音に反応するのが、通常の子ギツネより2日早い。
眼を開く時期が、通常の子ギツネより1日早い。
生まれつき人間の視線と身振りを眼で追う。
人間を慕って交流を望んでいるように見える。
ストレスホルモンの値が低い。
繁殖サイクルが長い。

などの特徴があります。また、体つきや姿・格好については次のような特徴があります。

成長しても幼い顔つきである。
本来尖っている鼻ヅラが、丸く変化している。
尻尾がフサフサで巻き上がっている。
垂れ耳になった個体もある。
四肢はずんぐりと短い。
毛皮にぶちが入る。

要するにトルートが言うように、全体の姿は気味が悪いほどイヌに似ているのです。わずか数世代の交配でこのようなキツネが現れ始めたのは驚くべきことです。

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イヌ化したキツネ。鼻は丸くなり、毛皮にはぶちが入っている。現在、家畜化実験施設で飼われているキツネの70%はこのような "エリート" である。
(日経サイエンス 2017年8月号)

トルートは「鳴き声の強弱変化を音響分析すると、人の笑い声の変化に近い」とも言っています。この「笑い声」くだりを読んで思ったのですが、この家畜化実験は「人間に対してフレンドリーなキツネ」に人間が高いスコアをつけ、高いスコア同士のキツネを交配していくというものです。スコアの項目と点数づけの基準は厳密に決めるのでしょうが(これがふらつくと実験にならない)、ひょっとしたら「鳴き声が人間にとって心地よいキツネに、人間が無意識に高いスコアをつけた」のかもと思いました。違うかも知れませんが。


人間との交流


家畜は人間に従順だという共通点がありますが、イヌは従順だけでなく、特定の人間と親密な関係になったり、人間との間に種を越えた感情的絆を形成したりします。イヌ化したキツネではどうなのでしょうか。

トルートは1974年3月28日、その実験を始めます。15世代目のキツネ、プシンカと一緒に、飼育施設の中にあった1軒の家に移り住んだのです。プシンカは1歳になったばかりの雌で、妊娠していました。出産を通してキツネの家族と人間がどういう関係を持てるかも調べようとしたのです。

最初はプシンカは動揺し、慣れない家の中を駆けめぐり、食べ物を口にしようとしません。しかし次第にそれも落ち着いてきました。4月6日、プシンカは6匹の子ギツネを生みました。するとプシンカはその中の1匹をくわえてきて、トルートの足元に置いたのです。トルートがその子ギツネを何回も巣に戻しても、プシンカはその都度、子ギツネをトルートのところに運んできます。まるで人間に子ギツネを差し出すような行動です。6匹生まれたから一匹あげるよ、というような・・・・・・。トルートも巣に戻すことを諦めました。

トルートとプシンカの一家は家の中で遊びまわったり、一緒に外出したりして絆を深めていきました。


子ギツネが大きくなって手がかからなくなるにつれ、プシンカと私の絆は深まった。彼女は私の足元に横たわり、首のあたりを私に掻いてもらうのを待つようになった。私が少し家の外に出ると、プシンカはときに窓際に座って私の帰りを待った。私が帰ってくるのが見えると、彼女はドアのところで待ち受け、尻尾を振って迎えた。

「キツネがイヌに化けるまで」

こうしてトルートとプシンカの間には親密な関係が生まれたのですが、その年の7月に決定的な出来事が起こります。


こうした親愛の兆候は認識していたが、それでも1974年7月15日の晩の出来事は全く意外だった。私は家の外のベンチに腰かけて本を読み、プシンカは私の足元で休んでいた。すると遠くから足音が聞こえた。私はどうとも思わなかったのだが、プシンカは危険を感じたようだ。だが彼女は身を隠すことも私に保護を求めることもせず、侵入者がいるらしき方向へ走り出して、それまで見せたことのない行動を示した。二度と見せることもないかも知れない。彼女は吠えたのだ。番犬とまさに同じ吠え声で。

プシンカが人間に本気で攻撃的な態度を示したことはかつてなく、ましてやこんな獰猛な反応は初めてだった。私が走り寄って様子をうかがうと、プシンカを怯えさせたのが施設を見回っている警備員であることが分かった。私が警備員と穏やかな声で話はじめると、プシンカは万事問題なしと察知したようで、吠えるのをやめた。

「キツネがイヌに化けるまで」

トルートがプシンカと小さな家で過ごしたのは3ヶ月半でしたが、この1974年7月15日の夜の出来事は、家畜化されたキツネ(第15世代目。実験開始から約15年後)が、イヌのように人間に対して忠誠心を示すことの証拠になりました。



家畜化されたキツネが遺伝子レベルでどういう変化が起こったのか、DNA解析の結果も報告されています。それによると、多くの変化は12番染色体の「量的形質遺伝子座(QTL)」で起こっており、これはイヌの家畜化に関与した遺伝子と同様だそうです。トルートは「野生のイヌ科動物がペットに変わる過程を遺伝子レベルでおおよそ再現した」と結論づけています。

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トルートとリュガトキンの著書「How to Tame a Fox」(=キツネの飼い慣らし方)。イヌ化したキツネが表紙になっている。


キツネはイヌになれる


以下はこの報告の感想です。

この研究成果で分かるのは、キツネの性格(=行動様式)は遺伝するということと、性格と外見上の形質には深い関係があるということです。つまりキツネの「性格」を、

人間に対して攻撃的
人間に対しておとなしい
人間に怯える

という軸でスコアリングすると、それが遺伝することが実証された。そして性格(=行動様式)を選別・交配していくと、外見上の形質まで変化してきたというのがこの実験です。ここで考えてしまったのは人間のことです。人間ではどうなのか。

No.191「パーソナリティを決めるもの」で書いたように、現代の行動遺伝学の結論は、人のパーソナリティは50%が遺伝子で説明できるということです。


外向性、神経質傾向、協調性、新規性追求などの性格(パーソナリティ)は、遺伝の影響が50%程度、非共有環境の影響が50%程度です。共有環境の影響は小さいかほとんどない、というのが行動遺伝学の結論です。


ここで非共有環境とは主に家庭外の環境、共有環境とは家庭環境でした。人は複雑な社会生活を営む動物なので50%は(家庭外の)環境で性格が決まる。それでも50%は遺伝子で決まります。これがキツネだと遺伝の割合がもっともっと大きいのでしょう。そして「性格が外見に影響する」というのは人にも言えるのではないか。よく「人相学」とか「人相占い」とかがあります。人相からその人の性格や運命が分かると主張するものです。運命が分かるというのは違うと思いますが、性格が分かるというのは科学的根拠があるのではないか。そんなことを思いました。



さらに思ったのは、科学における仮説の大切です。もちろん仮説なら何でもよいわけではありません。この実験では "運のよいことに" 6世代目で仮説が正しそうだという雰囲気が出てきました。もしこれが50世代目=約50年目にならないと正しさが分からないのであれば、そこまで実験は続けられなかったでしょう。トルート教授としても、50年もの研究者人生を成果の見えない実験に費やすことは出来なかったと思います。

ベリャーエフは、比較的早い世代で目に見えるキツネの変化が現れることを予期したのだと思います。つまりこの仮説はベリャーエフの優れた洞察力にもとづく仮説だった。そこがポイントだと思いました。



この60年をかけたキツネの家畜化研究は、いわゆる基礎研究です。ベリャーエフは「人間はなぜイヌを作り出せたのか」と疑問に思い、それについての仮説をたて、その仮説が正しいことをトルートとともに実証した。しかしその成果が何の役にたつのですかと問われると、それは分からないと答えるしかないのでしょう。もっともらしい答えは言えるかもしれませんが。

「何の役にたつのですか」と問うてはダメなのですね。ベリャーエフはあくまで興味から、好奇心から家畜化研究を始めたのだと思います。そこで解明されたことが、将来何かの役に立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。基礎研究というのはそういうものだと思います。

全くの想像ですが、トルート教授は遺伝学の大先輩であるメンデルを尊敬しているのではないでしょうか。牧師が教会の裏庭でエンドウマメの交配実験を繰り返し、克明な記録をつける。誰に評価されたわけでもない。しかし死後にそれが "発見" され、遺伝学という学問が成立する鍵となる ・・・・・・。有名な話です。

60年前のキツネの家畜化実験の開始から現在まで、58世代に渡るキツネの血統が明らかになっていて、個々のキツネの性格や外見についての克明な記録が資料として残されているはずです。このトルート教授の「家畜化実験詳細データ」は、今後役に立つかもしれない。たとえば、人に対して親和的か攻撃的か(ないしは怯えるのか)の違いは、人間社会で言うと社会的と反社会的の違いだと言えるでしょう。キツネの性格の詳細データを遺伝子解析の結果と付き合わせることによって、社会性とは何かについての知見が遺伝子レベルで判明するかもしれないのです。基礎科学なので断言はできないけれども。

83歳のトルート教授は人生の4分の3をこの家畜化実験に捧げました。「キツネがイヌに化けるまで」という日経サイエンスの記事で最も強く印象に残ったのは、実はこの点でした。




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No.210 - 鳥は "奇妙な恐竜" [科学]

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日経サイエンス
(2017年6月号)
今までに生物の進化に関する記事を2つ書きました。

  No.  56 - 強い者は生き残れない

No.148 - 最適者の到来

の2つですが、今回はその続きです。2017年6月号の「日経サイエンス」に恐竜から鳥への進化に関する解説記事が掲載されました。英国エディンバラ大学の古生物学者、ステファン・ブルサット(Stephen Brusatte。アメリカ国籍)が書いた「羽根と翼の進化」です。最新の研究成果をふまえた、大変興味深い内容だったので、その要旨を紹介したいと思います。


始祖鳥


そもそも鳥の祖先は恐竜ではないかと言われ出したのは、今から150年も前、19世紀の半ばです。きっかけは、鳥の "先祖" である "始祖鳥" の発見でした。


1860年代、ダーウィンの親友の1人で最も声高な支持者だった英国の生物学者ハックスリー(Thomas Henry Huxley)は、鳥類の起源の謎に挑みはじめた。ダーウィンが1859年に『種の起源』を出版してからわずか数年後、独バイエルンの採石場で労働者が割った石灰岩の中から1億5000万年前の骨格が現れた。爬虫類のような鋭いかぎ爪と長い尾、鳥のような羽毛と翼を併せもつ動物の化石だった。

始祖鳥(Archaeopteryx)と命名されたこの動物が、やはりその当時に見つかりはじめていたコンプソグナトゥス(Compsognathus)などの小型肉食恐竜に不気味なほど似ていることにハックスリーは気づいた。そこで彼は、鳥類は恐竜の子孫であるという大胆な説を発表した。他の科学者は彼の説に反対し、議論はその後100年間、行ったり来たりの状態だった。

ステファン・ブルサット
(英・エディンバラ大学)
「羽根と翼の進化」
(日経サイエンス 2017年6月号)

鳥類は恐竜の子孫かどうか、ハックスリーの提唱から約100年後、議論に決着をつけるような化石が発見されました。鳥の骨格に極めてよく似た恐竜の化石が発見されたのです。


この議論は、よくあることだが、新しい化石の発見によって決着がついた。1960年代中頃、エール大学の古生物学者オストロム(John Ostrom)が北米大陸西部で驚くほど鳥に似た恐竜デイノニクス(Deinonychus)の化石を発見した。その長い前肢は翼のように見え、しなやかな体つきは活動的な動物を思わせた。

デイノニクスには羽毛まで生えていたとオストロムは推測した。もし鳥類が恐竜から進化したのなら(そのころには多くの古生物学者がこの説を受け入れ始めていた)、その進化系統のどこかで羽毛が生じなくてはならない。

S.ブルサット「羽根と翼の進化」

もし羽毛をもつ恐竜の化石が発見されたなら、恐竜から鳥類が進化したことの完全な確証になります。しかし、羽毛がついた化石を発見するのは極めて困難です。羽毛のような柔らかい組織はほとんどの場合、動物が死んで腐敗し、地中に埋まって化石化する段階で失われてしまうからです。


羽毛恐竜の化石発見


ところがオストロムの発見から約30年後の1996年になって、中国の遼寧省州で羽毛がついた恐竜の化石が発見されたのです。この化石はポンペイのように火山灰によって素早く埋められたため、完全な状態で保存されていました。その後、今までの20年間で多数の羽毛恐竜の化石が発見され、恐竜から鳥への進化の過程が解明されました。


これらの驚くべき化石はパラパラ漫画のように、太古の巨大な恐竜がどのように現生鳥類に変化したのかを教えてくれる。

「羽根と翼の進化」

その羽毛恐竜の化石の画像の一つが次です。これは解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜です。

羽毛恐竜.jpg
中国の遼寧省・錦州で発見された羽毛恐竜、チェンユアンロング(Zhenyuanlong)の化石。解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜である。
(日経サイエンス 2017年6月号)

この "パラパラ漫画" のような羽毛恐竜の化石群により、議論は完全に決着しました。


遼寧省で発見されたこれらの羽毛恐竜によって議論は決着した。鳥類は実際に恐竜から進化したのだ。ただ、この言い方は両者が完全な別物であるような印象を与える点でやや不適切かもしれない。実際には、鳥は恐竜だ。鳥類は恐竜と祖先を共有する多数の下位グループの1つであり、トリケラトプス(Triceratops)やブロントサウルス(Brontosaurus)とまったく同様に恐竜なのだ。次のように考えてもよい。コウモリが空飛ぶ変な哺乳類であるように、鳥も変な恐竜なのだ

「羽根と翼の進化」

下の図は爬虫類が哺乳類と分化してから鳥類に進化するまでの図(部分)です。このうち、6500万年前の大絶滅を生き延びたのは、哺乳類、トカゲ類、ワニ類、鳥類(新鳥類)です。なお、6500万年前より以前に絶滅した生物は点線で表されています。

恐竜から鳥への進化.jpg
(日経サイエンス 2017年6月号)

恐竜類から鳥類の移行は非常に穏やかに、徐々に進行しました。著者は骨格の統計学的解析から、系統樹上で「鳥類」と「非鳥類」の明確な区別は不可能であることを実証しています。つまり恐竜類から鳥類の移行は「継ぎ目の無い移行」なのです。


鳥の特徴


鳥類が恐竜から進化したとして、それでは鳥の特徴である "羽毛が生えた翼" は何のために発達したのでしょうか。それは恐竜が飛べない時代にできあがったと考えるしかありません。翼だけではありません。鳥類は他の動物にはない数々の特徴をもっています。

鳥の特徴.jpg
鳥類の解剖学的特徴

翼、長い前肢、短い尾骨、竜骨、貫流式の肺、叉骨(さこつ)、大きな脳など、鳥類は他の現世動物にはない特徴がある。これら特徴のおかげで鳥類は飛行できる。
(日経サイエンス 2017年6月号)

特徴を3つとりあげると、まず貫流式の肺です。鳥類の肺は哺乳類の袋状の肺とは根本的に違っています。鳥類の肺は管状で、後と前に数個の気嚢があり、空気は後ろから前へと1方向に流れるようになっています。つまり空気を吸い込むときも吐き出すときも酸素を摂取できる。飛行は極めてたくさんの酸素を消費しますが、それに都合のよい、酸素吸収効率が高い肺を持っているのです。ヒマラヤ山脈を越える渡り鳥があることはよく知られています。エベレスト(チョモランマ)に登頂する人間は酸素ボンベをしょっていきますが、鳥はボンベ無しでその上を越えられる。酸素吸収効率が高い肺があればこそです。

  まったくの余談ですが、ヒマラヤを越える渡り鳥の一種、インド雁をモチーフにした中島みゆきさんの楽曲がありました。『India Goose』です。インド雁はモンゴル高原が繁殖地で、冬季になるとヒマラヤを越えて暖かいインドで越冬します。


鳥類の肺.jpg
鳥類の貫流式の肺

肺は管状になっていて数本あり、その後ろと前に数個の気嚢がある(上図)。鳥は気嚢を膨らませて空気を取り込み(中図)、収縮させて空気を吐き出す(下図)。この両方の過程で肺に新鮮な空気が一方向に流れる。気嚢がポンプの役割を果たすので、肺は一定の形状を保ったまま酸素を吸収できる。平沢達矢「鳥類に至る系統における呼吸器の進化」(理化学研究所)より引用。
(site : www.cdb.riken.jp/emo/)

また、鳥の骨は中空です(飛ばない鳥をのぞく)。まったくの空洞ではないですが、細い骨が蜘蛛の巣のように交錯していて、空気がつまっています。飛ぶためには体は軽い方が有利であり、軽くて強度のある骨を鳥は持っています。

人間には鎖骨さこつがあります。鎖骨は一方が胸骨(胸の前面にある骨で肋骨と接続)につながり、もう一方が肩胛骨につながっています。つまり鎖骨は2本あります。しかし人間の鎖骨さこつに相当する鳥の骨は、2本が融合して1本になっています。これを、呼び方は同じですが叉骨さこつと言います。この叉骨は鳥が羽ばたくときにちょうど力を蓄えるバネの働きをし、飛行を助けています。

とにかく、他の動物にはない鳥類の体の特徴を知ると「飛行に必須の(ないしは都合のよい)仕組みのワンセットが揃っている」ように見えるのです。これらは何のために、いつごろ発達したものでしょうか。


羽はなぜ進化したか


鳥類の体の器官の最大の特徴は羽毛が生えた翼であることは言うまでもありません。これは、そもそも何のためだったのか。日経サイエンスの解説記事を書いたステファン・ブルサットがまず指摘するのは、羽毛が多目的に使えるということです。


羽毛は万能ツール、自然界のスイス・アーミーナイフだ。羽毛のおかげで、鳥類は飛行し、異性やライバルに強い印象を与え、体温を保持し、巣に座って卵を抱き暖めることができる。実際、あまりにも用途が多くて、羽毛が最初の何の目的で進化したかを解明するのは難しい。

「羽根と翼の進化」

遼寧省で発見された化石により、羽毛は最初の鳥類にいきなり生じたのではなく、それよりずっと早い時期の恐竜に生じていたことが分かってきました。それは現世鳥類の羽毛とは違ったものでした。


(最初にできた)恐竜の羽毛は、何千本もの毛髪のようなフィラメントからなる綿毛のようだった。それらの恐竜は飛べたはずがない。この羽毛は面を構成して風をとらえることができず、翼も作れなかった。だから、最初の羽毛は飛行以外の目的で進化したに違いない。おそらく小型恐竜の体温を維持するためだったのだろう。

「羽根と翼の進化」

恐竜に生じた糸状の羽毛は、やがて長くなって束になり、分岐し、中央に羽軸ができて羽を構成するようになり、そして翼へと進化していきました。

では、翼を持った恐竜は飛べたのでしょうか。中には滑空できる恐竜もいたようです。しかし遼寧省から発見された恐竜の多くは、詳しく解析すると「飛べなかった」というのが結論です。たとえば著者のブルサットが発見したチェンユアンロングですが、飛ぶには前肢が短すぎ、羽ばたきに必要なだけの胸筋もなかったと、風洞実験や数値シミュレーションで結論づけられています。それでは「恐竜の翼」はいったい何のために進化したのでしょうか。


最新の研究結果は、翼が飛行とは別の、あまり広くは認識されていない機能を果たすために進化したことを示唆している。ディスプレイだ。1つの証拠が英ブリストル大学のヴィンサー(Jacob Vinther)が始めた研究から得られている。彼は高倍率の顕微鏡を使い、恐竜化石の羽毛に色素を含む「メラノソーム」という構造を発見した。翼のある飛ばない恐竜の羽毛はカラフルだったことが判明した。カラスの羽のように玉虫色の羽毛もあった。このような光沢のある羽毛は異性を引きつけたり、ライバルを威嚇したりするのに最適だっただろう。

恐竜の羽毛が華やかに見えるということから、翼に起源についてまったく新しい仮説が生まれた。翼はそもそも自己顕示の道具として進化したという説だ。つまり翼は前肢と後肢、尾から突き出た広告塔だった。その後、優美な羽を持つ恐竜たちは突然、表面積の大きなこの翼が(物理法則によって)空気力学的機能を果たすことに気づいた。換言すれば、飛行能力は偶然に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

日経サイエンス 2017年6月号には「見えた! 恐竜の色」(J.ヴィンサー)という論文が掲載されていて、恐竜の羽の色が詳しく解説されています。「翼はそもそも自己顕示の道具として進化した」というはあくまで仮説ですが、現世鳥類でもカラフルな羽を自己顕示に使って、異性を引きつけたりライバルを威嚇したりする鳥が多数あることを思い出します。


鳥の特徴は恐竜のときに作られた


羽毛のある翼だけでなく、現世鳥類の特徴の多くは、恐竜の時代に発達したようです。


恐竜の中には、左右の鎖骨を融合させて「叉骨(さこつ)」と呼ばれる構造を生み出したものがいた獣脚類の初期のメンバーだ。この一見ささやかな変化によって前肢の基部が安定し、獲物に忍び寄る犬ほどのサイズの肉食恐竜は獲物をつかむときの衝撃をうまく吸収できるようになった。のちに鳥類はこの叉骨を転用し、羽ばたく際にエネルギーを蓄えるばねとして使うようになった。

「羽根と翼の進化」


鳥類の特徴である中空の骨と速い成長はどちらも飛行にとって重要だが、これらのルーツも古く、恐竜類にまで遡る。多くの恐竜の骨が「気嚢(きのう)」によって空洞化しており、このことは彼らが超効率的な "貫流式" の肺を持っていたことを示している。息を吸い込むときだけでなく、吐くときにも酸素を取り込める肺だ。鳥類では、貫流式の肺が飛行に適した骨格の軽量化に加え、エネルギーを大量消費する生活様式の維持に必要な酸素の供給を可能にしている。

「羽根と翼の進化」

ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館(AMNH)とモンゴル科学アカデミーの合同チームは過去4半世紀にわたって、ゴビ砂漠で恐竜の化石を集めてきました。


彼らの発見の中にはヴェロキラプトルなどの羽毛をもつマニラプトル類の保存状態のよい頭蓋骨が含まれている。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のバラノフ(Amy Balanoff)はこれらの化石をCTスキャンし、マニラプトル類の脳が大きかったこと、そして脳の最前部が拡大していたことを明らかにした。

大きな前脳のおかげで鳥類は非常に賢く、飛行という込み入った動作を制御でき、空という複雑な3次元世界をナビゲートできる。これらの恐竜がなぜこのような鋭敏な知性を進化させたのははまだわかっていないが、その化石は、鳥類の祖先が空に飛び立つ前に賢くなっていたことをはっきりと示している。

「羽根と翼の進化」

以上のような最新の研究を総合して、ステファン・ブルサットは次のように結論づけています。


鳥類のボディプランには決まった青写真があったわけでなく、その体は進化の過程で1つずつ組み立てられた寄木細工のようなものだった。鳥類は恐竜から一挙に移行したのではなく、何千万年もかけて徐々に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

しかし、いったん飛行可能な恐竜ができあがると、その進化の速度はそれ以前よりも格段に速くなったことも分かってきました。


どうやら、飛行可能な小型恐竜が組み立てられるとすぐに、つまり寄木細工が完成したとたん、途方もない進化の可能性が解き放たれたようだ。これらの飛行恐竜は新しい生態学的ニッチと機会を手に入れた。

「羽根と翼の進化」

6500年前に非鳥類恐竜が絶滅したときにも、鳥類恐竜は生き延びます。そして現世鳥類は1万種を越える大グループとして繁栄していて、その姿もハチドリからダチョウまで極めて多様です。



以上のような徐々で穏やかな進化は、恐竜から鳥への進化だけではないと著者は言います。つまり

魚が脚と指を持って四肢動物になる
陸生哺乳類がクジラになる
木にぶらさがってた霊長類が直立歩行するヒトになる

などの変化は、たえず変化する環境圧力によって徐々に起こってきました。進化は将来を見込んで起こるわけではないのです。


鳥は目的があって進化したのではない


以下はこの日経サイエンスの解説記事の感想です。この記事は我々にある種の教訓を与えてくれると思いました。つまり、鳥の体の数々の特徴をみると、そのすべてが飛行という目的に沿って作られているように思えてきます。まるで「飛行」という目的に向かってすべてが進化したように見えてしまう。しかし決してそんなことはないのですね。飛行に必要な数々の特徴は、飛行とは無関係に発達した。それが寄木細工のようにうまく組み合わさったとき、飛行恐竜=鳥類が誕生した。

我々は「成功した結果」だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうことがよくあります。鳥類はあまりにポピュラーであり繁栄しているので、特にそう見えます。しかしそれは「全体の中でたまたま成功した一部」だったりする。上の方に引用した進化の図でも、"失敗" して絶滅した鳥類恐竜(=鳥類)の種があることが分かります。大量絶滅の時(6500万年前)に絶滅したのは2種ありますが、それ以前に6種が絶滅しています。現世鳥類だけが "運良く" 成功した。

「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまう」のは、我々が陥りやすい「思考の落とし穴」だと思います。特に進化のように何百万年、何千万年という時間で起こるプロセスは、我々はまったく想像ができないし直感も働かないので、落とし穴に陥りやすい。どうしても人は物事に意味や意図を見いだそうとします。暗黙にでも「意味」を考えないと落ち着いていられない。

この「思考の落とし穴」は千年程度の時間スケールでも同様です。たとえば2000年程度前に作られた石造建築物が、今でも崩れることなく無傷で残っているとします。我々はそれを見て「古代人の建築技術はすごい」などと感嘆したりします。しかしそれが残っているのは「たまたま」なのかも知れません。「たまたま」上手に石組みが出来た一部の建造物が残り、大多数は2000年の時を経て跡形もなく崩壊してしまったのかも知れない。我々は崩れていった建造物を見ることはできないから「すごい」と思うのかも知れないのです。すべての古代建築がそうだと言っているのではなく、そういう可能性を考慮しておいた方が良いと思うだけです。

さらに数年~十数年単位の社会での現象でも言えそうです。たとえば企業が新事業に乗り出して成功するという例です。その企業行動には「成功要因がすべて揃っていて、それを推進したリーダーシップの優秀さを褒め称える」ような言説がよくあります。しかしそれは「結果論」ではないのか。"偶然" とか "たまたま" という要因はないのか。しかも成功要因はリーダが登場する遙か以前から企業内で醸成されていたりします。新事業に乗り出して失敗した(小さな)例を企業はいっぱい内部に抱えているはずですが、そういう情報は外部にあまり出てきません。外部から見ても華々しい成功例だけをもとに、結果論をうんぬんしてもむなしいと思います。

ベンチャービジネスもそうです。ビジネスとして成功し、大きく成長したベンチャービジネスの裏には、その数百~数千倍の "成功しなかったベンチャー" がある。一般に知られることもなく、報道されることもなく消えていったビジネスがほとんどであるわけです。

建築物の建設や企業の活動は人間の行動であり、意志の入ったプロセスです。動物の進化のような自然による環境選択とは違うのですが、「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうという思考の落とし穴」という視点からすると、教訓を得ることができるのではないかと思いました。




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No.209 - リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 [音楽]

今までにフランツ・リストの曲を2つとりあげました。

No.  8 - リスト:ノルマの回想
No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想

の2つですが、そもそもローマのレストランのテレビでやっていた「素人隠し芸大会」で、オペラ「ノルマ」の有名なアリア「清き女神よ」を偶然に聞いたことが発端でした(No.7「ローマのレストランでの驚き」参照)。

この2つはいわゆる "パラフレーズ" 作品です。つまりそれぞれ、ベッリーニのオペラ「ノルマ」とマイヤベーアのオペラ「ユグノー教徒」のなかの数個のアリアの旋律をもとに、それを変奏したり発展させたりして自由に構成した作品です。まさにオペラを観劇したあとに、それを回想しているという風情の作品です。

今回は方向性を全く変えて、同じリストの作品ですが「ピアノ・ソナタ ロ短調」を取り上げます。なぜこの曲かというと、恩田陸さんの小説『蜜蜂と遠雷』に出てきたからです。この小説は直木賞(2016年下半期)と本屋大賞(2017年)をダブル受賞したことで大きな話題になりました。

蜜蜂と遠雷.jpg
(幻冬舎 2016)


蜜蜂と遠雷


『蜜蜂と遠雷』は、日本での国際ピアノコンクールに参加した4人のコンテスタント(16歳、19歳、20歳、28歳の4人)を中心に、彼らをとりまく友人、師匠、審査員なども含めた群像劇です。これらコンテスタントのなかで、マサル(=マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。19歳)の演奏曲目に、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」がありました。"マサル" とは日本の男性名にちなんだ名前ですが、これは父親がフランス人で母親が日系3世のペルー人だからです。マサルはジュリアード音楽院に在学中で、"ジュリアードの秘蔵っ子" という設定です。

以降『蜜蜂と遠雷』から、マサルが演奏するピアノ・ソナタ ロ短調の描写を紹介したいと思います。以降、大部分が恩田陸さんの文章の引用になってしまいそうですが、それはやむを得ません。


第3次予選


国際ピアノコンクールは第1次予選(90人)、第2次予選(24人)、第3次予選(12人)、本選(6人)と進みます。本選はオーケストラと競演するコンチェルトですが、それ以前はピアノ独奏です。

マサルは第3次予選へと進みました。第3次予選の規約は「60分を限度とし、各自が自由にリサイタルを構成する」です。マサルが選んだ曲は次の通りです。

バルトーク「ピアノ・ソナタ Sz.80」
シベリウス「五つのロマンティックな小品」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178」
ショパン「ワルツ 第14番 ホ短調」

もちろんこの構成における "メインディッシュ" はリストです。以下の引用では漢数字を算用数字に変えました。


フランツ・リスト作曲、ピアノ・ソナタ ロ短調。

1852年から53年にかけて作曲され、初演は1857年。

リストは既にピアニストを引退していたため、彼の弟子のハンス・フォン = ビューローが演奏した。

傑作の誉れ高いこの曲は、ソナタ形式としてはかなり異色である。ソナタと名付けたせいで、発表当時、これがソナタなのかという大論争になった。あまりにも斬新な構造だったので、激しい非難にさらされたことでも有名である。

最も特徴的なのは、通常のソナタではきっちり楽章ごとに分かれて主題部と展開部が奏されるのであるが、この曲は楽章が分かれておらず、全体でひとつづきの一楽章になっているところであろう。

30分近い大曲であり、難曲揃いのリストの曲の中でも、さまざまな技量が要求される最高級の難曲である。

その複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきたが、マサルはこの曲を聴くたびに、周到に伏線の張られた、巧みな構成の長編小説のようだと思う。

そう、これは音符で描かれた壮大な物語なのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』
第3次予選 - ロ短調ソナタ
(幻冬舎 2016)

ロ短調ソナタ.jpg
フランツ・リスト
ピアノ・ソナタ ロ短調
1854年の初版楽譜(ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社)。シューマンに献呈する旨が書かれている。IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトより。

「あまりにも斬新な構造」で「複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきた」とありますが、たとえば Wikipedia にはその研究成果が解説されています。この曲は「単一楽章のソナタ形式」と「多楽章(4つ、ないしは3つ)のソナタ」が重ね合わされた「2重形式」です。さらに主題も複数個で構成された「主題群」であり、それらが曲全体に渡って入り組みながら変奏され、"変容して" いきます。新しい主題が現れたと思ったらそれは前の主題の変奏であったり、主題が再現したと思ったらそれは主題の展開だったり、という感じです。そのせいか "複雑に" 聞こえる曲です。

  余談ですが、「単一楽章と多楽章の2重形式」ですぐに思いだされるのが、ツェムリンスキーの「弦楽4重奏曲 第2番」(1914-1915 作曲)です。2重形式が分かりやすく実現されていて、しかも大変な名曲です。ひょっとしたらリストに(リストにも)影響されたのかもしれません。なお、ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」に書きました。

一方、ロ短調ソナタを「標題音楽」と見なす意見も昔からあり、特にゲーテの『ファウスト』と結びつける解釈はリストの弟子の時代からあったそうです。だたしリスト自身は「標題」にふれるような言葉を一切残していません。

そして『蜜蜂と遠雷』に「これは音符で描かれた壮大な物語なのだ」とあるように、マサルの解釈も「標題音楽」なのです。


「ピアノ・ソナタ ロ短調」から感じる物語


マサルは子供の頃からこの曲を何回か聴いてきたし、レッスンでさらったこともありましたが、コンクールを前にもう一度譜面を丹念に読み込むことから始めます。マサルが譜面を見ながら感じた「周到に伏線の張られた巧みな構成の壮大な物語」とは、次のようなものです。


曲は ─── 物語は、さりげなく、謎めいた場面から始まる。

マサルは思い浮かべる。

一人の男が静かに歩いてくる。そっと草を踏み、暗く燃えるような目をして、冬枯れの一本道を。身なりは悪くなく、彼が卑しからぬ階級に属する人間であり、知的職業に就いていることを窺わせる。

辺りも静かだ。

寒々とした風景。空はどんよりとした厚い雲に覆われ、空気も冷たく、鳥たちの声も聞こえない。

足の下でぱきんと枯れた枝が折れる乾いた音。

ふと、男は足元に朽ち掛けた墓石が草と土に埋もれていることに気付く。年代らしきものが見えるが、文字も崩れかけ、人の世の虚しさ、はかなさだけが伝わってくる。

青年は、無表情にその墓石を踏み越えていく。

視線の先に見えるのは、小高い丘に広がる集落。

教会の尖塔や、古い城壁などが見え、由緒ある豊かな集落であることが分かる。

青年は無言だ。しかし、その目は不穏であり、ある一点をずっと見つめている ───

そう、これは何世代もの因果がからみあう悲劇。さまざまな人々の思惑が思わぬところで交錯する。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

「ピアノ・ソナタ ロ短調」の導入部は Lento assai と指示された「主題 A」(譜例76)で始まります。ゆっくりとして静かで、かつ不穏な雰囲気が漂っています。
譜例76 リスト:ピアノソナタ A.jpg
主題 A
「ピアノ・ソナタ ロ短調」の冒頭、第1小節から。曲はLento assai で始まる。なお「主題 A」は便宜的につけたもので、以下同じ。


不穏な導入部の次は、主題部分だ。この土地の中心に君臨する一族の、主要メンバーが登場する。

暴君の父、その後釜を狙う弟たち、息子たち。一族の禍々まがまがしくも華麗な歴史と因縁が語られる。常に陰謀は現在進行形であり、すでにいさかいの種はかれている。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここで導入部に続く「主題部分」とされているのは Allegro energico の「主題 B」(譜例77)と、それに続く「主題 C」(譜例78)でしょう。これが「一族のテーマ」です。冒頭の主題 A と、主題 B、主題 C の3つは、このソナタの「第1主題群」を形成していて、以降、さまざまに変奏されていくことになります。
譜例77 リスト:ピアノソナタ B.jpg
主題 B
主題 A に続く第8小節から。Allegro energico(エネルギッシュに)の部分。最も印象に残る主題で、さまざまに変奏されていく。

譜例78 リスト:ピアノソナタ C.jpg
主題 C
主題 B に続けて第13小節から演奏される。marcato(1音1音はっきりと)の指示がある。主題 A と B で一つの主題とも考えられる。


現在の状況がひとしきり語られたあとで、もうひとつの主題が現れる。

もうひとりの主人公、清新なヒロインの登場である。

一族のひとりであるが、早くに父母を亡くし、後ろ盾がないために全く誰にも相手されない。厳格だが愛情に満ちた祖母に育てられ、集落の外れでひっそりと質素に暮らしている。

美しく聡明なヒロイン。その目を見れば、彼女の中に真の勇気がはぐくまれていることを誰もが感じずにはいられない。

彼女のテーマは、その性格にふさわしく、温かく愛情に満ちた、感動的なメロディである。力強く雄大でもあり、彼女の存在が祝福されたものであることをはっきりと表しているのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここでヒロインのテーマとされているのは、第2主題群の「主題 D」(譜例79)でしょう。さらに「主題 E」(譜例80)もヒロインのテーマの一部だと思われます。2つの主題を合わせると「美しく聡明」で「愛情に満ち感動的」で「力強く雄大」などの言葉がピッタリです。主題 E は主題 C(一族のテーマ)の変奏です。ヒロインも一族の末裔なのです。
譜例79 リスト:ピアノソナタ D.jpg
主題 D
第105小節からの新しい主題。Grandiosoと書かれている部分。「愛情・感動的・雄大」という言葉の印象がピッタリする。

譜例80 リスト:ピアノソナタ E.jpg
主題 E(= 主題 C の変奏)
第153小節からの cantando espressivo(歌うように、感情をこめて)。主題 C の変奏であるが、新しい主題のように聞こえる。


物語が動き出すのは、ある日、牧師館にいつもの手伝いに行った帰りに、ヒロインが気になる男に出会うところからだ。

集落の外れに佇み、じっと何かを見ている男。

その脇には、役人らしき男が付き添い、何かくどくどと説明している。

男を見つめるヒロイン。

初めて見るよそ者なのだが、なぜか心がざわめく。ずっと昔から知っているような気がする ───

やがて、偶然は何度も彼女と男を引き合わせる。牧場でケガした子供を介抱したことから言葉を交わすようになる二人。

男は弁護士で、依頼人の命に従い、訴訟の準備でこの土地にやってきたという。互いに心を惹かれるようになるが、ヒロインは男が時折ぞっとするような目をすることが気に掛かる。

男の存在は、少しずつ集落の中で評判になり、ひそひそと陰で噂が囁かれる。

どうのあいつは、あの一族を訴えるために誰かに雇われているらいし、と。

そのことは一族の主の耳にも遠からず入るところになる。

一族のテーマが流れる部分は、常に緊張感をはらんでいていドラマティックだ。

じわじわと一族を追いつめていく謎の男。彼の周りでは、一族の暗い部分を担ってきた者たちが不慮の事故や他愛のない喧嘩で次々と命を落としていく。

めまぐるしく場面は変わり、一族の男たちをパニックにひきずりこむ。

何が起きているのか? これは一族に対する復讐ふしゅうなのか? あの男はそれに関係しているのか? あの男を陰で操っているのは何者なのか?

彼らは互いに疑心暗鬼に陥っていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』では、ここでいったん、この物語を思い浮かべているマサルの心情が描写されます。


マサルは、さまざまな場面が目の前を通り過ぎていくのを生々しく感じる。

本当に、台詞が聴こえてくるような気さえするのだ。

ディナーでゆらめくロウソクの炎や、勝手口で情報屋に渡される銀貨の鈍い光、馬車のわだちに溜まった雨まで見えるようだ。

この物語には、華麗な登場人物がフル出演だ。気の強い美女や、深謀遠慮にけた叔母など、個性あふれるメンバーには事欠かない。

細やかな情景描写と心理描写も巧みだ。次々とドラマティックな場面が現れ、悲劇のクライマックスを目指して物語は進んでいく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語はクライマックスへと突き進んでいきます。このクライマックスで、「一族」「謎の男」「ヒロイン」の秘密が明かされます。


運命は変えられない。ひたひたと時の歯車は回り、登場人物を引き合わせ、その場所へと運んでいく。

ヒロインは、この物語の中心に、思わぬ形で巻き込まれていく。これまで一族から完全に無視されてきたのに、年頃になり誰の目にも彼女がとても美しいことが明らかになるにつれ、一族の若い男たちが秋波を送ってくるようになったのだ。当惑するヒロイン。

あの謎の男に心を惹かれていたヒロインは、誰の申込にもイエスと言うことができない。

男の方でも、ヒロインには心を許すところをしばしば見せていたが、ある日彼女が一族の末裔の一人であることを知り、逆上する。その理由を追求するヒロイン。

そして男は、ついに自分の目的が一族への復讐、一族を滅ぼすことであると告白するのである ───

物語のクライマックス。

ついに一族は、男がかつて一族の罪状を告発しようとしたため皆で殺した末の息子の子供であるこををつきとめる。当時、生まれたばかりの子供を連れて逃げようとした男の妻も、追いつめて町外れで惨殺した。しかし、彼女が連れて逃げていたはずの生まれたばかりの子供はどこにも見当たらなかった。寒い冬の夜だったし、乳児が育つ可能性は限りなく低い。きっとどこかで死んだと思っていたのに ───

一族は、男に刺客を放つ。

しかし、それぞれが疑心暗鬼に陥っていた一族のものたちは、この機会にとばかりに互いに殺し合いを始めるのである。

男も抵抗し、一族の血塗られた罪が次々と明らかになる。
そこここで血が流され、死体が転がる。

復讐に燃え、自暴自棄になった男は、ヒロインにも手を掛けようとする。

複雑な思いで男を見つめるヒロイン。

そこに悲鳴が上がる。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』の読者は「一族の物語」をこのあたりまで読むと、最後がどういう展開になるか、だいたい予測できます。重大な秘密が明かされ、悲劇で終わる。そういう結末です。


身体を壊してずっと寝込んでいた祖母が、壁に手をついて立ち上がり、二人の姿を見つめている。

祖母は、ひとつの名前を呼ぶ。

愕然とする男。

かつて、息子の腹違いの弟とその嫁が殺されたことを祖母は知っていた。血の繋がりはなかったが、二人とはなぜか通い合うものがあったのだ。

彼女は慄然りつぜんとし、激怒した。だが、その事実を知っていることを話せば、彼女も殺されるだろう。それでも、二人を不憫ふびんに思い、嫁が生んだ子供は彼女がこっそり隠していた。彼女が生んだのは男女の双子だった。将来また相続争いの新たな火種になりそうな男児は遠く里子に出し、女児だけを自分の手元に残した。早世した息子の子供は女の子だったが、彼女もまた身体が弱く亡くなった。それを隠して、その子を自分の孫だということにしたのだ ───

二人はきょうだいだったのだ。

改めて驚愕とショックを込めて、互いの姿を見る二人。それでは、初めて見た時から心惹かれた理由は ───

男は再び絶望にうめき声を上げ、飛び出していく。

そこへ、闇に潜んでいた一族の若い男がやってきて男を刺す。彼は、ヒロインをこの男に取られたと思い、嫉妬の念から彼を付け狙っていたのだ。

闇を切り裂き、ヒロインの悲鳴が吸い込まれていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語は実質的にここで終わりですが、再び冒頭のシーンに戻って「伏線の意味」が明かされ、エンディングを迎えます。


ラストシーンは最初と同じ場所だ。

喪服に身を包んだヒロインがじっと町外れのくさむらに佇んでいる。

兄を初めて見かけた場所。

彼女は町を去ることに決めた。遠い牧師館で手伝いをすることになったのだ。

ふと、彼女は足元の草に埋もれかけた粗末な墓石に気付く。

何気なく土をけ、崩れかけた名前をみた彼女は驚いた。それは、彼女のほんとうの母親の名前だった。ここが母親の殺された場所であり、それを気の毒に思った祖母が内緒で小さな墓石を建てた場所だったのだ。

ヒロインは、やりきれない気持ちで空を見上げる。

冒頭の場面と異なるのは、雲が少しだけ明るく、遠くにわずかながら青空が覗いていること。

ヒロインは、じっとその墓石を見つめたあと、踵を返して静かにその場所を去っていく。

二度と振りかえることなく、ゆっくりとその後ろ姿が遠ざかっていく ───

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

マサルの想像した物語はここまでです。冒頭のさりげない、しかし "意味ありげな" シーンが、最後の最後で重要な意味を持つ。これは極めてよくある話のパターンです。マサルは譜面を閉じます。


かくて長い物語は一巻の終わりとなる。

ぱたんと譜面を閉じる。

いささかベタな話だけど、19世紀のグランドロマンの時代だから、これくらいベタでも許されるよな。

それに、実際、マサルにはこの曲からそういう物語が「聴こえて」きたのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』


大きな屋敷を隅々まで掃除する


以上の「一族の物語」は、ピアニストが ロ短調ソナタ から感じた物語という設定ですが、それは同時に音楽の聴き手が感じた物語であってもよいものです。しかし『蜜蜂と遠雷』で次に展開される文章は、あくまでピアニストの視点、曲を練習して仕上げるという立場から ロ短調ソナタ を見たものです。

譜面を閉じたマサルはピアノの前に向かい、この曲の仕上げにかかります(以下の引用で下線は原文にはありません)。。


曲を仕上げていく作業は、なんとなく家の掃除に似ている。

練習していると、いつもマサルはそう思う。

綺麗な部屋を眺め、住むところを想像している分にはいいけれど、実際に暮らしてみると、話は異なる。

家を維持する掃除は、絶え間ない肉体労働だ。演奏もしかり。

常に家全体を綺麗にしておくのは難しい。

小さな家なら掃除も楽だし、そんなに時間も掛からない。短時間で綺麗になるし、ちょっとさらうだけでいつでも綺麗にしておける。

しかし、大きなお屋敷は掃除も大変だ。ずっと美しいままに保つには、細心の注意が必要になる。

ロ短調ソナタは、とんでもなく大きな屋敷だ。構造は入り組んでいて、凝った意匠もてんこもり。これまでに数多くの人間が出入りし、ピカピカにしてきたお屋敷だ。

こんな大きな家、一人で掃除しろっていうの?

門を開けるのでさえ、重たくて一苦労。車寄せまで行くにも、落ち葉を掃いていかなければならないし、元の姿がどういうものだったのか、綺麗になった時はどんなふうなのかを常に考えていなければならない。

古い壁紙や、真鍮しんちゅうの手すりなど、どうやって掃除したらいいのか分からない部分も多い。

まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる。

自信はあった。マサルには最新式の掃除道具があるし、スタミナもある。

しかし掃除を始めてみると、予想以上に大変なことが分かってくる。

とてもじゃないが、ベランダの隅まで掃除が行き届かない。あまりに広くて、すぐにふうふう息切れしてしまう。

そこもあそこも掃除し残しているし、窓ガラスも拭ききれない。天井のすすを払う余裕もない。最初のうちは、長い廊下をモップ掛けするだけで精一杯。

一箇所を重点的に掃除していると、しばらくお留守になっていたところに、いつのまにかまたほこりが積もっている。

想像以上にタフな曲だった。

マサルはもう一度屋敷の外に出て、考える。

ただ闇雲に掃除するだけではとうてい綺麗にならないことが分かってくる。

持てる力のすべて、技術のすべてを駆使する総力戦になるのを覚悟する。

効率のよい方法をいろいろ試してみるものの、結局最後は、愚直に一部屋ずつ丁寧に磨いていくしかないという結論に達した。

それでも、辛抱強く磨いていくと、毎日さまざまな発見がある。

誰もが見向きもしなかった場所に、素敵な意匠があったりするし、これまで誰も掃除をしなかったクローゼットの引き出しが見つかったりする。誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

毎日繰り返し練習していると、玄関ホールにワックスをかけるタイミングも、掃除の途中で一休みするタイミングも分かってくる。

少しずつ、屋敷は綺麗になっていく。すべての部屋が、廊下が繋がり、整然とした建築当時の姿が現れてくる。

大広間に向かう階段の両端は、埃がたまりやすいからまめにモップを。

時には、すべての窓を開け放して、屋敷に風を通す。

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所も分かってくる。お客様が何かの拍子に見かけたら、「ほう、こんなところまで目配りがきいているんだ」と感心してくれる場所も把握している。

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せてくれることにも気付いた。

やがてその日はやってくる。

意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を表す日。

周囲の景色の四季の変化や、季節ごとに必要な対応も理解している。

この屋敷は自分のもの。自分の一部。庭の草木のいっぽんいっぽんまで覚えているし、目を閉じれば今どんな風に揺れているのかも鮮明に浮かぶ。

そんな日がやってくるのだ。

この曲のすべてを知っていると思う瞬間

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

このあと『蜜蜂と遠雷』は、マサルがピアノコンクールの第3次予選でロ短調ソナタを弾いているシーンと重なってきて、そして曲のエンディングを迎えます。コンクール会場の聴衆は圧倒的な拍手を送ります。


「一族の物語」と「大きな屋敷の掃除」


「一族の物語」は確かに "ベタな" ストーリーです。というか、"ベタ過ぎる" 物語です(2人は兄と妹だった!!)。しかしこれはロ短調ソナタが "ベタ" というわけではありません。この物語は曲の展開をそのままなぞっているのではなく、ロ短調ソナタという曲から受ける "印象" と、物語から感じる "印象"、その印象の総体が類似するように書かれたストーリーなのです。

このストーリーの要点をいくつかのキーワードで表すと、

  不穏、謎、秘密、陰謀、醜さ、禍々まがまがしさ、嫉妬、虚しさ、復讐、因果応報、伏線、因縁、あらがえない運命、過去と現在の交錯、驚きの真実、急展開、愛情、勇気、清新さ、かすかな希望、未来への一歩

などでしょう。これらの多様な要素が絡み合って物語を構成しています。これは「複数の主題が変容を重ねて複雑な構造を作り上げている」ロ短調ソナタを言語化したものと言えるでしょう。

もう一つ、キーワードを付け加えるなら、ある種の "おどろおどろしさ" です。「異様な雰囲気が漂う、大げさな感じ」と言ったらいいのでしょうか。これはロ短調ソナタに限らずリストの特定の曲がもつ一面であり、聴き手がリストに "のめり込む" 大きな魅力となっています。そもそも『超絶技巧練習曲』などというネーミングが "おどろおどろしい" わけです。何となく "聴いてはいけない曲" といった感じがある。

恩田さんは「一族の物語」を "グランドロマン" と書いていますが、ゴシック・ロマンにも近いものです。もし一族が、かつて殺害した男とその妻の亡霊に悩まされていたとか、全く不可解な事故で一族の何人もが死に、男たちは次は自分の番かと怯えていた、というような(これまた "ベタ" な)ゴシック的要素を付け加えると、もっと "おどろおどろしく" なります。

「一族の物語」はロ短調ソナタの "標題音楽的な解釈" とみることができます。リストは他の多くの作品で標題を示したり、譜面に書いたりしていますが、標題音楽というのは「物語音楽」(オペラ、バレエの音楽など)ではないし「描写音楽」でもありません。あくまで「標題」であって、タイトルと本文の間に位置する "前置き" です。小説家は本の扉に過去の文芸作品から引用した題辞(= モットー)を書くことがありますが、そのようなものだと解釈すべきでしょう。「一族の物語」は、いささか長い "題辞" だけれど。

付け加えると「一族の物語」に登場する人物は、謎の男とヒロイン、祖母を含めて、すべて一族の人間です。ロ短調ソナタは少数の主題を変化させ、変容を繰り返すことで成り立っています。そのあたりを汲み取った物語になっています。



その次の「大きな屋敷の掃除」の文章ですが、ピアニストがロ短調ソナタを練習し「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」にまで至る、その過程を "大きな屋敷を隅々まで掃除する" ことに例えたのは大変に印象的です。かなりのハードワークでありながら、そこにいろいろな発見があり、そして喜びがある。特に下線をつけたところ、

誰もが見向きもしなかった場所に素敵な意匠がある

誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せる

などの表現は、ロ短調ソナタの魅力をよく伝えていると思いました。


音楽を言語化する試み


恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』がどういう小説かと言うと、一つは「音楽を言語化する試み」です。上に引用したのはリストのロ短調ソナタですが、コンクールを予選から本選まで描いているので、それ以外にも様々な曲が出てきます。音楽だけでなく、自然界にある「音」も言語化の試みがされている。

その中でも特にリストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」です。この曲を「一族の物語」と「大きな屋敷を掃除する」という視点でとらえたのには感心しました。小説家でしかなしえない音楽の言語化。そういう風に思いました。

このロ短調ソナタの "言語化" を読んで考えされられたのは、音楽にとっての「複雑性」です。ロ短調ソナタは複雑だと言われていて、実際、聴いていてもそうなのですが、よくよく考えてみるとこの程度の複雑性は、小説や戯曲(演劇)、映画などではあたりまえなのです。「一族の物語」を "ベタな" 話と感じるように、この程度のストーリー展開は "あたりまえ過ぎる"。また、大きな屋敷を隅々まで掃除することを考えてみても、「もう投げ出したい」から「何と美しい光だ」まで、その時の人の感情は多様だし、掃除の過程での人の感情をたどって文章化したとしたら極めて "複雑" になるでしょう。

No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」で書いたことを思い出しました。マーラーのシンフォニーでは、全く異質なメロディを同時進行させたり、突如として無関係な旋律が "乱入して" きたりするのですが、「異質なものの同居、ないしは交錯」は、文学とか舞台とか映画では常套手段なのですね。マーラーのシンフォニーとロ短調ソナタでは音楽の質が全く違いますが、最初は "複雑に聴こえる" ことでは似ています。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』における "音楽の文章化" を読んで、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」は20世紀芸術を予見した曲だと、改めてそう感じました。音楽を文章化することでクリアに見えてくるものがある。『蜜蜂と遠雷』の狙いはそこだったのでしょう。




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No.208 - 中島みゆきの詩(11)ひまわり [音楽]

今までに中島みゆきさんの詩について11回、書きました。次の記事です。

No.  35 - 中島みゆき「時代」
No.  64 - 中島みゆきの詩(1)自立する言葉
No.  65 - 中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉
No.  66 - 中島みゆきの詩(3)別れと出会い
No.  67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間
No.  68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録
No.153 - 中島みゆきの詩(7)樋口一葉
No.168 - 中島みゆきの詩(8)春なのに
No.179 - 中島みゆきの詩(9)春の出会い
No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて

今回はその続きで《ひまわり“SUNWARD”》を取り上げます。なぜかと言うと、前回の No.207「大陸を渡った農作物」で、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物として向日葵ひまわりに触れたため、この曲を思い出したからです。

実は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でもこの詩を取り上げたのですが、その時はいくつかの中の一つであり、また詩の一部だけだったので、再度この詩だけに絞って書くことにします。


ひまわり“SUNWARD”


《ひまわり“SUNWARD”》は、1994年に発売されたアルバム『LOVE OR NOTHING』に収められた曲で、その詩は次のようです。


ひまわり“SUNWARD”

あの遠くはりめぐらせた
妙な棚のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く
夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが
燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて
赤ん坊が泣く

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

A1994 『LOVE OR NOTHING


Love or Nothing.jpg

LOVE OR NOTHING-2.jpg
中島みゆき
LOVE OR NOTHING」(1994)

①空と君のあいだに ②もう桟橋に灯りは点らない ③バラ色の未来 ④ひまわり“SUNWARD” ⑤アンテナの街 ⑥てんびん秤 ⑦流星 ⑧夢だったんだね ⑨風にならないか ⑩YOU NEVER NEED ME ⑪眠らないで

ちなみにこのCDは、女性アーティストなら一度はやってみたいと思うであろうジャケットに仕上がっている。


最初に出てくる「柵」と「銃声」という言葉が、この詩の情景を端的に表しています。それは戦争、ないしは抗争です。柵の両側に分かれた勢力が銃を撃ち合っているという状況です。

「柵が作られ、銃声が鳴り響く場所」はどの地域(国)のことだとはありませんが、具体的に想像することも可能です。たとえばこのアルバムが発売された頃は、ユーゴスラビア内戦(1991-1995)のまっただ中でした。旧ユーゴスラビア連邦が共和国に解体していく過程で起こった内戦、ないしは紛争です(スベロニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニアに解体した)。複数の民族と宗教(カトリック、ギリシャ正教、イスラム教)と地域性が複雑に絡み合った戦争です。従来は仲良く暮らしていた隣同士の村が、いがみ合い、殺し合いになることもあった。

  私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

とあります。従来、柵(壁、境)がなかった所に柵が作られていく。しかも「私」には柵の両側の2つの血が流れている。両親の出身地は柵の両側に分かれてしまった・・・・・・。多民族国家ではこのような状況が頻発したと考えられます。


戦争で分断された家族


戦争(ないしは抗争・紛争)というこの詩の背景を補強するのが《ひまわり“SUNWARD”》という題名です。この題名が昔の名画『ひまわり』(1970)を連想させるからです。

映画『ひまわり』はイタリア人夫婦の物語です。旧ソ連戦線に出征して音信不通になった夫を、妻がロシアまで探しに行く。しかしやっと見つけた夫は命の恩人のロシア人女性と結婚していた、というストーリーでした。戦争のもたらす悲劇を描いた映画です。

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映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語の「ひまわり」。このタイトルバックを始めとして映画には "一面のひまわり畑" のシーンが出てくるが、それが強烈な印象を残す。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの主演で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。ヘンリー・マンシーニ作曲の "せつない" 音楽が印象的な作品でした。そしてそれ以上に印象的なのが見渡す限り一面のひまわり畑の映像で、このショットが強烈に心に残る作品です。

なぜここで「ひまわり畑」なのか。ひとつは、No.207「大陸を渡った農作物」で書いたようにロシアやウクライナがヒマワリの大産地だからです。しかしそれだけの理由ではありません。この「ひまわり畑」の下には戦争で死んだイタリア兵やソ連兵が眠っているというのが映画での設定です。「ひまわり畑」は戦争(ないしは戦場)の象徴でもある。

この映画を若い時に見た人は「戦争で分断された家族 ひまわり」ないしは「戦場 ひまわり」という連想が容易に働くのではないでしょうか。何回か書きましたが、映画(名画)のもたらすインパクトは強いのです。そのインパクトは、物語やストーリーよりも、むしろ特定の映像・場面・シーンが印象に残る強さだと思います。そして中島さんも連想が働いたのではないか。

というのも『ひまわり』の日本公開は1970年秋であり、中島さんは大学の1年生です。中島さんはこの映画を札幌で見たのではないかと、ふと思ったのです。

ふと思ったのには理由があります。1970年秋にもうひとつの外国映画が公開されました。学生運動を背景に、青春の高揚と挫折を描いた『いちご白書』です。No.35「中島みゆき:時代」に、中島さんの名曲「時代」は『いちご白書』の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響されたのではという推測を書きました。そこから同時期に公開された『ひまわり』を連想したわけです。

映画「ひまわり」.JPG
映画「ひまわり」は2011年にデジタル・リマスター版が公開されたが、その予告編より。ちなみに「いちご白書」も同じ年にリマスター版が公開された。

とにかく「ひまわり」=「戦場、ないしは戦争で分断された家族」というのが詩の背景です。柵ができ、銃声が鳴り響き、「私」の両親は柵の両側に属することになってしまった状況です。


ロミオとジュリエット


ところで、この詩における最も重要なフレーズは、何回か繰り返される、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

だと思いますが、これはシェイクスピアを踏まえているのではないでしょうか。

juliet-house.jpg
ジュリエットの家
(ヴェローナ市のHP)
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、北イタリアのヴェローナの街が舞台です。キャピュレット家のジュリエットはロミオと恋に落ちますが、そのロミオが敵同士として憎みあってきたモンタギュー家だと知って嘆き、悲しみます。そして自宅の2階バルコニーでロミオへの想いを語ります。それを実はロミオが下で聞いているという、ドラマの前半のヤマ場というか、劇的な場面です。ちなみに No.53「ジュリエットからの手紙」で書いたように、現在のヴェローナの街にはバルコニー付きの「ジュリエットの家」があって観光名所になっています。

このバルコニーの場面におけるジュリエットの「おお、ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオ?」というせりふは大変に有名ですが、その続きの部分を引用すると次の通りです。


ジュリエット
おお、ロミオ、ロミオ!どうしてあなたはロミオ?
お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。
それがだめなら、私を愛すると誓言して。
そうすれば私もキャピュレットの名をすてます。

ロミオ(傍白)》
もっと聞いていようか、いま話かけようか。

ジュリエット
私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ、
モンタギューの名をすてても、あなたはあなた。
モンタギューってなに?
手でも足でもない、腕でも顔でもない、
人間のからだのなかのどの部分でもない、
だから別のお名前に。
名前ってなに?バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

だからロミオというお名前をやめたところで
あの非のうちどころのないお姿は、
呼び名はなくてもそのままのはず。
ロミオ、その名をおすてになって、
あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、
この私を受けとって。

シェイクスピアロミオとジュリエット
第2幕 第2場より
(小田島 雄志・訳。白水社。1985)

アンダーラインを付けたところの原文は、

  that which we call a rose by any other name would smell as sweet.

です。この「A rose by any other name would smell as sweet.」という一文は、シェイクスピアの引用ということを越えて、格言として英語圏で通用しているようです("名前より本質" という意味)。余談ですが、No.77「赤毛のアン(1)文学」で書いたように、このジュリエットのせりふを踏まえた表現が『赤毛のアン』に出てきます。


「そうかしら」アンは思いにふけった顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キヤベツという名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。・・・・・・」

松本侑子・訳『赤毛のアン』
第5章「アンの生い立ち」
(集英社文庫)

本が好きで、ちょっと変わった考え方をするアンの性格がよく出ているところです。中島みゆき《ひまわり“SUNWARD”》に戻りますと、

  シェイクスピア
  バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

中島みゆき
  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

の2つは発想が酷似しています。これはまったくの偶然でしょうか。そうかも知れません。アンは「本で読んだ」と言っているので、作者のモンゴメリがシェイクスピアを踏まえたことが明白ですが、中島さんの場合は偶然かもしれない。

ただし、そうとも言えない「気になる点」が2つあります。その一つ目ですが、《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、

  柵の両側に分かれた二つの勢力が抗争している、その象徴が銃声

という状況設定の詩です。一方「ロミオとジュリエット」は、

  ヴェローナの町におけるモンタギュー家(ロミオの実家。ローマ教皇派)とキャピュレット家(ジュリエットの実家。神聖ローマ皇帝派)の抗争を背景にし、若い2人の死で終わる悲劇

です。二つの勢力の抗争が背景になっているという点で似ているのです。

2つ目の気になる点は「花は香り続けるだろう」という言葉が、題名の "ひまわり" と軽いミスマッチを起こしていることです。もちろんひまわりも香りますが、一般的に「香りのよい花」だとは見なされていません。香りがでられる花は、ジュリエットが引き合いに出しているバラを筆頭に、スイセン、ジャスミン、ラベンダー、ユリ、キンモクセイ、クチナシ、梅、沈丁花じんちょうげなどだと思います。バラは香水の成分になったりするほどです。

一方、キク、チューリップ、アサガオ、シクラメン、コスモス、桜などは「香り」というより「花の形や色、咲く姿」が評価されるわけです。香りはあっても弱い香り、淡い香りです。品種によって程度の違いはあると思いますが、一般的に「香りの花」という意識はない。詩の題名になっているひまわりはキク科の植物です。野菊やデイジー程度の香りはするが、そんなに香りが引き立つ花ではありません。従って、題名のひまわりと詩の表現をマッチさせるなら、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は咲き続けるだろう

ぐらいが適切な感じもします。その方が「いかにも生命力が強そうな」ひまわりに合っていそうです。しかしこの詩は「咲く」ではなくて「香る」という言葉になっている。この「ひまわり」と「香る」の組み合わせには軽い(あくまで軽い)ミスマッチを感じるのですが、一般的に言って中島さんの詩は一つ一つの言葉が慎重に選ばれています。ここは「香る」でなければならない理由があるはずです。



以上の2つの「気になる点」から判断すると、やはり中島さんは意図的に「ロミオとジュリエット」を踏まえたのではと思います。だとすると《ひまわり“SUNWARD”》から具体的な何らかの戦争や内戦(たとえばユーゴスラビア内戦)を思い浮かべるよりも、民族・国籍・宗教・政治・信条・思想・家系などに起因する、もっと一般的なあらそいや対立をイメージすべきでしょう。

中島さんの詩を "狭く受け取る" と誤解してしまう、そういったことがよくあります。いかにも具体的事物を指していそうな言葉でも、よく考えるともっと汎用的というか、広い意味で使われていたりする。中島さんは言葉に象徴性を持たせることが多いし、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、彼女は象徴詩が得意なのです。

というように考えると《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、たとえば現在、世界各地の "多民族国家" や "移民受け入れ国家" で問題になっている「民族間の軋轢あつれき、ないしは対立、反目」を想像してみても良いと思います。現に、「分断派」と「融合派」が政治的に対立する構図の中で大統領選挙が行われたりしているのです(2016年:アメリカ、2017年:フランス)。

ここまで書いて思い出すことがあります。「ロミオとジュリエット」を換骨奪胎して現代アメリカに置き換えた有名なミュージカルがあります。『ウェストサイド・ストーリー』です。このミュージカルは、ポーランド系アメリカ人の少年グループ(=ジェット団)とプエルトリコ系アメリカ人の少年グループ(=シャーク団)の対立が、ストーリーの骨格になっています。つまり移民国家・アメリカにおける出自の違いによる対立が背景です。

「ロミオとジュリエット」は北イタリア・ヴェローナの名門家系の "争い" ですが、それをグッと小さくするとニューヨークの "チンピラ" 少年グループの抗争になる。一方、ぐっと視点を広げて一般化すると《ひまわり“SUNWARD”》が描いているような世界観になる。そう考えることもできると思います。

「たとえどんな名前で呼ばれるときも / 花は香り続けるだろう」という一節は、「たとえどんな名前やレッテルで呼ばれようとも、人間であることは変わらない」というメッセージになっています。それはジュリエットがバルコニーで訴えた心の叫びと本質的に同じです。


ひまわりが象徴するもの


この曲の題名の英語部分は "sunflower" = ひまわり ではなく "sunward" です。sunward は「太陽に向かう」という意味の形容詞ないしは副詞で、向日葵ひまわりの "向日" の部分の英訳になっています。

なぜ日本語で「ひまわり = "向日" あおい」なのかというと、ひまわりは常に太陽に花を向けるという "伝説" があるからです。それは必ずしも正しくないのですが(成長の初期段階ではそういう傾向がある)、そう思われているからこそ向日葵ひまわりという和名になった。実はあおいも「仰ぐ日」からきているらしい。葉に向日性があると言います。

  横道にそれますが、今、向日性と書きました。この「向日性」とその英訳である 「heliotropism」は No.142「日本語による科学(1)」に出てきました。向日性が何を意味するのか、日本人には明白ですが、heliotropismは普通の英米人にとっては難しい単語です。普段使っている言葉で専門用語が作れるのが日本語の特質、という話でした。

「太陽に向かう」ということの含意は、"前向き" とか "希望" とか "未来へ" といったイメージでしょう。そしてなぜ「太陽に向かう」のか、それは「太陽の光 = 誰にでも均等に降り注ぐもの」を求めるからです。そのことが詩の中で力強く宣言されています。

  あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

わざわざ英単語の sunward を持ち出したのは「太陽に向かう」ということを明確にしたかったからでしょう。『ひまわり』とか『向日葵ひまわり』だけよりも、タイトルの意図が明確になります。そして中島さんはタイトルでこの詩の「主題」を示した。

「日本語の題名に英語の副題」をつけるということで思い出すのは、『LOVE OR NOTHING』(1994)の前年に発表されたセルフ・リメイク集『時代 - Time goes around』(1993)です。Time goes around は「時は回る」という意味ですが、この副題によって中島さんは《時代》という詩のテーマが「時の循環」だと(改めて、題だけで)明確にしたわけです。《ひまわり“SUNWARD”》というタイトルは、それとよく似ています。


ひまわりの2重の意味


《ひまわり“SUNWARD”》についてまとめると、この詩は "ひまわり" に2重の意味を込めたと考えられます。

戦場、ないしは戦争で分断された家族、それをもっと一般化した世の中の "争い" 全般を象徴するものとしての "ひまわり"

太陽の光に向かう、誰もが均等に与えられる愛を求める、という意味での "ひまわり"

の2つです。この詩は "ひまわり" という花が発想の最初にあって、そこから全体の詩を構成したという気がします。ひまわりをモチーフにした絵画や歌はいろいろあります。それらの作品がひまわりにイメージしているものは、

夏という季節
太陽を思わせる色と形の花
大きくて印象的な花
背が高く、まっすぐに立つ姿

などです。しかしこの中島作品はそれらとはちょっと違います。そこが彼女の独特さというか、個性なのでしょう。考えてみると ② の「太陽を向く」というのは、実物のひまわりを見たとしても実感できるわけではありません。しかし言葉としては向日葵ひまわりであり、「太陽に向く」が本来の意味です。このあたり、言葉そのものにこだわる中島さんの詩人としての感性がよく現れていると思いました。


誰にでも降り注ぐ光


この詩は "争い" を解決するものとしての「誰にでも降り注ぐ光(=愛)」がテーマになっています。はたしてそれは何なのか、どこに求めたらいいのかと・・・・・・。普通に考えるとその有力候補は宗教なのでしょうが、その宗教や宗派が抗争の発端になり排他性の原因になっていることが多々ある。また「誰にでも降り注ぐ光は嫌だ。自分たちだけに降り注ぐ光が欲しい」と声高に叫ぶ人たちもいる。

この詩は No. 67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で取り上げたように "社会" に関わった詩ですが、発表から23年たった現在、社会との関係性においても十分に通用する詩であり、それどころか増々輝いてみえます。それだけ普遍性のある内容だと思います。

続く


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No.207 - 大陸を渡った農作物 [文化]

前回のNo.206「大陸を渡ったジャガイモ」の続きです。アンデス高地が原産のジャガイモは16世紀以降、世界に広まりました。もちろん日本でもジャガイモ料理は親しまれていて、肉じゃがやポテトサラダ、ポテトコロッケなどがすぐに浮かびます。ジャガイモはドイツの「国民食」であり、ジャガイモのないドイツ料理など想像もできないわけですが、ドイツだけでなく世界中の食卓にあがっています。

フライド・ポテト(アメリカでフレンチ・フライ、英国でチップス)とその仲間も世界中で食べられています。ベルギーに初めて旅行したとき、食事のときにもベルギー・ビールのつまみにも、現地の人はフライド・ポテト(ベルギーで言う "フリッツ")にマヨネーズをつけて食べていました。極めて一般的な食べ物のようで、それもそのはず、フライド・ポテトはベルギーが発祥のようです。

ムール貝とフリッツ.jpg
ムール貝の白ワイン蒸しとフリッツ。これを食べないとベルギーに行ったことにならない(?)、代表的なベルギー料理(Wikipedia)。

ジャガイモと同じようにアメリカ大陸が原産地で、16世紀以降に世界に広まった農作物や食品はたくさんあります。No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、世界で作付け面積が多い農作物は、小麦、トウモロコシ、稲、ジャガイモだと書きましたが、そのトウモロコシもアメリカ原産で、その栽培種は中央アメリカのマヤ文明・アステカ文明で作り出されたものです。


トウモロコシ


トウモロコシは食用にしますが、それよりも重要なのは飼料用穀物としてのトウモロコシです。日本の畜産業で使われる飼料は、そのほとんどがアメリカなどからの輸入で、その飼料の重要な穀物はトウモロコシです。日本はヨーロッパや南北アメリカ、オーストラリアなどと違って、家畜を放牧する広大な草地が少ないわけです。マクロ的に言うと(輸入)トウモロコシが日本の畜産を成り立たせています。

司馬遼太郎氏は小説家であると同時に、日本や世界の文明についての思索を巡らせ、数々のエッセイや旅行記、対談集を発表されました。その対談集の中に次のような文章があります。


遊牧という地球規模のスペースを必要とした生産が消えていった原因の一つは、15世紀末にコロンブスが新大陸で発見したトウモロコシでした。トウモロコシの原種というのはつまらないものだったらしいですけど、ああいうふうにふっくらさせたのはアメリカ人だそうで、それができて、濃縮飼料というか、濃密飼料というか、濃密の食べ物ですから、動物が移動しなくてもよくなった。だから、スペインなどでも、大きな牧場を必要とせずに、トウモロコシ畑を作っておけばたくさんの家畜を飼うことができる。

司馬遼太郎
対談集「日本人への遺言」
(朝日文庫 1999)

司馬氏はモンゴルや遊牧文化に造詣が深く、遊牧の視点からの発言です。トウモロコシが遊牧、ないしは牧畜の "ありよう" を変えてしまったという主旨です。

ヨーロッパ大陸を列車やバスで旅行するとします。日本と違って都市部を離れると一面の田園地帯になることが多いわけです。フランスなどは国土の70%が農地だと言います。車窓から何が植えられているかを見ていると、しばしばトウモロコシを見かけるのですね。牧草も見かけるがトウモロコシ畑も多い。トウモロコシが牧畜を変えたことを実感できます。

Field of maize in Liechtenstein - Wikipedia.jpg
オーストリアとスイスの間にある小国、リヒテンシュタインのトウモロコシ畑(Wikipedia)

トウモロコシは牧畜を変えただけでなく、肉質も変えたと言えるのではないでしょうか。オーストラリア産の牛肉は "赤み肉" が多いわけです。放牧で草を食べて育った牛は脂身が少なく赤み肉が多くなるからです。それが牛の自然な姿です。一方、牛舎で飼料だけで育てると脂身が多くなる。オーストラリアは日本への輸出のために牛舎での肥育も取り入れてきていると言います。

和牛は輸入飼料(トウモロコシ、大豆、大麦が主)があって成立するものです。その頂点として、世界に名をとどろかせている "神戸ビーフ"(No.98「大統領の料理人」参照)をはじめとする日本各地の "ブランド牛" がある。日本では「脂身が多い牛肉を前提とした食文化」が出来上がったのですが、その陰には飼料としてのトウモロコシがあることも覚えておくべきでしょう。


サツマイモとカボチャ


サツマイモとカボチャもアメリカ大陸原産です。サツマイモの原産地は南米のペルー付近と言われています。痩せた土地でもよく育ち、ジャガイモと同じで初心者でも育てやすい。日本では江戸時代以降、飢饉対策として広く栽培されました(教科書で習った記憶があります)。食糧難に陥ったときにそれを救う意味で栽培される食物を「救荒食物」と呼びますが、その代表的なものです。太平洋戦争中、戦後の食料難の時代にも栽培が広がりました。国会議事堂の前を耕地にしてサツマイモを作っている写真を見たことがあります。

カボチャも、トウモロコシと同じく中央アメリカ原産の野菜です。野菜の中でも生命力が強く、栽培が比較的容易です。江戸時代以降は救荒食物としても重要でした。

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国会議事堂の前が耕地になり、サツマイモが栽培された。1946年の画像(Wikimedia)


トマト


トマトは南米のアンデス高地が原産で、中央アメリカのアステカ文明で栽培種が作られました。トマトはサラダなどで生食すると同時に、トマトソースなどにして料理に使います。特にイタリア料理です。ジャガイモがないドイツ料理が想像できないように、トマトがないイタリア料理も考えられないわけです(まずピザが成り立たない)。またトルコ料理もトマトを使うことで有名です。生食するとともに、煮込み料理にトマトを多用します。これらは17-18世紀かそれ以降に本格的に広まったことに注意すべきでしょう。

少々意外なことに、トマトは世界の野菜で最も収穫量の多い野菜(重量ベース)のようです。これはトマトケチャップなども含む調味用食材としての利用が多いからです。その理由ですが、トマトはズバ抜けてグルタミン酸の含有量が多い野菜です。No.108「UMAMIのちから」で書いたように、グルタミン酸は「第5の味覚」である "UMAMI" の主要成分です。だからトマトなのでしょう。それに加えて爽やかな酸味がある。

以前、テレビの紀行番組で見たのですが、南イタリアでは今でも自家製のトマトの瓶詰めを作る家庭があるようです。収穫されたイタリアン・トマトを少々熟成し、煮込んだあと潰して瓶に詰める。それを大量に作る。北イタリアに別居している息子夫婦も帰省して手伝う、それがマンマの味を支えている・・・・・・みたいな。

サンマルツァーノ.jpg
調理用イタリアン・トマトの代表的な品種、サンマルツァーノ
(site : natural-harvest.ocnk.net)

日本人は昆布からグルタミン酸を抽出したダシを料理に使うわけですが、イタリア人は類似のことをトマトでやったという見方ができると思います。もちろん日本でも料理にトマトは使うわけで、和製洋食ともいえるオムライスやナポリタンはトマト(ケチャップ)の味付けが必須です。カゴメ株式会社はトマトで成り立っています。


トウガラシ


トウガラシ(唐辛子)も中央アメリカ原産の野菜です。日本へは16世紀末から17世紀初頭に伝えられました。その日本を経由して朝鮮半島に伝わったというのが定説です。朝鮮半島では以降、200年かけてトウガラシが広まりました。つまり日本の江戸時代に広まったわけです。それまでのキムチは辛くなかった(と考えるしかない)。

鷹の爪.jpg
日本で栽培されているトウガラシの品種の一つ「鷹の爪」。熊本県人吉市のホームページより
(site : www.city.hitoyoshi.lg.jp)

今となってはトウガラシを使わない韓国料理は想像できないわけです。キムチは言うに及ばず、鍋にトウガラシ、スープにトウガラシ、刺身にもトウガラシです(!!)。少々古いですが1975年の統計で、韓国人一人あたりの平均一日のトウガラシの使用量は5~6グラム、それに対して日本の使用量は一人年間1グラムだそうです(丸谷才一「猫だって夢を見る」より。元ネタはハウス食品が発行した『唐辛子遍路』という本)。韓国料理だけでなく中国の四川料理や(麻婆豆腐、豆板醤・・・・・・)、タイ料理でもトウガラシを多用します。トウガラシの辛みに魅了される、ないしは "やみつき" になるのは何となく分かる気がします。

ハンガリー産パプリカ.jpg
ハンガリー産のパプリカ。ハンガリー食品・雑貨輸入販売店「コツカマチカ」のホームページより
(site : www.kockamacska.com)

ピーマンとパプリカは、辛み成分(=カプサイシン)が少ないトウガラシの栽培品種です。ハンガリーに行くと、やたらとパプリカが目につきます。そもそもハンガリーで作り出されたもので、パプリカはハンガリー語(マジャール語)です。パプリカのないハンガリー料理も考えられない。これらはいずれも日本でいうと江戸時代以降に広まったことに注意すべきでしょう。


カカオ


カカオは中南米原産の植物です。カカオの果実の中の種子(カカオ豆)がココアやチョコレートの原料になります。

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カカオの実とカカオ豆(Wikipedia)

チョコレートは菓子の中でも独特のポジションにあります。つまり菓子職人の中でもチョコレート(ショコラ)職人はショコラティエと呼ばれていて、その地位が確立しています。このブログの記事では No.117「ディジョン滞在記」で、フランスのディジョンにあるファブリス・ジロットの本店のことを書きました。

アメリカのギラデリ社は、世界のチョコレート・メーカーの中でも最も古い会社の一つです。その創業は1850年頃で、日本で言うと江戸時代です。160年以上続く会社というのは世界でもそう多くはないわけで、チョコレート文化の強さを感じます。ギラデリ社はサンフランシスコが発祥で、その歴史的な工場跡やショップ群は "ギラデリ・スクウェア" と呼ばれていて、観光スポットになっています。かつての工場跡などを見学するとチョコレート産業の歴史を感じます。

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ギラデリ・スクウェア(サンフランシスコ)
(site : www.destination360.com)

チョコレートは人間が食べると何ともないが、動物が食べると中毒を起こすそうです。コロンブス到達するはるか以前からのアメリカ大陸の住人が人類に与えてくれた「贈り物」だと言えるでしょう。


落花生


落花生も南米、ペルーが原産地です。落花生は「地中で実を結ぶ」という特異な豆です。花をつけたあと、花の根元から "つる" が伸び、それが地中に潜り込んで、地中に鞘ができ、その中に実ができる。よくよく考えると奇想天外な植物です。

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落花生のできかた。千葉県八街市のホームページより引用。
(www.city.yachimata.lg.jp)

栄養価が高く、ピーナッツ油をとったりもできます。すりつぶしてピーナッツバターにしても独特のうま味がある。

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Peanutsの50年の歴史をたどった、作者・シュルツ氏の本


スヌーピーやチャーリー・ブラウンが登場する、シュルツ作の漫画のタイトルは「ピーナッツ」です。「ピーナッツでも食べながら気楽に読める漫画」という意味だと言われていますが、Wikipedia によると、この題名は作者のシュルツが決めたものではなく出版エージェントが決めたもののようです。英語の peanuts には「つまらないもの、とるに足らないもの」という意味があり、シュルツはこのタイトルが不満だったと・・・・・・。

しかし「ピーナッツでも食べながら」とか「とるに足らない」と言われるということは、裏を返せば、それだけ広まっていて愛されている証拠です。あたりまえ過ぎて、愛されていること自体があまり意識されていないということでしょう。シュルツさんはこのタイトルに誇りを持ってもよかったと思います。


タバコ


タバコもアンデス地方原産の植物ですが、世界中に広まってタバコ文化を形成してしまいました。紙巻きタバコ、キセル、パイプと、喫煙方法も多彩です。

宮崎市のタバコ畑.jpg
葉たばこの栽培。宮崎市のホームページより
(site : www.city.miyazaki.miyazaki.jp)

この数十年、タバコを吸うことによる肺ガンの発症や、受動喫煙による健康被害に関する知識が広まり、喫煙人口は減少してきました。受動喫煙だけをとってみても、日本国内で受動喫煙が原因で年間約15,000人が亡くなっており(国立がん研究センターの推計)、受動喫煙による医療費の増加は年間3200億円にのぼるそうです(厚生労働省研究班の推計)。

この状況に対応するためタバコ会社は "電子タバコ" に力を入れています。液体ないしはペースト状の "専用タバコ" を加熱して蒸気を発生させる電子機器ですが、日本ではフィリップ・モリス社のアイコス(iQOS)がブレイクしていて、現在は入手困難らしい。

そこまでして "タバコもどき" を吸う必要があるのかと思いますが、中毒性のある文化を変えるのでは容易ではないということでしょう。アメリカでは30年ほど前から「建物の中は全部禁煙」というケースがよくありました。禁煙文化が最も進んでいるのはアメリカではないかと思います。肥満と同じで「禁煙できないのは意志薄弱な証拠」のように見なされている感じもあります。

とにかく、アメリカ大陸原産で世界に広まり、歴史に影響を与え、その程度が大だった農作物としては、タバコが一番かもしれません。


ヒマワリ


ヒマワリ(向日葵)原産は北アメリカの西部です。日本では農作物というイメージは薄いと思いますが、世界的にみると種子を食用にしたり、またヒマワリ油をとったりと、重要な農作物です。

ヒマワリの大産地はロシアとウクライナで、この2国の国花はヒマワリです。このことを如実に示したのが、1970年公開のイタリア・フランス・ソ連(当時)合作映画『ひまわり』でした。とにかく、あたり一面、見渡す限りのヒマワリ畑は極めて強い印象を残しました。ヒマワリは農作物ということを実感できます。

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映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語のヒマワリ。

前回の No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、ジャガイモを描いた名画としてミレーの『晩鐘』とゴッホの『ジャガイモを食べる人々』を引用しました。そのゴッホはヒマワリを連作で描いたことで有名です。(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。しかしゴッホとともにヒマワリを描いた有名な絵は、アンソニー・ヴァン・ダイクの『ひまわりのある自画像』でしょう。

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アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
ひまわりのある自画像」(1633)

強い印象を残す不思議な自画像です。シュール・レアリズムの絵の感じがないでもない。まるでダリが描いたような・・・・・・。いわゆる "ヴァンダイク髭" を蓄えた姿が、髭の画家・ダリを連想させるのでしょう。

ヴァン・ダイクはイングランドの宮廷画家で、主人はチャールズ1世です。絵に描かれた金の鎖はチャールズ1世から贈られたものです。そして画家が指さしているヒマワリは、チャールズ1世ないしはイングランド王室を象徴していると言われています。だとすると、左手に持った金の鎖は国王にもらったのだと誇示しているような・・・・・・。ヴァン・ダイクは若い時に「いかにもナルシスト」という感じの自画像を描いていますが(=エルミタージュ美術館にある自画像)、この絵もその系統にあたると思います。振り向いた姿を描いていることも。

注目すべきは、ここにヒマワリがあることです。この絵はコロンブスのアメリカ大陸発見から140年後に描かれました。スペイン人が本国に種を持ち帰ってから100年間は、ヒマワリはスペイン本国外には出なかったといいます。ということは、ヒマワリがヨーロッパに普及しはじめて20~30年後にこの絵が描かれたということになります。

その時すでにイングランド宮廷ではヒマワリが栽培されていて、画家はその大柄でインパクトの強い花を見て、ある種の象徴性を感じたものと想像されます。また、イングランド王室の伝統とは無縁な "新参者の植物" を持ち出したところに意味があるのかもしれません。つまり、ヴァン・ダイクはフランドル人であり、外国人である自分がイングランド宮廷で成功したことをひまわりに重ね合わせたとも考えられます。



以上のほかにも、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物はいろいろあります。パイナップル、インゲンマメ、アボガド、パパイヤ、ゴム、バニラ(香料)などがそうです。


食文化は変化する


ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、トウガラシ、チョコレート(原料のカカオ)、ピーナッツ、喫煙の習慣などは、16世紀にアメリカ大陸からもたらされ、17-18世紀に広まったものです。それぞれの国で時期は違うものの、長くても200年~300年の歴史のものです。国によっては100年程度の歴史しかない作物もある。

「ジャガイモとドイツ料理」「トウガラシと韓国料理・ハンガリー料理」「トマトとイタリア料理・トルコ料理」は切っても切れないものであり、それが昔からの伝統だと暗黙に思われています。しかしそんなに古いものではない。一般的に言って食習慣は想像以上に迅速に変化します。「昔からの伝統的な ・・・・・・ 料理」といっても、その「昔」とはせいぜい数十年のこともあります。

そして「大陸を渡った農作物」をながめて見ると、食文化は日本の江戸時代の頃からずっと「グローバル化」の影響を受けてきた、そのこともまた理解できるのでした。




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No.206 - 大陸を渡ったジャガイモ [文化]

前回の No.205「ミレーの蕎麦とジャガイモ」で、ミレーの『晩鐘』に描かれた作物がジャガイモであることを書きました。小麦が穫れないような寒冷で痩せた土地でもジャガイモは収穫できるので、貧しい農民の食料や換金作物だったという話です。今回はそのジャガイモの歴史を振り返ってみたいと思います。

ジャガイモは、小麦、トウモロコシ、稲、に次いで世界4位の作付面積がある農作物です。1位~3位の「小麦・トウモロコシ・稲」は穀類で、保存が比較的容易です。一方、ジャガイモは "イモ" であり、そのままでは長期保存ができません。それにもかかわらず世界4位の作付面積というのは、寒冷な気候でも育つという特質にあります。これは、ジャガイモの原産地が南米・アンデス山脈の高地だからです。

そのアンデス高地でジャガイモはどのように作られているのでしょうか。以下、山本紀夫氏の著作「ジャガイモとインカ帝国」(東京大学出版会。2004)からたどってみたいと思います。

  山本紀夫氏は国立民族学博物館(大阪府・吹田市)の教授を勤められた方です。植物学と文化人類学の両方が専門で、ペルーのマルカパタという村に住み込んで農耕文化の調査をされました。また家族帯同でペルーに3年間滞在し、ペルーの首都・リマの郊外にある国際ポテトセンター(ジャガイモの研究機関)で研究されました。ジャガイモを語るには最適の人物です。


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インカ文明を支えたジャガイモ


ジャガイモ文化をはぐくんだのは南米のインカ文明です。最盛期のインカ帝国の時代、その人口は1000万人以上と見積もられていますが、半分以上は3000メートル以上の高地に住んでいました。帝国の首都のクスコの標高は3400メートルです。3000メートル以上の高地で発達した高度文明は、世界史でも他に例がありません

文明の基盤となる産業は、近代以前はもちろん農業です。その農作物では、南北アメリカ原産のトウモロコシが有名です。トウモロコシは南北アメリカ大陸の広い範囲で見られる作物で、もちろんアンデス地方でも栽培されています。しかし、トウモロコシは温暖な気候に適した作物です。寒冷な高地では栽培できません。現在のアンデス地方でもトウモロコシは主に山麓や海岸地帯で栽培されています。

一方、ジャガイモは寒冷な気候に強く、3000メートル以上の高地でも栽培が可能です。ジャガイモは南米・アンデス高地を原産地とし、アンデスの民が育ててきた作物なのです。アンデス高地が原産地である証拠に、現在でもジャガイモの野生種が自生しています。野生種の "イモ" は小指ほどの大きさしかなく、ソラニンという毒が含まれるため食用には向きません。

この野生種から栽培種を作り出したのがアンデスの人々です。栽培種は、芽の部分にはソラニンがありますが、基本的に煮るだけで食べられます。ジャガイモの栽培種は植物学的には(= 学名がついた種は)7種ありますが、現在のアンデス地方にはこれら全部が揃っていて、その品種は数千種あると言われています。現在、アンデス以外の世界中で栽培されているのは7種のうちの1種(トゥベローサム種)だけであり、この1種からさまざまな品種("男爵" とか "メイクイーン" とか)が作り出されました。

野生種が存在し、かつ、現在知られている栽培種がすべて揃っていることは、ジャガイモを食料として育ててきたのがアンデスの民であることを物語っています。



そのジャガイモを、現在のアンデスの人々はどのように利用しているのでしょうか。特に、インディオと呼ばれる、伝統農業を守っている人々のジャガイモ作りです。山本紀夫氏がペルーのマルカパタという村で現地調査した結果を以下に紹介します。マルカパタ村はかつてのインカ帝国の首都であるクスコから東に100kmほどにあり、人口は約6000人、村の中心地(=プエブロ・マルカパタ。ヤクタとも言う)の標高は 3100メートルです。


高度差利用農業


次の図はマルカパタ村の「断面図」で、高度による農業の違いを示しています。まず、標高4500メートル程度の高地では農業ができないので、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの放牧が行われます。こういった家畜の糞は肥料としてジャガイモ栽培に活用されます。

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マルカパタ村の高度差利用農業。上から順に、牧畜、ジャガイモ、トウモロコシ、熱帯植物の農業が営まれる。村の中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にある。「ジャガイモとインカ帝国」より

その下がジャガイモを栽培する地区で、高度によって「ルキ」「プナ」「チャウピ・マワイ」「ワマイ」という耕地名で呼ばれます。インディオたちの家は「プナ」にありますが、「出作り小屋」や「家畜番小屋」があり、これらを利用して放牧や農業が行われています。インディオの言葉は昔からのケチュア語です。

高度3000メートルから2000メートルはトウモロコシの栽培地区です。マルカパタの中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にあり、ミスティ(=スペイン人との混血の人たち。スペイン語を話す)たちの家があります。2000メートルより下は熱帯作物の栽培地区です。

ジャガイモに着目すると、高度差1000メートルの中に4つの耕地ありますが、インディオの1家族は、この4つの耕地それぞれでジャガイモを栽培します。つまり1000メートルもの大きな高度差に分散してジャガイモの栽培をしているわけです。このため、植え付けの時期を変えることによって、年4回収穫することができます。つまり、新鮮なジャガイモが長く食べられるわけですが、分散には他にも理由があります。


もうひとつの理由がある。それは収穫の危険を分散するためである。もともとジャガイモは寒冷な気候に適した作物であるが、そのような高地は作物を栽培するうえでは厳しい環境、すなわち収穫の危険性が大きい環境である。そして、この危険性は高度の増加とともに大きくなる。高地ほど気温が低く、雨量も少なくなるからである。とくに乏しい降雨はジャガイモ栽培に深刻な影響を与える。アンデスではジャガイモは伝統的に自然の降水のみに頼って栽培しているからである。

それでは、このような危険性を回避したり、減少させるためにはどうすればよいのか。その方法の一つが、大きな高度差のなかで生じる気温や雨量の違いを利用して、少しずつ時期をずらして植え付けることである。具体的には、標高の低いところほど早く植え付け、高地にいくほど植え付け時期を遅らせるのである。実際に、マワイの耕地での植え付けは8月であるのに対して、もっとも高いところにあるルキの耕地での植え付けは10月末ごろと、そのあいだには2~3ヶ月のズレがある。

山本紀夫「ジャガイモとインカ帝国」
(東京大学出版会。2004)


休耕システム


ジャガイモの耕地は垂直方向に分散すると同時に、水平方向にも分散しています。つまり4つの耕地のそれぞれを5つの耕区に分け、そのうちの一つだけを使い、残りは休耕しています。こういった休耕は地力を回復するためと考えるのが普通ですが、しかし山本さんが現地で調査したところ、4年間休耕しても土壌養分はほとんど変わらないことが分かりました。4年間休耕してもその土壌養分だけでジャガイモの栽培はできず、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの家畜の糞を肥料として与える必要があるのです。


それでは、ジャガイモ耕地は何のために休閑しているのであろうか。その最大の目的は病虫害の防除にあるとわたしはみている。じつは、ジャガイモは病虫害に弱い作物であり、特に連作すると病虫害の発生率は高くなる。その病虫害で最大のものがアンデスではセンチュウによるものであり、その有効な駆除策として知られるのが休閑なのである。しかも、「センチュウの生息密度が高いときにジャガイモの収量を確実にするためには5年間に一度だけ栽培するようなローテーションが必要である」とされるのである [Hooker 1981]。

このような事実は、いずれも休閑の最大の目的が地力の回復よりも、ジャガイモの病虫害の防除にあることを強く示唆するであろう。もちろん、このような方法では、毎年使われる耕地が全体の数分の一でしかないため、生産性という点ではきわめて低いレベルにとどまらざるを得ない。しかし、このことはまた、アンデスの農民が生産性よりも安定的な収穫を最大の目的にしていることを物語る。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」


ジャガイモの品種は100種類


マルカパタ村のジャガイモ栽培で驚かされるのは、きわめて多くの品種があることです。マルカパタ村全体では約100種類のジャガイモの品種があり、村人はそれぞれに品種名をつけています。その一部の例が下図です。

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マルパカタ村で栽培されているジャガイモの品種の例。村全体では100種ほどあり、すべてに名前がついている。「ジャガイモとインカ帝国」より

しかもマルカパタの人々は、一つの畑に20~30種類もの品種を混ぜて栽培します。いったい何のためなのでしょうか。


その理由のひとつとして考えられるのが、多様な品種の栽培による危険の分散である。さきにマルカパタのジャガイモは形態や色などが異なっていることを指摘したが、これらの品種は形態が異なっているだけでなく、病虫害や気候、さらに環境などに対する適応性も異なっていると判断される。実際に、マルパカタの村びとは、イモの形態の違いだけでなく、それぞれの品種による栽培特性の違いにつていもよく知っている。この点の調査は十分ではないが、少なくとも耐寒性や耐病性、そして雨の多少などに対する適性について熟知している品種が少なくなかった。

したがって、一枚のジャガイモ畑に多様な品種を栽培するのは、やはり収穫の危険性を回避するためであると考えてよさそうである。耐寒性や耐病性などの点で様々に異なる品種を混植することで、天候の異変や病虫害の発生に対して収穫の減少を少しでも防ぐ工夫と考えられるのである。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」

ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。



以上、マルカパタ村のジャガイモ栽培は、まとめると次の3つの特徴をもっています。

高度差利用栽培
1000メートルの高度差を4つの耕地にわけ、時期をずらせてジャガイモを植え付ける。

休耕
一つの耕地をさらに5つの耕区にわけ、5年に一度のローテーションでジャガイモを栽培する。

数10品種のジャガイモを混植
一つの畑に20~30品種のジャガイモを混植する。マルパカタ村全体では約100品種のジャガイモがある。

マルパカタの村人に聞いても「昔からそうやっているから」との答えしか返ってきません。従って栽培方法の「理由」については山本さんの推測が入っていますが、それはやむをえないと思います。

とにかく、アンデスのジャガイモ栽培は、寒冷な土地で食料を確保するための知恵と工夫の積み重ねの上に成り立っていることは間違いないでしょう。もちろん、食料にできない野生種から栽培種を作りだしたのがアンデスの民の「知恵と工夫」の第1歩だったわけです。


世界への伝搬


アンデスの民が育てたジャガイモは16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰り、徐々に世界中に広まっていきました。その本格的な普及は18世紀あたりからのようです。アンデス高地が原産ということで何よりも寒冷な気候に強く、また地下茎にイモをつけるので鳥に食べられる心配がありません。特に、飢饉や戦争での荒廃を契機にジャガイモ栽培が広まることが多かったようです。

ジャガイモの普及に関しては数々のエピソードがありますす。たとえば第二次世界大戦後の日本人捕虜のシベリア抑留(=強制労働)では、ジャガイモに助けられたという声が多々あります(助かった人は、という前提ですが)。伊藤章治「ジャガイモの世界史」(中公文庫 2008)にはそのあたりの事情が書かれています。また20世紀になるとネパールのシェルパ族にもジャガイモ栽培が広まり、人口が急増しました(山本紀夫「ジャガイモのきた道」岩波新書 2008)。

ジャガイモを題材にした絵画作品で最も有名なのは、ゴッホがオランダ時代に描いた『ジャガイモを食べる人たち』でしょう。この絵を見ると、食卓にはジャガイモしかないのですね。そこがポイントです。従って絵の題名は「ジャガイモだけを食べる人たち」が正確です。ジャガイモは炭水化物のほかにビタミンCなどの栄養素も多い食物です。ジャガイモが当時のヨーロッパの貧しい農民たちの "命綱" だったことがよく分かります。

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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ジャガイモを食べる人たち」(1885)
(アムステルダム・ゴッホ美術館)

ジャガイモに関する数々のエピソードで非常に有名なのが、アイルランドの「ジャガイモ飢饉」です。それを伊藤章治・著「ジャガイモの世界史」と山本紀夫・著「ジャガイモのきた道」からたどってみます。


アイルランドのジャガイモ飢饉


イギリス英語でfamine(飢饉)に定冠詞をつけてThe Great Famine(=大飢饉)というと、19世紀半ば、1845年から起こったアイルランドのジャガイモ飢饉のことを指します。


16世紀末、アイルランドにもたらされたとされるジャガイモは、岩盤だらけのアイルランドの土地でも「貧者のパン」としての役割を十二分に果たす。ほとんど手入れなしでも1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため、ときにはジャガイモ畑は「怠け者のベッド」と呼ばれたほどだ。

ジャガイモからのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保証されたため、この国の人口は1760年の150万人から、1841年には約800万人に膨れ上がった。そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」と呼ばれるジャガイモ飢饉(アイルランド語 An Gorta Mor。英語 The Great Famine)である。

伊藤章治「ジャガイモの世界史」
(中公文庫 2008)

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上の引用にあるように、アイルランドにジャガイモが本格的に普及したのは、18世紀半ばから約100年かけてのことでした。そこに「大飢饉」が襲った。

ジャガイモ飢饉の原因は1845年に始まった「ジャガイモ疫病」の発生で、英語で "Potato Blight" と呼ばれているものです(Blightは "枯れる" という意味)。この病気の原因は、フィトフトラ・インフェスタンスという真菌類です。アメリカ起源といわれているこの病気は、1845年の6月にイギリス南部のワイト島に発生し、イギリス本土、ベルギー、フランス、ドイツなどに広がり、そして8月末にアイルランドに上陸しました。この真菌の胞子はものすごいスピードで広がり、ジャガイモの葉や茎で発芽すると葉は斑点ができて黒く変化し、イモは腐って悪臭を放つようになります。


1845年、ジャガイモ疫病によるアイルランドの損害は平均で約40パーセントに達した。この年夏の湿気の多い天候と変わりやすい風が、ジャガイモ疫病の胞子を各地の畑に飛散させたのだ。

翌1846年は、ジャガイモの植え付け面積が三分の一ほど縮小する。人々が種イモまで食べつくしたからだ。その年もジャガイモ疫病は8月のはじめには姿を現し、卓越風に乗って瞬く間に広がった。さらに収穫期には豪雨が降り、霧が出た。ロンドンの『タイムズ』紙が、「ジャガイモ全滅」と報じたのがこの年である。

1847年は見事な収穫に恵まれたものの種イモの不足で通常の五分の一しか植えられず、飢饉は続く。1848年は2月に大雪が降ったが、5月、6月の天候は順調で、人々に期待を持たせた。しかし7月には雨ばかりの天候となり、またもジャガイモ疫病は一気に拡散した。結果は1846年と並ぶほどの凶作だった。収穫が皆無となるなか、働き手はこぞって米国などに海外移民、残された者たちはペットを食べ、雑草を食べ、さらには人肉までも口にしたという話が伝わるほどの地獄絵図が現出した。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

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ジャガイモ疫病
ジャガイモ疫病にかかると、まず葉に病斑ができ、たちまち葉全体に広がって、地中のジャガイモは腐る。ビル・プライス「世界を変えた50の食物」(原書房 2015)より引用。

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アイルランド、ダブリン市内にある「飢饉追悼碑」(Wikipedia)

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人口調査によると、アイルランドの人口は1841年には817万人でしたが、1851年には655万人にまで減少してしまいました。飢饉がないと1851年には900万人程度になったはずという見積りがあります。つまり250万人の人口が失われたことになり、そのうち約100万人が海外へ移住、残りは死んだといわれています。死因には栄養失調や餓死もありますが、それより多かったのが栄養不足で病気にかかることによる病死でした。

この大飢饉のダメージは大きく、アイルランドの人口はその後も減り続け、現在でも人口は450万人程度です。一方、"アイルランド系"の人口はアメリカで4300万人、全世界では7000万人と言われています。有名な話ですが、この「アイルランド系アメリカ人」から、大統領が2人出ています。ケネディ大統領とレーガン大統領です。どちらも大飢饉の時代にアメリカに移民したアイルランド人の子孫です。


飢饉をもたらしたもの


1845年のジャガイモ疫病はアイルランドだけではなく、ヨーロッパ各国で発生しました。しかし大飢饉はアイルランドだけで起こった。それはなぜでしょうか。


なぜ、アイルランドだけでジャガイモ疫病が大飢饉を引きおこしたのだろうか。それは、一口にいえばアイルランド人が「ジャガイモ好き」だったからである。つまり、あまりにもジャガイモに依存しすぎたせいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからである。

さらに、この状態に拍車をかけたのが、単一品種ばかりを栽培したことである。ジャガイモには数多くの品種があるが、アリルランドでは19世紀の初め頃からもっぱらランパーとよばれる品種のみを栽培するようになっていた。この品種は、栄養価では他の品種にくらべて劣っているが、少ない肥料と貧弱な土壌でも栽培ができたため、アイルランド全土に普及していたのである。しかし、ジャガイモは塊茎で増える、いわゆるクローンであるため、単一品種の栽培は遺伝的多様性を失わせることになる。したがって、ある病気が発生すれば、それに抵抗性をもたない品種はすべての個体が同じ被害を受けることになる。アイルランドの大飢饉は、まさしくこうして生じたのであった。

山本紀夫「ジャガイモのきた道」
(岩波新書 2008)

しかし、ここでよく考えてみる必要があります。ヨーロッパ各国に比べてなぜアイルランドだけが「ジャガイモに依存しすぎた」のでしょうか。その背景にはアイルランドと英国の長い抗争の歴史がありました。


英国が作り出した大飢饉


12世紀から始まった英国のアイルランド支配は、プロテスタント(英国)によるカトリック(アイルランド)の弾圧の歴史でした。


その抗争の歴史に「苛斂誅求かれんちゅうきゅう」というほかない苛酷な支配を持ち込んだのが、熱烈な清教徒で、わずかな年数で宗教改革を成し遂げ、英国国王チャールズ一世を処刑して共和制を築いたオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)である。

1641年、英国支配に対するアイルランド側の反乱、「カトリック一揆」が起こる。英国本土には、混乱のなかで2000人以上の新教徒入植者が殺されたと誇張して伝えられたといわれる。その「新教徒虐殺」への報復、見せしめとして、二万人の精鋭を率いて攻め入ったクロムウェルは、カトリック教徒であるアイルランド人を大虐殺した。カトリック教会組織は手当たり次第に破壊され、教徒の資産は没収された。農地もまたそのほとんどが没収され、アイルランド人は英国人地主の小作人に転落する。17世紀初頭には59パーセントだったカトリック教徒の所有地は、18世紀初頭にはわずか」14パーセントとなった。そしてアイルランド人は岩盤と石ころだらけの西部の土地へと追いやられたのだった。

「アイルランド人は地獄かコノートに行け」とクロムウェルは、公言したといわれる。アイルランドの西部に位置するコノートは、アイルランドのなかでも最も生活条件の厳しい土地だ。

・・・・・・・・・・

小作人となったアイルランド農民は、農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてを英国人地主に納めた。ではどうやって彼らは生き延びることができたのか。彼らは残りの三分の一の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食としたのである。

・・・・・・・・・・

アイルランドのジャガイモ飢饉は、ジャガイモ単作(モノカルチャー)のゆえに起こったのだといわれる。しかし、英国による土地と作物の厳しい収奪のもと、残された石と岩盤だらけの狭隘きょうあいな土地でアイルランド国民が生き残るには、ジャガイモ単作という選択しかなかったのだ。

ヨーロッパの他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物で補い、飢饉を回避している。さらに、飢饉がもっとも深刻なときでさえ、穀物を満載したアイルランドの船が英国に向かっていた

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

伊藤氏は「社会構造が生んだ飢饉」「英国によってつくられた飢饉」と呼ぶしかないと書いていますが、その通りでしょう。

農作物の発育不全を引き起こすのは天候不順(冷害、干魃など)や病害虫です。しかしそれを飢饉にまでしてしまうのは、一言でいうと "政治" です。それは現代でも同じですで、「国民の20%が飢餓状態なのに、80%は何ともない」というような例があります。国連が食料の緊急援助に乗り出したりしますが、要するに国全体としては食料は足りているわけです。また国民のすべてに最低限の所得があると(所得が保証されると)、食料を買うことができます。

アイルランドの悲劇がなぜ起こったかをまとめると、アイルランドは、

英国に植民地的支配を受けており、
英国=支配者から「アイルランド人は死んでもよい」と思われていて、
食料をジャガイモに頼っており、
そのジャガイモを壊滅させる病気が蔓延した

ということでしょう。③④の条件に当てはまるヨーロッパの地域はほかにもあったはずです。しかしそれと同時に①②の条件にも当てはまるのがアイルランドだけだった。そういうことだと思います。②に関して言うと、ジャガイモ飢饉は、カトリック教徒絶滅を狙った「不作為によるジェノサイド」という見方もアイルランドにはあるようです。当時、アイルランドは英国の一部であったわけであり、そういう見方が出てくるのも当然でしょう。

  飢饉が "政治" で起こるというのは、江戸時代に何回か起こった "大飢饉" をみてもそう思います。過度の稲作の奨励はいったん冷害になると恐ろしいし(稲は本来、亜熱帯の作物です)、米の代用になる食物も日本古来の稗や粟からはじまって、サツマイモなどの "外来食物" も(江戸後期では)あったはずです。経済的に破綻している藩では何ら有効な手が打てないこともあった。餓死者が続出した藩もあれば、一人の餓死者も出さなかった藩もある、というのが実態でした。


現代のジャガイモ


ジャガイモは寒冷地で痩せた土地でも育ち、また栽培に手手間がかからないというメリットがあります。これらの特質があるからこそ、アンデスの民が作り出したジャガイモが全世界に広まったわけです。しかしアイルランドの例にみられるように、ジャガイモの弱点は病気に弱いことです。この弱点をカバーするため、現代日本では種イモが厳重に管理されています。


ジャガイモの弱点は病気に弱いことだ。ウイルスによる葉巻病やYモザイク病、菌類や細菌が原因のジャガイモ疫病、軟腐病、さらには虫が引き起こすジャガイモシストセンチュウなどが難敵だ。アイルランドのジャガイモ飢饉を引き起こしたのがジャガイモ疫病、人間の病気にたとえれば「コレラより恐ろしい」といわれるのがジャガイモシストセンチュウである。

ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度により、種イモの生産と流通は独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。

種イモの元になるのが原原種。「元ダネ」と呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるほか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。

原種農家、採種農家が増殖した種イモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。

合格した種イモで一般農家はジャガイモ栽培を行うのだが、そこでできたイモを次のシーズンの種イモにすることは「同一県内で自家栽培に利用する」場合のみ、検査なしで許される。他県向けなどのケースでは植物防疫官による厳しい検査を受けなくてはならない。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

現代の我々が容易にジャガイモを入手できるのには、このような厳密な管理体制があるわけです。そして、その前史としてアイルランド大飢饉のような悲惨な経験があったことを忘れてはならないでしょう。

北海道更別村のジャガイモ畑.jpg

北あかり.jpg
北海道十勝平野の更別村のジャガイモ畑。下のジャガイモは "北あかり"。


モノカルチャーの怖さ


もう一度、アンデス高地のインディオの人々の農業を振り返ってみると、

アンデス高地のジャガイモ栽培は、
高度差を変えた3つの耕地で栽培
5つの耕区をローテーションで休耕
20~30種類の品種を混植
という特徴をもつ。
主要作物はジャガイモとトウモロコシ

とまとめられるでしょう。山本氏の著書には主要作物以外にも、各種の農作物の記述が出てきます。そのほとんどは、我々になじみがないものです。一言でいうと「多様性を維持した農業」だと言えます。

このような農業形態は、生産性の観点からはマイナスです。山本氏の本には「アンデス高地のジャガイモの生産性は、現代アメリカのジャガイモ生産の 1/10」という意味の記述が出てきます(休耕はカウントせずに、です)。その生産性の低さと引き替えに、食料の安定生産が維持され、悪天候や病害虫による被害リスクが回避されている。

対照的な風景が、19世紀半ばのアイルランドのジャガイモ畑です。そこは遺伝的に均一な単一品種の畑が広がっていました。ジャガイモは種イモから増殖させるので(いわゆる "クローン")、これを続ける限り遺伝子が全く同じになります。19世紀のアイルランドでは「見渡す限りの畑のジャガイモのDNAが全く同じ」という状況があったと想像できます。多様性とは真逆の人工的な世界であり、これは極めて危険な状況です。

もちろん現代日本のジャガイモ生産の8割を占める北海道のジャガイモ畑も、似たような状況です。それが危険だからこそ、国の機関による種イモの厳重な管理がされているわけです。それによって高い生産性が維持されている。

この話の教訓は、生命体は多様性が "命" だということでしょう。振り返ってみると、No.56「強い者は生き残れない」で書いた生命の進化のメカニズムの根幹は「多様性」でした。多様性の中から新しい環境に即した生命が生き残って進化していく。

No.69-70「自己と非自己の科学」で書いた人間の免疫システムも、多様性が根幹にありました。病原菌に対する防御反応は人それぞれに違っている。だからこそ人類は生き延びてきました。アイルランドのジャガイモ飢饉は「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」だそうです(伊藤章治「ジャガイモの世界史」)。その14世紀の黒死病(ペスト)の惨禍では人口の1/3が死んだ地域がヨーロッパのあちこちにあったといいます。考えられないほどの膨大な死者の数です。しかしペスト患者に接しても何ともなかった人も、また多かった。当時はペスト菌が原因という知識は全く無いわけです。だけど死なない(人も多かった)。



モノカルチャーは "単一文化" という意味ですが、もともとカルチャーとは耕作の意味です。"単一作物耕作" という意味でもある。そしてモノカルチャーは本質的にまずいし、危険なのですね。それは生命体だけでなく文化もそうでしょう。

アンデス高地のジャガイモ耕作のスタイルを、現代の農業が踏襲することはできません。膨れ上がった地球の人口を養うために、農業の生産性は非常に大切だからです。しかしアンデス高地の人々が何千年という期間で作り出してきたジャガイモとその耕作スタイルには学ぶものが多いと思いました。

続く


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No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


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No.204 - プロキシマ b の発見とスターショット計画 [科学]

いままで科学雑誌「日経サイエンス」の記事に関する話題を何件か書きました。振り返ってリストすると以下の通りです

  No. 50絶対方位言語と里山
  No. 70自己と非自己の科学(2)
  No.102遺伝子組み換え作物のインパクト(1)
  No.105鳥と人間の共生
  No.16910代の脳
  No.170赤ちゃんはRとLを聞き分ける
  No.177自己と非自己の科学:苦味受容体
  No.178野菜は毒だから体によい
  No.184脳の中のGPS

日経サイエンス 2017年5月号.jpg
日経サイエンス 2017.5
なぜ科学に興味があるかというと、科学的な知見が人間社会の理解に大いに役立つことがあると思うからです。その観点でリストをみると、ほとんどが生命科学の記事であることに気づきます(No.50、No.105以外の全部)。また No.50(絶対方位言語)は心理学の話(人間の認知のしくみと言葉の関係)、No.105は人類学の話なので、これらのすべては「生命・人間科学」と一括できます。「生命・人間科学」の知見が人間社会の理解に役立つのは、ある意味では当然でしょう。

しかし「生命・人間科学」とは全く違う分野のサイエンスが社会や人間の理解につながることもあると思うのです。その意味で、今回は全く違った分野である天文学・宇宙物理学の話を書きたいと思います。最近の「日経サイエンス 2017年5月号」に掲載された記事にもとづきます。


アルファ・ケンタウリ


アルファ・ケンタウリという星の名前を知ったのはいつだったか、思い出せません。おそらく小学生の頃だったと思います。理科の図鑑に「宇宙」の説明がありました。地球と月、太陽とその周りの惑星や小惑星、彗星からなる太陽系。その太陽は銀河系に属していて、銀河系は無数の太陽のような恒星からできている。同じような銀河が宇宙にいっぱいある、というような絵と説明でした。

そして太陽から一番近い恒星がアルファ・ケンタウリで、4光年の距離にある。1秒間に地球を7周半する光でも到達するのに4年かかる・・・・・・。興味津々で図鑑に見入っていたような記憶があります。

中学生になってから SF小説を読み始めて以降、アルファ・ケンタウリはたびたび出てきたと思います。宇宙船で行く話もあったはずですが、行かないまでも太陽に最も近い恒星としてよく話に登場したので、アルファ・ケンタウリの名前はなじみのあるものになりました。


アルファ・ケンタウリ恒星系


アルファ・ケンタウリは、ケンタウルス座で最も明るい星(=アルファ星、α星)です。ケンタウルス座は南十字星のすぐそばにあり、本州からは見ませんが沖縄や小笠原からは見えます。α星のアルファ・ケンタウリは非常に明るく、全天でも大犬座のシリウス、りゅうこつ座のカノープスに次いで3番目の明るさです。地球からは約4.3光年の距離にあります。

Alpha Centauri-2.jpg
ヨーロッパ南天天文台(ESO)が運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)から見た南天の様子。ケンタウルス座(Centaurus)の上に南十字星(Crux)が見える。αがアルファ・ケンタウリで、その上にプロキシマ・ケンタウリの位置が示してある。ケンタウルス座の右はコンパス座(Circinus)。
(日経サイエンス 2017年5月号)

アルファ・ケンタウリは肉眼では一つに見えますが、連星です。アルファ・ケンタウリAは、質量が太陽の1.1倍、光度は太陽の1.5倍です。アルファ・ケンタウリBは、質量が太陽の0.9倍、光度は0.5倍です。この二つの星は互いの周りを約80年の周期で回っていて、2つの星の距離は10天文単位(太陽と土星の距離の相当)から40天文単位(太陽と冥王星の距離の相当)の間で変動します。1天文単位(= au)とは太陽と地球の間の平均距離で、約1億5000万kmです。

実はアルファ・ケンタウリは、さらにもう一つ、重力的に結びついた恒星を伴っています。それがプロキシマ・ケンタウリです(アルファ・ケンタウリCとも言う)。つまりアルファ・ケンタウリ恒星系は "3重連星" なのです。

プロキシマ・ケンタウリの質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍で、肉眼では全く見ることができません。アルファ・ケンタウリA・Bの連星とプロキシマ・ケンタウリの距離は1万5000 au(約 0.2光年)もあり、かなり離れています。プロキシマ・ケンタウリはアルファ・ケンタウリA・B連星の周りを回っていますが、その周期は50万年以上と見積られています。

実は、このプロキシマ・ケンタウリは、アルファ・ケンタウリより 0.1光年ほど地球に近い距離にあります。つまり地球に最も近い恒星はプロキシマ・ケンタウリということになります。

アルファ・ケンタウリ恒星系(3重連星)
 ┣━アルファ・ケンタウリ(連星)
 ┃  ┣━アルファ・ケンタウリA
 ┃  ┗━アルファ・ケンタウリB
 ┗━プロキシマ・ケンタウリ
    (=アルファ・ケンタウリC)

Alpha Centauri-3.jpg
アルファ・ケンタウリ恒星系の撮像写真。左の連星がアルファ・ケンタウリで、右がプロキシマ・ケンタウリ。
(日経サイエンス 2017年5月号)


プロキシマb の発見


2016年8月14日、ドイツのミュンヘン近郊にあるESO(ヨーロッパ南天天文台。European Southern Observatory)の本部で重大発表がありました。ESOが運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)での観測で、プロキシマ・ケンタウリに惑星があることが発見されたのです。この惑星は「プロキシマb(プロキシマ・ケンタウリ b)」と命名されました。

いったいどうやって惑星の存在を確認したのでしょうか。惑星がプロキシマ・ケンタウリの周りを公転すると、その公転によってプロキシマ・ケンタウリが僅かながら "揺さぶられ" ます。これは地球と月の関係と同じです。月が地球の周りを回ることによって地球が揺さぶられ、それが潮汐の(一つの)原因になっています。

一般に恒星が惑星の公転の影響で揺さぶられると、その恒星は地球からみて遠ざかったり、近づいたりします。つまり地球からみた速度が周期的に変化する。それによって恒星の放つ光が周期的に短波長(青色)側にずれたり(地球の近づく場合)、長波長(赤色)側にずれたりします。いわゆる「ドップラー偏移」です。この偏移を観測するのです(=ドップラー法)。

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ラ・シヤ天文台で観測したドップラー偏移から計算されたプロキシマ・ケンタウリの速度変化(地球からの視方向の時速)。赤丸が測定値で、縦棒が測定誤差。波形が推測値である。速度は5km/時(1.4m/秒)の振幅があり、約11日の周期で変動する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ドップラー法による観測が始まった1970年代では、判別できる恒星の揺れのスピードは秒速100メートル程度が限界でした。しかし現代では観測精度が格段に向上し、ESOのラ・シヤ天文台の望遠鏡は秒速 1 メートルの速度変化を検出できます。光の速度は秒速30万キロメートル=3億メートルなので、3億分の1の速度変化を検出できるという、ものすごい精度です。プロキシマ・ケンタウリの 1.4m/秒 という速度が検出できたのも、この高精度観測によります。

観測されたプロキシマb の公転周期は約11日、公転軌道半径は 0.05 au(au:天文単位 = 太陽・地球の距離)でした。


プロキシマb はハビタブル・ゾーンにある


さらにこの発表には重要なことがありました。

  発見された惑星・プロキシマb は、プロキシマ・ケンタウリのハビタブル・ゾーンに入っている

のです。ハビタブル・ゾーンとは、惑星表面に水が液体として存在できる暖かさになる公転軌道の範囲です。ハビタブルとは居住(habit)可能という意味ですが、天文学では生命が存在可能という意味で使われます。惑星(表面)に生命が存在するとすると、まず最初の条件としてその惑星がハビタブル・ゾーンに入っていなければならない。太陽系のハビタブル・ゾーンは太陽からの距離が 0.9 ~ 1.4 au の範囲です。金星はハビタブル・ゾーンの内側(0.7 au)であり、火星は外側(1.5 au)です。太陽系では地球だけがハビタブル・ゾーンにあります。

プロキシマ・ケンタウリは太陽よりかなり小さい星で(質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍)、温度も低い。太陽の表面温度は6000K(絶対温度6000度)ですが、プロキシマ・ケンタウリの表面温度は半分の3000Kです。そのためハビタブル・ゾーンも恒星に近接していて、恒星からの距離が 0.05 auというプロキシマb の軌道でもハビタブル・ゾーンに入るのです。太陽系でいうと水星(0.4 au)よりもかなり内側の軌道です。

しかしハビタブル・ゾーンにあるからといって、本当にハビタブルかどうはわかりません。たとえば大気の存在ですが、プロキシマb がプロキシマ・ケンタウリから受ける磁場の影響は地球より遙かに強いため、大気が逃げてしまっている可能性があります。一方、プロキシマb も強い磁場を持っているとすると、そうならないこともありうる。

また主星の非常に近くを周回する惑星・衛星では、ちょうど地球を回る月のように、常に同じ面を主星に向けるという現象がよく起きます。これを「潮汐ロック」と言いますが、惑星で潮汐ロックが起きると、主星に向いている昼側は高熱になり、向いていない夜側は極寒になり(=水が存在しても凍結状態になり)、ハビタブルでは無くなります。しかし潮汐ロックが起きていたとしても、昼側と夜側の境目では大気の循環などで温和な環境があるかもしれない。

つまり、プロキシマb が本当にハビタブルかどうかを調べるためには、ドップラー偏移を調べること以上の観測が必要になります。今、試みられているのは「トランジット観測」です。

もしプロキシマbの公転軌道面が、地球からプロキシマ・ケンタウリを見た方向と平行か平行に近い場合、プロキシマb はプロキシマ・ケンタウリの手前を横切ることになります。これをトランジットと言います。トランジットが起こるとプロキシマ・ケンタウリが少し暗くなる(=減光)。この光を観測することで、プロキシマb の

公転軌道の角度
大きさ
質量
密度

が計算でき、そこから物質組成を推定できます。もしプロキシマb に大気があれば、プロキシマ・ケンタウリの光はそこを通過してくるので、大気の組成の情報が得られます。

プロキシマb のトランジット観測は、現在までには成功していません。これは減光の量が観測精度を越えて小さいのかもしれないし、そもそも公転軌道面が地球から見て平行ではない(=トランジットは起こらない)のかもしれない。

しかしトランジットが起こらないとしても、まだ観測の道はあります。それは観測装置を超高精度化して、プロキシマb を直接撮像するという可能性です。本当にできるかどうかは分かりませんが、挑戦が始まっているところです。プロキシマbは地球に最も近い惑星なので、可能性はあるのです。

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プロキシマb の想像図。明るい星がプロキシマ・ケンタウリ。その右上の連星がアルファ・ケンタウリA・B。
(日経サイエンス 2017年5月号)



とにかく、地球に最も近い恒星に惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにあるというのは大発見です。この惑星のことを詳しく調べたいと思う科学者は多いことでしょう。

そしてまさに現在、アルファ・ケンタウリ恒星系に直接観測装置を送り込む計画が持ち上がっているのです。それが「スターショット計画」です。しかし、地球に最も近いといっても約4光年離れています。光でも4年かかる距離であり、従来の宇宙探査機を送るとすると1万年のオーダーの時間がかかります。いったいどうやって観測機器を送るというのでしょうか。


スターショット計画


スターショット計画の推進者は、ユーリ・ミルナーという人です。ロシア出身で、1961年にモスクワで生まれました。1961年というとガガーリンが人類で初めて宇宙に出た年です。両親はそのガガーリンと同じ名前を息子につけました。「誰も到達したことのない所に行く」という期待を込めたといいます。

ミルナーはアメリカに渡り、シリコンバレーで起業家・投資家として成功し、巨万の富を築きました。その資産は30億ドルと言います。そして彼は「遠くへ行く」という子供の頃からの夢を実現すべく動き出し、初期開発費として1億ドルを拠出し、プロジェクト・チームと顧問委員会を編成しました。

  プロジェクト・チームのエグゼクティヴ・ディレクターは、NASAエイムズ研究センターの元所長のピート・ワーデン(Pete Worden)、技術ディレクターはエイムズ研究センターでワーデンの部下だったピート・クルーパー(Pete Klupar)です。

また顧問委員会の委員長はハーバード大学の天文学科長のアヴィ・ローブ(Avi Loeb)で、委員にはそうそうたるメンバーが名前を連ねています。ホーキング博士やフェイズブックのザッカーバーグCEOも加わっています。

プロジェクト・チームは目標を「アルファ・ケンタウリに無人飛行で観測装置を送り込む」ことに絞り込みました。そして発案したのが「スターショット計画」です。

この計画は2016年4月12日に、ホーキング博士も同席して発表されました。そして全くもって運のよいことに、4ヶ月後の8月14日に「アルファ・ケンタウリ恒星系のプロキシマ・ケンタウリには惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにある」ことが発表されたわけです。この発表によってスターショット計画は、誰も到達したことのない所に行くという「億万長者の道楽」から「太陽系外にある惑星を探査する現状で唯一の計画」に大昇格し、俄然、注目を集めるようになりました。

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スターショット計画の発表会見より。後列左から3人目がユーリ・ミルナー。右から3人目がピート・ワーデン(エグゼクティヴ・ディレクター)、同じく2人目がアヴィ・ローブ(顧問委員会の委員長)。
(site : breakthroughinitiatives.org)

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スターショット計画の想像図
(site : breakthroughinitiatives.org)

アルファ・ケンタウリに送り込む観測装置は「ナノクラフト」と呼ばれ、「ライトセイル」と「スターチップ」から構成されます。ライトセイルは4メートル四方の極薄の "帆" で、光の反射率が 99.999% の物質で出来ています。ライトセイルに搭載するスターチップは1cm程度の多機能コンピュータ・チップで、ここに電源、観測用の各種センサー、地球との通信機能、制御回路のすべてが埋め込まれます。

ナノクラフトは通常のロケットに搭載し、上空6万キロメートルで宇宙空間に放たれます。そのライトセイルに地上の「ライトビーマー」から100ギガワットという超強力なレーザ光を数分間照射し、光速の20%まで加速します。加速したあとはレーザ光を切り、慣性飛行でアルファ・ケンタウリに向かいます。

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スターチップのプロトタイプ。チップの中に各種センサー、地球との通信機能、電源などが埋め込まれる。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ナノクラフトは同じものを多数制作し(1000個以上)、それを搭載したロケットは1日1個の割合で3年間以上にわたってナノクラフトを宇宙空間に放出し続けます。約20年経つと "運のよかった" ナノクラフトはアルファ・ケンタウリの近傍を通り過ぎるはずで(=フライ・バイ)、通り過ぎる数分の間にスターチップのセンサーで観測した結果を4年かけて地球に送り返します。


荒唐無稽 ?


スターショット計画は "気宇壮大" と言うか、壮大すぎて荒唐無稽に見えます。しかしこの計画は現代知られている物理学の法則に合致しています。ここがまず重要なポイントです。

SF小説によくある「恒星間飛行」は、その物理学的根拠が不明だったり、あるいは物理法則を真っ向から否定しているものがほとんどです。しかしこのスターショット計画は一流の科学者が考えた(ないしは顧問としてアドバイスした)計画です。物理学に合致という最低限の条件が守られている。このことが、サイエンス・フィクションではなくて "計画" と言えるゆえんです。

次に重要なのは、スターショット計画に必要な各種の技術は、その基本原理が確立していて実証済みであることです。開発すべき技術は、ライトビーマー、ライトセイル、スターチップの3つです。たとえばこのうちのライトセイルですが、「光を反射することによって進む帆」は、一般的に「宇宙ヨット」と呼ばれています。そして宇宙ヨットはすでに日本のJAXAが開発し、打ち上げて、実運用までしているのです。レーザー光を受けて進むのはなく、太陽光で進む宇宙ヨット(=ソーラー・セイル)です。


JAXAのイカロス


光は波であると同時に粒子としての性質があり、その粒子は「光子」と呼ばれています。光子に質量はありませんが運動量をもつので、光子が当った面、特に光を反射する面は圧力を受けます(=光圧)。帆を宇宙空間に置くと、完全に片面だけに光が当たる状況を作り出せます。つまり光圧による推進力が生まれます。これが宇宙ヨットの原理です。光が当たり続けると、原理的には光速に近い速度まで加速することができます。

宇宙ヨットを提唱したのはロケットの父と呼ばれるロシアのツィオルコフスキーで、1910年代のことでした。しかし20世紀後半、宇宙ロケットが盛んに打ち上げられるようになっても、宇宙ヨットは実現できなかった。それは帆の材料が見つからなかったからです。帆はアルミを蒸着させたフィルムで作りますが、宇宙空間で太陽に向いたアルミの反射面は120度になり、反対側の面は -270度です。つまり極薄のフィルムに400度の温度差ができます。この温度差に耐えられる材料が見つからなかったのです。

ところが "ポリイミド" という高分子材料がロケットの断熱材として1960年代に実用化され、1990年代になると薄くで大面積のポリイミド・フィルムが製造可能になりました。そして2000年代になるとこのフィルムを使った宇宙ヨットが構想されるようになりました。

日本のJAXAは2010年5月21日に、宇宙ヨット「イカロス」を金星に向けて打ち上げました。宇宙ヨットを打ち上げたのは日本だけではありませんが、地球周回軌道を離れて他の惑星に向かったのはイカロスだけです。イカロスの帆は14メートル四方という大きなもので、反射面が太陽を向くように制御され、太陽の光を受けて進みます。イカロスの大きな帆でも太陽光の光圧は非常に小さく、地上で 0.1g の物体が受ける重力とほぼ同じです。

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JAXAの宇宙ヨット、イカロス。太陽光の光圧で進む「ソーラー・セイル」を実証した。帆には極薄のアモルファス・シリコン製の太陽電池を装着していて(青色の部分)、これによる発電実験にも成功した。これは将来、太陽電池の電力によってイオン・エンジンを駆動するための基礎技術となる。さらに帆の周辺は薄膜液晶があり(黄色の部分)、電流をON/OFFすると液晶の透明・不透明が切り替わる。これによって太陽光の光圧が変わり、搭載している燃料噴射装置を使わなくても姿勢制御ができる。この実験にも成功した。
(JAXAのホームぺージより)

イカロスは打ち上げて半年後に金星付近を通過(=フライ・バイ)し、当初予定されていたミッションは全て成功裏に終わりました。現在は地球・金星の間の軌道を約10ヶ月の周期で公転しています。しかしこの間、当初は予想されなかった問題も発生しました。その一つを日経サイエンスから引用します。


半年間の航海で見えてきた想定外の現象がある。1つは帆の形状だ。イカロスの正方形の帆の四隅から伸びる短いワイヤの先には 0.5kg の重りが付いており、それらに十分な遠心力を与えて帆の張りを保つため、毎分1回転以上の回転速度を維持するようにう姿勢制御用のスラスタを使って制御している。想定では、帆はピンと張ってほぼ平面になるはずだったが、搭載した広視野カメラで帆の状態を調べると、帆は平面ではなく、微少なたわみが生じていることがわかった。

中島林彦(日経サイエンス編集部)
協力:森 治(宇宙航空研究開発機構:JAXA)
「日経サイエンス」2017年5月号

宇宙ヨットがまず解決すべき課題は、折り畳んだ状態でロケットに搭載した帆を、宇宙空間でピンと張った状態に開き、それを維持することです。これが難しい。イカロスはそれに成功したのですが、それでも想定外のたわみが生じた。

このたわみの原因と解消策が日経サイエンスに書いてあるのですが、詳細になるので割愛します。要するに、こういった宇宙ヨットに関する細かいノウハウがJAXAには蓄積されているわけです。イカロスの当初のミッションは終わったのですが、JAXAはこれからも運用を続けるようです。帆の耐久性や劣化などについての貴重なデータが得られるかもしれないからです。宇宙ヨットに関しては日本が先進国です。


スターショット計画に実現可能性はあるか


しかし金星に行く宇宙ヨットができても、アルファ・ケンタウリに行く宇宙ヨットができるとは限りません。果たしてスターショット計画に実現の可能性はあるのでしょうか。ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップの、それぞれの実現の難易度はどうなのでしょうか。

 ライトビーマー(レーザー照射装置) 

まずライトビーマーですが、ナノクラフトを光速の20%まで加速するには100ギガワットという超高出力のレーザーが必要です。アメリカ国防総省はこれ以上に強力なレーザーを開発済みですが、その持続時間は1億分の1秒とか1兆分の1秒しかありません。ナノクラフトを光速の20%まで加速するには数分間、最大10分程度レーザー光を照射する必要があります。

解決策としては、10分間程度の連続出力が可能なキロワット級のレーザーを1億個用意し、それを地上に格子状に並べ、レーザー波を一つに集めて位相が揃った状態でナノクラフトに到達させるしかありません。その設置面積は1キロメートル四方になると見積もられています。

複数個の電波アンテナを格子状(=アレイ状)に配置し、集束して位相の揃った一方向の電波にする装置をフェーズド・アレイ・レーダーといい、すでに確立された技術があります。複数の電波の位相を微妙にズラして放射し、任意方向の強い電波を発生させる技術です。同じ原理でレーザー光を放射するのがフェーズド・アレイ・レーザーです。しかし同じ電磁波でも光は電波の数万倍の周波数があり、位相のコントロールが難しい。アメリカ国防総省はすでに完成させていますが、それはレーザーが数十個という規模のようです。ライトビーマーの1億個のレーザーというのは桁違いです。

しかもスターショット計画の場合、大気圏を通過して上空6万キロメートルにあるナノクラフトのライトセイル(4m×4m)にピンポイントで照射する要があり、これには奇跡的な技術革新が必要です。アメリカのサイエンス・ライター、アン・フィンクベイナーの取材記事を「日経サイエンス」から引用します。


1億個のレーザーからの光は大気の自然な乱れによってそれぞれ曲げられる。それでも最終的には、それらすべてを集束して上空6万kmにある4m四方の帆に当てる必要がある。顧問委員会のメンバーで空軍指向性エネルギー兵器部門のOB科学者であるフューゲート(Robert Fugate)は「1億個のレーザーを、乱流大気を通して位相をそろえた形で6000万メートル先にあるメートルサイズの標的に当てることが、現時点での私の関心事だ」と淡々と語る。光は帆から完全に外れるかもしれず、あるいは不均一に当たって帆の一部分が強く押され、帆が転げ回ってビームからずれてしまうだろう。

ここでも考えうる解決策はあるが、その解決策自体が一連の問題をはらむ。大型望遠鏡にすでに使われている「補償光学」という技術だ。大気の乱れによって生じた歪みを、可変形ミラーで作り出した逆向きの歪みで打ち消す。だがこれをスターショットに応用するには大幅な改変が必要だろう。ライトビーマーの場合、可動鏡ではなく、それぞれのレーザーファイバーを微調整することで大気の影響を補正する必要がある。現在の望遠鏡向け補償光学系の分解能は30ミリ秒角だが(ミリ秒角は対象物が天空上で占める大きさの指標)、スターショットの場合、ビームを0.3ミリ秒角の範囲に絞り込む必要がある。前例のない水準だ。

アン・フィンクベイナー
「日経サイエンス」2017年5月号

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地上のライトビーマー(フェーズド・アレイ・レーザー)からレーザー光を照射し、母船から放出されたナノクラフトを加速する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

 ライトセイル(帆) 

次に "ライトセイル" と呼ばれる4m四方の帆ですが、まずこの帆は99.999%の反射率が必要です。反射率が高いということは、それだけレーザー光の反射でよく加速されるということであり、亜光速を目指すナノクラフトとしては当然の要求でしょう。

しかし加速以上に重要な点は「反射されなかった光は熱に変換されてしまう」ことです。超強力レーザーを照射することを考えると、この程度の反射率がないとナノクラフトは一瞬で "燃え尽きて" しまうのです。ちなみにJAXAのイカロスはポリイミド樹脂にアルミを蒸着していますが、反射率は75%~80%です。アルミを徹底的に研磨したとしても反射率は95%程度にしかなりません。

さらにナノクラフトを亜光速に加速するためには、ナノクラフトの重さを数グラムに押さえる必要があります。そのためにはライトセイルの膜の厚さをシャボン玉の膜以下にする必要があると推定されています。シャボン玉の膜厚は1マイクロ・メートル(=ミクロン。1/1000ミリ)以下であり、光の波長に近い極薄ために光の干渉が起こって虹色に見えるわけです。JAXAのイカロスの膜の厚さは7.5マイクロ・メートルです。ライトセイルはその10分の1で作る必要がある。

問題はまだあります。耐久性です。5分~10分で光速度の20%(6万キロメートル/秒)に加速するということは、10万~20万メートル/秒の速度を毎秒加速する(=平均)ということです。この加速度は地球上の重力加速度の1万~2万倍です(=10,000g~20,000g)。瞬間的にはもっと強い加速度がかかると考えられる。ライトセイルはこの加速度に耐える必要があります。

また宇宙空間には微細な塵があります。レーザー照射中に塵で帆に穴があいてはまずく、ライトセイルには強さと耐久性が必要です。

高反射率で耐熱性に優れ、軽く、強くて耐久性があり、とんでもない高価格ではない素材は、まだ存在しません。ここでも奇跡的発明が必要です。

 スターチップ 

スターチップはすべての機能を埋め込んだ "観測装置" ですが、1cm程度の大きさで、重さは 1g 程度に押さえる必要があります。従って、4個搭載予定のカメラ(光センサー)にレンズは使えません。レンズは重すぎるのです。解決策として「平面フーリエ・キャプチャー・アレイ」という小さな回析格子を光センサーの上に配置する方法が検討されています。入射光を波長別にとらえ、チップのコンピュータ処理で望みの焦点距離の像を再構成する技術です。

スターチップには分光計や磁気センサーなどの各種センサーが搭載される予定ですが、難問はアルファ・ケンタウリに到達するまでの電源をどうするかです。現在のところ、暗く冷たい環境で動作し、重さが 1g 未満で、スターチップのすべての機能を実現するだけの十分な電力を得られる電源は存在しません。解決策としては、医療用に使われている小さな原子力電池を改造する方法が考えられています。原子力電池は、半減期の長い放射性同位元素の放射エネルギーを利用する電池で、宇宙探査機や人工衛星、医療(人体に埋め込む小型電池)での利用実績があります。

さらに問題は観測データを地球に送る方法です。方法としては半導体レーザーを使うしかないのですが、4.3光年という距離が問題です。


アルファ・ケンタウリからレーザービームで地球を狙うには非常に高い精度で向きを合わせる必要がある。さらに、4年かけて地球に到達するまでにビームは拡散して薄まり、たった数百個の光子しかとどかない。解決策としては、一定の間隔で飛んでいるスターチップの間で信号をバケツリレーのように受け渡して届ける方法が考えられる。情報を地球に送り返すのが「依然として実に難しい問題だ」と顧問委員を務めるハーバード大学のマンチェスター(Zac Manchester)は言う。

(同上)

スターチップを20年の航行中にガスや塵などの星間物質から守る方法も問題です。


顧問委員を務めるプリンストン大学のドレイン(Bruce Draine)は星間物質をタバコの煙がごく薄くなったようなものだと説明する。だが、その濃度や微粒子のサイズは正確には不明なので、これがもたらす危険は推測しにくい。スターチップと微粒子が光速に近いスピードで衝突すると、小さな傷から完全な破壊まで、様々なダメージが生じるだろう。スターチップのサイズを1cm角として、異星への旅の間に「非常に多数のものと衝突するだろう」とドレインはいう。

保護としてチップを厚さ2mmほどのベリリウム銅でコーティングする方法があるかもしれないが、それでも破壊的な損傷が生じる恐れは残る。

(同上)

スターチップは衝突を生き残るかもしれないし、ダメかもしれない。しかし運がよければ送り出された1000個以上のチップのうちのあるものはアルファ・ケンタウリに到達する・・・・・・。



いずれにせよスターショット計画は、ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップのすべてにおいて「奇跡的な技術革新」が必要であり、これらの全部の技術革新がでることを前提に2040年前後に打ち上げ、その20年後にアルファ・ケンタウリに到達する、そういう計画なのです。


問題は技術だけではない


解決すべき課題は技術だけではありません。打ち上げにかかる費用が問題です。ユーリ・ミルナーが拠出した1億ドルは、あくまで初期開発費用に過ぎません。完成までの費用は不明で、特に「キロワット級のレーザー・1億個」に莫大なお金がかかりそうです。


ハーバード・スミソニアン天体物理学センターのシャルボノー(David Charbonneau)は、このプロジェクトは結局とても高価になり、「米国の国家予算の 5% を注ぎ込まねばならなくなるだろう」という。「アポロ計画と同じ割合だ」。

(同上)

さらに問題はその科学的意義です。プロキシマb の調査は確かに意義がありますが、それが目的だとすると、アルファ・ケンタウリまで行かなくても調査の方法はあるのです。


チップで惑星を撮影することは可能で、磁場を調べ惑星大気を採取することもできるかもしれないが、それらすべてを数分の飛行中に行うことになる。打ち上げまでにかかるのと同じ時間と総費用があれば、「口径12~15メートルの光学望遠鏡を宇宙に上げ、この惑星を何ヶ月も観測して、束の間のフライバイでつかむよりもずっと多くの情報が得られるだろう」とプリンストン大学の天体物理学者スパーゲル(David Spergel)はいう。

(同上)

宇宙空間の望遠鏡(=宇宙望遠鏡)は、すでに1990年から実績があります。つまり「ハッブル宇宙望遠鏡」で、主鏡の口径は2.4メートルです。一方、口径12メートルの地上望遠鏡は実用化されていて、30メートルの望遠鏡もハワイで建設が始まっています(日本も参加)。「口径12~15メートルの宇宙望遠鏡」は、確かに前例がない巨大なものですが、現代の技術で可能であり、費用もスターショット計画よりは少ないはずです。


スターショット計画を推進する理由


以上をまとめると、スターショット計画は、

技術的に実現できる見込みが薄く、

たとえ実現できたとしても、必要資金が膨大で

そのうえ科学的価値は、皆無とは言わないが、あまりない

わけです。要するにこの計画を一言でいうと「バカげている」となるでしょう。しかし推進する側としては、そんなことは百も承知のようです。日経サイエンスでは、このプロジェクトのオーナーであるユーリ・ミルナーの発言を次のように紹介しています。


だが結局のところ、別の星に行きたいという欲求は彼(引用注:ミルナー)も認める通り、その理由を説明できないものだ。「なぜだと問いつめられたら、わからないと答えるしかなくなる。重要であると思うだけだ」。

(同上)

そしてこのような発言は、シリコンバレーの億万長者で天文学には素人のユーリ・ミルナーだからの発言ではないのです。記事を書いたフィンクベイナーによると、プロジェクトを推進する側にいる立派な科学者が、同様の発言をしています。


私が尋ねた人のほぼ全員が同じことを言った。納得していない誰かに対してこの理由を説明することはできない。ただ行きたいのだ。プリンストン大学 宇宙物理学科の名誉教授 ガン(James Gunn)はスターショットが成功する見込みは薄く科学的意義もないと考えているが、それでもこう語る。「私はほとんどの事柄につて合理的な考え方をしているが、遠くを目指すという人間性に関しては理屈では考えられない。私は子供のころから別の星に行くことを夢見てきた」。

(同上)


スターショット計画の意義


以下は日経サイエンスのスターショット計画に関する記事を読んだ感想です。まず思ったのは、スターショット計画の「実現の可能性」や「科学的価値」は薄くても(ほとんど無くても)、その技術開発の過程で興味深い成果が生まれそうだという点です。

アルファ・ケンタウリまでは行けないが、太陽系の惑星には到達できる "簡易ナノクラフト" ができたとします。そうすると、太陽系の探査は格段に進むでしょう。宇宙物理学の新たな成果が続々と出てくるかもしれない。

2017年4月14日、NASAは土星探査機・カッシーニの観測結果から、土星の衛星エンケラドスが水蒸気を吹き出しており、そこには水素が含まれると発表しました。衛星の内部に生命を育む環境が存在する可能性あるとのことです。これを観測したカッシーニは1997年に打ち上げれた探査機で、2004年に土星をまわる軌道に入りました。土星まで7年かかっているわけです。

土星と地球の間を光が進む時間は70分~80分程度です。もし仮に、光の速度の1/1000(ナノクラフトの1/200の速度)に加速できる "簡易ナノクラフト" を土星に向かって発射すると、50日程度で到達できる計算になります。太陽系の探査が格段に進むのではないでしょうか。スターショット計画ならぬ、「サターン・ショット計画」や「ジュピター・ショット計画」です。

ライトビーマーについて言うと、顧問委員としてアメリカ空軍の指向性エネルギー兵器部門の出身者が加わっているように、これは軍事技術そのものです。しかし技術には2面性があります。こういった技術が地球の周りを周回している「宇宙ゴミ」の除去に役立つかもしれない。

スターチップを開発する過程では、超小型電源や各種のセンサー、省電力の半導体レーザー技術が開発されるはずですが、これらを簡易化・低コスト化したものは地上におけるセンサーとして役立つと考えられます。IoTと言われる時代、こういうったチップ型センサーの役割は大きいのでです。

億万長者が何にお金を使おうと本人の自由で、ミルナーはポンと1億ドル = 約100億円を拠出しました。これはあくまで初期開発費用であり、第1ステップの技術開発費用です。1億ドルが尽きたとき、次のステップに進めるかどうかは大いに疑わしい。しかし仮にこの計画が第1ステップだけで終わったとしても、他に応用可能な新技術が生まれる可能性が高いと思います。それは1億ドルに見合わないかも知れないが、もしそうなればミルナーの名前とスターショット計画は "伝説" として科学史に残るでしょう。



振り返ってみると、研究者の「興味」「好奇心」「探求心」「理由は言えないが大切だという思い」を原動力とし、それが社会にどういう恩恵をもたらすかは不明なままに始まったプロジェクトや研究で、結果として社会に大きなインパクトを与えた例は多いわけです。もちろん興味だけで終わってしまうも多数あるし、逆に明確な目的意識をもった研究も多い(青色半導体レーザーなどはそうでしょう)。しかしそれだけではない。

スターショット計画とはスケールが全く違いますが、このブログで書いたリチウムイオン電池の発明物語を思い出しました(No.39「リチウムイオン電池とノーベル賞」)。旭化成の吉野彰氏が世界で初めてリチウムイオン電池を作ったのですが、そのトリガーを引いたのは、白川英樹・筑波大名誉教授が1977年に発見した導電性ポリアセチレンでした。吉野氏はこれを負極に使ってリチウムイオン電池の原型を完成せた(1983)。その吉野氏も「導電性ポリアセチレンを使った新素材」の研究から入ったわけで、電池に使おうとは(当初は)思っていなかったのです。

なぜ白川先生が導電性ポリアセチレンの発見に至ったかというと「何に使えるか分からないけれど、電気を通す高分子に興味があったから」です。2000年にノーベル化学賞を受賞したあと、白川先生はそう語っています(No.39参照)。研究者の興味や好奇心が、結果として想定外の発明につながり、社会に大きなインパクトを与えたわけです。



スターショット計画はあまりにも壮大であり、どう考えたらよいか、評価に迷うところです。推進者のミルナーにとって科学観測はあくまで付帯的なものであり、アルファ・ケンタウリに到達したという何らかの証拠が得られればそれで満足なのでしょう。

しかしこの計画が、参画している科学者の探求心や好奇心、「理由は言えないが大切だという思い」に支えられていることは確かだと思います。そのマインドは科学の発展にとって極めて大切なことです。スターショット計画の記者発表会に出席したスティーブン・ホーキング博士は、そのことを言いたかったのでは、と思いました。




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No.203 - ローマ人の "究極の娯楽" [歴史]

今まで古代ローマに関する記事をいくつか書きました。リストすると次の通りです。

  No. 24ローマ人の物語(1)寛容と非寛容
  No. 25ローマ人の物語(2)宗教の破壊
  No. 26ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ
  No. 27ローマ人の物語(4)帝国の末路
  No.112ローマ人のコンクリート(1)技術
  No.113ローマ人のコンクリート(2)光と影
  No.123ローマ帝国の盛衰とインフラ
  No.162奴隷のしつけ方

発端は、No.24-No.27 で塩野七生氏の大作『ローマ人の物語』の感想を書いたことでした。ローマ人の宗教だけに絞った感想です。また、No.112、113、123 はインフラストラクチャ(のうちの建造物)の話で、その建設に活躍した古代ローマのコンクリートの技術のことも書きました。No.162 は奴隷制度の実態です。

今回はこの継続で、古代ローマの円形闘技場で繰り広げられた闘技会のことを書きたいと思います。「宗教 = ローマ固有の多神教・キリスト教」や「巨大建造物・コンクリート技術」は、古代ローマそのままではないにしろ現代にも相当物があり、私たちが想像しやすいものです。奴隷制度は現代では(原則的に)ありませんが、奴隷的労働はあるので、それも想像しやすい。

しかし大観衆が見守る円形闘技場での "剣闘士の殺し合い" は現代人の想像を越えていて、そこが非常に興味を引くところです。ボクシングの試合で相手を倒すのとは訳が違う。その想像を越えたところに古代ローマの(一つの)特徴があると思うし、歴史から学ぶポイントもあるかもしれないと思うのです。

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今までのブログで円形闘技場での闘技会について触れたことがありました。No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」で書いたユリウス・カエサルの話です。カエサルは財務官に当選したとき(BC.65 カエサル35歳)、ローマで一番の資産家であったクラッススから2500万セステルティウスを借金し、当選祝いに320組の剣闘士を借り切った闘技会を開催しました。のべ25万人のローマ市民を集めたこの闘技会で、カエサルは借金を全部使い切りました。2500万セステルティウスという金額は、現在の貨幣価値にして約30億円程度です。この記述は、本村凌二『はじめて読む人のローマ史 1200年』祥伝社(2014)によったのですが、塩野七生氏も『ローマ人の物語』でこの闘技会のことを書いていました。


320組となれば、640人になる剣闘士を(カエサルは)借り切ったことになる。しかも剣闘士たちには、右腕を守るために着ける腕鎧うでよろいを、すべて銀で制作して着用させた。試合場に出たときに、陽光を浴びて光り輝く効果を狙ったのである。


これは、当時のローマの貴族階級の財力がものすごかったという例として引用したのですが、では、その剣闘士の闘技会とはどいうものだったか、それが以降です。


差し下ろされた親指


古代ローマの剣闘士(=グラディエーター)を描いた絵画として、ジャン = レオン・ジェロームの傑作『差し下ろされた親指』(1872)があります。まず例によって中野京子さんの解説で、この絵を見ていきたいと思います。引用にあたっては漢数字を算用数字に置き換えました。一部段落を増やしたところがあります。

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ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
差し下ろされた親指」(1872)
(フェニックス美術館。米:アリゾナ州)


周囲 524メートル、4層のアリーナに5万人を収容できるコロセウムは、びっしり人で埋まっている。建物に屋根はなく、日よけのカンバス地が掛けられていたが、画面に布自体は描かれていない。その代り隙間すきまから強い日差しが落ちていることを、幾筋もの光線が物語る。


画家は歴史考証を踏まえて描いています。画面に描かれた数本の白っぽい筋は何かと思ってしまいますが、これはコロセウムの上を覆う天幕の間から漏れてくる光線なのですね。実際にこのように見えるかどうかはともかく、歴史を踏まえて描いていることを示していて、画家の芸の細かいところです。


砂の敷きつめられたグラウンドでは、戦闘はすでに終わっている。勝ち残った金兜きんかぶとの剣闘士が、瀕死ひんしの敵の喉首を片足で踏みつけ、顔をあげたところだ。最前列に座る白いストーラ姿の女性全員と、すぐ後ろの席の男たちのほとんどが、親指を下に向ける激しい身振り(サムズダウン thumbs down)とともに「殺せ、殺せ」を大合唱している。胸を刺されて倒れた敗者にもその声は届き、慈悲じひうように最後の力を振りしぼって右腕を伸ばすのだが、砂地を赤く染める血に興奮した彼らはヒートアップする一方だ。

(同上)

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中野さんが指摘しているのですが、画家はサムズダウンをしている右手の観客たちの表情を意図的に醜く描いています。そして上段の男性観客ですが、中には沈痛な表情の老人も混じっている(上の部分図の左上の男など)。敗者を応援していたのでしょうか。それに呼応するかように左手のアリーナ観客は、ヒートアップしている右手の観客とは様子が違うのです。


勝者はとどめを刺すのか?

まだわからない。なぜなら左側のアリーナにいる観客の誰ひとり、サムズダウンをしていない。それどころか身を乗り出して、右側前列の異様なたかぶりに非難の、あるいはいぶかしげな視線を送っている。敗者は立派に戦った。殺すまでもない、と考えていたのかもしれない。

決定は皇帝がくだす。

画面やや左に突き出たボックス席がある。その左半分は4本の円柱で囲まれている。手前の太い円柱は、翼を拡げたわしの装飾をいただく。手すりにも鷲が太陽といっしょに刺繍ししゅうされた深紅の垂れ幕が下がる。鷲は皇帝のシンボルなので、ここが皇帝の定席だ。金ぴかの大きな椅子に座り、これまた金でまれた月桂冠をかぶった皇帝は、右手を上げかけてはいるものの、親指はまだ見えない。サムズダウンで殺せと命じるつもりか、サムズアップ(thumbs up)で慈悲を示すのか。

(同上)

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まさに劇的瞬間というのでしょうか。「殺せ、殺せ」と叫ぶ右側のアリーナの観客、それには同調していない左のアリーナの観客、そして描かれていない皇帝の親指・・・・・・。補足しますと、中野さんが「決定は皇帝がくだす」と書いているのは、詳しく言うと、

  決定は闘技会の "主催者"(=エーディトル)が下す。この絵の場合、主催者は皇帝

ということであり、それが正しい理解の仕方です。カエサルが主催者の闘技会だと、敗者の生死を決めるのは費用を負担したカエサルです。


皇帝にしても、必ずしも自分の気分だけで親指を上げ下げできたわけではない。観客が皆サムズダウンしているのにアップするなら、またその逆なら、それ相応の納得させる理由がないと大衆人気を失う。失うと政敵に付け入られ、引きずり下ろされたり、コンモドス(引用注:映画「グラディエーター」に登場するローマ皇帝。2世紀末)のように暗殺されるかもしれない。

本作の皇帝はいったいどんな結論を出すのだろう?

今のところごく一部の者がサムズダウンしているだけだが、逆にサムズアップしている者もいないので、血を求める激しい渇望かつぼうが次第に場内に感染してゆくと、爆発的な「殺せ」コールに変わらないとも限らない。慈悲を求める声というのは、アドレナリンの噴出している相手に対していつだってか細すぎるものなのだ。

(同上)

中野さんによると、画家・ジェロームはこの絵で敗者を美形に描いているといいます。思想家・セネカの「もっとも価値のある剣闘士は美形の者だ」という言葉が思い出されると・・・・・・。しかし画家が敗者を美形に描いたのには、さらに理由があります。それはこの敗者が「投網とあみ闘士」だからです。


ジェロームは万全の歴史考証を踏まえて作品を制作する画家だった。

勝者の金兜に魚の装飾がほどこされているのがわかる。よく見ると右腕を守るそで防具はうろこ状だし、弱い腹を守る帯にも魚の文様が付いている。これは彼が「魚兜闘士」だからだ。剣闘士は武装の種類によって、「長槍闘士」だの「騎馬闘士」だのに分けられていた。

魚兜闘士は一番人気で、武器はローマ軍歩兵と同じ剣とたて。画中の勝者が右手に握る真っ直ぐな両刃もろはの短剣はグラディウスと呼ばれ、グラディエーターの語はここからきた。日本の細身の刀と違い、もっぱら突いて使う。盾も必須だ。この絵は円盾の内側が描かれており、使用法がよくわかる。手首と腕の二ヵ所をベルトで固定し、いわば鋼鉄化したひじで守りと攻めを同時にできる。

一方の敗者は「投網とあみ闘士」。名のとおり漁師の持つ投げ網と、海神ポセイドンのアトリビュート(そのい人を特定する持ち物)たる三叉鉾さんさほこで戦う。それらの武器は今や彼同様無力化され投げ出され、半ば砂に埋もれている。この「投網闘士」は盾の代わりに青銅製の防具を肩にかけ、兜もかぶらなかった。そのため戦闘中にも観衆から顔が見え、どうせ見るならばと、興業主はハンサムな若者を選んだという。先述したセネカの言葉どおりであり、ジェロームが美形に描いた理由もこれだ。

(同上)

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魚兜闘士の肘防具にも注目したいと思います。カエサルは財務官就任記念に開催した「大闘技会」で、640人の剣闘士全員に銀製の腕鎧(肘防具)を新調して着用させたと『ローマ人の物語』で塩野七生氏が書いていました(最初の引用)。この絵を見るとその意味がよく分かります。陽光にきらめく銀の効果です。

もう一つこの絵で気づかされるのは、魚兜闘士と投網闘士が戦っていることです。つまり魚と漁師が戦っている。これは興業的なおもしろさを狙ったと考えられますが、単に「魚と漁師」のおもしろさだけではないでしょう。武器が違います。武器にはそれぞれ長所・短所があります。つまりこの絵の試合は、現代でいうと異種格闘技の試合のようなものだと思います。空手とプロレスのどっちが強いか、みたいな・・・・・・。あるいは時代劇に出てくる日本刀(ヒーロー)と鎖鎌(悪役)の戦いです。異種の武器での戦いは観衆の興味を大いに引いたと考えられます。

我々は剣闘士の試合というと、奴隷同士が戦ったというイメージが強いのですが(スタンリー・キューブリック監督の「スパルタカス」という映画がありました)、ローマも帝政の時代になると変質していったようです。


現代のプロスポーツ選手のように、いや、それをはるかに上回る大衆の支持が、強い剣闘士に集中した。強ければ強いほど、さらに美しければ美しいほど、人々は熱狂した。当然ながら剣闘士という職業にも人気が出る。

ローマ時代の共和制期には奴隷や罪人、下層階級出身者ばかりで、「剣奴けんど」の訳がふさわしかったが、帝政期になるとさま変わりしていた。自由市民の中から自らの意志で剣闘士になる者まで出てきたのだ。時には皇帝自ら出場して剣をふるい、矢を射た。コンモドス帝もヘラクレスに扮して何度も戦っている(いかなる場合でも自分が勝ように算段してあったが)。

人気剣闘士は結婚もできた。皇帝から木剣ぼつけんを授与されて自由を与えられた例も少なくない。彼らはたいてい剣闘士を養成する学校を作ったり訓練師になったり、あるいは自身の剣闘士団を持って巡業した。そうした興業こうぎょう形態が確立すると、時間と費用をかけて育てあげた剣闘士を軽々けいけいに殺されたくないのは理の当然だ。傭兵ようへい同士の戦争と同じで、常に徹底的な殺し合いを行うのは双方にとって損失が大きすぎる。

殺戮さつりくを見たい観衆に投げるえさとしての犠牲者はいくらでもいた。なにしろローマ帝国は領土拡大によって大量の戦争捕虜を手に入れていたので、異民族の若く屈強な男を奴隷剣闘士にして殺せば反乱も防げて一石二鳥なのだ。スター・グラディエーターはローマ人でまかなう。そのあたりは観客と興業主の駆け引きがあった。

(同上)

このジェロームの絵は、映画『グラディエーター』の制作に一役買ったようです。20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は・・・・・・。


制作サイドは監督にリドリー・スコットを望んだ。『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『白い嵐』など、芸術性とエンターテインメント性を合体させたヒット作を連打していたスコットなら、古代ローマものを再創造してくれるに違いない、と。

だがスコットは最初はあまり乗り気ではなかったらしい。そこで制作総指揮者は彼に『差し下された親指』を見せた。フランスのジェロームが百年以上も昔に発表した歴史画である。後にスコット曰く、「ローマ帝国の栄光と邪悪じゃあくを物語るこの絵を目にした途端、わたしはこの時代のとりこになった」(映画パンフレットより)。

こうして完成された『グラディエーター』(2000年公開)は、アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ラッセル・クロウ)、衣装デザイン賞などいくつも獲得し、全世界で大ヒットを記録した。剣闘士同士の息もつかせぬ戦闘シーンとリアルな迫力に、一枚の絵が運命的な役割を果たしたということになる。

(同上)

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2000年前に5万人を収容できるアリーナを建設できる圧倒的な技術力と高度な文明、そのアリーナで繰り広げられる "人間同士の殺し合いショー" と、瀕死の敗者を殺せと連呼する観衆・・・・・・。リドリー・スコット監督は「栄光と邪悪」と言っていますが、この絵が表しているものはまさにそうだし、現代人が古代ローマの歴史に惹かれる理由もそこなのでしょう。

ちなみに cinemareview.com の記事によると『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサは、スコット監督に脚本を見せる以前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそもプロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だと言います。この絵にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるのでしょう。


皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち


画家のジェロームは『差し下ろされた親指』(1872)より以前にも剣闘士をテーマとした作品を描いています。『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』という作品です。

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ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」(1859)
(イェール大学アート・ギャラリー。米:コネチカット州)

この絵を所有しているイェール大学アート・ギャラリーの公式サイトにもあるのですが、ジェロームは歴史考証を踏まえてこの絵を描いています。その考証の一つですが、この絵にはコロセウムを覆う天幕が描かれていて、その構造がよくわかります。中心部を円形にあけ、その周りにアリーナの最高部まで部分的に布が張られる。布の下の観客席は日陰になり、闘技舞台には日光が差し込むというわけです。『差し下ろされた親指』もそういう絵になっていました。ユリウス・カエサルの闘技会のように剣闘士が銀製の腕鎧をつけたとしたら、陽光が銀に反射して日陰の観客席にきらめき、その効果は抜群だったと想像できます。

この絵の原題は「Ave Caesar, Morituri te Slutant」というラテン語で、「皇帝万歳! 我ら死にゆく者が敬意を捧げます」というような意味です。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」にある語句です(第5巻 クラウディウス帝)。その「皇帝万歳」と叫ぶ剣闘士たちは、描かれた盾と三叉鉾の数から4人の魚兜闘士と4人の投網闘士でしょう。皇帝に敬意を表してから試合に臨むようです。

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画面の左手前には、試合が終わった投網闘士と網をかぶせられた魚兜闘士の2人が倒れています。相討ちになったのでしょうか。そのうしろ方のハイライトの部分では、奴隷が剣闘士の死体を引きずってアリーナから出そうとしています。

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『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』は、13年後に描かれた『差し下ろされた親指』と似ています。ともに剣闘士と皇帝を低い位置からとらえた構図であり、あえて試合中の剣闘士を描かず、魚兜闘士と投網闘士の武器や防具、そしてアリーナの構造が歴史考証をもとに描かれています。しかし明らかに試合の決着がついた直後、生か死かという瞬間を描いた『差し下ろされた親指』の方が劇的です。殺せと叫ぶ観衆を間近に描いたのもインパクトがある。アリーナの巨大さを実感できる空や天幕を描くのをあきらめざるを得なかったが、その代わりに天幕から漏れてくる光の筋を描き込んだ。2つの絵を比べると『差し下ろされた親指』を制作した画家の意欲が分かるのでした。



補足ですが、古代ローマの剣闘士については Wikipedia日本版に詳しい情報があります。また画家のジェロームについては、以前の記事で次の3つの作品をとりあげました。
  『奴隷市場』No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」
  『虎と子虎』No.94「貴婦人・虎・うさぎ」
  『仮面舞踏会後の決闘』No.114「道化とピエロ」


野獣狩り


最初に引用した塩野七生氏の「ローマ人の物語」の他に、このブログで古代ローマの闘技会について引用したことがあります。ウィリアム・ソウルゼンバーグの「捕食者なき世界」にあった、"人間が大型捕食動物を根絶してきた歴史" です(No.127「捕食者なき世界 2」)。人間が大型動物を狩る第一の理由は食料を確保するためでしたが、歴史を振り返ると理由はそれだけではありません。


大型捕食動物を根絶しようとする強い動機がも、少なくとももう一つあった。猛獣を殺すのは、最高に楽しい娯楽だったのだ。都市化が進み、平凡な仕事が多くなると、人々は刺激のない生活に退屈するようになった。

ローマ人は巨大な円形闘技場コロセッウムを建設し、はるばるメソポタミアやアフリカから何千頭ものゾウやカバやライオンを連れてきて、大がかりな見せ物として殺すようになった。ローマのコロッセウムでは、1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった。ライオン500頭というのが、現在アジアに生息するライオンを一掃する以上の数であることを思うと、その数の多さが実感できる。


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ソウルゼンバーグが書いているのは、円形闘技場で行われた「野獣狩り」のことです。それは「最高に楽しい娯楽」でした。このあたりの歴史を別の本から引用してみたいと思います。

アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(関口英子訳。河出書房新社 2010)は最新の歴史研究を踏まえて、紀元115年のトラヤヌス帝の時代のローマの一日を民衆の視点からの「実況中継風の記述」とその「解説」で綴った本です。以前の No.26「ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ」では "ウェスタの巫女" に出会う部分を引用したのですが、この本には円形闘技場の描写も出てきます。以下にその記述を引用します。


まだ午前中だというのに、喚声をあげて応援しながら見守る何千人もの観衆の視線が、その一挙手一投足に注がれる・・・・・・。

コロッセウムでの闘技がはじまったのだ。一日の最初の見せ物は野獣狩り(ウェナティオ)である。剣闘士と剣闘士の闘いではなく、人間と野獣の闘いだ。コロッセウムだけでなく、帝国のどこの円形闘技場でも見せ物の順番は同じだ。最初に野獣狩り、続いて犯罪人の公開処刑、そして午後になるとようやく、待ちに待った剣闘士どうしの闘いがはじまる


円形闘技場での剣闘士の闘技会の前には、実は "前座" があったわけです。前座の最初は「野獣狩り」です。


コロッセウムをはじめ、帝国の各所に点在していた円形闘技場では、膨大な数の動物が殺された。ときには、弓矢をもった闘獣士が鹿やガゼルを倒す光景もみられた。また、ダチョウなどの外来の動物が殺されることもあった(中略)。場合によっては、両者がほとんど互角の闘いも繰り広げられた。剣闘士の服装をした数人の男が、かぶと、盾、剣で武装して、ライオンやヒョウや熊の攻撃をかわし、相手を倒さなければならなかったのだ。

「古代ローマ人の24時間」第35章

野獣狩りは闘獣士が野獣を "狩る" というショーですが、中には闘獣士と野獣の "互角の闘い" もあった。その互角の闘いをする猛獣の例として、当時有名だったウィクトルという名前のヒョウの話が出てきます。


一般的に考えられているのとはことなり、ウィクトルは空腹だから相手を攻撃しているのではない。コロッセウムで闘っている野獣はすべてそうだが、幼時の時に捕まえられ、特別な飼育を受け、闘犬と同じようにひたすら相手を攻撃するよううに調教されてきたのだ。相手のどこをどのように襲うべきなのかを教えこまれている。それでなくてもヒョウは、人間を襲うときにいきなり喉を狙うという恐ろしい習性がある。喉に牙を突き刺し、力強い両足の爪で胸部を掻きむしり、引き裂くのだ。

このような被害は現代でも見られる。以前、古生物関係の発掘調査のため、アフリカに滞在していた時に出会った医師から聞いたことがある。ライオンに襲われた人が病院に運ばれてきた場合は助かる可能性もおあるが(ライオンは咬みついてふりまわすだけの場合が多い)、ヒョウに襲われた場合、病院に運ばれてきた時にはすでに死んでいるそうだ。

ヒョウに罪があるわけではない。たまたま肉食動物に生まれつき、自然の摂理にしたがっているだけだ。だがコロッセウムでは、ヒョウの生まれつきの攻撃性が調教師によって大きく歪められ、見せ物のために利用される。まさに「殺戮機械」に改造されてしまった動物なのだ。ウィクトルは闘いで多くの闘獣士を死に至らしめただけでなく、調教する際の「標的」役をさせられた奴隷を何人も殺してきた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

単に闘獣士が動物を殺すだけの "野獣狩り" よりも、闘獣士と猛獣のどちらが勝つかわからない「互角」の闘いの方がショーとしての価値があるわけです。「古代ローマ人の24時間」にはスピッタラという名前の闘獣士とヒョウのウィクトルが闘う場面がでてくるのですが、闘獣士は鎧も兜も剣も無しにすね当てだけをつけ、1本の槍でヒョウと闘います。これもショーをおもしろくする工夫でしょう。完全武装ではつまらない。


帝国内のおもな円形闘技場で、トラに代表される外来動物を頻繁に用いたことで、ヨーロッパ、北アフリカ、中東の野生動物は次第に減少し、絶滅した種も少なくなかった。捕獲された各種の動物(クロコダイルやサイを含む)のうち、荷車に乗せられたり、船倉に詰めこまれたりして長旅を続けたあげく、生きて目的地に到着できたのはほんの一部でしかなかったことも要因になっていた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

ローマ帝国の特別のイベントでは、多数の剣闘士が殺されると同時に、夥しい数の野獣も殺されたようです。


紀元80年には、ウェスパヌシアス帝の息子で後継者のティトス帝によってコロッセウムの落成式が行われ、100日間でじつに5000頭もの猛獣が殺されたことがあった。

そのほか、私たちが探索している時代に関連する出来事としては、トラヤヌス帝のダキアに対する勝利の祝賀会がある。この時、コロッセウムは120日間も連続して使用され、その間、12,000頭もの野獣と1万人もの剣闘士が殺された。

「古代ローマ人の24時間」第43章

ソウルゼンバーグは「1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった」と書いていましたが(=1日に1000頭を殺害)、いかにありそうです。


公開処刑


前座の第2弾は犯罪人の公開処刑です。『古代ローマ人の24時間』には、後ろ手に縛られた罪人を2人の死刑執行人がコロッセウムの闘技場に連れ出す場面が描写されています。コロッセウムでは数万人の観衆がざわめいています。罪人が受けた判決は「猛獣による食い殺しの刑」です。


罪人は自分の最期が近づいてくるのを見た。大きくて迫力に満ちたライオンの頭・・・・・・。なかでも恐ろしいのは、爛々らんらんと輝くハシバミ色の目だ。その目には慈悲のかけらもない。

あらんかぎりの声で叫ぶ罪人。一歩も進むまいと両足を踏ん張り、身体を強張らせている。だが、死刑執行人二人の力にはかなわない。一人は慣れた手つきで罪人の縮れた髪の毛をつかみ、餌を差し出すかのように野獣に向かって突き出す。もう一人はまるで蹴破られまいと必死でドアを押さえているように、罪人の背後で身を隠している。その体勢で罪人を猛獣のほうへ押し出しているのだ。罪人の両手をしっかりを押さえ、頭巾をかぶった頭を低くして、がぶりと咬みつく瞬間を待っている。

獲物に飛びかかる直前、ライオンは歩みを速め、まったく音を立てずに動く。目を閉じ、顔をそむける罪人。ライオンの足が地面から離れ、飛びかかる瞬間、息をのむ観衆。断末魔の叫び・・・・・・。

すべてが一瞬の出来事だった。つかんでいた手を放し、身をかわす死刑執行人。ライオンの白い牙が見える。顔面に生ぬるい息を感じたと思った瞬間、罪人は野獣の下敷きになっていた。

観衆のどよめきのなか、身の毛もよだつショーが展開する(以下、省略)。

「古代ローマ人の24時間」第40章

コロッセウムにおける公開処刑は、上に引用したような "単純な" もの以外に、見せ物・ショーとしての "演出" がされることもありました。


観衆は、しばしば「思いがけない演出」が処刑に隠されているのを知っていて、それを大いに期待していた。そのため、主催者はときに奇抜な舞台装置を準備し、神話や歴史的な筋書きに添った処刑を実施することもあった。(中略)

こうして、たとえばイカロスが飛ぼうとする場面が再現されることになる。失敗終わるイカロスの飛翔を真似た罪人が、まっさかさまに落ちていき、地面に激突し、列席している皇帝の上にまで血しぶきが飛び散る。これはスエトニウスの記述によるものだ。(中略)

マルティアリスはコロッセウムの落成式でオルフェウスの神話が再現されたと記している。神話では、エウリュディケの死に失望したオルフェウスが、その歌声で猛獣をてなずけたとされている。それを模して、アレーナ(闘技舞台)の床下から徐々にせりあがってくる岩山や木々のある舞台装置(数ある特殊効果のひとつだった)の中に、多くの野獣と一緒に罪人が放置された。だが残念になことに、罪人は熊を手なずけることができなかった。観衆の狂喜のなか、「歌い手は、恩知らずな熊にずたずたに引き裂かれた」とマルティアリスは記している。

「古代ローマ人の24時間」第40章

こういう記述を読むと、古代ローマの文明のレベルの高さが直感できます。まず観衆はギリシャ神話を知っているわけです。知っているからこそ演出としての価値が出てくる。さらに引用にあるコロッセウムの有名な「せり上がり舞台」の仕組みも、それが2000年前だと考えるとすごいものだと思います。

  蛇足ですが、現代の "アリーナ" は「舞台」の部分とそのまわりを取り囲む観客席の部分の両方を言いますが、語源となった "アレーナ" は「舞台」だけを指すようです。

この記述から、よく言われるローマ帝国における「キリスト教徒迫害」を思い出しました。キリスト教徒は捕らえられ、闘技場に引き出され、猛獣の餌食になったと・・・・・・。決まって引き合いに出される悪役は皇帝ネロです。しかし注意すべきは、古代ローマにおける猛獣刑は "死刑と決まった罪人" を処刑する方法の一つだったことです。キリスト教徒だけが猛獣刑にあったわけではありません。ちなみに弾圧された宗教もキリスト教だけでもありません。紀元前186年のディオニュソス教徒の弾圧では7000人が処刑されたと、古代ローマの歴史家が書いています(No.24「ローマ人の物語(1)寛容と非寛容」)。



歴史をひもとくと、公開処刑は古代ローマだけでなく日本を含む世界各国で行われてきました。現代でも東アジアの某国や中東のある種の国では行われています。むしろ「見せしめ」や「戒め」のために、罪人の処刑は公開が原則だったと言えるでしょう。

しかし古代ローマの公開処刑の特徴は、それが見せ物、ショー、エンターテインメントとして実施されたことです。しかも最大数万人の観衆の注視の中でのショーであり、演出上の工夫があり、猛獣刑の場合は食いちぎられた人体のパーツがアレーナに散乱する陰惨な光景で終わる見せ物です。こういった例は世界史でも希有でしょう。


剣闘士の戦い


「野獣狩り」と「公開処刑」という前座が終わると、いよいよ待ちに待った剣闘士の闘いが始まります。

ジェロームが『差し下ろされた親指』で描いたのは、魚兜闘士と投網闘士の戦いでした。『古代ローマ人の24時間』では「魚剣闘士」(=ムルミッロ)と「投網剣闘士」(=レティアリウス)と訳されています。そして魚剣闘士と投網剣闘士の戦いの様子が、剣闘士の視点で描写されています。魚剣闘士の名前はアステュアナクス、投網剣闘士の名前はカレンディオです。魚剣闘士の装備は兜、盾、腕当て、両刃の短剣(グラディウス)であり、投網剣闘士は投網と三叉鉾、肩防具、短剣(とどめを刺すために使用)で、兜は無しです。

戦いが始まるとすぐ、投網剣闘士は魚剣闘士の周りをぐるぐる走り回ります。


以下の戦いの様子は実話であり、名前も実在した剣闘士のものだ。

突然投網剣闘士カレンディオの動きが止まり、向きを変えるかのように身を屈めた。だが、これは策略であり、網を投げる準備をしているのだ。実際、相手の隙をついてカレンディオの身体が伸び、稲妻のような速さで網を投げつける。すべてが一瞬の出来事だった。

魚剣闘士のアステュアナクスは、背中に何か重いものがのしかかってくるのを感じた。まるで何かが上から落ちてきて、押さえつけているかのような感覚だ。兜の格子の向こうに、目の粗い網が見えた。漁で用いられる網とは異なり、わざと重みをかけて剣闘士を動けなくするように工夫された特殊な網だ。なにかの生き物に捕まえられ、死の抱擁を受けているようだ。

「古代ローマ人の24時間」第44章

投網剣闘士のカレンディオは、すぐには攻撃しません。相手が網から逃れようともがくうちに、ますます網に絡まるか、あるいはつまづく。それを待っているのです。


投網剣闘士カレンディオの最初の一撃は、高い位置に飛んできた。肩と喉のあいだを狙ったようだ。網の重みのせいで、盾が下がりぎみになっているのを見越してのことだろう。アステュアナクスの肩に痛みが走った。鋭い三叉の先端が、まるで稲妻のように網の目をすり抜け、肩をかすめたのだ。しかし教官に教わった「低い構え」のおかげて致命傷にはならずにすんだ。身につけている腕当ても突きを弱めてくれた。腕あての金属製の小札こざねから血が流れているものの、試合が中断されるほどの深手ではない。

観客は流れでる血に気づき、熱狂する。

「古代ローマ人の24時間」第44章

「教官」と出てきますが、これは剣闘士養成所の教官という意味です。剣闘士は養成所での厳しい訓練を経てきているのです。二人は投網剣闘士が有利のうちに一進一退を繰り返すのですが、途中で状況が変わります。


ここで、観客をあっといわせるハプニングが起こった。アステュアナクスはおかしなことに気づく。カレンディオが前へ後ろへと、繰り返し三叉を動かしているのだ。一瞬、自分が攻撃され、カレンディオに肉をずたずたに突き刺されているのに、緊張のあまり痛みを感じていないのかもしれないという恐怖にかられる・・・・・・。

だが、そうではなかった。網があちこりに引っ張られるのを感じ、アステュアナクスは何が起こったのかを理解した。完璧な一撃を狙うあまり、カレンディオは三叉で網目の中心を突き、抜けなくなってしまったのだ。自分自身の網に捕らわれた恰好になり、なんとかして三叉を網から外そうと必死になっている。だが、外れないばかりか、動けば動くほど状況がひどくなる。漁師が自分の網にかかってしまったわけだ。

アステュアナクスは、またとない挽回のチャンスだと見てとった。焦るあまり、長い三叉を網から外すことしか頭にないカレンディオを引きずったまま、勢いよく三歩か四歩後ろに下がる。そして、胸いっぱいに息を吸いこむと、カレンディオに襲いかかる。盾がカレンディオの身体に触れた瞬間、アステュアナクスは思い切り短剣を突き立てた。ほとんど反射的な動きだったにもかかわらず、盾にぶつかった衝撃から相手のいる位置を読んだのだ。何年もの訓練が正しい判断を導いてくれた。

まるで銀色に光る猛獣の爪のように、短剣が網の下から飛び出してきた。観衆の目に、銀色にきらめく短剣がほんの一瞬映ったかと思うと、すぐに消えた。次に見えたのは、地面にくずれ落ちたカレンディオの姿だ。KOをくらったボクサーのように目を見開いている。それでもなお、両手をついて立ち上がろうとするが、無駄だった。右の大腿の内側に深い傷を負い、大量の血が流れ出している。アレーナがどす黒い血に染まっていく。

「古代ローマ人の24時間」第44章

審判が大声を張りあげ試合の中断を命じたのも、あやうく聞き逃すところだった。アステュアナクスは動きをとめ、荒い息をしている。まるで周囲の空気に噛みつかんばかりの荒々しさだ。やがて乱れた呼吸が整いはじめると、アステュアナクスは地面に倒れている敵を見やった。敵も彼の目をじっと見ている。その陰鬱な目を、彼は一生忘れないだろう。その視線には、ほとんど命令に近い懇願の色が浮かんでいた。カレンディオが短剣を差し出す。命乞いに一縷いちるの望みをかけてのことだろう。

だが、決めるのはアステュアナクスではない。審判たちにも決められないため、腕をのばし、親指を上に向けててのひらを開いたジェスチャーで、主催者の指示を仰ぐ。

判決は「死」だった。魚剣闘士アステュアナクスが歩み寄る。その時ようやく、投網剣闘士カレンディオはすべて終わったと観念し、顎を上にあげた。まるでこの世で最後の愛撫のように、そよ風が彼の髪を撫でる。次の瞬間、カレンディオの身体に激痛が走り、やがてすべてが闇となった・・・・・・。

この戦いの模様を忠実に再現したモザイク画が、アッピア街道で発掘されており、現在はマドリードの国立考古学博物館に所蔵されている。

「古代ローマ人の24時間」第44章

もちろん以上の記述は著者の想像です。ただし最後に書いてあるように、著者はこの戦いの経過を描いた当時のモザイク画をもとに文章を書いています。細部の描写はともかく、古代ローマの剣闘士の試合がどんなものだったかが理解できます。最後の方の「そよ風が彼(=投網剣闘士)の髪を撫でる」というところは、投網剣闘士だけは兜を被らなかったという歴史的事実を反映しています。

追撃闘士と網闘士.jpg
追撃剣闘士(セクトル)のアステュアナクスと投網剣闘士(レティアリイ)のカレンディオの戦いを描いたローマ時代のモザイク画。時間の経過は下から上である。上の絵でカレンディオは傷つき、短剣を差し出している。カレンディオの名前の後にある丸と棒の記号は "NULL" を示していて、主催者(エーディトル)の決定は「死」であったことを示す。投網剣闘士は追撃剣闘士と組まされることが多かった。追撃剣闘士の装備は魚剣闘士と似ているが、兜に突起物はなく、投網剣闘士の網から逃れやすかったという。「古代ローマ人の24時間」の記述はこのモザイク画をもとにしているはずである。
(スペイン国立考古学博物館:マドリード)

最初のジェロームの絵『差し下ろされた親指』に戻ります。ここにはまさに魚剣闘士と投網剣闘士との戦いが終わったばかりの場面が描かれています。そして右の観客席の観衆は「殺せ」とコールしている。

ここで想像すると、全員とまでは言わないまでも「殺せ」と叫んでいる観衆は、午前中の「猛獣狩り」で動物が死ぬ場面を見物し、その次には公開処刑を見学し、そして剣闘士の試合と流れる血に興奮して「殺せ」と叫んでいるわけです。「死」と「血」が充満した円形闘技場に長時間いた人間が「殺せ、殺せ」と連呼するのは、当然そうなるだろうという気がします。

Pollice Verso (Gerome).jpg
ジャン=レオン・ジェローム「差し下ろされた親指」


究極の娯楽


今まで書いた「死を見せ物にする」古代ローマの歴史を、我々はどう受けとめればいいのでしょうか。"歴史から学ぶ" とすると、何か学ぶものはあるのでしょうか。このことについて2つのことを考えました。

確実に言えるのは、この見せ物=娯楽は「これほど刺激の強いものはない、究極の娯楽」だということです。長いローマの歴史の中でより強い刺激を求めてエスカレートした結果なのでしょうが、もうこれ以上エスカレートのしようがないわけです。ものごとは究極に達すると後は下降しかありません。「パンとサーカス」と言われるように、闘技会(=サーカス)は、民衆が皇帝に要求する権利だったわけですが、そのローマ市民が要求するものを皇帝がいずれ与えられなくなることは目に見えています。人間は誰しも死にたくはないので、死を前提にした見せ物はエスカレートすればするほど、どこかで無理がきます。

ローマの高度なインフラを思い出します。No.112-3「ローマ人のコンクリート」No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」で書いたように、2000年前の高度文明で作られた水道網、道路、橋、テルマエ(公衆浴場)などは、メインテナンス・コストとエネルギー資源の問題で "持続可能" ではなくなり、次第に劣化・縮小していったわけですね。究極に達すると下降しかない。これが第一に思ったことです。

2つ目に思ったのは「人や動物が殺される様子を娯楽として楽しむ」のは "人間性" とどういう関係があるかです。それは古代ローマ人だけの特殊なものだとも考えられます。しかし動物を殺して楽しむというのは、現代のスペインやポルトガル(および文化を受け継いだ中南米の国)の闘牛がそうだし、大型動物を狩るレジャー・ハンティングがそうです。現代のテロリストの中には殺人を楽しんでいるとしか思えないものもいる。人間にはそういった性向がないとは言えないでしょう。では「ローマ人の究極の娯楽」はどう考えればよいのか。

最も妥当な解釈は「人間は本能が崩れた動物だ」ということだと思いました。これは岸田秀氏(和光大学名誉教授)の言い方ですが、人間の行動は本能によるのではないということです。つまり、生存のために必須の行動を除き、人間の行動は生得のものではない。人間の行動は "文化"(広い意味での文化)によって決まります。文化が人間の行動規範になり、文化が人間を行動に駆り立てる。岸田流に言うと「文化は本能の代替物」ということになります。

その "文化" は人間が作りあげてきたものなので、生物学的条件からくる根拠がありません。従って極めて多様であり、社会によって千変万化します。二人が戦う格闘技を観客が見て楽しむという競技は世界中にありますが、「剣闘士=殺し合い」から「相撲=倒れたら負け」までのバリエーションがある。

全くの想像ですがローマの闘技会も、もとはと言えば戦争捕虜同士を戦わせて楽しむ程度のものではなかったのでしょうか。それが剣を使うようになり、次には殺してもよいことになり、さらには敗者が殺されるようになり、猛獣とも戦うようになりと、そういう風に文化が "発展" してきた。生物学的な歯止めがない人間はどこまでもエスカレートしていく(ことがある)。その文化の中で生まれてからずっと生活していると、別に何とも思わない。世界中のほとんとの地域はそういう "発展" はしなかったが、古代ローマは(たまたま)そういう経緯をたどったのではないでしょうか。

古代ローマ史の闘技会で思うのは、人間社会は「何でもアリ」だということです。だからこそ「何でもアリではない社会」を構成するための "文化的装置" を作る努力が必要なのでしょう。「人間は生まれながらにして基本的人権をもつ」という近代国家ではあたりまえのコンセプトも、実は、生まれながらに持っているものや行動規範が無いからこそ「人権」というものを仮想し、それをベースに社会の体系を作ろうとする(作ってきた)人間社会の努力だと考えられます。そして、その努力は大切なものだということを思いました。




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No.202 - ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで6回書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン

の6つです。いずれも19・20世紀の実業家の個人コレクションが美術館設立の発端となっています。今回はその続きで、オランダのロッテルダムにある「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」をとりあげます。


美術館のロケーション


オランダの美術館で No.158 で書いたクレラー・ミュラー美術館は、ゴッホの作品が好きな人にとっては是非とも訪れたい美術館ですが、この美術館はオッテルローという郊外の町の国立公園の中にあります。アムステルダムから公共交通機関を使うとすると、列車(直通、または乗り継ぎ)とバス2系統の乗り継ぎで行く必要があります。

それに対してボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダムという大都市の中心部にあり、アムステルダムからは列車1本で行けます。また途中のデン・ハーグにはマウリッツハイス美術館があるので、この2美術館をアムステルダムからの日帰りで訪問することも十分に可能です。

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダム駅から歩いて行けます。地下鉄なら駅一つですが、運河ぞいを散策しながら行くのがいいでしょう。駅から南方向へゆっくりと歩いて20分程度です。ちなみにロッテルダムはライン河の河口に近い港湾都市で、オランダ第2の大都市です。ここからヨーロッパ内陸の都市へ水路で行けるので、貿易や水運で大いに発展しました。

ロッテルダム.jpg
(青矢印はクレラー・ミュラー美術館 - Google Map)


ボイマンスとファン・ベーニンゲン


ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(Museum Boijmans Van Beuningen)はオランダで最も古い美術館の一つで、中世ヨーロッパから20世紀のモダンアートまでの幅広いコレクションがあります。もともと、弁護士のフランス・ボイマンス(1767-1847)が1841年に自身のコレクションをロッテルダム市に寄贈したのが始まりでした。その1世紀後、1958年に大実業家のダニエル・ファン・ベーニンゲン(1877-1955)がコレクションを市に寄贈し、これによって "ボイマンス・ファン・ベーニンゲン" という美術館の名称になりました。以下、この美術館の絵画作品を何点か紹介します。

BVB.jpg


ブリューゲル : バベルの塔(第2バージョン)


The Tower of Babel(Boijmans).jpg
ピーテル・ブリューゲル(1525/30-1569)
「バベルの塔」(1568頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この美術館の "目玉" 作品は何と言ってもブリューゲルの『バベルの塔』です。ウィーンの美術史美術館にブリューゲルの作品が展示されている部屋があり、そこに第1作目の『バベルの塔』がありますが、ブリューゲルが描いた2作目がこの作品です。ウィーン作品よりも塔の建設が進んだ段階のようです。

The Tower of Babel(Wien).jpg
ピーテル・ブリューゲル
「バベルの塔」(1563頃)
(ウィーン美術史美術館)

ロッテルダムの2作目を実際に見ると、ものすごく小さな作品です。特にウィーンの作品を先に見ているとその感じが強い。ウィーン作品は約114cm×155cmの大きさですが、ロッテルダム作品は約60cm×75cmであり、大きさでウィーンの半分、面積にすると4分の1しかありません("小バベル" と呼ばれている)。しかしそこに描かれた人の数は膨大で、約1400人といいます。これは60cm×75cmの大きさの「巨大なミニチュア画」といえるでしょう。

もちろん、美術館の展示で細部まで鑑賞するのは不可能です。鑑賞のためには近接してルーペで見る必要がありますが、ブリューゲルの傑作にそんなことはできません。ただし「現代のルーペ」があります。つまりハイビジョンや4Kの画像を撮影できるので、それを大画面で細部を順に拡大して見ることが可能なはずです。是非、美術館の常設展示としてそういったビデオ展示をやってほしいと思いました。

この絵は画家が自らの技量を示すために限界に挑戦したものと考えられます。ウィーン作品の半分の大きさにしたのもチャレンジ精神の発揮でしょう。しかし単に技量を示すためだけではない感じもします。「バベルの塔」を見て思うのは、画家の膨大で気の遠くなるような緻密な作業の積み重ねです。それは天に届く塔を作ろうとした聖書の中の人々営みの総体に重なって見えます。つまり「絵のモチーフ」と「絵の描き方」が非常にマッチしている。

ここまで書いて、No.150「クリスティーナの世界」で引用したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』を思い出しました。あの絵はテンペラ技法を使い、草の1本1本まで緻密に描き込まれています。絵を一瞥して感じるのは、制作につぎ込まれた膨大な画家の作業量です。それは、小児麻痺のクリスティーナが草原をはいつくばって自宅の小屋に少しづつ少しづつ向かう姿と重なります。またクリスティーナの人生における彼女の多大な努力の積み重ねを想像させる。

バベルの塔に戻りますと、この絵は "描き方" と "描かれたモチーフの意味内容" がピッタリとはまっています。そのあたりに絵の価値というか、見る人が暗黙に感じる魅力があるのだと思います。

この絵は日本で開催される "ブリューゲル「バベルの塔」展" で公開されます(東京都美術館 2017.4.18 ~ 7.2。大阪・国立国際美術館 2017.7.18 ~ 10.15)。展覧会のウェブサイトには次のように書かれていました。


今回の展覧会では新しい試みとして(中略)東京藝術大学COI拠点の特別協力により芸術と科学技術を融合させ、原寸を約300%拡大したブリューゲル「バベルの塔」の複製画を制作・展示します。また同拠点は「バベルの塔」の3DCG動画も制作し、多様なメディアを駆使してこの傑作の魅力に迫ります。

ブリューゲル「バベルの塔」展
公式ホームぺージより

「約300%に拡大した複製展示」は、ビデオ画像による詳細表示とともに是非やってほしいと思っていたものでした。このような展示によって初めて、この絵の真価がわかるのだろうと思います。


ファブリティウス : 自画像


ファブリティウスの絵は、以前にマウリッツハイス美術館の『ごしきひわ』という作品を引用しました(No.93「生物が主題の絵」。小品だが傑作です)。レンブラントの最高の弟子と言われるファブリティウスは、デルフトの弾薬庫の大爆発事故に巻き込まれ、32歳の若さで亡くなりました。そのときにアトリエも破壊されたので、現存する作品は10点程度といいます。その中の貴重な作品がこの自画像です。

Self-Portrait.jpg
カレル・ファブリティウス(1622-54)
「自画像」(1645頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵に描かれているファブリティウス本人は、一見すると "画家" という感じがしません(個人的印象ですが)。といって「画家らしい風貌とは何ですか」と問われると答えに困るのですが、この肖像から受ける "ワイルドな感じ" は、我々が一般的に思っている画家のイメージとは少しズレています。現代で言うと、激しい運動をともなうスポーツの選手、たとえばサッカー選手のような感じです(ヘアスタイルは別として)。

厚い唇は強い意志を感じさせます。野心を秘めた若手画家という風にも見える。つまり、画家のトップに君臨してやろうという意志を込めている感じです。レンブラントの最高の弟子といわれるだけあって、そういう野心をいだいてもおかしくないだけの技量があります。『ごしきひわ』を見ればその技量が直感できるのですが、この絵もそうです。注文を受けて描く肖像画とは全く違い、生身の人間をリアルに描いた感じが強い。17世紀の作品ですが、ゴヤを先取りしたような、近代絵画的な絵です。ちなみにファブリティウスは、おなじデルフトの画家・フェルメールより10歳年上です。

No.19「ベラスケスの怖い絵」で書いたように、人は顔を見ただけでその人の内面を推定・想像することを無意識にやっています。そういった想像をよりかき立てる絵が、肖像画としては良い絵なのでしょう。その意味で優れた絵だと思います。


クールベ : 果樹があるオルナンの山の風景


Mountainous landscape with fruit trees in Ornans.jpg
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)
「果樹があるオルナンの山の風景」(1873)
(Mountaineous landscape with fruit trees in Ornans)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵からゴッホのポプラ並木までの4作品は印象派と関係しています。まずこのクールべの絵ですが、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館には類似の風景を描いた絵が2作品あり、そのうちの1つです。オルナンはクールべの故郷です。

以前にクールベの故郷にちなんだ絵として『フラジェの樫の木』(1864)『雪の中を駆ける鹿』(1856/57)を引用しました(No.93「生物が主題の絵」)。この両方ともいかにも "写実派" クールベらしい作品でした。しかしこのオルナンの山岳風景はちょっと違っていて、印象派の作風に似た感じがします。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のウェブサイトの解説には「クールベは写実派として出発したが、後期には印象派に近づいた」という主旨の解説がありました。


モネ : ヴァランジュヴィルの漁師小屋


La maison du pecheur Varengeville.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(La maison du pecheur, Varengeville)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ヴァランジュヴィルはノルマンディーの英仏海峡に面した海岸地方で、避暑地として有名です。この絵を見て思い出すのはボストン美術館にある漁師小屋の作品で、ボストンに数々あるの印象派の名画の中でも最も記憶に残る絵の一つです。小屋がポツンと一つあるというモチーフが印象に残るのだと思います。

Fisherman's Cottage on the Cliffs at Varengeville.jpg
クロード・モネ
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(ボストン美術館)
ということから類推できるように、モネの漁師小屋の絵は連作です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の解説によると、モネは少なくとも8枚の漁師小屋の絵を描いたそうです。

本作品はいわゆる対角線構図であり、左上から右下の直線で画面が2分されています。さらに「高い位置から風景を俯瞰し、水平線を画面の上の方にとる構図」は、日本の版画の影響でしょう。美術館の解説にもそう書いてありました。


ゴーギャン : 休息する牛


Vaches au repos.jpg
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
「休息する牛」(1885)
(Vaches au repos)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

よく知られているようにゴーギャンはビジネスマン(株仲買人)から職業画家に転身した人ですが、その転身したあとの初期の作品で、ノルマンディーの風景です。

絵の構図はモネの絵と同じく対角線構図で、2つの対角線に沿って牛や木々、池が配置されています。構図の安定感は抜群といえるでしょう。筆使いは当時のトレンドの印象派そのものという感じですが、色使いに後のゴーギャンを感じさせるものがあります。


ゴッホ : ニューネンのポプラ並木


Poplars near Nuenen.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「ニューネンのポプラ並木」(1885)
(Poplars near Neunen)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのオランダ時代の絵です。その時期のゴッホの絵というと "コテコテの暗い絵" が多いのですが、この並木道の絵はそうでもありません。明け方でしょうか、空が明るく輝きはじめています。木々の葉にも明るい色が配されている。美術館の解説によると、ゴッホはパリへ移る時にこの絵を持って行き、パリで手を入れたそうです。当時のトレンドであった印象派の影響を受けた絵といえるでしょう。


ゴッホ : アルマンド・ルーランの肖像


Portrait of Armand Roulin.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「アルマンド・ルーランの肖像」(1888)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのアルル時代の絵です。ゴッホは郵便配達人のルーランとその家族の絵を何枚か描きました。このブログでも No.95「バーンズ・コレクション」(ルーラン)、No.158「クレラー・ミュラー美術館」(ルーランと妻)で引用しました。MoMAにもあったと思います。この絵はそのルーランの息子を描いた作品です。

アルマンド・ルーランは当時17歳ですが、この絵を見ると髭をたくわえる伝統がある一家のようです。肖像画にはめずらしく、沈んで憂鬱そうな表情で、青春のそういう瞬間をとらえた絵なのだと思います。


ピカソ : カフェのテラスに座る女


Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「カフェのテラスに座る女」(1901)
(Femme assise a la terasse d'un cafe)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ピカソはパリに出てきた20歳頃に、大都会の "ナイトライフ" に関係した作品をいろいろ描いています。No.163「ピカソは天才か(続)」で引用した『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、夜のダンスホールの少々 "怪しい" 光景でした。この絵もド派手な身なりの女性を描いていて、一見して "その筋の女性" を想像させます。

形は非常に曖昧です。崩れてきていて、カンヴァスに溶解していくような感じです。その中で色彩だけが自己主張しています。色がもつ効果を示したかったのかもしれません。


シニャック : ロッテルダム港


Le port de Rotterdam.jpg
ポール・シニャック(1863-1935)
「ロッテルダム港」(1907)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館があるロッテルダムの波止場を描いた作品です。いわゆる "点描" の作風ですが、シニャック流の、筆致が分かる大きめの "点" で描かれていて、画面に独特の躍動感があります。全体的にシックな色調ですが、それは蒸気船に代表される近代文明と産業がテーマだからでしょう。波止場のにぎわい、ざわめき、波のきらめき、船やボートや煙の動きが伝わってきます。


カンディンスキー : The Lyrical


The Lyrical.jpg
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
「The Lyrical」(1911)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

美術館が示している英語題名は "The Lyrical" というものです。直訳は難しいですが、意訳すると "熱狂" としてもよいと思います。カンディンスキーが抽象絵画を始めた初期の作品です。

疾走する競争馬と騎手が描かれていて、その周りに赤・青・茶・緑が配置されています。抽象に踏み込んだ絵なので解釈は個人の自由ですが(もし解釈したいのならですが)、たとえばこの4色は人馬をとりまく群衆・池・大地・芝生という感じでしょうか。自由に描かれた馬と騎手の線が心地よい一枚です。




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No.201 - ヴァイオリン弾きとポグロム [アート]

前回の No.200「落穂拾いと共産党宣言」で、ミレーの代表作である『落穂拾い』の解説を中野京子・著「新 怖い絵」(角川書店 2016)から引用しました。『落穂拾い』が "怖い絵" というのは奇異な感じがしますが、作品が発表された当時の上流階級の人々にとっては怖い絵だったという話でした。

その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。


ヴァイオリン弾き


Le Violoniste.jpg
マルク・シャガール(1887-1985)
ヴァイオリン弾き」(1912)
(アムステルダム市立美術館)

"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの製作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。

この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。


緑色の顔の男がまっすぐこちらを見据え、三角屋根の上に片足を載せリズムをきざみつつ、ヴァイオリンをかなでる。ロシアの小村。木造りの素朴な家が点在し、屋根にも広場にも雪が積もる。煙突からは巻いたコイルのような煙が吐き出され、手前の木には鳥がつどう。画面左上に小さく、右端に大きく、教会が見える。幻想の画家シャガールらしい不思議な魅惑の世界。

ヴァイオリン弾きのコート及び背景を分割する白と暗色の組み合わせが、実に効果的だ。画面からは音楽までも流れだす。けれどそれは陽気なばかりのメロディではない。哀愁漂い、不安を内包した弦の響きに違いない。なぜなら真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっているからだ。ヴァイオリン弾きを見上げる三人の人物も不安そうだ。


この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。

二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板しばんを持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。

三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、

  誰かが右手からユダヤ人の住居に押し入り、そこで鮮血が床に流れるような行為をし、その鮮血を片足で踏んで家から出て、左の方向に去った

と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。


ポグロム



世紀末からロシア革命に至る期間、激しく大規模なポグロムがロシアに何度も何度も荒れ狂った。ポグロムはロシア語ではもともと「破壊」の意だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。

ポグロムに加わり、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や店を襲っての金品強奪ごうだつ、老人にも女・子どもにも見境なしの暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだのは、都市下層民や貧農、コサックなど経済的弱者が大半と言われる。だが各地で頻発ひんぱつするにつれ、ポグロムは政治性を帯びて組織化した。警官や軍人も加わったのだ。

(同上)

誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。

シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。


ミュージカル(引用注:屋根の上のヴァイオリン弾き)における表現はソフトで、村民が全員追放されるだけだったが、現実のポグロムでは死者が数万人も出ている(数十万人という研究もあるが、正確な数字は把握されていない)。カメラの時代になっていたから、自分が殺した相手といっしょに記念写真を撮るというようなおぞましい記録まで残っている。シャガールは直接ポグロムを経験していないが、小さなころから重苦しい不安は日常だったし、キエフでなまなましい体験をした芸術家仲間から具体的な話を聞いたこともある。昨日まで挨拶を交わしていた近所の住人が、突然棍棒こんぼうだの鋤鍬すきくわだのを振り上げて襲ってくる恐怖は、いつ現実のものとなってもおかしくなかったのだ。

シャガールは絵の中にそれを描き込んでいる。もう一度『ヴァイオリン弾き』の画面に目をらしてほしい。白い雪の上にはいくつも靴跡がある。それは右からユダヤ人の家を目指して進み、左の家から出てくるが、その出てきた靴跡の一つは、何と、鮮血を踏んだごとく真っ赤ではないか !

(同上)


絵の歴史的背景


『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。

この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、

片足を屋根に乗せてヴァイオリンを弾くという、まったく釣り合いのとれない感じ
まともな音が出せそうにない、ヴァイオリン弾きの指の使い方
巨人として描かれたヴァイオリン弾きを不可解そうに見上げる3人の人物
何かから逃げているような聖人の姿

などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。

しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。

そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換あびきょうかんをよそにただ一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。

ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。

必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。




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No.200 - 落穂拾いと共産党宣言 [アート]

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」で、フィラデルフィア美術館が所蔵するミレーの絶筆『鳥の巣狩りBird's-Nesters)』のことを書きました。その継続で、今回はミレーの "最高傑作" である『落穂拾い』(オルセー美術館)を話題にしたいと思います。実は『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』には共通点があると思っていて、そのことについても触れます。

  ちなみに、このブログで以前にとりあげたミレーの絵は『鳥の巣狩り』『晩鐘』『死ときこり』(以上、No.97)、『冬』『虹』(No.192「グルベンキアン美術館」)ですが、それぞれミレーの違った側面を表している秀作だと思います。

まず例によって、中野京子さんの解説によって『落穂拾い』がどういう絵かを順に見ていきたいと思います。


貧しい農民と旧約聖書


落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

この絵に描かれた光景と構図について、中野京子さんは著書「新 怖い絵」で次のように解説しています。


大地は画面の七割を占め、厚みを帯びて広がっている。『晩鐘ばんしょう』と同じく、明暗のコントラストが鮮やかだ。夕暮れのやさしいを浴びた豊穣ほうじょうな後景と、影の濃い貧困たる前景。麦藁むぎわらが天まで届けとばかりに積み上がった後景と、やっとの思いで集めた数束が画面右端に見えるだけの前景。干し草のかぐわしい匂いが漂う後景と、じめじめした土の臭いを感じさせる前景。おおぜいの人間が収穫に沸くにぎやかな後景と、三人一組であるかのような女性が腰を折って黙々と落穂を拾う前景・・・・・・。


『落穂拾い』の構図は、前景と後景の対比で成り立っています。中野さんの文章を整理してみると、

後景
明暗の対比の「明」
夕暮れのやさしい陽を浴びて豊穣
麦藁が天まで届けとばかりに積み上がる
干し草のかぐわしい匂いが漂う
大勢の人間が収穫に沸き、賑やか

前景
明暗の対比の「暗」
影が濃く貧困としている
やっとの思いで集めた数束が画面の右端に見える
じめじめした土の臭いを感じさせる
三人の女性が腰を折って黙々と落穂を拾う

となります。そしてもちろん絵の主役は "じめじめした土の臭いを感じる中で腰を折って黙々と落穂を拾う" 前景の三人です。


だがこのヒロインたちの、どっしりした存在感はどうだ。彼女らは今ここにまぎれもなく生きている。単調で厳しい労働に耐え抜く太い腰。あかぎれした無骨な手を持つ彼女らは、バルビゾンの農婦だった時代をはるかに超え、古典古代の力強い彫像のように永遠の命を与えられてここにいる。

ミレーのさりげない上手うまさが光る。画面構成はもちろんのこと、人物の動きと配置も完璧だ。はいいつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン。もう一人は、おそらく少し休んで伸びをしていたのだろう。再び目を地面に落とし、かがみ込むところだ。全体に色彩の乏しい中、かぶりものの赤と青が印象的だ(聖母マリアが身にまとう赤と青を思い出させる)。

(同上)

中野さんは、落穂を拾う三人の「どっしりした存在感」と書いていますが、確かにその通りです。西洋絵画における "モデリング" というのでしょうか、骨太の立体感が伝わってきます。絵の中に彫刻作品があるような、造形の確かさがあります。実際に見た通りに描くと、こうはならないでしょう。絵画でしか成しえない世界を作ったという感じがします。それに加えて完璧な構図と色使いのうまさがあり(赤と青が利いている)、この絵が絵画史上の名画中の名画とされていることも分かります。

ミレーによって "永遠の命を与えられた" 三人の女性、表情は定かではないが存在感抜群の三人の女性は、いったいどういう人たちだったのでしょうか。これはよく知られています。中野さんは次のように書いています。


それにしても三人はなぜ後景の皆といっしょに働いていないのだろう? 村八分にでもあっているのか?

まあ、それに近いかもしれない。広大なこの麦畑は彼女たちには何の関わりもない。雇われてさえいない。刈り取りが終わった畑に勝手に入り、おこぼれにあずかっているだけなのだ。迷惑がられていた可能性もある。入るな、拾うなと言われれば従うしかない。こうして拾っていられるのは、地主側の黙認による。それも昼の刈り入れ後から日没までのわずかな時間のみなので大急ぎだった。

(同上)

さらに "落穂拾い" が聖書で言及されていることも、よく知られていると思います。


落穂拾いについては、旧約聖書の『レビ記』や『申命しんめい記』に記述がある。いわく、畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しいもの、孤児、寡婦かふのために残しておきなさい、と。

こうした「喜捨きしゃの精神」、反転するなら「貧者の権利」は、近年になってもまだ続いていた。ただし貧しい地方、たとえばミレーの育った寒冷で土地のせたノルマンディー地方には見られない慣習だった。だから彼は、農村の最下層たる寡婦(あるいは夫が病に倒れた女性)が落穂を拾う姿に胸を打たれたのだろう。

(同上)

ミレーは敬虔なクリスチャンであり、有名な『種まく人』も聖書に由来があります。まず、そういった信仰がベースにあり、そこに懸命に生きる人間の "けなげさ" が加わり、さらに絵としての構図や描写の素晴らしさが重なって、この絵は当時から大いに人気を博しました。数々の複製画が出回ったと言います。



以上のように「最下層の農民」と「キリスト教」が、この絵の二つの背景です。しかしこういった見方とは別に、この絵が発表された当時は全く別の観点から見る人たちがいたのです。


共産党宣言


『落穂拾い』は人々の共感を呼んだと同時に、ミレーと同時代の一部の人たちに強い反感をもたらしました。


だがミレーと同時代人の中には、この絵を「怖い」と思う人々がいた。本気で怖がり、それゆえにみ嫌う人々が・・・・・・。

当時ヨーロッパ中が揺れていたからだ。

「ヨーロッパに幽霊が出る ── 共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」

あまりに有名な『共産党宣言』(マルクス エンゲルス、岩波文庫)の冒頭である。締めくくりの言葉、「万国のプロレタリア団結せよ!」もまた、人口に膾炙かいしゃした。

この書物は『落穂拾い』が発表される9年前の1848年に刊行され、次第に広く深く影響を与えつつあった。上流階級は、「下層の労働者」が分をわきまえぬ欲望を抱き、団結し、生まれついての、しかも必然的永久的であらねばならぬ「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域へ割り込む気ではないかと心配し、おびえ、憤慨ふんがいした。彼らは少しでもそんな芽を感じると、文学であれ美術であれすばやく反応し、たたつぶそうとした。

(同上)

実は "落穂拾い" の主題は多くの画家によって取り上げられてきました。聖書に言及があるので当然とも言えるでしょう。その典型例がジュール・ブルトン(1827-1906)の『落穂拾いの女たちの招集』(1859)で、ミレーの『落穂拾い』(1857)と同時期に発表された作品です。

落穂拾いの女たちの招集.jpg
ジュール・ブルトン(1827-1906)
「落穂拾いの女たちの招集」(1859)
(オルセー美術館)

官展で1等をとったこの絵は、聖書の世界をあくまで美的に表現していて、ミレーが描いた現実の農民の姿とは全く違います。登場する女性は若々しく健康的で(非現実的)、前列の2人は裸足であり(これも非現実的)、拾い集めた麦も穂がたっぷりとついています(とても落穂とは思えない)。


ミレーだとこうはゆかない。保守派が猛然とみつく道理で、『落穂拾い』が発表されるや、「三人の女性には大それた意図がある。貧困の三美神のようにポーズをとっている」だの、「秩序をおびやかす凶暴な野獣」などと評された。詩人ボードレールのミレー嫌いも徹底していた。曰く、「取り入れをしていようと、種をいていようと、牝牛めうしに草をませていようと、動物たちの毛を刈っていようと、彼らはいつもこう言っているように見えます、『この世の富を奪われた哀れな者たち、だがそのわれわれが、この世を豊穣ほうじょうならしめているのだぞ!』(中略)彼らの単調な醜さの中に、これらの小賤民パリアたちは皆、哲学的でメランコリックでラファエルロ的な思い上がりをもっています。」(阿部良雄訳「一八五九年のサロン」/『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫)。

肉体労働に従事する者は「醜い小賤民」で、詩を書く自分は貴族的というわけであろう。となるとそんなやから下克上げこくじょうされたらたまったものではない。持てる者の不安と恐怖が、ミレー作品の本質を見誤らせてしまった。

(同上)


絵を見る視点


中野京子さんが「新 怖い絵」という本に『落穂拾い』をとりあげたのは、この絵が発表された当時、ある種の人たちにとっては本当に "怖い絵" だったからでした。その背景になったのは、産業革命以降の資本主義の発達と貧富の差の拡大です。そこから社会主義運動が起こってきた。それは労働者の権利の主張という範囲を越えて、階級社会の否定、ないしは革命を目指す運動にもつながってくる。特にフランスの富裕層は、70年前に大革命が起きて王制や教会が打倒されたことを想起したでしょう。ミレーに階級社会を否定する意図が無かったようですが、意図があると見なされる社会的な素地があったわけです。

現代人である我々が『落穂拾い』を見るとき、キリスト教や聖書の背景を考えないとしても、

  貧しい中で黙々と働く農婦への共感を覚え、労働の尊さに想いを馳せる

のが普通でしょう。ところが19世紀半ばのフランスでは、必ずしもそうではなかったのですね。つまり、ボードレールに代表される『落穂拾い』への非難、ないしは反感が示しているのは、

現代人の感覚だけで過去を判断してはいけない。一面的な(ないしは誤った)見方をしてしまうことがある。
絵画は描かれた時代を映すものでもある。
絵画は、見る視点のとり方によって、その解釈がガラッと変わることがある。

ということだと思いました。


『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』


鳥の巣狩り.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
鳥の巣狩り」(1874)
(フィラデルフィア美術館)

ところで、冒頭に書いた『鳥の巣狩り』のことです。この絵に初めてフィラデルフィア美術館で出会ったとき、パッと見て何を描いているのか分かりませんでした。題名も "Bird's-Nesters" となっていて、ちょっと不可解な題です(nesters という語の意味が分かりにくい)。しばらく絵をじっと見ていると理解が進んできました。登場人物は4人で、夜の光景です。おそらく2組の夫婦なのでしょう。2人の男が明かりをかざして、画面を覆う鳥を棍棒で叩き落としています。2人の妻は、地面にいつくばるようにして叩き落とされた鳥(実際は野鳩)を拾っているところです。

現代なら、立てた棒の間にネットを張って鳥を追いこむのでしょうが(=かすみ網。日本では禁止)、棍棒で鳥を撲殺するというのは随分 "原始的な" 方法です。夜に突如として強い光を当てられると鳥はパニックになって飛び去れない。そこをうまく突いた狩猟方法のようです。

  ちなみに、この絵を所蔵しているフィラデルフィア美術館は題名を『Bird's-Nesters = 鳥の巣狩り』としています。この題名通りに鳥の巣を狩るとしたら、その目的は鳥の卵か雛をとることです。しかしこの絵は "鳥そのものを狩る" 光景です。なぜ Bird Hunting(鳥狩り)か Bird Hunters(鳥狩り人)ではないのか。その理由の推測を No.97「ミレー最後の絵」に書きました。

この『鳥の巣狩り』という絵は『落穂拾い』を連想させるところがあります。それは絵の中の2人の農婦です。

  地面に屈み込んでいる(あるいは這いつくばっている)2人の農婦が、
小麦の穂
瀕死の野鳩(ないしは死んだ野鳩)
を拾っている光景

という点で連想が働くのです。絵の中の雰囲気はまるで違います。『落穂拾い』では、静かな夕暮れ時に2人の農婦がリズミカルに小麦の穂を拾っています。静寂の中、足音と小麦を掴むわずかな音だけが響くという光景です。一方の『鳥の巣狩り』は、野鳩の大群の啼き声と羽ばたき音が充満するなか、地面でまだバタバタと羽を動かしている瀕死の鳩を拾う光景です。地に落ちた野鳩の阿鼻叫喚あびきょうかんの中での作業です。

しかし地面に屈み込んで(あるいは "這いつくばって")何かを拾うことでは、2つの絵は共通しています。中野京子さんは『落穂拾い』を評して「這いつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン」と書いていますが、『鳥の巣狩り』の2人の方がもっと "這いつくばって" いる。もちろん "リフレイン" どころではない光景だけれど。

落穂拾い(部分).jpg
落穂拾い」(部分)

鳥の巣狩り(部分).jpg
鳥の巣狩り」(部分)

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」に書いたように『鳥の巣狩り』はミレーの絶筆です。描いた時点でミレーは死期を悟っていました。病床にあった彼は最後の最後まで手を入れ続けたといいます。なぜ彼がこの絵を描いたのか、その推測を No.97 に書きました。ミレーはノルマンディー地方の農家に生まれ、バルビゾンで農民を描いて成功した画家です。その人生の総決算が『鳥の巣狩り』だというような想像でした。

そして付け加えるなら、ミレーはこの絵を描くときに『落穂拾い』が念頭にあったのではないでしょうか。ミレーの代表作は『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』『羊飼いの少女』であり、当時からそう見なされていました。画家自身も自らの代表作と意識していたはずです。これらのうち一つをあげるとすると、やはり『落穂拾い』だと思います。ミレーは『落穂拾い』で地面に手を延ばしている2人を、人生最後の作品である『鳥の巣狩り』に再び登場させたのではないでしょうか。全く違うモノに手を延ばす2人として・・・・・・。



ミレーやコローを代表格とするバルビゾンの画家は、当時のパリで大いに人気を博したようです。都市化が進んだパリ市民には「自然へのあこがれ」があり、また「農村の牧歌的風景」や「農民の素朴さ」が求められたからでしょう。それはあくまで都会人の視点での農村・農民です。近・現代の日本でも、そういう "古きよき農村風景" を描いた絵はいろいろありました。

しかしミレーはそう単純ではなかった。あくまで農民の側に立って、農村の真実を描いたわけです。そこには、農民たちの喜び、神への感謝と祈り、労働の辛さと過酷さ、さらには "報われることがない人生に対する悲しみ" までが表現されているようです。だからこそ、見る人が見れば社会を告発している "怖い絵" にも思えたのでしょう。

そしてミレーという画家の人気の源泉、人の心を打つ理由は、まさにその点にあるのだと思います。

続く


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No.199 - 円山応挙の朝顔 [アート]

円山応挙展ポスター.jpg
No.193「鈴木其一:朝顔の小宇宙」で、メトロポリタン美術館が所蔵する鈴木其一(1795-1858)の『朝顔図屏風』のことを書きました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手 展」で展示された作品です。

実はこのすぐあとに、もう一枚の "朝顔" を鑑賞する機会がありました。円山応挙(1733-1795)が描いた絵です。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』展(2016年11月3日~12月18日)に、その朝顔が展示されていました。今回はこの展覧会のことを書きます。

この展覧会は応挙の画業を網羅していて、多数の作品が展示されていました。国宝・重要文化財もあります。その中から朝顔を含む4作品に絞り、最後に全体の感想を書きたいと思います。


朝顔図


朝顔図.jpg
円山応挙 「朝顔図」
天明四年(1784)51歳
(相国寺蔵)

並んで展示されていた『薔薇ばら文鳥図』と二幅一対の掛け軸で、この二幅は元々 "衝立て" の両面だったと言います。朝顔の銀地に対して、薔薇文鳥は金地でした。

この絵は、画面右下のほぼ4分の1に朝顔を密集させ、それによって銀地の余白を引き立てています。朝顔の蔓は左方向横と左斜め上に延び、銀地を心地よく分割しています。花と葉の集団は画面の右端でスパッと切断されていて、さらに右への朝顔の広がりが感じられます。"完璧な構図" といったところでしょう。

"完璧な構図" と書きましたが、これは日本的な美意識だと思います。つまり、不均衡で非対称な美と、何かがあることを想像させる余白の美です。また、モチーフのカットアウトによってズームインしたような印象を与え、それによって画面の外への広がり感を出す構図のとり方です。江戸期の美術の一つの典型がここにあるような感じがしました。

それと同時に、この作品は琳派を思わせます。つまり「全面の銀の箔押し中に草花を描く」というところです。広い余白で草花を強調し、同時に銀地も映えるようにする・・・・・・。この絵の優美で、落ち着いて、洒落た感じは、江戸琳派の祖、酒井抱一(1761-1829)の絵といってもおかしくはないと思いました。

円山応挙は「写生」の画家と言われていて、それはその通りですが、今回の展覧会のテーマは「写生を超えて」となっていました。つまり「写生」を基調にしつつ、応挙が試みた様々な画風というか、スタイルの絵が展示されていました。酒井抱一を先取りするような『朝顔図』も、まさに "超えた" 絵の一枚だと思います。


白狐びゃっこ


白狐図.jpg
円山応挙 「白狐図」
安永八年(1779)46歳
(個人蔵)

白狐は日本古来の信仰である「稲荷神」であり、人々に幸福をもたらす "善狐" です。日本に生息している狐に "白狐" はいないと思うのでですが、動物の常で、稀に白い個体が出現することはあるのでしょう。なお、No.126「捕食者なき世界(1)」で書いた "ホッキョクギツネ" は冬毛が真っ白で、まさに白狐です。

この絵のポイントは、白狐を "白く描いていない" ことです。つまり絹地に何も描かないことで白狐を表現している(=塗り残し)。墨で描いた毛は体の外周から少し内側にあり、そのことで毛並みの "ふわふわ感" や "ソフトな感じ" を出しています。その感じが、全く何も描かれていない体の中の方にもつながっていると想像させます。絵画技法がピタッと決まった絵という感じです。

円山応挙は、有名な国宝『雪松図屏風』(今回の展覧会で前期に展示)の雪の表現で "描かないことで描く" 手法をとりました。それ以外にも、雪を同一の技法で描いた作品が展示されていました。たとえば『雪中水禽図』です。雪のフワフワした、軽い感じがよく出ていると思いました。

雪中水禽図.jpg
円山応挙 「雪中水禽図」
安永六年(1777)44歳
(個人蔵)

余談ですが、近代の画家で "描かないことで描く" 達人は川合玉堂だと思います。玉堂が雪景色を描いた作品を引用しておきます。「塗り残し」で動的な表現(=風)まで踏み込んでいるのが素晴らしいところです。

川合玉堂・吹雪.jpg
川合玉堂「吹雪」
大正15年(1926)

川合玉堂は岐阜出身ですが、京都に出て「円山・四条派」を学んだ人です。川合玉堂もまた円山応挙の弟子なのでしょう。

この技法が使えるのは玉堂作品にもあるように "雪" が一般的だと思いますが、それ以外では動物が考えられます。白い鳥(白鳥やシラサギなど)や白ウサギが思い浮かびますが、応挙が選んだのは神獣である狐でした。 "描かないことで描く" 手法が、ボーッと浮かび上がるような、現実の動物ではないような感じを出していて、そこが印象的でした。


藤花図屏風


重要文化財である『藤花図屏風』は、今回の展覧会で是非とも見たかった絵です。『朝顔図』と違って、こちらは総金地です。その中に、日本の和歌や絵画の伝統的なモチーフである "藤" が描かれています。

藤花図屏風.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」
安永五年(1776)43歳
(根津美術館蔵)

藤花図屏風・左隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻

藤花図屏風・右隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻

この屏風では、藤の幹・枝・蔓を描くのに、いわゆる「付け立て」の技法が使われています。筆や刷毛の全体に薄い墨を含ませ、先の方に濃い墨をつける。その状態で "一気呵成いっきかせいに" 一筆で描く。墨の濃淡やムラがあちこちに出現し、それによって幹・枝・蔓が表現されています。

もちろん事前にデッサンを重ねて、全体の構図を精密に決めてから描くのでしょうが、描く行為はそのものは一瞬です。やり直しはききません。いくら名手の応挙といえども、意図した以外の濃淡やムラも出るはずで、そういった偶然性も内包していると言えるでしょう。ここだけをとると、写生や写実とはほど遠い "前衛手法" という感じがします。まさに展覧会のテーマである「写生を超えた」表現です。

その一方で、藤の花と葉は時間をかけて丁寧にリアルに描いています。葉をバックに、空から降ってくるような花は華麗で美しい。その「リアルな美しさ」と「一気呵成」が違和感なく同居しているのが『藤花図屏風』です。異質なものを同居させて一つの屏風を仕立てた応挙の技量は、ちょっと感動的です。

「付け立て」に戻りますと、西欧の近代絵画に「筆触を残す描き方 = ブラッシュワーク」があることが思い出されます。つまり印象派の画家の描き方です。しかし応挙のブラッシュワークは濃淡のコントロールがあって大変に高度です。「付け立て」は日本画によくある手法ですが、その最良の例が応挙のこの絵でしょう。なお上で引用した川合玉堂ですが、玉堂の作品には「付け立てを使った藤の絵」があります。 明白に ”自分は応挙に習った” と宣言しているのです。

この『藤花図屏風』から連想したのは、印象派の絵というより、No.46「ピカソは天才か」で引用した『カナルス夫人の肖像』(バルセロナのピカソ美術館)でした。この絵においてピカソは肖像そのものを極めてリアルに描いています。しかしモデルがまとっているショールは、筆跡を生かした非常に素早いタッチです。薄いショールに最適な描き方だったのでしょう。つまり「リアルに描く緻密な筆」と「躍動する素早い筆」が同居しています。

ピカソと円山応挙は何の関係もありませんが、2枚の絵だけを見ると "一脈通じるもの" を感じます。文化的・歴史的背景や描かれたモチーフや絵画技法は全く違うのですが、絵であることは変わりません。描き方に類似のコンセプトがあったとしてもおかしくはない。こういうところに想いを馳せるのも、絵画を鑑賞する楽しみの一つだと想います。

藤花図屏風・左隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻・部分

藤花図屏風・右隻(部分).jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻・部分


瀑布亀図


瀑布亀図.jpg
円山応挙 「瀑布亀図」
寛政六年(1794)61歳
(個人蔵)

円山応挙が亡くなる前年に描いた絵です。この作品も異質な表現の対比が目を引きます。2匹の亀は写実的に描かれています。よく見ると簡易化しているところもありますが、受ける印象は親子亀をリアルに描いたという感じです。

一方、滝は直線をいくつか描いただけで表現されています。亀が乗っている岩も、"たらし込み" というのでしょうか、墨が滲んだ感じで、ぼんやりと描かれているだけです。滝壺は描くことさえなく、わずかな水しぶきだけで暗示されている。これらの表現は非常に抽象的です。特に滝が真っ直ぐな線だけというのが極端な抽象化で、現実とはほど遠い。これは「"勢い" の視覚表現」なのでしょう。単純な形が持つイメージの喚起力を引き出そうとしたようです。

『藤花図屏風』のような大作ではないけれど、"写実的" と "抽象的" を同居させた対比の妙という点では似通っています。晩年の応挙が描画力を自在に駆使して描いた洒落た絵、と感じました。


スタイルを超越する


今回の『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会でよく理解できたのは、応挙にはさまざまな "画風" というか、描き方のスタイルがあることです。朝顔図の "琳派風" だけでなく、大和絵や南画を連想させる作品があり、絵巻物があり、また西洋っぽい遠近法を使った眼鏡めがね絵("覗き眼鏡" 用の絵)まであります。多数あった動植物の写生は素晴らしく、そういった写生が基本であることは間違いなのですが、全体を見渡すとスタイルはいろいろです。応挙は一つの画風に収斂しゅうれんする画家ではないのです。

葛飾北斎もそうですが、応挙はスタイルを超越した画家であり、その意味において江戸絵画の巨人、そういう感想を持ちました。




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No.198 - 侵略軍を撃退した日本史 [歴史]

No.37「富士山型の愛国心」の中で元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)についてふれたのですが、今回はその継続というか、補足です。

最近の新聞に、元寇について近年唱えられた説の紹介がありました。日本の勝因は「神風」ではなかったという説です。それを紹介したいと思います。


日本の勝因は「神風」ではなかった


くまもと文学・歴史館の館長・服部英雄氏(日本中世史)は著書の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)で「神風=暴風雨」説を否定し、学界の内外にセンセーションを巻き起こしました。


(神風が勝因という)見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。

元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。

では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。

続く弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。

編集委員・宮代栄一
朝日新聞(2017.1.8)

服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈祷きとうをした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」

しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲わいきょくされ、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになる。

(同上)

AS20170106003383_comm.jpg
朝日新聞(2017年1月8日)
(www.asahi.com より)

ちなみに「モンゴル軍」と書いてあるところは「モンゴル・高麗連合軍」の方がより正確でしょう。記事の内容をまとめると次の通りになります。

文永の役で嵐があったという史料はない。嵐があったとしてもモンゴルの軍船に被害が出たという史料はない。

弘安の役では嵐があったが、嵐によるモンゴルの被害は一部にとどまる。

鎌倉武士は勝因を神風とは考えていなかった。武士は自らの戦績を誇った。

「神風」の主張したのは敵国調伏の祈祷をした神社・仏閣である。

明治期と第2次世界大戦中の2度にわたり「神風」が勝因だと叫ばれた。

① ② は歴史資料から見えてきた事実であり、③ の「鎌倉武士は戦果を誇った」というのは当然です。また ④ の「敵国調伏の祈祷の成果だと誇った」のも、神社・仏閣の立場としては当然でしょう。

しかし異常なのは明治から昭和にかけての「神風勝因説」( ⑤ )です。これは国家とマスコミが宣伝したわけですが、侵略軍を撃退した自国の歴史を否定し、暴風雨によって敵が去ったと主張することは、長い歴史を有し独立性を維持してきた国家としては異常だと思います。


無敵艦隊を撃退したアルマダの海戦


視野を広げて考えてみるために、外国の例をあげてみたいと思います。「侵略軍の撃退と暴風雨」というテーマでひとつ思いつくのは、16世紀に英国とスペインが戦った「アルマダの海戦(アルマダ戦争)」です。

1588年、スペインのフェリペ2世は無敵艦隊(アルマダ)をイギリスに向かわせました。時の英国国王はエリザベス1世です。フェリペ2世が無敵艦隊を出撃させた経緯は少々複雑なので省略します。とにかく、フェリペ2世はイギリスを "やっつける" ために無敵艦隊(約130隻)を差し向け、イギリス上陸をめざした(艦隊に軍馬を積んでいます)。対するエリザベス1世も海上で迎え撃つために艦隊を繰り出します。イギリス艦隊の副指令官は、元海賊だったフランシス・ドレークで、これは有名な話です。

決戦は英仏海峡付近の数回の海戦(=アルマダの海戦)でした。近年の歴史家の研究では、戦いはほぼ互角です。もちろんスペインは苦戦したし、イギリス側が有利に終わったとする見解もあります。しかし決定的な差がついたわけではない。スペインの誤算は、短期決戦で決定的に勝利できなかったことです。スペインにとっては完全に "アウェイ" の戦いなので、戦争が長引けば補給などの関係で不利になります。スペインはいったん自国に引き上げることにしました。

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無敵艦隊とイギリス艦隊
16世紀の作者不詳の絵(Wikipediaより)

無敵艦隊は、英仏海峡からスコットランドの北をグルッと迂回して北海から大西洋に出るルートでスペインに帰ろうとしました。ところがアイルランド沖で暴風雨に遭遇し、多くの船を失ってしまいます。スペインに帰港できたのは約半数と言います。



この戦争を、その後のイギリスではどのように自国民に宣伝したのでしょうか。当然、

  イギリスの軍人と兵士は勇敢に戦い、世界最強と言われたスペインの無敵艦隊を撃破した。その上、神の加護(嵐)もイギリス側にあった。

です。神の加護を言うにしても、まず最初に自国を侵略から守ったイギリス国民の勇気と働きを称え、その次に(補足として)神の加護です。神の加護に全くふれない(無視する)のもいいでしょう。それが普通の、正常な国家のあり方です。事実、エリザベス1世はイギリスの勝利を大々的に宣伝したし、その後のイギリスの歴史でも「無敵艦隊の撃破」が語り継がれました。

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エリザベス1世の肖像画。いわゆる「アルマダの肖像」で、背後にわざわざ無敵艦隊が描かれている。無敵艦隊を破ったあとの1588年の絵で、右手を地球儀の上に置いているという念の入れようである。Wikipediaより。


侵略軍を撃退した事実を否定する史観


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蒙古襲来絵詞 [部分](宮内庁・三の丸尚蔵館)。肥後の御家人・竹崎季長(すえなが)が、自分の戦いぶりを描かせたものと言われる。図は、モンゴル・高麗連合軍の船に乗り込む季長たち(至文堂 日本の美術 第414号 2000 より引用)

日本史に話を戻します。文永・弘安の役ですが、史料によると「暴風雨はなかったか、あったとしてもモンゴル軍の被害は軽微」だったようです。もちろん、史料に残っていない(ないしはまだ確認されていない史料に記載されている)暴風雨があったのかも知れません。モンゴル軍の被害も、史料にないだけで大きかったのかも知れない。しかし百歩譲って、たとえ暴風雨が主たる勝因だったとしても、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した。さらに神風の追い打ちもあって、モンゴル軍は退散した

と説明するのが正常な国家というものでしょう。もちろん暴風雨には一切ふれずに、

  日本全国から集まった武士は勇敢に戦い、侵略してくるモンゴル軍を撃退した

とするのもいいと思います。

侵略軍を迎え撃つ防衛戦を戦うためには、綿密な準備と作戦が必要です。海岸線の防衛設備、武器、機材、戦闘員の手配とその配置など、リアルな計画がいる。朝鮮半島に軍を出兵するのとはわけが違って、負けたら国が終わりです。一方、「神風」は空想の世界です。「勝因は神風」と喧伝するということは、「戦争をリアルには戦うな、空想の世界で戦争をやれ」と言っているに等しい。これでは絶対に戦争に勝てません。

また、文永・弘安の役は日本史において一方的に迫ってきた外国侵略軍を撃退した貴重な歴史です。勝因を「神風」だと言うことは、勇敢に戦った武士たちを愚弄するものだし、死んでいった武士たちや虐殺された対馬の住民の魂に唾をかけるようなものです。武士だけでなく、日本人そのものをおとしめています。さらに、勝因は神風などと言っている限り、"自らの手で国を守る気概" など生まれようがないと思います。

自虐史観というのはイヤな言葉で、あまり使いたくはないのですが、自虐史観と呼ぶに値する唯一のものは「文永・弘安の役の勝因は暴風雨」説だと思います。




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No.197 - 囲碁とAI:趙治勲 名誉名人の意見 [技術]

2016年3月、韓国のイ・セドル九段とディープマインド社の「アルファ碁」の5番勝負がソウル市内で行われ、アルファ碁の4勝1敗となりました。イ・セドル九段は世界のトップクラスの棋士です。コンピュータはその棋士に "勝った" ことになります。この5番勝負とアルファ碁については次の三つの記事に書きました。

No.174 ディープマインド
No.180 アルファ碁の着手決定ロジック(1)
No.181 アルファ碁の着手決定ロジック(2)

その8ヶ月後の2016年11月に、今度は日本最強の囲碁プログラム、DeepZenGoと趙治勲ちょうちくん名誉名人の3番勝負(第2回 囲碁電王戦)が開催され、趙名誉名人の2勝1敗となりました(11/19, 11/20, 11/23の3戦)。"人間側" の勝利に終わったわけですが、日本の囲碁プログラムが互先たがいせんでプロ棋士に勝ったのは初めてです。第1回 囲碁電王戦(2014)ではプロ2人とアマ名人相手に1勝もできなかったことを考えると、格段の進歩だと言えます。

以上の、アルファ碁 対 イ・セドル九段、DeepZenGo 対 趙名誉名人の棋戦を、趙名誉名人本人が振り返ったコラム記事が新聞に掲載されました。実際に囲碁プログラムと互先で戦ったトップ棋士の意見として貴重なものです。また大変に興味深い内容だったので、以下にそれを紹介したいと思います。

なお、DeepZenGo の前身は日本の有名な囲碁プログラム、"Zen" です(市販されている)。それに深層学習を取り入れた強化版が DeepZenGo です。以下、Zen と DeepZenGo を区別せずに "Zen" と書きます。趙名誉名人の記事もそうなっています。Zen の開発者は尾島陽児氏と加藤英樹氏(開発チーム代表)で、強化版の開発にあたっては深層学習の権威である松尾豊・東大准教授の研究室が協力しました。


イ・セドル九段 対 アルファ碁


まず趙さんはアルファ碁とイ・セドル九段の対局にふれ、その数ヶ月前に欧州チャンピオンに勝ったときと比べて、アルファ碁が急速に強くなったことを説明します。


欧州王者を下した時のアルファ碁を見るかぎり、アルファ碁は弱かった。勝負もどっこいどっこいで、どちらが勝つこともありえた。

欧州王者はセドルには到底及ばない。周囲にはセドルが100%間違いなく勝つと断言していた。ただ、欧州王者からセドルとの対局までの2ヶ月間で、ものすごく強くなっていた。人間だと200年か2000年かかる成長だ。天才でも最低20年はかかる。

趙治勲名誉名人「囲碁とAI」
(日刊工業新聞 2016.12.15, 16, 20, 21)

ここで趙さんが強調しているのは「アルファ碁は短期間で急激に強くなった」ということです。20年・200年・2000年という数字が出てきますが、これは趙さん独特の表現でしょう。なおアルファ碁と欧州王者との対戦は2015年10月、イ・セドル九段との対戦は2016年3月なので、その間は4~5ヶ月あります。趙さんが「2ヶ月間で」と書いているのは勘違いだと思います。

そのイ・セドル九段とアルファ碁の対局(5回戦)ですが、第1局、第2局と、イ・セドル九段はアルファ碁に連敗を喫してしまいます。この戦いを趙さんは次のように解説しています。


1局目は途中までセドルが勝っていた。アルファ碁の手は完璧ではなかった。ただ一発、いい手が入りセドルの動揺を誘った。正しく対応すれば大丈夫だったはずが、逆転されそのまま負けてしまった。相手が人間なら逆転したことで、自身も浮足立つ。ただAIは動揺せず押し切られた形だ

この負けがセドルをおかしくした。2局目はアルファ碁が良い碁を打った。人間なら疲れを持ち越してしまうがAIに疲労はない。セドルが完敗した。

(同上、以下同じ)

第1局と第2局の敗戦をふまえ、イ・セドル九段は第3局で対局の方針を変えたと趙さんは言います。


セドルはアルファ碁のとの対局で先に2敗し、後がなくなって仲間と人工知能(AI)を分析したそうだ。序盤に優勢に持ち込む必要があると結論が出て、戦略を持って3局目に臨んだ。

ただ、普段のセドルは相手の弱点を突く碁は打たない。自身の強さに絶対の自信を持っていて、ただ最善手を打って勝ってきた。セドルが相手の弱点を探すこと自体、動揺の表れだろう。3局目に敗れて負け越しが決まった。


3連敗したあとの第4局で、イ・セドル九段は妙手を放って勝ちます。


そこで最善を尽くす本来の姿に戻った。4局目も苦しい碁だったが、セドルは妙手を打った。これでコンピュータが狂い、素人同然のめちゃくちゃな手を打ち出した。


続く第5局はアルファ碁の勝ちに終わり、結局4勝1敗でアルファ碁が勝利しました。この棋戦全体を、趙さんは次のように振り返っています。


結果、4勝1敗でアルファ碁が勝ったが、1局目も2、3局目も弱点はたくさんあった。

セドルはアルファ碁を甘く見ていたため、動揺して弱点が見えなくなってしまったのだろう。驚き、AIの強い部分だけを見ると弱い部分が見えなくなってしまう。

セドルが平常心で打てば力量はアルファ碁に勝っていた。AIは完璧ではないし、最後の詰めが甘い。私も勝つ自信がある。ただ3ヶ月で欠点を克服したと聞く。どこまで強くなっているのか試したい



イ・セドル九段の敗戦の理由


趙治勲名誉名人といえば、歴代最多のタイトル獲得(74回)を誇り、第25世本因坊でもあるトップ棋士です。その趙さんが考えるイ・セドル九段の敗戦の理由は、

  アルファ碁を甘く見ていために、動揺し、平常心を失った

という極めて人間的なものです。「セドルが平常心で打てば、力量はアルファ碁に勝っていた」と趙さんが書いているのは(対戦当時のアルファ碁では)その通りなのでしょう。

逆にアルファ碁は、平常心というか、"心" はないので常に "平常" だったと言うべきです。趙さんも書いているように、人間なら「逆転して有利になった」と思った瞬間、浮き足立って逆に悪い手を打ってしまうことがあるのですが、そういうこともない。動揺、焦り、浮き足立つ、疲れ、うっかり、 ・・・・・・ そういうものに一切関係がありません。

アルファ碁を甘くみていたとの趙さんの見解ですが、しかしこれはやむをえないとも言えます。「欧州王者を下した時のアルファ碁を見るかぎり、アルファ碁は弱かった(趙さん)」のだから・・・・・・。No.181「アルファ碁の着手決定ロジック(2)」に書いたように、アルファ碁を開発したディープマインド社が英雑誌「Nature」に投稿した論文によると、欧州王者を下した時のアルファ碁の棋力はプロ五段相当です。イ・セドル九段に比べると断然弱い。従って趙さん自身も「周囲にはセドルが100%間違いなく勝つと断言していた」わけです。イ・セドル九段も、またイ・セドル九段の周囲も、おそらくそう思っていたでしょう。

しかしアルファ碁は急速に強くなった。その詳細は明らかではありませんが、自己対戦を繰り返して強化学習をさらにやったのかも知れないし、ハードウェアを増強してより深く読めるようになったのかも知れない。そのどうであれ、ここでわかることは「急速に強くなることがある。それがAI」ということです。人間の天才が20年かかる進歩(趙さんの表現)を数ヶ月で成し遂げることもあり得る。

趙さんによるとアルファ碁には弱点もあって、それは「最後の詰めが甘い」ことです。趙さんは「イ・セドル九段と対戦した時のアルファ碁には勝つ自信がある、その後に欠点を克服したと聞くが、どこまで強くなっているのか試したい」と書いています。



「どこまで強くなっているのか試したい」とあるように、趙さんはアルファ碁と対戦してみたいと公言していました。その対局は実現していませんが、日本製の囲碁AI、Zen との対戦が実現する運びになりました。


趙治勲名誉名人 対 Zen


イ・セドル九段とアルファ碁との対戦の8ヶ月後の2016年11月、日本最強の囲碁プログラム Zen と趙さんの対局が実現することになりました。冒頭に書いたように、深層学習で強化した Zen(正式名:DeepZenGo)です。なお、以下の引用の 《第1局》 《第2局》 《第3局》 は記事に付け加えたものです。

電王戦3局.jpg
電王戦第3局(2016.11.23)の趙治勲名誉名人(右)と開発チームの加藤英樹代表
(site: newswitch.jp)

日本製の囲碁AI「Zen」は以前から実力を知っていた。6ヶ月前に3子を置いて棋士に勝ったが、3子は片手片足で相撲をとるようなもの。勝負ではなくレッスンだ。その碁を解説したが負ける気はしなかった(引用注:Zen が小林光一名誉棋聖に3子を置いて4目半勝ちした碁を指す)。

《第1局》
Zenもアルファ碁同様、石の捨て方がうまい。序盤に布石のうまさが出た。布石は私より上手だろう。序盤は私が劣勢。中盤、形勢が良くなり、楽観しながら堅めに打ち、後半は良い勝負。Zen は形勢が悪くなると悪手が出る。悪手を見て勝ちを確信した。

《第2局》
反対に2局目は序盤で私がひどい手を打ってしまった。棋士としてはずかしい。

《第3局》
これで開き直り、(ゴルフの)OB覚悟で打ったら、Zen も気が緩んだのか、人間のようなミスをした。私は勝ちに行く手を選び、(Zenは:引用注)強引になってしまった。それで負けが決まった。

趙治勲名誉名人「囲碁とAI」
(日刊工業新聞 2016.12.15 - 12.21)

趙治勲名誉名人は Zen との対戦の経験をふまえて、AIの棋力について、次のように書いています。


AIの序盤の布石は素晴らしい。私は欲深い手を打って、相手をリードしようとしてしまう。AIは損得でなく、自然体だから強いのだと思う。真っ白なキャンバスに自由にデッサンしているようだ。創造性を身につけたように思える。

一方、終盤は未知数だ。まだまだ精進する必要がある。これは勉強すれば何とかなる。ただ創造性の部分は鍛えるには限度がある。最初の50手は創造の世界なのだ。AIが絵画や音楽などの芸術の分野でも活躍できるのではないかと思う。

(同上、以下同じ)


AIによって囲碁は発展する


趙治勲名誉名人はコラムのまとめとして、AIによって囲碁界は発展するだろという主旨の見解を述べています。


人工知能(AI)の台頭を恐れる考えもあるが、囲碁にとっては良いことだらけだ

トーナメントプロでは、日本でチャンピオンになっても世界にはまだ上がいる。ここにAIが入ってきただけだ。人間は世界チャンピオンになると、自分が最強だからとおごってしまう。AIは謙虚なままだ。チャンピオンは人間でもAIでもいい。棋士は、より強くなるために勉強し続ける。

レッスンプロはAIの手を借りられる。アマチュアが強くなり裾野が広がる。指導する一人ひとりに合わせた人間味のある教え方や、かゆいところに届く指導がちゃんと評価されるようになる。


このくだりで趙さんは、トーナメントプロ、レッスンプロ、アマチュアのそれぞれで、"AIの使い方" や "AIに対する向き合い方" があることを述べています。AI技術を使うと囲碁のアマチュアに対する完全個別指導がいつでも行える環境を作れる可能性があるわけです。これは囲碁人口を増やすことにつながります。

趙さんの "自信" の背景にあるのは、囲碁がとてつもなく奥深いものだという絶対の確信でしょう。この奥深さは、次のように表現されています。


碁は本当の面白さがわかるまで年月がかかる。例えばアルファ碁とイ・セドル九段の対局を理解できる人は世界に1000人もいない。私も中国や韓国のトップ棋士の対局は一度石を並べるだけではわからない。現在もトップ棋士はどんどん進化しているからだ。何度も石を並べ直して理解している。

普通の人も AI の助けを借りて強くなれば、トップの奥深さがわかり、その魅力に一生離れられなくなるだろう。それは6ヶ月前の Zen くらいだろうか。囲碁の競技人口は4000万人。10億人が打つようになればまったく新しい手も出てくる。AI も強くなり、棋士はもっと勉強して高みを目指す。



井山裕太 六冠の意見


趙治勲名誉名人に続いて、井山裕太 六冠(六冠は2017.1 現在)の意見も付け加えておきたいと思います。井山さんは囲碁プログラムと互先で戦った経験はありませんが、2017年3月に DeepZenGo と戦う予定があります。また言うまでもなく現代日本の最強の棋士であり、その方が AI をどういう風に見ているかは重要でしょう。


アルファ碁の棋譜をみると、部分的なヨミでは常に正しい正解を打っている感じてもなく、まだまだ人間の方が上かと思いましたが、人間的にいう大局感というのか、部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている局面が多かったように感じました。

井山裕太 六冠
朝日新聞(2017.1.3)

今の段階では、ぱっとは目がいかないけれど、打たれてみるとなるほどと感じる部分はある。AI が生み出す新たな撃ち方、考え方を吸収できる。それで囲碁の可能性が広がればいいと、ポジティブに受け止めています。

AI が人間を完全に凌駕りょうがしてしまったら、今までと同じようにファンのみなさんが棋士同士の戦いを楽しんでくださるのか、気になるところです。でも自動車が出現しても、陸上競技の魅力は色あせません。人間には感情がある、疲れがある、ミスが出る。それらを含めての魅力が、人間同士の戦いにはあります

囲碁はまだわからないことだらけですが、私も徐々にではあるけれども強くなっている、進歩しているという感覚があります。強い気持ちで新たなステージに臨もうと思います。

(同上)

ちなみにこの朝日新聞の記事の中で井山 六冠は、「アルファ碁は、うわさレベルではさらに強く、とてつもないレベルに達していると聞きます」と発言しています。まさにその通りのようで、2016年末から 2017年初頭にかけて "新アルファ碁" が 囲碁対局サイトの「東洋囲碁」と「野狐のぎつね囲碁」に登場し、トッププロと対戦して60連勝しました。井山 六冠もその中の一人だとされます。

これはもちろん早碁ですが、持ち時間が十分ある碁ではどうなのでしょうか。それでも「ものすごく強いだろう」という大方の推測です。日本棋院は所属の棋士に全60局の棋譜を配布するとありました。"新アルファ碁" は日本だけでなく中国、韓国の棋士によって徹底的に研究されるでしょう。"新アルファ碁" とトッププロとの本格対局も予定されているようなので、注視したいと思います。


AIの "大局感"


これ以降は趙治勲名誉名人と井山裕太 六冠の意見についての感想です。

趙治勲名誉名人と井山裕太 六冠の意見に共通することは、二人とも AI囲碁にポジティブなことです。それは、囲碁のプロフェッショナルとして、

強い相手と対戦してみたい
囲碁の神様がいるなら、それを感じてみたい
そのことによって自らも進歩したい

という意欲・意識だと思います。では AI のどこが強いのか。二人の意見を総合してその強さを一言でいうと「大局感」だと思います。

AIの序盤の布石は素晴らしい(趙)。
Zen もアルファ碁同様、石の捨て方がうまい(趙)。
部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている(井山)。

などをまとめると「大局感に優れている」ということだと思うのです。我々は普通、コンピュータの得意なところは細部の緻密な計算やヨミだと考えます。全体を見渡してマクロ的・直感的にものごとを把握するのは苦手だと考えるのが普通です。しかし囲碁の AI は逆です。全体を俯瞰する大局感の方が優れていて、細部に関しては「最後の詰めが甘い(趙)」とか「部分的には最善ではない(井山)」のです。



その理由を考えてみると、次のようだと想像できます。DeepZenGo も基本的にアルファ碁のロジックにのっとっているそうなので(日経ITpro 2016.11.09 の記事による)No.180-181「アルファ碁の着手決定ロジック」に沿って考えてみます。

アルファ碁の基本ロジックは「モンテカルロ木検索 - Monte Carlo Tree Search : MCTS」です。MCTSでは局面の勝率を判定しながら、有力な候補手を次々と木探索するのですが、局面の勝率を推定するのに使われるのが「ロールアウト(=プレイアウト)」です。ロールアウトとは、とにかく一定のロジックに従って終局までプレーしてみて勝ち負けを判定し、それを多数繰り返えし、その勝率を局面の勝率とするというものです。

No.180-181で書いたように、アルファ碁は独自の rollout policy でロールアウトをします。しかしそれだけではありません。policy networkvalue network という2つの多層ニューラルネットワーク(Deep Neural Network。DNN)をもっています。その働きは次の通りです。

policy network
囲碁のルール上許されるすべての手について、次に打つ手としての有力度合いを数値(確率分布)で示すDNN。

value network
局面の勝率を推定するDNN。膨大な局面のサンプルをもとに policy network を使ってロールアウトした事前シミュレーションに基づいて作成される。

というものです。そしてアルファ碁の勝率判定は rollout policy を使ったロールアウトによる勝率判定と、value networkによる勝率判定ををミックスして行われています。

結局のところ「アルファ碁の勝率判定はロールアウトによる」と言えるでしょう。ロールアウトは「とにかく終局まで打ってみたらどうなるか」というシミュレーションです。これを候補手(合法手)について、手の有力度合いに従って繰り返し、勝率の高い手を選ぶ。

つまり、常に白紙の状態で、終局までを見据えて(=最後までヨセて)最適な手を選んでいるのがアルファ碁です。一切の "こだわり" がない。これが「自然体」とか「真っ白なキャンバスに自由にデッサンしているよう」という趙名誉名人の感想や、「部分的に最善でなくても全体では遅れていない、むしろリードしている」という井山 六冠の発言につながり、それが大局感に優れていると見えるのだと思います。


AI は意味を説明できるか


趙名誉名人の新聞コラムの中に、AI によって囲碁の裾野が広がるという主旨の発言がありました。つまり「AI によって一人一人に合わせた教え方や、かゆいところに届く指導ができる。アマチュアが強くなり裾野が広がる」との主旨です。これは果たしてどこまで正しいのでしょうか。

もちろん、アマチュアを指導する囲碁の先生が、AI を参考にしながら指導するのは可能であり、大いに役立つと思います。しかし AI だけがアマチュアを指導する(=AI指導碁)というのは、どうなのでしょう。

"AIの先生" が打つべき候補手を数手示し、それぞれの勝率を示すのはいつでも可能です。しかし、たとえば候補手① の勝率は 60%、候補手② の勝率は 50%としたとき、①が 10%だけまさる理由を AI は説明できるのでしょうか。「②は相手の厚みに近寄り過ぎていて攻められる恐れがある、①のように控えるのが正しい」というようにです。また逆に「形勢が悪いので、思い切って相手の厚みに近寄ってでも模様を張る①が正解」という風にです。結論だけを言われても、人は納得はできないのです。

"捨て石" に関して言うと、趙名誉名人は、AI は捨て石がうまいと語っています。これは井山 六冠の「部分的に最善でなくても全体ではリードしている」という発言とも関係しているのでしょう。では、なぜその場面で石を捨てるのがいいのか、石を助けずに別の場所に打つのがより勝率をあげるのか、AI は説明できるでしょうか。「捨てたと見える石も完全に死んだわけではなく、あとあとの進行でこういう風に有効に生かせるから」というような、"捨てる理由" を説明できるかという問題です。

もちろん中には説明できるケースもあるでしょう。No.180-181「アルファ碁の着手決定ロジック」でもわかるように、シチョウに取られないようにするとか、ナカデで死なないようにするとか、ダメヅマリを回避するとか、そういった理由は説明できそうです。しかしこれらはアマチュアの囲碁初級者でも分かる理由です。かつ、局所的・部分的な打ち手に関する理由です。AI が得意なのは局所的・部分的ではなく、大局的な最善手を打つことでした(趙、井山両氏による)。その大局的な最善手について、そう打つ理由を AI は説明できるでしょうか。

このあたり、現代のAIの本質的な問題点がありそうです。「なぜだか分からないし、理由はさだかではないが、結構正しい」のが AI の出す回答だということがよくある。囲碁のプロなら AIが打つ手の意味を即座に解説できたとしても、AI 自身は分かっていない。逆に言うと、意味を無視して膨大なデータを統計的に処理するからこそ、AIの有効性や可能性があると言えるのでしょう。

もちろん囲碁に限っていうと、AI のヨミ筋はコンピュータに蓄えられているので、そのヨミ筋の解析から打ち手の理由や意味を解説できるようになるかもしれません。ただしこれは機械学習では無理でしょう。「ある局面における次の一手とその意味」を蓄積したビッグデータが存在しないからです。「ある局面と次の一手」というデータは膨大にあるけれども・・・・・・。従って人間が教え込む必要があるのですが、かなりの難作業ではないでしょうか。

アルファ碁が打った手の意味を真に解説できるのは、開発会社のディープマインド社の社員ではなく、アルファ碁の棋譜を詳しく研究したプロ棋士だと確信します。



ここで思い出すのは、前回の No.196「東ロボにみるAIの可能性と限界」で引用した、国立情報学研究所の新井教授("ロボットは東大に入れるか" プロジェクトのリーダ)の発言です。新井教授は中高生向けに講演するとき次のように話すそうです。


(AI は)数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からず AI に奪われる。私は次のように講演を締めくくる。

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください。それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AI によって不幸にならない唯一の道だから」

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016.11.25)

人間は普通、暗黙であれ意識的であれ、意味・意図・理由を持って(込めて)行動します。だからこそ、良い結果の経験を蓄積したり、逆に悪い結果から反省をして進歩するわけです。無意味に(意味も分からずに)行動していたのでは進歩がありません。

囲碁とAIというテーマで見えてくるもの、それはやはり「機械学習によるAI」の驚くべき可能性と、その裏にある課題、ないしは限界だと思いました。




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No.196 - 東ロボにみるAIの可能性と限界 [技術]

No.175「半沢直樹は機械化できる」で、国立情報学研究所の新井紀子教授をリーダとする「ロボットは東大に入れるか」プロジェクト(略称 "東ロボくん")の話を書きました。東ロボくんの内容ではなく、プロジェクトのネーミングの話です。つまり、

プロジェクトの存在感を出すために、是非とも "東大" にしたかったのだろう(本来なら "ロボットは大学に入れるか" でいいはず)。

新井教授は「ロボットは東大に入れない」と思っているのではないか。その証拠にプロジェクト名称が疑問形になっている。

の2点です。

「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトは2011年に開始され、2013年からは模擬試験を受験しています。2016年11月14日、今年の成果発表会が開催されました。以下はその内容です。

ロボットは東大に入れるか.jpg
国立情報学研究所ニュース(NII Today)No.60(2013.6)。特集「ロボットは東大に入れるか」の表紙


東大は無理、MARCH・関関同立は合格可能


まず、新井教授が朝日新聞デジタルに寄稿した文章から引用します。


今年も「東ロボくん」の受験シーズンが終わった。今年ついに、関東ならMARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)、関西なら関関同立(関西、関西かんせい学院、同志社、立命館)と呼ばれる難関私大に合格可能性80%以上と判定された。だが、東京大学には及ばなかった。現状の技術の延長線上では、AIが東京大学に合格する日は永遠に来ないだろう

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016年11月25日)

この合格可能性判定は、ベネッセコーポレーションの「進研模試」(大学入試センター試験模試)で行われました。東ロボくんの5教科8科目の成績は525点であり(950点満点。全国平均:437.8)、偏差値は57.1でした。

やはり東大合格は無理、今のAI技術では、というのが新井教授の所感です。しかし「MARCH・関関同立」なら合格可能性80%以上というのは、それはそれですごいことではないでしょうか。ちなみに、全国の大学を対象とした東ロボくんの合格可能性は以下の通りでした。

  調査対象 合格可能性80%以上
大学 学部 学科 大学 学部 学科
国公立 172 576 2096 23 30 53
私立 584 1753 4309 512 1343 2993
756 2329 6405 535 1373 3046
(site : pc.watch.impress.co.jp より)

どの大学のどの学部が合格可能なのか、個別の発表はありませんでしたが、「MARCH・関関同立」については学部・学科の平均として、ないしは一部の学部・学科が80%ラインに入っているということでしょう。また国公立大学でも、23大学の30学部・53学科で合格可能性80%以上と判定されていることも注目すべきです。この結果で、プロジェクトの当初目標が達成されたと新井教授は言います。


11年にプロジェクトが始まり、私は目標を立てた。3年でどこかの大学に合格させる。4年目には箱根駅伝に出るような名のある大学に、5年目は国公立大学に。そして6年目に、MARCH・関関同立に合格させたいと思った。可能性は五分五分だろう。

(同上)

「東ロボくん」2016年成果報告会のポスター.jpg
「東ロボくん」2016年成果報告会のポスター

6年目に「MARCH・関関同立に合格」という目標は達成されたようです。これは "よくやった" とも言えるし、逆に言うと、アッと驚くようなブレイク・スルーは無かったとも言えます。ディープマインド社の "アルファ碁" は世界トップクラスの棋士を破ってAI研究者たちをアッと言わせたのですが(No.174「ディープマインド」No.180-182「アルファ碁の着手決定ロジック」)、そういうわけにはいかなかった。これはもちろん、碁と違って大学入試には多種の科目があり、科目ごとにAIの適用技術が違うからでしょう。大学入試は総合的な知力の勝負です。特に難関国立大学はそうです。

従って東ロボくんが東大や「MARCH・関関同立」に入れる・入れないということより、科目に得手・不得手があって、そこが明らかになったことにこそ、「東ロボくん」というプロジェクトの意義がありそうです。その、科目別成績は次のようです。


東ロボくんの科目別成績


大学入試センター模試の成績
ベネッセコーポレーション「進研模試」
(カッコ内は昨年の成績)
  得点 全国平均 偏差値
英語(筆記) 95(80) 92.9 50.5(48.4)
英語(リスニング) 14(16) 26.3 36.2(40.5)
国語(現代文+古文) 96(90) 96.8 49.7(45.1)
数学 I A 70(75) 54.4 57.8(64.0)
数学Ⅱ B 59(77) 46.5 55.5(65.8)
世界史 B 77(76) 44.8 66.3(66.5)
日本史 B 52(55) 47.3 52.9(54.8)
物理 62(42) 45.8 59.0(46.5)
合計(950点満点) 525(511) 437.8 57.1(57.8)
朝日新聞(2016.11.15)

昨年と比較すると、科目合計の偏差値で 0.7 ポイント下がっていますが、全体的には昨年同様の成績と言えるでしょう。上がった科目もあり、下がったものもあります。

得意科目をみると、世界史の66.3という偏差値が光っています。世界史は、教科書やインターネットなどから歴史記述や文献を大量に集め、それをもとに回答するという「従来からの得意分野」のようです。不得意科目は、英語、特にリスニングです。なぜ不得意かについては新井教授の解説があるので、それをあとで紹介します。

とにかく、東大に合格するためには最低でも100点満点で80点以上は必須ということなので、東ロボくんは "東大合格にはほど遠い" ということが分かります。



また東ロボくんは、東大の2次試験模試も受験しました。その成績が次です。

東大2次試験向け模試
代々木ゼミナール・論述式
  得点 全国平均 偏差値
世界史 16 14.5 51.8
数学(文系) 46 19.9 68.1
数学(理系) 80 30.8 76.2
朝日新聞(2016.11.15)

センター模試とは違って世界史が全国平均をわずかに上回る程度の成績です。これは「問題の趣旨を理解できなかったり、時代や地域を取り違えたりして取りこぼした」そうです(毎日新聞デジタル。2016.11.14による)。

一方、数学(理系)は偏差値76.2という立派な成績、というより凄い成績です。この数学の数字だけをみると、全国で最難関の東大理Ⅲに合格できそうです。東大理Ⅲに合格する人の数学の偏差値は70代後半から80越えのあたりだと言います。しかも東大理Ⅲの受験生で差が付くのは数学です。そこをAIは突破した

しかし、理Ⅲを含め東大は "一芸" で入れるような大学ではありません。そこが難しいところです。数学だけでは東大理Ⅲクラスだが、受験科目全体ではMARCH・関関同立レベルであるところが、AIという技術を象徴していると思います。



センター模試に成績にもどりますと、全体的に昨年と似た成績であり、1年間の "猛勉強" の成果は(試験結果で見る限りでは)あまりなかったと言えるでしょう。この結果を踏まえて新井教授は以下のように語っています。


昨年同様の成績だったことで、AIの可能性や限界が分かった。今後は得意分野を伸ばし、産業応用レベルに高めることを目指す。

新井紀子
朝日新聞(2016.11.15)

要は、東大は断念ということです。しかし新井教授の話にあるように、東ロボくんの目的は「AIの可能性と限界」を明らかにすることでした。AIの可能性というのは「AIの威力」と言ってもいいと思います。全く問題文の「意味」を把握していない東ロボくんが、MARCH・関関同立に合格できる。このAI技術の威力はすごいと思います。逆にいうと、問題文の意味を把握している(はずの)受験生がMARCH・関関同立に合格するのはどういう意義があるのだろう、と考えてしまうわけです。要するにMARCH・関関同立の受験問題を解くというレベルにとどまっている限り、人間の(その部分の)能力はAIに代替されるだろうということです。これはひとつの警鐘です。

それでは逆に、東ロボくんで見えた「AIの限界」とはどういうことでしょうか。ここが核心です。


AIの限界


東ロボくんで見えてきた「AIの限界」について、新井教授は日経産業新聞に大変分かりやすい解説を寄稿していました。それを紹介したいと思います。


めったにお目にかからない事例が全体のかなりの割合を占めている状態を棒グラフにすると、長い尾のように見える。

こうした現象は「ロングテール」と呼ばれ、物販ではよくある。米アマゾン・ドッド・コムでは、売り上げの過半を1年に数点しか売れないような商品が占める。実は大学入試の問題を人工知能(AI)に解かせようとしたときに直面するのもロングテール現象だ。

新井紀子
日経産業新聞(2016.12.8)
(コラム:Smart Times)

新井紀子教授.jpg
「東ロボくん」2016年成果報告会で、新井紀子教授(2016.11.14 一橋講堂)
(www.itmedia.co.jp)
まず新井教授が持ち出すキーワードは、ネットワーク社会でしばしば見られる現象を示す「ロングテール」という、ちょっと意外な用語です。

アマゾン・ドッド・コムは、もともと書籍の販売から始まりました。街の書店だと、1年に数冊しか売れない本を置くのはビジネスの効率を下げるので限界があります。しかし地価の安いところに巨大な物流倉庫を作り、本を在庫してネットで販売すれば、ほとんど売れない本でも利益が出る。アマゾンが創造したビジネスモデルです。結果として「あまり売れない多数の本 = ロングテール」に光が当たるわけで、本に関して言えばこれが本来の文化のありかたでしょう。ちなみに、iTunes Music Store ではすべての曲が一度はダウンロードされたという話を以前に聞いたことがありますが、同類の現象です。この "ロングテール" が入試問題とどういう関係があるのでしょうか。


大人に「大学入試にはどんな問題が出たか」と聞くと、たいていが「暗記と計算」と答える。科目を指定して、「英語ではどんな問題が出たか」と聞くと、「発音と文法問題」「和文英訳と英文和訳」と答えたりする。

だが、数学のセンター入試において単純な計算問題は全体の1割程度しかない。英語において発音と文法問題が占める割合も同じぐらいだ。

AIプロジェクト「ロボットは東大に入れるか」を2011年に始めた後、1年かけて過去20年のセンター入試と旧帝大の個別学力試験(2次試験)を分析した。その結果、「これは何の問題」と分類できるような問題群は、どんなに多く見積もっても全体の半数にとどまることがわかった。

(同上)

半数以上の問題は分類できない問題であると分析されています。分類できないとは、同一傾向の問題が他にないか、あったとしてもわずかなので、分類を始めるとキリがないということでしょう。つまり半数以上の入試問題はロングテールを構成しているわけです。


もうすこし具体的に説明しよう。あるリスニングの問題。母と息子の会話が流れる。父親のためにバースデーケーキを手作りしているらしい。息子がたずねる。「ブルーベリーはクリームの上に置いたほうがいいかな、それともクリームとクリームの間に置いたほうがいいかな」

東ロボは完全に音声認識できた。しかし、そこで問われたのは「この結果としてできあがったケーキはどれか。次の4枚のイラストから選びなさい」である。これはリスニングの問題ではない。リスニングをし、文書の意味とイラストの内容を理解し、そこから常識推論して判断する ── という複合問題なのである。

デコレーションケーキの問題は一度出たら、たぶん二度と出ない。翌年には、ダンスパーティーへの誘い方が、翌々年にはハンバーガー店での注文の仕方が問われた。

英語では、航空チケットや博物館の入場料金表のような、広い意味での表の読解も求められる。航空チケットの読み方をAIに覚えさせても、料金表には対応できない。そして航空チケットがテストに登場するのは一度だけだ

(同上)

この説明でロングテールの意味が明確になるとともに、東ロボくんがなぜリスニングが不得意か(他の教科と比べて)が理解できます。リスニングの問題というのは、実は「リスニングもある常識推論の問題」なのですね。だから、毎年新しい "ジャンル" の問題が作れる。高校3年生の常識の範囲に限っても、ほとんど無尽蔵に新しいジャンルの問題を出せるわけです。デコレーションケーキの作り方、ダンスパーティーへの誘い方、ハンバーガー店での注文の仕方の3つには何の関連性もないのだから・・・・・・。リスニングの問題というのは問題の本質を分析すると、リスニングというジャンルではくくれない、一つ一つがそれぞれ違う "ロングテールの典型" ということです。そして東ロボくんはロングテールに弱い


このように多様な「状況」が無尽蔵にあるのが人間の社会なのだ。状況が比較的限られる数学や、試験で問うことができる確実な事実に限りがある日本史や世界史とは異なり、英語や国語、物理といった科目では、いくらでも自然に状況を生み出すことができる。

こうした科目では、パターンで解ける問題は限りがあり、ビッグデータによる統計的手法に頼らざるをえない。では、どれだけのデータが必要になるか。

今年、東ロボの英語チームは次のような見解を示した。語順整序や文法の穴埋め問題のような「一文を正しくする」問題の正答率を9割程度に上げるために、AIが学習に要したのは約500億文であった。会話文を完成させるような複文問題で9割程度の正答率を達成するには、少なくとも500億の会話のパターンが必要だろう。

しかしそのようなデータは存在しないし、自動的に収集できる見込みもない。人手に頼って作成するにはざっと500兆円かかる計算になる。

(同上)

ちなみに、会話文(複文)の完成問題は、たとえば次のようなものです(これは今まで引用してきた日経産業新聞に新井教授が寄稿した記事ではありません)。


次の会話の(  )内に入る最も適当なものを①~④の中から選べ。

Parker : I hear your father is in hospital.
Brown : Yes, and he has to have an operation next week.
Parker : (   ) Let me know if I can do anything.
Brown : Thanks a lot.

① Exactly, yes.
② No problem.
③ That's a relief.
④ That's too bad.

問題提供:代々木ゼミナール
(www.itmedia.co.jp より)

これが単なる英文解釈でないことは明らかでしょう。それぞれの発話の意図を理解し、会話として自然な人間の感情の流れを答える問題です(正解は④)。



AIの限界の一つは「無尽蔵にある状況への対応」です。少なくとも現代のAI技術では、そこに限界がある。今のAI技術の主流を極く簡単に言うと「問題に関連するビッグデータを収集し、統計手法で答えを導く」というものだからです。

従って、たとえば世界史の論述問題は東ロボくんの得意分野になります(今回の東大模試では "取りこぼした" ようですが)。高校3年生がアクセスしうる世界史の情報には限度があり、かつ高校3年生に出題してよい世界史の知識レベルや事実の数にも限度があるからです。従って、例をあげると「732年、フランク王国の軍はトゥールとポアティエの間で侵攻してきたウマイヤ朝のイスラム軍を破りました。この戦いの結果がその後の西ヨーロッパに与えた影響を、政治と経済の観点から200字以内で述べなさい」というような論述問題は得意なはずです(全く仮想の問題です)。

しかし統計手法には限界があるというのが新井教授の主旨です。英語の単文の「穴埋め問題」や「語順を正しくする問題」を、ビッグデータをもとに90%以上の正解率で解くため、東ロボくんは500億の単文を収集したわけです。インターネットの発達があったからこそ出来たことでしょう。例文(単文)をネットから自動収集できる。しかし、この手法を会話文を完成させる問題には適用できません。適用するには500億の "複文の会話サンプル" が必要であり、その収集は現実的に不可能だからです。実現のためには全く違うアプローチのAI技術を開発する必要があるが、その技術開発のコストは、それがもたらす成果に全く見合わないと考えられます。新井教授の結論は次のとおりです。


これがAIと呼ばれるソフトウェアが抱えている根本的な課題である。このことを再認識するために、私は5年間、このプロジェクトを率いてきた。東ロボが示した可能性と限界が、日本の企業がAI投資を検討する上での客観的データとして活用されることを心から願っている。

新井紀子
日経産業新聞(2016.12.8)
(コラム:Smart Times)


東ロボくんの意義


新井教授の解説を読んで、AIのプロジェクトに大学入試の模試を選んだ理由がわかりました。試験問題は基本的に一度きりなのですね。全く同じ問題は出ない。もちろん科目によっては過去問に類似しているケースもあるでしょう。しかし問題作成者は、まず自分の知識に照らして過去にないはずの問題を複数個作成し、次に手分けして本当に過去に出題されていないのかを徹底的に検証すると思います。特定の受験生に有利にならないようにするためです。この検証でOKとなった問題だけが出題される。一度きりの問題が出るテストが、毎年決まった時期に行われ、成績の履歴がトレースできるのは大学入試の模試しかない。だから東ロボくんなのです。

ちょっと話を広げますと、我々は人生やビジネスにおいてさまざまな "問題" に答えを出し、意志決定する必要が出てきます。もちろん同じ(ないしは類似の)問題も多いのですが、中には1回きりという場合もあります。類似の問題であっても、シチュエーションが違うという意味で初めての問題もある。そして大事なことは、人生においてもビジネスおいても、重要な問題ほど1回きりの問題なのです。経験のない状況で答えを見つける必要がある。それが人生であり、社会です。



東ロボくんの模試で分かったことは、東ロボくんの目的である「AIの可能性と限界を明らかにする」ということの意義です。

AIについては "アバウトな" 言説が充満しています。2030年には人間の頭脳を越えるとか、人間を越えることは絶対に無理だとか、いろいろあります。しかしそれらはどれも実証的データにもとづく推定ではありません。No.175「半沢直樹は機械化できる」で紹介したオックスフォード大学の「雇用の未来」も、あくまでAI専門家の「AIに置き換えられる仕事、置き換えられない仕事」という "意見" の集約です。それらに反して東ロボくんは、数年をかけて、入試問題という範囲ではあるが、実際にAIのプログラムを開発し、その可能性と限界を明白な成績とともに検討してきたわけです。

その可能性と限界ですが、一般的にはAIの可能性(威力)について目にする事が多いと思います。このブログでも、

No.166  データの見えざる手(2)
No.173  インフルエンザの流行はGoogleが予測する
No.180  アルファ碁の着手決定ロジック(1)
No.181  アルファ碁の着手決定ロジック(2)

などがそうでした。従来ありえなかった推論をコンピュータがやってしまう。これらの特徴は、いずれもビックデータの解析をもとにした推論だということです。碁の世界チャンピオンに勝ったアルファ碁も、アマチュア高段者が打った16万局の囲碁データを出発点にしています。これらの例だけでなく、現代のAI研究の主流はビックデータの解析による推論です。

一方で我々はAIの限界の具体例を目にすることは少ないというか、ほとんど無いといってもいいでしょう。しかし東ロボくんは、数年かけて丹念に、AIの可能性とともに限界をも明らかにしてきました。

新井教授が日経産業新聞への寄稿で、英語の文章完成問題における単文と複文の大きな溝を述べていました。単文のビッグデータは何とか得られるが、複文では実質上無理である。論理上可能であってもコストの視点で無理という話でした。ビックデータが得られないか、実用上リーズナブルなコストで得られる見込みのない問題は、現代主流のAI技術では無力なのです。こういった実証的研究の大切さを示したこと、それが東ロボくんというプロジェクトの意義でしょう。


意味を理解すること


AIに使われているのは、コンピュータ・サイエンスを含む、広い意味での数学です。東ロボくんのプロジェクト・リーダである新井教授も数学者です。

数学を割り切って分類すると「論理」と「統計」の二つでしょう。「統計」と「統計以外のすべて」と言った方がいいかも知れません。ビックデータをもとにした推論は統計のジャンルであり、現代の主流の(華々しい成果を出している)AIは統計に偏っています。

一方、人間の行動はそれだけではありません。論理の部分も重要視します。問題の意味を理解し、原則はこうだからとか、そもそもの目的はこうだからとか、こういう理由だからこうするとか、意図を込めて意志決定したり、行動したりします。新井教授は中高校生向けの講演のとき、最後は次のように締めくくるそうです。


(AIは)数学の問題を解いても、雑談につきあってくれても、珍しい白血病を言い当てても、意味はわかっていない。逆に言えば、意味を理解しなくてもできる仕事は遠からずAIに奪われる。私は次のように講演を締めくくる。

「みなさんは、どうか『意味』を理解する人になってください。それが『ロボットは東大に入れるか』を通じてわかった、AIによって不幸にならない唯一の道だから」

新井紀子
朝日新聞デジタル
(2016年11月25日)

この最後の「みなさん」から始まる一行を確信をもって中高生に言える。これが『ロボットは東大に入れるか』の大きな成果だと思いました。


3つの余談


プロジェクトの目的とは無関係ですが、東ロボくんで分かったことは、「MARCH・関関同立」に入学する学力と東大に入る学力には大きな差があり、その差は連続的変化ではなく不連続な落差だということです。なぜなら、東ロボくんが東京大学に入学できる日は、現在のAI技術だと永遠に来ないのだから・・・・・・。AIと人間の学力を同じ土俵で比較はできない思いつつも、「80%の確率で合格」と「永遠に合格できない」との差は決定的だと思いました。そこで思ったのは、東大と「MARCH・関関同立」の間にある大学です。おそらく京大は「落差の東大側」でしょう。では、たとえば早稲田と慶応はどうか。落差のMARCH側なのか東大側なのか。もちろん学部によるでしょうが、ちょっと気になりました。

東ロボ手くん.jpg
デンソーが開発した、解答代筆ロボットアーム「東ロボ手くん」
(www.itmedia.co.jp)
2つ目の余談は、今回の成果発表会に、デンソーが開発した "解答代筆ロボット" である「東ロボ手くん」が登場したことです。ボールペンで筆記ができるロボットアームです。No.176 「将棋電王戦が暗示するロボット産業の未来」に書いたように、デンソーは将棋電王戦のために「電王手さん」という "代指しロボット" を開発しています。そしてこのロボットは「人間の手と指の微妙な動きを完全に模擬できるロボットを開発するという、デンソーの大きな企業目標の一つとして位置づけられているのかも」と書きました。今回の「東ロボ手くん」もその一環でしょう。ここまで来たら、次には囲碁電王戦のために "代打ちロボット" を是非開発してもらいたい。碁石は丸みがあるので難しそうですが、デンソーの技術力をもってすれば可能でしょう。日本の "3大AIチャレンジ"(東ロボくん、将棋電王戦、囲碁電王戦)のすべてに参戦してこそ、デンソーのロボット技術の優秀性が証明されるはずです。特に囲碁は欧米、中国、韓国に広まっているので、"代打ちロボット" が活躍できる場はグローバルです。デンソーはあとには引けないはずです。

3つ目の余談です。日経産業新聞への寄稿文で新井教授は「東ロボくん」を「東ロボ」と "呼び捨て" にしています。これはおそらく「自分の身内は呼び捨てにする」という、日本語の慣習に忠実に書いているのでしょう。これでちょっと思い出しました。私は新井教授の講演を一回だけ聞いたことがあるのですが、彼女は講演に熱が入ってくると「東ロボ」とも言わずに「うちの子」と、母親的雰囲気の言い方になってしまうのですね。「呼び捨て」なり「うちの子」なり、新井教授がプロジェクトに賭けた意気込みを感じました。




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No.195 - げんきな日本論(2)武士と開国 [歴史]


江戸時代の武士という特異な存在


げんきな日本論.jpg
橋爪大三郎・大澤真幸
「げんきな日本論」
(講談社現代新書 2016)
第16章「なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか」には、江戸時代における武士が論じられています。まずイエ制度にささえられた幕藩体制の話があり、その中での武士の存在が議論されています。以下のようです。

 幕藩体制 

徳川家康が作った「幕藩体制」において、日本は300程度の独立国ないしは自治州(藩)に別れ、各藩は徴税権、裁判権、戦闘力を持っていました。圧倒的な軍事力は幕府にはありません。直接国税もない。それでいて250年ものあいだ平和が続いたのは驚異的です。なぜ平和が維持できたのか。


大澤
「空気」ってあるじゃないですか。空気を読むとか。空気は、全員の総意だという想定になっていて、誰もがそれを前提に行動するわけですが、実は個人的には全員、空気と違っていることを思っているということがあります。しかも、そのことを、つまりほとんどの人が個人的には空気とは違った見解をもっているということを誰もが知っている。それでも空気は機能し、人びとの行動は空気に規定される。幕藩体制にこれに似たものを感じます。

この場合、空気に帰せられている判断は、徳川家(幕府)がずば抜けて強いということ。関ヶ原の戦いに勝った以上は、徳川家が圧倒的に強い、ということになっている。まあ、強いことは強いんですよ。しかし、その強さは、相対的なもので、絶対に勝てないかっていうとそうではなく、少なくともいくつかの藩を束ねて勝負すれば勝てるわけで、そんなことはどの大名もわかっているのです。しかし、そんなことがわかっていても、誰もが空気を読んで、他の大名がたちが皆「徳川家が強い」という想定で行動することを知っているので、あるいは少なくともそのような想定で行動すると予期するので、どうしても、徳川家に刃向かうことができない。だから、結局は完全な自己言及です。誰もが徳川家が強いという前提で行動するから徳川家は強い、と。

橋爪大三郎・大澤真幸
『げんきな日本論』
(講談社現代新書 2016)

もちろん幕府は "空気" を維持するために、さまざまな手を打ちました。大名がしくじると改易したり領地をとりあげたりします。参勤交代をやらせたり、大名の妻子を江戸に住まわせて人質にしました。空気を維持する上で、かなり成功したわけです。

しかし空気は "水を差す" とすぐにしぼみます。誰かが公然と空気に反して行動すると、皆が空気通りに行動するだろうという予期が壊れるので、しぼんでしまうのです。幕藩体制の場合、水を差したのは幕末にアメリカからやってきたぺリーでした。幕府はペリーに対して「圧倒的に強いもの」として振る舞えなかったので、空気が消えてしまった。その後「いくつかの藩を束ねて勝負すれば勝てる」ことが実証されました。

 イエ制度 

幕藩体制を下部構造としてささえたのが「イエ制度」です。イエは、次男・三男には行き場所がない「単独相続」です。また血統とは無関係に養子をとってもよい。女の子がいれば男の養子をとって跡を継がせる。誰もいなければ男と女を養子にとって結婚させ、跡を継がせる(=両養子)。両養子の制度は世界中で日本だけです。

イエ制度は最小の経済単位であるだけでなく、世間のすべての業務を分担するシステムとして機能しました。


橋爪
イエ制度は ──[中略]── 幕藩体制と緊密に結びついている。これは、日本のすべての業務を、それぞれのイエに分担させるという壮大なシステムです。武士が担当する行政も、農家が担当する農業も、商家が担当する商業も、すべてイエが分担し、イエが事業体となる。このためにまず、イエを、士農工商のカテゴリーに分離する。個人はイエに属し、イエはカテゴリー(身分)に属する。それが固定されて、移動できない。身分で世襲だから、本人の選択の余地がない。日本のすべての業務が安定的に運行するため、イエの存続が至上命令になります。

(同上)

その一方で、イエ制度は日本の近代を準備するものともなりました。イエが割り当てる職務を果たしさえすれば、あとは自由です。そうすると、イエ制度の力学から相対的に自由な人びとが精神的自由の担い手になります。次男・三男坊、上層の農民、上層の町人などです。その人たちが、文化や学問(儒学、国学、蘭学)の担い手となりました。

この単独相続(=長子相続)のイエ制度と、その上部構造の幕藩体制は、世界史にも例がない空前絶後のシステムです。

 武士の矛盾 

イエ制度に支えられた幕藩体制を支配していたのは武士階級ですが、この体制の中で大きな矛盾を抱えていました。

武士は生まれながらの戦闘者であり、小さいころから武芸の鍛錬をします。しかしそれを戦闘には使わないし、平和が続いているので使いようがありません。もし仮に戦争が起こったとしても、刀と槍では敵に勝てません。すでに鉄砲の時代であり、鉄砲を持つものが圧倒的な戦闘能力を持つことは、信長をはじめとする戦国大名が証明済みです。鉄砲どころか、世界史的には大砲の時代に入っていて、そのことは幕末に、70門以上もの大砲を搭載した4隻のペリー艦隊で実証されました。

武士が実際にやっていることはデスクワークです。番方(軍事系)と役方(行政官僚系)があって、番方が上ということになっているのですが、実際に藩で重要であり、藩を動かしていたのは役方です。つまり武士は「戦闘なき戦闘者集団」という矛盾を抱えていた。これを象徴するのが『葉隠』という書物です。


大澤
葉隠はがくれ』という本があるじゃないですか。佐賀鍋島藩の藩士・山本常朝が武士を心得を口述筆記したものです。「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という一文が有名です。でもね、世は泰平で、武士たちが死ななきゃいけなくなるときなんてないんです、戦わないんだから。かっこいい言葉だけど、ドン・キホーテみたいに現実から遊離している。

これは、実はとても変な本です。この有名な一文とはまったく対照的に、大半の内容は、サラリーマンのちまちました処世術のようなことが書いてある。あまり好きでない上司に酒を勧められたときにはどうやって断るとか、他人の面前であくびをするのをどうやってこらえるかとか。こちらは、実は当時の武士の現状にとてもマッチした実用的なアドバイスなのです。

・・・・・・・・・・・・

いざとなったら死ぬんだ、と思いながら、上司の酒の勧めを回避する策を練ったり、つまらない話を聞きながらあくびをこらえたりする。すると、ちょっとは何か意味のあることをやっている気分になる。『葉隠』は、武士道なんていうものは、ほとんどもうないからこそ語られていることだと思います。

(同上)

江戸時代の武士がかかえる「矛盾」を最も端的に、かつ時代錯誤的に体現したのが幕末の新撰組です。すでに鉄砲はライフル銃の時代です。アメリカから最新鋭のライフル銃が輸入されていた。そういう時代に、幕府方は剣術の使い手を取り立てて京都で人殺しをさせた。


大澤
新撰組のメンバーは、最底辺の武士か、もしくは武士でさえないものたちなのに、いやそれゆえかもしれませんが、武士の原理に徹底的に執着した人たちです。考えてみると、江戸時代は、一応武士の時代の範囲ということになっていますが、武士は、すでに武士としては死んでいるんですよね。つまり、武士は、自分がすでに死んでいることに気づかないので、刀なんか差して、武士をやっていた。でも、もしかして俺は死んでいるんじゃないか、という不安も抱いていた。

これに対して、新撰組は、幕末になって「武士はまだ生きている」という抗議をしているわけです。だから、刀を単に腰に差しているだけではなく、実際に人を殺すのに使う。だから時代錯誤です。これに対して、武士はもうとっくに死んでいるという現実に合わせて行動した人たちが、勝者になっていった

(同上。この引用は18章)

江戸時代の武士は「戦闘なき戦闘者」であり「戦闘者でありながら現実にやっていることはデスクワーク」という矛盾をかかえていました。これでは武士は "アイデンティティ・クライシス" に陥ります。

幕府はこの矛盾を緩和するため、儒学、特に朱子学を奨励しました。儒学によって武士の倫理を保とうとしたのです。日本に儒学が入ってきたのは6世紀ですが、それ以降、儒学者はほとんどいません。江戸時代になって急に儒学者がいっぱい出てきたのはこういう事情によります。

しかしこの朱子学が尊皇思想の土壌になりました。それは朱子学が中国の天子の正統性を説明する学問でもあったからです。さらに、古事記が成立した時代を研究した国学は、武士が天下を支配する以前の日本を明らかにしました。朱子学と国学が尊皇思想を生み、それがと倒幕へとつながっていきました。



第16章には儒学、国学の社会的意味が詳しく語られているのですが、それは省略しました。この第16章(と18章)の感想ですが、江戸時代の武士は非常に特異な存在だという認識を新たにしました。18章では新撰組のことが論じられていて「新撰組は時代錯誤的に武士の原理に執着した人たち」だと大澤氏は述べていますが、ここで連想したのが「赤穂事件」です。忠臣蔵のもとになった、江戸城松の廊下の刀傷にんじょうから四十七士の切腹までを「赤穂事件」と呼ぶとすると、この事件は非常に不可解なものです。

まず発端が不可解です。江戸城で刃傷に及ぶなど絶対のご法度であって、そんなことをすれば本人は死罪、お家断絶になることは誰もが知っていたわけです。幕藩体制は "戦争禁止" であり、江戸城に昇殿する武士が帯刀を許されなかったことがその象徴でした。浅野長矩ながのり内匠頭たくみのかみ)は錯乱したか、コトの意味を全く理解できない精神状態に陥ったとしか考えられないわけです。しかし、そもそも一国の主がそのようになるのだろうかと思います。もしそうだとしたら完全に藩主失格です。

四十七士の討ち入りという "復讐" も不可解感が否めません。浅野内匠頭と吉良上野介が殿中で取っ組み合いの喧嘩でもしたのなら、喧嘩両成敗で、たとえば「両名、数ヶ月の蟄居」のような処罰を受けたのでしょうが、問題は内匠頭が江戸城で小刀を抜いたことなのです。幕府(将軍)はそれに怒って即日切腹を申し付けた。吉良上野介に何の咎めもなかったのは幕府の手落ちでしょうが、だからといって浅野内匠頭の切腹が無くなるわけではない。仮に吉良上野介に「数ヶ月の蟄居」のような処分があったとしても、四十七士は吉良邸に討ち入ったのではないでしょうか。何となく割り切れない感じがします。

しかし「武士という矛盾した存在」という視点でみると、少しは理解できるかもしれないと思いました。つまり、

浅野内匠頭は「侮辱されたのなら刀を抜くのが本来の武士」だということを、身をもって示した。

四十七士は、たとえ主君が藩主としてふさわしくなくとも、主君のために命を捨てるのが武士だということを示した。また、自らの命をかけて敵を殺すのが「本来の武士」だと、行動で示した。

というような理解です(考えにくい面もありますが)。とにかく新撰組も赤穂事件も、江戸時代の "武士の矛盾" が露呈したものという感じがしました。こういった矛盾が頂点にまで達し、爆発して一挙に解消に向かったのが明治維新なのでしょう。

・・・・・・・・・・・・

大澤氏は上に引用した文章の中で、『葉隠』は、武士道なんていうものは、ほとんどもうないからこそ語られていることだ、と言っています。これはちょっと違うと思いました。

  武士道は、平和だからこそ語られ、戦闘をする必要がないからこそ完成された概念

だと思います。「死ぬことと見つけたり」とは平和だからこそ言えることであって、隣国との戦争が続いている時にこんな悠長なことは言ってられません。戦争に勝つためには「生き延びて機会をうかがい、反撃に出て国を守る」ことが必須です。

主君のために命をかけるものよいが、愚鈍な主君だと国が滅びます。謀反を起こさないまでも、さっさと主君を取り替えるべきであり、そういう例が戦国時代にはありました。そもそも、自分が仕える主君を替える武将が数々いたわけです(典型は藤堂高虎)。戦国時代の合戦は、寝返りで勝敗が決まったものが多々あります。国や領地を守るためには当然でしょう。

鉄砲があれだけ急速に広まり、フランスの10倍の数を保有するに至ったのも(No.194「げんきな日本論(1)定住と鉄砲」参照)、戦国武将たちが、戦いに勝つためには何をすべきかを理解した "リアリスト" だったからでしょう。鉄砲は卑怯ひきょうだと言っているのでは戦争に勝てません。

江戸時代の武士は、刀のつばや武具のモチーフによくトンボを使いました。トンボは前に進むだけで後退しない(後退できない)からです。恐れずに前に進むことは重要ですが、後退を一切しないのでは、これも戦争に勝てません。全国の統一寸前までいった織田信長は、まずいと判断すれば兵を引き、じっと戦力を蓄えて機が熟するのを待つタイプでした。もちろん家康もそうです。

越前・朝倉家の家臣であった朝倉宗滴そうてきの『朝倉宗滴話記』の有名な一節に「武者は犬ともいへ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」というのがあります。全くその通りです。要するに、一般に理解されている「武士道」で戦争はできない。「武士道」は平和な時代の産物です。

従って、幕末のリアリストたち、たとえば高杉晋作は鉄砲が政権を生むと確信していて、町民と農民を組織し、鉄砲を持たせて戦ったわけです。官軍の方にリアリストがより多かったのが、倒幕が成功した要因でしょう。幕末の会津戦争において、官軍の板垣隊は会津若松への急襲を成功させますが、山道を道案内したのは会津藩の農民だったという話を読んだことがあります。会津藩では武士が戦って農民は見物していたのですね。幕府方が敗北した理由につながる象徴的なエピソードだと思います。

・・・・・・・・・・・・

明治維新で武士はなくなりましたが、その後も「武士道」は生き残り、その概念が "一人歩き" するようになったと考えられます。そもそも武士道という言葉が広く認知されるようになったのは、新渡戸稲造の『武士道』(明治33年。1900年)からといいます。そして「一人歩きした武士道」は桜の花と結びつけられるまでになった。パッと咲いてパッと散るというわけです。

小川和佑かずすけ著『日本の桜、歴史の桜』(NHKライブラリー 2000)によると、桜が武士と結びついたのは江戸時代中期以降とあります。まさに武士道は平和な時代の産物なのです。その桜が明治になって「軍国の花」となり、国民思潮に強烈な影響を及ぼしました。パッと散るというのは、戦争をするには最も不適切な価値観です。パッと散ったとすると、敵方は大歓迎でしょう。さらに、捕虜になるぐらいなら死ねと言わんばかりの教えがありましたが、このような考えで戦争はできません。旧日本軍の将校は日本刀を持っていたという話も暗示的です。「一人歩きした武士道」は極めてゆがんだものになり、国民に多大な惨禍をもたらした。

江戸時代の武士の矛盾は、あとあとまで尾を引いた・・・・・・。そう感じました。まだ尾を引いているのかもしれません。今も、日本人は忠臣蔵と新撰組が好きです。


日米和親条約:攘夷から開国への転換


第18章「なぜ攘夷のはずが開国になるのか」では、日本の開国、特に日米和親条約が論じられています。以下の引用は長くなりますが、重要な指摘がしてあると思いました。



日本が尊皇思想でまとまったのは、外国と戦争することを想定したからです。そして勤王派も幕府も、戦争をするためには何をすべきかが分かっていた。

アメリカの南北戦争が終結すると、余った中古のライフル銃を商人が売り込みに来ました。これを買ったのが中国と日本です。長州も薩摩も、そして幕府も買った。こんな最新式の銃の前では、武士の伝統的な戦闘能力は役にたたないことがますます明らかになりました。

攘夷とは戦争をすることであり、つまり日本の独立を保つということです。明治維新前後の歴史をみると「攘夷」のはずが「開国」へと180度変化したように見えますが、攘夷と開国は2つの対立するオプションではありません。独立を保つこと=主権を維持することが最重要事項です。その主権を保つことになったのが「日米和親条約」でした。


橋爪
大変幸運なことにアメリカが、日本と条約を結んでくれた。日本側では、朝廷に断りがなかったと、このあと問題にされたが、そんなことは実はどうでもよい。条約を結ぶことは、日本を、対等な主権国家として認めたということ。このことをよく理解しなければならない。

日米和親条約には、どこの港を開くとか、水や食料を提供するとか、書いてあるかもしれないが、そんな中身は、どうでもよい。アメリカにとってこの条約を結んだ意味は、

1. 日本は独立国である。
2. アメリカはそれを承認した。
3. ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、そのほかは勝手なまねはするな。

なんですね。要するに、日本を植民地にしたら承知しないぞ、とアメリカが国際社会に意思表示をしてくれた。日本にとって、これぐらい好都合なことはないのです。

条約で、日本の独立が保証された。それなら、戦争をするまでもない。攘夷は必要なくなってしまった。ゆえに、開国しても、なんの問題もない

これは日本の国益にとって大変なプラスで、外交的大勝利だった。日本がそれを意図していたかどうかは別として。

・・・・・・・・・・・・

なぜこんなにうまくいったか。それは、幕府(日本政府)のパフォーマンスがそれなりだったから。加えて、日本の社会秩序が整然としているとか、清潔で勤勉だとか、さまざまな物産や工芸品があるとか、自立できる基礎があり、植民地にしないとどうしようもないひどい状態の国ではないと思ってもらった、ということでしょう。

(同上)

条約を結ぶことによって、国際社会に独立国として認められるという意味では、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講話条約と似ています。


大澤
サンフランシスコ講話条約が結ばれて、日本は主権国家として、いちおう独立を認められた。でも同時に、無理やり日米安保条約を結ばされた ─── というのはちょっと言い過ぎですが、日本としては、「やむをえない」という気持ちをもちながらアメリカと安保条約を結んだ。中身的に見ると、「ちょっとこれはかなり不平等じゃないの」みたいなところはあるのだけど、それ以前に、独立の主権国家であることを認めた上でのことではある。

開国のときも、向こうは条約を結んだ以上 ── 条約の中身の上ではかなりこっちを見下してる感じはあるんだけでども ── 建前上は対等になった。いきなりぶん殴られるより全然いい、ということかもしれないですね。結論的に言えば、条約の内容は不平等かもしれないけれども、条約という形式は、両者の対等性を前提している。そして、内容よりも形式の方が重要だ、と。

橋爪
今でも意識していないと思うけど、これって世界的に見て、超例外だと思うよ。

大澤
けっこい運のいい展開になったということですねえ。でも、最初の国がアメリカじゃなかった場合に、どうなったのだろうか。

橋爪
それは日本の蘭学者らが十分に研究を重ねていて、まずアメリカがイギリスと戦争をして、独立国になったという情報は、わりに早くに知られている。地理の本がけっこう翻訳されているんだけれども、アメリカ独立前の地理書には、植民地として出ていた。そのあと翻訳された本では、アメリカが独立したと紹介してある。「合衆国」という言葉はまだないので、共和政治とか、結構工夫した訳語がしてある。それらを通じて、アメリカはもともと植民地だったけれど独立したという認識はあった。

アメリカと接触するようになってからは、ブリーフィング(情報提供)もいろいろあって、ロシアには注意しなきゃいけないとか、いろんなことを教えてもらった。アメリカに対する好意的な感覚は、だから、日本外交のはじめからあった。

大澤
なるほどね。

橋爪
アメリカが、ヨーロッパ列強と違って、海外に植民地を持たないというポリシーを持っていることは、公然の主張だったから、日本側にも知られていたという可能性がある。

(同上)



この章の感想ですが、引用した日米和親条約についての指摘は重要だと思いました。日米和親条約(を始めとする欧米との条約)は、その不平等面が強調され、明治政府はその解消のために多大な努力をしたと、学校の日本史で習いました。現代の視点からすると確かに不平等条約です。しかしその視点だけで過去を見てはいけないのですね。幕末に視点を移すと、交渉当事者の思いがどうであれ、たとえ不平等であっても主権国家としてアメリカと条約を結べたのが大きいわけです。欧米諸国に侵略されて領土をもぎ取られ、ボロボロになっていた東アジアの状況を考えれば・・・・・・。

橋爪さんは「世界的に見て、超例外」と言っています。確かにその通りなのでしょう。ラッキーだったという言い方があたるかもしれません。しかし幕府の方としても蘭学者からの情報でアメリカがどういう国かを知っていたはず、というのが橋爪さんの指摘です。アメリカは海外に植民地を持たない国(当時)だと・・・・・・。

ちょっと思い出したことがあります。ペリーが日本に開国を迫った大きな理由は、アメリカの捕鯨船の補給だったことはよく指摘されます。No.20「鯨と人間(1)欧州・アメリカ・白鯨」で書いたように、当時の日本近海にはアメリカの捕鯨船がウヨウヨいたわけです。日本沿岸まできて薪と水を要求したり、沿岸住民とトラブルになったこともあった。捕鯨船に物資を密輸する日本人さえいたようです。捕鯨船の補給はアメリカにとって重要な問題でした。「日本を開国させることができたら、それはアメリカの捕鯨産業の功績だ」という意味のことを『白鯨』の著者であるハーマン・メルヴィルは書いています(ペリー来航以前にそう書いている。No.20参照)。

地球儀を念頭に当時の日本を想像してみると、たとえば鹿島灘にはボストン近郊の捕鯨基地からやってきた捕鯨船がいた。航行ルートは南アメリカ大陸南端(ホーン岬)まわりか、アフリカ大陸南端(喜望峰)まわりです。なぜわざわざ地球を半周以上も航海してきたかというと、大西洋で鯨がとれなくなったからです。そして、アメリカ東海岸のヴァージニアを出航したペリーは、喜望峰をまわって浦賀にやってきた。

なぜ捕鯨船とペリーが日本に来たかというと、日本近海が鯨の格好の漁場であることに加え、日本がアメリカからみて一番近いアジアの国だからです。距離は数千キロ離れているが「一番近い」。そして、その地政学的ポジションは今も変わらないのです。鎖国をしていた日本が開国の条約を最初に結んだのがアメリカだったのは確かにラッキーでしたが、それは必然だったのかもしれないと思いました。


社会学という武器


『げんきな日本論』を通読しての印象ですが、この本は2人の社会学者の対論です。そこに感じるのは、社会の成り立ちや "ありよう" をミクロからマクロまで研究する「社会学という方法」の意義です。

社会学者は、社会の成り立ちという観点から日本史を論じてもいいし、前著の『ふしぎなキリスト教』のように "西欧社会を作ったキリスト教" を論じてもいい。さらに、戦争史、マスメディア、資本主義、日本語、文学、芸術などを議論してもいいわけです。社会の成り立ちという観点から考察することで、それぞれのジャンルを深堀りする専門家とはまた違った切り口が見いだせそうです。橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の次作に期待したいと思います。




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No.194 - げんきな日本論(1)定住と鉄砲 [歴史]

No.41No.42で2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対論を本にした『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2012)を紹介しました。この本はキリスト教の解説書ではなく、"西欧社会を作った" という観点からキリスト教を述べたものです。社会学の視点から宗教を語ったという点で、大変興味深いものでした(2012年の新書大賞受賞)。

げんきな日本論.jpg
橋爪大三郎・大澤真幸
「げんきな日本論」
(講談社現代新書 2016)
その橋爪氏と大澤氏が日本史を論じた本を最近出版されたので紹介したいと思います。『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)です。「二匹目のドジョウ」を狙ったのだと思いますが、社会学者が語る日本史という面で数々の指摘があって、大変におもしろい本でした。多数の話題が語られているので全体の要約はとてもできないのですが、何点かをピックアップして紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・

そもそも我々は「日本論 = 日本とは何か」に興味があるのですが、それは本質的には「自分とは何か」を知りたいのだと思います。日本語を使い、日本文化(外国文化の受容も含めて)の中で生活している以上、"自分" の多くの部分が "日本" によって規定されていると推測できるからです。

「日本とは何か」を知るためには「日本でないもの」や「諸外国のこと」、歴史であれば「世界史」を知らなければなりません。社会学とは簡単に言うと、社会はどうやって成り立っているか(成り立ってきたか)を研究する学問であり、それは日本を含む世界の社会について、歴史的な発展経緯を含めて研究対象としています。その意味で、歴史学者ではない「社会学者が語る日本とは何か」に期待が持てるのです。この本を読んでみて、その期待は裏切られませんでした。


げんきな日本論


『げんきな日本論』は3部、18章から成っていて、その内容は以下の通りです。

 第1部 はじまりの日本
 1. なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか
2. なぜ日本には、青銅器時代がないのか
3. なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか
4. なぜ日本には、天皇がいるのか
5. なぜ日本人は、仏教を受け入れたのか
6. なぜ日本は、律令制を受け入れたのか

 第2部 なかほどの日本
7. なぜ日本には、貴族なるものが存在するのか
8. なぜ日本には、源氏物語が存在するのか
9. なぜ日本では、院政なるものが生まれるのか
10. なぜ日本には、武士なるものが存在するのか
11. なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか
12. なぜ日本人は、一揆なるものを結ぶのか

 第3部 たけなわの日本
13. なぜ信長は、安土城を造ったのか
14. なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか
15. なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか
16. なぜ江戸時代の人びとは、儒学と国学と蘭学を学んだのか
17. なぜ武士たちは、尊皇思想にとりこまれていくのか
18. なぜ攘夷のはずが、開国になるのか

章のタイトルからも明らかなように、縄文時代から幕末までの日本史が取り上げられています。この中から最初と最後、つまり第1章の縄文時代と、第15章以降の江戸時代の中か何点かのポイントを以下に紹介します。


森と定住と土器


第1章は「なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか」と題されています。日本の土器の起源は世界史的にみて極めて古いことはよく指摘されますが、これについての論考であり、以下のようです。



まず日本の自然環境条件ですが、現在、国土の森林被服率は60%を越えています。これは先進国ではめずらしい状況です。一つの理由は山地が多く、可住面積が国土の25%程度と少ないことです。フランスやイギリスの可住面積は70%~80%程度もあります。このあたりが日本を考える上での初期条件として重要です。


大澤
中東は、世界史では、「肥沃な三日月地帯」といわれるあたりで、農業もそこから始まったし、豊かな場所だった。いまは砂漠で、どこが肥沃なのかと思うんだけど、文明化・都市化の過程で、木をたくさん切り出し、森林がなくなったために、土地の保水力がなくなってしまった。そのために、不毛地帯になってしまった。

森林があっても、人間が住んでいると、まあ、1000年ぐらいの間になくなってしまうんです。森林が残るとすれば、ジャングルみたいに、そもそも人が住めない場所。だから、人間がおおぜい住んでいるけれど森林が残っているのは、日本だけだということは、驚くべき初期条件なのですね。その意味を、考えなきゃいけない。

橋爪大三郎・大澤真幸
『げんきな日本論』
(講談社現代新書 2016)

日本には照葉樹林があり、ドングリやクルミなどがとれます。根菜類ではヤマイモなどがある。青森県の三内丸山遺跡の周辺には栗林があって食用にしていたことが分かっています。

また日本の水系は細かく分かれていて、飲める水にこと欠きません。このような場所が数百、数千とあります。海岸線は長く、貝や魚がとれて、それはタンパク源になります。

このような自然環境条件を前提に、農業が始まる前から定住が始まったことが日本の大きな特徴です。定住しても狩猟採集でやっていける環境にあったわけです。世界史的には、農業が始まってから定住するのが普通です。

もちろん農業は狩猟採集より効率的であり、同一面積で養える人口は狩猟採集の10倍から100倍だとい言います。従って、いったん農業で人口が増えると農業が大前提となります。しかし日本ではそうなる以前から定住が始まった。そして、定住の結果として生まれたのが土器です。


大澤
縄文の人々は、土器を造った。この土器が異様に古いですよねえ、世界的にみて。

橋爪
ええ。

大澤
同じぐらい古いものも、よく探せばあるのかも知れませんが、少なくとも地球で指折り数えるほど古いことは確か。ほかのものがなんにもないわりに、土器だけ造ったというのは、異常じゃないか。わざわざ重い土器を持って移動するひとはいないですね。土器は、ほかの道具と違って、定住している人びどだけが使う道具ですね。

橋爪
定住の結果だと思います。

大澤
なるほど。

橋爪
土器みたいなものとして、カゴなどをつくってもいい。このほうが軽くて便利ですけど、耐久性がない。数年したら壊れちゃう。土器は丈夫だが、重い。定住して、持ち運ぶ必要がない時に限って、土器をつくるわけです。粘土を火に入れて、焼成したものをカゴみたいにつくれば便利だと、誰かが考えた。

土器は、定住していることの結果で、農業の結果ではないんです。農業は定住するから、必ず土器をもっているけども、土器をもっているから、農業をしている、ではない。

(同上)

なぜ定住したのか、一言でいうと、気候も含めて自然環境が「住みやすい」からなのです。



第1章の感想ですが、日本の歴史を語る上でまず自然環境から入るのは大正解だと思います。キーワードは森林ですね。森林を起点として、森林 → 水・食料 → 定住 → 土器と連鎖しています。

No.37「富士山型の愛国心」にも書きましたが、森林被服率が60%を越えて70%近い国は、先進国(たとえばG20)ではまずないわけです(最も多い高知県は84%もある)。この数字はスウェーデン、フィンランドなみです。しかしスウェーデン、フィンランドの人口密度は日本の1/20とか、そういう値であって、人口も全く違います。No.37では森林の多さと人口の多さに関する象徴的な例として「熊と人間が近接して生活している」をあげました。小学生が熊よけの鈴をつけて登校する例が全国のあちこちにある国は、まず他にないと思います。

森林の保水力が河川の源泉になっています。さらに森林から流れ出した栄養分は海にそそぎ、沿岸の漁業資源を増やします。森林が水や食料をもたらす元になっています。

山地が多くても、森林を伐採してしまったのではダメなのですね。文明が古くから発達したギリシャやトルコの海岸をエーゲ海から撮った観光写真を見ると、海岸の山地が写っていても木がありません。ギリシャ神話を読むと、鬱蒼とした森がないと成り立たない話がいろいろとあるのですが、現在は禿山だらけです。「人が住むと1000年ぐらいの間に森がなくなってしまう」と大澤氏が言うのは、まさにその通りだと思います。そうなると土地の保水力がなくなり、表土は流出して岩だらけになり、河川は埋まり、海に栄養分が届かなくなる。森林からの水分の蒸発がなくなって、気候も変わってしまいます。降水量が減って悪循環に陥る。

日本は海岸の景観を見ても違います。そこが山地だと木が密集しているのが普通であり、それが内陸までつながっています。日本はこのような環境条件にあり、それは縄文時代から続いているということに、まず着目すべきでしょう。まとめると、

日本の土器は、世界史で考えても最も古いもののひとつである。
それは定住の結果である。
農業なしに、狩猟採集だけでも定住できる自然環境条件が日本にあった。
その環境の源泉は森林である。

ということになります。日本史を考える上での出発点です。



以下、『げんきな日本論』の第2章以降は、

  鉄器と青銅器、古墳、天皇、仏教、律令制、貴族、漢字と仮名、院政、武士、幕府、一揆、信長と安土城、秀吉と朝鮮出兵

などのキーワードをもとに日本史が俯瞰されています。特に、漢字と仮名の問題をとりあげた章(第5章:なぜ日本人は仏教を受け入れたのか、第8章:なぜ日本には源氏物語が存在するのか)は、日本史を語る上で欠かせないものだと思いました。

以降は、江戸時代を中心にその前後を含めて何点か紹介します。


武家政権という希有な歴史


江戸時代とその前後を語るためには、武士について触れないわけにはいかないのですが、第11章「なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか」の冒頭に次のような指摘があります。


橋爪
日本では幕府、すなわち、武家政権なるものが成立します。これは、とても特異なことである。ヨーロッパには、武家政権にあたる現象がない。ましていわんや、中国では絶対ありえない。

まず、ふつうありえないことが起こったことに、驚かないといけないわけですね。

大澤
その通りですね。

(同上)

我々日本人は、小学校以来の教育、時代劇、大河ドラマなどから、日本にはかつて武士がいて、武士が政権を担当していたということに何の疑問も抱きません。鎌倉幕府の成立から大政奉還まで武家政権だった。そして我々は暗黙に、鎌倉幕府以降が今の日本に直結していると感じています。特に戦国時代以降、もっと絞ると安土桃山時代以降です。平安時代、ないしは奈良時代やそれ以前となると、あまりに今とは違いすぎて遠い昔に感じます。今の日本のいしずえになり、また日本独自の文化や精神面でのカルチャーは安土桃山時代以降に確立したと、我々は暗黙に感じていると思います。その時代はというと "武家政権の時代" なのです。

その武家政権は、世界史の視野でみると極めて特異なものというのが橋爪・大澤両氏の指摘です。これは我々が気づきにくい点です。

武家政権を担った武士は、生まれながらの戦闘員です。小さいときから刀や槍や弓や乗馬の練習をしてきたプロフェショナルであり、代々受け継がれた階級です。そういった武士の政権が世の中を支配するのが世界史的に特異だということは、そこに日本史や日本の独自性につながるさまざまな事柄が派生すると想像できます。この視点に関係したことを以下に何点か書きます。まず鉄砲の話です。


鉄砲が歴史を動かす


世界史をひもとくと武器の革新が歴史を動かし、社会を変革してきた例が数々あります。騎兵(乗馬)がそうだし、馬を使った戦車がそうです。もっと古くは鉄製の武器(剣、槍、矢尻、など)もそうだった。鉄砲(銃)も、そういった歴史を動かした武器です。

第15章「なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか」では「鉄砲史観」とでも言うべき "鉄砲と歴史の関係" が、ヨーロッパと日本を対比させて語られています。その概要は以下のようです。



 ヨーロッパでは 

火薬は中国で発明されましたが、火薬を応用した鉄砲はヨーロッパで実用化されました。鉄砲の製造は難しいのですが、いったん製造できたとなると誰でも引き金を引けば人を殺せる武器になります。甲冑を射抜いて敵を倒せるわけであり、重装備の歩兵も騎兵も無力になります。

さらに大型の「大砲」となると要塞を破壊できます。戦史の本では、ナポリにあった難攻不落の要塞は7年持ちこたえたが、大砲で攻撃したら7時間で打ち壊されたとあります。結果として、封建領主の騎兵と要塞は無意味になりました。

鉄砲は強い軍事力をもたらすともに、個人戦から集団戦へと戦い方を変えました。また、鉄砲をコントロールしていたのが都市の住民だったので、軍事力の中心は市民階級や傭兵になりました。これに目をつけたのが絶対君主です。傭兵を使って鉄砲を装備した常備軍を組織し、貴族をやっつけて強力な政府を作りあげました。傭兵はスイス人が多かったのですが、その理由はスイスが中立だからで、つまり戦いの相手に寝返ることがないからです。

鉄砲を撃つ兵士を「銃士」と言います。デュマの小説「三銃士」(時代設定は17世紀)の "銃士" がそうです。この小説でもわかるように、ヨーロッパでは銃が得意だということが威信の根拠になりました。

絶対君主の次の時代に起こったのが、鉄砲で武装した市民による革命です。以上のようにヨーロッパでは「鉄砲のない封建制」→「鉄砲のある傭兵制(絶対君主)」→「鉄砲のある市民革命」というように社会が変化した歴史があります。鉄砲によって社会変動が生じたわけであり、社会の変化と武器の変化は連動していました。

  ちなみに中国は先進文明でありながら、鉄砲をあまり使わなかった文明です。この結果、軍事技術にヨーロッパと差がついただけでなく、社会のタイプがヨーロッパとは異なるものになりました。

 日本では 

一方の日本はというと、鉄砲がヨーロッパからもたらされたことは衆知の事実です(1543年)。そしてすぐさま日本で製造されるようになり、鉄砲は急速に普及しました。それだけの製鉄や鍛冶かじ冶金やきんの技術が日本にあったわけです。しかし鉄砲の社会的意味はヨーロッパとはかなり違った。


橋爪
鉄砲がこんなにあっと言う間に普及して、全国を統一する決め手になったにもかかわらず、最後まで武士が、鉄砲をコントロールしている。それ以外の人々の手にまず渡らなかった。ここが日本の歴史を理解する、一番の急所ではないか

大澤
なるほど。おもしろいですね。ジャレット・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』で、江戸時代の直前、つまり1600年の段階でみたとき、日本は、世界でもっとも高性能な銃を世界のどの国より多く持っていた、と書いています。短期間にこれほど銃が普及したのに、日本で、ヨーロッパのような社会変動が生じなかったのは奇妙ですね。

(同上)

戦国時代、鉄砲の使い方がうまかったのが織田信長です。刀と槍で相手に襲いかかる戦法をとり(桶狭間など)、鉄砲では襲ってくる敵を向かえ打つというように(長篠など)、両方の特性をうまく使い分けた。そして何よりも、戦争は個人戦ではなく集団戦であることを徹底させました。

しかし信長は同時に、今まで武器を持っていなかったものが鉄砲を持つことによって政治的な力にならないよう、注意を払いました。いわゆる「兵農分離」もそれが念頭におかれています。信長だけでなく、鉄砲伝来から関ヶ原の戦いに至るまで、戦国武将は鉄砲を使いました。鉄砲隊を組織し、鉄砲の数もジャレット・ダイアモンドが言うように世界史的にみても非常に多かった。しかし鉄砲は、戦術として補助的に使われました。関ヶ原の戦いでも中心は騎兵や歩兵です。

そして日本の特徴は、武士が常に鉄砲をコントロールしたことです。ヨーロッパでは都市が発達し、都市に富が集中して、そこに鉄砲が蓄えられました。日本ではそういう都市の発達がなかったことが一つの原因だと考えられます。また、日本では伝統的に武士だけが戦闘員資格をもち、農民や商人は戦闘員にはなれませんでした。必然、武士が鉄砲を独占することになった。例外は紀州の雑賀さいか衆ぐらいです。

武士は生まれながらの戦闘員です。小さいときから刀や槍や乗馬の練習をしてきたプロフェッショナルです。刀や槍で戦う限り、付け焼き刃では武士に太刀打ちできません。従って武士と農民が戦えば必ず武士が勝ちました。例外は島原の乱ですが、天草四郎の軍には武士も加わっていました。

  ちなみに中国史では、しばしば皇帝の軍が農民軍に負けました。農民を雇って武器の訓練をさせたものが皇帝軍だからです。

しかし、急速に普及した鉄砲は誰でも使える武器です。しかも刀や槍より圧倒的に強い。これは武士の地位を危うくします。従って武士は刀狩りをやって兵(武士)と農(農民)を分離し、身分を固定化する方向にいった。もともと鉄砲は平民性(=誰でも使える)と反武士性(=武士の地位を危うくする)がありますが、それが抑止されたわけです。

その抑止が完成された江戸時代においては、銃が得意だということが戦闘者としての威信の根拠にはなりません。あくまで刀が武士の威信の最大の根拠です。刀は一騎討ち向きであり、個人の英雄性に結びつく武器です。武士は刀に異様にこだわることになりました。

鉄砲は威信の根拠にならないだけでなく、軽蔑されました。武士は子供の頃から10年、20年と鍛錬を重ねて刀が槍を使いこなせるようになったのに、鉄砲はすぐに使えます。しかも刀や槍より強い。鉄砲に対する軽蔑は武士の屈折した心理と言えるでしょう。

従って、鉄砲を持っているからといって政治的主体にはならなかった。鉄砲は威力があるが、鉄砲を持っている人間は威力がないということにしたわけです。日本では鉄砲の戦術的効果と社会的無効性の対比が際だっています

江戸時代を特徴づけるのは「戦争の禁止」と「幕藩制による現状凍結」ですが、以上の考察からすると、幕藩制は鉄砲が入ってきたことによる武士の防衛反応だと考えられます。鉄砲によってヨーロッパは身分の平等化が促進されましたが、日本では逆に武士が上位となる身分化が固定されたのです。



これ以降は、第15章「なぜ鉄砲は、市民社会をうみ出さなかったか」の感想というか、補足です。大澤氏はジャレット・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』で「1600年の段階でみたとき、日本は世界でもっとも高性能な銃を世界のどの国より多く持っていた」と書いていることに言及しています。このブログでも、No.33「日本史と奴隷狩り」で堺屋太一氏の文章を引用しました。再掲すると次の通りです。


1600年の関ヶ原の戦いを頂点とする戦争では、東西両軍合わせて約6万丁の鉄砲が動員されたというから、おそらく日本全体では10万丁に近い鉄砲があったと推定される。その当時、ヨーロッパ最大の陸軍を誇ったフランス王の軍隊には、鉄砲は1万丁しかなかったというから、全ヨーロッパを合わせても、日本一国に及ばなかったであろう。

堺屋太一『日本とは何か』
(講談社 1991)

しかしその鉄砲を、武士は(武士であるがゆえに)放棄してしまった。鉄砲を作る技術は急速に衰えていきました。そのあたりの経緯を『銃・病原菌・鉄』から引用すると次の通りです。


江戸時代の日本で、銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。日本人は、1543年に、中国の貨物船に乗っていた二人のポルトガル人探検家から火縄銃(原始的な銃)が伝えられて以来、この新しい武器の威力に感銘し、みずから銃の製造を始めている。そして、技術を大幅に向上させ、1600年には、世界でもっとも高性能な銃をどの国よりも多く持つまでになった。

ところが、日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。日本の武士には多数の階級があり、サムライにとって刀は自分たちの階級の象徴であるとともに芸術品であった(低い階級の人びとを服従させる手段でもあった)。サムライたちは、戦場で名乗りをあげ、一騎討ちを繰り広げることに誇りをもっていた。しかし、そうした伝統にのっとって戦う武士は、銃を撃つ足軽たちの格好の餌食になってしまった。

また、銃は、1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様、異国で発明されたということで、所持や使用が軽蔑されるようになった。そして幕府が、銃の製造をいくつかの都市に限定するようになり、製造に幕府の許可を要求するようになり、さらに、幕府のためだけに製造を許可するようになった。やがて幕府が銃の製造を減らす段になると、実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまったのである。

ジャレット・ダイアモンド
『銃・病原菌・鉄』
(草思社 2000)

ジャレット・ダイアモンドがここでなぜ江戸時代の銃の放棄を説明しているのかというと、世界史では一度獲得した重要技術が放棄されることがあり、その典型例としてあげているのです。ダイアモンドによると、ヨーロッパでも銃を嫌い、銃の使用を制限した人がいた。しかしヨーロッパでは国と国が始終戦争をしていたので、銃の制限や放棄は長くは続かなかった。一方、日本は孤立した島国だったので銃の放棄が現実化した。しかしそれは大砲を備えたペリー艦隊で終わりを告げた・・・・・・。そういう文脈です。

  ちなみに「一度獲得した重要技術の放棄」は中国でも起こりました。外洋船・外洋航海(鄭和ていわはアラビア半島やアフリカまで航海した!)、水力紡績機、機械式時計がそうだと、ジャレット・ダイアモンドは書いています。

武士が政権を担当し社会の支配層である状況(=世界史てみると特異な状況)の中に鉄砲が突如入ってきて、全国統一の決め手になった。決め手なったからこそ鉄砲は捨てられ非武装社会(=江戸時代)が出来上がった・・・・・・。こういう風に理解できます。



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No.193 - 鈴木其一:朝顔の小宇宙 [アート]

No.85「洛中洛外図と群鶴図」で尾形光琳の『群鶴図屏風』(フリーア美術館所蔵。米:ワシントンDC)を鑑賞した感想を書きました。本物ではなく、キヤノン株式会社が制作した実物大の複製です。複製といっても最新のデジタル印刷技術を駆使した極めて精巧なもので、大迫力の群鶴図を間近に見て(複製だから可能)感銘を受けました。

鈴木其一展.jpg
「鶴が群れている様子を描いた屏風」は、光琳だけでなく江戸期に数々の作例があります。その "真打ち" とでも言うべき画家の作品、光琳の流れをくむ江戸琳派の鈴木其一きいつの『群鶴図屏風』を鑑賞する機会が、つい最近ありました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展です。今回はこの展覧会から数点の作品をとりあげて感想を書きます。

展覧会には鈴木其一(1795-1858)の多数の作品が展示されていたので、その中から選ぶのは難しいのですが、まず光琳と同じ画題の『群鶴図屏風』、そして今回の "超目玉" と言うべき『朝顔図屏風』、さらにあまり知られていない(私も初めて知った)作品を取り上げたいと思います。


鈴木其一『群鶴図屏風』


群鶴図屏風・其一.jpg
鈴木其一群鶴図屏風
ファインバーグ・コレクション
(各隻、165cm×175cm)

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鈴木其一「群鶴図屏風・左隻」

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鈴木其一「群鶴図屏風・右隻」

この屏風を、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で紹介した尾形光琳の「群鶴図屏風」(下に画像を掲載)と比較すると以下のようです。

光琳の「群鶴図」は、かなり様式性が強いものです。水辺は抽象化されていて、川なのか池や沼なのかはちょっと分かりません。鶴の描き方もそうです。「デザインとして鶴を描いている」感じがあり、その形はスッキリしていて、あか抜けています。

そして、じっと見ていると、鶴は鶴であって鶴でないように見えてきます。鶴の一群は "何か" を象徴しているかのようです。二つの勢力が対峙している様子が描かれている、つまり「何か非常に存在感がある群れが対峙している、そのシチュエーションそのものを描いた」ような感じがします。



そして鈴木其一の「群鶴図」です。二曲一双ということもあって鶴の数は少ないのですが(光琳:19羽、其一:7羽)、水辺を抽象化して描いたのは光琳と同じです。その水辺の描き方はそっくりであり「光琳を踏まえている」と宣言しているかのようです。

しかし光琳と違うのは "鳥そのものを描いた" と感じさせることです。鶴の姿態の変化などを見ると、鶴の生態をさまざまな角度から描写している感じです。羽の具体的な様子が描き込まれているし、羽毛の表現もあります。

鈴木其一は別の「群鶴図屏風」(プライス・コレクション所蔵)を描いていて、それは光琳の「群鶴図屏風」の模写になっています。それにひきかえ、このファインバーグ・コレクションの屏風は、光琳からは離れた個性的な「群鶴図屏風」になっていると思いました。

群鶴図屏風・光琳.jpg
尾形光琳群鶴図屏風
フリーア美術館(ワシントンDC)
(各隻、166cm×371cm)

群鶴図屏風・光琳(左隻).jpg
尾形光琳「群鶴図屏風・左隻」

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尾形光琳「群鶴図屏風・右隻」



展覧会には其一のさまざまな作品があったのですが、その中でも其一の画業の集大成というべきが、次の『朝顔図屏風』です。


鈴木其一『朝顔図屏風』


メトロポリタン美術館が誇る日本美術コレクションでは、尾形光琳の『八橋図屏風』とともに、この『朝顔図屏風』が最高のクラスの作品でしょう。日本にあれば当然、国宝になるはずです。

私はメトロポリタン美術館に2度行ったことがあるのですが、いずれも『朝顔図屏風』は展示されていませんでした。季節感を配慮して夏によく展示されるということなのですが、8月中旬に行った時にも展示はなかった。作品保護のためでしょうが、こういった屏風はそれなりの展示スペースが必要なので、広大なメトロポリタン美術館といえども常設展示は困難なのかも知れません。その意味で、あこがれていた作品にやっと出会えた気分であり、今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は貴重な機会でした。

朝顔図屏風.jpg
鈴木其一朝顔図屏風
メトロポリタン美術館
(各隻、178cm×380cm)

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鈴木其一「朝顔図屏風・左隻」

朝顔図屏風(右隻).jpg
鈴木其一「朝顔図屏風・右隻」

『朝顔図屏風』の実物を見てまず思うのは、非常に大きな屏風だということです。各隻は 178cm×380cm の大きさです。比較してみると、尾形光琳の『燕子花かきつばた図屏風』(根津美術館)は 151cm×339cm (各隻)なので、それよりも一回り大きい。面積比にすると 1.3倍です。その大きさの中に多数の朝顔が、うねるように、ほとんど画面いっぱいに描かれています。

『朝顔図屏風』は光琳の『燕子花かきつばた図屏風』を連想させます。花だけをモチーフにしていることと、色使いがほぼ同じという点で大変よく似ているのです。其一は描くにあたって光琳を強く意識したことは間違いないでしょう。具体的に『燕子花図』と比較してみます。

光琳の『燕子花かきつばた図』の描き方は写実的です。一本一本の燕子花かきつばたもそうだし、群生している姿もリアルにみえる。咲いている姿そのままを描き、そこから背景を取り去ったと、まずそう感じます。構図はエレガントでシャレています。リズミカルな花の連続が気持ちよく、画面の端で群生を切り取る構図が上下左右へのさらなる広がりを感じさせます。

さらにじっと見ていると『群鶴図屏風』と同じで、燕子花かきつばたは何かの象徴のように思えます。金地に燕子花だけという極限までに単純な造形がそう思わせるのでしょう。たとえば、それぞれの燕子花は "人" の象徴であり、何らかの "行列" を描いたというような・・・・・・。何の行列かは、いろんなことが考えられるでしょう。



鈴木其一の『朝顔図屏風』も、朝顔の花と葉とツルはリアルに描かれています。その特徴は、一個一個の花の表情が全部違えてあり、それがリズムとなって屏風全体を覆っていることです。また、青色岩絵具を使った花の描き方には暖かみや柔らかさがあり、花弁には微妙な色の変化がつけてあります。

以前のNHK「日曜美術館」(2013年)で放映されたメトポリタン美術館の科学分析の結果を思い出しました。其一は『朝顔図屏風』の花弁の青を描く時に、岩絵具(群青)に混ぜるニカワの量を通常より減らしているそうです。その結果、絵の表面に岩絵具の粒子が露出し、それによって光が乱反射してビロードのような花のタッチになった・・・・・・。そういった内容でした。其一は独自の工夫をこの絵に盛り込んでいます。

そして『朝顔図屏風』が光琳の『燕子花図』と違うところ、其一のこの絵の独自性の最大のポイントは、

  『朝顔図屏風』は、全体としては現実を描いたものではないと、一見して分かるところ

です。まず、この屏風のように朝顔が生育するためには、背景として何か "格子状の竹垣のようなもの" を想定しなければなりません。しかしそういった格子は現実には見たことがありません。たとえ格子があったとしても、朝顔はこの様に渦巻くようには生育しません。あくまで下から上へと、重力に逆らって伸びるのが朝顔です。この絵は朝顔の生態を無視して描かれています。

鈴木其一は『朝顔図屏風』で何を表現したかったのでしょうか。考えられるのは、朝顔の "みずみずしさ" とともに、植物が持っている生命力です。六曲一双の小宇宙の中に蔓延する植物を描き、その生命力をダイレクトに表現した・・・・・・。それはありうると思います。

さらに考えられるのは、光琳の『燕子花かきつばた図』と同じで、何かの象徴かもしれないということです。この六曲一双の屏風を少し遠ざかって眺めると、そういう思いにかられます。つまり、朝顔の集団によって別のものを表そうとしているのでは、という感じです。

左隻には "何らかの勢力" が渦巻いています。そして右隻にも "何らかの別の勢力" がある。その二つの勢力が拮抗している、そういった印象です。京都・建仁寺の天井画では二匹の龍が絡み合っていますが、そういった絵を連想します。あるいは、葛飾北斎が信州小布施の祭屋台に描いた二面の怒濤図(男波と女波)を思い出してもいいと思います。

しかし「左隻と右隻が向かい合って、二つの勢力が拮抗している、ないしは対峙している」ということで思い出すのは、俵屋宗達以来の琳派の伝統である『風神雷神図』です。全くの個人的な想像なのですが、この『朝顔図屏風』は『風神雷神図』のもつダイナミズムを、風神・雷神とは全くの対極にある "朝顔" という、小さくて、はかなげで、清楚で、しかし生命力の溢れた存在で表現しようとしたのではないか・・・・・・、ふとそう思いました。

鈴木其一の『朝顔図屏風』は、其一の画業の集大成だと言われています。生涯のそういう時期に描かれたわけです。その集大成において其一は、朝顔という日常よく見かける花を用いて六曲一双の中に小宇宙を作り上げた。宗達や光琳以来の光琳の伝統を踏まえつつ、あくまで独自の世界、この絵しかないという世界を築いた。そいういう風に感じました。

燕子花図屏風.jpg
尾形光琳燕子花図屏風
根津美術館
(各隻、151cm×339cm)

燕子花図屏風(左隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・左隻」

燕子花図屏風(右隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・右隻」


鈴木其一『花菖蒲に蛾図』


『朝顔図屏風』という傑作のあとに何を取り上げようかと迷ったのですが、1点だけ『花菖蒲に蛾図』ということにします。これもメトロポリタン美術館所蔵の作品です。

花菖蒲に蛾図.jpg
鈴木其一
花菖蒲に蛾図
メトロポリタン美術館
(101cm×33cm)

今回の展覧会に多数展示されていた鈴木其一の作品の中には、花、草、昆虫、小動物を描いた作品がいろいろとありました。この『花菖蒲に蛾図』もそうした絵の中の一枚ですが、注目したいのは "蛾" が描かれていることです。

蛾を描いた絵というと、真っ先に思い出すのは速水御舟の『炎舞』(山種美術館。重要文化財。No.49)です。夜、焚き火の明かりに誘われた数匹の蛾が、互いに絡みあうように炎の上を舞う・・・・・・。この絵は我々が蛾に抱くイメージとピッタリ重なっています。蛾は基本的に夜行性だし、何となく "妖しい" イメージがある。それと合っています。

しかし其一の蛾は違います。夜とか夜行性をイメージさせるものは何もなく、明らかに昼間の "健康的な" 光景です。昼間に蛾がこのように花菖蒲に飛んでくることは普通ありえず、これは現実の光景ではありません。何か夢でも見ているような画題になっています。『朝顔図屏風』について "一見して現実を写したのではないことが分かる" と書きましたが、『花菖蒲に蛾図』もそれとよく似ています。

もし花菖蒲に飛んできているのが蝶だとすると、それは普通の絵です。今回の展覧会にも芍薬しゃくやくに黒アゲハ蝶がとまっている絵がありました。しかしこの絵では蛾が配置されていて、それがちょっと変わっているというか、独特です。

ここで "蛾" のイメージを考えてみると、昆虫愛好家は別として、我々の普通の感覚は「蝶は好きだが蛾は好きではない」というものです。蝶をる人の方が、蛾を愛でる人より圧倒的に多いはずです。但し、そういった現代の感覚を単純に江戸期に当てはめるのは注意すべきです。江戸時代が現代と同じだとは限りらないからです。そこは要注意です。

其一はなぜここに蛾を描いたのでしょうか。その理由は、描かれている蛾そのものにあるような気がします。この絵に描かれている蛾はオオミズアオ(大水青)です。大きさが10cm程度の、比較的大型の蛾で、その画像例を次に引用します。

オオミズアオ.jpg
オオミズアオ(大水青)

早朝に竹垣にとまっているオオミズアオを見たことがあります。今でもその場所が記憶に残っていますが、その理由は、朝の散歩で意外な蛾に出会ってギョッとしたことと、薄い緑白色というのでしょうか、独特の色をした大きな蛾の存在感に圧倒されたからだと思います。調べてみるとオオミズアオは蛾の中でも最も美しいもののひとつで、昆虫愛好家・蛾愛好家のファンも多いようです。オオミズアオは英語で Luna Moth というそうです。Luna とは月のことで、つまり青白い月光をイメージした名前であり、なるほどと思います。以上を踏まえると、鈴木其一は現実の光景とは無関係に「美しい花」と「美しい昆虫」を一つの絵に同居させた、そういうことでしょう。

そこで思い出すのが、No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたフランスとドイツの事情です。フランス語にもドイツ語にも、一般的な言葉として蝶と蛾を区別する言葉はなく、普通使われるのは鱗翅類全体を表す単語であり(=仏:パピヨン、独:シュメッタリンク)、それは蝶も蛾も分け隔てなく指すのでした。No.49では、ドイツ人であるフリードリッヒ・シュナックが書いた「蝶の生活」の序文から、著者が蛾をこよなく愛する言葉を引用しました。再掲すると次のような文章です。


ささげる言葉

この地上のずべての鱗翅類にこの書をささげる。そのすべてがここに登場するわけではないけれども。昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる。たそがれのスズメガに、心を浮き立たせるように庭園や草原の花の蜜が香り、草木の茂みから薫り高い芳香がしたたるたそがれどきに活動するスズメガ類にこの書をささげる。ヤママユ類やシャクガ類に、ヤガ類やヒトリガ類にこの書をささげたい。みんな愛すべきものたちだ。

フリードリッヒ・シュナック
『蝶の生活』
(岡田朝雄訳。岩波文庫。1993)

トビイロスズメ.jpg
トビイロスズメ
シュナックがあげているスズメガの一種である。「理科教材データベース・昆虫図鑑」より。
この引用にあげられてる鱗翅類の名前はすべて蛾です。ちなみに『蝶の生活』という題名は、原文のドイツ語を正確に訳すと『鱗翅類の生活』となるのでした。

シュナックが愛情を捧げる蛾として真っ先にあげているのはスズメガですが、スズメガとオオミズアオを比較してみると、普通の人の感覚ではオオミズアオの方が美しいと感じるのではないでしょうか。もちろん人の感覚はそれぞれだし、見た目以上に蛾の習性も大切なのだろうと思います。

とにかく、シュナックの文章からも思うことがあります。つまり、文化的背景を抜きにすると、蝶も蛾も「美しいものは美しい」ということです。あたりまえだけれど・・・・・・。鈴木其一もそういった感性をもった人だったのではと想像しました。

鈴木其一の『花菖蒲に蛾図』に戻ると、花菖蒲もオオミズアオも「美しいものは美しい」わけです。蝶ではなく蛾が描かれている、と議論すること自体がおかしいのでしょう。この絵は画家の確かな観察眼、審美眼と、約束ごとや決まりにとらわれない姿勢を示しているように思いました。



以上あげた鈴木其一の3点は、いずれもアメリカの美術館や個人コレクションの所蔵作品です。こういった展示会がないと、まず作品を見るのが難しいわけです。その意味で今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は大変に貴重な機会でした。




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No.192 - グルベンキアン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで5回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン