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No.223 - 因果関係を見極める [科学]

No.83-84「社会調査のウソ」の続きです。No.83-84では主に谷岡一郎氏の著書『社会調査のウソ』(文春新書 2000)に従って、世の中で行われている "社会調査" に含まれる「嘘」を紹介しました。たとえばアンケートに関して言うと、回答率の低いアンケート(例:10%の回答率)は全く信用できないとか、アンケート実施者が誘導質問で特定の回答を引き出すこともあるといった具合です。そして、数ある「嘘」にまどわされないための大変重要なポイントとして、

  相関関係があるからといって、因果関係があるとは限らない

ということがありました。一般にXが増えるとYが増える(ないしは減る)という観測結果が得られたとき、Xが増えたから(=原因)Yが増えた・減った(=結果)と即断してはいけません。原因と結果の関係(=因果関係)の可能性は4つあります。

Xが増えたからYが増えた(因果関係)
Yが増えたからXが増えた(逆の因果関係)
X,YではないVが原因となってXもYも増えた(隠れた変数)
Xが増えるとYが増えたのは単なる偶然(疑似相関)

相関関係.jpg
相関関係がある場合の可能性
XとYのデータの動きに関連性がある場合の可能性。①XがYに影響する、②YがXに影響する、③VがXとYの両方に影響する。これ以外に、④単なる偶然、がある。図は伊藤公一朗「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」より引用。

『社会調査のウソ』で谷岡一郎氏があげている何点かの例を振り返ってみますと(No.84参照)、まず「広い家ほど子供の数が多い」という 1994年4月に公開された厚生白書がありました。この白書によると「公共住宅などの円滑な提供が必要」とのことです。しかしこれは「③隠れた変数」の例であり、

◆地方の文化的・社会的環境
  ├─⇒ 子たくさんの家庭
  └─⇒ 広い家

と解釈するのが妥当です。また「②逆因果関係」に従って、

◆子供の数が増えた
  └─⇒ 広い家に引っ越した

とも解釈できます。次に「ジャンクフード(カップ麺やスナック菓子、ハンバーガーなどのファストフード)を食べる頻度が多い子供は非行の率が高い」という調査がありました。子供の栄養バランスの崩壊を憂う気持ちは分かりますが、まともに考えると、

◆親の子育ての手抜き
  ├─⇒ ジャンクフード
  └─⇒ 非行

でしょう。非行については「TVで暴力シーンをみることが多い子供ほど非行に走りやすい」という調査もありました。TVの暴力シーンを規制すべきという意見ですが、これも、

◆子供の暴力的な性格
  ├─⇒ 暴力的なTVをよく見る
  └─⇒ 非行

というのが真っ当な解釈です。その他、No.84にいろいろな例をあげました。戦後の子供の「体格の向上」と「非行の増加」の "相関" は、全くの偶然=④疑似相関の例です。



では、正しく因果関係を見極めるにはどうすればよいのか。それを最新の手法を踏まえて事例とともに紹介した本が2017年に出版されました。伊藤公一朗著『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書 2017)です。伊藤氏はシカゴ大学助教授で、環境エネルギー経済学、応用計量経済学が専門です。この本(以下、本書)の "さわり" だけを以下に紹介します。


世の中は怪しいデータ分析で溢れている


伊藤公一朗氏の本ではまず、因果関係を推定する難しさが指摘されています。ある新聞記事の例です。

  海外留学に力を入れているある大学の調査では、留学を経験した学生が、留学を経験しなかった学生よりも就職率が高いことがわかった。このデータ分析の結果から、留学経験経験は就職率を向上させるものであると大学は報告している。

この大学の調査結果から「留学経験→就職率の向上」という「①因果関係」は推定できるのでしょうか。この場合「②逆因果関係」はありえないので、問題は「③隠れた変数」です。伊藤氏は次のような「隠れた変数」の可能性を指摘しています。

留学の奨学金を受けられるほど、もともと成績が良かった。
留学したいという強い意志や好奇心があった。

データ分析の力.jpg
このような隠れた変数が就職率の向上に役だったかもしれないのです。もちろん「留学経験→就職率の向上」という可能性もあります。伊藤氏の本には書いていないのですが、留学を経験した学生は「外国人とのコミュニケーション能力」に優れていると考えられます。新卒学生を採用するときに「外国人とのコミュニケーション能力」を特に重視する企業はかなり明確に特定できるでしょう。ということは、留学経験者と企業との "就職マッチング" の成功率は一般の学生より高いと考えられるのです。

要は、多角的に分析しないと一概なことは言えないということです。特に難しいのは「隠れた変数」がいくらでも想定できることです。またその中には観測しにくいものも多い。留学の例でいうと、成績のデータは集められても、意志や好奇心のデータは集めにくいのです。

実はこういった分析なしに、あるいは誤った分析をもとに因果関係を喧伝する情報がメディアにあふれています。伊藤氏は次のように書いています。


ニュースや新聞を見てみると相関関係と因果関係を混同させた怪しい分析結果は世の中にあふれています。さらに問題なのは、怪しい分析結果に基づく単なる相関関係が「あたかも因果関係のように」主張され、気をつけないと読者も頭の中で因果関係だと理解してしまっていることが多いという点です。

・・・・・・・

残念ながら、新聞やテレビで主張されていることの多くは、相関関係を誤って解釈して因果関係のごとく示されているものなのです。

伊藤公一朗
「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」
(光文社新書 2017)

この「あたかも因果関係のようにメディアで主張された」例を伊藤氏はあげています。夜に電気をつけて寝る子供に近視が多いという相関関係です。


ペンシルベニア大学の研究者が1999年に Nature という権威ある学術誌に発表した論文(Quinn et al.,1999)です。

研究者たちは2才以下の子供に対して、①寝ているときに電気をつけているか、②近視になっているか、というデータを集めました。その結果、寝ている時に電気をつけている子供ほど近視になっていることがわかりました。

論文を読んでみると、実は当の研究者たちは「この結果は電気をつけて寝ていることと子供の近視の相関関係を示しているだけで、私たちは因果関係を主張しているわけではない」と丁寧に述べているのですが、この論文を取り上げたメディアが「電気をつけたまま寝かせると子供が近視になる!」と大々的に取り上げてしまいました。その結果、多くの親たちが子育てに際してこの因果関係を信じることになりました。

ところが、その後にオハイオ大学の研究者が行った研究によって、これは単なる相関関係であることがわかりました。

彼らの研究によると、①近視を持つ親ほど寝るときに電気をつけていることが多く、②近視の親を持つ子供ほど「遺伝的に近視になりやすい」ということでした。

伊藤公一朗
「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」

どういう背景の調査なのかが書かれていないのですが、2歳以下の子供の近視というと親が見つけにくいものです。おそらく幼児近視の研究者が子供の近視を医学的に調査し、その生活環境も合わせて調査して相関関係を見つけたのだと想像します。この例に見られるように、相関関係に過ぎないものを誤って(あるいは確信犯的に)因果関係だと報道する事例がメディアには溢れているのです。



伊藤氏の本からちょっと離れて、このブログで取り上げた例を振り返りますと、No.84「社会調査のウソ(2)」で書いた「カロリーオフ炭酸飲料と糖尿病の発症」がありました。つまり、

  カロリーオフ炭酸飲料を飲む人は、めったに飲まない人にくらべて糖尿病の発症率が1.7倍高い

という研究者の調査をとりあげた新聞報道です。見出しだけ読むと「カロリーオフ炭酸飲料が糖尿病のリスクを増やす(=因果関係)」と誤解する人が出てきそうですが、よく考えるとそんなことはありえないわけです。記事では「カロリーオフ炭酸飲料を飲む → 慢心して食べ過ぎる → 糖尿病のリスク増大」という "因果関係の推定" が書かれていましたが、本当にそうなのか。最も妥当な考え方は、シンプルに、

◆糖尿病のリスクを自覚している人
 ├─⇒ カロリーオフ炭酸飲料をよく飲む
 └─⇒ 糖尿病を発症する率が高い

でしょう。糖尿病のリスクを自覚している人とは、医者からそう言われた人や、毎年の健康診断で血糖値が正常範囲に収まらない人、あるいは親が糖尿病の人などです。

新聞は企業が作る "商品" です。そこには「大切な新情報」が載るのですが「商品価値の高い情報」だともっとよい。"News" つまり新情報を選択するときにも、それがセンセーショナルで、ちょっと驚くような内容なら一段と商品価値が高まるわけです。



伊藤氏の本に戻ります。因果関係を正しく見極めるのが重要なのは、個人であれ企業や自治体であれ、ものごとを決めるときに重要なのは、ほどんどの場合は因果関係だからです。データの分析が間違っているために出てきた間違った推定を「バイアス」と呼ぶそうですが、では、バイアスを排して因果関係を正しく見極めるにはどうすればよいか。伊藤氏がその手法を紹介しています。このうちから何個かを紹介します。


電力料金の値上げは節電に結びつくか


まず、電力料金の値上げは節電に結びつくかどうか、結びつくとしたらどの程度の節電かという問題です。これは電気の価格政策を検討する際の重要な情報です。これを伊藤氏らは実験で確かめました。ここで用いられた手法は RCT(ランダム化比較試験。Randomized Controlled Trial)呼ばれるものです。これは試験の対象となる人々をグループ分けするときに必ずランダムに行う方法で、因果関係を証明するのには最適な方法です。

伊藤氏ら研究者は経済産業省、企業、自治体の協力を得て、北九州市で「電力価格フィールド実験」を行いました。「フィールド実験」というのは企業活動や消費活動などの実際の現場(=フィールド)で行う実験を言い、実験室で行う「ラボ実験」と対比させた言葉です。

2012年夏の北九州市の実験では、実験に参加した世帯に30分ごとの電力消費量を記録できるスマート・メータが配られました。このメータにはディスプレイ画面がついていて、家庭の電気の使用経緯がわかります。そして参加世帯をランダムに「介入グループ」と「比較グループ」に分けました。「介入グループ」は時間帯によって電気料金の値上げをするグループ、「比較グループ」は値上げをしないグループです。

まず実験開始前の6月に、参加世帯の電力使用量や電化製品の使用状況(たとえばエアコンの所有数)、年収などを調べました。その結果「介入グループ」と「比較グループ」で平均値やバラツキ度合いがほぼ同じだと確認できました。これがランダムにグループ分けした効果であり、「隠れた変数」の影響を排除できます

実験時の北九州市の電気料金は 1kWhあたり23円(従量料金の部分)でした。全国的に電力が逼迫するのは夏の平日の午後です。そこで実験では、電力が逼迫すると予想されると「介入グループ」に対してだけ、

今日の13時から17時の電力料金は50円に上昇します」

というメッセージをスマート・メータに表示しました。値上げの幅は電力の逼迫度合いに応じて100円、150円ともしました。このフィールド実験の結果が以下です。

電力価格RCT実験.jpg
北九州市での電力価格RCT実験
介入グループ(●)と比較グループ(△)の30分ごとの平均電力使用量(縦軸)。縦軸は対数値で、0.1の相違がおよそ10%の違いに相当する。グラフは上から順に、値上げをしない場合(23円/1kWh)、50円/1kWh、100円/1kWh、150円/1kWhの場合。値上げをしたのは介入グループ(●)だけである。伊藤公一朗「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」より引用。

この結果を統計解析した結果、「比較グループ」に対して「介入グループ」の電気使用量(価格変化を行った時間帯)は

  50円の場合、 9%の電力消費量減
 150円の場合、15%の電力消費量減

になることが分かったとのことです。100円の場合は伊藤氏の本に書いてないのですが、12-13%といったところでしょう。これれら電気の価格政策を決める場合の極めて重要な情報であり、また国レベルのエネルギー政策にも影響するでしょう。



但し、伊藤氏の本に書かれていないことがあります。この「電力価格フィールド実験」に参加したのは「実験に参加したいと申し出た人」です。従って実験に参加しなかった人の電力消費が同じ結果になるとは限らないわけで、このあたりの分析が本に書かれていません。

実験に参加した人は「電気に関心のある人」だと想定できます。たとえば夏場の電気代を節約したいと考えている人とか、電力の逼迫という社会問題に関心のある人です。そうではなくて「電気の使用量に関心などない、使いたい時に電気を使うだけだ、少々電気代がかさんでもどうってことない」と(暗黙に)思っている人は、実験への参加など申し出ないでしょう。つまり、もし仮に北九州市民全員にスマート・メータをつけたとしたら電力消費量の削減率はもっと小さくなると考えられるのです。著者の伊藤氏も本の最終章で、


実験への参加を申し出た世帯は、電力価格に強い関心があった可能性もあります。その場合、参加を申し出た住民から得られた実験結果は、他の住民の価格反応度とは異なる可能性がでてきます。

伊藤公一朗
「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」

と述べていますが、これ以上の言及はありません。北九州市の「電力価格フィールド実験」は "自由参加型のRCT" です。"強制参加型のRCT" が現代の日本では困難なことは分かります。しかし、実測データにもとづく分析は難しいまでも「実験に参加した住民の価格反応度が他の住民の価格反応度と異なる可能性」について(あるいは他の住民と同じだと推定できる理由について)、研究者としての見解を本で示すべきだったと思いました。



電力価格フィールド実験でも分かるように、RCTですべての因果関係を推定することはできません。最初に引用した「留学経験と就職率」でいうと、留学を経験した学生という「介入グループ」と、留学を経験しなかった学生という「比較グループ」を "ランダムに振り分ける" ことはできません。

さらに、フィールド実験はお金がかかることも分かります。おいそれとできるものではない。しかし国や自治体の重要な政策、意志決定にかかわるような因果関係は、RCTによるフィールド実験が(可能なら)検討に値する・・・・・・、そいういうことだと思いました。


オバマ大統領の選挙資金獲得策


2つ目のRCT(ランダム化比較試験)の例です。さきほどフィールド実験はお金がかかると書きましたが、低コストでRCTフィールド実験が可能なケースがあります。その一つが「Webサイトの作り方と、サイトを訪問する人のアクセス・パターンの関係」です。これはサイトのサーバ・プログラムを一時的に書き換えることだけで実験できます。まず伊藤氏の本に載っているのはオバマ大統領の選挙資金獲得策です。

アメリカの大統領選挙の選挙資金集めでは支持者の支援金が重要です。候補者は自分のホームページを開設し、そこで訪問者のメールアドレスを登録してもらおうとします。登録されたアドレスに支援金の依頼メールを送るわけです。できるだけ多くのメールアドレスを登録してもらうことが多くの支援金の獲得につながります。問題は、ホームページの画面やそのレイアウトをどうするかです。どのようにすればメールアドレスの登録率が高くなるのか。

2008年の大統領選挙でオバマ陣営は Google のダン・シローカー氏を引き抜き、支援金集めの戦略を任せました。シローカー氏は Google でRCTを用いたデータ分析の経験を積んだ人物です。オバマ陣営はウェブサイトのトップページに表示する画面を6通り考えていました。そのうちの4種が伊藤氏の著書に掲載されています。

オバマ候補が支援者に囲まれている写真(A)
オバマ候補の家族写真(B)
真剣なまざなしのオバマ候補の顔写真(C)
オバマ候補が行った有名な演説の動画(D)

の4通りで、これ以外に2通りの動画が用意されました。さらにオバマ陣営はトップページに表示するボタン(=それをクリックするとメールアドレス登録ページに移るボタン)に表示する文字を4種類考えました。

Sign Up(登録しよう)
Sign Up Now(今すぐ登録しよう)
Learn More(もっと知ってみよう)
Join Us Now(今すぐ参加しよう)

つまり6通りのトップ・ページ案と4通りのボタン案があり、この組み合わせは24通りあることになります。この24通りの中でベストは何か。オバマ陣営の検討チームは議論の末、A(オバマ候補が支援者に囲まれている写真)+ Sign Up(登録しよう)がベストだと結論しました。しかし、Google でWebサイトのデザインのプロフェッショナルであったシローサー氏は「RCTで検証してみよう」と提案したのです。

この提案によって、検証期間中にトップページを訪れた31万人に24種類の画面のどれかがランダムに表示されました。この "ランダムに" がポイントです。つまり31万人をランダムに24のグループ(各グループは約1万3000人)に分けたことになります。そしてグループごとのメールアドレス登録率を計算したところ、登録率の1位は B(オバマ候補の家族写真)+ Learn More(もっと知ってみよう)だったのです(登録率は 11.6%)。従って検証期間以降の画面にはこれが使われました。検討チームが当初ベストと判断した画面は登録率が8.26%でした。この結果、当初の画面に比較して実際の画面は支援金が約6000万ドル(72億円)増加したと見積もられています。


青の色をどの青にするか


メリッサ・マイヤー氏は Google の副社長 からヤフーの CEO に転じた人です。彼女が Google 時代に行った Google 検索サイトのデザインで行ったRCTが伊藤氏の本に紹介されています。


検索エンジンを提供する会社は、検索結果ページに出てくる広告料で収益をあげています。そのため、収入の鍵となるのはどれだけ多くの人が検索ページを訪れてくれるかと、訪れた人がどれだけの確率で広告をクリックしてくれるか、という点です。

ウェブ広告におけるビジネス戦略を考えるため、マイヤー氏はRCTを用いて最適なウェブサイトのデザインを検討しました。その実験で検討した内容は、文字のレイアウトから始まり、表示する検索結果の件数など多岐にわたります。

中でも有名なRCTは、検索結果として表示されるリンクの「青の色をどの青にするか」という実験です。著者のようなデザインの素人から考えると、青は青しかないような気がしてしまうのですが、ウェブサイトで上で表示できる青の種類は実はたくさんあるのです。彼女はウェブデザイナーを説得して、41種類の青をRCTによって試しました。

RCTのやりかたは(- 中略 -)オバマ前大統領の実験と似ています。グーグルの検索エンジンを利用した人に対して、41種類からランダムに選んだ青を見せ、どの青が一番多くのクリックを生むかを突き止めたわけです。

伊藤公一朗
「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」

Google に代表される "Webサイトが命" である企業は、上の引用のようなRCTを繰り返しているのだと思います。画面のレイアウト、配色、フォント、文字の大きさと色など、Google の検索画面のデザインのすべてに意味があると考えるべきでしょう。


医療費の自己負担率と外来患者数の関係


いままで紹介したRCT(ランダム化比較試験。Randomized Controlled Trial)は、企業活動や消費活動の実際の現場で実験を行う「フィールド実験」でした。しかし、このような実験で因果関係を検証できるケースは限られるし、また可能であっても実験のコストがかかるので実質的に無理ということもあるでしょう。

そこで「まるで実験が起こったような状況をうまく利用する」手法が研究・開発されてきました。これを「自然実験」と呼びます。自然実験にもいろいろな手法がありますが、ここで述べるのは RDデザイン(Regression Discontinuity Design。回帰不連続設計法)と呼ばれるものです。RDデザインのキー概念は「不連続」ないしは「境界線」です。社会における不連続点や境界線に着目する手法で、その例として本書であげられている「医療費の自己負担率と外来患者数の関係」を紹介します。

高齢化社会を迎え、医療費の抑制が国としての大きなテーマになっています。もちろん第一に大切なことは健康に過ごせる習慣を身につけることであり、地方自治体はこのための各種の取り組みをやっています。一方、国民皆保険制度が進んでいる日本では、健康保険制度の健全運営のために医療費の自己負担率をどうするかもテーマになります。医療費の自己負担率と外来患者数の関係がどうなるかは、公的健康保険の制度設計において大変に重要な情報です。

人は病気の自覚症状を覚えたり怪我をしたとき、病院に行くか行かないかを自己判断します。常識的に誰でも病院に行く症状もあれば、行かずに市販薬で対応したり自然治癒を待つこともある。しかし「行く・行かない」の間にはグレーゾーンがあり、その時々によって人の判断は分かれます。この病院に行く・行かない判断に医療サービスの価格(=医療費の自己負担率)も関わっていると考えられます。では、自己負担率を変えると外来患者数はどう変わるのか。そこにどんな因果関係はあるのか。これはRCTで検証するのが無理な問題です。

そこで着目されたのが日本の健康保険制度です。つまり医療費の自己負担率は年齢によって不連続に変化し、69歳までが30%、70~75歳が20%、76歳以上が10%です。2014年3月以前は70歳以上が一律10%でした。カナダのサイモンフレイザー大学の重岡仁助教授は、この日本の健康保険制度に着目し、1984年から2008年まで(=70歳以上の自己負担率が一律10%の時代)の外来患者数を年齢(=月年齢)別に調査しました。その結果が次のグラフで、横軸が外来患者の月年齢、縦軸が外来患者数です。

外来患者数.jpg
月年齢別の外来患者数
縦軸は対数値(0.1の違いがおおよそ10%の違いに相当)。伊藤公一朗「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」より引用。

このグラフを見ると明らかなのですが、69歳12ヶ月と70歳0ヶ月の間に「境界線」があり、この境界線を境に外来患者数が不連続にジャンプしています。このデータを解析した重岡仁助教授は、

  医療費の自己負担率が30%から10%に減少することで、外来患者数は約10%上昇した

と結論づけています。これが「RDデザイン」という分析手法の例なのですが、この結論には重要な仮定があります。つまり、

  もしも境界線で自己負担率が変化しない場合、医療サービスの利用者数(外来患者数)の平均値が境界線でジャンプすることはない

という仮定です。本書に掲げられている図を引用します。

RDデザインの仮定.jpg
RDデザインの仮定
実線は実際のデータ。点線は「70歳で自己負担率が変化しないとしたらこうなったはず」という仮定(=実際には起こらなかった潜在的結果についての仮定)である。伊藤公一朗「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」より引用。

この仮定が崩れると「RDデザイン」は成立しません。しかしこの仮定を実証することは不可能です。なぜなら境界線で自己負担率が変化しない場合のデータがないからです。従って分析者は「この仮定は正しいはずだ」という議論を展開することになります。つまり仮定が崩れる場合はどういう場合か、それを想定し、それが起こらないという議論です。本書では仮定が崩れる2つのケースが言及されています。

一つは、70歳を境に自己負担率以外の何らかの要素がう不連続的にジャンプし、それによって外来患者数がジャンプする可能性です。外来患者数に影響が考えられるのは就業率、収入、労働時間、年金支給額などですが、これらは年齢に伴って連続的に低下していくので、ジャンプするということはありません。重岡仁助教授は月齢ごとの就業率が連続的に低下していくことをデータで示しています。また70歳の誕生日を境に不連続的に変わる日本の政策は医療費の自己負担率しかないことも論文で示しています。

仮定が崩れる2つ目のケースは、データの対象となっている主体(この場合は医療サービスを受ける人)がグラフの横軸(=年齢)を操作できる場合です。つまり60歳台にもかかわらず70歳だと偽って医療サービスを受けることが可能な場合です。これも、日本の健康保険制度では年齢を偽ることは難しいため(健康保険証を偽造する ??!!)、仮定が崩れることはありません。



RDデザインで注意すべき点は、そこで出た結果は境界線の前後でしか当てはまらないと考えるべきことです。つまり「医療費の自己負担率が30%から10%に減少すると、外来患者数は約10%上昇する」のは70歳前後の人たちに言えることであって、40歳台、50歳台でそうなるかどうかは分かりません。本書には伊藤氏のコメントとして、最近の経済学研究では医療価格に対する反応度は年齢によって違うことが書いてあります。


自己負担率と外来患者数の分析への疑問


以降は本書の「自己負担率」のくだりを読んだ感想です。この項を読みならずっと疑問がつきまとっていました。「RDデザインの仮定」のグラフについての疑問です。つまり、もし仮に70歳を契機に自己負担率が下がらないとしたら、外来患者数は伊藤氏のグラフ(上図の点線)ではなく、下図の点線ように変化すると思うのです。70歳を境にジャンプすることがないのは上図と同じです。しかし自己負担率が下がらないのなら、70歳に近い60歳台の外来患者が増えると思うのですね。

RDデザインの仮定(修正案).jpg
RDデザインの仮定(修正案)
実線は実際のデータ。点線は「70歳で自己負担率が変化しないとしたらこうなったはず」という仮定の修正案。70歳以降に先送りされた治療が、60歳台後半に前倒しされると考えられる。

どうしてかと言うと、

  70歳を境に医療費の自己負担率が下がる場合、年齢とともに徐々に顕在化する体の機能低下や不具合の治療が70歳以降に集中するはず

だからです。つまり緊急を要しない治療は、不便を我慢しても70歳まで待つと思われるのです。「駆け込み需要」という言葉は消費税が上がる前に高額商品を買うような行為を言いますが、これとちょうど正反対の、言わば「先送り需要」が現実に医療サービスで起こっているのではないでしょうか。70歳を境に医療費の自己負担率が下がるのが公知の事実なのだから・・・・・・。

すぐに思いつくのが白内障の手術です。白内障は水晶体が徐々に濁ってきて視力が低下する "病気" で、加齢によって誰にでも起こりうるものです。白内障の手術は水晶体を人工レンズに入れ替えますが、現在の日帰り手術費用は、3割負担の場合で片眼で約6万円程度です(手術のみの費用で前後の診察を含まない)。両眼だと約12万円です。これが1割負担だと約4万円になるわけで、この差の8万円は大きいと思います(2割負担だと差は4万円)。たとえば68歳で医者から白内障と診断されて手術を勧められた人の何割かは、不便を我慢して70歳まで手術を先送りするのではないでしょうか。今まで我慢してきたのだから ・・・・・・。

ほかにも医療サービスにおける「先送り需要」はいろいろと考えられます。関節の変形による膝の痛み(変形性膝関節症)は加齢により進行しますが、運動や藥の投与で治癒しない場合は手術ということになります。70歳まで待って手術ということにならないでしょうか。

最も一般的な加齢現象は高血圧(加齢性)です。血圧が高いと良いことがないので、医者は運動を勧め塩分を控えるように指導しますが、病院・医院を定期的に訪れて血圧降下剤の処方箋をもらう人も多いはずです。これも「70歳を契機に」とはならないか。保険の対象となる入れ歯もそうです。"大がかりな" 入れ歯は1割負担になってからという心理が働かないでしょうか。

ここで想定した先送り需要は、もし70歳を境に医療費の自己負担率が下がることがないとすると60歳台後半に前倒しされると思います。全部とは言わないまでも、眼が見えにくい、膝が痛む、モノが食べにくいといった "生活に支障を感じる症状" はそうだと思うのです。だとすると「医療費の自己負担率が30%から10%に減少することで、外来患者数は約10%上昇した」という結論の、10%のところが怪しくなります。

本書はこのことの検討が欠落しています。少なくとも先送り需要について言及し、その影響は外来患者全体からみると無視できる程度に小さいという説明が必要だと思いました。「無視できる程度に少ない」ことをデータで実証するのは難しいでしょうが、70歳で病院を訪れた患者にインタビュー、ないしはアンケートをすれば大体の様子は推測できると思います。「医療費の自己負担率と外来患者の因果関係」を発表した重岡助教授も、その論文を本書で紹介した伊藤助教授もアメリカ在住の経済学者です。公的データの分析を越えた現場調査には限界があったのかもしれません。


因果関係を見極める重要性


本書には以上に紹介した手法以外に、自然実験の手法である「集積分析」や「パネルデータ分析」が紹介されていますが、割愛したいと思います。また本書には各手法の長所・短所が明記されていて、データ分析の限界もちゃんと書かれています。このあたりはバランスがとれた良い本だと思いました。

因果関係を見極めることは、特に国や自治体の政策決定や企業の方針決定にとっては重要です。思い返すとその昔、地域振興券というがありました(1999年)。バブル崩壊後の消費を活性化するために公明党の主張によって(自民党がそれに乗って)導入されたものですが、その後の内閣府の調査では消費を押し上げる効果はほとんど無かったとされています。地域振興券による消費分が貯蓄に回ったわけで、国民はバカではないのです。結局のところこれは公明党の人気取り政策であり、天下の愚策(=当時の内閣官房長官の野中広務氏)だった。その結果として国の財政負担を増やし、その分だけ国債の発行額=財政赤字を増やしました。

こういった「バラマキ政策」と「消費拡大」の因果関係は、経済学者が研究してちゃんと発言すべきものでしょう。本書に紹介されている例に2008年のアメリカの景気刺激策があります。つまり「燃費の悪いクルマから良いクルマに買い換えたら40万円の補助金を出す」という政策です。「燃費」というのは "飾り" であって、要するにクルマを買い換えたら40万円出すということです。アメリカのプリンストン大学のチームは、この政策は駆け込み需要を増やしたけれども、その後の需要が落ち込み、全体として景気刺激効果はなかったと分析しています。

要するに、国や政府レベルでも「怪しい因果関係論」があるわけです。我々としては「因果関係」の主張に対してまず、本当なのか、実証されているのかと疑ってみるべきでしょう。




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No.222 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー [アート]

バーンズ・コレクションからはじまって、個人コレクションを発端とする美術館について書きました。

No. 95バーンズ・コレクションフィラデルフィア
No.155コートールド・コレクションロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オッテルロー(蘭)
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード
No.192グルベンキアン美術館リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館ロッテルダム(蘭)
No.216フィリップス・コレクションワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館ミラノ

の9つの美術館です。今回はその方向を少し転換して、アメリカのワシントン・ナショナル・ギャラリーについて書きます(正式名称:National Gallery of Art。略称:NGA。以下 NGA とすることがあります)。

  なお上記の "個人コレクション美術館" 以外にも、バーンズ・コレクションから歩いて行けるフィラデルフィア美術館(No.96No.97)について書きました。またプラド美術館の数点の絵画についても書いています(No.133No.160No.161)。

なぜワシントン・ナショナル・ギャラリーかと言うと、過去にこのブログでこの美術館の絵をかなり紹介したからです。意図的にそうしたのではなく、話の成り行き上、そうなりました。そこで、過去に取り上げた絵を振り返りつつ、取り上げなかった絵も含めてこの美術館の絵画作品を紹介しようというのが今回の主旨です。

それに、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは "個人コレクション美術館" が発端です。つまりこの美術館は、銀行家・実業家で財務長官まで勤めたアンドリュー・メロン(1855-1937)が建設・運営基金と個人コレクションを国家に寄贈し、それにもとに設立された美術館です(1941年開館)。アメリカ富裕層の財力のものすごさを感じます。ちなみにここは創立以来、入場料が無料です。「アメリカを文化国家に」という主旨で設立されたからですが、現在、国を代表するような美術館・博物館で入場無料というのは大英博物館とここぐらいのものではないでしょうか。

いうまでもなくアメリカ随一の「国立美術館」であり、その規模や作品数は膨大です。「国立」なのでアートの年代も13世紀から20世紀まで多岐に渡っている。その意味で、フィラデルフィア美術館と同じく "巨大美術館を紹介するのは難しい" わけですが、今回は、

  一人または複数の人物を描いた絵。人物がテーマの中心になっている絵画作品

に絞ります。また、さきほど書いたように過去にこのブログでとりあげた絵を再掲するとともに、必見と思われる絵を追加する形をとります。さらにアメリカ人画家をなるべく掲載することとします。以下は画家の生誕年順で、同一画家の作品は制作年順です。

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ワシントン・ナショナル・ギャラリー
(National Gallery of Art. NGA)
西館の南側正面(ワシントン D.C.)


ボッティチェリ(1446-1510)


Portrait of a Youth.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
青年の肖像」(1482/1485)
(44cm×46cm)

No.160「モナ・リザと騎士の肖像」で引用した作品です。青年が右手を胸に置いて人指し指と中指を広げていますが、同じポーズの絵がプラド美術館にあります。それはエル・グレコの『胸に手を置く騎士』で、プラド美術館の代表作の一つとされている作品です。

マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像.jpg
ブロンズィーノ
マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像」(1551)
(ウフィツィ美術館)
このような手の形はルネサンス期のイタリア絵画で女性の姿によくあります。ブロンズィーノの『マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像』がその典型です。ボッティチェリ自身の『ビーナスの誕生』(ウフィツィ美術館)もそうで、これらは手を美しく見せるためと言われています。しかし男性の肖像画ではあまり見たことがなく、エル・グレコからこのNGAのボッティチェリを思い出したわけです。

この絵は現地で初めて知ったのですが、巨大美術館であるワシントン・ナショナル・ギャラリーの中でも印象的で、すぐに写真を撮ったのを覚えています。なぜ印象的だったかは分かりませんが、ひょっとしたらそれは「指を広げて胸に置いた右手」だったのかも知れません。


ダ・ヴィンチ(1452-1519)


Ginevra de' Benci.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジネヴラ・デ・ベンチ」(1474頃)
(38cm×37cm)

ヨーロッパ以外にある唯一のダ・ヴィンチ作品がこの絵です。もちろんアメリカではここだけです。モデルはフィレンツェの銀行家の娘で、彼女が16歳の時の作品です。レオナルドはこの絵を22歳から描き始めました。NGAのサイトには「4分の3正面視の肖像の初期の作品の一つ」で「肖像画で風景を背景としたのはレオナルドの新しい試み」とあります。この2つともフランドル絵画では既に行われていたわけで、レオナルドは新しい画法を取り入れるのに積極的だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの女性肖像画は『モナ・リザ』『貴婦人の肖像』(ルーブル美術館)『テンを抱く貴婦人』(ポーランドのクラコフのチャルトリスキ美術館)と本作の4点しかありません。「モナ・リザ」を別格として、他の3作品に共通するのはモデルを冷静に眺めて現実を描くというか、「モデルとは距離をおいた観察と描写」を感じる絵であることです。モデルがかしこそうに見える点も共通しています。このジネヴラ・デ・ベンチの肖像もそうです。白い肌や金髪の巻き毛が精緻に描かれていて、知的で、芯が強そうで、何となく神経質で、しかし病弱そうなモデルの雰囲気がよく出ています。

貴婦人の肖像.jpg 白貂を抱く貴婦人.jpg
貴婦人の肖像
(ルーブル美術館)
白貂を抱く貴婦人
(チャルトリスキ美術館)


エル・グレコ(1541-1614)


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エル・グレコ
ラオコーン」(1610/14)
(138cm×173cm)

この作品はエル・グレコの絶筆とされている作品で、かつ画家が生涯で描いた唯一の神話画です。中野京子さんの文章を引用します。


グレコは73歳まで生きたが、晩年には早くも人気が下降しはじめている。強烈な恍惚の画面が、次第に時勢と合わなくなったせいもあるし、個性的すぎることが、逆に飽きられたのかもしれない。

それを感じて、新たな試みに挑戦したのだろうか、宗教画家から神話画家への転換を図ろうとしたのだろうか? それともひょっとして、ギリシャ人たる自分が一枚もギリシャ神話を描かないのはどうなのかと、はたと思いついただけなのか?

グレコ絶筆と考えられているのが、最初で最後の神話画『ラオコーン』だ。これはトロイア戦争の有名な一挿話「トロイアの木馬」を主題にしている(画面中央後景に小さく木馬が見える)。ギシリャ側の奸計かんけいを見破ったトロイアの神官ラオコーンが、城内へ木馬を入れないようにと進言し、それに怒った女神アテナ(=ミネルヴァ)が海蛇を放って、ラオコーンとその二人の息子を殺すというシーンだ。

グレコは背景をトレドの町に置き換えた。そして相変わらず引き伸ばされた蒼白い人体、画面をおおう不可思議感。主題を神話に変えてもグレコのグレコらしさは、あっぱれ、微塵みじんも揺らがないのだった。

グレコは死後徐々に忘れられたいった。二世紀を経た1819年、マドリッドのプラド美術館が開館したとき、グレコは一枚も飾られなかった(現在からは想像もつかない)。

グレコ再発見者は、驚くなかれ、20世紀の表現主義の画家たちだ。ピカソも、自分の「青の時代」の人物描写がグレコの影響であることを認めている。「あのギリシャ人」の感性がいかに新しかったか、いや、新しすぎたかのあかしだ。


ラオコーン(石像).jpg
「ラオコーン像」
(バチカン美術館)
直感的に連想するのは、バチカン美術館にある有名な『ラオコーンの大理石像』です。この有名な像は1506年にローマで発掘されましたが、ギリシャ出身のエル・グレコはスペインに来る前にイタリアに滞在し、ローマにも行っています(1570年)。つまりローマでラオコーンの大理石像を見た記憶で描かれたという可能性があるわけです。

とは言うものの、バチカンの像と違って不思議な絵です。ラオコーンと2人の息子、海ヘビ、トロイアに擬したトレドの街、木馬(=トロイアにとっては破滅の木馬)までは分かりますが、右端の3人の人物はいったい何でしょうか。まるで空中を浮揚しているようです。この解釈には議論がいろいろとあるようで、NGAの公式サイトには「たぶん、海ヘビを放ったギリシャの神々」という解釈が書いてあります

しかしこの3人はトロイア市民ということも考えられるでしょう。破滅の瀬戸際にある国家、国家を救おうとして死にゆく親子、それとは無関係に浮揚している市民、の3つを対比させることで時代の終焉を表したのかもと思います。


ヴァン・ダイク(1599-1641)


Marchesa Elena Grimaldi Cattaneo.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
マルケッサ・エレナ・グリマルディ・カッタネオ」(1623)
(243cm×139cm)

イギリス、チャールズ1世の宮廷画家だったヴァン・ダイクの作品で、No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵です。

フランドル出身のヴァン・ダイクは1620年に英国に渡りますが、1621年から1627年まではイタリアに滞在し、ジェノヴァを拠点に絵の勉強と制作に励みました。この絵はジェノヴァのカッタネオ伯爵の夫人、マルケッサ・エレナ・グリマルディを描いたものです。ずいぶん "いかつい" 感じで "勝ち気な" 雰囲気の女性ですが、それは本人をよく表しているのでしょう。

目を引くのは "パラソル" です。17世紀のパラソルは木製の大がかりなもので、女性が自分で持てるような代物ではとてもなく、このように召使いがかざして歩くものでした。

もう一つのポイントはパラソルを持っている召使いで、これはアフリカから連れてこられた奴隷だと推定できます。当時のイタリアの海岸都市、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィなどは地中海交易で繁栄し、その重要な交易品の一つが奴隷でした。またイタリアの貴族や裕福な家庭では奴隷を使っていました。No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で紹介しましたが、塩野七生著「海の都の物語」には「イタリアの都市ではエキゾチックな黒人奴隷がもてはやされ、回教国では白人奴隷が好まれた」という意味の記述がありました。この絵の伯爵夫人は、エキゾチックな黒人奴隷の従者にパラソルを持たせることで権力と富を誇示している感じがします。

ちなみにワシントン・ナショナル・ギャラリーにはパラソルがテーマになっているもう一枚の絵があります。それは "超有名絵画" であるモネの『パラソルの女』です(後で引用)。この二つを対比して見るとおもしろいでしょう。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(219cm×135cm)

No.161「プラド美術館の怖い絵」で引用した絵で、英国国王チャールズ1世のきさきであるヘンリエッタを描いたものです。このブログでは17世紀のスペイン宮廷で「特異な身体的形状をもった人」を雇う(ないしは住まわせる)習慣があったことを書きました(No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」No.161「プラド美術館の怖い絵」)。しかしその "習慣" は何もスペインだけではなく、ヨーロッパの宮廷に広くあった。その一例として引用したのがこの絵でした。


フェルメール(1632-1675)


寡作で有名なフェルメールの絵がそもそも何点現存しているかですが、フェルメールについての数々の著作がある朽木くちきゆり子氏の本によると(「フェルメール全点踏破の旅」集英社新書 2006)、次の通りです(以下の "ランク・・・" は今回便宜上つけたものです)。

◆ランクA : 32点
専門家にフェルメールの真作であると認めてられている作品。
このうちの1点、『合奏』は、1990年にボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館から盗まれて、現在も行方不明。

◆ランクB : 2点
真作だとする専門家が多いが、そうではないとする専門家もいる作品。
赤い帽子の女』(NGA)と『ダイアナとニンフたち』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)

◆ランクC : 2点
多くの専門家は真作ではないとするが、真作だと主張する専門家もいる作品。
フルートを持つ女』(NGA)と『聖女プラクセデス』(米国プリンストンのバーバラ・ピアセッカ・ジョンソン財団)。

◆新発見作 : 1点
新発見の『ヴァージナルの前に座る女
それまで贋作の疑いがあるとされていたが、10年がかりの鑑定の結果、2003年になって真作と鑑定され、サザビースのオークション(2004年)で32億円で落札された。落札者は不明。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある同名の作品とは別作品。
しかし専門家全員が真作と納得しているわけではない( = ランクB)。

一般的には美術界の多数意見に従って(A + B + 新発見)の合計35点をフェルメール作品としています。このうち美術館所蔵の作品は34点(盗難中を除くと33点)ですが、2点以上を所蔵している美術館をあげると次の通りです。

●5点:(米)メトロポリタン美術館
●4点:(蘭)アムステルダム国立美術館
●3点:(蘭)マウリッツハイス美術館
●3点:(米)フリック・コレクション
●3点:(米)ワシントン・ナショナル・ギャラリー
●2点:(英)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
●2点:(仏)ルーブル美術館
●2点:(独)ベルリン絵画館
●2点:(独)ドレスデン絵画館

別にフェルメールをたくさん持っていることが美術館の価値を決めるわけではないのですが、アメリカの3つの美術館だけで11点、全作品の約3分の1を保有しています(盗まれた1点を加えると12点)。ダ・ヴィンチがアメリカに1点しかないのとは大違いで、フェルメールが19世紀後半以降に "再発見" されたことを如実に物語っています。これらのうち、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA)にある3点は、

  『手紙を書く女』 (A)
  『天秤を持つ女』 (A)
  『赤い帽子の女』 (B)

であり、さらに NGA にはもう一枚、

  『フルートを持つ女』 (C)

があります。つまりNGAはランクA,B,Cが全部揃っているという珍しい美術館です。NGAは『フルートを持つ女』については「Attributed to Johanness Vermeer」として展示しています。「伝・フェルメール」という感じでしょうか。もちろん『赤い帽子の女』についてNGAは断固真作だと主張しています。以下はランクAの2点です。

A Lady Writing.jpg
ヨハネス・フェルメール
手紙を書く女」(1665頃)
(45cm×40cm)

この絵のような「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の女性をフェルメールは6点描いていますが、その中の1枚です。少し微笑んだ女性を、自然体で大変おだやかな雰囲気に描いています。机の上の小物の描き方も光っています。ちなみに「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の他の5枚は、メトロポリタン、フリック・コレクション、アムステルダム、ベルリン、ロンドンのケンウッド・ハウスにあります。

Woman Holding a Balance.jpg
ヨハネス・フェルメール
天秤を持つ女」(1664頃)
(40cm×36cm)

各種の解説にありますが、この絵の画中画は「最後の審判」です。このブログでは、フランスのボーヌにあるファン・デル・ウェイデンの『最後の審判』を引用しました(No.116「ブルゴーニュ訪問記」参照)。その絵でも分かるのですが一般的に「最後の審判」の描き方は、上の方に再臨したキリスト、その下に秤をもった大天使ミカエル、その横(ないしは下)にミカエルによって天国と地獄に振り分けられた人間という構図です。

この絵はその大天使が女性によって隠されていて、その代わりに女性が天秤を持っている。天秤の皿の上には何も乗っていない(=何も描かれていない)ことが判明していて、女性が天秤のバランスをとっている(?)姿になります。机の上の真珠や金貨も意味ありげです。数々の解釈がなされてきたようですが、決定版はないようです。素人目には「女性が何か重大な決断をしようとしている、ないしは決断をすべきか迷っている」と見えますが、そうとも限らない。結局、絵を見る人にゆだねられているといっていいでしょう。


フラゴナール(1732-1806)


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ジャン・オノレ・フラゴナール
読書する娘」(1769頃)
(81cm×65cm)

この絵もワシントン・ナショナル・ギャラリーの有名絵画です。フラゴナールというと "ロココ" の画家であり、宮廷や貴族の恋愛模様を描いた、いわゆる "ロココ趣味" の絵で有名です。しかしこの絵はそれとは違って家庭内での "知的な" 情景であり、享楽的な恋愛模様とは対極にある画題です。

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」でルネサンス期のイタリアの横顔肖像画を4点とりあげました。しかしこのフラゴナールの横顔作品は、特定の人物の肖像画ではないでしょう。「女性の横顔の美」と「読書という行為」がうまく融合した作品になっています。

注目すべきは描き方で、なんとなく "印象派っぽい筆致" です。印象派は絵画史における革新だったわけですが、一般的にいってアートにおける革新は、全く新しいものが突然変異のように生まれるのではなく、それ以前の時代に萌芽があるわけです。印象派に関していうと、イギリスのターナーの絵はそういう感じがします。この『読書する娘』もそういった一枚だと思います。


ゴヤ(1746-1828)


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フランシスコ・デ・ゴヤ
セニョーラ・サバサ・ガルシア」(1806/11)
(71cm×58cm)

No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で引用した絵です。この絵の感想は No.90 に詳しく書いたので、ここでは省略します。ひとつだけ繰り返すと、この絵は「ワシントンのモナ・リザ」でしょう。年齢はずいぶん違いそうですが、この絵のモデルも既婚者です。明らかにモナ・リザを意識したポーズだし、表情の "微妙な複雑さ" がモナ・リザ的です。


アングル(1780-1867)


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ドミニク・アングル
モワテシエ夫人の肖像」(1851)
(147cm×100cm)

No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。アングルは、この絵(立像)の他に『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を描いています(ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある)。そして No.157 で書いたように、ピカソは『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を下敷きにしてマリー = テレーズを描いたのでした。それが『本をもつ女』という絵です。『本をもつ女』はピカソが "アングルから影響を受けた" と自ら宣言しているような絵です。

Classical Head.jpg
そしてNGAの『モワテシエ夫人の肖像(立像)』ですが、この絵から伝わってくるのは夫人の大変に豊満な感じであり、また額から鼻筋がそのまま伸びている彫りの深い顔立ちです。この風貌から直感的に連想するのが、ピカソの "新古典主義の時代" に登場する人物像です。NGAが所有するピカソの作品(「Classical Head」1922)をあげておきます。このような顔立ちはギシリャ・ローマ彫刻によくあるし、ルネサンス期の彫像にもあります(たとえばミケランジェロのダビデ像)。しかしアングルのこの絵もピカソに影響を与えた一つだったのではないかと思います。


マネ(1832-1883)


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エドゥアール・マネ
悲劇役者」(1866)
ハムレットに扮するルビエール
(187cm×108cm)

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で引用した絵です。その主旨は、マネがプラド美術館でベラスケスを見て感動し、そのベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』を踏まえて描いたのがこの作品ということでした。

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エドゥアール・マネ
オペラ座の仮面舞踏会」(1873)
(59cm×73cm)

『悲劇役者』は「黒」を強調した絵でしたが、この絵も強烈に印象づけられるのは黒服の「黒」です。NGAには別に『死せる闘牛士』というマネの絵がありますが、その絵も黒服が眼につきます。一連の「黒」はマネがスペインを旅行したときの影響だと考えられます。

NGAのサイトの解説によると、右から2番目でこちらを向いているブロンドの髪の紳士は画家自身だそうです。また、上の方に足が描かれていますが、これは『フォリー・ベルジェールのバー』(1881/82)を連想させます(No.155「コートールド・コレクション」参照)。

The Railway.jpg
エドゥアール・マネ
鉄道」(1873)
(93cm×112cm)

この絵はマネの有名作品です。サン = ラザール駅を描いたこの絵は、1898年にアメリカのハブマイヤー夫妻がパリの画商のデュラン = リエルから購入したものです。夫人のルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの友人です。No.86「ドガとメアリー・カサット」に書きましたが、ルイジーンがメアリーの勧めで購入したドガのパステル画が「アメリカ人が初めて購入した印象派絵画」でした。

フィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』という本があります。著者はサザビーズの印象派・近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人で、印象派の受容の歴史を "画商" や "オークション" の視点から描いた興味深い本です。この本に、ルイジーン・ハブマイヤーがこの絵を購入した当時のことを回想した発言がのっています。以下に引用してみます。


ルイジーン・ハブマイヤーの回想

なぜ、この絵をほしいと思ったかですって? 子どもの顔がどうしたって見えないような絵を描いたマネを、なぜ許せたかと? かろうじて見えるだけの鉄道の線路や蒸気機関車のエンジンに、なぜお金を払うのかとお聞きになるのね? 子どもはぜんぜん可愛くないし、母親もまったく醜いし ・・・・・・ 仔犬すらも魅力的でないと、おっしゃるんでしょう。そんな絵に、なぜ私たちがこれほどのお金を払うのか、お知りになりたいのね。それだけのお金があれば、ゴージャスなアカデミック絵画も、イギリスの堂々たる肖像画も、あるいは素晴らしいオリエント趣味の絵も買えるでしょうから。

私の答えは、それがアート、アート、アートだから、ということよ。そこにあなたを魅了する力があるの、私たちを魅了すると同じように。作品があなたに語りかける声に耳をすまさなくてはいけないわ。マネが感じている感動にあなたも応えなくては。その感動が彼の心臓を揺さぶり、頭をいっぱいにして、そして彼の感情を揺り動かし、ヴィジョンをとぎすまさせ、カンヴァスに筆をおかさせているのよ。それがアート、アート、アートなのだと、申し上げておきましょうね。

・・・・・・・・・・・・

子どもの両肩にかかるドレスの輪郭線を描いたこの曲線。こんな素晴らしい線をほかにどんな絵で見られるでしょう。それに彼女の金色の髪の上に次第に降り注ぎ、愛らしい首に陰影をつけている光の素晴らしさも。頭の傾き、腕の動き、そしてむっちりした小さな手が鉄柵を押さえつけている様子。画面全体の大気や光が二人の姿を包みこみ、遠くの光景との距離感を生み出しているのをご覧なさいな。そして最後に、どうぞこの色彩を見て! これほど美しく調和に満ちたものを、あなたはご覧になったことがあるかしら?


一見すると奇妙な絵です。"屋外" で "現代" を描くという意味では印象派の絵と似ています。しかし肝心の鉄道はほとんど描かれず、子どもは向こう向き、誰かに気づいて読書を中断したような女性は母親でしょうが、親子はバラバラです。都会における家族、と考えていろいろと画家の意図を推測できると思いますが、そういう "深読み" にあまり意味はないのですね。どういう絵の見方をすべきか、それを語ったのが印象派と同時代のコレクター、ハブマイヤー夫人です。この回想に尽きていると思います。

マネの代表作である『草上の昼食』や『オランピア』はオルセー美術館の至宝ですが、発表当時は大スキャンダルになりました。否定するにしろ肯定するにしろ、大きな話題となった。しかしこの『鉄道』にはスキャンダラスなところは何もありません。結局、この絵をつまらないと思って見過ごすのか、それとも(ルイジーン・ハブマイヤーのように)感動するのかが、時代の分かれ目だったのでしょう。


ホイッスラー(1834-1903)


The White Girl.jpg
ジェームズ・ホイッスラー
白衣の少女」(1862)
白のシンフォニー No.1
(213cm×108cm)

ホイッスラーはアメリカのマサチューセッツ州に生まれ、21歳のときにパリに居を構え、その後ロンドンに拠点を設けて活躍した画家です。この絵の「白のシンフォニー No.1」という副題ですが、「白のシンフォニー」は全部で3作あり、No.2 はテート・ブリテン、No.3 はバーミンガム大学付属美術館にあります。

この絵はその題名どおり画面の大部分を占める服の「白」が目立つ作品です。ドレス、手にしている百合の花、後ろのカーテン、敷物にさまざまな色調の白が使われています。まさに「白のシンフォニー」です。このように白に白を重ねる色の使い方はあまり見たことがなく、大変に斬新な手法です。この『白のシンフォニー No.1』は発表当時、大きなスキャンダルになったようです。2014年-15年に日本で開催された「ホイッスラー展」の図録には次のようにありました。


最初の作品である《白のシンフォニー No.1》は、ホイッスラーの愛人であったジョー・ヒファーナンが一輪の百合の花を持ち、白いカーテンの前に白いドレスをまとって立っている全身肖像画である。厚塗りのパレットにはクールベの影響が現れているが、白の上に白を塗り重ねた色彩のアレンジメントともいえるこの作品は、「ジョーがラファエル前派の究極の付帯物である白百合を握り、英国の最もアヴァンギャルド的な作品である」と評されたように、ホイッスラーはある種のシンボリズムを表現しようとした。

ロイヤル・アカデミー展とサロンに落選したものの、翌年1863年の落選展で展示され、エドゥアール・マネの《草上の昼食》と話題を二分し、大きな反響とスキャンダルを巻き起こした。白地の背景に同色である白い衣服を着た女性を描いたというその表現が批判されただけでなく、ヴィクトリア朝の英国において、女性がこのように髪の毛を結わずにいるのは、寝室のみにおいてであり、純潔の象徴である白百合の花を手に持ち、ゆるやかな白いドレスを着たこのような姿を、人々は処女喪失を意味すると容易に理解することができた

小野文子(信州大学 准教授)
「ホイッスラー展(2014-15)」図録

マネの『草上の昼食』がスキャンダラスというのは理解できますが、この『白のシンフォニー No.1』がスキャンダルだとは、現代人はちょっと想像できません。今から150年前のパリ・ロンドンの画壇では絵のテーマに対して数々の制約があり、それを打ち破ろうとする画家がいたということでしょう。それが上の評言に出てくるクールベであり、マネであり、そしてホイッスラーだった。この絵のモデルとなったジョー(ジョアンナ)・ヒファーナンはクールベの『世界の起源』(オルセー美術館)のモデルとも言われる人で、それも象徴的です。

比較のために同じモデルを描いた『白のシンフォニー No.2』を引用しておきます。この絵はホイッスラーによくあるジャポニズムの影響下にある作品で、磁器の壷、朱色の椀、団扇といった典型的な日本的アイテムが配置されています。描かれている花はアザリア(ツツジ)で、この花も東アジア原産です。ちなみにワシントン D.C.のフリーア美術館にはホイッスラーがデザインしたピーコック・ルーム(孔雀の間)があり、『磁器の国の姫君』というジャポニズム作品が展示されています。

The Little White Girl.jpg
ホイッスラー
白衣の少女」(1864)
白のシンフォニー No.2
テート・ブリテン


ホーマー(1836-1910)


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ウィンスロー・ホーマー
」(1877)
(97cm×59cm)

ホーマーはボストン生まれで、アメリカの身近な自然や生活を描くのを得意とした画家です。

頬を紅潮させた女性が紅葉した木の枝を持ち、ちょっと挑戦的な視線で画家の方を向いています。何となく、この人の "勝ち気" な性格を思わせます。つまり、この絵をパッと見ると特定の人物の肖像画だと感じる。しかし題名は「秋」です。

背景は何らかの傾斜地、ないしは山道でしょうか。スカートの裾を持ちペチコートをのぞかせている姿は、今しがた坂を降りてきたように見えます。そして一面に描かれた紅葉がこの絵の特色です。背景は明確ではなく、あえて特定の景色にしなかった感じがします。秋のイメージを具現化したのでしょう。だとすると女性も、紅葉した木の枝を携えて "秋" から抜け出してきた「秋の化身」のようにも感じられる。よく西欧絵画に季節を擬人化して描いた絵がありますが、この絵もその流れにある一枚かもしれません。


セザンヌ(1839-1906)


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ポール・セザンヌ
赤いチョッキの少年」(1888/90)
(90cm×72cm)

マネの『鉄道』のところで引用したフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』によると、この絵は NGA の設立者であるアンドリュー・メロンの息子、ポール・メロンが、1958年、ロンドンのサザビーズの競売で、当時の絵画の最高価格である22万ポンドで落札した作品とあります

赤いチョッキの少年』は、セザンヌの絵によくある連作(4点)です。1点は前向きに座っている姿で、バーンズ・コレクションのメインルーム(Room1)の North Wall にあります(No.95「バーンズ・コレクション」参照。分かりにくいですが)。1点は座って肘をついている姿で、チューリッヒのビュールレ・コレクションにあります(赤いチョッキでは最も有名)。また横向きに座っている絵がニューヨーク近代美術館(MoMA)にあります。

このNGAの絵をみても分かるのですが、さまざまな色が使われ、形が組み合わされています。色の実験、形の実験をしているようで、まさにセザンヌがモダン・アートを先導した画家だと分かります。

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ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
(101cm×65cm)

No.114「道化とピエロ」で、ドランとピカソのアルルカン(ないしはピエロ)の絵を紹介したときに "セザンヌも描いている" と書きましたが、その絵がこれです。これは、箱根のポーラ美術館にある『アルルカン』とほぼ同じ構図です。実は『アルルカン』は計4点の連作で、1点は「ピエロとアルルカンの絵」(プーシキン美術館にある《マルディ・グラ》)、3点が「アルルカンだけの絵」で、そのうちの1枚がポーラ美術館、1枚がNGAというわけです(もう1枚は個人蔵)。

Mardi-Gras(Pushkin).jpg
ポール・セザンヌ
マルディ・グラ」(1888/90)
(プーシキン美術館)

Harlequin(Pola).jpg
ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ポーラ美術館)
(62cm×47cm)

ポーラ美術館に敬意を表して、ポーラ美術館のサイトにある『アルルカン』の解説を引用します。もちろん「ポーラ版アルルカン」についての解説ですが「NGA版アルルカン」についても当てはまると思います。


(ポーラ美術館版・アルルカンの解説)

セザンヌは1880年代から1890年代初頭、風景や静物の主題を探究した後、「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」といった人物画の連作を制作する。彼は空間における人体の形態表現に取り組んだ。

本作品は《マルディ・グラ》(1888年、国立プーシキン美術館、モスクワ)を含む「アルルカン」を描いた4点のうちの1点である。謝肉祭の最終日でカーニヴァルが行なわれる謝肉の火曜日を意味するこの《マルディ・グラ》には、16世紀にイタリアからフランスに伝わった即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物アルルカンとピエロに扮した二人の若者が描かれている。アルルカンに扮しているのはセザンヌの息子ポールであり、ピエロに扮しているのは靴屋の息子でポールの友人ルイ・ギョームである。後年ポールは、1888年にパリのヴァル=ド=グラース通りのアトリエでモデルを務めたと語っている。

本作品では、アルルカンに扮したポールの姿だけが描かれている。灰色を基調とし、緑、青、紫、褐色が混ぜられた壁面と赤味がかった床は、赤と黒の菱形模様の衣装を着て帽子をかぶり、左手にバトンを持つ彼の姿を際立たせている。《マルディ・グラ》では二人の顔は描き込まれているが、本作品ではポールの表情は、まるで仮面のように単純化されている。彼は右足を一歩前に踏み出しているが、この頭部と足が画面からはみ出すほどに前進する動きは、静的な画面全体の構成を乱している。

(ポーラ美術館のWeb siteより)

『赤いチョッキの少年』と『アルルカン』のほかにNGAが所蔵するセザンヌの人物画に、画家の父を描いた有名な作品がありますが省略します。


モネ(1840-1926)


Woman with a Parasol.jpg
クロード・モネ
パラソルの女」(1875)
(100cm×81cm)

No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵で、モネの妻・カミーユと息子のジャンを戸外で描いた作品です。印象派の代表作の一つであり、まさに "印象派がギッシリと詰まった" 作品でしょう。逆光の感じの出し方、雲の描き方などは秀逸です。

この絵の一つのポイントは、NGAが所蔵するヴァン・ダイクの『マルケッサ・エレナ・グリマルディ・カッタネオ』の肖像画と同じく、"パラソル" です。この2つの絵には250年の時の経過があります。産業革命を経たフランスではパラソルが庶民でも手に入るようになり、パラソルを持って公園や戸外を散策するのが当時のパリの女性の最先端の風俗だった。そういう妻を(おそらく)幾分誇らしげに描いたのがこの絵でしょう。なお、パラソルがトレンドだったことは、この絵の10年後に描かれたスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を見ると理解できます(No.115「日曜日の午後に無いもの」参照)。


ルノワール(1841-1919)


The Dancer.jpg
オーギュスト・ルノワール
踊り子」(1874)
(143cm×95cm)

この絵もルノワール作品では有名な絵です。一つ思うのは「ドガの踊り子」とのあまりの相違です。同じ踊り子をモチーフにしながら、そこから引き出されたものが全く違う。絵画のおもしろさでしょう。


カサット(1844-1926)


メアリー・カサットの作品については、今まで4回に渡って書きました(No.86No.87No.125No.187)。従って紹介した作品も多いのですが、そのうち4点が NGA の作品です。まずそれを順に振り返りたいと思います。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair (Renewal).jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
(90cm×130cm)

この絵については No.87「メアリー・カサットの少女」、および No.125「カサットの少女再び」で詳細な感想を書いたので省略します。ドガの手が入っているとされる絵で、そのあたりの事情も No.125 に書きました。No.125ではこの絵の革新性についても書いたのですが、NGAの公式ガイドブックには、この絵を評して、

  少女がいなければ、ほとんど抽象画

とあります。なるほど、その通りだと思います。

Girl Arranging Her Hair.jpg
メアリー・カサット
髪を整える女」(1886)
(75cm×63cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」の「補記」で引用した絵です。カサットが「ドガを見返してやろう」と発奮して描いた、という主旨でした。

The Boating Party.jpg
メアリー・カサット
舟遊び」(1893/94)
(90cm×117cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」で引用しました。舟の縁、帆、身体などの各種の線が渦巻きのようになって最後は子どもの顔に収斂していく構図です。ベタに塗ったような描き方は浮世絵の影響を感じます。カサットがいかに浮世絵に魅せられたかを No.187「メアリー・カサット展」に書きました。

Children Playing on the Beach.jpg
メアリー・カサット
浜辺で遊ぶ子供たち」(1884)
(97cm×74cm)

No.187「メアリー・カサット展」で引用した絵です。『青い肘掛け椅子の少女』と同じで水平線を極端に上にとり、斜め上から俯瞰した構図はいかにもカサット的です。また子どもが見せる愛らしさの一瞬をとらえているのもカサットならではでしょう。

今までこのブログで取り上げた絵だけを再掲するだけでは能がないので、NGAにあるもう一枚の作品を引用しておきます。この絵も "子どもが見せるある表情" が的確にとらえられています。大きめの麦藁帽子をかぶせられた女の子が「お母さん、わたし、こんなのかぶるの? いやだな」と言っているような感じです。

Child in a Straw Hat.jpg
メアリー・カサット
麦藁帽子の子ども」(1886頃)
(65cm×49cm)


ゴッホ(1853-1890)


Self-Portrait.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「自画像」(1889)
(58cm×45cm)

ゴッホが描いた36枚の自画像のうち最後の自画像といわれる絵で、サン・レミの病院での作品です。この作品はやはり "色" です。フォービズムに始まる20世紀絵画を先導した感じです。


サージェント(1856-1925)


Miss Mathilde Townsend.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
ミス・マチルド・タウンゼント」(1907)
(153cm×102cm)

この絵のモデルは、アメリカの「エリー&ピッツバーグ鉄道」の社長の娘で、父親の退職後に一家は1892年ワシントンDCに移り、彼女はそこで社交界の花形になったそうです(1999年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の図録による)。描かれた1907年というとフォービスムやキュビズムの絵画が描かれているころです。その時代にこういった「社交界絵画」には批判もあったようで、サージェントはこの絵を最後に肖像画をやめて風景画に専念したとあります。つまりサージェント最後の肖像画です。

しかし絵の価値は「何を描くか」ではなく「どう描いたか」です。「社交界絵画」だから "悪い" とか "時代遅れ" という批判はあたりません。この絵はスピード感が溢れる筆遣いにもかかわらず、「美人で、華やかで、ゴージャスで、いかにも幸せそうな富豪の娘」という感じが大変よく出ています。


ピカソ(1881-1973)


ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはピカソの「青の時代」の油彩画が3点あります。以下にその3点を掲げますが、最初の2点はNo.216「フィリップス・コレクション」で引用しました。フィリップス・コレクションが所蔵しているピカソの『青い部屋』(=「青の時代」の始まりの作品)との対比のためでした。

Le Gourmet.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
(93cm×68cm)

Tragedy.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
(105cm×69cm)

Lady with a Fan.jpg
パブロ・ピカソ
扇子を持つ女性」(1905)
(100cm×81cm)

我々は普通、ピカソの「青の時代」というと、絵のテーマとして「社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち」か「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁、孤独などの感情表現」、あるはその両方だと考えるわけです。しかし最初の『グルメ』はそうではありません。これは「青の時代」の初期作品であり、"食いしん坊" の女の子を描いていて、ユーモアを感じます。

次の『悲劇』は、いかにも「青の時代」の絵です。何らかの悲劇におそわれた漁師の家族でしょうか。子供が父親を思いやって手を差し伸べているのが印象的です。エル・グレコの「ラオコーン」のところに「ピカソはエル・グレコに影響された」という話が出てきましたが、それも分かるような "引き伸ばされた" 人物表現です。

3番目の『扇子を持つ女性』は「青の時代」の最後期の作品です。ここまでくると『悲劇』のような表現・テーマとはまた違います。この女性の姿で連想するのは何かの宗教に関連した像、仏像とかインドや古代エジプトの神の像です。あるいは何かの儀式か舞踊だとも思える。女性は無表情で、動きを止めて静止していると感じます。その手は『悲劇』の少年の両手と大変よく似ている。そういった全体の造形を追求した絵なのでしょう。この3作品を見ると「青の時代」にも多様な表現があることがわかります。



さらにNGAには「青の時代」の次の「バラ色の時代」の代表作があります。それが「サルタンバンクの家族」という大作です。

Family of Saltimbanques.jpg
パブロ・ピカソ
サルタンバンクの家族」(1905)
(213cm×230cm)

サルタンバンクとは特定に一座の属さない旅芸人です。この絵は No.114「道化とピエロ」で引用した『曲芸師と若いアルルカン』バーンズ・コレクション Room19 East Wall にある絵)によく似ています。両方とも家族を描いていて(バーンズ作品の方は兄と弟)、アクロバット(=曲芸師。赤い服)とアルルカン(菱形のパッチワークのような装束)が登場している。両方とも背景が戸外です(バーンズ作品の場合は街)。

この絵全体に静寂感が漂っています。少し曖昧に描かれた荒涼とした土地は、家族が世の中で孤独であることを暗示しているようです。6人は互いに眼を合わすことはなく、それぞれ独立しています。しかしアルルカン(ピカソ自身だと言われる)が妹の手を握っていて、家族の間の信頼や気遣いが暗示されている(バーンズ作品もそうです)。ピカソはこの時代以降、道化、ピエロ、サルタンバンクといったモチーフを折りに触れて描くわけですが、この作品は既にそれらの全てを包括しているかのようです。最初の時点で出された最終回答、そんな感じがします。


モディリアーニ(1884-1920)


Woman with Red Hair.jpg
アメディオ・モディリアーニ
赤毛の女」(1917)
(92cm×61cm)

Woman with Red Hair(Barnes).jpg
モディリアーニ
赤毛の女
(バーンズ・コレクション)
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの絵とよく似ているが、こちらの方はイブニング・ドレス姿である。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはモディリアーニの作品が揃っています。『スーティンの肖像』、『キスリング夫人の肖像』、『赤ん坊を抱いたジプシーの女』などが有名ですが、ここでとりあげたのは『赤毛の女』です。この絵と非常に似た絵がフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにあります。題名も同じ『赤毛の女』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 10 West Wall にある)。おそらく同じモデルを描いたのだと思われます。椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿がそっくりです。上の絵もそうですが、モデルになった赤毛の女性の可愛らしさと、ちょっぴりなまめかしい(ないしはコケティッシュな)感じがよく出ていると思います。

さらに「椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿」で思い出すのは、バーンズ・コレクションの『白い服の婦人』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 22 South Wall にある)。また、ノートン・サイモン美術館にある『画家の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』も似たポーズです(No.157「ノートン・サイモン美術館」参照)。いずれの絵も頭から胴にかけての逆S字形の曲線と腕の線のバランスがいい。デッサンで線を引く天才、モディリアーニの特質がよく現れていると思います。




その他、このブログで過去に引用した作品として、絵画ではありませんがドガの『14歳の小さな踊り子』のオリジナル塑像があります。この作品は No.86「ドガとメアリー・カサット」でとりあげました。また No.86 ではドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」にも触れました(カサットが初めて見たドガの絵とされる)。

今回は人物がテーマになっている絵だけに絞ったのですが、今まで現れなかったアーティストの重要作品(人物がテーマではない絵)を2つあげておきます。一つはジョアン・ミロの『農場』(1921-22)で、画家としての初期、まだミロが無名のときの作品です。この絵は文豪のアーネスト・ヘミングウェイが友人に借金までして購入したことで有名です。ヘミングウェイは、スペイン内戦を舞台にした「誰がために鐘は鳴る」を書いたほどスペインに深く関わった作家です。

アメリカ人画家、アンドリュー・ワイエスについては No.150「クリスティーナの世界」No.151「松ぼっくり男爵」No.152「ワイエス・ブルー」の3回に渡って書きましたが、『海からの風』(1947)というワイエスの代表作の一つがNGAにあります。



ワシントン・ナショナル・ギャラリーは西館(最初に建設された本館)と東館(新館)に分かれていて、西館にはモダンアートが収集されています(ピカソはここにある)。そういった作品も含め、美術好きなら是非訪れてみたい美術館です。特に近代絵画のコレクションです。たとえば、2011年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」のキャッチ・コピーは「これを見ずに、印象派は語れない」でしたが、決して大げさではありません。

さらにワシントンにはフィリップス・コレクションがあり(No.216「フィリップス・コレクション」参照)、ホイッスラーのピーコック・ルームがある、東洋美術のフリーア美術館もあります(No.85「洛中洛外図と群鶴図」参照)。ほかにも美術館、博物館が多い。東京がそうであるように、アメリカの首都ワシントンも "アートの都市" と言っていいと思います。




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No.221 - なぜ痩せられないのか [科学]

No.178「野菜は毒だから体によい」で、なぜ野菜を食べると体に良いのかを書きました。野菜が体に良いのは各種のビタミンや繊維質、活性酸素を除去する抗酸化物質などが摂取できるからだと、我々は教えられます。それは全くその通りなのですが、No.178に書いたのは野菜には実は微量の毒素があり、それが人間の体の防衛反応を活性化させて健康につながるという話でした。微量毒素は "苦い" と感じるものが多く、ここから言えることは、苦みを消すような品種改良は "改良" ではなくて "改悪" だということです。

この話でも分かることは、人間の体の仕組みにはさまざまな側面があり、それを理解することが健康な生活に役立つということです。No.119-120「不在という伝染病」で書いたことですが「微生物に常に接する環境が人間の免疫機能の正常な働きを維持する」というのもその一例でしょう。

今回はそういった別の例を紹介します。肥満の原因、ないしは "なぜせられないのか" というテーマについての研究成果です。日本ではBMIが25以上で肥満とされていますが、肥満は糖尿病、高血圧、心臓病などの、いわゆる生活習慣病を誘発します。従ってダイエット方法やダイエット食に関する情報が世の中に溢れているし、ダイエット・ビジネスが一つの産業になっています。

なぜ肥満になるのか。その第1の原因は消費エネルギーが摂取エネルギーより小さいからです。その差がグリコーゲンとして肝臓に蓄えられ、また体の各所の細胞や脂肪細胞に蓄えられる。簡潔に書くと、

 ◆肥満の原因
   出力(Output) < 入力(Input)
  (消費エネルギー < 摂取エネルギー)

で、これは物理学で言う熱力学の第1法則(エネルギー保存の法則)と同じです。つまり肥満は出力(消費エネルギー)が少ないか、入力(摂取エネルギー)が多いか、あるいはその両方が原因です。肥満を解消するためには、このエネルギーバランスの崩れを解消すればよいのですが、そのためには人間の体の仕組みについての理解が必要です。以下に、まず人間の消費エネルギーはどうやって決まるのかについての科学的知見を紹介します。消費エネルギーを増やすには身体活動量を増やせばよく、そのためには運動をすればよいと考えるのが普通ですが、そうとも言えないようなのです。


人間の消費エネルギー


人間は安静にしているときにもエネルギーを消費していて、これを「基礎代謝」と呼んでいます。基礎代謝量は成人男性で 1500 kcal 程度、成人女性で 1200 kcal 程度ですが、体重や年齢によって変化します。またトレーニングによって筋肉が増えると基礎代謝もその分増えるということもあります。

一方、人間の活動による代謝を「活動代謝」とよび、これは活動の種類によって千差万別です。その他に食物摂取による代謝の増加があります。これら全てを含めて、人間はどの程度のエネルギーを消費しているのでしょうか。現代ではそれが精密に測定できるようになってきており、その結果はちょっと意外なものです。

以下は「日経サイエンス」に掲載された、アフリカの狩猟採集民族・ハッザ族の消費エネルギーの測定結果を紹介することが目的ですが、その前提として消費エネルギーをどうやって測定するのかをまず説明します。


消費エネルギーの測定方法


消費エネルギーを測定するには "燃料" を燃やす酸素に注目し、酸素摂取量を測定して消費エネルギーを計算します。そのためには被験者を密閉された実験室に入れ、呼吸に含まれるガスを精密に測定すればよいわけです。

しかしこの方法だと被験者を日常生活から切り離して実験室に拘束しなければなりません。狩猟採集生活のエネルギー消費の測定などとてもできない。そうではなくて、日常生活状態でのエネルギー消費量を測定できないのか。その目的のために「二重標識水法」が開発されてきました。これが現代における標準的な手法です。

二重標識水法では二酸化炭素の排出量を測定します。そこから酸素摂取量が分かるからです。そして酸素摂取量が分かればエネルギー消費量がわかる。この方法で使われるのが「同位体」です。

たとえば酸素(O)は陽子数8、中性子数8の、原子量16が普通です。しかし中性子数が違う酸素原子も存在し、それが同位体です。同位体には放射線を出して崩壊するもの(放射性同位体)があります。有名なのが炭素14(14C)で、その半減期は約6000年です。この性質を利用し、普通の炭素(炭素12)との比を計測して考古学上の年代測定に使われます。

一方、安定した同位体(=安定同位体)もあり、安定同位体は自然界に一定の比率で存在しています。酸素(O)だと、原子量16の 16O 以外に、17O(酸素17)、18O(酸素18)が安定同位体です。自然界における存在比率は、16O:17O:18O = 99.759% :0.037%:0.204% です。

同様に、原子量1の水素には原子量2の安定同位体(=重水素)があり、自然界の存在比率は、1H:2H = 99.9844%:0.0156% です。

二重標識水法では、2H(重水素) と 18O(酸素18)でできた水、2H218O を用います。これを二重標識水と呼びます。つまり水素と酸素の2つに同位体の標識がついた水という意味です。

一般的に行われている測定では、まず被験者に二重標識水を飲ませます。これは飲料水に混ぜてもよく、とにかく飲んだ二重標識水の量が厳密に分かることが重要です。二重標識水は体内に入り、あるものはそのまま水として体内に残り、またあるものは代謝(化学反応)によって水素と酸素が分離されて他の物質の一部となっていきます。4時間後に二重標識水は体内に行き渡り、それまでの体内物質と平衡状態になります。この間は被験者に飲食を禁止します。

この4時間後に被験者の尿サンプル(唾液でもよい)を採取し、さらに1日後(測定開始)、8日後(測定終了)の尿サンプルを採取します。8日後と書いたのは1週間の平均消費エネルギーを測定する場合であり、測定目的に応じてサンプルの採取頻度を設定します。たとえば毎日の消費エネルギーをみたいのであれば、サンプルを毎日採取します。最長、2週間後までの測定が可能です。

これらのサンプルをIRMS(Isotope Ratio Mass Spectrometer。同位体比質量分析計)という装置を使って、含まれる原子の質量の比率を測定します。これは同位体の比率を分析できる質量分析装置です。被験者が飲んだ二重標識水に含まれる水素は100%が 2H でしたが、4時間後のサンプルではもともと体内にあった1H と混ざって薄められています。その "薄まり具合" から逆に、体内にどれだけの水があったかという「総体水分量」が分かります。平均的には体重の60%が水だと言われますが、それが被験者ごとに正確に測定できるわけです。

次に1日後と8日後のサンプルの 2H(重水素)と 18O(酸素18)をIRMSで測定します。8日後の方が圧倒的に量が少なくなります。その1週間の間の被験者の活動で、尿や汗や呼吸の中に重水素や酸素18が混じって排出されてしまうからです。しかしその "少なくなり具合" は酸素18の方が大きい。なぜなら、酸素18は尿・汗・呼吸時の水蒸気で水 H218O として排出され、かつ二酸化炭素 C18O2 として呼吸でも排出されます。しかし重水素は尿・汗・呼吸時の水蒸気から水 22O として排出されるだけだからです。

この "少なくなり具合" の差から 18O が関係する二酸化炭素の排出量が計算でき、それと総体水分量から全体の二酸化炭素排出量が分かります。そこから初めに述べたように酸素消費量を計算し、そしてエネルギー消費量が計算できます。

これは大変巧妙な方法です。この方法だと被験者の負担は二重標識水を飲むことと、数回の尿(ないしは唾液)のサンプル採取です。それ以外は普段通りの生活や活動をしてよい。スポーツをやっても狩猟採集をやってもOKです。まさに日常生活における消費エネルギーを計測する理想的な方法です。実は二重標識水の価格が下がり、二重標識水法が広まってきて初めて、人間の消費エネルギーについての新たな(意外な)知見が得られてきました

IRMS(Thermo Fisher Scientific).jpg
同位体比質量分析計(IRMS)
Thermo Fisher Scientific社製。地質年代の特定などにも使われる。安定同位体の存在比率は地球上の場所によって微妙に違うので、これを利用して農作物の原産地の推定も可能である。


ハッザ族の消費エネルギー量


ここからが本題です。日経サイエンス 2017年4月号に、アフリカのタンザニア北部のサバンナ地帯に暮らす狩猟採集民・ハッザ族の日常生活状態での消費エネルギーを二重標識水法で測定した結果が掲載されました。なぜハッザ族なのかと言うと、著者のハーマン・ポンツァー(ニューヨーク市立大学)が人類学者だからです。ヒトが誕生してから200万年だとすると、農業は高々1万年前からだし、近代的な都市生活はわずか数世代の歴史しかありません。ヒトはそのほとんどの進化の過程で狩猟採集の生活であり、そのライフ・スタイルに最も近いアフリカの狩猟採集民を調査して都市生活者と比較しようというのが主旨です。

ハッザ族の生活は肉体的に厳しいものです。著者の記述を引用してみましょう。


ハッザ族の生活は肉体的にきつい。女たちは毎朝、小さなキャンプの草の小屋を出て、ある者は赤ん坊を背負いながら、野イチゴなどの食物を探しに行く。ハッザ族の主食は野生のイモで、女たちは石だらけの土から何時間もかけて棒でそれらを掘り出す。男たちは手製の弓矢を携えて狩りに出かけ、毎日何kmも獲物を探し回る。獲物が少ないときは、地上10mを超す木の枝に簡単な手斧をふるって蜂蜜を獲る。子供たちもキャンプから2km近く離れた水場から桶で水を汲んでくる。

午後遅く、人々はキャンプにゆっくりと戻り、地べたに座り、小さなたき火を囲んでその日の収穫を分け合い、子供たちの面倒を見る。乾期も雨期もこうして毎日が過ぎていく。何千年も前からずっとそうだ。

失われた楽園の生活を想像するかもしれないが、そんなに甘くはない。狩猟と採集は頭を使うし危険を伴う。カロリーを賭けたいちかばちかの勝負であり、失敗は死を意味する。男たちは獲物を仕留める期待に賭けて、狩りと追跡に毎日多くのカロリーを費やす。スタミナと同時に知恵も不可欠だ。多くの捕食動物はその速さと力で獲物を仕留めるが、人間は獲物の裏をかき、その行動習性を考え、手がかりを探る必要がある。それでもハッザ族の男たちがキリンのような大きな獲物をものにできるのは月に1回ほどに過ぎない。

女たちが地元の植物に関する百科事典的な知識を用いて細やかな補完戦略を実行し、毎日の安定した収穫物を持ち帰らなければ、ハッザ族は餓死してしまう。この複雑で協力的な食料集めこそ人類が比類のない成功を収めた理由であり、ヒトを他の動物とは異なる独特の存在にしている核心だ。

ハーマン・ポンツァー
(ニューヨーク市立大学)
「運動のパラドックス:なぜやせられないのか」
(日経サイエンス 2017年4月号)

ハッザ族.jpg
ヒヒ狩りから帰るハッザ族の男たち。女たちは野生のイモを掘り、それが主食となる。
(日経サイエンス 2017年4月号)

日経サイエンス 2017年4月号.jpg
著者のポンツァーはハッザ族と生活をともにしながら彼らの消費カロリーを測定するためのサンプルをとります。日経サイエンスの記事には、前日に毒矢で射て逃げたキリンを、朝から夕方までハッザ族の男たちと一緒にサバンナを探しまわる様子が記述されています。

このようなハッザ族の生活を考えると、狩猟採集民は都市生活者より多くのエネルギーを費やしているのは自明だと思われます。人類学者も公衆衛生学者もそう考えてきました。著者もそうでした。そもそも著者がハッザ族の消費エネルギーを測定しようとした動機の一つは、ハッザ族に比べて都市生活者がいかに不十分なエネルギー消費をしているかを証明しようとしたからです。ところが測定の結果は意外なものでした。


私たちがハッザ族の代謝量を測定した動機の1つは、ハッザ族に比べ欧米人が日常生活で消費しているエネルギーがいかに不十分かを明らかにすることだった。暑くて埃だらけの現地調査から帰国した私は、ハッザ族の尿サンプル入りの瓶を心を込めてドライアイス詰めにし、国内有数の二重標識水法検査ラボがあるベイラー医科大学へ送った。桁はずれな大きなカロリー消費量が明らかになるだろうと思っていた。

ところが奇妙なことになった。送り返されてきた結果は、ハッザ族が他の人々と同じであることを示していた。ハッザ族の男性は1日に約2600kcal, 女性は約1900kcalを摂取・燃焼しており、これは欧米の成人と同じだ。私たちは体格や体脂肪率、年齢、性別など考えうるすべての要因をチェックしたが、それでも同じだ。どうしてこんな結果になりうるのか? 私たちは何を見逃しているのか? あるいは人間の生物学と進化について私たちは何かを誤解しているのか?

(同上)

もちろん「ハッザ族と欧米の成人の消費エネルギーは同じ」という結果は正しかったのです。実は二重標識水法の普及にともなって「身体をよく動かしている人が、より多くのカロリーを燃やしている」という、何の疑いもなく自明に思えることとは矛盾する実測データが報告されるようになったのです。著者は次のような例をあげています。

グアテマラとガンビア、ボリビアで昔ながらの農耕生活をしている人々を調べた結果、これらの人々のエネルギー消費が都市生活者とほぼ同じであることが示された。

ナイジェリアの地方部に住む女性とシカゴ在住のアフリカ系アメリカ人は、身体活動レベルが大きく違うにもかかわらず、毎日のエネルギー消費は同じだった。

ハッザ族の測定結果は「晴天の霹靂」ではなかった、それは「長年に渡って雲行きが悪化してきたときに空から落ちてきた雨粒」だと、著者は表現しています。



身体活動の程度とエネルギー消費はどういう関係にあるのか。ハッザ族の結果のフォローアップのため、著者はアメリカの300人の被験者に加速度計をつけてもらって身体活動量を計測するとともに、二重標識水法で毎日のエネルギー消費を測定しました。


この結果、加速度計で追跡した毎日の身体運動と代謝との関係はごく弱いことがわかった。カウチポテト生活の人は平均して、そこそこ活動的な人(週1回は運動し、努めて階段を使うようにしている人)と比べて、毎日の消費エネルギーが約200kcal少なかった。だがより重要なことに、身体運動のレベルが上がるにつれエネルギー消費は頭打ちになった。最も激しく身体を動かす日常を送っている人の1日のカロリー燃焼量は、そこそこ活動的な人と同じだった。ハッザ族のエネルギー消費を他の人々と一致させているのと同じ現象が、この調査研究の被験者の間にも明らかに見てとれる。

(同上)


なぜ身体運動とエネルギー消費の関係は弱いのか


ここで疑問が生じます。運動そのものに必要なエネルギーは、体格が同じであれば同じです。たとえばハッザ族の成人が1km歩くのに燃やすカロリーは欧米人と同じです。それにもかかわらずハッザ族はあまり運動をしない欧米人とトータルのエネルギー消費量が同じです。なぜ運動に多くのカロリーを振り向けられるのでしょうか。その理由はまだ明確ではありません。しかし著者は2つの可能性をあげています。第1の可能性は次です。


運動レベルの高い人は行動をわずかに変えることによって、たとえば立つのではなく座るとか熟睡するなどによって、エネルギーを節約している可能性が考えられる。だが私たちのデータは、そうした行動の変化が寄与している可能性はあるものの、毎日のエネルギー消費の不変性を説明するには不十分であることを示している。

(同上)

著者も書いているように、これですべては説明できないようです。もう一つの可能性は大変興味深いものです。


別の興味深いシナリオとして、人体が目立たない日常業務に費やしているカロリーを節約することで、身体運動にあてる余力を生み出している可能性が考えられる。細胞や臓器が生きていくのに必要な日常の保守業務は多くのエネルギーを食っており、この部分を節約すれば日々のやりくりに余裕が生まれ、1日あたりの総カロリー消費を増やさなくても身体運動にエネルギーを振り向けられるだろう。

例えば運動すると、免疫系が発動する炎症反応が弱まる場合が多いほか、エストロゲンなどの生殖ホルモンのレベルが下がる。実験動物の場合、日々の運動量を増やしてもエネルギー消費に影響はなく、その代わりに排卵周期が遅くなり、組織修復も鈍くなる。( - 中略 - )人間も他の生物も、毎日のエネルギー消費を抑えて維持するためにいくつかの戦略を進化させたようだ。

(同上)

人間の意志とは無関係に体内で起こるエネルギー消費を基礎代謝と呼ぶとすると、運動による活動代謝が増えると、基礎代謝が減る。そのことで全体のエネルギー消費がほぼ一定に保たれる。人間の体はそういう風にできている、ということです。


肥満の原因は運動不足より過食


以上の研究結果から、肥満の原因は運動不足より過食だということがわかります。よく言われるように、不健康な食事の悪影響は運動では消せないし、減量を期待して少々スポーツジムに通っても(効果がないことはないが)あまり効果がないのです。

もちろん、運動は健康のためには非常に重要です。運動が循環器系から免疫系、脳機能までに良い影響を及ぼすことはよく知られている通りです。足の筋肉を鍛えることは膝の機能を正常に保つことになるし、健康に年を重ねるにも運動が大切です。さらに、引用してきた論文の著者のポンツァーは興味深い指摘をしています。


私は実際、運動が健康を保つのは、身体活動に対する代謝の適応が進んだ結果、長期化すると悪影響を生む炎症などの活動にエネルギーが費やされるのを防いでいるのが一因ではないかと考えている。そうした慢性の炎症は心血管疾患や自己免疫疾患に関連づけられている。

(同上)

炎症とは、外傷、打撲、化学物質、病原体の進入などで体が何らかの組織異常を起こしたとき、その異常状態から回復するための仕組みです。しかし組織異常から回復したにもかかわらず炎症が続くことがある。そうすると心血管疾患や自己免疫疾患などのまずい事態につながる可能性があるわけです。

炎症反応を起こすにもエネルギーが必要ですが、そのエネルギーは基礎代謝の範疇のものです(ここでの基礎代謝は "人間の意志とは無関係に起こるエネルギー消費" の意味)。しかし運動で活動代謝が増えると基礎代謝に振り向ける量が減り、そのことで過剰な炎症反応が抑えられる。上の文章はそのことを言っています。あくまで著者の考え(推測)のようですが、いかにもありそうな話だと思います。



ちょっと余談ですが、「自己免疫疾患」という言葉で直感することがあります。このブログでヒトの免疫系の仕組みを書きました(No.69-70「自己と非自己の科学」No.122「自己と非自己の科学:自然免疫」)。免疫は「非自己 = 病原菌・異物など」から「自己」を守る仕組みです。その免疫系が「自己」を攻撃してしまうのが自己免疫疾患です。No.119-120「不在という伝染病」で書いたのは、微生物が不在の清潔すぎる環境が自己免疫疾患のリスクを高める(仮説)ということでした。

常に微生物に接している環境においては、免疫系は微生物との戦いにエネルギーを使っています。ところが微生物が不在だとエネルギーが「自己」に向かってしまう。しかし常に運動をしているとエネルギーは活動代謝で消費され、免疫系は正常に機能する・・・・・・。著者が書いている炎症反応はヒトの免疫系の重要な機能であり、運動が過剰な炎症反応を抑えるなら過剰な免疫反応も抑えるのでは、と想像しました。

ヒトは200万年のあいだハッザ族のような運動・活動環境で進化してきたわけです。ヒトにとって運動は、趣味やストレス解消を越えたもっと本質的なものではないか。そんなことを思いました。



本題に戻って、以上の人間の消費エネルギーを研究してきた著者の結論は次です。


科学的根拠は食事と運動を別の健康法と考えるのが最善であることを示している。健康と元気を保つには運動がよく、体重を管理するなら食事を重視することだ。

(同上)


カロリー神話


では、食物によるエネルギー摂取を適正に保つにはどうすればよいのか。これはもちろん1日分の必要エネルギーに相当するカロリーを摂取すればよいわけです。ファミレスなどの全国チェーンのレストランのメニューではメニューごとにカロリーが明記してあることがあります。企業や大学の食堂メニューにもそういうのがある。これは必要カロリーを意識しながら食事をする人のためです。

アトウォーター係数というのがあります。炭水化物、タンパク質、脂肪のそれどれからどれだけのカロリーが取り出せるかという値で、

  炭水化物 1g  4 kcal
  タンパク質 1g  4 kcal
  脂肪 1g  9 kcal

というものです。確か学校で習うと思うので、アトウォーターという名前は知らなくても係数を知っている人は多いでしょう。普通カロリー計算というと、食物に含まれる炭水化物、タンパク質、脂肪の重量からアトウォーター係数を使って総カロリーを求めます。この数値にもとづき、ダイエットにいそしむ人は1日の必要カロリーだけの食事をとるように心がけます。ただし、食物から実際に摂取できるカロリーは単純な係数の掛け算だけでは決まりません。食物の消化の容易性、食物の加工度合い、調理方法などで変わりますが、その話はここではさておきます。

では "肥満は摂取カロリーだけで決まる" のでしょうか。そうではないと主張するのが、肥満の原因は炭水化物の過剰摂取だとする「炭水化物説」です。つまり、炭水化物を摂取すると血液中のブドウ糖(グルコース)の値(=血糖値)が上昇し、膵臓からインスリンが分泌される。インスリンは肝臓や筋肉、臓器、脂肪細胞にグルコースを蓄えるように働き、血糖値が下がる。このインスリンの作用で脂肪細胞に過剰に蓄積されたエネルギーが肥満の原因だとするのが「炭水化物説(ホルモン説)」です。いわゆる「低炭水化物ダイエット」「低糖質ダイエット」はこの理論にもとづいています。

肥満の原因はカロリーなのか炭水化物なのか。その両方だとしたら、どちらが主因なのか。まだ決着はついていないようです。この炭水化物と肥満に関連して、日経サイエンス 2017年12月号「カロリー神話の落とし穴」にある研究報告があったので、以下にそれを紹介します。この記事の著者は米国・タフツ大学の教授(スーザン・ロバーツ)と教官(サイ・クルパ・ダス)で、いずれもエネルギー代謝研究の専門家です。記事のタイトルのカロリー神話とは「摂取カロリーが同じなら体重の増減は同じ」という "神話" を言っています。


脳が生む食欲


タフツ大学の研究のポイントは人間の食欲を生む脳の働きです。体重管理のためには、食欲に関係した脳の働きを知る必要があります。


脳が体内の様々な生理センサーからの信号をまとめ、食物の存在を私たちに知らせる重要な役割を果たしていることが、多くの研究で実証されてきた。脳は食物の存在を受けて空腹感と食欲を生み出し、私たちを食べるように仕向ける。

言い換えると、空腹感の役割は私たちを生き続けさせることだった。だから、空腹感に正面から逆らってもだめだ。体重管理を成功に導くカギは空腹感との戦いではなく、空腹感や衝動の発生をそもそも防ぐことにある

スーザン・ロバーツ
サイ・クルパ・ダス
(米国・タフツ大学)
「カロリー神話の落とし穴」
(日経サイエンス 2017年12月号)

日経サイエンス 2017年12月号.jpg
以下にブドウ糖(グルコース)の話が出てくるので復習しますと、食物は小腸で消化され、主に炭水化物からブドウ糖が生成されます。ブドウ糖は血液の中を循環して(=血糖)体内の細胞に取り込まれ、人間の主要なエネルギー源となります。特に脳はブドウ糖だけがエネルギー源です。肝臓はブドウ糖をグリコーゲンに変換して蓄え、再びブドウ糖を生成して血液に放出する働きをします。

膵臓で作られるインスリンは血糖を肝臓や脂肪細胞に取り込む作用をし、その結果、血糖値が下がります。インスリンの量が少ないと(ないしはインスリンが分泌されてもその効果が低い体質=インスリン抵抗性だと)血糖値が高い状態が続き、体にさまざまな悪影響を及ぼします。これが糖尿病です。以下の説明では、この血糖値が脳が感じる空腹感と密接に関係していることが書かれています。


私たちのグループを含む複数の研究者が実施した実験から、タンパク質や食物繊維が豊富な食事、もしくは血糖(グルコース)値の急上昇を起こさない食事は一般に満腹感が強く、空腹を抑えやすいことが示された(血中グルコースはタンパク質からも作られるが、炭水化物由来のものが最も多い)。

私たち著者の1人(ロバーツ)は2000年に発表した総説で、血糖値を上げる度合いを示す指標「グリセミック指数(GI値)」が高い朝食(加工されたシリアルなど)を食べた場合は、低グリセミック指数の朝食(ひき割りオートミールやスクランブルエッグなど)を摂ったときに比べ、その後数時間に摂取するカロリーが 29% 多くなることを指摘した。

(同上)

日経サイエンスには、低GI値、中GI値、高GI値の3種類の朝食を用意し(カロリーはすべて同じ394kcal)、肥満の少年10人で実験した結果が載っています。朝食以降、その日のうちに何カロリーを摂取したかを調べると、明らかに高GI値の朝食をとるとその後のカロリー摂取が増えるという結果になっています。

グリセミック指数と摂取総カロリー.jpg
同じ394kcalであるが、低GI値、中GI値、高GI値の3種類の朝食を用意する。肥満の少年10人で調べてみると、高いGI値の朝食をとるほどその日のカロリー総摂取量が増える。赤はタンパク質、黄色は脂肪、青は炭水化物のカロリーを示す。中GI食と高GI食で炭水化物が占めるカロリー(青)はほぼ同じであるが、高GI食のインスタントのオートミールの方がグリセミック指数が高い。
(日経サイエンス 2017年12月号より)


グリセミック指数(Glycemic Index。GI値)


ここで出てきた「グリセミック指数」とは食物を摂取したときに、それがどれだけ血糖値を上げるのに寄与するかという値です。これは食物ごとに違い、同じ量の炭水化物(たとえば50g)が含まれるだけの食物を摂取して測定します。食事後、血糖値は上昇して下降し、2時間程度でもとの値に戻ります。この上昇と下降の過程を調べます。下図は横軸が時間、縦軸が血糖値(血液中のグルコース濃度)で、曲線と横軸で囲まれた面積からグリセミック指数を計算します。純粋なグルコースを摂取したときの面積を100とし、それとの比較で指数化します。

Glycemic Index.jpg
食物を摂取してから2時間の血糖値を模式的に書いたもの。赤が高GI値の食物、オレンジが中GI値、緑が低GI値。
(site : www.fuelingforhealth.com)

食物によってグリセミック指数は違います。高GI値の食物は血糖値が急上昇し、ピークが高く、早めに下降します。低GI値の食物は、血糖値が徐々に上昇し、ピークは低く、下降も緩やかです。

食物に純粋な炭水化物・脂肪・タンパク質というものはありません。一般にはそれらの複合体であり、また物理的な組成が違います。同じ炭水化物といっても、デンプンと食物繊維のように物理的な形態はさまざまであり、それによって消化・吸収の度合いや速度が違います。また同じ食材でも調理方法や加工方法、加工の度合い、加熱するかどうかによってもGI値が違ってきます。食物のGI値を各種のサイトからまとめると次のようです。

GI値の低い食物(55以下)
  タンパク質が豊富な食物(魚貝類、肉類、肉加工品、豆類、納豆、豆腐、豆類加工品、卵、牛乳、乳製品、ヨーグルト、など)。また、食物繊維が豊富な食物(ほとんどの野菜、海草、果物、全粒穀物、小麦ブラン、ナッツ類、など)。

GI値が中程度の食物(55-70)
  そうめん、そば、ライ麦パン、玄米、五穀米、パスタ、サツマイモ、など

GI値の高い食物(70以上)
  食パン、白米、うどん、もち、もち米、ビーフン、コーンフレーク、シリアル、ジャガイモ、カボチャ、ヤマイモ、チョコレート、ドーナツ、ショートケーキ、など

主食である穀物(米、小麦)で言うと、全粒穀物ほどGI値は低くなります。白米は高いが、玄米は低い。食パンは高いが、ブラン(小麦ふすま。小麦の外皮)は低い。そういう傾向にあります。また糖分は代表的な炭水化物ですが、果物の糖分の多くは果糖(フルクトース)であり、GI値は低めに出ます。野菜はほとんどが低GI値ですが、根菜類は高めです。

GI値はもともと糖尿病患者の食事制限のために考えられたようですが、一般にも広まってきました。その例が、低GI値の食物を摂取する「低インスリン・ダイエット」です。高GI値の食物を食べて血糖値が急に増大するとインスリンも大量に分泌されます。この結果、血糖が体脂肪として蓄積されやすくなります。低GI値の食物はインスリンの分泌も低く、脂肪が蓄積されにくい。この点に注目したのが低インスリン・ダイエットです。



上に引用したタフツ大学の結果は「GI値の低い食物を摂取すると血糖値が比較的長い時間一定の上昇レベルに保たれ、そのことで空腹感が抑えられ、カロリーの過大摂取になりにくい」ということです。いわゆる「腹持ちのよい食事」ということでしょう。さらにタフツ大学では133人の被験者を使って、摂取食物と空腹感の関係を調べる実験を行いました。


私たちのチームは最近、適切な食物を選ぶことで減量中の空腹感を減らせることを示す最初の予備的データなデータを得た。

実験ではまず、133人の被験者に空腹感をどれぐらいの頻度で、いつ、どの程度の強さで感じるかに関する詳細なアンケートに答えてもらってから、2つのグループに無作為に振り分けた。タンパク質と食物繊維が豊富でグリセミック指数の低い食事(魚、豆、リンゴ、野菜、グリルドチキン、小麦粒など)に重点を置いた減量プログラムに参加する組(引用注:=実験群)と、実験参加の "順番待ち" をする対照群だ。

注目すべきことに、実験群の人たちは6ヶ月間に空腹感が実験開始の水準より低下したと述べた。違いは体重計にも現れた。実験終了時に実験群の人たちの体重は平均で8kg減っていたが、対照群では0.9kg増えていた。

同じく興味深いのは、実験群の人たちが食事を渇望する頻度が減ったことだ。これは、脳が何に満足を感じるかが変わったことをうかがわせる。

そこで15人の被験者に様々な食物を写真を見せながら脳画像を撮影した。この結果、実験群の人たちは実験が進むにつれ、グリルドチキンや全粒小麦パンのサンドイッチ、高繊維シリアルの写真に脳の報酬中枢がより強く反応するようになった。一方でフレンチフライやフライドチキン、チョコレートなどの太りやすい食物の写真への反応はしだいに弱まった。

(同上)

実験の詳細が書いてないのですが、まとめると「低GI値の食事メニューを半年間食べ続けると体重が平均8kg減ったとともに、脳が低GI値食物により強く反応するようになった」となります。

このタフツ大学の結果は「低インスリン・ダイエット」と基本的に同じです。また「炭水化物の摂取を抑えるダイエット」(低炭水化物ダイエット、糖質制限など)と大筋では同じと言えるでしょう。ただし次の点に意義があると思います。

単に炭水化物を制限するのではなく、血糖値を急激に上げる炭水化物の制限を勧めている。肥満解消のためには血糖値を上げない炭水化物が重要としている。

人間の脳の反応(空腹感の発生、嗜好の変化)と肥満を関連づけ、科学的な実験で実証している。


適正体重を保つ


適正体重を保つ(ないしは肥満を解消する)という観点から今までの "まとめ" をすると、まず

運動は、体重減の効果が限定的

ということです。運動は、適正な体重を保つ以外の健康面でのメリットのために行うと考えるべきです。さらに食事の観点からは、

栄養のバランスを考えて、適正なカロリー量を摂取すべき

そのときに食物の種類を考慮すべき(高タンパク質・高食物繊維・低GI値の食事)

の2点でしょう。世の中にはダイエットに関する情報が溢れていて、ダイエット食などのダイエット産業も盛んです。その中には根拠が曖昧なものや、単なる個人の経験談も多いわけです。今回紹介した日経サイエンスの記事は、結論だけをとると常識的かも知れませんが、いずれも科学的な実験・実証を行って結論に至るエビデンスを集めています。そこに意義があるでしょう。

我々は科学的根拠にもとづいた情報を選別し、健康に生きるすべを自らの意志で選択すべだと思います。


アフリカの狩猟採集民とグリセミック指数


ここからは日経サイエンスの記事を読んで思ったことです。今回引用したのは「アフリカの狩猟採集民の消費エネルギーの研究」と「食物のグリセミック指数が脳に与える影響の研究」でした。この2つを結びつけるとどうなるか、つまりアフリカの狩猟採集民の食物のグリセミック指数(GI値)はどうだろうかと思ったのです。

直感できることは「アフリカの狩猟採集民は高GI値の食物をとるだろう」ということです。ヘタをすると餓死しかねない厳しい環境です。そのような状況では、炭水化物・糖類に関する限りグルコースを摂取しやすい「高GI値の食物」を求めるはずです。引用したハッザ族に関する記述で、

  ハッザ族の主食は野生のイモで、女たちは石だらけの土から何時間もかけて棒でそれらを掘り出す。

とありました。イモの種類は分かりませんが、根菜類は高GI値の食物です。そして記事に書いてはいないのですが、間違いなく彼らは加熱調理してイモを食べているはずです。

アフリカの狩猟採集民と食物の関係については No.105「鳥と人間の共生」で紹介したハーバード大学の人類学者・ランガム教授の話が思い出されます。教授はヒトの "火" の使用に関して次のように説明しているのでした。

ヒトは火を使って食物を加熱調理することで効率的な栄養摂取ができるようになり、それがヒトの特徴(巨大な脳、小さい歯、短い腸)を発達させた(=いわゆる「料理仮説」)

アフリカの狩猟採集民は、火をおこして煙で蜂を麻痺させ、蜂蜜を採取する。チンパンジーと比較すると100~1000倍の蜂蜜を手に入れる。

ヒトを類人猿から区別している大きな特徴は巨大な脳です。脳は基礎代謝量の1/3を消費しているほどの大量のエネルギーを使っていて、そのエネルギーをブドウ糖(グルコース)だけから得ている。グルコースを摂取するという観点からすると、ハッザ族のようにイモを加熱調理して食べるのは最善の方法でしょう。

蜂蜜については日経サイエンスの記事に、ハッザ族は「地上10mを超す木の枝に簡単な手斧をふるって蜂蜜を獲る」(最初の引用参照)とありました。別の雑誌ですが、National Geograghic誌 にはハッザ族を現地取材した次のような記事があります。日没後にヒヒ狩りに向かうくだりで、オンワスとはハッザ族の長老格の男性です。


生まれてこのかたずっとこの地で暮らしてきたオンワスは、迷うことなくどんどん進んでいった。棒切れを使って30秒足らずで火をおこせるし、ミツオシエという野鳥に口笛で呼びかけ、返ってきた鳴き声を聞いて、はちみつを見つけることもできる(ミツオシエは、ハチの巣の場所を鳴き声で他の動物に教える鳥として知られている)。灌木地帯で生きていくのに必要なことは何でも知っているのだ。


ミツオシエという鳥が人間を蜂の巣に誘導する習性についてはNo.105「鳥と人間の共生」に書きました。ミツオシエ(ノドグロミツオシエ。Greater Honeyguide)の誘導で、ハッザ族の人たちが煙を使って木の幹の中の蜂の巣をとる様子がYouTubeに公開されています。ランガム教授も登場します。

蜂蜜は蜂が花の蜜(蔗糖=スクロースが主成分)を集め、ブドウ糖と果糖に分解して巣に蓄えたものです、その80%がブドウ糖と果糖であり、半分がブドウ糖です。自然界でブドウ糖を直接摂取できる食物は蜂蜜しかありません。もちろん蜂蜜は高いGI値の食物です。

ハッザ族も暮らすタンザニアの大地溝帯付近は、太古の昔からヒトが暮らしていた場所です。そこで狩猟採集をしていたヒトは、高GI値の食物を摂取するすべを拾得し(火が重要)、それがヒトの進化をうながした(特に脳の発達)、そう考えられると思います。

肥満に悩む現代人は「低GI値の食物を食べましょう、血糖値を上げすぎないように」と指導されるわけですが、肥満が社会問題になるのはこの数世代のことに過ぎません。人類の200万年の歴史からすると無いに等しい時間です。逆にヒトの歴史は「高GI値の食物を獲得する歴史」であり、そもそもヒトは高GI値の食物を好むように進化してきたのではと思います。そこに肥満の問題を解決する難しさがありそうです。「なぜ痩せられないのか」には、ヒトの成り立ちに起因する根源的な理由もあるのではと思いました。




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No.220 - メト・ライブの「ノルマ」 [音楽]

No.8「リスト:ノルマの回想」でとりあげたリストの『ノルマの回想』(1836)は、ベッリーニ(1801-1835)のオペラ『ノルマ』に出てくる数個の旋律をもとにリストが自由に構成した曲でした。

実は今まで『ノルマ』を劇場・オペラハウスで見たことがなく、No.8 を書いた時も一度見たいものだと思ったのですが、その機会がありませんでした。ところが先日、メト・ライブビューイングで『ノルマ』が上映されることになったので、さっそく見てきました。No.8「リスト:ノルマの回想」からすると7年越しになります。以下はその感想です。


ベッリーニのオペラ『ノルマ』(1831初演)


ベッリーニのオペラ『ノルマ』のあらすじは、No.8「リスト:ノルマの回想」に書いたので、ここでは省略します。ドラマの時代背景とポイントを補足しておきますと、紀元前50年頃のガリア(現在のフランス)が舞台です。

古代の共和制ローマは紀元前58年~51年、カエサルの指揮のもとにガリアに軍隊を進め、いわゆる「ガリア戦争」を戦いました。この結果、ガリア全土がローマの属州となりました。この過程を記述したカエサルの「ガリア戦記」は世界文学史上の傑作です。その直後のガリアがこのオペラの時代です。

ガリアの住民はケルト民族で、ドルイド教を信仰しています。オペラではドルイド教の巫女みこの長がノルマ、巫女でノルマの部下にあたるのがアダルジーザ、ローマのガリア総督がポリオーネで、この3人のいわゆる "三角関係" でドラマが進行していきます。

ノルマは「神の言葉を民衆に告げるポジション」にある女性で、古代ギリシャや邪馬台国と同じく、国や部族の意志決定を左右する重要人物です。オペラ『ノルマ』では、ガリアの民のローマに対する鬱積した不満や好戦気分を背景に、ローマと戦うべきか、それとも今は服従する "ふり" をすべきか、そういった神の意向をノルマが部族にどう告げるかが一つのポイントになっています。

そのノルマが、実は "敵" の大将のポリオーネと "情を通じて"いて(古い言葉ですが)2人の子供までいるというのが2つめのポイントです。そして3つめは、ポリオーネが既にノルマにめていて、ノルマの部下のアダルジーザに愛情が向かっていることです。これで "三角関係" が成立し、"3つの人間関係" でドラマが進行していきます。俗に言う "三角関係の修羅場"(3人の鉢合わせ)もあります。

ノルマを軸にこのオペラを一言でいうと、ソプラノ(ノルマ)とテノール(ポリオーネ)が、絶対にあってはならない仲になり、最後はソプラノもテノールも死ぬという筋であり、このストーリーはオペラの王道と言えるでしょう。さらにベッリーニの曲が素晴らしく、美しい旋律が満載のオペラです。"ベルカント" という音楽用語は歌い方(=ベルカント唱法)に使われますが、もともとイタリア語の "美しい歌" という意味です。このオペラは "ベルカント・オペラ" です。


メトのオペラ『ノルマ』


メト・ライブの『ノルマ』は、2017年10月7日のメトでの公演をライブ映像化し、日本で2017年11月18日~11月24日に公開されたものです。もちろん本当の意味でのライブではありませんが、公演から1ヶ月そこそこでの映像公開であり「ほとんどライブ」と言ってよいでしょう。上映のタイムスケジュールと指揮・演出・配役は次の通りです。

「ノルマ」タイムスケジュール.jpg

メト・ライブの日本公式サイトには、この公演のキャッチ・コピーとして次のように書かれていました。


ベルカントの2大女王、ソンドラ・ラドヴァノフスキーとジョイス・ディドナートの競演は必見! 伝統的な美感あふれるデヴィット・マクヴィガーの演出で、歴史絵巻を堪能しよう。

(メト・ライブビューイングの
日本公式サイト)

なるほど・・・・・・。映像のなかのオープニングのところでメトの総裁が「しかるべきソプラノとメゾを得たことでこの公演が成立した」という意味のことを語っていました。ベルカントの2大女王が、ベルカント・オペラの最高峰で競演するわけです。つまりこの公演のポイントの二つは、スター・ソプラノ(ラドヴァノフスキー)と、スター・メゾ(ディドナート)です。そしてもう一つのポイントがキャッチ・コピーにある「伝統的な美感あふれる演出」(マクヴィカー)です。

Sondra Radvanovsky and Joyce DiDonato.jpg
第1幕 第1場。ノルマが登場する場面。ラドヴァノフスキー(ノルマ。右)とディドナート(アダルジーザ)

改めて思ったのはノルマという役の難しさです。ドラマとしても難しい役ですが(ガリアの巫女とローマ総督の愛人の二律背反)、合計4場のオペラのほとんど全てに出演しっぱなし、歌いっぱなしです。ラドヴァノフスキーは幕間のインタビューで「難しいところは」と聞かれて「Everything !」と答えていましたが、まったくその通りです。ラドヴァノフスキーは最後までしっかりと歌いきっていました。ノルマを任される歌手ならそれぐらい歌えて当たり前なのかもしれませんが、さすが "スター・ソプラノ" だと思いました。

演出にもよるのでしょうが、ラドヴァノフスキーのノルマは随分と "人間的" です。二律背反に苦悩するという "人間としての姿" が強調されています。それは第1幕・第1場でノルマが初めて登場する場面(下の画像)から顕著です。初めから結末(自分の死)を予感しているような感じもある。意図的にそういうノルマ像を作ったのだと思いました。以下、メト・ライブを見て感じたことを何点かあげます。

Norma Act1 Scene1b.jpg
第1幕 第1場。ノルマがこのオペラで最も有名なアリア、「清き女神よ」を歌う前後の場面。舞台の中心にあるのはオーク(楢)の大木で、これはドルイド教徒の聖なる樹である。


ジョイス・ディドナートが素晴らしい


この公演では、アダルジーザ役のジョイス・ディドナートも素晴らしいと思いました。考えてみるとアダルジーザはノルマ以上に難しい役です。ガリアの巫女とローマ将軍の愛人の二律背反に加えて、結果として上司(ノルマ)を裏切った女を演じる必要がある。

ディドナートの多彩な声の表情、変化に富んだ表現力、歌唱の技術で、その存在感が抜群でした。第2幕・第1場にノルマとアダルジーザの美しい2重唱がありますが、ディドナートはインタビューでその難しさについて「ほとんど同じ旋律をソプラノとメゾ・ソプラノが別の感情で歌う難しさ」だと言っていました。そのあたりも良かった。上司と部下という立場の違いに加えて、結果として "恋敵" になってしまった二人が、何とか分かり合おうとする感情が、歌い方でよく表現されていました。

改めて思ったのは、『ノルマ』は最高の技量をもった女性歌手が2人揃わないと成立しないオペラだということです。メトの支配人の言う通りです。我々がよく聞くのは、『ノルマ』は一時期上演されなかった、それはノルマ役が難し過ぎるから、それを復活させたのがマリア・カラスだったという話です。No.8「リスト:ノルマの回想」にはそのマリア・カラスが語った『ノルマ』についての "思い" を引用しました。

しかしノルマだけが素晴らしくても、このオペラはダメなのですね。歌唱力と演技力を備えたソプラノとメゾソプラノが必須である。そのことがメト・ライブを見てよく分かりました。

Joyce DiDonato.jpg
第2幕 第1場。ノルマの家。アダルジーザ役のジョイス・ディドナート


司会のスザンナ・フィリップス


今回のメト・ライブの司会はソプラノ歌手のスザンナ・フィリップスでした。司会は初めてのようでしたが、彼女はこのとき "おめでた" です(2017年10月7日のライブ収録時)。下の画像のジョイス・ディドナートへのインタビューでは、最初の挨拶でディドナートに「Hi ! Suzanna and company !」と言われていました。"company" とは "お連れさん" ぐらいの意味ですね。

そして何と彼女は、出産後の2018年2月24日にプッチーニの『ラ・ボエーム』にムゼッタ役で出演する予定であり、その映像はメト・ライブとして2018年3月31日~4月6日に公開されるというのです。大丈夫なのかと思いますが、インタビュー中で「何とか間に合う」という意味のことを言っていました。たとえば、11月に出産したとして年内は子育てに専念、1月のどこかから本番に向けて練習開始ということなのでしょう(あくまで想像ですが)。『ラ・ボエーム』ムゼッタ役は彼女がメトにデビューした役で、十八番おはこのようです。だからできるのでしょうが、スザンナ・フィリップスのバイタリティーと言うか、ポジティブさに感心しました。

メト・ライブはオペラ歌手が司会者になり、オペラ歌手や演出家、支配人、舞台担当にインタビューをしたり、またオペラの楽しみを語ったりするわけで、オペラ鑑賞する以外に普段聞けないような話があります。そこが面白いところです。

Joyce DiDonato and Susanna Phillips.jpg
第1幕と第2幕の幕間で、ジョイス・ディドナート(左)にインタビューするスザンナ・フィリップス(右)


森と家の場面転換


この公演で印象的だったのは舞台作りと場面転換です。『ノルマ』というオペラは、

第1幕・第1場 森
第1幕・第2場 ノルマの家
第2幕・第1場 ノルマの家
第2幕・第2場 森(第1幕とは別)

と進みます。第1幕・第1場で舞台の真ん中にあるのはドルイド教における神聖な樹であるオーク(楢)です(下図)。このオークはあえて根がむき出しになるようにしつらえてありました。

第1幕・第2場はノルマの家(隠れ家)です、この家はオークの根が地中にあって、そこに作られたという想定です。演出のデヴィット・マクヴィカーがインタビューでそう語っていました。オークの樹につつまれて二人の子どもを住まわせている家があるわけです。

そして第1場から第2場への転換は、幕を降ろさずに照明を暗くしただけで行われました。これは、メトの舞台が2階建てになっていて、その "2階建て" を上下させるだけで場面が転換できるからです。さらにメトでは左と右と奥に3つの舞台があり、そのどれかを水平にスライドさせて場面を転換することもできる。つまり合計5つの舞台をスピーディーに入れ替えられるわけで、いかに大がかりなオペラハウスかということがよく分かりました。これもインタビューで語られていたことで、こういう知識がつくのもメト・ライブの良さでしょう。

Norma Act1 Scene1a.jpg
第1幕・第1場の舞台。真ん中にあるのはドルイド教における神聖な樹であるオーク(楢)で、あえて根をむき出しにした造形になっている。ちなみに日本ではコナラ属の木を樫(常緑性)と楢(落葉性)に言い分けるが、舞台装置でも分かるようにオークは落葉性であり、訳は楢が適当。

Norma Act1 Scene2.jpg
第1幕・第2場の舞台。場面はノルマの家(隠れ家)。柱に相当する上下方向の木はオークの根であり、根の中の空間に作られた家という想定である。


『ノルマ』が暗示するもの


『ノルマ』というオペラはシンプルです。場面も森と家しかないし、主要な登場人物はノルマの父のオロヴェーゾを入れても4人です。ストーリーもどちらかと言うと単純です。このオペラの見所・聞き所はあくまで歌手の歌唱と心理演技、ベッリーニの音楽なのでしょう。

しかしもっと大局的に考えると、このオペラは「文明」(=ローマ)と「自然」(=ノルマを始めとするガリアの民、およびガリアの自然そのもの)の相克ととらえることができそうです。

まず、ローマ総督のポリオーネは非常に "イヤな男" として描かれます。征服者の権力をカサにきて被制服民の女性(それも神に仕える身である巫女)に手を出すのだから、イヤな男どころか "非道な男" と言ってもいい。ポリオーネ役のジョセフ・カレーヤに司会のスザンナ・フィリップスがインタビューする場面がありましたが、スザンナはジョセフ・カレーヤに「一人だけでなく、二人の女性の人生を台無しにした男ですよね」と突っ込んでいました。確かにそうです。

一方のノルマとアダルジーザは、人間としての相反する感情の軋轢に苦しみつつも、互いを理解しようとします。またノルマは最後に「裏切り者はこの自分だ」と自ら告白し、2人の子どもを父に預けて、毅然として処刑台に向かう。ポリオーネも最後には "改心" するのですが、それもノルマの "人間としての気高さ" に触れたからです。ノルマは最後に死を選ぶことによって大地に戻り、その行為でガリアの民に生き方を示した。ノルマの人間としての気高さの勝利で、このオペラは終わります。

演出のデヴィット・マクヴィカーはスコットランドのグラスゴー出身です。グラスゴーには有名なサッカー・クラブである "セルティックFC" がありますが(かつて中村俊輔がプレーした)、セルティックとは「ケルト人、ケルトの」という意味です。ウェールズ、アイルランドと同じく、スコットランドにはケルト文化の名残りが色濃く残っています。また英国からの独立運動にみられるように、独自性を主張する気風が脈々としてある。そういう地域の出身である演出家は『ノルマ』に描かれた "ケルト" を強く意識したことでしょう。それは "樹" に強くこだわった舞台装置にも現れていると思いました。

文明の物質的な圧力に抗して、自然とともに生きる人間の精神の勝利、というのが、このオペラのもっとも大局的な "見立て" だと思いました。



余談ですが『ノルマ』のエンディングを見ながらふと思い出したオペラがあります。このエンディングではノルマが(ポリオーネとともに)火の中に向かう(火刑台に向かう)のですが、これで思い出したのがリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の最後の最後の場面、『神々の黄昏』でブリュンヒルデが愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込むシーンです。ブリュンヒルデはそれで大地に帰り、指輪はラインの乙女に戻り、時が循環し、時代が進む。

ワーグナーはベッリーニを大いに評価していたようです。ひょっとしたら『指輪』のエンディングを構想するときに『ノルマ』が念頭にあったのかもしれません。フランツ・リストは『ノルマ』に感じ入って『ノルマの回想』を作曲したぐらいだから・・・・・・。




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No.219 - リスト:詩的で宗教的な調べ [音楽]

今までフランツ・リスト(1811-1886)の曲を3つとりあげました。

No.    8 - リスト:ノルマの回想
No.  44 - リスト:ユグノー教徒の回想
No.209 - リスト:ピアノソナタ ロ短調

の3作品です。No.8No.44 は、それぞれベッリーニとマイヤーベーアのオペラの旋律をもとに自由に構成した曲で、どちらかというとリストの作品ではマイナーな(?)ものです。一方、No.209 は "傑作" との評価が高い曲ですが、今回は別の傑作を取り上げます。『詩的で宗教的な調べ』です。他にも有名な作品はありますが、なぜこの曲かと言うと私が持っているこの曲の CD(イタリアのピアニスト、アンドレア・ボナッタ演奏)について書きたいからです。それは後にすることにして、まず『詩的で宗教的な調べ』について振り返ってみます。


詩的で宗教的な調べ


『詩的で宗教的な調べ』はリストが19世紀フランスの代表的詩人、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)の同名の詩集(1830)に触発されて作曲した、全10曲からなるピアノ曲集です。1845年(34歳。初稿)から1853年(42歳。最終稿)にかけて作曲されましたが、曲集の中の「死者の追憶」の原曲は1834年(23歳)の作品であり、足かけ20年近くの歳月で完成したものです。

この曲集は、ドイツ系ロシア貴族のカロリーヌ・ザイン = ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人に献呈されたものです。No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」に書いたように、リストは20代にマリー・ダグー伯爵夫人と同棲し3人の子をもうけました。そのダグー夫人に献呈したのが『ユグノー教徒の回想』(1836)でした。夫人との関係を清算したあと、1948年(37歳)から13年間、同居生活を送ることになったのが、一人の子連れだったカロリーヌです。リストは2度も "人妻の伯爵夫人" と生活したことになります。

カロリーヌに献呈された『詩的で宗教的な調べ』の全10曲は、次のような構成になっています。以下の説明は、アンドレア・ボナッタのCDの解説を参考にした部分があります(★印)。この解説はボナッタ自身の執筆によるものです。

 第1曲 : 祈り 

オープニングにふさわしく堂々としていて、かつ厳粛で崇高な感じがする曲です。「祈り」というタイトルとあわせて感じるのは「内なる感情、魂の声の表明」ないしは「内心の思いが外に溢れ出す」といった雰囲気です。演奏時間は約8分。

 第2曲 : アヴェ・マリア 

演奏時間は約7分。穏やかで可愛いらしい感じのメロディー(譜例143 = アヴェ・マリアの旋律)が反復し、静かに思いを訴えるという風情の作品です。第1曲と同じ「祈り」の表現なのでしょうが、曲の作りかたが対称的です。なお譜例はピアノ譜の一部を抜き出したもので、以下の譜例も同様です。

 ◆譜例143
アヴェ・マリア.jpg

 第3曲 : 孤独の中の神の祝福 

『詩的で宗教的な調べ』の中でも、第7曲の『葬送』と並んで単独でよく演奏される曲で、演奏に20分近くかかります。リスト作品の中でも屈指の名曲だと言えるでしょう。この曲の詳細は次項に書きます。

 第4曲 : 死者の追憶 

1834年(23歳)に作曲された『詩的で宗教的な調べ』が原曲で、リストがラマルティーヌの詩集にインスパイアされて作った最初の曲です。瞑想するような、しばしば休符でとぎれる前半ですが、中間部で曲想が激しく動き出します。演奏時間約 15分。

 第5曲 : 主の祈り 

リスト初期の合唱曲のピアノ編曲で(★)、グレコリオ聖歌の感じがします。「第1曲 : 祈り」「第2曲 : アヴェ・マリア」とともに「祈り」がテーマになっていますが、それぞれ違う「祈り」の側面を表現しているようです。演奏時間 約3分。

 第6曲 : 目覚めた子への賛歌 

演奏時間 約6分。歌のような優しいメロディー(譜例144)が印象的です。曲の3分の2を過ぎたあたりから、符点音符の音型が続く快活な気分のところに入り、その雰囲気で終わります。

 ◆譜例144
目覚めた子への賛歌.jpg

 第7曲 : 葬送 

演奏時間 約13分。『第3曲:孤独の中の神の祝福』とならんで単独で演奏されることの多い曲です。葬送の弔いの鐘を模したと言われる序奏で始まります。譜例145は中間部の "悲しげな" 旋律です。半音だけ下げられたファ♭の音が悲しさを強調しています。この旋律をフォルテシモのオクターブの連続で演奏するところが出てきますが、このあたりは "強い哀悼" という感じがします。

 ◆譜例145
葬送.jpg

この曲は「1849年10月」の副題をもっています。リスト研究によると、これはリストの祖国・ハンガリーのために命を落とした人たちを追悼する曲です。1848年、ハンガリーではオーストリアからの独立を目指した「自由ハンガリー政府」が設立されました(= 1848年のハンガリー革命)。この政府の首相がバッチャーニ・ラヨシュという人です(日本と同じでバッチャーニが姓)。この革命は結局オーストリアによって鎮圧され、1849年10月バッチャーニは6名の政府高官とともにオーストリアによって処刑されました。この追悼が「1849年10月」の意味です(★)

 第8曲 : パレストリーナによるミゼレーレ 

パレストリーナ(1524-1594)はイタリア後期ルネサンス期の作曲家で、教会音楽の父と言われています。ミゼレーレは慈悲という意味で、旧約聖書の「ミゼレーレ メイ、デウス」(神よ、我を憐れみたまえ)に由来します。

この第8曲はリストがシスティーナ礼拝堂で聞いた旋律にもとづくということになっていますが、パレストリーナではなく同時代の作曲家の旋律です(★)。曲は3つの部分から成っています。まずゆっくりとしたテーマで始まり、次にトリルの伴奏が現れ、さらに波のようにうねるアルベジオへと進んでいきます。演奏時間 約4分。

 第9曲 : 無題(アンダンテ・ラクリモーソ) 

演奏時間 約8分。この曲にはタイトルがつけられていません。アンダンテ・ラクリモーソという発想標語なので、普通これで呼ばれています。ラクリモーソは「涙ぐんだ」という意味で、リストがよく使った標語です。「第7曲:葬送」の中間部にもラクリモーソの指示があります。傷ついた心を表すような悲しげな曲です。リタルダンドやフェルマータで途切れ途切れに進み、テンポは揺れ続けます。

 第10曲 : 愛の賛歌 

題名どおり、愛することの喜びや素晴らしさを表現しているのでしょう。アンドレア・ボナッタのCD解説によると、この曲は『詩的で宗教的な調べ』という曲集の結論だと言います(★)。つまりこの曲集には "詩的な感情" を表現した曲と "宗教的な感情" を表現した曲がある。代表曲をあげると、

 ◆詩的な感情
  『孤独の中の神の祝福』
  『アンダンテ・ラクリモーソ』

 ◆宗教的な感情
  『アヴェ・マリア』
  『主の祈り』
  『ミゼレーレ』

などである。そして最後に『愛の賛歌』をもってきたということは、

 詩的な感情+宗教的な感情=愛

というリストの考え(=曲集の結論)を表している・・・・・・。なるほど、そういう見方ができるのかと思いました。静かに始まりますが、次第に曲は華麗さを増していきます。演奏時間 約7分。


孤独の中の神の祝福


『詩的で宗教的な調べ』の中の名曲であり、リスト作品でも屈指の傑作でしょう。ピアニストのアンドレア・ボナッタは「あらゆるピアノ作品の中で最も美しいものの一つ」と言っていますが(★)、確かにそうかもしれません。

この曲の楽譜にはラマルティーヌの詩が題辞として引用されています。その詩の大意を試訳すると以下です。


孤独の中の神の祝福(大意・試訳)

私の心を満たす平和はどこから来たのだろう?
心にあふれる信仰はどこから来たのだろう?

私は今、すべてが定かでなく、動揺し、
風の中の、疑いの波の上にいる

賢人の夢に善と真実を求め、
轟く嵐の中に心の平和を求めている

私の前を過ぎたのは数日もないが、
1世紀と世界が過ぎ去ったように感じる

それらとは巨大な深淵で隔たれて、
私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す

ラマルティーヌ

曲は Moderato の指示がある、4分の4拍子の譜例146で始まります。この譜例はピアノ譜から "旋律" だけを抜き出したものです(以下の譜例も同様)。シャープ6つの "嬰へ長調" で、ファ#の音が主音です。譜例では省略しましたが、旋律はトリル風の分散和音でいろどられていて、このような装飾的なピアノの動きが曲の進行に沿って次々と多彩に変化していきます。

 ◆譜例146:テーマA
孤独の中の神の祝福A.jpg

譜例146を仮に「テーマA」としておきますが、これが主題です。『孤独の中の神の祝福』は「テーマA」が3回繰り返され、それぞれあとに別の副次的なテーマ(以下のB~Fの5種)が続くという構成になっています。テーマAに続いて譜例147の「テーマB」の部分になります。

 ◆譜例147:テーマB
孤独の中の神の祝福B.jpg

テーマBの展開がしばらく続いた後、再びテーマAになりますが、今度は1オクターブ上の音域です。また譜例146の旋律の後半は変化し、テーマのあとに曲が高揚して強い音が連続する箇所となり、フォルテ3つのクライマックスを迎えます。そして、その高揚感をなだめるように続くのが譜例148(テーマC)です。ここまでが第1部と言ってよいでしょう。

 ◆譜例148:テーマC
孤独の中の神の祝福C.jpg



二長調、Andante、4分の3拍子になって曲の雰囲気が一変し、譜例149の「テーマD」の部分になります。優しくそっとささやくような音型です。このテーマDが変化しつつ何度化繰り返されたあと曲は一段落し、今度は変ロ長調、4分の4拍子の譜例150(テーマE)の部分に入ります。このテーマも、変ニ長調、嬰ヘ長調と転調をしつつ何度か繰り返されて第2部が終わります。

 ◆譜例149:テーマD
孤独の中の神の祝福D.jpg
 ◆譜例150:テーマE
孤独の中の神の祝福E.jpg



Allegro Moderatoの指示で、再び嬰ヘ長調のテーマAが回帰します。ここからが第3部です。曲は第1部の2回目のテーマAとほぼ同じ経緯をたどり、フォルテ3つの最強音にまで到達します。その後にテーマCが続くのも第1部と同じです。

そのあとは "第2部の回想" に入ります。テーマE → テーマD → テーマE(最後の7小節)となって曲が終わるのですが、少々意外なのは、テーマDの前に今までなかった「テーマF」(譜例151)が Andante で出てくることです。素朴で単純な旋律ですが、大変に印象的です。従って曲の終結部は、テーマE → テーマF → テーマD → テーマE ということになります。

 ◆譜例151:テーマF
孤独の中の神の祝福F.jpg

第3部は第1部と第2部の "回想" であり、再現して終結すると思って聴いているところに全く新しいテーマが出てくるので意外性があるのですが、これは何らかの意味があるのでしょうか。詩の最後に「私の中に新しい人間が再生し、再び動き出す」とありますが、この句に対応しているのではと思います。『詩的で宗教的な調べ』は題辞に掲げられているラマルティーヌの詩をそのまま "なぞった" ものでは決して無いのですが、この部分だけは詩の一節に対応しているのではないか。そう思います。


リスト・ピアノ


イタリア人ピアニスト、アンドレア・ボナッタが『詩的で宗教的な調べ』を録音したCDについて書きます。このCDの最大の特徴はリスト時代のピアノを使って録音されていることです。

詩的で宗教的な調べ - ボナッタ(1).jpg

詩的で宗教的な調べ - ボナッタ(2).jpg
フランツ・リスト
詩的で宗教的な調べ
コンソレーション
演奏:アンドレア・ボナッタ
ピアノ:Steingraeber 1873
レーベル:仏・ASTREE(1993)
録音:1986

ドイツのバイロイトにシュタイングレーバー社という、リストの時代から続くピアノ製造会社があります(1820年創業)。かつて、ここのオーナーとリストは懇意で、晩年のリストはシュタイングレーバー社のピアノを使っていました。バイロイトの本社の建物(シュタイングレーバー・ハウス)にロココ様式のホールがあり、そこには1873年製のピアノが今でも置いてあります。このホールでは各種のコンサートが開かれ、1873年製のピアノの演奏もやるようです。

Steingraeber-Haus.jpg
シュタイングレーバー・ハウス
バイロイトにあるシュタイングレーバーの本社。17世紀に建造された建物である。
(Wikimedia Commons)

Rokokosaal.jpg
1873年製 シュタイングレーバー
シュタイングレーバー・ハウスのロココルームに置かれている、通称「リスト・ピアノ」または「ロココ・ピアノ」。
(site : www.steingraeber.de)

リストはここをよく訪れてこのピアノを弾き、ワーグナーと妻のコジマ(リストの娘)を前にして弾いたこともあります(★)。そのため、この1873年製シュタイングレーバーは「リスト・ピアノ」と呼ばれています。また装飾から「ロココ・ピアノ」という別名もあります。ボナッタの『詩的で宗教的な調べ』はこの「1873年製シュタイングレーバー」で録音されました。



このピアノの音の感想ですが、現代のコンサート・ピアノと比較して次のような感じがします。まず、高音がキラキラときらめくような華麗な音ではありません。高い音域に広がる倍音が少ないのでしょうか。全般につややかで "張り" のある音色ではなく、少しくすんだ感じの渋さがある硬い音色です。柔らかくて "まるみ" を帯びた音も出しにくいと聞こえます。

打鍵したあとの音の減衰も早い感じで、長い音符が連続するような単音のメロディーでは音がコマ切れになりやすい。『孤独の中の神の祝福』の出だし(= テーマA。譜例146)は、全音符がいっぱい出てくる息の長いゆっくりした "旋律" ですが、多彩な装飾音で飾られているからこそ "間が持っている" 感じがします。

他のピアニストが録音した『詩的で宗教的な調べ』と聴き比べてみても、明らかに音の表情の多様さや音の響き具合は現代のコンサート・ピアノがまさっています。1873年製ということは今から150年近く前です。ヴァイオリンは300年前の楽器が今でも世界最高峰ということになっていますが、ピアノについては明らかに「表現力と音色が豊かな楽器を作る技術」が150年の間に進歩した感じです。

このCDを聞いて強く思うのは、リストは「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノの音を前提に作曲したのだろう、ということです。そういうピアノをいかに "鳴らせて" 自分の理想とする音楽を作るか。それがリスト作品(の一つの意味)ではないか。

現代のピアニストが現代のピアノで弾くリストを聴くと、時に "過剰さ" が目立つわけです。過剰な技巧、過剰な装飾音、過剰な強打音 ・・・・・・。しかしその "過剰さ" は、現代ピアノとは違う「1873年製シュタイングレーバー」のようなピアノを前提に、音の幅や音楽表現の豊かさを最大限に追求した結果だったのはないかと考えられます。150年前は現代と同じではありません。そこをよく考えないと作曲家の正当な評価もできないはずです。このCDを聴いてリスト作品への見方が少し変わったのでした。


ブックオフ


ここからは余談です。実は、アンドレア・ボナッタ演奏する『詩的で宗教的な調べ』のCD(『コンソレーション』も入っている2枚組)は、かなり前に自宅近くのブックオフで買ったものです。もちろん探していたわけではありません。そもそもクラシック音楽のCDはブックオフには少ないので、買うことはめったにありません。その時も確かポップスのCDを見に行ったと思います。たまたま偶然に見つけて『詩的で宗教的な調べ』という曲名と「Piano Liszt, Eduard Steingraeber, Bayreuth, 1873」というジャケットの文字を見て、即購入したわけです。800円ぐらいだったと覚えています。ボナッタというピアニストもその時に初めて知りました。

ブックオフをあなどってはいけない。それがよく分かりました。もちろん今では、ネットでのオークションやフリマも含めての話です。そこに人それぞれにとっての "一品" が眠っている。そういうことかと思います。




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No.218 - 農薬と遺伝子組み換え作物 [社会]

No.102-103「遺伝子組み換え作物のインパクト」で、農薬と遺伝子組み換え作物(=GM作物)の関係について書いたのですが、その続編です。前回は、新たな除草剤の使用がそれに耐性をもつ "スーパー雑草" を生み出す経緯でしたが、そのスーパー雑草に対抗する除草剤の話です。

  GMは Genetically Modified(=遺伝子組み替えされた)の略。


農薬とGM作物を使った農業


まず、No.102-103「遺伝子組み換え作物のインパクト」の復習です。アメリカで始まった「農薬と遺伝子組み換え作物(GM作物)をペアにした農業」は次のような経緯をたどってきました。

 第1段階:除草剤 "グリホサート" の開発 

1970年にアメリカの農薬会社・モンサントは除草に使う "グリホサート" という化学物質を開発し、これを「ランウンドアップ」という商品名で売り出した。

グリホサートは植物の葉に直接散布することによってすべての植物を枯らす効果を発揮する。除草剤というより、強力な "除植物剤" である。

すべての植物を枯らすため、グリホサートが使えるのは作物の芽が出る前である。作物の芽が出る前に生えてきた雑草に対してグリホサートをあたり一面に散布することで雑草を駆除できる。

作物が成長したあとでは「あたり一面に散布」はできない。畑に分け入って人手で雑草を取ったり、他の除草剤を使う必要がある。

この第1段階は、長年にわたって行われている農薬開発のひとコマです。農薬は除草剤だけでなく病害虫の駆除や植物の成長促進など、各種の目的のものが開発されてきました。しかし次の第2段階で話は大きく変わりました。

 第2段階:グリホサート耐性作物の開発 

1996年、モンサント社は遺伝子組み換え技術を使ってグリホサート耐性をもつ大豆(= グリホサートを散布しても枯れない大豆)を開発し、「ランウンドアップ・レディ」という商品名で発売した。その後、グリホサート耐性をもつ綿、ナタネ、トウモロコシも発売した。

グリホサート耐性大豆は農家の雑草管理のあり方を一変させた。農家としてはグリホサート耐性大豆を植え、その芽が出る前でも芽が出た後でもグリホサートを散布すればよい。グリホサート耐性大豆だけが生き残り、雑草を駆除できる。飛行機からグリホサートを散布するような手段も使えるため、雑草管理の手間は圧倒的に少なくなり、コストは削減された。

その反面、グリホサート耐性大豆(GM作物)とグリホサート(除草剤)の組み合わせは、農業を「単一農薬の広範囲使用」に誘導した。

遺伝子組み換え作物と除草剤の組み合わせは、農業のあり方を変える "革新" です。ゲームのルールを変えるに等しいわけで、農家としては新しいルールに従わないとゲームに参加できなくなります。しかしこの新ルールには弊害もあります。それは2000年代になって顕著になってきました。

 第3段階:スーパー雑草の出現 

2000年代に入って米国では "スーパー雑草" が蔓延しはじめた。スーパー雑草とはグリホサート耐性をもつ(=グリホサートを散布しても枯れない)雑草である。

スーパー雑草には極めて繁殖力の強いものがあり、大豆や綿、トウモロコシの畑にはびこり出した。農家の中には人海戦術で雑草を除去したり、畑を放棄するものも出ている。

スーパー雑草に対抗するため、モンサント社は他の除草剤に対する耐性をもったGM作物を売り出す計画である(『日経サイエンス』2011.8 の記事)


除草剤・ジカンバと、ジカンバ耐性作物


No.102「遺伝子組み換え作物のインパクト」で引用した日経サイエンスの記事(2011.8)に「モンサント社は他の除草剤に対する耐性をもったGM作物を売り出す計画」とありました。この "他の除草剤" としてモンサント社が目をつけたのが "ジカンバ" という化学物質です。日経産業新聞の2017年10月4日付に、このジカンバについての記事があったので以下に紹介します。


米国の大豆農家は、幅広く使われていた農薬「ラウンドアップ」(=商品名。成分はグリホサート:引用注)に耐性をつけた雑草に悩まされた。1種類の農薬を使い続けると耐性雑草が出現しやすく、効き目が強い安全な代替農薬が求められたいた。

・・・・・・・・・・

ジカンバは植物の成長をつかさどる機能のバランスを崩し、幅広い種類の植物を枯らす効果を持つ。そのまま畑にまくと農作物も枯れるが、遺伝子組み換え技術でジカンバに耐性をつけた種子と組み合わせれば効果的に雑草だけを除ける。

・・・・・・・・・・

モンサントや独BASF、米ダウ・デュポンなどが代替農薬として(ジカンバに)着目。モンサントは大豆と綿花でジカンバ耐性種子を開発し、今年から認可を受けた各州で農薬と合わせた販売を始めた。

日経産業新聞(2017.10.4)
(ニューヨーク=西邨紘子)

補足しますと、ジカンバは広葉植物を枯らす化学物質で、トウモロコシや麦類などのイネ科植物は枯れません。従ってそれらの畑では除草剤として使われています。日本の農水省もトウモロコシや麦類についての残留ジカンバの規制値を決めています。しかし大豆、綿、ナタネなどの広葉植物の畑では使えなかった。ところがモンサントが開発したジカンバ耐性種子を植え付けると、大豆畑や綿花畑でもジカンバを除草剤として使えます。グリホサート耐性をもつスーパー雑草も駆除できる。ここがポイントです。


ジカンバによる被害報告が相次ぐ


引用した日経産業新聞の記事は、実はジカンバによる農作物被害をレポートするのが主眼でした。その被害の状況を記事の見出しとともに引用します。


除草剤 被害報告相次ぐ
 米モンサント、風で拡散か

ジカンバは揮発性が高く、風にのって散布地域が広がる懸念が指摘されていた。試験段階でも散布地域の周りの畑からの被害報告があったが、一部農家の不正または不適切な使用が原因と(モンサント社は)説明。揮発性を低めた調合で米環境保護局(EPA)や各州からの認可を受けた。

実際に使用が始まると被害報告が各地で急増した。ミズーリ州では2015年(6月期)に3件だったジカンバ関連の苦情が17年には212件に拡大。被害を巡る農家間の対立が殺人事件に発展した例まで報告された。アーカンソー、ミズーリ、テネシーの各州は、夏の大豆育成期にジカンバ農薬の使用の一時的な禁止に踏み切った。

(同上)


モンサントのグローバル戦略事業担当のスコット・パートリッジ副社長は「開発段階で大規模な試験を繰り返し、安全性で想定外の要素はない。製品を適切に使用した場合は問題は起こらないとの報告がある」と説明。作物被害は農家による認可外の使用や「ノズルなどの器具の扱いや散布方法など間違った用法が原因とみている」と話す。

一方、EPAは「現状を非常に懸念している」(広報担当)。問題が多発する理由は、寄せられた報告を注意深く分析しており、詳しい情報を集め、追加の規制や調整の必要性を検討するという。アーカンソー州では18年も使用を禁止する検討に入った。

ジカンバの使用禁止が広まれば、除草効果を期待して同薬の耐性大豆を買った農家の投資は無駄になる。モンサントは「大学や農家の団体と協力し、適切な取り扱い方法を広める取り組みを進めている」(パートリッジ副社長)。

モンサントによると、適切な使用法などを訓練するトレーニングには、すでに顧客農家など5万人が参加した。ただ雑草対策に苦慮した違法購入・使用が一因だった場合は、メーカー側に打てる手立ては限られるのが実情だ。

同社は3~5月期決算発表でジカンバ関連製品の売れ行きが「目を見張るようなペース」で伸びていると説明。17年8月期通期の業績予想を引き上げるなどの効果を見込んでいた。顧客農家の不信が広がれば成長シナリオも見直しを迫られる。

(同上)


ジカンバとジカンバ耐性作物の広がり


上の引用でもわかるように「農薬と農薬耐性作物による農業」は次の段階に入ってきました。つまりジカンバによる農作物被害が広がるほどに、ジカンバが広く使われ出したわけです。

ジカンバは揮発性が高く、空気中を飛散して意図しない農作物を枯らす危険性があることは以前から分かっていました。いわゆる「ドリフト」による被害です。従ってEPAも各州当局もモンサント社も、ジカンバを耐性大豆や耐性綿花の畑に用いるための規制・指導を行ったようです。つまり畑のまわりに緩衝帯を設けるとか、風速15メートル以上では使用禁止とか、飛行機による空中散布禁止といったたぐいの規制です。推測するに、規制どおりにジカンバを使えば問題はほぼ起こらないのでしょう。モンサント社もそのことを確認する実験をやったと思われます。

しかしこういった規制のとおりにすると農家にとっては労力やコストがかさみます。自家農地の耐性大豆・耐性綿花がジカンバで枯れないと分かっている以上、できるだけ労力が少ない方法で散布したいと農家が思ったとしても不思議ではありません。そもそも「ジカンバとジカンバ耐性作物の組み合わせ」は農業のコスト削減のために開発されたものなのです。ジカンバによる作物被害の責任は、第1義的には「不適切使用をした農家」でしょうが、そこに暗黙に誘導したのはモンサント社と認可した規制当局だと思います。だからこそ、被害を前にしていくつかの州当局は一時的禁止、ないしはその継続を検討している。とにかく、除草剤と耐性作物による農業は、

 第4段階:ジカンバとジカンバ耐性作物の広範囲使用 

の段階になってきました。そして確実に予期できることは、その次の第5段階があるということです。つまり、

 第5段階:ジカンバに耐性を持つスーパー雑草の出現 

です。大豆農家・綿花農家が使う除草剤として、グリホサートもジカンバも意味がなくなる日がくるのは確実でしょう。


スーパー雑草の出現は "ビジネスチャンス"


そもそも、除草剤を使うとそれに耐性を持つ植物が(遅かれ早かれ)出現するのは農業関係者の常識です。これは抗生物質の使用と耐性菌の出現の関係と同じです。そういう風に自然はできている。モンサント社もそれを先刻承知のはずで、ジカンバ耐性雑草の出現を予測し、新たな除草剤とそれに耐性をもつ作物の開発に余念がないと想像します。数種の候補を同時並行的に研究しているかもしれない。

この状況は、いわゆる "イタチごっご" です。そしてこの "イタチごっご" はモンサントのようなバイオ化学企業にとってのビジネスチャンスになります。永続的に続くと考えられる "イタチごっご" だからこそ、ビジネスの機会も永続的に続く。もしスーパー雑草が出現しないとモンサント社は困ったことになります。グリホサートだけで雑草管理が永続的に可能なら、グリホサート耐性作物の特許はいずれ切れるので、モンサント社は独占的地位を保てなくなります。農家もモンサント社だけに種子を頼る必要がなくなる。現にグリホサートの特許はすでに切れていて、同一成分をもつ "ジェネリック除草剤" が出回っています。

しかしバイオ化学企業にとって、新たなスーパー雑草が出現しないという心配をする必要はないのです。自然のメカニズムは耐性植物・耐性菌が出現するようにできているのだから・・・・・・。バイオ化学企業は "自作自演" のイタチごっこを演出し、除草剤ビジネスのネタが尽きることが無いように農業を誘導しているというわけです。

もちろんバイオ化学企業にとってのリスクもあります。新たな農薬とそれに耐性がある作物を作り出せなかったら "アウト" だからです(少なくとも除草剤の分野では)。他社に負けると競争に生き残れません。従ってますます研究開発への投資が必要になります。この状況はバイオ化学企業の寡占化・巨大化を促進すると考えられます。巨大研究投資に耐えられる企業が生き残るわけです。

また「除草剤と耐性作物のペアによる農業」が進展していくと、農家は巨大バイオ化学企業への依存度をますます高めることになるでしょう。イタチごっこに巻き込まれた農家は、独占的地位にある企業の手足となって(= 隷属して)農地を耕作するだけの存在になっていくと考えられます。


食料に低コストだけを求める愚


グリホサートやジカンバに耐性をもつ作物は、遺伝子組み換え技術で作り出されたGM作物です。そのGM作物の中には人類にとってメリットが多い(デメリットはほとんどない)と考えられるものがあります。たとえば耐乾燥性のGM作物は干魃被害が深刻な地域の食料生産を増大させ、乳幼児の死亡率を低下させるかもしれない。そういったことが考えられます。

しかし「除草剤と除草剤耐性GM作物をペアにした農業」の主眼は農業コストの削減です。そして食料や食品に低コストだけを求めるのは愚の骨頂です。食品の安全、自然環境や生態系の保全、食料資源の持続可能性など、コスト以外の(コストよりもっと大切な)考慮点がいっぱいあるからです。

アメリカはTPP(環太平洋経済連携協定)から離脱し、今後は日本を始めとする各国とのFTA(自由貿易協定)を目指すそうです。FTAの農業分野でGM作物が交渉項目になるかどうか分かりませんが、日本としては上に引用したようなアメリカ農業の実態を詳細に把握してから交渉に望むべきでしょう。



ジカンバの新聞記事を読んでふと思ったことがあります。日本での農業の一つの例ですが、島根県の奥出雲地方、仁多郡で作られる「仁多にた米」は「東の魚沼・西の仁多」と言われるほどコシヒカリの有名ブランドです。この地方では無農薬・有機栽培が進んでいます。地元の畜産農家と協力して有機肥料も確保をしている(いわゆる循環型農業)。そのため、この地域には絶滅危惧種(メダカ、タガメなど)や準絶滅危惧種(トノサマガエルなど)が多く生息しています。

このような例は仁多だけではないし、また日本だけでもありません。世界には「アメリカ発の、除草剤と除草剤耐性GM作物をペアにした農業」とは全くの対極にある農業が厳然としてあり、それが高い評価を受けていることを忘れてはいけないと思います。

奥出雲の水田風景1.jpg
奥出雲の水田風景2.jpg

仁多郡の米作り風景(奥出雲観光文化協会のサイト)

下の写真の棚田については、奥出雲観光文化協会のサイトに説明がある。かつて奥出雲町では砂鉄を原料とする「たたら製鉄」が盛んに行われていた。砂鉄は、山を切り崩し土砂を水路に流す「鉄穴流し(かんなながし)」で採取されたが、この棚田は「鉄穴流し」の跡を水田に転用したものである。平成24 年に「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国重要文化的景観に選定された。
(site : www.okuizumogokochi.jp)




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No.217 - ポルディ・ペッツォーリ美術館 [アート]

前回の No.216「フィリップス・コレクション」は、"コレクターの私邸に個人コレクションを展示した美術館" でしたが、そのような美術館のことをさらに書きます。前回も名前をあげた、ミラノにある「ポルディ・ペッツォーリ美術館」です。


ミラノ中心部の「私邸美術館」


ポルディ・ペッツォーリ美術館は、ミラノの貴族で美術収集家であったポルディ・ペッツォーリのコレクションを、その私邸に展示したものです。この私邸は美術品とともに、19世紀末にミラノ市に寄贈されました。

ミラノ中心部.jpg
JALのサイトにあるミラノの中心部、東西約2kmの範囲の地図。主な美術館・博物館の位置が示されている。
(site : www.jal.co.jp)

ポルディ・ペッツォーリ美術館.jpg
ポルディ・ペッツォーリ美術館
美術館はミラノ市の中心部にある。この写真で人が集まっているあたりにエントランスがある。
(site : www.grantouritalia.it)


ポルディ・ペッツォーリ美術館-2.jpg
(site : www.amicimuseo-esagono.it)

場所はミラノという "歴史ある都市のど真ん中" で、そこがワシントン D.C. のフィリップス・コレクションと違うところです。フィリップス・コレクションは設立後に建て増しがされていて、2棟が連結された建物になっていますが、ミラノ中心部ではそれもできないでしょう。私邸としては大邸宅ですが、ミラノ、ないしはイタリアの他の著名美術館に比べるとこじんまりしています。

ここに収集されているのは18世紀以前の絵画をはじめ、彫刻、家具・調度品、ガラス製品、陶磁器などの工芸品、タペストリーなどです。訪問者としては目当ての絵を見に行くというのではなく、イタリア貴族の館の雰囲気が濃厚に漂うなかで各種ジャンルの収集品を順々に味わう、というのが正しい態度でしょう。

しかしこの美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あります。その2点だけを見に行ったとしても、観光の時間をいた "モト" は十分にとれるでしょう。貸し出し中ではないという前提ですが・・・・・・。以下はその2点の絵画作品の話です。


ボッティチェリ:書物の聖母


書物の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
聖母子(書物の聖母)」(1480/81)
58cm×40cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

聖母マリアが幼な子キリストに祈祷書の読み方を教えている図です。幼な子は受難を予告する "茨の冠" と "3本の釘" を手にしています。小さな絵ですが、ラピスラズリの美しい青とボッティチェリ独特の優美な曲線が大変に印象的です。

ボッティチェリはたくさんの聖母子像を描いていますが、その中から傑作を3つだけあげるとすると、この『書物の聖母』と、フィレンツェのウフィツィ美術館にある『マニフィカートの聖母』『柘榴ざくろの聖母』でしょう。これがベスト・スリーだということは多くの人が納得するのではないでしょうか。ウフィツィの2作品はいずれも丸型で、その画像は以下です。

マニフィカートの聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(マニフィカートの聖母)」(1483/85)
直径118cm
ウフィツィ美術館

柘榴の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(柘榴の聖母)」(1487頃)
直径143cm
ウフィツィ美術館

ちなみに「マニフィカート」とは「頌歌しょうか」という意味で、祈祷書を開いたところが「マリア頌歌」なのでその名があります。また「柘榴」はキリストの受難ないしは復活の象徴です。

ウフィツィの2作品と比較しつつ『書物の聖母』をみると、『マニフィカートの聖母』と大変よく似ています。書物を開いているところとマリアとキリストの位置関係です。ただ『書物の聖母』のマリアの姿は、我が子をいつくしむのに加えて、憂いを含んだような神秘的な雰囲気がある。3作品では最も "聖母" に近い感じでしょうか。『マニフィカートの聖母』『柘榴の聖母』と、制作年が下るにつれてマリアの姿も "人間的に" なっていく感じです。『柘榴の聖母』となると、我が子の運命を予感してしまったような "うつろな" 表情です。

この3作品を比べてみても、ポルディ・ペッツォーリの『書物の聖母』は "珠玉の作品" と呼ぶにふさわしいものです。


ポッライオーロ:若い貴婦人の肖像


ポルディ・ペッツォーリ美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あると書きましたが、もう1点が、ピエロ・デル・ポッライオーロの作品です。

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of Young Woman.jpg
ピエロ・デルポッライオーロ(1443-1496)
若い貴婦人の肖像」(1470頃)
46cm×33cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

ピエロ・デル・ポッライオーロ(1443-1496。生年の1443年はポルディ・ペッツォーリ美術館での表示)はフィレンツェ出身の画家です。兄のアントニオも画家で、よく兄弟で仕事をしました。

当時はこういった "横顔の肖像画(=プロフィール)" が一般的だったようで、男性の絵もたくさんあります。『書物の聖母』を描いたボッティチェリも、当時のフィレンツェで絶世の美女と言われたシモネッタ・ヴェスプッチの横顔を描いていて、そのうちの1枚は日本の丸紅株式会社が所有していることで有名です(= 日本にある唯一のボッティチェリ)。

  なお、横顔は "Profile" で、横顔を描いた肖像画を "Profile Portrait" と言いますが、日本語で "プロフィール" と言うと別の意味になるので、以降、横顔肖像画と書きます。

ポッライオーロの絵に戻りますと、これは肖像なので『書物の聖母』以上に小さな絵です。髪の毛、真珠のアクセサリ、衣装が精緻に描かれていますが、それ以上にこの絵は "女性の横顔の美しさ" をダイレクトに表現しています。ある種の理想化があるのかもしれませんが、だとしても一度見たら忘れられない印象を残す絵です。



この美術館は、数々の美術品を、それが本来あるべき場所で見学できる美術館です。ここに飾られた18世紀以前の品々は、まさにポルディ・ペッツォーリ邸のようなところを飾るために制作されたからです。「本来あるべき場所で美術品を見学する」を念頭においてここを訪問するのがいいと思います。


横顔の美、ベスト作品


ここからはポルディ・ペッツォーリ美術館とは直接関係のない余談です。ピエロ・デル・ポッライオーロの "横顔肖像画" をあげたので、同様の女性の肖像で素晴らしいと思う作品を3点あげます。ポルディ・ペッツォーリの作品にこの3点を加えた計4点が、横顔肖像画(女性)の最高傑作だと思います。

Antonio del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady.jpg
アントニオ・デルポッライオーロ(1429/33-1498)
若い女性の肖像」(1465頃)
ベルリン絵画館

ピエロ・デル・ポッライオーロの兄の作品で、ベルリンにあります。全体の感じがポルディ・ペッツォーリの絵とよく似ています。兄弟合作かもしれません。ただ、この絵の女性の方が一層おだやかで柔和な感じがします。女性の性格まで見通して描かれたかのようです。

ベアトリーチェ・デステの肖像.jpg
ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス(1455-1508)
ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

ポルディ・ペッツォーリ美術館と同じミラノに、アンブロジアーナ絵画館があります。ここはミラノ観光の中心、ドォーモの前の広場の近くです。ここには、カラバッジョの『果物籠』(必見。No.157「ノートン・サイモン美術館」に画像を掲載)、ダ・ヴィンチの『楽士の肖像』、ボッティチェリの『天蓋の聖母』、ラファエロの『アテネの学堂の下絵』(完成作はバチカン教皇庁のラファエロの間)などがありますが、上に掲げた『ベアトリーチェ・デステの肖像』も必見です。ドォーモまで行ったからには、横顔肖像画(女性)のベスト4の一つを見逃す手はありません。

ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディスはミラノの画家で、ミラノ時代のダ・ヴィンチと一緒に仕事をしたことがあるようです。この絵もダ・ヴィンチの手が入っているのではと言われています。ベアトリーチェ・デステ(1475-1497)はミラノ公、ルドヴィーゴ・スフォルツァの妃です。描かれた年からすると15歳~16歳ころの肖像ということになりますが、その頃に婚約・結婚したといいます。少女っぽさが少し残る中で、気品に溢れている姿です。

最後はマドリードにある絵で、ティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっているギルランダイヨの作品です。この絵については、No.167「ティッセン・ボルネミッサ美術館」に感想を書いたので、ここでは省略します。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1448-1494)
ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)



これら4つの横顔肖像画(プロフィール・ポートレート)を見て気づくことが3つあります。まず、すべて左向きの顔だということです。もちろんすべての横顔肖像画が左向きではなく、右向きの肖像もあります(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)。しかし数としては圧倒的に左向きが多いように思います。このブログの過去の例だと、アンドリュー・ワイエスの『ガニング・ロックス』も左向きです(No.151「松ぼっくり男爵」にポスター画像を掲載)。

これは何か理由があるのでしょうか。コインの王様の肖像にならったのか(コインの肖像も両方あるはず)、それとも多くの画家は右利きなので左向きの方が描きやすいのか。是非その理由を知りたいものです。



4つの横顔肖像画で気づくことの2つ目は、横顔であるにもかかわらず描かれた人の性格や内面をよく捉えていると感じることです。もちろん本当の性格がどうだったか、それは不明です。ポッライオーロ兄弟の2作品は誰を描いたのかさえわかりません。しかしこれらの肖像は、本当かどうかは分からないが、人の性格や内面をよく捉えていると鑑賞者が感じてしまう絵なのです。これが肖像画の傑作と言われる作品のポイントでしょう。

その典型のような絵が、No.19「ベラスケスの怖い絵」でとりあげたベラスケスの『インノケンティウス十世の肖像』です。中野京子さんはここに描かれたローマ教皇について、


どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのしあがった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」(朝日出版社 2007)
No.19「ベラスケスの怖い絵」での引用を再掲

と書いています。絵を見る人にそう感じさせる肖像画なのです。もちろん上に掲げた4つの横顔肖像画を見て "人物の内面" を感じる程度はさまざまです。しかし程度の差はあれ、鑑賞者に印象づける人物の内面・性格・パーソナリティが肖像画の価値を決める。そういう風に思います。



4つの女性の横顔肖像画を見て感じる3番目は、女性の美しさの1つのポイント、そして大きなポイントが "横顔の美しさ" だろうということです。15世紀のイタリアの画家は(そして当時のイタリア人は)それがわかっていた。それは今でも正しいと思うのです。現代日本でもありますよね。横顔のきれいな女優さんと言われる人が・・・・・・。

ここからは完全な余談になりますが、直感的に思い出すのが、まだ記憶に新しい大塚製薬のカロリーメイトのCM・広告で、満島ひかりさんが出演したものです(2012年度秋冬~)。このCMは徹底的に満島さんの横顔にこだわっています。動画では中島みゆきさんの「ファイト!」を歌う横顔のショットだったり(コピーは "どどけ、熱量")、静止画像の広告も横顔です。秀逸なのは本物のチーターと満島さんの「横顔のツーショット」です。

満島ひかりとチーター.jpg

この画像を見て確信するのですが、CM制作者はネコ科猛獣の横顔の美しさをよく分かっていたのだと思います。美しさの意味は人間とは全く違いますが・・・・・・。チーターを満島さんの引き立て役にしたのでありません。満島さんとチーターを勝負させた、ないしは互いに互いを引き立てるようにしたのです。このCMの制作者が "満島さんの横顔" をあるときに "発見" し、是非ともCMにしたいと思った、その熱意が伝わってきます。

もちろんこの広告以外にも横顔に焦点をあてたポスターや広告はたくさんあるのですが、21世紀の日本だから写真であり、動画であり、TV-CFです。しかしそんなものが全くない15世紀のイタリアでは、才能のある画家が描く肖像画しかなかった。4つの横顔肖像画に共通しているのは、いずれも高貴な女性か裕福な女性だということです。でないと高価な肖像画が描かれないからです。そういう人たちは結婚も「お見合い」であり、いわゆる「お見合い写真」のように肖像画が使われたという話を読んだことがあります。そういう極めて大切な絵に横顔を描く・・・・・・・。

4つの横顔肖像画と満島さんを並べてみて、人間の感性は時代と国を越えて類似している部分が多々あると思いました。




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No.216 - フィリップス・コレクション [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで7回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム

の7つです。今回はその継続で、アメリカのワシントン D.C.にあるフィリップス・コレクションを取り上げます。


フィリップス・コレクション


フィリップス・コレクションが所蔵する絵について、今まで2回とりあげました。まず No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」では、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』という作品について、中野京子さんの解説を中心に紹介しました。

ヴァイオリンを奏でるパガニーニ.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』(1831)
フィリップス・コレクション
(site : www.phillipscollection.org)

この絵は「大アーティストが描いた大アーティスト」であり、パガニーニの音楽の本質までとらえているという話でした。さらにその次の No.155「コートールド・コレクション」ではセザンヌの『サント=ヴィクトワール山』を取り上げています。

Mont Sainte-Victoire.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
サント=ヴィクトワール山」(1886/87)
La Montagne Sainte-Victoire(1886/7)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

これはコートールド・コレクションにある『サント=ヴィクトワール山』との比較対照のためです。両方の絵とも近景に松の木があるのが特徴で(コートールドの絵は1本の松)、松の枝の形と山の稜線がピッタリ一致することを含めて浮世絵の影響(= 北斎の富嶽三十六景)を感じるという話でした。



今回はこれらの絵を所蔵しているフィリップス・コレクションについて、ほかにどんな絵があるのか、そのごく一部ですが紹介したいと思います。フィリップス・コレクションは鉄鋼業で財をなしたフィリップス家の次男、ダンカン・フィリップス(1886-1966)が1921年に開設した美術館で、ダンカンの邸宅がそのまま美術館になっています。開館当初は237点の絵画作品でしたが、その後増え続け、現在所蔵しているアートは約3000点だそうです。

Phillips_Collection.jpg
フィリップス・コレクション
2つの建物が連結されて美術館になっている。入り口は奥の方の建物にある。


ルノワール


この美術館の "顔" となっている絵が、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』(1880/81)です。フィリップス・コレクションと言えばこの絵、ということになっています。

Luncheon of the Boating Party - Renoir.jpg
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
舟遊びをする人々の昼食」(1880/81)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

パリの西の郊外、シャトゥーの町のセーヌ川に浮かぶ島は "印象派の島"(アンプレッショニスト島)と言われ、数々の印象派の画家が訪れたところです。ルノワールはここのレストラン「メゾン・ラ・フルネーズ」の常連客でした。ここのテラス席ので光景を描いた作品です。画面に登場する14人はすべてルノワールの友人や知人で、全員の名前が特定されています。一人だけあげると、画面右下に座っている男性は画家であり印象派の後援者でもあったカイユボットです。

この絵は "屋外の光の中での人物群" を描いたという意味で、この5年前に描かれた『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』に似ていますが、郊外に出かけて舟遊びに興じるという当時最先端の "レクレーション" を描いていて、より印象派っぽい感じがします。二つの対角線を基本とする構図が心地よく、背景の草木と人物群とテーブルの上の食器を異なる筆致で描き分けているのも特徴的です。ルノワールを代表作を1枚だけあげるとすると、時代の先端の雰囲気を伝えているという意味でこの絵をあげるのもアリだと思います。


フィリップス・コレクションの名画


 悔悛する聖ペテロ 

まず宗教画ですが、フィリップス・コレクションには『悔悛する聖ペテロ』と題した絵が2点あります。2つとも超有名アーティストの作品で、エル・グレコとゴヤです。2枚の絵の対比が鮮明なのでここで取り上げます。

エル・グレコ:悔悛する聖ペテロ.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
悔悛する聖ペテロ」(1600/1605)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ゴヤ:悔悛する聖ペテロ.jpg
フランシス・ゴヤ(1746-1828)
悔悛する聖ペテロ」(1820/1824)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

今までこのブログで取り上げたキリスト教関係の宗教画はマグダラのマリアに関するものでした(No.118「マグダラのマリア」No.157「ノートン・サイモン美術館」のカニャッチの絵)。いずれも "悔い改めた罪ある女(娼婦)" というテーマですが、それは聖書とは無縁の "創作物語" を図像化したものでした。

しかし上の2作品は違って、聖書にもとづく絵であり、聖書を知っていれば理解できます。ペテロが「イエスを知らない」と否認したことを悔いる場面です。2つともペテロの代表的なアトリビュートである鍵を持っています。エル・グレコの聖ペテロは、ほぼ同じポーズの作品が6点ほどあるといいます。その作品はキリストの図像化によくあるような人物の風貌であり、いかにも使徒・聖人という感じに溢れています。エル・グレコなりの細身の顔の表現を割り引いたとしても、このような感じが一般的な使徒・聖人像でしょう。

一方のゴヤの方は「腕っぷしの強い漁師のおじさん」という仕上がりです(ペテロは漁師)。ゴヤはスペインの宮廷画家なので使徒の作例を熟知しているはずですが、この絵はあえて一般的な聖ペテロ像の真逆を行った感じがします。しかしキリストの徒であることを否認した "前科" があるという意味では、それにふさわしい人間っぽさがあるとも言える。フィリップス・コレクションの Web Site の解説によると「ゴヤは使徒の絵をほとんど描かなかったが、彼はこの絵をスペインを離れてフランスのボルドーに旅立つ(つまり移住する)直前に描いたと推定できる」とのことです。画家の何らかの思いがもっているのでしょう。

 マネ 

Spanish Ballet - Manet.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
スペイン・バレエ」(1862)
Spanish Ballet
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

1862年にパリで公演したスペイン舞踊団「カンプルビー座」を描いた作品です。公演に感動したマネは休演日に一座を自分のアトリエに招いてデッサンをし、この絵を完成させたといいます。No.36「ベラスケスへのオマージュ」に、マネが33歳の時に(この絵の3年後)スペインに旅行してベラスケスに感激したことを書きましたが、スペインへの憧れは以前から強かったことを感じさせます。

画面には女性2人、男性6人の合計8人が描かれていますが、描き方の程度の差が鮮明で、左奥の2人はほとんど描かれていない状態です。対して最もはっきりと存在感があるのは椅子に腰掛けている女性で、プリマ・バレリーナというのでしょうか。背景は無いに等しく、白灰色と暗茶色の2色に塗り分けられているだけです。その中で白と黒との強烈なコントラストが、スペイン舞踊の熱気を伝えています。

 ゴッホ 

The Road Menders - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
道路工たち」(1889)
The Road Menders
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

道路の補修工事をする人たちを描いたサン・レミ時代の作品で、場所はサン・レミの街路です。この絵の黄色系の色の使い方と筆致は、No.157「ノートン・サイモン美術館」でとりあげた同時期の『桑の木』(1889)に良く似ています。もちろん『道路工たち』の木は街路樹なので桑ではありません。日本だと黄葉する街路樹と言えばまず銀杏イチョウですが、フランスなのでプラタナスかマロニエ(トチノキ)か何かでしょう。それにしては幹の樹形が少々違いますが(特に奥の方の木)、もちろん実物どおりに描くわけではなく、ゴッホはこのように感じたということだと思います。

黄葉した樹木と落ち葉で、あたりは黄色の染まっています。『桑の木』もそうですが、画家は "一面の真っ黄色" に触発されてたように思います。道路工事をする人は、あくまで脇役のように見えます。

 ボナール 

The Palm - Bonnard.jpg
ピエール・ボナール(1867-1947)
棕櫚の木」(1926)
The Palm
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションの創設者のダンカン・フィリップスは、1920年代に当時のアメリカでは無名だったボナールに着目しました。そのボナール・コレクションはアメリカ随一と言います。

南フランスのル・カネ(カンヌの隣)にあった自分の別荘からの眺めを描いた作品です。遠景の海(カンヌの入り江でしょう)と中景の家並みは光の中に輝き、対照的に近景の棕櫚や木々は日陰になっています。それに従って中央下の女性も逆光になっていて、ちょっぴり幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 モディリアーニ 

Elena Povolozky - Modgiliani.jpg
アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)
エレーナ・パヴォロスキー」(1917)
Elena Pavolozky
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

エレーナはランス出身で、画家を目指してパリにやってきて、ロシア移民で画廊を経営しているパヴォロスキーと結婚したという経歴の女性です。モディリアーニの友人であり、金銭的な援助もしたといいます。この絵はまさにモディリアーニ的肖像画の典型で、ファンには見逃せない作品でしょう。

 ピカソ 

The Blue Room - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
青い部屋」(1901)
The Blue Room
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

このピカソの『青い部屋』は、『舟遊びをする人々の昼食』とともにフィリップス・コレクションの必見の作品です。と言うのも、これはピカソの "青の時代(1901-1904)" のごく初期の作品で、自殺した親友(カサヘマス)のアトリエで描いたとされる絵であり、この絵から青の時代が始まったとも言えるからです。我々は普通、ピカソの "青の時代" の作品と言うと、

社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち
悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情

のどちらか、あるいは両方が絵の主題になっていると考えます。フィリップス・コレクションと同じワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーに、その典型のような作品があります。「悲劇」という作品です(「海辺の貧しい家族」と呼ばれる)。

Tragedy - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
The Tragedy
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

日本で言うとポーラ美術館の『海辺の母子像 - 1902』がそのタイプの作品であり、このブログで取り上げた例だと『苦行者 - 1903』(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wallにある)や『シュミーズの少女 - 1903』(No.163「ピカソは天才か(続)」)がそうです。

しかしフィリップス・コレクションの『青い部屋』は少々違っています。つまり「社会的弱者」や「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情」がテーマになっていません。部屋の中で女性が入浴している(日本的感覚からすると行水をしている)姿ですが、これはドガかロートレックが描くモチーフです。後ろの壁の右の方に描かれているのはロートレックのポスターだといいます。入浴しているのが娼婦だとすると「社会の底辺で生きる人」でしょうが、それは絵からは分かりません。何気ない都会の部屋の風景です。ただし部屋が青く、青を多用した絵なのです。

思い出す絵があります。「悲劇」を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーにはもう一枚の "青の時代" の傑作があります。『グルメ』と題した作品で、これも "青の時代" の初期のものです。

Le gourmet - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
Le Gourmet
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

「食いしん坊の子供」という別名があるようですが、この絵の日本語タイトルをつけるなら "Le Gourmet" を意訳して「食いしん坊」がピッタリでしょう。何となくユーモアを感じるモチーフです。また青だけでなく暖色も使っている。

日本からフィリップス・コレクションを訪れる人は、必ずワシントン・ナショナル・ギャラリーへも行くはずです。その時には是非 "青の時代" の3作品を見比べましょう(展示してあったらですが)。その幅広さが分かると思います。なお、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには『サルタンバンクの家族』(1905)という "バラ色の時代" の代表作もあります。

 ホッパー:日曜日 

Sunday - Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
日曜日」(1926)
Sunday
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

一見してホッパーと分かる作品で、強い光が生み出すコントラストが際だっています。普段は人が行き交う都会の歩道が、日曜日の朝(だと思います)には人気がなく、全く違った様相を見せる・・・・・・。分かる感じがします。そこに葉巻をくゆらす男をポツンと配置することで、画家はアメリカの文明社会の "別の面" をすくいい取りたかったのだろうと思います。


アメリカン・モダンアート


フィリップス・コレクションの特色は、20世紀アメリカのモダン・アートが非常に充実していることです。というよりここは、MoMA(ニューヨーク近代美術館。1929年開館)より先にできたモダン・アートの殿堂という性格をもっているのです。その中から、創立者のダンカン・フィリップスと同世代の5人のアーティストを取り上げてみます。

 マーク・ロスコ 

Mark Rothko Room.jpg
ロスコ・ルーム
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションには、マーク・ロスコ(1903-1970)の作品だけが展示してある「ロスコ・ルーム」があり、これが美術館の大きな "ウリ" になっています。「ロスコの作品のみで出来上がった空間」は日本の川村美術館にもありますが、川村美術館のサイトの説明によるとそのような空間は世界に4つしかありません。

テート・ギャラリー(英:ロンドン)
川村美術館(千葉県佐倉市)
フィリップス・コレクション(米:ワシントン D.C.)
ロスコ・チャペル(米:ヒューストン)

の4つです。ロスコはこのような展示方法を強く望んだと言います。その意味で、日本のモダンアート愛好家は、是非ともまず佐倉に行くべきでしょう。

 ジョージア・オキーフ 

Red Hills - OKeeffe.jpg
ジョージア・オキーフ(1887-1986)
レッド・ヒル、ジョージ湖」(1927)
Red Hills, Lake George
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョージア・オキーフは夫と死別したあと、ニューメキシコ州の荒野に移り住んだことで有名です。それもあって、この絵はニューメキシコの風景を描いたものと一瞬思いますが、違います。ジョージ湖はニューヨーク州の北部にある湖で、オキーフは避暑によく訪れたといいます。

ジョージ湖の対岸の、夕日に染まる山並みを描いたものでしょう。まるで太陽の光が山々を透過してこちらに届いているように見えます。手の掌を太陽にかざしたような・・・・・・。山をこのように描いた画家はいないのではと思います。オキーフの独特の感性に惹かれる絵です。

 ジョン・マリン 

Quoddy Head - Marin.jpg
ジョン・マリン(1870-1953)
コディ・ヘッド、メイン州海岸」(1933)
Quoddy Head, Maine Coast
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョン・マリンは、ニューヨークの摩天楼や橋などの題材が多い画家・版画家ですが、この水彩画は、都会とは対象的なメイン州の岬を描いています。水彩画の名手と言われたマリンらしい作品です。

 アーサー・ダヴ 

Morning Sun - Dove.jpg
アーサー・ダヴ(1880-1946)
朝日」(1935)
Morning Sun
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

アーサー・ダヴは、ヨーロッパ画壇を含めても最も早く抽象画に取り組んだ画家と言われています。とくにアメリカの土地と自然に想を得たカラフルで有機的なフォルムの作品が多い。この絵はアーサー・ダヴの作品にしてはめずらしく具象的です。

 マージョリー・フィリップス 

最後にフィリップス・コレクションで印象に残った作品を一つ。マージョリー・フィリップスの「夜の野球」です。

Night Baseball - Marjorie Phillips.jpg
マージョリー・フィリップス(1894-1985)
夜の野球」(1951)
Night Baseball
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

マージョリー・フィリップスはダンカン・フィリップスの妻であり、画家です。フィリップス・コレクションの共同設立者と言えます。

この絵は野球のナイトゲームを題材にしたという点で、妙に記憶に残る絵です。他にこういうテーマの絵がないからでしょう。考えてみると野球のナイト・ゲームは、強烈な人工の光、それに照らされた緑の芝生、その上に散らばる白いユニフォーム、色とりどりの観客席、青黒い空など、"絵になる" 要素がいろいろあると言えます。そこをうまくとらえています。


生活空間に美術品を展示する


最初にも書きましたが、この美術館はコレクターの屋敷をそのまま美術館にしたものです。そこが、同じ個人コレクションでも冒頭にあげた6つの美術館とは違います。写真のように煉瓦造りの瀟洒しょうしゃな建物がそのまま美術館になっている。このような "私邸美術館" は、著名な美術館ではめずらしいのではと思います。ニューヨークのフリック・コレクションも私邸ですが(フェルメールが3枚もある)、石造りの威風堂々とした建物であり、生活空間という感じはしません。No.19「ベラスケスの怖い絵」で、ベラスケスの「インノケンティウス十世の肖像」を取り上げましたが、この絵があるローマのドーリア・パンフィーリ美術館も私邸です。ただこの "私邸" は "ドーリア・パンフィーリ宮殿" であり、その一部が "美術館" になっている。フリック・コレクション以上に生活空間という感じはしません。

その意味でフィリップス・コレクションは、ボストン美術館の近くにあるイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館や、ミラノのポルディ・ペッツオーリ美術館に近いものです。しかしフィリップス・コレクションの方が作品の年代やバリエーションも多様で、特に近代絵画やモダン・アートが充実しています。

生活の場と感じられる場所が、美術鑑賞には最適である・・・・・・。これは創立者のダンカン・フィリップスの信念だったようです。それはこの美術館の名称である "フィリップス・コレクション" にも現れています。冒頭にあげた "個人コレクションを出発点とする美術館" で、正式名称が "コレクション" なのはバーンズ・コレクションとここだけです(コートールドの正式名称は "コートールド・ギャラリー")。バーンズの場合はアルバート・バーンズが集めたコレクションだけを展示しているのだから名前通りですが、フィリプス・コレクションはダンカン・フィリップスのコレクションだけを展示しているのではありません。しかしここは「邸宅にコレクションを展示する場所」だと主張している。その "こだわり" が名称になっていると思います。

ここを訪れた人は、暖炉があり長椅子がありといった家庭的雰囲気が横溢する空間の中で、さまざまな年代のアートを鑑賞することになります。フィリップス・コレクションの最大の特色はこの点でしょう。

続く


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No.215 - 伊藤若冲のプルシアン・ブルー [アート]

No.18「ブルーの世界」で青色顔料(ないしは青色染料)のことを書いたのですが、その中に世界初の合成顔料である "プルシアン・ブルー" がありました。この顔料は江戸時代後期に日本に輸入され、葛飾北斎をはじめとする数々の浮世絵に使われました。それまでの浮世絵の青は植物顔料である藍(または露草)でしたが、プルシアン・ブルーの強烈で深い青が浮世絵の新手法を生み出したのです。絵の上部にグラディエーション付きの青の帯を入れる「一文字ぼかし」や、輪郭線を黒ではなく濃紺で刷るといった手法です(No.18)。プルシアン・ブルーが浮世絵に革新をもたらしました。

そして日本の画家で最初にプルシアン・ブルーを用いたのが伊藤若冲だったことも No.18「ブルーの世界」で触れました。その若冲が使ったプルシアン・ブルーを科学的に分析した結果が最近の雑誌(日経サイエンス)にあったので、それを紹介したいと思います。


伊藤若冲『動植綵絵』


宮内庁・三の丸尚蔵館が所蔵する全30幅の『動植綵絵』は、伊藤若冲の最高傑作の一つです。この絵を全面修復したときに科学分析が行われ、プルシアン・ブルーが使われていることが判明しました。その経緯を「日経サイエンス」から引用します。以下の引用で下線は原文にはありません。


伊藤若冲の代表作『動植綵絵』は、1999年度から6年間にわたり、大規模な修理が行われた。絹に描かれた絵から裏打ちの和紙をすべてはがし、新たに表装しなおす「解体修理」だ。作品を裏からも見ることができるまたとない機会にもなり、画面表裏からの様々な作品調査が平行して進められた。

調査の結果で最も驚きをもって受け止められたのは、作品の1つに、当時西欧から日本に伝えられたばかりの人工顔料、プルシアンブルーが用いられたいたことだ。明和3年(1766年)に描かれたとみられる「群魚図」の中のルリハタの絵である(引用注:「蛸」と「鯛」がある群魚図のうちの「鯛」)。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

群魚図(鯛).jpg
伊藤若冲『動植綵絵』より
「群魚図(鯛)」(1766)
(宮内庁 三の丸尚蔵館 所蔵)
絵の左下の隅に黒ずんだ濃紺色で描かれているのがルリハタである。黒ずんでいる理由は後述。

ルリハタ.jpg
ルリハタ
ハタ科の魚だが、鮮やかな青色の(瑠璃色の)体色と黄色の線が目立つ。"瑠璃" とはもともと仏教用語であり、鉱物としてはラピスラズリを意味する。ラピスラズリはウルトラマリン・ブルーとして西欧絵画の青に使われた。No.18「ブルーの世界」参照。

若冲の「群魚図」の分析に使われたのは「蛍光X線分析」という手法です。絵の表面に直径約2mmの微弱なX線をスポット照射します。そうするとそこにある元素が励起され、元の状態に戻るときに2次的なX線(=蛍光X線)を出します。元素が出す蛍光X線のエネルギーは元素ごとに決まっているので、どんな元素が存在するかが分かります。


『動植綵絵』全30幅の919ポイントに照射したところ、ルリハタの濃紺色の部分に鉄の存在を示すピークが現れた(下図)。鉄を含む青色であればプルシアンブルーの可能性が高い。当時、日本で青色の彩色に使われていたのは主に、藍銅鉱という鉱石を粉末にした群青か、植物からとった藍だ。いずれも鉄を含まない。

(同上)

蛍光X線スペクトル.jpg
ルリハタの蛍光X線スペクトル
鉄のピークがみられる。一般的な青色顔料である群青(藍銅鉱)や藍に鉄分は含まれない。Ca(カルシウム)のピークは下地に塗った胡粉を示している(胡粉は貝殻を砕いて作る)。
(日経サイエンス 2017.10 より)

分析を担当した早川康弘氏(東京文化財研究保存修復センター = 東文研)は、当初このデータを見落としていたといいます。というのも、プルシアン・ブルーが絵の具として頻繁に使われるようになったのは江戸時代末期の19世紀になってからであり、若冲が使っていたとは思われなかったからです。


日本に初めてプルシアンブルーが輸入されたの延享4年(1747年)である。このときは全量がオランダに返送され、日本で消費されたのは宝暦2年(1752年)からだ。1760年代までに輸入された量は全体で2.5ポンド(約1.3kg)で、極めて稀少な品だったとみられる。

絵画に用いたのはそれまで、平賀源内が1770年代前半に油彩「西洋夫人図」のドレスの胸元の模様を描いたのが最も早い例だとみられていた。本草学者で蘭学者、大名たちとも親交のあったマルチタレントの源内がいちはやく西洋の絵の具を入手し、西洋の技法で描いた絵に用いたというのは想像しやすい。だが西洋の素材や技法とあまり縁のない若冲が、その5年以上も前に使っていたというのは意外感がある。

(同上)

では、プルシアン・ブルーだと断定するにはどうするのか。江戸時代に輸入されて現在も残っているプルシアン・ブルーがあります。それと比較分析をします。


早川氏らは、ルリハタの絵を別の方法で調べてみることにした。絵の表面に白色光を照射し、反射光のスペクトルを測定する分光分析だ。古典的な手法だが、プルシアンブルーの同定にはよく用いられる。比較対照として、19世紀に鍋島藩で購入された「紅毛群青」を用いた。こちらはX線回折によってプルシアンブルーの結晶構造が確認されている。

結果は明快だった。400~850nm の広い波長域で反射率があまりかわらないプルシアンブルーに特徴的なスペクトルが得られ、鍋島藩の試料とも一致した。若冲は確かに、プルシアンブルーを使ってルリハタを描いたのだ。この結果は2009年、東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において公表された。

(同上)

可視分光スペクトル.jpg
ルリハタの可視分光スペクトル
400~850nm の広い波長域で反射率があまり変わらない。プルシアン・ブルーに特徴的な可視光スペクトルである。
(日経サイエンス 2017.10 より)







プルシアン・ブルー
この色はRGB値が "192f60"(16進数)であるが、あくまで一例である。実際に顔料・染料として使う方法によって色は変化する。


プルシアン・ブルーの合成


プルシアン・ブルーは世界初の合成顔料です。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、その発見は18世紀初頭のベルリンでした。当時ベルリンはプロイセン領だったので「プロイセンの青=プルシアン・ブルー」と呼ばれたのです。江戸時代の日本では「ベロ藍」ですが、ベロとはベルリンの意味です。その発見は全くの偶然でした。


「群魚図」から遡ること60年前の1706年ごろ、ベルリンの錬金術師ディッペル(Johann C. Dippel)の工房の一角で、染料・顔料の製造業者ディースバッハ(Johann J. Diesbach)が、カイガラムシから抽出した赤い色素、コチニールからレーキ顔料を作ろうとしていた。

(引用注) コチニールはカイガラムシから作る赤色の色素で、かつては絵の具のクリムゾンやカーマインに使われた。レーキ顔料とは、水溶性の顔料を何らかの方法で不溶性にしたもの。不溶性にすることをレーキ化と言う。

作業にはアルカリが必要だったが、たまたま切らしていたため、ディッペルから拝借した。ディースバッハがそのアルカリと硫酸鉄をコチニールに加えたところ、鮮やかなブルーが現れた

2人はさぞ驚いたに違いない。どのような反応が起きたのかはわからなかったが、予想外の青色が生じた原因がディッペルから借りたアルカリにあったことは推測できた。ディッペルは錬金術師であるだけでなく、神学者でかつ医者でもあった。動物の角や骨、血液などにアルカリを加えて乾留した「ディッペル油」を作り、薬品原料として売っていた。乾留後はアルカリを水に溶かして回収し、再び乾留に用いた。ディースバッハに渡したのは、すでに何度か乾留に使ったアルカリの炭酸カリウム溶液だった。

(同上)

動物の角や骨や血液などから作った油というのは、いかにも錬金術師が作りそうな "あやしげな" ものですが、まさにそこがこの発見物語のポイントです。ディースバッハが作ろうとしていた赤色染料・コチニールは、青色=プルシアン・ブルーの出現には関係ありません。「動物由来の成分が溶け込んだ炭酸カリウム液」と「硫酸鉄」が鍵です。日経サイエンスの記事によるとプルシアン・ブルーが生成した過程は次のようです。

ディッペルが動物の角や骨、血液などに炭酸カリウム液を加えて加熱したとき、骨や血液に含まれる炭素(C)と窒素(N)からシアン化物イオン(CN-)が生成し、それが炭酸カリウムと反応してシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)がきた。

シアン化カリウムが血液や鉄製の反応容器の含まれる鉄分(Fe)と反応して黄血塩(フェロシアン化カリウム。その名の通り黄色)ができた。

黄血塩に硫酸鉄が加わってプルシアン・ブルーができた。

日経サイエンス2017年10月号には、上記の過程をそのままに再現した実験が載っていて、見事にプルシアン・ブルーができています。それを使って画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵も掲載されています。

プルシアン・ブルーで描いたルリハタ.jpg
日経サイエンスにはプルシアン・ブルーを発見当時の製法で再現した実験が載っている。用いた動物原料は豚のレバーである。この絵は実験で作ったプルシアン・ブルーを用いて画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵。紙の上に描かれている。
(日経サイエンス 2017.10)

プルシアン・ブルーの結晶構造.jpg
プルシアン・ブルーの結晶構造
2価の鉄(Fe2+。黄色の丸)と3価の鉄(Fe3+。赤色の丸)が交互に結晶を作っている。
(日経サイエンス 2017.10 より)

プルシアン・ブルーの結晶の特徴は、2価の鉄(Fe2+)と3価の鉄(Fe3+)が交互に結晶を作っていることです。このように酸化度が違う金属が混在している結晶では、電子はその金属に集まります。かつ、電子は2価の鉄と3価の鉄を間を容易に移動できる。移動するときに強い光の吸収が起き、普通の物質より鮮やかな色になります。プルシアン・ブルーの場合は橙色が吸収されて青く見えます。この青は非常に "強い青" です。


プルシアンブルーの色の強さは、天然顔料のウルトラマリンの10倍以上といわれる。画家の浅野信二氏は「少し混ぜただけで全体がこの色になる。古楽器の演奏にエレキギターを持ち込むような影響力」だと語る。安定で退色しにくく、天然由来の顔料と違って確実に同じ色を作れるのも利点だ。

(同上)

しかし "強い色" は欠点にもなります。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、19世紀のフランス画壇ではプルシアン・ブルーは危険な色とされ、扱いには注意が必要だったようです。No.18に書いたことを再掲します。


プルシアン・ブルーは印象派の画家が好んで使った色です。印象派は「影にも色があることを発見した」とよく言われますが、ルノアールの有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876。オルセー美術館) には、その影や衣服の表現にプルシアン・ブルーが使われています。またゴッホもこの色を好みました。アルル時代の傑作である「星降る夜」(1888。オルセー美術館)にもプルシアン・ブルーが使われています。時代が進んで、ピカソ・20歳台のいわゆる「青の時代」の諸作品は、プルシアン・ブルーを他の色とまぜて多様な青を作り出しています。この時期のピカソは深い青を特に好んだようです。

しかし、プルシアン・ブルーは次第に使われなくなり、あとで開発されたコバルト・ブルーなどの合成青色顔料にとって代わられました。それは「プルシアン・ブルーは使い方が難しい」色だったからです。パリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長は、次のようにインタビューに答えています。

  とにかく、プルシアン・ブルーは使いこなすのが難しい色です。たとえば1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。その美しさにもかかわらず、使い方がとても難しい色なのです。

ルノワールもこの色の難しさに気づいて、画家仲間に注意書きのメモを残したと言います。油絵は浮世絵と違って色と色を混ぜ、かつ重ね塗りをします。プルシアン・ブルーは油絵にとっては「危険な色」なのです。しかし巨匠たちはその危険な色に挑み、名画を生み出しました。危険を承知で挑む強烈な魅力がこの顔料にあったということでしょう。



プルシアン・ブルーの歴史


日経サイエンスの記事に戻って、プルシアン・ブルーの歴史をまとめると、以下のようになります。

(1706年)ベルリンでディッペル(錬金術師)とディースバッハ(染料・顔料業者)がプルシアン・ブルーを偶然に合成。

2人はプルシアン・ブルーの製造を開始。製法は秘匿した。1712年頃には「需要に応えきれない」との手紙が残っている。

(1724年)英国の学者がドイツから入手したプルシアン・ブルーの製法を学術誌に発表。プルシアン・ブルーの科学的研究が始まる。

(1747年)日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入された。この時は全量が返送されたので、実質的な最初の輸入は1752年。

(1766年)伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使用。

(1770年代前半)平賀源内が油彩画「西洋夫人図」にプルシアン・ブルーを使用。

(19世紀~)プルシアン・ブルーが浮世絵に多数使用される。たとえば葛飾北斎の『富嶽三十六景』であり、その制作・出版は1823年頃~1835年頃。

(19世紀~)印象派の画家が好んで使用。ピカソも「青の時代」の絵に多用。

(2009年)東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において、伊藤若冲がプルシアン・ブルーを使ったことが公表された。


1回きりのプルシアン・ブルー


ただし、伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使った理由は謎が残ると、日経サイエンスの記事は言います。


ひとつ疑問が残っている、なぜ伊藤若冲はこのルリハタに、プルシアンブルーを使ったのだろうか? しかも絵の具の上から墨を筋状に重ね塗りしており、もとの色があまりわからない。「この色なら、若冲のパレットにあるほかの絵の具で簡単に作れる」と東文研の早川氏は首をかしげる。貴重品だったプルシアンブルーをわざわざ使う理由が見当たらない。プルシアンブルーは若冲のほかの作品では見つかっていない。1回限りの実験だったのか。私たちが知らない理由があったのか。その点は謎のままだ。

(同上)

記事に「1回限りの実験か」と書いてありますが、実験ではないでしょう。『動植綵絵』は若冲の禅の師である大典顕常だいてんけんじょうがいる京都・相国寺に寄贈した絵です。若冲にとって "渾身の作" だろうし、事実、その出来映えは最高傑作と呼ぶにふさわしい。いいかげんな気持ちでプルシアン・ブルーを用いたはずがないと思います。当時は貴重で高価な絵の具です。初めて使う絵の具ということは、何度も下絵を書いて発色の具合を調べたはずです。そして『動植綵絵』に用いたと考えられる。

若冲がプルシアン・ブルーを用いたのは1回きりです。なぜかを推測すると、これは "自分には向かない絵の具" だと思ったからではないでしょうか。引用した画家の浅野信二氏やパリの絵の具専門店の店長の発言にあるように、プルシアン・ブルーは極めて "強い絵の具" であり、もっと言うと "危険な絵の具" です。上に引用したパリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長の発言をもう一度思い出すと、

1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。」

でした。近接して塗った絵の具を "食ってしまうほどの強力な青色" なのです。

一方、若冲の『動植綵絵』はどうでしょうか。この絵には「裏彩色うらざいしき」の技法が駆使されていることが分かっています。再び「日経サイエンス」から引用します。


共同で調査に当たった宮内庁三の丸尚蔵館の太田彩・主任研究官は、若冲を「色に執着した画家」と評する。例えば絹の裏面に色を置くと、表から絹目を通して見ることでやわらかい色になる。「裏彩色」と呼ばれる技法で、表から色を重ねるとさらに複雑な表情が生まれる。調査によって、若冲が『動植綵絵』に緻密な裏彩色を施していることが明らかになった。無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされていたのだ。

「若冲は、自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」と太田氏はいう。絵の具は質の良いものをふんだんに使い、どう使うとどのような色が生まれるのかを詳細に研究していた

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月

最も有名な裏彩色の技法は『動植綵絵』の「老松白鳳図」ですね。絹地の表から白、裏から黄を塗ることで、鳳凰の羽が金色に見えるという驚きの効果を生み出してます。その裏彩色は「老松白鳳図」だけではないのです。裏打ちしてある和紙を全部はがす解体修理をしてみると、南天の実、紅葉の葉にまで裏彩色が使われていた。この事実を考えると、若冲は『動植綵絵』以外の絵でも裏彩色を多用しているはずです。

そこでプルシアン・ブルーです。推測すると、プルシアン・ブルーは「裏彩色の技法が利かない絵の具」なのではないでしょうか。あまりに強い色であり、他の色を食ってしまうために・・・・・・。だとすると、裏彩色を駆使して「自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」若冲にとっては "使いにくい色" ということになります。実は若冲は、プルシアン・ブルーの性質(=難しさ)を良く理解していたのではないか。画家仲間に注意書きのメモを残したルノワールのように。

さらに推測を重ねると、若冲が「群魚図」のルリハタにあえて「1回きりのプルシアン・ブルー」を使った理由は、この絵に「秘密を仕掛けた」のではと思います。裏彩色もそうですが、若冲の絵には "秘密" がよくあります。肉眼では判別しがたいような細かい点々を描き込むとか、絵の具を4回も塗り重ねる(日本画で!!)といったような・・・・・・。

渾身の作に、オランダから輸入されたばかりの高価で貴重な絵の具を "そっと" 使う。それはルリハタの美しい瑠璃色を描くにはピッタリでしょう。しかも上から墨を重ねて分からないようする。それによって「群魚図」のプルシアン・ブルーを "封印" し、そしてプルシアン・ブルーの使用そのものも封印してしまう。「1回きりの秘密を仕掛けた」という解釈が最も妥当だと思います。そしてその秘密は、描かれてから243年後に現代科学の分析手法で解き明かされたわけです。


プルシアン・ブルーの現在


顔料としてのプルシアン・ブルーは、その後に開発された合成顔料であるコバルト・ブルーやセルリアン・ブルー(No.4「プラダを着た悪魔」でアンディが着ていたセーターの色)などに押されて使われなくなりました。しかしプルシアン・ブルーは顔料とは別の用途で発展します。


プルシアンブルーには色のほかにもユニークな性質が2つあり、幅広い分野で機能性材料として利用されている。

1つは鉄イオンの酸化・還元によって色が変わることだ。この性質を利用した有名な例が、図面などによく使われる青写真だ。また電気で色が変わるエレクトロクロミック材料として、電子カーテン電子ペーパーにも応用されている。(中略)

もう1つは、ジャングルジム状の結晶構造の中に様々な陽イオンや分子を出し入れできることだ。放射性セシウムの吸着剤になるほか、リチウムイオン電池やカリウムイオン電池の正極材料としても期待されており、開発が進んでいる。

(同上)

プルシアン・ブルーが放射性セシウムの吸着剤やカリウムイオン電池の正極材料になることは、No.18「ブルーの世界」の「補記」に書きました。電子カーテンは透明から不透明に多段階に変化する "ガラス" で、ボーイング 787 の窓がそうです。787に乗ると窓の下にボタンが二つあって窓の透明度を変えられます。787 の窓の材料は非公開なのでプルシアン・ブルーが使われているかどうかは分かりませんが、こういう使い方も可能な機能性材料がプルシアン・ブルーです。プルシアン・ブルーが強い青を発色して顔料になるのは、あくまで一つの機能に過ぎないのです。



18世紀初頭のベルリンで、顔料・染料業者と錬金術師が全くの偶然で合成したプルシアン・ブルーを、フランス画壇の著名画家たちが使い、若冲や北斎も使い、浮世絵に革新を起こし、さらには東日本大震災からの復興に陰で役立ち(放射性セシウムの吸着剤)、今後は次世代電池に使うべく研究されている・・・・・・。

プルシアン・ブルーは今で言う "化学" で作り出されたものですが、その化学が作り出した "機能性材料の奥深さ" がよく理解できた記事でした。




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No.214 - ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲 第2番 [音楽]

No.209「リスト:ピアノソナタ ロ短調」からの連想です。No.209 において、リストのロ短調ソナタは "多楽章ソナタ"と "ソナタ形式の単一楽章" の「2重形式」だと書きました。そしてその2重形式を弦楽でやった例がツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』だとしました。今回はそのツェムリンスキーの曲をとりあげます。

ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」にオペラ作品『こびと』(原作:オスカー・ワイルド)と、それにまつわるエピソードを書きました。今回は2回目ということになります。


ツェムリンスキー(1871-1942)


アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)はウィーンに生まれたオーストリアの作曲家です。指揮者としても著名だったようで、ウィーンのフォルクス・オーパーの初代指揮者になった人です。作曲家としての代表作品は各種Webサイトに公開されているので省略します。

このブログで以前とりあげた当時のウィーンの音楽人との関係だけを書いておきます。まず、No.72「楽園のカンヴァス」でシェーンベルク(1874-1951)の「室内交響曲 第1番」について書きましたが、ツェムリンスキーの妹がシェーンベルクと結婚したため、ツェムリンスキーとシェーンベルクは義理の兄弟です。また No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」で書いたように、マーラー(1860-1911)の夫人のアルマはツェムリンスキーのかつての恋人でした。No.9「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲」で書いたコルンゴルト(1897-1957)はツェムリンスキーに作曲の指導を受けた一人です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲第2番 - LaSalle(LP - DG 1978).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲 第2番」Op.15
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1978(LP)

以降、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』がどういう構成になっていて、どういう主題や動機が出てくるのかを順にみていきたいと思います。

括弧内の数字の表記で(1-122:122)の "1-122" は "第1小節から第122小節まで" の意味で、":122" と書く場合は "合計が122小節" あることを示します。"(122)" であれば "第122小節" の意味です。


第1楽章(1-122:122)


『弦楽4重奏曲 第2番』は演奏に40分程度かかりますが全曲に切れ目はなく、続けて演奏されます。しかし実質的には "4つの楽章を続けて演奏する曲" と見なすことができます。以下は4楽章に分けて曲の流れを追っていきます。ただし作曲家が楽章の切れ目を明示しているわけではないので、人によって少々の解釈のズレが生じるでしょう(後述)。

 主題とその展開(1-104:104) 

まず冒頭は第1ヴァイオリンの譜例81で始まります。この冒頭4小節の後半2小節を《主題》と呼ぶことにします。この《主題》は以降さまざまに変奏されながら、最後の第4楽章まで随所に現れます。特に楽章の切れ目には必ず《主題》が回帰し、次の楽章への "橋渡し" となります。また第4楽章の最後も《主題》の変奏で締めくくられます。その意味で、これは『弦楽4重奏曲 第2番』の全体を支配する動機です。

 ◆譜例81(1-4) 《主題
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ここでは、冒頭の(1-2)は「主題の前触れ」であり(3-4)が《主題》であると考えています。もちろん4小節全体を主題としてもいわけです。第1楽章を「ソナタ形式」だとすると、ソナタ形式は「主題の提示・展開・再現」という構造なので、この第1楽章の場合、2小節だけの「序奏」があり、2小節の「主題の提示」があって、第5小節目からすぐに「展開」が始まると考えられるでしょう。「再現」もちゃんとあります(後述)。

  以降の記述では原則として「主題」も「主題の変奏」も区別せずに《主題》と書くことにします。後の第2楽章の《副主題》についても同様です。

音が次第に速く強くなっていき、フォルテの譜例82に続いてフォルテシモの譜例83が現れます。

 ◆譜例82(11-12)
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 ◆譜例83(16-17)
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譜例82の動機はこのあとの第1楽章で何回か現れます。また譜例83の動機は第4楽章の再現部に現れます(後述)。譜例83のすぐあとに続くのが《主題》のリズムを少し変えた譜例84です。

 ◆譜例84(23-25) 《主題
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このあと曲は静かになり、第1ヴァイオリンが奏でる主題の変奏が続きますが、再び《主題》が復帰してきます(譜例85)。

 ◆譜例85(41-43) 《主題
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譜例85は主題の後半を取り出したものです。この動機が第1ヴァイオリンで繰り返されて譜例86へと続きます。譜例86は譜例82が変形されたものです。そのあとには符点音符のリズムがたびたび現れ、ついには4つのパートが符点音符のリズムをフォルテシモで演奏する譜例87に至ります。

 ◆譜例86(50-51) [譜例82の変奏]
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 ◆譜例87(75-76)
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符点音符のリズムが8小節続いたあとに現れるのが、同じフォルテシモの譜例88です。このあと曲は譜例82(または譜例86)の変奏を経たあとに譜例89に至ります。譜例89は譜例88を短縮した音型になっています。と同時に、譜例88と譜例89は主題の変奏形と言っていいでしょう。譜例89のあたりは第1楽章の「主題とその展開」の最後の部分です。

 ◆譜例88(83-84)
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 ◆譜例89(99-100) [譜例88の変奏]
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 主題の再現(105-122:18) 

突如として譜例90の《主題》が再現し、第1楽章の再現部に入ります。この再現部は18小節の短いものです。またその中に次の第2楽章の副主題の断片も現れます。従ってこの18小節は、第1楽章から第2楽章への "移行部分" です。また譜例90のところから第2楽章が始まると考えて、18小節は "第2楽章の序奏" だと見なすこともできるでしょう。

 ◆譜例90(105-110) 《主題
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このように楽章の転換部分、ないしは楽章の中の大きな区切りのところで《主題》が再現するのが、この弦楽4重奏曲の大きな特徴になっています。


第2楽章(123-360:238)


第2楽章はアダージョの緩徐楽章です。この楽章は「第1部」と「第2部」に分かれていて、各部の終わりに《主題》が再現します。

第2楽章で主要な動機を副主題と呼ぶことにします。ソナタ形式の用語の第1主題が《主題》、第2主題が副主題というわけです。この曲の場合、副主題は複数の副主題群を構成しています。以下ではそれを4つにわけ、副主題A,B,C,D と表記します。この4つは互いに関係しています。

 第1部(123-263:141)アダージョ 

まず第2楽章の冒頭に出てくるのが譜例91の《副主題A》です。この断片は第1楽章の「主題の再現」のところに出てきました。《副主題A》はこの曲には珍しく "息の長い" 旋律です。

 ◆譜例91(123-130) 《副主題A
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譜例91のすぐあとに5連符を含む特徴的な動機(譜例92)が出てきます。これを《副主題B》と呼ぶことにします。この音型は以降たびたび現れ、第4楽章の終結部でも重要な役割を果たします。《副主題A》と《副主題B》は「静と動の対比」と言えるでしょう。

 ◆譜例92(137-138) 《副主題B
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副主題B》は各パートで繰り返されますが、ヴィオラが《副主題A》を奏でたあと、その次に第1ヴァイオリンに現れるのが譜例93の《副主題C》です。

 ◆譜例93(156-157) 《副主題C
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副主題C》は《副主題A》と似ていて、変奏と言ってもよいでしょう。譜例93は第1ヴァイオリンのパートですが、同時に第2ヴァイオリンに《副主題B》が付随しています。

ちなみに、ラサール弦楽4重奏団が演奏したこの曲のCDの解説に、この《副主題C》はシェーンベルクの『浄められた夜(浄夜)』(1899)からの引用だとありました。確かに『浄夜』の第1部~第2部に似たような旋律が出てきます。単純な音型なので引用と断言するのは難しいはずですが、ツェムリンスキーはこの曲をシェーンベルクに献呈しているので、解説どおりなのでしょう。

そのあとに続くのが譜例94の《副主題D》です。この動機も以降さまざまに変形されて出てきます。第2楽章だけでなく、第3楽章(スケルツォ)の中間部(トリオ)も《副主題D》が主役です。

 ◆譜例94(161-163) 《副主題D
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第1ヴァイオリンが譜例95を演奏するあたりから、《副主題D》の変奏が始まります。まずチェロに譜例96が現れ、次にヴァイオリンの16分音符の早い動きに呼応してヴィオラに譜例97が現れます。ヴァイオリンの16分音符の動きは次第に高まっていき、譜例98のあたりになると第2楽章の「第1部」も最終段階です。

 ◆譜例95(180-182)
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 ◆譜例96(184-186) 《副主題D
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 ◆譜例97(201-202) 《副主題D
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 ◆譜例98(229-230)
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副主題A》の断片が現れたあとに、第1楽章冒頭の《主題》が再現し(譜例99)、第2楽章の「第1部」は終わります。まとめると「第1部」ではまず副主題群が提示され、《主題》で締めくくられました。

 ◆譜例99(254-256) 《主題
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 第2部(264-360:97)アダージョの展開部 

第2楽章の「第2部」は「アダージョの展開部」とも言えるものです。まず最初は、第1ヴァイオリンの《主題》です(譜例100)。それが発展していき、譜例101のところでチェロも《主題》を奏でます。

 ◆譜例100(264-265) 《主題
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 ◆譜例101(276-277) 《主題
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そのあとに譜例102が続きます。この動機は《副主題A》の断片と《主題》の断片をミックスしたような音型になっています。

 ◆譜例102(279-280)
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そのあと譜例103の《副主題B》が現れ、譜例104へと続きます。譜例104は譜例102を2度下げたものです。

 ◆譜例103(286) 《副主題B
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 ◆譜例104(292-293)
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さらにヴィオラと第1ヴァイオリンが印象的なリズムの譜例105を演奏します。このリズムは継続してチェロの譜例106にも引き継がれます。

 ◆譜例105(299-300)
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 ◆譜例106(307-308)
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 ◆譜例107(315)
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ヴィオラが譜例107の動機を演奏し、同時にチェロは譜例105の変化形をヴィオラより高い音域で演奏します。このあたりから「第2部」はクライマックスに向かいます。譜例105,6,7の音型がさまざまに変容し、音の跳躍もあり、3連符も多数現れて最高潮を迎えます。そして音楽は静かになっていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

譜例108の《主題》が再現して、第2楽章「第2部」の再現部となります。このあと《副主題B》《副主題C》も再現し、第2楽章全体が終わります。

 ◆譜例108(348-349) 《主題
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第1楽章から第2楽章へと移る部分と同じく、この《主題》が再現する部分(348-360:13)は、第2楽章から第3楽章への "移行部分" です。従って譜例108のところから第3楽章が始まり、第3楽章には13小節の序奏が付いていると考えてもよいと思います。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(CD - DG 1989).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団
Deutsche Grammophone 1989(CD)
(録音は1977~1981)


第3楽章(361-744:384)


第3楽章はいわゆるスケルツォです。この楽章も「第1部」と「第2部」に分けて考えるのが分かりやすいと思います。第3楽章に出てくる主要な動機4つをスケルツォ動機A,B,C,D と呼ぶことにします。

 第1部(361-450:90)スケルツォ 

第3楽章はチェロの重音のピツィカートが鳴って始まります。ピツィカートは2回ですが、1回目だけがスフォルツァンドで目立ちます。

まずヴィオラに出てくるのが譜例109の《スケルツォ動機A》です。これは明らかに《主題》の最初の小節の変形です。その次に第1ヴァイオリン伸びやかな《スケルツォ動機B》を演奏します。その後、曲は《スケルツォ動機A》を中心に進んでいきます。

 ◆譜例109(364-367) 《スケルツォ動機A
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 ◆譜例110(382-386) 《スケルツォ動機B
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 第2部(451-744:294)スケルツォの展開部 

譜例111の《スケルツォ動機C》が現れるところから「第2部」に入ります。この「第2部」は、A1→B→A2の3部形式になっています。以下、その表記をします。

 第2部・A1(451-631:181) 

この「A1」の部分は譜例111の《スケルツォ動機C》(第1ヴァイオリン)と、それに続いて現れる譜例112の《スケルツォ動機D》が支配しています。

 ◆譜例111(451-452) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例112(459-460) 《スケルツォ動機D
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これらの《スケルツォ動機A,C,D》の音型やリズムの断片がさまざまに変奏され、「A1」を形づくっていきます。その中に、2つのヴァイオリンとヴィオラが同時に演奏する「下降のグリッサンド」がありますが、特徴的で目立つところです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

譜例112から約100小節後の譜例113のあたりになると、第2部の「A1」も終わりに近づきます。そして譜例114の《スケルツォ動機B》が復帰したのち、曲は次第に静かになって「B(中間部)」へと移っていきます。

 ◆譜例113(574-577)
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 ◆譜例114(604-608) 《スケルツォ動機B
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 第2部・B(632-682:51) 

「B(中間部)」はチェロだけの音で始まります。最初に出てくるのは譜例115の《副主題D》です。

 ◆譜例115(636-640) 《副主題D
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この中間部は、《副主題D》→《スケルツォ動機A》→《副主題D》→《スケルツォ動機B》という構成です。

 第2部・A2(683-744:62) 

再び譜例116の《スケルツォ動機C》が戻ってきて3部形式の「A2」になります。「A2」は「A1」に比べて約3分の1の長さです。3連符が連続したあとには譜例117の《スケルツォ動機D》も復帰します。

 ◆譜例116(683-684) 《スケルツォ動機C
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 ◆譜例117(720-721) 《スケルツォ動機D
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スケルツォ動機C,Dは符点音符のリズムが特徴的ですが、このリズムが繰り返されてからスケルツォ動機Aが復帰し、そのあと突如として《主題》が回帰して第4楽章に突入します。


第4楽章(745-1221:477)


第4楽章は「再現部」「展開部」「終結部」の3つに分けるのが考えやすいでしょう。最初の「再現部」は、曲全体を「単一楽章のソナタ形式」と考えたときの「再現部」に相当します。

 再現部(745-823:79) 

まず第1ヴァイオリンに譜例118の《主題》が再現します。このあと、第2楽章「第1部」で提示された4つの副主題が順に再現します。まずヴィオラに譜例119の《副主題A》が現れ、その次に第1ヴァイオリンに譜例120の《副主題B》が現れます。そして譜例121の《副主題C》、譜例122の《副主題D》と続きます。

 ◆譜例118(745-747) 《主題
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 ◆譜例119(758-765) 《副主題A
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 ◆譜例120(767-768) 《副主題B
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 ◆譜例121(777-778) 《副主題C
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 ◆譜例122(783-785) 《副主題D
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曲は高揚していき、フォルテシモの譜例123になります。これは第1楽章の譜例83と同じ動機です。その後《主題》の断片が演奏されるなか、再び譜例123の動機が出てきて再現部は終わりに近づきます。

 ◆譜例123(801-802) [譜例83の変奏]
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 展開部(824-1136:313) 

Allegro molto の譜例124がフォルテシモで演奏されて、第4楽章の「展開部」に入ります。この譜例124は《副主題D》の変化形といえるでしょう。

 ◆譜例124(824-826) [副主題Dの変化形]
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第4楽章の「展開部」には、ここだけに現れる2つの特徴的な動機があります。それを《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》と呼ぶことにします。譜例125が《フィナーレ動機A》で、このリズムは展開部に入る直前にも出てきました。また譜例124の直後もこのリズムです。譜例125の次に出てくるのが《フィナーレ動機B》です(譜例126)。この2つの動機は「展開部」にたびたび現れます。

 ◆譜例125(835-836) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例126(859-861) 《フィナーレ動機B
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フィナーレ動機B》が展開されたあと、曲は静かになり、チェロが譜例127を演奏します。この音型は《副主題A》と《副主題D》の断片がミックスされたような感じです。そのあと、はっきりとチェロが《副主題A》を演奏し(譜例128)、第1ヴァイオリンへと引き継がれます(譜例129)。

 ◆譜例127(894-902) [副主題A,Dの変形]
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 ◆譜例128(912-919) 《副主題A
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 ◆譜例129(932-939) 《副主題A
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再び最初のテンポ(Allegro molto)に戻って、チェロが単独で《フィナーレ動機B》を演奏します(譜例130)。ここからは《フィナーレ動機A》と《フィナーレ動機B》がさまざまに発展して曲が進みます(譜例131,132,133)。

 ◆譜例130(949-951) 《フィナーレ動機B
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ◆譜例131(990-991) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例132(1028-1029) 《フィナーレ動機A
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 ◆譜例133(1034-1036) 《フィナーレ動機B
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この展開が進むうちに《副主題A》の断片が挟みこまれてきます。そして明瞭な形で譜例134の《副主題A》が第1ヴァイオリンに出てきます。そして《フィナーレ動機B》が展開されたあと《副主題D》が出てくるあたりになると(譜例135)、第4楽章の展開部も終わりに近づきます。

 ◆譜例134(1091-1093) 《副主題A
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 ◆譜例135(1109-1112) 《副主題D
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 終結部(1137-1221:85) 

 ◆譜例136(1138-1141) 《主題
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ヴィオラに先導されて譜例136の《主題》が第1ヴァイオリンに回帰し、第4楽章の「終結部」が始まります。しばらくして Andante の譜例137が出てきます。これは《主題》の変奏ですが、gesangvoll(歌うように)という指示があります。弦楽4重奏曲 第2番は40分に及ぶ長大な曲ですが「歌」を感じるほとんど唯一の部分がここです。

 ◆譜例137(1167-1176) [主題の変奏。"歌うように" の指示]
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そのあと、ヴィオラに譜例138の《副主題B》が出てくると、各パートがこの動機を競います。その間、譜例139の《副主題C》が出てきます。そして《副主題C》と《副主題B》が融合した譜例140に至ります。曲は最終段階です。

 ◆譜例138(1177) 《副主題B
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 ◆譜例139(1192-1195) 《副主題C
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 ◆譜例140(1202-1204) 《副主題C,B
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全曲の最後において、第1ヴァイオリンはE線(第1弦)の高い方の「ラ」の音から、高い方の「レ」の音へと登り詰めます。その間、第2ヴァイオリンが《主題》を長調に変奏した譜例141を静かに奏でます。そして最後の2小節は譜例142の二長調の主和音で終わります。

 ◆譜例141(1215-1219) 《主題
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 ◆譜例142(1220-1221) [最終2小節の和音]
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最後の譜例142は4つのパートを合わせたものですが、第1ヴァイオリンだけが単音で、3つのパートは重音です。合計7つの音の和音ですが、第1ヴァイオリンのE線の高い方のレの音から、第2ヴァイオリンのD線のファ♯の音までは3オクターブに近い音の開きがあります。この形の二長調の主和音が『弦楽4重奏曲 第2番』の到達地点です。

ツェムリンスキー:弦楽4重奏曲全集 - LaSalle(Brilliant Classics 2010).jpg
ツェムリンスキー
「弦楽4重奏曲全集」
ラサール弦楽四重奏団(CD)
Brilliant Classics 2010


"3重形式" の弦楽4重奏曲


楽曲の形式の観点から振り返りますと、上の説明は "4楽章の弦楽4重奏曲" という視点ですが、これを "ソナタ形式の単一楽章の曲" と見なすことができます。この曲は "多楽章" と "単一楽章" の「2重形式」だと初めに書きましたが、その通りなのです。その構造を図示すると次のようになるでしょう。①~⑦ は《主題》が提示され、再現・回帰する箇所です。

4楽章の見方 単一楽章の見方
第1楽章 提示部

主題と展開

第2楽章
副主題群
(第1部)
展開部

展開
(第2部)
第3楽章
  スケルツォ1  


  スケルツォ2  
(3部形式)
第4楽章 再現部
再現
展開
終結

ポイントとなっているのは第2楽章が2つの部分に分かれていて、その第2部が《主題》から始まっていることです。ここからが "ソナタ形式の単一楽章曲" と考えたときの「展開部」に相当するわけです。

さらにこの曲の構成は別の見方もできます。上の表をみると《主題》は ① ~ ⑦ の合計7回出てきます。ちなみに ⑦ は第4楽章の終結部の《主題》を示していますが、終結部の最初(譜例136)と最後(譜例141)に現れることは説明に書いた通りです。

これはいわゆる「ロンド形式」です。つまり「ロンド主題」が何度も回帰し、そのあいだに「ロンド主題とは別の要素」が挟み込まれるという楽曲の形式です。この曲の場合《主題》が「ロンド主題」となり、その「ロンド主題」のあいだに「ロンド主題とは別の要素」である「副主題群」や「スケルツォ動機」、「フィナーレ動機」などが挟み込まれる形です。

これは意図的にそうなっているのだと思います。「多楽章」と「ソナタ形式の単一楽章」を重ね合わせるだけだと、たとえば③や⑤や⑦(終結部の開始の⑦)で《主題》を回帰させる必要はありません。それがなくても "2重形式" は成立するからです。作曲家は明らかに「何度も回帰する」ことの効果を狙っています。以上を総合するとこの曲は、

4楽章の弦楽4重奏曲
ソナタ形式の単一楽章曲
ロンド形式の単一楽章曲

の3つの形式感が重なり合った "3重形式" の曲だと言えるでしょう。これを可能にしているのは、この曲の《主題》が持つ力です。この動機を変形・変奏することによって多くの動機やモチーフが作られています。聴いていて「主題の回帰」なのか「主題の展開・発展」なのか、どちらにもとれるようなところがいろいろあります。全体として受ける印象は、

  渾然とした一体感と、明晰な形式感が同居している曲

です。この曲は40分間、ブッ続けで演奏されます。これだけ長いと聴くにしても集中力が途絶えがちになるはずです。それを最後まで "もたせて" しまうツェムリンスキーの力量に感心します。



伝記によると、ツェムリンスキーは晩年のブラームス(1833-1897)の薫陶を受けた人です。自分の作品をブラームスに見てもらってアドバイスを求めたこともあると言います。そのブラームスを彷彿とさせるところが、この曲にはあります。つまり、

  比較的少数の短い動機が、幾たびの変奏や発展をとげ、それらが精密に組み立てられて、全体としては壮大な構造物になる

というところが、ブラームスの作品(シンフォニーや室内楽)とよく似ていると思うです。さらに言うと、ベートーベンからつながるドイツ正統派音楽の太い流れを感じます。そういう意味では、同じウィーンで活躍したリヒャルト・シュトラウス(1864-1949。ツェムリンスキーの7歳年上)やシェーンベルク(3歳年下)も同様です。「明晰な形式感」はそのあたりからくるのでしょう。


人の原始的な感性に訴える


「ドイツ正統派音楽の流れ」にある一方で、この曲は全体が短い動機やその展開形・変奏形で埋め尽くされているのが特徴です。息の長い旋律はほとんどありません。美しいメロディーがあるのでもない。

曲は、連想ゲームや尻取り遊びのように次々と変化していきます。常に揺らいでいる感じがあり、不意に変動すると思えるところも多い。これは人のある種の意識状態にマッチするところがあります。つまり、

明白に言語化できない感情や意識の変化を音楽化した感じ

夢うつつの状態での意識の移ろいを音にした感じ

がするのです。「言語化できない」とか「夢うつつ」と書きましたが、そこまでいかなくとも、人には「別に集中して考えるのではなく、いろんな想念をあれこれと思いめぐらしている状態」があります。一つの例を言うと、たとえば日曜日の午後に近くの公園を散歩し、ベンチにたたずんで半分ボーッとしながら、どこを見るともなく想いを巡らしているとします。家族のこと、仕事のこと、公園の風景や聞こえてくる音、自分の過去や将来など、特に脈絡があるというわけではなく、あれこれと連想し、頭に思い浮かべている状態です。ツェムリンスキーのこの曲は、たとえばそういう時の人間の意識を音楽化している感じがします。

その意味ではマーラーの音楽に近いとも言える。「常に揺らいでいて、不意に変動する」ところなど、非常に近いと思えます。しかしマーラーとは違うところがあります。No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」に書いたように、マーラーの音楽は「ドイツ音楽の主流の形式感」を意識的に崩したところが多々あります。そこがマーラーの魅力なのですが、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』にはそういうところがありません。これは「崩れたところがない音楽」です。がっちりとした形式感のなかで、無意識に近いような人間の心の動きを音楽にした感じ・・・・・・。これが大きな特徴でしょう。



別の観点からですが、本曲に出てくる動機はほとんどが短調の動機です。調性が曖昧なものも多いのですが、"短調っぽい" 音型が続きます。人間の感情で言うと「悲しみ」「不安」「苦悩」に近いものです。これにはこの曲が書かれた時代の反映もあるのかと想います。

この曲は1914年7月に着手され、翌1915年3月12日に完成しました。世界史を思い出すと、この時期は第1次世界大戦の勃発と重なっています。オーストリアの皇太子がサラエボでセルビア人民族主義者に暗殺さたのが発端となり、オーストリアがセルビアに宣戦布告したのが1914年7月28日で、ここから第1次世界大戦が始まりました。つまり母国が戦争に突入した時期に書かれた曲が『弦楽4重奏曲 第2番』です。そういった世相も反映しているのでしょう。

しかし、この曲はそれだけではありません。短調の短い動機や音型が連続したそのあと、最後の最後で「歌うように」と指示がある息の長い旋律が出てきます(譜例137=《主題》の変奏形)。その転換点で曲は長調の雰囲気を次第に強め、そしてはっきりと長調になり、最後は二長調の主和音で静かに終わります。譜例137(1167小節目)のところから最後までは、僅か51小節です。全曲の1221小節の中の24分の1にすぎません。

僅かだけれども、最後に歌があり、長調になり、静謐で安らぎを感じる二長調の主和音で終わるのは、作曲家の思いを反映しているのでしょう。それは人間の心情で言うと「希望」とか「救い」に近い何かです。

しかし、最後の二長調の主和音(譜例142)には特徴があります。4つの弦楽器が奏でる7音の和音ですが、第1ヴァイオリンが高音(1弦の高い方のレ)で、あとの6つの音は低い音域にあります。その間には約3オクターブの "間隙" がある。"静謐" "安らぎ" "希望" "救い" とは言うものの、何となく "空虚な感じ" が含まれているように感じます。このことを含め、弦楽4重奏曲 第2番の一番の聞き所は譜例137から最後までの51小節かも知れません。


弦楽4重奏曲の傑作


この曲は "3重形式" が示すように「音楽理論で作られた」という感じがします。聴いていて受ける印象としては、冷静、鋭利、怜悧、はっきりとした輪郭、計画性というようなものがまずある。しかしもう一方で「人間の原始的な感情に訴える」という感じもして、この両者が不可分に融合しています。"音楽学" でありながら "音楽" になっている。

時代は全く違いますが「音楽の父」のバッハにもありますね。フーガ理論の実践訓練のような曲だけれど、それが意外にも聴く人の心を揺さぶる・・・・・・。不思議といえば不思議です。No.62「音楽の不思議」に書いたように、音楽はきわめて人工的なものです。音階などは数学そのもので、No.62 では「1オクターブが12音なのは、3の12乗が最も2の累乗と近くなるからだ」と書きました。その人工物が人間の心を揺さぶり、しかも意識下に近い心の動きと共鳴する力を持っている。音楽の奥深さをあらためて感じます。

ベートーベンが弦楽4重奏の金字塔を打ち建てて以降、このジャンルでは幾多の作品が書かれてきました。ちょっと思いだすだけでも、ブラームス(3曲)、シューベルト(15曲)、ドボルザーク(14曲)、バルトーク(6曲)、ショスタコーヴィッチ(15曲)などがあります。その他にも、ボロディンの『弦楽4重奏曲 第2番』(第3楽章のノクターンは有名)とか、チャイコフスキーの「弦楽4重奏曲 第1番」(第2楽章がアンダンテ・カンタービレ)とか、ウェーベルンの「弦楽4重奏のための緩徐楽章」などの珠玉のような名曲がある。

それらの中でも、ツェムリンスキーの『弦楽4重奏曲 第2番』は屈指の名曲だと思います。"屈指" というより、もし「ベートーベン以降の弦楽4重奏の傑作を1曲だけあげよ」と言われたなら、是非ともこの曲をあげたいと思います。




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No.213 - 中島みゆきの詩(13)鶺鴒(せきれい)と倒木 [音楽]

前回の No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」では、India Goose(= インドがん)という詩にちなんで "鳥" が出てくる中島みゆきさんの楽曲を振り返りました。これはオリジナル・アルバムとして発表された作品の範囲であり、また、漏れがあるかも知れません。

実は前回、鳥が出てくる中島さんの楽曲で意図的にはずしたものがありました。2011年に発表された38作目のアルバム『荒野より』に収められた《鶺鴒(せきれい)》という曲です。今回はその曲をテーマにします。まず題名になっている鶺鴒せきれいという鳥についてです。


セキレイ(鶺鴒)


セキレイ(鶺鴒)はスズメより少し大型の、日本で普通に見られる鳥です。自宅近くの県立公園でも見かけます(セグロセキレイ)。鳴き声もスズメをちょと長くした "チュ~ン" というような感じです。ピンと伸びた長い尾が特徴で、この尾をしばしば上下に振る習性があります。それが地面をたたくようにも見える。セキレイのことを英語で Wagtail と言いますが、wag は振る、tail は尻尾で、セキレイの習性を言っています。

"鶺鴒" とは難しい漢字ですが「角川 大字源」によると、"鶺" は "たたく"(=拓、啄)、"鴒" は "打つ" の意味だとあります。地面をたたく・打つように長い尾を上下させる習性を字にしたようです。この中国名をそのまま音読みをしたのがセキレイです。

セキレイは "セキレイ科" の鳥の総称で、日本で一般的に見られるのはセグロセキレイ(背黒鶺鴒。日本固有種。Japanese Wagtail)、ハクセキレイ(白鶺鴒)、キセキレイ(黄鶺鴒)の3種です。以下にこの鳥の美しい姿を掲げます。

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セグロセキレイ(背黒鶺鴒)
自宅近くの公園のセグロセキレイを見ていると、尾を振る頻度は個体差がだいぶある。首を前後に振りながらすばしっこく走るのも特徴的。羽の裏側は白く、飛び立つときに羽の黒と白が交錯する姿が印象的である。画像はWikipediaより(以下同じ)。

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ハクセキレイ(白鶺鴒)

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キセキレイ(黄鶺鴒)


鶺鴒(せきれい)


中島さんの詩を見ていきたいと思います。《鶺鴒(せきれい)》は、2011年11月16日に発売された38作目のアルバム『荒野より』に収められた曲で、その年の夜会 Vol.17「2/2」(2011.11.19 ~)でも歌われました。次のような詩です。


鶺鴒(せきれい)

1.
心許無く見るものは 野の花僅か草の花
それでも何も無いならば
きのえがく花よ咲け
絵描きの描く花よ咲け

心許無く聴くものは 野の鳥僅か草の鳥
それでも何も無いならば
母御ははごの唄う歌よ咲け
母御の唄う歌よ咲け

永遠とわに在れ山よ 永遠に在れ河よ
人は永遠に在らねど 咲きのこれよ心

2.
心許無く鶺鴒せきれいの ゆく空帰る空を見る
それでも泣けてくるならば
涙の水たまりを見る 涙に映る空を見る

心許無く鶺鴒の 呼ぶ声返す声を聴く
それでも泣けてくるならば
子を呼ぶ人の声を聴く 人呼ぶ人の声を聴く

永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

永遠に在れ空よ 永遠に在れ国よ
人は永遠に在らねど 咲き継がれよ心

心許無く鶺鴒の
心許無く鶺鴒の

A2011『荒野より

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中島みゆき
荒野より」(2011)
①荒野より ②バクです ③BA-NA-NA ④あばうとに行きます ⑤鶺鴒(せきれい) ⑥彼と私と、もう一人 ⑦ばりほれとんぜ ⑧ギヴ・アンド・テイク ⑨旅人よ我に帰れ ⑩帰郷群 ⑪走(そう)

この詩は、合計6回繰り返される「心許無く」という言葉がキーワードとなっています。「心許無い」(心許ない、心もとない)は日常生活でも使う言葉で、

不安だ
心配だ
気がかりだ

という心情をいいます。自分のことについて言うし、他人のことにも使います。その「不安で、心配で、気がかり」なムードが、この詩の全体を覆っています。「心許無い」に続く言葉は、1番の詩では、

  心許無く見るものは 野の花僅か草の花
心許無く聴くものは 野の鳥僅か草の鳥

です。この詩は言葉が省略されているところがあるので、補って解釈する必要があります。その意味を丁寧に書いてみると、

  不安な気持ちで野を見れば
花は僅かになり、草の花だけになった
不安な気持ちで耳をすませば
鳥も僅かになり、草むらの鳥だけになった

ということでしょう。これに続く言葉は

  それでも何も無いならば

です。この詩は最初の2行に「無い」という言葉が2回も出てきます。これで漂うのは "喪失感" です。冒頭の「心もとない」という言葉から受ける "不安感" に、さらに "喪失感" が加わる・・・・・・。この雰囲気が詩の全体を支配しています。

詩によると「何も無いところ」があるわけです。つまり「花も無いし鳥も無い」ところがある。そのときに人はどうすればよいのか。そのときには「絵描きの描く花」を見たり「母の唄う子守歌」を聴いたりするのです。絵も子守歌も人間の営みです。花や鳥が無くても見たり聴いたりできる。そして、この状況をふまえて永遠にあって欲しいと願うものが、



人の心

だと、1番が結ばれています。

2番になって、題名になっている鶺鴒が初めて出てきます。鶺鴒は以前と同じように空を飛び、さえずっている。しかしその美しい姿を見たり声を聴いたりしても「泣けてくる」のです。そして泣けてくるときには「涙の水たまり」や「涙に映る空」を見たり、「子を呼ぶ人の声」や「人を呼ぶ人の声」聴いたりする。ここでも人の営みがあげられています。そして1番に呼応して、この状況で永遠に継承して欲しいもの、そう祈りたいものが、



人の心

だと結ばれています。この「国」という言葉が一つのキーワードです。永遠にあって欲しいと願わざるをえないもの、それは「山」「河」「人の心」「空」ときて、その次に「国」です。「国」とは国土という意味でもあり、そこで営まれる人々の生活という意味でもあるのでしょう。

詩の最後の「心許無く鶺鴒の」は、途中で言葉が切れています。あとに続く言葉は聴く人が想像すればよいわけで、普通に考えれば「鶺鴒の飛ぶ空を見る、鶺鴒のさえずる声を聴く」でしょうが、「鶺鴒の行き交う川辺をみる」でも「鶺鴒の姿を見て涙ぐむ」でもよいわけです。そこは聴く人に任されています。



この詩は、2011年3月11日に起こった出来事とそれに続く一連の事態を念頭に作られたというのが自然な解釈だと思います。2011年3月11日からの一連の事態で我々が目にしたのは、多数の犠牲者とともに "国土の喪失" です。永遠にではないにせよ、また完全にではないにせよ国土が喪失した。ここでの "国土" とは自然環境であり、人々の記憶と思い出が詰まった故郷ふるさとです。《鶺鴒》はこの状況をふまえて中島さんが書いた詩でしょう。題名になっている "鶺鴒" は美しい自然環境の象徴だと思います。

《鶺鴒(せきれい)》をこのように解釈すると、どうしても連想する詩があります。《鶺鴒》の翌年(2012年)に発表された《倒木の敗者復活戦》です。


倒木の敗者復活戦


《倒木の敗者復活戦》は、2012年10月24日に発売された39作目のオリジナル・アルバム『常夜灯』に収録された曲です。つまり《鶺鴒》の1年後に発表された曲ということになります。次のような詩です。


倒木の敗者復活戦

1.
打ちのめされたら 打ちひしがれたら
値打ちはそこ止まりだろうか
踏み倒されたら 踏みにじられたら
答はそこ止まりだろうか

光へ翔び去る翼の羽音はおと
地べたで聞きながら

望みの糸は切れても
救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦

あざわらえ英雄よ
わらうな傷ある者よ
傷から芽を出せ 倒木の復活戦

2.
叩き折られたら おとしめられたら
宇宙はそこ止まりだろうか

完膚無かんぷなきまでの負けに違いない
誰から眺めても

望みの糸は切れても
救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦

勝ちおごれ英雄よ
おごるな傷ある者よ
傷から芽を出せ 倒木の復活戦
傷から芽を出せ 倒木の復活戦
傷から芽を出せ 倒木の復活戦

A2012『常夜灯

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中島みゆき
常夜灯」(2012)
①常夜灯 ②ピアニシモ ③恩知らず ④リラの花咲く頃 ⑤倒木の敗者復活戦 ⑥あなた恋していないでしょ ⑦ベッドルーム ⑧スクランブル交差点の渡り方 ⑨オリエンタル・ヴォイス ⑩ランナーズ・ハイ ⑪風の笛 ⑫月はそこにいる

一見してわかるようにこれは "倒木" が何かの象徴になっている詩、あるいは "倒木" に何かを代表させた詩です。一つだけ日常ではあまり使わない言葉があります。「完膚無かんぷなき」です。完膚かんぷとは「傷のない完全な皮膚」という意味なので、「完膚無き」は「無傷のところがない」ということになります。

これ以外は分かりやすい言葉が使われていて、内容もシンプルで力強くストレートな詩です。そして思うのですが、多くの中島みゆきファンの方は "倒木" を "東北" として聴いているのではないでしょうか。おそらく、そのように受け取られることを想定して作られた詩という感じがする。

しかしこの詩において "倒木" をそのまま "東北" と解釈するのは無理があります。なぜなら「東北は敗者ではない」からです。数百年に一度の大災害で多数の人命が失われ、国土が壊滅状態になったとしても、それが敗者だとは言えません。敗者復活戦というのは、あくまで対等な条件で闘って破れた者が勝利を目指して再戦するというものです。

"倒木" なら「敗者」とか「敗者復活戦」という比喩はありうると思います。たとえば台風の暴風雨で街路樹の一部が根こそぎ倒れたり、幹が途中で折れたりすることがあります。ほとんどの樹木が台風に耐えたのに、一部が倒れた。風速30メートル程度の風には耐えてしかるべきなのに、倒木になってしまった。それを「敗者」とか「敗者復活戦」と表現するのはアリだと思います。管理されている街路樹は植え替えるので "復活" は無いでしょうが、山林の中の倒木なら再生はありうる。倒木の養分をもとに新たな木が芽生える「倒木更新」という現象もあります。

やはりこの詩は、人生において "敗者になった" と感じた人が再起をかけて行動を起こすことへのメッセージ(= 望みの糸は切れても / 救いの糸は切れない)だと考えるのが妥当だと思います。それを "倒木" と "敗者復活" という言葉で表した。

そうはいうものの、4回繰り返される(最後に3回繰り返される)、

  傷から芽を出せ 倒木の復活戦

を聴いていると、"倒木" は "東北" のことだと思えてくるのですね。もし仮に題名が《倒木の復活戦》であり、詩の文言に「敗者」がまったく無かったとしたら、完全に "倒木" は "東北" と思えたでしょう。しかしそうではなく「敗者」という言葉が使われているし、また「英雄」と「傷ある者」が対比されている。

中島さんの詩は使う言葉が慎重に選ばれています。ここは言葉どおりに「倒木が敗者で、その "傷ある者" の復活」とまず受け取るのが正しいと思います。それを拡大解釈するのは聴き手の自由です。中島さんは、2016年に出したベスト・アルバム『前途』のセルフ・ライナーノートで《倒木の敗者復活戦》について次のように書いています。


あまりにも悲惨だった2011年東日本大震災は、世の中の例に洩れず私の作品に於いても、当時発表を控えたり、表現を変更せざるを得ない事態が、いくつか起きた。

そんな中で、逆にこの曲の「倒木の」が「東北の」と聴きとれるとして受け入れていただく結果になったのも、大震災の影響のひとつであったと思われるが、それはそれで、否定するまでもないと、考えている。

中島みゆき
A2016『前途』
セルフ・ライナーノート

この文章の後半の主旨を箇条書きにすると、

そのようなつもりは無かったのだが、
"倒木"="東北" と受け取る人が出てきた。
それはそれで良しとしたい。

ということでしょう。この最初の「そのようなつもりは無かった」というのは本当にそうなのでしょうか。詩人としてはあたりまえですが、中島さんは言葉の使い方に鋭敏です。音の響きや言葉の連想性を重視することも多い。「詩の全体の構成からすると "倒木"="東北" ではないが、当然そのような連想が働くだろう」と想定してこの詩を書いたのだと思います。



《鶺鴒》と《倒木の敗者復活戦》は、2011年3月11日に始まる状況を念頭に書かれたと思えるのですが、この流れにあると考えられるのが前回の No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」で書いた《India Goose》です。


India Goose


《India Goose》は2014年11月12日に発売された40作目のオリジナル・アルバム『問題集』の最後に収録された曲でした。詩の内容を短く要約すると、

  "弱さ" をもった鳥の群が困難な目標に立ち向かう(現実の生態としてはインド雁がヒマラヤ山脈を越える)

というものです(No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」参照)。この《India Goose》は《倒木の敗者復活戦》の "続編" のように思えます。改めて3つの詩を並べると次の通りです。

  鶺鴒荒野より2011.11.16
  倒木の敗者復活戦常夜灯2012.10.24
  India Goose問題集2014.11.12

中島さんは2013年にはオリジナル・アルバムを出していません。つまりこの3作品は連続する3つのオリジナル・アルバム(第38、39、40作)で発表された曲ということになります。これらは一連の流れの中にあるのではないでしょうか。つまり、

  状況の認識と祈り鶺鴒
    ↓ ↓
  復活の始まり倒木の敗者復活戦
    ↓ ↓
  困難な目標への挑戦India Goose

という "ワンセットの作品" として聴くことができると思います。中島さんは社会と人間の関わりに焦点を当てた作品を多く書いています。その中島さんが 2011年3月11日とその後に起こったことをふまえた詩を書くのは当然だし、むしろ書いてしかるべきという気がします。No.212「中島みゆきの詩(12)India Goose」の最後に、ここで描かれた "India Goose"(ヒマラヤを越える鳥)は "何か" の象徴と書きました。その "何か" とは 3.11 に起因する困難を乗り越えようとしている人々、というのが(一つの)解釈です。もちろんそれがすべてではないでしょうが、有力な解釈であることは間違いないでしょう。



No.35「中島みゆき:時代」の「補記」に書いたのですが、歌手の一青窈ひととようさんや八神純子さんは《時代》を東日本大震災の被災地で歌って聴衆に感銘を与えました。プロの歌手で他にもこういうケースがあると思います。またそれ以前に、数々のアマチュア合唱団、中高校の合唱部の生徒が被災地で《時代》を歌っています。この状況を中島みゆきさんはつぶさに知っているはずです。

自分の原点とも言える作品が被災地で歌われ、聴衆が涙を流しながら聴いている・・・・・・。作品を作ったアーティストがこの状況を黙って見過ごすなどありえないでしょう。それに呼応して自ら新たな作品を作ろうとするはずです。必ずそうすると思います。中島さんとしては義務感さえあったのかもしれません。


社会と人間


No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」に書いたのですが、中島さんは社会との関わりをテーマにした詩をいろいろ書いています。つまり、

社会と人間の関係
社会の中でひたむきに生きる人間
現代の社会状況

などをテーマにした詩です。No.67ではそれらの題名をあげ、また引用もしました。さらに No.130「中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録」で引用した《僕たちの将来》もそういうタイプの詩でした。これらをリストすると次のようになります。

  アザミ嬢のララバイ1976-私の声が聞こえますか
  彼女の生き方1976-みんな去ってしまった
  世情1978-愛していると云ってくれ
  狼になりたい1979-親愛なる者へ
  エレーン1980-生きていてもいいですか
  傾斜1982-寒水魚
  ファイト!1983-予感
  僕たちの将来1984-はじめまして
  ショウ・タイム1985-miss M.
  忘れてはいけない1985-miss M.
  白鳥の歌が聴こえる1986-36.5℃
  吹雪1988-グッバイ ガール
  ひまわり“SUNWARD”1994-LOVE OR NOTHING
  流星1994-LOVE OR NOTHING
  4.2.3.1998-わたしの子供になりなさい
  小さき負傷者たちの為に2010-真夜中の動物園
  鷹の歌2010-真夜中の動物園

あくまで個人的見解なので、他にもっとあると思います。このリストは2010年のアルバム『真夜中の動物園』で終わっているのですが、リストの最後に付け加えるべきなのが、

  鶺鴒2011-荒野より
  倒木の敗者復活戦 2012-常夜灯
  India Goose2014-問題集

だと思います。この3作品において人は主役ではありません。題名になっているのは鳥(=鶺鴒、インド雁)と樹木(=倒木)です。社会との関連を示すような言葉もほとんどありません(ただ一つ《鶺鴒》に "国" が出てくる)。しかしこの3作品は 2011年から 2014年の社会状況をふまえた詩であり、そこで懸命に生きる "困難に直面した人たち" に寄り添った詩でしょう。それは深読みかも知れないが、是非そう考えたいと思います。

日本のシンガー・ソングライターで、かつメジャーなアーティストで、社会と人間の関係性をテーマにずっと詩を書き続けているのは中島さんぐらいではないでしょうか。やはり中島みゆきというアーティストは希有な存在である。そのことを改めて思います。




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No.212 - 中島みゆきの詩(12)India Goose [音楽]

前々回の No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」では恐竜から鳥への進化に関する最新の研究成果を紹介しました。その中で、鳥は恐竜から引き継いだ "貫流式" の肺をもっていて、極めて効率的に酸素を吸収できることを書きました。その証拠に、ヒマラヤ山脈を越えて渡りをする鳥さえあります。そして全くの余談として、中島みゆきさんがヒマラヤ山脈を越える "インド雁" をモチーフにして作った曲《India Goose》に触れました。

「恐竜から鳥への進化」と「中島みゆき」は何の関係もないのですが、このブログでは過去に12回、中島みゆきの詩について書いているので、思わず余談を書いたわけです。そこで《India Goose》という詩についてです。


インド雁


まず India Goose とは何かですが、そのまま訳すと "インドのがん、ないしは鵞鳥" で、これは「インド雁(学名 Anser Indicus)」という鳥のことです。学名の Anser は雁、Indicus は "インドの" という意味なので、英訳すると India Goose になります。ただし英語ではインド雁のことを "Bar-headed goose" と言います。名前のごとく頭に黒い縞(=bar)があるのが特徴で、他の雁とはすぐに見分けられます。

インド雁(Wikipedia).jpg
インド雁
(Wikipedia)

インド雁はモンゴル高原が繁殖地で、冬は越冬のためにインドで過ごします。この間、ヒマラヤ山脈を越えて往復することが知られています。

  以下の記述は、BBC New(Web版)2015.1.15「Bar-headed geese : Highest bird migration tracked」によります。

話は半世紀以上前に遡ります。1953年、ヒラリー郷とテムジンは世界で初めてエベレスト(チョモランマ)の登頂に成功しました。この時の登山隊の中にジョージ・ロウというニュージーランドの登山家がいたのですが、彼は「エベレストを越えていく雁を見た」と語ったのです。

鳥がなぜ標高9000メートル近いところを飛行して渡りができるのか、科学者の興味を惹いてきました。BBC Newsの記事(2015.1.15)には、イギリス、ウェールズのバンゴー大学のチームの調査結果が報告されています。チームはモンゴル高原でインド雁にGPSとセンサーをつけ、飛行経路、高度、雁の体の動きを計測しました。その分析によると、インド雁の飛行高度は最高24,000フィート(7,300メートル)に達したそうです。これならエベレスト(8848メートル)を越えるのもうなずけます。さらに調査の結果として次のようなことが指摘してあります。

インド雁は追い風に乗ることはない。
滑空飛行をしないで羽ばたき続ける。17時間も羽ばたき続けた鳥がいた。
しばしば夜間に飛行する。夜は気温が低いが空気の密度が高く、昼間に飛ぶよりエネルギーの節約になる。

エベレストの頂上程度の高度だと、気圧は平地の3分の1しかありません。従って酸素の密度も3分の1です。しかも気温はマイナス10~40度です(飛行機に乗ったときの外気温表示を見ればわかる)。人間の登山家なら酸素ボンベをしょってエベレストに登ります。現在までにエベレストに登頂した人は4000人を越えるはずですが、無酸素で登頂した人は確か数人だったと思います。

このような過酷な条件の中で17時間も羽ばたき続けるというインド雁の能力は驚異的です。これは単に貫流式の肺が効率的に酸素を吸収できるというだけでなく、筋肉に酸素を送る仕組みや老廃物を分解する機能など、多くのことが関係しているのでしょう。羽毛の断熱効果も見逃せません。

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ヒマラヤを飛行するインド雁2(BBC).jpg
ヒマラヤを飛行するインド雁
(BBC - Youtube)

なおインド雁とおなじようにヒマラヤ山脈を越えて渡りをする鳥に、小型の鶴であるアネハヅル(姉羽鶴)があります。これについては2016年10月17日のNHK BSプレミアム、ワイルドライフ「アネハヅル 驚異のヒマラヤ越えを追う」で放映(アンコール放送)されました。

アネハヅル(Wikipedia).jpg
アネハヅル(姉羽鶴)
ツルの中でも最小の種で、翼開長は100-140cm程度である(ちなみにタンチョウヅルは200-240cm)。
(Wikipedia)

ヒマラヤを飛行するアネハヅル(NHK).jpg
ヒマラヤを飛行するアネハヅル
(NHK - ワイルドライフ)


India Goose


そこで中島みゆきさんの《India Goose》です。この曲は2014年に発表された40作目アルバム『問題集』の最後の曲として収録されました。次のような詩です。


India Goose

次の次の北風が吹けば
次の峰を越えてゆける
ひとつひとつ北風を待って
羽ばたきをやめない

さみしい心 先頭を飛んで
弱い心 中にかばって
信じる心いちばん後から
歌いながら飛ぶよ

ほら次の雪風にあおられて
小さな小さな鳥の列がなぎ払われる
小さな小さな鳥の列が組み直される

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

強い鳥は雪が来る前に
既(すで)に峰を越えて行った
薄い羽根を持つ鳥たちは
逆風を見上げる

いつの風か約束はされない
いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう
羽ばたきはやまない

ほら次の雪風にあおられて
小さな小さな鳥の列がなぎ払われる
小さな小さな鳥の列が組み直される

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
飛びたて 飛びたて 夜の中へ

A2014『問題集

中島みゆき「問題集」1.jpg

中島みゆき「問題集」2.jpg
中島みゆき
問題集」(2014)
①愛詞 ②麦の唄 ③ジョークにしないか ④病院童 ⑤産声 ⑥問題集 ⑦身体の中を流れる涙 ⑧ペルシャ ⑨一夜草 ⑩India Goose

とりあえず言葉どおりに受け取ってよい詩、ストレートで、真っ直ぐな直球という感じの詩です。思うのですが、この詩にある、

いちばん強い逆風だけが
高く高く峰を越えるだろう
羽ばたきはやまない
飛びたて 夜の中へ

という表現は、"科学的" というか、BBC News にみるようなインド雁の生態と合致しているのですね。中島さんも調べて書いているのだと思います。それはさておき、この詩の特徴は、

さみしい心
弱い心
小さな小さな鳥の列
薄い羽根

という言葉使いでしょう。鳥はヒマラヤを越えるほどの "強靱さ" があると同時に、ある種の "弱さ" を持っているのです。このあたりから受けるイメージは、《India Goose》の30年前に発表された《ファイト!》を思い起こさせます。


ファイト!

・・・・・・・

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

・・・・・・・・
A1983『予感

「冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」とは、川を遡上する魚に見立てた表現ですが、魚をテーマにした作品は他にもありました。


サーモン・ダンス

・・・・・・・・

生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ

・・・・・・・・
A2005『転生

この2つの詩には「ふるえながら」や「涙」があり、《India Goose》の「さみしい心」「弱い心」「薄い羽根」との類似性が明らかだと思います。そもそも中島さんの詩には

弱い立場にある者が
厳しい環境の中
目的、ないしは目標方向に進む
そこに共感のメッセージを送る

というタイプの詩がいろいろあったと思います。《India Goose》はそれらの頂点に位置づけられるでしょう。

しかしここで気になるのは鳥が主人公だということです。中島作品には "鳥" がしばしば登場するのですが、鳥が主人公というのはそう多くはない。さらにこの《India Goose》は中島作品における "鳥" の新しいイメージではないかと思うのです。

そこで、これを機会に過去からの中島さんの詩における "鳥" の扱われ方を振り返ってみたいと思います。"中島みゆき 鳥類辞典" を作ったらどうなるか。


カモメ


中島さんの詩に "鳥" がいろいろ出てきますが、繰り返し何回も出てくる鳥はカモメです。そもそもファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)からカモメが出てきます。


渚便り

・・・・・・・・

風とたわむれながら
カモメが一羽
波から波のしぶきを
越えて ひくく 飛んでゆく

サヨナラの物語
やさし歌に 変えて
甘い調べを ささやきながら
漂ってゆくわ

・・・・・・・・
A1976『私の声が聞こえますか

《渚便り》は "恋の終わり" の詩ですが、それを "渚" が癒してくれるという内容で、その癒してくれるものの一つがカモメです。3枚目のアルバム『あ・り・が・と・う』にもカモメが出てきました。


朝焼け

・・・・・・・・

繰り返す 波の音の中
眠れない夜は
独り うらみ言 独りうらみ言並べる
眠れない夜が明ける頃
心もすさんで

・・・・・・・・

かもめたちが 目を覚ます
霧の中 もうすぐ
ああ あの人は いま頃は
例の ひとと 二人

・・・・・・・・
A1977『あ・り・が・と・う

これは失恋した女性(というか、男をとられた女)の心情です。一睡もできない夜があけ、朝焼けを迎える。カモメの鳴き声が聞こえ始めた、という情景です。

《渚便り》も《朝焼け》も海辺、ないしは海に近い場所が背景になっています。もちろんカモメはそいういう場所に多いのですが、河口から遡って街に現れることもある。18枚目のアルバム『夜を往け』にそういう詩がありました。


3分後に捨ててもいい

3分後に捨ててもいいよ
通りがかりゆきがかり
知らない話にうなずいて
少しだけ傍にいて

身代わりなんかじゃないけどさ
似てる人を知ってるわ
恋と寂しさの違いなど
誰がわかるのかしら

・・・・・・・・

こんなビルの隙間にも
白いカモメが飛んでいる
紙きれみたいな人生が
ねぐら探している

あぁ 流れてゆく車のヘッドライトは天の川
あぁ 流れてゆく人の心も天の川
3分後に捨ててもいいから
いまだけ傍にいて

・・・・・・・・
A1990『夜を往け

行きずりの男と(おそらく)ホテルの一室にいる情景です。ふと窓の外を眺めるとクルマのヘッドライトの流れの上を一羽のカモメが飛んでいる。その一瞬にかいま見た紙切れみたいな姿に自分の人生を重ね合わせる・・・・・・。「3分後に捨ててもいい』という "強烈な" タイトルであり、女性の "投げやり" で "あてどなく漂っている" 心情が綿々と語られるのですが、その中に一瞬だけ現れる(詩としては一回しか現れない)真っ白なカモメが効果的です。

カモメで最も有名な中島さんの曲は、セルフカバー・アルバム『御色なおし』に収録された《かもめはかもめ》でしょう。


かもめはかもめ

あきらめました あなたのことは
もう 電話も かけない
あなたの側に 誰がいても
うらやむだけ かなしい
かもめはかもめ 孔雀(くじゃく)や鳩や
ましてや 女には なれない
あなたの望む 素直な女には
はじめから なれない

・・・・・・・・
A1985『御色なおし
研ナオコへの提供曲(1978)

カモメがタイトルになっている曲は他にもありました。21枚目のアルバム『時代』(1993)に収録された《かもめの歌》がそうです。


かもめの歌

いつかひとりになった時に
この歌を思い出しなさい
どんななぐさめも追いつかない
ひとりの時に歌いなさい
おまえより多くあきらめた人の
吐息をつづって風よ吹け
おまえより多く泣いた人の
涙をつづって雨よ降れ

生まれつきのかもめはいない
あれは其処で笑ってる女
心だけが身体をぬけて
空へ空へと昇るよ

・・・・・・・・
A1993『時代

そのほかカモメが出てくる曲は、

  海と宝石A1985『御色なおし』
  白鳥の歌が聴こえるA1986『36.5℃』
  紅灯の海A1996『パラダイス・カフェ』
  裸爪(はだし)のライオンA2002『おとぎばなし』

がありました。工藤静香への提供曲である《激情》(1996)を中島さんはセルフカバーをしていないのですが、カモメが出てきます。


激情

2人になりたい 1つになりたい
心細さを見せずに生きるときも
かもめになりたい 空気になりたい
あなたを傷つけないものになりたい

・・・・・・・・


以上のように見てみると、中島作品におけるカモメのイメージは、

鳥の代表としてのカモメ
普通の鳥であり、際だった個性を感じるものではない
海と結びついて "癒される" というイメージをもつことがある
空を飛び回る自由な存在

といったところでしょう。中島作品において繰り返し出てくる鳥はカモメしかありません。鳥の代表であり、よく見かける普通の鳥としてカモメが位置づけられています。


名前のある鳥


中島作品においてカモメ以外に名前が明示してある鳥に、スズメがありました。


すずめ

・・・・・・・・

別れの話を する時は
雨降る夜更けに 呼ばないで
あなたと私の 一生が
終わるように 響くから

・・・・・・・・

雀 雀 私の心
あなたのそばを 離れたくない
なのに なのに ふざけるばかり
雀のように はしゃいでるばかり

・・・・・・・・

雀 雀 私の心
あなたのそばを 離れられない
呼んで 呼んで 雀のように
あなたのあとを 追いかけてゆくの

A1985『御色なおし
増田恵子への提供曲(1981)

スズメを観察すると「はしゃぐ」とか、他のスズメを「追いかける」ように見えることがあります。この詩はそんな雀を主人公である "私" の比喩に使ったものです。このように鳥を人間の形容に使った詩は他にもあります。

  あほう鳥A1978『愛していると云ってくれ』
  僕は青い鳥A1984『はじめまして』
  白鳥の歌が聴こえるA1986『36.5℃』
  ロンリー カナリアA1989『回帰熱』
  みにくいあひるの子A2002『おとぎばなし』
  鷹の歌A2010『真夜中の動物園』

などです。《白鳥の歌が聴こえる》(No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で引用)では、港町の夜の女性を "白鳥" と形容しています。白鳥は死ぬ前に美しい声で歌うという伝説があるので、そのイメージが重なっています。カナリアは "小さく弱い鳥" というイメージですが、《B.G.M.》(A1982 寒水魚)という曲にも、電話に出た恋敵の女性の声が「カナリヤみたい」と形容されていました(No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で引用)。また、《鷹の歌》については、No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で書いた通りです。これらはいずれも特定の人間を表現するのに鳥の名前を使ったものです。



一方、人間の形容ではなく、鳥そのものに意味を持たせ、鳥がテーマになっている、ないしはテーマに直結する重要な役割を担っている曲があります。"ツバメ" と" オジロワシ" です。

 ツバメ 

中島さんの最もよく知られている楽曲の一つに《地上の星》があります。ここではツバメが重要な役割をもっています。


地上の星

・・・・・・・・

地上にある星を誰も覚えていない
人は空ばかり見てる
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

・・・・・・・・
A2000『短篇集

我々はつい見過ごしてしまうけれど、地上にこそ「星」がある。それを、高い空にいるツバメは知っているはずだ、という詩の構成になっています。

 オジロワシ 

『短編集』(2000)の翌年にリリースされたアルバム『心守歌』(2001)では、寒帯に住む鳥、オジロワシがテーマとなりました。


ツンドラ・バード

お陽さまと同じ空の真ん中に
丸い渦を描いて鳥が舞う
あれはオジロワシ 遠くを見る鳥
近くでは見えないものを見る

寒い空から見抜いているよ
遠い彼方まで見抜いているよ
イバラ踏んで駈け出してゆけば
間に合うかも 狩りに会えるかも

・・・・・・・・
A2001『心守歌

オジロワシ(Wikipedia).jpg
オジロワシ(尾白鷲)
その名の通り、尾羽が白い。詩のタイトルにツンドラとあるように寒帯の鳥だが、北海道にも生息する。
(Wikipedia)

ツバメとオジロワシのイメージを書いてみると

空に舞い上がって自由に飛行し
地上のすべてを見通せる、知恵のある存在

といったところでしょうか。


無名の鳥


中島作品には単に "鳥" とあって名前は出てこないけれど、鳥が詩のポイントの一つになっているものがあります。


泥海の中から

・・・・・・・・

おまえが殺した名もない鳥の亡骸は
おまえを明日へ連れて飛び続けるだろう

・・・・・・・・
A1979『親愛なる者へ


小石のように

・・・・・・・・

旅をとめる親鳥たちは
かばおうとするその羽根がとうに
ひな鳥には小さすぎると
いつになっても知らない

・・・・・・・・
A1979『親愛なる者へ


春までなんぼ

・・・・・・・・

いらない鳥を逃がしてあげた
逃がしてすぐに 野良猫喰べた
自由の歌が親切顔で
そういうふうに誰かを喰べる

・・・・・・・・
A1984『はじめまして


やばい恋

閉じかけたドアから鳥が飛び込んだわ
夜のエレベーターは私一人だった
ナイフだと思ったわ ありうるわ この恋
頬をかすめて飛んだ小さな影
非常ベルが鳴り続けている 心の中ではじめから
いまさらどこでどんな人探せばいいの

・・・・・・・・
A1992『EAST ASIA


二隻の舟

・・・・・・・・

時流を泳ぐ海鳥たちは
むごい摂理をささやくばかり
いつかちぎれる絆見たさに
高く高く高く

・・・・・・・・
A1992『EAST ASIA

以上の、詩の一部を引用したものの他にも、"無名の鳥" が出てくる楽曲はいろいろあります。そのリストをあげておきます。

  忘れられるものならばA1976『みんな去ってしまった』
  ルージュA1979『親愛なる者へ』
  最後の女神S1993
  ひまわり“SUNWARD”A1994『LOVE OR NOTHING』
  伝説A1996『パラダイス・カフェ』
  You don't knowA1998『わたしの子供になりなさい』
  LAST SCENEA1999『月 - WINGS』
  後悔A2000『短篇集』
  天使の階段A2000『短篇集』
  夜の色A2009『DRAMA !』
  真夜中の動物園A2010『真夜中の動物園』
  リラの花咲く頃A2012『常夜灯』
  月はそこにいるA2012『常夜灯』

さらに中島作品には、"無名の鳥" が詩のテーマそのものになっている、ないしは詩の中で極めて重要な役割を果たしているものがありあます。《この空を飛べたら》と《鳥になって》です。


この空を飛べたら

空を飛ぼうなんて 悲しい話を
いつまで考えているのさ
あの人が突然 戻ったらなんて
いつまで考えているのさ

暗い土の上に 叩きつけられても
こりもせずに空を見ている
凍るような声で 別れを言われても
こりもせずに信じてる 信じてる

ああ人は昔々鳥だったのかもしれないね
こんなにもこんなにも空が恋しい

飛べる筈のない空 みんなわかっていて
今日も走ってゆく 走ってく
戻る筈のない人 私わかっていて
今日も待っている 待っている

・・・・・・・・
A1979『おかえりなさい
加藤登紀子へのへの提供曲(1978)

空を飛ぶという、できるはずがないことを願うことで、そうとでも思うしかない主人公の心情が表現されています。


鳥になって

・・・・・・・・

流れる心まかせて 波にオールを離せば
悲しいだけの答が見える
すれ違う舟が見える
誰も眠りの中まで 嘘を持ってはゆけない
眠る額に 頬寄せたとき
あなたは 彼女を呼んだ

眠り薬をください 私にも
子供の国へ帰れるくらい
私は早く ここを去りたい
できるなら 鳥になって

・・・・・・・・
A1982『寒水魚

《鳥になって》という詩は《この空を飛べたら》と共通点があります。つまり主人公の絶望感を "鳥になりたい" と表現したところです。その意味内容は違うものの "鳥になりたい" ところが同じです。さらに《鳥になって》は絶望感を越えて睡眠薬自殺を匂わせたような詩になっている。「私は早く ここを去りたい / できるなら 鳥になって」というところなど、"ここ" は主人公が男性と寝ているベッドであると同時に "この世" ともとれる。ここまでくると「鳥 = 主人公の魂」ということでしょう。


中島みゆきの "鳥" と India Goose


今まで紹介した中島さんの "鳥" に関した楽曲を総括すると、

名前のある鳥
無名の鳥

の2種類があります。名前のある鳥ではカモメがたびたび登場し、それ以外の鳥は1回きりです。カモメが最も一般的な "鳥" であり、それ以外は人がそれぞれの鳥に抱いている独自のイメージが投影されます。総じて言うと中島作品における鳥のイメージは、

自由、ないしは "束縛の不在" の象徴
不可能を実現している存在
すべてを見通せるポジションにある存在
人とってのあこがれ

といったところでしょう。ただし、これらの中でも《ツンドラ・バード》(2000)と《India Goose》(2014)は特別です。つまりこの2作品は "オジロワシ" と "インド雁" という、鳥そのものがテーマになっている詩、鳥が主人公の詩なのです。しかも2つの詩には、

強い意志を持って何かを達成する存在

という新たなイメージが加わっている。さらに《India Goose》は「厳しい環境のなか、逆境を乗り越えて目的に到達しようとする」鳥を描いています。このようなコンセプトで鳥をテーマにしたのは《India Goose》しかありません。前に掲げた画像を見ても分かるように、オジロワシはいかにも "鳥の王者" であり、"頑強な鳥" という感じです。タダ者ではない感じがありありとします。それと比べてインド雁は、何となくひ弱で平凡な普通の鳥に見える。それでもヒマラヤを越えていく。このあたりがポイントでしょう。その意味で《India Goose》は中島作品の中でも特別なポジションにあると思います。

最後に付け加えると、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で《ツンドラ・バード》を紹介したときに、ここに登場するオジロワシは何かの象徴だということを書きました。中島さんは言葉を象徴的に用いるのがうまく、詩全体が象徴だらけという "象徴詩" も書いています。さきほど《India Goose》について「言葉どおりに受け取ってよい詩」と書きましたが、決してそれだけではない。ここに登場するインド雁も何かの象徴と受け取ってかまわないし、そう受け取るべきだと思います。どう受け取るかは聴く人によって違うだろうけれど。

続く


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No.211 - 狐は犬になれる [科学]

前回の No.210「鳥は "奇妙な恐竜"」と同じく、進化に関連したテーマです。今までに生物の進化について No.210 を含めて3つの記事を書きました。

  No.  56 - 強い者は生き残れない
No.148 - 最適者の到来
No.210 - 鳥は "奇妙な恐竜"

の3つです。この中の No.148「最適者の到来」でイヌを例にとって、高等生物はその内部に(具体的には遺伝子に)ものすごい変化の可能性を秘めている、としました。No.148「最適者の到来」は、アンドレアス・ワグナー・著『進化の謎を数学で解く』(文藝春秋。2015)を紹介したものですが、この中で著者はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』に関連して次のように書いています。


『種の起源』の第一章全体が、人間の育種家がつくりだしたイヌ、飼いバト、作物品種、鑑賞用の草花の多様性への驚嘆に満ちている。人間が単一の共通祖先であるオオカミに似た祖先から、それもわずか数世紀のうちに、グレートデーン、ジャーマンシェパード、グレイハウンド、ブルドッグ、チャウチャウのすべてをつくりだすことができたというのは、考えてみるとまったく驚くべきことである。

アンドレアス・ワグナー
『進化の謎を数学で解く』
(垂水雄二・訳。文藝春秋。2015)

イヌは、1万年ほど前に(あるいはもっと以前に)人間が(今で言う)オオカミを家畜化したものです。そして家畜としての品種改良が本格的に行われたのは、たかだかこの数百年です。しかもその「改良」は現代で言う "遺伝子操作技術" などのバイオテクノロジーを使ったわけではありません。あくまで「選別」や「交配」で行われた。それでいて、出来上がったイヌの外見の多様性は驚くべきものです。

Grey Wolf.jpg
ハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)
普通オオカミというと、このハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)のことを指す。世界各地にさまざまな亜種が分布している。絶滅したニホンオオカミも亜種とされている。No.127「捕食者なき世界(2)」に掲載した写真を再掲。
( site : animals.nationalgeographic.com )


グレート・デーン.jpg
グレート・デーン

ジャーマン・シェパード.jpg
ジャーマン・シェパード



ワグナーがあげている
5つの犬種
No.148「最適者の到来」より
グレイハウンド.jpg
グレイハウンド

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ブルドッグ

チャウチャウ.jpg
チャウチャウ

ということはつまり、現代のイヌの多様な姿・形は、すでに1万年前のオオカミの遺伝子に内在していたと考えざるを得ません。その「内在するもの」を、人間が "有用性" や "好み" に従って顕在化させた・・・・・・。高等生物が持っている変化の可能性はすごいわけです。上の引用にもあるように、ダーウィンの『種の起源』の発想の原点は「人間の育種家がつくりだした種の多様性への驚嘆」でした。それを "自然" がやったのがすなわち進化(=自然選択。Natural Selection)ではないのかと・・・・・・。進化論の出発点です。

人間が作り出してきた種の多様性は、生物の進化を考察する上で重要なポイントになると考えられます。たとえば上の写真に掲げたイヌの多様性を人間はどうやって生み出してきたのか。その前提として、そもそも人間はどうやってオオカミをイヌに変えたのか。その家畜化の過程は今となっては歴史の中に埋もれてしまって、うかがい知ることができません。



ここからが本題です。その家畜化の過程を実験で再現しようとする試みがこの60年間、続けられてきました。選ばれたのはキツネです。キツネを家畜化して人間のパートナーにする、つまり "キツネをイヌに変える実験" です。


キツネの家畜化実験の発端


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「日経サイエンス」
2017年8月号
「日経サイエンス」2017年8月号に「キツネがイヌに化けるまで」と題した興味深い解説が掲載されました。著者はリュドミラ・トルート(ロシア)とリー・アラン・リュガトキン(アメリカ)です。トルートはロシアの「細胞学・遺伝学研究所」の教授で、進化遺伝学が専門です。リュガトキンはアメリカ、ケンターキー州のルイビル大学の行動生態学者です。本解説はトルート教授が行った実験の成果をリュガトキンがまとめるという形で執筆されました。

トルート教授は現在83歳で、1958年から現在まで約60年に渡ってキツネの家畜化実験を続けています。彼女がこの実験に参加することになった契機が記事に書かれています。その発端は、家畜化実験の中心人物であるドミトリ・ベリャーエフ(1917-1985。ロシアの遺伝学者)に出会ったことでした。以下、下線は原文にありません。


当時(引用注:1958年)私はモスクワ大学を卒業するところで、ベリャーエフが新設の細胞学・遺伝学研究所に加わるためノボシビルスクに向かう準備をしていて、新たに始める家畜化実験を手伝う学生を探していることを耳にした。

ベリャーエフを初めて会ったとき、一介の学部学生にすぎない私を彼が対等に扱ってくれたことに私は驚いた。彼はこの研究を、基本的には家畜化の過程を "早回し" にして観察するものだと説明した。「キツネからイヌを作ろうと思っている」と彼は話した。人間と前向きに交流するタイプのキツネを選抜しながら、何世代にもわたって育種する。これが私たちの想定どおりに機能すれば、オオカミがイヌに変わった際に起こったと同じような家畜化の過程をこの目で観察できるだろう。

ベリャーエフの居室を辞すとき、私はこの研究に加わろうと決めていた。シベリア随一の都市ノボシビルスクへ引っ越しだ。そこに新たにできた科学研究都市アカデムゴロドクの第1世代の研究者になるのだ。そして革命的な考えを持つ1人の男と一緒に研究できるのだという思いで、私の胸は高鳴った。間もなく、私は夫とまだ赤ん坊だった娘と一緒にモスクワから列車に乗り、遠く東へ向かった。

「キツネがイヌに化けるまで」
リュドミラ・トルート(ロシア)
リー・アラン・リュガトキン(アメリカ)
「日経サイエンス」2017年8月号

Lyudmila Trut.jpg
Lyudmila Trut
(Science News 2017.5 https://www.sciencenews.org/
実は「日経サイエンス」の「キツネがイヌに化けるまで」でまず印象的なのは、ここに引用した冒頭のところです。リュドミラ・トルートは学生結婚をして子供をもうけたが、それでも「キツネをイヌにする」研究に加わることを即決し、大都会の首都・モスクワを離れ、一家で "最果ての地" に向かう・・・・・・。すごいものだと思いますが、それは当時の国の状況も影響しているかも知れません。

つまり、トルートがシベリアに向かったのは1958年です。旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が世界初の人工衛星・スプートニクを打ち上げてアメリカを出し抜いたのは1957年です(スプートニク・ショック)。当時のソ連には「科学技術で切り開く社会主義の明るい未来」みたいな雰囲気が横溢していたことでしょう。シベリアに新たに建設された科学研究都市に様々な科学者が結集したのも、そういう雰囲気の中でのことだと想像されます。


ベリャーエフの仮説


キツネの家畜化実験は、リュドミラ・トルートの恩師であるドミトリ・ベリャーエフの次のような仮説にもとづいていました。


動物の家畜化に関するベリャーエフの仮説は大胆にして明快だ。すべての家畜に共通する決定的な特徴はその従順さである、と彼は考えた。したがって、進化の観点からすると、家畜化を進めた原動力は主に、攻撃性が弱く人を恐れない動物を昔の人々が好んだことによる。従順さは、その動物を育種して他の望ましい形質を導入する上でもカギとなった。

イヌやウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジ、ブタ、ネコなど、私たちが家畜とした動物はすべて、おとなしく率直でなければならない。人間が家畜に期待しているのが護衛かミルクか、食肉か、仲間づきあいか、その他の物品や特質であるかにはよらず、家畜動物はみな従順でなくてはならない。

「キツネがイヌに化けるまで」

ここで書かれている「ベリャーエフの仮説」は、我々の思考のちょっとした盲点をつくものです。我々はイヌ・ネコを含む家畜にあまりに慣れすぎていて、家畜が人間に従順なのはあたりまえで、それが家畜の特質だとは意識しません。また野生動物が人間に従順でないのも、あたりまえだと考えます。野生のクマ、キツネ、サル(あくまで野生のサル)、タヌキ、イタチなど、みなそうです。たまに人間を恐れない野生のタヌキがいて、餌をもらいに家の庭先に毎日現れたりすると、それが地域ニュースに取り上げられたりします。なぜかと言うと、それが珍しいからです。

野生のイノシシと家畜のブタを考えてみると、ブタは(今でいう)イノシシを飼い慣らして家畜化したものです。野生のイノシシは獰猛で、イノシシに遭遇して大怪我をしたというような話もよくある。人間を見ると牙をむき出して突進してきたりします。猪突猛進、という4字熟語もあるくらいです。一方の家畜のブタは、獰猛という雰囲気は全くありません。餌を食べるか寝そべっています。よくよく考えてみると、動物として同じ仲間であるイノシシとブタの「性格・気性」の違いは大きいわけです。しかし我々はそういうことに慣れてしまっていて、明らかな違いに気を留めることはありません。

猪と豚.jpg
イノシシはブタと顔つきが違うが、ブタの「先祖」であることは分かる。顔つき以外の違いは何だろうか。豚肉は美味しいという意見もあるだろうが、冬季の猪肉もそれなりに美味しいことで有名である(牡丹鍋)。もちろんブタは食肉用に品種改良されているので、肉の量が多いことは確かである。ベリャーエフによると決定的な違いは「人間に対する従順さ」である。さらにベリャーエフ仮説によると、ブタの顔つきが丸みを帯びているのは従順な個体を人間が選別していった結果である。

野生動物は従順でなく、家畜は従順である。そんなあたりまえすぎることに着目したベリャーエフは優れた学者だったのでしょう。ベリャーエフは、家畜は従順であるという事実を180度逆転させ、人間を恐れず従順な個体を選別していった結果として家畜が誕生したと考えたのです。さらにベリャーエフの仮説は続きます。


ベリャーエフはさらに、多くの家畜の特徴のすべてとは言わないまでも
大半は、従順な個体を選抜して育種したことの副産物と考えた。巻き上がった尻尾や垂れ耳、ぶちの入った毛皮、幼い顔の特徴(丸みを帯び、鼻づらが尖っていないこと)を成体でも維持していること、繁殖が季節にあまり縛られないこと、現在「家畜化症候群」と呼ばれている一連の形質が、従順な個体を選抜したことの副産物であるという考え方だ。

そこで私はベリャーエフの指導の下、日々の取り組みに自分でもかなりの工夫を加えながら、旧ソ連各地にあった毛皮動物飼育場から集めたキツネを出発点に、もっとも従順な個体を選んで交配する育種を何代も続けた。

「キツネがイヌに化けるまで」

ここまで読むとなぜキツネが選ばれたのかが分かります。キツネなら各地にある毛皮動物飼育場から大量に購入できるのですね(解説には数百匹とあります)。オオカミで実験できればいいのですが、オオカミを大量に集めるのは至難の技です。キツネはオオカミと同じイヌ科の動物なので、次善の策としては最適でしょう。

毛皮動物飼育場から大量に集められる他の動物としては、"ロシア産" が有名な "黒テン"や "ミンク" もあるでしょう。しかしテン、ミンクはイタチ科だし、値段が高い(と思います。毛皮が高価だから)。それに、テンやミンクを家畜化してもあまり感激はしない。やはりキツネです。キツネは "化ける" と言われている動物なので、その点でもピッタリです(ロシアでも "化ける" かどうかは知りませんが)。

キツネの家畜化実験-1.jpg
家畜化実験施設におけるキツネ
(日経サイエンス 2017年8月号)


実験の開始


トルートがシベリアで始めた実験の最初の様子が書いてあります。


私は毎年、何百頭ものキツネを自分たちで開発した手順を用いてテストした。防護のために厚さ 5cm の分厚い手袋をはめてケージに近づき、扉を開けて棒を差し入れる。その際のキツネの反応を点数づけして評価する。最もおだやかでおとなしいキツネが最高点となる。

実験の最初の数年間、大多数のキツネはイヌどころではなく、火を吐く竜のようだった。ケージに近づいて棒を差し込むと、極めて攻撃的に反応した。これら低スコアのキツネは私の手を食いちぎろうとしていたのだと思う。別の低スコアのキツネはおびえてケージの隅に縮こまった。少数のキツネはテストの間ずっとこちらの様子を見ていたが、特に何の反応をするわけでもない。これらのおとなしい個体が選ばれ、交配して次の世代を生む。

生まれた子ギツネが成体になるまで、発達過程を詳しく記録した。また近親交配を避けるよう特に注意した。望ましくない遺伝的結果が生じて実験が混乱するのを避けるためだ。

「キツネがイヌに化けるまで」

この引用のように、最初はスコアの低い(=攻撃的か、怯える)キツネがほとんどでしたが、高いスコアの(=おとなしい)キツネを選んで交配していくと、次第に変化がみられるようになりました。


最初の数世代は、最もおとなしいキツネも人間に対して愛想がよいわけではなかった。人がそばにいることを受容はしても、歓迎はしていない様子だ。だが、4世代目と5世代目になると、興味深い兆候が見えた。歩けるようになったばかりの子ギツネが、私が近づくと何かを期待して小さな尻尾を振った。そして6世代目が生まれた。

「キツネがイヌに化けるまで」


エリートの出現



6世代目になると、子ギツネは尻尾を振るだけでなく、クンクンと哀れっぽく鳴き、イヌがするように人をなめるなど、人間との接触を積極的に求めているように見えた。こうした一連の行動の出現は非常に印象的だったので、私たちはこれらの個体を「エリート」と呼んだ。エリート子ギツネのなかには、名前を呼ばれると顔をあげるものまでいた。

「キツネがイヌに化けるまで」

6世代目において「エリート」は全体の2%でしたが、現在は70%に達しているそうです。ちなみに現在は58世代目です。エリートたちにしばしば見られる特徴をまとめると、まず生態学的には、

生まれてはじめて音に反応するのが、通常の子ギツネより2日早い。
眼を開く時期が、通常の子ギツネより1日早い。
生まれつき人間の視線と身振りを眼で追う。
人間を慕って交流を望んでいるように見える。
ストレスホルモンの値が低い。
繁殖サイクルが長い。

などの特徴があります。また、体つきや姿・格好については次のような特徴があります。

成長しても幼い顔つきである。
本来尖っている鼻ヅラが、丸く変化している。
尻尾がフサフサで巻き上がっている。
垂れ耳になった個体もある。
四肢はずんぐりと短い。
毛皮にぶちが入る。

要するにトルートが言うように、全体の姿は気味が悪いほどイヌに似ているのです。わずか数世代の交配でこのようなキツネが現れ始めたのは驚くべきことです。

キツネの家畜化実験-2.jpg
イヌ化したキツネ。鼻は丸くなり、毛皮にはぶちが入っている。現在、家畜化実験施設で飼われているキツネの70%はこのような "エリート" である。
(日経サイエンス 2017年8月号)

トルートは「鳴き声の強弱変化を音響分析すると、人の笑い声の変化に近い」とも言っています。この「笑い声」くだりを読んで思ったのですが、この家畜化実験は「人間に対してフレンドリーなキツネ」に人間が高いスコアをつけ、高いスコア同士のキツネを交配していくというものです。スコアの項目と点数づけの基準は厳密に決めるのでしょうが(これがふらつくと実験にならない)、ひょっとしたら「鳴き声が人間にとって心地よいキツネに、人間が無意識に高いスコアをつけた」のかもと思いました。違うかも知れませんが。


人間との交流


家畜は人間に従順だという共通点がありますが、イヌは従順だけでなく、特定の人間と親密な関係になったり、人間との間に種を越えた感情的絆を形成したりします。イヌ化したキツネではどうなのでしょうか。

トルートは1974年3月28日、その実験を始めます。15世代目のキツネ、プシンカと一緒に、飼育施設の中にあった1軒の家に移り住んだのです。プシンカは1歳になったばかりの雌で、妊娠していました。出産を通してキツネの家族と人間がどういう関係を持てるかも調べようとしたのです。

最初はプシンカは動揺し、慣れない家の中を駆けめぐり、食べ物を口にしようとしません。しかし次第にそれも落ち着いてきました。4月6日、プシンカは6匹の子ギツネを生みました。するとプシンカはその中の1匹をくわえてきて、トルートの足元に置いたのです。トルートがその子ギツネを何回も巣に戻しても、プシンカはその都度、子ギツネをトルートのところに運んできます。まるで人間に子ギツネを差し出すような行動です。6匹生まれたから一匹あげるよ、というような・・・・・・。トルートも巣に戻すことを諦めました。

トルートとプシンカの一家は家の中で遊びまわったり、一緒に外出したりして絆を深めていきました。


子ギツネが大きくなって手がかからなくなるにつれ、プシンカと私の絆は深まった。彼女は私の足元に横たわり、首のあたりを私に掻いてもらうのを待つようになった。私が少し家の外に出ると、プシンカはときに窓際に座って私の帰りを待った。私が帰ってくるのが見えると、彼女はドアのところで待ち受け、尻尾を振って迎えた。

「キツネがイヌに化けるまで」

こうしてトルートとプシンカの間には親密な関係が生まれたのですが、その年の7月に決定的な出来事が起こります。


こうした親愛の兆候は認識していたが、それでも1974年7月15日の晩の出来事は全く意外だった。私は家の外のベンチに腰かけて本を読み、プシンカは私の足元で休んでいた。すると遠くから足音が聞こえた。私はどうとも思わなかったのだが、プシンカは危険を感じたようだ。だが彼女は身を隠すことも私に保護を求めることもせず、侵入者がいるらしき方向へ走り出して、それまで見せたことのない行動を示した。二度と見せることもないかも知れない。彼女は吠えたのだ。番犬とまさに同じ吠え声で。

プシンカが人間に本気で攻撃的な態度を示したことはかつてなく、ましてやこんな獰猛な反応は初めてだった。私が走り寄って様子をうかがうと、プシンカを怯えさせたのが施設を見回っている警備員であることが分かった。私が警備員と穏やかな声で話はじめると、プシンカは万事問題なしと察知したようで、吠えるのをやめた。

「キツネがイヌに化けるまで」

トルートがプシンカと小さな家で過ごしたのは3ヶ月半でしたが、この1974年7月15日の夜の出来事は、家畜化されたキツネ(第15世代目。実験開始から約15年後)が、イヌのように人間に対して忠誠心を示すことの証拠になりました。



家畜化されたキツネが遺伝子レベルでどういう変化が起こったのか、DNA解析の結果も報告されています。それによると、多くの変化は12番染色体の「量的形質遺伝子座(QTL)」で起こっており、これはイヌの家畜化に関与した遺伝子と同様だそうです。トルートは「野生のイヌ科動物がペットに変わる過程を遺伝子レベルでおおよそ再現した」と結論づけています。

How to Tame a Fox.jpg
トルートとリュガトキンの著書「How to Tame a Fox」(=キツネの飼い慣らし方)。イヌ化したキツネが表紙になっている。


キツネはイヌになれる


以下はこの報告の感想です。

この研究成果で分かるのは、キツネの性格(=行動様式)は遺伝するということと、性格と外見上の形質には深い関係があるということです。つまりキツネの「性格」を、

人間に対して攻撃的
人間に対しておとなしい
人間に怯える

という軸でスコアリングすると、それが遺伝することが実証された。そして性格(=行動様式)を選別・交配していくと、外見上の形質まで変化してきたというのがこの実験です。ここで考えてしまったのは人間のことです。人間ではどうなのか。

No.191「パーソナリティを決めるもの」で書いたように、現代の行動遺伝学の結論は、人のパーソナリティは50%が遺伝子で説明できるということです。


外向性、神経質傾向、協調性、新規性追求などの性格(パーソナリティ)は、遺伝の影響が50%程度、非共有環境の影響が50%程度です。共有環境の影響は小さいかほとんどない、というのが行動遺伝学の結論です。


ここで非共有環境とは主に家庭外の環境、共有環境とは家庭環境でした。人は複雑な社会生活を営む動物なので50%は(家庭外の)環境で性格が決まる。それでも50%は遺伝子で決まります。これがキツネだと遺伝の割合がもっともっと大きいのでしょう。そして「性格が外見に影響する」というのは人にも言えるのではないか。よく「人相学」とか「人相占い」とかがあります。人相からその人の性格や運命が分かると主張するものです。運命が分かるというのは違うと思いますが、性格が分かるというのは科学的根拠があるのではないか。そんなことを思いました。



さらに思ったのは、科学における仮説の大切です。もちろん仮説なら何でもよいわけではありません。この実験では "運のよいことに" 6世代目で仮説が正しそうだという雰囲気が出てきました。もしこれが50世代目=約50年目にならないと正しさが分からないのであれば、そこまで実験は続けられなかったでしょう。トルート教授としても、50年もの研究者人生を成果の見えない実験に費やすことは出来なかったと思います。

ベリャーエフは、比較的早い世代で目に見えるキツネの変化が現れることを予期したのだと思います。つまりこの仮説はベリャーエフの優れた洞察力にもとづく仮説だった。そこがポイントだと思いました。



この60年をかけたキツネの家畜化研究は、いわゆる基礎研究です。ベリャーエフは「人間はなぜイヌを作り出せたのか」と疑問に思い、それについての仮説をたて、その仮説が正しいことをトルートとともに実証した。しかしその成果が何の役にたつのですかと問われると、それは分からないと答えるしかないのでしょう。もっともらしい答えは言えるかもしれませんが。

「何の役にたつのですか」と問うてはダメなのですね。ベリャーエフはあくまで興味から、好奇心から家畜化研究を始めたのだと思います。そこで解明されたことが、将来何かの役に立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。基礎研究というのはそういうものだと思います。

全くの想像ですが、トルート教授は遺伝学の大先輩であるメンデルを尊敬しているのではないでしょうか。牧師が教会の裏庭でエンドウマメの交配実験を繰り返し、克明な記録をつける。誰に評価されたわけでもない。しかし死後にそれが "発見" され、遺伝学という学問が成立する鍵となる ・・・・・・。有名な話です。

60年前のキツネの家畜化実験の開始から現在まで、58世代に渡るキツネの血統が明らかになっていて、個々のキツネの性格や外見についての克明な記録が資料として残されているはずです。このトルート教授の「家畜化実験詳細データ」は、今後役に立つかもしれない。たとえば、人に対して親和的か攻撃的か(ないしは怯えるのか)の違いは、人間社会で言うと社会的と反社会的の違いだと言えるでしょう。キツネの性格の詳細データを遺伝子解析の結果と付き合わせることによって、社会性とは何かについての知見が遺伝子レベルで判明するかもしれないのです。基礎科学なので断言はできないけれども。

83歳のトルート教授は人生の4分の3をこの家畜化実験に捧げました。「キツネがイヌに化けるまで」という日経サイエンスの記事で最も強く印象に残ったのは、実はこの点でした。




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No.210 - 鳥は "奇妙な恐竜" [科学]

日経サイエンス 2017年6月号.jpg
日経サイエンス
(2017年6月号)
今までに生物の進化に関する記事を2つ書きました。

  No.  56 - 強い者は生き残れない

No.148 - 最適者の到来

の2つですが、今回はその続きです。2017年6月号の「日経サイエンス」に恐竜から鳥への進化に関する解説記事が掲載されました。英国エディンバラ大学の古生物学者、ステファン・ブルサット(Stephen Brusatte。アメリカ国籍)が書いた「羽根と翼の進化」です。最新の研究成果をふまえた、大変興味深い内容だったので、その要旨を紹介したいと思います。


始祖鳥


そもそも鳥の祖先は恐竜ではないかと言われ出したのは、今から150年も前、19世紀の半ばです。きっかけは、鳥の "先祖" である "始祖鳥" の発見でした。


1860年代、ダーウィンの親友の1人で最も声高な支持者だった英国の生物学者ハックスリー(Thomas Henry Huxley)は、鳥類の起源の謎に挑みはじめた。ダーウィンが1859年に『種の起源』を出版してからわずか数年後、独バイエルンの採石場で労働者が割った石灰岩の中から1億5000万年前の骨格が現れた。爬虫類のような鋭いかぎ爪と長い尾、鳥のような羽毛と翼を併せもつ動物の化石だった。

始祖鳥(Archaeopteryx)と命名されたこの動物が、やはりその当時に見つかりはじめていたコンプソグナトゥス(Compsognathus)などの小型肉食恐竜に不気味なほど似ていることにハックスリーは気づいた。そこで彼は、鳥類は恐竜の子孫であるという大胆な説を発表した。他の科学者は彼の説に反対し、議論はその後100年間、行ったり来たりの状態だった。

ステファン・ブルサット
(英・エディンバラ大学)
「羽根と翼の進化」
(日経サイエンス 2017年6月号)

鳥類は恐竜の子孫かどうか、ハックスリーの提唱から約100年後、議論に決着をつけるような化石が発見されました。鳥の骨格に極めてよく似た恐竜の化石が発見されたのです。


この議論は、よくあることだが、新しい化石の発見によって決着がついた。1960年代中頃、エール大学の古生物学者オストロム(John Ostrom)が北米大陸西部で驚くほど鳥に似た恐竜デイノニクス(Deinonychus)の化石を発見した。その長い前肢は翼のように見え、しなやかな体つきは活動的な動物を思わせた。

デイノニクスには羽毛まで生えていたとオストロムは推測した。もし鳥類が恐竜から進化したのなら(そのころには多くの古生物学者がこの説を受け入れ始めていた)、その進化系統のどこかで羽毛が生じなくてはならない。

S.ブルサット「羽根と翼の進化」

もし羽毛をもつ恐竜の化石が発見されたなら、恐竜から鳥類が進化したことの完全な確証になります。しかし、羽毛がついた化石を発見するのは極めて困難です。羽毛のような柔らかい組織はほとんどの場合、動物が死んで腐敗し、地中に埋まって化石化する段階で失われてしまうからです。


羽毛恐竜の化石発見


ところがオストロムの発見から約30年後の1996年になって、中国の遼寧省州で羽毛がついた恐竜の化石が発見されたのです。この化石はポンペイのように火山灰によって素早く埋められたため、完全な状態で保存されていました。その後、今までの20年間で多数の羽毛恐竜の化石が発見され、恐竜から鳥への進化の過程が解明されました。


これらの驚くべき化石はパラパラ漫画のように、太古の巨大な恐竜がどのように現生鳥類に変化したのかを教えてくれる。

「羽根と翼の進化」

その羽毛恐竜の化石の画像の一つが次です。これは解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜です。

羽毛恐竜.jpg
中国の遼寧省・錦州で発見された羽毛恐竜、チェンユアンロング(Zhenyuanlong)の化石。解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜である。
(日経サイエンス 2017年6月号)

この "パラパラ漫画" のような羽毛恐竜の化石群により、議論は完全に決着しました。


遼寧省で発見されたこれらの羽毛恐竜によって議論は決着した。鳥類は実際に恐竜から進化したのだ。ただ、この言い方は両者が完全な別物であるような印象を与える点でやや不適切かもしれない。実際には、鳥は恐竜だ。鳥類は恐竜と祖先を共有する多数の下位グループの1つであり、トリケラトプス(Triceratops)やブロントサウルス(Brontosaurus)とまったく同様に恐竜なのだ。次のように考えてもよい。コウモリが空飛ぶ変な哺乳類であるように、鳥も変な恐竜なのだ

「羽根と翼の進化」

下の図は爬虫類が哺乳類と分化してから鳥類に進化するまでの図(部分)です。このうち、6500万年前の大絶滅を生き延びたのは、哺乳類、トカゲ類、ワニ類、鳥類(新鳥類)です。なお、6500万年前より以前に絶滅した生物は点線で表されています。

恐竜から鳥への進化.jpg
(日経サイエンス 2017年6月号)

恐竜類から鳥類の移行は非常に穏やかに、徐々に進行しました。著者は骨格の統計学的解析から、系統樹上で「鳥類」と「非鳥類」の明確な区別は不可能であることを実証しています。つまり恐竜類から鳥類の移行は「継ぎ目の無い移行」なのです。


鳥の特徴


鳥類が恐竜から進化したとして、それでは鳥の特徴である "羽毛が生えた翼" は何のために発達したのでしょうか。それは恐竜が飛べない時代にできあがったと考えるしかありません。翼だけではありません。鳥類は他の動物にはない数々の特徴をもっています。

鳥の特徴.jpg
鳥類の解剖学的特徴

翼、長い前肢、短い尾骨、竜骨、貫流式の肺、叉骨(さこつ)、大きな脳など、鳥類は他の現世動物にはない特徴がある。これら特徴のおかげで鳥類は飛行できる。
(日経サイエンス 2017年6月号)

特徴を3つとりあげると、まず貫流式の肺です。鳥類の肺は哺乳類の袋状の肺とは根本的に違っています。鳥類の肺は管状で、後と前に数個の気嚢があり、空気は後ろから前へと1方向に流れるようになっています。つまり空気を吸い込むときも吐き出すときも酸素を摂取できる。飛行は極めてたくさんの酸素を消費しますが、それに都合のよい、酸素吸収効率が高い肺を持っているのです。ヒマラヤ山脈を越える渡り鳥があることはよく知られています。エベレスト(チョモランマ)に登頂する人間は酸素ボンベをしょっていきますが、鳥はボンベ無しでその上を越えられる。酸素吸収効率が高い肺があればこそです。

  まったくの余談ですが、ヒマラヤを越える渡り鳥の一種、インド雁をモチーフにした中島みゆきさんの楽曲がありました。『India Goose』です。インド雁はモンゴル高原が繁殖地で、冬季になるとヒマラヤを越えて暖かいインドで越冬します。


鳥類の肺.jpg
鳥類の貫流式の肺

肺は管状になっていて数本あり、その後ろと前に数個の気嚢がある(上図)。鳥は気嚢を膨らませて空気を取り込み(中図)、収縮させて空気を吐き出す(下図)。この両方の過程で肺に新鮮な空気が一方向に流れる。気嚢がポンプの役割を果たすので、肺は一定の形状を保ったまま酸素を吸収できる。平沢達矢「鳥類に至る系統における呼吸器の進化」(理化学研究所)より引用。
(site : www.cdb.riken.jp/emo/)

また、鳥の骨は中空です(飛ばない鳥をのぞく)。まったくの空洞ではないですが、細い骨が蜘蛛の巣のように交錯していて、空気がつまっています。飛ぶためには体は軽い方が有利であり、軽くて強度のある骨を鳥は持っています。

人間には鎖骨さこつがあります。鎖骨は一方が胸骨(胸の前面にある骨で肋骨と接続)につながり、もう一方が肩胛骨につながっています。つまり鎖骨は2本あります。しかし人間の鎖骨さこつに相当する鳥の骨は、2本が融合して1本になっています。これを、呼び方は同じですが叉骨さこつと言います。この叉骨は鳥が羽ばたくときにちょうど力を蓄えるバネの働きをし、飛行を助けています。

とにかく、他の動物にはない鳥類の体の特徴を知ると「飛行に必須の(ないしは都合のよい)仕組みのワンセットが揃っている」ように見えるのです。これらは何のために、いつごろ発達したものでしょうか。


羽はなぜ進化したか


鳥類の体の器官の最大の特徴は羽毛が生えた翼であることは言うまでもありません。これは、そもそも何のためだったのか。日経サイエンスの解説記事を書いたステファン・ブルサットがまず指摘するのは、羽毛が多目的に使えるということです。


羽毛は万能ツール、自然界のスイス・アーミーナイフだ。羽毛のおかげで、鳥類は飛行し、異性やライバルに強い印象を与え、体温を保持し、巣に座って卵を抱き暖めることができる。実際、あまりにも用途が多くて、羽毛が最初の何の目的で進化したかを解明するのは難しい。

「羽根と翼の進化」

遼寧省で発見された化石により、羽毛は最初の鳥類にいきなり生じたのではなく、それよりずっと早い時期の恐竜に生じていたことが分かってきました。それは現世鳥類の羽毛とは違ったものでした。


(最初にできた)恐竜の羽毛は、何千本もの毛髪のようなフィラメントからなる綿毛のようだった。それらの恐竜は飛べたはずがない。この羽毛は面を構成して風をとらえることができず、翼も作れなかった。だから、最初の羽毛は飛行以外の目的で進化したに違いない。おそらく小型恐竜の体温を維持するためだったのだろう。

「羽根と翼の進化」

恐竜に生じた糸状の羽毛は、やがて長くなって束になり、分岐し、中央に羽軸ができて羽を構成するようになり、そして翼へと進化していきました。

では、翼を持った恐竜は飛べたのでしょうか。中には滑空できる恐竜もいたようです。しかし遼寧省から発見された恐竜の多くは、詳しく解析すると「飛べなかった」というのが結論です。たとえば著者のブルサットが発見したチェンユアンロングですが、飛ぶには前肢が短すぎ、羽ばたきに必要なだけの胸筋もなかったと、風洞実験や数値シミュレーションで結論づけられています。それでは「恐竜の翼」はいったい何のために進化したのでしょうか。


最新の研究結果は、翼が飛行とは別の、あまり広くは認識されていない機能を果たすために進化したことを示唆している。ディスプレイだ。1つの証拠が英ブリストル大学のヴィンサー(Jacob Vinther)が始めた研究から得られている。彼は高倍率の顕微鏡を使い、恐竜化石の羽毛に色素を含む「メラノソーム」という構造を発見した。翼のある飛ばない恐竜の羽毛はカラフルだったことが判明した。カラスの羽のように玉虫色の羽毛もあった。このような光沢のある羽毛は異性を引きつけたり、ライバルを威嚇したりするのに最適だっただろう。

恐竜の羽毛が華やかに見えるということから、翼に起源についてまったく新しい仮説が生まれた。翼はそもそも自己顕示の道具として進化したという説だ。つまり翼は前肢と後肢、尾から突き出た広告塔だった。その後、優美な羽を持つ恐竜たちは突然、表面積の大きなこの翼が(物理法則によって)空気力学的機能を果たすことに気づいた。換言すれば、飛行能力は偶然に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

日経サイエンス 2017年6月号には「見えた! 恐竜の色」(J.ヴィンサー)という論文が掲載されていて、恐竜の羽の色が詳しく解説されています。「翼はそもそも自己顕示の道具として進化した」というはあくまで仮説ですが、現世鳥類でもカラフルな羽を自己顕示に使って、異性を引きつけたりライバルを威嚇したりする鳥が多数あることを思い出します。


鳥の特徴は恐竜のときに作られた


羽毛のある翼だけでなく、現世鳥類の特徴の多くは、恐竜の時代に発達したようです。


恐竜の中には、左右の鎖骨を融合させて「叉骨(さこつ)」と呼ばれる構造を生み出したものがいた獣脚類の初期のメンバーだ。この一見ささやかな変化によって前肢の基部が安定し、獲物に忍び寄る犬ほどのサイズの肉食恐竜は獲物をつかむときの衝撃をうまく吸収できるようになった。のちに鳥類はこの叉骨を転用し、羽ばたく際にエネルギーを蓄えるばねとして使うようになった。

「羽根と翼の進化」


鳥類の特徴である中空の骨と速い成長はどちらも飛行にとって重要だが、これらのルーツも古く、恐竜類にまで遡る。多くの恐竜の骨が「気嚢(きのう)」によって空洞化しており、このことは彼らが超効率的な "貫流式" の肺を持っていたことを示している。息を吸い込むときだけでなく、吐くときにも酸素を取り込める肺だ。鳥類では、貫流式の肺が飛行に適した骨格の軽量化に加え、エネルギーを大量消費する生活様式の維持に必要な酸素の供給を可能にしている。

「羽根と翼の進化」

ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館(AMNH)とモンゴル科学アカデミーの合同チームは過去4半世紀にわたって、ゴビ砂漠で恐竜の化石を集めてきました。


彼らの発見の中にはヴェロキラプトルなどの羽毛をもつマニラプトル類の保存状態のよい頭蓋骨が含まれている。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のバラノフ(Amy Balanoff)はこれらの化石をCTスキャンし、マニラプトル類の脳が大きかったこと、そして脳の最前部が拡大していたことを明らかにした。

大きな前脳のおかげで鳥類は非常に賢く、飛行という込み入った動作を制御でき、空という複雑な3次元世界をナビゲートできる。これらの恐竜がなぜこのような鋭敏な知性を進化させたのははまだわかっていないが、その化石は、鳥類の祖先が空に飛び立つ前に賢くなっていたことをはっきりと示している。

「羽根と翼の進化」

以上のような最新の研究を総合して、ステファン・ブルサットは次のように結論づけています。


鳥類のボディプランには決まった青写真があったわけでなく、その体は進化の過程で1つずつ組み立てられた寄木細工のようなものだった。鳥類は恐竜から一挙に移行したのではなく、何千万年もかけて徐々に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

しかし、いったん飛行可能な恐竜ができあがると、その進化の速度はそれ以前よりも格段に速くなったことも分かってきました。


どうやら、飛行可能な小型恐竜が組み立てられるとすぐに、つまり寄木細工が完成したとたん、途方もない進化の可能性が解き放たれたようだ。これらの飛行恐竜は新しい生態学的ニッチと機会を手に入れた。

「羽根と翼の進化」

6500年前に非鳥類恐竜が絶滅したときにも、鳥類恐竜は生き延びます。そして現世鳥類は1万種を越える大グループとして繁栄していて、その姿もハチドリからダチョウまで極めて多様です。



以上のような徐々で穏やかな進化は、恐竜から鳥への進化だけではないと著者は言います。つまり

魚が脚と指を持って四肢動物になる
陸生哺乳類がクジラになる
木にぶらさがってた霊長類が直立歩行するヒトになる

などの変化は、たえず変化する環境圧力によって徐々に起こってきました。進化は将来を見込んで起こるわけではないのです。


鳥は目的があって進化したのではない


以下はこの日経サイエンスの解説記事の感想です。この記事は我々にある種の教訓を与えてくれると思いました。つまり、鳥の体の数々の特徴をみると、そのすべてが飛行という目的に沿って作られているように思えてきます。まるで「飛行」という目的に向かってすべてが進化したように見えてしまう。しかし決してそんなことはないのですね。飛行に必要な数々の特徴は、飛行とは無関係に発達した。それが寄木細工のようにうまく組み合わさったとき、飛行恐竜=鳥類が誕生した。

我々は「成功した結果」だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうことがよくあります。鳥類はあまりにポピュラーであり繁栄しているので、特にそう見えます。しかしそれは「全体の中でたまたま成功した一部」だったりする。上の方に引用した進化の図でも、"失敗" して絶滅した鳥類恐竜(=鳥類)の種があることが分かります。大量絶滅の時(6500万年前)に絶滅したのは2種ありますが、それ以前に6種が絶滅しています。現世鳥類だけが "運良く" 成功した。

「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまう」のは、我々が陥りやすい「思考の落とし穴」だと思います。特に進化のように何百万年、何千万年という時間で起こるプロセスは、我々はまったく想像ができないし直感も働かないので、落とし穴に陥りやすい。どうしても人は物事に意味や意図を見いだそうとします。暗黙にでも「意味」を考えないと落ち着いていられない。

この「思考の落とし穴」は千年程度の時間スケールでも同様です。たとえば2000年程度前に作られた石造建築物が、今でも崩れることなく無傷で残っているとします。我々はそれを見て「古代人の建築技術はすごい」などと感嘆したりします。しかしそれが残っているのは「たまたま」なのかも知れません。「たまたま」上手に石組みが出来た一部の建造物が残り、大多数は2000年の時を経て跡形もなく崩壊してしまったのかも知れない。我々は崩れていった建造物を見ることはできないから「すごい」と思うのかも知れないのです。すべての古代建築がそうだと言っているのではなく、そういう可能性を考慮しておいた方が良いと思うだけです。

さらに数年~十数年単位の社会での現象でも言えそうです。たとえば企業が新事業に乗り出して成功するという例です。その企業行動には「成功要因がすべて揃っていて、それを推進したリーダーシップの優秀さを褒め称える」ような言説がよくあります。しかしそれは「結果論」ではないのか。"偶然" とか "たまたま" という要因はないのか。しかも成功要因はリーダが登場する遙か以前から企業内で醸成されていたりします。新事業に乗り出して失敗した(小さな)例を企業はいっぱい内部に抱えているはずですが、そういう情報は外部にあまり出てきません。外部から見ても華々しい成功例だけをもとに、結果論をうんぬんしてもむなしいと思います。

ベンチャービジネスもそうです。ビジネスとして成功し、大きく成長したベンチャービジネスの裏には、その数百~数千倍の "成功しなかったベンチャー" がある。一般に知られることもなく、報道されることもなく消えていったビジネスがほとんどであるわけです。

建築物の建設や企業の活動は人間の行動であり、意志の入ったプロセスです。動物の進化のような自然による環境選択とは違うのですが、「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうという思考の落とし穴」という視点からすると、教訓を得ることができるのではないかと思いました。




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No.209 - リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 [音楽]

今までにフランツ・リストの曲を2つとりあげました。

No.  8 - リスト:ノルマの回想
No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想

の2つですが、そもそもローマのレストランのテレビでやっていた「素人隠し芸大会」で、オペラ「ノルマ」の有名なアリア「清き女神よ」を偶然に聞いたことが発端でした(No.7「ローマのレストランでの驚き」参照)。

この2つはいわゆる "パラフレーズ" 作品です。つまりそれぞれ、ベッリーニのオペラ「ノルマ」とマイヤベーアのオペラ「ユグノー教徒」のなかの数個のアリアの旋律をもとに、それを変奏したり発展させたりして自由に構成した作品です。まさにオペラを観劇したあとに、それを回想しているという風情の作品です。

今回は方向性を全く変えて、同じリストの作品ですが「ピアノ・ソナタ ロ短調」を取り上げます。なぜこの曲かというと、恩田陸さんの小説『蜜蜂と遠雷』に出てきたからです。この小説は直木賞(2016年下半期)と本屋大賞(2017年)をダブル受賞したことで大きな話題になりました。

蜜蜂と遠雷.jpg
(幻冬舎 2016)


蜜蜂と遠雷


『蜜蜂と遠雷』は、日本での国際ピアノコンクールに参加した4人のコンテスタント(16歳、19歳、20歳、28歳の4人)を中心に、彼らをとりまく友人、師匠、審査員なども含めた群像劇です。これらコンテスタントのなかで、マサル(=マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。19歳)の演奏曲目に、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」がありました。"マサル" とは日本の男性名にちなんだ名前ですが、これは父親がフランス人で母親が日系3世のペルー人だからです。マサルはジュリアード音楽院に在学中で、"ジュリアードの秘蔵っ子" という設定です。

以降『蜜蜂と遠雷』から、マサルが演奏するピアノ・ソナタ ロ短調の描写を紹介したいと思います。以降、大部分が恩田陸さんの文章の引用になってしまいそうですが、それはやむを得ません。


第3次予選


国際ピアノコンクールは第1次予選(90人)、第2次予選(24人)、第3次予選(12人)、本選(6人)と進みます。本選はオーケストラと競演するコンチェルトですが、それ以前はピアノ独奏です。

マサルは第3次予選へと進みました。第3次予選の規約は「60分を限度とし、各自が自由にリサイタルを構成する」です。マサルが選んだ曲は次の通りです。

バルトーク「ピアノ・ソナタ Sz.80」
シベリウス「五つのロマンティックな小品」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178」
ショパン「ワルツ 第14番 ホ短調」

もちろんこの構成における "メインディッシュ" はリストです。以下の引用では漢数字を算用数字に変えました。


フランツ・リスト作曲、ピアノ・ソナタ ロ短調。

1852年から53年にかけて作曲され、初演は1857年。

リストは既にピアニストを引退していたため、彼の弟子のハンス・フォン = ビューローが演奏した。

傑作の誉れ高いこの曲は、ソナタ形式としてはかなり異色である。ソナタと名付けたせいで、発表当時、これがソナタなのかという大論争になった。あまりにも斬新な構造だったので、激しい非難にさらされたことでも有名である。

最も特徴的なのは、通常のソナタではきっちり楽章ごとに分かれて主題部と展開部が奏されるのであるが、この曲は楽章が分かれておらず、全体でひとつづきの一楽章になっているところであろう。

30分近い大曲であり、難曲揃いのリストの曲の中でも、さまざまな技量が要求される最高級の難曲である。

その複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきたが、マサルはこの曲を聴くたびに、周到に伏線の張られた、巧みな構成の長編小説のようだと思う。

そう、これは音符で描かれた壮大な物語なのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』
第3次予選 - ロ短調ソナタ
(幻冬舎 2016)

ロ短調ソナタ.jpg
フランツ・リスト
ピアノ・ソナタ ロ短調
1854年の初版楽譜(ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社)。シューマンに献呈する旨が書かれている。IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトより。

「あまりにも斬新な構造」で「複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきた」とありますが、たとえば Wikipedia にはその研究成果が解説されています。この曲は「単一楽章のソナタ形式」と「多楽章(4つ、ないしは3つ)のソナタ」が重ね合わされた「2重形式」です。さらに主題も複数個で構成された「主題群」であり、それらが曲全体に渡って入り組みながら変奏され、"変容して" いきます。新しい主題が現れたと思ったらそれは前の主題の変奏であったり、主題が再現したと思ったらそれは主題の展開だったり、という感じです。そのせいか "複雑に" 聞こえる曲です。

  余談ですが、「単一楽章と多楽章の2重形式」ですぐに思いだされるのが、ツェムリンスキーの「弦楽4重奏曲 第2番」(1914-1915 作曲)です。2重形式が分かりやすく実現されていて、しかも大変な名曲です。ひょっとしたらリストに(リストにも)影響されたのかもしれません。なお、ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」に書きました。

一方、ロ短調ソナタを「標題音楽」と見なす意見も昔からあり、特にゲーテの『ファウスト』と結びつける解釈はリストの弟子の時代からあったそうです。だたしリスト自身は「標題」にふれるような言葉を一切残していません。

そして『蜜蜂と遠雷』に「これは音符で描かれた壮大な物語なのだ」とあるように、マサルの解釈も「標題音楽」なのです。


「ピアノ・ソナタ ロ短調」から感じる物語


マサルは子供の頃からこの曲を何回か聴いてきたし、レッスンでさらったこともありましたが、コンクールを前にもう一度譜面を丹念に読み込むことから始めます。マサルが譜面を見ながら感じた「周到に伏線の張られた巧みな構成の壮大な物語」とは、次のようなものです。


曲は ─── 物語は、さりげなく、謎めいた場面から始まる。

マサルは思い浮かべる。

一人の男が静かに歩いてくる。そっと草を踏み、暗く燃えるような目をして、冬枯れの一本道を。身なりは悪くなく、彼が卑しからぬ階級に属する人間であり、知的職業に就いていることを窺わせる。

辺りも静かだ。

寒々とした風景。空はどんよりとした厚い雲に覆われ、空気も冷たく、鳥たちの声も聞こえない。

足の下でぱきんと枯れた枝が折れる乾いた音。

ふと、男は足元に朽ち掛けた墓石が草と土に埋もれていることに気付く。年代らしきものが見えるが、文字も崩れかけ、人の世の虚しさ、はかなさだけが伝わってくる。

青年は、無表情にその墓石を踏み越えていく。

視線の先に見えるのは、小高い丘に広がる集落。

教会の尖塔や、古い城壁などが見え、由緒ある豊かな集落であることが分かる。

青年は無言だ。しかし、その目は不穏であり、ある一点をずっと見つめている ───

そう、これは何世代もの因果がからみあう悲劇。さまざまな人々の思惑が思わぬところで交錯する。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

「ピアノ・ソナタ ロ短調」の導入部は Lento assai と指示された「主題 A」(譜例76)で始まります。ゆっくりとして静かで、かつ不穏な雰囲気が漂っています。
譜例76 リスト:ピアノソナタ A.jpg
主題 A
「ピアノ・ソナタ ロ短調」の冒頭、第1小節から。曲はLento assai で始まる。なお「主題 A」は便宜的につけたもので、以下同じ。


不穏な導入部の次は、主題部分だ。この土地の中心に君臨する一族の、主要メンバーが登場する。

暴君の父、その後釜を狙う弟たち、息子たち。一族の禍々まがまがしくも華麗な歴史と因縁が語られる。常に陰謀は現在進行形であり、すでにいさかいの種はかれている。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここで導入部に続く「主題部分」とされているのは Allegro energico の「主題 B」(譜例77)と、それに続く「主題 C」(譜例78)でしょう。これが「一族のテーマ」です。冒頭の主題 A と、主題 B、主題 C の3つは、このソナタの「第1主題群」を形成していて、以降、さまざまに変奏されていくことになります。
譜例77 リスト:ピアノソナタ B.jpg
主題 B
主題 A に続く第8小節から。Allegro energico(エネルギッシュに)の部分。最も印象に残る主題で、さまざまに変奏されていく。

譜例78 リスト:ピアノソナタ C.jpg
主題 C
主題 B に続けて第13小節から演奏される。marcato(1音1音はっきりと)の指示がある。主題 B と C で一つの主題とも考えられる。


現在の状況がひとしきり語られたあとで、もうひとつの主題が現れる。

もうひとりの主人公、清新なヒロインの登場である。

一族のひとりであるが、早くに父母を亡くし、後ろ盾がないために全く誰にも相手されない。厳格だが愛情に満ちた祖母に育てられ、集落の外れでひっそりと質素に暮らしている。

美しく聡明なヒロイン。その目を見れば、彼女の中に真の勇気がはぐくまれていることを誰もが感じずにはいられない。

彼女のテーマは、その性格にふさわしく、温かく愛情に満ちた、感動的なメロディである。力強く雄大でもあり、彼女の存在が祝福されたものであることをはっきりと表しているのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここでヒロインのテーマとされているのは、第2主題群の「主題 D」(譜例79)でしょう。さらに「主題 E」(譜例80)もヒロインのテーマの一部だと思われます。2つの主題を合わせると「美しく聡明」で「愛情に満ち感動的」で「力強く雄大」などの言葉がピッタリです。主題 E は主題 C(一族のテーマ)の変奏です。ヒロインも一族の末裔なのです。
譜例79 リスト:ピアノソナタ D.jpg
主題 D
第105小節からの新しい主題。Grandiosoと書かれている部分。「愛情・感動的・雄大」という言葉の印象がピッタリする。

譜例80 リスト:ピアノソナタ E.jpg
主題 E(= 主題 C の変奏)
第153小節からの cantando espressivo(歌うように、感情をこめて)。主題 C の変奏であるが、新しい主題のように聞こえる。


物語が動き出すのは、ある日、牧師館にいつもの手伝いに行った帰りに、ヒロインが気になる男に出会うところからだ。

集落の外れに佇み、じっと何かを見ている男。

その脇には、役人らしき男が付き添い、何かくどくどと説明している。

男を見つめるヒロイン。

初めて見るよそ者なのだが、なぜか心がざわめく。ずっと昔から知っているような気がする ───

やがて、偶然は何度も彼女と男を引き合わせる。牧場でケガした子供を介抱したことから言葉を交わすようになる二人。

男は弁護士で、依頼人の命に従い、訴訟の準備でこの土地にやってきたという。互いに心を惹かれるようになるが、ヒロインは男が時折ぞっとするような目をすることが気に掛かる。

男の存在は、少しずつ集落の中で評判になり、ひそひそと陰で噂が囁かれる。

どうのあいつは、あの一族を訴えるために誰かに雇われているらいし、と。

そのことは一族の主の耳にも遠からず入るところになる。

一族のテーマが流れる部分は、常に緊張感をはらんでいていドラマティックだ。

じわじわと一族を追いつめていく謎の男。彼の周りでは、一族の暗い部分を担ってきた者たちが不慮の事故や他愛のない喧嘩で次々と命を落としていく。

めまぐるしく場面は変わり、一族の男たちをパニックにひきずりこむ。

何が起きているのか? これは一族に対する復讐ふしゅうなのか? あの男はそれに関係しているのか? あの男を陰で操っているのは何者なのか?

彼らは互いに疑心暗鬼に陥っていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』では、ここでいったん、この物語を思い浮かべているマサルの心情が描写されます。


マサルは、さまざまな場面が目の前を通り過ぎていくのを生々しく感じる。

本当に、台詞が聴こえてくるような気さえするのだ。

ディナーでゆらめくロウソクの炎や、勝手口で情報屋に渡される銀貨の鈍い光、馬車のわだちに溜まった雨まで見えるようだ。

この物語には、華麗な登場人物がフル出演だ。気の強い美女や、深謀遠慮にけた叔母など、個性あふれるメンバーには事欠かない。

細やかな情景描写と心理描写も巧みだ。次々とドラマティックな場面が現れ、悲劇のクライマックスを目指して物語は進んでいく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語はクライマックスへと突き進んでいきます。このクライマックスで、「一族」「謎の男」「ヒロイン」の秘密が明かされます。


運命は変えられない。ひたひたと時の歯車は回り、登場人物を引き合わせ、その場所へと運んでいく。

ヒロインは、この物語の中心に、思わぬ形で巻き込まれていく。これまで一族から完全に無視されてきたのに、年頃になり誰の目にも彼女がとても美しいことが明らかになるにつれ、一族の若い男たちが秋波を送ってくるようになったのだ。当惑するヒロイン。

あの謎の男に心を惹かれていたヒロインは、誰の申込にもイエスと言うことができない。

男の方でも、ヒロインには心を許すところをしばしば見せていたが、ある日彼女が一族の末裔の一人であることを知り、逆上する。その理由を追求するヒロイン。

そして男は、ついに自分の目的が一族への復讐、一族を滅ぼすことであると告白するのである ───

物語のクライマックス。

ついに一族は、男がかつて一族の罪状を告発しようとしたため皆で殺した末の息子の子供であるこををつきとめる。当時、生まれたばかりの子供を連れて逃げようとした男の妻も、追いつめて町外れで惨殺した。しかし、彼女が連れて逃げていたはずの生まれたばかりの子供はどこにも見当たらなかった。寒い冬の夜だったし、乳児が育つ可能性は限りなく低い。きっとどこかで死んだと思っていたのに ───

一族は、男に刺客を放つ。

しかし、それぞれが疑心暗鬼に陥っていた一族のものたちは、この機会にとばかりに互いに殺し合いを始めるのである。

男も抵抗し、一族の血塗られた罪が次々と明らかになる。
そこここで血が流され、死体が転がる。

復讐に燃え、自暴自棄になった男は、ヒロインにも手を掛けようとする。

複雑な思いで男を見つめるヒロイン。

そこに悲鳴が上がる。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』の読者は「一族の物語」をこのあたりまで読むと、最後がどういう展開になるか、だいたい予測できます。重大な秘密が明かされ、悲劇で終わる。そういう結末です。


身体を壊してずっと寝込んでいた祖母が、壁に手をついて立ち上がり、二人の姿を見つめている。

祖母は、ひとつの名前を呼ぶ。

愕然とする男。

かつて、息子の腹違いの弟とその嫁が殺されたことを祖母は知っていた。血の繋がりはなかったが、二人とはなぜか通い合うものがあったのだ。

彼女は慄然りつぜんとし、激怒した。だが、その事実を知っていることを話せば、彼女も殺されるだろう。それでも、二人を不憫ふびんに思い、嫁が生んだ子供は彼女がこっそり隠していた。彼女が生んだのは男女の双子だった。将来また相続争いの新たな火種になりそうな男児は遠く里子に出し、女児だけを自分の手元に残した。早世した息子の子供は女の子だったが、彼女もまた身体が弱く亡くなった。それを隠して、その子を自分の孫だということにしたのだ ───

二人はきょうだいだったのだ。

改めて驚愕とショックを込めて、互いの姿を見る二人。それでは、初めて見た時から心惹かれた理由は ───

男は再び絶望にうめき声を上げ、飛び出していく。

そこへ、闇に潜んでいた一族の若い男がやってきて男を刺す。彼は、ヒロインをこの男に取られたと思い、嫉妬の念から彼を付け狙っていたのだ。

闇を切り裂き、ヒロインの悲鳴が吸い込まれていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語は実質的にここで終わりですが、再び冒頭のシーンに戻って「伏線の意味」が明かされ、エンディングを迎えます。


ラストシーンは最初と同じ場所だ。

喪服に身を包んだヒロインがじっと町外れのくさむらに佇んでいる。

兄を初めて見かけた場所。

彼女は町を去ることに決めた。遠い牧師館で手伝いをすることになったのだ。

ふと、彼女は足元の草に埋もれかけた粗末な墓石に気付く。

何気なく土をけ、崩れかけた名前をみた彼女は驚いた。それは、彼女のほんとうの母親の名前だった。ここが母親の殺された場所であり、それを気の毒に思った祖母が内緒で小さな墓石を建てた場所だったのだ。

ヒロインは、やりきれない気持ちで空を見上げる。

冒頭の場面と異なるのは、雲が少しだけ明るく、遠くにわずかながら青空が覗いていること。

ヒロインは、じっとその墓石を見つめたあと、踵を返して静かにその場所を去っていく。

二度と振りかえることなく、ゆっくりとその後ろ姿が遠ざかっていく ───

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

マサルの想像した物語はここまでです。冒頭のさりげない、しかし "意味ありげな" シーンが、最後の最後で重要な意味を持つ。これは極めてよくある話のパターンです。マサルは譜面を閉じます。


かくて長い物語は一巻の終わりとなる。

ぱたんと譜面を閉じる。

いささかベタな話だけど、19世紀のグランドロマンの時代だから、これくらいベタでも許されるよな。

それに、実際、マサルにはこの曲からそういう物語が「聴こえて」きたのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』


大きな屋敷を隅々まで掃除する


以上の「一族の物語」は、ピアニストが ロ短調ソナタ から感じた物語という設定ですが、それは同時に音楽の聴き手が感じた物語であってもよいものです。しかし『蜜蜂と遠雷』で次に展開される文章は、あくまでピアニストの視点、曲を練習して仕上げるという立場から ロ短調ソナタ を見たものです。

譜面を閉じたマサルはピアノの前に向かい、この曲の仕上げにかかります(以下の引用で下線は原文にはありません)。。


曲を仕上げていく作業は、なんとなく家の掃除に似ている。

練習していると、いつもマサルはそう思う。

綺麗な部屋を眺め、住むところを想像している分にはいいけれど、実際に暮らしてみると、話は異なる。

家を維持する掃除は、絶え間ない肉体労働だ。演奏もしかり。

常に家全体を綺麗にしておくのは難しい。

小さな家なら掃除も楽だし、そんなに時間も掛からない。短時間で綺麗になるし、ちょっとさらうだけでいつでも綺麗にしておける。

しかし、大きなお屋敷は掃除も大変だ。ずっと美しいままに保つには、細心の注意が必要になる。

ロ短調ソナタは、とんでもなく大きな屋敷だ。構造は入り組んでいて、凝った意匠もてんこもり。これまでに数多くの人間が出入りし、ピカピカにしてきたお屋敷だ。

こんな大きな家、一人で掃除しろっていうの?

門を開けるのでさえ、重たくて一苦労。車寄せまで行くにも、落ち葉を掃いていかなければならないし、元の姿がどういうものだったのか、綺麗になった時はどんなふうなのかを常に考えていなければならない。

古い壁紙や、真鍮しんちゅうの手すりなど、どうやって掃除したらいいのか分からない部分も多い。

まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる。

自信はあった。マサルには最新式の掃除道具があるし、スタミナもある。

しかし掃除を始めてみると、予想以上に大変なことが分かってくる。

とてもじゃないが、ベランダの隅まで掃除が行き届かない。あまりに広くて、すぐにふうふう息切れしてしまう。

そこもあそこも掃除し残しているし、窓ガラスも拭ききれない。天井のすすを払う余裕もない。最初のうちは、長い廊下をモップ掛けするだけで精一杯。

一箇所を重点的に掃除していると、しばらくお留守になっていたところに、いつのまにかまたほこりが積もっている。

想像以上にタフな曲だった。

マサルはもう一度屋敷の外に出て、考える。

ただ闇雲に掃除するだけではとうてい綺麗にならないことが分かってくる。

持てる力のすべて、技術のすべてを駆使する総力戦になるのを覚悟する。

効率のよい方法をいろいろ試してみるものの、結局最後は、愚直に一部屋ずつ丁寧に磨いていくしかないという結論に達した。

それでも、辛抱強く磨いていくと、毎日さまざまな発見がある。

誰もが見向きもしなかった場所に、素敵な意匠があったりするし、これまで誰も掃除をしなかったクローゼットの引き出しが見つかったりする。誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

毎日繰り返し練習していると、玄関ホールにワックスをかけるタイミングも、掃除の途中で一休みするタイミングも分かってくる。

少しずつ、屋敷は綺麗になっていく。すべての部屋が、廊下が繋がり、整然とした建築当時の姿が現れてくる。

大広間に向かう階段の両端は、埃がたまりやすいからまめにモップを。

時には、すべての窓を開け放して、屋敷に風を通す。

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所も分かってくる。お客様が何かの拍子に見かけたら、「ほう、こんなところまで目配りがきいているんだ」と感心してくれる場所も把握している。

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せてくれることにも気付いた。

やがてその日はやってくる。

意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を表す日。

周囲の景色の四季の変化や、季節ごとに必要な対応も理解している。

この屋敷は自分のもの。自分の一部。庭の草木のいっぽんいっぽんまで覚えているし、目を閉じれば今どんな風に揺れているのかも鮮明に浮かぶ。

そんな日がやってくるのだ。

この曲のすべてを知っていると思う瞬間

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

このあと『蜜蜂と遠雷』は、マサルがピアノコンクールの第3次予選でロ短調ソナタを弾いているシーンと重なってきて、そして曲のエンディングを迎えます。コンクール会場の聴衆は圧倒的な拍手を送ります。


「一族の物語」と「大きな屋敷の掃除」


「一族の物語」は確かに "ベタな" ストーリーです。というか、"ベタ過ぎる" 物語です(2人は兄と妹だった!!)。しかしこれはロ短調ソナタが "ベタ" というわけではありません。この物語は曲の展開をそのままなぞっているのではなく、ロ短調ソナタという曲から受ける "印象" と、物語から感じる "印象"、その印象の総体が類似するように書かれたストーリーなのです。

このストーリーの要点をいくつかのキーワードで表すと、

  不穏、謎、秘密、陰謀、醜さ、禍々まがまがしさ、嫉妬、虚しさ、復讐、因果応報、伏線、因縁、あらがえない運命、過去と現在の交錯、驚きの真実、急展開、愛情、勇気、清新さ、かすかな希望、未来への一歩

などでしょう。これらの多様な要素が絡み合って物語を構成しています。これは「複数の主題が変容を重ねて複雑な構造を作り上げている」ロ短調ソナタを言語化したものと言えるでしょう。

もう一つ、キーワードを付け加えるなら、ある種の "おどろおどろしさ" です。「異様な雰囲気が漂う、大げさな感じ」と言ったらいいのでしょうか。これはロ短調ソナタに限らずリストの特定の曲がもつ一面であり、聴き手がリストに "のめり込む" 大きな魅力となっています。そもそも『超絶技巧練習曲』などというネーミングが "おどろおどろしい" わけです。何となく "聴いてはいけない曲" といった感じがある。

恩田さんは「一族の物語」を "グランドロマン" と書いていますが、ゴシック・ロマンにも近いものです。もし一族が、かつて殺害した男とその妻の亡霊に悩まされていたとか、全く不可解な事故で一族の何人もが死に、男たちは次は自分の番かと怯えていた、というような(これまた "ベタ" な)ゴシック的要素を付け加えると、もっと "おどろおどろしく" なります。

「一族の物語」はロ短調ソナタの "標題音楽的な解釈" とみることができます。リストは他の多くの作品で標題を示したり、譜面に書いたりしていますが、標題音楽というのは「物語音楽」(オペラ、バレエの音楽など)ではないし「描写音楽」でもありません。あくまで「標題」であって、タイトルと本文の間に位置する "前置き" です。小説家は本の扉に過去の文芸作品から引用した題辞(= モットー)を書くことがありますが、そのようなものだと解釈すべきでしょう。「一族の物語」は、いささか長い "題辞" だけれど。

付け加えると「一族の物語」に登場する人物は、謎の男とヒロイン、祖母を含めて、すべて一族の人間です。ロ短調ソナタは少数の主題を変化させ、変容を繰り返すことで成り立っています。そのあたりを汲み取った物語になっています。



その次の「大きな屋敷の掃除」の文章ですが、ピアニストがロ短調ソナタを練習し「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」にまで至る、その過程を "大きな屋敷を隅々まで掃除する" ことに例えたのは大変に印象的です。かなりのハードワークでありながら、そこにいろいろな発見があり、そして喜びがある。特に下線をつけたところ、

誰もが見向きもしなかった場所に素敵な意匠がある

誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せる

などの表現は、ロ短調ソナタの魅力をよく伝えていると思いました。


音楽を言語化する試み


恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』がどういう小説かと言うと、一つは「音楽を言語化する試み」です。上に引用したのはリストのロ短調ソナタですが、コンクールを予選から本選まで描いているので、それ以外にも様々な曲が出てきます。音楽だけでなく、自然界にある「音」も言語化の試みがされている。

その中でも特にリストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」です。この曲を「一族の物語」と「大きな屋敷を掃除する」という視点でとらえたのには感心しました。小説家でしかなしえない音楽の言語化。そういう風に思いました。

このロ短調ソナタの "言語化" を読んで考えされられたのは、音楽にとっての「複雑性」です。ロ短調ソナタは複雑だと言われていて、実際、聴いていてもそうなのですが、よくよく考えてみるとこの程度の複雑性は、小説や戯曲(演劇)、映画などではあたりまえなのです。「一族の物語」を "ベタな" 話と感じるように、この程度のストーリー展開は "あたりまえ過ぎる"。また、大きな屋敷を隅々まで掃除することを考えてみても、「もう投げ出したい」から「何と美しい光だ」まで、その時の人の感情は多様だし、掃除の過程での人の感情をたどって文章化したとしたら極めて "複雑" になるでしょう。

No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」で書いたことを思い出しました。マーラーのシンフォニーでは、全く異質なメロディを同時進行させたり、突如として無関係な旋律が "乱入して" きたりするのですが、「異質なものの同居、ないしは交錯」は、文学とか舞台とか映画では常套手段なのですね。マーラーのシンフォニーとロ短調ソナタでは音楽の質が全く違いますが、最初は "複雑に聴こえる" ことでは似ています。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』における "音楽の文章化" を読んで、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」は20世紀芸術を予見した曲だと、改めてそう感じました。音楽を文章化することでクリアに見えてくるものがある。『蜜蜂と遠雷』の狙いはそこだったのでしょう。




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No.208 - 中島みゆきの詩(11)ひまわり [音楽]

今までに中島みゆきさんの詩について11回、書きました。次の記事です。

No.  35 - 中島みゆき「時代」
No.  64 - 中島みゆきの詩(1)自立する言葉
No.  65 - 中島みゆきの詩(2)愛を語る言葉
No.  66 - 中島みゆきの詩(3)別れと出会い
No.  67 - 中島みゆきの詩(4)社会と人間
No.  68 - 中島みゆきの詩(5)人生・歌手・時代
No.130 - 中島みゆきの詩(6)メディアと黙示録
No.153 - 中島みゆきの詩(7)樋口一葉
No.168 - 中島みゆきの詩(8)春なのに
No.179 - 中島みゆきの詩(9)春の出会い
No.185 - 中島みゆきの詩(10)ホームにて

今回はその続きで《ひまわり“SUNWARD”》を取り上げます。なぜかと言うと、前回の No.207「大陸を渡った農作物」で、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物として向日葵ひまわりに触れたため、この曲を思い出したからです。

実は No.67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」でもこの詩を取り上げたのですが、その時はいくつかの中の一つであり、また詩の一部だけだったので、再度この詩だけに絞って書くことにします。


ひまわり“SUNWARD”


《ひまわり“SUNWARD”》は、1994年に発売されたアルバム『LOVE OR NOTHING』に収められた曲で、その詩は次のようです。


ひまわり“SUNWARD”

あの遠くはりめぐらせた
妙な棚のそこかしこから
今日も銃声は鳴り響く
夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが
燃え立つように舞い上がる
その音に驚かされて
赤ん坊が泣く

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう

A1994 『LOVE OR NOTHING


Love or Nothing.jpg

LOVE OR NOTHING-2.jpg
中島みゆき
LOVE OR NOTHING」(1994)

①空と君のあいだに ②もう桟橋に灯りは点らない ③バラ色の未来 ④ひまわり“SUNWARD” ⑤アンテナの街 ⑥てんびん秤 ⑦流星 ⑧夢だったんだね ⑨風にならないか ⑩YOU NEVER NEED ME ⑪眠らないで

ちなみにこのCDは、女性アーティストなら一度はやってみたいと思うであろうジャケットに仕上がっている。


最初に出てくる「柵」と「銃声」という言葉が、この詩の情景を端的に表しています。それは戦争、ないしは抗争です。柵の両側に分かれた勢力が銃を撃ち合っているという状況です。

「柵が作られ、銃声が鳴り響く場所」はどの地域(国)のことだとはありませんが、具体的に想像することも可能です。たとえばこのアルバムが発売された頃は、ユーゴスラビア内戦(1991-1995)のまっただ中でした。旧ユーゴスラビア連邦が共和国に解体していく過程で起こった内戦、ないしは紛争です(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニアに解体した)。複数の民族と宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)と地域性が複雑に絡み合った戦争です。従来は仲良く暮らしていた隣同士の村が、いがみ合い、殺し合いになることもあった。

  私の中の父の血と
私の中の母の血と
どちらか選ばせるように
棚は伸びてゆく

とあります。従来、柵(壁、境)がなかった所に柵が作られていく。しかも「私」には柵の両側の2つの血が流れている。両親の出身地は柵の両側に分かれてしまった・・・・・・。多民族国家ではこのような状況が頻発したと考えられます。


戦争で分断された家族


戦争(ないしは抗争・紛争)というこの詩の背景を補強するのが《ひまわり“SUNWARD”》という題名です。この題名が昔の名画『ひまわり』(1970)を連想させるからです。

映画『ひまわり』はイタリア人夫婦の物語です。旧ソ連戦線に出征して音信不通になった夫を、妻がロシアまで探しに行く。しかしやっと見つけた夫は命の恩人のロシア人女性と結婚していた、というストーリーでした。戦争のもたらす悲劇を描いた映画です。

girasoli-hd-movie-title.jpg
映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語の「ひまわり」。このタイトルバックを始めとして映画には "一面のひまわり畑" のシーンが出てくるが、それが強烈な印象を残す。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの主演で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。ヘンリー・マンシーニ作曲の "せつない" 音楽が印象的な作品でした。そしてそれ以上に印象的なのが見渡す限り一面のひまわり畑の映像で、このショットが強烈に心に残る作品です。

なぜここで「ひまわり畑」なのか。ひとつは、No.207「大陸を渡った農作物」で書いたようにロシアやウクライナがヒマワリの大産地だからです。しかしそれだけの理由ではありません。この「ひまわり畑」の下には戦争で死んだイタリア兵やソ連兵が眠っているというのが映画での設定です。「ひまわり畑」は戦争(ないしは戦場)の象徴でもある。

この映画を若い時に見た人は「戦争で分断された家族 ひまわり」ないしは「戦場 ひまわり」という連想が容易に働くのではないでしょうか。何回か書きましたが、映画(名画)のもたらすインパクトは強いのです。そのインパクトは、物語やストーリーよりも、むしろ特定の映像・場面・シーンが印象に残る強さだと思います。そして中島さんも連想が働いたのではないか。

というのも『ひまわり』の日本公開は1970年秋であり、中島さんは大学の1年生です。中島さんはこの映画を札幌で見たのではないかと、ふと思ったのです。

ふと思ったのには理由があります。1970年秋にもうひとつの外国映画が公開されました。学生運動を背景に、青春の高揚と挫折を描いた『いちご白書』です。No.35「中島みゆき:時代」に、中島さんの名曲「時代」は『いちご白書』の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響されたのではという推測を書きました。そこから同時期に公開された『ひまわり』を連想したわけです。

映画「ひまわり」.JPG
映画「ひまわり」は2011年にデジタル・リマスター版が公開されたが、その予告編より。ちなみに「いちご白書」も同じ年にリマスター版が公開された。

とにかく「ひまわり」=「戦場、ないしは戦争で分断された家族」というのが詩の背景です。柵ができ、銃声が鳴り響き、「私」の両親は柵の両側に属することになってしまった状況です。


ロミオとジュリエット


ところで、この詩における最も重要なフレーズは、何回か繰り返される、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

だと思いますが、これはシェイクスピアを踏まえているのではないでしょうか。

juliet-house.jpg
ジュリエットの家
(ヴェローナ市のHP)
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、北イタリアのヴェローナの街が舞台です。キャピュレット家のジュリエットはロミオと恋に落ちますが、そのロミオが敵同士として憎みあってきたモンタギュー家だと知って嘆き、悲しみます。そして自宅の2階バルコニーでロミオへの想いを語ります。それを実はロミオが下で聞いているという、ドラマの前半のヤマ場というか、劇的な場面です。ちなみに No.53「ジュリエットからの手紙」で書いたように、現在のヴェローナの街にはバルコニー付きの「ジュリエットの家」があって観光名所になっています。

このバルコニーの場面におけるジュリエットの「おお、ロミオ、ロミオ。どうしてあなたはロミオ?」というせりふは大変に有名ですが、その続きの部分を引用すると次の通りです。


ジュリエット
おお、ロミオ、ロミオ!どうしてあなたはロミオ?
お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。
それがだめなら、私を愛すると誓言して。
そうすれば私もキャピュレットの名をすてます。

ロミオ(傍白)》
もっと聞いていようか、いま話かけようか。

ジュリエット
私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ、
モンタギューの名をすてても、あなたはあなた。
モンタギューってなに?
手でも足でもない、腕でも顔でもない、
人間のからだのなかのどの部分でもない、
だから別のお名前に。
名前ってなに?バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

だからロミオというお名前をやめたところで
あの非のうちどころのないお姿は、
呼び名はなくてもそのままのはず。
ロミオ、その名をおすてになって、
あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、
この私を受けとって。

シェイクスピアロミオとジュリエット
第2幕 第2場より
(小田島 雄志・訳。白水社。1985)

アンダーラインを付けたところの原文は、

  that which we call a rose by any other name would smell as sweet.

です。この「A rose by any other name would smell as sweet.」という一文は、シェイクスピアの引用ということを越えて、格言として英語圏で通用しているようです("名前より本質" という意味)。余談ですが、No.77「赤毛のアン(1)文学」で書いたように、このジュリエットのせりふを踏まえた表現が『赤毛のアン』に出てきます。


「そうかしら」アンは思いにふけった顔をした。「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけれど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇があざみとか座禅草スカンク・キヤベツという名前だったら、あんないい香りはしないはずよ。・・・・・・」

松本侑子・訳『赤毛のアン』
第5章「アンの生い立ち」
(集英社文庫)

本が好きで、ちょっと変わった考え方をするアンの性格がよく出ているところです。中島みゆき《ひまわり“SUNWARD”》に戻りますと、

  シェイクスピア
  バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま

中島みゆき
  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は香り続けるだろう

の2つは発想が酷似しています。これはまったくの偶然でしょうか。そうかも知れません。アンは「本で読んだ」と言っているので、作者のモンゴメリがシェイクスピアを踏まえたことが明白ですが、中島さんの場合は偶然かもしれない。

ただし、そうとも言えない「気になる点」が2つあります。その一つ目ですが、《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、

  柵の両側に分かれた二つの勢力が抗争している、その象徴が銃声

という状況設定の詩です。一方「ロミオとジュリエット」は、

  ヴェローナの町におけるモンタギュー家(ロミオの実家。ローマ教皇派)とキャピュレット家(ジュリエットの実家。神聖ローマ皇帝派)の抗争を背景にし、若い2人の死で終わる悲劇

です。二つの勢力の抗争が背景になっているという点で似ているのです。

2つ目の気になる点は「花は香り続けるだろう」という言葉が、題名の "ひまわり" と軽いミスマッチを起こしていることです。もちろんひまわりも香りますが、一般的に「香りのよい花」だとは見なされていません。香りがでられる花は、ジュリエットが引き合いに出しているバラを筆頭に、スイセン、ジャスミン、ラベンダー、ユリ、キンモクセイ、クチナシ、梅、沈丁花じんちょうげなどだと思います。バラは香水の成分になったりするほどです。

一方、キク、チューリップ、アサガオ、シクラメン、コスモス、桜などは「香り」というより「花の形や色、咲く姿」が評価されるわけです。香りはあっても弱い香り、淡い香りです。品種によって程度の違いはあると思いますが、一般的に「香りの花」という意識はない。詩の題名になっているひまわりはキク科の植物です。野菊やデイジー程度の香りはするが、そんなに香りが引き立つ花ではありません。従って、題名のひまわりと詩の表現をマッチさせるなら、

  たとえどんな名前で呼ばれるときも
花は咲き続けるだろう

ぐらいが適切な感じもします。その方が「いかにも生命力が強そうな」ひまわりに合っていそうです。しかしこの詩は「咲く」ではなくて「香る」という言葉になっている。この「ひまわり」と「香る」の組み合わせには軽い(あくまで軽い)ミスマッチを感じるのですが、一般的に言って中島さんの詩は一つ一つの言葉が慎重に選ばれています。ここは「香る」でなければならない理由があるはずです。



以上の2つの「気になる点」から判断すると、やはり中島さんは意図的に「ロミオとジュリエット」を踏まえたのではと思います。だとすると《ひまわり“SUNWARD”》から具体的な何らかの戦争や内戦(たとえばユーゴスラビア内戦)を思い浮かべるよりも、民族・国籍・宗教・政治・信条・思想・家系などに起因する、もっと一般的なあらそいや対立をイメージすべきでしょう。

中島さんの詩を "狭く受け取る" と誤解してしまう、そういったことがよくあります。いかにも具体的事物を指していそうな言葉でも、よく考えるともっと汎用的というか、広い意味で使われていたりする。中島さんは言葉に象徴性を持たせることが多いし、No.64「中島みゆきの詩(1)自立する言葉」で書いたように、彼女は象徴詩が得意なのです。

というように考えると《ひまわり“SUNWARD”》という詩は、たとえば現在、世界各地の "多民族国家" や "移民受け入れ国家" で問題になっている「民族間の軋轢あつれき、ないしは対立、反目」を想像してみても良いと思います。現に、「分断派」と「融合派」が政治的に対立する構図の中で大統領選挙が行われたりしているのです(2016年:アメリカ、2017年:フランス)。

ここまで書いて思い出すことがあります。「ロミオとジュリエット」を換骨奪胎して現代アメリカに置き換えた有名なミュージカルがあります。『ウェストサイド・ストーリー』です。このミュージカルは、ポーランド系アメリカ人の少年グループ(=ジェット団)とプエルトリコ系アメリカ人の少年グループ(=シャーク団)の対立が、ストーリーの骨格になっています。つまり移民国家・アメリカにおける出自の違いによる対立が背景です。

「ロミオとジュリエット」は北イタリア・ヴェローナの名門家系の "争い" ですが、それをグッと小さくするとニューヨークの "チンピラ" 少年グループの抗争になる。一方、ぐっと視点を広げて一般化すると《ひまわり“SUNWARD”》が描いているような世界観になる。そう考えることもできると思います。

「たとえどんな名前で呼ばれるときも / 花は香り続けるだろう」という一節は、「たとえどんな名前やレッテルで呼ばれようとも、人間であることは変わらない」というメッセージになっています。それはジュリエットがバルコニーで訴えた心の叫びと本質的に同じです。


ひまわりが象徴するもの


この曲の題名の英語部分は "sunflower" = ひまわり ではなく "sunward" です。sunward は「太陽に向かう」という意味の形容詞ないしは副詞で、向日葵ひまわりの "向日" の部分の英訳になっています。

なぜ日本語で「ひまわり = "向日" あおい」なのかというと、ひまわりは常に太陽に花を向けるという "伝説" があるからです。それは必ずしも正しくないのですが(成長の初期段階ではそういう傾向がある)、そう思われているからこそ向日葵ひまわりという和名になった。実はあおいも「仰ぐ日」からきているらしい。葉に向日性があると言います。

  横道にそれますが、今、向日性と書きました。この「向日性」とその英訳である 「heliotropism」は No.142「日本語による科学(1)」に出てきました。向日性が何を意味するのか、日本人には明白ですが、heliotropismは普通の英米人にとっては難しい単語です。普段使っている言葉で専門用語が作れるのが日本語の特質、という話でした。

「太陽に向かう」ということの含意は、"前向き" とか "希望" とか "未来へ" といったイメージでしょう。そしてなぜ「太陽に向かう」のか、それは「太陽の光 = 誰にでも均等に降り注ぐもの」を求めるからです。そのことが詩の中で力強く宣言されています。

  あのひまわりに訊きにゆけ
あのひまわりに訊きにゆけ
どこにでも降り注ぎうるものはないかと
だれにでも降り注ぐ愛はないかと

わざわざ英単語の sunward を持ち出したのは「太陽に向かう」ということを明確にしたかったからでしょう。『ひまわり』とか『向日葵ひまわり』だけよりも、タイトルの意図が明確になります。そして中島さんはタイトルでこの詩の「主題」を示した。

「日本語の題名に英語の副題」をつけるということで思い出すのは、『LOVE OR NOTHING』(1994)の前年に発表されたセルフ・リメイク集『時代 - Time goes around』(1993)です。Time goes around は「時は回る」という意味ですが、この副題によって中島さんは《時代》という詩のテーマが「時の循環」だと(改めて、題だけで)明確にしたわけです。《ひまわり“SUNWARD”》というタイトルは、それとよく似ています。


ひまわりの2重の意味


《ひまわり“SUNWARD”》についてまとめると、この詩は "ひまわり" に2重の意味を込めたと考えられます。

戦場、ないしは戦争で分断された家族、それをもっと一般化した世の中の "争い" 全般を象徴するものとしての "ひまわり"

太陽の光に向かう、誰もが均等に与えられる愛を求める、という意味での "ひまわり"

の2つです。この詩は "ひまわり" という花が発想の最初にあって、そこから全体の詩を構成したという気がします。ひまわりをモチーフにした絵画や歌はいろいろあります。それらの作品がひまわりにイメージしているものは、

夏という季節
太陽を思わせる色と形の花
大きくて印象的な花
背が高く、まっすぐに立つ姿

などです。しかしこの中島作品はそれらとはちょっと違います。そこが彼女の独特さというか、個性なのでしょう。考えてみると ② の「太陽を向く」というのは、実物のひまわりを見たとしても実感できるわけではありません。しかし言葉としては向日葵ひまわりであり、「太陽に向く」が本来の意味です。このあたり、言葉そのものにこだわる中島さんの詩人としての感性がよく現れていると思いました。


誰にでも降り注ぐ光


この詩は "争い" を解決するものとしての「誰にでも降り注ぐ光(=愛)」がテーマになっています。はたしてそれは何なのか、どこに求めたらいいのかと・・・・・・。普通に考えるとその有力候補は宗教なのでしょうが、その宗教や宗派が抗争の発端になり排他性の原因になっていることが多々ある。また「誰にでも降り注ぐ光は嫌だ。自分たちだけに降り注ぐ光が欲しい」と声高に叫ぶ人たちもいる。

この詩は No. 67「中島みゆきの詩(4)社会と人間」で取り上げたように "社会" に関わった詩ですが、発表から23年たった現在、社会との関係性においても十分に通用する詩であり、それどころか増々輝いてみえます。それだけ普遍性のある内容だと思います。

続く


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No.207 - 大陸を渡った農作物 [文化]

前回のNo.206「大陸を渡ったジャガイモ」の続きです。アンデス高地が原産のジャガイモは16世紀以降、世界に広まりました。もちろん日本でもジャガイモ料理は親しまれていて、肉じゃがやポテトサラダ、ポテトコロッケなどがすぐに浮かびます。ジャガイモはドイツの「国民食」であり、ジャガイモのないドイツ料理など想像もできないわけですが、ドイツだけでなく世界中の食卓にあがっています。

フライド・ポテト(アメリカでフレンチ・フライ、英国でチップス)とその仲間も世界中で食べられています。ベルギーに初めて旅行したとき、食事のときにもベルギー・ビールのつまみにも、現地の人はフライド・ポテト(ベルギーで言う "フリッツ")にマヨネーズをつけて食べていました。極めて一般的な食べ物のようで、それもそのはず、フライド・ポテトはベルギーが発祥のようです。

ムール貝とフリッツ.jpg
ムール貝の白ワイン蒸しとフリッツ。これを食べないとベルギーに行ったことにならない(?)、代表的なベルギー料理(Wikipedia)。

ジャガイモと同じようにアメリカ大陸が原産地で、16世紀以降に世界に広まった農作物や食品はたくさんあります。No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、世界で作付け面積が多い農作物は、小麦、トウモロコシ、稲、ジャガイモだと書きましたが、そのトウモロコシもアメリカ原産で、その栽培種は中央アメリカのマヤ文明・アステカ文明で作り出されたものです。


トウモロコシ


トウモロコシは食用にしますが、それよりも重要なのは飼料用穀物としてのトウモロコシです。日本の畜産業で使われる飼料は、そのほとんどがアメリカなどからの輸入で、その飼料の重要な穀物はトウモロコシです。日本はヨーロッパや南北アメリカ、オーストラリアなどと違って、家畜を放牧する広大な草地が少ないわけです。マクロ的に言うと(輸入)トウモロコシが日本の畜産を成り立たせています。

司馬遼太郎氏は小説家であると同時に、日本や世界の文明についての思索を巡らせ、数々のエッセイや旅行記、対談集を発表されました。その対談集の中に次のような文章があります。


遊牧という地球規模のスペースを必要とした生産が消えていった原因の一つは、15世紀末にコロンブスが新大陸で発見したトウモロコシでした。トウモロコシの原種というのはつまらないものだったらしいですけど、ああいうふうにふっくらさせたのはアメリカ人だそうで、それができて、濃縮飼料というか、濃密飼料というか、濃密の食べ物ですから、動物が移動しなくてもよくなった。だから、スペインなどでも、大きな牧場を必要とせずに、トウモロコシ畑を作っておけばたくさんの家畜を飼うことができる。

司馬遼太郎
対談集「日本人への遺言」
(朝日文庫 1999)

司馬氏はモンゴルや遊牧文化に造詣が深く、遊牧の視点からの発言です。トウモロコシが遊牧、ないしは牧畜の "ありよう" を変えてしまったという主旨です。

ヨーロッパ大陸を列車やバスで旅行するとします。日本と違って都市部を離れると一面の田園地帯になることが多いわけです。フランスなどは国土の70%が農地だと言います。車窓から何が植えられているかを見ていると、しばしばトウモロコシを見かけるのですね。牧草も見かけるがトウモロコシ畑も多い。トウモロコシが牧畜を変えたことを実感できます。

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オーストリアとスイスの間にある小国、リヒテンシュタインのトウモロコシ畑(Wikipedia)

トウモロコシは牧畜を変えただけでなく、肉質も変えたと言えるのではないでしょうか。オーストラリア産の牛肉は "赤み肉" が多いわけです。放牧で草を食べて育った牛は脂身が少なく赤み肉が多くなるからです。それが牛の自然な姿です。一方、牛舎で飼料だけで育てると脂身が多くなる。オーストラリアは日本への輸出のために牛舎での肥育も取り入れてきていると言います。

和牛は輸入飼料(トウモロコシ、大豆、大麦が主)があって成立するものです。その頂点として、世界に名をとどろかせている "神戸ビーフ"(No.98「大統領の料理人」参照)をはじめとする日本各地の "ブランド牛" がある。日本では「脂身が多い牛肉を前提とした食文化」が出来上がったのですが、その陰には飼料としてのトウモロコシがあることも覚えておくべきでしょう。


サツマイモとカボチャ


サツマイモとカボチャもアメリカ大陸原産です。サツマイモの原産地は南米のペルー付近と言われています。痩せた土地でもよく育ち、ジャガイモと同じで初心者でも育てやすい。日本では江戸時代以降、飢饉対策として広く栽培されました(教科書で習った記憶があります)。食糧難に陥ったときにそれを救う意味で栽培される食物を「救荒食物」と呼びますが、その代表的なものです。太平洋戦争中、戦後の食料難の時代にも栽培が広がりました。国会議事堂の前を耕地にしてサツマイモを作っている写真を見たことがあります。

カボチャも、トウモロコシと同じく中央アメリカ原産の野菜です。野菜の中でも生命力が強く、栽培が比較的容易です。江戸時代以降は救荒食物としても重要でした。

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国会議事堂の前が耕地になり、サツマイモが栽培された。1946年の画像(Wikimedia)


トマト


トマトは南米のアンデス高地が原産で、中央アメリカのアステカ文明で栽培種が作られました。トマトはサラダなどで生食すると同時に、トマトソースなどにして料理に使います。特にイタリア料理です。ジャガイモがないドイツ料理が想像できないように、トマトがないイタリア料理も考えられないわけです(まずピザが成り立たない)。またトルコ料理もトマトを使うことで有名です。生食するとともに、煮込み料理にトマトを多用します。これらは17-18世紀かそれ以降に本格的に広まったことに注意すべきでしょう。

少々意外なことに、トマトは世界の野菜で最も収穫量の多い野菜(重量ベース)のようです。これはトマトケチャップなども含む調味用食材としての利用が多いからです。その理由ですが、トマトはズバ抜けてグルタミン酸の含有量が多い野菜です。No.108「UMAMIのちから」で書いたように、グルタミン酸は「第5の味覚」である "UMAMI" の主要成分です。だからトマトなのでしょう。それに加えて爽やかな酸味がある。

以前、テレビの紀行番組で見たのですが、南イタリアでは今でも自家製のトマトの瓶詰めを作る家庭があるようです。収穫されたイタリアン・トマトを少々熟成し、煮込んだあと潰して瓶に詰める。それを大量に作る。北イタリアに別居している息子夫婦も帰省して手伝う、それがマンマの味を支えている・・・・・・みたいな。

サンマルツァーノ.jpg
調理用イタリアン・トマトの代表的な品種、サンマルツァーノ
(site : natural-harvest.ocnk.net)

日本人は昆布からグルタミン酸を抽出したダシを料理に使うわけですが、イタリア人は類似のことをトマトでやったという見方ができると思います。もちろん日本でも料理にトマトは使うわけで、和製洋食ともいえるオムライスやナポリタンはトマト(ケチャップ)の味付けが必須です。カゴメ株式会社はトマトで成り立っています。


トウガラシ


トウガラシ(唐辛子)も中央アメリカ原産の野菜です。日本へは16世紀末から17世紀初頭に伝えられました。その日本を経由して朝鮮半島に伝わったというのが定説です。朝鮮半島では以降、200年かけてトウガラシが広まりました。つまり日本の江戸時代に広まったわけです。それまでのキムチは辛くなかった(と考えるしかない)。

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日本で栽培されているトウガラシの品種の一つ「鷹の爪」。熊本県人吉市のホームページより
(site : www.city.hitoyoshi.lg.jp)

今となってはトウガラシを使わない韓国料理は想像できないわけです。キムチは言うに及ばず、鍋にトウガラシ、スープにトウガラシ、刺身にもトウガラシです(!!)。少々古いですが1975年の統計で、韓国人一人あたりの平均一日のトウガラシの使用量は5~6グラム、それに対して日本の使用量は一人年間1グラムだそうです(丸谷才一「猫だって夢を見る」より。元ネタはハウス食品が発行した『唐辛子遍路』という本)。韓国料理だけでなく中国の四川料理や(麻婆豆腐、豆板醤・・・・・・)、タイ料理でもトウガラシを多用します。トウガラシの辛みに魅了される、ないしは "やみつき" になるのは何となく分かる気がします。

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ハンガリー産のパプリカ。ハンガリー食品・雑貨輸入販売店「コツカマチカ」のホームページより
(site : www.kockamacska.com)

ピーマンとパプリカは、辛み成分(=カプサイシン)が少ないトウガラシの栽培品種です。ハンガリーに行くと、やたらとパプリカが目につきます。そもそもハンガリーで作り出されたもので、パプリカはハンガリー語(マジャール語)です。パプリカのないハンガリー料理も考えられない。これらはいずれも日本でいうと江戸時代以降に広まったことに注意すべきでしょう。


カカオ


カカオは中南米原産の植物です。カカオの果実の中の種子(カカオ豆)がココアやチョコレートの原料になります。

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カカオの実とカカオ豆(Wikipedia)

チョコレートは菓子の中でも独特のポジションにあります。つまり菓子職人の中でもチョコレート(ショコラ)職人はショコラティエと呼ばれていて、その地位が確立しています。このブログの記事では No.117「ディジョン滞在記」で、フランスのディジョンにあるファブリス・ジロットの本店のことを書きました。

アメリカのギラデリ社は、世界のチョコレート・メーカーの中でも最も古い会社の一つです。その創業は1850年頃で、日本で言うと江戸時代です。160年以上続く会社というのは世界でもそう多くはないわけで、チョコレート文化の強さを感じます。ギラデリ社はサンフランシスコが発祥で、その歴史的な工場跡やショップ群は "ギラデリ・スクウェア" と呼ばれていて、観光スポットになっています。かつての工場跡などを見学するとチョコレート産業の歴史を感じます。

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ギラデリ・スクウェア(サンフランシスコ)
(site : www.destination360.com)

チョコレートは人間が食べると何ともないが、動物が食べると中毒を起こすそうです。コロンブス到達するはるか以前からのアメリカ大陸の住人が人類に与えてくれた「贈り物」だと言えるでしょう。


落花生


落花生も南米、ペルーが原産地です。落花生は「地中で実を結ぶ」という特異な豆です。花をつけたあと、花の根元から "つる" が伸び、それが地中に潜り込んで、地中に鞘ができ、その中に実ができる。よくよく考えると奇想天外な植物です。

落花生の成長.jpg
落花生のできかた。千葉県八街市のホームページより引用。
(www.city.yachimata.lg.jp)

栄養価が高く、ピーナッツ油をとったりもできます。すりつぶしてピーナッツバターにしても独特のうま味がある。

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Peanutsの50年の歴史をたどった、作者・シュルツ氏の本


スヌーピーやチャーリー・ブラウンが登場する、シュルツ作の漫画のタイトルは「ピーナッツ」です。「ピーナッツでも食べながら気楽に読める漫画」という意味だと言われていますが、Wikipedia によると、この題名は作者のシュルツが決めたものではなく出版エージェントが決めたもののようです。英語の peanuts には「つまらないもの、とるに足らないもの」という意味があり、シュルツはこのタイトルが不満だったと・・・・・・。

しかし「ピーナッツでも食べながら」とか「とるに足らない」と言われるということは、裏を返せば、それだけ広まっていて愛されている証拠です。あたりまえ過ぎて、愛されていること自体があまり意識されていないということでしょう。シュルツさんはこのタイトルに誇りを持ってもよかったと思います。


タバコ


タバコもアンデス地方原産の植物ですが、世界中に広まってタバコ文化を形成してしまいました。紙巻きタバコ、キセル、パイプと、喫煙方法も多彩です。

宮崎市のタバコ畑.jpg
葉たばこの栽培。宮崎市のホームページより
(site : www.city.miyazaki.miyazaki.jp)

この数十年、タバコを吸うことによる肺ガンの発症や、受動喫煙による健康被害に関する知識が広まり、喫煙人口は減少してきました。受動喫煙だけをとってみても、日本国内で受動喫煙が原因で年間約15,000人が亡くなっており(国立がん研究センターの推計)、受動喫煙による医療費の増加は年間3200億円にのぼるそうです(厚生労働省研究班の推計)。

この状況に対応するためタバコ会社は "電子タバコ" に力を入れています。液体ないしはペースト状の "専用タバコ" を加熱して蒸気を発生させる電子機器ですが、日本ではフィリップ・モリス社のアイコス(iQOS)がブレイクしていて、現在は入手困難らしい。

そこまでして "タバコもどき" を吸う必要があるのかと思いますが、中毒性のある文化を変えるのでは容易ではないということでしょう。アメリカでは30年ほど前から「建物の中は全部禁煙」というケースがよくありました。禁煙文化が最も進んでいるのはアメリカではないかと思います。肥満と同じで「禁煙できないのは意志薄弱な証拠」のように見なされている感じもあります。

とにかく、アメリカ大陸原産で世界に広まり、歴史に影響を与え、その程度が大だった農作物としては、タバコが一番かもしれません。


ヒマワリ


ヒマワリ(向日葵)原産は北アメリカの西部です。日本では農作物というイメージは薄いと思いますが、世界的にみると種子を食用にしたり、またヒマワリ油をとったりと、重要な農作物です。

ヒマワリの大産地はロシアとウクライナで、この2国の国花はヒマワリです。このことを如実に示したのが、1970年公開のイタリア・フランス・ソ連(当時)合作映画『ひまわり』でした。とにかく、あたり一面、見渡す限りのヒマワリ畑は極めて強い印象を残しました。ヒマワリは農作物ということを実感できます。

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映画「ひまわり」のタイトルバック。文字はイタリア語のヒマワリ。

前回の No.206「大陸を渡ったジャガイモ」で、ジャガイモを描いた名画としてミレーの『晩鐘』とゴッホの『ジャガイモを食べる人々』を引用しました。そのゴッホはヒマワリを連作で描いたことで有名です。(No.156「世界で2番目に有名な絵」参照)。しかしゴッホとともにヒマワリを描いた有名な絵は、アンソニー・ヴァン・ダイクの『ひまわりのある自画像』でしょう。

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アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)
ひまわりのある自画像」(1633)

強い印象を残す不思議な自画像です。シュール・レアリズムの絵の感じがないでもない。まるでダリが描いたような・・・・・・。いわゆる "ヴァンダイク髭" を蓄えた姿が、髭の画家・ダリを連想させるのでしょう。

ヴァン・ダイクはイングランドの宮廷画家で、主人はチャールズ1世です。絵に描かれた金の鎖はチャールズ1世から贈られたものです。そして画家が指さしているヒマワリは、チャールズ1世ないしはイングランド王室を象徴していると言われています。だとすると、左手に持った金の鎖は国王にもらったのだと誇示しているような・・・・・・。ヴァン・ダイクは若い時に「いかにもナルシスト」という感じの自画像を描いていますが(=エルミタージュ美術館にある自画像)、この絵もその系統にあたると思います。振り向いた姿を描いていることも。

注目すべきは、ここにヒマワリがあることです。この絵はコロンブスのアメリカ大陸発見から140年後に描かれました。スペイン人が本国に種を持ち帰ってから100年間は、ヒマワリはスペイン本国外には出なかったといいます。ということは、ヒマワリがヨーロッパに普及しはじめて20~30年後にこの絵が描かれたということになります。

その時すでにイングランド宮廷ではヒマワリが栽培されていて、画家はその大柄でインパクトの強い花を見て、ある種の象徴性を感じたものと想像されます。また、イングランド王室の伝統とは無縁な "新参者の植物" を持ち出したところに意味があるのかもしれません。つまり、ヴァン・ダイクはフランドル人であり、外国人である自分がイングランド宮廷で成功したことをひまわりに重ね合わせたとも考えられます。



以上のほかにも、アメリカ大陸原産で世界に広まった農作物はいろいろあります。パイナップル、インゲンマメ、アボガド、パパイヤ、ゴム、バニラ(香料)などがそうです。


食文化は変化する


ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、トウガラシ、チョコレート(原料のカカオ)、ピーナッツ、喫煙の習慣などは、16世紀にアメリカ大陸からもたらされ、17-18世紀に広まったものです。それぞれの国で時期は違うものの、長くても200年~300年の歴史のものです。国によっては100年程度の歴史しかない作物もある。

「ジャガイモとドイツ料理」「トウガラシと韓国料理・ハンガリー料理」「トマトとイタリア料理・トルコ料理」は切っても切れないものであり、それが昔からの伝統だと暗黙に思われています。しかしそんなに古いものではない。一般的に言って食習慣は想像以上に迅速に変化します。「昔からの伝統的な ・・・・・・ 料理」といっても、その「昔」とはせいぜい数十年のこともあります。

そして「大陸を渡った農作物」をながめて見ると、食文化は日本の江戸時代の頃からずっと「グローバル化」の影響を受けてきた、そのこともまた理解できるのでした。




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No.206 - 大陸を渡ったジャガイモ [文化]

前回の No.205「ミレーの蕎麦とジャガイモ」で、ミレーの『晩鐘』に描かれた作物がジャガイモであることを書きました。小麦が穫れないような寒冷で痩せた土地でもジャガイモは収穫できるので、貧しい農民の食料や換金作物だったという話です。今回はそのジャガイモの歴史を振り返ってみたいと思います。

ジャガイモは、小麦、トウモロコシ、稲、に次いで世界4位の作付面積がある農作物です。1位~3位の「小麦・トウモロコシ・稲」は穀類で、保存が比較的容易です。一方、ジャガイモは "イモ" であり、そのままでは長期保存ができません。それにもかかわらず世界4位の作付面積というのは、寒冷な気候でも育つという特質にあります。これは、ジャガイモの原産地が南米・アンデス山脈の高地だからです。

そのアンデス高地でジャガイモはどのように作られているのでしょうか。以下、山本紀夫氏の著作「ジャガイモとインカ帝国」(東京大学出版会。2004)からたどってみたいと思います。

  山本紀夫氏は国立民族学博物館(大阪府・吹田市)の教授を勤められた方です。植物学と文化人類学の両方が専門で、ペルーのマルカパタという村に住み込んで農耕文化の調査をされました。また家族帯同でペルーに3年間滞在し、ペルーの首都・リマの郊外にある国際ポテトセンター(ジャガイモの研究機関)で研究されました。ジャガイモを語るには最適の人物です。


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インカ文明を支えたジャガイモ


ジャガイモ文化をはぐくんだのは南米のインカ文明です。最盛期のインカ帝国の時代、その人口は1000万人以上と見積もられていますが、半分以上は3000メートル以上の高地に住んでいました。帝国の首都のクスコの標高は3400メートルです。3000メートル以上の高地で発達した高度文明は、世界史でも他に例がありません

文明の基盤となる産業は、近代以前はもちろん農業です。その農作物では、南北アメリカ原産のトウモロコシが有名です。トウモロコシは南北アメリカ大陸の広い範囲で見られる作物で、もちろんアンデス地方でも栽培されています。しかし、トウモロコシは温暖な気候に適した作物です。寒冷な高地では栽培できません。現在のアンデス地方でもトウモロコシは主に山麓や海岸地帯で栽培されています。

一方、ジャガイモは寒冷な気候に強く、3000メートル以上の高地でも栽培が可能です。ジャガイモは南米・アンデス高地を原産地とし、アンデスの民が育ててきた作物なのです。アンデス高地が原産地である証拠に、現在でもジャガイモの野生種が自生しています。野生種の "イモ" は小指ほどの大きさしかなく、ソラニンという毒が含まれるため食用には向きません。

この野生種から栽培種を作り出したのがアンデスの人々です。栽培種は、芽の部分にはソラニンがありますが、基本的に煮るだけで食べられます。ジャガイモの栽培種は植物学的には(= 学名がついた種は)7種ありますが、現在のアンデス地方にはこれら全部が揃っていて、その品種は数千種あると言われています。現在、アンデス以外の世界中で栽培されているのは7種のうちの1種(トゥベローサム種)だけであり、この1種からさまざまな品種("男爵" とか "メイクイーン" とか)が作り出されました。

野生種が存在し、かつ、現在知られている栽培種がすべて揃っていることは、ジャガイモを食料として育ててきたのがアンデスの民であることを物語っています。



そのジャガイモを、現在のアンデスの人々はどのように利用しているのでしょうか。特に、インディオと呼ばれる、伝統農業を守っている人々のジャガイモ作りです。山本紀夫氏がペルーのマルカパタという村で現地調査した結果を以下に紹介します。マルカパタ村はかつてのインカ帝国の首都であるクスコから東に100kmほどにあり、人口は約6000人、村の中心地(=プエブロ・マルカパタ。ヤクタとも言う)の標高は 3100メートルです。


高度差利用農業


次の図はマルカパタ村の「断面図」で、高度による農業の違いを示しています。まず、標高4500メートル程度の高地では農業ができないので、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの放牧が行われます。こういった家畜の糞は肥料としてジャガイモ栽培に活用されます。

アンデスの高度差利用農業.jpg
マルカパタ村の高度差利用農業。上から順に、牧畜、ジャガイモ、トウモロコシ、熱帯植物の農業が営まれる。村の中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にある。「ジャガイモとインカ帝国」より

その下がジャガイモを栽培する地区で、高度によって「ルキ」「プナ」「チャウピ・マワイ」「ワマイ」という耕地名で呼ばれます。インディオたちの家は「プナ」にありますが、「出作り小屋」や「家畜番小屋」があり、これらを利用して放牧や農業が行われています。インディオの言葉は昔からのケチュア語です。

高度3000メートルから2000メートルはトウモロコシの栽培地区です。マルカパタの中心部(プエブロ、ないしはヤクタ)は、ジャガイモ地区とトウモロコシ地区の間にあり、ミスティ(=スペイン人との混血の人たち。スペイン語を話す)たちの家があります。2000メートルより下は熱帯作物の栽培地区です。

ジャガイモに着目すると、高度差1000メートルの中に4つの耕地ありますが、インディオの1家族は、この4つの耕地それぞれでジャガイモを栽培します。つまり1000メートルもの大きな高度差に分散してジャガイモの栽培をしているわけです。このため、植え付けの時期を変えることによって、年4回収穫することができます。つまり、新鮮なジャガイモが長く食べられるわけですが、分散には他にも理由があります。


もうひとつの理由がある。それは収穫の危険を分散するためである。もともとジャガイモは寒冷な気候に適した作物であるが、そのような高地は作物を栽培するうえでは厳しい環境、すなわち収穫の危険性が大きい環境である。そして、この危険性は高度の増加とともに大きくなる。高地ほど気温が低く、雨量も少なくなるからである。とくに乏しい降雨はジャガイモ栽培に深刻な影響を与える。アンデスではジャガイモは伝統的に自然の降水のみに頼って栽培しているからである。

それでは、このような危険性を回避したり、減少させるためにはどうすればよいのか。その方法の一つが、大きな高度差のなかで生じる気温や雨量の違いを利用して、少しずつ時期をずらして植え付けることである。具体的には、標高の低いところほど早く植え付け、高地にいくほど植え付け時期を遅らせるのである。実際に、マワイの耕地での植え付けは8月であるのに対して、もっとも高いところにあるルキの耕地での植え付けは10月末ごろと、そのあいだには2~3ヶ月のズレがある。

山本紀夫「ジャガイモとインカ帝国」
(東京大学出版会。2004)


休耕システム


ジャガイモの耕地は垂直方向に分散すると同時に、水平方向にも分散しています。つまり4つの耕地のそれぞれを5つの耕区に分け、そのうちの一つだけを使い、残りは休耕しています。こういった休耕は地力を回復するためと考えるのが普通ですが、しかし山本さんが現地で調査したところ、4年間休耕しても土壌養分はほとんど変わらないことが分かりました。4年間休耕してもその土壌養分だけでジャガイモの栽培はできず、リャマ、アルパカ、ヒツジなどの家畜の糞を肥料として与える必要があるのです。


それでは、ジャガイモ耕地は何のために休閑しているのであろうか。その最大の目的は病虫害の防除にあるとわたしはみている。じつは、ジャガイモは病虫害に弱い作物であり、特に連作すると病虫害の発生率は高くなる。その病虫害で最大のものがアンデスではセンチュウによるものであり、その有効な駆除策として知られるのが休閑なのである。しかも、「センチュウの生息密度が高いときにジャガイモの収量を確実にするためには5年間に一度だけ栽培するようなローテーションが必要である」とされるのである [Hooker 1981]。

このような事実は、いずれも休閑の最大の目的が地力の回復よりも、ジャガイモの病虫害の防除にあることを強く示唆するであろう。もちろん、このような方法では、毎年使われる耕地が全体の数分の一でしかないため、生産性という点ではきわめて低いレベルにとどまらざるを得ない。しかし、このことはまた、アンデスの農民が生産性よりも安定的な収穫を最大の目的にしていることを物語る。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」


ジャガイモの品種は100種類


マルカパタ村のジャガイモ栽培で驚かされるのは、きわめて多くの品種があることです。マルカパタ村全体では約100種類のジャガイモの品種があり、村人はそれぞれに品種名をつけています。その一部の例が下図です。

アンデスのジャガイモの品種の例.jpg
マルパカタ村で栽培されているジャガイモの品種の例。村全体では100種ほどあり、すべてに名前がついている。「ジャガイモとインカ帝国」より

しかもマルカパタの人々は、一つの畑に20~30種類もの品種を混ぜて栽培します。いったい何のためなのでしょうか。


その理由のひとつとして考えられるのが、多様な品種の栽培による危険の分散である。さきにマルカパタのジャガイモは形態や色などが異なっていることを指摘したが、これらの品種は形態が異なっているだけでなく、病虫害や気候、さらに環境などに対する適応性も異なっていると判断される。実際に、マルパカタの村びとは、イモの形態の違いだけでなく、それぞれの品種による栽培特性の違いにつていもよく知っている。この点の調査は十分ではないが、少なくとも耐寒性や耐病性、そして雨の多少などに対する適性について熟知している品種が少なくなかった。

したがって、一枚のジャガイモ畑に多様な品種を栽培するのは、やはり収穫の危険性を回避するためであると考えてよさそうである。耐寒性や耐病性などの点で様々に異なる品種を混植することで、天候の異変や病虫害の発生に対して収穫の減少を少しでも防ぐ工夫と考えられるのである。

山本紀夫
「ジャガイモとインカ帝国」

ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。



以上、マルカパタ村のジャガイモ栽培は、まとめると次の3つの特徴をもっています。

高度差利用栽培
1000メートルの高度差を4つの耕地にわけ、時期をずらせてジャガイモを植え付ける。

休耕
一つの耕地をさらに5つの耕区にわけ、5年に一度のローテーションでジャガイモを栽培する。

数10品種のジャガイモを混植
一つの畑に20~30品種のジャガイモを混植する。マルパカタ村全体では約100品種のジャガイモがある。

マルパカタの村人に聞いても「昔からそうやっているから」との答えしか返ってきません。従って栽培方法の「理由」については山本さんの推測が入っていますが、それはやむをえないと思います。

とにかく、アンデスのジャガイモ栽培は、寒冷な土地で食料を確保するための知恵と工夫の積み重ねの上に成り立っていることは間違いないでしょう。もちろん、食料にできない野生種から栽培種を作りだしたのがアンデスの民の「知恵と工夫」の第1歩だったわけです。


世界への伝搬


アンデスの民が育てたジャガイモは16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰り、徐々に世界中に広まっていきました。その本格的な普及は18世紀あたりからのようです。アンデス高地が原産ということで何よりも寒冷な気候に強く、また地下茎にイモをつけるので鳥に食べられる心配がありません。特に、飢饉や戦争での荒廃を契機にジャガイモ栽培が広まることが多かったようです。

ジャガイモの普及に関しては数々のエピソードがありますす。たとえば第二次世界大戦後の日本人捕虜のシベリア抑留(=強制労働)では、ジャガイモに助けられたという声が多々あります(助かった人は、という前提ですが)。伊藤章治「ジャガイモの世界史」(中公文庫 2008)にはそのあたりの事情が書かれています。また20世紀になるとネパールのシェルパ族にもジャガイモ栽培が広まり、人口が急増しました(山本紀夫「ジャガイモのきた道」岩波新書 2008)。

ジャガイモを題材にした絵画作品で最も有名なのは、ゴッホがオランダ時代に描いた『ジャガイモを食べる人たち』でしょう。この絵を見ると、食卓にはジャガイモしかないのですね。そこがポイントです。従って絵の題名は「ジャガイモだけを食べる人たち」が正確です。ジャガイモは炭水化物のほかにビタミンCなどの栄養素も多い食物です。ジャガイモが当時のヨーロッパの貧しい農民たちの "命綱" だったことがよく分かります。

ジャガイモを食べる人たち.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
ジャガイモを食べる人たち」(1885)
(アムステルダム・ゴッホ美術館)

ジャガイモに関する数々のエピソードで非常に有名なのが、アイルランドの「ジャガイモ飢饉」です。それを伊藤章治・著「ジャガイモの世界史」と山本紀夫・著「ジャガイモのきた道」からたどってみます。


アイルランドのジャガイモ飢饉


イギリス英語でfamine(飢饉)に定冠詞をつけてThe Great Famine(=大飢饉)というと、19世紀半ば、1845年から起こったアイルランドのジャガイモ飢饉のことを指します。


16世紀末、アイルランドにもたらされたとされるジャガイモは、岩盤だらけのアイルランドの土地でも「貧者のパン」としての役割を十二分に果たす。ほとんど手入れなしでも1ヘクタールの畑で17トンものイモが生産されるため、ときにはジャガイモ畑は「怠け者のベッド」と呼ばれたほどだ。

ジャガイモからのビタミンと数頭の牛からのミルクやバターで農民の生活が保証されたため、この国の人口は1760年の150万人から、1841年には約800万人に膨れ上がった。そこに襲いかかったのが「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」と呼ばれるジャガイモ飢饉(アイルランド語 An Gorta Mor。英語 The Great Famine)である。

伊藤章治「ジャガイモの世界史」
(中公文庫 2008)

ジャガイモの世界史.jpg
上の引用にあるように、アイルランドにジャガイモが本格的に普及したのは、18世紀半ばから約100年かけてのことでした。そこに「大飢饉」が襲った。

ジャガイモ飢饉の原因は1845年に始まった「ジャガイモ疫病」の発生で、英語で "Potato Blight" と呼ばれているものです(Blightは "枯れる" という意味)。この病気の原因は、フィトフトラ・インフェスタンスという真菌類です。アメリカ起源といわれているこの病気は、1845年の6月にイギリス南部のワイト島に発生し、イギリス本土、ベルギー、フランス、ドイツなどに広がり、そして8月末にアイルランドに上陸しました。この真菌の胞子はものすごいスピードで広がり、ジャガイモの葉や茎で発芽すると葉は斑点ができて黒く変化し、イモは腐って悪臭を放つようになります。


1845年、ジャガイモ疫病によるアイルランドの損害は平均で約40パーセントに達した。この年夏の湿気の多い天候と変わりやすい風が、ジャガイモ疫病の胞子を各地の畑に飛散させたのだ。

翌1846年は、ジャガイモの植え付け面積が三分の一ほど縮小する。人々が種イモまで食べつくしたからだ。その年もジャガイモ疫病は8月のはじめには姿を現し、卓越風に乗って瞬く間に広がった。さらに収穫期には豪雨が降り、霧が出た。ロンドンの『タイムズ』紙が、「ジャガイモ全滅」と報じたのがこの年である。

1847年は見事な収穫に恵まれたものの種イモの不足で通常の五分の一しか植えられず、飢饉は続く。1848年は2月に大雪が降ったが、5月、6月の天候は順調で、人々に期待を持たせた。しかし7月には雨ばかりの天候となり、またもジャガイモ疫病は一気に拡散した。結果は1846年と並ぶほどの凶作だった。収穫が皆無となるなか、働き手はこぞって米国などに海外移民、残された者たちはペットを食べ、雑草を食べ、さらには人肉までも口にしたという話が伝わるほどの地獄絵図が現出した。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

ジャガイモ疫病.jpg
ジャガイモ疫病
ジャガイモ疫病にかかると、まず葉に病斑ができ、たちまち葉全体に広がって、地中のジャガイモは腐る。ビル・プライス「世界を変えた50の食物」(原書房 2015)より引用。

ダブリンの飢饉追悼碑.jpg
アイルランド、ダブリン市内にある「飢饉追悼碑」(Wikipedia)

ジャガイモのきた道.jpg
人口調査によると、アイルランドの人口は1841年には817万人でしたが、1851年には655万人にまで減少してしまいました。飢饉がないと1851年には900万人程度になったはずという見積りがあります。つまり250万人の人口が失われたことになり、そのうち約100万人が海外へ移住、残りは死んだといわれています。死因には栄養失調や餓死もありますが、それより多かったのが栄養不足で病気にかかることによる病死でした。

この大飢饉のダメージは大きく、アイルランドの人口はその後も減り続け、現在でも人口は450万人程度です。一方、"アイルランド系"の人口はアメリカで4300万人、全世界では7000万人と言われています。有名な話ですが、この「アイルランド系アメリカ人」から、大統領が2人出ています。ケネディ大統領とレーガン大統領です。どちらも大飢饉の時代にアメリカに移民したアイルランド人の子孫です。


飢饉をもたらしたもの


1845年のジャガイモ疫病はアイルランドだけではなく、ヨーロッパ各国で発生しました。しかし大飢饉はアイルランドだけで起こった。それはなぜでしょうか。


なぜ、アイルランドだけでジャガイモ疫病が大飢饉を引きおこしたのだろうか。それは、一口にいえばアイルランド人が「ジャガイモ好き」だったからである。つまり、あまりにもジャガイモに依存しすぎたせいで、飢饉のような非常時に代替作物がなかったからである。

さらに、この状態に拍車をかけたのが、単一品種ばかりを栽培したことである。ジャガイモには数多くの品種があるが、アリルランドでは19世紀の初め頃からもっぱらランパーとよばれる品種のみを栽培するようになっていた。この品種は、栄養価では他の品種にくらべて劣っているが、少ない肥料と貧弱な土壌でも栽培ができたため、アイルランド全土に普及していたのである。しかし、ジャガイモは塊茎で増える、いわゆるクローンであるため、単一品種の栽培は遺伝的多様性を失わせることになる。したがって、ある病気が発生すれば、それに抵抗性をもたない品種はすべての個体が同じ被害を受けることになる。アイルランドの大飢饉は、まさしくこうして生じたのであった。

山本紀夫「ジャガイモのきた道」
(岩波新書 2008)

しかし、ここでよく考えてみる必要があります。ヨーロッパ各国に比べてなぜアイルランドだけが「ジャガイモに依存しすぎた」のでしょうか。その背景にはアイルランドと英国の長い抗争の歴史がありました。


英国が作り出した大飢饉


12世紀から始まった英国のアイルランド支配は、プロテスタント(英国)によるカトリック(アイルランド)の弾圧の歴史でした。


その抗争の歴史に「苛斂誅求かれんちゅうきゅう」というほかない苛酷な支配を持ち込んだのが、熱烈な清教徒で、わずかな年数で宗教改革を成し遂げ、英国国王チャールズ一世を処刑して共和制を築いたオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)である。

1641年、英国支配に対するアイルランド側の反乱、「カトリック一揆」が起こる。英国本土には、混乱のなかで2000人以上の新教徒入植者が殺されたと誇張して伝えられたといわれる。その「新教徒虐殺」への報復、見せしめとして、二万人の精鋭を率いて攻め入ったクロムウェルは、カトリック教徒であるアイルランド人を大虐殺した。カトリック教会組織は手当たり次第に破壊され、教徒の資産は没収された。農地もまたそのほとんどが没収され、アイルランド人は英国人地主の小作人に転落する。17世紀初頭には59パーセントだったカトリック教徒の所有地は、18世紀初頭にはわずか」14パーセントとなった。そしてアイルランド人は岩盤と石ころだらけの西部の土地へと追いやられたのだった。

「アイルランド人は地獄かコノートに行け」とクロムウェルは、公言したといわれる。アイルランドの西部に位置するコノートは、アイルランドのなかでも最も生活条件の厳しい土地だ。

・・・・・・・・・・

小作人となったアイルランド農民は、農地の三分の二に小麦を植え、その収穫のほぼすべてを英国人地主に納めた。ではどうやって彼らは生き延びることができたのか。彼らは残りの三分の一の劣悪な条件の土地にジャガイモを植え、主食としたのである。

・・・・・・・・・・

アイルランドのジャガイモ飢饉は、ジャガイモ単作(モノカルチャー)のゆえに起こったのだといわれる。しかし、英国による土地と作物の厳しい収奪のもと、残された石と岩盤だらけの狭隘きょうあいな土地でアイルランド国民が生き残るには、ジャガイモ単作という選択しかなかったのだ。

ヨーロッパの他の国々でもジャガイモは全滅したが、他の作物で補い、飢饉を回避している。さらに、飢饉がもっとも深刻なときでさえ、穀物を満載したアイルランドの船が英国に向かっていた

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

伊藤氏は「社会構造が生んだ飢饉」「英国によってつくられた飢饉」と呼ぶしかないと書いていますが、その通りでしょう。

農作物の発育不全を引き起こすのは天候不順(冷害、干魃など)や病害虫です。しかしそれを飢饉にまでしてしまうのは、一言でいうと "政治" です。それは現代でも同じですで、「国民の20%が飢餓状態なのに、80%は何ともない」というような例があります。国連が食料の緊急援助に乗り出したりしますが、要するに国全体としては食料は足りているわけです。また国民のすべてに最低限の所得があると(所得が保証されると)、食料を買うことができます。

アイルランドの悲劇がなぜ起こったかをまとめると、アイルランドは、

英国に植民地的支配を受けており、
英国=支配者から「アイルランド人は死んでもよい」と思われていて、
食料をジャガイモに頼っており、
そのジャガイモを壊滅させる病気が蔓延した

ということでしょう。③④の条件に当てはまるヨーロッパの地域はほかにもあったはずです。しかしそれと同時に①②の条件にも当てはまるのがアイルランドだけだった。そういうことだと思います。②に関して言うと、ジャガイモ飢饉は、カトリック教徒絶滅を狙った「不作為によるジェノサイド」という見方もアイルランドにはあるようです。当時、アイルランドは英国の一部であったわけであり、そういう見方が出てくるのも当然でしょう。

  飢饉が "政治" で起こるというのは、江戸時代に何回か起こった "大飢饉" をみてもそう思います。過度の稲作の奨励はいったん冷害になると恐ろしいし(稲は本来、亜熱帯の作物です)、米の代用になる食物も日本古来の稗や粟からはじまって、サツマイモなどの "外来食物" も(江戸後期では)あったはずです。経済的に破綻している藩では何ら有効な手が打てないこともあった。餓死者が続出した藩もあれば、一人の餓死者も出さなかった藩もある、というのが実態でした。


現代のジャガイモ


ジャガイモは寒冷地で痩せた土地でも育ち、また栽培に手間がかからないというメリットがあります。これらの特質があるからこそ、アンデスの民が作り出したジャガイモが全世界に広まったわけです。しかしアイルランドの例にみられるように、ジャガイモの弱点は病気に弱いことです。この弱点をカバーするため、現代日本では種イモが厳重に管理されています。


ジャガイモの弱点は病気に弱いことだ。ウイルスによる葉巻病やYモザイク病、菌類や細菌が原因のジャガイモ疫病、軟腐病、さらには虫が引き起こすジャガイモシストセンチュウなどが難敵だ。アイルランドのジャガイモ飢饉を引き起こしたのがジャガイモ疫病、人間の病気にたとえれば「コレラより恐ろしい」といわれるのがジャガイモシストセンチュウである。

ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度により、種イモの生産と流通は独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。

種イモの元になるのが原原種。「元ダネ」と呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるほか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。

原種農家、採種農家が増殖した種イモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。

合格した種イモで一般農家はジャガイモ栽培を行うのだが、そこでできたイモを次のシーズンの種イモにすることは「同一県内で自家栽培に利用する」場合のみ、検査なしで許される。他県向けなどのケースでは植物防疫官による厳しい検査を受けなくてはならない。

伊藤章治
「ジャガイモの世界史」

現代の我々が容易にジャガイモを入手できるのには、このような厳密な管理体制があるわけです。そして、その前史としてアイルランド大飢饉のような悲惨な経験があったことを忘れてはならないでしょう。

北海道更別村のジャガイモ畑.jpg

北あかり.jpg
北海道十勝平野の更別村のジャガイモ畑。下のジャガイモは "北あかり"。


モノカルチャーの怖さ


もう一度、アンデス高地のインディオの人々の農業を振り返ってみると、

アンデス高地のジャガイモ栽培は、
高度差を変えた3つの耕地で栽培
5つの耕区をローテーションで休耕
20~30種類の品種を混植
という特徴をもつ。
主要作物はジャガイモとトウモロコシ

とまとめられるでしょう。山本氏の著書には主要作物以外にも、各種の農作物の記述が出てきます。そのほとんどは、我々になじみがないものです。一言でいうと「多様性を維持した農業」だと言えます。

このような農業形態は、生産性の観点からはマイナスです。山本氏の本には「アンデス高地のジャガイモの生産性は、現代アメリカのジャガイモ生産の 1/10」という意味の記述が出てきます(休耕はカウントせずに、です)。その生産性の低さと引き替えに、食料の安定生産が維持され、悪天候や病害虫による被害リスクが回避されている。

対照的な風景が、19世紀半ばのアイルランドのジャガイモ畑です。そこは遺伝的に均一な単一品種の畑が広がっていました。ジャガイモは種イモから増殖させるので(いわゆる "クローン")、これを続ける限り遺伝子が全く同じになります。19世紀のアイルランドでは「見渡す限りの畑のジャガイモのDNAが全く同じ」という状況があったと想像できます。多様性とは真逆の人工的な世界であり、これは極めて危険な状況です。

もちろん現代日本のジャガイモ生産の8割を占める北海道のジャガイモ畑も、似たような状況です。それが危険だからこそ、国の機関による種イモの厳重な管理がされているわけです。それによって高い生産性が維持されている。

この話の教訓は、生命体は多様性が "命" だということでしょう。振り返ってみると、No.56「強い者は生き残れない」で書いた生命の進化のメカニズムの根幹は「多様性」でした。多様性の中から新しい環境に即した生命が生き残って進化していく。

No.69-70「自己と非自己の科学」で書いた人間の免疫システムも、多様性が根幹にありました。病原菌に対する防御反応は人それぞれに違っている。だからこそ人類は生き延びてきました。アイルランドのジャガイモ飢饉は「1348年の黒死病以降でヨーロッパ最悪の惨事」だそうです(伊藤章治「ジャガイモの世界史」)。その14世紀の黒死病(ペスト)の惨禍では人口の1/3が死んだ地域がヨーロッパのあちこちにあったといいます。考えられないほどの膨大な死者の数です。しかしペスト患者に接しても何ともなかった人も、また多かった。当時はペスト菌が原因という知識は全く無いわけです。だけど死なない(人も多かった)。



モノカルチャーは "単一文化" という意味ですが、もともとカルチャーとは耕作の意味です。"単一作物耕作" という意味でもある。そしてモノカルチャーは本質的にまずいし、危険なのですね。それは生命体だけでなく文化もそうでしょう。

アンデス高地のジャガイモ耕作のスタイルを、現代の農業が踏襲することはできません。膨れ上がった地球の人口を養うために、農業の生産性は非常に大切だからです。しかしアンデス高地の人々が何千年という期間で作り出してきたジャガイモとその耕作スタイルには学ぶものが多いと思いました。

続く


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No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

補足すると、この3つの絵には農作物以外にも共通点があります。まず、暗い前景と明るい後景という描き方が同じです。さらに時刻が夕暮れ時です。「落穂拾い」と「晩鐘」は夕暮れ時がピッタリですが、「種まく人」はなぜ夕刻なのか。それは鳥に種を食べられないようにするためなのですね。昼間耕して夕暮れに種をまく。後景に小さく描かれた鳥の群れは巣に帰る姿です。



『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


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No.204 - プロキシマ b の発見とスターショット計画 [科学]

いままで科学雑誌「日経サイエンス」の記事に関する話題を何件か書きました。振り返ってリストすると以下の通りです

  No. 50絶対方位言語と里山
  No. 70自己と非自己の科学(2)
  No.102遺伝子組み換え作物のインパクト(1)
  No.105鳥と人間の共生
  No.16910代の脳
  No.170赤ちゃんはRとLを聞き分ける
  No.177自己と非自己の科学:苦味受容体
  No.178野菜は毒だから体によい
  No.184脳の中のGPS

日経サイエンス 2017年5月号.jpg
日経サイエンス 2017.5
なぜ科学に興味があるかというと、科学的な知見が人間社会の理解に大いに役立つことがあると思うからです。その観点でリストをみると、ほとんどが生命科学の記事であることに気づきます(No.50、No.105以外の全部)。また No.50(絶対方位言語)は心理学の話(人間の認知のしくみと言葉の関係)、No.105は人類学の話なので、これらのすべては「生命・人間科学」と一括できます。「生命・人間科学」の知見が人間社会の理解に役立つのは、ある意味では当然でしょう。

しかし「生命・人間科学」とは全く違う分野のサイエンスが社会や人間の理解につながることもあると思うのです。その意味で、今回は全く違った分野である天文学・宇宙物理学の話を書きたいと思います。最近の「日経サイエンス 2017年5月号」に掲載された記事にもとづきます。


アルファ・ケンタウリ


アルファ・ケンタウリという星の名前を知ったのはいつだったか、思い出せません。おそらく小学生の頃だったと思います。理科の図鑑に「宇宙」の説明がありました。地球と月、太陽とその周りの惑星や小惑星、彗星からなる太陽系。その太陽は銀河系に属していて、銀河系は無数の太陽のような恒星からできている。同じような銀河が宇宙にいっぱいある、というような絵と説明でした。

そして太陽から一番近い恒星がアルファ・ケンタウリで、4光年の距離にある。1秒間に地球を7周半する光でも到達するのに4年かかる・・・・・・。興味津々で図鑑に見入っていたような記憶があります。

中学生になってから SF小説を読み始めて以降、アルファ・ケンタウリはたびたび出てきたと思います。宇宙船で行く話もあったはずですが、行かないまでも太陽に最も近い恒星としてよく話に登場したので、アルファ・ケンタウリの名前はなじみのあるものになりました。


アルファ・ケンタウリ恒星系


アルファ・ケンタウリは、ケンタウルス座で最も明るい星(=アルファ星、α星)です。ケンタウルス座は南十字星のすぐそばにあり、本州からは見ませんが沖縄や小笠原からは見えます。α星のアルファ・ケンタウリは非常に明るく、全天でも大犬座のシリウス、りゅうこつ座のカノープスに次いで3番目の明るさです。地球からは約4.3光年の距離にあります。

Alpha Centauri-2.jpg
ヨーロッパ南天天文台(ESO)が運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)から見た南天の様子。ケンタウルス座(Centaurus)の上に南十字星(Crux)が見える。αがアルファ・ケンタウリで、その上にプロキシマ・ケンタウリの位置が示してある。ケンタウルス座の右はコンパス座(Circinus)。
(日経サイエンス 2017年5月号)

アルファ・ケンタウリは肉眼では一つに見えますが、連星です。アルファ・ケンタウリAは、質量が太陽の1.1倍、光度は太陽の1.5倍です。アルファ・ケンタウリBは、質量が太陽の0.9倍、光度は0.5倍です。この二つの星は互いの周りを約80年の周期で回っていて、2つの星の距離は10天文単位(太陽と土星の距離の相当)から40天文単位(太陽と冥王星の距離の相当)の間で変動します。1天文単位(= au)とは太陽と地球の間の平均距離で、約1億5000万kmです。

実はアルファ・ケンタウリは、さらにもう一つ、重力的に結びついた恒星を伴っています。それがプロキシマ・ケンタウリです(アルファ・ケンタウリCとも言う)。つまりアルファ・ケンタウリ恒星系は "3重連星" なのです。

プロキシマ・ケンタウリの質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍で、肉眼では全く見ることができません。アルファ・ケンタウリA・Bの連星とプロキシマ・ケンタウリの距離は1万5000 au(約 0.2光年)もあり、かなり離れています。プロキシマ・ケンタウリはアルファ・ケンタウリA・B連星の周りを回っていますが、その周期は50万年以上と見積られています。

実は、このプロキシマ・ケンタウリは、アルファ・ケンタウリより 0.1光年ほど地球に近い距離にあります。つまり地球に最も近い恒星はプロキシマ・ケンタウリということになります。

アルファ・ケンタウリ恒星系(3重連星)
 ┣━アルファ・ケンタウリ(連星)
 ┃  ┣━アルファ・ケンタウリA
 ┃  ┗━アルファ・ケンタウリB
 ┗━プロキシマ・ケンタウリ
    (=アルファ・ケンタウリC)

Alpha Centauri-3.jpg
アルファ・ケンタウリ恒星系の撮像写真。左の連星がアルファ・ケンタウリで、右がプロキシマ・ケンタウリ。
(日経サイエンス 2017年5月号)


プロキシマb の発見


2016年8月14日、ドイツのミュンヘン近郊にあるESO(ヨーロッパ南天天文台。European Southern Observatory)の本部で重大発表がありました。ESOが運営するラ・シヤ天文台(チリのアタカマ砂漠)での観測で、プロキシマ・ケンタウリに惑星があることが発見されたのです。この惑星は「プロキシマb(プロキシマ・ケンタウリ b)」と命名されました。

いったいどうやって惑星の存在を確認したのでしょうか。惑星がプロキシマ・ケンタウリの周りを公転すると、その公転によってプロキシマ・ケンタウリが僅かながら "揺さぶられ" ます。これは地球と月の関係と同じです。月が地球の周りを回ることによって地球が揺さぶられ、それが潮汐の(一つの)原因になっています。

一般に恒星が惑星の公転の影響で揺さぶられると、その恒星は地球からみて遠ざかったり、近づいたりします。つまり地球からみた速度が周期的に変化する。それによって恒星の放つ光が周期的に短波長(青色)側にずれたり(地球の近づく場合)、長波長(赤色)側にずれたりします。いわゆる「ドップラー偏移」です。この偏移を観測するのです(=ドップラー法)。

Alpha Centauri-1.jpg
ラ・シヤ天文台で観測したドップラー偏移から計算されたプロキシマ・ケンタウリの速度変化(地球からの視方向の時速)。赤丸が測定値で、縦棒が測定誤差。波形が推測値である。速度は5km/時(1.4m/秒)の振幅があり、約11日の周期で変動する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ドップラー法による観測が始まった1970年代では、判別できる恒星の揺れのスピードは秒速100メートル程度が限界でした。しかし現代では観測精度が格段に向上し、ESOのラ・シヤ天文台の望遠鏡は秒速 1 メートルの速度変化を検出できます。光の速度は秒速30万キロメートル=3億メートルなので、3億分の1の速度変化を検出できるという、ものすごい精度です。プロキシマ・ケンタウリの 1.4m/秒 という速度が検出できたのも、この高精度観測によります。

観測されたプロキシマb の公転周期は約11日、公転軌道半径は 0.05 au(au:天文単位 = 太陽・地球の距離)でした。


プロキシマb はハビタブル・ゾーンにある


さらにこの発表には重要なことがありました。

  発見された惑星・プロキシマb は、プロキシマ・ケンタウリのハビタブル・ゾーンに入っている

のです。ハビタブル・ゾーンとは、惑星表面に水が液体として存在できる暖かさになる公転軌道の範囲です。ハビタブルとは居住(habit)可能という意味ですが、天文学では生命が存在可能という意味で使われます。惑星(表面)に生命が存在するとすると、まず最初の条件としてその惑星がハビタブル・ゾーンに入っていなければならない。太陽系のハビタブル・ゾーンは太陽からの距離が 0.9 ~ 1.4 au の範囲です。金星はハビタブル・ゾーンの内側(0.7 au)であり、火星は外側(1.5 au)です。太陽系では地球だけがハビタブル・ゾーンにあります。

プロキシマ・ケンタウリは太陽よりかなり小さい星で(質量は太陽の0.1倍、明るさは0.002倍)、温度も低い。太陽の表面温度は6000K(絶対温度6000度)ですが、プロキシマ・ケンタウリの表面温度は半分の3000Kです。そのためハビタブル・ゾーンも恒星に近接していて、恒星からの距離が 0.05 auというプロキシマb の軌道でもハビタブル・ゾーンに入るのです。太陽系でいうと水星(0.4 au)よりもかなり内側の軌道です。

しかしハビタブル・ゾーンにあるからといって、本当にハビタブルかどうはわかりません。たとえば大気の存在ですが、プロキシマb がプロキシマ・ケンタウリから受ける磁場の影響は地球より遙かに強いため、大気が逃げてしまっている可能性があります。一方、プロキシマb も強い磁場を持っているとすると、そうならないこともありうる。

また主星の非常に近くを周回する惑星・衛星では、ちょうど地球を回る月のように、常に同じ面を主星に向けるという現象がよく起きます。これを「潮汐ロック」と言いますが、惑星で潮汐ロックが起きると、主星に向いている昼側は高熱になり、向いていない夜側は極寒になり(=水が存在しても凍結状態になり)、ハビタブルでは無くなります。しかし潮汐ロックが起きていたとしても、昼側と夜側の境目では大気の循環などで温和な環境があるかもしれない。

つまり、プロキシマb が本当にハビタブルかどうかを調べるためには、ドップラー偏移を調べること以上の観測が必要になります。今、試みられているのは「トランジット観測」です。

もしプロキシマbの公転軌道面が、地球からプロキシマ・ケンタウリを見た方向と平行か平行に近い場合、プロキシマb はプロキシマ・ケンタウリの手前を横切ることになります。これをトランジットと言います。トランジットが起こるとプロキシマ・ケンタウリが少し暗くなる(=減光)。この光を観測することで、プロキシマb の

公転軌道の角度
大きさ
質量
密度

が計算でき、そこから物質組成を推定できます。もしプロキシマb に大気があれば、プロキシマ・ケンタウリの光はそこを通過してくるので、大気の組成の情報が得られます。

プロキシマb のトランジット観測は、現在までには成功していません。これは減光の量が観測精度を越えて小さいのかもしれないし、そもそも公転軌道面が地球から見て平行ではない(=トランジットは起こらない)のかもしれない。

しかしトランジットが起こらないとしても、まだ観測の道はあります。それは観測装置を超高精度化して、プロキシマb を直接撮像するという可能性です。本当にできるかどうかは分かりませんが、挑戦が始まっているところです。プロキシマbは地球に最も近い惑星なので、可能性はあるのです。

プロキシマb.jpg
プロキシマb の想像図。明るい星がプロキシマ・ケンタウリ。その右上の連星がアルファ・ケンタウリA・B。
(日経サイエンス 2017年5月号)



とにかく、地球に最も近い恒星に惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにあるというのは大発見です。この惑星のことを詳しく調べたいと思う科学者は多いことでしょう。

そしてまさに現在、アルファ・ケンタウリ恒星系に直接観測装置を送り込む計画が持ち上がっているのです。それが「スターショット計画」です。しかし、地球に最も近いといっても約4光年離れています。光でも4年かかる距離であり、従来の宇宙探査機を送るとすると1万年のオーダーの時間がかかります。いったいどうやって観測機器を送るというのでしょうか。


スターショット計画


スターショット計画の推進者は、ユーリ・ミルナーという人です。ロシア出身で、1961年にモスクワで生まれました。1961年というとガガーリンが人類で初めて宇宙に出た年です。両親はそのガガーリンと同じ名前を息子につけました。「誰も到達したことのない所に行く」という期待を込めたといいます。

ミルナーはアメリカに渡り、シリコンバレーで起業家・投資家として成功し、巨万の富を築きました。その資産は30億ドルと言います。そして彼は「遠くへ行く」という子供の頃からの夢を実現すべく動き出し、初期開発費として1億ドルを拠出し、プロジェクト・チームと顧問委員会を編成しました。

  プロジェクト・チームのエグゼクティヴ・ディレクターは、NASAエイムズ研究センターの元所長のピート・ワーデン(Pete Worden)、技術ディレクターはエイムズ研究センターでワーデンの部下だったピート・クルーパー(Pete Klupar)です。

また顧問委員会の委員長はハーバード大学の天文学科長のアヴィ・ローブ(Avi Loeb)で、委員にはそうそうたるメンバーが名前を連ねています。ホーキング博士やフェイズブックのザッカーバーグCEOも加わっています。

プロジェクト・チームは目標を「アルファ・ケンタウリに無人飛行で観測装置を送り込む」ことに絞り込みました。そして発案したのが「スターショット計画」です。

この計画は2016年4月12日に、ホーキング博士も同席して発表されました。そして全くもって運のよいことに、4ヶ月後の8月14日に「アルファ・ケンタウリ恒星系のプロキシマ・ケンタウリには惑星があり、その惑星はハビタブル・ゾーンにある」ことが発表されたわけです。この発表によってスターショット計画は、誰も到達したことのない所に行くという「億万長者の道楽」から「太陽系外にある惑星を探査する現状で唯一の計画」に大昇格し、俄然、注目を集めるようになりました。

StarshotPressAnnounce.jpg
スターショット計画の発表会見より。後列左から3人目がユーリ・ミルナー。右から3人目がピート・ワーデン(エグゼクティヴ・ディレクター)、同じく2人目がアヴィ・ローブ(顧問委員会の委員長)。
(site : breakthroughinitiatives.org)

Starshot.jpg
スターショット計画の想像図
(site : breakthroughinitiatives.org)

アルファ・ケンタウリに送り込む観測装置は「ナノクラフト」と呼ばれ、「ライトセイル」と「スターチップ」から構成されます。ライトセイルは4メートル四方の極薄の "帆" で、光の反射率が 99.999% の物質で出来ています。ライトセイルに搭載するスターチップは1cm程度の多機能コンピュータ・チップで、ここに電源、観測用の各種センサー、地球との通信機能、制御回路のすべてが埋め込まれます。

ナノクラフトは通常のロケットに搭載し、上空6万キロメートルで宇宙空間に放たれます。そのライトセイルに地上の「ライトビーマー」から100ギガワットという超強力なレーザ光を数分間照射し、光速の20%まで加速します。加速したあとはレーザ光を切り、慣性飛行でアルファ・ケンタウリに向かいます。

Starshot-Starchip.jpg
スターチップのプロトタイプ。チップの中に各種センサー、地球との通信機能、電源などが埋め込まれる。
(日経サイエンス 2017年5月号)

ナノクラフトは同じものを多数制作し(1000個以上)、それを搭載したロケットは1日1個の割合で3年間以上にわたってナノクラフトを宇宙空間に放出し続けます。約20年経つと "運のよかった" ナノクラフトはアルファ・ケンタウリの近傍を通り過ぎるはずで(=フライ・バイ)、通り過ぎる数分の間にスターチップのセンサーで観測した結果を4年かけて地球に送り返します。


荒唐無稽 ?


スターショット計画は "気宇壮大" と言うか、壮大すぎて荒唐無稽に見えます。しかしこの計画は現代知られている物理学の法則に合致しています。ここがまず重要なポイントです。

SF小説によくある「恒星間飛行」は、その物理学的根拠が不明だったり、あるいは物理法則を真っ向から否定しているものがほとんどです。しかしこのスターショット計画は一流の科学者が考えた(ないしは顧問としてアドバイスした)計画です。物理学に合致という最低限の条件が守られている。このことが、サイエンス・フィクションではなくて "計画" と言えるゆえんです。

次に重要なのは、スターショット計画に必要な各種の技術は、その基本原理が確立していて実証済みであることです。開発すべき技術は、ライトビーマー、ライトセイル、スターチップの3つです。たとえばこのうちのライトセイルですが、「光を反射することによって進む帆」は、一般的に「宇宙ヨット」と呼ばれています。そして宇宙ヨットはすでに日本のJAXAが開発し、打ち上げて、実運用までしているのです。レーザー光を受けて進むのはなく、太陽光で進む宇宙ヨット(=ソーラー・セイル)です。


JAXAのイカロス


光は波であると同時に粒子としての性質があり、その粒子は「光子」と呼ばれています。光子に質量はありませんが運動量をもつので、光子が当った面、特に光を反射する面は圧力を受けます(=光圧)。帆を宇宙空間に置くと、完全に片面だけに光が当たる状況を作り出せます。つまり光圧による推進力が生まれます。これが宇宙ヨットの原理です。光が当たり続けると、原理的には光速に近い速度まで加速することができます。

宇宙ヨットを提唱したのはロケットの父と呼ばれるロシアのツィオルコフスキーで、1910年代のことでした。しかし20世紀後半、宇宙ロケットが盛んに打ち上げられるようになっても、宇宙ヨットは実現できなかった。それは帆の材料が見つからなかったからです。帆はアルミを蒸着させたフィルムで作りますが、宇宙空間で太陽に向いたアルミの反射面は120度になり、反対側の面は -270度です。つまり極薄のフィルムに400度の温度差ができます。この温度差に耐えられる材料が見つからなかったのです。

ところが "ポリイミド" という高分子材料がロケットの断熱材として1960年代に実用化され、1990年代になると薄くで大面積のポリイミド・フィルムが製造可能になりました。そして2000年代になるとこのフィルムを使った宇宙ヨットが構想されるようになりました。

日本のJAXAは2010年5月21日に、宇宙ヨット「イカロス」を金星に向けて打ち上げました。宇宙ヨットを打ち上げたのは日本だけではありませんが、地球周回軌道を離れて他の惑星に向かったのはイカロスだけです。イカロスの帆は14メートル四方という大きなもので、反射面が太陽を向くように制御され、太陽の光を受けて進みます。イカロスの大きな帆でも太陽光の光圧は非常に小さく、地上で 0.1g の物体が受ける重力とほぼ同じです。

IKAROS.jpg
JAXAの宇宙ヨット、イカロス。太陽光の光圧で進む「ソーラー・セイル」を実証した。帆には極薄のアモルファス・シリコン製の太陽電池を装着していて(青色の部分)、これによる発電実験にも成功した。これは将来、太陽電池の電力によってイオン・エンジンを駆動するための基礎技術となる。さらに帆の周辺は薄膜液晶があり(黄色の部分)、電流をON/OFFすると液晶の透明・不透明が切り替わる。これによって太陽光の光圧が変わり、搭載している燃料噴射装置を使わなくても姿勢制御ができる。この実験にも成功した。
(JAXAのホームぺージより)

イカロスは打ち上げて半年後に金星付近を通過(=フライ・バイ)し、当初予定されていたミッションは全て成功裏に終わりました。現在は地球・金星の間の軌道を約10ヶ月の周期で公転しています。しかしこの間、当初は予想されなかった問題も発生しました。その一つを日経サイエンスから引用します。


半年間の航海で見えてきた想定外の現象がある。1つは帆の形状だ。イカロスの正方形の帆の四隅から伸びる短いワイヤの先には 0.5kg の重りが付いており、それらに十分な遠心力を与えて帆の張りを保つため、毎分1回転以上の回転速度を維持するようにう姿勢制御用のスラスタを使って制御している。想定では、帆はピンと張ってほぼ平面になるはずだったが、搭載した広視野カメラで帆の状態を調べると、帆は平面ではなく、微少なたわみが生じていることがわかった。

中島林彦(日経サイエンス編集部)
協力:森 治(宇宙航空研究開発機構:JAXA)
「日経サイエンス」2017年5月号

宇宙ヨットがまず解決すべき課題は、折り畳んだ状態でロケットに搭載した帆を、宇宙空間でピンと張った状態に開き、それを維持することです。これが難しい。イカロスはそれに成功したのですが、それでも想定外のたわみが生じた。

このたわみの原因と解消策が日経サイエンスに書いてあるのですが、詳細になるので割愛します。要するに、こういった宇宙ヨットに関する細かいノウハウがJAXAには蓄積されているわけです。イカロスの当初のミッションは終わったのですが、JAXAはこれからも運用を続けるようです。帆の耐久性や劣化などについての貴重なデータが得られるかもしれないからです。宇宙ヨットに関しては日本が先進国です。


スターショット計画に実現可能性はあるか


しかし金星に行く宇宙ヨットができても、アルファ・ケンタウリに行く宇宙ヨットができるとは限りません。果たしてスターショット計画に実現の可能性はあるのでしょうか。ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップの、それぞれの実現の難易度はどうなのでしょうか。

 ライトビーマー(レーザー照射装置) 

まずライトビーマーですが、ナノクラフトを光速の20%まで加速するには100ギガワットという超高出力のレーザーが必要です。アメリカ国防総省はこれ以上に強力なレーザーを開発済みですが、その持続時間は1億分の1秒とか1兆分の1秒しかありません。ナノクラフトを光速の20%まで加速するには数分間、最大10分程度レーザー光を照射する必要があります。

解決策としては、10分間程度の連続出力が可能なキロワット級のレーザーを1億個用意し、それを地上に格子状に並べ、レーザー波を一つに集めて位相が揃った状態でナノクラフトに到達させるしかありません。その設置面積は1キロメートル四方になると見積もられています。

複数個の電波アンテナを格子状(=アレイ状)に配置し、集束して位相の揃った一方向の電波にする装置をフェーズド・アレイ・レーダーといい、すでに確立された技術があります。複数の電波の位相を微妙にズラして放射し、任意方向の強い電波を発生させる技術です。同じ原理でレーザー光を放射するのがフェーズド・アレイ・レーザーです。しかし同じ電磁波でも光は電波の数万倍の周波数があり、位相のコントロールが難しい。アメリカ国防総省はすでに完成させていますが、それはレーザーが数十個という規模のようです。ライトビーマーの1億個のレーザーというのは桁違いです。

しかもスターショット計画の場合、大気圏を通過して上空6万キロメートルにあるナノクラフトのライトセイル(4m×4m)にピンポイントで照射する要があり、これには奇跡的な技術革新が必要です。アメリカのサイエンス・ライター、アン・フィンクベイナーの取材記事を「日経サイエンス」から引用します。


1億個のレーザーからの光は大気の自然な乱れによってそれぞれ曲げられる。それでも最終的には、それらすべてを集束して上空6万kmにある4m四方の帆に当てる必要がある。顧問委員会のメンバーで空軍指向性エネルギー兵器部門のOB科学者であるフューゲート(Robert Fugate)は「1億個のレーザーを、乱流大気を通して位相をそろえた形で6000万メートル先にあるメートルサイズの標的に当てることが、現時点での私の関心事だ」と淡々と語る。光は帆から完全に外れるかもしれず、あるいは不均一に当たって帆の一部分が強く押され、帆が転げ回ってビームからずれてしまうだろう。

ここでも考えうる解決策はあるが、その解決策自体が一連の問題をはらむ。大型望遠鏡にすでに使われている「補償光学」という技術だ。大気の乱れによって生じた歪みを、可変形ミラーで作り出した逆向きの歪みで打ち消す。だがこれをスターショットに応用するには大幅な改変が必要だろう。ライトビーマーの場合、可動鏡ではなく、それぞれのレーザーファイバーを微調整することで大気の影響を補正する必要がある。現在の望遠鏡向け補償光学系の分解能は30ミリ秒角だが(ミリ秒角は対象物が天空上で占める大きさの指標)、スターショットの場合、ビームを0.3ミリ秒角の範囲に絞り込む必要がある。前例のない水準だ。

アン・フィンクベイナー
「日経サイエンス」2017年5月号

Starshot-Nikkei Science.jpg
地上のライトビーマー(フェーズド・アレイ・レーザー)からレーザー光を照射し、母船から放出されたナノクラフトを加速する。
(日経サイエンス 2017年5月号)

 ライトセイル(帆) 

次に "ライトセイル" と呼ばれる4m四方の帆ですが、まずこの帆は99.999%の反射率が必要です。反射率が高いということは、それだけレーザー光の反射でよく加速されるということであり、亜光速を目指すナノクラフトとしては当然の要求でしょう。

しかし加速以上に重要な点は「反射されなかった光は熱に変換されてしまう」ことです。超強力レーザーを照射することを考えると、この程度の反射率がないとナノクラフトは一瞬で "燃え尽きて" しまうのです。ちなみにJAXAのイカロスはポリイミド樹脂にアルミを蒸着していますが、反射率は75%~80%です。アルミを徹底的に研磨したとしても反射率は95%程度にしかなりません。

さらにナノクラフトを亜光速に加速するためには、ナノクラフトの重さを数グラムに押さえる必要があります。そのためにはライトセイルの膜の厚さをシャボン玉の膜以下にする必要があると推定されています。シャボン玉の膜厚は1マイクロ・メートル(=ミクロン。1/1000ミリ)以下であり、光の波長に近い極薄ために光の干渉が起こって虹色に見えるわけです。JAXAのイカロスの膜の厚さは7.5マイクロ・メートルです。ライトセイルはその10分の1で作る必要がある。

問題はまだあります。耐久性です。5分~10分で光速度の20%(6万キロメートル/秒)に加速するということは、10万~20万メートル/秒の速度を毎秒加速する(=平均)ということです。この加速度は地球上の重力加速度の1万~2万倍です(=10,000g~20,000g)。瞬間的にはもっと強い加速度がかかると考えられる。ライトセイルはこの加速度に耐える必要があります。

また宇宙空間には微細な塵があります。レーザー照射中に塵で帆に穴があいてはまずく、ライトセイルには強さと耐久性が必要です。

高反射率で耐熱性に優れ、軽く、強くて耐久性があり、とんでもない高価格ではない素材は、まだ存在しません。ここでも奇跡的発明が必要です。

 スターチップ 

スターチップはすべての機能を埋め込んだ "観測装置" ですが、1cm程度の大きさで、重さは 1g 程度に押さえる必要があります。従って、4個搭載予定のカメラ(光センサー)にレンズは使えません。レンズは重すぎるのです。解決策として「平面フーリエ・キャプチャー・アレイ」という小さな回析格子を光センサーの上に配置する方法が検討されています。入射光を波長別にとらえ、チップのコンピュータ処理で望みの焦点距離の像を再構成する技術です。

スターチップには分光計や磁気センサーなどの各種センサーが搭載される予定ですが、難問はアルファ・ケンタウリに到達するまでの電源をどうするかです。現在のところ、暗く冷たい環境で動作し、重さが 1g 未満で、スターチップのすべての機能を実現するだけの十分な電力を得られる電源は存在しません。解決策としては、医療用に使われている小さな原子力電池を改造する方法が考えられています。原子力電池は、半減期の長い放射性同位元素の放射エネルギーを利用する電池で、宇宙探査機や人工衛星、医療(人体に埋め込む小型電池)での利用実績があります。

さらに問題は観測データを地球に送る方法です。方法としては半導体レーザーを使うしかないのですが、4.3光年という距離が問題です。


アルファ・ケンタウリからレーザービームで地球を狙うには非常に高い精度で向きを合わせる必要がある。さらに、4年かけて地球に到達するまでにビームは拡散して薄まり、たった数百個の光子しかとどかない。解決策としては、一定の間隔で飛んでいるスターチップの間で信号をバケツリレーのように受け渡して届ける方法が考えられる。情報を地球に送り返すのが「依然として実に難しい問題だ」と顧問委員を務めるハーバード大学のマンチェスター(Zac Manchester)は言う。

(同上)

スターチップを20年の航行中にガスや塵などの星間物質から守る方法も問題です。


顧問委員を務めるプリンストン大学のドレイン(Bruce Draine)は星間物質をタバコの煙がごく薄くなったようなものだと説明する。だが、その濃度や微粒子のサイズは正確には不明なので、これがもたらす危険は推測しにくい。スターチップと微粒子が光速に近いスピードで衝突すると、小さな傷から完全な破壊まで、様々なダメージが生じるだろう。スターチップのサイズを1cm角として、異星への旅の間に「非常に多数のものと衝突するだろう」とドレインはいう。

保護としてチップを厚さ2mmほどのベリリウム銅でコーティングする方法があるかもしれないが、それでも破壊的な損傷が生じる恐れは残る。

(同上)

スターチップは衝突を生き残るかもしれないし、ダメかもしれない。しかし運がよければ送り出された1000個以上のチップのうちのあるものはアルファ・ケンタウリに到達する・・・・・・。



いずれにせよスターショット計画は、ライトビーマー、ライトセイル(帆)、スターチップのすべてにおいて「奇跡的な技術革新」が必要であり、これらの全部の技術革新がでることを前提に2040年前後に打ち上げ、その20年後にアルファ・ケンタウリに到達する、そういう計画なのです。


問題は技術だけではない


解決すべき課題は技術だけではありません。打ち上げにかかる費用が問題です。ユーリ・ミルナーが拠出した1億ドルは、あくまで初期開発費用に過ぎません。完成までの費用は不明で、特に「キロワット級のレーザー・1億個」に莫大なお金がかかりそうです。


ハーバード・スミソニアン天体物理学センターのシャルボノー(David Charbonneau)は、このプロジェクトは結局とても高価になり、「米国の国家予算の 5% を注ぎ込まねばならなくなるだろう」という。「アポロ計画と同じ割合だ」。

(同上)

さらに問題はその科学的意義です。プロキシマb の調査は確かに意義がありますが、それが目的だとすると、アルファ・ケンタウリまで行かなくても調査の方法はあるのです。


チップで惑星を撮影することは可能で、磁場を調べ惑星大気を採取することもできるかもしれないが、それらすべてを数分の飛行中に行うことになる。打ち上げまでにかかるのと同じ時間と総費用があれば、「口径12~15メートルの光学望遠鏡を宇宙に上げ、この惑星を何ヶ月も観測して、束の間のフライバイでつかむよりもずっと多くの情報が得られるだろう」とプリンストン大学の天体物理学者スパーゲル(David Spergel)はいう。

(同上)

宇宙空間の望遠鏡(=宇宙望遠鏡)は、すでに1990年から実績があります。つまり「ハッブル宇宙望遠鏡」で、主鏡の口径は2.4メートルです。一方、口径12メートルの地上望遠鏡は実用化されていて、30メートルの望遠鏡もハワイで建設が始まっています(日本も参加)。「口径12~15メートルの宇宙望遠鏡」は、確かに前例がない巨大なものですが、現代の技術で可能であり、費用もスターショット計画よりは少ないはずです。


スターショット計画を推進する理由


以上をまとめると、スターショット計画は、

技術的に実現できる見込みが薄く、

たとえ実現できたとしても、必要資金が膨大で

そのうえ科学的価値は、皆無とは言わないが、あまりない

わけです。要するにこの計画を一言でいうと「バカげている」となるでしょう。しかし推進する側としては、そんなことは百も承知のようです。日経サイエンスでは、このプロジェクトのオーナーであるユーリ・ミルナーの発言を次のように紹介しています。


だが結局のところ、別の星に行きたいという欲求は彼(引用注:ミルナー)も認める通り、その理由を説明できないものだ。「なぜだと問いつめられたら、わからないと答えるしかなくなる。重要であると思うだけだ」。

(同上)

そしてこのような発言は、シリコンバレーの億万長者で天文学には素人のユーリ・ミルナーだからの発言ではないのです。記事を書いたフィンクベイナーによると、プロジェクトを推進する側にいる立派な科学者が、同様の発言をしています。


私が尋ねた人のほぼ全員が同じことを言った。納得していない誰かに対してこの理由を説明することはできない。ただ行きたいのだ。プリンストン大学 宇宙物理学科の名誉教授 ガン(James Gunn)はスターショットが成功する見込みは薄く科学的意義もないと考えているが、それでもこう語る。「私はほとんどの事柄につて合理的な考え方をしているが、遠くを目指すという人間性に関しては理屈では考えられない。私は子供のころから別の星に行くことを夢見てきた」。

(同上)


スターショット計画の意義


以下は日経サイエンスのスターショット計画に関する記事を読んだ感想です。まず思ったのは、スターショット計画の「実現の可能性」や「科学的価値」は薄くても(ほとんど無くても)、その技術開発の過程で興味深い成果が生まれそうだという点です。

アルファ・ケンタウリまでは行けないが、太陽系の惑星には到達できる "簡易ナノクラフト" ができたとします。そうすると、太陽系の探査は格段に進むでしょう。宇宙物理学の新たな成果が続々と出てくるかもしれない。

2017年4月14日、NASAは土星探査機・カッシーニの観測結果から、土星の衛星エンケラドスが水蒸気を吹き出しており、そこには水素が含まれると発表しました。衛星の内部に生命を育む環境が存在する可能性あるとのことです。これを観測したカッシーニは1997年に打ち上げれた探査機で、2004年に土星をまわる軌道に入りました。土星まで7年かかっているわけです。

土星と地球の間を光が進む時間は70分~80分程度です。もし仮に、光の速度の1/1000(ナノクラフトの1/200の速度)に加速できる "簡易ナノクラフト" を土星に向かって発射すると、50日程度で到達できる計算になります。太陽系の探査が格段に進むのではないでしょうか。スターショット計画ならぬ、「サターン・ショット計画」や「ジュピター・ショット計画」です。

ライトビーマーについて言うと、顧問委員としてアメリカ空軍の指向性エネルギー兵器部門の出身者が加わっているように、これは軍事技術そのものです。しかし技術には2面性があります。こういった技術が地球の周りを周回している「宇宙ゴミ」の除去に役立つかもしれない。

スターチップを開発する過程では、超小型電源や各種のセンサー、省電力の半導体レーザー技術が開発されるはずですが、これらを簡易化・低コスト化したものは地上におけるセンサーとして役立つと考えられます。IoTと言われる時代、こういうったチップ型センサーの役割は大きいのでです。

億万長者が何にお金を使おうと本人の自由で、ミルナーはポンと1億ドル = 約100億円を拠出しました。これはあくまで初期開発費用であり、第1ステップの技術開発費用です。1億ドルが尽きたとき、次のステップに進めるかどうかは大いに疑わしい。しかし仮にこの計画が第1ステップだけで終わったとしても、他に応用可能な新技術が生まれる可能性が高いと思います。それは1億ドルに見合わないかも知れないが、もしそうなればミルナーの名前とスターショット計画は "伝説" として科学史に残るでしょう。



振り返ってみると、研究者の「興味」「好奇心」「探求心」「理由は言えないが大切だという思い」を原動力とし、それが社会にどういう恩恵をもたらすかは不明なままに始まったプロジェクトや研究で、結果として社会に大きなインパクトを与えた例は多いわけです。もちろん興味だけで終わってしまうも多数あるし、逆に明確な目的意識をもった研究も多い(青色半導体レーザーなどはそうでしょう)。しかしそれだけではない。

スターショット計画とはスケールが全く違いますが、このブログで書いたリチウムイオン電池の発明物語を思い出しました(No.39「リチウムイオン電池とノーベル賞」)。旭化成の吉野彰氏が世界で初めてリチウムイオン電池を作ったのですが、そのトリガーを引いたのは、白川英樹・筑波大名誉教授が1977年に発見した導電性ポリアセチレンでした。吉野氏はこれを負極に使ってリチウムイオン電池の原型を完成せた(1983)。その吉野氏も「導電性ポリアセチレンを使った新素材」の研究から入ったわけで、電池に使おうとは(当初は)思っていなかったのです。

なぜ白川先生が導電性ポリアセチレンの発見に至ったかというと「何に使えるか分からないけれど、電気を通す高分子に興味があったから」です。2000年にノーベル化学賞を受賞したあと、白川先生はそう語っています(No.39参照)。研究者の興味や好奇心が、結果として想定外の発明につながり、社会に大きなインパクトを与えたわけです。



スターショット計画はあまりにも壮大であり、どう考えたらよいか、評価に迷うところです。推進者のミルナーにとって科学観測はあくまで付帯的なものであり、アルファ・ケンタウリに到達したという何らかの証拠が得られればそれで満足なのでしょう。

しかしこの計画が、参画している科学者の探求心や好奇心、「理由は言えないが大切だという思い」に支えられていることは確かだと思います。そのマインドは科学の発展にとって極めて大切なことです。スターショット計画の記者発表会に出席したスティーブン・ホーキング博士は、そのことを言いたかったのでは、と思いました。




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No.203 - ローマ人の "究極の娯楽" [歴史]

今まで古代ローマに関する記事をいくつか書きました。リストすると次の通りです。

  No. 24ローマ人の物語(1)寛容と非寛容
  No. 25ローマ人の物語(2)宗教の破壊
  No. 26ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ
  No. 27ローマ人の物語(4)帝国の末路
  No.112ローマ人のコンクリート(1)技術
  No.113ローマ人のコンクリート(2)光と影
  No.123ローマ帝国の盛衰とインフラ
  No.162奴隷のしつけ方

発端は、No.24-No.27 で塩野七生氏の大作『ローマ人の物語』の感想を書いたことでした。ローマ人の宗教だけに絞った感想です。また、No.112、113、123 はインフラストラクチャ(のうちの建造物)の話で、その建設に活躍した古代ローマのコンクリートの技術のことも書きました。No.162 は奴隷制度の実態です。

今回はこの継続で、古代ローマの円形闘技場で繰り広げられた闘技会のことを書きたいと思います。「宗教 = ローマ固有の多神教・キリスト教」や「巨大建造物・コンクリート技術」は、古代ローマそのままではないにしろ現代にも相当物があり、私たちが想像しやすいものです。奴隷制度は現代では(原則的に)ありませんが、奴隷的労働はあるので、それも想像しやすい。

しかし大観衆が見守る円形闘技場での "剣闘士の殺し合い" は現代人の想像を越えていて、そこが非常に興味を引くところです。ボクシングの試合で相手を倒すのとは訳が違う。その想像を越えたところに古代ローマの(一つの)特徴があると思うし、歴史から学ぶポイントもあるかもしれないと思うのです。

ローマ人の物語04.jpg
今までのブログで円形闘技場での闘技会について触れたことがありました。No.123「ローマ帝国の盛衰とインフラ」で書いたユリウス・カエサルの話です。カエサルは財務官に当選したとき(BC.65 カエサル35歳)、ローマで一番の資産家であったクラッススから2500万セステルティウスを借金し、当選祝いに320組の剣闘士を借り切った闘技会を開催しました。のべ25万人のローマ市民を集めたこの闘技会で、カエサルは借金を全部使い切りました。2500万セステルティウスという金額は、現在の貨幣価値にして約30億円程度です。この記述は、本村凌二『はじめて読む人のローマ史 1200年』祥伝社(2014)によったのですが、塩野七生氏も『ローマ人の物語』でこの闘技会のことを書いていました。


320組となれば、640人になる剣闘士を(カエサルは)借り切ったことになる。しかも剣闘士たちには、右腕を守るために着ける腕鎧うでよろいを、すべて銀で制作して着用させた。試合場に出たときに、陽光を浴びて光り輝く効果を狙ったのである。


これは、当時のローマの貴族階級の財力がものすごかったという例として引用したのですが、では、その剣闘士の闘技会とはどいうものだったか、それが以降です。


差し下ろされた親指


古代ローマの剣闘士(=グラディエーター)を描いた絵画として、ジャン = レオン・ジェロームの傑作『差し下ろされた親指』(1872)があります。まず例によって中野京子さんの解説で、この絵を見ていきたいと思います。引用にあたっては漢数字を算用数字に置き換えました。一部段落を増やしたところがあります。

Pollice Verso (Gerome).jpg
ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
差し下ろされた親指」(1872)
(フェニックス美術館。米:アリゾナ州)


周囲 524メートル、4層のアリーナに5万人を収容できるコロセウムは、びっしり人で埋まっている。建物に屋根はなく、日よけのカンバス地が掛けられていたが、画面に布自体は描かれていない。その代り隙間すきまから強い日差しが落ちていることを、幾筋もの光線が物語る。


画家は歴史考証を踏まえて描いています。画面に描かれた数本の白っぽい筋は何かと思ってしまいますが、これはコロセウムの上を覆う天幕の間から漏れてくる光線なのですね。実際にこのように見えるかどうかはともかく、歴史を踏まえて描いていることを示していて、画家の芸の細かいところです。


砂の敷きつめられたグラウンドでは、戦闘はすでに終わっている。勝ち残った金兜きんかぶとの剣闘士が、瀕死ひんしの敵の喉首を片足で踏みつけ、顔をあげたところだ。最前列に座る白いストーラ姿の女性全員と、すぐ後ろの席の男たちのほとんどが、親指を下に向ける激しい身振り(サムズダウン thumbs down)とともに「殺せ、殺せ」を大合唱している。胸を刺されて倒れた敗者にもその声は届き、慈悲じひうように最後の力を振りしぼって右腕を伸ばすのだが、砂地を赤く染める血に興奮した彼らはヒートアップする一方だ。

(同上)

Pollice Verso-1.jpg

中野さんが指摘しているのですが、画家はサムズダウンをしている右手の観客たちの表情を意図的に醜く描いています。そして上段の男性観客ですが、中には沈痛な表情の老人も混じっている(上の部分図の左上の男など)。敗者を応援していたのでしょうか。それに呼応するかように左手のアリーナ観客は、ヒートアップしている右手の観客とは様子が違うのです。


勝者はとどめを刺すのか?

まだわからない。なぜなら左側のアリーナにいる観客の誰ひとり、サムズダウンをしていない。それどころか身を乗り出して、右側前列の異様なたかぶりに非難の、あるいはいぶかしげな視線を送っている。敗者は立派に戦った。殺すまでもない、と考えていたのかもしれない。

決定は皇帝がくだす。

画面やや左に突き出たボックス席がある。その左半分は4本の円柱で囲まれている。手前の太い円柱は、翼を拡げたわしの装飾をいただく。手すりにも鷲が太陽といっしょに刺繍ししゅうされた深紅の垂れ幕が下がる。鷲は皇帝のシンボルなので、ここが皇帝の定席だ。金ぴかの大きな椅子に座り、これまた金でまれた月桂冠をかぶった皇帝は、右手を上げかけてはいるものの、親指はまだ見えない。サムズダウンで殺せと命じるつもりか、サムズアップ(thumbs up)で慈悲を示すのか。

(同上)

Pollice Verso-2.jpg
まさに劇的瞬間というのでしょうか。「殺せ、殺せ」と叫ぶ右側のアリーナの観客、それには同調していない左のアリーナの観客、そして描かれていない皇帝の親指・・・・・・。補足しますと、中野さんが「決定は皇帝がくだす」と書いているのは、詳しく言うと、

  決定は闘技会の "主催者"(=エーディトル)が下す。この絵の場合、主催者は皇帝

ということであり、それが正しい理解の仕方です。カエサルが主催者の闘技会だと、敗者の生死を決めるのは費用を負担したカエサルです。


皇帝にしても、必ずしも自分の気分だけで親指を上げ下げできたわけではない。観客が皆サムズダウンしているのにアップするなら、またその逆なら、それ相応の納得させる理由がないと大衆人気を失う。失うと政敵に付け入られ、引きずり下ろされたり、コンモドス(引用注:映画「グラディエーター」に登場するローマ皇帝。2世紀末)のように暗殺されるかもしれない。

本作の皇帝はいったいどんな結論を出すのだろう?

今のところごく一部の者がサムズダウンしているだけだが、逆にサムズアップしている者もいないので、血を求める激しい渇望かつぼうが次第に場内に感染してゆくと、爆発的な「殺せ」コールに変わらないとも限らない。慈悲を求める声というのは、アドレナリンの噴出している相手に対していつだってか細すぎるものなのだ。

(同上)

中野さんによると、画家・ジェロームはこの絵で敗者を美形に描いているといいます。思想家・セネカの「もっとも価値のある剣闘士は美形の者だ」という言葉が思い出されると・・・・・・。しかし画家が敗者を美形に描いたのには、さらに理由があります。それはこの敗者が「投網とあみ闘士」だからです。


ジェロームは万全の歴史考証を踏まえて作品を制作する画家だった。

勝者の金兜に魚の装飾がほどこされているのがわかる。よく見ると右腕を守るそで防具はうろこ状だし、弱い腹を守る帯にも魚の文様が付いている。これは彼が「魚兜闘士」だからだ。剣闘士は武装の種類によって、「長槍闘士」だの「騎馬闘士」だのに分けられていた。

魚兜闘士は一番人気で、武器はローマ軍歩兵と同じ剣とたて。画中の勝者が右手に握る真っ直ぐな両刃もろはの短剣はグラディウスと呼ばれ、グラディエーターの語はここからきた。日本の細身の刀と違い、もっぱら突いて使う。盾も必須だ。この絵は円盾の内側が描かれており、使用法がよくわかる。手首と腕の二ヵ所をベルトで固定し、いわば鋼鉄化したひじで守りと攻めを同時にできる。

一方の敗者は「投網とあみ闘士」。名のとおり漁師の持つ投げ網と、海神ポセイドンのアトリビュート(そのい人を特定する持ち物)たる三叉鉾さんさほこで戦う。それらの武器は今や彼同様無力化され投げ出され、半ば砂に埋もれている。この「投網闘士」は盾の代わりに青銅製の防具を肩にかけ、兜もかぶらなかった。そのため戦闘中にも観衆から顔が見え、どうせ見るならばと、興業主はハンサムな若者を選んだという。先述したセネカの言葉どおりであり、ジェロームが美形に描いた理由もこれだ。

(同上)

Pollice Verso-4.jpg

Pollice Verso-3.jpg

魚兜闘士の肘防具にも注目したいと思います。カエサルは財務官就任記念に開催した「大闘技会」で、640人の剣闘士全員に銀製の腕鎧(肘防具)を新調して着用させたと『ローマ人の物語』で塩野七生氏が書いていました(最初の引用)。この絵を見るとその意味がよく分かります。陽光にきらめく銀の効果です。

もう一つこの絵で気づかされるのは、魚兜闘士と投網闘士が戦っていることです。つまり魚と漁師が戦っている。これは興業的なおもしろさを狙ったと考えられますが、単に「魚と漁師」のおもしろさだけではないでしょう。武器が違います。武器にはそれぞれ長所・短所があります。つまりこの絵の試合は、現代でいうと異種格闘技の試合のようなものだと思います。空手とプロレスのどっちが強いか、みたいな・・・・・・。あるいは時代劇に出てくる日本刀(ヒーロー)と鎖鎌(悪役)の戦いです。異種の武器での戦いは観衆の興味を大いに引いたと考えられます。

我々は剣闘士の試合というと、奴隷同士が戦ったというイメージが強いのですが(スタンリー・キューブリック監督の「スパルタカス」という映画がありました)、ローマも帝政の時代になると変質していったようです。


現代のプロスポーツ選手のように、いや、それをはるかに上回る大衆の支持が、強い剣闘士に集中した。強ければ強いほど、さらに美しければ美しいほど、人々は熱狂した。当然ながら剣闘士という職業にも人気が出る。

ローマ時代の共和制期には奴隷や罪人、下層階級出身者ばかりで、「剣奴けんど」の訳がふさわしかったが、帝政期になるとさま変わりしていた。自由市民の中から自らの意志で剣闘士になる者まで出てきたのだ。時には皇帝自ら出場して剣をふるい、矢を射た。コンモドス帝もヘラクレスに扮して何度も戦っている(いかなる場合でも自分が勝ように算段してあったが)。

人気剣闘士は結婚もできた。皇帝から木剣ぼつけんを授与されて自由を与えられた例も少なくない。彼らはたいてい剣闘士を養成する学校を作ったり訓練師になったり、あるいは自身の剣闘士団を持って巡業した。そうした興業こうぎょう形態が確立すると、時間と費用をかけて育てあげた剣闘士を軽々けいけいに殺されたくないのは理の当然だ。傭兵ようへい同士の戦争と同じで、常に徹底的な殺し合いを行うのは双方にとって損失が大きすぎる。

殺戮さつりくを見たい観衆に投げるえさとしての犠牲者はいくらでもいた。なにしろローマ帝国は領土拡大によって大量の戦争捕虜を手に入れていたので、異民族の若く屈強な男を奴隷剣闘士にして殺せば反乱も防げて一石二鳥なのだ。スター・グラディエーターはローマ人でまかなう。そのあたりは観客と興業主の駆け引きがあった。

(同上)

このジェロームの絵は、映画『グラディエーター』の制作に一役買ったようです。20世紀末、ハリウッド映画で "古代ローマもの" を復活させようと熱意をもった映画人が集まり、おおまかな脚本を書き上げました。紀元180年代末の皇帝コンモドスを悪役に、架空の将軍をヒーローにした物語です。将軍は嫉妬深いコンモドス帝の罠にはまり、奴隷の身分に落とされ、剣闘士(グラディエーター)にされてしまう。そして彼は剣闘士として人気を博し、ついにはローマのコロセウムで、しかもコンモドス帝の面前で命を賭けた戦いをすることになる。果たして結末は・・・・・・。


制作サイドは監督にリドリー・スコットを望んだ。『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『白い嵐』など、芸術性とエンターテインメント性を合体させたヒット作を連打していたスコットなら、古代ローマものを再創造してくれるに違いない、と。

だがスコットは最初はあまり乗り気ではなかったらしい。そこで制作総指揮者は彼に『差し下された親指』を見せた。フランスのジェロームが百年以上も昔に発表した歴史画である。後にスコット曰く、「ローマ帝国の栄光と邪悪じゃあくを物語るこの絵を目にした途端、わたしはこの時代のとりこになった」(映画パンフレットより)。

こうして完成された『グラディエーター』(2000年公開)は、アカデミー賞作品賞、主演男優賞(ラッセル・クロウ)、衣装デザイン賞などいくつも獲得し、全世界で大ヒットを記録した。剣闘士同士の息もつかせぬ戦闘シーンとリアルな迫力に、一枚の絵が運命的な役割を果たしたということになる。

(同上)

Gladiator.jpg
2000年前に5万人を収容できるアリーナを建設できる圧倒的な技術力と高度な文明、そのアリーナで繰り広げられる "人間同士の殺し合いショー" と、瀕死の敗者を殺せと連呼する観衆・・・・・・。リドリー・スコット監督は「栄光と邪悪」と言っていますが、この絵が表しているものはまさにそうだし、現代人が古代ローマの歴史に惹かれる理由もそこなのでしょう。

ちなみに cinemareview.com の記事によると『グラディエーター』の制作会社であるドリームワークスのプロデューサは、スコット監督に脚本を見せる以前に監督のオフィスを訪問して『差し下された親指』の複製を見せたそうです。そもそもプロデューサが『グラディエーター』の着想を得たのもこの絵がきっかけ(の一つ)だと言います。この絵にはハリウッドの映画人をホットにさせる魔力があるのでしょう。


皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち


画家のジェロームは『差し下ろされた親指』(1872)より以前にも剣闘士をテーマとした作品を描いています。『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』という作品です。

Ave Caesar Morituri te Salutant (Gerome).jpg
ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)
皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち」(1859)
(イェール大学アート・ギャラリー。米:コネチカット州)

この絵を所有しているイェール大学アート・ギャラリーの公式サイトにもあるのですが、ジェロームは歴史考証を踏まえてこの絵を描いています。その考証の一つですが、この絵にはコロセウムを覆う天幕が描かれていて、その構造がよくわかります。中心部を円形にあけ、その周りにアリーナの最高部まで部分的に布が張られる。布の下の観客席は日陰になり、闘技舞台には日光が差し込むというわけです。『差し下ろされた親指』もそういう絵になっていました。ユリウス・カエサルの闘技会のように剣闘士が銀製の腕鎧をつけたとしたら、陽光が銀に反射して日陰の観客席にきらめき、その効果は抜群だったと想像できます。

この絵の原題は「Ave Caesar, Morituri te Slutant」というラテン語で、「皇帝万歳! 我ら死にゆく者が敬意を捧げます」というような意味です。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」にある語句です(第5巻 クラウディウス帝)。その「皇帝万歳」と叫ぶ剣闘士たちは、描かれた盾と三叉鉾の数から4人の魚兜闘士と4人の投網闘士でしょう。皇帝に敬意を表してから試合に臨むようです。

Ave Caesar-1.jpg

画面の左手前には、試合が終わった投網闘士と網をかぶせられた魚兜闘士の2人が倒れています。相討ちになったのでしょうか。そのうしろ方のハイライトの部分では、奴隷が剣闘士の死体を引きずってアリーナから出そうとしています。

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『皇帝に敬意を捧げる剣闘士たち』は、13年後に描かれた『差し下ろされた親指』と似ています。ともに剣闘士と皇帝を低い位置からとらえた構図であり、あえて試合中の剣闘士を描かず、魚兜闘士と投網闘士の武器や防具、そしてアリーナの構造が歴史考証をもとに描かれています。しかし明らかに試合の決着がついた直後、生か死かという瞬間を描いた『差し下ろされた親指』の方が劇的です。殺せと叫ぶ観衆を間近に描いたのもインパクトがある。アリーナの巨大さを実感できる空や天幕を描くのをあきらめざるを得なかったが、その代わりに天幕から漏れてくる光の筋を描き込んだ。2つの絵を比べると『差し下ろされた親指』を制作した画家の意欲が分かるのでした。



補足ですが、古代ローマの剣闘士については Wikipedia日本版に詳しい情報があります。また画家のジェロームについては、以前の記事で次の3つの作品をとりあげました。
  『奴隷市場』No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」
  『虎と子虎』No.94「貴婦人・虎・うさぎ」
  『仮面舞踏会後の決闘』No.114「道化とピエロ」


野獣狩り


最初に引用した塩野七生氏の「ローマ人の物語」の他に、このブログで古代ローマの闘技会について引用したことがあります。ウィリアム・ソウルゼンバーグの「捕食者なき世界」にあった、"人間が大型捕食動物を根絶してきた歴史" です(No.127「捕食者なき世界 2」)。人間が大型動物を狩る第一の理由は食料を確保するためでしたが、歴史を振り返ると理由はそれだけではありません。


大型捕食動物を根絶しようとする強い動機がも、少なくとももう一つあった。猛獣を殺すのは、最高に楽しい娯楽だったのだ。都市化が進み、平凡な仕事が多くなると、人々は刺激のない生活に退屈するようになった。

ローマ人は巨大な円形闘技場コロセッウムを建設し、はるばるメソポタミアやアフリカから何千頭ものゾウやカバやライオンを連れてきて、大がかりな見せ物として殺すようになった。ローマのコロッセウムでは、1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった。ライオン500頭というのが、現在アジアに生息するライオンを一掃する以上の数であることを思うと、その数の多さが実感できる。


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ソウルゼンバーグが書いているのは、円形闘技場で行われた「野獣狩り」のことです。それは「最高に楽しい娯楽」でした。このあたりの歴史を別の本から引用してみたいと思います。

アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(関口英子訳。河出書房新社 2010)は最新の歴史研究を踏まえて、紀元115年のトラヤヌス帝の時代のローマの一日を民衆の視点からの「実況中継風の記述」とその「解説」で綴った本です。以前の No.26「ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ」では "ウェスタの巫女" に出会う部分を引用したのですが、この本には円形闘技場の描写も出てきます。以下にその記述を引用します。


まだ午前中だというのに、喚声をあげて応援しながら見守る何千人もの観衆の視線が、その一挙手一投足に注がれる・・・・・・。

コロッセウムでの闘技がはじまったのだ。一日の最初の見せ物は野獣狩り(ウェナティオ)である。剣闘士と剣闘士の闘いではなく、人間と野獣の闘いだ。コロッセウムだけでなく、帝国のどこの円形闘技場でも見せ物の順番は同じだ。最初に野獣狩り、続いて犯罪人の公開処刑、そして午後になるとようやく、待ちに待った剣闘士どうしの闘いがはじまる


円形闘技場での剣闘士の闘技会の前には、実は "前座" があったわけです。前座の最初は「野獣狩り」です。


コロッセウムをはじめ、帝国の各所に点在していた円形闘技場では、膨大な数の動物が殺された。ときには、弓矢をもった闘獣士が鹿やガゼルを倒す光景もみられた。また、ダチョウなどの外来の動物が殺されることもあった(中略)。場合によっては、両者がほとんど互角の闘いも繰り広げられた。剣闘士の服装をした数人の男が、かぶと、盾、剣で武装して、ライオンやヒョウや熊の攻撃をかわし、相手を倒さなければならなかったのだ。

「古代ローマ人の24時間」第35章

野獣狩りは闘獣士が野獣を "狩る" というショーですが、中には闘獣士と野獣の "互角の闘い" もあった。その互角の闘いをする猛獣の例として、当時有名だったウィクトルという名前のヒョウの話が出てきます。


一般的に考えられているのとはことなり、ウィクトルは空腹だから相手を攻撃しているのではない。コロッセウムで闘っている野獣はすべてそうだが、幼時の時に捕まえられ、特別な飼育を受け、闘犬と同じようにひたすら相手を攻撃するよううに調教されてきたのだ。相手のどこをどのように襲うべきなのかを教えこまれている。それでなくてもヒョウは、人間を襲うときにいきなり喉を狙うという恐ろしい習性がある。喉に牙を突き刺し、力強い両足の爪で胸部を掻きむしり、引き裂くのだ。

このような被害は現代でも見られる。以前、古生物関係の発掘調査のため、アフリカに滞在していた時に出会った医師から聞いたことがある。ライオンに襲われた人が病院に運ばれてきた場合は助かる可能性もおあるが(ライオンは咬みついてふりまわすだけの場合が多い)、ヒョウに襲われた場合、病院に運ばれてきた時にはすでに死んでいるそうだ。

ヒョウに罪があるわけではない。たまたま肉食動物に生まれつき、自然の摂理にしたがっているだけだ。だがコロッセウムでは、ヒョウの生まれつきの攻撃性が調教師によって大きく歪められ、見せ物のために利用される。まさに「殺戮機械」に改造されてしまった動物なのだ。ウィクトルは闘いで多くの闘獣士を死に至らしめただけでなく、調教する際の「標的」役をさせられた奴隷を何人も殺してきた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

単に闘獣士が動物を殺すだけの "野獣狩り" よりも、闘獣士と猛獣のどちらが勝つかわからない「互角」の闘いの方がショーとしての価値があるわけです。「古代ローマ人の24時間」にはスピッタラという名前の闘獣士とヒョウのウィクトルが闘う場面がでてくるのですが、闘獣士は鎧も兜も剣も無しにすね当てだけをつけ、1本の槍でヒョウと闘います。これもショーをおもしろくする工夫でしょう。完全武装ではつまらない。


帝国内のおもな円形闘技場で、トラに代表される外来動物を頻繁に用いたことで、ヨーロッパ、北アフリカ、中東の野生動物は次第に減少し、絶滅した種も少なくなかった。捕獲された各種の動物(クロコダイルやサイを含む)のうち、荷車に乗せられたり、船倉に詰めこまれたりして長旅を続けたあげく、生きて目的地に到着できたのはほんの一部でしかなかったことも要因になっていた。

「古代ローマ人の24時間」第35章

ローマ帝国の特別のイベントでは、多数の剣闘士が殺されると同時に、夥しい数の野獣も殺されたようです。


紀元80年には、ウェスパヌシアス帝の息子で後継者のティトス帝によってコロッセウムの落成式が行われ、100日間でじつに5000頭もの猛獣が殺されたことがあった。

そのほか、私たちが探索している時代に関連する出来事としては、トラヤヌス帝のダキアに対する勝利の祝賀会がある。この時、コロッセウムは120日間も連続して使用され、その間、12,000頭もの野獣と1万人もの剣闘士が殺された。

「古代ローマ人の24時間」第43章

ソウルゼンバーグは「1日にクマ100頭、ヒョウ400頭、ライオン500頭が虐殺されることもあった」と書いていましたが(=1日に1000頭を殺害)、いかにありそうです。


公開処刑


前座の第2弾は犯罪人の公開処刑です。『古代ローマ人の24時間』には、後ろ手に縛られた罪人を2人の死刑執行人がコロッセウムの闘技場に連れ出す場面が描写されています。コロッセウムでは数万人の観衆がざわめいています。罪人が受けた判決は「猛獣による食い殺しの刑」です。


罪人は自分の最期が近づいてくるのを見た。大きくて迫力に満ちたライオンの頭・・・・・・。なかでも恐ろしいのは、爛々らんらんと輝くハシバミ色の目だ。その目には慈悲のかけらもない。

あらんかぎりの声で叫ぶ罪人。一歩も進むまいと両足を踏ん張り、身体を強張らせている。だが、死刑執行人二人の力にはかなわない。一人は慣れた手つきで罪人の縮れた髪の毛をつかみ、餌を差し出すかのように野獣に向かって突き出す。もう一人はまるで蹴破られまいと必死でドアを押さえているように、罪人の背後で身を隠している。その体勢で罪人を猛獣のほうへ押し出しているのだ。罪人の両手をしっかりを押さえ、頭巾をかぶった頭を低くして、がぶりと咬みつく瞬間を待っている。

獲物に飛びかかる直前、ライオンは歩みを速め、まったく音を立てずに動く。目を閉じ、顔をそむける罪人。ライオンの足が地面から離れ、飛びかかる瞬間、息をのむ観衆。断末魔の叫び・・・・・・。

すべてが一瞬の出来事だった。つかんでいた手を放し、身をかわす死刑執行人。ライオンの白い牙が見える。顔面に生ぬるい息を感じたと思った瞬間、罪人は野獣の下敷きになっていた。

観衆のどよめきのなか、身の毛もよだつショーが展開する(以下、省略)。

「古代ローマ人の24時間」第40章

コロッセウムにおける公開処刑は、上に引用したような "単純な" もの以外に、見せ物・ショーとしての "演出" がされることもありました。


観衆は、しばしば「思いがけない演出」が処刑に隠されているのを知っていて、それを大いに期待していた。そのため、主催者はときに奇抜な舞台装置を準備し、神話や歴史的な筋書きに添った処刑を実施することもあった。(中略)

こうして、たとえばイカロスが飛ぼうとする場面が再現されることになる。失敗終わるイカロスの飛翔を真似た罪人が、まっさかさまに落ちていき、地面に激突し、列席している皇帝の上にまで血しぶきが飛び散る。これはスエトニウスの記述によるものだ。(中略)

マルティアリスはコロッセウムの落成式でオルフェウスの神話が再現されたと記している。神話では、エウリュディケの死に失望したオルフェウスが、その歌声で猛獣をてなずけたとされている。それを模して、アレーナ(闘技舞台)の床下から徐々にせりあがってくる岩山や木々のある舞台装置(数ある特殊効果のひとつだった)の中に、多くの野獣と一緒に罪人が放置された。だが残念になことに、罪人は熊を手なずけることができなかった。観衆の狂喜のなか、「歌い手は、恩知らずな熊にずたずたに引き裂かれた」とマルティアリスは記している。

「古代ローマ人の24時間」第40章

こういう記述を読むと、古代ローマの文明のレベルの高さが直感できます。まず観衆はギリシャ神話を知っているわけです。知っているからこそ演出としての価値が出てくる。さらに引用にあるコロッセウムの有名な「せり上がり舞台」の仕組みも、それが2000年前だと考えるとすごいものだと思います。

  蛇足ですが、現代の "アリーナ" は「舞台」の部分とそのまわりを取り囲む観客席の部分の両方を言いますが、語源となった "アレーナ" は「舞台」だけを指すようです。

この記述から、よく言われるローマ帝国における「キリスト教徒迫害」を思い出しました。キリスト教徒は捕らえられ、闘技場に引き出され、猛獣の餌食になったと・・・・・・。決まって引き合いに出される悪役は皇帝ネロです。しかし注意すべきは、古代ローマにおける猛獣刑は "死刑と決まった罪人" を処刑する方法の一つだったことです。キリスト教徒だけが猛獣刑にあったわけではありません。ちなみに弾圧された宗教もキリスト教だけでもありません。紀元前186年のディオニュソス教徒の弾圧では7000人が処刑されたと、古代ローマの歴史家が書いています(No.24「ローマ人の物語(1)寛容と非寛容」)。



歴史をひもとくと、公開処刑は古代ローマだけでなく日本を含む世界各国で行われてきました。現代でも東アジアの某国や中東のある種の国では行われています。むしろ「見せしめ」や「戒め」のために、罪人の処刑は公開が原則だったと言えるでしょう。

しかし古代ローマの公開処刑の特徴は、それが見せ物、ショー、エンターテインメントとして実施されたことです。しかも最大数万人の観衆の注視の中でのショーであり、演出上の工夫があり、猛獣刑の場合は食いちぎられた人体のパーツがアレーナに散乱する陰惨な光景で終わる見せ物です。こういった例は世界史でも希有でしょう。


剣闘士の戦い


「野獣狩り」と「公開処刑」という前座が終わると、いよいよ待ちに待った剣闘士の闘いが始まります。

ジェロームが『差し下ろされた親指』で描いたのは、魚兜闘士と投網闘士の戦いでした。『古代ローマ人の24時間』では「魚剣闘士」(=ムルミッロ)と「投網剣闘士」(=レティアリウス)と訳されています。そして魚剣闘士と投網剣闘士の戦いの様子が、剣闘士の視点で描写されています。魚剣闘士の名前はアステュアナクス、投網剣闘士の名前はカレンディオです。魚剣闘士の装備は兜、盾、腕当て、両刃の短剣(グラディウス)であり、投網剣闘士は投網と三叉鉾、肩防具、短剣(とどめを刺すために使用)で、兜は無しです。

戦いが始まるとすぐ、投網剣闘士は魚剣闘士の周りをぐるぐる走り回ります。


以下の戦いの様子は実話であり、名前も実在した剣闘士のものだ。

突然投網剣闘士カレンディオの動きが止まり、向きを変えるかのように身を屈めた。だが、これは策略であり、網を投げる準備をしているのだ。実際、相手の隙をついてカレンディオの身体が伸び、稲妻のような速さで網を投げつける。すべてが一瞬の出来事だった。

魚剣闘士のアステュアナクスは、背中に何か重いものがのしかかってくるのを感じた。まるで何かが上から落ちてきて、押さえつけているかのような感覚だ。兜の格子の向こうに、目の粗い網が