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No.55 - ウォークマン(2)ソニーへの期待 [科学・技術]
ウォークマンはオーディオ機器
前回からの続きです。
前回の最後に書いた、コンピュータとしてのiPodに比較すると、ウォークマンは(DAPを装った)コンピュータではなかった、と言えるでしょう。ウォークマンはオーディオプレーヤーとして発想され、オーディオプレーヤーの音源としてデジタルデータを使い、コンピュータ技術を利用してハードウェアを作った。その「補助ソフト」としてSonicStageがある。
| ◆A | コンピュータ技術を利用したDAP | |
| ◆B | DAPを装ったコンピュータ |
この2つが市場で戦ったとしたら、Bが非常に有利です。なぜならコンピュータは「何でも機械」であり、アプリや周辺機器を付加することによって「変身」や「発展」が可能だからです。
コンピュータには制約がありますが、それは本体のハードウェアです。たとえば表示装置の大きさ、液晶か電子ペーパー(アマゾンのキンドルのような)か、タッチパネルがついているかどうか、などです。しかし、その制約の範囲内で発展していける。端的な例は、前回に書いたヤマハのiPod用・無線・アンプ内蔵スピーカーです。考えてみると、ソニーはヤマハ以上の「音響機器メーカー」ですね。DAP用・無線・アンプ内蔵スピーカーというのは、ウォークマン用にソニーが真っ先に作るべき製品のはずです。技術的には十分できる。しかしそうではなかった。それはウォークマンが「DAPを装ったコンピュータ」として発想されていないからだと思います。
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NW-MS7 (1999) メモリスティック DAPウォークマンの最初の製品 |
NW-E3 (2000) フラッシュメモリ:64MB 最初のメモリタイプの製品 |
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NW-HD3 (2004) ハードディスク:20GB MP3に対応した最初の製品 |
NW-A867(2011-) フラッシュメモリ:64GB 音質の評価が高い |
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前回に「CDを開発して音楽をデジタル化した(=情報化した)のは、ほかならぬソニー」と書きました。上記のAとBの発想の違いは、CDについても言えるでしょう。
| ◆A | CDは、レコードを圧倒的にコンパクトにし、長時間録音が可能・劣化しない・製造コストが安いなどの、多大なメリットを作り出したものである。そのCDを作るために、音楽のデジタル化技術が使われた。 | |
| ◆B | CDは、デジタル化技術を使って音楽を「情報化」したものである。CDに焼き付けられている音楽は、デジタル情報の一つの姿であって、媒体はメモリーでもディスクでも何でもよい。この「音楽の情報化」が多大なメリットを生み出した。 |
CDに関してはAとBの両方の見方が可能であり、どっちが正解だということはありません。しかしどちらを中心に据えてモノを見るかによって、製品を企画する発想は違ってくると思います。コンピュータの視点から見ると、CDの本質的な意味は音楽の情報化(B)であり、その認識が基本となって企画されたiPodが市場を席巻したということでしょう。音楽を情報化したということは、一般的に「情報化」の帰結として起こることは遅かれ早かれ全部起こるのであり、事実そうなっていったのです。
前に「iPodはソニーが作るべき製品だった」というソニー幹部の発言があったことを書きましたが「ソニーがiPodを作るのは無理だった」というのが私の考えです。ウォークマン(1999 - )は iPod(2001 - )より2年も先行しています(そう言えば、音楽配信もソニーがアップルに先行した)。しかし、製品を企画する技術発想がそもそも違った。その端的な象徴がMP3をサポートしない(発売開始以来5年間の)ウォークマンだったのでしょう。
以上、ソニーの悪口ともとれる文章を書きましたが、それは(ひと昔前の)DAPウォークマンの話であって、ソニー製品全般ということでは決してありません。それどころか、私は今後のソニーに大きな期待を持っています。それも書かないとフェアじゃないと思うので、以降はそれについてです。
ソニーへの期待
ソニーは最近ヒット商品がないと言われます。平面トリニトロンTV(WEGA)以来ないと・・・・・・。
確かにその通りですが、しかし、日本では一時撤退した電子書籍リーダーのジャンルにアメリカで参入し、アマゾンについで2位のシェアを持っているような例もあります。ミノルタを買収して強化したカメラ事業も、ミラーレス機などで元気です。商用の有機ELテレビを世界で初めて出したのもソニーです。一般消費者用のデジタル家電ばかりがうんぬんされますが、放送局用や映画製作用のデジタル機器の分野ではソニーがPanasonicと世界市場を2分していて、この2社の独壇場です。
2012年4月に社長・兼CEOになった平井氏の大きなミッションは、長年の懸案になっている「テレビ事業の建て直し」だと報道されていました。おそらくTV事業のリストラが進められ、事業規模を縮小し、コモディティ化したTVビジネスからは距離を置くことが予想されます。そのテレビなのですが、私自身は、従来のTVとは一線を画した付加価値の高い「次世代TV」についてソニーに大いに期待しているのです。なぜ期待するのか、その理由をちょっと詳しく述べたいと思います。
次世代TVのイメージ
「次世代TV」がどういうものか、その選択肢は多くはないと思います。ロジカルに考えると、答えはほぼ一つに集約されるのではないでしょうか。
TV放送受信ができ、オーディオ・ビジュアル・コンテンツが視聴でき、スマートフォンやゲーム機と完全に連動して使える、リビングルーム用の固定設置型PC。 |
というイメージです。次世代TVはPC(コンピュータ)の一種であり「TVを装ったコンピュータ」だと考えているので、前回のコンピュータの定義に従ってインターネット接続が前提です。またホーム・ユースなので、1秒程度で起動できることも大前提です。
企業用ではない一般消費者が個人や家族で使うコンピュータをPCと定義すると、PCは次のような階層になるでしょう。長さは人間とPC画面との、おおよその距離です。
| ◆ | モバイル(ポケットサイズ) | 20-40cm |
| スマートフォン、ゲーム機 | ||
| ◆ | モバイル(カバンサイズ) | 30-50cm |
| タブレット、ウルトラブック | ||
| ◆ | モバイル・デスクトップ兼用 | 40-60cm |
| ノートPC | ||
| ◆ | 固定設置(デスクトップ) | 40-70cm |
| デスクトップPC | ||
| ◆ | 固定設置(リビングルーム) | 200-300cm |
このうち「リビングルーム用・人間との距離が2-3m・複数人が同時使用することもある、固定設置PC」が次世代TVである、と定義できると思います。これは、今言われている「スマートTV」に近いのですが、そう言ってしまうと「賢いTV」「コンピュータ技術を利用したTV」と誤解されそうです。あくまで「TVに見せかけたPC」という意味をこめて「次世代TV」と言うことにします。
次世代TVの典型的な機器イメージを考えると以下のようになるはずです。まずテレビ本体は STB(Set Top Box。チューナーを内蔵した箱型のTV本体)と、それに有線接続されたフラットパネル・ディスプレイ(FPD)で構成されます。STBとFPDの一体型もあるし、逆に無線接続もあるでしょう(そういう製品はすでに出ています。シャープのスタイルフリーなど)。テレビは室内に設置されるのが基本であり、画面と人間の距離は数メートルです。この前提条件において、次世代TVのハードウェア・ソフトウェアは次のような要素から構成されるでしょう。
|  ①高精細大画面ディスプレイ  |
液晶、プラズマ、有機ELなどのFPDで、室内設置にフィットした大画面・高精度のものです。上位機種は4Kや3Dになるでしょう。放送やビジュアル・コンテンツなどの視聴をはじめ、TV電話などの用途が考えられます。ちなみにTV電話は、企業ではテレ・コンファレンスとして既に広く普及しています。
他の製品にないTVの特徴は、何といっても各社が競ってい動画の美しさ、画質の良さ、いわゆる「絵作り」です。これを実現する「高速画像処理エンジン(マイクロ・プロセッサ)」と、それを制御するソフトウェアが重要な要素になります。ちなみにソニーは、東芝、IBMと共同で「Cell」と呼ばれる超高性能のマイクロ・プロセッサを開発し、Play Station 3 (PS3) に搭載しています。しかしCellをTVに搭載したのは東芝だけのようです(Cell REGZA)。こういった次世代TVに向けた「超重要技術」をソニーはどう考えているのでしょうか。
|  ②高性能スピーカーと、それを支える音響システム  |
数メートルという人間との距離が有効に生かせるハードウェアはスピーカーです。次世代TVのSTBには(デスクトップPCよりは)高性能なスピーカーが搭載され、音源データを再生できる音響システムが内蔵されるでしょう。ちょうどそれは、スマートフォンがデジタル・オーディオ・プレーヤーを取り込んでしまったのと同じ経緯をたどるはずです。また、次世代TVの周辺機器としてアンプ内蔵型の高性能スピーカー(サラウンドシステム)を外部接続し、さらに高品質の音響を楽しむことも可能になるでしょう。
|  ③大量データを蓄積可能なストレージ  |
現在、数テラバイトの大容量のデータを蓄積できる一般的な家庭用機器はテレビ周辺機器であるレコーダ(BD録再機)です。この特徴は次世代TVに引き継がれ、録画した放送データ、個人が所有する音源データを蓄積します。ストレージは増設が可能で、必要ならインターネットを介してクラウド上のストレージとも連動します。
|  ④リビングルーム設置に特化したセンサー  |
リビングルームに設置、大型画面、人間との距離が2~3メートルというテレビに最も適したセンサーは画像センサー(カメラ)だと思います。しかもテレビの大きさからいって、水平に離して2個のセンサーをつけられる。これは画像処理技術によって立体認識ができることを意味します。なお、ソニーは日本有数の画像センサーの開発・製造会社です。確か、iPhone 4S の画像センサー(800万画素)はソニー製です。
マイクロソフトはゲーム機(XBox)用に、人の動きをリアルタイムにとらえるキネクトというデバイス(いわゆるモーションキャプチャ技術)を開発しましたが、これは装置から赤外線を照射するタイプです。この簡易版が可視光の画像認識だけで出来るはずです。モーションキャプチャ技術を使うと「身ぶり手ぶり」でTVを操作することもできるでしょう。
また、音センサー(マイク)も必須でしょう。TVだけではないのですが、音声認識によって家電を操作するのが今後のトレンドだと思われます。さらに「人感センサー」も次世代TVに搭載する有力候補です。
|  ⑤インターネット接続の内蔵  |
次世代TVはPC(=コンピュータ)の一種なので、前回のコンピュータの定義に従ってインターネット接続が前提です。インターネットの背後にはクラウドがあり、VODなどの各種サービス(現在のアクトビラのような)が提供されます。もちろん、情報検索やSNSなどの一般的なインターネットサービスが利用できます。ただし、大画面・複数人同時視聴といったTVの特性が生かせる利用シーンが前提です。家庭からインターネットに接続するやり方はいくつか考えられますが、TV自体にその仕組みを内包し、利用者からは隠蔽してしまうのが基本だと思います。
|  ⑥スマートフォン(タブレット)、ゲーム機との高速通信  |
リビングルームにおいて、固定設置型のPC = 次世代TVと共存できる(共存して最も価値が高い)PCは、モバイル機であるスマートフォン(ないしはタブレット)、ゲーム機です。次世代TVはこれらと室内で一体として扱えるのが必須だと思います。そのためには無線LANやブルートゥースなどの、近距離高速無線通信が必要です。
次世代TVでできること
以上のような次世代TVのイメージを前提にして、「できること」「あってほしい機能」は以下のようになるでしょう。
まず蓄積型TV放送視聴です。つまり時間を選ばない(タイム・フリー)、視聴場所も家庭に限定されない(ロケーション・フリー)というTV視聴です。1週間分の数チャネルの番組を全部録画可能なTVはすでに発売されています。また蓄積した番組コンテンツをスマートフォンで(例えば通勤途中に)視聴したいわけですが、ソニーは2000年から「ロケーション・フリー」という製品を発売しました(当初は別名。その後、販売を中止)。これは次世代につながる重要技術だと思います。
もちろんTV放送だけでなくコンテンツ視聴も重要で、BD/DVDの映像ソフト(映画、その他)や、VOD(Video On Demand)、インターネット上の動画サイトの視聴などです。現在、VODは「アクトビラ」や「もっとTV」などで実現されていますが、そもそもアクトビラの映像情報はMPEG2という圧縮技術を使ったデジタルデータであり、これは地デジと同じです。放送とVODの技術的境界は非常に小さいのです。
大容量ストレージと高性能スピーカーによるオーディオ装置としての活用も是非やりたいことです。モバイル機器としてのオーディオ機器はスマーフォンが主流なので、スマホとの連動も可能にしたい。スマホの音楽を無線で次世代TVで聞くというスタイルです。さらにサラウンドシステムを接続して高級オーディオ装置に「変身」させられることも、室内設置機器として重要です。
スマートフォン(ないしはタブレット)やゲーム機との、無線によるシームレスな連動も次世代TVの重要機能になるはずです。スマートフォンとの連動で言うと、リビングルームにおいては「スマホをTVのリモコンにする」「スマホで見ているインターネット画面をTVに切り替えて見る(大画面が欲しいもの・複数人の同時視聴がしたいもの)」「TVの音声を消してスマホのヘッドフォンで聞く」などです。また外出先でスマートフォンを使って「番組録画予約」「ロケーション・フリー(自宅で録画した番組の視聴)」「自宅の室内の様子を見る(TVの画像センサを利用)」などの機能が欲しいところです。
次世代TVの最大の特徴は「アプリによる機能実現」という、コンピュータとしての根幹機能の実装でしょう。
次世代TVの基本機能を実現するのは「放送受信アプリ」「メディアプレーヤー・アプリ」「オーディオプレーヤー・アプリ」です。もちろんこれらのものはTVメーカーが標準的なものを作るわけですが、第三者が(許容される範囲で)作ってもいいわけです。地デジのデータ放送の部分とインターネットからの情報をうまく使えばもっと有益な「放送」になるのに、と思うことが多々あります。朝起きてから出勤までテレビをつけっぱなしにしている人は多いと思いますが。たとえば「出勤前アプリ」というのがあって「指定地域(自宅・勤務先)のその日のピンポイント気象情報」と「指定した交通路線の運行情報」を画面に一発で(常時)出すというのをやって欲しい。
「番組表アプリ」も必要です。スマートフォンと連動して、家庭内・家庭外から録画予約をしたい。このときインターネット・ショッピングで一般的な「レコメンデーション」が有望です。過去の視聴・録画の傾向、登録したキーワード(俳優や歌手の名前、観光地など)、「この番組を録画予約した人はこれも予約しています」方式のリコメンデーションがあってもよい。
スマートフォンと連動した「リモコンアプリ」も是非欲しいものです。とにかく今のリモコンはフル機能をハード的に実現するのに近く、使いにくい。リモコンアプリで簡易・普通・高級の切り替えてができてもよいと思います。
画像通信と音声通信を併用した「TV電話アプリ」も有望でしょう。また当然ですが「ゲーム・アプリ」も有力です。入力機器はスマートフォンかゲーム機で、TV内蔵のカメラの活用し、かつ大画面を生かした複数人の参加型ゲームが考えられるでしょう。TVサイドの画像認識を生かしたゲームもいろいろ考えられます。
メディアプレーヤー・アプリの変形ですが「カラオケ・アプリ」も次世代TVで欲しい人が多いでしょう。インターネット接続でカラオケ用のコンテンツを取り込むことは、専用カラオケ装置で随分前から実現されています。
ゲーム・アプリの変形で「エクササイズ・アプリ」も大いにありうる。家庭用のエクササイズ・マシンを接続するようなものから、TVの画像センサー(カメラ)だけを利用するものまで、多様な形が考えられます。
「画像処理アプリ」もいろいろ考えられる。たとえばTV内蔵のカメラを使った「バーチャル試着」が動画で可能になるでしょう。服のデータはインターネットで送り込めばよい。静止画でのバーチャル試着はパソコンで今でもありますが、TVの画像処理力を生かせば、技術的には十分可能ではないでしょうか。こういうバーチャル試着は服でなくても、メガネでもカツラでも良いわけです。
重要なことは、こういったアプリはTVメーカーが作る必要はないということです。アプリを作る「土台」をプラットフォームと呼ぶとすると(ハードウェア + 基本ソフトウェア)、良いプラットフォームとしての次世代TVを提供すれば世界中のノウハウや技術のある人がアプリを作ってくれる、ということなのです。
以上に書いた「次世代TV」は、いわばフル・バージョンであり、実際は最上位機から廉価版までがシリーズ化されるという前提です。こうして書いてみると、部分的には既に実現されているものもいろいろあり、また今の技術で十分に実現可能か、手の届くものであることが分かります。段階的に「次世代化」するのかもしれません。
次世代TVとソニー
ソニーの話に戻ります。次世代TVのイメージを長々と書いたのは、ソニーが今後のTVビジネスにおいて極めて有利なポジションにあることを言いたかったからです。ソニーは
①パソコン(VAIO)
②TV(BRAVIA)とレコーダ(BD録再機)
③オーディオ機器
④スマートフォン(Xperia)
⑤ゲーム機(Play Station)
の5種のハード・ソフト技術を持っている世界唯一の企業です。さらに
⑥画像センサー、マイクロプロセッサー・Cell
などの次世代TVにとっての重要部品技術がある。しかも
⑦映画会社(SPE)と音楽会社(SME)
まで持っています。膨大な映像・音楽コンテンツを保有しているということです。ここまでのエレクトロニクス企業は他にありません。加えて
⑧SONYというブランド
がある。これは金銭には代えられないでしょう。さらに補足すると、ソニーは、もともとミノルタのカメラ部門を買収した1眼レフ・カメラメーカでもあり、高度な光学技術まで保有しています。HMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)で3Dコンテンツを視聴するといったケース(すでにソニーは製品化しています。HMZ-T1)では光学技術が生きると思います。
もっと言うと、ソニーには
⑨iPodでアップルにしてやられたという苦い思い出
があるはずです。ソニーがやるべきことをアップルがやってしまった。次世代TVにおいては「iPod事件」の反省をもとに、絶対に負けないという強い意志があるのではないでしょうか(そうだと期待します)。
ソニーに無いのは、次世代TVの核となる基本ソフトウェア(TV用OS)です。これは Google と共同開発することもできるし、オープンソースのLinuxをベースに、OS開発能力がある日本のIT企業と共同開発することも可能でしょう。GoogleのAndroidがTV用OSの解ではないと思います。2010年にソニーはのAndroidを搭載した「グーグルTV」をアメリカで発売しましたが、あまり売れていません。TV用OSは非常に重要です。どこまで将来を見通して基本ソフトウェアを構築できるかが、TV事業の今後を左右すると思います。
①から⑦はソニーが次世代TV(=リビング・ルームに固定設置する、TVを装ったPC)に最も近い企業だという理由なのですが、問題は①から⑦を会社として結集できるかでしょう。カリスマ経営者はすでにありません。大企業となったソニーが、はたして事業部門の枠を越えて「TVに関しては、ワン・ソニー」になれるかどうか。そういうリーダシップを発揮できる人がいるかどうかです。①から⑦までがあることは、ヘタをすると弱みになる。各事業の最適を求めることが足枷になって革新を阻害しかねません。次世代TVはコンピュータの一種だと定義しましたが、たとえばVAIO(パソコン)ないしはXperia(スマートフォン)の部隊が中核的存在となり、各事業部門を結集して次世代TVが開発できるかどうか。そういう問題だと思います。アップルが次世代TVを企画・開発するときには、パソコンとスマートフォンを熟知した人間、技術面とビジネス面の両方を知り尽くしたプロフェッショナルが中心になるはずです。ソニーが「コンピュータ技術を利用しただけのTV」を作ったとしても勝ち目はないと思います。
AIBOは最後のモルモットか
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AIBO ERS-7
AIBOの後期モデル・ERS-7シリーズ。無線LANモジュールを標準搭載している。AIBOが販売された期間は1999年6月から2006年3月までの約7年間である。AIBOの(販売)寿命は本物の犬よりも短命に終わってしまった。 | |||
ソニーと並んで戦後日本の代表的な企業であるホンダは、2足歩行型ロボット・ASIMO を続けています。儲けには全くなっていないと思いますが、ホンダは撤退しないでしょう。「人がやらないことをやる」というホンダの象徴だからです。その精神はソニーも同じだったはずです。ちなみにこの2社はカリスマ技術者である創業者がゼロから作り上げた企業ということも似ています。
- 余談ですが、ホンダはビジネス・ジェット機まで作っていますね。1986年より研究を開始し、デリバリ予定は2013年だとホンダのホームページに載っています。このジェットエンジンは自前のものであり、確か1990年代初頭からゼロベースで研究・開発してきたはずです。もちろん機体もホンダの独自開発です。「一文の売上げにもならない投資を27年間も続ける」という企業姿勢は大したものだと思います。
しかし将来に向けた戦略的研究課題という以上に、AIBOのような製品を「商品化すること」ないしは「撤退すること」は、そのこと自体が社会に対してメッセージを発していると思うのです。
ソニーの経営者がこの10数年に発してきたメッセージを振り返ってみると、特に出井社長の登場以降ですが、
◆デジタル・ドリーム・キッズ
◆ハードとソフトの両輪
◆ネットワークとコンテンツの重視
◆ソニー・ユナイテッド
などが印象に残っています。この通りの言い方だったかどうかはうろ覚えですが、そういう意味のことがトップからあったのは確かだと思います。しかしこれらのメッセージは、全く正しいけれど、あまりにあたりまえだと思うのですね。企業戦略説明会の「中期ビジネス方針」のように聞こえる。
ソニー創業者の井深大氏は「ソニー = モルモット論」を折りにふれて言っていました。これは、かつての評論家の大宅壮一氏が雑誌に書いた文章がもとになっているそうです。曰く「トランジスタはソニーが先鞭をつけたが、東芝が潤沢な資金を背景にトップになった。ソニーは東芝のためのモルモット的役割を果たした・・・・・・」。
井深氏はこの「ソニー = モルモット論」を逆手にとってメッセージを発信したわけです。モルモット = 実験台で十分だ、モルモットであることがソニーの使命だと・・・・・・。「人真似はするな。他人のやらないことをやれ」という創業者の強烈な思いが、そういう言い方になるのだと思います。
アナログか、デジタルか、ネットワークか、ソフトウェアか、コンテンツか・・・・・・。そんなことは関係ないのです。これらの要素はエレクトロニクス企業である限り、多かれ少なかれ全て必要です。そういうレベルの話ではない。誰もやらないことをやって新たなライフスタイルを提案する。ソニー製品を買うことによってライフスタイルが変わりそうな予感がする機会を消費者に提供する。それがソニーという会社の使命のはずであり、少なくとも我々はそう思ってきたし、そこに期待しているわけです。
1999年にAIBOが発表されたとき、井深大氏はもうこの世の人ではありませんでした(1997年逝去)。しかしソニーはAIBOを商品化することによって「ソニーはモルモットだ」ということを改めて世界中に向かって宣言したわけですね。そういう言葉は一言もなかったけれど、製品そのものが明確なメッセージを発していた。それは誰が考えても明らかでしょう。
2012年3月14日の朝日新聞に「がんばれソニー」といオピニオン・ページが掲載されました。
- 戦後、日本の製造業の象徴だったソニーが振るわない。それは『ものづくり』国家・日本そのものの揺らぎでもある。どうしたソニー。がんばれソニー
このオピニオンの中で、元ソニーでVAIOの開発責任者だった辻野晃一郎氏は、未踏の領域に足を踏み入れて全く新しいものを生み出そうというソニーのマインドを踏まえて、次のように言っています。
私は、ソニーとは企業ではなく、生き方だと考えています。 |
なるほど・・・・・・。ソニーとは生き方である・・・・・・。辻野氏は1984年ソニー入社ということなので、創業者の井深・盛田両氏と身近に会ったことはないと想像します。しかしこの発言は、実質的に辻野氏が井深・盛田両氏の直系の弟子であること、いや、一番弟子とさえ言ってよいことを示しています。なぜかと言うと、井深・盛田両氏にとってソニーは「生き方」そのものだったからです。辻井氏が入社したときの社長は大賀典雄氏でした。その大賀氏は社長就任(1982)のとき「人より一歩先んじて物を考え、先んじて新しいものを出していかなければなりません。それがソニーの生き方なのです」と述べたそうです(2012.5.15 日経産業新聞)。その当時のソニー社内に共有されていた思いが、確実に辻井氏に伝わったと言えそうです。
ソニーとは企業ではなく、生き方である。このように(OBないしは社員が)言える会社は他にあるのでしょうか。「ライバルの」アップルはそうかもしれない。「私にとってアップルは生き方そのものです」と言うアップル社員は、いかにもいそうな感じがする。しかし他社ではほとんどないのではと思います。その意味でもソニーは希有な会社ではないかという思いを強くしました。その「DNA」は、まだソニー社内に残っているはずです。次のソニーに期待したいと思います。
No.54 - ウォークマン(1)買わなかった理由 [科学・技術]
ヒラリー・ハーン
No.11「ヒラリー・ハーンのシベリウス」で、ヒラリー・ハーン(1979- )とウォークマンの関係について触れました。そこで紹介したのですが、彼女はシベリウスのヴァイオリン協奏曲について次のように書いています。
シベリウスの協奏曲にかんする私の最初の思い出は、とても変わっています。子供のとき、野球場ではじめてこの曲をテープレコーダで聞いたのです。ボルティモア・オリオールズの試合の最中に。 |
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シベリウスのヴァイオリン協奏曲 ヒラリー・ハーン | |||
ポイントは、彼女が「野球場で初めてシベリウスをテープレコーダーで聞いた」と書いているところです。この「テープレコーダー」は、ソニーのウォークマン、ないしはその類似製品ですね。そういう風に強く推測できます。野球場に持っていって音楽を聞くのだから・・・・・・。ウォークマンはヒラリーの生まれた年(1979)に発売され、またたく間に世界に広まりました。クラシック音楽の世界においても「ベルリン・フィルやニューヨーク・フィルのオーケストラの連中が先を争ってウォークマンを買い求めた」という話を No.11 で紹介しました。そして「音楽を戸外に持ち出して聞く」という新たなライフスタイルを作り出しました。類似品も数多く発売されたのですが、ヘッドフォンやイヤフォンで聞くカセットテープ再生専用機が「ウォークマン」と一般名称で呼ばれたように、SONYの名前とともにダントツのブランド力を誇ったわけです。
振り返ってみると、20世紀以降の音楽文化はテクノロジーの発達と相まって発展してきました。レコード、CD、各種の電子楽器、テープレコーダー、デジタル・オーディオプレーヤー、ネットによる音楽配信・・・・・・。こういったテクノロジーは音楽の新しい楽しみ方を作ったし、また音楽そのものも新たなテクノロジーを前提にして作られ、演奏されるようになり、相互補完的に発達してきたわけです。ウォークマンはそういった新たな音楽シーンを作ったエレクトロニクス製品の典型でしょう。
以下はそのソニーのウォークマンについです。ただし初代の「カセット・ウォークマン」ではなく、デジタル・オーディオ・プレーヤー(DAP)としてのウォークマンです。ソニーが一時、ネットワーク・ウォークマンと呼んでいたものです。以下、初代ウォークマンと区別するときには「DAPウォークマン」と書きます。
このDAPのジャンルでは、良く知られているようにアップル社のiPodが市場を席巻しました。現在の日本ではウォークマンとiPodが市場を2分していますが、一時はiPodが7割とか8割のシェアを持っていた頃があります。
今回のテーマは、特にiPodと比較したソニーのDAPウォークマンを振り返ってみようというものです。DAPの市場は、今後スマートフォンに押されて縮小していくでしょう。しかしDAPは携帯端末やテレビの今後を考える上で格好の教材だと思うのです。「iPodはソニーが作るべき製品だった」とソニーの経営幹部の発言が報道されたこともありました。本当にそうなのかについても触れたいと思います。まず、DAPウォークマンの比較対象であるアップルのiPodからです。
アップルのiPod
iPodはアップルにとって一つの大きな転機となった重要な商品です。このiPodが起点となって
| ◆ iPod |   2001 |
| ◆ iPod touch |   2007 |
| ◆ iPhone |   2007 |
| ◆ iPad |   2010 |
と進化していき、現在の時価総額世界一のアップルを作りあげたわけですね。スティーヴ・ジョブズが残した大きな「遺産」でしょう。
この成功は大変にドラスティックでした。そのためマスコミのアップルに関する論評には過度の「礼賛記事」が見受けられるように思います。その一つが「iPodのビジネスモデル」論です。iPodはハードウェア販売とコンテンツ配信事業(iTunes Music Store による音楽の販売)をミックスしたビジネスモデルを作ったことが成功原因だ、とよく言われます。はたしてそうなのでしょうか。
歴史的経緯を振り返ってみるとiPodは次のように発展してきました。時期はいずれもMac版のリリース時期です。
- ①iTunes のリリース(2001.01)
- iTunesはPCで音楽を聴くためのソフトウェア。
- iPodはiTunesに蓄積した音楽を戸外に持ち出すためのハードウェア
- 音楽のネットワークによる配信。2006.09 に音楽以外のコンテンツも含めて iTunes Store となる。
音楽をダウンロードして購入するのがあたりまえになった現在から振り返ってみると、いかにもiPodが新たなビジネスモデルの一環として製品化されたように見えますが、それは結果論だと思います。アップルと言えども試行錯誤してきたはずです。
しかもiPodが躍進した時期にiPodで聴かれていた音楽のうち、iTMSで購入した「有料の曲」が全体に占める割合は僅かだったはずです。ほとんどは自分の所有CDからPC経由でリッピングした「無料の曲」だと推測します。「ハードとコンテンツビジネスの相乗効果」というのは、少なくともiPodのブレーク時期においては実態を言い当ててはいないでしょう。
それには、ある事情も関係していました。(当初の)iTMSの問題点は、iTMSで販売する楽曲にDRM(コピー・コントロール)がついていて、iTMSで購入した曲は iTunes/iPod でしか聞けなかったことです。これは別にアップルが望んだことではなく、アメリカの4大レコード会社から楽曲の提供を受けるための交換条件だったと、スティーブ・ジョブズは2007年に自社のWebサイトで暴露しました。さらに彼は、次のように付け加えたのです。
[スティーブ・ジョブズ] |
コピー・コントロールをやめたい側の発言なので割り引いて受け取る必要があるにせよ、iPodの曲の大半はiTunes Storeで購入した曲ではなかったことは確かでしょう。つまりスティーブ・ジョブズが自ら認めたように「ハードウェア・ビジネスとコンテンツ・ビジネスの相乗効果」というのは、少なくともiTunes Music Store開始から4年後の2007年時点では正しくないのです。なお、AACはiPodの標準の音楽データ圧縮形式です。
それよりも、iPodが市場を席巻した本質的な理由は別のところにあると思います。よく言われるのは iPod のユーザ・インターフェース良さ、独特のアナログ的な操作性の斬新さです。もちろんそれもありますが、もっと根本的な製品企画に理由があると思います。それは「ソニーがiPodのような製品を市場に出せなかった理由の裏返し」であり、また私が「DAPウォークマンを買わなかった理由」と密接に関係しています。それを以下に書きます。「iPodはソニーが出すべき製品だった」と言われながら、「実はそんなことはソニーには無理だった」ことの実証例の一つだと思うのです。
DAPウォークマンを買わなかった理由
私はソニーの初代ウォークマン(カセット・ウォークマン)は2台か3台か買いました。しかしDAPウォークマンは一度も買ったことがありません。その理由は次の2点です。
|  MP3  |
初期(1999 - )のDAPウォークマン(メモリースティック・ウォークマンが最初の製品)は、ATRAC(ATRAC3)というソニー独自の音楽データ圧縮方式をサポートし、当時世界的に最も広まっていたMP3をサポートしていませんでした。これはDAPとしては致命的な問題点です。ほとんど欠陥と言ってもいい。MP3をサポートしないということは、利用者に(たとえば私に)次のような不利益をもたらします。
| ◆ |
英語のリスニング DAPの利用目的は、音楽を聴くことはもちろんなのですが「英語のリスニングを日常的にしたい」というのも大きな目的でした。たとえば、アメリカ政府はVOA(Voice of America)などのサイトを通して、英語としての質が高い音声データを自由にダウンロード出来るようにしています。内容もニュースから始まって、アメリカ文化の紹介や学術的内容の解説までさまざまです。 これらの英語の音声データはMP3で提供されていました。あたりまえだけど、ソニー独自の形式であるATRACでは提供されません。この1点をとってみても、ソニー製品を買うことは No なのです。 | |
| ◆ |
他機種とのデータ互換性 MP3をサポートしないソニーの言い分は「音質はMP3よりATRACが優れている。CDをリッピングして楽しむならATRACで十分。MP3をATRACに変換することも可能」ということだったのでしょう。音質が優れているというのは確かにその通りかも知れません。 しかしこの「製品供給サイドの論理」にも大きな問題があります。ATRAC形式で保存・蓄積したデータはソニーのDAP製品でしか再生できないし、将来ともそうである可能性が高いのです。ユーザとしては、ソニーを含めその時点で最も気に入ったDAPを使いたい。PCに蓄積した音源データは個人の大切な資産です。その資産が、将来別の会社のDAPに変えることを想定したときに無駄になるという事態はユーザとしては納得できません。 またデジタル・オーディオが普及すると、音源データをリビングルームに設置したオーディオ装置と高性能スピーカで聞くというスタイルが定着することも目に見えていました(事実、そうなっています)。ということは、PCに蓄積した音源データを「使い回す」ことになります。そのときソニーのオーディオ装置でしか再生できない、という状況は避けたいのです。 |
技術的にMP3(およびその他の標準形式)をサポートできない理由があるとは思えません。一方のアップルはどうかと言うと、iPodは独自のデータ圧縮方式である「Apple Lossless」とともに、当初から標準形式であるMP3やAACをサポートしていました。アップルだけではありません。当時は各社からDAPが発売されていましたが(東芝、Creative、Kenwood・・・・・・)MP3をサポートしない製品というのは覚えがありません。ソニーのウォークマンは「MP3をサポートしないDAP」という特異な製品だったのです。
なぜソニーがこのような変な仕様にしたのか、理解に苦しむところです。ソニー独自のATRAC形式の楽曲データを増やしてユーザをソニーに囲い込もうという意図だと見なされてもしかたがないでしょう。そういう意図だとしたら「利用者視点」を欠いた製品ということになり、これは失敗パターンの典型です。
外見的・機能的にどんなに似ていても、デジタル機器とアナログ機器とは違う装置と考えた方がよい。その違いの大きなものは「デジタル化された情報は、極めてローコストで移動したり、流通したり、使い回しができる」ということです。デジタル化された音楽データは「情報」です。それはハードウェアとは独立しているし、記録する媒体にもよらない。音楽・音声を情報化するメリットは多大なものがありますが、そのメリットの核心部分を殺すような製品が市場に受け入れられないのはあたりまえでしょう。CDを開発して音楽をデジタル化した(=情報化した)のは、ほかならぬソニー(とフィリップス)なのに・・・・・・。
|  SonicStage  |
さすがにソニーも反省したのか、DAPウォークマンは途中からMP3のサポートを始めました(2004.12.10発売のNW-HD3)。最初のメモリースティックのDAPウォークマンの発売開始から5年後ということになります。これ以降、いつだったか忘れましたが、真剣にDAPウォークマンの購入を検討したことがあります。私はiPodを持っていたのですが、音質の良さが魅力だったのです。
このとき私の妻はDAPウォークマンを持っていて、我が家のPC(Windows)にはSonicStageというソニーの楽曲管理ソフト(iPodのiTunesに相当)がインストールされていました。このSonicStageを試しに少しさわってみて、変なことに気がつきました。妻の楽曲は妻が管理し、私の楽曲は私が管理するということを1台のパソコンでどうやってやるのかが分からなかったのです。いわゆる「マルチユーザ」の機能です。
Windowsはずいぶん前からマルチユーザOSです。従ってアプリケーションもマルチユーザ対応が普通であって、Windowsにどのユーザでログインするかによって、たとえばインターネット・エクスプローラではユーザごとの「初期画面」や「お気に入りメニュー」になるし、メーラーではユーザごとのメールボックスが扱える。これはアプリとしてはあたりまえです。ところが SonicStage ではそのマルチユーザ環境をどうやって実現するのか、それが分かりませんでした。
不審に思ってソニーのサポートデスクに電話して聞いてみると、SonicStage はマルチユーザに対応していないと言うのですね。じゃ、妻と私の2台(1台は購入予定)のDAPウォークマンを、PCにある全然別種の楽曲群とどうやって同期させるのですかと質問すると、妻用・私用の2つのプレイリストを作りプレイリスト単位に同期させてくれ、という答えなのです。そのやり方で同期ができることは理解できますが、そんな運用は実行不可能であり、まっぴら御免です。
この答を聞いてウォークマンを購入する気は無くなりました。ちなみに、当時私が一人で使っていたアップルのiTunesはどうかとヘルプを見ると、ちゃんと「マルチユーザ」の説明がありました。しかも方法は3種類もあり、そのやり方が全部解説されていたのです。
DAPはPCの楽曲管理ソフトと表裏一体で使うものであり、管理ソフトの使い勝手の良さは非常に重要です。この件では「DAPウォークマン / SonicStageは、あまりコンピュータのことをよく理解していない人間が作っているな」という感じを受けました。それと全く対象的なのが iPod / iTunes です。特にiTunesの使い勝手の良さは大したものだと思います。
- なお、最新のSonicStageがどうなっているかは知りません。確かめる気もないし、私には関係ないことだからです。
我々はハードとソフトで構成されるデジタル情報処理装置をコンピュータと呼んでいます。企業用のもの(サーバなど)や個人用のPCが代表的ですが、一見コンピュータとは見えないが実質的にそうであるものも多い。現代のクルマには、ハイグレードのものだと50台以上のコンピュータが搭載され、エンジン制御とかABS制御とかNaviとかを担っています。個人用でも、携帯電話やスマートフォンや電子辞書や電子書籍リーダはコンピュータです。
従来「家電」と言われていた領域で、主として情報を扱うものは、どんどん「デジタル家電」になってきました。このデジタル家電もコンピュータです。そして私が(当時の)DAPウォークマンについて持った全般的な感想をまとめると
- ウォークマンはデジタル家電なのに、コンピュータの発想で作られていない。
iPodはコンピュータ
コンピュータは、いくつかの特徴があります。デジタル家電も念頭にその特徴をまとめると以下のようになるでしょう。
| ① | 情報はすべてデジタル・データで処理される。ただし人間や外界とのインターフェースになる部分は別(たとえば音声)。 | |
| ② | ハードウェアとソフトウェアが分離されている。ソフトウェアは追加・修正・入れ替えができる。 | |
| ③ | ソフトウェアはOS(Operating System。基本ソフトウェア)とアプリケーション(アプリ。応用ソフトウェア)に分離されていて、OSとアプリのインターフェースが規約化されている。アプリを追加・変更することで、製品の機能が追加・変更される。 | |
| ④ | コンピュータが扱うデジタルデータは、ハードウェアとは独立している。それはソフトウェア(主としてアプリ)に依存する。アプリを変えることで、多様なデータを処理できる。 | |
| ⑤ | 多様な周辺機器が接続できる汎用的な機構を備えている。 | |
| ⑥ | ネットワークに接続される |
の6点です。個人が使うコンピュータの代表格であるPCはこの特徴を備えています。
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コンピュータの構成要素
この構成は企業用のコンピュータやパソコン(PC)に共通である。iPodもまたこの構造をしている(但しネットワーク接続機構はない)。iPodは外観的・機能的には完全なDAP(Digital Audio Player)に見える。iPhoneも同じ構造をしている。
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まず、①と②はコンピュータに限らず、あらゆるデジタル情報機器の特徴です。③以下がコンピュータらしいところです。
③のOSの存在とアプリの付加は、iPodではほとんど隠蔽されています。しかしiPodに用意されているスケジュール管理やゲームなどのアプリをみても、③のような作りがされていることが分かります。デジタル音楽データをAAC、MP3、WMAなどの圧縮形式にしたり復元したりするソフトウェアを「コーデック」と言いますが、圧縮音楽形式ごとにあるコーデックも、OSからみるとアプリの一つです。標準的なコーデックは流通していますから、メジャーな音楽圧縮形式をサポートするのは、さほど難しいことではありません。
そのことは④のデータとハードウェアの独立性にも関係します。コンピュータの扱うデータはデジタル情報であり、それはあくまで情報です。それは特定のハードウェアや記録媒体に依存するものではありません。物理的実態とは遊離して存在するのが「情報」であり、特定の媒体に書き込まれているのは「情報の仮の姿」に過ぎない。この「情報という抽象化されたもの」と「アプリ」のペアで、多種多様な形式のデータが扱える、かつ、物理的実態を越えて移動できるというのが、コンピュータの強力なところです。
iPodが華やかな頃「Pod Cast」が流行したことがありました。iPodとBroadcast(放送)を融合した言葉で、Webにアップされたニュースなどの音声情報をiPodにダウンロードして聴くというものです。いったんニュースをデジタル音声として「情報化」すると、それをラジオで聴くか、インターネット・ラジオとしてPCで聴くか、iPodで聴くかは自由に出来るようになるのです。
音楽もそうです。iTunes Music Store で楽曲を販売するというのは、コンピュータという視点からすると、ごく自然な発想です。情報の入手先がCDではなく(今で言う)クラウドになるだけのことだから・・・・・・。CDに焼き付けられた音楽情報は、あくまで情報の「仮の姿」です。
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初代iPod(2001) HDD = 5GB スクロールホイール |
iPod Classic(2012) HDD = 160GB クリックホイール |
| 現在のiPod Classicはハードディスク・ドライブ(HDD)を内蔵していて、オリジナルのiPod(2001)の後継製品である。スクロールホイールとクリックホイールなどの違いはあるが、10年以上の時を経ているとは思えないほど「ほぼ同じ」である。大きさもほとんど差はない。 |
⑤の周辺機器の接続機構について言うと、iPodには「Dockコネクタ」が用意されています。私は自室でiPodの楽曲を聞くときは、ヤマハのアンプ内蔵iPod用スピーカーにiPodから無線で音楽を飛ばして聞いてます。ヤマハが用意したアダプタをiPodのDockコネクタに差し込むと、iPodの音楽がスピーカーから流れ、iPod自身がリモコンにもなる(iPhone や iPad の AirPlay 相当)。非常に便利で、PCを起動してiTunesを立ち上げることもない。元のCDをオーディオ装置で大きなスピーカーで聞いた方が音が良いことは分かるのですが、どうしても「iPod + ヤマハ」になってしまう。これは「堕落」だと自分でも思うのですが、人間をここまで堕落させたのは、元はというとヤマハがアンプ内蔵・無線のiPod用スピーカを開発できるというiPodの「作り」にあるのですね。
⑥のネットワーク接続はiPod単体ではできません(iPod Touch で可能になった)。PCのiTunesと連携することによってネットワーク接続します。
以上のようなiPodのコンピュータとしての性格を徹底させ、ネットワークにダイレクトに接続し、アプリを第三者が自由に追加できるようにし「電話もできるコンピュータ」に仕立て上げたのがiPhoneです。iPhoneにとって電話はアプリの一種であり、従ってアップルが用意した出来合いの「電話アプリ」以外に第三者が作ってもいいわけです(事実、作られています)。世間では iPhone のジャンルを「Smart Phone」と呼んでいます。「賢い電話機」という意味で、つまり「コンピュータ機能もある電話機」というニュアンスですが、実態は違います。「電話もできるコンピュータ」「電話アプリも作れるコンピュータ」がiPhoneです。
以上のようなiPodに比較してウォークマンはどうだったのでしょうか。
(次回に続く)
No.53 - ジュリエットからの手紙 [映画]
イタリアへの興味
今までに何回かイタリアに関係したテーマを取り上げました。
| ◆ |
オペラ(ベッリーニ) No. 7「ローマのレストランでの驚き」 No. 8「リスト:ノルマの回想」 | |
| ◆ |
ヴェネチア(中世の貿易) No.23「クラバートと奴隷(ヴェネチア)」 | |
| ◆ |
古代ローマ(宗教を中心に) No.24-27「ローマ人の物語」 | |
| ◆ |
イタリア・ワイン No.31「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」 | |
| ◆ |
キリスト教 No.41-42「ふしぎなキリスト教」 |
などです。キリスト教はイタリアのものではありませんが、今日のキリスト教が形作られて中心地となったのはローマです。
私は歴史も含めてイタリアに興味があるのですが、なぜ興味が沸くのか、その理由を(少々こじつけて)考えてみると以下のようになると思います。
| ◆ | 現代の日本は「西洋近代文明」に多大な影響を受けている。それにどっぷりとつかり、時には違和感を感じながら生活している。 | |
| ◆ | もともと日本は中国文化の影響を受けたし、日本固有の文化の発達も大いにあったが(いまでもあるが)、明治以降は西洋近代文明の影響が極めて大きい(日本だけではないが)。 | |
| ◆ | その西洋近代文明のルーツに(現在の)イタリア発祥のものが多々ある。古代ローマ帝国の数々の遺産(法体系、学芸、建築、技術、など)、ヨーロッパを形成したキリスト教、ルネサンス期の芸術、音楽や楽器の発達などである。ヨーロッパは「イタリアに学べ」ということで(時には反発しながら)文化を作ってきた。日本を含む世界に多大な影響を与えているヨーロッパ文明の本質を知るためにも、イタリアを知っておきたい。 | |
| ◆ | 加えて、日本料理を除いて世界で一番おいしいと思う料理がイタリア料理である。おそらく料理の基本的なコンセプトが日本料理と似ているからだと考えられる。何となく親近感を感じる。 |
というようなことかと思います。最後の料理はとってつけたような感じですが、「親近感」や「興味」には重要なファクターだと思います。
それ以外に、イタリア映画ないしはイタリアを舞台にした映画の影響も大きいと思います。その典型が「ニュー・シネマ・パラダイス」ですね(これは傑作)。日本の映画やアニメを見て日本に興味をもった外国の人は多いはずだし、近年の韓流映画・ドラマの一般化に伴う韓国旅行人気もあります。映画の威力は大きいのです。
今回はそのイタリアを舞台にした最近の映画を取り上げたいと思います。『ジュリエットからの手紙』です。ジュリエットとは、もちろんシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のヒロインのことです。この映画は、No.31 で書いた「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」と少々関係があるのですが、それは後で書きます。
ジュリエットからの手紙
『ジュリエットからの手紙』は2010年のアメリカ映画で、日本では2011年に公開されました。原題は「Letters to Juliet」で、「ジュリエットから」ではなく「ジュリエットへの手紙」という意味です。手紙が複数形である理由は映画を見ればすぐに分かります。次のようなストーリーです。
(以下にストーリーの前半が明らかにされています)
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| 『ジュリエットからの手紙』(DVD) | |||
ソフィーには婚約者でシェフのヴィクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)がいます。彼は自分のイタリアン・レストランのオープンに向けて忙しい日々を送っていますが、レストラン開店の前に休暇をとり、2人でイタリアのヴェローナに向かいました。
ヴェローナについたものの、ヴィクターは開店間近のレストランのための食材の調査や、イタリア料理の研究に余念がありません。しかたなくソフィーはヴェローナの街に一人で散策に出かけ、有名な「ジュリエットの家」を訪れました。そこで、観光客に混じって女性たちが手紙を書いては壁に貼り付けている姿を目にします。怪訝そうにその様子を眺めていると、一人の女性が現れて壁一面に張られている手紙を回収し立ち去っていきました。ソフィーは思わず彼女の後を追って行きます。
手紙を回収した女性は、4人のグループの一人でした。彼女たちは「ジュリエットの秘書」と呼ばれ、ボランティアとして世界各国から「ジュリエット宛」に届く愛や恋の悩みを綴った手紙(=ジュリエット・レター)に返事を書いていたのです。ソフィーは心を打たれます。ソフィーは「ジュリエットの秘書」たちから、自由な時間があるのなら手伝って欲しいと言われました。
ソフィーが手紙を回収に「ジュリエットの家」に行き、壁のレンガに挟まった手紙を取ろうとしたとき、レンガが抜け落ちて中から古びた手紙が出てきました。それは50年前にイギリス人の女性、クレア・スミスが書いたジュリエット・レターでした。手紙は駆け落ちの約束をしたイタリア人男性との恋に苦しむ内容でした。その女性は結局、約束の場所には行かず、一人でイギリスへ帰国したようです。感じるところがあったソフィーは「返事を書きたい」と申し出て了承されます。ソフィーは真剣に考えて返事を書き、クレアの手紙を同封して投函しました。
ヴィクターはワイン・オークションのために一人でヴェローナを離れました。数日後、ソフィーが「ジュリエットの秘書」たちを手伝っていると、イギリス人の青年、チャーリー・ワイマン(クリストファー・イーガン)が訪ねてきます。驚いたことに、ソフィーの返信を受け取った祖母のクレア=スミス・ワイマン(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)が50年前の恋人、ロレンツォ・バルトリーニを探すためにイタリアにやって来て、その祖母に同行しているというのです。ソフィーはクレアと対面します。クレアは返事を書いたソフィーに感謝します。
- ソフィーの返信レターは映画の最終場面でクレアが読み上げますが、よくできた文章だと思います。この中の言葉に映画の主題があります。
昔の恋人・ロレンツォの家はトスカーナの町・シエナの近郊にあり、クレアはそこで初めてロレンツォと出会ったのでした。シエナに出向いた3人ですが「ロレンツォ・バルトリーニ」がイタリア人としてはよくある名前で、同姓同名が多数あり、探索は容易でないことを知ります。ソフィーはプロの調査員の腕を発揮し、シエナ近郊の「ロレンツォ・バルトリーニ」を電話帳データから検索してリストアップし、順番に訪ねることにしました。
しかしロレンツォはなかなか見つかりません。会う人ごとに「はずれ」が続きます。それでも数日間、クレアは旅を楽しみ、3人は互いの人生を語り合い、絆を深めていきます。ロレンツォが見つからないまま、クレアとチャーリーの帰国の時が近づきます。そして、あるブドウ畑のそばを3人が車で通りかかったとき、クレアはブドウ畑で働く若者を見てハッとし、運転しているチャーリーに「止めて!」と叫びます。
なぜクレアは、ブドウ畑で働く若者を見て車を止めるように言ったのか・・・・・・。このあとの展開は割愛したいと思います。最後はもちろん、ハッピー・エンドで終わります。
以下はこの映画の感想です。
- なお、ソフィーを演じるアマンダ・サイフリッド(アメリカ人)は、映画の日本語訳では「セイフライド」となっていますが、英語の発音は「サイフリッド」に近いようなので、そのように表記しています。めずらしい姓なので分かりにくいのですが、いずれ原語に近い表記に統一されていくと思います。
イタリア観光案内
この映画を見て「出来すぎたストーリー」とか「ハッピーエンド過ぎる」とか、そういうことを言う必要はありません。そのように作ってある映画なのです。観客は、ヴェローナの街並みや、トスカーナの美しい田園風景を満喫しながら、ここち良いストーリー展開と、俳優の演技、洒落た会話を楽しめばよいわけです。
50年前の恋と現在を結びつける話なのですが、フラッシュバックのような映画手法はいっさいありません。映画の時間進行とストーリーの時間進行は一致しています。伏線があるわけでもない。そういう映画作りの面もいたってシンプルで、安心して見ていられる映画となっています。
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| 北部イタリア (C)Google | |||
3人がロレンツォ探しの起点とするシエナの町と、その中心にあるカンポ広場(付近のシエナ旧市街は世界遺産)、トスカーナ地方の美しい丘陵地帯と、そこに点在するブドウ畑、・・・・・・。2つの世界遺産がちゃんと押さえられています。
ロレンツォがいるところはヴェローナ周辺でもミラノ周辺でもよいはずですが、やはり探し回るのはトスカーナでないと映画的にはまずいのだと思います。3人はシエナ付近の「ロレンツォ」を尋ね回るのですが、このあたりだと映像美を考えたロケ地探しも容易でしょう。容易どころか、あまりにもロケ地候補があり過ぎて困ったと思います。3人が郊外でたびたび車を止めるのはそのことを物語っているようです。こういう場面を見ているだけでも、この映画は楽しめるはずです。
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| 3人はロレンツォを捜しにトスカーナに向かう | |||
『ジュリエットからの手紙』のクライマックスは、3人がロレンツォの探索をあきらめ、シエナ近郊の滞在先ホテルを出る場面から始まります。クレアが道路脇の看板で CAPARZO というワイナリーを見つけ「旅の最後の思い出にワインでも」とクルマを寄せるのですが、これが(第1の)クライマックス・シーンの発端です。このワイナリーは、シエナの南東のモンタルチーノ地区にあるカパルツォ・ワイナリーで、ここの主力のワインが、No.31 で書いた「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」です。そう言えば、この映画にはワインを飲むシーンがいろいろと出てきますね。
ひょっとしたらこの映画はイタリア政府観光局が資金援助をしたのではないかと思えるほどです(それはないと思いますが)。ソフィーがイタリアを再訪する飛行機はアリタリア航空だし、「ニューヨーカー」の編集長はソフィーが書いた原稿(=クレアとロレンツォの愛の物語)を雑誌に掲載すると決めたとき、「アリタリアの株を買っておけ」と冗談を言います。もちろん、記事が世に出るとヴェローナへの旅行者が増えるという意味です。しかし、この映画自体がイタリアへの旅行者を増やす映画だと思えるのですね。
この映画を見て、以前に『トスカーナの休日』というアメリカ映画があったのを思い出しました。離婚したアメリカ人の女性作家が、衝動的にトスカーナ地方・コルトーナの町(モンタルチーノにも近い町です)の旧家を買い、そこに定住するまでを描いたものです。イタリアの自然と文化、農園、料理、ワイン、人間模様などがふんだんに出てくる映画でしたが、なんとなく類似の傾向を感じました。
キャスティングの素晴らしさ
この映画で最も注目すべきは、キャスティングの素晴らしさだと思います。
|  クレア : ヴァネッサ・レッドグレイヴ  |
まず、クレアを演じるヴァネッサ・レッドグレイヴです。彼女はこの映画のとき73歳のはずですが、年相応の美しさの中に、独特の「気品」や「高貴さ」を感じます。映画は、50年前の恋人をイタリアまで探しに来たという設定です。静かな演技だけど、即断即決で行動に移すというような意志の強さを感じさせる。情熱を内に秘めたようなものの言い方も魅力的です。あわせて、これから初めて恋をする少女のような表情も時に見せる。
孫のチャーリーを親代わりとなって育てたという設定ですが、チャーリーに対する母親としての表情や、人生の達人として「息子」をさとす口調も決まっています。
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| ヴァネッサ・レッドグレイヴと、アマンダ・サイフリッド | |||
ヴァネッサ・レッドグレイヴは、73歳という自分の「老い」を隠しませんね。顔や首筋や手などが自然体です。女優の人は個人の考え方がそれぞれあるとは思いますが、彼女の自己主張を感じさせる姿には好感を持ちます。全体として、カメラに映ると周囲を圧するような感じがあり、女優として、また女性としての存在感が抜群の人だと思います。
|  ソフィー : アマンダ・サイフリッド  |
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『マンマ・ミーア』という、ABBAの名曲をフィーチャーしたミュージカル映画でもそうでした。この映画でアマンダはメリル・ストリープの娘を演じたのですが、感心したのは歌が上手ということに加えて、メリル・ストリープという「ハリウッドの至宝」と渡り合えるだけの存在感です。存在感というのは曖昧な言葉ですが、俳優としての演技力、表情の多彩さ、声の調子を駆使する力、立ち振る舞い、カメラ目線のときの強さ、スクリーンにパッと現れたときに観客が受ける強い印象・・・・・・などを合わせた女優としての総合力のようなものです。「スクリーン占有力」と言ったらいいのでしょうか。
『ジュリエットからの手紙』でも同じです。ヴァネッサ・レッドグレイヴという大女優と対峙して「負けない」アマンダはさすがと再認識したし、明らかに映画のキャスティング担当および監督は、それを分かって彼女を選んだのだと思います。
|  ロレンツォ : フランコ・ネロ  |
最後に、ロレンツォを演じたフランコ・ネロです。ロレンツォは映画の最後の方にしか出てこないので、演技は多くはありません。ストーリー上、そうなります。大事なのは、彼が私生活におけるヴァネッサ・レッドグレイヴの夫だということです。実際の夫婦をキャストしたことがポイントです。
しかし、映画における夫婦共演というのは別に珍しいことではありません。単に夫婦共演だからというわけではなく、この『ジュリエットからの手紙』という映画にヴァネッサ・レッドグレーヴとフランコ・ネロ夫妻が出演するというキャスティングが素晴らしいと思うのです。なぜか。
少々長くなりますが、過去から順に振り返ってみたいと思います。
イギリスを舞台にした半世紀前のミュージカル
話は『ジュリエットからの手紙』の公開(2010)から54年前にさかのぼります。
1956年3月、ブロードウェイであるミュージカルが初演されました。アラン・ジェイ・ラーナー作詞・脚本、フレデリック・ロウ作曲の『マイ・フェア・レディ』です。バーナード・ショウの「ピグマリオン」を原作とし、20世紀初頭のロンドンを舞台にしたミュージカルです。この作品は大ヒットし、7年以上のロングランを続けました。その後『マイ・フェア・レディ』は世界中に広まり、日本でも何度となく公演されたわけです。
ブロードウェイのオリジナルキャストは、当時21歳のジュリー・アンドリュース(イライザ役)と、レックス・ハリソン(ヒギンズ教授役)でした。ほとんど無名だったジュリー・アンドリュースは、この役で一躍、ミュージカル俳優として注目を集めました。
『マイ・フェア・レディ』はその後1964年に映画化されます。主演はオードリー・ヘップバーン(イライザ)とレックス・ハリソン(ヒギンズ教授。舞台と同じ)です。プロデューサがジュリー・アンドリュースを主演にしなかったのは、おそらく映画スターとしての実績がまだなかったからで、誰しも認める大スターであるオードリーになったのだと想像します。
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映画『キャメロット』(1967) | |||
『キャメロット』も1967年に映画化されますが、この映画にもジュリー・アンドリュースは出演しませんでした。そして映画版『キャメロット』で王妃・グエナヴィアを演じたのが、当時30歳のヴァネッサ・レッドグレイヴだったのです(アーサー王は、リチャード・ハリス)。
ミュージカル『キャメロット』には、もう一人の重要人物が登場します。グエナヴィア王妃と「不倫の恋」におちる円卓の騎士・ランスロットです。『キャメロット』はアーサー王と、王妃・グエナヴィア、ランスロットの三角関係が軸となって進行する物語です。映画でそのランスロットを演じたのがフランコ・ネロでした。
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Vanessa Redgrave (Camelot) | |||
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Franco Nero (Camelot) | |||
ヴァネッサとフランコの間には子供まで生まれました(1969)。しかしすぐに結婚というわけにはいかなかったのです。何があったのか他人からはうかがい知れませんが、その後2人は別離と再会を繰り返します。そして初めて出会ってから40年後の2006年に、ヴァネッサ・レッドグレイヴとフランコ・ネロはようやく結婚したのです。2人が初めて共演した『キャメロット』と今回の『ジュリエットからの手紙』の2つの映画には、実に43年もの歳月の隔たりがあることになります。
『ジュリエットからの手紙』は、英国人の女性が50年前のイタリア人の恋人をトスカーナに訪ね歩く話です。それは、ヴァネッサ・レッドグレイヴとフランコ・ネロの今までというか、ほとんど生涯そのものと言っていいほどの長い時間と重なっています。映画としては、もうこれ以上はありえないという絶妙のキャスティングなのです。
その意味からしても、この映画で一番重要な場面は、ブドウ畑でクレアとロレンツォが半世紀の時を越えて再会する場面です。演じるのはこの場面に最もふさわしい2人の俳優です。目を合わした瞬間に50年前がよみがえるというシーンなのですが、2人とも40数年前に『キャメロット』の撮影現場で初めて会ったときのことを思い出して演技したと確信します。
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ヴァネッサ・レッドグレイヴと、フランコ・ネロ 『キャメロット』(1967)と『ジュリエットからの手紙』(2010) | |||
「イギリスとイタリア」の3つの層
ヴァネッサ・レッドグレイヴとフランコ・ネロ夫妻の過去の経緯を知ると、『ジュリエットからの手紙』では3種類の「イギリスとイタリア」が3層に重なっていることが分かります。
| ◆第1層 | イギリス人・シェイクスピアが、イタリアのヴェローナを舞台に書いた「ロメオとジュリエット」 | |
| ◆第2層 | イギリス人・クレアと、イタリア人・ロレンツォの50年越しの恋物語 | |
| ◆第3層 | イギリス人・ヴァネッサ・レッドグレイヴと、イタリア人・フランコ・ネロの40数年越しの愛の軌跡 |
の3つの層です。
『ジュリエットからの手紙』は、一人の女性が、かつて絵の勉強で滞在したイタリアを50年ぶりに訪れる物語です。イタリアは「ヨーロッパのルーツ」です。シェイクスピアは生涯一度も訪れたことにないイタリアへの「あこがれ」をもって「ロミオとジュリエット」を書いたはずです。この映画でイタリアを訪れて昔の恋人を探す女性は、やはりイギリス人でないとまずいのですね。そのイギリス人とイタリア人の間をとりもつ「愛の女神」役をアメリカ人女性が演じる・・・・・・。これが『ジュリエットからの手紙』の構図でしょう。
ジュリエット・レター
最初に書いたように、この映画の原題は「ジュリエットへの手紙」です。日本での題名の「ジュリエットからの手紙」からすると、ソフィーがクレアに書いた返信のことかと思いますが、原題はそうではありません。しかも
A letter to Juliet(ジュリエットへの手紙)
ならクレアが50年前に書いたレターのことになりますが、そうではなくて、
Letters to Juliet(ジュリエットへの手紙)
が原題です。
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Mo.52 - 華氏451度(2)核心 [本]
(前回から続く)
『華氏451度』が描くアンチ・ユートピア(続き)
クラリスの言葉による『華氏451度』の世界の描写(前回の最後の部分参照)は、この世界になじめない側からの発言でした。このクラリスの「世の中からの距離感」がモンターグの心を揺さぶることになるのです。
一方、ファイアーマンの署長であるビーティは「体制側」の人間です。彼がモンターグに、こういう世界ができた経緯や理由を語るシーンがあります。なぜ本が禁止されているのかも語られます。ここが『華氏451度』の核心と言えるでしょう。
[ビーティ] |
この世界では、簡略化、ダイジェスト化、短縮化が徹底的に進んでいます。
『ハムレット』を知っているという連中の知識にしたところで、例の、《これ一冊で、あらゆる古典を読破したとおなじ、隣人との会話のため、必須の書物》という重宝な書物につめこまれた1ページ・ダイジェスト版から仕入れたものだ。わかるかね? 育児室からカレッジへ、それからさらに、もとの育児室へ --- そこに、過去5世紀にわたるおれたち人類の知識の型がみられるんだ。 |
みなに、もっと、もっと、スポーツをやらせる必要がある。あれこそ、団体精神のあらわれであり、人生の興味の中心である。あれをやっていれば、ものを考えることがなくなる。そうじゃないか。 |
現代の学校教育は、研究家、批評家、知識人、創作家育成はやめた。そのかわり、ランニングやジャンプの選手、競馬の騎手、おなじくノミ屋、修繕屋、飛行士、水泳選手といった連中を育て上げる機関となっている。当然のことだが《知性》という言葉は、ここではぜったい禁句なんだ。だれもがいつも、仲間からの疎外をおそれている。 |
気がみじかくなって、公道で車をすっとばす群衆が無数にふえてくるが、いい傾向だ。どこへ行こうかなど、考えることはない。ただ、どこかへ行きさえすればいい。ひしめきあって、車をとばせばいいんで、どこへ行くと、目的地を決める必要はない。いわば、ガソリン避難民。街全体がモーテルに変わり、遊牧民となった人々が、潮の出入りを追って、大波のような移動をつづける。 |
マーケットがひろくなればなるほど、少数派の存在は例外的なケースとして、考慮の外におかねばならん。(・・・・中略・・・・)いよいよ数がすくなくなった少数派には、自分たちのことを自分たちで処理してもらわなければならぬ。つまらんことを考える著者には、タイプライターをしまいこんでもらう。そして、事実、そういうことになった。 |
これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった!工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効につかって、このトリックをやってのけたのだ。 |
万事につけ、《なぜ》ってことを知ろうとすると、だれだって不幸になるにきまっている。 |
国民を政治的な意味で不幸にしたくなければ、すべての問題には、ふたつの面があることを教えてはならん。 |
まちがっても、哲学とか社会学とかいった危険なものをあたえて、事実を総合的に考える術を教えるんじゃない。 |
考える人間なんか存在させてはならん。本を読む人間は、いつ、どのようなことを考え出すかわからんからだ。そんなやつらを、一分間も野放しにしておくのは、危険きわまりないことじゃないか。 |
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レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』 (ハヤカワ文庫NV, 1975) | |||
『華氏451度』の世界でなぜ本が禁止されているのかを、署長のビーティは明確に語っています。なぜ本を禁止するのかと言うと、本を読む行為が蔓延すると社会が危うくなるからなのです。
『華氏451度』における「本」と「本の所有者・読者」の関係は、ちょうど現代日本における「麻薬」と「麻薬所有者・使用者」の関係にそっくりです。麻薬は医療に必要不可欠なものですが、一般の所持・使用は厳しく禁じられています。それは社会をむしばみ、危険に陥れるものだからです。麻薬所持の密告はよくあるし(タレ込みと言うのでしょうか)、発覚すると警察が急襲し、被疑者は逮捕され、起訴・裁判となって処罰され、現物は焼却処分されます。本が麻薬とみなされる世界、それが『華氏451度』の世界です。
なお、署長のビーティですが、彼は老女の最期の言葉が16世紀の英国のヒュー・ラティマーの言葉だと即答しますね(前回の No.51「華氏451度(1)焚書」参照)。彼は本を焼き払う「体制側」の、しかも「指導層」ですが、「体制の指導層」は実は本の世界に精通していることを暗示しています。ないしは、署長のビーティは若い頃には大の読書家だったが、転向して本を抹殺する体制側になったとも考えられます。
いずれにせよ、その体制にとって本を大衆に普及させることがいかに危険か、それがよく理解できる、だから本を禁止する、ということなのでしょう。
『華氏451度』の誤解3:本が禁止されている世界
ブラッドベリの描くアンチ・ユートピアの成り立ちを読むと、この小説は単に「本が禁止されている世界」を描いたものではないことが理解できます。本の禁止は現象面にすぎません。この小説は「本を書いたり読んだりするような少数者が迫害される世界」を描いたものなのです。
『華氏451度』は本が禁止されている世界を描いた小説である、というのは表層的な見方です。本の禁止はその通りなので「誤解」というのは明らかに言い過ぎですが、本質をはずした見方であることは間違いない。
なぜ、本を書いたり読んだりするような少数者が迫害されるのか。まとめると以下のようでしょう。
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大衆社会の進展とともに、刹那的な娯楽がもてはやされ、人々は均質的な欲望を持つようになり、考えることはせず、楽しく平穏無事であることが最大の価値となった。「考えること」は人を不幸にするとみなされている。 | |
| ◆ |
そういう時代、本を読む人は少数者となった。本を読むと、いろんな考えを巡らせ、ものごとの本質に迫ろうとするようになる。そういった少数者は一般社会からみると「うっとうしい存在」であり、多数派の「刹那的価値感をおびやかす存在」である。多数派は本を読むような人を嫌悪するようになり、そしてついには「危険分子」と見なすようになった。 | |
| ◆ | その危険分子を排除し、社会からなくす手段として本の焼却がファイアーマンたちによって行われている。これは決して政府の強権だけで始まったことではない。大衆の合意の上で、むしろ大衆の要望から出来上がった制度である。 |
その「少数者」であり「危険分子」の一人がフェーバー教授です。小説の中でフェーバー教授は、本を読むことの意義として次の3点をあげています。要約すると、
| ◆ | 本にはものごとの本質が示されている。《知》の核心がそこにある。 | |
| ◆ | 本を読むことによって「考える時間」がもてる。内容について、正否を論じあうこともできる。 | |
| ◆ | 「本質」と「考え」の相互作用から、正しい行動にでることができる。 |
の3点です。
言うまでもなく、これらのことがまさに『華氏451度』の世界において「少数者=本を読む者」が排除される理由となっています。そして裏返すと、作者・ブラッドベリの考える「人間にとっての本の意義」でもあるわけです。
『華氏451度』における作者・ブラッドベリの「思い」
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Ray Bradbury Fahrenheit 451 (Del Ray Book, 1996) このペーパーバックの表紙は、1953年に最初に出版されたハードカヴァーの表紙を採用している
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|  メッセージ  |
まず非常に分かりやすいのは作者のメッセージです。つまり、
- テレビ(など)の「感覚的で、与えられる情報メディア」ばかりに接し、本を読まなくなると、そのうち人間は考えることをしなくなり、その結果として為政者にいいように操縦される烏合の衆と化してしまうぞ
しかし『華氏451度』をそういう「分かりやすい警告を発した本」と思って安心して読んでいると、途中から「あれ、そんなはずじゃ・・・・・ 」と感じるようになるのです。
|  バイアス  |
バイアスというのは、作者のものの見方が少々「偏って(かたよって)」いることを言っています。人間誰しも自分なりの「偏り」があるわけで、そうだからといって非難されるわけでは全くありません。「偏り」と書くとマイナスイメージになるので「バイアス」とします。
ブラッドベリの考えには独特のバイアスがあります。たとえば『華氏451度』の世界ではスポーツが奨励され、学校教育でも重視されています。ちょっと極端に言うと「スポーツは、考えない大衆を作りだす手段」と言わんばかりの書き方がされているのです。
また書物のダイジェスト版やラジオにおける名作のダイジェスト放送、雑誌、漫画、などは『華氏451度』の世界で大手を振って流通しています。作者に言わせると、これらは知性には関係ないメディアということなのでしょう(漫画は、1950年代のアメリカ漫画を想像しないといけません)。「美術館には抽象画ばかりが並んでいる」という記述も、作者の「抽象画嫌い」がバックにあるような気がします。
小説の中で、焼却された本として名前があがっている作者もそうです。古代ギリシャの劇作家からフォークナーまで、個人的経験を言うと、そのうちの2~3の本は読んだことがありますが、ほとんどは読んでいません。仮に名前のあがっている作者の本が今地球上から無くなったとしても、個人的には何の不都合もないのです。もちろん、ここにあがっているのは一部だということは分かるし、すべての本が無くなると考えると恐ろしい。しかし小説を読み進むうちに、ブラッドベリの基準からすると自分は「本に固執する少数派」なのか「本はなくてもよい多数派」なのか、どちらなのかという余計な疑いが出てくるのですね。はじめは「当然、自分は少数派だ、迫害される方だ」と思っているのですが、読み進むうちにそれは本当かという疑念が湧いてくる。果たして本のために「死ぬかもしれないリスク」をとれるのか? 自分は『華氏451度』の世界では、実は、少数者を密告し迫害する方ではないのかと・・・・・・。こう思わせるのは、ブラッドベリの「バイアス」のせいだと思います。
ある本好きの少年がいたとします。小さいころから本が好きで好きでたまらず、小学校の図書室の本は全部読破したような少年です。学校の勉強も大好きで一所懸命やるから、成績はトップクラス。そのかわり性格は内向的で、友達づきあいがうまくできず、女の子からはもてない。運動が苦手で、スポーツは大嫌い。クラスメートからは「ガリ勉」と揶揄されている。家にいても母親から「そんなに本ばかり読んでないで、外で遊んできなさい!」と追い出される。外に出ても友達と遊ぶのではなく、一人で公園に行き、花や虫を見つめ、本で読んだことを夢想する。そして星が出てきた頃、家に帰る。ちょうど、小説に出てくるクラリスのように・・・・・・。
ブラッドベリがこのような少年だったかどうかは知りません。正反対の、外向的でクラスの人気者のような少年だったかもしれない。しかし『華氏451度』を読むと、上に書いたような本好き少年がそのまま大人になって、その思いや、無理解な周囲への「うらみごと」をぶつけたような感じを受けるのですね。何となく屈折しているような、オタクっぽい雰囲気がある(悪いといっているのではありません)。ちょっと「ついていけない感じ」もします。
しかし実は、こういったバイアスがかかった雰囲気がこの小説を大変魅力的にしているのだと思います。「本は大切だ」というようなメッセージを述べただけなら、おもしろくも何ともない。この小説の価値は半減したはずです。
|  ペシミズム  |
さらにこの小説で感じるのは、全体に何となく漂うペシミズムです。ブラッドベリの「思い」は次のようなものではないでしょうか。
| ◆ | 本が大好きで、本を始終読んでいる(自分のような)人間は、いずれ社会の少数者になり、そして迫害されるだろう。 | |
| ◆ | 科学技術やマスメディアの発達によって、人間は数千年の長きに渡って培ってきた「人間らしさ」や「知的財産」を失っていき、いずれ動物的感覚だけで生きる存在に堕ちていくに違いない。 |
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1966年にフランソワ・トリュフォー監督は『華氏451度』を映画化した。
主演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティー | |||
ファイアーマンたちはノズルから「石油」を撒き、火焔放射器で本を焼却します。まるで「毒液」の代名詞のように繰り返される「石油」という言葉に、作者は人類の知の遺産を蝕んでいく文明を象徴させたように思います。
さらに『華氏451度』の世界では戦争が日常的に行われていて、街の上空にはジェット機の編隊や爆撃機が飛びかっています。短期で何度も繰り返されているらしい戦争は、どうもこの国における内戦のようなのです。刹那的・感覚的に生きる多数の人々と、その人々とは無関係かのように、国のどこか行われている戦争・・・・・・。この殺伐とした世界が文明の行き着く先だと言っているようです。
もちろん、ペシミズムだけというわけではありません。小説の最後には、本の内容を暗記で伝承していこうとする人々が出てきて(仲間はかなりの数です)、次の未来を彼らに託そう、という書き方になっています。しかし全体的に言うと、人間社会は堕ちるところまで堕ちるのだろうという、ほとんど妄想に近いような悲観的見方を感じるのです。
「バイアス」がこの小説を魅力的にしていると書きましたが、このような「ペシミズム」の雰囲気は、さらにこの小説を読者に対する問題提起の本にしていると思います。果たしてブラッドベリの想念は正しいのか、杞憂なのか、妄想だと片付けてよいのか。人間社会はこのアンチ・ユートピアの方向へ向かうのか。それとも全くその逆なのか、というような・・・・・・。
一面の真実を突いた極端な意見・ものの見方は、その前提で考えれば有益なことも多いと思います。
『華氏451度』の今日的意味
『華氏451度』が出版されたのは1953年です。この後、世界の状況は大きく変わりました。冷戦が終了し、ベルリンの壁が崩壊しました(それを促したのは、ブラッドベリが「嫌っている」テレビだと言われています)。1990年代以降はインターネットが爆発的に普及しました。インターネットにおけるホームページ、ブログ、SNS、ツィッター、動画共有サイトなどは、個人が不特定多数に対して情報発信することを可能にしました。個人が「放送局」を持つことも難しいことではありません。2011年に起こったアラブ諸国の民主化(いわゆる、アラブの春)は、インターネットなしには考えられないと思います。だからこそ、現代の独裁政権はインターネットの規制に躍起になっています。
また1953年当時と比較して出版事情も大きく変化しました。数だけからいうと、本の出版件数は飛躍的に増大しています。『華氏451度』の世界とは逆のように見えます。
そしてこの小説に関連して最も大切なことですが、本に関する状況が今、大きく変化しようとしています。それは電子書籍の本格的な普及のきざしです。デジタルデータで購入した本を専用端末やスマートフォン、タブレットPCで読むようなことが、いずれ一般的になるのかもしれません。新刊書がデジタルデータで、ないしはデジタルと紙の両方で提供されるようになると、本を読むという行為はどう変化していくのでしょうか。または変化しないのでしょうか。電子書籍はそれによって得るものも大きいが、失うものもありそうです。
このような現代の状況は『華氏451度』のアンチ・ユートピアから遠ざかったのか、それとも逆に少し近づいているのかを考えるべきでしょう。その判定ポイントは人間がより「考えるようになる」のか「考えなくなる」のか、です。考えることによって、さまざまな意見やモノの見方が生まれ、発展があるのだと思います。「多様化」「多様性」がキーワードです。それは生物も同じです。同質化し、特定環境に適合し過ぎた生物は、わずかの環境変化で絶滅してしまいます。
現代社会を一言でいうと、経済的には市場原理にもとづく資本主義社会ですが、そのバックボーンは民主主義にもとづく意志決定システムです。この民主主義の社会において、国民は一人一票の投票権をもつのですが(現代日本では実質的に一人一票からかけ離れてることが問題なのですが)、実はこのシステムがうまく機能する暗黙の大前提は「一人一人が考える人間」であることなのですね。これが崩れると、どんな異常な世界も現出するはずです。それは歴史が証明しています。もっともその時に異常だと思うのは、少数の迫害されかねない人たちだけだとは思いますが・・・・・・。
『華氏451度』は、メディアが多様化し、電子出版が立ち上がりはじめている現代にこそ、我々に熟考すべき本質的な課題をつきつけていると思います。
No.51 - 華氏451度(1)焚書 [本]
No.28「マヤ文明の抹殺」において、16世紀に中央アメリカにやってきたスペイン人たちがマヤの文書をことごとく焼却した経緯を紹介したのですが、そこで、ブラッドベリの名作『華氏451度』を連想させる、と書きました。今回はその連想した本の感想を書きます。米国の作家、レイ・ブラッドベリ(1920 - )の『華氏451度』(宇野利泰・訳。早川書房)です。
華氏451度(Fahrenheit 451 : Ray Bradbury 1953)
まず、この小説のあらすじです。後でも触れますが、1953年に出版された小説ということが大きなポイントです。
未来のある国の話です。どこの国なのか、最初は分からないのですが、途中からアメリカの地名がいろいろ出てきて、舞台が未来のアメリカであることが分かります。
その時代、本の所持と本を読むことが禁止されています。本の所持が見つかると、焚書官と呼ばれる公務員が発見現場に急行し、本を焼きます。小説の題名の華氏451度は摂氏233度に相当し、紙の発火温度を示します。
焚書官と訳されていますが、原文ではファイアーマン(fireman)です。言うまでもなく消防士のことですが、この時代には建物が完全耐火建築になり、消防士(ファイアーマン)は不要になりました。消防士は焚書官(ファイアーマン)となり、かつての消防ホースを石油を放射するノズルに持ち換えて集めた本に噴射し、火焔放射器で焼き尽くすのを任務としています。本の所持については密告が奨励されていて、相互監視社会が実現しています。
小説の主人公のガイ・モンターグはファイアーマンです。年は30歳過ぎで、妻のミルドレッドと2人暮らしです。夫婦に子供はなく、2人の関係は冷えています。
この時代、家の壁がテレビになっていて、数々の娯楽が提供されています。モンターグの家にも「テレビ室」があり、そこは部屋の3面が「テレビ壁」になっています。ミルドレッドはもっぱらテレビに没入する生活を送っていて、もう1面の壁もテレビ壁にしたいと考えています。また人々には「海の貝」と呼ばれる超小型ラジオが提供されています。これは耳の穴に装着できるもので、音楽や娯楽やニュースが流されます。
小説は、主人公のモンターグの任務の光景から始まります。冒頭は次のようです。
モンターグはファイアーマンとしての任務を果たしていくのですが、2人の女性との出会いをきっかけに、彼の中で何かが変わり始めました。
一人は、モンターグの家の隣に引っ越してきた17歳の少女、クラリス・マックルランです。モンターグは家の周辺や公園でたびたびクラリスと顔を合わせます。クラリスは変わった子です。月を眺め、鳥を観察し、芝生のタンポポを見つめ、木の実を拾い、蝶を集め、夜明けに草の葉に露がたまることを知っています。人間観察が得意で、モンターグの職業を知って「あんた幸福なの?」と聞きます。
もう一人はある老女です。その老女が本を所有しいるという密告があり、ファイアーマンたちは老女の家を急襲しました。そして本を集めて家もろとも焼き払おとしたとき、老女は自ら石油に火をつけてその中で自殺してしまいます。モンターグは、その老女にとっては本が命と同じ程度に大切であったことを知りました。
モンターグは本への興味を押さえられなくなります。いったい本には何が書いてあるのか・・・・・・。一生かけて一冊の本を書いた人もいる、と聞いたことがある。本とはそれほどの価値があるものか・・・・・・と。
実は、モンターグは本を持っていました。この1年ほどの間、仕事で本を焼却する時にそっと1冊づつ持って帰り、家に隠していたのです。自殺した老女の本からも1冊持って帰りました。合計20冊程度です。モンターグはそれを堂々と妻の前で取り出し、読み始めようとします。妻のミルドレッドは驚いて、自分たちの生活がだいなしになる、やめるようにと言いますが、モンターグの意志は堅く、逆に妻にも読むように勧めます。
モンターグは今後の行動について、誰かに相談する必要があると考えました。思い当たったのは、以前に公園で話をし、電話番号を交換したフェイバーという名の大学教授です。彼なら本に好意的だと推測したのです。モンターグは本を1冊もって老教授を訪問します。教授はモンターグの立場に立って、なぜ本が大切なのか、これからどう行動すべきかを教えました。
ある日、モンターグが署(fire station)で勤務していると、密告を告げるサインが鳴りました。署長のビーティやモンターグを含む焚書官たちが現場に急行したのですが、その現場はモンターグ本人の家でした。妻のミルドレッドが密告したのです。署長のビーティはモンターグに向かってバカなことをしたものだ、処罰すると言い、本と家を焼き払おうとします。しかしその場でモンターグは、署長を火焔放射器で殺害してしまいます。
全警察から追われる身となったモンターグは、街を逃げ回ります。そして河にたどり着き、河を泳いで郊外に逃げ延びました。そこで野宿をしている5人の老人のグループに出会います。老人たちは、ポータブル受信機でモンターグの逃亡を良く知っていました。そして彼を暖かく迎えます。
実はこの老人たちは元大学教授や元聖職者で、他にもいる仲間と連携し、禁止されている本を暗記し、それを後世に伝えているのでした。仲間全体はかなりの数のようです。各人はどの本を暗記・暗誦するかの担当が決まっています。モンターグはこの人たちと行動をともにすることにしました。
小説はこの後に最後の展開があるのですが、割愛したいと思います。未来へのかすかな希望も示されます。以下に、この小説についてのコメントを何点かあげます。まず『華氏451度』についての2つの誤解からです。
『華氏451度』の誤解1:情報統制が徹底した全体主義社会
小説『華氏451度』に触れた文章で何回か目にしたのは、この小説が民主主義とは対極にある「独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会」を描いたように評したものです。
現代も独裁国家でありますよね。独裁者・政府に都合のよい情報だけが流通し、それに反対したり異論をとなえたりすることは許されず、批判するとすぐに逮捕される、というような国が・・・・・・。そういう国では、反政府・反独裁者の書物は検閲され、没収され、焼却されます。独裁権力が有害で「禁書」と宣告した書物も破棄されます。
ナチス・ドイツの「焚書」を思い出します。ナチスによって「非ドイツ的」と宣告された本、つまり社会主義関係の本やユダヤ人作家の本、ブレヒト、レマルク、ハイネなどが燃やされました。また、ナチスから2000年以上前には、秦の始皇帝の「焚書坑儒」がありました。皇帝を頂点とする中央集権制を徹底させるために、それに反する思想(封建制など)である諸子百家の書物や、秦以外の歴史書が焼却されたわけです。さらにその600年後のローマ帝国では、キリスト教の国教化とともに図書館が閉鎖され「異教の本」が散逸しました(No.27「ローマ人の物語(4)」参照)。
しかし「本を燃やす」ということをもってナチスや秦の焚書をイメージすると『華氏451度』を誤解してしまうのですね。『華氏451度』は独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会を描いた小説ではありません。全く違います。『華氏451度』は「本が禁止された社会」を描いた小説なのです。そこで描写されている「焚書」も、歴史上のナチスや秦の焚書とは意味が違います。「本を禁止する」という意味での「焚書」なのです。特定の思想や主張の本が禁止されているとか、特定の歴史書以外が全部禁止されているとか、そういうことはこの小説には一切出てこないのです。
No.28「マヤ文明の抹殺」においてブラッドベリの名作『華氏451度』を連想させると書いたのも、内容の如何にかかわらず、すべてのマヤ文書が焼却されてしまったからでした。
『華氏451度』の誤解2:活字印刷物を否定した社会
もう一つの(小さな)誤解は、『華氏451度』はすべての活字印刷物を否定した社会だという誤解です。
小説のはじめの方でミルドレッドがモンターグに、テレビ壁で放送されるドラマの台本が送られてきた、と言う場面があります。この台本はあきらかに印刷物です。また小説の中には、業界紙、雑誌、漫画、それを読めばすべての古典が分かるという「超ダイジェスト本」、焚書官が持っている「服務規程」、などの印刷物に言及されています。こういった「実務的印刷物」や「消費材としての印刷物」は、この世界においてもあります。大手を振って流通している本もあるのです。
ブラッドベリも分かっています。すべての活字印刷物を否定したのでは(現代)社会は運営できません。この社会では「消費材としての印刷物」は許容されていて、「知的財産としての書物」が否定されているのです。
『華氏451度』における「本」とは何か
『華氏451度』の世界では「本」が極めて広範囲に禁止されています。ファイアーマンの署には、百万ばかりの禁止書物のリストがある、との記述もあります。では、どういうたぐいの本が禁止されているのでしょうか。ここで、小説に中に現れる「禁止されている本の著者の例(一部は本の題名)」を歴史年代順にリストしてみたのが、右の表です。
一見して分かることは、古代ギリシャ時代からブラッドベリの同時代人(フォークナーは23歳年上)まで、きわめて幅広いことです。また、有名な人物が多数ある反面、あまり世界的には知られていない作家もあります。ピランデルロ、ガセット、オニールなどです(ピランデルロ、オニールはノーベル文学賞作家)。そしてこれら作家の書いた本は、戯曲、歴史、小説、詩、批評、評論、エッセイ、哲学、政治、宗教、社会学、物理学などの書物です。要するに『華氏451度』で具体的にあげられてる本は、人類の知的財産とでも言うべき本(の作者。主として文化系)です。かつ、アメリカ人・ブラッドベリからみた「知的財産」であって、ここには紫式部もドストエフスキーも「アラビアン・ナイト」もないわけです。ブラッドベリが小説の主題としている「本」とは、このようなたぐいの本であることが分かります。
あらすじに書いたように、老女は自ら石油に火をつけて自殺するのですが、署に戻る車の中でモンターグは老女の最期の言葉が気になります。「リドリー教授・・・・・・」というのは一体何のことなのか。
それに対して署長のビーティが答えます。
『華氏451度』の読者は、この老女の言葉と署長の解説が、いったいどういうことなのか分からないのではないでしょうか。「オックスフォード」「火刑」「異端」? 私も本を読んだときは分かりませんでした。次のようなことなのです。
16世紀の英国史です。ヘンリー8世は英国史の重要人物であり、数々のエピソード(血なまぐさいものも含めて)には事欠かない国王です。ヘンリー8世の「功績」一つは、カトリック教会から分離した英国国教会の設立です。おりしもヨーロッパ大陸ではプロテスタント運動が盛んで(フランスの状況は、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」を参照)それは英国にも波及していました。
ところがヘンリー8世の2代あとのメアリー1世(ヘンリー8世の娘)になると「揺り戻し」が起こるのです。彼女は敬虔なカトリック教徒です。そしてプロテスタントの弾圧に乗り出し、延べ300人以上を処刑しました。このためメアリー1世は、ブラッディ・メアリー(Bloody Mary。血まみれのメアリー)という通称がついています。
このとき処刑されたプロテスタントに、ヒュー・ラティマー(Hugh Latimer)とニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)という聖職者がいたのです。2人はオックスフォードで同時に処刑されました。『華氏451度』で老女が発した言葉は、ヒュー・ラティマーの最期の言葉と言われているものです。これはジョン・フォックス(John Foxe)という同時代人が書いた「殉教者列伝」(The Book of Martyrs)に出てきます。
要するに『華氏451度』に出てくる老女は、16世紀の英国史に精通していた、というのが小説としての設定なのです。もちろん、本を家もろとも焼き払われる中で老女が自殺することと、16世紀のプロテスタントの火刑=殉教が重ね合わされています。信念のためには、死をも厭わないというわけです。署長のビーティはわざわざ「異端の罪で」と言っていますね。反体制側からみると「殉教」ですが、体制側からすると「異端」です。ブラッドベリは慎重に言葉を選んでいます。『華氏451度』で作者が主題にしたい本の世界の《知》は、こういうレベル《知》(この場合は英国の歴史)だということの象徴でしょう。
さらに『華氏451度』の中で唯一、文学作品の直接の引用が出てくる箇所があります。モンターグがミルドレッドに、文学とはこういうものと教えるために詩を朗読します。「ドーヴァーの岸辺」という詩です。作者の名は書かれていませんが、これは19世紀イギリスの詩人で文明批評家のマシュー・アーノルド(Matthew Arnold 1822-1888)の作品です(原題は "Dover Beach" )。ブラッドベリの愛好する「本」を表しているではと思います。
『華氏451度』が描くアンチ・ユートピア
『華氏451度』は、アンチ・ユートピア(反ユートピア。ディストピア)を描いてみせた小説です。「本の禁止」をベースとするこの世界は以下のようなものです。
国民の娯楽と情報源は、各家庭にある「テレビ壁」と、皆に配られている超小型ラジオ「海の貝」です。「海の貝」は耳の孔に装着するものです。モンターグの妻のミルドレッドは装着していることが多いので「読唇術がうまくなった」との記述があるくらいです。
この小説か発表されたのは1953年です。アメリカでテレビ放送が始まったのは1940年で、あたりまえですが1953年では小型の白黒のブラウン管テレビしかありません(NHKのTV放送開始がちょうど1953年です)。ラジオ放送が始まってからはだいぶたちますが、現在の高性能小型イヤフォンはもちろんない。1953年の時点において、現在の大型液晶テレビを居間で見て、ステレオイヤフォンを長時間つけているライフスタイルを予見したかのようなこの小説の記述には驚きます。
クラリスという少女は、この世界になじめない人間です。彼女がモンターグに語る言葉から、この世界の実態が見えてきます。何点か引用してみます(太字は原文にはありません)。
まずこの時代は、ジェット・カーと呼ばれる非常に速く走るクルマが一般的になっています。
クラリスは、今はもう学校に行っていません。学校に失望しているのです。
クラリスが語る『華氏451度』の世界を、いくつかのキーワードで表現してみると「機械化」「パターン化」「スピード化」「簡略化」「没個性」「衝動的」という感じでしょう。
華氏451度(Fahrenheit 451 : Ray Bradbury 1953)
まず、この小説のあらすじです。後でも触れますが、1953年に出版された小説ということが大きなポイントです。
(以下に物語のストーリーが明らかにされています)
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レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』 (ハヤカワ文庫SF, 2008) | |||
その時代、本の所持と本を読むことが禁止されています。本の所持が見つかると、焚書官と呼ばれる公務員が発見現場に急行し、本を焼きます。小説の題名の華氏451度は摂氏233度に相当し、紙の発火温度を示します。
焚書官と訳されていますが、原文ではファイアーマン(fireman)です。言うまでもなく消防士のことですが、この時代には建物が完全耐火建築になり、消防士(ファイアーマン)は不要になりました。消防士は焚書官(ファイアーマン)となり、かつての消防ホースを石油を放射するノズルに持ち換えて集めた本に噴射し、火焔放射器で焼き尽くすのを任務としています。本の所持については密告が奨励されていて、相互監視社会が実現しています。
小説の主人公のガイ・モンターグはファイアーマンです。年は30歳過ぎで、妻のミルドレッドと2人暮らしです。夫婦に子供はなく、2人の関係は冷えています。
この時代、家の壁がテレビになっていて、数々の娯楽が提供されています。モンターグの家にも「テレビ室」があり、そこは部屋の3面が「テレビ壁」になっています。ミルドレッドはもっぱらテレビに没入する生活を送っていて、もう1面の壁もテレビ壁にしたいと考えています。また人々には「海の貝」と呼ばれる超小型ラジオが提供されています。これは耳の穴に装着できるもので、音楽や娯楽やニュースが流されます。
小説は、主人公のモンターグの任務の光景から始まります。冒頭は次のようです。
火の色は愉しかった。 |
モンターグはファイアーマンとしての任務を果たしていくのですが、2人の女性との出会いをきっかけに、彼の中で何かが変わり始めました。
一人は、モンターグの家の隣に引っ越してきた17歳の少女、クラリス・マックルランです。モンターグは家の周辺や公園でたびたびクラリスと顔を合わせます。クラリスは変わった子です。月を眺め、鳥を観察し、芝生のタンポポを見つめ、木の実を拾い、蝶を集め、夜明けに草の葉に露がたまることを知っています。人間観察が得意で、モンターグの職業を知って「あんた幸福なの?」と聞きます。
もう一人はある老女です。その老女が本を所有しいるという密告があり、ファイアーマンたちは老女の家を急襲しました。そして本を集めて家もろとも焼き払おとしたとき、老女は自ら石油に火をつけてその中で自殺してしまいます。モンターグは、その老女にとっては本が命と同じ程度に大切であったことを知りました。
モンターグは本への興味を押さえられなくなります。いったい本には何が書いてあるのか・・・・・・。一生かけて一冊の本を書いた人もいる、と聞いたことがある。本とはそれほどの価値があるものか・・・・・・と。
実は、モンターグは本を持っていました。この1年ほどの間、仕事で本を焼却する時にそっと1冊づつ持って帰り、家に隠していたのです。自殺した老女の本からも1冊持って帰りました。合計20冊程度です。モンターグはそれを堂々と妻の前で取り出し、読み始めようとします。妻のミルドレッドは驚いて、自分たちの生活がだいなしになる、やめるようにと言いますが、モンターグの意志は堅く、逆に妻にも読むように勧めます。
モンターグは今後の行動について、誰かに相談する必要があると考えました。思い当たったのは、以前に公園で話をし、電話番号を交換したフェイバーという名の大学教授です。彼なら本に好意的だと推測したのです。モンターグは本を1冊もって老教授を訪問します。教授はモンターグの立場に立って、なぜ本が大切なのか、これからどう行動すべきかを教えました。
ある日、モンターグが署(fire station)で勤務していると、密告を告げるサインが鳴りました。署長のビーティやモンターグを含む焚書官たちが現場に急行したのですが、その現場はモンターグ本人の家でした。妻のミルドレッドが密告したのです。署長のビーティはモンターグに向かってバカなことをしたものだ、処罰すると言い、本と家を焼き払おうとします。しかしその場でモンターグは、署長を火焔放射器で殺害してしまいます。
全警察から追われる身となったモンターグは、街を逃げ回ります。そして河にたどり着き、河を泳いで郊外に逃げ延びました。そこで野宿をしている5人の老人のグループに出会います。老人たちは、ポータブル受信機でモンターグの逃亡を良く知っていました。そして彼を暖かく迎えます。
実はこの老人たちは元大学教授や元聖職者で、他にもいる仲間と連携し、禁止されている本を暗記し、それを後世に伝えているのでした。仲間全体はかなりの数のようです。各人はどの本を暗記・暗誦するかの担当が決まっています。モンターグはこの人たちと行動をともにすることにしました。
小説はこの後に最後の展開があるのですが、割愛したいと思います。未来へのかすかな希望も示されます。以下に、この小説についてのコメントを何点かあげます。まず『華氏451度』についての2つの誤解からです。
『華氏451度』の誤解1:情報統制が徹底した全体主義社会
小説『華氏451度』に触れた文章で何回か目にしたのは、この小説が民主主義とは対極にある「独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会」を描いたように評したものです。
現代も独裁国家でありますよね。独裁者・政府に都合のよい情報だけが流通し、それに反対したり異論をとなえたりすることは許されず、批判するとすぐに逮捕される、というような国が・・・・・・。そういう国では、反政府・反独裁者の書物は検閲され、没収され、焼却されます。独裁権力が有害で「禁書」と宣告した書物も破棄されます。
ナチス・ドイツの「焚書」を思い出します。ナチスによって「非ドイツ的」と宣告された本、つまり社会主義関係の本やユダヤ人作家の本、ブレヒト、レマルク、ハイネなどが燃やされました。また、ナチスから2000年以上前には、秦の始皇帝の「焚書坑儒」がありました。皇帝を頂点とする中央集権制を徹底させるために、それに反する思想(封建制など)である諸子百家の書物や、秦以外の歴史書が焼却されたわけです。さらにその600年後のローマ帝国では、キリスト教の国教化とともに図書館が閉鎖され「異教の本」が散逸しました(No.27「ローマ人の物語(4)」参照)。
しかし「本を燃やす」ということをもってナチスや秦の焚書をイメージすると『華氏451度』を誤解してしまうのですね。『華氏451度』は独裁者による情報統制と検閲が徹底した全体主義社会を描いた小説ではありません。全く違います。『華氏451度』は「本が禁止された社会」を描いた小説なのです。そこで描写されている「焚書」も、歴史上のナチスや秦の焚書とは意味が違います。「本を禁止する」という意味での「焚書」なのです。特定の思想や主張の本が禁止されているとか、特定の歴史書以外が全部禁止されているとか、そういうことはこの小説には一切出てこないのです。
No.28「マヤ文明の抹殺」においてブラッドベリの名作『華氏451度』を連想させると書いたのも、内容の如何にかかわらず、すべてのマヤ文書が焼却されてしまったからでした。
『華氏451度』の誤解2:活字印刷物を否定した社会
もう一つの(小さな)誤解は、『華氏451度』はすべての活字印刷物を否定した社会だという誤解です。
小説のはじめの方でミルドレッドがモンターグに、テレビ壁で放送されるドラマの台本が送られてきた、と言う場面があります。この台本はあきらかに印刷物です。また小説の中には、業界紙、雑誌、漫画、それを読めばすべての古典が分かるという「超ダイジェスト本」、焚書官が持っている「服務規程」、などの印刷物に言及されています。こういった「実務的印刷物」や「消費材としての印刷物」は、この世界においてもあります。大手を振って流通している本もあるのです。
ブラッドベリも分かっています。すべての活字印刷物を否定したのでは(現代)社会は運営できません。この社会では「消費材としての印刷物」は許容されていて、「知的財産としての書物」が否定されているのです。
『華氏451度』における「本」とは何か
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一見して分かることは、古代ギリシャ時代からブラッドベリの同時代人(フォークナーは23歳年上)まで、きわめて幅広いことです。また、有名な人物が多数ある反面、あまり世界的には知られていない作家もあります。ピランデルロ、ガセット、オニールなどです(ピランデルロ、オニールはノーベル文学賞作家)。そしてこれら作家の書いた本は、戯曲、歴史、小説、詩、批評、評論、エッセイ、哲学、政治、宗教、社会学、物理学などの書物です。要するに『華氏451度』で具体的にあげられてる本は、人類の知的財産とでも言うべき本(の作者。主として文化系)です。かつ、アメリカ人・ブラッドベリからみた「知的財産」であって、ここには紫式部もドストエフスキーも「アラビアン・ナイト」もないわけです。ブラッドベリが小説の主題としている「本」とは、このようなたぐいの本であることが分かります。
- リストには「異色の」人物として、第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスの名前がありますが、彼は「哲人皇帝」と言われたほどの人で「自省録」という本を書きました。ローマのカピトリーノ美術館に有名な騎馬像があります(No.25「ローマ人の物語(2)」参照)。塩野七生著「ローマ人の物語 第11巻 終わりの始まり」にはマルクス・アウレリウス帝が活写されています。
なお『華氏451度』の日本語訳では、マルクス・アウレリウス(英語表記:Marcus Aurelius)を、英語読みそのままに「マーカス・オーレリアス」としてありますが、これでは日本の読者にとっては誰のことなのか分かりません(ローマ皇帝という注釈もない)。カエサルをシーザーと英語読みにするならともかく、日本で一般的なラテン語読みにすべきでしょう。『華氏451度』にあげられている「本の著者」の中で唯一、2回以上出てくる人物です。
物理学者のアインシュタインも「異色」ですが、一人ぐらいは科学者を入れておきたかったということではと思います。「ブラッドベリ」の名前がありませんが、さすがに気が引けたのかも知れません。
かれらは正面のドアをおしやぶって、老女をひとりつかまえた。しかし、その老女たるや、走り出すようすもなければ、逃げだそうとする気持ちもないらしい。ただ、そこにつっ立ったまま、左右にからだをゆするばかりだ。眼はなにを見るまでもなく、前方の壁に、ピタッとむけられているだけ。だれかから、おそろしい一撃を、頭にくらったようなかっこうである。口のなかで、舌をうごかしている。記憶をよびもどそうとする眼つきをみせていたが、やがて、それを思いだしたものか、舌のうごきがことばになった。 |
あらすじに書いたように、老女は自ら石油に火をつけて自殺するのですが、署に戻る車の中でモンターグは老女の最期の言葉が気になります。「リドリー教授・・・・・・」というのは一体何のことなのか。
それに対して署長のビーティが答えます。
「ラティマーという男がいっていることばさ。ニコラス・リドリーという男が、オックスフォードで、生きながら火刑になったそうだ。異端の罪で、1555年の10月16日のことと聞いている」 |
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『華氏451度』より (小説の1シーンを表現している) | |||
16世紀の英国史です。ヘンリー8世は英国史の重要人物であり、数々のエピソード(血なまぐさいものも含めて)には事欠かない国王です。ヘンリー8世の「功績」一つは、カトリック教会から分離した英国国教会の設立です。おりしもヨーロッパ大陸ではプロテスタント運動が盛んで(フランスの状況は、No.44「リスト:ユグノー教徒の回想」を参照)それは英国にも波及していました。
ところがヘンリー8世の2代あとのメアリー1世(ヘンリー8世の娘)になると「揺り戻し」が起こるのです。彼女は敬虔なカトリック教徒です。そしてプロテスタントの弾圧に乗り出し、延べ300人以上を処刑しました。このためメアリー1世は、ブラッディ・メアリー(Bloody Mary。血まみれのメアリー)という通称がついています。
このとき処刑されたプロテスタントに、ヒュー・ラティマー(Hugh Latimer)とニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)という聖職者がいたのです。2人はオックスフォードで同時に処刑されました。『華氏451度』で老女が発した言葉は、ヒュー・ラティマーの最期の言葉と言われているものです。これはジョン・フォックス(John Foxe)という同時代人が書いた「殉教者列伝」(The Book of Martyrs)に出てきます。
要するに『華氏451度』に出てくる老女は、16世紀の英国史に精通していた、というのが小説としての設定なのです。もちろん、本を家もろとも焼き払われる中で老女が自殺することと、16世紀のプロテスタントの火刑=殉教が重ね合わされています。信念のためには、死をも厭わないというわけです。署長のビーティはわざわざ「異端の罪で」と言っていますね。反体制側からみると「殉教」ですが、体制側からすると「異端」です。ブラッドベリは慎重に言葉を選んでいます。『華氏451度』で作者が主題にしたい本の世界の《知》は、こういうレベル《知》(この場合は英国の歴史)だということの象徴でしょう。
さらに『華氏451度』の中で唯一、文学作品の直接の引用が出てくる箇所があります。モンターグがミルドレッドに、文学とはこういうものと教えるために詩を朗読します。「ドーヴァーの岸辺」という詩です。作者の名は書かれていませんが、これは19世紀イギリスの詩人で文明批評家のマシュー・アーノルド(Matthew Arnold 1822-1888)の作品です(原題は "Dover Beach" )。ブラッドベリの愛好する「本」を表しているではと思います。
- 余談ですが、No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」で書いたアメリカの作曲家、サミュエル・バーバーは、この詩をもとにバリトン独唱と弦楽4重奏による「 Dover Beach 作品3 」という曲を作っています。
『華氏451度』が描くアンチ・ユートピア
『華氏451度』は、アンチ・ユートピア(反ユートピア。ディストピア)を描いてみせた小説です。「本の禁止」をベースとするこの世界は以下のようなものです。
国民の娯楽と情報源は、各家庭にある「テレビ壁」と、皆に配られている超小型ラジオ「海の貝」です。「海の貝」は耳の孔に装着するものです。モンターグの妻のミルドレッドは装着していることが多いので「読唇術がうまくなった」との記述があるくらいです。
この小説か発表されたのは1953年です。アメリカでテレビ放送が始まったのは1940年で、あたりまえですが1953年では小型の白黒のブラウン管テレビしかありません(NHKのTV放送開始がちょうど1953年です)。ラジオ放送が始まってからはだいぶたちますが、現在の高性能小型イヤフォンはもちろんない。1953年の時点において、現在の大型液晶テレビを居間で見て、ステレオイヤフォンを長時間つけているライフスタイルを予見したかのようなこの小説の記述には驚きます。
クラリスという少女は、この世界になじめない人間です。彼女がモンターグに語る言葉から、この世界の実態が見えてきます。何点か引用してみます(太字は原文にはありません)。
まずこの時代は、ジェット・カーと呼ばれる非常に速く走るクルマが一般的になっています。
[クラリス] |
クラリスは、今はもう学校に行っていません。学校に失望しているのです。
(学校は)テレビのクラスが1時間、バスケット・ボールか野球かランニングが1時間、歴史か絵画のクラスが1時間、そのほか、スポーツとか、いろいろあるんだけど、あたしたち、質問することがないのよ。ほとんどの生徒がしないわ。教師たちは生徒にむかってしゃべるだけ。あたしたちは4時間以上も、そこにすわっているだけ。なにしろ、教師はフィルムですもの。 |
1日の授業がおわるころには、あたしたち、くたくたになってしまうわ。なにをする気力もなくなっているのよ。ベドに直行するか、遊園地へでも出かけて、みんなをはらはらさせてみるか、でなければ、窓割り遊技場で、窓ガラスをたたき割ったり、自動車破壊場で、車へ大きな鋼鉄ボールをぶつけるか、そんなことでもしなければ、気持ちを落ちつかせることもできないくらいよ。 |
去年一年で、あたしの友だちのうち、6人も射ち殺されたわ。そして、10人は自動車事故で死んでいるの。 |
だれのしゃべっていることも、ぜんぜん変わりがないの。みんな、おなじことばかりだわ。カフェにはいったにしても、そなえつけてある冗談ボックスをつかうと、おなじ冗談がとび出すでしょう。壁面ミュージカルにスイッチを入れれば、色つきの形が上下左右にうごきまわるけど、それ、色がついているというだけで、抽象模様のほか、なにもないんだわ。あんた、美術館に行ったことがあって? あそこも抽象画ばかりならんでいるわね。 |
クラリスが語る『華氏451度』の世界を、いくつかのキーワードで表現してみると「機械化」「パターン化」「スピード化」「簡略化」「没個性」「衝動的」という感じでしょう。
(以下、次回に続く)
No.50 - 絶対方位言語と里山 [歴史・文化]
(前回から続く)
前回のNo.49「蝶と蛾は別の昆虫か」では、蝶と蛾を例にとって言葉が人間の世界認識に影響するということを言ったのですが、一歩進んで、言葉が人の認知能力にも影響し、さらには人の行動にまで影響するということが、学問的に究明されつつあります。あらためて整理すると、
人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしている。さらに、人の認知能力に影響を及ぼし、また行動にも影響する。 |
ということなのです。この端的な例が「絶対方位言語」です。
絶対方位言語
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人間の言葉には、方向や方角、位置関係を示す言葉がいくつかあります。まず「左」と「右」ですが、これは「相対方位」です。「私」を基準にとると、自分の視線の方向を基準にして心臓のある方向を「左」、反対側を「右」と言っているわけです。どの場所が左でどの場所が右かは、基準のとりかたによって変わります。相手を基準にする場合、混乱を避けるために「あなたから見て、向かって右」という風に丁寧に言ったりしますね。つまり「左」「右」はある基準からみた「相対方位」です。「前」や「後」も同じです。
これに対して「東・西・南・北」は(この地球上で生活している限りは)基準の取りかたには依存しません。これが「絶対方位」です。「地球の地軸を基準にしているので、地球上である限り絶対方位である」というのが正しいでしょう。
世界中には数千の言語がありますが、普通の言語は相対方位と絶対方位の両方を備えています。そして普通、相対方位は小空間で使われ、絶対方位は大きな空間スケールで使われます。しかし言語の中には、すべての空間スケールにおいて絶対方位を使う言語(=絶対方位言語)があるのです。オーストラリア大陸の北部、ニューギニアに向かって突き出た半島がヨーク岬半島ですが、そこの一部のアボリジニの人たちで話されている「クウク語」がその例です。クウク語では空間のスケールによらず、絶対方位が使われます。従って、テーブルの上を指して「カップはお皿の南東にある」といった言い方になるわけです。
- 日経サイエンスの記事には「絶対方位言語」という言葉は使われていません。絶対方位に基づく言語、という言い方がされているのですが、簡単にために「絶対方位言語」と呼ぶことにします。
オランダのナイメーヘンにあるマックス・プランク言語心理学研究所のレビンソン(Sthphen C. Levinson)とカリフォルニア大学サンディエゴ校のハビランド(John B. Haviland)が過去20年に行った画期的研究によって、絶対方位に基づく言語を話す人たちは、見知らぬ景色やなじみのない建物の内部であっても、自分の位置を把握するのが著しく上手であることが示された。同じ環境で生活しているがそうした言語を話さない人たちよりも上手であり、まさに科学者の想像を超えた能力を示した。言語による要請が、この認知能力を強め、鍛えている。 |
ボロディツキー助教授は、クウク語を話す村を訪れたときの様子と、スタンフォード大学での「実験」を書いています。
北オーストラリア、ヨーク岬の西の端にあるポーンプラーウという小さなアボリジニの集落で、私は5歳の女の子の横に立っていた。北を指すように頼むと、彼女は迷うことなく正確に指さす。手持ちの方位磁石を確認すると、まさしくその通りだ。 |
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我々日本人もそうですが、普通のアメリカ人は「左から右へ」とカードを並べます。ただしヘブライ語を話す人は「右から左へ」と並べる傾向があるそうです。これはヘブライ語が右から左へと書く言語だからです。とにかく、並びとしては「相対方位」で並べるのが普通です。前方から手前とか、そういう風にあまりしないのは、人間の手が左右についているからでしょう。
ところが、クウク語の話者は違います。
しかしクウク語の話者はふつう、カードを左から右あるいは右から左に配置することはなかった。東から西へ並べたのだ。つまり、南を向いて座っているときにはカードを左から右に、北を向いているときにはカードを右から左に、東を向いているときにはカードを前方遠くから手前に、といった具合だ。実験にあたって、どちらの方角を向いているかを当人に知らせたことは一度もない。クウク語を話す人たちは言われずともそれをすでに知っていて、その空間方位を自発的に用いて時間的表現を組み立てていた。 |
本文には書いていませんが、この実験から推測すると、クウク語の話者が南東を向いて座っているときには、カードを左前方から右手前へと斜めに並べることになります。おそらくそうなのでしょう。
クウク語の話者は、時間の経過を東から西へという空間配置でとらえていることになります。これはもちろん太陽の動きを意識しているのだと思います。絶対方位言語の話者は、時間経過を空間配置に置き換えるときも絶対方位なのです。
以上を要約すると
| ◆ | 絶対方位言語の話者は、空間の絶対方位(東西南北)の認知能力に優れている。 | |
| ◆ | 時間経緯は絶対方位と関連付けられていて、それは具体的行動にも現れる。 |
ということだと思います。これは、言葉が人の認知能力や行動にも影響することを実証する一つの事例なのです。
我々は普通、知らない土地や建物の中では、注意しているつもりでも方角が分からなくなることをよく経験します。何度も行ったはずのデパ地下でも、帰るつもりで出口と反対の方向へ向かっていたりする。それと比較してクウク語を話す人たちは、まるで地磁気センサーとジャイロセンサーを組み込んだスマートフォンのようなことが出来るわけです。大変な能力だと思います。

しかし、クウク語のような絶対方位言語は、世界的にみると「少数言語」です。もっと話者が多い言語ではどうなのか。日経サイエンスの同じ記事に「英語」と「日本語・スペイン語」の対比が書かれています。
英語と、日本語・スペイン語の相違
著者の説明です。英語の話者は「誰かが何かをしている」という形で物事を表現する傾向があります。たとえ偶発的事故であっても「ジョンが花瓶を壊した」といった「他動的構文」を好みます。
対照的に日本語やスペイン語の話者は、偶発事象を述べる際には、行為の主体に言及することはあまりありません。スペイン語では「Se rompio el floreo」であり、日本語に直訳すると「花瓶が壊れた」あるいは「花瓶はそれ自体を壊した」となります。ボロディツキー助教授のグループは、次のような巧妙な実験で、言語の違いが記憶に与える影響を見い出します。
私たちは英語とスペイン語、日本語の話者に、2人の男が故意または偶然のいずれかで風船を割り、卵を割り、飲み物をこぼすビデオを見せた後、予告なしの記憶テストをした。 |
この実験が示唆するのは、記憶はその人の言語に影響されるということですね。記憶はビデオ録画とは違うのです。その光景が言語的文脈に置き換えられて記憶される。言葉の構造が認知能力に影響するという証明になっています。
こういった数々の実験を通して、ボロディツキー助教授は次のように結論づけています。
人間の知性を特徴づける性質はその適応性、つまり変化する目的と環境にあわさせて世界に関する概念を再編成していく能力だ。この柔軟さの結果として、世界中に非常に多様な言語が生まれた。それぞれの言語は独自の認知手段を提供し、その文化の中で数千年にわたって開発されてきた知識と世界観を内包している。 |
ボロディツキー助教授が「絶対方位言語」や「他動的構文」のフィールド・ワークや実験で明らかにしてきたのは、
人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしているし、さらには人の認知能力に影響を及ぼし、また行動にも影響する。 |
とまとめることが出来ると思います。これは認知心理学の学者の間では広く認められつつあるようです。さきほどの引用中にも「言語は世界に意味を認める仕方を含んでいる、かけがえのないガイドブック」と述べられています。
しかし思うのですが、記事で例として取り上げられている言葉、つまり
◆左右、東西南北(=相対方位と絶対方位)
◆ジョンが花瓶を壊した(=他動的構文)
などは、言語の中でも「基礎的語彙」や「基礎的構文」です。ボロディツキー助教授は学者なので、言葉を通して人間の認識の本質、さらには知性の本質に迫ろうとしています。その目的のためには、言語の基礎的要素を例にとるのが必須なのでしょう。
しかし、もうちょっと広く考えてみると、人間社会や自然の特定の断面を表す言葉や社会的な意味合いの言葉では、「言語は世界の認識手段であり、人の認知能力に影響し、行動にも影響する」のはよくあるし、あたりまえのことだと思うのです。この社会的語彙の一つの例として、日本語の「里山」という言葉を考えてみます。
里山
「里山」は比較的最近の言葉です。1960-70年代に使われ始め、80年代に広まり、90年代にスタンダードな日本語として認知されるようになった。『広辞苑 第4版』およびそれ以前にこの言葉はありません。広辞苑における「里山」の定義は次のようです。
| 『広辞苑 第4版』(1991.11.15) | |
| 里山の項なし | |
| 『広辞苑 第5版』(1998.11.11) | |
| 人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林 | |
| 『広辞苑 第6版』(2008.01.11) | |
| 人里近くにあって、その土地に住んでいる人のくらしと密接に結びついている山・森林 | |
里山という言葉自体は江戸時代からあったようで、明治から昭和の時代の東北地方の山村でも使われていました(有岡利幸『里山2』法政大学出版局 2004 による)。しかし一般用語として全国的に広まったのは『広辞苑』にみるように比較的最近です。そして、この言葉を広め、里山の大切さを認知させた功労者は、森林生態学者で京都大学名誉教授の故・四手井綱英氏です。
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| 神奈川県秦野市の公式ホームページにある里山風景。日本全国どこにでもある光景である。秦野市は里山・里地の保全に力をいれているが、もちろんこのような自治体は全国に多数ある。 | |||
哺乳類も里山に生息するものが多いわけです。タヌキ、サル、キツネ、ウサギ、イノシシ、シカなどの中大型動物や、モグラ、コウモリ、ムササビ、リスなど小動物です。動物は人里離れた山奥を好むと見られがちですが、意外に里山に多く生息しているのです。里山はまた、土砂崩落の防止や水資源の保持などの環境保全にも役だっています。なお、里山とその周辺の谷津(やつ。谷戸・やと、とも言う)、集落、農地、河川などを含めて「里地」と言うことがあります。
あたりまえですが「里山」という言葉が一般的になる前から里山はあり、人間との深い関係を保ってきました。しかし「里山」という言葉とそれに付帯した概念が広まることによって、広く人々の関心が集まるようになった。「里山は大切だ」「里山の自然を守ろう」というように・・・・・・。
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| 鎌倉市の鎌倉中央公園。里山や農地を含む一帯が、一つの都市公園として保存されている。 | |||
この里山という言葉が広まっていった時期は、高度成長期の都市化によって、都市郊外の自然破壊が進んだ時期と重なります。その時期から芽生えてきた自然保護意識に、里山という言葉がピッタリとはまった。いくら四手井教授が言葉を広めようとしても、人々の琴線に触れないと広まらないはずです。里山は、経済成長の一方で忘れていた日本人の心のふるさと、というようなイメージもあるのでしょう。そして「心ふるさと」に止まらず「日本の誇り」といった意識も出てきた。sushi や tsunami、haiku、bonsai、kaizen など、国際用語になった日本語は数多くあります。これらはいずれも日本固有ないしは日本に特徴的な事物、自然、風俗、文化、企業経営理念であり、いわば「わかりやすい」ものです。しかし最近、もっと複雑な説明を要する言葉が外国人にも受け入られています。たとえばノーベル平和賞を受賞したケニアの故ワンガリ・マータイさんは、日本語の mottainai が Reduce、Reuse、Recycle を一言で表し、かつ地球環境への Respect という意味もあると言っていますね(その通りです)。だとすると satoyama も「今後、国際用語としたい日本語」ではないでしょうか。里山のようなカルチャーをもった地域は世界中にあると思うのです。
「心のふるさと」で思い出したのですが、日本の第2の国歌(ちょっと大袈裟ですが)とでも言うべき「ふるさと」という曲があります。この冒頭の歌詞の「兎追いし、かの山」というのが、まさに里山のイメージですね。戦前の旧制高校の時代、京都の三高の寮生は吉田山で兎をとっていた、との回想録をどこかで読んだことがあります。吉田山は現在も京都大学の本部キャンパスのすぐ東隣で、京都の街のど真ん中の山です。人家に近接した山に野兎がいるのは、70年ほど前までは当たり前だったのです。そういえば、京都の街の東・西・北を取り巻く山々は、今でも里山の典型です。
そういった自然と人間との共生関係が失われてきたこと、ないしは、人々が自らそれを捨ててしまったことへの危機感が「里山」という言葉が広まった背景にあると思います。
日本における人間と自然の関係を「里山」という言葉が、一言で、スパッと言い表した。そしてその言葉が人間の意識を変え、あるいは忘れかけていた大切なものを思い出させ、ボランティア活動までを引き起こした。「里山」という言葉がなかったら今の保全活動はなかった、とまでは言いませんが、少なくとも「言葉による世界認識」がキーとなって、日本の社会に新たな「動き」を作ることに寄与したことは確かだと思います。「森林や雑木林を保護しよう」と何万回繰り返すより、保護すべき自然としての「里山」という言葉を作り出す方が効果がある。
写真に掲げた神奈川県秦野市の里山などは、日本全国どこにでもある光景です。あまりに当たり前すぎて、それを見ても何とも感じないのが普通でしょう。しかし里山という言葉を知っていると、そこにあるはずの人間と自然の相互関係が「認識」でき、当たり前すぎる風景が新たな価値を持ちます。
言葉による世界認識は、里山のように新しいモノの見方を提供します。ということは、逆に言うと言葉がモノの見方を拘束することもあるわけです。社会的な場で我々は「言葉が規定するモノの見方」に従って意見を言い、賛成し、反対していることがよくあります。それは社会を円滑に運営するための必須事項なのですが、革新や創造を妨げることにも注意したいと思います。と同時に、言葉が固定概念をブレークスルーし、新しい価値をもたらすことがあることも覚えておきたいと思います。

里山の四季(映画「里山」の公式ホームページより)
No.49 - 蝶と蛾は別の昆虫か [歴史・文化]
今回は言葉についての話です。No.18「ブルーの世界」の冒頭で、日本語における「青・あお」について書きました。補足も加えて整理すると、次のようなことです。
ということでした。
人間は言葉で外界を認識します。外界の事物について、名前があるのかないのか、あるとしたらその詳細度合いはどうか、どういうカテゴリーで名前付けされているのかが人の認識に影響します。特に色は「連続変化量」なので名前付けは千差万別であり、外界の認識方法が端的に現れるものです。
とうことをさらに考えてみよう、というのが今回のテーマです。
フランス語では蝶と蛾を区別しない
No.17「ニーベルンクの指輪(見る音楽)」において、鈴木孝夫・慶応大学名誉教授の著書『日本語と外国語』(岩波新書。1990)の内容から「虹の色の数はいくつか」という考察を紹介しました。「虹の色は7色」と、誰もが口を揃えて言うのは日本とフランスであり、世界的にみると必ずしも7色ではないという話でした。
この『日本語と外国語』に、蝶と蛾の話が載っています。我々日本人は「蝶」と「蛾」は、似ているけれど別種の昆虫だと、何となく思っています。昔、羽を閉じてとまるのが蝶で、羽を広げてとまるのが蛾だという話を聞いたことがあります。それは必ずしも正しくないのですが・・・・・・。とにかく、鱗翅類に昼間活動する蝶と夜行性の蛾の2種がある、と思っている。
ところが鈴木教授は『日本語と外国語』の中でフランス語のパピヨンについて指摘しています。フランス語のパピヨン(papillon)が蝶かというと、そうではない。パピヨンは蝶と蛾を合わせた鱗翅類全体を指す言葉なのです。鈴木教授は、蝶と蛾をごちゃ混ぜにしたカラー写真を掲載しているラルース百科事典を示し、初めてそれを見たときの「衝撃」を語っています。これは言語の違いに驚いたというより、言語学を専門とする学者でありながら(フランス人にとっては)当たり前の事に長年気がつかなかったという衝撃だと思います。
フランス人が書いた蝶に関する本に、ギー・マトー著『蝶(Les Papillons)』(和田祐一訳。文庫クセジュ。白水社。1960)という本がありますが、もちろん蝶と蛾を扱っています。訳者の和田氏は次のように書いています。
学術用語はさておき、この分類における「蝶類」のところ以外は日本語で言う「蛾」です。蝶類は鱗翅目全体の15%に過ぎない。つまり種の数からいうと、鱗翅目・10万種の大部分は蛾ということになります。この蛾の中に、数千年前の昔から人類に多大な貢献をして来た種がありますね。言うまでもなく「カイコガ」です。
とにかく、我々日本人は鱗翅類に対して「蝶」と「蛾」という2つの言葉を使い分けるし、最もなじみの深い外国語である英語でも butterfly と moth を使い分けるので、なんとなく世界はそうだと無意識に思っているのですが、必ずしもそうではないのです。
ドイツ語でも蝶と蛾を区別しない
さらに『日本語と外国語』で鈴木教授は、ドイツ語でも蝶と蛾を区別しないことを述べています。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は、蛾も表す言葉であり、つまりフランス語の papillon と同じように鱗翅類全体を示す言葉なのです。
そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木教授は注意しています。その例としてあげられているのが、ゲーテの詩の訳です。本から引用します。
鈴木教授の引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にもあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。
確かに鈴木教授の言う通りで、蝶ではイメージが湧かない。と言うか、なんだか変だという違和感が残ります。絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリズムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。
『蝶の生活』の驚き
鈴木教授がゲーテを引用しているので、ドイツ人が書いた別の本で蝶と蛾をみてみます。フリードリッヒ・シュナック(1888-1977)の『蝶の生活』(1928出版。岡田朝雄訳 岩波文庫 1993)という古典的作品で、原題は Das Leben der Schmetterlinge です。これは「ヨーロッパの代表的な蝶や蛾を素材に、その美しさ、生態、さらにはそれらにまつわる神話・伝説等を詩情あるれる文章で描いた博物誌」(岩波文庫の解説)です。
解説でも言っているように、この本は題名とは違って「蝶と蛾の」博物誌です。本の内容をみると、
◆第1部
蝶の博物誌 123ページ
◆第2部
物語3編(蝶2編、蛾1編)
◆第3部
蛾の博物誌 148ページ
となっていて、蝶と蛾は「対等かつ公平に」扱われています。訳者の岡田朝雄氏は次のように書いています。
これは蝶が好きな日本人にとっては、ちょっと驚きの文章ではないでしょうか。
まず軽い違和感は、冒頭から「鱗翅類」という学術的雰囲気の語が出てくることです(正式の分類学用語は、鱗翅目)。この理由は明白で、Schmetterling の訳だからです。Schmetterling の訳には、
① 鱗翅類(これが一番正確)
② 蝶と蛾。ないしは、蝶蛾
③ 蝶(不正確だが、あえてこう訳してしまう)
の3つが考えられます。『蝶の生活』を訳した岡田氏は、本の題名では③をとり、冒頭の文章では①としたわけです。本の題名を「鱗翅類の生活」や「蝶と蛾の(蝶蛾の)生活」とするのは、岩波文庫編集部も納得しないでしょう。そして本文の中では①③とともに②も使っている。もちろん個別の種についての記述では、種に応じて「蝶」ないしは「蛾」となっています。
それよりも驚きは引用中の太字の部分です。この冒頭部分に書かれている種は、すべて日本語で言う「蛾」の種類なのですね。「昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる」と書いたその直後で、著者が「愛情をこめて」あげている鱗翅類の具体的な5つの種名、つまり、スズメガ、ヤママユ、シャクガ、ヤガ、ヒトリガは、すべて蛾です。この5種の蛾の例を『蝶の生活』の本文の図版から引用します。
もちろん『蝶の生活』の「ささげる言葉」には、引用した冒頭部分に続く文章で蝶の名前も多々出てきます。しかしそこにも蛾の名前が混じっています。ちょうど、フランスの「ラルース百科大事典」のパピヨンの図版そのままの「混在ぶり」なのです。
日本人で蝶が好きという人は多いと思います。美しさに魅せられて海外まで採集旅行に行く、といった話も聞きます。しかし蛾が好きという人は、蝶と比較すると少ないのではないでしょうか。「蝶愛好家」は多いが「蛾愛好家」はあまり聞いたことがない。もちろん学者には蛾の研究者がいると思いますが(農業にとっても重要な研究です)、アマチュアの「蛾研究家」は蝶に比べて非常に少ないはずです。また、日本においては「蝶の図鑑」や「蝶についての読み物」はたくさん出版されていますが、シュナックの本のように「蝶と蛾を対等に扱った書物」は、そんなにないと思います。
むしろ日本においては一般的に「蝶は好きだが、蛾は嫌い」という人がほとんどではないでしょうか。日本では蛾が不当に差別されている感じです。それに対して、ドイツ人のフリードリッヒ・シュナックは「蝶と蛾が好き」なのです。いや、これは間違いで、シュナックは「Schmetterling が好き」なのです。そして『蝶の生活』の冒頭の文章で分かるように、蛾にも並々ならぬ愛情を注いでいる。
そこで疑問です。「日本人が一般的に、蝶は好きだが蛾は嫌い」という理由はいったい何か、という疑問です。それはまさに「言葉」が原因ではないかと思っています。仮説ですが、以下のような事情だと推測できるのです。
以上は、たぶん当たっているのではないかと思います。シュナックの本の冒頭にあるシャクガ類の中には蝶類と姿・形があまり変わらないものもあるのですが(引用した図版のスグリシロエダシャクなど)、蛾の一種だと知ると嫌な感じがしたりする。
結局、以上のことを一般化した視点でまとめると、どういう言葉を使うかは「世界の認識」を変えるし、それは人の気分や嗜好、関心にも影響すると思うのです。
昆虫の連想で書きますと、蝉(セミ)の代表的な種にアブラゼミとクマゼミがあります。都会にもいて、真夏になると鳴き声をよく聴きます。この2種は、外観が違うと同時に鳴き声もかなり違います。しかしアブラゼミとクマゼミという言葉がなく、単にセミという言葉だけを持っている文化があったとしたら、アブラゼミとクマゼミの鳴き声の違いは、その文化圏では聞き分けられないと思います。セミが鳴いているとしか認識できないはずです。これはもちろん聴力の問題ではありません。人間は文化=言語でセミの鳴き声を聴いている(面がある)からです。
余談ですが、日本語は「セミの分類」にこだわっていますね。ツクツクボウシもあるし、ミンミンゼミもある。「ミンミン」という擬声語はミンミンゼミの鳴き声にしか使われません。昆虫の中の、セミという種類の、その中のたった一種の鳴き声にしか使わない擬声語があるというのが、日本語のこだわりだと思います。
「蝶と蛾」を例にとって、言葉が人間の世界認識に影響するという説明をしたのですが、これからさらに一歩進んで、言葉は人の認知能力にも影響し、さらには人の行動にまで影響するようなのです。
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東山魁夷 「夕静寂」(1974) [site:長野県信濃美術館 東山魁夷館] | |||
| ◆ | 日本語ではグリーンからブルーにかけての幅広い色を「あお」と表現してきた歴史と文化がある。特に、グリーンを「あお」という例は、青葉、青野菜、青物(市場)、青信号、青竹、青汁、青蛙、青田(買い)、青虫、青唐辛子、青海苔、青麦、青いリンゴ、など、いろいろある。 | |
| ◆ | 東山魁夷画伯が風景画に使った、いわゆる「ヒガシヤ・ブルー」は、グリーンからブルーにかけての幅広い色を「ブルー」で表現している。特に、現実に緑(ないしは暗い緑)に見える風景をブルー系統の色で描いた絵があるが、それに全く違和感がないのは、日本語の「あお」という言葉の伝統による(のではないか)。 |
ということでした。
人間は言葉で外界を認識します。外界の事物について、名前があるのかないのか、あるとしたらその詳細度合いはどうか、どういうカテゴリーで名前付けされているのかが人の認識に影響します。特に色は「連続変化量」なので名前付けは千差万別であり、外界の認識方法が端的に現れるものです。
人は言語で世界を切り取って認識している。言語は、その人の世界認識に影響を及ぼしている。 |
とうことをさらに考えてみよう、というのが今回のテーマです。
フランス語では蝶と蛾を区別しない
No.17「ニーベルンクの指輪(見る音楽)」において、鈴木孝夫・慶応大学名誉教授の著書『日本語と外国語』(岩波新書。1990)の内容から「虹の色の数はいくつか」という考察を紹介しました。「虹の色は7色」と、誰もが口を揃えて言うのは日本とフランスであり、世界的にみると必ずしも7色ではないという話でした。この『日本語と外国語』に、蝶と蛾の話が載っています。我々日本人は「蝶」と「蛾」は、似ているけれど別種の昆虫だと、何となく思っています。昔、羽を閉じてとまるのが蝶で、羽を広げてとまるのが蛾だという話を聞いたことがあります。それは必ずしも正しくないのですが・・・・・・。とにかく、鱗翅類に昼間活動する蝶と夜行性の蛾の2種がある、と思っている。
ところが鈴木教授は『日本語と外国語』の中でフランス語のパピヨンについて指摘しています。フランス語のパピヨン(papillon)が蝶かというと、そうではない。パピヨンは蝶と蛾を合わせた鱗翅類全体を指す言葉なのです。鈴木教授は、蝶と蛾をごちゃ混ぜにしたカラー写真を掲載しているラルース百科事典を示し、初めてそれを見たときの「衝撃」を語っています。これは言語の違いに驚いたというより、言語学を専門とする学者でありながら(フランス人にとっては)当たり前の事に長年気がつかなかったという衝撃だと思います。
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フランス「ラルース百科大事典」の図版 フランス人が見ると「パピヨンの図版」 日本人が見ると「蝶と蛾が混ざっている図版」 岩波新書「日本語と外国語」(1990)より引用 | |
フランス人が書いた蝶に関する本に、ギー・マトー著『蝶(Les Papillons)』(和田祐一訳。文庫クセジュ。白水社。1960)という本がありますが、もちろん蝶と蛾を扱っています。訳者の和田氏は次のように書いています。
- フランス語では一般に日本における如く蝶と蛾をはっきり区別しない。特に区別する時は papillon diurne(蝶)と papillon nocturne(蛾)と言う。従って papillon は蝶だけを指す言葉ではなく、蛾も含まれるので、従って鱗翅目を指すわけであるが、学術用語ではないから蝶とのみ訳しておいた。
|  鱗翅目  |  同脈亜目  |  400種 |  103,200種 | ||
|  異脈亜目  |  単門類  |  1,300種 |  102,800種 | ||
|  二門類  |  85,900種 | ||||
|  蝶類  |  15,600種 | ||||
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| カイコガ(Wikimedia) | |||
とにかく、我々日本人は鱗翅類に対して「蝶」と「蛾」という2つの言葉を使い分けるし、最もなじみの深い外国語である英語でも butterfly と moth を使い分けるので、なんとなく世界はそうだと無意識に思っているのですが、必ずしもそうではないのです。
ドイツ語でも蝶と蛾を区別しない
さらに『日本語と外国語』で鈴木教授は、ドイツ語でも蝶と蛾を区別しないことを述べています。ドイツ語で蝶を意味する Schmetterling(シュメッタリンク)という語は、蛾も表す言葉であり、つまりフランス語の papillon と同じように鱗翅類全体を示す言葉なのです。
そして、こういった言葉の問題をおろそかにしておくと、思わぬ「つまづき」に出会うと、鈴木教授は注意しています。その例としてあげられているのが、ゲーテの詩の訳です。本から引用します。
ドイツの大詩人ゲーテは、かつては日本の知識人にとって、忘れることのできない名作の数々を残した文学者であり、その作品はほとんど日本語に翻訳されている。彼の詩作の中に日本では『西東詩集』の名で知られる、イスラム神秘主義の思想に間接的な影響を受けて書かれたものがある。 |
鈴木教授の引用している訳は岩波文庫のものですが、『日本語と外国語』の注釈にもあるように、他の訳では正確に「蛾」と訳されているようです。
確かに鈴木教授の言う通りで、蝶ではイメージが湧かない。と言うか、なんだか変だという違和感が残ります。絵画に置き換えて考えてみると、より鮮明です。炎に蛾が誘われる情景を描いた絵に、速水御舟の『炎舞』という有名な作品があります(1925/大正14年。山種美術館所蔵。重要文化財)。速水御舟はこの絵で蛾を精緻にデッサンして描いているのですが、ここに蛾ではなくアゲハチョウやモンシロチョウが舞っていたとしたら、完全なシュルレアリズムの作品になってしまいます。絵として成立しないとは言いませんが、全く別の解釈が必要な絵になるでしょう。岩波文庫のゲーテの訳は、それと同じことが文学で起こっているわけです。
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速水御舟『炎舞』・全体図と部分 (山種美術館。重要文化財) [site : 山種美術館(全体図)]
[site : NHK-極上美の饗宴(部分図)] |
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『蝶の生活』の驚き
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シュナック『蝶の生活』 (岩波文庫 1993) | |||
解説でも言っているように、この本は題名とは違って「蝶と蛾の」博物誌です。本の内容をみると、
◆第1部
蝶の博物誌 123ページ
◆第2部
物語3編(蝶2編、蛾1編)
◆第3部
蛾の博物誌 148ページ
となっていて、蝶と蛾は「対等かつ公平に」扱われています。訳者の岡田朝雄氏は次のように書いています。
- ドイツ語には蝶と蛾を別々に区別する言葉はない。Schmetterling という語も Falter という語も、蝶と蛾を区別しない「鱗翅類」を意味する。本書では、これらの語を場合に応じて「蝶」「蛾」「蝶と蛾」などと訳した。
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これは蝶が好きな日本人にとっては、ちょっと驚きの文章ではないでしょうか。
まず軽い違和感は、冒頭から「鱗翅類」という学術的雰囲気の語が出てくることです(正式の分類学用語は、鱗翅目)。この理由は明白で、Schmetterling の訳だからです。Schmetterling の訳には、
① 鱗翅類(これが一番正確)
② 蝶と蛾。ないしは、蝶蛾
③ 蝶(不正確だが、あえてこう訳してしまう)
の3つが考えられます。『蝶の生活』を訳した岡田氏は、本の題名では③をとり、冒頭の文章では①としたわけです。本の題名を「鱗翅類の生活」や「蝶と蛾の(蝶蛾の)生活」とするのは、岩波文庫編集部も納得しないでしょう。そして本文の中では①③とともに②も使っている。もちろん個別の種についての記述では、種に応じて「蝶」ないしは「蛾」となっています。
それよりも驚きは引用中の太字の部分です。この冒頭部分に書かれている種は、すべて日本語で言う「蛾」の種類なのですね。「昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる」と書いたその直後で、著者が「愛情をこめて」あげている鱗翅類の具体的な5つの種名、つまり、スズメガ、ヤママユ、シャクガ、ヤガ、ヒトリガは、すべて蛾です。この5種の蛾の例を『蝶の生活』の本文の図版から引用します。
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アカオビスズメ |
クジャクヤママユ | |
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スグリシロエダシャクと幼虫 | ||
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ヘリグロキシタヤガと幼虫 |
ヒトリガと幼虫 | |
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『蝶の生活』の冒頭に名前があげられている5種の鱗翅類 (スズメ、ヤママユ、ヤガ、エダシャク、ヒトリガ) 全て蛾の仲間である(岩波文庫「蝶の生活」1993 より引用) | ||
もちろん『蝶の生活』の「ささげる言葉」には、引用した冒頭部分に続く文章で蝶の名前も多々出てきます。しかしそこにも蛾の名前が混じっています。ちょうど、フランスの「ラルース百科大事典」のパピヨンの図版そのままの「混在ぶり」なのです。
『蝶の生活』の序文である「ささげる言葉」に出てくる鱗翅類の名前を、出現順にリストすると以下の通りである。太字は蛾をあらわす。一見して分かるように蝶と蛾が混在している。 |
日本人で蝶が好きという人は多いと思います。美しさに魅せられて海外まで採集旅行に行く、といった話も聞きます。しかし蛾が好きという人は、蝶と比較すると少ないのではないでしょうか。「蝶愛好家」は多いが「蛾愛好家」はあまり聞いたことがない。もちろん学者には蛾の研究者がいると思いますが(農業にとっても重要な研究です)、アマチュアの「蛾研究家」は蝶に比べて非常に少ないはずです。また、日本においては「蝶の図鑑」や「蝶についての読み物」はたくさん出版されていますが、シュナックの本のように「蝶と蛾を対等に扱った書物」は、そんなにないと思います。
むしろ日本においては一般的に「蝶は好きだが、蛾は嫌い」という人がほとんどではないでしょうか。日本では蛾が不当に差別されている感じです。それに対して、ドイツ人のフリードリッヒ・シュナックは「蝶と蛾が好き」なのです。いや、これは間違いで、シュナックは「Schmetterling が好き」なのです。そして『蝶の生活』の冒頭の文章で分かるように、蛾にも並々ならぬ愛情を注いでいる。
そこで疑問です。「日本人が一般的に、蝶は好きだが蛾は嫌い」という理由はいったい何か、という疑問です。それはまさに「言葉」が原因ではないかと思っています。仮説ですが、以下のような事情だと推測できるのです。
| ◆ | 日本語は蝶と蛾を区別する言語体系になった(明治以降の英米文化の影響だと言われています)。そのため日本人は「主として昼間に活動する鱗翅類」と「主として夜間に活動する鱗翅類」を別のカテゴリーの昆虫として認識する、そういう「世界認識」ができている。 | |
| ◆ | 人間にとってまず親しみやすいのは、昼間に活動し、春から夏にかけて花から花へとめぐる蝶である。美しいものも多い。そこで「蝶への親しみの感情」ができあがった。 | |
| ◆ | 蝶への親しみの反動として、夜に活動する鱗翅類であり「蝶とは別種の昆虫である蛾」を嫌う感情が生まれた。何となく蛾は、「表の存在」である蝶に対する「裏の存在」ないしは「陰の存在」であり、「暗い感じで、ひっそりと生きていて、あやしい存在」でもあり、闇から急に現れて人を驚かすものというイメージができあがった。 | |
| ◆ | 一方ドイツ(やフランス)では鱗翅類全体を表す語しかなく、鱗翅類を一つのものとして「世界認識」する。従って「Schmetterling 愛好家」の人は、昼間の Schmettering も、夕暮れ時や夜の Schmetterling も好きになるのが自然である。一方だけを嫌う理由はない。「私が好きな Schmettering は、アゲハチョウとスズメガです」というのも極く自然である。小さい頃から蝶と蛾が混在する図鑑を見慣れてきたのなら、なおさらである。 |
以上は、たぶん当たっているのではないかと思います。シュナックの本の冒頭にあるシャクガ類の中には蝶類と姿・形があまり変わらないものもあるのですが(引用した図版のスグリシロエダシャクなど)、蛾の一種だと知ると嫌な感じがしたりする。
結局、以上のことを一般化した視点でまとめると、どういう言葉を使うかは「世界の認識」を変えるし、それは人の気分や嗜好、関心にも影響すると思うのです。
昆虫の連想で書きますと、蝉(セミ)の代表的な種にアブラゼミとクマゼミがあります。都会にもいて、真夏になると鳴き声をよく聴きます。この2種は、外観が違うと同時に鳴き声もかなり違います。しかしアブラゼミとクマゼミという言葉がなく、単にセミという言葉だけを持っている文化があったとしたら、アブラゼミとクマゼミの鳴き声の違いは、その文化圏では聞き分けられないと思います。セミが鳴いているとしか認識できないはずです。これはもちろん聴力の問題ではありません。人間は文化=言語でセミの鳴き声を聴いている(面がある)からです。
余談ですが、日本語は「セミの分類」にこだわっていますね。ツクツクボウシもあるし、ミンミンゼミもある。「ミンミン」という擬声語はミンミンゼミの鳴き声にしか使われません。昆虫の中の、セミという種類の、その中のたった一種の鳴き声にしか使わない擬声語があるというのが、日本語のこだわりだと思います。
「蝶と蛾」を例にとって、言葉が人間の世界認識に影響するという説明をしたのですが、これからさらに一歩進んで、言葉は人の認知能力にも影響し、さらには人の行動にまで影響するようなのです。
(次回に続く)
No.48 - 日の丸起立問題について [歴史・文化]
前回の、No.47「最後の授業・最初の授業」で、アメリカの公立学校で毎日、国旗に向かって唱えられている「忠誠の誓い」(The Pledge of Allegiance)について書きました。国によっていろいろと事情が違うのはあたりまえですが、感じるのはアメリカと日本の差異です。そこで日本の国旗に関する話を書いてみようと思います。No.37「富士山型の愛国心」で、以下のように日章旗(日の丸)に触れました。
今回はその補足です。国旗掲揚に対して起立しなかったため組織から処分を受け、それが裁判になっている件を取り上げます。
日の丸訴訟
2012年1月16日に最高裁判所で「日の丸訴訟」の一つに対する判決がありました。この訴訟は、東京都内の公立学校の教員など171人が、校長の業務命令に反して「日の丸に起立せず君が代を斉唱しなかった」として受けた処分の取り消しを求めた3件の訴訟です。最高裁の判決は、戒告(168人)は取り消さず、減給(1人)は処分取り消し、停職(2人)のうち一人は処分を取り消すが、一人は取り消さず、というものでした。停職を取り消さなかった一人は、過去に国旗掲揚を妨害し校長を批判する文書を生徒にくばったとあります。
最高裁の判断を要約すると、日の丸に対する不起立(=単なる不起立)で許される処分は戒告までであり、これは校長の裁量権の範囲内である。しかし減給や停職などの重い処分は慎重を期する必要がある、というものでしょう。2011年の5月に校長の職務命令は合憲、との最高裁判決があるので、これで一通りの最高裁判断がそろったことになります。「日の丸訴訟」には他にいろいろあって、特に「日の丸掲揚と君が代斉唱を義務化した東京都教育委員会の通達」が合憲かどうかが今でも争われていますが、校長の職務命令の合憲性と妥当な処分範囲を示した今回の判決が踏襲されるものと考えられます。
2011年1月29日付の朝日新聞によると、不起立などを理由に処分をうけた教員は、2000年度から2009年度の10年間で、全国で延べ1143人であり、このうち東京都が443人(39%)を占めるそうです。ある50代の都立高校教諭の話が載っていました。それによると、その教員は2005年以降、卒業式や入学式には出席していないと言います。2004年に不起立で戒告処分を受けてからは、毎回、来場者の受付や警備などの式場外の役割を担当している。「戒告処分を重ねないよう、校長が配慮しているのだろう」。だが校長からは「起立・斉唱ができないなら、式に出席する学級担任は任せられない」と言われたそうです。「思想信条にかかわることを強制するやり方はおかしい。教え子が卒業証書を受け取る姿が見られず、つらい」との教諭の弁です。
今回の最高裁判決の是非についての議論はここではしません。また都教育委員会の通達が妥当か、通達違反による処分が妥当かの議論もしません。ここで問題にしたいのは、学校におけるセレモニーにおいて、日章旗に対して起立しないという、教員としての行動の妥当性です。
また「不起立行動」とは、国旗に対して起立せず、国歌を斉唱しないという行動そのものを言います。「不起立行動」をとったため、組織から処分を受けて係争になっているのが「日の丸問題」というわけです。
なお、不起立行動をする教員の中には「日の丸=国旗」ということに異論を言う人もいると思いますが、実質的に日本の国旗として扱われてきたし、また1999年に法律でも定義されたので、国旗とも書きます。
以下は、この問題に関する何点かの感想です。
不起立行動は本当に思想・信条の問題なのか
まず考えないといけないのは、不起立行動は本当に思想・信条の問題なのかということです。たとえばスポーツの国際大会で国旗の掲揚と国歌の演奏があり、主催者から起立を求められることはよくあります。そいういう状況において、不起立行動をとる先生はどうするのでしょうか。対戦相手の外国の国旗に不起立というのは非常にまずいわけです。良識のある教師なら、そんな外国に失礼な行動はできないはずです。外国の国旗の時には起立して日の丸の時には着席するか、そうするのが嫌でスポーツの国際大会には行かないか、そのどちらかでしょう。
仮に、スポーツの国際大会では日章旗に起立するようであれば(起立してもよいと考えるようであれば)、その教員は「学校という場において、思想・信条以外の理由で不起立行動をとっている」ことになります。
報道を読んで何となく感じるのは、日の丸問題がもっと大きなコトの一部、ないしは別のコトの象徴として争われているのでは、という疑いです。たとえば教育委員会の(不起立行動をする教師からすると)「押しつけ」がいろいろあり「それに対する反発」というような、もっと一般的で大きな問題です。
私は教師ではないので教育現場の実態は分かりません。大きな問題の一部(ないしは別の問題の象徴)かもしれないし、そうでないかも知れない。ここでは「日の丸問題」を純粋に思想・信条の問題として考えることにします。従って、不起立行動をする教員は首尾一貫している、つまりスポーツの国際大会でも不起立だとして話を進めます。また国旗に起立する必要のある学校外のセレモニー、たとえば全国戦没者追悼式には、たとえ戦没者の遺族として招待されても出席しないとして話を進めます。
不起立行動の理由の例としては、
「少数・教師・公務員」の問題
まず認識しておきたいことは、不起立行動をする教員はごく少数ということです。2011年1月29日の朝日新聞記事のグラフによると「日の丸・君が代」関係で処分をうけた教員の数は、多い年で年間260人程度です。小・中・高校の教員の数は約85万人ぐらいなので、全体の数からみるとごく僅かです。仮に「不起立行動をとったが処分をうけなかった人」「処分をうけるのを避けるために式の当日休んだ人」「休みはしなかったが、会場の受付などをして式場には入らなかった人」が100倍いるとしても全体の 3% 程度(1年あたり)であり、非常に少ないわけです。ごく一部の教員の話だということに注意する必要があると思います。
さらにもう1点、考えるべきは、不起立行動はほとんど公立学校の教員で起こっていることです。国旗を掲揚し起立するセレモニーは全国の数々の組織体で行われているはずです。しかし、企業や官庁や私立の学校で日の丸問題が起こったという話はあまり聞きません。公務員、しかも教員の間で「思想・信条の問題だから、組織の長の指示には従わない」ということが(一部で)起こっている。この背景には「公務員の教師は特別の存在である」という教師側の意識があるように感じます。しかしこのような意識があったとしても、それはごく一部であり、大部分の公立学校の先生たちが不起立行動をしていないことは確かなのです。
しかし少数とは言うものの、以前に不起立行動をとる教員と教育委員会の間で板挟みとなった校長先生が自殺するという痛ましい事件が起きました(1999年2月、広島)。不起立行動の教員がごく一部だとしても、人を死に追いやったケースもあるので看過できない問題です。
日の丸のもとに死んでいった人、という論理の妥当性
まず「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、心情的に起立できない」という理由(の一つ)の妥当性です。
No.37「富士山型の愛国心」でも書いたように、過去に日の丸が「国民を戦争に駆り立てる道具」となった時代があったことは確かです。日章旗が「国のために立派に死ぬ」ことの象徴のような時期があった。
国家の責務は国民の生命と安全を守ることです。戦時にはもちろん戦争に勝つことが第1の優先事項になりますが、その次に重要な事項の一つは戦場における自国の兵隊の死者を減らすことです。それは戦力を維持する上で必須です。しかし日本ではそうでない時代があった。自国の兵士の生命はほとんど省みずに、国のためということが喧伝された。捕虜になったら死ねというような教育とか、自爆攻撃作戦があった。戦いの結果の戦死ならまだしも、太平洋戦争での戦死者の6割は餓死だといいますね(補給がなかったわけです)。戦闘員のみならず、米兵につかまることを恐れて非戦闘員が自決するということもサイパンや沖縄(の一部)であった。それらの「国のため」の象徴(の一つ)として日の丸があった。これは全くの事実だと思います。
しかし、このような「超国家主義」の時期は、満州事変(1931年)から太平洋戦争の敗戦(1945)の14年間とみなしてよいと思います。「日の丸」が制定されたのは1870年で、現在まで約140年たっています。この間の約1/10という比較的短い期間のことなのです。この比較敵短い期間のことにこだわって、それから65年以上も経過している現在も行動するのは建設的な態度ではありません。
そして「国民を戦争に駆り立てる道具」は国旗だけではなかった。その強力な道具となったのは新聞です。
80年ほど時代をさかのぼりますが、関東軍が満州事変を引き起こすと(1931)、大新聞は関東軍擁護・支那批判の論陣を張りました。満州での日本の行動を非難した国際連盟の調査団の結果が出ると、大新聞だけでなく全国の新聞社132社が共同宣言を出し、満州国設立の妥当性と国際連盟批判のアピールをします(1932)。日本が国際連盟を脱退して世界の「孤児」になったのは、その翌年(1933)です。
と書いていますが、新聞はそういうスローガンを大量に書いていた。また、いかにアメリカ兵が残虐かを書き立てた。そういたった「誘導」が、非戦闘員の自決という悲劇の誘因になっことは容易に想像がつきます。
現在の新聞は「総括」を行って、軍部や政府に強要されてそのような報道を行ったと主張しています。強要はあったとしても、それだけではありません。むしろ「軍部の先を行っていた」のが新聞であり「軍部を積極的に後押しした」のが新聞です。このあたりの事情については数々の本が出版されています(たとえば、石田収『新聞が日本をダメにした - 太平洋戦争煽動の構図 - 』現代書林 1995)。
かつて「国民を戦争に駆り立てる道具」だったものを今でも拒否するのなら、不起立行動をとる教師は、現代も続いている大新聞の購読を拒否しなければなりません。はたして、そうなのでしょうか。
大新聞は一応の「反省」の弁を言っています。反省しているから現代の新聞は読むのだ、という論理もあるでしょう。しかしあたりまえだけど「日の丸」は反省を言えない。国旗をどう使うかは国民の問題であって国旗の責任ではないのです。責任を問うのなら、国旗をそういう風にした人の責任を問題にすべきです。
明治から満州事変までの日章旗
さらに不起立行動の理由として、満州事変から第2次世界大戦という戦争期間だけでなく、もっと大きく明治・大正時代を含む「軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴としての日の丸」という見方もあると思います。確かにその通りですが、同時に明治以降の時代は、近代化を推進し、国民皆教育が徹底し、産業が振興し、現代日本語を含む数々の新しい文化が作り出された時期でもあった。日の丸はそれらの象徴でもあるはずです。ものごとの一面だけを見た思考は意味がないと思います。
そもそも、太平洋戦争の敗戦の時点(1945年8月)において、明治の最終年(明治45年。1912年)に生まれた人は33歳です。大正の最終年(大正15年。1926年)に生まれた人は19歳です。戦後の日本の(奇跡の)復興、民主主義国家としての発展、高度経済成長、教育システムが確立していった時期、つまり「日の丸不起立行動をとる教師の人たちが育ってきた時期」は、
・明治生まれの人が社会の中核となって指導し
・大正生まれの人が若手としてささえた
ことは誰の目にも明らかです。戦後の焼け野原から復興したのは昭和20年代以降なので誤解しそうですが、そこで「新しい日本」を作ったのは明治・大正生まれの人なのですね。あたりまえだけど・・・・・・。ちなみに、戦後の日本を代表する企業・ソニー(昭和21年・1946設立)の創業者である井深大氏は明治41年(1908)生まれであり、井深氏を支えた共同創業者の盛田昭夫氏は大正10年(1921)生まれです。明治・大正時代を一面だけからとらえることは、現代の日本社会の基盤を作った先人たちをないがしろにすることにつながるでしょう。
現代においても「軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴としての日の丸」を掲げる人たちがいることも確かですが、それは一部の人です。全体を見ない議論も意味がありません。
心情的にできないという理由は妥当か
「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、心情的に起立できない」という理由の「心情」はどうでしょうか。
少なくとも2000年代において不起立行動をとっている人は、戦争の実体験者ではありません。太平洋戦争の終了時には生まれていないか、ないしは幼少です。「戦争」「戦死」「国家主義の象徴としての日章旗」を実体験したのは、不起立行動をとっている教員の親、ないしはそれ以上の世代です。
タクシーとの交通事故で親や兄弟を亡くした人がいたとします。その人がタクシーを嫌って今でもタクシーに乗らないとしたら、その行動はよく理解できます。タクシー全般が悪いのではなく事故を起こした運転手が悪いのですが、強い悲しみを受けた人の「心情」としては理解できるわけです。しかし、その人の子供までもがタクシーに乗らないとしたら、それは変です。親の行動をみてそうしているとしたら、親離れしていないということになります。
日の丸問題で「心情」を理由に不起立行動をする人は、親の世代以上の人から聞いて、ないしは歴史書を読んで、そこから生まれた「心情」を言っています。それは本人の実経験から生まれた心情ではないのです。
人間の心情は尊重すべきですが、心情はそのうち世代交代ともに薄れて風化します。大切なのは、事実を次世代に伝え、悲惨な結果をもたらした原因と反省を記録として残すことでしょう。心情を問題にしている限りそれはいずれ消え去り、次の世代には何も残らなくなると思います。
「思想の自由」は「行動の自由」ではない
不起立行動は思想・信条の問題であって、それに介入するのはおかしい、思想・信条の自由の侵害だという論理があります。「信条」と「心情」がややこしいので「思想の問題」「思想の自由」とします。
確かに「思想の自由」は極めて大切な基本的人権の一つであり、「言論の自由」とともに現代の民主主義社会を成立させている根幹です。
歴史を振り返ってみると、ある一定の考えをいだくこと、ある主義を信じることが処罰の対象になった時代がありました。権力者に批判的な考えだというだけで逮捕される時代があったし、キリスト教を信奉することだけで投獄されることもあった。コミュニストというだけで警察につかまることもあった。日本でも、また世界でもです。
しかし世界の歴史をみると、近代国家の形成とともに「思想の自由」が確立していく。もちろん、揺り戻しや紆余曲折があり、今でもあるわけですが、とにかく「思うこと、考えを抱くこと、主義、は自由」という原則が次第に確立していく。これは人類の歴史において、この200年程度の間におこった画期的なことだと思います。これに「言論の自由」が加わって近代の民主主義社会が成立するわけですね。
生活に困窮しコンビニに強盗に入ってお金を強奪したいと思っても、思っただけでは逮捕されたり処罰されたりはしません。大量殺人を指示した宗教の教祖を今でも崇拝しています、と言ったとしても、その「崇拝している」ことだけで逮捕されたり処罰されたりはしない。
しかし、思想の自由は「内心の自由」であって、外部に現れる「行動の自由」を意味するものではないのですね。外部に現れる行動がルール・法律に反すると処罰されることがある。どの程度の行動が罪になるかは、ルール違反の重さや罪の重さによって決まります。コンビニに強盗に入るつもりでおもちゃの鉄砲を買っただけでは罪には問われないが、クーデターなどの国家転覆では謀議だけで罪になる。
日の丸起立問題に即して言うと、
の二つは違います。前者は「思想」「考え」であり、後者は「行動」です。不起立行動をとる教員は、この「思想」と「行動」が直結しています。これが非常に問題だと思うのです。
もちろん起立行動を組織の長が指示することは「思想に対する制限」ともとれないことはない。しかしたとえそうだとしても、それは「間接的な制限」です。前述の新聞記事で不起立行動をとる教師も「思想信条にかかわることを強制」と言っていますね。「思想信条を強制」とは言っていない。そして「思想の自由」を「思想にかかわることの自由」と拡大し、しかも「かかわることとは何かの解釈を本人にゆだねる」ということでは、この現代社会は成り立ちません。「本人が決める、思想にかかわることの自由」が無制限に保証される、というのはありえないのです。
思想と行動は一致させるべきか
一般の社会においては「思想・考え・思い」と「行動」は必ずしも一致しないし、残念だけど一致させられないというのが、普通の社会人の考え、ないしは行動様式です。つまり、
などが一般的でしょう。普通の社会人はそう考えて行動しています。
さらに、思想の自由を守るためには、思想と行動の一致を「あえて」やめないといけない(やめた方がよい)場合があります。特定の思想を攻撃したい人がいたとします。近代国家では、思想を理由に人を攻撃できません。そこで攻撃者は必ず「外形として現れる行動のルール違反」を突いてきます。そのルール違反を罰することが目的ではなく、思想を攻撃したいために・・・・・・。これはいわゆる「別件逮捕」と似ています。有印私文書不実記載と聞くとどんな大変な罪かと思いますが、単に偽名で口座を作っただけだったりする。本当のヤマ(巨額脱税など)は別にあるのですね。
「日の丸は、軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴である」と考えて(こう考えることは本人の自由です)公的セレモニーにおける不起立行動をとる人は、いかにも行動が稚拙だと感じられます。
「国旗への起立を特定の思想と結びつける」行動
「戦前に日本を戦争に誘導した人たち」と「不起立行動をする人たち」の間には、明確な共通点があります。
もちろん、特定の行動が特定の思想・信条・信教を受けいれる(受け入れている)ことの表明になることが、社会ではいっぱいあります。しかし近代国家において、1つの国が1つの国旗という状況下で、さらに多様な意見の表明をベースとする民主主義社会において、国旗に起立することを特定の思想と結びつけることはやってはならないし、それは排除すべき考えのはずです。
日の丸問題に即して言うと、日本人には少数派と多数派があって、次のような構図になっているのでしょう。
少数派は「国旗掲揚=国家主義想の表明」だと考える。これにはさらに2派あって
・国家主義を広めたい人
・国家主義に反対したい人
の2つです。広めたい人は、日の丸への起立は国家への忠誠を誓うことだと考え、起立するかをどうかを忠誠の「踏絵」としたい。一方、不起立行動をとる人は、そのことで国家主義に反対を表明したいわけです。今、国家主義と書きましたが、これは軍国主義でも(極端には)皇国思想でもよいわけです。
一方、多数派は「国旗掲揚=特定思想とは無縁」と考えています。多数派の意見は以下のようなものでしょう。
などです。
外国国籍の人を含め、日本在住の人は国家を構成してその恩恵(安全、教育、人権、福祉など)を受けています。学校には外国国籍の生徒や在日の生徒もいるし、最近では外国人の(臨時)教員もいる。日の丸への起立が特定の思想(例:日本への忠誠)の表明だとすると、外国国籍の人たちは起立できなくなります。それでは現代国家は成り立ちません。多数派の考えが妥当です。
しかしこのような多数派に抵抗して、不起立行動をとる教員は「国旗に対して起立することを、特定の政治思想と結びつけよう」と躍起になっています。これは、現代国家における国旗のあるべき姿を逸脱させようとするものです。と同時に「国旗への起立=国家主義の表明」としたい人にとっては歓迎でしょう。「国旗に起立することは、特定の思想の表明である」というムードが生まれるし、不起立行動を糾弾することは、憲法論まで持ち出すことを含めて、いくらでもできるからです。
要するに「不起立行動をする人たち」は、「戦前に日本を戦争に誘導した人たち」が作り上げたパラダイムのもとに行動しています。主義・主張は全く正反対ですが、おなじレールの上での主義・主張であることは間違いないのです。
不起立行動は「やってはいけない教育」
教師が学校という場で不起立行動をとるということは、生徒に対して、暗黙に「思想・信条を、組織の指示系統やルールを度外視して、外部に行動として表してよい」という教育をしていることになります。これは生徒にとっては大きなマイナスでしょう。学校生活において生徒が「思想・信条をたてに組織のルールや指示系統を無視した行動をとる」としたら、学級や学校は崩壊します。
内心はどういう考えをもっていようとも、外部に現れる行動を社会が要請する一定のパターンに当てはめるのが、教育の中心課題のはずです。いやなこと、やりたくないこと、自分の考えと違うことでも、行動としてはやらないといけない。これは生徒たちが大人になって社会に出ていくまでに学ばないといけない重要なことです。
もちろん、社会が要請する一定のパターン通りに行動するだけで、そこに留まっていたのでは発展はありません。人それぞれがパターンにない独自性(個性)を発揮し、それが自分自身の利益になり、かつ社会にも貢献をするのが望ましいわけです。しかしそのベースとして必須なのは、社会が要請する一定の行動パターンを身につけていることなのですね。
社会が要請する一定のパターン通りに行動することがほとんど出来ないけれど、個人の才能や独自性が際だっていて、そのことで社会から評価される人がいます。芸術家や作家にそういう人がいますね。企業人にも、中にはいる。2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズはそれに近いかもしれません。しかし、そのような人はごくごく稀なのです。こういう稀なケースは学校教育でどうするという範疇ではありません。
大多数の市民にとって、まず最低限「社会が要請する一定のパターン通りに行動できる」ことが、社会を構成していく上での必須事項です。その上に立って社会を変えていく(結果として、社会が個人に要請する事項を変える)ことが重要です。
教師としての責任
「かつて日の丸が象徴していた軍国主義、皇国思想、国家主義に反対したい。その復活を阻止したい」という考えをもった教師がいたとしましょう。思想・信条は個人の自由なので、そういう考えを持つことは別にかまわないわけです。
そうであれば、教師としては次のようなことを生徒に教えるべきで、それが教師という職業についた人の責任でしょう。
などです。どうしても起立に抵抗がある人は、教師としての務めとして、教育の場である学校行事では起立し、私的に参加する場でのセレモニー(スポーツの国際大会など)では不起立行動をすべきです。教師という職業を選んだ以上、そのぐらいの覚悟で職(=生徒に教えること)をまっとうしてほしいものです。
「日の丸」が制定されたのは1870年で、現在まで約140年がたっています。この間、不幸なことに日章旗が国民を戦争に動員する道具のように使われたことがあったわけですね。それはざっと言うと、昭和に入ってからの約20年間です。この期間のことを指摘して、現在も「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、国旗に起立はできない、それは思想と信条の問題」と言う人がいます。 |
今回はその補足です。国旗掲揚に対して起立しなかったため組織から処分を受け、それが裁判になっている件を取り上げます。
日の丸訴訟
2012年1月16日に最高裁判所で「日の丸訴訟」の一つに対する判決がありました。この訴訟は、東京都内の公立学校の教員など171人が、校長の業務命令に反して「日の丸に起立せず君が代を斉唱しなかった」として受けた処分の取り消しを求めた3件の訴訟です。最高裁の判決は、戒告(168人)は取り消さず、減給(1人)は処分取り消し、停職(2人)のうち一人は処分を取り消すが、一人は取り消さず、というものでした。停職を取り消さなかった一人は、過去に国旗掲揚を妨害し校長を批判する文書を生徒にくばったとあります。
最高裁の判断を要約すると、日の丸に対する不起立(=単なる不起立)で許される処分は戒告までであり、これは校長の裁量権の範囲内である。しかし減給や停職などの重い処分は慎重を期する必要がある、というものでしょう。2011年の5月に校長の職務命令は合憲、との最高裁判決があるので、これで一通りの最高裁判断がそろったことになります。「日の丸訴訟」には他にいろいろあって、特に「日の丸掲揚と君が代斉唱を義務化した東京都教育委員会の通達」が合憲かどうかが今でも争われていますが、校長の職務命令の合憲性と妥当な処分範囲を示した今回の判決が踏襲されるものと考えられます。
2011年1月29日付の朝日新聞によると、不起立などを理由に処分をうけた教員は、2000年度から2009年度の10年間で、全国で延べ1143人であり、このうち東京都が443人(39%)を占めるそうです。ある50代の都立高校教諭の話が載っていました。それによると、その教員は2005年以降、卒業式や入学式には出席していないと言います。2004年に不起立で戒告処分を受けてからは、毎回、来場者の受付や警備などの式場外の役割を担当している。「戒告処分を重ねないよう、校長が配慮しているのだろう」。だが校長からは「起立・斉唱ができないなら、式に出席する学級担任は任せられない」と言われたそうです。「思想信条にかかわることを強制するやり方はおかしい。教え子が卒業証書を受け取る姿が見られず、つらい」との教諭の弁です。
今回の最高裁判決の是非についての議論はここではしません。また都教育委員会の通達が妥当か、通達違反による処分が妥当かの議論もしません。ここで問題にしたいのは、学校におけるセレモニーにおいて、日章旗に対して起立しないという、教員としての行動の妥当性です。
- とは言うものの、教育委員会通達(ないしは大阪市のように条例)による強制と処分は、合憲だとしてもやはりまずいと思います。「強制に屈するのは教師としてのありかたに反する、だから起立しない」という、日の丸問題とは全く別の論理を生んで問題を複雑にします。組織での職務命令違反を繰り返したということで、(今回のように)組織内での処分や罰則にとどめるべき案件だと思いますが、それが出来ない理由もあるのでしょう。
また「不起立行動」とは、国旗に対して起立せず、国歌を斉唱しないという行動そのものを言います。「不起立行動」をとったため、組織から処分を受けて係争になっているのが「日の丸問題」というわけです。
なお、不起立行動をする教員の中には「日の丸=国旗」ということに異論を言う人もいると思いますが、実質的に日本の国旗として扱われてきたし、また1999年に法律でも定義されたので、国旗とも書きます。
以下は、この問題に関する何点かの感想です。
不起立行動は本当に思想・信条の問題なのか
まず考えないといけないのは、不起立行動は本当に思想・信条の問題なのかということです。たとえばスポーツの国際大会で国旗の掲揚と国歌の演奏があり、主催者から起立を求められることはよくあります。そいういう状況において、不起立行動をとる先生はどうするのでしょうか。対戦相手の外国の国旗に不起立というのは非常にまずいわけです。良識のある教師なら、そんな外国に失礼な行動はできないはずです。外国の国旗の時には起立して日の丸の時には着席するか、そうするのが嫌でスポーツの国際大会には行かないか、そのどちらかでしょう。
仮に、スポーツの国際大会では日章旗に起立するようであれば(起立してもよいと考えるようであれば)、その教員は「学校という場において、思想・信条以外の理由で不起立行動をとっている」ことになります。
報道を読んで何となく感じるのは、日の丸問題がもっと大きなコトの一部、ないしは別のコトの象徴として争われているのでは、という疑いです。たとえば教育委員会の(不起立行動をする教師からすると)「押しつけ」がいろいろあり「それに対する反発」というような、もっと一般的で大きな問題です。
私は教師ではないので教育現場の実態は分かりません。大きな問題の一部(ないしは別の問題の象徴)かもしれないし、そうでないかも知れない。ここでは「日の丸問題」を純粋に思想・信条の問題として考えることにします。従って、不起立行動をする教員は首尾一貫している、つまりスポーツの国際大会でも不起立だとして話を進めます。また国旗に起立する必要のある学校外のセレモニー、たとえば全国戦没者追悼式には、たとえ戦没者の遺族として招待されても出席しないとして話を進めます。
不起立行動の理由の例としては、
- 太平洋戦争(および、その以前からの日中戦争)で、日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、軍国主義の象徴であった日の丸に心情として起立できない
- 日の丸は、明治から昭和初期の時代までの、軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴として使われた。現代もそういう動きがある。そういった主義・思想に反対する立場からすると、起立することはできない
「少数・教師・公務員」の問題
| |||
| 2011年1月29日 朝日新聞 | |||
さらにもう1点、考えるべきは、不起立行動はほとんど公立学校の教員で起こっていることです。国旗を掲揚し起立するセレモニーは全国の数々の組織体で行われているはずです。しかし、企業や官庁や私立の学校で日の丸問題が起こったという話はあまり聞きません。公務員、しかも教員の間で「思想・信条の問題だから、組織の長の指示には従わない」ということが(一部で)起こっている。この背景には「公務員の教師は特別の存在である」という教師側の意識があるように感じます。しかしこのような意識があったとしても、それはごく一部であり、大部分の公立学校の先生たちが不起立行動をしていないことは確かなのです。
しかし少数とは言うものの、以前に不起立行動をとる教員と教育委員会の間で板挟みとなった校長先生が自殺するという痛ましい事件が起きました(1999年2月、広島)。不起立行動の教員がごく一部だとしても、人を死に追いやったケースもあるので看過できない問題です。
日の丸のもとに死んでいった人、という論理の妥当性
まず「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、心情的に起立できない」という理由(の一つ)の妥当性です。
No.37「富士山型の愛国心」でも書いたように、過去に日の丸が「国民を戦争に駆り立てる道具」となった時代があったことは確かです。日章旗が「国のために立派に死ぬ」ことの象徴のような時期があった。
国家の責務は国民の生命と安全を守ることです。戦時にはもちろん戦争に勝つことが第1の優先事項になりますが、その次に重要な事項の一つは戦場における自国の兵隊の死者を減らすことです。それは戦力を維持する上で必須です。しかし日本ではそうでない時代があった。自国の兵士の生命はほとんど省みずに、国のためということが喧伝された。捕虜になったら死ねというような教育とか、自爆攻撃作戦があった。戦いの結果の戦死ならまだしも、太平洋戦争での戦死者の6割は餓死だといいますね(補給がなかったわけです)。戦闘員のみならず、米兵につかまることを恐れて非戦闘員が自決するということもサイパンや沖縄(の一部)であった。それらの「国のため」の象徴(の一つ)として日の丸があった。これは全くの事実だと思います。
しかし、このような「超国家主義」の時期は、満州事変(1931年)から太平洋戦争の敗戦(1945)の14年間とみなしてよいと思います。「日の丸」が制定されたのは1870年で、現在まで約140年たっています。この間の約1/10という比較的短い期間のことなのです。この比較敵短い期間のことにこだわって、それから65年以上も経過している現在も行動するのは建設的な態度ではありません。
そして「国民を戦争に駆り立てる道具」は国旗だけではなかった。その強力な道具となったのは新聞です。
80年ほど時代をさかのぼりますが、関東軍が満州事変を引き起こすと(1931)、大新聞は関東軍擁護・支那批判の論陣を張りました。満州での日本の行動を非難した国際連盟の調査団の結果が出ると、大新聞だけでなく全国の新聞社132社が共同宣言を出し、満州国設立の妥当性と国際連盟批判のアピールをします(1932)。日本が国際連盟を脱退して世界の「孤児」になったのは、その翌年(1933)です。
- 補足しますと、満州事変以前の新聞は、ずいぶん軍部批判をしていたようです。ところが満州事変以降は軍部の行動支持に回った。一見、180度違うと思えますが、この「批判」と「支持」には明確な共通点があるように見えます。それは「国民にウケがいいことを書く」という共通点です。軍部が横暴だと密かに感じている国民に対しては批判がウケる。一方、中国にどんどん進出せよというのもウケがいい。「真実を書く」のが新聞だと思いますが、それと同時に「国民にウケがいいことを書く」というのも新聞であり、それは今も続いていると思います。「消費者に望まれる商品を届ける、というのがビジネスの鉄則」だからでしょう。
「鬼畜米英われらの敵だ」、「撃ちてしやまん」、「一億玉砕」のスローガンのもとに育てられた "少国民" たち |
と書いていますが、新聞はそういうスローガンを大量に書いていた。また、いかにアメリカ兵が残虐かを書き立てた。そういたった「誘導」が、非戦闘員の自決という悲劇の誘因になっことは容易に想像がつきます。
現在の新聞は「総括」を行って、軍部や政府に強要されてそのような報道を行ったと主張しています。強要はあったとしても、それだけではありません。むしろ「軍部の先を行っていた」のが新聞であり「軍部を積極的に後押しした」のが新聞です。このあたりの事情については数々の本が出版されています(たとえば、石田収『新聞が日本をダメにした - 太平洋戦争煽動の構図 - 』現代書林 1995)。
かつて「国民を戦争に駆り立てる道具」だったものを今でも拒否するのなら、不起立行動をとる教師は、現代も続いている大新聞の購読を拒否しなければなりません。はたして、そうなのでしょうか。
大新聞は一応の「反省」の弁を言っています。反省しているから現代の新聞は読むのだ、という論理もあるでしょう。しかしあたりまえだけど「日の丸」は反省を言えない。国旗をどう使うかは国民の問題であって国旗の責任ではないのです。責任を問うのなら、国旗をそういう風にした人の責任を問題にすべきです。
明治から満州事変までの日章旗
さらに不起立行動の理由として、満州事変から第2次世界大戦という戦争期間だけでなく、もっと大きく明治・大正時代を含む「軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴としての日の丸」という見方もあると思います。確かにその通りですが、同時に明治以降の時代は、近代化を推進し、国民皆教育が徹底し、産業が振興し、現代日本語を含む数々の新しい文化が作り出された時期でもあった。日の丸はそれらの象徴でもあるはずです。ものごとの一面だけを見た思考は意味がないと思います。
そもそも、太平洋戦争の敗戦の時点(1945年8月)において、明治の最終年(明治45年。1912年)に生まれた人は33歳です。大正の最終年(大正15年。1926年)に生まれた人は19歳です。戦後の日本の(奇跡の)復興、民主主義国家としての発展、高度経済成長、教育システムが確立していった時期、つまり「日の丸不起立行動をとる教師の人たちが育ってきた時期」は、
・明治生まれの人が社会の中核となって指導し
・大正生まれの人が若手としてささえた
ことは誰の目にも明らかです。戦後の焼け野原から復興したのは昭和20年代以降なので誤解しそうですが、そこで「新しい日本」を作ったのは明治・大正生まれの人なのですね。あたりまえだけど・・・・・・。ちなみに、戦後の日本を代表する企業・ソニー(昭和21年・1946設立)の創業者である井深大氏は明治41年(1908)生まれであり、井深氏を支えた共同創業者の盛田昭夫氏は大正10年(1921)生まれです。明治・大正時代を一面だけからとらえることは、現代の日本社会の基盤を作った先人たちをないがしろにすることにつながるでしょう。
現代においても「軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴としての日の丸」を掲げる人たちがいることも確かですが、それは一部の人です。全体を見ない議論も意味がありません。
心情的にできないという理由は妥当か
「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、心情的に起立できない」という理由の「心情」はどうでしょうか。
少なくとも2000年代において不起立行動をとっている人は、戦争の実体験者ではありません。太平洋戦争の終了時には生まれていないか、ないしは幼少です。「戦争」「戦死」「国家主義の象徴としての日章旗」を実体験したのは、不起立行動をとっている教員の親、ないしはそれ以上の世代です。
タクシーとの交通事故で親や兄弟を亡くした人がいたとします。その人がタクシーを嫌って今でもタクシーに乗らないとしたら、その行動はよく理解できます。タクシー全般が悪いのではなく事故を起こした運転手が悪いのですが、強い悲しみを受けた人の「心情」としては理解できるわけです。しかし、その人の子供までもがタクシーに乗らないとしたら、それは変です。親の行動をみてそうしているとしたら、親離れしていないということになります。
日の丸問題で「心情」を理由に不起立行動をする人は、親の世代以上の人から聞いて、ないしは歴史書を読んで、そこから生まれた「心情」を言っています。それは本人の実経験から生まれた心情ではないのです。
人間の心情は尊重すべきですが、心情はそのうち世代交代ともに薄れて風化します。大切なのは、事実を次世代に伝え、悲惨な結果をもたらした原因と反省を記録として残すことでしょう。心情を問題にしている限りそれはいずれ消え去り、次の世代には何も残らなくなると思います。
「思想の自由」は「行動の自由」ではない
不起立行動は思想・信条の問題であって、それに介入するのはおかしい、思想・信条の自由の侵害だという論理があります。「信条」と「心情」がややこしいので「思想の問題」「思想の自由」とします。
確かに「思想の自由」は極めて大切な基本的人権の一つであり、「言論の自由」とともに現代の民主主義社会を成立させている根幹です。
歴史を振り返ってみると、ある一定の考えをいだくこと、ある主義を信じることが処罰の対象になった時代がありました。権力者に批判的な考えだというだけで逮捕される時代があったし、キリスト教を信奉することだけで投獄されることもあった。コミュニストというだけで警察につかまることもあった。日本でも、また世界でもです。
しかし世界の歴史をみると、近代国家の形成とともに「思想の自由」が確立していく。もちろん、揺り戻しや紆余曲折があり、今でもあるわけですが、とにかく「思うこと、考えを抱くこと、主義、は自由」という原則が次第に確立していく。これは人類の歴史において、この200年程度の間におこった画期的なことだと思います。これに「言論の自由」が加わって近代の民主主義社会が成立するわけですね。
生活に困窮しコンビニに強盗に入ってお金を強奪したいと思っても、思っただけでは逮捕されたり処罰されたりはしません。大量殺人を指示した宗教の教祖を今でも崇拝しています、と言ったとしても、その「崇拝している」ことだけで逮捕されたり処罰されたりはしない。
しかし、思想の自由は「内心の自由」であって、外部に現れる「行動の自由」を意味するものではないのですね。外部に現れる行動がルール・法律に反すると処罰されることがある。どの程度の行動が罪になるかは、ルール違反の重さや罪の重さによって決まります。コンビニに強盗に入るつもりでおもちゃの鉄砲を買っただけでは罪には問われないが、クーデターなどの国家転覆では謀議だけで罪になる。
日の丸起立問題に即して言うと、
| ◆ | 日の丸は、軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴であると考える | |
| ◆ | 卒業式・入学式において、組織の長の職務命令に反して不起立行動をとる |
の二つは違います。前者は「思想」「考え」であり、後者は「行動」です。不起立行動をとる教員は、この「思想」と「行動」が直結しています。これが非常に問題だと思うのです。
もちろん起立行動を組織の長が指示することは「思想に対する制限」ともとれないことはない。しかしたとえそうだとしても、それは「間接的な制限」です。前述の新聞記事で不起立行動をとる教師も「思想信条にかかわることを強制」と言っていますね。「思想信条を強制」とは言っていない。そして「思想の自由」を「思想にかかわることの自由」と拡大し、しかも「かかわることとは何かの解釈を本人にゆだねる」ということでは、この現代社会は成り立ちません。「本人が決める、思想にかかわることの自由」が無制限に保証される、というのはありえないのです。
思想と行動は一致させるべきか
一般の社会においては「思想・考え・思い」と「行動」は必ずしも一致しないし、残念だけど一致させられないというのが、普通の社会人の考え、ないしは行動様式です。つまり、
| ◆ | 思想と行動は一致させたい。ただし社会で生きている以上、それが難しいことが多い。 | |
| ◆ | 思想を広めるために、ルールに抵触しない範囲でどういうアクションをとるべきか、考えて行動する。 | |
| ◆ | 思想をダイレクトに行動で表現できるよう、ルールをどう変えていくか、その方法と作戦をよく考える。 | |
| ◆ | 自分の考えとは違う行動を(やむをえず)しながら、もともとの考え・志・思想をどうやって失わずに保つか、その強い意志を持ち続ける。 |
などが一般的でしょう。普通の社会人はそう考えて行動しています。
さらに、思想の自由を守るためには、思想と行動の一致を「あえて」やめないといけない(やめた方がよい)場合があります。特定の思想を攻撃したい人がいたとします。近代国家では、思想を理由に人を攻撃できません。そこで攻撃者は必ず「外形として現れる行動のルール違反」を突いてきます。そのルール違反を罰することが目的ではなく、思想を攻撃したいために・・・・・・。これはいわゆる「別件逮捕」と似ています。有印私文書不実記載と聞くとどんな大変な罪かと思いますが、単に偽名で口座を作っただけだったりする。本当のヤマ(巨額脱税など)は別にあるのですね。
「日の丸は、軍国主義、皇国思想、国家主義の象徴である」と考えて(こう考えることは本人の自由です)公的セレモニーにおける不起立行動をとる人は、いかにも行動が稚拙だと感じられます。
「国旗への起立を特定の思想と結びつける」行動
「戦前に日本を戦争に誘導した人たち」と「不起立行動をする人たち」の間には、明確な共通点があります。
- 国旗に起立することが、特定の思想を受け入れることだと考えている
もちろん、特定の行動が特定の思想・信条・信教を受けいれる(受け入れている)ことの表明になることが、社会ではいっぱいあります。しかし近代国家において、1つの国が1つの国旗という状況下で、さらに多様な意見の表明をベースとする民主主義社会において、国旗に起立することを特定の思想と結びつけることはやってはならないし、それは排除すべき考えのはずです。
日の丸問題に即して言うと、日本人には少数派と多数派があって、次のような構図になっているのでしょう。
少数派は「国旗掲揚=国家主義想の表明」だと考える。これにはさらに2派あって
・国家主義を広めたい人
・国家主義に反対したい人
の2つです。広めたい人は、日の丸への起立は国家への忠誠を誓うことだと考え、起立するかをどうかを忠誠の「踏絵」としたい。一方、不起立行動をとる人は、そのことで国家主義に反対を表明したいわけです。今、国家主義と書きましたが、これは軍国主義でも(極端には)皇国思想でもよいわけです。
一方、多数派は「国旗掲揚=特定思想とは無縁」と考えています。多数派の意見は以下のようなものでしょう。
| ◆ | 国旗への起立は式典、セレモニーの一部であって、形式的なものである。 | |
| ◆ | 国旗は日本という国の象徴である。それ以上のものではない。 | |
| ◆ | 日本人というアイデンティティで生きていく以上、国旗に起立するのは自然である |
などです。
外国国籍の人を含め、日本在住の人は国家を構成してその恩恵(安全、教育、人権、福祉など)を受けています。学校には外国国籍の生徒や在日の生徒もいるし、最近では外国人の(臨時)教員もいる。日の丸への起立が特定の思想(例:日本への忠誠)の表明だとすると、外国国籍の人たちは起立できなくなります。それでは現代国家は成り立ちません。多数派の考えが妥当です。
しかしこのような多数派に抵抗して、不起立行動をとる教員は「国旗に対して起立することを、特定の政治思想と結びつけよう」と躍起になっています。これは、現代国家における国旗のあるべき姿を逸脱させようとするものです。と同時に「国旗への起立=国家主義の表明」としたい人にとっては歓迎でしょう。「国旗に起立することは、特定の思想の表明である」というムードが生まれるし、不起立行動を糾弾することは、憲法論まで持ち出すことを含めて、いくらでもできるからです。
要するに「不起立行動をする人たち」は、「戦前に日本を戦争に誘導した人たち」が作り上げたパラダイムのもとに行動しています。主義・主張は全く正反対ですが、おなじレールの上での主義・主張であることは間違いないのです。
不起立行動は「やってはいけない教育」
教師が学校という場で不起立行動をとるということは、生徒に対して、暗黙に「思想・信条を、組織の指示系統やルールを度外視して、外部に行動として表してよい」という教育をしていることになります。これは生徒にとっては大きなマイナスでしょう。学校生活において生徒が「思想・信条をたてに組織のルールや指示系統を無視した行動をとる」としたら、学級や学校は崩壊します。
内心はどういう考えをもっていようとも、外部に現れる行動を社会が要請する一定のパターンに当てはめるのが、教育の中心課題のはずです。いやなこと、やりたくないこと、自分の考えと違うことでも、行動としてはやらないといけない。これは生徒たちが大人になって社会に出ていくまでに学ばないといけない重要なことです。
もちろん、社会が要請する一定のパターン通りに行動するだけで、そこに留まっていたのでは発展はありません。人それぞれがパターンにない独自性(個性)を発揮し、それが自分自身の利益になり、かつ社会にも貢献をするのが望ましいわけです。しかしそのベースとして必須なのは、社会が要請する一定の行動パターンを身につけていることなのですね。
社会が要請する一定のパターン通りに行動することがほとんど出来ないけれど、個人の才能や独自性が際だっていて、そのことで社会から評価される人がいます。芸術家や作家にそういう人がいますね。企業人にも、中にはいる。2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズはそれに近いかもしれません。しかし、そのような人はごくごく稀なのです。こういう稀なケースは学校教育でどうするという範疇ではありません。
大多数の市民にとって、まず最低限「社会が要請する一定のパターン通りに行動できる」ことが、社会を構成していく上での必須事項です。その上に立って社会を変えていく(結果として、社会が個人に要請する事項を変える)ことが重要です。
教師としての責任
「かつて日の丸が象徴していた軍国主義、皇国思想、国家主義に反対したい。その復活を阻止したい」という考えをもった教師がいたとしましょう。思想・信条は個人の自由なので、そういう考えを持つことは別にかまわないわけです。
そうであれば、教師としては次のようなことを生徒に教えるべきで、それが教師という職業についた人の責任でしょう。
| ◆ | 日の丸は、江戸時代から使われはじめ、明治の初期に国旗相当として制定されたこと。実質的に国旗として使われてきたこと。 | |
| ◆ | 日の丸が、国民を戦争に駆り立てる道具のように扱われたことがあったこと。日の丸のもとに、多くの人々が命を落とした一時期があったこと。 | |
| ◆ | 日本人が再び「日の丸を汚す」ようなことがあってはならないこと。日の丸を「不戦の誓い」の旗とすべきであること。日の丸に対して起立するときには、そのことを考えて起立すべきであること。自分(教師)もそうすること。 | |
| ◆ | 国旗は国の象徴であり、それを特定の政治思想を喧伝する道具としてはならないこと。 |
などです。どうしても起立に抵抗がある人は、教師としての務めとして、教育の場である学校行事では起立し、私的に参加する場でのセレモニー(スポーツの国際大会など)では不起立行動をすべきです。教師という職業を選んだ以上、そのぐらいの覚悟で職(=生徒に教えること)をまっとうしてほしいものです。
No.47 - 最後の授業・最初の授業 [本]
パリ・コミューンと普仏戦争
No.13「バベットの晩餐会(2)」で、この映画の間接的な背景となっているのが、1871年のパリ・コミューンであることを書きました。このパリ・コミューンは普仏戦争におけるフランスの敗戦で引き起こされたものです。この普仏戦争に関連して思い出した小説があるので、今回はその話です。
普仏戦争の結果、アルザス・ロレーヌ地区はドイツ(プロイセン)領になります。このドイツとの講和に反対してパリ市民が蜂起したのがパリ・コミューンでした。これは当然、(ドイツの支援を受けた)フランス政府軍によって弾圧されたわけです(No.13参照)。支配層が、つい昨日まで敵だった国と裏で手を握り、かつての敵国にいつまでも反対し続ける国民(の一部)を弾圧するというパターンは歴史の常道です。
この普仏戦争の結果、アルザスがドイツ領になったという事実を背景にして書かれた小説があります。アルフォンス・ドーデ(1840-1897)の『最後の授業』(短編集『月曜物語』に収録。1873)です。要約すると以下のような短編です。
『最後の授業 - アルザスの一少年の物語』
ある晴れて暖かな朝、アルザスの少年、フランツは学校に急いでいます。今日はアメル先生がフランス語の分詞法の質問をするので、ずる休みをしようとも思ったのですが、気をとり直したのです。学校へは遅刻してしまいした。
叱られると思ったフランツですが、アメル先生は意外にもやさしいのです。そして普段は着ないような正装をしています。驚いたことに、教室の中には村の人たちもいます。そしてアメル先生が口を開きました。
「みなさん、私が授業をするのはこれが最後です。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンからきました・・・・・。新しい先生が明日見えます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください。」 |
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アルフォンス・ドーデ 『月曜物語』 (岩波文庫 1936) | |||
習字の時間になり、アメル先生はお手本を示します。そこには「フランス、アルザス、フランス、アルザス」と書かれていました。習字のあとは歴史の勉強です。
時計が12時を打ったとき、アメル先生は青ざめた顔をして教壇にのぼります。
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篠沢・フランス文学講義
『最後の授業』は、文庫本でわずか7ページという短いものです。この短編には「フランス語」ないしはそれにまつわるキーワードがたくさん出てきます。そして、明日からフランス語の授業がなくなりドイツ語の授業になるという状況下で、言葉を守ることの重要性と、フランス語を忘れるなということが強調されます。
それもあって読者は「まるで、子供たちが、自分の話したことがない言葉を明日から教えられるような感じ」を無意識に抱いてしまいます。しかしそれは全くの誤解なのです。それが誤解だと指摘したのは、フランス文学者の篠沢秀夫・学習院大学名誉教授です。「篠沢フランス文学講義2」(大修館書店 1980)にそのことが出てきます。少々長いですが引用します。
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『最後の授業』の真実
講義をそのまま本にしたようなので、読みにくいところもありますが、この篠沢教授の講義がほとんどすべてを言い尽くしています。すこし補足も加えて要約しますと、
| ◆ | アルザスの子供がたちが話していた言葉はドイツ語(のアルザス方言。アルザス語)であり、普仏戦争の結果、アルザスがドイツ(プロイセン)領になったため、学校でのフランス語の授業がなくなった。 | |
| ◆ | アルザス・ロレーヌを取り返せ、という好戦的気分が、普仏戦争後のフランスで盛り上がった。 |
の2点です。
『最後の授業』を読んで「まるで子供たちが、自分の話したことがない言葉を明日から教えられるような感じ」を受けてしまうのは、全くの誤解なのです。むしろ、そういう誤解を生むことは「折り込み済み」で、この小説が書かれたという感じがする。
篠沢教授は、大日本帝国が朝鮮と台湾の学校で日本語を強制したことを書いていますね。『最後の授業』のシチュエーションは、ちょうど第2次世界大戦直後の朝鮮半島・台湾の学校にピッタリと当てはまります。つまり、次のような「想像」が可能なのです。
- 日本はポツダム宣言を受諾し、第2次世界大戦は終了しました。その数日後、朝鮮(あるいは台湾)の小学校で生徒に日本語を教えていた先生が、授業を終わったあと、生徒に言います。「日本語を教えるのは、今日が最後です。先生は日本に帰ることになりました。しかし皆さん、日本語を決して忘れないでください。日本語は世界で一番美しい言葉です。」そして黒板に大きく書きました。「大日本帝国万歳」・・・・・・。
もちろん、母語以外の言葉で話すことを強制したは、19世紀以降をとってみても日本だけではありません。自国の言葉と歴史の教育を禁止されたポーランドの例が有名ですね。「キュリー夫人伝」の最初には、ロシアの視学官に隠れてポーランド語で勉強するマリー(マニア・スクロドフスカ)たちの緊迫した場面が出てきます。その時の様子を伝記作家の文章から引用すると次のとおりです。
学校では、一番年の行かない生徒であり、それでいて、成績はいつでも一番よりさがらない。おそろしいロシアの督学官が来る時、質問をかけられるのは彼女である。鐘が鳴って督学官の入来が知らされると、すべてのポーランド語の本が、先生と生徒たちとの間の暗黙の了解によって、即座に姿を消す。ロシア語だけが許される唯一の言葉であり、マニア・スクロドフスカは非常に正確にロシア語を話す。エカデリナ二世以後皇統をついだすべてのロシア皇帝の名とロシア帝室の全構成員の肩書きを間違えずに暗誦する。しかし、そのあとでは、もはや神経の緊張の限度に達する。督学官が行ってしまうと、マニアはわっと泣き出す。 |
また、No.5「交響詩・モルダウ」で書いたように、かつてのオーストリア・ハンガリー帝国下のチェコではドイツ語が教えられていました。チェコの作曲家スメタナは、子供時代はチェコ語が話せなかったのです。以上のような、朝鮮、台湾、ポーランド、チェコなどの学校での状況がなくなる時が「最後の授業」です。つまり「最後の授業」は19世紀以降、世界各地で行われた可能性があるのです。
牢獄の鍵
篠沢教授は「ドーデはあれは、南フランスの人間で、アルザスのことはよく知らない」と言っています。アルザスの子供たちが普段はドイツ語を話していることをドーデは知らなかった、というような書き方ですが、これはちょっと違うと思います。
よく読むと『最後の授業』には次のような箇所があります。フランス語の分詞法の規則を暗唱できないフランツに対するアメル先生の言葉です(太字は原文にはありません)。
「フランツ、私は君をしかりません。充分罰せられたはずです・・・・・・そんなふうにね。私たちは毎日考えます。なーに、暇は充分ある、明日勉強しようって。そしてそのあげくどうなったかお分かりでしょう・・・・・・ ああ!いつも勉強を明日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。今あのドイツ人たちにこう言われても仕方ありません。どうしたんだ、君たちはフランス人だと言いはっていた。それなのに自分の言葉を話すことも書くこともできないのか!・・・・・・ この点で、フランツ、君がいちばん悪いというわけではない。私たちはみんな大いに非難されなければならないのです。」 |
アメル先生は、従って作者のドーテは、子供たちがまともにフランス語を話せないことをちゃんと認識しています。それでは、まともに話せる言葉は何かというと、それはドイツ語です。ドイツ語しかない。ドーテは「知らなかった」のではないのです。さらに、言語学者の田中克彦・一橋大学名誉教授によると、ドーデはもっと明確に「アルザス人」のポジションを認識していたようです。以下は、田中克彦著『ことばと国家』からの引用です。
この短篇の副題である「アルザスの一少年の物語」という訳も、ひどく混乱に導くものである。これは、原文どおりに「小さなアルザス人」(un petit Alsacien) あるいは「アルザス人の少年」とすべきである。ドーデはこの少年に、単にアルザスという土地に暮らす少年ではなく、アルザス人という、その特有のたちばをはっきりと明示しているのである。「アルザスの」という地方的な限定だけではあらわせない内容が、この大文字のアルザス人の中には含まれている。 |
そもそもアルザスは、かつては神聖ローマ帝国の一部でした。住民の言葉はドイツ語です。それが30年戦争の終結を決めたヴェストファーレン条約(1648)でフランス領になった。そして学校でフランス語を教えるようになる。それが『最後の授業』の前史です。普仏戦争後、アルザスはドイツ領に戻ります。この時期にアルザスで生まれた有名な人物が、アルベルト・シュヴァイツァー博士ですね。彼はアルザス人です。第一次世界大戦後にアルザスは再びフランス領になる。そして第二次世界大戦でドイツに占領されたあと、戦後にまたフランスになるわけです。現在アルザスはフランスの一部ですが、いまだに住民の多くはドイツ語(の方言のアルザス語)とフランス語のバイリンガルだといいますね。
『最後の授業』の中に次のような箇所があります。
(アメル先生は)、ある民族が奴隷になっても、その国語を保っているかぎりは、その牢獄の鍵を握っているようなものだから、私たちのあいだでフランス語をよく守って、決して忘れてはならないことを話した。 |
「言葉は牢獄の鍵」・・・・・・。言い得て妙、とはこのことです。『最後の授業』に出てくるアルザスの住民たちは、フランス政府のフランス語強制にも関わらずドイツ語を守り通し、アメル先生の言う「牢獄から脱出する鍵」を持ち続けたわけです。アメル先生は、「ああ!いつも勉強を明日に延ばすのがアルザスの大きな不幸でした。」と、アルザス人がフランス語をうまく話せないのはアルザス人が怠惰だからのように言っていますが、そんなことはありません。うまく話せないのは、アルザス人にとってドイツ語こそが「母語」であり「牢獄の鍵」だからです。
篠沢教授の講義にあるように、普仏戦争の敗北後「アルザス・ロレーヌを取り返せという好戦的気分」が出てきます。この小説は、その気分盛り上げるために書かれた「愛国宣伝小説」でしょう。それが「言葉を守ることの大切さ」というような文脈にすり替えられています。そして、ざっと読むとそのすり替えに気づかないようになっている。「言葉を守ることが大切」という言説が、誰が考えても全く正しいために・・・・・・。これは、ある意味では大変に「怖い小説」だと思います。
『最後の授業』は、
- 敗戦で支配者が変わった状況のもと、敗戦国側の教師が学校から去っていく物語
- 敗戦で支配者が変わった状況のもと、戦勝国側の教師が学校にやってくる物語
(以下には物語のストーリーが明かされています)
『23分間の奇跡』(原題:The Children's Story, 1980)
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ジェームズ・クラベル 『23分間の奇跡』 (集英社。1983) | |||
9時ちょうどに新しい先生がやってきました。若い女の先生です。「みなさん、おはよう。私が今日からみなさんの新しい先生です」と挨拶しました。子供たちは、言葉になまりが全くないことにびっくりします。海の向こうの別の国から来たはずなのに・・・・・・。
新しい先生は、今までの先生に校長室に行くように言います。今までの先生は泣きながら出ていきます。女の子が泣き顔で、その後を追いかけようとしました。新しい先生はやさしく女の子抱きしめ、床に座って、ゆっくりと歌を歌います。子供たちは思わずその歌声に聞き入ってしまいました。今までの先生は、歌を歌ってくれたことはなかったのです。
子供たちがびっくりしたことに、新しい先生は子供の名前を全部知っているようなのです。先生は、3日かけて座席の位置と名前を全部覚えたことを話します。そして誰が出席しているかが分かるから、出席はとらないと宣言します。朝一番に出席をとるの習慣だったので、これも驚きでした。
朝、最初にすることは何ですか、と、先生はジョニーに聞きます。ジョニーは「国旗に忠誠を誓います」と答えます。しかし先生は「忠誠を誓う、とはどういうこと」と子供たちに問いかけます。子供たちは「誓う」の意味までは何とか分かりますが「忠誠」の意味を答えられる人は誰もいません。先生は、意味の知らないことを言うのはよくないこと、前の先生が意味を教えなかったことはよくないとこと伝え、忠誠の意味を教えます。さらに国旗が人の命より大切というのはおかしいことを説明します。そんなに大切なものなら、私も国旗を少しわけてほしい、という先生は言いました。私も、私も、という声が子供たちからあがり、国旗は小さく切られ、皆に分配されてしまいました。
ジョニーは鬱積していた気持ちを先生にぶつけます。「ぼくのお父さんはどこへいった!」と。ジョニーはお母さんから「もう帰ってこない」と聞いていたのです。先生は、お父さんは間違った考えを持っていたので学校にいっていること、大人も学校にいく必要があること、間違った考えが直れば家に戻れることを言います。ジョニーは何となく納得できません。
先生は言葉巧みに生徒たちを誘導し「キャンディがほしいと神様にお祈りしましょう」と提案します。子供たちは目を閉じて祈りますが、もちろんキャンディは出てきません。そこで先生は「われらの偉大な指導者」に祈ってみましょう、と言います。そして子供たちが目を閉じて祈っている間に、先生は皆にキャンディを配りました。
この様子を密かにジョニーは見ていました。そして「キャンディを配ったのは先生だ!」と大きな声で言ったのです。ところが先生は全く動じず、あっさりとそのことを認めました。そして子供たちに言うのです。何かしてほしいことがあったとき、それを実現するのは神様でも偉大の指導者でもない、実現するのは「誰かほかの人」なんだと・・・・・・。先生は付け加えて「祈る」ことの無意味さを子供たちに言います。
この率直な先生の態度で、ジョニーは先生を好きになろうと決めます。他の子供はすでに、先生の言うことを素直に聞く気になっています。全ては、先生の計画どおりに進行したのでした。
時計を見ると、9時23分でした。
作家の動機
23分間で子供たちの考えが変わり(ないしは完全に順応し)、特に父親を連れ去られたジョニーの考えまで変わってしまう・・・・・・。これは一つの寓話です。
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『23分間の奇跡』 (集英社文庫) | |||
どの国の話でもないのですが、実は、作者のクラベルは「作者の後記」の中で、この小説を書いた動機を語っています。
ジェームズ・クラベルはイギリス人です。少年時代は、海軍将校だった父と一緒に、各国のイギリスの軍港を転々としました。そして18歳のときにジャワ島で日本軍の捕虜になり、シンガポールの収容所で第2次世界大戦の終了を迎えます。
戦後に彼はアメリカに渡り、ハリウッドの脚本家、映画監督として活躍しました。スティーヴ・マックィーン主演の映画「大脱走」はクラベルの脚本です。この間、彼はアメリカ国籍をとり、アメリカに帰化しています。そのあとに彼は小説家に転じ、1962年に処女長編を出版し、戦国時代の日本を舞台にした「将軍」(1975)などのベストセラーを出しました。
クラベルが『23分間の奇跡』を書いた動機は、アメリカに渡ってからの彼の経験です。6歳の娘がアメリカの小学校に初めて登校し、帰宅した時のことです。彼女は「お父さん、私、国旗に忠誠を誓うのよ」といって、左の胸に手をあてて、なにやらもぐもぐとしゃべり、手を差しだして「10セントをちょうだい」と言ったのです。学校で「忠誠の誓い」をしっかり暗記するように先生に言われ、ちゃんと出来たらきっとお父さんやお母さんが10セントをくれますよ、と先生が言ったとのことなのです。
クラベルは娘に10セントを払いました。
そして娘に聞いたのです。「忠誠を誓う(pledge allegiance)」ってどういう意味?、と・・・・・・。娘は困った顔になり、その意味を答えられませんでした。先生も、どういう意味かは教えてくれなかったとのことです。
クラベルはアメリカ人のあらゆる知り合いに「忠誠の誓い」のことを聞いてみました。もちろん全員が知っていました。しかし誰一人として、その意味を学校で教えてくれたという人はいなかったのです。
忠誠の誓い:The Pledge of Allegiance
「忠誠の誓い」はアメリカの公立の小中学校や幼稚園で毎朝、星条旗に向かって「唱えられている」文言です。アメリカ人なら誰でも知っているわけです。
The Pledge of Allegiance |
確かにクラベルの娘のように、また小説の中の生徒のように、ちょっと難しい。特に allegiance という単語です。英語を学んでいる日本の高校生は分かるでしょうか。indivisible もアメリカの小学生には難しいのではと思います。
「忠誠の誓い」の under God という文言を問題にする人もいます(今も問題になっている)。大文字で書かれたGodとは、誰が考えてもキリスト教とユダヤ教の共通の「神」のことであり、信教の自由に反するからです。事実、合衆国憲法違反だという裁判所の判断が出たこともあります(撤回されたようですが)。
娘がアメリカの小学校に初めて行ったとき、クラベルはまだイギリス人でした。アメリカ国籍をとる前です。そして海軍将校の息子という経歴から分かるように、クラベルが「典型的なイギリス人としての教育」を受けてきたことは想像に難くありません。そのイギリス人・クラベルからすると、「忠誠の誓い」を意味も分からずに暗唱しようとする娘の姿に強い違和感を感じたのです。その時、「忠誠の誓い」をストーリーの核(の一つ)とする小説の構想が浮かびました。従って、アメリカ人がこの小説を読めば、自国を念頭に置いていることがすぐに分かるしかけになっています。
クラベルが『23分間の奇跡』を書いた「思い」をまとめると、次の2つのどちらかか、あるいは両方でしょう。
| ◆ | 子供の考えや心理は、大人が簡単に誘導できるものだ。そういう子供たちに、意味も分からずに「忠誠」を誓わせていいのか、という疑問。 | |
| ◆ | 意味も分からずに「忠誠」を誓う、というような行為を続けていると、ある日、何らかの事情で全く正反対の考えを吹き込まれても、たやすく誘導されてしまうぞ、という警告。 |
『23分間の奇跡』は小説として考えると、成功作とは言いがたいのですが、寓話の形をとった問題提起という意味はあると思います。
日本における「最初の授業」
ジェームズ・クラベルが書いた「最初の授業の物語」も、ドーデの「最後の授業」と同じように、日本に当てはめて考えることができます。『23分間の奇跡』を訳した青島幸男(1932-2006)は「訳者あとがき」で次のように書いています。
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青島幸男氏は太平洋戦争の終了時、13歳の「少国民」でした。教育の大転換を目の当たりにした氏の「思い」が、この小説を訳させたのでしょう。
『最後の授業』と『23分間の奇跡』の舞台となっているのは、それまでの価値観を否定するような教育が始まる状況、180度違う価値観の教育に転換する状況です。そのようなことを(結果として)招く世界を作ってはならない。これが、この2つの小説から読者が感じる強いメッセージです。それは、特定の政治的主張に基づく価値観を植え付けてはいけない、ということと表裏一体です。子供たちは、まだ「価値観」を選択できないのだから・・・・・・。
No.46 - ピカソは天才か [アート]
前回の No.45「ベラスケスの十字の謎」の最後で「ラス・メニーナス」に登場するニコラス・ペルトゥサト少年を下敷きにしてピカソが描いた『ピアノ』という作品を紹介しました。ピカソの作品は以前にも No.34「大坂夏の陣図屏風」で『ゲルニカ』に触れています。今回はピカソをとりあげ、『ピアノ』と『ゲルニカ』の感想までを書いてみたいと思います。
開高健のエッセイ
ピカソについて思い出す文章があります。作家・開高健が書いた「ピカソはほんまに天才か」というエッセイです。雑誌『藝術新潮』に掲載されたものですが、大事なところだけを抜き出してみます。この文章を「とっかかり」にしたいというのが主旨です(原文に段落はありません)。
文中の「モダン・アート・ミュージアム」というのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA - The Museum of Modern Art, New York)のことです。要約すると開高健の言いたいことは次のようになるでしょう。
絵の鑑賞は個人的なものです。開高健も同じエッセイの中で「絵は究極的には、好きか嫌いかである」と言っています。上に引用したのは、あくまで開高健という人の個人的な好みの表明です。しかし「全ては個人の好き嫌い」と言ってしまうと、絵を評する文章は成り立たなくなります。そこで「天才」というキーワードを足がかりに話を進めたいと思います。「ピカソはほんまに天才か」という文章のタイトルからして「ピカソは天才とは思えない」というのが開高健の言いたいこと(の一つ)であるようです。これは正しいのかというのがテーマです。
以降に取り上げるのは、ピカソの3つ時代の作品です。つまり、
の3つです。ピカソは膨大な数の作品をさまざまな画風で描いたので、もちろん3種に分類できるということではありません。キュビズムを開始した以降も「具象的な作品」を多く描いていて、たとえばブリジストン美術館の『腕を組んで座るサルタンバンク』(1923)のような作品もあるし、新古典主義と呼ばれる作品群、また版画や彫刻まで、多様な傾向とジャンルの作品があるのはよく知られている通りです。
少年時代:バルセロナのピカソ美術館
「ピカソは天才とは思えない」との意見なのですが、この開高健の見方に反して、ピカソはやはり天才だと思います。それは少年時代のピカソの絵を見れば(おそらく誰しも)納得できます。
そもそも「天才」とは「天性の才能。生れつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人。」(広辞苑)です。芸術の世界で言うと、技術の習得や鍛錬、努力と経験の積み重ねだけではとうてい到達できないと感じる作品に出会ったとき、そしてそれを作った作家の天賦の才能を強く感じるときに、そのアーティストを「天才」と呼ぶわけです。
端的な例は、少年や少女がすばらしい作品を創造する場合です。努力して「高み」に到達する時間も経験も蓄積もないはずなのに、大人のプロフェッショナルを凌駕する作品を作る子供がいる。
音楽の世界での典型がモーツァルトです。モーツァルトの最初の交響曲は8歳で作曲されています。映画「アマデウス」の冒頭に使われた交響曲 第25番 ト短調 は、モーツァルトの管弦楽曲の中でも屈指の名曲ですが、17歳の作品です。ディヴェルティメント ニ長調 K136 は良く知られた曲ですが、これはもう「完璧な音楽」としか言いようがない。この曲はモーツァルトが16歳の時のなのですね。
画家における「モーツァルト的な」ポジションが、少年ピカソと言えるでしょう。少年時代にピカソはスペインの3つの都市に住んでいます。
ラ・コルーニア時代とバルセロナ時代のピカソのデッサンや絵画は、バルセロナのピカソ美術館にあります。作家の堀田善衛はスペインに長く住んだ人ですが、彼がピカソ美術館を訪問して書いた文章があります。ラ・コルーニア時代のピカソの作品を評したものです。
ゴヤには気の毒ですが、堀田善衛は大作「ゴヤ」を書くほどゴヤに精通しているので、引き合いに出されるのはやむをえないでしょう。ゴヤが下手というわけではありません。以下にラ・コルーニア時代、バルセロナ時代の作品を3つ掲げておきます。『子供たちの巣』と『ベレー帽の男』はラ・コルーニア時代、『画家の母の肖像』はバルセロナ時代の作品です。
日本の画家、外国の画家を含めて子供時代に上手な絵を描く人は多々あるのですが、ピカソはずば抜けていると思います。絵として完成しているのです。
それは描くという技術面だけではありません。バルセロナのピカソ美術館で最も有名で良く知られている絵は「科学と慈愛」(1897年。15-6歳)です。死にゆく女性を医者(科学)と子供を抱いた修道女(慈愛)が見守っている姿を描いているのですが、「死」というテーマに真正面から取り組んだ作品も少年の絵としては異例でしょう。このテーマは父親に与えられたものと言われていますが、一枚の絵として描き切る画力はずば抜けていると思います。
青の時代、およびその前後(1900-1905)
1900年、ピカソはパリに出ます。そして1901年頃から1904年頃まで「青の時代」と呼ばれる作品群を描きました。プルシアン・ブルー独特の深い青(No.18「ブルーの世界」参照)を多用したこれらの作品を好きな人は多いはずです。「ピカソは天才か?」と言っている開高健も「青の時代」の絵を讃美する文章を書いています。以前、NHKの日曜美術館で作家の五木寛之さんが「青の時代」の絵に対する「思い入れ」を熱く語っていたのを思い出します。
青の時代の絵を絶賛する人は多いので、その前後の時期のピカソの絵を2つ掲げておきます。一つはピカソがパリにやってきたころに描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』(1900)という作品です。
中野京子さんは、ルノアールの有名な絵『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』と対比しつつ、同じ場所を描いたピカソの絵を次のように評しています。「本作」とはルノアールの絵のことです。
もう一枚は、青の時代のあとの「バラ色の時代」と呼ばれる時期の作品、『カナルス夫人の肖像』です。
この絵に描かれている女性は、当時パリに在住してたカタルーニャ出身の版画家、リカルド・カナルスと生活を共にしていたイタリア人のモデルで、名前はベルナディット・ビアンコといい、当時35歳です(バルセロナ・ピカソ美術館のカタログによる)。
イタリア的というか、ローマ的というか、ラテン系ヨーロッパ人の女性の典型的な美しさを凝縮したような感じの人です。古代ギリシャ・ローマ時代の女神の彫像のような雰囲気もある。青の時代とはうってかわった明るく落ち着いた色、薄いバラ色が、服、肌、髪飾りに使われています。それとは対照的に、真っ黒なショールが極めて粗いタッチで一気に描かれていて、女性を際だたせている。それ以前にまず、デッサンが完璧です。
キュビズム以降
「ピカソはほんまに天才か」で開高健は、
ここでいう「ピカソ」とは、キュビズム以降のピカソ作品のことを言っているはずです。「ピカソ作品 = キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した作品」という暗黙の前提がある。この、キュビズム以降の具象とは大きく乖離した作品群をどうとらえるか、ここが意見の分かれるところでしょう。
個人的な意見を言うと、キュビズム以降のピカソの絵の中には素晴らしいと思うものがあります。しかしそれは少数で、多くの絵は訴えてくるものがない。たとえば前回のNo.45「ベラスケスの十字の謎」の最後に掲げた『ピアノ』という作品です。
この作品をみると「人がピアノを弾いている姿」ということはわかるのですが、それ以上のことは不明でしょう。「ラス・メニーナス」を下敷きにしていると知って、右下で犬に足をかけている少年を描いたとわかります。また解説を読んで、少年の両手がピアノを弾いているように画家には感じられたのだとも分かる。しかし、だからといって何なのか、とも思います。ベラスケスへのオマージュとなりうる絵だとも思えない。オマージュというなら『カナルス夫人の肖像』の方がはるかに近い。ショールの描き方など、ベラスケスを彷彿とさせます。この『ピアノ』という絵から何かを「感じる」ことができる人はいるのでしょうか。
『ピアノ』はピカソの作品の中では「マイナーな」絵で、ピカソにとっては「余技」のようなものかもしれない。では有名な『アビニョンの女たち』はどうか。
アビニョンの女たち(1907)
ニューヨークのMoMAにあるこの作品は、世間ではキュビズムを切り開いたということで特に有名なのですが、だからといって良い作品とは思えません。たとえば、女性を描くのに意図的に稚拙な線を使う意味が分からないのです。はじめに引用した開高健のエッセイに、
しかし、この絵はひょっとしたら傑作かもしれないとも思うこともあります。それは、この絵がフランスの都市・アビニョンの女ではなく、バルセロナの裏通りの女を描いたものだからです。堀田善衛の解説を引用します。
ダイレクトには書いていませんが、要するにこの絵はバルセロナの裏通りの売春婦たちを描いているのですね。ピカソばバルセロナに住んでいました。パリに出てからもバルセロナに何回も「帰郷」しています。この絵はピカソの経験がもとになっているのでしょう。そこで(一例として)つぎのような想像が可能になります。
しかし通常の絵画評論としては、堀田善衛の解説の最後にあるように「人間讃歌」なのですね。それはないだろうと思います。キュビズムを切り開いたという絵画史的価値はあるのでしょうが、これが「人間讃歌」としたら駄作だと思います。画家は伝えたいことがあるのだとは思いますが、それが伝わってこない。絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しないのです。
『アビニョンの女たち』以降、絵の技法はきわめて多様化します。シュルレアリズムもあり、抽象絵画もある。しかし手法は何でも良いのですが、作者の一方的な思いを画面に出しただけの作品、おしつけがましい作品、絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない作品を、少なくとも美術館に飾るのはやめてほしいと思います。
個人に絵を売ることを目的にして、画家が良いと思う方法で描き、良いと思った個人が購入して書斎を飾るのは何ら問題ありません。しかし美術館、とくに公的な美術館を飾る絵は、画家と鑑賞する多くの人の間で何らかのコミュニケーションが成立することが前提です。傑作かもしれないが、なぜ傑作か、その解説を聞かないとわからない作品は必要ありません。「傑作」を鑑賞するのではなく「傑作だという解説」を鑑賞する作品は不要です。美術大学の講義室ではないのだから・・・・・・。
ピカソの「キュビズム以降の絵」には、画家と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない絵が多い。しかし中にはそうでない絵があります。その代表が『泣く女』です。
泣く女(1937)
キュビズム以降のピカソの作品で文句なしに傑作だと思うのは、これも『アビニョンの女たち』と並んで有名な『泣く女』です。キュビズムの代表的な作品と言えるでしょう。
「ピカソは天才か」というタイトルではじめたので、ピカソは天才だと主張している2人目の文章を紹介しておきましょう。『泣く女』を直接評した文章ではありませんが『泣く女』を含むピカソのキュビズム作品を評した養老孟司氏の文章です。
養老孟司氏も、引用文の中に出てくる岩田誠氏も医者です。つまり医学・生理学の立場からの発言です。人間の脳の働きを熟知している立場からすると、ピカソは特別の能力をもった人 = 天才だった。これはその通りなのでしょう。大脳の視覚野を意識的にコントロールすることは普通の人にはできない、ピカソは天性の能力がある、つまり天才だというわけですね。
もちろん、だからといってピカソのキュビズム作品が良いというわけではありません。養老さんも文中で「病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがある」と言っています。ごく普通の画力の人が病気になって「ピカソ的な絵」を描くこともあるわけです。特別の能力を持った天才が描いたから傑作だ、とは言えないのです。
それどころか、養老さんの分析から推定できることは、「ピカソのキュビズム作品は、普通の人には理解しがたいものだ」ということです。なぜなら、
しかし、それにもかかわらず『泣く女』は名作だと思います。それは「空間イメージ構成力」どうのこうのではなく、描かれているテーマに絵画手法がピッタリとハマっているからです。ストライク・ゾーンのど真ん中に絵がいっている感じがする。
『泣く女』はピカソの愛人で同棲していた、画家で写真家のドラ・マール(当時30歳。ピカソは56歳)を描いた絵と言われていますね。どういうシチュエーションで彼女が泣いているのかは分かりませんが、例えばピカソの別の愛人の女性と喧嘩をした彼女が、激しく慟哭している様子を想像します。泣き叫び、男をなじり、詰め寄り、また一人で泣く。男はその激しさにたじろぎ、どうすることもできず、茫然としている・・・・・・。単なる想像であって、その通りかは全く分かりませんが・・・・・・。
しかしどういうシチュエーションであれ、激しく泣く、慟哭するというのは非日常的な行為であり、普段は隠れている人間の別の面を露出させる行為です。近親者や親しい人が「泣く」のを見て、普段は分からないその人の全く別の一面を知った・・・・・・というような話はいっぱありますね。その泣くという行為の本質を、この絵は極めてうまくキャンバスに定着している。人間の非日常性を、絵画手法がピッタリと表現している作品だと思います。
ゲルニカ(1937)
『泣く女』と同じ年の『ゲルニカ』も、絵のテーマと絵画手法がよくマッチした傑作です。この絵のテーマになったスペイン市民戦争の時のゲルニカ無差別爆撃は、No.34「大坂夏の陣図屏風」のところで書いた通りです。人も動物も、爆弾の雨が降り注ぐ中で逃げまどい、死んでいく。爆風の直撃をうけた人の体はちぎれてあちこちに飛び散り、子どもを殺された母親は泣き叫び、地獄絵図のような光景があたり一面に展開される・・・・・・。ピカソは想像で描いているし、我々も想像するしかないのですが、この絵からうける「イメージ」どおりのことが実際に起こったことは確実でしょう。

パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937)(マドリード・ソフィア王妃芸術センター)
『ゲルニカ』は絵そのものの価値以上に「反ファシズム」という政治的意味、思想的価値で解釈されてきた絵です。またこの絵が制作された経緯が流布することで、非常に有名になった。もしこの絵の制作経緯が一切明らかにされず、たとえば「戦争」というような題がついていたら、ここまで有名にはならなかったと思います。
しかし「反ファシズム」のという意図で絵を制作し、またその文脈で解釈するのは、別に悪いことではありません。要は、政治的意味や思想的価値を離れて、その絵が持っている表現力や強さ、伝達力がどうかです。丸木位里・俊 夫妻の「原爆の図」という絵がありますが、「原爆の図」のリアリズムとは全く対極の表現を使い、想像力だけで「爆撃の図」を描き切ったピカソの力量はやはり天才というべきでしょう。
『ゲルニカ』と『泣く女』に共通しているのは、人間社会における「悲惨」や「悲哀」を描いていることです。もちろん「悲惨」や「悲哀」だけが「キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した手法」の存在意義ではありません。ピカソの静物画にも、中には素晴らしい作品がある。しかしハマった、と感じる絵が少ないのも事実です。キュビズムというボールを投げるとき、そのストライク・ゾーンは大変に狭いと思います。そのゾーンにコントロールよく投げられるかが、良し悪しの分かれ目です。
マヤに授乳するマリー・テレーズ(1936)
『ゲルニカ』と『泣く女』はともに1937年に描かれた絵ですが、これとほぼ同時期、1936年に描かれた絵を最後に取り上げたいと思います。『マヤに授乳するマリー・テレーズ』という、ペンとインク、水彩で描かれた作品です。
この絵はピカソの作品の中でもごく「ささいな」ものでしょう。何らかの絵画史的な意味があるわけではないし、有名でもない。画家は日常の中で、紙の上にさっとペンを走らせ、水彩を塗り、おそらく数十分で描いてしまったのではないでしょうか。
しかし、この絵のマリー・テレーズの姿には独特の存在感があります。足を組んで椅子に堂々と腰掛け、我が子に授乳し、画家をキリッと見つめています。口をハンカチのようなもので覆っていますが、なぜなのかは分かりません。風邪でもひいて赤ちゃんにうつるのを避けようとしたのでしょうか。そのため彼女の表情は分からないのですが、画家を見つめるまなざしが、心のうちを語っていると思います。淡い水彩で塗られた画面は「おだやか」「安心」「やすらぎ」といった雰囲気を作っています。その中で毅然としている母親の強い存在感。画家はこの母としてのマリー・テレーズの姿に感動してペンを走らせたのだと思います。
マリー・テレーズはこのとき26歳、ピカソより約30歳も若い女性です。ピカソの女性遍歴や女性関係の「問題点」はさておき、純粋に1枚の絵として見たとき、鑑賞者に「伝わってくる」絵だと思います。
『マヤに授乳するマリー・テレーズ』と『泣く女』は、ともに画家と同棲した20代後半の女性を描いた絵です。この2枚の絵が示しているのは、人間の多様さ表現する「絵画表現の幅広さ」です。この振幅の広さが、ピカソの天才たるゆえんなのだと思います。
開高健のエッセイ
ピカソについて思い出す文章があります。作家・開高健が書いた「ピカソはほんまに天才か」というエッセイです。雑誌『藝術新潮』に掲載されたものですが、大事なところだけを抜き出してみます。この文章を「とっかかり」にしたいというのが主旨です(原文に段落はありません)。
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開高 健 「ピカソはほんまに天才か」 (中公文庫。1991) | |||
| ◆ | ピカソの「青の時代」の絵には秀作が多い。 | |
| ◆ | しかし後年の作品にはウンザリする。自分を「感染」させてはくれなかった。 | |
| ◆ | 青の時代の作品も「天才が描いた」という気はしない。 ピカソは天才だと皆が言うが、私にはそうは思えない。 |
絵の鑑賞は個人的なものです。開高健も同じエッセイの中で「絵は究極的には、好きか嫌いかである」と言っています。上に引用したのは、あくまで開高健という人の個人的な好みの表明です。しかし「全ては個人の好き嫌い」と言ってしまうと、絵を評する文章は成り立たなくなります。そこで「天才」というキーワードを足がかりに話を進めたいと思います。「ピカソはほんまに天才か」という文章のタイトルからして「ピカソは天才とは思えない」というのが開高健の言いたいこと(の一つ)であるようです。これは正しいのかというのがテーマです。
以降に取り上げるのは、ピカソの3つ時代の作品です。つまり、
| ① |
少年時代 スペインで過ごした19歳までに描いた作品 | |
| ② |
青の時代、およびその前後 パリに出てから「青の時代」を経て「バラ色の時代」までの期間の作品 | |
| ③ |
キュビズム以降 キュビズムを創造して以降の具象とは大きく乖離した作品。 |
の3つです。ピカソは膨大な数の作品をさまざまな画風で描いたので、もちろん3種に分類できるということではありません。キュビズムを開始した以降も「具象的な作品」を多く描いていて、たとえばブリジストン美術館の『腕を組んで座るサルタンバンク』(1923)のような作品もあるし、新古典主義と呼ばれる作品群、また版画や彫刻まで、多様な傾向とジャンルの作品があるのはよく知られている通りです。
少年時代:バルセロナのピカソ美術館
「ピカソは天才とは思えない」との意見なのですが、この開高健の見方に反して、ピカソはやはり天才だと思います。それは少年時代のピカソの絵を見れば(おそらく誰しも)納得できます。
そもそも「天才」とは「天性の才能。生れつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人。」(広辞苑)です。芸術の世界で言うと、技術の習得や鍛錬、努力と経験の積み重ねだけではとうてい到達できないと感じる作品に出会ったとき、そしてそれを作った作家の天賦の才能を強く感じるときに、そのアーティストを「天才」と呼ぶわけです。
端的な例は、少年や少女がすばらしい作品を創造する場合です。努力して「高み」に到達する時間も経験も蓄積もないはずなのに、大人のプロフェッショナルを凌駕する作品を作る子供がいる。
音楽の世界での典型がモーツァルトです。モーツァルトの最初の交響曲は8歳で作曲されています。映画「アマデウス」の冒頭に使われた交響曲 第25番 ト短調 は、モーツァルトの管弦楽曲の中でも屈指の名曲ですが、17歳の作品です。ディヴェルティメント ニ長調 K136 は良く知られた曲ですが、これはもう「完璧な音楽」としか言いようがない。この曲はモーツァルトが16歳の時のなのですね。
画家における「モーツァルト的な」ポジションが、少年ピカソと言えるでしょう。少年時代にピカソはスペインの3つの都市に住んでいます。
| ◆ | スペイン南部のマラガに生まれる(1981年10月25日) | |
| ◆ | スペインの北東、ラ・コルーニアに転居(1991年9月 : 9歳) | |
| ◆ | バルセロナに移る(1995年9月 : 13歳) |
ラ・コルーニア時代とバルセロナ時代のピカソのデッサンや絵画は、バルセロナのピカソ美術館にあります。作家の堀田善衛はスペインに長く住んだ人ですが、彼がピカソ美術館を訪問して書いた文章があります。ラ・コルーニア時代のピカソの作品を評したものです。
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ゴヤには気の毒ですが、堀田善衛は大作「ゴヤ」を書くほどゴヤに精通しているので、引き合いに出されるのはやむをえないでしょう。ゴヤが下手というわけではありません。以下にラ・コルーニア時代、バルセロナ時代の作品を3つ掲げておきます。『子供たちの巣』と『ベレー帽の男』はラ・コルーニア時代、『画家の母の肖像』はバルセロナ時代の作品です。
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パブロ・ピカソ「子供たちの巣」 木炭・絵コンテ(13歳) (バルセロナ・ピカソ美術館) | ||
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堀田善衛氏の評: またデッサンのうまさにかけては、これはもう言うがこともなく、「子供たちの巣」と題された彫刻のデッサンなどは、奇妙な老人の見守るなかでも十数人の天使を扱っており、十三か十四の子供にできることではない。(「若き日のピカソ」より) | ||
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パブロ・ピカソ「ベレー帽の男」 油絵(13歳) (バルセロナ・ピカソ美術館) |
パブロ・ピカソ「画家の母の肖像」 パステル(14-5歳) (バルセロナ・ピカソ美術館) | ||||
| ベレー帽はスペイン北東部のバスク地方の「民族衣装」である。そこからラ・コルーニアにやってきた男であろうか。絵による人間観察を試みたような作品である。 | < | 母親、マリア・ロペス・ピカソの肖像である。目を閉じて半分眠ったようにしている母の姿が的確に捉えられている。パステル画が、いっそう少年ピカソのデッサンの力量を際だたせている。 | |||
日本の画家、外国の画家を含めて子供時代に上手な絵を描く人は多々あるのですが、ピカソはずば抜けていると思います。絵として完成しているのです。
それは描くという技術面だけではありません。バルセロナのピカソ美術館で最も有名で良く知られている絵は「科学と慈愛」(1897年。15-6歳)です。死にゆく女性を医者(科学)と子供を抱いた修道女(慈愛)が見守っている姿を描いているのですが、「死」というテーマに真正面から取り組んだ作品も少年の絵としては異例でしょう。このテーマは父親に与えられたものと言われていますが、一枚の絵として描き切る画力はずば抜けていると思います。
青の時代、およびその前後(1900-1905)
1900年、ピカソはパリに出ます。そして1901年頃から1904年頃まで「青の時代」と呼ばれる作品群を描きました。プルシアン・ブルー独特の深い青(No.18「ブルーの世界」参照)を多用したこれらの作品を好きな人は多いはずです。「ピカソは天才か?」と言っている開高健も「青の時代」の絵を讃美する文章を書いています。以前、NHKの日曜美術館で作家の五木寛之さんが「青の時代」の絵に対する「思い入れ」を熱く語っていたのを思い出します。
青の時代の絵を絶賛する人は多いので、その前後の時期のピカソの絵を2つ掲げておきます。一つはピカソがパリにやってきたころに描いた『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』(1900)という作品です。
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パブロ・ピカソ (グッゲンハイム美術館。ニューヨーク) |
オーギュスト・ルノアール (オルセー美術館) | ||||
中野京子さんは、ルノアールの有名な絵『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』と対比しつつ、同じ場所を描いたピカソの絵を次のように評しています。「本作」とはルノアールの絵のことです。
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もう一枚は、青の時代のあとの「バラ色の時代」と呼ばれる時期の作品、『カナルス夫人の肖像』です。
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パブロ・ピカソ 「カナルス夫人の肖像」(1905) (バルセロナ・ピカソ美術館) | ||
この絵に描かれている女性は、当時パリに在住してたカタルーニャ出身の版画家、リカルド・カナルスと生活を共にしていたイタリア人のモデルで、名前はベルナディット・ビアンコといい、当時35歳です(バルセロナ・ピカソ美術館のカタログによる)。
イタリア的というか、ローマ的というか、ラテン系ヨーロッパ人の女性の典型的な美しさを凝縮したような感じの人です。古代ギリシャ・ローマ時代の女神の彫像のような雰囲気もある。青の時代とはうってかわった明るく落ち着いた色、薄いバラ色が、服、肌、髪飾りに使われています。それとは対照的に、真っ黒なショールが極めて粗いタッチで一気に描かれていて、女性を際だたせている。それ以前にまず、デッサンが完璧です。
- このショールの描き方などは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介したサージェントの絵と一脈通じるものがありますね。二人ともベラスケスから学んだということでしょう。
キュビズム以降
「ピカソはほんまに天才か」で開高健は、
- これまで何人かの日本人の画家や評論家に私的な会話の席で、「ほんとにピカソはいいと思うか、そう感じたことがあるか」とたずねたが、確信をこめた断言体で、イエスと答えかえした人は一人もいなかった。
ここでいう「ピカソ」とは、キュビズム以降のピカソ作品のことを言っているはずです。「ピカソ作品 = キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した作品」という暗黙の前提がある。この、キュビズム以降の具象とは大きく乖離した作品群をどうとらえるか、ここが意見の分かれるところでしょう。
個人的な意見を言うと、キュビズム以降のピカソの絵の中には素晴らしいと思うものがあります。しかしそれは少数で、多くの絵は訴えてくるものがない。たとえば前回のNo.45「ベラスケスの十字の謎」の最後に掲げた『ピアノ』という作品です。
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パブロ・ピカソ 『ピアノ』(1957) (バルセロナ・ピカソ美術館) | |||
『ピアノ』はピカソの作品の中では「マイナーな」絵で、ピカソにとっては「余技」のようなものかもしれない。では有名な『アビニョンの女たち』はどうか。
アビニョンの女たち(1907)
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パブロ・ピカソ 「アビニョンの女たち」(1907) (ニューヨーク近代美術館) | |||
- 後年の作品を特徴づける、画面のあちらこちらに露出している仰々しさ、未処理、不消化といったもの、おそらくはそれらの化合物としてたちあらわれるおしつけがまさには、ときどきうんざりさせられる。
しかし、この絵はひょっとしたら傑作かもしれないとも思うこともあります。それは、この絵がフランスの都市・アビニョンの女ではなく、バルセロナの裏通りの女を描いたものだからです。堀田善衛の解説を引用します。
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「ピカソ美術館めぐり」 (新潮社。1984) | |||
- 港町・バルセロナの「酒池肉林通り」を歩いている画家を、娼館の客引きの女性がドアの中に引き入れる。そしてカーテンをあけると、そこには娼婦たちがいる。
彼女たちは全裸に近い姿で、画家に向かって「自分を買ってくれ」と、満身の笑顔で媚びを売る。くる日もくる日も見知らぬ客や船員を客にとり、性を売り、それは女としての「商品価値」がなくなるまで続く。
このように生きていかねばならない、人間としての「悲哀」や「空虚さ」を思うと、画家は暗澹とした気持ちになり、目の前の女たちの形はくずれ、分解し、輪郭さえ定まらないように感じてくる・・・・・・。
しかし通常の絵画評論としては、堀田善衛の解説の最後にあるように「人間讃歌」なのですね。それはないだろうと思います。キュビズムを切り開いたという絵画史的価値はあるのでしょうが、これが「人間讃歌」としたら駄作だと思います。画家は伝えたいことがあるのだとは思いますが、それが伝わってこない。絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しないのです。
『アビニョンの女たち』以降、絵の技法はきわめて多様化します。シュルレアリズムもあり、抽象絵画もある。しかし手法は何でも良いのですが、作者の一方的な思いを画面に出しただけの作品、おしつけがましい作品、絵と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない作品を、少なくとも美術館に飾るのはやめてほしいと思います。
個人に絵を売ることを目的にして、画家が良いと思う方法で描き、良いと思った個人が購入して書斎を飾るのは何ら問題ありません。しかし美術館、とくに公的な美術館を飾る絵は、画家と鑑賞する多くの人の間で何らかのコミュニケーションが成立することが前提です。傑作かもしれないが、なぜ傑作か、その解説を聞かないとわからない作品は必要ありません。「傑作」を鑑賞するのではなく「傑作だという解説」を鑑賞する作品は不要です。美術大学の講義室ではないのだから・・・・・・。
ピカソの「キュビズム以降の絵」には、画家と鑑賞者の間でのコミュニケーションが成立しない絵が多い。しかし中にはそうでない絵があります。その代表が『泣く女』です。
泣く女(1937)
キュビズム以降のピカソの作品で文句なしに傑作だと思うのは、これも『アビニョンの女たち』と並んで有名な『泣く女』です。キュビズムの代表的な作品と言えるでしょう。
「ピカソは天才か」というタイトルではじめたので、ピカソは天才だと主張している2人目の文章を紹介しておきましょう。『泣く女』を直接評した文章ではありませんが『泣く女』を含むピカソのキュビズム作品を評した養老孟司氏の文章です。
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養老孟司 「バカの壁」 (新潮新書。2003) | |||
もちろん、だからといってピカソのキュビズム作品が良いというわけではありません。養老さんも文中で「病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがある」と言っています。ごく普通の画力の人が病気になって「ピカソ的な絵」を描くこともあるわけです。特別の能力を持った天才が描いたから傑作だ、とは言えないのです。
それどころか、養老さんの分析から推定できることは、「ピカソのキュビズム作品は、普通の人には理解しがたいものだ」ということです。なぜなら、
- 脳の「空間イメージ構成力」を意識的にコントロールし、それを一時的に消して絵を描ける、特別な能力をもった人間の描いた作品
- そういった特別な能力を持たない人間は、常に空間イメージ構成力が働いてしまうから、作品が不可解に思える
しかし、それにもかかわらず『泣く女』は名作だと思います。それは「空間イメージ構成力」どうのこうのではなく、描かれているテーマに絵画手法がピッタリとハマっているからです。ストライク・ゾーンのど真ん中に絵がいっている感じがする。
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パブロ・ピカソ 「泣く女」(1937) (ロンドン・テートギャラリー) | |||
しかしどういうシチュエーションであれ、激しく泣く、慟哭するというのは非日常的な行為であり、普段は隠れている人間の別の面を露出させる行為です。近親者や親しい人が「泣く」のを見て、普段は分からないその人の全く別の一面を知った・・・・・・というような話はいっぱありますね。その泣くという行為の本質を、この絵は極めてうまくキャンバスに定着している。人間の非日常性を、絵画手法がピッタリと表現している作品だと思います。
ゲルニカ(1937)
『泣く女』と同じ年の『ゲルニカ』も、絵のテーマと絵画手法がよくマッチした傑作です。この絵のテーマになったスペイン市民戦争の時のゲルニカ無差別爆撃は、No.34「大坂夏の陣図屏風」のところで書いた通りです。人も動物も、爆弾の雨が降り注ぐ中で逃げまどい、死んでいく。爆風の直撃をうけた人の体はちぎれてあちこちに飛び散り、子どもを殺された母親は泣き叫び、地獄絵図のような光景があたり一面に展開される・・・・・・。ピカソは想像で描いているし、我々も想像するしかないのですが、この絵からうける「イメージ」どおりのことが実際に起こったことは確実でしょう。

『ゲルニカ』は絵そのものの価値以上に「反ファシズム」という政治的意味、思想的価値で解釈されてきた絵です。またこの絵が制作された経緯が流布することで、非常に有名になった。もしこの絵の制作経緯が一切明らかにされず、たとえば「戦争」というような題がついていたら、ここまで有名にはならなかったと思います。
しかし「反ファシズム」のという意図で絵を制作し、またその文脈で解釈するのは、別に悪いことではありません。要は、政治的意味や思想的価値を離れて、その絵が持っている表現力や強さ、伝達力がどうかです。丸木位里・俊 夫妻の「原爆の図」という絵がありますが、「原爆の図」のリアリズムとは全く対極の表現を使い、想像力だけで「爆撃の図」を描き切ったピカソの力量はやはり天才というべきでしょう。
『ゲルニカ』と『泣く女』に共通しているのは、人間社会における「悲惨」や「悲哀」を描いていることです。もちろん「悲惨」や「悲哀」だけが「キュビズム以降の、具象とは大きく乖離した手法」の存在意義ではありません。ピカソの静物画にも、中には素晴らしい作品がある。しかしハマった、と感じる絵が少ないのも事実です。キュビズムというボールを投げるとき、そのストライク・ゾーンは大変に狭いと思います。そのゾーンにコントロールよく投げられるかが、良し悪しの分かれ目です。
マヤに授乳するマリー・テレーズ(1936)
『ゲルニカ』と『泣く女』はともに1937年に描かれた絵ですが、これとほぼ同時期、1936年に描かれた絵を最後に取り上げたいと思います。『マヤに授乳するマリー・テレーズ』という、ペンとインク、水彩で描かれた作品です。
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パブロ・ピカソ 「マヤに授乳するマリー・テレーズ」(1936) (個人蔵・ピカソ 子供の世界展(2000)より) | ||
この絵はピカソの作品の中でもごく「ささいな」ものでしょう。何らかの絵画史的な意味があるわけではないし、有名でもない。画家は日常の中で、紙の上にさっとペンを走らせ、水彩を塗り、おそらく数十分で描いてしまったのではないでしょうか。
しかし、この絵のマリー・テレーズの姿には独特の存在感があります。足を組んで椅子に堂々と腰掛け、我が子に授乳し、画家をキリッと見つめています。口をハンカチのようなもので覆っていますが、なぜなのかは分かりません。風邪でもひいて赤ちゃんにうつるのを避けようとしたのでしょうか。そのため彼女の表情は分からないのですが、画家を見つめるまなざしが、心のうちを語っていると思います。淡い水彩で塗られた画面は「おだやか」「安心」「やすらぎ」といった雰囲気を作っています。その中で毅然としている母親の強い存在感。画家はこの母としてのマリー・テレーズの姿に感動してペンを走らせたのだと思います。
マリー・テレーズはこのとき26歳、ピカソより約30歳も若い女性です。ピカソの女性遍歴や女性関係の「問題点」はさておき、純粋に1枚の絵として見たとき、鑑賞者に「伝わってくる」絵だと思います。
『マヤに授乳するマリー・テレーズ』と『泣く女』は、ともに画家と同棲した20代後半の女性を描いた絵です。この2枚の絵が示しているのは、人間の多様さ表現する「絵画表現の幅広さ」です。この振幅の広さが、ピカソの天才たるゆえんなのだと思います。
No.45 - ベラスケスの十字の謎 [本]
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エリアセル・カンシーノ 『ベラスケスの十字の謎』 | |||
No.19「ベラスケスの怖い絵」でベラスケス(1599-1660)の傑作『ラス・メニーナス』について書きました。また、No.36「ベラスケスへのオマージュ」でもこの絵について触れています。今回は「ラス・メニーナス」に関する児童小説で、スペインの作家、エリアセル・カンシーノの『ベラスケスの十字の謎』(宇野 和美 訳。徳間書店 2006)です。
『ラス・メニーナス』は謎の多い絵ですが、大きな謎の一つは絵の中の画家本人の胸に描かれた赤い十字で、これはサンチャゴ騎士団の紋章です。サンチャゴ騎士団に入ることは当時のスペインにおいて最大の栄誉であり、ベラスケスは60歳のときに(1659)騎士団への入団をやっと許されました。ところがその3年前に『ラス・メニーナス』は完成していて(1656)、王宮に飾られていたのです。つまり『ラス・メニーナス』の完成時には、ベラスケスはサンチャゴ騎士団員ではありません。従ってその時点で赤い十字は絵になく、後で誰かが十字を描き加えたと考えられているのです。これが『ベラスケスの十字の謎』のテーマとなっています。
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| ベラスケス『ラス・メニーナス』(プラド美術館) |
小説の主人公は『ラス・メニーナス』に登場するニコラス・ペルトゥサトです。画面の右下で犬に足をかけている少年がそうです。ベラスケスにまつわる歴史的事実も踏まえながら、フィクションを自由に織り交ぜて構成されている『ベラスケスの十字の謎』のあらすじを、以降に紹介します。
(以下には物語のストーリーが明らかにされています)
イタリアからスペインへ
主人公のニコラス・ペルトゥサトは、1643年か1644年にイタリアのミラノの南西の町、アレッサンドリア・デッラ・パッラで生まれました。物語はニコラスが7歳(か8歳)の時に始まり、10年後のニコラスの回想という形で語られます。
ニコラスの母は、彼が生まれたときに死んでしまいました。そして彼は身長が伸びない「小人症」です。父親は、少しでも背が高く見えるようにと、特注の「上げ底」の木靴を作らせ、それを履くことを強制します。ニコラスが自分の年齢があやふやなのは、父親が彼の本当の年齢を他人に知られまいと、しょっちゅう生年をごまかしていたからです。父親はニコラスを憎んでいて、ニコラスもそのことが分かっています。乳母のマリーナだけが彼の味方ですが、その乳母とも別れる日がやってきました。
ある朝、金髪の紳士がペルトゥサト家を訪ねて来ます。デル・カスティーリョという、スペインからきた人です。紳士はニコラスに「これからはニコラシーリョと呼びましょう」と言います。ニコラシーリョとは、ニコラスのスペイン風の愛称です。父親と金髪の紳士あいだでは、既に「話」がついているようで、ニコラスは紳士につれられて家を出ることになります。
紳士が父さんと話しているあいだに、ぼくは木靴を脱ぎ捨てた。そして、紳士について、父さんの部屋を出た。さっきの予感どおり、廊下にはもう、マリーナの姿はなかった。呼んでも出てきてはくれない、という気がして、呼ぶのはあきらめた。ふり返ると、父さんはまたこちらに背を向けて、窓辺にたたずんでいた。その背中は、おまえがどうなろうと知ったことかと、言っているように見えた。 |
ニコラスはジェノバの港に着き、そこから船でバルセロナへ向かいます。船室では、ニコラスと似たような背丈だが、れっきとした大人と同室になりました。名前はディエゴ・デ・アセドと言います。たまたま、スペインからの旅行の帰りに乗り合わせたようです。ニコラスはアセドから話を聞いて、自分がスペインに行く本当の理由が分かりました。
こうしてぼくは、自分がこれからどうなるのか、ほんとうのことを知ったのだった。 |
アセドは、かつてニコラスと同様に親に捨てられて宮廷に連れていかれたのですが、現在は宮廷で重要な地位にあり、財産もあって、人々から敬われているようです。アセドはニコラスに、これから生きていくための数々のアドバイスをします。
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ベラスケス 『ディエゴ・デ・アセド』 (プラド美術館) | |||
| ◆ | 最初の何年かはつらいものだ。だが、欲しいものは自分で手に入れろ。他人をあてにするな。 |
| ◆ | ふざけたあだなをつけられないように。変な名で呼ばれても、絶対に返事をするな。 |
| ◆ | 知恵をたくわえ、ほかの者には見えないものを見、聞こえないものを聞き、いつでも自分自身を演じることだ。そうすれば、私のようになれる。 |
などです。そして「スペインに着いて困ったことがあったら、このディエゴ・デ・アセドをたずねてきなさい」と言います。
ニコラスはバルセロナから馬車でマドリードに向かいます。そして王宮に入り、フランシスカという王宮の料理人のおばさんにあずけられます。ニコラスはまず調理場で朝から晩まで過ごすことになりました。
マドリードの王宮
ある日、王宮の下っ端役人が、生まれたばかりの子犬を数匹つれて調理場にやってきました。余分な子犬なので、水を張った桶に沈めて殺してしまおうというわけです。そのうちの一匹が、桶の蓋を持ち上げて必死に外に出てきました。ニコラスは思わずその子犬を助け、役人に自分が責任をもって飼うからと必死に訴えて、もらい受けます。マスティフ犬(猟犬や番犬に使われる大型犬)という種類の犬で、ニコラスはその子犬にモーセという名前をつけました。
ニコラスは、王宮に仕える子どもたちの教育係であるアロンソ先生にあずけられて勉強を開始します。スペイン語の読み書きや算術、礼儀作法などです。ある日、アロンソ先生はイタリア語の本をもってきて、これを暗唱してみなさいと命じます。ニコラスは上手にやってのけました。アロンソ先生はこれ以降、古代ギリシャの詩などをニコラスに暗唱させるようになります。国王のもとからは定期的に使者が来て、子どもたちの勉強の進み具合を調べます。ニコラスは好成績であり、特に詩の暗唱は使者を感心させました。
- ニコラスが暗唱したイタリア語の本は、実はダンテの『神曲』(の一部)であり、『神曲』の暗唱がニコラスの特技になります。『ベラスケスの十字の謎』では、以降『神曲』からの引用が要所に出てきて、物語の進行に重要な役割を果たします。
ベラスケス
ニコラスは王家に仕える身となります。スペイン語もすらすらと話せるようになり、仕事にも慣れてきて、利発で聡明な子だと評判になります。
そうして何年かが過ぎ、友達もできました。その一人が、ニコラスと同じ小人症の女の子で、本名はバルバラ・アスキン、皆からは愛称でマリバルボラと呼ばれています。ニコラスが来る何年か前にドイツから連れてこられたようです。彼女は王妃が大変にかわいがっている侍女です。
このマリバルボラが、ニコラスをベラスケスに引き合わせることになるのです。ニコラスはある貴族とのトラブルを抱えていました。宮廷内でその貴族に「からまれた」ニコラスが燭台を投げつけ、貴族が怪我をしたという件です。この件の解決の力になってもらおうと、ニコラスはマリバルボラの紹介で王室配室長であるベラスケスを訪問します。王室配室長とは、美術品の収集や室内の装飾、儀式の手配などを受け持つ、宮廷の要職です。
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ベラスケス 『セバスティアン・デ・モーラ』 (プラド美術館) | |||
ベラスケスは午前中は王室配室長として働き、午後は宮廷内の工房で絵筆をとるのが普通です。工房に訪ねていくと一人の先客がいました。ニコラスがマリバルボラの紹介で来たと言うと、ベラスケスもニコラスを知っていました。「イタリア語でダンテの神曲を暗唱する子」と評判になっいたからです。ベラスケスはさっそくニコラスに『神曲』の一節を暗唱させます。それを聞いていた先客の男は「この子もあの絵に入れましょう」と言って、工房から去っていきました。ニコラスは貴族とのトラブルの件をベラスケスに話したところ「何を言われても、しらばっくれるように」との指示を受けます。ベラスケスは、先客の男が言い残した言葉が気になっているようです。男の名前はネルバルだと、ニコラスは知りました。
アセドとの再会
そのすぐ後、ニコラスはディエゴ・デ・アセドと再会することになります。アセドがニコラスの部屋を訪ねてきたのです。久しぶりの再会を喜んだ2人ですが、アセドは重要なことを伝えます。国王・フェリペ4世が「ベラスケスに制作中させている絵にニコラスを入れたい」とおっしゃっているとのことなのです。アセドは続けて、ニコラスを入れるように国王に進言したのはネルバルという男であること、ネルバルは素性がはっきりしないが、宮廷に彼が現れてからは誰もが彼の言うなりになっている様子であること、アセドにはネルバルという男がどうしても「引っかかる」こと、などを話します。
しかしアセドはまた「国王のそば仕えに昇格する絶好のチャンスだ、これを逃すな」とも言います。アセドはニコラスの運命が大きく変わろうとしていることを予感し、先輩としてニコラスにいろいろと忠告をすべく訪ねてきたのでした。
フェリペ4世
アセドと再会してから2日後、国王からじきじきのお呼びがかかりました。ニコラスは正装をし、王の間でフェリペ4世に謁見します。国王はニコラスにいくつかの質問をしたあと、ニコラスが貴族とひと悶着起こしたことを尋ねます。ニコラスが口ごもっていると、国王は「本当の事を言え」とピシャリと命じます。国王とニコラスの会話です。
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ベラスケス 『フェリペ4世』 (ロンドン・ナショナルギャラリー) | |||
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ベラスケスの家
ベラスケスは王宮の隣の庭園にある《宝の館》と呼ばれる邸宅に、奥方のフワナ・パチェコと一緒に住んでいます。ニコラスはその館に住み込み、館と王宮の工房を行き来しながら種々の仕事をこなします。朝一番に工房に行って、弟子の画家たちがやってくる前に掃除をし、筆を洗うのも彼の役目です。ニコラスは弟子の一人で、年上のフワン・パレハと仲良くなりました。パレハは元は奴隷だったのですが解放され、今はベラスケスの弟子の画家の一人として師匠を支えています。
ニコラスは絵のモデルになります。そしてベラスケスとパレハの会話を聞くうちに、分かってきたことがありました。ベラスケスは制作中の絵について、あれこれと悩み、試行錯誤をし、彼が絵で表現しようとしているものを必死に追求していること。ネルバルが工房や《宝の館》に自由に出入りし、ベラスケスに助言を与えていて、ベラスケスもそれを信用していること。奥方はネルバルを嫌っていることなどです。
ネルバルの家
ある日、ニコラスはベラスケスからネルバルの家に使いに行くように命じられます。急いで伝言を伝えよ、とのことです。
マドリード市内の家にたどり着いたニコラスは、ネルバルに会い、伝言を伝えます。それは「国王と王妃を絵のどこに描けばよいか」という質問です。ネルバルは答えるかわりに壁を指します。するとニコラスはそこに幻影を見るのです。壁が透き通り、工房が見え、絵がはっきりと認識できます。そこにはマルガリータ王女、ベラスケス、マルバルボラ、侍女たち、ニコラス自身、ニコラスの飼い犬のモーセなどが見えます。そしてさらによく見ると、国王夫妻も描かれているのです。
見たままを伝えよ。そう言われてニコラスは王宮に戻ります。
絵の完成
ニコラスは王宮の工房にもどり、ベラスケスに見たままを報告します。実はベラスケスも、ニコラスが見た幻影と同様の夢を見ていました。ところがニコラスの幻影には、ベラスケスの夢にはなかったものがあったのです。絵の中の国王夫妻とその位置です。ベラスケスは驚きますが、深く心を打たれたようです。
翌日からベラスケスは、とり憑かれたように絵の制作に熱中します。ニコラスは《宝の館》に帰るとフワナ奥様に問いつめられました。なぜ、あれほどまでにベラスケスが今の絵に熱中しているのかと・・・・・・。奥方はネルバルに不信をいだいていて、何かあると思っているのです。ニコラスはネルバルの家で見たことを奥方に打ち明けました。当然、奥方はベラスケスに言ったのでしょう、ネルバルと手を切ってほしいと・・・・・・。ニコラスはベラスケスから、もう工房に来なくてよい《宝の館》からも出ていくように、との通告を受けました。
しかしそれから数日後、ニコラスにベラスケスからの使者が来ます。犬のモーセをつれて工房に来るようにとの指示です。ニコラスは迷いますが、再び工房に向かい、愛犬とともに絵のモデルになります。
そして絵は完成しました。
最後の依頼
謁見のときの国王の約束どおり、ニコラスは国王付きの召使いに抜擢され、とんとん拍子に出世します。そうして約3年がたちました。ベラスケスもサンチャゴ騎士団への入団が認められ、また王室配室長の職も続けます。王室配室長として最も重要な仕事は、王家同士の結婚です。ベラスケスは、マリア・テレサ王女とフランス国王・ルイ14世の婚礼(1660)を取り仕切りました。この時の過労がたたり、ベラスケスは病の床についてしまいます。
1660年8月4日の未明、ニコラスはベラスケスからの呼び出しをうけます。《宝の館》に出向いたニコラスは、病床のベラスケスから、あることを依頼されます。王宮に飾られている「あの絵」の中のベラスケスの胸に、赤い十字を描いてほしいという依頼です。ベラスケスはその十字を描くべき工房にある絵筆まで指示し、王室配室長として持っている王宮のマスター・キーをニコラスに渡します。意を決したニコラスはそれを引き受けます。
引き受けたものの、ニコラスは絵を描いたことがありません。そこで、館に居合わせたベラスケスの弟子で懇意のパレハに協力を求めます。その日の夜、ニコラスとパレハは工房に入り、絵筆と、そこにあった赤い十字が描かれた羊皮紙を手にし、王宮の「あの絵」の部屋に忍び込みます。そしてパレハは羊皮紙どおりの十字をベラスケスの胸に描き入れました。
2人が未明に《宝の館》に戻ったとき、もう面会は許されませんでした。容態が悪化したようです。翌朝、王宮の医師の伝言を伝えるためにニコラスが《宝の館》を訪問したとき、館は静まりかえっていました。もう手のほどこしようがないようです。その日の午後2時、ベラスケスは息を引き取りました。
葬儀がすべて終わり、ニコラスが回想記を書き終えたとき、彼はもうすぐ17歳という年齢になっていました。
以上が『ベラスケスの十字の謎』のあらすじです。これ以降は、この本についての補足と感想です。
ミステリー
この小説は「ミステリー仕立て」のフィクションです。最大の謎は、
| ◆ | 登場人物のネルバルとは、いったい何者か ? |
| ◆ | ベラスケスとネルバルの関係は ? なぜベラスケスは赤い十字を描くようにニコラスに指示したのか ? |
という点です。それは物語を読み進むうちに終わりの方で明らかにされます。ミステリーの「なぞ」を書いてしまうのはまずいと思うので「あらすじ」からは割愛しました。しかしよくあるプロットなので、大人の読者なら読み進むうちにすぐに推測できると思います。伏線もいっぱいあります。ありきたり過ぎる感じもするのですが、これは「少年少女向けに書かれた小説」なので、不満を言うのは筋違いでしょう。
「なぞ」と言えば、さらに、
| ◆ | ベラスケスは絵に何をこめようとしたのか。どういう意図のもとに書かれた絵か。 |
| ◆ | 国王がニコラスに向かって言った「最後にきて、すべてを見るもの」とはどういう意味か。 |
も「ミステリー」の重要なポイントです。何回か引用されるダンテの『神曲』の一節も謎と関係しています。このような謎を要所要所に配置しながら、ベラスケスの死まで話を引っ張っていくストーリーは、小説としてよくできていると思います。
目の付けどころの良さ
この小説は「目の付けどころ」によって成功した作品だと言えるでしょう。ポイントは2つで、
| ① | ラス・メニーナスにまつわる物語を書く |
| ② | ラス・メニーナスに登場するニコラス・ペルトゥサトを主人公にする。 |
の2点です。
①は多くの作家が考えたと思います。しかしこれは難題です。そもそも『ラス・メニーナス』という絵自体が不思議な絵であり、絵の制作目的や解釈については、いろいろの説が言い尽くされています。単純な方法では物語としての構成が難しいし、絵の新しい解釈を示したところでインパクトは弱いでしょう。
②が大きいと思います。ラス・メニーナスに登場する小人症の少年、ニコラス・ペルトゥサトを主人公にする。そして、ベラスケスの絵に登場する人物を要所に配置し、ラス・メニーナスの謎にまつわる物語を少年の視点で書く・・・・・・。この手法を思いついたとき、作者は「これだ!」と思ったのではないでしょうか。この小説は、その目の付けどころと構成の妙が際だっています。
しかしあえて難点を言うと、ニコラス・ペルトゥサトを主人公にするなら、もっと少年の成長過程を書き込んでもよかったと思います。父親に捨てられた少年が、フェリペ4世に「その誇りを大切にせよ」と誉められるまでに成長する過程です。そもそも彼は大きなハンディキャップを背負っているのだし、宮廷内の使用人の人間関係は複雑なはずです。悲しみ、苦しみ、怒り、絶望、嫉妬、友情、希望など、幾多の経験をしたでしょう。その中で、いかに人間としての尊厳を保ちつつ、宮廷での地位を高めていったのか、書こうとすればいくらでも書けるような気がします。記述がないわけではありませんが、いかにも少ない。著者であるスペインの作家、エリアセル・カンシーノは、文学のおもしろさを子供たちに知ってもらうために児童小説を書き続けているそうです。その観点からしても、ちょっと惜しいと思いました。
怖い小説
この小説は、ベラスケスの絵の謎にまつわるストーリー展開が大変におもしろいのですが、あとから思い出して強く印象に残るのは、やはり小人症などの「異形」の人たちを集め、道化を演じさせたり、召使いとして働かせるという、当時のスペイン宮廷の「雰囲気」そのものなのです。本書とは直接の関係はありませんが、ベラスケスの後継者にあたる宮廷画家、カレーニョ・デ・ミランダ(1614-1684)が「異形」の子供を描いた作品をあげておきます。
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Juan Carreno de Miranda Eugenia Martinez Vallejo, "The Monster", dressed (Ca. 1680) |
Juan Carreno de Miranda "The Monster", nude, or Bacchus (Ca. 1680) |
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ベラスケスより15歳年下の宮廷画家、ファン・カレーニョ・デ・ミランダの作品。エウゲニア・ヴァリェッホという名の少女である。絵と英語の説明はプラド美術館の公式ホームページから引用した。Monster(スペイン語で Monstrua)は「奇形」の意味である。プラド美術館の公式カタログによると彼女は6歳だと言う。同一人物の同じポーズの着衣と裸体を描くという発想は、後年のゴヤの作品を連想させる。 なお、画家のカレーニョは彼が仕えた「カルロス2世」の肖像を描いていて、一見して病的な風貌の国王を描いた肖像画の詳細な解説が「怖い絵2」にある。 |
No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野京子さんは著書『怖い絵2』で『ラス・メニーナス』について次のように書いています。
『ラス・メニーナス』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たず愛玩物とした「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。 |
ただし、この「怖い」というのは現代人の感覚からすると怖いという感情にとらわれる、ということであって、それ以上の価値判断は慎むべきだと思います。たとえば「異形の人」を集めたことを理由に、17世紀のスペイン宮廷は「堕落していた」というような・・・・・・。当時の宮廷ではそれがあたりまえであり、むしろ国王の恩恵を異形の人たちに与える「慈善行為」だった可能性さえある。現代人の感覚で過去を断罪するほどバカバカしいことはありません。その意味で、カレーニョの上記の作品を、芸術作品としての価値判断から公式ホームページにちゃんと掲げているプラド美術館の姿勢を支持したいと思います。
話を『ベラスケスの十字の謎』に戻します。
こうした「異形」の人たちの中には、歴史的事実として、宮廷内で高い位になる人もあったようです。ニコラスがそうだし、アセドは王宮の書記官であって、地位も財産もある。マリバルボラ(=マリア・バルボラ)も王妃に寵愛されていて、召使いさえもっていたようです。しかし、一方では「道化」を演じさせられる人もある。小説のはじめの方でアセドは「恥を捨てて道化を演じ、なぐさみ者にされるのだ」と言っていますね。宮廷や貴族に引き取られるのはましな方で、集められた「異形」の人の中には引き取り手が見つからず、置き去りにされる人もあったともあります。いかにもありそうな話です。
その「異形」の人たちをヨーロッパ中から集める役人であるデル・カスティーリョという人物は、物語の最初と最後にしか登場しないのですが、独特の「雰囲気」があります。
イタリアの家からニコラスを連れ出す場面。
紳士は、つかつかと部屋の真ん中まで来て、ぼくを見た。金色の髪を額にたらし、ごてごてと刺繍がしてある服を着て、ひどくめかしこんでいる。ひょろりとした姿は、クジャクそっくりだ。 |
「ニコラスですか。これからは、ニコラシーリョと呼びましょう。言ってごらんなさい、ニ、コ、ラ、シー、リョ」どことなく女っぽいしゃべり方だった。 |
階段をおりて中庭に歩いていくあいだ、ぼくは紳士の手が気になってしかたなかった。ぼくの手をぎゅうぎゅうにぎりしめてくる、すべすべした細い指。宝石のついた指輪を押しつけられ、すごく痛かった。 |
ニコラスはベラスケスの葬儀において、デル・カスティーリョと再会します。
教会に着くと、詠唱がおごそかに始まり、しめやかな音楽が堂内に響きわたった。祭壇のところで待っていた数人の騎士が棺を受けとり、台の上にすえた。棺のそばに行こうとしたとき、だれかがすっと近づいてきて、ぼくの手を握った。てのひらにぐっと指輪がくいこんでくる感触。とたんに、遠い日の記憶がよみがえってきた。 |
デル・カスティーリョにとって、ニコラスは愛玩物かモノでしかありません。ニコラスに言わせると、彼は「何も見えていない」のです。『ベラスケスの十字の謎』は、人間をモノや愛玩物とした時代の空気を(結果として)的確に描写することになりました。その意味で、よくよく考えてみると「怖い小説」と思えてきます。
と同時に、ニコラス・ペルトゥサトも、マリア・バルボラ(マリバルボラ)もディエゴ・デ・アセドも、生まれながらにして小人症というハンディキャップを背負いながら、自らの意志と努力で「愛玩物」という位置を乗り越え、宮廷で重要な地位を占めるまでになりました。この小説はまた「人間の可能性」を力強く示そうとした小説でもあると思います。
絵が伝えるもの
この小説のストーリーの背景となっている共通認識があります。それは、小説の作者を含めて、ベラスケスの「道化を描いた絵」(No.19「ベラスケスの怖い絵」参照)を見た者が暗黙に抱いているものです。つまり、
- ベラスケスは宮廷にいる小人症の道化たちに、強い人間的共感をいだいていただろう、という「暗黙の推定」
この推定の正否を実証する資料は皆無でしょう。しかし、この小説の作者を含めて我々は、350年以上前に描かれた何枚かの絵だけを見て暗黙に考えているのです。「外見と人間の本質は関係ない。これこそが画家の真意だ」と・・・・・・。絵が持ちうる強いメッセージ性。『ベラスケスの十字の謎』は、その上に成立した小説だと思いました。
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パブロ・ピカソ 『ピアノ』(1957) (バルセロナ・ピカソ美術館) | |||
ピカソの連作が「ベラスケス賛歌」であることは間違いないのですが、17世紀のスペイン宮廷の工房で「ラス・メニーナス」が描かれてから300年後、このような絵が出てくるとはベラスケスもニコラス・ペルトゥサトも想像だに出来なかったでしょう。
No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想 [音楽]
No.8「リスト:ノルマの回想」では、ベッリーニのオペラ「ノルマ」の旋律にもとづいて、フランツ・リスト(1811-1886)が作曲したピアノ曲『ノルマの回想』(1836)を紹介しました。今回は、それと同じ年に書かれた同一趣向の曲を取り上げます。
『ユグノー教徒の回想』(1836)は、マイヤーベーア(1791-1864)のオペラ「ユグノー教徒」(1836年・パリのオペラ座で初演)の中の旋律にもとづいて、リストが自由に作曲・構成したピアノ曲です。1836年ということは、オペラ発表の年と同年に書かれたということになります。原題は「マイヤーベーアのオペラ・ユグノー教徒の主題による大幻想曲」ですが、『ユグノー教徒の回想』という通称(リストが自筆原稿にそう書いているそうです)が分かりやすいので、それで通します。掲載したCDジャケットの写真は、この曲が収録されているNAXOS版のリスト・ピアノ音楽全集の第1巻です。
このリストの曲も、そのもとになったオペラも、『ノルマの回想』に比べるとずっとマイナーな感じですが、リストの曲が好きな人は多いと思うので取り上げる意味はあるでしょう。まず、マイヤーベーアのオペラ『ユグノー教徒』についてです。
サン・バルテルミの虐殺
このオペラの背景となっているのは「サン・バルテルミの虐殺」と言われるフランス史の事件、いやヨーロッパの歴史上の大事件です。英語読みで「聖バーソロミューの虐殺」とも呼ばれます。バルテルミ(=バルトロマイ、バーソロミュー)はイエスの弟子の一人です。
マルチン・ルターの宗教改革は、ヨーロッパ各地にプロテスタントを生み出しました。フランスにおいてプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、1560年ころからは、カトリックとプロテスタントの内乱があちこちで起こっていました。
1572年の8月24日、サン・バルテルミの祝日の日、国王・シャルル9世の命で宮廷のプロテスタントの貴族多数が殺害され、パリ市内でもプロテスタントの市民多数が殺される事態が発生しました。虐殺はパリを越えて地方にも広まり、犠牲者総数は数万と言われています。これが「サン・バルテルミの虐殺」です。その後も旧教徒と新教徒の争いは続き、ユグノー戦争と呼ばれています。この戦争に一応の収拾をつけたのは、新教徒に一定の権利を認めたナントの勅令(1594)です。
ユグノーとは、カルヴァン主義のプロテスタントをフランスで呼んだ呼称です。No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で触れたように「プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教義が作り出した生活態度が、資本主義への決定的なドライブを生んだ」という説があります。この説の妥当性はともかく、西洋近代社会の資本主義を発達させたのがプロテスタントであることは、事実としてあるわけです。しかしそうなるまでには「サン・バルテルミの虐殺」のような事件があったわけで、西洋近代社会も「血みどろ」で作り上げられたということが分かります。
『ユグノー教徒』のあらすじ
このオペラは、サン・バルテルミの虐殺に至るカトリックとプロテスタントの確執を背景とし、虐殺が開始された夜で終わります。ストーリーを一言で言ってしまうと、
主要な登場人物は6人です。この6人は新教徒と旧教徒に別れていて、旧教徒にも「新教徒に融和的な人物」と「新教徒に敵対的な人物」があります。以降の固有名詞はフランス語読みです。
◆新教徒(ユグノー教徒)
・ラウル(騎士)
・マルセル(ラウルに長年付き添う老僕)
◆旧教徒(カトリック教徒)
●新教徒に融和的
・マルグリット(国王・シャルル9世の妹)
・ヌヴェール伯爵(国王の臣下の一人)
・ヴァランティーヌ(サン=ブリ伯爵の娘)
●新教徒に敵対的
・サン=ブリ伯爵(国王の臣下の一人)
他の登場人物もいろいろありますが、割愛します。
舞台は16世紀のフランスです。序曲が終わると、国王の臣下である旧教徒の貴族たちがヌヴェール伯爵に招かれて、伯爵の城の広間で宴を開催しています。新教徒との融和を目指すヌヴェールは、この場にユグノー教徒のラウルを招いていることを告げます。一同は驚きますが、ヌヴェールは余興と紹介をかねて、自分の恋を歌にして歌ってみるようにラウルに依頼します。ラウルは自分が通りがかりに暴漢から救った女性に、密かに恋心を募らせていることを歌います。
宴の途中、ヌヴェールに美しい女性の訪問客が来ていることが告げられました。ヌヴェールが一時退席したあと、一同はその女性を盗み見ますが、誰だか分かりません。ところがラウルは分かりました。今しがた歌ったばかりの思いを寄せる女性だったからです。一同は「ヌヴェールの愛人に恋をした」と、ラウルを笑い者にします。実はこの女性(ヴァランティーヌ)はヌヴェールとの婚約を解消したいとの申し出をしに来たのでした。これを知らないラウルは、絶望感にとらわれます。
ヌヴェールが広間に戻ったあと、ラウルにある人からの手紙がきます。夕刻、来て欲しいとの内容です。貴族たちはその手紙の紋章と署名から、国王の妹であるマルグリット本人からの手紙だと分かりました。貴族たちはラウルへの態度を改め、出ていくラウルを見送ります。
国王・シャルル9世の妹であるマルグリットは、旧教と新教の融和を図ろうとしていて、自身も、新教徒であるナヴァール王・アンリと結婚する予定です。ナヴァールは、スペインに近い、現在のフランス領バスク地方の小国で、当時は独立国でした。
マルグリットは、国王の臣下のサン=ブリ伯爵の娘・ヴァランティーヌが新教徒のラウルを慕っていることを知り、融和策の一環としてヴァランティーヌとラウルを結婚させようとしています。そのために、ヌヴェール伯爵との婚約解消の申し出をヴァランティーヌにさせたのでした。
マルグリットは手紙を出して城に招いたラウルに、サン=ブリ伯爵の娘との結婚を提案し、ラウルもそれを承諾します。そしてマルグリットはサン=ブリ、ヌヴェールを含む貴族たちを城に招き、新教徒との和解を誓わせます。
しかし、その場で初めて紹介されたヴァランティーヌを見たラウルは「ヌヴェールの愛人をあてがわれた」と勘違いし、結婚を断固拒否してしまいます。一同はこれに驚き、特にサン=ブリとヌヴェールは激しい侮辱だと激高して剣を抜きます。ラウルも剣を抜き、一発触発の状況になりますが、この場はマルグリットがおさめます。「決闘だ」「この屈辱は血を要求する」という声が充満するなか、両者は別れます。ヴァランティーヌはラウルの拒絶の理由が分からず、悲嘆にくれます。
ラウルとの結婚が破談になったヴァランティーヌは、再びヌヴェールと結婚することになり、その結婚式が終わったところです。ラウルの老僕のマルセルが、礼拝堂から出てきた父親のサン=ブリに近づき、手紙を渡します。ラウルからの決闘状です。しかしサン=ブリは、ラウルを闇討ちにする計画を立てます。この計画を知ったヴァランティーヌは、マルセルに陰謀の計画を伝えます。
その夜の決闘の時刻、ラウルとサン=ブリが現れます。陰謀を知っているマルセルが「裏切りだ」と叫ぶと、周りにいた両派の兵士たちの乱闘になりますが、そこを通りかかったマルグリットが、この戦いをやめさせます。
両派は互いに相手の陰謀だと主張しますが、マルセルは「証人はあの人だ」とヴァランティーヌを指します。ラウルは、ヌヴェール伯爵の愛人のはずのヴァランティーヌが自分を救おうとしたことが信じられません。そこでマルグリットは、ヴァランティーヌがヌヴェールの城館を訪れたのは、ヌヴェールとの婚約を解消するためだったことを明かします。
誤解は解けたのですが、時すでに遅く、ヌヴェールは婚礼のあとの披露宴にヴァランティーヌを連れていきました。ラウルは絶望感に打ちひしがれ、再びと戦う決意を固めます。
ヌヴェールの館です。結婚したヴァランティーヌはラウルへの思いが捨てきれず、嘆いています。そこにラウルが忍び込んできて、ヴァランティーヌに別れを告げます。そのとき、サン=ブリ、ヌヴェール、貴族たちが入ってきました。ラウルはタピストリーの後ろに隠れます。
サン=ブリは、国王が新教徒の虐殺を命じたことを話します。ヌヴェールは不意討ちに反対しますが、一同の心は変え難く、夜の一斉襲撃が決まります。マルグリットとナヴァール王の結婚を祝賀して新教徒が集まる宴に乱入するなど、種々の計画が話し合われ、散会します。
ラウルは計画を全部聞いてしまいました。すぐさま新教徒たちに伝えるべく、出て行こうとします。しかしラウルの身が心配なヴァランティーヌは、行かないでくれと懇願し、ラウルを愛していると告白します。ラウルはその言葉に一瞬たじろぎますが、時間が迫っていることを思い、ヴァランティーヌを振り切って去ります。
第1場
新教徒の貴族の館で、ナヴァール王とマルグリットの結婚を祝した宴が開かれていて、新教徒の主要人物が集まっています。ナヴァール王とマルグリットもいます。そこに飛び込んできたラウルは、旧教徒の虐殺が始まっていることを告げ、武器を取ろうと呼びかけます。
第2場
夜、虐殺が続いています。新教徒の教会の裏手の墓地で、傷ついたマルセルがラウルと落ち会います。そこにヴァランティーヌが現れます。ヴァランティーヌはラウルに、カトリックに改宗すれば命は助かる、この白いスカーフを腕に巻けばパリを脱出してルーブルまで行ける、と説得しますが、ラウルは断固拒否します。ヴァランティーヌの夫のヌヴェールは、ユグノー教徒不意打ち計画に反対したため、殺されてしまいました。意を決したヴァランティーヌは、マルセルを証人に、その場でユグノーに改宗し、ラウルと永遠の愛を近います。その時、旧教徒の兵士が乱入してきました。
第3場
兵士とともに、サン=ブリもいます。兵士は3人を追いつめ、サン=ブリは「誰だ」と詰問します。ラウルは「ユグノーだ」とだけ答え、そのため3人は撃たれてしまいました。サン=ブリは、その中に自分の娘を発見して愕然とします。ヴァランティーヌは「あなた方のために祈ります」と言い残して、こときれました。
何となく、救いようのない結末です。純粋に生きようとするものは意味もなく殺されてしまうし、敵対するもの同士を融和させようとする努力は、全てが無に帰してしまいます。何らかの「希望」が示されるわけでもない。「サン・バルテルミの虐殺」を題材にオペラを作る限り、このストーリーはやむをえないでしょう。考えてみると「救いようのないストーリー」のオペラは、ヴェルディも書いています(イル・トラバトーレ、など)。これだけではありません。
このオペラは基本的に、殺される側の新教徒(ユグノー)に「肩入れ」しているように見えます。舞台が始まる前の序曲からして、ルター派の讃美歌が主題になっているのです。しかし全面的に新教徒の「肩をもっている」わけではない。ラウルの描き方がそうです。純粋だが一本調子で、単純で深く考えず、猪突猛進する人間に描かれている。そもそも悲劇につながるトリガーを引いたのは、ラウルの誤解、ないしは早とちりだったわけです。ラウルの従僕であるマルセルも、いかなる妥協も頭から拒否する「原理主義者」に描かれる。
一方の旧教徒ですが、不意打ちで虐殺をするような「騎士道精神のかけらもない悪辣な人間」ばかりかというと、そうでもない。マルグリットのように、両派の融和に奔走する人もいれば、ヌヴェールのように「不意打ち」という汚いやり方に反対して仲間に殺されてしまう貴族もいる。
作曲したマイヤーベーアはドイツ出身のユダヤ人です。サン・バルテルミの虐殺という「プロテスタントの殉教」を題材にしてはいるが、両派を公平に見ている感じもある。考えてみると、プロテスタントもカトリックも、19世紀という時点で、この題材でオペラを作るのは「生々し過ぎて」とてもできないのではないか。特にフランス人には絶対にできないのではないか。マイヤーベーアだからできたと考えられます。
このオペラはフィクションですが、サン・バルテルミの虐殺以外にも、数々の歴史的事実を踏まえています。マルグリットは実在の国王の妹だし、舞台には登場しませんが、カトリーヌ・ド・メディシス(国王の母)、ナヴァール王・アンリ(後のフランス国王、アンリ4世)、コリニー提督(新教派の指導者)などの実在の人物が台詞に出てきます。また、旧教と新教の融和を図ろうという動きがあったことも事実だし、マルグリットとナヴァール王の結婚式が行われたのは、虐殺の日の1週間前でした。
また、第1幕ではカトリックの貴族たちが宴会で「楽しく酔いしれていられるのは今のうち、今こそ人生を楽しむ時だ」と歌っているその時にラウルを紹介され、彼を見て「何という陰影な面持ち。これこそカルヴァンの教義の現れだ」と歌う場面があります。このあたりは旧教徒からみた新教徒像の一端が現れていると思いました。
リスト:ユグノー教徒の回想(1842年稿)
リスト作曲『ユグノー教徒の回想』です。NAXOS版リスト・ピアノ音楽全集・第1巻の解説によると、この曲は1836年に初稿が書かれ、1839年、1842年(最終稿)と改訂されています。当時、楽譜が出版されたのは初稿と最終稿だったので、最終稿は出版順から第2版と呼んだり、改訂順から第3版とも呼ぶようです。ややこしいので1842年稿とします。NAXOS版全集は1842年稿によっています。
曲を便宜的に第1部~第5部の5つの部分に分けます。以下に掲げる譜例は、リストのピアノ譜から旋律や動機の部分だけを抜き出したものです。
短い序奏のあと、譜例28「どこへ駆けていくのです?」が出てきます。これはオペラの第4幕で、サン=ブリ伯爵以下の貴族たちが新教徒虐殺計画を相談し、一団が散会したあと、ラウルとヴァランティーヌの2人だけになったシーンの最初に出てきます。虐殺計画を聞いてしまったラウルは新教徒たちに知らせるべく出て行こうとするのですが、ヴァランティーヌが「どこへ駆けていくのですか」と、それを止めようとするシーンです。





曲のムードが変わり、ゆっくりと譜例33「危険は迫り、時はどんどん流れていく」が演奏され、そのあとに譜例34「あなたは私の大切な人」が出てきます。この2つの旋律も「愛の告白シーン」の、譜例32のあとの部分です。オペラ「ユグノー教徒」では、譜例33、譜例34の後に、ヴァランティーヌがラウルに「愛している」と告白することになります。


『ユグノー教徒の回想』の第3部は、このピアノ曲の展開部にあたります。第1部で出てきた譜例32で始まり、さまざまな変奏が加えられます。「神は我が砦」の新たな変奏(譜例35)も出てきます。

再び曲はゆっくりになり、譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律になります。これは「愛の告白シーン」で、ヴァランティーヌがラウルへの愛を告白した直後にラウルが歌う場面の旋律です。美しいメロディーが大変に印象的で、6度を上昇する音の跳躍がポイントになっています(譜例36の、変ニ→変ロ)。オペラにおいてこの旋律はテノールとオーケストラの「かけ合い」で出てくるのですが、リストはそのかけ合いをピアノ1台で表現しています。この譜例36は『ユグノー教徒の回想』において、これ以降もたびたび現れることになります。
譜例36の後に出てくる副次的な旋律(譜例37「もっと話してほしい」)も、オペラで譜例36の後にラウルが歌う場面のものです。このあたりは、『ユグノー教徒の回想』の中でも大変に美しいところです。


『ユグノー教徒の回想』全体の終結部です。曲のムードはまた変わり、アレグロで譜例38が始まります。この旋律はオペラの第5幕の第2場・第3場で、旧教徒の男たちの合唱「改宗せよ、ユグノーども」として歌われるものです。第5幕はサン・バルテルミの虐殺の夜であって、第5幕の最終段階では、譜例38の旧教徒の合唱が舞台に充満し、そこに新教徒を表す「神は我が砦」が交錯することになります。
リストの『ユグノー教徒の回想』の終結部では、譜例38に「神は我が砦」の変奏が加わり、さらに譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律が絡まってきて、壮大なコーダを形成します。そしてこのピアノ曲の最後は、初めて現れる「神は我が砦」の完全な形(譜例39)で締めくくられます。


リストは何を「回想」をしたのか
今までの説明をまとめると、リストの『ユグノー教徒の回想』に出てくるオペラ「ユグノー教徒」の旋律は、次のように総括できます。
音楽からみた『ユグノー教徒の回想』の終わり方は、オペラ「ユグノー教徒」とは違います。オペラの最終場面では「神は我が砦」の旋律はかき消されてしまって「旧教徒の男たちの合唱」(譜例38)が大きく響き、そのまま終わります。これは歴史的事実がそのまま音楽に反映しています。しかしリストの『ユグノー教徒の回想』は、「神は我が砦」が最後に高らかに演奏されて(譜例39)終わるのです。まるで新教徒が勝利したような終わり方です。
ここからは全くの想像です。前にも書いたように、サン・バルテルミの虐殺を題材したオペラを作る限り、救いようのない終わり方になるのはやむをえません。そこでリストは、第4幕の「愛の告白シーン」の旋律を集中的に使って、
オペラの旋律は、それが歌われる場面があり、歌詞が付帯しているので、ある種の「意味」を持ちます。オペラから旋律を選んで、それをモティーフにして曲を作るということは、どういう「意味」の旋律を選ぶかに作曲家の意図が現れると考えてもよいはずです。
マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」は、19世紀の当時のパリで大変人気のあった作品で、ロングランを続けたようです。リストはこのピアノ曲を何らかの演奏会で演奏したと思いますが、それを聞いた音楽愛好家の中には、オペラ「ユグノー教徒」を見た人も多かったはずです。リストの『ユグノー教徒の回想』が何をどのように回想しているのか、音楽愛好家ならすぐに分かったのではないでしょうか。
この曲が作られた経緯に関するエピソードです。リストは20歳代のとき、マリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)と恋に落ち、1833年-1839年(リストが22歳から28歳頃)は同棲生活を送ります。その間に3人の子供が生まれますが、次女のコジマは後のリヒャルト・ワグナー夫人ですね。
『ユグノー教徒の回想』は、リストがダグー伯爵夫人と生活を共にしている、25歳の時の作品です。NAXOS版 リスト ピアノ曲全集・第1巻の解説によると、『ユグノー教徒の回想』は、リストがマリー・ダグー伯爵夫人に献呈した唯一の曲だそうです。20歳代のリストが、数年間情熱を傾けた6歳年上の伯爵夫人、その彼女に献呈した唯一の曲であることが、この曲の意味を端的に表しているのではと思います。
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NAXOS版 リスト ピアノ曲全集 第1巻 「ユグノー教徒の回想」が収録されている ピアノ:アーナルド・コーエン | |||
このリストの曲も、そのもとになったオペラも、『ノルマの回想』に比べるとずっとマイナーな感じですが、リストの曲が好きな人は多いと思うので取り上げる意味はあるでしょう。まず、マイヤーベーアのオペラ『ユグノー教徒』についてです。
サン・バルテルミの虐殺
このオペラの背景となっているのは「サン・バルテルミの虐殺」と言われるフランス史の事件、いやヨーロッパの歴史上の大事件です。英語読みで「聖バーソロミューの虐殺」とも呼ばれます。バルテルミ(=バルトロマイ、バーソロミュー)はイエスの弟子の一人です。
マルチン・ルターの宗教改革は、ヨーロッパ各地にプロテスタントを生み出しました。フランスにおいてプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれ、1560年ころからは、カトリックとプロテスタントの内乱があちこちで起こっていました。
1572年の8月24日、サン・バルテルミの祝日の日、国王・シャルル9世の命で宮廷のプロテスタントの貴族多数が殺害され、パリ市内でもプロテスタントの市民多数が殺される事態が発生しました。虐殺はパリを越えて地方にも広まり、犠牲者総数は数万と言われています。これが「サン・バルテルミの虐殺」です。その後も旧教徒と新教徒の争いは続き、ユグノー戦争と呼ばれています。この戦争に一応の収拾をつけたのは、新教徒に一定の権利を認めたナントの勅令(1594)です。
ユグノーとは、カルヴァン主義のプロテスタントをフランスで呼んだ呼称です。No.42「ふしぎなキリスト教(2)」で触れたように「プロテスタント、とりわけカルヴァン派の教義が作り出した生活態度が、資本主義への決定的なドライブを生んだ」という説があります。この説の妥当性はともかく、西洋近代社会の資本主義を発達させたのがプロテスタントであることは、事実としてあるわけです。しかしそうなるまでには「サン・バルテルミの虐殺」のような事件があったわけで、西洋近代社会も「血みどろ」で作り上げられたということが分かります。
『ユグノー教徒』のあらすじ
このオペラは、サン・バルテルミの虐殺に至るカトリックとプロテスタントの確執を背景とし、虐殺が開始された夜で終わります。ストーリーを一言で言ってしまうと、
- 敵対する陣営に属する男(テノール)と女(ソプラノ)が、成就しにくい恋に落ち、最後は二人とも死ぬ
|  登場人物  |
主要な登場人物は6人です。この6人は新教徒と旧教徒に別れていて、旧教徒にも「新教徒に融和的な人物」と「新教徒に敵対的な人物」があります。以降の固有名詞はフランス語読みです。
◆新教徒(ユグノー教徒)
・ラウル(騎士)
・マルセル(ラウルに長年付き添う老僕)
◆旧教徒(カトリック教徒)
●新教徒に融和的
・マルグリット(国王・シャルル9世の妹)
・ヌヴェール伯爵(国王の臣下の一人)
・ヴァランティーヌ(サン=ブリ伯爵の娘)
●新教徒に敵対的
・サン=ブリ伯爵(国王の臣下の一人)
他の登場人物もいろいろありますが、割愛します。
|  第1幕  |
舞台は16世紀のフランスです。序曲が終わると、国王の臣下である旧教徒の貴族たちがヌヴェール伯爵に招かれて、伯爵の城の広間で宴を開催しています。新教徒との融和を目指すヌヴェールは、この場にユグノー教徒のラウルを招いていることを告げます。一同は驚きますが、ヌヴェールは余興と紹介をかねて、自分の恋を歌にして歌ってみるようにラウルに依頼します。ラウルは自分が通りがかりに暴漢から救った女性に、密かに恋心を募らせていることを歌います。
宴の途中、ヌヴェールに美しい女性の訪問客が来ていることが告げられました。ヌヴェールが一時退席したあと、一同はその女性を盗み見ますが、誰だか分かりません。ところがラウルは分かりました。今しがた歌ったばかりの思いを寄せる女性だったからです。一同は「ヌヴェールの愛人に恋をした」と、ラウルを笑い者にします。実はこの女性(ヴァランティーヌ)はヌヴェールとの婚約を解消したいとの申し出をしに来たのでした。これを知らないラウルは、絶望感にとらわれます。
ヌヴェールが広間に戻ったあと、ラウルにある人からの手紙がきます。夕刻、来て欲しいとの内容です。貴族たちはその手紙の紋章と署名から、国王の妹であるマルグリット本人からの手紙だと分かりました。貴族たちはラウルへの態度を改め、出ていくラウルを見送ります。
|  第2幕  |
国王・シャルル9世の妹であるマルグリットは、旧教と新教の融和を図ろうとしていて、自身も、新教徒であるナヴァール王・アンリと結婚する予定です。ナヴァールは、スペインに近い、現在のフランス領バスク地方の小国で、当時は独立国でした。
マルグリットは、国王の臣下のサン=ブリ伯爵の娘・ヴァランティーヌが新教徒のラウルを慕っていることを知り、融和策の一環としてヴァランティーヌとラウルを結婚させようとしています。そのために、ヌヴェール伯爵との婚約解消の申し出をヴァランティーヌにさせたのでした。
マルグリットは手紙を出して城に招いたラウルに、サン=ブリ伯爵の娘との結婚を提案し、ラウルもそれを承諾します。そしてマルグリットはサン=ブリ、ヌヴェールを含む貴族たちを城に招き、新教徒との和解を誓わせます。
しかし、その場で初めて紹介されたヴァランティーヌを見たラウルは「ヌヴェールの愛人をあてがわれた」と勘違いし、結婚を断固拒否してしまいます。一同はこれに驚き、特にサン=ブリとヌヴェールは激しい侮辱だと激高して剣を抜きます。ラウルも剣を抜き、一発触発の状況になりますが、この場はマルグリットがおさめます。「決闘だ」「この屈辱は血を要求する」という声が充満するなか、両者は別れます。ヴァランティーヌはラウルの拒絶の理由が分からず、悲嘆にくれます。
|  第3幕  |
ラウルとの結婚が破談になったヴァランティーヌは、再びヌヴェールと結婚することになり、その結婚式が終わったところです。ラウルの老僕のマルセルが、礼拝堂から出てきた父親のサン=ブリに近づき、手紙を渡します。ラウルからの決闘状です。しかしサン=ブリは、ラウルを闇討ちにする計画を立てます。この計画を知ったヴァランティーヌは、マルセルに陰謀の計画を伝えます。
その夜の決闘の時刻、ラウルとサン=ブリが現れます。陰謀を知っているマルセルが「裏切りだ」と叫ぶと、周りにいた両派の兵士たちの乱闘になりますが、そこを通りかかったマルグリットが、この戦いをやめさせます。
両派は互いに相手の陰謀だと主張しますが、マルセルは「証人はあの人だ」とヴァランティーヌを指します。ラウルは、ヌヴェール伯爵の愛人のはずのヴァランティーヌが自分を救おうとしたことが信じられません。そこでマルグリットは、ヴァランティーヌがヌヴェールの城館を訪れたのは、ヌヴェールとの婚約を解消するためだったことを明かします。
誤解は解けたのですが、時すでに遅く、ヌヴェールは婚礼のあとの披露宴にヴァランティーヌを連れていきました。ラウルは絶望感に打ちひしがれ、再びと戦う決意を固めます。
|  第4幕  |
ヌヴェールの館です。結婚したヴァランティーヌはラウルへの思いが捨てきれず、嘆いています。そこにラウルが忍び込んできて、ヴァランティーヌに別れを告げます。そのとき、サン=ブリ、ヌヴェール、貴族たちが入ってきました。ラウルはタピストリーの後ろに隠れます。
サン=ブリは、国王が新教徒の虐殺を命じたことを話します。ヌヴェールは不意討ちに反対しますが、一同の心は変え難く、夜の一斉襲撃が決まります。マルグリットとナヴァール王の結婚を祝賀して新教徒が集まる宴に乱入するなど、種々の計画が話し合われ、散会します。
ラウルは計画を全部聞いてしまいました。すぐさま新教徒たちに伝えるべく、出て行こうとします。しかしラウルの身が心配なヴァランティーヌは、行かないでくれと懇願し、ラウルを愛していると告白します。ラウルはその言葉に一瞬たじろぎますが、時間が迫っていることを思い、ヴァランティーヌを振り切って去ります。
|  第5幕  |
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ジョン・エヴァレット・ミレイ
「聖バーソロミューの祝日にローマン・カトリック教徒に装って身を守ることを拒絶するユグノー教徒」(1852, Makins Collection)(Sir John Everett Millais) ( A Huguenot, on St. Bartholomew's Day Refusing to Shield Himself from Danger by Wearing the Roman Catholic Badge ) イギリスの画家・ミレイ(1829-1896)の作品。長い題名を避けて、普通「聖バーソロミューの祝日のユグノー教徒」あるいは単に「ユグノー教徒」と呼ばれる。 この作品は、ミレイ自身がマイヤーベーアの「ユグノー教徒」を見て、そこからインスピレーションを得て描かれた(Wikipedia)。オペラの第5幕 第2場の墓地の場面を踏まえている。白いスカーフはカトリックのしるしである。女性は男性の腕にスカーフを巻き、男性はそれを取ろうとしている。画像はWikipediaから引用。 | |||
新教徒の貴族の館で、ナヴァール王とマルグリットの結婚を祝した宴が開かれていて、新教徒の主要人物が集まっています。ナヴァール王とマルグリットもいます。そこに飛び込んできたラウルは、旧教徒の虐殺が始まっていることを告げ、武器を取ろうと呼びかけます。
第2場
夜、虐殺が続いています。新教徒の教会の裏手の墓地で、傷ついたマルセルがラウルと落ち会います。そこにヴァランティーヌが現れます。ヴァランティーヌはラウルに、カトリックに改宗すれば命は助かる、この白いスカーフを腕に巻けばパリを脱出してルーブルまで行ける、と説得しますが、ラウルは断固拒否します。ヴァランティーヌの夫のヌヴェールは、ユグノー教徒不意打ち計画に反対したため、殺されてしまいました。意を決したヴァランティーヌは、マルセルを証人に、その場でユグノーに改宗し、ラウルと永遠の愛を近います。その時、旧教徒の兵士が乱入してきました。
第3場
兵士とともに、サン=ブリもいます。兵士は3人を追いつめ、サン=ブリは「誰だ」と詰問します。ラウルは「ユグノーだ」とだけ答え、そのため3人は撃たれてしまいました。サン=ブリは、その中に自分の娘を発見して愕然とします。ヴァランティーヌは「あなた方のために祈ります」と言い残して、こときれました。
何となく、救いようのない結末です。純粋に生きようとするものは意味もなく殺されてしまうし、敵対するもの同士を融和させようとする努力は、全てが無に帰してしまいます。何らかの「希望」が示されるわけでもない。「サン・バルテルミの虐殺」を題材にオペラを作る限り、このストーリーはやむをえないでしょう。考えてみると「救いようのないストーリー」のオペラは、ヴェルディも書いています(イル・トラバトーレ、など)。これだけではありません。
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ジョン・エヴァレット・ミレイ
「お慈悲を! 聖バーソロミューの祝日、1572年」(1886,Tate gallery)(Mercy : St Bartholomew's Day, 1572) オペラ「ユグノー教徒」とは直接の関係はないが、ミレイはもう一つの作品を描いている。 登場人物は3人ともカトリック側である。男は剣を抜き、ユグノー派の殺戮に行こうとしている。腕に巻いた白い布と帽子の白い十字架はカトリックのしるしである。 修道女が「お慈悲を!」と訴えて止めようとしているが、男は修道女の十字架を踏みつけ、その腕を解こうとしている。男は明らかに目が据わっているのが分かる。一方、戸口の修道士は手招きをしていて、殺戮を促しているようである。 左下の花はトケイソウ(英語名:Passion Flower)である。この花はキリストの受難の象徴であるが、この絵ではプロテスタントの受難を表している。図版はテート・ギャラリーのホームページから引用した。 | |||
一方の旧教徒ですが、不意打ちで虐殺をするような「騎士道精神のかけらもない悪辣な人間」ばかりかというと、そうでもない。マルグリットのように、両派の融和に奔走する人もいれば、ヌヴェールのように「不意打ち」という汚いやり方に反対して仲間に殺されてしまう貴族もいる。
作曲したマイヤーベーアはドイツ出身のユダヤ人です。サン・バルテルミの虐殺という「プロテスタントの殉教」を題材にしてはいるが、両派を公平に見ている感じもある。考えてみると、プロテスタントもカトリックも、19世紀という時点で、この題材でオペラを作るのは「生々し過ぎて」とてもできないのではないか。特にフランス人には絶対にできないのではないか。マイヤーベーアだからできたと考えられます。
このオペラはフィクションですが、サン・バルテルミの虐殺以外にも、数々の歴史的事実を踏まえています。マルグリットは実在の国王の妹だし、舞台には登場しませんが、カトリーヌ・ド・メディシス(国王の母)、ナヴァール王・アンリ(後のフランス国王、アンリ4世)、コリニー提督(新教派の指導者)などの実在の人物が台詞に出てきます。また、旧教と新教の融和を図ろうという動きがあったことも事実だし、マルグリットとナヴァール王の結婚式が行われたのは、虐殺の日の1週間前でした。
また、第1幕ではカトリックの貴族たちが宴会で「楽しく酔いしれていられるのは今のうち、今こそ人生を楽しむ時だ」と歌っているその時にラウルを紹介され、彼を見て「何という陰影な面持ち。これこそカルヴァンの教義の現れだ」と歌う場面があります。このあたりは旧教徒からみた新教徒像の一端が現れていると思いました。
リスト:ユグノー教徒の回想(1842年稿)
リスト作曲『ユグノー教徒の回想』です。NAXOS版リスト・ピアノ音楽全集・第1巻の解説によると、この曲は1836年に初稿が書かれ、1839年、1842年(最終稿)と改訂されています。当時、楽譜が出版されたのは初稿と最終稿だったので、最終稿は出版順から第2版と呼んだり、改訂順から第3版とも呼ぶようです。ややこしいので1842年稿とします。NAXOS版全集は1842年稿によっています。
曲を便宜的に第1部~第5部の5つの部分に分けます。以下に掲げる譜例は、リストのピアノ譜から旋律や動機の部分だけを抜き出したものです。
|  第1部:Largo - Allegro molto  |
短い序奏のあと、譜例28「どこへ駆けていくのです?」が出てきます。これはオペラの第4幕で、サン=ブリ伯爵以下の貴族たちが新教徒虐殺計画を相談し、一団が散会したあと、ラウルとヴァランティーヌの2人だけになったシーンの最初に出てきます。虐殺計画を聞いてしまったラウルは新教徒たちに知らせるべく出て行こうとするのですが、ヴァランティーヌが「どこへ駆けていくのですか」と、それを止めようとするシーンです。

- オペラ「ユグノー教徒」は、第4幕においてオーケストラが譜例28を演奏するところから、サン・ジェルマン教会の鐘(虐殺開始の合図)が鳴るまでの約10分間が最大の聞きどころであり、聞かせどころ(特にテノール)です。この部分を「愛の告白シーン」と呼んでおきます。とにかく、音楽として大変に素晴らしい部分で、このシーンだけもこのオペラを鑑賞する価値があります。



- この讃美歌はマルチン・ルター本人の作と言われています。日本では「神は我が堅き砦」「神は我がやぐら」などとも訳されています。ちなみにメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」の第4楽章も、この讃美歌で始まります(譜例31)。

|  第2部:Andantino con sentimento  |
曲のムードが変わり、ゆっくりと譜例33「危険は迫り、時はどんどん流れていく」が演奏され、そのあとに譜例34「あなたは私の大切な人」が出てきます。この2つの旋律も「愛の告白シーン」の、譜例32のあとの部分です。オペラ「ユグノー教徒」では、譜例33、譜例34の後に、ヴァランティーヌがラウルに「愛している」と告白することになります。


|  第3部:Allegro quasi presto  |
『ユグノー教徒の回想』の第3部は、このピアノ曲の展開部にあたります。第1部で出てきた譜例32で始まり、さまざまな変奏が加えられます。「神は我が砦」の新たな変奏(譜例35)も出てきます。

|  第4部:Adagio amoroso  |
再び曲はゆっくりになり、譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律になります。これは「愛の告白シーン」で、ヴァランティーヌがラウルへの愛を告白した直後にラウルが歌う場面の旋律です。美しいメロディーが大変に印象的で、6度を上昇する音の跳躍がポイントになっています(譜例36の、変ニ→変ロ)。オペラにおいてこの旋律はテノールとオーケストラの「かけ合い」で出てくるのですが、リストはそのかけ合いをピアノ1台で表現しています。この譜例36は『ユグノー教徒の回想』において、これ以降もたびたび現れることになります。
譜例36の後に出てくる副次的な旋律(譜例37「もっと話してほしい」)も、オペラで譜例36の後にラウルが歌う場面のものです。このあたりは、『ユグノー教徒の回想』の中でも大変に美しいところです。


|  第5部:Finale - Allegro vivace  |
『ユグノー教徒の回想』全体の終結部です。曲のムードはまた変わり、アレグロで譜例38が始まります。この旋律はオペラの第5幕の第2場・第3場で、旧教徒の男たちの合唱「改宗せよ、ユグノーども」として歌われるものです。第5幕はサン・バルテルミの虐殺の夜であって、第5幕の最終段階では、譜例38の旧教徒の合唱が舞台に充満し、そこに新教徒を表す「神は我が砦」が交錯することになります。
リストの『ユグノー教徒の回想』の終結部では、譜例38に「神は我が砦」の変奏が加わり、さらに譜例36「あなたは言った。確かに、私を愛していると」の旋律が絡まってきて、壮大なコーダを形成します。そしてこのピアノ曲の最後は、初めて現れる「神は我が砦」の完全な形(譜例39)で締めくくられます。


リストは何を「回想」をしたのか
今までの説明をまとめると、リストの『ユグノー教徒の回想』に出てくるオペラ「ユグノー教徒」の旋律は、次のように総括できます。
| ① | 『ユグノー教徒の回想』に出てくる旋律は、ほとんどがオペラの第4幕の後半部である「愛の告白シーン」から採られている。 | |
| ② | 例外が2つあって、一つは讃美歌「神は我が砦」であり、もう一つは第5幕の「旧教徒の男たちの合唱」である。 | |
| ③ | 「神は我が砦」は、オペラ「ユグノー教徒」でも、ピアノ曲『ユグノー教徒の回想』でもあちこちに現れ、この点は共通している。しかし、オペラ「ユグノー教徒」では初めから(序曲から)完全な形で現れるが、『ユグノー教徒の回想』では変奏が何回か出てきたあと、一番最後に完全な形で現れる。 |
音楽からみた『ユグノー教徒の回想』の終わり方は、オペラ「ユグノー教徒」とは違います。オペラの最終場面では「神は我が砦」の旋律はかき消されてしまって「旧教徒の男たちの合唱」(譜例38)が大きく響き、そのまま終わります。これは歴史的事実がそのまま音楽に反映しています。しかしリストの『ユグノー教徒の回想』は、「神は我が砦」が最後に高らかに演奏されて(譜例39)終わるのです。まるで新教徒が勝利したような終わり方です。
ここからは全くの想像です。前にも書いたように、サン・バルテルミの虐殺を題材したオペラを作る限り、救いようのない終わり方になるのはやむをえません。そこでリストは、第4幕の「愛の告白シーン」の旋律を集中的に使って、
- 死を予感した新教徒の男性と旧教徒の女性の葛藤と愛の確認を描き、最後の讃美歌によってその愛が天国で成就することを暗示した
オペラの旋律は、それが歌われる場面があり、歌詞が付帯しているので、ある種の「意味」を持ちます。オペラから旋律を選んで、それをモティーフにして曲を作るということは、どういう「意味」の旋律を選ぶかに作曲家の意図が現れると考えてもよいはずです。
マイヤーベーアのオペラ「ユグノー教徒」は、19世紀の当時のパリで大変人気のあった作品で、ロングランを続けたようです。リストはこのピアノ曲を何らかの演奏会で演奏したと思いますが、それを聞いた音楽愛好家の中には、オペラ「ユグノー教徒」を見た人も多かったはずです。リストの『ユグノー教徒の回想』が何をどのように回想しているのか、音楽愛好家ならすぐに分かったのではないでしょうか。
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マリー・ダグー伯爵夫人 | |||
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デザンティ「新しい女 - 19世紀パリ文化界の女王 マリー・ダグー伯爵夫人」(持田明子訳・藤原書店・1991)より引用。 マリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)は、ダニエル・ステルンという筆名の作家でもあり、論文・随筆・小説を執筆した。「1848年革命史」などの著書がある。 | |||
『ユグノー教徒の回想』は、リストがダグー伯爵夫人と生活を共にしている、25歳の時の作品です。NAXOS版 リスト ピアノ曲全集・第1巻の解説によると、『ユグノー教徒の回想』は、リストがマリー・ダグー伯爵夫人に献呈した唯一の曲だそうです。20歳代のリストが、数年間情熱を傾けた6歳年上の伯爵夫人、その彼女に献呈した唯一の曲であることが、この曲の意味を端的に表しているのではと思います。
No.43 - サントリー白州蒸溜所 [本]
No.31「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」はワインの話ではじめたのですが、そこでウイスキーを引き合いに出して、
今回は、ウイスキーそんな単純なものではないことの実証です。もう随分前になりますが、山梨県にあるサントリー白州蒸溜所で、ウイスキー作りの過程を見学したことがあります。ここで「ウイスキーが、いかに複雑なお酒であるか」を納得することになりました。
白州蒸溜所の見学コース
サントリー白州蒸溜所は、中央高速の山梨県・小淵沢インターチェンジの近くで、清里高原や八ヶ岳、蓼科高原にも近いロケーションにあります。南アルプス・甲斐駒ヶ岳へと続く山並みの山麓に蒸溜所はあり、そこはなだらかな傾斜地になっています。ここは一般の人が訪問して、案内ガイドの方に従って、ウイスキー作りのプロセスを見学することができます。
ウイスキー作りは、大きく言うと
①発酵と蒸溜
②貯蔵
③ブレンド
の3つから成り、これが見学コースのポイントでした(もちろんその後に、瓶詰めなどの商品製造工程がある)。この3つの過程に従って、私が見学した時に見聞きしたことをまとめてみます。
まず「発酵」のプロセスは次のように進みます。
次が「蒸溜」です。アルコール発酵させてできたモロミを、ポットスチルというウイスキー独特の銅製の蒸溜釜で蒸溜して、ウイスキーができます。これは後で認識したのですが、2つのポットスチルをワンセットにして使うのですね。1回目が初溜で、2回目が再溜です。モロミのアルコール度は 6~7% ですが、初溜で 22~23% になり、再溜で 65~70% までになります。銅には不快な香りの除去などの作用があるので、ポットスチルを銅で作るのは必須だとのことです。
発酵と蒸溜の過程を見学して思ったのは、現代の最先端工場だということです。よくスコットランドの小さな蒸溜所を紹介する雑誌記事やテレビの紀行番組にありますよね。職人が麦芽をショベルで蒸溜所の木のフロアいっぱいに並べ、部屋の炉でピートを焚いて乾燥させる。昔ながらの伝統を守って、みたいな・・・・・・。白州蒸溜所の「発酵と蒸溜」プロセスには、そういう牧歌的雰囲気は全くありません。完全な「工場」です。
もちろん部分部分の工程は、長年に渡って積み重ねられてきたノウハウのかたまりであることは容易に想像がつきます。しかしそのノウハウは、近代工場の制御システムの中に組み込まれてといった感じです。
この「工場」で印象的だったのは、木製の発酵槽が使われていたことでした。近代的な工場の中に木の設備というのが目立ったのです。なぜ木を使うのかは、あとで書きます。
ポットスチルから滴り落ちたばかりの蒸溜酒を「ニューポット」と言うそうです。これは、全くの無色透明なお酒です。少し試飲しましたが「飲めたものではない」という印象でした。舌を刺すような強い刺激があり、ウイスキーだという感じは全くしない。薬品を飲んでいる感じです。本当はニューポットにも、それなりの味と香りがあるのでしょうが、素人がそれを味わうのは無理だと思いました。
ニューポットは北米産オークの樽に詰められ、貯蔵・熟成されます。見学者が次に案内されるのは貯蔵庫です。
もちろんウイスキー好きであれば、熟成についての大体の予備知識を持っています。ウイスキーは10年、20年と貯蔵されるうちに、樽の木の何百という成分が溶けだして、琥珀色の、まろやかで、複雑な味のウイスキーになる。ウイスキーは樽を通して外気と呼吸していて、この呼吸が熟成の命である。呼吸しているから、年に数%の割合で樽の中身が減っていく。この減少分を「天使の分け前」と言う・・・・・・うんぬん。
実際の貯蔵庫は、想像以上に巨大です。高さ10メートルはありそうな棚の各層にビッシリと樽が積まれ、ズラッと並んでいる。見学者たちは貯蔵庫の入り口から樽の一群を眺め、案内孃の説明を聞きます。説明の内容は忘れましたが、上の予備知識のような内容だったと思います。
そして、案内孃がひと通り説明したあと、見学者の誰かが質問するわけです。
「温度や湿度の管理はどうなっているのですか」
これは極めて自然かつ妥当な質問です。私もこの質問をしようと思っていたのですが、別の人に先を越されました。そして、この質問に対する案内孃の答えに、軽い驚きを覚えました。つまり、
「温度や湿度の管理はしません」
というのがその答えなのです。えっ、と思いますよね。近代的な工場を見てきた直後なので、なおさらです。
この答えから、素人でも類推できることがあります。貯蔵庫には、当然のことながら空気の流れが良い所と、空気が淀む所があるはずです。じめじめして湿気の多い場所も当然ある。普通の家でも、それはあたりまえです。天井に近い所の樽と、床に近い所の樽でも、温度・湿度・通風がかなり違うはずです。ウイスキーは外気と呼吸しています。貯蔵されているウイスキーの樽は、貯蔵庫の中のどの位置どの高さに置かれるかによって、熟成の様子が違うだろう・・・・・・と推測できるのです。
しかも貯蔵庫は一つではありません。白州蒸溜所は山麓の傾斜地に作られていますが、各貯蔵庫は傾斜地の下から上へと、間隔をあけて建てられています。ということは、一番下の貯蔵庫と一番上では標高が違います。高原地帯の山麓なので、霧のかかり具合も違うでしょう。つまり、貯蔵庫ごとにも熟成の様子が違ってくることが想像できるのです。
「温度や湿度の管理はしない」ということから、蒸溜所の立地が重要だと類推できます。同じ日本でも、北か南か、夏の気温はどこまで上がるのか、冬の乾燥度合いはどうなのか、朝夕の寒暖差はどうか、梅雨はあるのかないのか、そばに川があるのか海があるのか、そんなものはないのか・・・・・・、などにより、熟成は違ってくる。サントリーの白州(山梨)と山崎(大阪)、ニッカの余市(北海道)と宮城峡(宮城)の各蒸溜所は、明らかに気候条件が違います。そもそも、酒作りに利用する地下水の質からして違うでしょう。とすると、ウイスキー原酒の味・香りは違ってくるはずです。
要するにウイスキーの熟成では、人間は「何もしない」のです。そこにある自然に、完全に任せる。サントリーのCMのキャッチ・コピーで「何も足さない、何も引かない」というのがありました。私はこれを「ウイスキーの成分を、人為的に足したり、引いたりはしない」という意味だとばかり思っていました。もちろんそういう意味もあるのでしょうが、本質的には「ウイスキーの熟成条件に、人為的に手を加えない。条件を足したり、引いたりはしない」という意味だと考えた方が良い。この意味の方が重要です。
「温度や湿度の管理はしない」という案内孃の答えは、我々が現代の食品製造に抱いている暗黙の考えを見事に裏切っています。ウイスキーの貯蔵庫は、醗酵と蒸溜のプロセスで見た最先端工場とは全く対極の姿なのです。そこが驚きでした。
3番目の見学ポイントは「ブレンド」です。さすがにブレンダーの方がいる部屋を見学するわけではないのですが、ブレンドについての展示がある部屋で、案内孃の説明を聞きます。樽の貯蔵庫で「軽い驚き」を覚えているので、人間の感覚だけに依存したブレンドというのは「すごい技術」であることが分かります。
不思議なのは「オールド」や「ローヤル」などの定番ウイスキーの味と香りを、どうやって一定に保つのだろう、ということです。蒸溜したニューポットを樽に詰めた段階で、これは「オールド」用、これは「ローヤル」用と決めて、熟成のやり方コントロールするのではない。あくまで、10年という単位で自然に熟成した結果を判断し、個性が微妙に違う樽のモルト原酒やグレーン原酒をブレンドして、「オールド」の味や「ローヤル」の味を人間が、感覚をたよりに、人為的に作り出しているわけです。それぞれのブランドには固定ファンがいるはずです。味や香りが変わるのをファンは嫌うでしょう。変わると売れ行きにも影響するはずです。ウイスキーというビジネスは、ブレンダーの方の感覚に依存するビジネスである、と理解できました。
まとめると、ウイスキー作りの3段階は、それぞれ主役が全く違います。つまり、
『ウイスキーは日本の酒である』
最近、サントリーのチーフブレンダーの輿水精一氏(こしみず せいいち)が、『ウイスキーは日本の酒である』(新潮新書。2011)という本を出版されました。この本を読むと、白州蒸溜所の見学だけでは分からなかった、ウイスキー作りの重要部分が理解できます。大変におもしろい本だったので、以降、この本に沿って、ウイスキー作りポイントとなる部分を少し紹介します。
輿水さんは、サントリーのブレンド室に所属するブレンダーの6人を束ねる立場にあります。上司は副社長ということですがら、役員クラスでしょうか。チーフブレンダーは、サントリーが販売する全てのウイスキーを設計し、その味と香りと品質に責任を持つ立場です。まさにウイスキーというビジネスの要(かなめ)です。
まず、ウイスキーについての基本事項です。
モルト・ウイスキーは、二条大麦の麦芽(モルト)が原料です。蒸溜はポットスチルによる単式蒸溜(初溜と再溜)で行います。白州蒸溜所で作っているのはこれです。
一方、グレーン・ウイスキーは、トウモロコシや小麦、ライ麦、大麦などの穀物(=グレーン)が原料です。通常はポットスチルを使わない連続式蒸溜で行います。
このあたりからの知識が重要です。ブレンディッド・ウイスキーは、ウイスキーの故郷のスコットランドと日本では意味が少し違います。
スコットランドでは、複数の蒸溜所(会社)のモルト原酒を集め、それをグレーン原酒をブレンドします。蒸溜所は約100ヶ所あるので、これが可能になります。モルト原酒を蒸溜所同士で売り買いする商売習慣も昔からあります。蒸溜所を持たずに、ブレンディッド・ウイスキーを作るのが専門の会社もあります。
日本のブレンディッド・ウイスキーも、モルト原酒と、グレーン原酒をブレンドして作ります。通常は数10種類のモルト原酒をブレンドしますが、このモルト原酒は、ブレンディッド・ウイスキーを作る会社の、複数のタイプのモルト原酒です。日本では、会社をまたがって原酒を売り買いする商習慣はありません。
一つ(シングル)の蒸溜所で作られたモルト原酒だけを混ぜて作るのがシングルモルト・ウイスキーです。一つの蒸溜所の複数の樽のモルト原酒を混ぜるのを、ブレンドと区別してヴァッティングと言います。
なお、一つの樽の原酒だけを瓶詰めしたものは、シングルカスクと言います。
ブランドのボトルに表示されている熟成年数の定義ですが、シングルモルトの場合もブレンディッドの場合も、そのウイスキーに使われているモルト原酒で最も若いもの、の熟成年数を言います。
たとえば、サントリーの「響12年」は、熟成年数 12年以上のモルト原酒をヴァッティングして作られています。使われているモルトは20種類以上にもなります。中には、30年超のモルトも隠し味的に使われている、と本にあります。「12年」というブランドは「12年」だけのモルト原酒を使っているのではありません。
熟成年数は、世界的にみて12年が標準です。その理由について、輿水さんは次のように書いています。
さきほど「ニューポットは飲めたものではない」などと書きましたが、それは素人の発言であって、プロからみるとニューポットの持つ「力強さ」は重要であり、それと熟成とのバランスが、ウイスキーの妙味であるようです。
モルト原酒の多様性
ここまでの知識で分かることは、スコットランドにおけるウイスキー作りと違って、日本のウイスキー作りでは「一つの蒸溜所が保有するモルト原酒の多様さ」が非常に大切で、この多様性こそが日本におけるウイスキー・ビジネスの成立要因であることです。サントリーではこの多様性を以下のように作り出しています。
ポットスチルを加熱して蒸溜するときに、蒸気による間接加熱方式と、直火式の加熱方式の両方を使います。スコットランドでは間接加熱方式です。
発酵槽として、ステンレス槽と木桶槽の両方を使います。現在、世界的にメジャーなのはステンレス槽です。
発酵のプロセスにおいては、酵母の働きが終わる頃から、乳酸菌が働き始めます。木桶槽を使う目的は、木桶に乳酸菌を住み付かせ、酵母と乳酸菌の共同作業を強めることです。
なお酵母は、あえてウイスキー酵母に、ビールに使うエール酵母も混ぜて使います。
世界中のウイスキー全てに共通するのは、オーク材で作った樽で貯蔵することです。どんな木で作った樽でもウイスキーがあのように熟成するのではありません。木の種類が決定的に重要です。
しかしサントリーでは、オーク材(主として北米産)以外に、北海道産のミズナラ材も使います。第二次世界大戦当時に、オーク材が自由に調達できないことから始まったようです。ミズナラは日本のウイスキー固有の樽材です。
また樽の鏡板としては、オーク材だけではなく、杉材、檜材、山桜材も使用します。
樽の形状や大きさも、バーレル(180L)から、シェリー樽(480L)まで数種を使い、これもモルトの多様性を生み出します。
ウイスキーの貯蔵には新樽が使われることもありますが、多くはシェリー酒やバーボン・ウイスキーの貯蔵に一度使った樽を再利用します。前にどんな酒を貯蔵したかで、モルト原酒の味や香りは変わってきます。「響12年」は梅酒樽も使用しているようです。
樽は2度、3度、4度と、樽の木の成分が枯れるまで使われます。何回目の貯蔵かによって、熟成も違ってきます。
ブレンディッド・ウイスキーに使うグレーン原酒の多様性も重要なようです。グレーン原酒を製造するサントリーの知多蒸溜所では、クリーン、ミディアム、ヘビーの3タイプを作っている、とあります。
原酒の多様性を維持するために、数々の工夫がされていることが分かります。そして白州蒸溜所の見学で分かった「ウイスキーの貯蔵では、人間は何もしない」という原則も、それがウイスキー作りの伝統であると同時に、モルト原酒の多様性を維持するためであることが想像できます。樽の周囲の気温・湿度・通風の条件の違い、貯蔵庫の違いで、熟成が微妙に変化する・・・・・・。実は、輿水さんの本を読むと「熟成の状況をテイスティングしてみて、樽の貯蔵位置を変えることがある」という意味のことが書いてあります。いくら多様性といっても、商品価値が薄い樽が出来たのでは、企業としてはまずいのです。この「ささやか」な人為的介入の方法も、熟成は自然の力にまかせるという原則の現れだと思いました。
以上のようなモルト原酒の多様性を考えると、ブレンダーの必須条件は、サントリーなら山崎蒸溜所、白州蒸溜所、近江エージングセラー、に貯蔵されている100タイプ、約80万樽について、隅々まで把握していることです。もちろんチーフブレンダーだけでは無理で、6人のブレンダーで分担し、また貯蔵部門の人たちの協力が必須です。知多蒸溜所のグレーン原酒も知っておく必要があります。
定番商品となると、5年先、10年先の在庫状況を予測しながら、来年に使う樽を決めていく必要があるわけです。そのウイスキー会社が持っている在庫全体の知識がないと、ブレンダーは勤まりません。
我々はブレンダーと聞くと、香水の調香師と同じで、鋭敏で研ぎすまされた味覚と嗅覚を持ち、微妙な味と香りの違いを次々と嗅ぎわけていく、天才肌の人、というイメージがあります。もちろんそれは正しいのですが、輿水さんの本で分かることは、ブレンダーの仕事の根幹は日々の、こつこつとした積み重ねなのですね。80万樽の在庫の状況をつぶさに把握し、次に仕込む樽のキャラクターに対する注文を現場に出し、定番商品の味・香り・品質の維持に腐心し、ウイスキー作りの改善を日々重ねていくという、地道な活動です。そこが理解できたのは、この本の収穫でした。
定番商品
白州蒸溜所見学記の中で「定番ウイスキーの味と香りを、どうやって一定に保つのだろう」という疑問を書きました。それを実現しているのは、ブレンダーの在庫把握力と味・香りに対する感性なのですが、このことについて書いている輿水さんの文章を紹介しておきます。厳密に言うと定番商品の味と香りを一定には保てない、とのことなのです。
なるほど・・・・・・。私には、2008年の『ローヤル』と2009年の『ローヤル』の違いが全くわからない「自信」がありますが、ウイスキー・ファンの中にはそれが分かる人がいるようなのですね。
いや、待てよ・・・・・・。輿水さんが
ジャパニーズ・ウイスキー
輿水さんの本によると、世界の5大ウイスキーは
◆スコッチ
◆アイリッシュ
◆アメリカン
◆カナディアン
◆ジャパニーズ
であり、ジャパニーズ・ウイスキーは5大ウイスキーの一角を占めているとのことです。これは、認識を新たにしました。
ISC (International Spirits Challenge) という、ウイスキーの有名なコンペティションがあります。2003年にサントリーの『山崎12年』がISCの金賞をとり、ここから日本製のウイスキーの快進撃がはじまりました。2004年には、ISC最高賞トロフィーを(響30年)、2010年にはサントリーが「ディスティラー・オブ・ザ・イヤー」に輝きました。またウイスキー・マガジンが主催する WWA (World Whisky Award) でも、ニッカを含めて、数々のトロフィーを受賞しています。
モルト原酒の多様性で紹介したように、ジャパニーズ・ウイスキーの作り方はスコットランドと比較していろいろと違います。もともとスコッチに学んだものですが、日本で独自の発達を遂げたわけです。樽にしても、ミズナラを使ったり、鏡板に杉を使ったりと、スコッチではありえないようなことをやっています。日本で独自の発達をしたウイスキー作りが、やがて品質の高さで世界に認められ、5大ウイスキーの一角を占めるまでになったわけです。
このストーリーは何かに似ています。つまり、No.38「ガラパゴスの価値」で書いた、日本で独自の発達を遂げた工業製品が、やがて世界に認められ、グローバルなビジネス展開に至る、というストーリーとそっくりなのです。No.38 では、クルマ、オートバイ、デジタルカメラ、ビデオカメラ、複写機、の例を書きました。ウイスキーはまさに、これらの工業製品と同じ道をたどった(たどりつつある)わけです。
とにかく徹底的に品質にこだわる。新しい試みにチャレンジしつつ、日々の改善を怠らない。長期的視野で人を育成し、技術の蓄積をはかる。貯蔵担当者のような現場のプロを大切にする・・・・・・。輿水さんの本から読み取れる「日本のウイスキー作りの極意」は、まさに日本の「ものづくり」の成功要因そのものなのです。それが理解できたことだけでも『ウイスキーは日本の酒である』という本の価値はあると思いました。
ここからは補足です。「ウイスキーは日本の酒である」の著者である輿水さんは、サントリーの山崎蒸溜所に勤務しています。この「山崎」というのは、知っている方はたくさんいると思いますが、大阪府の京都との府境近くであり、蒸溜所のすぐそばを、名神高速道路、新幹線、JR東海道線、阪急電車が通っています。東海道という日本の交通の大動脈に近接していると同時に、大阪・京都という大都会の目と鼻の先なのです。また蒸溜所のすぐそばにはマンションが建っていて、町並みが迫っています。
なぜサントリーは山崎に蒸溜所を作ったのか。それは近くに3つの川の合流点があり霧が発生しやすいという条件もあるのですが、大きなものはウイスキー作り・酒作りに欠かせない水です。その水は、山崎の後背地に広がる山(天王山)と、そこの森林や竹林が生み出すものなのです。No.37「富士山型の愛国心」で、日本の誇るべきものとして「国土面積に比較して広大な森林が保持されていること」を書きましたが、まさに山崎蒸溜所は、その自然環境の恩恵にあずかっています。
こういった国の交通の大動脈の近傍、大都会と目と鼻の先の蒸溜所というのは、世界でも珍しいのではないでしょうか。サントリーの Web サイトを見ると、山崎蒸溜所の写真として、いかにも「自然の中にある」という印象を与える光景がのっています。しかし山崎蒸溜所を紹介するなら、もっと引いて撮った写真、新幹線と鉄道と高速道路とマンションと町並みと蒸溜所が共存している写真ものせたほうが良い。山崎蒸溜所で作られたシングルモルト・ウイスキーは、ISC の国際舞台で数々の賞をとっています。そのウイスキーは、「新幹線・高速道路・鉄道・市街地」と「森林をバックにした蒸溜所」が共存している中で作られたと、世界にアッピールした方が良いと思うのです。都市文明と森林の共存は日本の特質なのだから・・・・・・。
- シングルモルト・ウイスキーは個性が際だっている。ブレンド・ウイスキーはバランスがよい。
今回は、ウイスキーそんな単純なものではないことの実証です。もう随分前になりますが、山梨県にあるサントリー白州蒸溜所で、ウイスキー作りの過程を見学したことがあります。ここで「ウイスキーが、いかに複雑なお酒であるか」を納得することになりました。
白州蒸溜所の見学コース
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| サントリー白州蒸溜所   [site : SUNTORY] |
サントリー白州蒸溜所は、中央高速の山梨県・小淵沢インターチェンジの近くで、清里高原や八ヶ岳、蓼科高原にも近いロケーションにあります。南アルプス・甲斐駒ヶ岳へと続く山並みの山麓に蒸溜所はあり、そこはなだらかな傾斜地になっています。ここは一般の人が訪問して、案内ガイドの方に従って、ウイスキー作りのプロセスを見学することができます。
ウイスキー作りは、大きく言うと
①発酵と蒸溜
②貯蔵
③ブレンド
の3つから成り、これが見学コースのポイントでした(もちろんその後に、瓶詰めなどの商品製造工程がある)。この3つの過程に従って、私が見学した時に見聞きしたことをまとめてみます。
|  発酵と蒸溜  |
まず「発酵」のプロセスは次のように進みます。
| ◆ | 大麦を発芽させ、乾燥させて発芽を止め、麦芽(モルト)を作る。この時、ピートを焚いて香りをつける。 | |
| ◆ | 麦芽を粉砕し、温水を加え、濾過し、麦汁を作る。 | |
| ◆ | 麦汁に酵母を加えて発酵槽で発酵させ、モロミを作る。 |
次が「蒸溜」です。アルコール発酵させてできたモロミを、ポットスチルというウイスキー独特の銅製の蒸溜釜で蒸溜して、ウイスキーができます。これは後で認識したのですが、2つのポットスチルをワンセットにして使うのですね。1回目が初溜で、2回目が再溜です。モロミのアルコール度は 6~7% ですが、初溜で 22~23% になり、再溜で 65~70% までになります。銅には不快な香りの除去などの作用があるので、ポットスチルを銅で作るのは必須だとのことです。
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[site : SUNTORY ] |
もちろん部分部分の工程は、長年に渡って積み重ねられてきたノウハウのかたまりであることは容易に想像がつきます。しかしそのノウハウは、近代工場の制御システムの中に組み込まれてといった感じです。
この「工場」で印象的だったのは、木製の発酵槽が使われていたことでした。近代的な工場の中に木の設備というのが目立ったのです。なぜ木を使うのかは、あとで書きます。
ポットスチルから滴り落ちたばかりの蒸溜酒を「ニューポット」と言うそうです。これは、全くの無色透明なお酒です。少し試飲しましたが「飲めたものではない」という印象でした。舌を刺すような強い刺激があり、ウイスキーだという感じは全くしない。薬品を飲んでいる感じです。本当はニューポットにも、それなりの味と香りがあるのでしょうが、素人がそれを味わうのは無理だと思いました。
|  貯蔵  |
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白州蒸溜所の貯蔵庫 [site : SUNTORY ] | |||
もちろんウイスキー好きであれば、熟成についての大体の予備知識を持っています。ウイスキーは10年、20年と貯蔵されるうちに、樽の木の何百という成分が溶けだして、琥珀色の、まろやかで、複雑な味のウイスキーになる。ウイスキーは樽を通して外気と呼吸していて、この呼吸が熟成の命である。呼吸しているから、年に数%の割合で樽の中身が減っていく。この減少分を「天使の分け前」と言う・・・・・・うんぬん。
実際の貯蔵庫は、想像以上に巨大です。高さ10メートルはありそうな棚の各層にビッシリと樽が積まれ、ズラッと並んでいる。見学者たちは貯蔵庫の入り口から樽の一群を眺め、案内孃の説明を聞きます。説明の内容は忘れましたが、上の予備知識のような内容だったと思います。
そして、案内孃がひと通り説明したあと、見学者の誰かが質問するわけです。
「温度や湿度の管理はどうなっているのですか」
これは極めて自然かつ妥当な質問です。私もこの質問をしようと思っていたのですが、別の人に先を越されました。そして、この質問に対する案内孃の答えに、軽い驚きを覚えました。つまり、
「温度や湿度の管理はしません」
というのがその答えなのです。えっ、と思いますよね。近代的な工場を見てきた直後なので、なおさらです。
この答えから、素人でも類推できることがあります。貯蔵庫には、当然のことながら空気の流れが良い所と、空気が淀む所があるはずです。じめじめして湿気の多い場所も当然ある。普通の家でも、それはあたりまえです。天井に近い所の樽と、床に近い所の樽でも、温度・湿度・通風がかなり違うはずです。ウイスキーは外気と呼吸しています。貯蔵されているウイスキーの樽は、貯蔵庫の中のどの位置どの高さに置かれるかによって、熟成の様子が違うだろう・・・・・・と推測できるのです。
しかも貯蔵庫は一つではありません。白州蒸溜所は山麓の傾斜地に作られていますが、各貯蔵庫は傾斜地の下から上へと、間隔をあけて建てられています。ということは、一番下の貯蔵庫と一番上では標高が違います。高原地帯の山麓なので、霧のかかり具合も違うでしょう。つまり、貯蔵庫ごとにも熟成の様子が違ってくることが想像できるのです。
「温度や湿度の管理はしない」ということから、蒸溜所の立地が重要だと類推できます。同じ日本でも、北か南か、夏の気温はどこまで上がるのか、冬の乾燥度合いはどうなのか、朝夕の寒暖差はどうか、梅雨はあるのかないのか、そばに川があるのか海があるのか、そんなものはないのか・・・・・・、などにより、熟成は違ってくる。サントリーの白州(山梨)と山崎(大阪)、ニッカの余市(北海道)と宮城峡(宮城)の各蒸溜所は、明らかに気候条件が違います。そもそも、酒作りに利用する地下水の質からして違うでしょう。とすると、ウイスキー原酒の味・香りは違ってくるはずです。
要するにウイスキーの熟成では、人間は「何もしない」のです。そこにある自然に、完全に任せる。サントリーのCMのキャッチ・コピーで「何も足さない、何も引かない」というのがありました。私はこれを「ウイスキーの成分を、人為的に足したり、引いたりはしない」という意味だとばかり思っていました。もちろんそういう意味もあるのでしょうが、本質的には「ウイスキーの熟成条件に、人為的に手を加えない。条件を足したり、引いたりはしない」という意味だと考えた方が良い。この意味の方が重要です。
「温度や湿度の管理はしない」という案内孃の答えは、我々が現代の食品製造に抱いている暗黙の考えを見事に裏切っています。ウイスキーの貯蔵庫は、醗酵と蒸溜のプロセスで見た最先端工場とは全く対極の姿なのです。そこが驚きでした。
|  ブレンド  |
3番目の見学ポイントは「ブレンド」です。さすがにブレンダーの方がいる部屋を見学するわけではないのですが、ブレンドについての展示がある部屋で、案内孃の説明を聞きます。樽の貯蔵庫で「軽い驚き」を覚えているので、人間の感覚だけに依存したブレンドというのは「すごい技術」であることが分かります。
不思議なのは「オールド」や「ローヤル」などの定番ウイスキーの味と香りを、どうやって一定に保つのだろう、ということです。蒸溜したニューポットを樽に詰めた段階で、これは「オールド」用、これは「ローヤル」用と決めて、熟成のやり方コントロールするのではない。あくまで、10年という単位で自然に熟成した結果を判断し、個性が微妙に違う樽のモルト原酒やグレーン原酒をブレンドして、「オールド」の味や「ローヤル」の味を人間が、感覚をたよりに、人為的に作り出しているわけです。それぞれのブランドには固定ファンがいるはずです。味や香りが変わるのをファンは嫌うでしょう。変わると売れ行きにも影響するはずです。ウイスキーというビジネスは、ブレンダーの方の感覚に依存するビジネスである、と理解できました。
- 余談ですが、サントリーがビールの「モルツ」を発売して以降、私はモルツばかりを飲んでいました。しかし今はモルツ「指名買い」することはありません。サントリーが途中でモルツの味を変えたからで、その変更が私にとっては「好ましくない方向への変更」だったからです。サントリーは少なくとも一人の「固定客」を失ったわけです。これはあくまで個人の嗜好の問題です。今の方が良いという人も当然いると思います。
まとめると、ウイスキー作りの3段階は、それぞれ主役が全く違います。つまり、
-
①発酵と蒸溜
人間の知恵が主役(蓄積したノウハウの工業化)
②貯蔵
自然が主役(人間は全く手を出さない)
③ブレンド
人間の感覚が主役(嗅覚と味覚)
『ウイスキーは日本の酒である』
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輿水精一 (新潮新書 2011) | |||
輿水さんは、サントリーのブレンド室に所属するブレンダーの6人を束ねる立場にあります。上司は副社長ということですがら、役員クラスでしょうか。チーフブレンダーは、サントリーが販売する全てのウイスキーを設計し、その味と香りと品質に責任を持つ立場です。まさにウイスキーというビジネスの要(かなめ)です。
まず、ウイスキーについての基本事項です。
|  モルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキー  |
モルト・ウイスキーは、二条大麦の麦芽(モルト)が原料です。蒸溜はポットスチルによる単式蒸溜(初溜と再溜)で行います。白州蒸溜所で作っているのはこれです。
一方、グレーン・ウイスキーは、トウモロコシや小麦、ライ麦、大麦などの穀物(=グレーン)が原料です。通常はポットスチルを使わない連続式蒸溜で行います。
|  ブレンディッド・ウイスキー  |
このあたりからの知識が重要です。ブレンディッド・ウイスキーは、ウイスキーの故郷のスコットランドと日本では意味が少し違います。
スコットランドでは、複数の蒸溜所(会社)のモルト原酒を集め、それをグレーン原酒をブレンドします。蒸溜所は約100ヶ所あるので、これが可能になります。モルト原酒を蒸溜所同士で売り買いする商売習慣も昔からあります。蒸溜所を持たずに、ブレンディッド・ウイスキーを作るのが専門の会社もあります。
日本のブレンディッド・ウイスキーも、モルト原酒と、グレーン原酒をブレンドして作ります。通常は数10種類のモルト原酒をブレンドしますが、このモルト原酒は、ブレンディッド・ウイスキーを作る会社の、複数のタイプのモルト原酒です。日本では、会社をまたがって原酒を売り買いする商習慣はありません。
|  シングルモルト・ウイスキー  |
一つ(シングル)の蒸溜所で作られたモルト原酒だけを混ぜて作るのがシングルモルト・ウイスキーです。一つの蒸溜所の複数の樽のモルト原酒を混ぜるのを、ブレンドと区別してヴァッティングと言います。
なお、一つの樽の原酒だけを瓶詰めしたものは、シングルカスクと言います。
|  熟成年数  |
ブランドのボトルに表示されている熟成年数の定義ですが、シングルモルトの場合もブレンディッドの場合も、そのウイスキーに使われているモルト原酒で最も若いもの、の熟成年数を言います。
たとえば、サントリーの「響12年」は、熟成年数 12年以上のモルト原酒をヴァッティングして作られています。使われているモルトは20種類以上にもなります。中には、30年超のモルトも隠し味的に使われている、と本にあります。「12年」というブランドは「12年」だけのモルト原酒を使っているのではありません。
熟成年数は、世界的にみて12年が標準です。その理由について、輿水さんは次のように書いています。
ニューポットが本来もつ力強さと、樽で熟成させた結果、備わっていく香りの華やかさやまろやかな味わい、その両者の微妙なバランスの間に、複雑系であるウイスキーの、酒としての奥深さがある。 |
さきほど「ニューポットは飲めたものではない」などと書きましたが、それは素人の発言であって、プロからみるとニューポットの持つ「力強さ」は重要であり、それと熟成とのバランスが、ウイスキーの妙味であるようです。
モルト原酒の多様性
ここまでの知識で分かることは、スコットランドにおけるウイスキー作りと違って、日本のウイスキー作りでは「一つの蒸溜所が保有するモルト原酒の多様さ」が非常に大切で、この多様性こそが日本におけるウイスキー・ビジネスの成立要因であることです。サントリーではこの多様性を以下のように作り出しています。
|  ポットスチルの加熱方式  |
ポットスチルを加熱して蒸溜するときに、蒸気による間接加熱方式と、直火式の加熱方式の両方を使います。スコットランドでは間接加熱方式です。
|  発酵桶と酵母の種類  |
発酵槽として、ステンレス槽と木桶槽の両方を使います。現在、世界的にメジャーなのはステンレス槽です。
発酵のプロセスにおいては、酵母の働きが終わる頃から、乳酸菌が働き始めます。木桶槽を使う目的は、木桶に乳酸菌を住み付かせ、酵母と乳酸菌の共同作業を強めることです。
なお酵母は、あえてウイスキー酵母に、ビールに使うエール酵母も混ぜて使います。
|  樽の木材  |
世界中のウイスキー全てに共通するのは、オーク材で作った樽で貯蔵することです。どんな木で作った樽でもウイスキーがあのように熟成するのではありません。木の種類が決定的に重要です。
しかしサントリーでは、オーク材(主として北米産)以外に、北海道産のミズナラ材も使います。第二次世界大戦当時に、オーク材が自由に調達できないことから始まったようです。ミズナラは日本のウイスキー固有の樽材です。
また樽の鏡板としては、オーク材だけではなく、杉材、檜材、山桜材も使用します。
樽の形状や大きさも、バーレル(180L)から、シェリー樽(480L)まで数種を使い、これもモルトの多様性を生み出します。
|  樽の使用履歴  |
ウイスキーの貯蔵には新樽が使われることもありますが、多くはシェリー酒やバーボン・ウイスキーの貯蔵に一度使った樽を再利用します。前にどんな酒を貯蔵したかで、モルト原酒の味や香りは変わってきます。「響12年」は梅酒樽も使用しているようです。
樽は2度、3度、4度と、樽の木の成分が枯れるまで使われます。何回目の貯蔵かによって、熟成も違ってきます。
|  グレーン原酒の多様性  |
ブレンディッド・ウイスキーに使うグレーン原酒の多様性も重要なようです。グレーン原酒を製造するサントリーの知多蒸溜所では、クリーン、ミディアム、ヘビーの3タイプを作っている、とあります。
原酒の多様性を維持するために、数々の工夫がされていることが分かります。そして白州蒸溜所の見学で分かった「ウイスキーの貯蔵では、人間は何もしない」という原則も、それがウイスキー作りの伝統であると同時に、モルト原酒の多様性を維持するためであることが想像できます。樽の周囲の気温・湿度・通風の条件の違い、貯蔵庫の違いで、熟成が微妙に変化する・・・・・・。実は、輿水さんの本を読むと「熟成の状況をテイスティングしてみて、樽の貯蔵位置を変えることがある」という意味のことが書いてあります。いくら多様性といっても、商品価値が薄い樽が出来たのでは、企業としてはまずいのです。この「ささやか」な人為的介入の方法も、熟成は自然の力にまかせるという原則の現れだと思いました。
|  80万樽  |
以上のようなモルト原酒の多様性を考えると、ブレンダーの必須条件は、サントリーなら山崎蒸溜所、白州蒸溜所、近江エージングセラー、に貯蔵されている100タイプ、約80万樽について、隅々まで把握していることです。もちろんチーフブレンダーだけでは無理で、6人のブレンダーで分担し、また貯蔵部門の人たちの協力が必須です。知多蒸溜所のグレーン原酒も知っておく必要があります。
定番商品となると、5年先、10年先の在庫状況を予測しながら、来年に使う樽を決めていく必要があるわけです。そのウイスキー会社が持っている在庫全体の知識がないと、ブレンダーは勤まりません。
我々はブレンダーと聞くと、香水の調香師と同じで、鋭敏で研ぎすまされた味覚と嗅覚を持ち、微妙な味と香りの違いを次々と嗅ぎわけていく、天才肌の人、というイメージがあります。もちろんそれは正しいのですが、輿水さんの本で分かることは、ブレンダーの仕事の根幹は日々の、こつこつとした積み重ねなのですね。80万樽の在庫の状況をつぶさに把握し、次に仕込む樽のキャラクターに対する注文を現場に出し、定番商品の味・香り・品質の維持に腐心し、ウイスキー作りの改善を日々重ねていくという、地道な活動です。そこが理解できたのは、この本の収穫でした。
定番商品
白州蒸溜所見学記の中で「定番ウイスキーの味と香りを、どうやって一定に保つのだろう」という疑問を書きました。それを実現しているのは、ブレンダーの在庫把握力と味・香りに対する感性なのですが、このことについて書いている輿水さんの文章を紹介しておきます。厳密に言うと定番商品の味と香りを一定には保てない、とのことなのです。
とはいえ、毎年、使おうと思う原酒の樽ごとの中身は、やはり微妙に違いがでてきます。定番商品とはいえ、毎年、レシピは変化します。 |
なるほど・・・・・・。私には、2008年の『ローヤル』と2009年の『ローヤル』の違いが全くわからない「自信」がありますが、ウイスキー・ファンの中にはそれが分かる人がいるようなのですね。
いや、待てよ・・・・・・。輿水さんが
- 昨年と今年の違いを感じ取れるようになったら、飲み手としては相当な器量の持ち主といえる
- 違いがわかる人は、まずいないと思う。本当に分かる人があったら、手を挙げてみてください
ジャパニーズ・ウイスキー
輿水さんの本によると、世界の5大ウイスキーは
◆スコッチ
◆アイリッシュ
◆アメリカン
◆カナディアン
◆ジャパニーズ
であり、ジャパニーズ・ウイスキーは5大ウイスキーの一角を占めているとのことです。これは、認識を新たにしました。
ISC (International Spirits Challenge) という、ウイスキーの有名なコンペティションがあります。2003年にサントリーの『山崎12年』がISCの金賞をとり、ここから日本製のウイスキーの快進撃がはじまりました。2004年には、ISC最高賞トロフィーを(響30年)、2010年にはサントリーが「ディスティラー・オブ・ザ・イヤー」に輝きました。またウイスキー・マガジンが主催する WWA (World Whisky Award) でも、ニッカを含めて、数々のトロフィーを受賞しています。
モルト原酒の多様性で紹介したように、ジャパニーズ・ウイスキーの作り方はスコットランドと比較していろいろと違います。もともとスコッチに学んだものですが、日本で独自の発達を遂げたわけです。樽にしても、ミズナラを使ったり、鏡板に杉を使ったりと、スコッチではありえないようなことをやっています。日本で独自の発達をしたウイスキー作りが、やがて品質の高さで世界に認められ、5大ウイスキーの一角を占めるまでになったわけです。
このストーリーは何かに似ています。つまり、No.38「ガラパゴスの価値」で書いた、日本で独自の発達を遂げた工業製品が、やがて世界に認められ、グローバルなビジネス展開に至る、というストーリーとそっくりなのです。No.38 では、クルマ、オートバイ、デジタルカメラ、ビデオカメラ、複写機、の例を書きました。ウイスキーはまさに、これらの工業製品と同じ道をたどった(たどりつつある)わけです。
とにかく徹底的に品質にこだわる。新しい試みにチャレンジしつつ、日々の改善を怠らない。長期的視野で人を育成し、技術の蓄積をはかる。貯蔵担当者のような現場のプロを大切にする・・・・・・。輿水さんの本から読み取れる「日本のウイスキー作りの極意」は、まさに日本の「ものづくり」の成功要因そのものなのです。それが理解できたことだけでも『ウイスキーは日本の酒である』という本の価値はあると思いました。
ここからは補足です。「ウイスキーは日本の酒である」の著者である輿水さんは、サントリーの山崎蒸溜所に勤務しています。この「山崎」というのは、知っている方はたくさんいると思いますが、大阪府の京都との府境近くであり、蒸溜所のすぐそばを、名神高速道路、新幹線、JR東海道線、阪急電車が通っています。東海道という日本の交通の大動脈に近接していると同時に、大阪・京都という大都会の目と鼻の先なのです。また蒸溜所のすぐそばにはマンションが建っていて、町並みが迫っています。
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こういった国の交通の大動脈の近傍、大都会と目と鼻の先の蒸溜所というのは、世界でも珍しいのではないでしょうか。サントリーの Web サイトを見ると、山崎蒸溜所の写真として、いかにも「自然の中にある」という印象を与える光景がのっています。しかし山崎蒸溜所を紹介するなら、もっと引いて撮った写真、新幹線と鉄道と高速道路とマンションと町並みと蒸溜所が共存している写真ものせたほうが良い。山崎蒸溜所で作られたシングルモルト・ウイスキーは、ISC の国際舞台で数々の賞をとっています。そのウイスキーは、「新幹線・高速道路・鉄道・市街地」と「森林をバックにした蒸溜所」が共存している中で作られたと、世界にアッピールした方が良いと思うのです。都市文明と森林の共存は日本の特質なのだから・・・・・・。
No.42 - ふしぎなキリスト教(2) [本]
前回より続く
西洋を作ったキリスト教:資本主義の発達
前回に引き続き『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎・大澤真幸 著。講談社現代新書 2011)の感想です。
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橋爪大三郎・大澤真幸 「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書 2011) | |||
まずその解説をみてみましょう。ポイントはカルヴァン派の救済予定説(予定説)です。つまりカルヴァン派の考え方によると、
| ① | ある人が最後の審判で救済されるかされないかは、あらかじめ神が決めていて、人間の行動がその決定に影響を与えることはできず、 |
| ② | かつ、その神の決定を人間があらかじめ(最後の審判以前に)知ることはできない |
ということなのです。本書で橋爪さんが言っているように、これは一神教の論理のもっとも純粋なヴァージョンであり、一神教を突き詰めて考えるとこうなるわけです。以下、この救済予定説と資本主義の関係を橋爪さんが解説した部分の引用です。
[橋爪] |
この橋爪さんによるヴェーバーの主張の解説は分かります。救済予定説が徹底した時の人間の行動とは、救済予定説から論理的帰結として導かれる人間の行動からはずれた行動になる。なぜならそういう特別な行動をすること自体が神の恩寵だと見なせるから、という論理です。人は勤勉にならざるを得ない。
ここまでは納得なのですが、資本主義の発達の背景の説明としては、問題点が3つあります。
まず第1に、資本主義を成立させるには、その基盤として利子の容認、厳密に言うとキリスト教徒間での利子の容認が必須なことです。本書によると利子の容認はプロテスタントの出現以前から始まっています。本書の立場は、キリスト教における利子の禁止は「困っている同胞を苦しめてはいけない」ということであり、その枠外(たとえば投資のリターンとしての利子)であれば、本来容認してもいい、というものです。プロテスタンティズムが利子を容認したとか、利子の容認を加速させた、ということでもないようなのです。ここは注意すべき点です。
第2は、市場原理にもとづく自由競争がないと資本主義にはならないことです。これは、本書でも少し触れられているように、アダム・スミスの「神の手」論が自由競争を容認するわけですね。これとプロテスタンティズムの関係が、本書の説明としては不明確です。
第3の問題、これが最大の問題なのですが、橋爪さんの解説(する、ヴェーバーの理論)は、カルヴァン派を信仰し予定説を信じた人たちが、
| ・ | 勤勉になる理由は説明されているが |
| ・ | 物財の多さに幸せを感じるようになる理由は説明されていない |
「勤勉だが、清貧」というのでは資本主義になりません。もちろん局所的には「勤勉で清貧」が成立します。子供に財産を残すために勤勉に働き、自分は清貧に生きる、というのは全く問題がない。「勤勉で清貧」はミクロ的には十分可能です。
しかしマクロ経済の観点では、経済のバランスがくずれます。全員が「勤勉で清貧」では、資本主義が発達しないのです。資本主義が発達するためには、
・物財の多さに幸せを感じる精神
が必要です。つまり「清貧を否定する論理」が是非とも必要なのです。
極端な例かもしれませんが、アメリカのペンシルヴァニア州に「アーミッシュ」と呼ばれる、プロテスタントの一派の人たちがいます。この人たちは「勤勉だけど、物財の多さに幸せを感じる精神を徹底して否定した生活」を送っています。つまり開拓時代のアメリカそのままの生活をしています。そのことで清貧に生きることを自らに課しているわけです。いくら企業が自動車やスマートフォンを作ってもアーミッシュの人たちには売れません。つまり、この資本主義社会においても局所的ならアーミッシュは成立するのですが、プロテスタント全員がアーミッシュのようなら資本主義は発達しません。
さらに資本主義の発達のためには「清貧を否定する論理」だけでなく
・物財の所有量における格差の容認
も同時に必要です。資本主義は「格差と差異」の上に成り立っていて、それが資本主義をドライブしています。現代中国を「中国型資本主義」転換させた政治家は鄧小平ですが、彼は「先富論」を唱えました。「可能な者から先に裕福になれ」という意味です。言い方は美しいけど、要するにこれは「格差を容認する」ということに他なりません。
新約聖書においてイエスは、物財の多さに幸せを感じるという考えでは天国に行けない、という意味の説教を何回もしていますね。「富む者は天国に行けない」と明確に教えています。つまり清貧を推奨している。また、富を持つものは貧者に分け与えよという、格差の容認とは反対の意味のことも言っています。これは資本主義の成立条件とは全く逆です。
「物財の多さに幸せを感じる精神と、物財の所有における格差の容認」が、プロテスタンティズムからどのように導かれるのか、本書にはその説明がありません。ここが、キリスト教が「西洋」を作ったとする、本書の第3部の最大の問題点です。
さらにもっと言うと、予定説を徹底すると「保険」という概念は成立しないのではないでしょうか。「保険」というのは将来起こりうるリスクを想定し、そのリスクをヘッジする手段をあらかじめとっておくということです。「ベニスの商人」のアントニオを思い出します。たとえば船を仕立てて異国の産物を輸入するために(仮にですが)全財産を投資すると、航海が成功したときは大金が転がり込むのですが、船が難破したら一文無しになってしまいます。このたぐいのリスクをヘッジするために、ロイズのような保険組合が発達してくるのですね。「保険」は資本主義経済を発達させた根幹のメカニズムの一つだと思います。
この「リスクの想定」というのは、神の計画をあらかじめ人間が推定していることにならないのでしょうか。一神教の論理を最もピュアに徹底させた「予定説」的な考えに反するように思えます。このあたりは、本書の著者に是非聞いてみたいところです。
勤勉に働き、物材の多さに幸せを感じ、市場経済による自由競争を容認し、経済格差を容認し、リスクをとってチャレンジする・・・・・・。この資本主義の精神が、本書が解説しているようにプロテスタントの精神に起因するとしたなら、プロテスタントはトラディショナルなカトリックの秩序と制約を壊したところにこそ意義があるのだと見えます。
西洋近代社会、特に近代資本主義世界を作った中心的な国は、イギリス、オランダ、フランス、ドイツですが、これらの国は、宗教改革後のプロテスタンティズムの国か、王朝と教会の秩序を破壊した「大革命」を経験した国です。つまり、これらの国には明確な共通点があるのです。キリスト教の範疇にとどまりながら、既存の(カトリックの)教会秩序を破壊した国という共通点です。ここにこそ、近代を作った要因があるように思います。
- ちなみにフランス革命(1789- )においては、ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑があまりにも有名なため、革命派が攻撃した「旧体制」は王侯・貴族だけだと誤解しそうですが、もちろんそうではありません。革命派が攻撃したもう一つの旧体制は教会と聖職者です。教会の資産が没収され、数々の教会や修道院が閉鎖され、革命に忠誠を宣誓しない聖職者が投獄されたり処刑されたりしました。1794年には、カトリックの一派であるカルメル会の修道女・16人が反革命ということで処刑されました。この件を踏まえて作られたオペラが、プーランクの「カルメル会修道女の対話」です。
・マリー・アントワネットの処刑(1793.10.16)
・カルメル会修道女16人の処刑(1794. 7.17)
の2つが、フランス革命を典型的に象徴する出来事だと思います。
キリスト教からの脱却
キリスト教が西洋を作ったというのが『ふしぎなキリスト教』の根本命題であり、それは全くその通りだと思いますが、キリスト教からの脱却が西洋を作った面も強くあります。「脱却」も影響の一つだと言ってしまえばそうなのですが、よく知られているようにキリスト教から離れることで可能になった西洋文化も多い。典型的なのは芸術や文学です。
西洋の音楽も絵画もキリスト教が作ったことは確かですが、しかしそれだけでは我々のなじみの深い音楽も絵画もありえません。その典型がギリシャ・ローマ文化の復興を旗印にしたルネサンスの芸術です。
フィレンツェのウフィツィ美術館に行き、順路に沿って見学していくと、途中にボッティチェリの作品が展示してある大きな部屋に出ます。ここまで来ると、何となくホッとするのですね。その部屋の「目玉作品」である「プリマベーラ(春)」も「ヴィーナスの誕生」も、キリスト教とは無縁の、ギリシャ・ローマ神話に基づく作品だからです。もちろん同じ部屋にはボッティチェリのキリスト教絵画もあります。しかし「ざくろの聖母」(これは傑作です)を見ても、聖母マリアと幼な子イエスという以上に、生身の女性と赤ちゃんという感じが強くするのです。
前回に掲げた「マルタとマリアの家のキリスト」は、画家・フェルメールがキリスト教絵画から出発したことの証明です。しかしその後、オランダ市民の風俗を描くようになった。フェルメールの「至宝」と言われる絵画は全て風俗画(と、風景画 = デルフトの眺望)です。そしてフェルメールの風俗画にちりばめられているのは「手紙」「地図」「地球儀」「望遠鏡」「ガラス窓」といった、当時の西洋近代文明を象徴するアイテムなのです。
べートーべンの楽曲の人気も「宗教から脱却している感じ」ではないでしょうか。べートーべンは宗教曲も書いているし宗教的雰囲気の作品もあるのですが、標題を持つ交響曲、ないしは標題性の強い交響曲である「英雄」「運命」「田園」「七番」「第九」などは、宗教と離れている感じが強い。歌詞がある「第九」も、神の栄光が主役ではない感じです。
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ディズニー「ファンタジア」
ベートーベン「田園交響曲」第3楽章(農民達の楽しい集い)のところのアニメーション。神々が葡萄を収穫し、ワインをつくる。 | |||
文学で言うと、シェイクスピアの人気も「キリスト教と無縁な感じ」ではないでしょうか。古代ローマやヴェネチアやヴェローナが舞台の戯曲は宗教とは無縁だし、「真夏の夜の夢」や「テンペスト」では妖精たちが闊歩します。
本書には書いていませんが、キリスト教から離れるという「脱却指向」が西洋を作ったということも、言うまでもないでしょう。もともとキリスト教という中東文化は、西暦4世紀以前の西ヨーロッパの文化的伝統とは無縁のものです。それは、No.24-27「ローマ人の物語」で明白に分かるように、ローマ帝政がヨーロッパ社会に押しつけたものです。押しつけられたものからの脱却指向がエネルギーとなって噴出し、それが新たな文化の伝統を作る・・・・・・。歴史ではよくあることだと思います。
キリスト教と近代文明:キリスト教の相対化
以下では本書の直接の紹介を少し離れて、本書の中心テーマであるキリスト教と近代文明の関係について、感想を中心に記述します。
本書が冒頭に掲げているキリスト教を知る目的は、近代社会のが抱える問題を考えるために近代を相対化したい、そのためには西洋を相対化したい、ということでした。この意味では、キリスト教の相対化も必要なはずです。特に一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の比較で客観視するのではなく、他の宗教、特に仏教や儒教、ヒンドゥー教、日本の神道などとの比較において、キリスト教を相対化する作業です。
相対化というのは、一段階高い視点から、対立項も含めて客観的・俯瞰的に把握し、その意味を理解し、位置づけを明らかにする、ということだと思います。もう少し踏み込むと、高い視点から宗教を比較し、プラスとマイナス、ポジティヴな面とネガティブな面、光と影を明らかにすることです。以下に何点かあげます。
この世界における人間中心主義
一神教における神と人間の関係、つまり「主人・奴隷原理」は、人間が住む世界では、
・人間 = 主人
・自然 = 奴隷
という関係に容易に転化します。それは、神の摂理を理解できる理性を持っているのは人間だけだ(と仮定される)からです。別の言葉でいうと、地球上では「人間」と「人間以外の自然」の関係において人間中心になるということです。このことは本書においても以下のように解説されています。
[橋爪] |
「クジラに脂身がたくさんあって油が採れるとなれば、クジラを獲ってロウソクをつくってもいい」と書かれているのが印象的ですね。No.20「鯨と人間(1)西欧・アメリカ・白鯨」で書いたように、大西洋・太平洋をまたにかけ、鯨油のために鯨を捕りまくったのはキリスト教徒、特にオランダ、イギリス、アメリカのプロテスタントです。アメリカ東海岸の捕鯨産業がクエーカー教徒によって築かれたことも書きました。また、N0.20 で触れたハーマン・メルヴィルの「白鯨」は、聖書に由来する言説や比喩、暗喩に満ちています。「白鯨」は「捕鯨文学」であると同時に「キリスト教文学」と言ってもよいほどだと思います。
ここで橋爪さんは一神教の重要な性格を言っています。一神教は「神はこの世界にはいない、と考える宗教」なのですね。これは、雷鳴が轟くとゼウスのしわざと考える古代ギリシャや、巨樹や滝に神が宿る、ないしは降臨すると考える日本とは大きな違いです。「唯一の超越者」を想定すると、その超越者はこの世界にはいないと考えるしかない。この世界は人間に任されている・・・・・・。これは論理的帰結として当然そうなると思います。
人間の自然に対する自由利用権という考えは、もちろん人間社会における富の増大には大いに役立ったのですが、その一方で、鯨を絶滅危惧種に追い込んだことに象徴されるような大きな問題点を抱え込んでしまったことも明白です。
神に帰依しないものへの非寛容
一神教の大きな特性は「神に帰依しないものへの非寛容」ということだと思います。この非寛容については、No.25「ローマ人の物語(2)宗教の破壊」で詳しく見た通りです。そもそも塩野七生さんの「ローマ人の物語」は寛容と非寛容が大きなテーマとなっていました。
旧約聖書では、エジプトを出たユダヤの民がカナンの地に入り、周辺民族を殲滅して国をつくるわけですが、かなり壮絶な記述が数々ありますね。「7つの民を滅ぼせ」(申命記:7章)はその典型です。
| 「 | あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさなければならない」(新共同訳聖書。以下同じ) |
| 「 | あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである」 |
アシェラはユダヤ教からみた、いわゆる「異教」です。2項目の「あなたのなすべきことは・・・・・・」という記述などは、No.25「ローマ人の物語(2)宗教の破壊」で紹介した内容、つまりキリスト教国教化のあとでローマ帝国で起こった事態とそっくりです。
ヨシュア記では、モーゼの後継者であるヨシュアに率いられたユダヤの民がヨルダン川を渡り、カナンの地に入り、そこの部族を次々と殲滅していきます。
| 「 | 彼らは、剣をもってハツォルの全住民を撃ち、滅ぼし尽くして息ある者を一人も残さず、ハツォルを火で焼いた。」(ヨシュア記:11章) |
といった記述が続くのですが、特に印象的なのは、他の神を祭る人たちを改宗させようとはしないのですね。世界史をみると「改宗か死かという最後通牒を宗教上の敵対者に迫った事例」は、日本を含めて数限りなくあるのですが、ユダヤの民はそうではない。改宗してユダヤの神に帰依する人が増えると困るのでしょう。それだけ選民思想が徹底していたのだと思います。建国の経緯がこれだけ他民族に対して非寛容だと、ユダヤの民が国を滅ぼされてもやむを得ないという気もします。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンの地に入り、そこの部族を次々と殲滅していくストーリーは、ヨーロッパのキリスト教徒が南北アメリカ、オセアニアで国をつくった経緯とそっくりです。さすがに先住民族絶滅は少ないのですが、しかし、タスマニア人は絶滅させられました。本書でも記述がある、預言者エリヤがバアルの司祭450人を殺害した件(列王記 上:18章)は、No.28「マヤ文明の抹殺」で書いた状況と酷似しています。バアルも、いわゆる「異教」です。
こうしてみると、プロテスタントが始めた各国語訳の聖書は、極めて大きな転換だったと思います。それまではラテン語で書かれた聖書を聖職者が解読し、聖職者が民衆に説教していた。ところがルターから始まった宗教改革では、それではまずいとしてドイツ語訳などの各国語訳聖書を作った。とすると、小さい頃から自国語の聖書を熟読し、慣れ親しむ人たちが出てきます。そういう人たちはどういう考えを抱くのでしょうか。聖書には「愛」が語られています。と同時に「自分たちの神を崇拝しない部族を滅ぼせ」とも言っている。こういった記述は、人々の潜在意識に刻み込まれるのではないでしょうか。
この種の非寛容が歴史書の記述であるなら分かります。どの民族も、多かれ少なかれ他民族に対して「非寛容」だった歴史があるからです。歴史的事実をどう受け止めるか、それは読む人が考えるべきことです。歴史を記述した教科書に対して「特定の歴史観を強制するものだ」とか「いやそうではない」という論争があるぐらいなのだから・・・・・・・。しかし聖書では「宗教の聖典」にこういう記述があるのですね。これは影響が大きいのではないでしょうか。
唯一の正義
キリスト教のバックになっている考え方、つまり、
- 唯一の全知の超越者があり、それが人々のディテールを知っており、人はその超越者が示す規範にのっとって生きるべきだという考え方
唯一の正義を振りかざすのがまずいのは、Aさん(A国)の正義とBさん(B国)の正義は違うからで、互いに唯一性を主張すると戦いになるからでです。また唯一の正義を掲げると、その正義の枠組に入らないものがA国の中にもたくさん出てくるので、それらは「反正義」「非正義」「不正義」であり、「悪」として排除することになります。善悪2元論になるのは目に見えています。
世の中には「何かの欠如としてしか定義できないもの、ないしは定義してはいけないもの」がありますね。「平和」という概念がそうです。
「平和」というのは「戦争がない」ということです。それ以上のことを「平和」の定義とするとおかしくなる。たとえば「戦争がなく、民主主義で社会が運営されているのが平和な社会だ」などと考えてしまうと、平和な社会の実現を掲げ、民主主義の実現のために他国に戦争をしかける、という倒錯状態に陥らないとも限らない。
正義も平和に似ています。正義は「不正の欠如」です。何が「不正」であり「悪」であるかは、世界共通的なものもあるが、地域や文化によって相違しているものも多いわけです。従って「不正の欠如状態」が「正義が実現されている状態」と考えるしかない。それ以上の、特定のものの考え方や理念や政治思想を「正義」だとするとおかしくなります。正義の実現を掲げて不正を働くという倒錯に陥るのです。
No.20「鯨と人間(1)欧州・アメリカ・白鯨」で書いた「動物愛護テロ」はその典型でしょう。動物愛護というのは動物虐待をなくすということが目的のはずなのに、虐待がないということをはるかに越えた、何か崇高な唯一の正義としての「愛護」を想定してしまうと、愛護のためにテロを起こすという倒錯状態になります。
「正義」や「平和」などの「誰しも認めざるを得ない崇高な価値や理念」は、その定義のしかた、意味内容によくよく注意しないと、それこそ悲惨な結果を招くと思います。
矛盾と二者択一
科学と宗教が矛盾したとき、現代のキリスト教徒がどう考えるかについての議論が本書にあります。例としてあげられているのは、人間が下等な動物から進化したとする進化論と、人間は神によって(今の形で)創造されたとする創造説の矛盾です。
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少数派とは言え、図B派はアメリカではそれなりの数になります。昔ですが「進化論を学校で教えてはいけない」という法律を成立させた州がありましたね。過半数の州議会議員が賛成したということです。実際に進化論を教えた先生が起訴されたこともありました。また最近では「神による創造」を「インテリジェント・デザイン(ID)」と言い換えて、それを進化論と並んで学校で教えよといった運動をしている人たちがいます。近代国家としては信じがたいことなのですが、それだけ図Bのように考える人がいるということでしょう。
『ふしぎなキリスト教』で指摘されていますが、図Aと図Bは似ています。両方とも「矛盾するものの両方を正しいと考えることができない、きわめつきの合理主義」(本書)だからです。表裏一体と言っていいでしょう。
一方、たとえば大多数の日本人は、科学と宗教の矛盾に直面したときには、図Aのように考えるか、ないしは図Cのように考えると思います。図Cというのは「宗教環境下では宗教を信じ、実社会では科学を信じる」わけです。矛盾していると言われるかもしれないけれど、これで何かまずいことがあるとも思えないのです。そもそも日本人のとらえ方としては「宗教と科学が矛盾する」ということ自体が変である。実際のところ、仏教や神道の教えは「科学のスコープ外」のことを言っており、科学と矛盾するものではない。むしろ「諸行無常」にしろ「自然に神が宿る」にしろ、どちらかと言うと科学と整合的である・・・・・・。これが大多数の日本人の暗黙の考えなのではないでしょうか。
図AとB、図Cを、宗教と科学の関係ではなく一般的に社会における「矛盾するもののとらえ方」だとしましょう。そうすると、AやBのように「矛盾をつきつめて考え、二者択一をする」ことは重要ですが、同時にCのように「二者択一をしないこともまた重要」です。実社会における解決すべき課題の多くは、個人的なものでも国レベルのものでも、体系Aで考えると結論はaであり、体系Bで考えると結論はb、というように矛盾することが多いわけです。しかも困ったことに重要な課題になればなるほど矛盾する。こういったときに大切なのは、
| ◆ | 矛盾を矛盾としてそのまま受け入れ、早急な結論を出さない。 |
| ◆ | 矛盾の自分の中で寝かせて、曖昧性を許容しつつ、考えを巡らす。 |
| ◆ | 対立する矛盾点を最大限に解消する、第3の道を模索する。 |
| ◆ | どうしても対立する一方を採用すべき状況になった時には、決断する。 |
| ◆ | しかしその決断は、その時の外部環境や自分の思いに影響されるから、別の機会に同様の決断をするときには、反対の結果になるかもしれないことを認識しておく。 |
という態度です。
広く浸透した宗教のモノの考え方は、宗教を離れて社会における人間の行動パターンに影響を与えます。だからこそ『ふしぎなキリスト教』は、キリスト教が西洋社会作ったという認識から始まっているし、プロテスタントの精神が資本主義にドライブをかけた、と主張しているわけです。宗教的思考が、宗教とは関係ない実社会での思考に影響することは十分に考えておかないといけません。
図AとBは表裏一体ですが、図Cは違います。キリスト教を相対化する行為では、このあたりの認識も大切だと思います。もちろん一般社会においては、図Cは欧米のキリスト教徒においても普通の思考様式だと思います。あたりまえですが・・・・・・。
- 補足ですが、進化論に関しての図B的な動き、つまり進化論を教えるなという法律を作ったり、インテリジェント・デザイン説を標榜したり、というのは、すべてアメリカのプロテスタントの一部(が中心)ですね。カトリック教会やローマ教皇は、別に進化論を否定していないはずだし、多くのプロテスタントもそうです。図Bというのは「アメリカの特殊事情」という面があることは、要注意だと思います。
コミュニティーの教え
『ふしぎなキリスト教』を読んで強く思うのは、聖書およびイエスの教えは、ユダヤ人社会という、同質的なコミュニティーの中での教えだということです。それを、パウロが普遍宗教=キリスト教にした。パウロがいなかったらキリスト教はなかったということは、本書で何回か強調されていることです。
そもそもイエスの教えは、イスラエルの神がモーゼを通して与えた律法を皆がもっとよく守るように、というのが原点です。それは新約聖書のはじめの方に出てきます。
| 「 | わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきりいっておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(ヨハネ:5章) |
イエスは、このような律法と預言者の成就と完成に加えて、ユダヤ人社会の改革、ないしはユダヤ人コミュニティーの新しい原理を説いたわけで、もちろん「世界宗教を作る」などとは思っていない。イエスの言動は、ユダヤ教という宗教を共有する仲間うちの教えであるという面、つまり
- 皆で助け合い寄り添って、外敵と戦い、集団を維持する必要がある、価値観を共有するコミュニティの中の倫理
本書の第2部の「不可解なたとえ話」にあげられている「不正な管理人」(ルカ:16章)の話がそうです。主人の財産の管理人が、主人に無断で他人への貸し金を減額したが、主人はそれに怒るどころか管理人を褒めたという話です。これなどもユダヤ人社会の中での富の再配分、富める人は貧者に施すべきだ、という教えだとすると分からないでもない。一般化した「経済活動」と考えると、不可解極まりなくなります。
「利子の禁止」もそうですね。「借金をするような、困っている同胞から利子をとってはいけない。無利子で貸すべきだ」という倫理なら分かります。事実、ユダヤ教もキリスト教も利子は禁止ですが、ユダヤ教徒がキリスト教徒から利子をとるのは(また、その逆は)禁止ではない。同胞ではないからです。シェイクスピアの「ベニスの商人」という物語(のシャイロックに関係する部分)が成立するゆえんです。
『ふしぎなキリスト教』には出てきませんが、一般に広まっている聖書の有名な教えを考えてみると、たとえば「敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」(マタイ:5章。ルカ:6章)というのがあります。しかし、本当に自国を滅ぼそうとする敵を愛することはできないわけです。ホロコーストを画策している敵を愛すると、民族は絶滅します。そうではなく、ユダヤの民という同胞の中の敵、神の敵ではない「汝の敵」を愛しなさい、という話だとすると、理解できる。寄り添い、団結して生きていかないと存続することさえ怪しい、厳しい状況におかれたコミュニティの倫理だと思います。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ:5章。ルカ:6章)も同様です。これを一般論として考えると、右の頬を殴られたのに左の頬を出すというのは、これほどの挑発行為はないわけです。しかしユダヤ人社会において争いをやめよ、汝の敵を愛せということの一環なら、分からないでもない。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ:7章)という教えもあります。この「人にしなさい」の「人」が他国や他民族のことだとしたら、こんな迷惑なことはない。他国では価値観が違うのが一般的だからです。「ありがた迷惑」「余計なお世話」というやつです。「ありがた迷惑」ぐらいならまだしも、人類の歴史上の不幸の大きな要因は「自分(自国)がして欲しいと思うことは、人(他国)もして欲しいだろう、と思ってしまう誤解」です。しかもそれは(ひとりよがりの)善意からきているので始末が悪い。しかし、そういう他国や他民族のことではなく、価値観を共有できる同質的なコミュニティ内部の教えだとしたら、これも理解できないことはない。
もともと同胞の中の教えであったものを、パウロが普遍的な世界宗教にした。当然、普遍性にマッチする部分と、普遍的と言うには無理が生じる部分が出てきます。そこは認識しておく必要があると思います。
日本とは何か
本書を読んで分かることの一つは、キリスト教がユダヤ教と違うのはイエス・キリストの存在だけであり(その存在が大きいわけですが)、また、本書で常に対比して語られているイスラム教とも一神教というスキームでは親戚と言える宗教だということです。
キリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教も、中東の近接地域に生まれた、一神教という非常に特別な宗教です。それは言語的には、ヘブライ語(ユダヤ教)、アラム語(キリスト教)、アラビア語(イスラム教)というセム語族の民族から発生したものです。そして世界の多大な地域がこの「中東起源の文化」に、程度の差はあれ「覆われた」わけです。覆われていない地域は僅かです。
「さらに、マルクス主義はキリスト教の直系の子孫です。マルクス主義がキリスト教の種々のコンセプト・部品・考え方で構成した「神がいないキリスト教、形を変えたキリスト教」であることは、本書で何回か言及されていることです。キリスト教を経済学へ(無理やり)応用したとも言えるでしょう。
歴史をマクロ視点で見ると、世界の多大な地域が「中東起源の3宗教か、マルクス主義」で覆われたわけです。覆われていないのは、それこそごく僅かです。人口の多い国では、インド、タイ、日本、韓国、台湾ぐらいでしょうか(他にカンボジアなどの仏教国がある)。そのうちの韓国はクリスチャンが多い国です。人口の3割とか4割はキリスト教徒ですね。
『ふしぎなキリスト教』の「はじめに」に、次のような意味のことが書いてあります。
- 近代の根っこにあるキリスト教を「分かっていない」度合いを調べることができたなら、おそらく日本がトップになるだろう。それは日本人が頭が悪いということではなく「日本があまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあった」からである・・・・・・。
少々意外なのですが、『ふしぎなキリスト教』を読んで分かる重要なことは「日本とは何か」ということです。「キリスト教ないしはその類似思想と、最も関係がない文化的伝統を持ち、かつ近代化に早くから成功した国」、それが世界における日本のポジションなのですね。このポジションは、現代世界の中である種の困難さを伴うかもしれないが、日本人が今さら取捨選択できない以上、その「希少価値」をどう生かしていくかが重要だと思いました。
No.41 - ふしぎなキリスト教(1) [本]
キリスト教への関心
No.24 -27「ローマ人の物語」で、塩野七生・著「ローマ人の物語」の感想を書きましたが、そこでは第14巻の「キリストの勝利」での記述を中心に、ローマ帝国の崩壊を決定づけたキリスト教の国教化と、それに伴うローマ固有の宗教や文化の破壊をテーマにしました。キリスト教は、西ローマ帝国の崩壊後もヨーロッパ社会のコアとなっていきます。
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橋爪大三郎・大澤真幸 「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書 2011) | |||
そのキリスト教とは何かを、非常にコンパクトに、かつ全体的に解説した本が2011年に出版されました。『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書 2011)です。
この本は二人の社会学者の対論です。一人は橋爪大三郎氏(東京工業大学教授)で、もう一人は大澤真幸(まさち)氏(思想月刊誌 主宰)です。ともに東京大学大学院・社会学研究科出身であり、特に橋爪さんは比較宗教学者であって、この本の主旨からすると適任の人でしょう。対論は大澤さんが「キリスト教のふしぎや疑問点」について橋爪さんに質問したり突っ込んだりし、それに橋爪さんが答えるという形になっています。大澤さんも社会学者なので、橋爪さんの意見に異論をはさむシーンもあり、読みごたえのある内容になっています。
そこで、この本の内容の紹介(一部ですが)と、感想を書いてみたいと思います。
なぜキリスト教を語るのか
『ふしぎなキリスト教』の冒頭に「なぜキリスト教を語るのか」について、この本の主旨が書かれています。
それはまず「近代社会」の理解という目的です。つまり
| ◆ | 近代社会とは、西洋的社会がグローバル・スタンダード になっている社会であり | |
| ◆ | その西洋的社会とは、端的に言うとキリスト教型文明社会である |
からです。
現代は「近代社会」のさまざまな問題を乗り越える必要に迫られています。それは環境問題であり、エネルギーの問題であり、異文化の対立や抗争であるわけです。そのためには「近代の相対化」が必要であり、それは「西洋の相対化」ということに他ならない。そのためには、西洋のコアにあるキリスト教の理解が必要です。「相対化」と著者が言っているのは、一つ高い視点から、対立項も含めて客観的・俯瞰的に把握し、その意味を理解し、ポジションを明らかにする、ということだと思います。
ここで「キリスト教が分からないと、西洋や近代社会が分からない」ということではない、ことに注意すべきだと思います。よく知ったかぶりの人が「やっぱりキリスト教が分かってないと、西洋が理解できないよね」と言いますが、そんなことはありません。西洋を理解するには、そこで発達した資本主義や科学、思想、政治主義などを学べばいいわけです。それで十分、西洋は理解できます。
しかし、そうではなく「近代や西洋を相対化し、それが抱える問題を乗り越えるためには、キリスト教の理解が必要だ」と著者は言っているわけで、これは妥当だと思います。近代を相対化し、近代=西洋社会を一つ高いレベルから客観的に俯瞰するためには、西洋社会の背後やルーツにあるキリスト教を理解する必要があるというわけです。本書を「キリスト教入門の本」と考えない方が良いと思います。「はじめに」で断ってあるように、近代=西洋社会を理解するための本、そのためにキリスト教を理解しようとする本です。そこを間違えると、本書の意味はなくなるでしょう。
キリスト教の「ふしぎ」
キリスト教には、クリスチャンでない日本人からみると、いろいろと「分かりにくい」ところがあります。ちょっとあげてみただけでも、
| ・ | 一神教とは何なのか |
| ・ | キリストという存在(神なのか、人なのか、神の子なのか) |
| ・ | 神と精霊とキリストの三位一体とは。そもそも精霊とは何か。三つが一つとはどういうことか。 |
| ・ | 旧約聖書と新約聖書という、聖典の二重構造。特にユダヤ教の聖典である旧約聖書をキリスト教が温存していること。 |
| ・ | 原罪の考え方。それと関係した「キリストによる贖罪」という思想 |
『ふしぎなキリスト教』には、こういったキリスト教の分かりにくいところが、かなり明快に説明されています。内容はキリスト教全般をカバーしていて多岐に渡るので、すべての感想を語ることはできません。ここでは本書の第1部、第2部、第3部の話題から、近代西洋社会との関係におけるキリスト教という点に絞って感想を書きます。
一神教の論理
第1部は「一神教を理解する」と題されていて、ユダヤ教とキリスト教を中心に、一神教とは何かが解説されています。「近代西洋社会との関係におけるキリスト教」という視点で最も重要だと思ったのは、キリスト教の「一神教」という性格であり、その考え方や、そこから派生する思想が近代西洋社会の形成に多大な影響を与えた、ということです。
一神教を最も端的に象徴するのは、旧約聖書のはじめの方の「イサクの犠牲」だと思います。イサクの犠牲の話は、本書では第1部ではなく「第2部 イエス・キリストとは何か」の中で、原罪と贖罪の説明に出てきますが、引用すると以下のようです。
|  イサクの犠牲(創世記:22章)  |
[橋爪] |
イサクの犠牲の話で直感的に思うのは、人間を生け贄として神に捧げる、という古代の習俗の記憶ではないかということですね。
それはさておき、ここでみられる神とアブラハムの関係、つまり主の命令で実の息子を殺すという関係は、ちょっと常識を超越している感じがします。人間社会でも「親が、他人と自分の関係において、ある意図をもって、自分の実の子を殺す」ということが、全くないわけではない。もちろん激情にかられて、とか、一家心中とか、子どもの行く末を悲観してとか、保険金目当て、とかは除きます。「他人と自分の関係において」という条件です。
ちょっと飛躍しますが、連想するのは、徳川家康が実の息子の信康を切腹させた件ですね。それは、織田信長に武田側との内通を疑われ、信長が要求したからです(家康は、正室の筑山殿も同時に殺害している)。この件はいろいろの説があるようですが、圧倒的な力の差がある主従関係では(当時の信長と家康。正確に言うと信長と家康は主従ではなく同盟者の関係)、こういうことが起こることは「ないわけではない」のです。しかしこの手の話は歴史上に多くはないと思うし、やはり「主の命令で息子を殺す」という関係、しかも「本当に息子を殺せるか、主がアブラハムを試した」という結末は、人間社会の話だとすると常軌を逸していることは確かだと思います。
この「イサクの犠牲」に典型的にみられる、一神教の根本的な考え方が、本書の第1部に説明されています。以下のところです。
[橋爪] |
ここで橋爪さんが God としているのは、日本語で「神」と書くと、なれなれしいニュアンスが紛れ込んでしまうからです。だから一神教の神を「God」としているわけです
この解説が、一神教の重要な定義だと思います。つまり神=主人、人間=奴隷という原則、いわば「主人・奴隷原理」が、一神教における神と人間の関係なのですね。この一神教の原理は、有名な「カインとアベル」の話にもよく現れています。
|  カインとアベル(創世記:4章)  |
[橋爪] |
橋爪さんによると「人間には神に愛される人と愛されない人がいる。それは受け入れなければならない。」と解釈するようです。
しかし、カインとアベルの話は「主人・奴隷原理」からすると当然ありうる状況です。奴隷ではなく、主人の所有物やモノの関係と考えても同じです。トマトは好きだけどキュウリは嫌いで、サラダのトマトは食べるがキュウリは残すという人がいても(またその逆でも)その理由はないわけです。単に嫌いなだけです。それが非難されるいわれもない。なぜか嫌いなのですかと、人間側から神に問うことはできません。そういう問いをすること自体、一神教ではなくなります。原理上、そうなっている。
一神教は、中東地区に生まれた非常に「特別な」宗教形態です。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、3つの宗教。一神教は基本的にこれしかありません。人類史上、こういうタイプの宗教はまれです。何万、何百万とあったはずの宗教のうちの3つ、しかもほとんど兄弟とも言える宗教しかない。そして、神が一つであるのが一神教ではありません。神が一つであると同時に「主人・奴隷原理」の宗教が一神教なのです。
不可解なたとえ話
「第2部 イエス・キリストとは何か」では、キリスト教の不思議さの根幹であるイエス・キリストについて書かれています。この弟2部で特におもしろかったのは、大澤さんが新約聖書に出てくる「たとえ話」をとりあげて「このたとえ話、不可解でしょう?」と橋爪さんに詰問し、橋爪さんが、それはキリスト教的にはこう解釈する、と答える問答でした。ここで取り上げられている「たとえ話」は、神と人間の関係を端的に表しています。それを3つ取り上げてみたいと思います。
|  ブドウ園の労働者(マタイ:20章)  |
[大澤] |
普通このたとえ話をどう解釈するかというと、橋爪さんの解説では、
- 幼児洗礼を受けたりして子どもの頃からキリスト教徒である人と、大人になって信徒になった人、晩年に病床で「駆け込み」洗礼を受けた人の、誰が神の国にいくでしょう、とうたとえ、であり、イエス・キリストは、どの人も同じように、神の国に招きたいのだと言っている
この「ブドウ園方式」で人間社会を運営しようとすると破綻します。言うまでもなくこういった「賃金体系」は公平ではないし、労働者のモチベーションもなくなります。2度とこのブドウ園では働くものか、となるでしょう。経済的にも、このブドウ園の経営は行き詰まりかねない。だから「人は洗礼の時期にかかわらず、神の国に行ける」ということの比喩だ、との解釈ができたと考えられます。
しかし、このたとえ話は大澤さんも言っているように、神と人間の関係を示す比喩のはずです。つまり
・ブドウ園の経営者 = 人間
・労働者 = 人間
と考えるから不可解に見えるわけですね。これはあくまでたとえ話であって、
・ブドウ園の経営者 = 神
・労働者 = 人間
と考えればよい。そうすると「主人・奴隷原理」によって
・ブドウ園の経営者 = 主人
・労働者 = 奴隷
ということになります。主人と奴隷の関係だとすると、この話は不可解なことはない。次のような状況を考えてみます。
- ブドウを栽培してワインを作っている主人がいます。最良のワインを作るために、今日1日でブドウを摘んでしまいたい。ところが家の奴隷の手が足りない。主人は近所の家に行き、今日1日、一人奴隷を貸してくれないか、奴隷の食事はちゃんと出す、と言って奴隷を借りてきます。
しかし、それでも収穫に間にあわず、その日に2度、3度と別の家を訪ね、奴隷を借ります。そうした結果、ブドウの摘み取りは無事に終了しました。夕食時になって主人は、その家の奴隷や借りてきた奴隷に向かって言います。「今日はよく働いてくれた、夕食は多めに用意した、いっぱい食べて帰ってくれ。」
|  放蕩息子の帰還(ルカ:15章)  |
新約聖書の「放蕩息子の帰還」は、非常に有名な話です。本書から引用します。
[大澤] |
確かに大澤さんの言うとおりです。「放蕩息子方式」で会社を運営したら、会社はつぶれます。もちろん大澤さんは橋爪さんとの対論を盛り上げ、キリスト教の本質をあぶり出すために、あえてこういう質問をしているわけです。
橋爪さんによると、この「放蕩息子の帰還」のたとえ話は「神が人間を配慮するやりかたは、人間社会の常識を越えていることを示すためのたとえ話」だそうです。確かに、これを人間社会の話、つまり、
・父親 = 人間
・放蕩息子 = 人間
という枠組みで考えると完全に常識を越えています。しかしこの話は、神と人間の関係を示すためのたとえ話であって、
・父親 = 神
・放蕩息子 = 人間
と考えればよい。そうすると「主人・奴隷原理」によって、
・父親 = 主人
・放蕩息子 = 奴隷
ということになります。この場合、話を分かりやすくするために、
・父親 = 羊飼い
・放蕩息子 = 牧羊犬
として「羊飼いと牧羊犬の関係」に置き換え、次のような「お話」を考えてみればよいと思います。
- 羊飼いが2頭の牧羊犬を使って100頭の羊を放牧していました。牧羊犬の名前は、タローとジローです。ある日、ジローが突如、行方不明になりました。残されたタローは大変です。100頭の羊をタローだけでみなければならないからです。
ジローはどうしていたかというと、野山を徘徊し、果実を食べ小動物を狩って、「労働」もせず、気ままに暮らしていました。しかし、ある年から干ばつがひどくなり、ジローは食べ物にも窮するようになります。しかたなく、ジローは元の羊飼いの家に戻ってきました。
レンブラント
「放蕩息子の帰還」
(エルミタージュ美術館)
羊飼いは、戻ってきたジローをみて「よく戻ってきてくれた、ジロー」と大歓迎しました。「明日から、またタローと一緒に羊を放牧しよう」。
放蕩息子の帰還は数々の名画の題材になってきました。中でも有名なのが、エルミタージュ美術館にあるレンブラントの一枚です。
|  マリアとマルタ(ルカ:10章)  |
放蕩息子を題材にした絵はレンブラントが有名ですが、次の「たとえ話」に関してはフェルメールが描いています。
[大澤] |
一般的な解釈では、マルタは日常的な生活を象徴し、マリアは宗教的な生活を表し、そしてマルタは日常の瑣末なことにとらわれていた、そこに問題があるとされているようです。これではすんなりとは納得できない。橋爪さんの解釈は次のようです。
[橋爪] |
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フェルメール 「マルタとマリアの家のキリスト」 (スコットランド王立美術館) | |||
この話は、やはりイエスの言うように、炊事場で働くよりイエスの言葉を聞く方が重要だということを言っているのでしょう。信仰に生きなさい、ということです。また、ここでも神と人間の関係を「たとえ話」で示していると考えられます。つまり、
・イエス = 神
・姉妹 = 人間
であり、「主人・奴隷原理」にしたがって、これが主人と奴隷の関係だと考えると大いにありうるわけです。主人・奴隷の関係に置き換えて「お話」を作ってみると、たとえばローマ帝国時代に、奴隷が2人いる家で、詩を作るのが趣味の主人がいたとしましょう。ある詩を完成させた主人は(たまたま)夕食を準備中の奴隷に朗読して聞かせます。2人とも聞き入ると夕食の準備はできないので、一人だけが朗読を聞く。その一人は「いいほうをとった」わけです。不可解ではありません。奴隷は主人に文句を言ってはいけないのです。
- ちなみに、フェルメールの絵ではマルタが中央に描かれていて、構図上の主役になっています。これについて「家事にいそしむのが美徳、という当時のオランダの倫理を表している」との説があるようです。フェルメールもまた、聖書のマリアとマルタの話に違和感を持っていたのかもしれません。
これらの「不可解なたとえ話」で一貫して主張されているのは、神と人間の関係における一神教の原理だと思います。それを人々に教えるための話だと感じます。
西洋を作ったキリスト教:哲学・思想・科学
第3部の「いかに『西洋』をつくったか」では、キリスト教のモノの考え方や発想が西洋文化のコアとなっていることがテーマで、ここが本書の中核部分です。
要するに、キリスト教の God を信仰するということは、それを客観的にみると世界を統一的に把握する原理が存在するという確信を持つことに他ならないわけです。
聖書の矛盾したテキストを統一的に解釈する作業や、キリストの位置づけを明確にする努力から、三位一体などの教義がうまれ、キリスト教神学が発達します。これが、その後の西洋の哲学の発達につながります。人間の理性への信仰も「神の設計したこの世の構造を理解する人間の理性」への信仰です。フランス革命では「理性神」があがめられましたが、それは神の代替物です。
マルクス主義思想がキリスト教のコピーであることは、本書で何度か強調されています。キリスト教が西洋を作り、その西洋が近代を作ったというのが『ふしぎなキリスト教』の命題ですが、マルクス主義というのはまさに西洋近代社会の申し子だと思います。
科学の発達も世界を統一的に把握する原理があることの確信がベースです。この象徴的存在が、アイザック・ニュートン(1642-1724)ですね。本書には書いていないのですが、ニュートンの「業績」は
①物理学
②錬金術
③聖書研究(聖書の「科学的」解読)
の3つです。
①の物理学では、運動方程式と万有引力の法則という、数学的に記述された極めて少数の原理から、複雑に見える惑星の運動が導出できることを証明したのが有名で、まさに近代科学の原点とも言える業績です。万有引力の法則だけならニュートン以前に何人かの先人が発見しています(フックなど)。ニュートンの偉大なところは「世界を統一的に把握する原理を発見し、定式化した」ことです。
②の錬金術は、今からするとオカルトのようにも思えますが、当時は最先端の化学だったわけですね。ニュートンは65万語に及ぶ錬金術の手稿を残したようです。錬金術は19世紀まで続きます。No.18「ブルーの世界」で書いたマイセンの磁器の(西欧における)発明も、またプルシアン・ブルーという顔料の発見も「錬金術師」と呼ばれた人たちの功績です。錬金術が化学の発達を促したことは明白です。
しかしニュートンはこれらの「科学」と同時に、③の聖書研究にも力を注いでいます。聖書には隠された意味(聖書の暗号、いわゆるバイブル・コード)が潜んでいるはずで、それを解き明かすという研究をニュートンはかなりやっています。残された手稿は130万語に及ぶそうです。こうなるともう完全なオカルトのように見えますが、現代でもバイブル・コードを研究している人はいるようなので、ニュートンの時代にはまじめな「科学」と思われていたのでしょう。
聖書研究、錬金術、物理学という、ニュートンの3つの研究分野は、科学の発達のプロセスを如実に示していると思います。ニュートンの物理学(力学)の業績も、当時としては「神が設計したこの世界の秘密を解き明かした」ということだったと思います。
以上のように、『ふしぎなキリスト教』における「西洋を作ったキリスト教」の解説は明快なのですが、ちょっと問題なのは資本主義の発達とキリスト教の関係の部分です。
(続く)
No.40 - 小公女 [本]
No.18「ブルーの世界」で青色染料である「藍・インディゴ」の話を書きましたが、そのとき、ある小説を連想しました。児童小説である「小公女」です。なぜ「藍」から「小公女」なのかは、後で書きます。
子供のころに「小公子」は読んことがありますが「小公女」の記憶はありません。「小公女」がどんな話かを知ったのは、以前にテレビのアニメ「小公女セーラ」を娘が熱心に見ていたからで、私もつられて見たわけです。非常によくできた話だと感心しました。
「小公女」はイギリス生まれのアメリカの作家、フランシス・ホジソン・バーネット(1849-1924)が1888年に発表した小説です。「小公子」を出版した2年後になります。要約すると次のような話です。
「小公女」(A Little Princess)のあらすじ
舞台は19世紀のイギリスです。冬のロンドンは日中だというのに薄暗く、霧が立ちこめ、ガス灯がともっています。このなかを行く辻馬車に、父と娘が乗っています。ここから物語は始まります。
セーラは7歳の少女で、父親につれられてロンドンのミンチン女子学院に入学しました。ここはミンチン女史が経営する一種の私塾で、4歳から10代前半の女の子たちが、家から離れて学院に寄宿しながら勉強しています。セーラはたちまち人気者になり、この学院の「看板生徒」になりました。
しかし父の友人の事業は、実は復活して大成功し、その友人は何倍にも大きくなった財産を相続するはずのセーラを探していたのでした。その友人がたまたま学院の隣に引っ越してきたことに端を発して、真実が明らかになります。セーラは父の友人に引き取られ、再び幸せな日々に戻ります。
よくできた物語 - 「小公女」第1部
大変によくできた物語で、テレビで「小公女セーラ」を見た時には感心してしまいました。物語は便宜的に、第1部、第2部、第3部の3つに分けられるでしょう。
第1部はセーラの入学にはじまり、幸せな学院生活を送る部分です。セーラは聡明で、人に優しい少女です。話がじょうずで、他の子供たちを引きつけます。髪は黒で、目は緑がかった灰色、背は高いほうで、ほっそりとし、独特の美しさがあります。全体に「王女」のような気品がある少女なのです。
しかもセーラは裕福な家庭に育ちました。ミンチン学院には「特別寄宿生」の中でも特別な生徒として入学します。それは彼女用の
・寝室と居間
・馬車と子馬
・お手伝いさん
が与えられるという、破格の待遇なのです。
物語の第1部を読む(見る)うちに読者(視聴者)は、このまま終わるはずがないと思います。このまま終わってしまえば「あまりにも出来すぎた少女の話」であって、小説とは言えなくなるからです。
そして案の定というか、物語には不吉な影がさすのです。一つはミンチン先生がセーラに敵意を持つことです。ミンチン先生はフランス語が話せないことを人知れず悩んでいました。話せないことを、周りには隠していた。そしてセーラが入学後のフランス語の授業において、彼女はフランス語が話せることが分かるのです。何と彼女の母親はフランス人であり、せーラが幼少の頃に亡くなったのですが、父親はセーラの母を偲んでしょっちゅうセーラにフランス語で話しかけていたのです。授業のあとでフランス語の先生は「この子に教えることはない」とまで言います。これでミンチン先生は内心、セーラに敵意を持つのです。
もう一つの「影」は学院の生徒であるラヴィニアです。ラヴィニアはきれいな子ですが、少々性格に難があって、いじわるなところがある。小さい子供には横柄で、年のいった子供の中ではつんと気取る。そしてセーラが来るまでは自分が学院の総大将だと思っていたのです。そのポジションをセーラに奪われた。それはセーラの優しさや人気によるものなのですが、ラヴィニアはセーラを強くねたむのです。
こういった不吉の兆候から読者は、「幸福なセーラ」がこのままでは終わるはずがない、という予感を持ちます。何かとんでもないことが起こるに違いないと・・・・・・。
よくできた物語 - 「小公女」第2部
読者の「期待」どおり、その「とんでもないこと」が起こって第2部になります。父親が破産して死んでしまうのです。セーラは学院の屋根裏部屋に住み込み、小間使いとして働き始めます。なぜ学校から追い出されなかったのか。それは身よりがなくなったとたんに追い出したのでは学院の評判を落とすと、体面を気にするミンチン先生が考えたからです。「何一つ不自由のない裕福な生徒」から「学院の小間使いという児童労働者」へ・・・・・・。この劇的な変化が「小公女」のストーリーのコアになっています。
小間使いというのは、要するに先生や生徒、学院の料理番などの使用人から言いつけられた仕事を何でもこなす役割です。学院には既に、ベッキーという少女が小間使いとして屋根裏部屋に住み込んでいたのですが、セーラはそこに同居します。
小間使いの労働は厳しいものがあります。たとえば重い石炭箱をさげて教室にはいり、暖炉の灰を掃きだし、石炭をくべる。教室の床の掃除をし、窓ガラスも磨く。生徒の靴も磨く。料理番の手伝いで外へ買い物にも行く。びしょ濡れになりながら、雨の中を遠い所までお使いに行ったりもしました。お使いに行き、目当てのものが見つけられなかったということで、料理番から食事を抜かれたこともある。セーラの服は次第に「つるつるてん」になっていき、町で乞食と間違われてお金を恵んでもらったことさえありました。
セーラに敵意をもっていたミンチン先生、そしてセーラをねたんでいたラヴィニアは、ここぞとばかりにセーラに辛くあたり、無理難題をふっかけ、要するに「いじめる」わけです。ラヴィニアはみすぼらしい格好になったセーラを見て仲間の生徒と一緒に大笑いするし、ミンチン先生もセーラを叱って食事を抜いたりする。現代の日本ならこの女子学院は「いじめ」で新聞沙汰になるだろうし、それ以前に児童相談所に通報されてミンチン先生は逮捕されるでしょう。しかし物語の舞台は現代の日本やイギリスではないのです。
セーラはこの状況にくじけることなく仕事をこなし、人前では涙を見せず、彼女が本来持っていた「気品」を失いません。これがまたミンチン先生やラヴィニアをいらだたせる。もしセーラが泣きじゃくって「もう許してください、ミンチン先生、ラヴィニア様」とでも言うのなら「いじめ」をやめようという気にもなります。しかしセーラは全く正反対なのです。それがおもしろくない。ますますセーラを困らせようとするわけです。
セーラは気品を失わないと同時に、人に対する優しさも失いません。町にお使いに出た時に4ペンス銀貨を拾ったことがありました。おなかを空かしていた彼女はそれでパンを4個買い、おまけとして2個もらうのですが、たまたまいた乞食の少女に5個をあげてしまいます。自分よりよほど「ひもじい」ように見えたからです。
「小公女」という児童文学は、こういったエピソードが続く第2部が大半を占めています。まさにここがハイライトなのですね。この第2部におけるセーラを一言で表せそうな、ぴったりではないかもしれないけれど非常に近い日本語があります。「けなげ」です。
「けなげ」は、非常に特別の状況にしか使わない日本語表現です。それは
① 弱小の者が
② 逆境にもかかわらず
③ 忍耐強く、くじけないで
④ 勤勉に働き、自己の立場を全うしている
姿を表現する言葉です。この「弱小・逆境・忍耐・勤勉の4点セット」のどれが欠けても「けなげ」とは言わない。この4点の程度は強くても弱くてももよいのですが、とにかく4点そろっていることが重要です。おそらく英語に相当する単語はないでしょう。こんなスペシャル・ケースを表わす単語があるぐらいだから、日本人は「けなげ」な姿を見るのが好きだし、愛着を感じる。近年(と言ってもだいぶ前ですが)、最も「けなげ」だった女の子は、言うまでもなく「おしん」ですね。そして「おしん」と同様、アニメ世界名作劇場「小公女セーラ」は大ヒットしました。
しかし「けなげ」なセーラの姿を見るうちに、読者は当然思うのですね。「このままで終わるはずがない」と。このまま終わってしまったら、小説として成立しない。
よくできた物語 - 「小公女」第3部
物語も終わりに近づいて、驚きの事実が判明し第3部になります。セーラが実は大金持ちだったことが、全くの偶然がきっかけとなって分かるのです。
そもそもセーラはインド生まれです。セーラの父親はラルフ・クルーといい、インドに渡って友人のキャリスフォードと一緒にダイヤモンド鉱山の開発をはじめ、それに財産をつぎ込んでいました。当時、インド在住のイギリス人の子供は、長距離旅行ができる年齢になるとロンドンに帰って学校に入るという習慣だったようで、セーラ・クルーもそうしたわけです。
そしてダイヤモンド鉱山の開発は失敗し、ラルフ・クルーは財産を失い、彼自身もマラリアで死んでしまいました。しかし、失敗したと思われた鉱山開発は復活・成功し、友人のキャリスフォードは莫大な財産を築いた。そしてラルフ・クルーが当然得るべき資産を返すため、相続人である娘のセーラを探してロンドンに帰って来ていたのです。
そのキャリスフォード氏が、何と偶然ミンチン女子学院の隣に越して来て住んでいたというのが「小公女」のストーリーであり、お隣の縁でセーラのことが判明するのです。第2部の途中で「インドの紳士」が隣に越してくるのですが、その紳士が亡くなった父の友人だったわけです。
こんなストーリーがありだろうかと思ってしまいますが、ありなのですね。つまり、第1部の「お嬢様」から第2部の「小間使い」へという、あまりに劇的な展開があるため、第3部の「全くの偶然に端を発した、驚愕の事実の判明」にも違和感を感じません。当然そうなるだろう、やっぱり、という感じです。読者にとってこれは想定内の展開なのです。
セーラはキャリスフォード氏に引き取られます。また、何かとセーラに親切にしてくれた小間使いのベッキーもセーラが引き取って、二人で幸せに暮らし始めた、というところで物語は終わります。
共産党宣言
ちょっと唐突ですが「小公女」の物語から、マルクス/エンゲルスの「共産党宣言」(1848)を連想してしまいました。労働者の団結とブルジョアジーの打倒を訴えた共産党宣言は、第1章の冒頭の「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」から始まって、共産主義革命が歴史の必然だと言っています。もちろんそのような歴史認識は変だし、コミュニスト政権の樹立が歴史の必然でもないわけです。しかし一つ言えることは「共産党宣言」のような文書が書かれるに至った根底には、産業革命以降に急速に肥大化した資本主義社会への批判があることです。その批判の大きな要因は、イギリスを含む当時のヨーロッパ社会の「ものすごい貧富の差」です。それは「貧富の差」というレベルを遥かに超えていて、たとえば、小間使いのセーラよりもっとひどい「児童虐待労働」があったわけですね。イギリスの炭鉱などでは・・・・・・。教科書にも出ていました。コミュニズムがヨーロッパにある程度浸透し、一定の勢力を得るに至った理由はそれでしょう。「持てるものと持たざるものの極端な格差」です。
「小公女」においてセーラは2つの状態をとります。
の2つです。Bの状態は、まともに人間としては扱われず、人としての尊厳さえ破壊されかねない状況です。それでもセーラは「尊厳」を保ったわけですが・・・・・・。とにかくAとBでは「天国と地獄」なのです。
AとBの差はイギリス社会における貴族と平民の差ではありません。小説の題名は Princess ですが、セーラは王族や貴族ではなく「平民」です。「小公女」は「王女と乞食」という身分差の話ではない。AとBの2つの極端な状態変化は、お金を持っているか、お金を持っていないかの違いなのです。そしてAかBかは固定されたものではなく、セーラのように変動しうる。もちろん彼女の場合は極端ですが・・・・・・。
「小公女」は当時のイギリス社会の格差を象徴的に暗示していると考えられます。これはもちろんイギリスだけでなく、ヨーロッパ先進諸国の、そしてもっと広くは日本を含む初期・工業化・資本主義社会の抱える問題だったわけです。資本主義は、野放しにしておくと雪だるま式に格差が拡大していくメカニズムを内包しています。そこは政府が介入して手を打たないと社会の瓦解を招きかねない。20世紀になって各国政府は「社会主義的政策」を導入するわけですが、19世紀はその前の段階です。
「小公女」は「共産党宣言」が書かれるまでに至った19世紀の社会背景を象徴的に表していると思いました。
インドの犠牲
「小公女」はまた、19世紀のイギリスの繁栄がインドの犠牲の上に成り立っていることを、それとなく暗示しています。
セーラが貧乏になるのも、また最後に裕福になるのも、インドにおけるダイヤモンド鉱山開発の成否にかかっている、というのが小説の設定です。現在、世界のダイヤモンド生産国としては南アフリカが有名ですが(産出量で1位はロシア)、ここのダイヤモンド鉱山が発見されたのは19世後半であり、本格的に鉱山が開発されたのは20世紀です。19世紀まではダイヤモンドといえばインドだった。「小公女」にしきりと出てくる「ダイヤモンド鉱山」というキーワードは、インドの富がイギリスに移転したということの象徴だと考えられます。
しかし、ダイヤモンドは貴族や富裕層だけのものです。もっと一般庶民に関係した「インドの富」がいろいろとある。ここで思い出すのが、No.18「ブルーの世界」で書いた、青色染料である「藍」(インディゴ)です。
インディゴ(Indigo)は、その名前のとおり、古代からインドが主要産地でした。インディゴを作る植物は「インド藍」です。青色染料であるインディゴは古代ローマ時代から西欧に輸出され、それは中世を経て近代まで続きました。このインド藍をイギリスの植民地(アメリカ、サウス・カロライナ)で奴隷労働によって生産したのが、イライザ・ルーカス・ピンクニーだったわけです。しかし、イギリスはアメリカという植民地を失います。No.18「ブルーの世界」でも引用した、その後の経緯は次の通りです。
もともとインドの特産品だった「藍・インディゴ」は、イギリスのインド支配を通して、インドの人々に奴隷労働をもたらしたことになります。No.18「ブルーの世界」の藍・インディゴから「小公女」を連想したのは「インドつながり」でした。
そしてイギリスの植民地だったアメリカのサウス・カロライナで、藍・インディゴ以上に大々的に奴隷によって栽培され、現在でもアメリカ南部一帯が有力な産地となっている作物があります。綿です。そして綿もインド原産の植物なのです。
綿(木綿・コットン)
No.26「ローマ人の物語(3)」でも引用したヘロドトスの『歴史』に次のような記述があります。
古代ギリシャ人にとって、インドでは木にできる羊毛から衣服が作られるのが非常に珍しいことだったのです。古代ギリシャ・ローマの時代から、綿花と綿織物はインドの特産品でした。それは言葉にも残っています。キャラコという木綿の布があります。細かい織り目の、白い光沢がある布です。このキャラコはインドの綿織物の輸出港であるカリカットが語源になっています。また日本で更紗(さらさ)という布があります。木綿の布に赤や青の文様が染色されているものですが、これはインド更紗がルーツです。古来インドでは、更紗の赤は茜、青はインディゴで染色されました。古代から17世紀まで、綿花・綿織物と言えばインドだった。
しかし18世紀になって、綿花と綿織物の生産環境は激変します。ヨーロッパを中心とするインド産の綿花・綿織物の需要増大に対応して、イギリスは極めて効率のよい綿花生産の方法に乗り出します。アフリカから奴隷をイギリス領アメリカへ運び、そこの大規模プランテーションにおいて奴隷労働で綿花を栽培し、それをイギリスへ輸入するという方法です。
もう一つの激変がイギリスの産業革命です。産業革命は歴史の教科書で習ったとおり、綿工業の機械化から始まりました。紡績機(綿花から糸を紡ぐ機械)と織機(布を織る機械)が発達し、木綿の布が安価に大量に生産できるようになったわけです。このイギリスで機械生産された綿製品は海外に輸出され、もちろんそれはアフリカでは奴隷と交換されたのですが、当然、インドにも大量になだれ込みました。その結果として、インドの綿織物産業は壊滅的な打撃を受けたのです。
独立国であればこういう場合、輸入される綿織物に高い関税をかけて国内産業を保護し、その間に産業の機械化を進めて、徐々に関税を引き下げていく、というような政策をとるわけです。しかし「関税自主権」がないとこんなこともできない。インドの人々は自国の有力産業が失われていくのを、なすすべなく見守るしかなかったわけですね。こういうことが各種の産業で起こると、国はどんどん貧しくなっていきます。19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901)の時代の繁栄の裏には、綿工業だけをとってみても「インドの犠牲」があったのは確実です。
ところで、イギリスの綿織物産業と「小公女」の作者は大いに関係があるのです。フランシス・ホジソン・バーネットは1849年にイギリスのマンチェスターで生まれました。マンチェスターは19世紀イギリスの綿織物の製造拠点で、中心地です。フランシスの父親は家具の卸問屋を経営して裕福でしたが、彼女が4歳の時になくなり、母親に託された一家の暮らしは苦しくなりました。そしてフランシスが11歳のとき(1860)、アメリカで南北戦争が勃発し、一家の暮らしはますます苦しくなります。なぜかと言うと、南北戦争でアメリカから綿花が輸入されなくなり、マンチェスターの綿織物産業が大きな打撃を受けたからです。マンチェスターの町は不況に陥り、それがフランシス一家をも直撃しました。そしてフランシスが16歳のとき、一家は親戚をたよってアメリカのテネシー州に渡ったのです。その一家の家計を助けるために彼女は小説を書きはじめ、雑誌に投稿します。この執筆活動の中から、後の「小公子」「小公女」「秘密の花園」が生まれるのです(以上は、偕成社文庫「小公女」の訳者、谷村まち子氏の解説によります)。
フランシスは、産業革命後のマンチェスターの綿織物産業の発展と不況を体験し、その後のイギリスとアメリカでの苦しい生活を経験したわけです。これが「小公女」のプロットに影響を与えたとも推測できます。
「小公女」のリアリティー
ロンドンを舞台にした「小公女」のストーリーは、裕福なお嬢様(第1部)から小間使いに(第2部)、それから再び元に(第3部)と、ちょっとありえないような展開をします。それでいて妙にリアリティーを感じるのは、当時のイギリスの社会環境である、
・富裕層と底辺労働者の格差
・インドという植民地の存在
を背景にしているからではないでしょうか。
「小公女」という小説は、現代日本を舞台にTVドラマやアニメとしてリメイクしにくい小説だと思います。そんなリメイクをしたら、全くリアリティーがないものになる可能性が高い。それでも近年、志田未来さん主演で現代日本を舞台にリメイクされたようです。そのTVドラマを見ていないので何とも言えませんが、成功したのかどうか。
「小公女」の作者であるイギリス生まれのアメリカ人・バーネットは、当時のイギリスの社会環境への問題意識をもとに小説を書いたのでしょうか。それとも単に読んでハラハラする少女向けの児童小説を書いたのでしょうか。それは分かりません。しかし確実に言えることは、「小公女」のストーリー展開とそこに出てくるエピソードはいかにも極端だけど、作者のバーネットは当時の社会環境を十分に頭に入れた上で、非常にまじめに小説を書いていることです。第2部の「小間使いのセーラ」のところなどは、大げさに言うと「人間の尊厳とは何か」というテーマを扱っているようにも見える。作者の実生活での苦労が反映されているのかもしれません。この作者の「まじめさ」が、多くの人を引きつける要因になっているのでしょう。
No.1, No.2 で取り上げた「クラバート」は、少年が大人になる過程を通して、人間の自立とは何か、社会における労働とは何か、などの普遍的なテーマを扱っていました。作者のプロイスラーはこの児童小説に「普遍性」を盛り込もうと、はじめから意図して書いたと考えられます。それに対して「少公女」のフランシス・バーネットは、そういう意図はなかったと思います。あくまで「少女向け小説」を書いた。しかし作者の意図はどうであれ、この小説はある主のリアリティーと深みを持つことになった。「クラバート」と「少公女」は、「よくできた児童小説は、児童小説の範疇を越えた普遍性をもつ」ことの良い実証例だと思います。
子供のころに「小公子」は読んことがありますが「小公女」の記憶はありません。「小公女」がどんな話かを知ったのは、以前にテレビのアニメ「小公女セーラ」を娘が熱心に見ていたからで、私もつられて見たわけです。非常によくできた話だと感心しました。
「小公女」はイギリス生まれのアメリカの作家、フランシス・ホジソン・バーネット(1849-1924)が1888年に発表した小説です。「小公子」を出版した2年後になります。要約すると次のような話です。
- アニメの「小公女セーラ」は原作より登場人物が拡大されたり、原作にはないエピソードがあったりします。以下は原作をもとに書きますが、アニメ版も、あらすじのレベルでは基本的には同じです。
(以下には物語のストーリーが明かされています)
「小公女」(A Little Princess)のあらすじ
舞台は19世紀のイギリスです。冬のロンドンは日中だというのに薄暗く、霧が立ちこめ、ガス灯がともっています。このなかを行く辻馬車に、父と娘が乗っています。ここから物語は始まります。
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| 「小公女」(岩波少年文庫) | |||
- Princess という題がついていますが、セーラは王族や貴族ではありません。彼女が王女のような気品をもっていることを言っています。
しかし父の友人の事業は、実は復活して大成功し、その友人は何倍にも大きくなった財産を相続するはずのセーラを探していたのでした。その友人がたまたま学院の隣に引っ越してきたことに端を発して、真実が明らかになります。セーラは父の友人に引き取られ、再び幸せな日々に戻ります。
よくできた物語 - 「小公女」第1部
大変によくできた物語で、テレビで「小公女セーラ」を見た時には感心してしまいました。物語は便宜的に、第1部、第2部、第3部の3つに分けられるでしょう。
第1部はセーラの入学にはじまり、幸せな学院生活を送る部分です。セーラは聡明で、人に優しい少女です。話がじょうずで、他の子供たちを引きつけます。髪は黒で、目は緑がかった灰色、背は高いほうで、ほっそりとし、独特の美しさがあります。全体に「王女」のような気品がある少女なのです。
しかもセーラは裕福な家庭に育ちました。ミンチン学院には「特別寄宿生」の中でも特別な生徒として入学します。それは彼女用の
・寝室と居間
・馬車と子馬
・お手伝いさん
が与えられるという、破格の待遇なのです。
物語の第1部を読む(見る)うちに読者(視聴者)は、このまま終わるはずがないと思います。このまま終わってしまえば「あまりにも出来すぎた少女の話」であって、小説とは言えなくなるからです。
そして案の定というか、物語には不吉な影がさすのです。一つはミンチン先生がセーラに敵意を持つことです。ミンチン先生はフランス語が話せないことを人知れず悩んでいました。話せないことを、周りには隠していた。そしてセーラが入学後のフランス語の授業において、彼女はフランス語が話せることが分かるのです。何と彼女の母親はフランス人であり、せーラが幼少の頃に亡くなったのですが、父親はセーラの母を偲んでしょっちゅうセーラにフランス語で話しかけていたのです。授業のあとでフランス語の先生は「この子に教えることはない」とまで言います。これでミンチン先生は内心、セーラに敵意を持つのです。
もう一つの「影」は学院の生徒であるラヴィニアです。ラヴィニアはきれいな子ですが、少々性格に難があって、いじわるなところがある。小さい子供には横柄で、年のいった子供の中ではつんと気取る。そしてセーラが来るまでは自分が学院の総大将だと思っていたのです。そのポジションをセーラに奪われた。それはセーラの優しさや人気によるものなのですが、ラヴィニアはセーラを強くねたむのです。
こういった不吉の兆候から読者は、「幸福なセーラ」がこのままでは終わるはずがない、という予感を持ちます。何かとんでもないことが起こるに違いないと・・・・・・。
よくできた物語 - 「小公女」第2部
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| 小間使いとして働くことになったセーラと、ミンチン先生。この挿画は1891年にアメリカで出版された「小公女」のもの(岩波少年文庫より) | |||
小間使いというのは、要するに先生や生徒、学院の料理番などの使用人から言いつけられた仕事を何でもこなす役割です。学院には既に、ベッキーという少女が小間使いとして屋根裏部屋に住み込んでいたのですが、セーラはそこに同居します。
小間使いの労働は厳しいものがあります。たとえば重い石炭箱をさげて教室にはいり、暖炉の灰を掃きだし、石炭をくべる。教室の床の掃除をし、窓ガラスも磨く。生徒の靴も磨く。料理番の手伝いで外へ買い物にも行く。びしょ濡れになりながら、雨の中を遠い所までお使いに行ったりもしました。お使いに行き、目当てのものが見つけられなかったということで、料理番から食事を抜かれたこともある。セーラの服は次第に「つるつるてん」になっていき、町で乞食と間違われてお金を恵んでもらったことさえありました。
セーラに敵意をもっていたミンチン先生、そしてセーラをねたんでいたラヴィニアは、ここぞとばかりにセーラに辛くあたり、無理難題をふっかけ、要するに「いじめる」わけです。ラヴィニアはみすぼらしい格好になったセーラを見て仲間の生徒と一緒に大笑いするし、ミンチン先生もセーラを叱って食事を抜いたりする。現代の日本ならこの女子学院は「いじめ」で新聞沙汰になるだろうし、それ以前に児童相談所に通報されてミンチン先生は逮捕されるでしょう。しかし物語の舞台は現代の日本やイギリスではないのです。
セーラはこの状況にくじけることなく仕事をこなし、人前では涙を見せず、彼女が本来持っていた「気品」を失いません。これがまたミンチン先生やラヴィニアをいらだたせる。もしセーラが泣きじゃくって「もう許してください、ミンチン先生、ラヴィニア様」とでも言うのなら「いじめ」をやめようという気にもなります。しかしセーラは全く正反対なのです。それがおもしろくない。ますますセーラを困らせようとするわけです。
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| 乞食の少女にパンをあげるセーラ | |||
「小公女」という児童文学は、こういったエピソードが続く第2部が大半を占めています。まさにここがハイライトなのですね。この第2部におけるセーラを一言で表せそうな、ぴったりではないかもしれないけれど非常に近い日本語があります。「けなげ」です。
「けなげ」は、非常に特別の状況にしか使わない日本語表現です。それは
① 弱小の者が
② 逆境にもかかわらず
③ 忍耐強く、くじけないで
④ 勤勉に働き、自己の立場を全うしている
姿を表現する言葉です。この「弱小・逆境・忍耐・勤勉の4点セット」のどれが欠けても「けなげ」とは言わない。この4点の程度は強くても弱くてももよいのですが、とにかく4点そろっていることが重要です。おそらく英語に相当する単語はないでしょう。こんなスペシャル・ケースを表わす単語があるぐらいだから、日本人は「けなげ」な姿を見るのが好きだし、愛着を感じる。近年(と言ってもだいぶ前ですが)、最も「けなげ」だった女の子は、言うまでもなく「おしん」ですね。そして「おしん」と同様、アニメ世界名作劇場「小公女セーラ」は大ヒットしました。
しかし「けなげ」なセーラの姿を見るうちに、読者は当然思うのですね。「このままで終わるはずがない」と。このまま終わってしまったら、小説として成立しない。
よくできた物語 - 「小公女」第3部
物語も終わりに近づいて、驚きの事実が判明し第3部になります。セーラが実は大金持ちだったことが、全くの偶然がきっかけとなって分かるのです。
そもそもセーラはインド生まれです。セーラの父親はラルフ・クルーといい、インドに渡って友人のキャリスフォードと一緒にダイヤモンド鉱山の開発をはじめ、それに財産をつぎ込んでいました。当時、インド在住のイギリス人の子供は、長距離旅行ができる年齢になるとロンドンに帰って学校に入るという習慣だったようで、セーラ・クルーもそうしたわけです。
そしてダイヤモンド鉱山の開発は失敗し、ラルフ・クルーは財産を失い、彼自身もマラリアで死んでしまいました。しかし、失敗したと思われた鉱山開発は復活・成功し、友人のキャリスフォードは莫大な財産を築いた。そしてラルフ・クルーが当然得るべき資産を返すため、相続人である娘のセーラを探してロンドンに帰って来ていたのです。
そのキャリスフォード氏が、何と偶然ミンチン女子学院の隣に越して来て住んでいたというのが「小公女」のストーリーであり、お隣の縁でセーラのことが判明するのです。第2部の途中で「インドの紳士」が隣に越してくるのですが、その紳士が亡くなった父の友人だったわけです。
こんなストーリーがありだろうかと思ってしまいますが、ありなのですね。つまり、第1部の「お嬢様」から第2部の「小間使い」へという、あまりに劇的な展開があるため、第3部の「全くの偶然に端を発した、驚愕の事実の判明」にも違和感を感じません。当然そうなるだろう、やっぱり、という感じです。読者にとってこれは想定内の展開なのです。
セーラはキャリスフォード氏に引き取られます。また、何かとセーラに親切にしてくれた小間使いのベッキーもセーラが引き取って、二人で幸せに暮らし始めた、というところで物語は終わります。
共産党宣言
ちょっと唐突ですが「小公女」の物語から、マルクス/エンゲルスの「共産党宣言」(1848)を連想してしまいました。労働者の団結とブルジョアジーの打倒を訴えた共産党宣言は、第1章の冒頭の「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」から始まって、共産主義革命が歴史の必然だと言っています。もちろんそのような歴史認識は変だし、コミュニスト政権の樹立が歴史の必然でもないわけです。しかし一つ言えることは「共産党宣言」のような文書が書かれるに至った根底には、産業革命以降に急速に肥大化した資本主義社会への批判があることです。その批判の大きな要因は、イギリスを含む当時のヨーロッパ社会の「ものすごい貧富の差」です。それは「貧富の差」というレベルを遥かに超えていて、たとえば、小間使いのセーラよりもっとひどい「児童虐待労働」があったわけですね。イギリスの炭鉱などでは・・・・・・。教科書にも出ていました。コミュニズムがヨーロッパにある程度浸透し、一定の勢力を得るに至った理由はそれでしょう。「持てるものと持たざるものの極端な格差」です。
「小公女」においてセーラは2つの状態をとります。
| A | 学院の特別寄宿生として、衣食住に何一つ不自由なく、のびのびと勉強し、人間として成長していく少女 | |
| B | 学院の小間使いとして、労働にあけくれ、人にこき使われ、未来への希望も見えず日々を過ごす少女 |
の2つです。Bの状態は、まともに人間としては扱われず、人としての尊厳さえ破壊されかねない状況です。それでもセーラは「尊厳」を保ったわけですが・・・・・・。とにかくAとBでは「天国と地獄」なのです。
AとBの差はイギリス社会における貴族と平民の差ではありません。小説の題名は Princess ですが、セーラは王族や貴族ではなく「平民」です。「小公女」は「王女と乞食」という身分差の話ではない。AとBの2つの極端な状態変化は、お金を持っているか、お金を持っていないかの違いなのです。そしてAかBかは固定されたものではなく、セーラのように変動しうる。もちろん彼女の場合は極端ですが・・・・・・。
「小公女」は当時のイギリス社会の格差を象徴的に暗示していると考えられます。これはもちろんイギリスだけでなく、ヨーロッパ先進諸国の、そしてもっと広くは日本を含む初期・工業化・資本主義社会の抱える問題だったわけです。資本主義は、野放しにしておくと雪だるま式に格差が拡大していくメカニズムを内包しています。そこは政府が介入して手を打たないと社会の瓦解を招きかねない。20世紀になって各国政府は「社会主義的政策」を導入するわけですが、19世紀はその前の段階です。
「小公女」は「共産党宣言」が書かれるまでに至った19世紀の社会背景を象徴的に表していると思いました。
インドの犠牲
「小公女」はまた、19世紀のイギリスの繁栄がインドの犠牲の上に成り立っていることを、それとなく暗示しています。
セーラが貧乏になるのも、また最後に裕福になるのも、インドにおけるダイヤモンド鉱山開発の成否にかかっている、というのが小説の設定です。現在、世界のダイヤモンド生産国としては南アフリカが有名ですが(産出量で1位はロシア)、ここのダイヤモンド鉱山が発見されたのは19世後半であり、本格的に鉱山が開発されたのは20世紀です。19世紀まではダイヤモンドといえばインドだった。「小公女」にしきりと出てくる「ダイヤモンド鉱山」というキーワードは、インドの富がイギリスに移転したということの象徴だと考えられます。
しかし、ダイヤモンドは貴族や富裕層だけのものです。もっと一般庶民に関係した「インドの富」がいろいろとある。ここで思い出すのが、No.18「ブルーの世界」で書いた、青色染料である「藍」(インディゴ)です。
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| インド藍 [Wikipedia] | |||
アメリカの独立によって北米の藍作植民地を失ったイギリスが、ただちにインドに奴隷制藍作プランテーションをつくりあげ、ベンガル地方の人々を新たに奴隷化した・・・・・・・・・ |
もともとインドの特産品だった「藍・インディゴ」は、イギリスのインド支配を通して、インドの人々に奴隷労働をもたらしたことになります。No.18「ブルーの世界」の藍・インディゴから「小公女」を連想したのは「インドつながり」でした。
そしてイギリスの植民地だったアメリカのサウス・カロライナで、藍・インディゴ以上に大々的に奴隷によって栽培され、現在でもアメリカ南部一帯が有力な産地となっている作物があります。綿です。そして綿もインド原産の植物なのです。
綿(木綿・コットン)
No.26「ローマ人の物語(3)」でも引用したヘロドトスの『歴史』に次のような記述があります。
インドでは野生の木が羊毛の実を結び、この羊毛は外見も質も羊からとった毛に優る。インド人はこの木の実で作った衣類を用いているのである。 |
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しかし18世紀になって、綿花と綿織物の生産環境は激変します。ヨーロッパを中心とするインド産の綿花・綿織物の需要増大に対応して、イギリスは極めて効率のよい綿花生産の方法に乗り出します。アフリカから奴隷をイギリス領アメリカへ運び、そこの大規模プランテーションにおいて奴隷労働で綿花を栽培し、それをイギリスへ輸入するという方法です。
もう一つの激変がイギリスの産業革命です。産業革命は歴史の教科書で習ったとおり、綿工業の機械化から始まりました。紡績機(綿花から糸を紡ぐ機械)と織機(布を織る機械)が発達し、木綿の布が安価に大量に生産できるようになったわけです。このイギリスで機械生産された綿製品は海外に輸出され、もちろんそれはアフリカでは奴隷と交換されたのですが、当然、インドにも大量になだれ込みました。その結果として、インドの綿織物産業は壊滅的な打撃を受けたのです。
独立国であればこういう場合、輸入される綿織物に高い関税をかけて国内産業を保護し、その間に産業の機械化を進めて、徐々に関税を引き下げていく、というような政策をとるわけです。しかし「関税自主権」がないとこんなこともできない。インドの人々は自国の有力産業が失われていくのを、なすすべなく見守るしかなかったわけですね。こういうことが各種の産業で起こると、国はどんどん貧しくなっていきます。19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901)の時代の繁栄の裏には、綿工業だけをとってみても「インドの犠牲」があったのは確実です。
ところで、イギリスの綿織物産業と「小公女」の作者は大いに関係があるのです。フランシス・ホジソン・バーネットは1849年にイギリスのマンチェスターで生まれました。マンチェスターは19世紀イギリスの綿織物の製造拠点で、中心地です。フランシスの父親は家具の卸問屋を経営して裕福でしたが、彼女が4歳の時になくなり、母親に託された一家の暮らしは苦しくなりました。そしてフランシスが11歳のとき(1860)、アメリカで南北戦争が勃発し、一家の暮らしはますます苦しくなります。なぜかと言うと、南北戦争でアメリカから綿花が輸入されなくなり、マンチェスターの綿織物産業が大きな打撃を受けたからです。マンチェスターの町は不況に陥り、それがフランシス一家をも直撃しました。そしてフランシスが16歳のとき、一家は親戚をたよってアメリカのテネシー州に渡ったのです。その一家の家計を助けるために彼女は小説を書きはじめ、雑誌に投稿します。この執筆活動の中から、後の「小公子」「小公女」「秘密の花園」が生まれるのです(以上は、偕成社文庫「小公女」の訳者、谷村まち子氏の解説によります)。
フランシスは、産業革命後のマンチェスターの綿織物産業の発展と不況を体験し、その後のイギリスとアメリカでの苦しい生活を経験したわけです。これが「小公女」のプロットに影響を与えたとも推測できます。
「小公女」のリアリティー
ロンドンを舞台にした「小公女」のストーリーは、裕福なお嬢様(第1部)から小間使いに(第2部)、それから再び元に(第3部)と、ちょっとありえないような展開をします。それでいて妙にリアリティーを感じるのは、当時のイギリスの社会環境である、
・富裕層と底辺労働者の格差
・インドという植民地の存在
を背景にしているからではないでしょうか。
「小公女」という小説は、現代日本を舞台にTVドラマやアニメとしてリメイクしにくい小説だと思います。そんなリメイクをしたら、全くリアリティーがないものになる可能性が高い。それでも近年、志田未来さん主演で現代日本を舞台にリメイクされたようです。そのTVドラマを見ていないので何とも言えませんが、成功したのかどうか。
「小公女」の作者であるイギリス生まれのアメリカ人・バーネットは、当時のイギリスの社会環境への問題意識をもとに小説を書いたのでしょうか。それとも単に読んでハラハラする少女向けの児童小説を書いたのでしょうか。それは分かりません。しかし確実に言えることは、「小公女」のストーリー展開とそこに出てくるエピソードはいかにも極端だけど、作者のバーネットは当時の社会環境を十分に頭に入れた上で、非常にまじめに小説を書いていることです。第2部の「小間使いのセーラ」のところなどは、大げさに言うと「人間の尊厳とは何か」というテーマを扱っているようにも見える。作者の実生活での苦労が反映されているのかもしれません。この作者の「まじめさ」が、多くの人を引きつける要因になっているのでしょう。
No.1, No.2 で取り上げた「クラバート」は、少年が大人になる過程を通して、人間の自立とは何か、社会における労働とは何か、などの普遍的なテーマを扱っていました。作者のプロイスラーはこの児童小説に「普遍性」を盛り込もうと、はじめから意図して書いたと考えられます。それに対して「少公女」のフランシス・バーネットは、そういう意図はなかったと思います。あくまで「少女向け小説」を書いた。しかし作者の意図はどうであれ、この小説はある主のリアリティーと深みを持つことになった。「クラバート」と「少公女」は、「よくできた児童小説は、児童小説の範疇を越えた普遍性をもつ」ことの良い実証例だと思います。
No.39 - リチウムイオン電池とノーベル賞 [科学・技術]
旭化成・フェロー 吉野 彰氏
No.38「ガラパゴスの価値」において、携帯電話をはじめとするモバイル機器が、日本のリチウムイオン電池産業の発展を促進したことを書きました。現在でもリチウムイオン電池(完成品)の世界シェアの5割近く、電池用部材の6割近くは日本企業です。
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旭化成・フェロー 吉野彰氏 [site : 旭化成] | |||
研究職としての出発
吉野さんは京都大学の石油化学科で量子有機化学を専攻し、大学院まで進んだ後、1972年に旭化成に入社します。そして神奈川県の川崎製造所(現、旭化成ケミカルズ)に配属され、研究職として出発しました。
20歳代における吉野さんの研究は、失敗の連続だったようです。まず最初に取り組んだのが「ガラスと結合するプラスチック」です。当時、旭化成は住宅事業である「ヘーバルハウス」を立ち上げたばかりであり、付加価値の高い建材の開発を目指したのです。しかし2年の研究の後、このプロジェクトは失敗に終わりました。
2番目に取り組んだのが、住宅用断熱材として使える「燃えない発泡体」です。これも2年ほど研究しましたが思ったような成果は出ず、失敗に終わりました。3番目は太陽光などの可視光線を吸収できる「光触媒」です。これは3年間ねばったようですが、失敗でした。
吉野さんは以上の失敗の経緯を回想し、以下のように述べています。
| 「 | 今になって思うと、研究開発で失敗はあたりまえのことだ」 |
| 「 | 短期間で利益をあげることを経営目標にしている企業だったら耐えられないだろう」 |
| 「 | 私が20代だったころの研究は失敗の連続だったが、そのつど将来に生かせる経験を身に付けることができた。会社は長期的な視点で人材育成をしていたのだと思う」 |
吉野さんが言いたいのは、企業における長期視野にたった研究の重要性ですね。連載コラムの基調にあるテーマは、この長期視野の研究の大切さです。
チャンス到来
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導電性高分子 ポリアセチレン (金属のような光沢がある) [site : 夢・化学-21 www.kagaku21.net ] | |||
吉野さんはポリアセチレンの性質を分析し、電池の素材に向いているのではないか、と推論しました。つまり、充電るすことによって繰り返し使える「2次電池」の素材として最も有望だと考えたのです。
非水系2次電池の開発
おりしも1980年代に入り、ビデオカメラなどの電子機器のポータブル化が進もうとしていました。当時はモバイル機器という言い方はあまりなく「ポータブル機器」だったのですね。とにかく普通の人が「持ち運べる」程度に小型化することに意義があったのです。そして電子機器のポータブル化と小型化には、高電圧を発生でき、繰り返し充電して使える2次電池が必須でした。以下は吉野さんの解説です。
高電圧を発生するには水を電解液に使う乾電池や鉛電池だと限界がある。水の代わりに有機溶媒を使う非水系電池にする必要がある。81年当時、非水系で既に存在していたのは金属リチウム電池。ただし弱点があった。金属リチウムは1次電池、つまり「使い捨て」なのだ。充電できる非水系電池は存在していなかった。 |
金属リチウムは敏感に化学反応するため、充電を繰り返す2次電池に使うと、発火事故のリスクが大きくなるのです。2次電池にとって最も必要な要件、それは安全性です。
そこで「導電性ポリアセチレン」の利用です。研究を進めると、ポリアセチレンは無水状態に置くと極めて安定する物資であることが分かってきました。当時の金属リチウム電池の正極材は二硫化チタンが一般的で、負極材として金属リチウムを使うというものでした。電池の性能を左右するのは負極材です。吉野さんは負極材として、金属リチウムの代わりにポリアセチレンを使おうと考えたのです。
正極材の探索
私は電池の研究に詳しいわけではないのですが、リチウム電池の金属リチウムをやめて導電性ポリアセチレンを使うというのは、かなりの逆転の発想ではないでしょうか。この発想の柔軟性がキーだったような気がします。もちろん、正極材が二硫化チタンで負極材がポリアセチレンという組み合わせでは、電池になりません。リチウムがないからです。吉野さんは、正極材として使えるリチウム含有物質の探索をはじめます。負極材のポリアセチレンと組み合わせられる、というのが条件です。
しかし、この正極材がなかなか見つからず、暗礁に乗り上げるのです。そして、研究を始めて1年以上が過ぎた1982年の暮れ、ある偶然が突破口になります。
このまま年を越すのかと気分が重かった年末のある日、午前中に職場の大掃除があり、午後はやることがなくなった。取り寄せたまま手つかずだった海外の研究文献を何となく読み始めたら、思いがけない論文と出会った。 |
吉野さんは負極としてポリアセチレンと組み合わせたらどうか、と考えます。そして翌1883年1月、正極がコバルト酸リチウム、負極がポリアセチレンという電池を試作し、充電も放電もうまくいくことが確認できたのです。「旭化成に入社して10年。待ちに待った研究の大成功だった。」わけです。ここに「リチウムイオン2次電池」の原型が誕生しました。
- 日経産業新聞の「仕事人秘録」では触れていないのですが、リチウムイオン電池の開発には、もう一人の日本人が重要な貢献をしています。東芝リサーチコンサルティングのフェローの水島公一氏です。水島氏は1970年代末にオックスフォード大学に滞在し、グッドイナフ教授のもとでリチウムイオン電池の正極材の探索をしました。そして見つけたのがコバルト酸リチウムだったのです。
リチウムイオン電池の開発史では、まずグッドイナフ教授・水島氏が正極材としてのコバルト酸リチウムを発見し、次に吉野さんが負極材にポリアセチレンを使って成功させたわけです。
もし吉野さんが長年のリチウムイオン電池研究者だったとしたら、負極材にポリアセチレンを使うことを思い立ったとき、即座にクッドイナフ論文を思い出し、コバルト酸リチウムと組み合わせればとうかと考えたのではないでしょうか。しかしそうではなかった。コバルト酸リチウムを「発見」したのは、年末の大掃除の偶然だったのです。吉野さんはこのことを率直に語っています。
吉野さんが1981年にリチウムイオン電池の研究を始めたとき、世界の研究者はコバルト酸リチウムを正極とする電池の開発に、ひそかにしのぎを削っていたのではないでしょうか。しかし最初に成功したのはリチウムイオン電池研究に「遅れて」参加し、導電性ポリアセチレンの用途開発という全く意外な方向からアプローチした吉野さんだった。ブレークスルーの、一つの典型的なパターンだと思います。
負極材の探索
「仕事人秘録」の内容に戻ります。「リチウムイオン2次電池」はできたのですが、しかしそれは「原型」に過ぎず、製品化には大きな問題があったのです。それは負極に使ったポリアセチレンの問題です。ポリアセチレンは高温で保存すると劣化しやすいことが分かってきました。さらに、比重が小さくて軽いので、かさばるのです。軽量化には向くのですが、小型化を実現するには比重の小ささが致命的であることが分かってきました。
そこで吉野さんはポリアセチレンをあきらめ、別の負極材を探すことにします。目をつけたのが、ポリアセチレンと分子構造の特徴が似ているカーボン(炭素)材料です。カーボンは電気を通す性質があり、期待できます。しかし当時入手できた各種のカーボン材料を試してみても、うまくいきません。
この状況をブレークスルーしたのは、旭化成自身の別の研究でした。1984年に旭化成は、当時注目され始めていた炭素繊維の研究を始めていました。そこで研究されていた気相成長法炭素繊維(VGCF)が、吉野さんの目にとまったのです。試作をしてみると、このVGCFは負極として抜群の性能を示しました。翌1985年、正極材としてコバルト酸リチウム、負極材が炭素繊維(VGCF)というリチウムイオン電池が完成したのです。研究を始めて4年が経っていました。このコバルト酸リチウムとカーボン材料というリチウムイオン電池の基本構成は、旭化成が特許を取得し、現在、世界中で作られているリチウムイオン電池の多くが採用しています。
事業化へ
しかし、リチウムイオン電池を事業化するには、まだ問題があったのです。それは、気相成長法炭素繊維(VGCF)の生産が必要量に追いつかず、サンプル品の提供さえままならないという問題です。そこで吉野さんはVGCFと性質が似ているカーボン素材で、大量生産が可能なものを探索し、ある特殊なコークスに行き着きます。このコークスを使って、最終的なリチウムイオン電池の事業化が始まったのです。
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リチウムイオン電池の4大部材は、正極材、負極材、電解液、セパレータです。このうちセパレータ(絶縁材)は、電池内での正極と負極の接触を遮断し、かつリチウムイオンだけは通すという部材です。旭化成はこのセパレータで世界シェアの37%をもっています(2010年)。2011年6月3日の日本経済新聞にリチウムイオン電池の4大部材のシェア上位の会社が載っていました。参考までに引用しておきます。
さらに旭化成にとってセパレータのシェア以上に重要なのは、リチウムイオン電池の基本特許という大きな財産が残ったことでしょう。
ここまでが「仕事人秘録」の内容です。
白川教授による、導電性ポリアセチレンの発見
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白川 英樹・ 筑波大学名誉教授 [site : 日本科学未来館] | |||
有機材料である高分子は、電気を流さないのが普通です。そのため電気製品の中では絶縁材としてよく使われています。しかし1970年代に、白川英樹・筑波大学名誉教授は、それまで粉末でしか存在しなかったポリアセチレンをフィルム状に合成することに成功し、かつ、微量のヨウ素などを加えると金属にも匹敵する電気伝導性を示すことを発見しました。これが導電性高分子の最初の発見であり、1977年のことです。
その後、導電性高分子の研究は進み、産業界への応用として電解コンデンサや、携帯機器のボタン電池に使用され始めました。
ノーベル化学賞
白川教授はこの功績で、発見から23年後の2000年にノーベル化学賞を授与されました。受賞者は白川教授を含めて3人で、他の2人は、米国ペンシルヴァニア大学での共同研究者であるマクダイアミッド教授とヒーガー教授です。
このノーベル化学賞の受賞について、強く覚えていることがあります。ノーベル化学賞の連絡があったのは2000年10月10日です。その直後、おそらく11日に日本経済新聞社は白川教授を囲む座談会を開催し、その様子を2000年10月12日付の日経新聞に掲載しました。強く覚えている、というのは、座談会における白川教授の次の発言です。
米国のワークショップで初めてポリアセチレンの導電性高分子を発表した時、IBMの人がやってきて「これは何に使えるのか」と質問された。私自身は電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があっただけで、問われてもどう答えていいかわからなかった。 |
| 「 | 電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があっただけ」 |
| 「 | 何に使えるのか、問われてもどう答えていいかわからなかった」 |
これは、白川教授の本心だったと思います。と同時に、白川教授の人柄を表していると思いました。ノーベル化学賞の受賞は、導電性高分子・ポリアセチレンの発見から23年が経過しています。その間、限定的ですが用途開発が進み、また有機ELや太陽電池などへの応用が研究されていました。この状況を発見者である白川教授はつぶさに知っていたはずです。2000年の座談会では「・・・・・・などの幅広い応用が考えられたので、私は導電性高分子を研究したのです」という発言をしてもよいわけです。しかし白川教授はそんな答えはしない。「興味があっただけ」なのです。白川教授の、率直で飾らない人柄が現れていると思いました。
考えさせられるのは、基礎研究は何のためにやるのかということです。基礎研究をやっている科学者は「それは何の役にたつのですか」という質問を、耳にタコができるほど受けていると思います。その都度「・・・・・・などの応用が考えられます」というように答える。「何に使えるのか分かりません」では質問者は納得しないし、特に現代では研究費の獲得もできないでしょう。真っ先に「事業仕訳け」にあいそうです。
しかし基礎研究を行う本当の理由は「興味があるから」だと思うのです。「・・・・・・などの応用が考えられます」というように答える研究者も、そうでないと人は納得してくれないから答えているだけであって、本心は「興味があるから」ではないでしょうか。好奇心から研究をする。これが基礎研究の本質だと思います。白川さんの座談会での発言は、そのことをダイレクトに表現していました。
リチウムイオン電池へと導いた、ポリアセチレン
旭化成の吉野さんのリチウムイオン電池の開発経緯、およびその前の導電性ポリアセチレンの発見をまとめると、以下のようになるでしょう。
| ◆ | 白川教授は「電気が流れる高分子が作れるかどうかに興味があった」から研究を重ね、導電性ポリアセチレンを発見した(1977)。 | |
| ◆ | 吉野さんは、導電性ポリアセチレンを使って何か新しい素材を作ろうと考え、検討の結果、電池の材料として使うことを考えた(1981)。 | |
| ◆ | 導電性ポリアセチレンを負極に使ったリチウムイオン電池の「原型」が作れられた(1983)。 | |
| ◆ | しかしポリアセチレンは製品化に問題があり、結局、カーボン素材を負極に使ったリチウムイオン電池が完成した(1985)。 |
導電性ポリアセチレンが、吉野さんをリチウムイオン電池の発明に導いたことは確実です。しかし最終的にできあがったリチウムイオン電池に、ポリアセチレンは影も形もないのです。
さらに印象的なのは、ポリアセチレンを使った新素材を開発するプロジェクトを始めたとき、まだ何に使うか決める前から「やっと当たりくじをひけた、そう直感した」と、吉野さんが書いていることです。もちろん、この時点でリチウムイオン電池を作ろうなどとは、思ってもいなかったのです。
ポリアセチレンは、吉野さんの研究職としてのチャレンジの途中に現れ、進むべき道を示し、そして途中でいなくなったわけです。吉野さんはその後、ポリアセチレンの力を借りずに独力でゴールに到達した。ヒーローが目的達成のために旅を続ける「神話」や「冒険譚」が世界各国に伝承されていますが、それらによく現れる「導師」の役割を、ポリアセチレンは演じたことになります。
率直に言いますと、白川教授のノーベル化学賞の受賞を聞いたとき、なぜノーベル賞に値するのか、もうひとつ理解できませんでした。その時点において、産業界における導電性高分子の実用化は限定されたものだったからです。しかし吉野さんのリチウムイオン電池の開発ストーリーを読んで、白川教授の受賞が納得できました。ノーベル賞を選考するスウェーデン王立科学アカデミーの「目利き度」というのでしょうか、さすがですね。あたりまえですが・・・・・・。
発明・発見の「強さ」
要するに「導電性ポリアセチレン」は、強い発見なのだと思います。何に使えるのかは明確ではないけれど、何かに使えそうだとの思いを研究者にいだかせる。目的がはっきりした新素材は、実用化は容易かもしれないが、研究者の思考を束縛するはずです。「導電性ポリアセチレン」はそうではなく、価値を明確には言えないけれど、何か強いオーラを発している、そういう意味での「強さ」があるのですね。そのオーラが、吉野さんをリチウムイオン電池の発明に導いた。
基礎研究の分野において、そういう意味での「強い」発明・発見につながる研究をいかに継続していくか。これは国の科学技術政策ともからむ大きな問題であり、現在の日本につきつけられた課題だと思います。
日本発・リチウムイオン電池の今後
現在、リチウムイオン電池は車載用として脚光を浴びています。三菱自動車のi-MiEVや、日産自動車のLEAFのような電気自動車は、航続距離の関係上、リチウムイオン電池が必須です。また電力危機以降は、電力使用の平準化をするための蓄電装置としても注目されています。世界の競争も激しく、日本企業の世界シェアは、昔は90%とか、そういう時期もありましたが、2010年度は50%弱であり、韓国・台湾勢が激しく追い上げています。
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しかし吉野さんは、今後の開発競争の見通しとして、次のように述べています。
世界で電気自動車(EV)市場が拡大したら、欧米に必ずリチウムイオン電池メーカーが生まれる。今は日本と韓国が優勢だが、先端研究の蓄積や資金調達力を考えれば強敵になるだろう。大きなビジョンを持ち、国策として電池産業を強くしていくしかない。 |
欧米が強敵になるだろうという見通しとあわせて、何となく感じるのですが、リチウムイオン電池にはまだ大きなブレークスルーがある、と吉野さんは考えているようです。それを裏付けるかのように「電池の内側で起きている現象が完全に解明されていない」と述べています。まだまだ進歩はある、ということでしょう。
ここで吉野さんは「国策」という言葉を使っているのですが、これで連想したことがあります。「電池の内側で起きている現象を完全に解明する」ための一つの手段が、スーパーコンピュータによる分子レベルの大規模シミュレーションだと思います。こういった分子の挙動の解明は実験では限界があり、コンピュータによる解析が有力な手段のはずです。
「日本発であるリチウムイオン電池産業が、今後も世界のトップを走り続けるためにも、次世代スーパーコンピュータは世界1位でないとまずいのです」と、文部科学省の官僚は「事業仕分け」で蓮舫議員に即答すべきでした。もちろん、リチウムイオン電池の開発に限ったことではありません。新薬の開発においても、現代はスーパーコンピュータが必須の道具です。科学技術政策という「国策」を立案するのが仕事である霞ヶ関の官僚であれば、「1位でないとまずい」と断言できる程度のビジョンや構想を持っていて当然でしょう。吉野さんの連載コラムを読んで、最後に思ったことでした。
「事業仕分け」に触れたので、補足です。
事業仕分けにおける蓮舫さんの「2位じゃ、だめなんでしょうか」という発言に対して、次世代スーパーコンピュータ開発の当事者であり、ノーベル化学賞受賞者である理化学研究所の野依理事長が厳しく批判しました。また他の科学者や政界からも批判が相次ぎました。
しかし、この蓮舫さんの発言は極めてまっとうな発言だし、社会ではよくあるたぐいの発言だと思うのです。
企業のトップが、新規の大型投資の提案を部下の事業部長からうけるとしましょう。役員会で事業部長がプレゼンをするという想定です。プレゼンが終わったあと、トップが次のような質問をするのは極めてまっとうだと思います。
| ◆ | 投資額が多すぎる。半分にしたらどうなのか。 | |
| ◆ | その投資で業界1位をめざすと言っているが、まず当面2位か3位をめざすのが妥当ではないのか。 |
トップは自分の会社の全事業内容を知っているし、将来のビジョンも常に考えています。しかし特定事業に関しては明らかに事業部長の方が詳しい。技術論や業界動向論で「特定事業について」トップと事業部長が論争したら、トップが負けてしまいます。
トップが上記のような「一見、投資に対してネガティブな」質問をする理由は、何もその事業を伸ばしたくないとか、業界1位をめざすのがまずいと思っているからではありません。トップとしては、もちろん1位になって欲しい。ではなぜそのような質問をするのかというと、トップは「技術論では勝てない」事業部長に対してそういう質問をすることによって、事業部長がどう答えるかを見ているわけです。事業部長が「その投資について考え抜いていて」「成功させる意欲に溢れ」「結果については全責任をもつ」ということが答えから分かったとき、トップは GO の裁定をするわけですね。
事業の成功は、もちろん技術とか戦略とかマーケティングの優劣はあるのですが、大きなものは「責任をもって遂行する人の、最後までやり抜くという意思」です。こんなことは今更言うまでもなく、社会ではあたりまえのことです。
トップ=蓮舫さんと考えると、蓮舫さんの質問は極めて妥当です。それを、さも「特別な」発言のように取り上げるマスコミのレベルの低さにはあきれます。しかし一番残念なのは、答える官僚が、技術の詳細はともかく「次世代スーパーコンピュータの国家としての意味を熟知し」「国としてやりとげる責任感をもっている」人物ではなかった、ということです。「国策」を立案する官僚がそれではまずいと思いました。
No.38 - ガラパゴスの価値 [科学・技術]
No.37「富士山型の愛国心」において日本の携帯電話(スマートフォンでない従来型の携帯電話。以下、携帯と書きます)を「ガラパゴス携帯」とか「携帯のガラパゴス化」と表現するメディアがあると書きました。これは日本だけで独自に高度に発達をとげ、世界市場では影が薄い日本の携帯を、揶揄したり批判したりする言い方です。批判というまでの意識はないのかもしれませんが、少なくとも日本の携帯をネガティブにとらえた言い方であることは間違いないと思うので、以下、この揶揄ないしは批判を「ガラパゴス批判」と書きます。
この「ガラパゴス批判」は、メディアの記者が評論家になったつもりで、おもしろがって言っているのだと思います。私は携帯業界のことに詳しいわけではないし、携帯の1ユーザに過ぎません。それでも、この批判は的を射ていないと思うのです。
スマートフォンが大きく伸びている現在、あらためて携帯における「ガラパゴス」の意味を振り返ることは大いに意味があると思います。以下に「ガラパゴス批判」の問題点を何点かあげます。
携帯はキャリアの製品
まず誰でも知っていることですが、日本の携帯は、携帯電話事業者(ドコモ、KDDI、ソフトバンクなど。以下キャリアと呼びます)の製品です。携帯電話端末というハードウェアの開発・製造会社(以下メーカと呼びます)はキャリアの委託を受け、製品を開発し、キャリアに製品を納入している存在です。携帯という製品を出しているのはキャリアであり、販売代理店→キャリアショップ・量販店というルートで製品を販売しているわけです。従って「ガラパゴス批判」は、第1義的には「キャリアが日本だけでビジネスをしていて、高度に発達した携帯をもって世界にで出ていってないじゃないか」という批判なのです。
しかし、一般的にキャリアは一つの国だけで、ないしは一つの国を中心にビジネスを展開していることが多いのですね。なぜか。
それは、電波がその国のインフラストラクチャと密接に絡んだ「公共財」だからです。日本を含めてどの国でも、電波をどの会社にどういう方式で割り当てるかは、極めて重要な政治判断です。かつ、ビジネスを始めるには膨大な設備投資がいる。日本のキャリアがのこのこ外国へ出ていって携帯電話ビジネスをすぐに始めるわけにはいかないのです。逆も真です。AT&T も Verizon も韓国テレコムも日本でビジネスをしていません。
ありうるのは、外国のキャリアを買収するという手です。英国の Vodafone は、欧州を中心に買収によってビジネス拡大しています。しかしこれとて万能ではない。携帯電話は国の重要インフラなので、外資規制がかかっていることがあります。また買収したからには、本国のビジネスとの相乗効果を実現しないといけない。Vodafone は J-phone を買収しましたが、その後、SoftBank に売却してしまいました。Vodafone の「世界共通携帯」を日本で売るとうような戦略が、日本では全く通用しないことが原因の一つだと思います。
それでも、たとえばドコモは海外ビジネスへの進出をめざして、インドやバングラデシュ、香港のキャリアに投資をしています。ソフトバンクも日本でのビジネスが安定すればその方向に行くかもしれません。日本のキャリアの海外進出はこれから、という段階です。
メーカの海外進出はできるか
それでは、メーカが日本のキャリア向け製品とは別に、海外のキャリアを対象とした製品を開発し、海外進出しすべきだ、という意見が出てくると思います。「ガラパゴス批判」を詳しく言うと「キャリアが海外進出できないのは分かるが、メーカはキャリアとは別に進出できるはず。それをしていないじゃないか」という批判だと考えられます。しかしこの「批判」も的を射ていないのです。
メーカが日本のキャリアとは別に、海外向け製品を作って海外進出する・・・・・・。これはロジカルにはもちろん可能です。
しかし海外進出にはいくつかの障壁があります。まず第1に、海外へ進出し利益をあげるまでのリソース(市場調査、海外のキャリアへの食い込み、開発技術者、販売網の整備、営業・・・・・・にかかる人とカネ)を投入できるかどうかです。日本のキャリアへ独自の最先端技術を盛り込んだ製品を年に2回も次々と供給しつつ、海外市場を開拓するのは並大抵のことではない。よほど会社のトップを説得するに足るビジネスプランがないといけない。かつその初期投資に耐えられるだけの利益を、日本のキャリア向けの製品受託事業であげていないといけないわけです。
第2に、一般に海外の携帯は日本に比べれば「普及品」です。日本の携帯のような最先端技術をふんだんに盛り込んだ高機能品・高級品ではない。そして普及品のポイントは、いかに低コストで製品を作れるかです。そして一般的に言えるのは、
それと同じで、日本の携帯メーカーであるシャープやパナソニックや富士通やNECが、はじめからグローバルビジネスを前提にしている Nokia やサムソン電子のようになるのはすぐには行かないと思います。
ガラパゴス:利用者視点の欠如(1)
ガラパゴス批判の大きな問題点は、携帯の利用者の視点を欠いていることです。要するに、供給者(キャリアとメーカ)の視点からだけモノを見ている。携帯を使う側からみてどうか、という視点が、ごっそり欠如しています。
NTTドコモが出している「らくらくホン」とうい携帯があります。この携帯などは、日本だけで固有に進化を遂げた「ガラパゴス携帯」の最たるものでしょう。
「らくらくホン」は、中高年や高齢者にユーザを絞った製品です。そういうユーザに如何に使いやすくするか、使い初めの障壁を如何に低くするかが、徹底的に考えられています。たとえば電話番号割り当て専用の3つのボタンがあり、どれかを押すと(例えば)自宅につながる。日本語の入力・表示も高齢者を想定し、できるだけ文字を大きくし、それを前提としてボタンや画面メニューが設計されています。
さらに、「らくらくホン」には「メールの音声読み上げ機能」や「表示メニューの音声読み上げ機能」がありますが、視力障害者の方が常時使う機能として極めて価値が高いものです。視力障害者の方はほとんど「らくらくホン」を使っている、という話を聞いたことがありますが、デジタル機器が人の生活を便利にする典型的な例だと思います。
「ユニバーサル・デザイン」という考え方があります。なるべく多くの人に使えるデザインにする、という意味ですが、らくらくホンは、携帯の初心者、シニア、視力障害者の方にラクに使える携帯を目指していて、まさにユニバーサル・デザインを実践しているわけです。「らくらくホン」のユーザは買い換える時も「らくらくホン」だと言います。あたりまえでしょう。簡単で使いやすい操作に慣れたユーザは、それを変えたくないからです。
らくらくホンは機能よりも使いやすさを追求した携帯ですが、高度な技術が用いられていないかというと、そうでもない。たとえば「ゆっくりボイス」「はっきりボイス」という機能があります。相手の声をゆっくり聞こえるようにしたり(ゆっくりボイス)、環境音を下げて人間の声だけを強調する機能(はっきりボイス)ですが、これらはかなり高度な音声認識・音声合成技術です。また「あわせるボイス」という機能もあります。人間だれしも年をとると耳が聞こえにくくなりますが、聞こえにくくなるのは高音からです。「あわせるボイス」は、利用者の年齢に応じて高音部を自動的に強調する機能です。製品のターゲットがクリアなので、技術を使うポイントも明確なのです。
「らくらくホン」は、日本市場で独自に高度に進化した携帯の代表例と言えるでしょう。それは「世界市場」には出ていないけど、利用者にとっては大きな価値であることは確実です。
さらに日本では「子ども用携帯」も発達しています。子ども用の携帯は各社が出していますが、一つだけ例をあげると、KDDIの「マモリーノ」という製品があります。ストラップ式の防犯ブザーがついていて、作動させるとセコムに通報される。親にも連絡が行き、要請があればプロの緊急対処員が発信現場に急行します。GPSを内蔵しているので子どもの居場所の特定は容易です。この携帯は子どもを守るため、インターネット接続機能はありません(メールのみ有効にすることは可能)。親の電話番号など、登録した特定電話番号にしか発信できないのです。こういった「子ども用携帯」も、独自に進化したガラパゴス携帯の典型でしょう。
ガラパゴス:利用者視点の欠如(2)
「らくらくホン」や「子ども用携帯」以外にも、日本の携帯が世界に先駆けて実用化し、利用者に定着させた機能が非常に沢山あり、これらの中には利用者にとっての価値が高いものがあります。外国の携帯がようやく、この数年で採用してきた機能も多いわけです。携帯のアプリで実現される機能や、ゲーム関係を除いた、携帯の基本機能に限って、それらを列記してみます。
携帯のインターネット接続は、日本が定着させた機能です(ドコモのiモードは、1999年2月)。つまり、メール(絵文字)、HTMLメール(ドコモではデコメール)、フルブラウザなどです。インターネット接続は、世界の携帯のあり方を根本から変えてしまいました。つまり「話す携帯」から「使う携帯」への変化を起こしたのです。「携帯電話」を「携帯・ケータイ」に変えてしまった。2000年代半ば時点において既に、日本の街角や電車で携帯を使う人は、ほとんどがインターネット接続機器として使っていました。しかしその頃ヨーロッパ旅行にいくと、街中や電車でほとんどの人が通話機器として使っていることに感慨を覚えたものです。「イタリア人は、電車の中で携帯で話している。携帯電話なんだ」というような・・・・・・。今でもそうではないかと思います。なおメールについての補足ですが、メール機能と着信バイブレーション機能によって、携帯が聴覚障害者の方の必須アイテムになったことを忘れてはならないと思います。
カメラ機能は、常時携帯するカメラがあることの便利さを痛感させるものです。もちろん「QRコードリーダ」のようなカメラ応用機能も含みます。レストランで初めて飲んだワインがおいしかったとき、ラベルを携帯カメラで撮るのが習慣になってしまいました。このカメラ機能も、当時のJ-Phoneが「写メール」という名前で、藤原紀香さんのCMで売り出したのが最初でした(携帯はシャープ製)。
電子マネーを、ICカードではなく携帯でサポートしたのも、日本が先駆的です。インターネット接続を活用し、どこにいてもキャッシュレスでチャージができる利便性があります。また携帯の電子チケット機能(Suica, ANA, JAL, など)も普及しています。
テレビ電話機能ですが、これを実際に使っている人は少数ではないかと推測します。実用性に乏しいという見方もあるでしょう。しかし視力障害者からみると、意味が違うはずです。つまり携帯のテレビ電話機能は、視力障害者の方を健常者の方が遠隔地からサポートするには、ものすごく便利な機能なのです。これだけでも携帯の「高度な進化」は社会的意味があると思います。
放送受信機能も日本の携帯の「独自に進化した」機能です。テレビ受信機能(ワンセグ受信機能)のありがたさは、2011.3.11 で多くの人が実感したのではないでしょうか。あの日、常時生きていた情報インフラは、有線のインターネットと、放送(TV、ラジオ、ワンセグ)でした。つまり常時携帯機器では携帯のワンセグだったのです。付け加えると停電した地区で生きていた情報インフラは、携帯型ラジオと携帯のワンセグです。ワンセグでの情報から津波避難をした人もいると聞きます。3.11 において日本のガラパゴス携帯は、人の命を救った可能性が高いのです。もちろんワンセグは、災害時だけでなく、通常のテレビ番組を楽しむためのものです。2011.7.18 早朝の 女子サッカーワールドカップ決勝、日本対アメリカ戦を、通勤途中にワンセグで見た人も多いでしょう。
放送の一つに「緊急地震速報」があります。現在の緊急地震速報はセンサーや速報網がまだ完全ではなく、誤報もあったりするのですが、いずれ整備が進むと、日本人にとって非常に重要な社会インフラになると思います。そしてこの緊急地震速報が携帯で受信できるのが大きい。これも「地震が頻発する日本で独自に発達したガラパゴス機能」です。
GPS応用機能も利便性の高いものです。ナビや子供の見守り機能など、今いるエリアの情報提供など、GPS応用アプリは多岐に渡っています。
ビデオカメラやサウンドレコーダの機能も、もちろん専用機器には機能的に劣りますが、常時携帯機器でこれができるのは価値があると思います。事故や災害のとき、携帯で撮ったムービーがテレビのニュースで放映されることがよくありますね。
防水機能は、安心という意味で重要でしょう。さっき書いたKDDIの子ども用携帯「マモリーノ」も当然、防水です。さらに赤外線通信も、いつもではないけど、家族や友人ととのアドレス帳やメモの交換に便利に使えるものです。
以上に述べた機能は、中には日本の携帯が最初ではないものもありますが、利用者への定着という意味では日本が先進的だったと思います。「日本の中だけで高度に発達した」ことが、明らかに利用者にとっての価値を生んでいるのです。しかも日本の携帯は、機種にもよりますが、上位機種なら全世界で使えます。日本の利用者にとっては、海外旅行に持っていっても日本と同じように使える。ガラパゴスであっても何ら不便はないのです。
ここからは想像ですが、おらく日本で携帯のインターネット接続が始まってからの約10年間、世界の有力携帯メーカやキャリア、そしてアップルのような会社は、日本における携帯の状況をつぶさに研究したと思います。またグーグルも日本における携帯の使い方を徹底的に調べたはずです。それが iPhone や Android につながったと直感します。
以上をまとめると、「ガラパゴス批判」をメディアに書く記者に欠けているのは、利用者の目線です。携帯は日本の利用者にとってどういう価値があって、それが日本の携帯の独自性(ないしは特殊性)とどう関係しているのか、という視点がない。「上から目線」だけのモノの見方をしています。企業が製品を作るときに最も大切なのは利用者・ユーザの視点です。企業で製品企画をする人は、メディアの記者の「上から目線」に踊らされることなく、ユーザの利便性を徹底的に追求して欲しいものです。そんなことは百も承知だと思いますが・・・・・・。
ガラパゴスから世界へ、という実績
日本の携帯は世界への進出が遅れていますが、他の工業製品を眺めてみると、世界に進出している製品がいろいろあるわけです。このような他の製品も見ないと、物事の本質を見誤る危険性があると思います。
日本の工業製品が世界に進出した典型的なパターンは、次のようなものです。
こういった工業製品の代表例がクルマ(乗用車)です。
日本の乗用車メーカは8社もありますが(トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、三菱自工、富士重工、スズキ、ダイハツ)、自動車産業の新興国を除いて、こんな国は他にはありません。この日本勢は世界市場で健闘しています。世界の自動車販売台数でトップ15位に入る会社数をみると、日本・5社、アメリカ・3社、ドイツ・3社、フランス・2社、韓国・1社、イタリア・1社です。
日本国内に8社もひしめいている自動車会社は、昔から熾烈な「品質競争」を繰り広げてきました。ここで言う品質とは「トラブルが少ない」から始まって「ボデーや内装の仕上げ」から「低燃費」に至るトータルな品質です。この品質が米国などに評価されて海外進出につながったわけです。「高品質」のクルマを低コストで生産する日本の自動車会社の生産方式(ジャスト・イン・タイム、など)は、世界の自動車会社の標準になってしまいました。
自動車つながりでいうと、2輪車(オートバイ)も似たような状況です。日本には2輪車メーカが4社もありますが(ホンダ、ヤマハ発動機、スズキ、川崎重工)、世界市場の5割をこの4社で握っています。
海外旅行に行った時に外国人の旅行者を観察すると、デジタルカメラとビデオカメラに関しては、日本企業以外の製品を見た記憶がありません。デジタルカメラのメーカは日本に9社もあります(キヤノン、ニコン、オリンパス、ペンタックス、リコー、ソニー、パナソニック、富士フイルム、カシオ)。またビデオカメラは日本のメーカ(ソニー、パナソニック、 日本ビクター、 キヤノンなど)が世界を席巻していると言っていいでしょう。この4社の世界シェアは86.5%もあります(2010年度。日本経済新聞社推定。2011.7.25 日経産業新聞)。
オフィスで使う複写機は、今は「デジタル複合機」となって、プリンタ、ファックス、スキャナーなどの機能が統合されています。デジタル複合機は、富士ゼロックス、キヤノン、リコーの3社の規模が大きく、この3社で日本市場の8割近くを占めています。この3社の世界市場のシェアは5割を越えています。注目すべきは、上位3社だけでなく、シャープ、東芝テック、コニカミノルタなど、日本の複合機メーカは10社を越えるということです。日本のデジタル複合機の世界シェアはおそらく7割を越しているのではないでしょうか。
以上の世界商品ですが、「日本で高度に発達し、世界に進出する」ということは、その代償として「日本でしか需要がない製品も供給し続けなければならない」というケースが起こり得ることには、注意すべきです。たとえば代表例としてあげた乗用車ですが、現在の日本のクルマ市場を台数ベースで言うと、ハイブリッド(HV)が1割弱、ミニバンが2割、軽自動車が4割弱あります。これらはすべて、日本需要が中心の車種なのです。現在、自動車会社にとっての市場開拓の主戦場は「新興国」ですが、一方で日本需要中心のクルマも供給しないといけない。HV、ミニバン、軽は、日本のユーザに大きな利益や価値を与えているからです。それだけ供給者も需要者も含めて、日本の市場は発達している。しかし、その一方で海外の新興国での市場獲得競争です。自動車会社はこういったジレンマに直面しながら、ビジネスの舵取りを迫られています。
コンシューマ製品を中心に世界進出に成功している事例を何点あかあげましたが、もちろん、日本国内で熾烈な競争をしている製品が世界市場で成功するとは限りません。製品の種類から言うと、むしろ少数でしょう。しかし日本市場で「高度に」発達することで、それがやがて世界を席巻するというのが、日本の工業製品の勝ちパターンの一つであることは明らかです。このことは十分に認識しておく必要があると思います。
メディアは「日本が負けている」点だけをとりあげ、大々的に、あるときはおもしろおかしく宣伝します。「負けていることの認識」は大変に重要ですが、それと同時に「勝っている部分の認識」もまた重要なのです。
「ガラパゴス部品」は世界へ
携帯の話に戻ります。日本の携帯には最先端の技術がぎっしり詰まっていますが、それを支えているのは日本企業が作る「日本で高度に発達したガラパゴス部品」です。
携帯という最終製品でみると、世界市場では外国メーカがほとんどなのですが、部品に視点を移すと日本企業がメジャーです。つまり、高周波電波部品、積層セラミックコンデンサ、薄型マイク、超小型カメラモジュール、音源用LSI、小型液晶などの部品は、日本が極めて強い競争力を持っている。世界中の携帯の部品の3~4割日本製だと言われています。
携帯で磨かれた部品技術は、スマートフォンにも引き継がれています。スマートフォンに関する新聞記事の引用です。
要するに、スマートフォンのキー・デバイスにおいては、日本企業の競争力がまだまだ強いということを言っているわけです。
もちろん携帯やスマートフォンの部品においても韓国や台湾のメーカが追い上げていて、日本企業も安泰ではありません。しかし重要なのは、日本のキャリアが独自に高度に発達した携帯を提供し続けてきたからこそ、日本の部品メーカが世界を相手にビジネスをしているという事実だと思います。
さらに部品以外に関連分野への波及があります。その典型がリチウムイオン電池です。リチウムイオン電池は携帯機器への応用で市場がスタートしました。もちろん携帯(電話)だけでなく、ノートパソコンやビデオカメラなども含めた携帯機器です。しかし携帯(電話)がリチウムイオン電池の開発を牽引したことは間違いないと思います。とくに日本の携帯のように高機能だと、電力消費が大きく、かつ電池のスペースは最小限です。できるだけコンパクトで大容量の電池が求められる。日本のキャリアは電池メーカにこの点を徹底的に要求し続けたはずです。2000年代の前半には、世界のリチウムイオン電池のシェアの8割とか9割が日本メーカという時がありました(現在は5割を切っている)。これに日本の「高機能携帯」が貢献したことは間違いないと思います。それが、今後巨大市場になると想定されている、電気自動車(EV)やハイブリッド車向けの車載用リチウムイオン電池につながっていくわけです。
付け加えると、携帯やスマホの部品と同じように、リチウムイオン電池用の部材でも日本企業が高いシェアを持っています。リチウムイオン電池の4大部材は、正極材、負極材、セパレーター、電解液ですが、この4大部材の日本勢の世界シェアは56%であり、4大部材のトップシェアをもっているのは全て日本企業です(2011年6月3日 日本経済新聞による)。
独自性への嫌悪感
「ガラパゴス携帯」と揶揄する記事を書くメディアの記者が「暗黙に抱いている考え」を推測してみたいと思います。
前回にも書いたのですが、一般的に日本では個性が突出した人が嫌われたり、評価されないことがあります。横並びを尊び、他人と同じであることに価値を見いだし、独特であることや独自性にネガティブな反応を示す傾向です。もちろん個々の状況によって違いは大きいのですが、アメリカ比較して全体の傾向を言えば・・・・・・ぐらいの感じで考えると、それは正しいのではと思います。
この傾向は国というレベルにもあります。世界の他の国、特に欧米先進諸国と違うコトをやることが、悪いとか、よくないといった暗黙の評価になるわけです。ガラパゴス批判の裏に潜んでいるのは、実は「独自性への嫌悪感」だと思います。
ガラパゴス批判をメディアに書く記者は、本人は全く意識していないと思いますが、暗黙に次のような考えにとらわれています。
これは何も携帯に限った話ではありません。経済全般、政治、文化(英語と日本語の扱いなど)に、広範囲に上記のような考え方が適用されている。その現れの一つが「ガラパゴス批判」だと思います。
しかし上記のような考え方は、世界の先進国の間では「特殊な考え方」だと思います。G8の国、特にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、そして中国は、以下のように考えているはずです。
いわゆる先進国や大国ではこれが普通の考え方だと思います。もちろん、あからさまにこんなことを言うと反発されるだけなので、公式には表明されません。また各国にはそれぞれの強み・弱みがあるので、すべてのジャンルにおいて「世界の中心」というわけにはいきません。しかし各国の行動パターンの裏に基本的にあるのは、こういった考えだと思うのです。こう考えで行動する方が、自国にとって、また自国の企業にとって有利になるからです。
各国が「世界の中心だ」と主張すると、当然、論争や闘争になります。「独自性の押しつけ合い」になる。それが外交であり、経済外交です。その「押しつけ合い」の中から妥協が生まれ、国際標準が形作られる。どうしても自国として妥協できないものは、たとえ他の国々が妥協しても「独自性の殻」に閉じこもる。自国の方が正しいと主張して・・・・・・。
繰り返しになりますが、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、中国はこのように考えて行動していると思います。これが普通なのです。独自性の押しつけ合いを有利に進めるために、ドイツとフランスが妥協して手を組んだのがEU、と考えることもできます。
それに対して日本です。「ガラパゴス批判」を書いているメディアの記者は、その一方で「独創性が大切だ」「個性が大事」「ワン・アンド・オンリーをめざせ」と書いているのではないでしょうか。「世界で一つだけの花は何より価値がある」というような・・・・・・。しかし、心の底では「ワン・アンド・オンリー」が嫌いなのだと思います。そうとしか考えられない。そして「世界の中心は日本以外のところにある」と無意識に思っている。
ワン・アンド・オンリーの製品を作り出し、それを普及させるのは苦しいものです。多大な研究開発費を投じて新しいものを生み出さないといけない。いったん成功すると、とたんに模倣者が出てきて「いいとこ取りをした安い製品」を作ったりする。独自製品を出しても、それが世界に広まらない限りは、世界標準品に淘汰されてしまうリスクもある。産みの苦しみから始まって、育てる、広める、維持する・・・・・・困難なことだらけです。安易な道を選ぶなら、誰かのまね、外国のまねだけをして「ガラパゴス批判」をしていればいいわけです。
しかし、日本だけではなく、また、携帯だけでもないのですが、世界にはそのワン・アンド・オンリーという「困難なこと」にチャレンジしようとする企業があるからこそ、経済が成長するのですね。
携帯のように「独自に高度に進化した」こと自体は誇るべきことだと思います。明らかに利用者に大きな価値を与えている。もちろんそのデメリットもあります。従って「高度な進化」をどう生かしていくか、デメリットをどう最小化するかを考えた方がよいと思います。特に、スマートフォンでは Android という「世界共通OS」があるので、日本メーカにとっても海外進出の大きなチャンスだと言えるでしょう。
ワン・アンド・オンリーの価値
2010年9月に、シャープは電子書籍端末・GALAPAGOS を発表しました。その後GALAPAGOSは「メディアタブレット」と称してAndroidを搭載し、タブレットPCとの融合が進んでいます。電子書籍端末としての初代GALAPAGOSは、2011年9月15日に販売終了が発表され、いよいよ各社が繰り広げている「タブレットPC戦争」のまっただ中に突入したわけです。シャープのこの製品が勝ち組になれるかどうかは、分からないと思います。

しかし、注目すべきはネーミングです。シャープの執行役員・岡田圭子氏が、このネーミングを経営会議に提案したときの様子が新聞に載っていました。
印象的なのは、こういったネーミングを執行役員が提案し、それを経営会議が即決したということです。オンリー・ワン商品を出すことに徹底的にこだわるシャープのような企業にとって、ガラパゴスであり続けることこそが、最大の価値なのです。
この「ガラパゴス批判」は、メディアの記者が評論家になったつもりで、おもしろがって言っているのだと思います。私は携帯業界のことに詳しいわけではないし、携帯の1ユーザに過ぎません。それでも、この批判は的を射ていないと思うのです。
スマートフォンが大きく伸びている現在、あらためて携帯における「ガラパゴス」の意味を振り返ることは大いに意味があると思います。以下に「ガラパゴス批判」の問題点を何点かあげます。
携帯はキャリアの製品
まず誰でも知っていることですが、日本の携帯は、携帯電話事業者(ドコモ、KDDI、ソフトバンクなど。以下キャリアと呼びます)の製品です。携帯電話端末というハードウェアの開発・製造会社(以下メーカと呼びます)はキャリアの委託を受け、製品を開発し、キャリアに製品を納入している存在です。携帯という製品を出しているのはキャリアであり、販売代理店→キャリアショップ・量販店というルートで製品を販売しているわけです。従って「ガラパゴス批判」は、第1義的には「キャリアが日本だけでビジネスをしていて、高度に発達した携帯をもって世界にで出ていってないじゃないか」という批判なのです。
しかし、一般的にキャリアは一つの国だけで、ないしは一つの国を中心にビジネスを展開していることが多いのですね。なぜか。
それは、電波がその国のインフラストラクチャと密接に絡んだ「公共財」だからです。日本を含めてどの国でも、電波をどの会社にどういう方式で割り当てるかは、極めて重要な政治判断です。かつ、ビジネスを始めるには膨大な設備投資がいる。日本のキャリアがのこのこ外国へ出ていって携帯電話ビジネスをすぐに始めるわけにはいかないのです。逆も真です。AT&T も Verizon も韓国テレコムも日本でビジネスをしていません。
ありうるのは、外国のキャリアを買収するという手です。英国の Vodafone は、欧州を中心に買収によってビジネス拡大しています。しかしこれとて万能ではない。携帯電話は国の重要インフラなので、外資規制がかかっていることがあります。また買収したからには、本国のビジネスとの相乗効果を実現しないといけない。Vodafone は J-phone を買収しましたが、その後、SoftBank に売却してしまいました。Vodafone の「世界共通携帯」を日本で売るとうような戦略が、日本では全く通用しないことが原因の一つだと思います。
それでも、たとえばドコモは海外ビジネスへの進出をめざして、インドやバングラデシュ、香港のキャリアに投資をしています。ソフトバンクも日本でのビジネスが安定すればその方向に行くかもしれません。日本のキャリアの海外進出はこれから、という段階です。
メーカの海外進出はできるか
それでは、メーカが日本のキャリア向け製品とは別に、海外のキャリアを対象とした製品を開発し、海外進出しすべきだ、という意見が出てくると思います。「ガラパゴス批判」を詳しく言うと「キャリアが海外進出できないのは分かるが、メーカはキャリアとは別に進出できるはず。それをしていないじゃないか」という批判だと考えられます。しかしこの「批判」も的を射ていないのです。
メーカが日本のキャリアとは別に、海外向け製品を作って海外進出する・・・・・・。これはロジカルにはもちろん可能です。
しかし海外進出にはいくつかの障壁があります。まず第1に、海外へ進出し利益をあげるまでのリソース(市場調査、海外のキャリアへの食い込み、開発技術者、販売網の整備、営業・・・・・・にかかる人とカネ)を投入できるかどうかです。日本のキャリアへ独自の最先端技術を盛り込んだ製品を年に2回も次々と供給しつつ、海外市場を開拓するのは並大抵のことではない。よほど会社のトップを説得するに足るビジネスプランがないといけない。かつその初期投資に耐えられるだけの利益を、日本のキャリア向けの製品受託事業であげていないといけないわけです。
第2に、一般に海外の携帯は日本に比べれば「普及品」です。日本の携帯のような最先端技術をふんだんに盛り込んだ高機能品・高級品ではない。そして普及品のポイントは、いかに低コストで製品を作れるかです。そして一般的に言えるのは、
- 最先端技術を詰め込んだ「高級製品」と、最先端技術はないが製造コストを押さえて低価格を実現した「普及品」では、開発に必要な技術も、製造ノウハウも、部品調達方法も全く違う
それと同じで、日本の携帯メーカーであるシャープやパナソニックや富士通やNECが、はじめからグローバルビジネスを前提にしている Nokia やサムソン電子のようになるのはすぐには行かないと思います。
ガラパゴス:利用者視点の欠如(1)
ガラパゴス批判の大きな問題点は、携帯の利用者の視点を欠いていることです。要するに、供給者(キャリアとメーカ)の視点からだけモノを見ている。携帯を使う側からみてどうか、という視点が、ごっそり欠如しています。
NTTドコモが出している「らくらくホン」とうい携帯があります。この携帯などは、日本だけで固有に進化を遂げた「ガラパゴス携帯」の最たるものでしょう。
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NTTドコモ らくらくホン ベーシック3 (富士通製) | |||
さらに、「らくらくホン」には「メールの音声読み上げ機能」や「表示メニューの音声読み上げ機能」がありますが、視力障害者の方が常時使う機能として極めて価値が高いものです。視力障害者の方はほとんど「らくらくホン」を使っている、という話を聞いたことがありますが、デジタル機器が人の生活を便利にする典型的な例だと思います。
「ユニバーサル・デザイン」という考え方があります。なるべく多くの人に使えるデザインにする、という意味ですが、らくらくホンは、携帯の初心者、シニア、視力障害者の方にラクに使える携帯を目指していて、まさにユニバーサル・デザインを実践しているわけです。「らくらくホン」のユーザは買い換える時も「らくらくホン」だと言います。あたりまえでしょう。簡単で使いやすい操作に慣れたユーザは、それを変えたくないからです。
らくらくホンは機能よりも使いやすさを追求した携帯ですが、高度な技術が用いられていないかというと、そうでもない。たとえば「ゆっくりボイス」「はっきりボイス」という機能があります。相手の声をゆっくり聞こえるようにしたり(ゆっくりボイス)、環境音を下げて人間の声だけを強調する機能(はっきりボイス)ですが、これらはかなり高度な音声認識・音声合成技術です。また「あわせるボイス」という機能もあります。人間だれしも年をとると耳が聞こえにくくなりますが、聞こえにくくなるのは高音からです。「あわせるボイス」は、利用者の年齢に応じて高音部を自動的に強調する機能です。製品のターゲットがクリアなので、技術を使うポイントも明確なのです。
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KDDI(au) マモリーノ2 (京セラ製) | |||
「らくらくホン」は、日本市場で独自に高度に進化した携帯の代表例と言えるでしょう。それは「世界市場」には出ていないけど、利用者にとっては大きな価値であることは確実です。
さらに日本では「子ども用携帯」も発達しています。子ども用の携帯は各社が出していますが、一つだけ例をあげると、KDDIの「マモリーノ」という製品があります。ストラップ式の防犯ブザーがついていて、作動させるとセコムに通報される。親にも連絡が行き、要請があればプロの緊急対処員が発信現場に急行します。GPSを内蔵しているので子どもの居場所の特定は容易です。この携帯は子どもを守るため、インターネット接続機能はありません(メールのみ有効にすることは可能)。親の電話番号など、登録した特定電話番号にしか発信できないのです。こういった「子ども用携帯」も、独自に進化したガラパゴス携帯の典型でしょう。
ガラパゴス:利用者視点の欠如(2)
「らくらくホン」や「子ども用携帯」以外にも、日本の携帯が世界に先駆けて実用化し、利用者に定着させた機能が非常に沢山あり、これらの中には利用者にとっての価値が高いものがあります。外国の携帯がようやく、この数年で採用してきた機能も多いわけです。携帯のアプリで実現される機能や、ゲーム関係を除いた、携帯の基本機能に限って、それらを列記してみます。
携帯のインターネット接続は、日本が定着させた機能です(ドコモのiモードは、1999年2月)。つまり、メール(絵文字)、HTMLメール(ドコモではデコメール)、フルブラウザなどです。インターネット接続は、世界の携帯のあり方を根本から変えてしまいました。つまり「話す携帯」から「使う携帯」への変化を起こしたのです。「携帯電話」を「携帯・ケータイ」に変えてしまった。2000年代半ば時点において既に、日本の街角や電車で携帯を使う人は、ほとんどがインターネット接続機器として使っていました。しかしその頃ヨーロッパ旅行にいくと、街中や電車でほとんどの人が通話機器として使っていることに感慨を覚えたものです。「イタリア人は、電車の中で携帯で話している。携帯電話なんだ」というような・・・・・・。今でもそうではないかと思います。なおメールについての補足ですが、メール機能と着信バイブレーション機能によって、携帯が聴覚障害者の方の必須アイテムになったことを忘れてはならないと思います。
カメラ機能は、常時携帯するカメラがあることの便利さを痛感させるものです。もちろん「QRコードリーダ」のようなカメラ応用機能も含みます。レストランで初めて飲んだワインがおいしかったとき、ラベルを携帯カメラで撮るのが習慣になってしまいました。このカメラ機能も、当時のJ-Phoneが「写メール」という名前で、藤原紀香さんのCMで売り出したのが最初でした(携帯はシャープ製)。
- 余談ですが、J-Phone がカメラ付き携帯の開発を各メーカに打診したときに、唯一応じたのがシャープだったそうです(2011.8.9. 日経産業新聞)。しかも、NTTドコモもKDDIも、すぐには追従しなかった。
そう言えば、らくらくホンの製造をNTTドコモが各メーカに示したとき、唯一乗ってきたのが富士通(当初はパナソニック)だった、という話を聞いたことがあります。しかもシニア向け携帯は長い間、NTTドコモしか出していなかった。世界に前例がない独自性のある製品の開発というのは、こういうものでしょう。キャリアもメーカも、はじめは半信半疑なのです。
電子マネーを、ICカードではなく携帯でサポートしたのも、日本が先駆的です。インターネット接続を活用し、どこにいてもキャッシュレスでチャージができる利便性があります。また携帯の電子チケット機能(Suica, ANA, JAL, など)も普及しています。
テレビ電話機能ですが、これを実際に使っている人は少数ではないかと推測します。実用性に乏しいという見方もあるでしょう。しかし視力障害者からみると、意味が違うはずです。つまり携帯のテレビ電話機能は、視力障害者の方を健常者の方が遠隔地からサポートするには、ものすごく便利な機能なのです。これだけでも携帯の「高度な進化」は社会的意味があると思います。
放送受信機能も日本の携帯の「独自に進化した」機能です。テレビ受信機能(ワンセグ受信機能)のありがたさは、2011.3.11 で多くの人が実感したのではないでしょうか。あの日、常時生きていた情報インフラは、有線のインターネットと、放送(TV、ラジオ、ワンセグ)でした。つまり常時携帯機器では携帯のワンセグだったのです。付け加えると停電した地区で生きていた情報インフラは、携帯型ラジオと携帯のワンセグです。ワンセグでの情報から津波避難をした人もいると聞きます。3.11 において日本のガラパゴス携帯は、人の命を救った可能性が高いのです。もちろんワンセグは、災害時だけでなく、通常のテレビ番組を楽しむためのものです。2011.7.18 早朝の 女子サッカーワールドカップ決勝、日本対アメリカ戦を、通勤途中にワンセグで見た人も多いでしょう。
放送の一つに「緊急地震速報」があります。現在の緊急地震速報はセンサーや速報網がまだ完全ではなく、誤報もあったりするのですが、いずれ整備が進むと、日本人にとって非常に重要な社会インフラになると思います。そしてこの緊急地震速報が携帯で受信できるのが大きい。これも「地震が頻発する日本で独自に発達したガラパゴス機能」です。
GPS応用機能も利便性の高いものです。ナビや子供の見守り機能など、今いるエリアの情報提供など、GPS応用アプリは多岐に渡っています。
ビデオカメラやサウンドレコーダの機能も、もちろん専用機器には機能的に劣りますが、常時携帯機器でこれができるのは価値があると思います。事故や災害のとき、携帯で撮ったムービーがテレビのニュースで放映されることがよくありますね。
防水機能は、安心という意味で重要でしょう。さっき書いたKDDIの子ども用携帯「マモリーノ」も当然、防水です。さらに赤外線通信も、いつもではないけど、家族や友人ととのアドレス帳やメモの交換に便利に使えるものです。
以上に述べた機能は、中には日本の携帯が最初ではないものもありますが、利用者への定着という意味では日本が先進的だったと思います。「日本の中だけで高度に発達した」ことが、明らかに利用者にとっての価値を生んでいるのです。しかも日本の携帯は、機種にもよりますが、上位機種なら全世界で使えます。日本の利用者にとっては、海外旅行に持っていっても日本と同じように使える。ガラパゴスであっても何ら不便はないのです。
ここからは想像ですが、おらく日本で携帯のインターネット接続が始まってからの約10年間、世界の有力携帯メーカやキャリア、そしてアップルのような会社は、日本における携帯の状況をつぶさに研究したと思います。またグーグルも日本における携帯の使い方を徹底的に調べたはずです。それが iPhone や Android につながったと直感します。
以上をまとめると、「ガラパゴス批判」をメディアに書く記者に欠けているのは、利用者の目線です。携帯は日本の利用者にとってどういう価値があって、それが日本の携帯の独自性(ないしは特殊性)とどう関係しているのか、という視点がない。「上から目線」だけのモノの見方をしています。企業が製品を作るときに最も大切なのは利用者・ユーザの視点です。企業で製品企画をする人は、メディアの記者の「上から目線」に踊らされることなく、ユーザの利便性を徹底的に追求して欲しいものです。そんなことは百も承知だと思いますが・・・・・・。
ガラパゴスから世界へ、という実績
日本の携帯は世界への進出が遅れていますが、他の工業製品を眺めてみると、世界に進出している製品がいろいろあるわけです。このような他の製品も見ないと、物事の本質を見誤る危険性があると思います。
日本の工業製品が世界に進出した典型的なパターンは、次のようなものです。
| ◆ | 他の国からみると、異常なほど多い数の同業会社がひしめいている。 | |
| ◆ | その同業の会社同士が激しく競争し、他国の製品にはない日本独自の特長を発達させる。 | |
| ◆ | その製品がやがて世界に進出し、日本独自の特長がプラス要因になって、世界市場に浸透する。 |
こういった工業製品の代表例がクルマ(乗用車)です。
日本の乗用車メーカは8社もありますが(トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、三菱自工、富士重工、スズキ、ダイハツ)、自動車産業の新興国を除いて、こんな国は他にはありません。この日本勢は世界市場で健闘しています。世界の自動車販売台数でトップ15位に入る会社数をみると、日本・5社、アメリカ・3社、ドイツ・3社、フランス・2社、韓国・1社、イタリア・1社です。
日本国内に8社もひしめいている自動車会社は、昔から熾烈な「品質競争」を繰り広げてきました。ここで言う品質とは「トラブルが少ない」から始まって「ボデーや内装の仕上げ」から「低燃費」に至るトータルな品質です。この品質が米国などに評価されて海外進出につながったわけです。「高品質」のクルマを低コストで生産する日本の自動車会社の生産方式(ジャスト・イン・タイム、など)は、世界の自動車会社の標準になってしまいました。
自動車つながりでいうと、2輪車(オートバイ)も似たような状況です。日本には2輪車メーカが4社もありますが(ホンダ、ヤマハ発動機、スズキ、川崎重工)、世界市場の5割をこの4社で握っています。
海外旅行に行った時に外国人の旅行者を観察すると、デジタルカメラとビデオカメラに関しては、日本企業以外の製品を見た記憶がありません。デジタルカメラのメーカは日本に9社もあります(キヤノン、ニコン、オリンパス、ペンタックス、リコー、ソニー、パナソニック、富士フイルム、カシオ)。またビデオカメラは日本のメーカ(ソニー、パナソニック、 日本ビクター、 キヤノンなど)が世界を席巻していると言っていいでしょう。この4社の世界シェアは86.5%もあります(2010年度。日本経済新聞社推定。2011.7.25 日経産業新聞)。
オフィスで使う複写機は、今は「デジタル複合機」となって、プリンタ、ファックス、スキャナーなどの機能が統合されています。デジタル複合機は、富士ゼロックス、キヤノン、リコーの3社の規模が大きく、この3社で日本市場の8割近くを占めています。この3社の世界市場のシェアは5割を越えています。注目すべきは、上位3社だけでなく、シャープ、東芝テック、コニカミノルタなど、日本の複合機メーカは10社を越えるということです。日本のデジタル複合機の世界シェアはおそらく7割を越しているのではないでしょうか。
以上の世界商品ですが、「日本で高度に発達し、世界に進出する」ということは、その代償として「日本でしか需要がない製品も供給し続けなければならない」というケースが起こり得ることには、注意すべきです。たとえば代表例としてあげた乗用車ですが、現在の日本のクルマ市場を台数ベースで言うと、ハイブリッド(HV)が1割弱、ミニバンが2割、軽自動車が4割弱あります。これらはすべて、日本需要が中心の車種なのです。現在、自動車会社にとっての市場開拓の主戦場は「新興国」ですが、一方で日本需要中心のクルマも供給しないといけない。HV、ミニバン、軽は、日本のユーザに大きな利益や価値を与えているからです。それだけ供給者も需要者も含めて、日本の市場は発達している。しかし、その一方で海外の新興国での市場獲得競争です。自動車会社はこういったジレンマに直面しながら、ビジネスの舵取りを迫られています。
コンシューマ製品を中心に世界進出に成功している事例を何点あかあげましたが、もちろん、日本国内で熾烈な競争をしている製品が世界市場で成功するとは限りません。製品の種類から言うと、むしろ少数でしょう。しかし日本市場で「高度に」発達することで、それがやがて世界を席巻するというのが、日本の工業製品の勝ちパターンの一つであることは明らかです。このことは十分に認識しておく必要があると思います。
メディアは「日本が負けている」点だけをとりあげ、大々的に、あるときはおもしろおかしく宣伝します。「負けていることの認識」は大変に重要ですが、それと同時に「勝っている部分の認識」もまた重要なのです。
「ガラパゴス部品」は世界へ
携帯の話に戻ります。日本の携帯には最先端の技術がぎっしり詰まっていますが、それを支えているのは日本企業が作る「日本で高度に発達したガラパゴス部品」です。
携帯という最終製品でみると、世界市場では外国メーカがほとんどなのですが、部品に視点を移すと日本企業がメジャーです。つまり、高周波電波部品、積層セラミックコンデンサ、薄型マイク、超小型カメラモジュール、音源用LSI、小型液晶などの部品は、日本が極めて強い競争力を持っている。世界中の携帯の部品の3~4割日本製だと言われています。
携帯で磨かれた部品技術は、スマートフォンにも引き継がれています。スマートフォンに関する新聞記事の引用です。
完成品は米アップルの「iPhone(アイフォーン)」や韓国サムスン電子の「ギャラクシー」が席巻し、日本企業の存在感は薄いが、きょう体(ボディー)を外すと別の世界が広がる。小さなマルチメディア端末を実現するスーパー部品や素材。その多くを日本勢が担う。 |
要するに、スマートフォンのキー・デバイスにおいては、日本企業の競争力がまだまだ強いということを言っているわけです。
もちろん携帯やスマートフォンの部品においても韓国や台湾のメーカが追い上げていて、日本企業も安泰ではありません。しかし重要なのは、日本のキャリアが独自に高度に発達した携帯を提供し続けてきたからこそ、日本の部品メーカが世界を相手にビジネスをしているという事実だと思います。
さらに部品以外に関連分野への波及があります。その典型がリチウムイオン電池です。リチウムイオン電池は携帯機器への応用で市場がスタートしました。もちろん携帯(電話)だけでなく、ノートパソコンやビデオカメラなども含めた携帯機器です。しかし携帯(電話)がリチウムイオン電池の開発を牽引したことは間違いないと思います。とくに日本の携帯のように高機能だと、電力消費が大きく、かつ電池のスペースは最小限です。できるだけコンパクトで大容量の電池が求められる。日本のキャリアは電池メーカにこの点を徹底的に要求し続けたはずです。2000年代の前半には、世界のリチウムイオン電池のシェアの8割とか9割が日本メーカという時がありました(現在は5割を切っている)。これに日本の「高機能携帯」が貢献したことは間違いないと思います。それが、今後巨大市場になると想定されている、電気自動車(EV)やハイブリッド車向けの車載用リチウムイオン電池につながっていくわけです。
付け加えると、携帯やスマホの部品と同じように、リチウムイオン電池用の部材でも日本企業が高いシェアを持っています。リチウムイオン電池の4大部材は、正極材、負極材、セパレーター、電解液ですが、この4大部材の日本勢の世界シェアは56%であり、4大部材のトップシェアをもっているのは全て日本企業です(2011年6月3日 日本経済新聞による)。
独自性への嫌悪感
「ガラパゴス携帯」と揶揄する記事を書くメディアの記者が「暗黙に抱いている考え」を推測してみたいと思います。
前回にも書いたのですが、一般的に日本では個性が突出した人が嫌われたり、評価されないことがあります。横並びを尊び、他人と同じであることに価値を見いだし、独特であることや独自性にネガティブな反応を示す傾向です。もちろん個々の状況によって違いは大きいのですが、アメリカ比較して全体の傾向を言えば・・・・・・ぐらいの感じで考えると、それは正しいのではと思います。
この傾向は国というレベルにもあります。世界の他の国、特に欧米先進諸国と違うコトをやることが、悪いとか、よくないといった暗黙の評価になるわけです。ガラパゴス批判の裏に潜んでいるのは、実は「独自性への嫌悪感」だと思います。
ガラパゴス批判をメディアに書く記者は、本人は全く意識していないと思いますが、暗黙に次のような考えにとらわれています。
| ◆ | 世界の中心は、日本以外のところにある。 | |
| ◆ | その「世界の中心」の流儀・やりかたに日本も従うべきである。 | |
| ◆ | 「世界の中心」から外れたことをするのはよくない。日本独自のことは「世界の中心が認めた範囲で」やるべきである。 |
これは何も携帯に限った話ではありません。経済全般、政治、文化(英語と日本語の扱いなど)に、広範囲に上記のような考え方が適用されている。その現れの一つが「ガラパゴス批判」だと思います。
しかし上記のような考え方は、世界の先進国の間では「特殊な考え方」だと思います。G8の国、特にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、そして中国は、以下のように考えているはずです。
| ◆ | 世界の中心は、自分の国である。 | |
| ◆ | その「世界の中心」の流儀・やりかたに、他国も従うべきである。それが国際標準(グローバル・スタンダード)である。 | |
| ◆ | 国際標準からはずれたことをするのはよくない。各国独自のことは「国際標準で認められた範囲で」やるべきである。 |
いわゆる先進国や大国ではこれが普通の考え方だと思います。もちろん、あからさまにこんなことを言うと反発されるだけなので、公式には表明されません。また各国にはそれぞれの強み・弱みがあるので、すべてのジャンルにおいて「世界の中心」というわけにはいきません。しかし各国の行動パターンの裏に基本的にあるのは、こういった考えだと思うのです。こう考えで行動する方が、自国にとって、また自国の企業にとって有利になるからです。
各国が「世界の中心だ」と主張すると、当然、論争や闘争になります。「独自性の押しつけ合い」になる。それが外交であり、経済外交です。その「押しつけ合い」の中から妥協が生まれ、国際標準が形作られる。どうしても自国として妥協できないものは、たとえ他の国々が妥協しても「独自性の殻」に閉じこもる。自国の方が正しいと主張して・・・・・・。
繰り返しになりますが、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、中国はこのように考えて行動していると思います。これが普通なのです。独自性の押しつけ合いを有利に進めるために、ドイツとフランスが妥協して手を組んだのがEU、と考えることもできます。
それに対して日本です。「ガラパゴス批判」を書いているメディアの記者は、その一方で「独創性が大切だ」「個性が大事」「ワン・アンド・オンリーをめざせ」と書いているのではないでしょうか。「世界で一つだけの花は何より価値がある」というような・・・・・・。しかし、心の底では「ワン・アンド・オンリー」が嫌いなのだと思います。そうとしか考えられない。そして「世界の中心は日本以外のところにある」と無意識に思っている。
ワン・アンド・オンリーの製品を作り出し、それを普及させるのは苦しいものです。多大な研究開発費を投じて新しいものを生み出さないといけない。いったん成功すると、とたんに模倣者が出てきて「いいとこ取りをした安い製品」を作ったりする。独自製品を出しても、それが世界に広まらない限りは、世界標準品に淘汰されてしまうリスクもある。産みの苦しみから始まって、育てる、広める、維持する・・・・・・困難なことだらけです。安易な道を選ぶなら、誰かのまね、外国のまねだけをして「ガラパゴス批判」をしていればいいわけです。
しかし、日本だけではなく、また、携帯だけでもないのですが、世界にはそのワン・アンド・オンリーという「困難なこと」にチャレンジしようとする企業があるからこそ、経済が成長するのですね。
携帯のように「独自に高度に進化した」こと自体は誇るべきことだと思います。明らかに利用者に大きな価値を与えている。もちろんそのデメリットもあります。従って「高度な進化」をどう生かしていくか、デメリットをどう最小化するかを考えた方がよいと思います。特に、スマートフォンでは Android という「世界共通OS」があるので、日本メーカにとっても海外進出の大きなチャンスだと言えるでしょう。
ワン・アンド・オンリーの価値
2010年9月に、シャープは電子書籍端末・GALAPAGOS を発表しました。その後GALAPAGOSは「メディアタブレット」と称してAndroidを搭載し、タブレットPCとの融合が進んでいます。電子書籍端末としての初代GALAPAGOSは、2011年9月15日に販売終了が発表され、いよいよ各社が繰り広げている「タブレットPC戦争」のまっただ中に突入したわけです。シャープのこの製品が勝ち組になれるかどうかは、分からないと思います。

しかし、注目すべきはネーミングです。シャープの執行役員・岡田圭子氏が、このネーミングを経営会議に提案したときの様子が新聞に載っていました。
「ガラパゴスは日本のものづくりそのもの。自信をもって、進化させましょう。日本を元気づけましょう。」 |
印象的なのは、こういったネーミングを執行役員が提案し、それを経営会議が即決したということです。オンリー・ワン商品を出すことに徹底的にこだわるシャープのような企業にとって、ガラパゴスであり続けることこそが、最大の価値なのです。
No.37 - 富士山型の愛国心 [歴史・文化]
No.30「富士山と世界遺産」で、
何も大げさに「愛国心」と言わなくても、日本に生まれたから日本が好きだ、日本に住んでいるから日本が好きだ、私は日本を愛します、でよいわけです。しかし一歩踏み込んで、その「日本が好きだ、日本を愛するという感覚」を分析してみたらどうなるか、というのが論点です。
国レベルの愛郷心
「国」という概念は、あまりにも多くのものを含んでいます。そのため「愛国心」も人によってさまざまな定義や考え方があり、論点を整理しておかないと筋道が分からなくなります。
まず一般に「愛国心」と言われるものの中には「(現在の)国の体制や政治的主義に忠誠を誓うことを(暗黙に)求めるもの」があります。この「忠誠型の愛国心」いわば「忠国心」は今回の議論の範囲外です。
また「国益とセットで語られる愛国心」も議論の対象外です。何が「国益」の増進につながるのか、人によって考えが違うことが一般的です。領土帰属問題のように大多数の国民の意見が一致するものも中にはありますが、多くの問題における「国益」は、政治体制のありかたを含む個人の考え方や主義・信条で変わることが多い。たとえば経済・外交面で言うと、環太平洋経済連携協定(TPP)に参加することが国益になるという人もあれば、国益を損なうという人もいます。こういう場合の国益は、主義・信条・思想に加えて、個人や企業の利益(私益)が結びついていて、対立軸が生まれます。「国益型の愛国心」は議論の対象外です。
ここで議論したい「愛国心」は、
こういった「愛国心=国レベルの愛郷心」も、詳しくみていくといろいろありますが、その中に
以下は、その「富士山型の愛国心」の分析です。
富士山型の愛国心
まず国のレベルでの議論の前に、普通言われる「郷土愛」を考えてみます。人が生まれ育った場所、ないしは長年住んでいる場所に愛着を感じるのはごく自然だと思います。郷土の数は市町村単位で数えても約1700あるので、1700種類の「郷土愛」や「ふるさと自慢」があるわけです。
しかし、たとえば稲作地帯に生まれ育った人が、青々と稲が茂る水田を見るのが好きで、それによって田植えから始まる農民の苦労を思い、そういう人の努力を含んだ郷土文化を愛する、と思っているとしましょう。そうすると1700種類ある郷土愛とはちょっと違ってくる。水田は日本全国にあるので「水田による稲作」を「日本」と結び付けて考えることができます。「日本は瑞穂の国で、そういう日本が好きだ」というように宣言できる。
つまり「ふるさと」や「故郷」や「居住地」が好きというのは郷土愛ですが、郷土の特質なり特徴が「国」レベルの特質だと感じられるとしたら、それは「日本が好きだ」という感情と結びつくわけです。稲作の例で言うと、日本全国の農業地帯が稲作ではないものの、稲作が日本の重要な特徴・特質だという前提にたっています。
こういった日本の特質・特徴は、自然環境、生活環境、文化、伝統などに始まって、下町情緒といった漠然としたものまで、多様なものが考えられます。もちろん、自然環境の一部である富士山も、そのうちの一つです。
日本の特質・特徴を良いと思い、それを愛するとなったとき、それは「誇り」につながります。「誇り」と感じられるようになったとき、それを日本だけでなく世界に知ってもらいたい、移植可能なものは世界に広めたいと思うのは自然な心の動きでしょう。富士山を世界遺産に登録する運動は、その例だと思います。
さらに一歩進んで「日本の特質や誇り」の中には「日本人としてのアイデンティティ」になるものが出てきます。つまり「それを愛でること、ないしは誇りにすることが、日本人の日本人たるゆえん」だと暗黙に考えられているものです。稲作や富士山は、個人がそれに関わっていようがいまいが、日本人のアイデンティティのレベルかもしれません。
こういった「日本の特質や誇り」には、現代に見られる事象や現代まで続いている事象だけでなく、日本人が「誇り」とする過去の歴史上の事象や功績も含めて考えることができます。明治維新は日本の誇りだと暗黙に考えられていますが、それは欧米列強がひしめく東アジアの環境の中で、自らの意志で革命を起こし、全く別種の政治体制への移行を成し遂げたことに対する「誇り」でしょう。アメリカ人における対英独立戦争、フランス人におけるフランス大革命もそうだと思われます。
以上に述べたような《富士山型の愛国心》を改めて定義すると、以下のようになります。
その「日本の特質や誇り」と考えられるものの中から「自然環境」と「人間の営みが作り出したもの」のカテゴリを考えてみます。もちろん、自然環境のほとんどには人間の手が入っているので、この二つは相互作用の関係にあります。
自然環境
日本の特質でまず取り上げるべきは、その自然環境でしょう。富士山に代表される山岳もその一つだし、世界自然遺産に登録されている屋久島、知床、白神山地、小笠原諸島もそうです。それ以外の自然環境にも各種のものがありますが、日本の「特質」や「誇り」としてあえて一つだけとりあげると、
だと思います(人によって違うと思いますが)。
日本の国土面積に占める森林の割合は70%近くもあり、このような国は非常にまれです。いわゆるG20などの先進国ではまずありません。これに匹敵する、あるいはこれ以上の国は、フィンランドかスウェーデンぐらいです。しかし、この2つの国の人口密度は日本の20分の1程度なのです。日本は世界でも希な「人間と森林が、密に共存している国」です。2007年のミシュラン・ガイドで東京都の高尾山が三ツ星になったのは、その象徴でしょう。ミシュランが「行くべき」観光地として高尾山を選んだ理由は、その自然環境であり、最大のポイントは森林だと思います。
日本には人間の手があまり入っていないことで価値のある森林も多く、その典型が日本の世界自然遺産です。世界自然遺産の4つ(屋久島、知床、白神山地、小笠原諸島)は、森林生態系そのもの(屋久島、白神山地)か、ないしは森林生態系が重要な要素(知床、小笠原諸島)です。2011年に登録された小笠原諸島は、生物の固有種が多いことが自然遺産としての一番の価値ですが、森林の動植物の固有種がほとんどです。
また世界自然遺産とは逆に、人の手で守られてきた森林も多いわけです。日本では千数百年に渡って木を植えるという努力が重ねられてます。天皇・皇后陛下は毎年、全国植樹際に出席して自ら植樹をされていますが、国王、国家元首ないしはそれに相当する人物が、年に一度「植樹祭」に出席するという国は非常にめずらしいのではと思います。
森林は動植物の生態系を維持するとともに、河川を通して海洋生態系とつながっています。山の落ち葉や倒木は腐葉土を作ると同時に、その養分は雨で流され、川を経由して海に流れ込み、プランクトンの養分となって魚類や昆布などの生態系を作り出します。近海漁業は森林によって成り立っているのです。「森が死ねば海も死ぬ」(講談社)という本がありましたが、まさにその通りです。
森林の動植物生態系から一つだけ取り上げると、たとえば熊です。日本では人間が熊に遭遇したり襲われるというトラブルが毎年発生しています。怪我をしたり亡くなった方は、まことにお気の毒だと思います。しかし裏を返すと日本は人間が熊に襲われるほど森林が残っていて、かつ森林生態系と人間が共存している国ということだと思います。
ヨーロッパのいわゆる先進国では、人間が熊に襲われる心配はありません。西欧では、とっくの昔に熊は絶滅してしまったからです。日本以外のG20の国で、熊が生息しているのは、アメリカ、カナダ、ロシア、中国ぐらいではないでしょうか。これらの国はすべて国土が極めて広大な国です。日本のように、小学生が熊よけの鈴を持って登下校する地域が全国至るところにある国というのは世界にほかにないと思います。熊に遭遇する心配のある国が先進国なのか、その心配が全くない国が先進国なのか、ここはよく考える必要があるでしょう。
しかし、熊が生息するほどの自然環境があると喜んでばかりはいられない。九州ではすでにツキノワグマが絶滅したと言われていますね。2001年に大分県が「ツキノワグマ絶滅」を宣言し、これで九州全域からツキノワグマはいなくなったと考えられています。全国では毎年2000頭とか3000頭とか、そういうオーダーで「熊の駆除」が行われています。少し前になりますが、2006年度の熊の捕獲数が異常に多いことが報道されました(2006年12月22日 日本経済新聞)。それによると2006年4月から11月までの8ヶ月間(冬眠入りまでの期間)で捕獲された熊は5059頭(ツキノワグマ:4732、ヒグマ:327)であり、特にツキノワグマの捕獲数が04年度の倍、05年度の6倍で、最多記録だとありました。9割は「駆除」されたそうです。このままいくと絶滅に向かうことは必然だと考えられます。
種の保存を考えると、熊は天然記念物に指定されて保護されるべきでしょう。熊は国際的にも絶滅危惧種です。カモシカが特別天然記念物なのに、熊が天然記念物でさえないのはおかしい。しかし、熊を天然記念物に指定すると駆除に支障をきたし、人間にとって困ったことが起きるのでしょう。であるなら、駆除を許可する数が本当に妥当なのかどうか、各都道府県はよく検討すべきだと思います。また、林業が大事だからといって杉や檜ばかり植林すると、広葉樹・ナラ類の実(ドングリ)がなくなり、熊にとっては厳しい生息環境になります。すでに絶滅した日本オオカミの例もあります。このあたりのアセスメントが大変重要だし、また熊と人間との共存策を真剣に考えるべきです。
文化:人間の営みが作り出したもの
文化という言葉を「人間の営みが作り出したものすべて」というように最も広くとらえます。この意味での「文化」における日本の特質も、数え切れないぐらいあります。
まず「芸術」のジャンルでは、日本画、浮世絵、華道などがあります。茶道や盆栽を芸術と言うかは別にして、日本が誇ってよい文化であることは間違いないでしょう。「文学」の領域では『源氏物語』や、世界に広まっている俳句があります。「工芸」では陶磁器、日本刀などがあり、また城郭、神社、寺院などの建築物や、書院造りの日本建築、日本庭園もそうでしょう。「食文化」における日本料理は世界に広まってきました。
日本の特質には、風習・民俗行事・民俗芸能のジャンルもあります。また里山、雑木林など、ライフスタイルと自然の接点が特徴となっているものや、さらには信仰心や宗教心などの「見えないもの」も、日本の特質として有力です。神社における「自然と同化する信仰心」というような例です。下町情緒とか、ワビ・サビを尊ぶ心といった「見えないもの」もあります。
最近では、日本のマンガ・アニメが世界を席巻しています。日本のマンガに影響を受けたハリウッド映画は多いし、ヨーロッパでは「キャプテン翼」にあこがれてサッカー選手になった有名選手がいたぐらいです。イタリアでバレーボールが盛んになったのは「アタック No.1 」のテレビ放映の影響だと、あるイタリア人は言っていました。
さまざまな「文化」が考えられますが、「文化=人間の営みが作り出したもの」から、日本の特質を一つだけ選べと言われたら、それは日本語だと思います。日本語を公用語としている国は日本だけだし、現代日本人の大多数は日本語で生活しているし、日本語は日本人が1000年・2000年というレベルで育ててきたものだからです。日本語は、直接関わっている人数が最も多い日本文化です。日本語を大切にし、育て、世界に広めていくという行為は「愛国心」の重要な一部だと思います。
愛国心の発揮の条件
以上のような《富士山型の愛国心》を大切にしていく上で重要な前提事項が3つあると思います。
《富士山型の愛国心》の前提である「日本の特質や誇り」を考えるとき、外国を知ることが非常に望ましいわけです。日本を知るためも、諸外国やグローバルな視点からみてどうか、という思考が必要です。日本の「特質」はそれほど根拠がないかもしれないし、客観的ではないかもしれないからです。
外国の「特質」を学ぶことによって、日本人が自省することもできます。たとえばヨーロッパでは街の「歴史的景観」や「都市景観」が守られ、それがの誇りとなっている国がいろいろあります。この面では日本よりもかなり進んいる。「景観」は現代の世代が作り(あるいは過去から継承・維持し)次世代へと伝える大切な文化だと思います。
富士山の例でもわかるように(No.30 参照)、愛国心の背景には「それほど根拠のない、優越性への思い」がある場合が多いと思います。それはやむをえない現象だし、愛国心が自国で閉じている間は問題がないわけです。しかし他国に影響すると問題が生じる。他国も「それほど根拠のない、優越性への思い」を持っているはずだからです。愛国心の議論において重要なことは、他国民の「愛国心」を、それはそれとして認める態度だと思います。
愛国心の議論で一番よくないのは「こういう考えの人は愛国心がない」と、自分と考え方の違う人を切って捨てるという態度です。自分と違う考えの人を排除するために、その道具として「愛国心」を持ち出す人は、愛国心を議論する資格がないと思います。《富士山型の愛国心》のおける「日本の特質や誇り」も、何をとりあげ、どこに重点を置くかは人によってさまざまです。まず大切なのは自国の人々=日本人を尊重する態度でしょう。
マイナスの「愛国心」
《富士山型の愛国心》の定義をもう一度書くと、
となります。
この意味での「愛国心」を育てていくのにマイナスになる行為が、当然出てきます。上の定義から言って、「日本の特質を軽視・蔑視・否定・放棄・歪曲する考えや行動」は「マイナスの愛国心」であり「負の愛国心」になります。それを何点か視点を変えて列記したいと思います。
大きな社会体制の変革の時期には、それまであった歴史や伝統、文化を「悪」として否定したり、価値のないものとして無視したりする動きにどうしてもなるものです。従来の何を残し何を捨てるかという思考が本来のはずですが、激動期にはそうはなりにくい。「従来の何を残すか」という視点が失われがちになります。
典型的なのは明治初期に起こった、それまでの文化を否定するような一連の動きです。明治政府による廃仏棄釈では、寺院の仏像や障壁画が破棄されたり、行方不明になったりしました。一つだけ例をあげると、京都の大徳寺山内にあった天瑞寺は、明治初期に廃寺になり、そこにあった狩野永徳の障壁画『松図』は破棄されてしまいました。東京国立博物館所蔵の国宝『檜図屏風』(東京国立博物館)と同様の構図だったと言われています。現存すれば間違いなく国宝でしょう。
浮世絵が二束三文で大量に海外流出した(フランスだけで20万点と言われます)のもその一つでしょう。絵画が外国に買われるのはよくあることで、それだけでは問題視することではありません。しかし二束三文で業者に売るのはまずい。散逸や死蔵の原因になります。それは、日本人が自国の文化の価値を理解できていなかったということだと思います。日本を知るためには、外国を知る必要がありますが、残念ながら江戸時代ではそれが無理だった。
前提1で書いたように、日本の特質を知るためには、外部からの目線で日本を見る必要があります。それは必ずしも容易ではありません。私たちは自分で自分の特徴が分からないことが多いのです。江戸時代と違って現代は「外国情報」が溢れていますが、自分で自分の特質が分かりにくいことには変わりません。この点は十分に意識して行動すべきでしょう。
日本の文化が世界に広まる過程において、グローバルの名のもとに、日本人が自らその特質を捨ててしまうことがあります。一つだけ例をあげると、たとえば柔道の例です。
柔道・剣道・相撲などの試合は、勝ち負けを競う競技であると同時に、人間の精神を鍛錬する場(「道」)という性格をもっています。その現れとして、これらの試合における勝者は、勝ったその場で喜びを陽には表しません。相撲で勝った方が拳をかかげて土俵を一周したりはしないし、剣道で勝った方がガッツポーズをしたりはしない。そんなことをしたら、すぐに試合出場停止の処分を受けます。
これらの試合で勝者がまずやるべきことは、敗者の健闘をたたえ、努力を重ねてきたのに敗れた者の無念さを思い、また勝ったからといって増長しないように自らを戒め、今後のさらなる鍛錬を心することです。これは、サッカーやボクシング、バレーボール、野球などにおける、勝った時・点が入った時の「喜びよう」とは大きな違いです。どっちが良い、悪いという話ではありません。
ところが柔道は「国際スポーツ」になった。そしてオリンピックの柔道で一本勝ちした日本選手が、畳の上でぴょんぴょん飛び跳ねるまでになった。飛び跳ねたとしても外国の観客には全く違和感はないと思います。しかし柔道の本来の姿を考えると「畳の上でぴょんぴょん」はないだろうと思うわけです。控え場所まで行って喜びを表すならともかく・・・・・・。日本柔道連盟はなぜこういうことを許したのでしょうね。たとえ外国人選手がやったとしても、まねをしなければいい。外国人選手から「なぜ日本人選手は、その場で喜びを爆発させないのですが」と聞かれたら、その理由を説明すればいいわけです。「さすがに柔道発祥の国の精神性は深い」と尊敬されるはずです。「ぴょんぴょん柔道」は本来の特質を放棄しています。
一般的に言えることですが、日本では個性が突出した人が「嫌われる」ことや「評価されない」ことがあります。横並びを尊び、他人と同じであることに価値を見いだし、独特であることや独自性にネガティブな反応を示す傾向です。
この傾向は国というレベルにもあります。世界の他の国、特に欧米先進諸国と違うコトをやることが、悪いとか、よくないといった暗黙の評価になるわけです。「普通の国になりたい」というようなことを堂々と公言する政治家がいるぐらいです。世界で「唯一無二の国」になりたいのなら分かるのですが・・・・・・。もちろんグローバル化の現代において、国際的な取り決めで諸外国と共通化する部分や、共同歩調をとるべき部分があるのはあたりまえです。しかし独自性がないと「国」としての意味はありません。その独自性に対して否定的な評価をするのはおかしい。
産業界から一つ例をあげますと、たとえば日本の携帯電話(スマートフォンではない、従来型の携帯電話)を「ガラパゴス携帯」と揶揄したり批判したりするメディアがありました。日本市場だけで独自に高度に進化し、世界市場でのビジネスに進出していないことを言っています。しかし独自に極めて高度に進化したこと自体は「素晴らしいこと」のはずです。「ガラパゴス携帯」という揶揄・批判の背景には「独自性に対する嫌悪感」があると感じます。揶揄・批判しているメディアの記者は意識していないと思いますが・・・・・・。
また、今はそうでもありませんが、日本語に対して「曖昧だ」とか「論理的でない」といった批判をする「知識人」が過去にいました。信じられない現象です。そもそも言語は、人間の想念をできるだけ「論理的に」「曖昧さを排除して」表現しようとするものなので、こういった批判自体が論理矛盾です。要するに、その人が曖昧で非論理的な日本語しか使えない、ということだと思います。しかしこのような批判の背景には、日本語が諸外国の言語と似ていない、もっと言えば「知識人」の好きな欧米諸国の言語(インド・ヨーロッパ語族の言語)とは全く違う構造を持った独自のものである、ということがあると思います。「独自性に対する嫌悪感」が背景にあるのでしょう。
独自性のある文化を一つだけ選べと言われたなら、それは日本語ではないか、と書きました。日本語を育てることは大変重要だし「愛国心」の根幹部分だと思います。
しかし、それに逆行する「日本語を破壊する」ような行為があります。それはいわゆる「言葉の乱れ」ではありません。「言葉の乱れ」は自然に収束するものだし、また言葉は「乱れ」を起こし、それを修正しつつ、ある部分を新しい要素として取り入れて、変化していくものです。それよりも大きな問題は、政府・自治体やマスメディアという「公的・準公的組織による強制的な日本語破壊」だと思います。
「交ぜ書き」という表記があります。被ばく(被曝)、破たん(破綻)、改ざん(改竄)、り災(罹災)、口てい疫(口蹄疫)、漏えい(漏洩)、隠ぺい(隠蔽)、はん濫(氾濫)、常とう句(常套句)などという書き方です。こういった表記方法は、漢字と仮名の本来の使い方を無視しています。読みにくい漢字にはルビをふればよいのであって、漏洩と表示するぐらい、ITを駆使している新聞社やTV局は簡単なはずです。ブログで簡単にできるぐらいなのだから・・・・・・。改竄と書くのが嫌で「改ざん」書くぐらいなら「改変」の方がよい。類似の意味で使えることが多いと思います。それ以前に、あれだけ政府を批判しているマスメディアだし、報道の自由の侵害に対しては徹底抗戦するはずだから、政府の「漢字規制」には一致団結して反対すればよいのです。
固有名詞は日本語の重要な一部ですが、地方自治体による「歴史的地名の抹殺」も、非常に気になる行為です。また、さいたま市、つくば市、さくら市(栃木)、みどり市(群馬)などの平仮名地名がありますが、なぜ平仮名にするのでしょうか。難読漢字を仮名化するならまだしも、このような地名表記は千数百年にわたる日本語の歴史にはありません。よく幼稚園生や小学校低学年の名札に「すずき けんいち」というような表記をしますね。それと同じで、まるで幼稚園生や小学生向けの地名だと思います。そもそも日本語は、発音に加えて「漢字でどう表記するか」までが決まって言葉が完成する言語です。
マイナスの「愛国心」:歴史の認識不足
「日本の特質」の中には、最近、世界文化遺産に登録された「平泉の歴史地区」のような歴史的遺産もあるし、富士山信仰のように、長期の歴史過程を経て醸成されていきた文化もあります。歴史の正しい認識は、「特質」や「誇りとすべきもの」の理解に是非とも必要だと思います。しかしそれに反するような日本の歴史の認識不足があるのではないでしょうか。それを何点かあげたいと思います。
その一つは「日本史が世界史との関係で語られない」という「歴史の孤立化」です。
以前に書いたことからだけ例をあげると、たとえば No.20「鯨と人間(1)」で書いたような、幕末のペリー来航と、アメリカの捕鯨産業による太平洋捕鯨との関係は、あまり語られません。もちろん、ペリー来航が日本の政治・軍事に与えたインパクトを記述するのが歴史のメインであってよいのですが、補助記述として捕鯨産業との関係があってよいわけです。
No.30「富士山と世界遺産」で書いた、世界文化遺産である石見銀山は「西のポトシ、東のイワミ」と称されたような世界的視野で記述しないと、文化遺産の意味は理解できないはずです。日本史における銀の輸出も重要性も分からないと思います。
極めて短い期間に日本に現れた現象を、あたかも長期間にわたる日本固有ものだとすり替える議論があります。これは日本の特質の歴史的理解を損ねるものです。これは明治時代から第二次世界大戦の終了までに起こった事象のケースが多い。
たとえば天皇家の地位や、そのありかたです。日本の長い歴史において天皇家は政治権力を行使するのではなく、世俗の権力とは一線を画した「権威」や「象徴」だったわけですね。政治権力は藤原氏や幕府だった。いわば、ヨーロッパ近代王室の「君臨すれど統治せず」を昔から実現していたわけです。「天皇親政」のような現象は、明治天皇から昭和天皇(1945まで)と、あとは天智天皇と後醍醐天皇ぐらいではないでしょうか。それは、日本の天皇家と天皇制の長い歴史からみると、ごくごく短期間の現象です。
国旗である日の丸(日章旗)は、日本の「特質」とは言えないけれど、世界で唯一のものであることは確かです。この「日の丸」が制定されたのは1870年で、現在まで約140年がたっています。この間、不幸なことに日の丸が国民を戦争に動員する道具のように使われたことがあったわけですね。それはざっと言うと、昭和に入ってからの約20年間です。この期間のことを指摘して、現在も「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、国旗に起立はできない、それは思想と信条の問題」と言う人がいます。
思想・信条は個人の自由ですが、「日の丸が国民を戦争に動員する道具」だった時代は、日の丸の歴史の中では7分の1以下のごく短い期間なのですね。戦争体験者ならともかく、66年前に終わった比較的短い期間のことに縛られて現在も行動するのは、建設的な態度だとは言えないと思います。思想・信条は個人の自由ですが・・・・・・。
日本の歴史における「過去の日本人の功績」は、日本の特質ではありませんが、日本人の「誇り」になっているものがあります。たとえば明治維新を成功させた人たちや、戦国時代の混乱期を収拾して国の統一をした人たちの功績や物語は、繰り返し伝えられています。
しかし理解に苦しむことなのですが、歴史上の功績をことさら矮小化した例があります。それは、鎌倉時代の元・高麗連合軍の日本侵略、いわゆる文永の役(1274)弘安の役(1281)です。この戦いでの日本軍の勝利を「暴風雨」に求めるような歴史記述・歴史認識が過去にありました。現代は、まともな歴史書ではこのような記述はないと思いますが・・・・・・。
確かに弘安の役では、暴風雨があったことは事実のようです。しかしこの戦いの勝利の要因としてまず掲げるべきは、防衛戦を戦った武士とその配下の雑兵たちの功績ではないのでしょうか。北条政権も文永の役の反省から博多湾に長い石塁を築き、それが役立った訳ですね。この「本土防衛戦」に北条政権がかけた費用と労力も相当のものだったはずで、事実、文永・弘安の役以降、鎌倉幕府は弱体化しました。文永・弘安の役の歴史記述としては、御家人や武士は立派に戦って、敵を撃退したというのがまっとうであり、そこでどういう戦いがなされたかが重要なはずです。もちろん暴風雨を付加的要因として持ち出すのはありますが、それが中心ではないはずです。戦争においては、プラスになるにしろマイナスに働くしろ、予想外のアクシデントが起こるのはよくあることなのです。
「近代以前に行われた、唯一の本土防衛戦」で敵を撃退したのに、その主な勝因が暴風雨では、戦いで死んでいった武士や配下の雑兵たちも浮かばれないと思います。また、そういう形で歴史を学んだ人に「国を守る気概」など生まれないはずです。文永・弘安の役の際に神社や寺院で「敵の調伏、撃退」を祈祷した人たちは「祈祷の成果だ、神風が吹いた」と宣伝したでしょうが、歴史記述がそれに乗ってはいけないのです。こういった「自国を侵略軍から防衛した」ようなケースでは「暴風雨のことはいっさい伏せて、御家人や武士の活躍ぶりだけを記述」したとしても、それはそれで理解できるというものです。
他の国ではどうなのでしょうか。アメリカ独立戦争を記述するアメリカ史、ロシア軍がナポレオン軍を撃退したロシア史、ジャンヌ・ダルクが活躍した英仏戦争のフランス側歴史においては、たまたま起こったラッキーな事象が自国の勝利にプラスに働いたことを、大々的に宣伝したり、言いふらしたりしないのではないでしょうか。そういったラッキーな事象は無視するか、あくまで補助的記述のはずだと推測します。こういった国の防衛に関する戦いは、現代に至る自国の成立過程に深く関わり、その国の国民のアイデンティティとなっているからです。
歴史と先人の苦労や努力を、ことさら矮小化して伝えてはならないと思います。
「代替不可能」という価値
日本の「特質」「特徴」「独自性」に戻ります。
日本だけの独自性は、外国との関係においてプラスに働くこともあれば、もちろんマイナスになることもあります。しかし独自性そのものは貴重です。それがプラスになるように工夫し、独自性うまく生かして、世界にメッセージを発信したり、国の活力を上げるために使うべきものだと思います。
独自性は「キャッチアップ型思考」からは生まれません。キャッチアップとは、追いつくべき「モデルA」を想定し、Aのようになるために頑張る、という思考です。国というレベルで言うと、A国のようになりたい、それを目指すという思考です。しかしそういったA国は、数十年前ならともかく、現代ではもうありえない。「キャッチアップ型思考」からは抜け出す必要があります。
独自性は「世界一」とか「世界ランキング」という考え方には馴染みません。世界一というのは、あくまで同一基準で計測した時に、最も程度が高いものです。他国にはない独自性は、順位を計測する基準がないのでランキングは議論できないのです。同一の基準で競争し、切磋琢磨することも重要ですが、それ以上に「競争という次元にならないこと」に価値を見いだすのも重要です。
人間の最大の価値は「余人をもって代え難い」という「代替不可能性」です。国の最大の価値も代替不可能性です。そして必要なのは「他国をもって代え難い特徴や特質を見いだし、また特徴や特質を作っていく」ことでしょう。それができれば「愛国心」は自然に醸成されると思います。
補記
『2001年に大分県がツキノワグマ絶滅を宣言し、これで九州全域からツキノワグマはいなくなったと考えられています。』と書きましたが、2012年5月14日の朝日新聞によると、絶滅していない可能性が高くなってきたようです。
2011年の10月に、大分・宮崎の県境にある祖母山で登山者がクマとおぼしき動物を目撃し、ほかにも証言があるようです。NGO・日本クマネットワークが本格調査に乗り出すと記事にはありました。朗報を期待したいものです。
- 新幹線で外国人に富士山の美しさを長々と説明した人の行為は、自国の誇りを対外的に説明しようとする「シンプルな愛国心」の発露だと思います。
「愛国心」というとちょっと大げさなようですが、国を構成する重要な側面は「自然」です。そして日本の場合、富士山を含む「山」は自然の極めて重要なファクターです。従って「日本を愛する」ことの一部として「富士山を愛する」ことがあって当然だと思います。
何も大げさに「愛国心」と言わなくても、日本に生まれたから日本が好きだ、日本に住んでいるから日本が好きだ、私は日本を愛します、でよいわけです。しかし一歩踏み込んで、その「日本が好きだ、日本を愛するという感覚」を分析してみたらどうなるか、というのが論点です。
国レベルの愛郷心
「国」という概念は、あまりにも多くのものを含んでいます。そのため「愛国心」も人によってさまざまな定義や考え方があり、論点を整理しておかないと筋道が分からなくなります。
まず一般に「愛国心」と言われるものの中には「(現在の)国の体制や政治的主義に忠誠を誓うことを(暗黙に)求めるもの」があります。この「忠誠型の愛国心」いわば「忠国心」は今回の議論の範囲外です。
また「国益とセットで語られる愛国心」も議論の対象外です。何が「国益」の増進につながるのか、人によって考えが違うことが一般的です。領土帰属問題のように大多数の国民の意見が一致するものも中にはありますが、多くの問題における「国益」は、政治体制のありかたを含む個人の考え方や主義・信条で変わることが多い。たとえば経済・外交面で言うと、環太平洋経済連携協定(TPP)に参加することが国益になるという人もあれば、国益を損なうという人もいます。こういう場合の国益は、主義・信条・思想に加えて、個人や企業の利益(私益)が結びついていて、対立軸が生まれます。「国益型の愛国心」は議論の対象外です。
ここで議論したい「愛国心」は、
- 日本の国という「社会共同体」に対する愛情
- 特定の主義や政治的主張・体制とは無関係に、日本の国土と、そこに住む人々、および人々が作り出してきた有形・無形の事物を対象とする愛情
こういった「愛国心=国レベルの愛郷心」も、詳しくみていくといろいろありますが、その中に
- 多くの日本人が「日本ならでは」と感じるもの、自分たちの「誇り」だと感じるもの対する自然な感情としての「愛国心」
以下は、その「富士山型の愛国心」の分析です。
富士山型の愛国心
まず国のレベルでの議論の前に、普通言われる「郷土愛」を考えてみます。人が生まれ育った場所、ないしは長年住んでいる場所に愛着を感じるのはごく自然だと思います。郷土の数は市町村単位で数えても約1700あるので、1700種類の「郷土愛」や「ふるさと自慢」があるわけです。
しかし、たとえば稲作地帯に生まれ育った人が、青々と稲が茂る水田を見るのが好きで、それによって田植えから始まる農民の苦労を思い、そういう人の努力を含んだ郷土文化を愛する、と思っているとしましょう。そうすると1700種類ある郷土愛とはちょっと違ってくる。水田は日本全国にあるので「水田による稲作」を「日本」と結び付けて考えることができます。「日本は瑞穂の国で、そういう日本が好きだ」というように宣言できる。
つまり「ふるさと」や「故郷」や「居住地」が好きというのは郷土愛ですが、郷土の特質なり特徴が「国」レベルの特質だと感じられるとしたら、それは「日本が好きだ」という感情と結びつくわけです。稲作の例で言うと、日本全国の農業地帯が稲作ではないものの、稲作が日本の重要な特徴・特質だという前提にたっています。
こういった日本の特質・特徴は、自然環境、生活環境、文化、伝統などに始まって、下町情緒といった漠然としたものまで、多様なものが考えられます。もちろん、自然環境の一部である富士山も、そのうちの一つです。
日本の特質・特徴を良いと思い、それを愛するとなったとき、それは「誇り」につながります。「誇り」と感じられるようになったとき、それを日本だけでなく世界に知ってもらいたい、移植可能なものは世界に広めたいと思うのは自然な心の動きでしょう。富士山を世界遺産に登録する運動は、その例だと思います。
さらに一歩進んで「日本の特質や誇り」の中には「日本人としてのアイデンティティ」になるものが出てきます。つまり「それを愛でること、ないしは誇りにすることが、日本人の日本人たるゆえん」だと暗黙に考えられているものです。稲作や富士山は、個人がそれに関わっていようがいまいが、日本人のアイデンティティのレベルかもしれません。
こういった「日本の特質や誇り」には、現代に見られる事象や現代まで続いている事象だけでなく、日本人が「誇り」とする過去の歴史上の事象や功績も含めて考えることができます。明治維新は日本の誇りだと暗黙に考えられていますが、それは欧米列強がひしめく東アジアの環境の中で、自らの意志で革命を起こし、全く別種の政治体制への移行を成し遂げたことに対する「誇り」でしょう。アメリカ人における対英独立戦争、フランス人におけるフランス大革命もそうだと思われます。
以上に述べたような《富士山型の愛国心》を改めて定義すると、以下のようになります。
愛国心の、一つの重要な側面(富士山型) |
その「日本の特質や誇り」と考えられるものの中から「自然環境」と「人間の営みが作り出したもの」のカテゴリを考えてみます。もちろん、自然環境のほとんどには人間の手が入っているので、この二つは相互作用の関係にあります。
自然環境
日本の特質でまず取り上げるべきは、その自然環境でしょう。富士山に代表される山岳もその一つだし、世界自然遺産に登録されている屋久島、知床、白神山地、小笠原諸島もそうです。それ以外の自然環境にも各種のものがありますが、日本の「特質」や「誇り」としてあえて一つだけとりあげると、
森林。国土面積に比較して非常に広い森林が維持されていること。 |
|  日本の森林  |
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高尾山の登山道にある吊り橋 | |||
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白神山地(青森・秋田) [site : 青森県] | |||
また世界自然遺産とは逆に、人の手で守られてきた森林も多いわけです。日本では千数百年に渡って木を植えるという努力が重ねられてます。天皇・皇后陛下は毎年、全国植樹際に出席して自ら植樹をされていますが、国王、国家元首ないしはそれに相当する人物が、年に一度「植樹祭」に出席するという国は非常にめずらしいのではと思います。
森林は動植物の生態系を維持するとともに、河川を通して海洋生態系とつながっています。山の落ち葉や倒木は腐葉土を作ると同時に、その養分は雨で流され、川を経由して海に流れ込み、プランクトンの養分となって魚類や昆布などの生態系を作り出します。近海漁業は森林によって成り立っているのです。「森が死ねば海も死ぬ」(講談社)という本がありましたが、まさにその通りです。
|  森林生態系としての熊  |
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知床国立公園のヒグマ [site : 環境省] | |||
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ツキノワグマ(福井) [site : 福井県] | |||
ヨーロッパのいわゆる先進国では、人間が熊に襲われる心配はありません。西欧では、とっくの昔に熊は絶滅してしまったからです。日本以外のG20の国で、熊が生息しているのは、アメリカ、カナダ、ロシア、中国ぐらいではないでしょうか。これらの国はすべて国土が極めて広大な国です。日本のように、小学生が熊よけの鈴を持って登下校する地域が全国至るところにある国というのは世界にほかにないと思います。熊に遭遇する心配のある国が先進国なのか、その心配が全くない国が先進国なのか、ここはよく考える必要があるでしょう。
しかし、熊が生息するほどの自然環境があると喜んでばかりはいられない。九州ではすでにツキノワグマが絶滅したと言われていますね。2001年に大分県が「ツキノワグマ絶滅」を宣言し、これで九州全域からツキノワグマはいなくなったと考えられています。全国では毎年2000頭とか3000頭とか、そういうオーダーで「熊の駆除」が行われています。少し前になりますが、2006年度の熊の捕獲数が異常に多いことが報道されました(2006年12月22日 日本経済新聞)。それによると2006年4月から11月までの8ヶ月間(冬眠入りまでの期間)で捕獲された熊は5059頭(ツキノワグマ:4732、ヒグマ:327)であり、特にツキノワグマの捕獲数が04年度の倍、05年度の6倍で、最多記録だとありました。9割は「駆除」されたそうです。このままいくと絶滅に向かうことは必然だと考えられます。
種の保存を考えると、熊は天然記念物に指定されて保護されるべきでしょう。熊は国際的にも絶滅危惧種です。カモシカが特別天然記念物なのに、熊が天然記念物でさえないのはおかしい。しかし、熊を天然記念物に指定すると駆除に支障をきたし、人間にとって困ったことが起きるのでしょう。であるなら、駆除を許可する数が本当に妥当なのかどうか、各都道府県はよく検討すべきだと思います。また、林業が大事だからといって杉や檜ばかり植林すると、広葉樹・ナラ類の実(ドングリ)がなくなり、熊にとっては厳しい生息環境になります。すでに絶滅した日本オオカミの例もあります。このあたりのアセスメントが大変重要だし、また熊と人間との共存策を真剣に考えるべきです。
文化:人間の営みが作り出したもの
文化という言葉を「人間の営みが作り出したものすべて」というように最も広くとらえます。この意味での「文化」における日本の特質も、数え切れないぐらいあります。
まず「芸術」のジャンルでは、日本画、浮世絵、華道などがあります。茶道や盆栽を芸術と言うかは別にして、日本が誇ってよい文化であることは間違いないでしょう。「文学」の領域では『源氏物語』や、世界に広まっている俳句があります。「工芸」では陶磁器、日本刀などがあり、また城郭、神社、寺院などの建築物や、書院造りの日本建築、日本庭園もそうでしょう。「食文化」における日本料理は世界に広まってきました。
日本の特質には、風習・民俗行事・民俗芸能のジャンルもあります。また里山、雑木林など、ライフスタイルと自然の接点が特徴となっているものや、さらには信仰心や宗教心などの「見えないもの」も、日本の特質として有力です。神社における「自然と同化する信仰心」というような例です。下町情緒とか、ワビ・サビを尊ぶ心といった「見えないもの」もあります。
最近では、日本のマンガ・アニメが世界を席巻しています。日本のマンガに影響を受けたハリウッド映画は多いし、ヨーロッパでは「キャプテン翼」にあこがれてサッカー選手になった有名選手がいたぐらいです。イタリアでバレーボールが盛んになったのは「アタック No.1 」のテレビ放映の影響だと、あるイタリア人は言っていました。
さまざまな「文化」が考えられますが、「文化=人間の営みが作り出したもの」から、日本の特質を一つだけ選べと言われたら、それは日本語だと思います。日本語を公用語としている国は日本だけだし、現代日本人の大多数は日本語で生活しているし、日本語は日本人が1000年・2000年というレベルで育ててきたものだからです。日本語は、直接関わっている人数が最も多い日本文化です。日本語を大切にし、育て、世界に広めていくという行為は「愛国心」の重要な一部だと思います。
愛国心の発揮の条件
以上のような《富士山型の愛国心》を大切にしていく上で重要な前提事項が3つあると思います。
|  前提1:日本を知り、外国を知る  |
《富士山型の愛国心》の前提である「日本の特質や誇り」を考えるとき、外国を知ることが非常に望ましいわけです。日本を知るためも、諸外国やグローバルな視点からみてどうか、という思考が必要です。日本の「特質」はそれほど根拠がないかもしれないし、客観的ではないかもしれないからです。
外国の「特質」を学ぶことによって、日本人が自省することもできます。たとえばヨーロッパでは街の「歴史的景観」や「都市景観」が守られ、それがの誇りとなっている国がいろいろあります。この面では日本よりもかなり進んいる。「景観」は現代の世代が作り(あるいは過去から継承・維持し)次世代へと伝える大切な文化だと思います。
|  前提2:他国と他国民の尊重  |
富士山の例でもわかるように(No.30 参照)、愛国心の背景には「それほど根拠のない、優越性への思い」がある場合が多いと思います。それはやむをえない現象だし、愛国心が自国で閉じている間は問題がないわけです。しかし他国に影響すると問題が生じる。他国も「それほど根拠のない、優越性への思い」を持っているはずだからです。愛国心の議論において重要なことは、他国民の「愛国心」を、それはそれとして認める態度だと思います。
|  前提3:自国民の尊重  |
愛国心の議論で一番よくないのは「こういう考えの人は愛国心がない」と、自分と考え方の違う人を切って捨てるという態度です。自分と違う考えの人を排除するために、その道具として「愛国心」を持ち出す人は、愛国心を議論する資格がないと思います。《富士山型の愛国心》のおける「日本の特質や誇り」も、何をとりあげ、どこに重点を置くかは人によってさまざまです。まず大切なのは自国の人々=日本人を尊重する態度でしょう。
マイナスの「愛国心」
《富士山型の愛国心》の定義をもう一度書くと、
日本の特質・特徴・誇り(だと認識するもの)に愛着を感じ、大切にし、それを継承・維持・発展させ、さらにはその内容を世界に向けて発信していきたいと思う、心の持ち方 |
この意味での「愛国心」を育てていくのにマイナスになる行為が、当然出てきます。上の定義から言って、「日本の特質を軽視・蔑視・否定・放棄・歪曲する考えや行動」は「マイナスの愛国心」であり「負の愛国心」になります。それを何点か視点を変えて列記したいと思います。
|  改革期における歴史否定・伝統文化否定  |
大きな社会体制の変革の時期には、それまであった歴史や伝統、文化を「悪」として否定したり、価値のないものとして無視したりする動きにどうしてもなるものです。従来の何を残し何を捨てるかという思考が本来のはずですが、激動期にはそうはなりにくい。「従来の何を残すか」という視点が失われがちになります。
典型的なのは明治初期に起こった、それまでの文化を否定するような一連の動きです。明治政府による廃仏棄釈では、寺院の仏像や障壁画が破棄されたり、行方不明になったりしました。一つだけ例をあげると、京都の大徳寺山内にあった天瑞寺は、明治初期に廃寺になり、そこにあった狩野永徳の障壁画『松図』は破棄されてしまいました。東京国立博物館所蔵の国宝『檜図屏風』(東京国立博物館)と同様の構図だったと言われています。現存すれば間違いなく国宝でしょう。
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| 狩野永徳『檜図屏風』(国宝。東京国立博物館)。永徳の死の直前の作品で、もともとは障壁画。この絵の2年前に描かれ、構図がほぼ同様の障壁画『松図』が京都・大徳寺山内の天瑞寺にあったが、明治初期の廃仏毀釈で破棄されてしまった。 [site : e国宝] | ||
浮世絵が二束三文で大量に海外流出した(フランスだけで20万点と言われます)のもその一つでしょう。絵画が外国に買われるのはよくあることで、それだけでは問題視することではありません。しかし二束三文で業者に売るのはまずい。散逸や死蔵の原因になります。それは、日本人が自国の文化の価値を理解できていなかったということだと思います。日本を知るためには、外国を知る必要がありますが、残念ながら江戸時代ではそれが無理だった。
前提1で書いたように、日本の特質を知るためには、外部からの目線で日本を見る必要があります。それは必ずしも容易ではありません。私たちは自分で自分の特徴が分からないことが多いのです。江戸時代と違って現代は「外国情報」が溢れていますが、自分で自分の特質が分かりにくいことには変わりません。この点は十分に意識して行動すべきでしょう。
- 自国が作り出した文化の価値を、自らが理解するのが難しい。これは明治期の日本だけではありません。それは、フランス印象派の絵画の傑作群が、大量にアメリカの美術館(ワシントン、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、など)に所蔵され、各美術館の「目玉作品」になっているのを見ても分かります。19世紀後半から20世紀前半にかけては、印象派絵画の価値を理解できない画壇・評論家・画商をかかえた「文化国家」と、文化的伝統はないが蓄えた富で文化の吸収に躍起となっていた「新興国」、という構図があったのでしょう。2011年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」のキャッチは「これを見ずに、印象派を語れない」でしたが、誇張ではないのです。「二束三文で」流出した浮世絵に多大な影響を受けた印象派絵画が、同時代の本国で当初は十分には理解されず、傑作群の海外流出を招いたのは皮肉というしかありません。伝統文化の価値を理解できなかった明治期の日本とは逆の意味ですが・・・・・・。
|  グローバル化の名の下の、特質の放棄  |
日本の文化が世界に広まる過程において、グローバルの名のもとに、日本人が自らその特質を捨ててしまうことがあります。一つだけ例をあげると、たとえば柔道の例です。
柔道・剣道・相撲などの試合は、勝ち負けを競う競技であると同時に、人間の精神を鍛錬する場(「道」)という性格をもっています。その現れとして、これらの試合における勝者は、勝ったその場で喜びを陽には表しません。相撲で勝った方が拳をかかげて土俵を一周したりはしないし、剣道で勝った方がガッツポーズをしたりはしない。そんなことをしたら、すぐに試合出場停止の処分を受けます。
これらの試合で勝者がまずやるべきことは、敗者の健闘をたたえ、努力を重ねてきたのに敗れた者の無念さを思い、また勝ったからといって増長しないように自らを戒め、今後のさらなる鍛錬を心することです。これは、サッカーやボクシング、バレーボール、野球などにおける、勝った時・点が入った時の「喜びよう」とは大きな違いです。どっちが良い、悪いという話ではありません。
ところが柔道は「国際スポーツ」になった。そしてオリンピックの柔道で一本勝ちした日本選手が、畳の上でぴょんぴょん飛び跳ねるまでになった。飛び跳ねたとしても外国の観客には全く違和感はないと思います。しかし柔道の本来の姿を考えると「畳の上でぴょんぴょん」はないだろうと思うわけです。控え場所まで行って喜びを表すならともかく・・・・・・。日本柔道連盟はなぜこういうことを許したのでしょうね。たとえ外国人選手がやったとしても、まねをしなければいい。外国人選手から「なぜ日本人選手は、その場で喜びを爆発させないのですが」と聞かれたら、その理由を説明すればいいわけです。「さすがに柔道発祥の国の精神性は深い」と尊敬されるはずです。「ぴょんぴょん柔道」は本来の特質を放棄しています。
|  独自性に対する、ネガティブな反応や否定  |
一般的に言えることですが、日本では個性が突出した人が「嫌われる」ことや「評価されない」ことがあります。横並びを尊び、他人と同じであることに価値を見いだし、独特であることや独自性にネガティブな反応を示す傾向です。
この傾向は国というレベルにもあります。世界の他の国、特に欧米先進諸国と違うコトをやることが、悪いとか、よくないといった暗黙の評価になるわけです。「普通の国になりたい」というようなことを堂々と公言する政治家がいるぐらいです。世界で「唯一無二の国」になりたいのなら分かるのですが・・・・・・。もちろんグローバル化の現代において、国際的な取り決めで諸外国と共通化する部分や、共同歩調をとるべき部分があるのはあたりまえです。しかし独自性がないと「国」としての意味はありません。その独自性に対して否定的な評価をするのはおかしい。
産業界から一つ例をあげますと、たとえば日本の携帯電話(スマートフォンではない、従来型の携帯電話)を「ガラパゴス携帯」と揶揄したり批判したりするメディアがありました。日本市場だけで独自に高度に進化し、世界市場でのビジネスに進出していないことを言っています。しかし独自に極めて高度に進化したこと自体は「素晴らしいこと」のはずです。「ガラパゴス携帯」という揶揄・批判の背景には「独自性に対する嫌悪感」があると感じます。揶揄・批判しているメディアの記者は意識していないと思いますが・・・・・・。
また、今はそうでもありませんが、日本語に対して「曖昧だ」とか「論理的でない」といった批判をする「知識人」が過去にいました。信じられない現象です。そもそも言語は、人間の想念をできるだけ「論理的に」「曖昧さを排除して」表現しようとするものなので、こういった批判自体が論理矛盾です。要するに、その人が曖昧で非論理的な日本語しか使えない、ということだと思います。しかしこのような批判の背景には、日本語が諸外国の言語と似ていない、もっと言えば「知識人」の好きな欧米諸国の言語(インド・ヨーロッパ語族の言語)とは全く違う構造を持った独自のものである、ということがあると思います。「独自性に対する嫌悪感」が背景にあるのでしょう。
|  日本語の破壊  |
独自性のある文化を一つだけ選べと言われたなら、それは日本語ではないか、と書きました。日本語を育てることは大変重要だし「愛国心」の根幹部分だと思います。
しかし、それに逆行する「日本語を破壊する」ような行為があります。それはいわゆる「言葉の乱れ」ではありません。「言葉の乱れ」は自然に収束するものだし、また言葉は「乱れ」を起こし、それを修正しつつ、ある部分を新しい要素として取り入れて、変化していくものです。それよりも大きな問題は、政府・自治体やマスメディアという「公的・準公的組織による強制的な日本語破壊」だと思います。
「交ぜ書き」という表記があります。被ばく(被曝)、破たん(破綻)、改ざん(改竄)、り災(罹災)、口てい疫(口蹄疫)、漏えい(漏洩)、隠ぺい(隠蔽)、はん濫(氾濫)、常とう句(常套句)などという書き方です。こういった表記方法は、漢字と仮名の本来の使い方を無視しています。読みにくい漢字にはルビをふればよいのであって、漏洩と表示するぐらい、ITを駆使している新聞社やTV局は簡単なはずです。ブログで簡単にできるぐらいなのだから・・・・・・。改竄と書くのが嫌で「改ざん」書くぐらいなら「改変」の方がよい。類似の意味で使えることが多いと思います。それ以前に、あれだけ政府を批判しているマスメディアだし、報道の自由の侵害に対しては徹底抗戦するはずだから、政府の「漢字規制」には一致団結して反対すればよいのです。
固有名詞は日本語の重要な一部ですが、地方自治体による「歴史的地名の抹殺」も、非常に気になる行為です。また、さいたま市、つくば市、さくら市(栃木)、みどり市(群馬)などの平仮名地名がありますが、なぜ平仮名にするのでしょうか。難読漢字を仮名化するならまだしも、このような地名表記は千数百年にわたる日本語の歴史にはありません。よく幼稚園生や小学校低学年の名札に「すずき けんいち」というような表記をしますね。それと同じで、まるで幼稚園生や小学生向けの地名だと思います。そもそも日本語は、発音に加えて「漢字でどう表記するか」までが決まって言葉が完成する言語です。
マイナスの「愛国心」:歴史の認識不足
「日本の特質」の中には、最近、世界文化遺産に登録された「平泉の歴史地区」のような歴史的遺産もあるし、富士山信仰のように、長期の歴史過程を経て醸成されていきた文化もあります。歴史の正しい認識は、「特質」や「誇りとすべきもの」の理解に是非とも必要だと思います。しかしそれに反するような日本の歴史の認識不足があるのではないでしょうか。それを何点かあげたいと思います。
|  歴史の「孤立化」  |
その一つは「日本史が世界史との関係で語られない」という「歴史の孤立化」です。
以前に書いたことからだけ例をあげると、たとえば No.20「鯨と人間(1)」で書いたような、幕末のペリー来航と、アメリカの捕鯨産業による太平洋捕鯨との関係は、あまり語られません。もちろん、ペリー来航が日本の政治・軍事に与えたインパクトを記述するのが歴史のメインであってよいのですが、補助記述として捕鯨産業との関係があってよいわけです。
No.30「富士山と世界遺産」で書いた、世界文化遺産である石見銀山は「西のポトシ、東のイワミ」と称されたような世界的視野で記述しないと、文化遺産の意味は理解できないはずです。日本史における銀の輸出も重要性も分からないと思います。
|  歴史上の事象の「針小棒大化」  |
極めて短い期間に日本に現れた現象を、あたかも長期間にわたる日本固有ものだとすり替える議論があります。これは日本の特質の歴史的理解を損ねるものです。これは明治時代から第二次世界大戦の終了までに起こった事象のケースが多い。
たとえば天皇家の地位や、そのありかたです。日本の長い歴史において天皇家は政治権力を行使するのではなく、世俗の権力とは一線を画した「権威」や「象徴」だったわけですね。政治権力は藤原氏や幕府だった。いわば、ヨーロッパ近代王室の「君臨すれど統治せず」を昔から実現していたわけです。「天皇親政」のような現象は、明治天皇から昭和天皇(1945まで)と、あとは天智天皇と後醍醐天皇ぐらいではないでしょうか。それは、日本の天皇家と天皇制の長い歴史からみると、ごくごく短期間の現象です。
国旗である日の丸(日章旗)は、日本の「特質」とは言えないけれど、世界で唯一のものであることは確かです。この「日の丸」が制定されたのは1870年で、現在まで約140年がたっています。この間、不幸なことに日の丸が国民を戦争に動員する道具のように使われたことがあったわけですね。それはざっと言うと、昭和に入ってからの約20年間です。この期間のことを指摘して、現在も「日の丸のもとに死んでいった人のことを思うと、国旗に起立はできない、それは思想と信条の問題」と言う人がいます。
思想・信条は個人の自由ですが、「日の丸が国民を戦争に動員する道具」だった時代は、日の丸の歴史の中では7分の1以下のごく短い期間なのですね。戦争体験者ならともかく、66年前に終わった比較的短い期間のことに縛られて現在も行動するのは、建設的な態度だとは言えないと思います。思想・信条は個人の自由ですが・・・・・・。
|  歴史上の功績の「矮小化」  |
日本の歴史における「過去の日本人の功績」は、日本の特質ではありませんが、日本人の「誇り」になっているものがあります。たとえば明治維新を成功させた人たちや、戦国時代の混乱期を収拾して国の統一をした人たちの功績や物語は、繰り返し伝えられています。
しかし理解に苦しむことなのですが、歴史上の功績をことさら矮小化した例があります。それは、鎌倉時代の元・高麗連合軍の日本侵略、いわゆる文永の役(1274)弘安の役(1281)です。この戦いでの日本軍の勝利を「暴風雨」に求めるような歴史記述・歴史認識が過去にありました。現代は、まともな歴史書ではこのような記述はないと思いますが・・・・・・。
確かに弘安の役では、暴風雨があったことは事実のようです。しかしこの戦いの勝利の要因としてまず掲げるべきは、防衛戦を戦った武士とその配下の雑兵たちの功績ではないのでしょうか。北条政権も文永の役の反省から博多湾に長い石塁を築き、それが役立った訳ですね。この「本土防衛戦」に北条政権がかけた費用と労力も相当のものだったはずで、事実、文永・弘安の役以降、鎌倉幕府は弱体化しました。文永・弘安の役の歴史記述としては、御家人や武士は立派に戦って、敵を撃退したというのがまっとうであり、そこでどういう戦いがなされたかが重要なはずです。もちろん暴風雨を付加的要因として持ち出すのはありますが、それが中心ではないはずです。戦争においては、プラスになるにしろマイナスに働くしろ、予想外のアクシデントが起こるのはよくあることなのです。
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| 蒙古襲来絵詞 [部分](宮内庁・三の丸尚蔵館)。肥後の御家人・竹崎季長(すえなが)が、自分の戦いぶりを描かせたものと言われる。図は、元・高麗連合軍の船に乗り込む季長たち(至文堂 日本の美術 第414号 2000 より引用) | ||
「近代以前に行われた、唯一の本土防衛戦」で敵を撃退したのに、その主な勝因が暴風雨では、戦いで死んでいった武士や配下の雑兵たちも浮かばれないと思います。また、そういう形で歴史を学んだ人に「国を守る気概」など生まれないはずです。文永・弘安の役の際に神社や寺院で「敵の調伏、撃退」を祈祷した人たちは「祈祷の成果だ、神風が吹いた」と宣伝したでしょうが、歴史記述がそれに乗ってはいけないのです。こういった「自国を侵略軍から防衛した」ようなケースでは「暴風雨のことはいっさい伏せて、御家人や武士の活躍ぶりだけを記述」したとしても、それはそれで理解できるというものです。
他の国ではどうなのでしょうか。アメリカ独立戦争を記述するアメリカ史、ロシア軍がナポレオン軍を撃退したロシア史、ジャンヌ・ダルクが活躍した英仏戦争のフランス側歴史においては、たまたま起こったラッキーな事象が自国の勝利にプラスに働いたことを、大々的に宣伝したり、言いふらしたりしないのではないでしょうか。そういったラッキーな事象は無視するか、あくまで補助的記述のはずだと推測します。こういった国の防衛に関する戦いは、現代に至る自国の成立過程に深く関わり、その国の国民のアイデンティティとなっているからです。
歴史と先人の苦労や努力を、ことさら矮小化して伝えてはならないと思います。
「代替不可能」という価値
日本の「特質」「特徴」「独自性」に戻ります。
日本だけの独自性は、外国との関係においてプラスに働くこともあれば、もちろんマイナスになることもあります。しかし独自性そのものは貴重です。それがプラスになるように工夫し、独自性うまく生かして、世界にメッセージを発信したり、国の活力を上げるために使うべきものだと思います。
独自性は「キャッチアップ型思考」からは生まれません。キャッチアップとは、追いつくべき「モデルA」を想定し、Aのようになるために頑張る、という思考です。国というレベルで言うと、A国のようになりたい、それを目指すという思考です。しかしそういったA国は、数十年前ならともかく、現代ではもうありえない。「キャッチアップ型思考」からは抜け出す必要があります。
独自性は「世界一」とか「世界ランキング」という考え方には馴染みません。世界一というのは、あくまで同一基準で計測した時に、最も程度が高いものです。他国にはない独自性は、順位を計測する基準がないのでランキングは議論できないのです。同一の基準で競争し、切磋琢磨することも重要ですが、それ以上に「競争という次元にならないこと」に価値を見いだすのも重要です。
人間の最大の価値は「余人をもって代え難い」という「代替不可能性」です。国の最大の価値も代替不可能性です。そして必要なのは「他国をもって代え難い特徴や特質を見いだし、また特徴や特質を作っていく」ことでしょう。それができれば「愛国心」は自然に醸成されると思います。
補記
『2001年に大分県がツキノワグマ絶滅を宣言し、これで九州全域からツキノワグマはいなくなったと考えられています。』と書きましたが、2012年5月14日の朝日新聞によると、絶滅していない可能性が高くなってきたようです。
2011年の10月に、大分・宮崎の県境にある祖母山で登山者がクマとおぼしき動物を目撃し、ほかにも証言があるようです。NGO・日本クマネットワークが本格調査に乗り出すと記事にはありました。朗報を期待したいものです。
No.36 - ベラスケスへのオマージュ [アート]
No.19「ベラスケスの怖い絵」で、中野京子さんの著書『怖い絵』の解説に従って『ラス・メニーナス』を取り上げました。今回はこの絵に関した話からです。
No.19 にも書いたように『ラス・メニーナス』については、ありとあらゆる評論が書かれてきました。また評論だけでなく、この絵を模写した画家も多くあり、有名なところでは、ピカソがキュビズムのタッチで模写した作品がバルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。
しかし何といっても印象深いのは『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描かれた、サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館蔵)です(以下「ボイト家の娘たち」と略します)。
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)は、主にパリとロンドンで活躍したアメリカ人画家です。彼は1879年にプラド美術館を訪れ『ラス・メニーナス』を模写しました。そして『ラス・メニーナス』から得たインスピレーションをもとに後日描いたのが『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』で、彼が26歳の時の作品です。ボストン美術館に行くと、サージェントの絵だけが展示してある部屋があり、その部屋を圧するようにこの絵が飾ってあります。縦横 222.5 cm という、正方形の大きな絵です。
この絵は2010年にプラド美術館へ貸し出され、プラド美術館は「招待作品」として、この絵と『ラス・メニーナス』を並べて展示しました。天下の2大美術館が揃って、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュであると認めたことになります。
エドワード・ダーレー・ボイトは、サージェントの友人のアメリカ人画家です。当時、ボイトの一家はパリに住んでいて、そのパリでのボイト家の4人娘を描いたのがこの作品です。一番手前、床に座っているのが最年少のジュリアで当時4歳、左の方に立っているのがメアリーで8歳、奥の方で正面を向いているのがジェーンで12歳、横を向いしまっているのがフローレンスで14歳です(名前と年齢はボストン美術館の公式サイトによる)。
サージェント:エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち
ボストン美術館へは2回行ったことがありますが、初めて訪れて「ボイト家の娘たち」を見た時は、この絵が『ラス・メニーナス』へのオマージュとは知りませんでした。もちろん絵を見ただけでは、そうとは気付きません。知ったのはその後です。そう言われてみれば『ラス・メニーナス』との類似性に気付くのです。「類似性」をキーに「ボイト家の娘たち」を鑑賞すると、次のようになるでしょう。
一つは絵の「主人公」です。「ボイト家の娘たち」の主人公は、床に座っている4歳のジュリアでしょう。最も光が強く当たっている描写がされています。一方の『ラス・メニーナス』はもちろんマルガリータ王女です。王女は当時5歳。2つの絵とも、4~5歳の幼女を主役にしています。
2つ目は、部屋に入ってきた誰かに登場人物たちの視線が集まった、その一瞬を描いたと感じさせる点です。「ボイト家の娘たち」を見て感じるのは、次のような情景です。友人の家を訪問したサージェントが、カメラを持って4人の娘の居る部屋に入っていく。「写真を撮ろう。そのままの位置でいいよ。カメラに向いて・・・・・・」。幼いジュリアはそのままの姿勢でカメラに目をむける。メアリーとジェーンはシャンと立って、カメラを見据える。年長のフローレンスは、今は写真など撮られたくないわ、とばかりに、サージェントの言葉を無視して横を向く・・・・・・。そんな情景の一瞬です。
もちろんサージェントの時代に(一瞬で撮影できる)カメラがあったわけではありません。しかし想像させられるのはそれと類似の状況です。たとえば、ボイト氏が初めて友人を娘たちに紹介するつもりで部屋に入っていった、というような・・・・・・。
『ラス・メニーナス』は、国王夫妻がベラスケスのアトリエに様子を見に来て、視線が国王夫妻に集まった一瞬を描いたと言われていますね。だから後方の鏡に夫妻が映っているのだというわけです(別の説もある)。この、一瞬を切り取った、その一瞬のありようが「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』と非常によく似ています。
3つ目は「ボイト家の娘たち」の構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」です。
4人の娘は、やけに左に偏って配置されていて、かつ手前から奥に向かって配置されています。二人は直立不動のような格好で正面を向いていますが、それとは全く対照的に一人は横を向いてしまっている。そして、ふっと自然な感じの視線を合わせた女の子が前の方に座っています。いったいこの4人の関係やいかに・・・・・・と詮索したくなる、思わせぶりな構図です。
そして印象的なのが、2つの染付けの大きな花瓶です。ボストン美術館の公式サイトによると、これは日本の有田焼です。右の方は半分しか描かれていません。しかしこの大きな花瓶の、静かに場を圧する存在感は相当なものです。
そして、右側の花瓶の横に描き込まれた赤いものは何でしょうか。何かのスクリーンのようなものだと思いますが、何のためのものなのか不明です。このスクリーン(のようなもの)は、『ラス・メニーナス』の絵の中に登場する大きなキャンバスに対応させたものでしょう。左右が反転していますが、構図がキャンバスに似ています。ひょっとしたらサージェントは、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いたことの証(あかし)として、意図的に描き加えたのかもしれません。
とにかく、こういった構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」が『ラス・メニーナス』に非常に似ています。
4つ目は、非常に広い「幅」や「奥行き」がある空間を感じさせる絵だということです。「ボイト家の娘たち」は、人物の配置と光の効果で「広大な空間」を作り出した絵だと思います。
まず、4人娘をことさら画面の左側に偏って配置しています。そうすることで4人のさらに左にも、この絵の右半分と同等の空間があると想像させます。右端の半分に切れた花瓶も、さらにその右へと部屋が広がっていることを明確にしている。これは日本画にもよくある手法です。
またサージェントの絵では、娘たちを前から奥に順に配置していて、奥に行くに従って娘の受ける光はだんだんと薄暗くなっていきます。そのさらに奥は暗闇に近くなり、窓の明かりがかすかに見える。光によって空間の奥行きが演出されています。
光による空間演出という意味では、フェルメールに何点かありますね。左の窓から差し込む淡い光が、個人が使用する、比較的狭い、こじんまりした、暖かみのある空間(部屋)を作り出す。
サージェントは光の演出だけでなく、人物の配置と構図で「空間を描いた」作品を作った。そう思います。その点ではまさにベラスケスの『ラス・メニーナス』と相似形です。また、この2つの作品は日本語で言う「奥」を描くことに成功した作品です。「奥」は日本語の独特表現なのかどうか確信はありませんが、少なくとも英語に「奥」を直訳できる単語はないはずです。西欧の絵画では、遠近法で「遠く」を描いた作品はいっぱいありますが、「奥」を描いた作品はあまりなく、その意味ではこの2作品は際だっていると思います。
さらにサージェントの作品について言うと、前から奥に行くに従って、姉妹の年齢は高くなっていきます。床に座っているのは幼児のジュリア。後ろで横を向いているのは10歳年上の姉のフローレンス。その間を真正面を向いたメアリーとジェーンがつないでいる。横を向いてしまったフローレンスは、あたかも子どもから脱して大人に向かっていくかのようです。じっと見ていると、手前から奥に向かって時間が流れていくように見える。サージェントはこの構図で、時の経過までもキャンバスに閉じ込めようしたと見えます。
5つ目は「広い空間の演出」と関係しますが、多様性がある光(と影)の表現です。特にサージェントの絵では、子供用エプロンの目に染み入るような「白」と、有田焼の磁器の釉薬を通した白色が印象的です。磁器の反射光の表現も鮮烈です。
この作品は「白による多様な光の表現が最も印象的な絵画作品」と言えるでしょう。白で光の効果を演出してみせよう、それに挑戦してみよう、白だけで十分なことを証明してみせよう・・・・・・。26歳の若いサージェントの、そういった意気込みというか、野心が伝わってくるような作品です。
最後に、この2つの絵だけの特徴ではないのですが、きわめて粗いタッチ、ラフな筆さばきが効果的に使われていることも共通しています。
「ボイト家の娘たち」の一番手前のジュリアは、よく見ると人形を持っています。この人形の服の表現は、まさに「書きなぐった」という言葉にふさわしい。実際、ほとんど一瞬で描かれたのでしょう。ベラスケスの絵もそうです。マルガリータ王女やその左の侍女の、袖のあたりは「書きなぐりによる迫真表現」です。よくよく見ると驚いてしまう。
サージェントの絵を見て思うのは、アーティストが先人の作品から受けるインスピレーションというのは、非常に微妙で個人的なものだということです。作品のどのポイントに霊感を感じるのか、それはアーティストの個人的な感覚に依存しています。「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』へのオマージュである、と言われなければ分からない。しかし「言われなければ分からない」けど、先人の作品を踏まえていることは確かなのです。
そして、これは最近知ったのですが、ベラスケスのある作品からインスピレーションを得て描かれた絵で、誰もが知っている超有名絵画があるのです。エドゥアール・モネの『笛を吹く少年』です。
マネ:笛を吹く少年
2011年7月30日にテレビ東京で放映された「美の巨人たち」のテーマは、マネ(1832-1883)の『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館蔵)でした。マネは「印象派の父」と言われています。番組では「絵画の新時代はマネから始まった(セザンヌ)」とか、「絵画はマネをもって始まる(ゴーギャン)」といった、画家たちの敬愛の言葉が紹介されていました。
『笛を吹く少年』は、確か教科書に採用されていた(時期があった)はずです。広く日本人が最もよく知っているマネの作品はこれ、と言っていいと思います。実はこの作品は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(1624-32頃。プラド美術館蔵)からインスピレーションを得て描かれた、というのが番組の主眼でした。美術界では常識かもしれませんが、私は初めて知りました。
No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、宮廷画家であるベラスケスは王侯貴族の絵だけでなく、慰み者や道化師、貧しい市民、芸人、乞食の絵を描いています。『道化師パブロ・デ・バリャドリード』はその中の1枚で、プラド美術館のホームページで確認すると、No.19 で紹介した『セバスティアン・デ・モーラ』『ディエゴ・ディ・アセド』『フランシスコ・レスカーノ』と同じ部屋に飾られています。『ラス・メニーナス』は(現在は)別の部屋のようです。
マネは33歳の時に『オランピア』(1865。オルセー美術館所蔵)を描き、サロンに入選します。現代ではマネの傑作としてよく知られているこの絵ですが、当時は、娼婦を描いた作品だということで評論家から非難轟々、罵声を浴びせられます。落ち込んだマネはマドリッドに旅行し、プラド美術館でベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に出会うのです。
番組で紹介されていたマネ自身の言葉によると「僕はこの作品に、僕自身の理想とする絵画の実現をみた」そうです。絶賛の言葉ですね。帰国後、マネはさっそく『道化師パブロ・デ・バリャドリード』へのオマージュ作品を2つ描きました。第1作が『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー [NGA] 蔵)であり、そして決定版が第2作の『笛を吹く少年』です。こうしてみると『悲劇役者』の方がベラスケスに非常に近いことが分かります。
普通『笛を吹く少年』は日本の浮世絵に影響されたと言われていますね。はっきりした輪郭、平面的な色使い、最小限の色数、背景が無いことなど、これらは版画である浮世絵の特徴です。美術史の研究でも『笛を吹く少年』は浮世絵に影響をうけたことが定説となっているようです。しかしもう一つ強く影響をうけた画家がいた。それがベラスケスだった。
そういえば思いあたることがあります。マネがエミール・ゾラを自分のアトリエに招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館蔵)という作品があります。この絵の右上には、画中画として絵の複製が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』であり、もう一つは、歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』(1860)です。マネは浮世絵の影響を受けたという予備知識があるので、我々は(特に日本人である我々は)浮世絵に目が行きます。左の方に描かれている琳派を思わせる屏風ともあわせ、ジャポニズムの雰囲気をぷんぷんと感じる。
しかし『大鳴門灘右ヱ門』の後ろには、もう一枚の複製画があるのですね。分かりにくいのですが、これはベラスケスの『バッカスの勝利』(1628-29。プラド美術館蔵)なのです。『エミール・ゾラの肖像』は、マネが浮世絵の「賛美者」であると同時に、ベラスケスの「弟子」だということを雄弁に物語っています。
日本という共通項
サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』と、マネの『笛を吹く少年』は、2つとも「ベラスケスへのオマージュ」でした。しかし、もう一つの共通項があります。それは、少々意外なことに「日本」です。『笛を吹く少年』が浮世絵の影響下に描かれたことはもちろんなのですが、『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』に描かれているのも有田焼の花瓶なのです。
この有田焼に関してなのですが、サージェントは「たまたま」ボイト家にあった花瓶を描いただけなのでしょうか。そうとも限らないと思います。ボイト家で巨大な有田焼に出会い、それに絵心をかき立てられた、ということも十分に考えられる。たとえ「たまたま」であったとしても、ボイト氏を含むパリ在住の画家たちに「日本趣味」が浸透していたことは、モネやゴッホを引き合いに出すまでもなく明らかです。サージェントも、画面に提灯と百合の花をちりばめた「ジャポニズム」の絵を描いているのです。『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。ロンドンのテート・ギャラリー蔵)という、薄暮時の一瞬を描いた傑作です。
江戸時代の末期から明治初期という日本の激動期において、日本から輸出された美術品、日本では美術品としては認められなかった「作品」が、実は欧米のアーティストに深く影響を与えていたことが、よく理解できる2作品です。
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| ベラスケス『ラス・メニーナス』(プラド美術館) |
No.19 にも書いたように『ラス・メニーナス』については、ありとあらゆる評論が書かれてきました。また評論だけでなく、この絵を模写した画家も多くあり、有名なところでは、ピカソがキュビズムのタッチで模写した作品がバルセロナのピカソ美術館に所蔵されています。
しかし何といっても印象深いのは『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描かれた、サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館蔵)です(以下「ボイト家の娘たち」と略します)。
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)は、主にパリとロンドンで活躍したアメリカ人画家です。彼は1879年にプラド美術館を訪れ『ラス・メニーナス』を模写しました。そして『ラス・メニーナス』から得たインスピレーションをもとに後日描いたのが『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』で、彼が26歳の時の作品です。ボストン美術館に行くと、サージェントの絵だけが展示してある部屋があり、その部屋を圧するようにこの絵が飾ってあります。縦横 222.5 cm という、正方形の大きな絵です。
この絵は2010年にプラド美術館へ貸し出され、プラド美術館は「招待作品」として、この絵と『ラス・メニーナス』を並べて展示しました。天下の2大美術館が揃って、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュであると認めたことになります。
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John Singer Sargent "The Daughters of Edward Darley Boit" (1882) Museum of Fine Arts, Boston |
エドワード・ダーレー・ボイトは、サージェントの友人のアメリカ人画家です。当時、ボイトの一家はパリに住んでいて、そのパリでのボイト家の4人娘を描いたのがこの作品です。一番手前、床に座っているのが最年少のジュリアで当時4歳、左の方に立っているのがメアリーで8歳、奥の方で正面を向いているのがジェーンで12歳、横を向いしまっているのがフローレンスで14歳です(名前と年齢はボストン美術館の公式サイトによる)。
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サージェント:エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち
Sargent : The Daughters of Edward Darley Boit
ボストン美術館へは2回行ったことがありますが、初めて訪れて「ボイト家の娘たち」を見た時は、この絵が『ラス・メニーナス』へのオマージュとは知りませんでした。もちろん絵を見ただけでは、そうとは気付きません。知ったのはその後です。そう言われてみれば『ラス・メニーナス』との類似性に気付くのです。「類似性」をキーに「ボイト家の娘たち」を鑑賞すると、次のようになるでしょう。
|  主人公  |
一つは絵の「主人公」です。「ボイト家の娘たち」の主人公は、床に座っている4歳のジュリアでしょう。最も光が強く当たっている描写がされています。一方の『ラス・メニーナス』はもちろんマルガリータ王女です。王女は当時5歳。2つの絵とも、4~5歳の幼女を主役にしています。
|  一瞬の定着  |
2つ目は、部屋に入ってきた誰かに登場人物たちの視線が集まった、その一瞬を描いたと感じさせる点です。「ボイト家の娘たち」を見て感じるのは、次のような情景です。友人の家を訪問したサージェントが、カメラを持って4人の娘の居る部屋に入っていく。「写真を撮ろう。そのままの位置でいいよ。カメラに向いて・・・・・・」。幼いジュリアはそのままの姿勢でカメラに目をむける。メアリーとジェーンはシャンと立って、カメラを見据える。年長のフローレンスは、今は写真など撮られたくないわ、とばかりに、サージェントの言葉を無視して横を向く・・・・・・。そんな情景の一瞬です。
もちろんサージェントの時代に(一瞬で撮影できる)カメラがあったわけではありません。しかし想像させられるのはそれと類似の状況です。たとえば、ボイト氏が初めて友人を娘たちに紹介するつもりで部屋に入っていった、というような・・・・・・。
『ラス・メニーナス』は、国王夫妻がベラスケスのアトリエに様子を見に来て、視線が国王夫妻に集まった一瞬を描いたと言われていますね。だから後方の鏡に夫妻が映っているのだというわけです(別の説もある)。この、一瞬を切り取った、その一瞬のありようが「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』と非常によく似ています。
|  ミステリアス  |
3つ目は「ボイト家の娘たち」の構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」です。
4人の娘は、やけに左に偏って配置されていて、かつ手前から奥に向かって配置されています。二人は直立不動のような格好で正面を向いていますが、それとは全く対照的に一人は横を向いてしまっている。そして、ふっと自然な感じの視線を合わせた女の子が前の方に座っています。いったいこの4人の関係やいかに・・・・・・と詮索したくなる、思わせぶりな構図です。
そして印象的なのが、2つの染付けの大きな花瓶です。ボストン美術館の公式サイトによると、これは日本の有田焼です。右の方は半分しか描かれていません。しかしこの大きな花瓶の、静かに場を圧する存在感は相当なものです。
- ボストン美術館の公式ホーム・ページによって補足しますと、この花鳥の染付けの花瓶は、実際にボイト家の所有物でした。ボイト家は、出身地のボストンとパリを往復して生活していたのですが、花瓶は一家の移動とともに大西洋を何回も往復したそうです。つまりボイト家のシンボルとして大切にされていたのですね。そしてボイト氏が亡くなったあと、娘たちは絵とともに花瓶をボストン美術館に寄贈しました。
ボストン美術館の「ボイト家の娘たち」の部屋に行くと、この花瓶も飾ってあります。公式サイトによると、この花瓶の高さは 188cm という大きなものです。ボイト家の娘たち4人は今はもう誰もいなし、絵を描いた画家もいないのですが、花瓶だけは百数十年の時を越えて生き抜いている。ますます、その圧倒的な存在感が伝わってくるような展示です。
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『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』の展示 [site : ボストン美術館] |
そして、右側の花瓶の横に描き込まれた赤いものは何でしょうか。何かのスクリーンのようなものだと思いますが、何のためのものなのか不明です。このスクリーン(のようなもの)は、『ラス・メニーナス』の絵の中に登場する大きなキャンバスに対応させたものでしょう。左右が反転していますが、構図がキャンバスに似ています。ひょっとしたらサージェントは、この絵を『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いたことの証(あかし)として、意図的に描き加えたのかもしれません。
とにかく、こういった構図と人物・事物の配置がかもし出す「ミステリアスな雰囲気」が『ラス・メニーナス』に非常に似ています。
|  幅と奥行きのある空間  |
4つ目は、非常に広い「幅」や「奥行き」がある空間を感じさせる絵だということです。「ボイト家の娘たち」は、人物の配置と光の効果で「広大な空間」を作り出した絵だと思います。
まず、4人娘をことさら画面の左側に偏って配置しています。そうすることで4人のさらに左にも、この絵の右半分と同等の空間があると想像させます。右端の半分に切れた花瓶も、さらにその右へと部屋が広がっていることを明確にしている。これは日本画にもよくある手法です。
またサージェントの絵では、娘たちを前から奥に順に配置していて、奥に行くに従って娘の受ける光はだんだんと薄暗くなっていきます。そのさらに奥は暗闇に近くなり、窓の明かりがかすかに見える。光によって空間の奥行きが演出されています。
光による空間演出という意味では、フェルメールに何点かありますね。左の窓から差し込む淡い光が、個人が使用する、比較的狭い、こじんまりした、暖かみのある空間(部屋)を作り出す。
サージェントは光の演出だけでなく、人物の配置と構図で「空間を描いた」作品を作った。そう思います。その点ではまさにベラスケスの『ラス・メニーナス』と相似形です。また、この2つの作品は日本語で言う「奥」を描くことに成功した作品です。「奥」は日本語の独特表現なのかどうか確信はありませんが、少なくとも英語に「奥」を直訳できる単語はないはずです。西欧の絵画では、遠近法で「遠く」を描いた作品はいっぱいありますが、「奥」を描いた作品はあまりなく、その意味ではこの2作品は際だっていると思います。
さらにサージェントの作品について言うと、前から奥に行くに従って、姉妹の年齢は高くなっていきます。床に座っているのは幼児のジュリア。後ろで横を向いているのは10歳年上の姉のフローレンス。その間を真正面を向いたメアリーとジェーンがつないでいる。横を向いてしまったフローレンスは、あたかも子どもから脱して大人に向かっていくかのようです。じっと見ていると、手前から奥に向かって時間が流れていくように見える。サージェントはこの構図で、時の経過までもキャンバスに閉じ込めようしたと見えます。
|  多様な光  |
5つ目は「広い空間の演出」と関係しますが、多様性がある光(と影)の表現です。特にサージェントの絵では、子供用エプロンの目に染み入るような「白」と、有田焼の磁器の釉薬を通した白色が印象的です。磁器の反射光の表現も鮮烈です。
この作品は「白による多様な光の表現が最も印象的な絵画作品」と言えるでしょう。白で光の効果を演出してみせよう、それに挑戦してみよう、白だけで十分なことを証明してみせよう・・・・・・。26歳の若いサージェントの、そういった意気込みというか、野心が伝わってくるような作品です。
|  粗いタッチ  |
最後に、この2つの絵だけの特徴ではないのですが、きわめて粗いタッチ、ラフな筆さばきが効果的に使われていることも共通しています。
「ボイト家の娘たち」の一番手前のジュリアは、よく見ると人形を持っています。この人形の服の表現は、まさに「書きなぐった」という言葉にふさわしい。実際、ほとんど一瞬で描かれたのでしょう。ベラスケスの絵もそうです。マルガリータ王女やその左の侍女の、袖のあたりは「書きなぐりによる迫真表現」です。よくよく見ると驚いてしまう。
- このあたりは日本画における「付立て(つけたて)」という手法を思い起こさせます。円山応挙やその一門の絵によくあります。たとえば草木を描くときに、花の部分は精緻にデッサンをし、輪郭を書き、リアルに、写実的に描く。しかし幹の部分は輪郭を描かず、筆の濃淡だけをたよりに、一気呵成に描く。この「一気呵成」の部分が付立てですね。写実的部分との対比の妙で、互いが互いを引き立てるというわけです。
サージェントの絵を見て思うのは、アーティストが先人の作品から受けるインスピレーションというのは、非常に微妙で個人的なものだということです。作品のどのポイントに霊感を感じるのか、それはアーティストの個人的な感覚に依存しています。「ボイト家の娘たち」は『ラス・メニーナス』へのオマージュである、と言われなければ分からない。しかし「言われなければ分からない」けど、先人の作品を踏まえていることは確かなのです。
そして、これは最近知ったのですが、ベラスケスのある作品からインスピレーションを得て描かれた絵で、誰もが知っている超有名絵画があるのです。エドゥアール・モネの『笛を吹く少年』です。
マネ:笛を吹く少年
2011年7月30日にテレビ東京で放映された「美の巨人たち」のテーマは、マネ(1832-1883)の『笛を吹く少年』(1866。オルセー美術館蔵)でした。マネは「印象派の父」と言われています。番組では「絵画の新時代はマネから始まった(セザンヌ)」とか、「絵画はマネをもって始まる(ゴーギャン)」といった、画家たちの敬愛の言葉が紹介されていました。
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マネ『笛を吹く少年』 (1866。オルセー美術館) |
『笛を吹く少年』は、確か教科書に採用されていた(時期があった)はずです。広く日本人が最もよく知っているマネの作品はこれ、と言っていいと思います。実はこの作品は、ベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』(1624-32頃。プラド美術館蔵)からインスピレーションを得て描かれた、というのが番組の主眼でした。美術界では常識かもしれませんが、私は初めて知りました。
No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、宮廷画家であるベラスケスは王侯貴族の絵だけでなく、慰み者や道化師、貧しい市民、芸人、乞食の絵を描いています。『道化師パブロ・デ・バリャドリード』はその中の1枚で、プラド美術館のホームページで確認すると、No.19 で紹介した『セバスティアン・デ・モーラ』『ディエゴ・ディ・アセド』『フランシスコ・レスカーノ』と同じ部屋に飾られています。『ラス・メニーナス』は(現在は)別の部屋のようです。
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ベラスケス 『道化師パブロ・デ・バリャドリード』 (1624-32頃。プラド美術館) |
マネは33歳の時に『オランピア』(1865。オルセー美術館所蔵)を描き、サロンに入選します。現代ではマネの傑作としてよく知られているこの絵ですが、当時は、娼婦を描いた作品だということで評論家から非難轟々、罵声を浴びせられます。落ち込んだマネはマドリッドに旅行し、プラド美術館でベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』に出会うのです。
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マネ (1866。 NGA) | |||
普通『笛を吹く少年』は日本の浮世絵に影響されたと言われていますね。はっきりした輪郭、平面的な色使い、最小限の色数、背景が無いことなど、これらは版画である浮世絵の特徴です。美術史の研究でも『笛を吹く少年』は浮世絵に影響をうけたことが定説となっているようです。しかしもう一つ強く影響をうけた画家がいた。それがベラスケスだった。
そういえば思いあたることがあります。マネがエミール・ゾラを自分のアトリエに招いて描いた『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館蔵)という作品があります。この絵の右上には、画中画として絵の複製が描き込まれています。一つはマネ自身の『オランピア』であり、もう一つは、歌川国明の相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』(1860)です。マネは浮世絵の影響を受けたという予備知識があるので、我々は(特に日本人である我々は)浮世絵に目が行きます。左の方に描かれている琳派を思わせる屏風ともあわせ、ジャポニズムの雰囲気をぷんぷんと感じる。
しかし『大鳴門灘右ヱ門』の後ろには、もう一枚の複製画があるのですね。分かりにくいのですが、これはベラスケスの『バッカスの勝利』(1628-29。プラド美術館蔵)なのです。『エミール・ゾラの肖像』は、マネが浮世絵の「賛美者」であると同時に、ベラスケスの「弟子」だということを雄弁に物語っています。
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マネ『エミール・ゾラの肖像』(1868。オルセー美術館) 右は相撲絵の部分を拡大したもの [site : NGA] | |
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ベラスケス『バッカスの勝利』 (1628-29。プラド美術館) |
日本という共通項
サージェントの『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』と、マネの『笛を吹く少年』は、2つとも「ベラスケスへのオマージュ」でした。しかし、もう一つの共通項があります。それは、少々意外なことに「日本」です。『笛を吹く少年』が浮世絵の影響下に描かれたことはもちろんなのですが、『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』に描かれているのも有田焼の花瓶なのです。
この有田焼に関してなのですが、サージェントは「たまたま」ボイト家にあった花瓶を描いただけなのでしょうか。そうとも限らないと思います。ボイト家で巨大な有田焼に出会い、それに絵心をかき立てられた、ということも十分に考えられる。たとえ「たまたま」であったとしても、ボイト氏を含むパリ在住の画家たちに「日本趣味」が浸透していたことは、モネやゴッホを引き合いに出すまでもなく明らかです。サージェントも、画面に提灯と百合の花をちりばめた「ジャポニズム」の絵を描いているのです。『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(1885-6。ロンドンのテート・ギャラリー蔵)という、薄暮時の一瞬を描いた傑作です。
江戸時代の末期から明治初期という日本の激動期において、日本から輸出された美術品、日本では美術品としては認められなかった「作品」が、実は欧米のアーティストに深く影響を与えていたことが、よく理解できる2作品です。
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John Singer Sargent "Carnation, Lily, Lily, Rose" (1885-6) Tate Gallary, London |
No.35 - 中島みゆき「時代」 [音楽]
No.15「ニーベルングの指輪 (2) 」において
中島みゆきさんがデビューしたのは35年以上も前ですが、もちろん現役のシンガー・ソングライターであり、「夜会」の活動や小説やエッセイの執筆にみられるように、シンガー・ソングライターの枠を越えたアーティストとして活躍しています。「夜会」において中島さんは、プロデューサ + 演出家 + 脚本家 + 作詞家 + 作曲家 + 俳優 + 歌手、という一人七役ぶりです。
彼女が広く知られるようになったのは、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)で「時代」を歌ってグランプリを受賞してからでした。同年11月の第6回世界歌謡祭でも「時代」はグランプリを受賞しています。彼女はその年の9月に最初のシングル「アザミ嬢のララバイ」を出しているので、こちらがデビュー曲ということになりますが、実質的なデビューはポプコン・世界歌謡祭での「時代」と考えてよいと思います。
「時代」の詩(詞)
中島さんの歌は詩(詞)だけを取り上げられて語られることが多いですね。そういうニーズや傾向からか、またファンの強い要望からか、天下の朝日新聞社は過去に「中島みゆき詩集」を3冊も出しています。朝日新聞社出版部にはコアな「みゆきファン」がいたようです。
歌は最低限「詩・詞 + 曲」で成り立つので、詩だけを取り出して議論したり鑑賞するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに詩集を出した気持ちも分かります。
「時代」の歌い出しは次のようです。
極度の悲しみに陥った人、ここでは恋人と別れた人を想像させますが、そういう人であっても時代が変われば「そんなこともあったね」と語れる時がくる・・・・・・という内容です。この部分の詩では「時代が回る」という表現や、別れた恋人が「生まれ変わって」めぐり逢う、というような言葉の使い方が耳に残ります。
それと、何よりも題名でもある「時代」です。「時」ではなく「時間」でもなく「時の経過」でもない「時代」という言葉です。「時代」は、物事がはじまって発展して区切りを迎える、その期間というイメージです。短期間ではない、比較的長期の時間帯を言っている。明治時代、少年時代、学生時代というようにです。この時代という言葉を持ち出して「回る」という表現と結び付けているのが印象的です。
一般的に中島さんの詩の言葉、特にキーワードは考え抜かれて選ばれています。「時代」や「回る」「生まれ変わる」には、彼女なりの思いが込められていることは確実です。
「時代」は次のように続きます。
歌い出しにおける「恋人たち」は、ここでは「旅人」になります。力つきて倒れた旅人も、生まれ変わって、再び歩き出すのです。時代が回れば・・・・・・。
もちろん「旅人」は比喩であり、それは人生の旅人、つまりほとんど「人」とイコールでしょう。その意味では「恋人」よりずっと一般化した感じです。・・・・・・というように考えてしまうのは「中島みゆきの詩」の把握の仕方としては正しくない。「旅人」は「旅人」としてダイレクトに受け止めるべきでしょう。そういう言葉がわざわざ選ばれているのだから・・・・・・。
デビュー曲「時代」
「時代」は実質的に「中島みゆきのデビュー曲」です。しかしデビュー曲にしては、少々変わっている。
まず「時代」は、ラブソングではありません。別にデビュー曲がラブソングである必要性は全くないのですが、男女の関係や、その周辺の人間模様を歌ったものが多いのも事実です。もちろん失恋を含めてです。
「時代」はそういった人間関係論とは無縁な曲です。それは、悲しみにくれている人(ないしは自分)を元気付けようとする歌です。詩の内容は極めて普遍的だと言えるし、人に対する応援歌のように見えます。しかし単なる応援歌でもないようなのです。
普通、打ちひしがれた人を励まし、応援する場合には
しかし「時代」はちょっと雰囲気が違う。ここでは
「時代」は、時の経過を「回ること」「循環」としてとらえる基本的な考えにもとづいています。そこが普通の「応援歌」とちょっと違います。季節と植物の関係で言うと、春に芽吹き、夏に茂り、秋に紅葉し、冬に枯れる。これが繰り返される。死と再生の繰り返しです。一定の期間(=時代)が繰り返すことによって時が流れていくという感覚。直線的ではない回帰的な時間の見方が「時代」にはあります。視覚的には「No.5 - 交響詩:モルダウ」で紹介した横山大観の「生々流転」のイメージです。また、No.15 で「ニーベルングの指輪」が「時代」を連想させる、と書いたのも、その共通項は「循環的世界観」の雰囲気です。あくまで連想に過ぎないのですが・・・・・・。
24時着 0時発
中島さんは「時代」の発表から30年後に「循環」をテーマの一つにした作品を創作・発表しました。2004年の「夜会」で演じられた『24時着 0時発』です。この作品は鮭の永劫回帰がベーシックなモチーフ(の一つ)になっています。従って中で歌われた曲には「循環し、生まれ変わり、継承する」というイメージがいろいろとあります。
『24時着 0時発』で歌われた曲から11曲を選んで、2005年にアルバムが発売されました。そのタイトルはズバリ「転生」です。
そもそも『24時着 0時発』というタイトルは「1日の終わりと、次の日の始まり」ということですよね。到達点は、また出発点でもある。時間は一周し、そこから次の時間が始まる。日は巡り、また巡る。地球の自転は永遠に続く・・・・・・。この夜会のタイトルは「時間が回る」というイメージの表現形そのものです。
デビュー作にはアーティストの本質が現れると言います。「循環」や「回る」は、中島さんがデビュー当時からずっと持ち続けている思想の中心的なコア部分(の一つ)ではないでしょうか。
ところで「時代」を聞くたびに連想する曲があります。ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲した「サークル・ゲーム」です。
The Circle Game
ジョニ・ミッチェル( Joni Mitchell )はカナダのシンガー・ソングライターです(画家でもある)。彼女の初期の曲として "Both Sides Now"(日本題名:青春の光と影。1969)がよく知られていますが、それ以上に有名なのが「サークル・ゲーム」(The Circle Game 1967)です。その詩と詩の"大意"を掲げます。
20歳になった時点で、少年時代を回顧する詩です。純粋に夢を語っていた少年時代の思い出。夢は夢だったことからくる、ある種の「あせり」。そして大人の世界に入っていくことの期待と、漠然とした不安感。誰もが20歳前後に抱く、うまく言葉にできないような気持ちを汲み取っていると思います。
過去には戻れません。「我々は時の回転木馬につかまって」というところが印象的です。「つかまって」したところは詩では captive です。「とらわれて」という意味ですね。
こうしてみると、ジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」と中島さんの「時代」は、明らかに主題が違います。「時代」には傷ついた人や倒れた人に対する「励まし」という基本的態度があるのに比較して、「サークル・ゲーム」にあるのは過去の回顧と未来へのちょっぴりした期待であり、さらにはある種のペシミスティックな「諦め」さえ感じます。
しかし「サークル・ゲーム」が実際に歌われるのを聞いて最も印象的なのは、何度も繰り返される 'round / around や circle という言葉です。また wheel や carousel といった「回る」ことに関係した記号です。
「サークル・ゲーム」で特徴的なのは、季節が巡ることや、年が過ぎること、少年時代が終わることを「回る」「一周する」ととらえ、それが繰り返されるのが時の流れだという感覚です。この「時」と「回る」のコンビネーションが、中島さんの「時代」との類似性を感じさせるのです。
いちご白書 : The Strawberry Statement
ジョ二・ミッチェルの名曲「サークル・ゲーム」が世界的に有名になった契機は、映画「いちご白書」の公開(1970)でした。この映画の主題歌として「サークル・ゲーム」が使われたのです。歌ったのはバフィ・セント=マリーという、ジョ二・ミッチェルと同じカナダの歌手です。
映画「いちご白書」は1968年の米国・コロンビア大学が舞台です。当時のコロンビア大学では予備将校訓練隊のビル建設に抗議する学生と大学当局の紛争が盛り上がっていました。主人公の男子学生は政治には無関心な平凡な学生でしたが、学生運動のリーダ格の女子学生と知り合い、彼女にひかれていくうちに、運動に参加するようになります(青春映画のストーリーの「王道」の一つですね)。映画は、大学の講堂にたてこもった学生たちを、警官隊が突入して強制排除するシーンで終わります。
一言でいうと「青春の高揚と挫折」という感じです。この映画の主題歌が「サークル・ゲーム」で、最後の「警官隊の学生強制排除シーン」でこの歌が流れました。
そしてここからは全くの想像なのですが、ひょっとしたら中島さんは「いちご白書」を見て、そして「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」を書いたのではないでしょうか。映画が日本で公開されたのは1970年の秋です。当時、中島さんは大学の1年生。彼女が札幌でこの映画を見た可能性は十分にあると思うのです。学生たちが警官隊に強制排除される最終シーンで流れる「サークル・ゲーム」という曲、この曲の持つ何となくペシミスティックな雰囲気に対して、中島さんが「ポジティブな」回答をしたのが「時代」なのではないでしょうか。あるいは、挫折で終わる『いちご白書』に対して、次の「時代」への希望を語ったのでは、とも思うのです。全くの想像ですが・・・・・・。
『いちご白書』をもう一度
中島さんが「時代」でグランプリをとった年の1975年、正真正銘「いちご白書」の影響を受けて作られた曲が発表されました。作詞・作曲:荒井由実、歌:バンバンの「いちご白書をもう一度」です。松任谷由実さん自身も、2003年のセルフ・カバー・アルバム(Yuming Composition : FACES)でこの曲をカバーしています。
この曲は「いちご白書」に影響されて作られたことは題名から明らかだし、歌詞にある「学生集会」も「いちご白書」が描いた学生運動と重なります。
しかし実は、この曲は「いちご白書」の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響を受けているのではないでしょうか。ないしは「サークル・ゲーム」を念頭に詞が書かれたのではないでしょうか。街角のポスターを見て過ぎ去った昔を思い出す、というシチュエーションの設定が、少年時代を回想している「サークル・ゲーム」を連想させます。輪を一周し、もう一度出発点に戻りたい、「どこかでもう一度」と願っている、ないしは、そのことで逆説的に「過去には戻れない」と感じているわけです。
アートとインスピレーション
「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」と「いちご白書をもう一度」の詞が作られたと書いたのですが、それは全くの想像であって正しいかどうかは分かりません。アーティストは創作の過程を明かさないことが多いし、特に中島さんは自作の「解説」をしたりはしないでしょう。アーティストが解説をしているような場合でも、本当のことを言っているのか疑わしいことがあります。特に、インスピレーションとなると内容は千差万別であって、完全にアーティスト本人の「心の問題」です。
しかし、正しいか正しくないかは本質的な問題ではないと思います。アーティストの仕事は作品を創造して世に出すまでであって、いったん作品が世に出ると、それをどう受け取るかは作品の「受け手」にゆだねられる。作品は「作り手」とは独立した存在になる・・・・・・。中島さんは、何度かそういう意味の発言をしていたと思います。受け手の解釈の自由裁量があるところに、音楽や絵画をはじめとする「アート」全般のおもしろさがあるのだと思います。
補記 :
中島みゆきさんの『時代』は数々の歌手によって歌われてていて、最近では一青窈さんがカバーしていますね。この曲を中島みゆき以外では聞きたくないという「みゆきファン」は多いと思いますが、曲の持つ「普遍的な力」が多くの歌手に「歌いたい」という気持ちを起させるのだと思います。2012年5月2日のNHKの朝の情報番組のインタビューで、一青窈さんは「この曲を東日本大震災の被災地で歌った。会場には老若男女いろいろの人がいたが、涙を流している人が多かった」という主旨の発言をしていました。私は関東在住なので被災者の方々の気持ちの1/100も分かってはいないのですが、涙の理由はなんとなく理解できそうな気がします。「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくる・・・・・・」。この曲が持つ「言葉の力」は非常に強いと思います。
- 「循環」をテーマにした音楽作品というと、すぐに中島みゆきさんの名曲「時代」を思い浮かべる
中島みゆきさんがデビューしたのは35年以上も前ですが、もちろん現役のシンガー・ソングライターであり、「夜会」の活動や小説やエッセイの執筆にみられるように、シンガー・ソングライターの枠を越えたアーティストとして活躍しています。「夜会」において中島さんは、プロデューサ + 演出家 + 脚本家 + 作詞家 + 作曲家 + 俳優 + 歌手、という一人七役ぶりです。
彼女が広く知られるようになったのは、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)で「時代」を歌ってグランプリを受賞してからでした。同年11月の第6回世界歌謡祭でも「時代」はグランプリを受賞しています。彼女はその年の9月に最初のシングル「アザミ嬢のララバイ」を出しているので、こちらがデビュー曲ということになりますが、実質的なデビューはポプコン・世界歌謡祭での「時代」と考えてよいと思います。
「時代」の詩(詞)
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中島みゆき全歌集Ⅱ (朝日新聞社 1998) | |||
歌は最低限「詩・詞 + 曲」で成り立つので、詩だけを取り出して議論したり鑑賞するのは本来の姿ではないとは思うのですが、中島さんの曲を聞くと、どうしても詩(詞)を取り上げたくなります。朝日新聞社の(おそらく)コアな「みゆきファン」の人が、周囲の(おそらく)冷ややかな目をものともせずに詩集を出した気持ちも分かります。
「時代」の歌い出しは次のようです。
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ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』(1976)。「時代」が最後に収められている。
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それと、何よりも題名でもある「時代」です。「時」ではなく「時間」でもなく「時の経過」でもない「時代」という言葉です。「時代」は、物事がはじまって発展して区切りを迎える、その期間というイメージです。短期間ではない、比較的長期の時間帯を言っている。明治時代、少年時代、学生時代というようにです。この時代という言葉を持ち出して「回る」という表現と結び付けているのが印象的です。
一般的に中島さんの詩の言葉、特にキーワードは考え抜かれて選ばれています。「時代」や「回る」「生まれ変わる」には、彼女なりの思いが込められていることは確実です。
「時代」は次のように続きます。
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もちろん「旅人」は比喩であり、それは人生の旅人、つまりほとんど「人」とイコールでしょう。その意味では「恋人」よりずっと一般化した感じです。・・・・・・というように考えてしまうのは「中島みゆきの詩」の把握の仕方としては正しくない。「旅人」は「旅人」としてダイレクトに受け止めるべきでしょう。そういう言葉がわざわざ選ばれているのだから・・・・・・。
デビュー曲「時代」
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「時代」は1993年にリメイクされた。それを第1曲に収録したアルバム『時代』 | |||
まず「時代」は、ラブソングではありません。別にデビュー曲がラブソングである必要性は全くないのですが、男女の関係や、その周辺の人間模様を歌ったものが多いのも事実です。もちろん失恋を含めてです。
「時代」はそういった人間関係論とは無縁な曲です。それは、悲しみにくれている人(ないしは自分)を元気付けようとする歌です。詩の内容は極めて普遍的だと言えるし、人に対する応援歌のように見えます。しかし単なる応援歌でもないようなのです。
普通、打ちひしがれた人を励まし、応援する場合には
- ◆ 夜は必ず明ける、明けない夜はない
◆ 今は厳しいけど、常に希望もてば、道は開ける
- After all, tomorrow is another day
しかし「時代」はちょっと雰囲気が違う。ここでは
- 時代は回る
- 別れた恋人は「生まれ変わって」巡りあう
倒れた旅人は「生まれ変わって」歩き出す
「時代」は、時の経過を「回ること」「循環」としてとらえる基本的な考えにもとづいています。そこが普通の「応援歌」とちょっと違います。季節と植物の関係で言うと、春に芽吹き、夏に茂り、秋に紅葉し、冬に枯れる。これが繰り返される。死と再生の繰り返しです。一定の期間(=時代)が繰り返すことによって時が流れていくという感覚。直線的ではない回帰的な時間の見方が「時代」にはあります。視覚的には「No.5 - 交響詩:モルダウ」で紹介した横山大観の「生々流転」のイメージです。また、No.15 で「ニーベルングの指輪」が「時代」を連想させる、と書いたのも、その共通項は「循環的世界観」の雰囲気です。あくまで連想に過ぎないのですが・・・・・・。
24時着 0時発
中島さんは「時代」の発表から30年後に「循環」をテーマの一つにした作品を創作・発表しました。2004年の「夜会」で演じられた『24時着 0時発』です。この作品は鮭の永劫回帰がベーシックなモチーフ(の一つ)になっています。従って中で歌われた曲には「循環し、生まれ変わり、継承する」というイメージがいろいろとあります。
- 生きて泳げ 涙は後ろへ流せ
向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ(サーモン・ダンス)
- この一生だけでは辿り着けないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでいけ(命のリレー)
- 別れた恋人は「生まれ変わって」巡りあう
倒れた旅人は「生まれ変わって」歩き出す
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『転生』(2005)
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そもそも『24時着 0時発』というタイトルは「1日の終わりと、次の日の始まり」ということですよね。到達点は、また出発点でもある。時間は一周し、そこから次の時間が始まる。日は巡り、また巡る。地球の自転は永遠に続く・・・・・・。この夜会のタイトルは「時間が回る」というイメージの表現形そのものです。
デビュー作にはアーティストの本質が現れると言います。「循環」や「回る」は、中島さんがデビュー当時からずっと持ち続けている思想の中心的なコア部分(の一つ)ではないでしょうか。
ところで「時代」を聞くたびに連想する曲があります。ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲した「サークル・ゲーム」です。
The Circle Game
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Joni Mitchell [site:amazon.com] | |||
| この"大意"は、私が詩の意味を解釈したものです。詩は人によっていろんな受け取り方が可能なので、これはあくまで一例です。 |
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| 「サークル・ゲーム」のセルフカバーが収録されているアルバム『Ladies of the Canyon』(1970) | |||
過去には戻れません。「我々は時の回転木馬につかまって」というところが印象的です。「つかまって」したところは詩では captive です。「とらわれて」という意味ですね。
こうしてみると、ジョニ・ミッチェルの「サークル・ゲーム」と中島さんの「時代」は、明らかに主題が違います。「時代」には傷ついた人や倒れた人に対する「励まし」という基本的態度があるのに比較して、「サークル・ゲーム」にあるのは過去の回顧と未来へのちょっぴりした期待であり、さらにはある種のペシミスティックな「諦め」さえ感じます。
しかし「サークル・ゲーム」が実際に歌われるのを聞いて最も印象的なのは、何度も繰り返される 'round / around や circle という言葉です。また wheel や carousel といった「回る」ことに関係した記号です。
「サークル・ゲーム」で特徴的なのは、季節が巡ることや、年が過ぎること、少年時代が終わることを「回る」「一周する」ととらえ、それが繰り返されるのが時の流れだという感覚です。この「時」と「回る」のコンビネーションが、中島さんの「時代」との類似性を感じさせるのです。
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まわるまわるよ 時代は回る
And go round and 'round and 'round in the circle game
いちご白書 : The Strawberry Statement
ジョ二・ミッチェルの名曲「サークル・ゲーム」が世界的に有名になった契機は、映画「いちご白書」の公開(1970)でした。この映画の主題歌として「サークル・ゲーム」が使われたのです。歌ったのはバフィ・セント=マリーという、ジョ二・ミッチェルと同じカナダの歌手です。
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The Strawberry Statement (ポスター。アメリカ) 主演:ブルース・デヴィソン キム・ダービー [site : MoviePosterDB.com] | |||
一言でいうと「青春の高揚と挫折」という感じです。この映画の主題歌が「サークル・ゲーム」で、最後の「警官隊の学生強制排除シーン」でこの歌が流れました。
そしてここからは全くの想像なのですが、ひょっとしたら中島さんは「いちご白書」を見て、そして「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」を書いたのではないでしょうか。映画が日本で公開されたのは1970年の秋です。当時、中島さんは大学の1年生。彼女が札幌でこの映画を見た可能性は十分にあると思うのです。学生たちが警官隊に強制排除される最終シーンで流れる「サークル・ゲーム」という曲、この曲の持つ何となくペシミスティックな雰囲気に対して、中島さんが「ポジティブな」回答をしたのが「時代」なのではないでしょうか。あるいは、挫折で終わる『いちご白書』に対して、次の「時代」への希望を語ったのでは、とも思うのです。全くの想像ですが・・・・・・。
『いちご白書』をもう一度
中島さんが「時代」でグランプリをとった年の1975年、正真正銘「いちご白書」の影響を受けて作られた曲が発表されました。作詞・作曲:荒井由実、歌:バンバンの「いちご白書をもう一度」です。松任谷由実さん自身も、2003年のセルフ・カバー・アルバム(Yuming Composition : FACES)でこの曲をカバーしています。
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| 「いちご白書をもう一度」が収録されているセルフカバー集『Yuming Composition : FACES』(2003) | |||
しかし実は、この曲は「いちご白書」の主題歌である「サークル・ゲーム」に影響を受けているのではないでしょうか。ないしは「サークル・ゲーム」を念頭に詞が書かれたのではないでしょうか。街角のポスターを見て過ぎ去った昔を思い出す、というシチュエーションの設定が、少年時代を回想している「サークル・ゲーム」を連想させます。輪を一周し、もう一度出発点に戻りたい、「どこかでもう一度」と願っている、ないしは、そのことで逆説的に「過去には戻れない」と感じているわけです。
アートとインスピレーション
「サークル・ゲーム」にインスピレーションを得て「時代」と「いちご白書をもう一度」の詞が作られたと書いたのですが、それは全くの想像であって正しいかどうかは分かりません。アーティストは創作の過程を明かさないことが多いし、特に中島さんは自作の「解説」をしたりはしないでしょう。アーティストが解説をしているような場合でも、本当のことを言っているのか疑わしいことがあります。特に、インスピレーションとなると内容は千差万別であって、完全にアーティスト本人の「心の問題」です。
しかし、正しいか正しくないかは本質的な問題ではないと思います。アーティストの仕事は作品を創造して世に出すまでであって、いったん作品が世に出ると、それをどう受け取るかは作品の「受け手」にゆだねられる。作品は「作り手」とは独立した存在になる・・・・・・。中島さんは、何度かそういう意味の発言をしていたと思います。受け手の解釈の自由裁量があるところに、音楽や絵画をはじめとする「アート」全般のおもしろさがあるのだと思います。
補記 :
中島みゆきさんの『時代』は数々の歌手によって歌われてていて、最近では一青窈さんがカバーしていますね。この曲を中島みゆき以外では聞きたくないという「みゆきファン」は多いと思いますが、曲の持つ「普遍的な力」が多くの歌手に「歌いたい」という気持ちを起させるのだと思います。2012年5月2日のNHKの朝の情報番組のインタビューで、一青窈さんは「この曲を東日本大震災の被災地で歌った。会場には老若男女いろいろの人がいたが、涙を流している人が多かった」という主旨の発言をしていました。私は関東在住なので被災者の方々の気持ちの1/100も分かってはいないのですが、涙の理由はなんとなく理解できそうな気がします。「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくる・・・・・・」。この曲が持つ「言葉の力」は非常に強いと思います。
No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史・文化]
前回の、No.33「日本史と奴隷狩り」で、藤本久志 著『新版 雑兵たちの戦場』に添って戦国時代の「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」の実態を紹介したのですが、この本の表紙は「大坂夏の陣図屏風」の左隻(させき)の一部でした。今回はこの屏風についてです。
大坂夏の陣図屏風・左隻
「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)は六曲一双の屏風です。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。
黒田長政は播磨・姫路城で生まれ、秀吉に仕えた戦国武将でした。秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となります。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になりました。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれています。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれています。この左隻の中に『雑兵たちの戦場』の表紙になった「濫妨狼藉の現場」が描かれているのです。その左隻の第1扇から第6扇までを以下に掲げます。
一見してわかるようにものすごい人の数です。六曲一双で5071人と言いますから、左隻は2千人程度でしょうか。数えたわけではないのですが、とにかくおびただしい人の数であることは間違いありません。以下は、その左隻の人物群の中から「濫妨狼藉の現場」を中心に、ごく一部を紹介します。
戦国のゲルニカ ?
以前、NHK総合で「その時、歴史は動いた」という番組がありました。そこで「大坂夏の陣図屏風・左隻」が「戦国のゲルニカ」という番組タイトルのもとに紹介されたことがあります(2008年6月25日)。
NHKといえども、番組視聴率をあげるためには視聴者の「気を引く」タイトルを付けたいわけです。日本の「戦国」と「ゲルニカ」という異色の組み合わせは、確かに「気を引く」タイトルであることは確かです。もちろん「ゲルニカ」とはピカソの有名な絵を指しています。しかしこういったタイトルは、視聴者を誤ったものの見方に導くものでもあると思うのです。
確かに「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風・左隻」には共通点があります。それは「戦争に一般市民が巻き込まれ、多数の死傷者が出た状況を念頭に描かれた絵」という共通点です。しかし、共通点はこの1点でしかありません。あとの点は全然違っている。

ピカソ「ゲルニカ」(1937)[site : ソフィア王妃芸術センター]
「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(1)
まず相違点の第1点は「ゲルニカ」は、当時としては「あまりなかった状況」を描いた絵だということです。1936年からのスペイン内戦(スペイン市民戦争)は、スペイン共和国軍と、共和国を転覆させようとするフランコ反乱軍の戦いです。そのフランコ軍を支援していたのがドイツでした。1937年4月26日、ドイツ空軍は共和国軍の支配地域であるスペイン北部・バスク地方の小都市、ゲルニカ(人口、7000人程度)を無差別爆撃します。無差別爆撃とは、軍事目標であろうとなかろうと、とにかくその地域全体の壊滅をねらった爆撃です。従って、多数の一般市民に死傷者が出ますが、それは「折り込み済み」の作戦なのです。ゲルニカでは事前のドイツ軍の警告もなかったとこともあり、数百人の死者がでました。
ゲルニカという小さな都市にどれほどの軍事的意味があったのか、意見は分かれるところだと思います。こういった「市民戦争」では補給基地も全国的に散らばるので、軍事的意味がない都市はないと思います。ゲルニカも共和国軍の拠点の一つではあったようです。しかしゲルニカの近くには、スペイン北部の工業都市であるビルバオ(当時、共和国側)があります。軍事目標を攻撃するならこちらの方がよほど「価値」が高いものがある。ゲルニカを狙ったのは多数の死者を出し、共和国軍にドイツに支援されたフランコ軍の「脅威」を示すものだったと考えられます。
もちろん軍事目標を狙った爆撃で一般人が「巻き添え」になることは、それ以前にもありました。しかし一般人の殺傷が「折り込み済み」である都市の無差別爆撃という手法は、当時の世界の戦争行為としては決して一般的なものではありませんでした。だからこそ、フランコ軍・ドイツ軍は世界中から非難を受けたわけです。
この「ゲルニカ無差別爆撃」に怒りを感じてピカソが描いたのがゲルニカ(1937)です。この絵は今、マドリードのソフィア王妃芸術センターにあり、スペインの宝となっています。
一方、「大坂夏の陣図屏風・左隻」はどうでしょうか。そこには逃げまどう避難民とともに、雑兵たちの「濫妨狼藉」が描かれています。そして戦争時における農民や町民に対する濫妨狼藉(人と物の略奪、暴力行為)は、前回の No.33「日本史と奴隷狩り」で紹介したように、日本の戦国時代において「しばしば」行われていました。大坂夏の陣の終了後、蜂須賀軍は「奴隷狩り」の戦果を177人と徳川幕府に報告しているぐらいなのです(No.33 参照)。屏風の注文主である黒田長政も秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参加して朝鮮半島各地を転戦しています。No.33 で紹介したように、そこでも数々の濫妨狼藉があったわけです。
もちろん、大坂夏の陣が一般の戦国時代の戦争と違った面もあります。それは大坂城およびその周辺という「市街地 = 人口密集地域」で戦争が行われたということです。従って濫妨狼藉の被害も通常の戦国時代の戦闘よりは大きかった。これは確かだと思います。しかし濫妨狼藉そのものは日本全国で、また朝鮮半島で、戦争時には当然のように行われていたことも事実なのです。それは『雑兵たちの戦場』で詳述されている通りです。
ゲルニカの無差別爆撃は、当時としては「それまでになかった状況」、大坂夏の陣における濫妨狼藉は、当時として「それまでにもよくあった状況」です。ここがまず違います。ゲルニカは最初の無差別爆撃、大坂夏の陣は最後の濫妨狼藉なのです。
「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(2)
「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」のもう一つの相違点は、絵の描き手(注文主)です。いうまでもなく「ゲルニカ」を描いたのはピカソという画家であり、一市民です。ゲルニカ市民およびスペイン共和国軍という、ゲルニカで被害をうけた側の立場に立った画家です。
それに比較して「大坂夏の陣図屏風」を画家に描かせたのは、黒田長政という大坂夏の陣で勝利した側の大名です。勝利者が自分の功績、ないしは徳川方の戦績を記録するために描かせたものが「大坂夏の陣図屏風」なのです。そこが決定的に違います。
現代人の感覚で歴史を見る落とし穴
「大坂夏の陣図屏風」を評して
また、絵を引用した『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』の解説には、
最低限、推定できるのは
黒田長政は豊臣家に恩義がある。これは全くの事実です。そのため家康は、大坂冬の陣では長政の徳川方での参戦を許さなかった。関が原の合戦の東軍勝利の立役者であるにもかかわらず、です。長政は夏の陣でやっと参戦を許され、そして徳川方は勝利し、徳川の世は確固としたものになった。
黒田長政のような立場の人間は、もとから徳川方だった大名以上に、徳川家に対する恭順の「しるし」を表そうとするはずです。たとえ内心では豊臣家に恩義を感じていたとしても(それはありうる)、ゆめゆめそうは見られないように細心の注意を払って行動したでしょう。「豊臣家への挽歌を描いた絵」を注文するはずがないと思うのです。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻は戦闘場面であり、当然黒田長政が描かれているし、家康も秀忠もいます。右隻は戦勝記念画なのです。そして左隻は、戦勝の結果としての「戦果」を描いています。ここには、大坂城から淀川にいたる戦場が実況中継のように描かれています。この左隻は徳川方にとってポジティブな情景(戦果としての濫妨)か、ないしはニュートラルなものだと思います。少なくとも徳川方にとってネガティブなものではない。
大坂夏の陣図屏風の中心テーマは、
右隻が「武士たちの戦場」
左隻が「雑兵たちの戦場」
だと思います。藤本久志さんの著書『雑兵たちの戦場』の表紙には、本の題名そのものズバリの絵、つまり「大坂夏の陣図屏風・左隻=雑兵たちの戦場」が用いられているのです。
「大坂夏の陣図屏風・左隻」を見て「ゲルニカ」のように考えてしまうのは、現代人の感覚で歴史を見る落とし穴にはまっているのだと思います。
怖い絵
要するに「大坂夏の陣図屏風・左隻」は、中野京子さん流に言うと「怖い絵」なのです。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野さんは「ラス・メニーナス」に描かれている小人症の「慰み者」に着目し、
と書いています。この表現をそのまま借用すると、
と言えるでしょう。絵は「見方」によってその意味がガラッと変わることがあります。『大坂夏の陣図屏風・左隻』は、「ゲルニカ」ではなくて「怖い絵」だと思います。
- なお、以下の図は『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』(中央公論社 1988)から引用しました。また絵の解説も、この本を参考にしています。
大坂夏の陣図屏風・左隻
「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)は六曲一双の屏風です。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。
黒田長政は播磨・姫路城で生まれ、秀吉に仕えた戦国武将でした。秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となります。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になりました。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれています。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれています。この左隻の中に『雑兵たちの戦場』の表紙になった「濫妨狼藉の現場」が描かれているのです。その左隻の第1扇から第6扇までを以下に掲げます。
![]() |
| 大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第1扇(右)から第3扇まで |
![]() |
| 大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第4扇(右)から第6扇まで |
一見してわかるようにものすごい人の数です。六曲一双で5071人と言いますから、左隻は2千人程度でしょうか。数えたわけではないのですが、とにかくおびただしい人の数であることは間違いありません。以下は、その左隻の人物群の中から「濫妨狼藉の現場」を中心に、ごく一部を紹介します。
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| 部分図1 : 第1扇 中央より少し上 | ||
| 画面の中央、金雲の間の黒っぽい部分は大坂城周辺の川です。避難民は川を渡って逃げますが、画面中央では兵士が避難民の男から荷物を奪おうとしています。男は奪われまいと、男の妻(でしょうか)に荷物を渡そうとしています。 | ||
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| 部分図2 : 部分図1の下方を拡大 | ||
| 部分図1の下部の中央を拡大したものです。裸足で逃げる婦女から、兵士が赤い包みを奪おうとしています。 | ||
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| 部分図3 : 第3扇 中央の左方 | ||
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『雑兵たちの戦場』の表紙になった部分です。画面の右上では東軍の兵士が、左手を切り落とされた落武者の首を打とうとしています。落武者の首は「追い首」といってあまり功名にはなりませんが、東軍の功名の中には「追い首」が多く、それどころか町人・農民などの首(にせ首)も少なくなかったと言います。 画面左下では、泣きじゃくる若い娘を東軍の兵士が連れていこうとしています。その右は母親でしょうか、観念した様子で、娘を慰めています。 | ||
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| 部分図4 : 第3扇 部分図3の少し下 | ||
| 画面左下方では、荷物を持ち、乳飲み子を抱え、子供を背負った避難民が左方向へ逃げ、そこに兵士が追いすがります。右上では兵士が男を捕まえています。荷物を奪おうとしてるのか、あるいは「にせ首」を狙ったのか。画面右下の鳥居は天満天神を表しています。 | ||
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| 部分図5 : 第5扇 中央より少し下、右方 | ||
| 兵士たちが若い娘を取り囲んでいます。乱暴しようとしているのか、あるいは「人取り」か。その両方かもしれません。 | ||
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| 部分図6 : 第6扇 中央より少し上 | ||
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神崎川を渡って北に逃げた避難民を待ち受けるのは、野盗の一団です。太刀や長刀を振りかざして、身ぐるみを剥がし(画面右端)、あるいは荷物を奪い、人を捕らえています。画面中央の上にふんぞり返っている男が、野盗のリーダでしょうか。その前には「戦利品」が積まれています。 「江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。」(『新版 雑兵たちの戦場』。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。大坂の陣は野盗・盗賊の「出稼ぎ」の場でもあったようです。 | ||
戦国のゲルニカ ?
以前、NHK総合で「その時、歴史は動いた」という番組がありました。そこで「大坂夏の陣図屏風・左隻」が「戦国のゲルニカ」という番組タイトルのもとに紹介されたことがあります(2008年6月25日)。
NHKといえども、番組視聴率をあげるためには視聴者の「気を引く」タイトルを付けたいわけです。日本の「戦国」と「ゲルニカ」という異色の組み合わせは、確かに「気を引く」タイトルであることは確かです。もちろん「ゲルニカ」とはピカソの有名な絵を指しています。しかしこういったタイトルは、視聴者を誤ったものの見方に導くものでもあると思うのです。
確かに「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風・左隻」には共通点があります。それは「戦争に一般市民が巻き込まれ、多数の死傷者が出た状況を念頭に描かれた絵」という共通点です。しかし、共通点はこの1点でしかありません。あとの点は全然違っている。

「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(1)
まず相違点の第1点は「ゲルニカ」は、当時としては「あまりなかった状況」を描いた絵だということです。1936年からのスペイン内戦(スペイン市民戦争)は、スペイン共和国軍と、共和国を転覆させようとするフランコ反乱軍の戦いです。そのフランコ軍を支援していたのがドイツでした。1937年4月26日、ドイツ空軍は共和国軍の支配地域であるスペイン北部・バスク地方の小都市、ゲルニカ(人口、7000人程度)を無差別爆撃します。無差別爆撃とは、軍事目標であろうとなかろうと、とにかくその地域全体の壊滅をねらった爆撃です。従って、多数の一般市民に死傷者が出ますが、それは「折り込み済み」の作戦なのです。ゲルニカでは事前のドイツ軍の警告もなかったとこともあり、数百人の死者がでました。
ゲルニカという小さな都市にどれほどの軍事的意味があったのか、意見は分かれるところだと思います。こういった「市民戦争」では補給基地も全国的に散らばるので、軍事的意味がない都市はないと思います。ゲルニカも共和国軍の拠点の一つではあったようです。しかしゲルニカの近くには、スペイン北部の工業都市であるビルバオ(当時、共和国側)があります。軍事目標を攻撃するならこちらの方がよほど「価値」が高いものがある。ゲルニカを狙ったのは多数の死者を出し、共和国軍にドイツに支援されたフランコ軍の「脅威」を示すものだったと考えられます。
もちろん軍事目標を狙った爆撃で一般人が「巻き添え」になることは、それ以前にもありました。しかし一般人の殺傷が「折り込み済み」である都市の無差別爆撃という手法は、当時の世界の戦争行為としては決して一般的なものではありませんでした。だからこそ、フランコ軍・ドイツ軍は世界中から非難を受けたわけです。
この「ゲルニカ無差別爆撃」に怒りを感じてピカソが描いたのがゲルニカ(1937)です。この絵は今、マドリードのソフィア王妃芸術センターにあり、スペインの宝となっています。
一方、「大坂夏の陣図屏風・左隻」はどうでしょうか。そこには逃げまどう避難民とともに、雑兵たちの「濫妨狼藉」が描かれています。そして戦争時における農民や町民に対する濫妨狼藉(人と物の略奪、暴力行為)は、前回の No.33「日本史と奴隷狩り」で紹介したように、日本の戦国時代において「しばしば」行われていました。大坂夏の陣の終了後、蜂須賀軍は「奴隷狩り」の戦果を177人と徳川幕府に報告しているぐらいなのです(No.33 参照)。屏風の注文主である黒田長政も秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参加して朝鮮半島各地を転戦しています。No.33 で紹介したように、そこでも数々の濫妨狼藉があったわけです。
もちろん、大坂夏の陣が一般の戦国時代の戦争と違った面もあります。それは大坂城およびその周辺という「市街地 = 人口密集地域」で戦争が行われたということです。従って濫妨狼藉の被害も通常の戦国時代の戦闘よりは大きかった。これは確かだと思います。しかし濫妨狼藉そのものは日本全国で、また朝鮮半島で、戦争時には当然のように行われていたことも事実なのです。それは『雑兵たちの戦場』で詳述されている通りです。
ゲルニカの無差別爆撃は、当時としては「それまでになかった状況」、大坂夏の陣における濫妨狼藉は、当時として「それまでにもよくあった状況」です。ここがまず違います。ゲルニカは最初の無差別爆撃、大坂夏の陣は最後の濫妨狼藉なのです。
- しかし残念なことにゲルニカが先例となった「都市の無差別爆撃(絨毯爆撃)」はその後何回か繰り返され、まれな状況ではなくなってしまいました。
・重慶(1938-43。日本軍)
・ドレスデン(1945.2.13。英米連合軍)
・東京(1945.3.10。アメリカ軍。東京大空襲)
などです。また広島・長崎も「都市の無差別爆撃」だと言えるでしょう。たった一つの爆弾による無差別爆撃です。
重慶は当時の中国国民党政府が移転してきた都市であり、もちろん軍事的意味はあります。しかし重慶爆撃は第二次大戦の戦勝国からは強く非難され、また重慶市民には今でも反日感情が根強いようです。ドレスデンには「軍事基地や軍需工場、関連施設」があったわけではありません。ドレスデンは芸術と文化と歴史の町です。この無差別爆撃は、ドイツ文化を破壊しドイツ国内の厭戦気分を盛り上げようとするかのようです。1945.3.10 の東京大空襲も、日本の軍需産業を支える東京下町の町工場群を破壊した、という言い訳はできるでしょうが、苦しい説明です。10万人が死んだと言われる大空襲の目的は「10万人が死ぬこと」だった(日本の降伏を早めるため)と考えられます。
「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点(2)
「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」のもう一つの相違点は、絵の描き手(注文主)です。いうまでもなく「ゲルニカ」を描いたのはピカソという画家であり、一市民です。ゲルニカ市民およびスペイン共和国軍という、ゲルニカで被害をうけた側の立場に立った画家です。
それに比較して「大坂夏の陣図屏風」を画家に描かせたのは、黒田長政という大坂夏の陣で勝利した側の大名です。勝利者が自分の功績、ないしは徳川方の戦績を記録するために描かせたものが「大坂夏の陣図屏風」なのです。そこが決定的に違います。
現代人の感覚で歴史を見る落とし穴
「大坂夏の陣図屏風」を評して
- 戦争に巻き込まれた非戦闘員の悲惨な姿を描き、戦争を告発した
また、絵を引用した『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』の解説には、
- 豊臣恩顧の大名でありながら、心ならずも徳川氏に従って、豊臣氏の滅亡に力をかさなければならなかった黒田長政が、滅びゆく旧主のために捧げた挽歌ともいうべきものではなかっただろうか
最低限、推定できるのは
- この屏風を見たはずの黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちは、戦争の悲惨さを描いた(ないしは告発した)ものだとか、豊臣家への挽歌だとは思わなかった
- もし、この屏風を見た黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちが、戦争の悲惨さを描いたものだとか豊臣家への挽歌だとは思ったのであれば、黒田長政は事前にそれが予測できたはず
- 戦争の悲惨さや豊臣家への挽歌を描いた絵だと周囲が受け取るような絵を、黒田長政が注文するはずがない
黒田長政は豊臣家に恩義がある。これは全くの事実です。そのため家康は、大坂冬の陣では長政の徳川方での参戦を許さなかった。関が原の合戦の東軍勝利の立役者であるにもかかわらず、です。長政は夏の陣でやっと参戦を許され、そして徳川方は勝利し、徳川の世は確固としたものになった。
黒田長政のような立場の人間は、もとから徳川方だった大名以上に、徳川家に対する恭順の「しるし」を表そうとするはずです。たとえ内心では豊臣家に恩義を感じていたとしても(それはありうる)、ゆめゆめそうは見られないように細心の注意を払って行動したでしょう。「豊臣家への挽歌を描いた絵」を注文するはずがないと思うのです。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻は戦闘場面であり、当然黒田長政が描かれているし、家康も秀忠もいます。右隻は戦勝記念画なのです。そして左隻は、戦勝の結果としての「戦果」を描いています。ここには、大坂城から淀川にいたる戦場が実況中継のように描かれています。この左隻は徳川方にとってポジティブな情景(戦果としての濫妨)か、ないしはニュートラルなものだと思います。少なくとも徳川方にとってネガティブなものではない。
大坂夏の陣図屏風の中心テーマは、
右隻が「武士たちの戦場」
左隻が「雑兵たちの戦場」
だと思います。藤本久志さんの著書『雑兵たちの戦場』の表紙には、本の題名そのものズバリの絵、つまり「大坂夏の陣図屏風・左隻=雑兵たちの戦場」が用いられているのです。
「大坂夏の陣図屏風・左隻」を見て「ゲルニカ」のように考えてしまうのは、現代人の感覚で歴史を見る落とし穴にはまっているのだと思います。
怖い絵
要するに「大坂夏の陣図屏風・左隻」は、中野京子さん流に言うと「怖い絵」なのです。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野さんは「ラス・メニーナス」に描かれている小人症の「慰み者」に着目し、
『ラス・メニーナス』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たず愛玩物とした「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。 |
『大坂夏の陣図屏風・左隻』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たずに濫妨狼藉した「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。 |
No.33 - 日本史と奴隷狩り [本]
No.22, No.23 の「クラバートと奴隷」では、スレイヴ(奴隷)の語源がスラヴ(=民族名)である理由からはじまって、中世ヨーロッパにおける奴隷貿易の話を書きました。そこで、中世の日本における奴隷狩りや奴隷交易のこともまとめておきたいと思います。
山椒大夫
日本における「奴隷」と聞いてまず思い出すのは、森鷗外の小説「山椒大夫」です。この小説は「人買い」や「奴婢(奴隷)」が背景となっています。以下のような話です。
この小説の主題は、物語の山場での「安寿の自己犠牲」だと思いますが、背景となっているのは「人商人」「人身売買」「奴隷(奴婢)」の存在です。上の引用でも明らかなように、宮崎の三郎のような「人商人(=人身売買を行う商人)」が存在し、それが定常化していて、奴隷を買う者も定常的に存在したというのが、この小説が成り立つための重要な背景となっているのです。
もちろん小説はフィクションなので、この通りのことがあったわけではありません。しかし鷗外は日本における「山椒大夫伝説」をもとに、歴史小説としてこの物語を書きました。特に、仏教の教化と普及のために説教僧が町々・村々を廻って語り伝えた「説教節」の定番である「さんせう大夫」がもとになっています。「さんせう大夫」の結末は小説と違って、山椒大夫が厨子王の報復によって実の息子にのこぎりで首を切られて死に、その息子も民衆に処刑されるという「勧善懲悪」のストーリーのようです。つまり、勧善懲悪のための説教節ということは、物語の成立の背景である中世の日本において「人商人」や「人身売買」「奴隷(奴婢)」が、説教節を聞く村人や町人にとって、少なくとも不自然でない程度に事実としてあったと推測できます。
人商人
説教節だけでなく、平安時代から室町時代にかけての謡曲・お伽草紙・古浄瑠璃には「人商人」による拉致・誘拐や人身売買をテーマにしたものが多数あります。この時代、実態として「人商人」や人の売買が存在したようです。
日本の歴史を振り返ってみると、大化の改新以降の律令制においては「奴婢」と呼ばれた奴隷が存在し、その売買も認められていました。また明治・大正時代まで続いた遊女や娼婦の場合のように「人身売買スレスレの雇用契約」もあったわけです。
しかし一般的に人身売買は国禁であり、平安から鎌倉時代にはそれを禁じる法令が何度も出されました。もちろん飢饉のときに親が子供を売るようなことはあったわけで、黙認されたケースもあったようです。しかし原則的には人身売買は違法です。ましてや人を拉致・誘拐して売るのは犯罪です。このような誘拐のことを「かどわかす(拐かす)」と言いました。古くは「かどわかす」に「略」の字をあて、人を誘拐して売ることを「略売」などとも言いました。「山椒大夫」に描かれているのは、まさにそういった状況です。しかし実態としてあったにしろ、それはれっきとした犯罪なので「人商人」の活動は記録には残りにくいわけです。
一方「有事」の時、つまり戦争の時には、人を奴隷として略奪・拉致し売買することは容認されていたし、戦争の手段として行われていました。それを記録した公的文書、武士の日記、私的な記録文書もたくさん残されています。世界の歴史だけでなく日本の歴史においても「戦争は奴隷の最大の発生源」だったのです。
以降は、日本の戦国時代における「奴隷狩り」「奴隷売買」の話です。
雑兵たちの戦場
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書。2005)があります。以降は、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を紹介します。
まず本のタイトルになっている「雑兵」ですが、雑兵とは「身分の低い兵卒」を言います。一般に戦国大名の軍は次の4つの階層から成っていました。
戦場における「濫妨狼藉」と「苅田」
我々が暗黙に思い浮かべる戦国時代の「戦場」というと、NHKの大河ドラマに出てくるものが代表的です。そこでは大名を総大将とし、家臣団が戦争を指揮し、武士が戦うという姿です。もちろん雑兵は武士の手足となって矢を放ったり、鉄砲を撃ったり、突撃したり、物資の輸送にあたります。このような戦場のイメージは、①武士の視点からみた戦場です。
しかし②③④の雑兵の視点からみた戦場は違った様相になります。その代表が、戦争の一部として行われた「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」と「苅田(かりた)」です。
戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道でした。濫妨とは略奪を意味します。何を略奪するかというと、人と物です。物は農民の家財、貯蔵してある穀物、牛馬などです。濫妨はまた「乱取り」とか「乱妨取り」、「乱妨」とも呼ばれていました。狼藉とは暴力行為です。従って「濫妨狼藉」は現代用語の「乱暴狼藉」とは少し意味が違うので注意が必要です。
田畑の破壊・作物の略奪を苅田と言いました。小早川隆景の戦術書『永禄伝記』は、大名・毛利元就の戦法を伝えたものと言われています。その「攻城」の項に「苅田戦法」が記述されています。苅田戦法の結果はどうなるのか。「新版 雑兵たちの戦場」で藤本さんは次のように記述しています。
苅田の目的は「麦や稲を奪い取る」「敵国を兵糧攻めにする」「敵国の村々を脅かして味方につける」などでした。被害にあう農民は悲惨な状況になるわけですが、これが戦争の実態だったようです。
奴隷狩り
日本史と奴隷狩りというテーマなので、以降は濫妨(=略奪)の中の「人の略奪・奴隷狩り」に焦点を絞りたいと思います。
「人の略奪」は、戦国時代の各種記録で「人を捕る」「生捕る」「人取り」などと記述されています。生け捕られた人は、もちろん成人男子もいますが、女や子供がかなりの割合を占めていました。
略奪した人をどうするのか。一つは、町人や富農の下人として強制労働に従事させます。それはもちろん略奪した雑兵の下人という場合もあったでしょうが、「山椒大夫」のようにニーズのあるところに売るわけです。売買には商人(人商人)も介在しました。また後で紹介しますが、外国へも転売されたのです。
一部の生け捕られた人は、親族などが身代金を支払って身柄が返却されました。これはもちろん身代金を支払えるほど裕福な階層ということが前提です。身代金の授受にも「人商人」や海賊が介在して手数料を稼いだようです。
戦国の奴隷狩り・九州
戦国の各地の奴隷狩りの実態です。ます九州の島津藩ですが、著者の藤本さんは島津藩の家臣が書いた『北郷忠相日記』『蒲生山本氏日記』『北郷時久日記』などにみられる戦闘の記録を分析して、次のように書いています。
同じ九州ですが、肥後の小大名であった相良氏の年代記『八代日記』に記録された戦争の様子も分析されています。
戦場における人取りが日常的に行われていたことがうかがえます。
戦国の奴隷狩り・武田藩
甲斐・武田藩の軍書である『甲陽軍鑑』にも、雑兵たちの乱取りの記述が数々出てきます。『甲陽軍鑑』には武田信玄が上杉謙信と戦った北信濃の戦場が記述されていますが、その内容の解説です。
『甲陽軍鑑』には雑兵たちの乱取りを非難する記述があります。しかし、乱取りそのものを否定しているわけではありません。戦いの勝ち負けそっちのけで乱取りに熱中するのは困る、と言っているのです。戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが当時の通念だったようです。雑兵たちに恩賞があるわけではありません。彼らを軍隊で活用するには、戦いの無い日には「乱取り休暇」を設け、敵城が落城したあとは褒美の略奪を解禁した・・・・・・藤本さんはこう解説しています。
戦国の奴隷狩り・上杉藩
では、一方の上杉謙信はどうだったのか。謙信は武田信玄との戦いだけでなく、関東から北陸一円を戦場としました。永禄9年(1566)2月、上杉軍が関東に遠征し、常陸の国の小田城を攻め落としたときの様子が文書に記録されています。
上杉軍の人取りは、小田城だけでなく、常陸の筑波の城や上野の藤岡城でもあったとの記録があります。小田城の例のような「城下での人の売買」は「人商人」の介在を強く示唆しています。
以上、島津、肥後、武田、上杉の事例をあげまたが、このほか『新版 雑兵たちの戦場』には、紀伊や奥羽の事例が掲げられています。戦争における奴隷狩りは全国的な現象だったようです。
食うための戦争
戦国時代の戦争における濫妨(略奪)の大きな要因は、戦争が「食うため」「略奪が目当て」という側面を強く持っていたからです。上杉謙信の出兵の記録が分析されています。謙信は関東、北信濃、北陸へ20回以上にわたって出兵していますが、その出兵時期を調査すると2つのパターンが浮かび上がります。晩秋に出兵して年内に帰る「短期年内型」と、晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰る「長期越冬型」です。
上杉謙信の出兵には明らかな「季節性」があるのです。北陸はともかく、北信濃や関東への出兵は武田氏や北条氏といった強豪が相手です。いくら謙信と言えども「自分の都合のよい時だけに出兵する」ことなど、本来は無理なはずです。にもかかわらず上杉軍に見られる「戦争の季節性」は端境期(はざかいき)の「飢え」と深い関係がある、と(新潟出身の)藤木さんは分析しています。二毛作の出来ない越後では、春から畠の作物がとれる夏までが食料の端境期であり、深刻な食料不足に直面しました。これを乗り切るための「冬場の口減らし」は切実な問題であり、そのための出稼ぎが関東への出兵だった・・・・・・、というわけです。雪のない関東に出兵すれば、補給がなくても濫妨で食いつなげる。出兵した軍隊の分の食料は「助かる」わけです。一種の「公共事業」ですね。もっとも、軍が敗北して壊滅状態になったのでは元も子もありません。しかし謙信は強かった。謙信が越後の人々から英雄視されたのは当然だと考えられます。
冬場に雪に閉じこめられる越後だけでなく、作物の凶作による飢饉や、戦争の苅田による農地の荒廃により「食うこと」は戦国時代には極めて切実な問題でした。戦争には「食うための戦争」という側面が強くあるのです。
秀吉の天下統一と人身売買の禁止(天正18年 1590)
秀吉の天下統一は、今まで述べた濫妨狼藉と人の売買に終止符を打ち、戦争の惨禍を絶つという大きな意味がありました。秀吉は平定した土地に「人身売買の禁止令」を次々と出していきます。天正18年(1590)に奥羽に出された秀吉令は、
という内容です。戦場と人の売買は同時に封じ込めないと平和にはならなかったのです。
天正18年(1590)の北条氏滅亡と奥羽地方平定を最後に、日本から戦場はなくなりました。しかし「秀吉の平和」が日本全国を覆ったまさにその瞬間、朝鮮出兵の大号令が出されたのです。
朝鮮での奴隷狩り(文禄元年-慶長3年 1592-1598)
朝鮮出兵(文禄・慶長の役。1592-1598)の大本営は、肥前・名護屋城(佐賀県唐津市)にありました。常陸・佐竹軍に従軍した武士が、名護屋城に到着して見たものを国元に書き送った書簡が残されています。それによると
とのことなのです。藤木さんは
と解説しています。
朝鮮の戦場における濫妨狼藉は相当のもので、たとえば島津軍の兵は船を使って川伝いに奥地まで入り込み、苅田や乱妨を働いていた、と本にあります。石田三成は島津義弘に島津軍の逸脱ぶりを警告したほどです。しかし、ほかならぬ秀吉自身が「捕まえた朝鮮人の中から腕利きの技術者や女性たちを選び出して献上せよ」という命令を出していました。秀吉も日本軍の大がかりな奴隷狩りを見越して、その一部の召し上げようとしていたわけです。
徳川幕府の重要な外交課題は朝鮮との復交であり、数万にのぼった被虜人の返還問題でした。しかし正規の外交ルートで故郷に返されたのは、朝鮮側の正史(李朝実録)や各種記録を合わせても7500人程度だったようです。
朝鮮出兵をもう一度振り返ると、秀吉は日本から戦場を駆逐したとたんに、朝鮮侵略をはじめているわけです。このことの重要な意味について藤木さんは次のように書いています。
大坂の陣(慶長19年-20年 1614-1615)
秀吉が死に、関ヶ原の合戦があり、時代は江戸時代になりました。しかし徳川幕府が天下を支配するようになって以降も戦争がありました。もちろんそれは、大坂冬の陣と夏の陣です。
『新版 雑兵たちの戦場』のカバー絵になっている「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)には、町なかで兵士が人や物の略奪を働く場面が克明に描かれています。兵士たちの具足には「葵の紋」もあります。徳川軍そのものが奴隷狩りをしていたわけです。
興味深い文書があります。幕府は戦争が終わった後の「落人改令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出します。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出しました。この文書によると、略奪された人の数は、

です(奉公人は「武家の奉公人」の意味)。これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めています。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いでした。蜂須賀軍の戦場での人取りだけでこの数字です。全幕府軍の戦場・戦場外での人取りの総計は、相当の数にのぼったと推定されます。
大坂の陣が終わった直後にも、徳川幕府は「人身売買の停止令」を出しました。人の略奪や人の売買が日常の街角に持ち込まれていたからです。それを抑え込んでこそ平和が実現できたのです。
秀吉の奴隷問答(天正15年 1587)と奴隷貿易
時代を少しさかのぼります。戦国時代の日本国内と朝鮮における奴隷狩り・奴隷売買は、その帰結として「奴隷貿易=海外への奴隷の輸出」を引き起こしました。16世紀の日本には、いわゆる南蛮人が多数来日し、船舶の往来も激しかったからです。
秀吉は天正15年(1587)年の4月にに南九州の島津氏を降し、全九州を平定します。そして6月に博多に軍を返すと、日本イエズス会・準管区長、ガスパール・コエリョに対し「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷としてつれていくのは何故であるか」と詰問します。コエリョはその事実を認めつつも「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がこれを売るからだ」とつっぱねました(1587年のイエズス会・日本年報による)。
ポルトガルの日本貿易において、奴隷は東南アジア向けの重要商品だったのです。
ポルトガル国王は「日本人奴隷の輸出が布教の妨げになる」というイエズス会からの訴えに基づいて、1570年3月12日(元亀元年)に日本人奴隷取引の禁止令を出します。また、それ以降もたびたび禁止令が出されます。イエズス会も1596年に、日本人奴隷を輸出したものは破門にすると議決しました。
これらのことは裏を返すと、各種の禁令にもかかわらず奴隷貿易が続いていたことを示しています。そもそもイエズス会自身が、もともと日本から少年少女の奴隷を連れ出すポルトガル商人に公然と輸出許可の署名を与えていたのでした。
秀吉はコエリョと激論した直後の天正15年(1587)6月18日、有名な「バテレン追放令」を出します。この内容は
が骨子ですが、その第10条は
です。「バテレン追放」の理由は「キリスト教への強制改宗」「神社仏閣の打ち壊し」とともに「日本人奴隷の海外輸出」というわけです。
東南アジアの日本人奴隷と傭兵
奴隷だけでなく、16世紀から17世紀初頭にかけて大量の日本人が東南アジアに渡りました。この時期、東南アジアではスペイン・ポルトガルと、オランダ・イギリスが激突していたわけで、日本は傭兵や武器の供給基地となっていたのです。
東南アジアに渡った日本人は「おそらく10万人以上にのぼり、住み着いた人々もその1割ほどはいた」と推定されています。その日本人を「分類」すると、一つは自ら海を渡った人たちで、海賊、船乗り、商人、失業者、追放キリシタンなどです。二つめは西欧人に雇われて渡海した人で、伝道者、官史、商館員、船員、傭兵、労働者です。三つめが奴隷や捕虜です。
日本人傭兵は東南アジアでの戦争や抗争に大きな影響をもちました。有名なのは山田長政ですが、彼は日本では徳川方の小大名・大久保氏に仕えた駕籠をかつぐ下僕だったようです。それがシャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、最後は毒殺されました。
本の中で、スペイン領であったフィリピンの様子が紹介されています。
スペイン・ポルトガルが日本人傭兵を駆使していたことは、
との記述でも分かります。
元和6年(1620)の末、オランダとイギリスは連合して新たに「蘭英防禦艦隊」を結成し、平戸を母港とします。翌年(1621)の7月、両国の軍隊は、台湾の近海で捕らえた日本行きのポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突き出します。そして幕府に「マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルドガルの拠点)を滅ぼすために、二千~三千人の日本兵を派遣してほしい」との要請を出すのです。
秀忠令(元和7年 1621)
幕府は英蘭の日本兵派遣要請を拒否します。そして拒否しただけでなく、幕令(秀忠令)を出します。その骨子は
です。
①は、傭兵に陽には触れていません。しかしオランダ側が作った秀忠令のオランダ語訳には「雇用であれ人身売買であれ」と詳しく記載されています。幕府の意図は人身売買と傭兵による日本人の海外流出の阻止であり、オランダ側もそう受け取ったわけです。
当時の東南アジア情勢を考えると、日本は極めて危険な状況にありました。日本は戦争物資と傭兵の補給基地になっていたからです。特定の外国の依頼で「公式に」出兵したりするものなら、その敵対国からの日本侵略の口実を作ることにもなります。幕府の出兵拒否と秀忠令は、日本が新たな戦乱に巻き込まれるリスクを無くすための当然の処置でしょう。
オランダはこの秀忠令に困惑し、回避しようと努力したようです。しかし、平戸がある松浦藩は外国船の臨検をはじめ、武器を押収しました。秀忠令は実行され、日本人奴隷の海外流出はようやく止まりました。戦国期から続いた「公然の」人身売買も最終的に終りを迎えたのです。
幕府が鎖国に踏み切り、それを完成させるのは、秀忠令から18年後(寛永16年 1639)です。
「奴隷狩り」から見る日本史
これ以降は『新版 雑兵たちの戦場』を読んだ感想です。戦国時代の「奴隷狩り」の実態をみると、その後の、
という歴史経緯の重要性が理解できたような気がしました。
大名同士が戦争で争い「濫妨狼藉」や「苅田」を繰り返していたのでは、農地は荒廃し、農村からは人が奴隷となって流出します。その流出は、奴隷船によって海外にまで及びます。奴隷にならないまでも農地が荒れると食べていけなくなり、農民は浮浪民化し、都市に流入して社会不安を引き起こすでしょう。「人商人」が暗躍し、犯罪が多発し、それがまた社会不安を助長する。
この状況は悪循環となり、各藩の経済力にダメージを与えるでしょう。そうなれば藩の財政も苦しくなるし、日本全体の国力も低下します。天下統一の大きな意味は「戦場を日本から無くし、濫妨狼藉の負のスパイラルを断ち切り、人民の生活を安定させ、国力を回復する」ということではないでしょうか。おりしも東南アジアでは欧米の列強が争っていて、その火の粉は日本にも降りかかりつつあります。統一と安定は必須の事項でした。
その後の徳川幕府は、藩の集合体という「日本のかたち」を前提として、戦国状態に再び戻るのを避けるための徹底的な施策をとったのだと思います。その例ですが、秀吉の刀狩り・鉄砲狩りからはじまり、江戸時代は「武装解除社会」ないしは「軽武装社会」になります。
武士の命は刀と言いますが、刀は戦争の雌雄を決するものではありません。刀は戦闘の最後の接近戦や白兵戦のためのものです。戦争で重要な武器は長槍であり、弓矢などの「飛び道具」であり、戦国時代以降はもちろん鉄砲です(その後、大砲になる)。優秀な戦国武将は鉄砲を徹底的に利用しました。
この状況は、戦場の再来をなくしたいという、戦国期の反動ではないでしょうか。江戸時代の意味は、戦国期の「雑兵の視点からみた戦場」の実態を知ることによって理解が進むと、この本を読んで思いました。
山椒大夫
日本における「奴隷」と聞いてまず思い出すのは、森鷗外の小説「山椒大夫」です。この小説は「人買い」や「奴婢(奴隷)」が背景となっています。以下のような話です。
- 陸奥の国に住んでいた母と2人の子(姉が安寿、弟が厨子王)が、筑紫の国に左遷された父を訪ねていきます。途中の越後・直江の浦(現在の直江津)で人買いにつかまり、母は佐渡の農家に売られ、2人の子は丹後・由良の山椒大夫に売られます。2人の子は奴婢として使役されますが、姉は意を決して弟を脱出させ、自らは入水自殺します。弟は国分寺の住職に救われ、都に上って関白師実の子となります。そして丹後の国守に任ぜられたのを機に、人の売買を禁止します。そして最後の場面で佐渡に旅し、鳥追いになっていた盲目の母と再会します。
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もちろん小説はフィクションなので、この通りのことがあったわけではありません。しかし鷗外は日本における「山椒大夫伝説」をもとに、歴史小説としてこの物語を書きました。特に、仏教の教化と普及のために説教僧が町々・村々を廻って語り伝えた「説教節」の定番である「さんせう大夫」がもとになっています。「さんせう大夫」の結末は小説と違って、山椒大夫が厨子王の報復によって実の息子にのこぎりで首を切られて死に、その息子も民衆に処刑されるという「勧善懲悪」のストーリーのようです。つまり、勧善懲悪のための説教節ということは、物語の成立の背景である中世の日本において「人商人」や「人身売買」「奴隷(奴婢)」が、説教節を聞く村人や町人にとって、少なくとも不自然でない程度に事実としてあったと推測できます。
人商人
説教節だけでなく、平安時代から室町時代にかけての謡曲・お伽草紙・古浄瑠璃には「人商人」による拉致・誘拐や人身売買をテーマにしたものが多数あります。この時代、実態として「人商人」や人の売買が存在したようです。
日本の歴史を振り返ってみると、大化の改新以降の律令制においては「奴婢」と呼ばれた奴隷が存在し、その売買も認められていました。また明治・大正時代まで続いた遊女や娼婦の場合のように「人身売買スレスレの雇用契約」もあったわけです。
しかし一般的に人身売買は国禁であり、平安から鎌倉時代にはそれを禁じる法令が何度も出されました。もちろん飢饉のときに親が子供を売るようなことはあったわけで、黙認されたケースもあったようです。しかし原則的には人身売買は違法です。ましてや人を拉致・誘拐して売るのは犯罪です。このような誘拐のことを「かどわかす(拐かす)」と言いました。古くは「かどわかす」に「略」の字をあて、人を誘拐して売ることを「略売」などとも言いました。「山椒大夫」に描かれているのは、まさにそういった状況です。しかし実態としてあったにしろ、それはれっきとした犯罪なので「人商人」の活動は記録には残りにくいわけです。
一方「有事」の時、つまり戦争の時には、人を奴隷として略奪・拉致し売買することは容認されていたし、戦争の手段として行われていました。それを記録した公的文書、武士の日記、私的な記録文書もたくさん残されています。世界の歴史だけでなく日本の歴史においても「戦争は奴隷の最大の発生源」だったのです。
以降は、日本の戦国時代における「奴隷狩り」「奴隷売買」の話です。
雑兵たちの戦場
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書。2005)があります。以降は、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を紹介します。
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「新版 雑兵たちの戦場」 奴隷狩りの様子が描かれている | |||
- ①武士
- 100人の軍があったとして、武士は10人たらずが普通だった。
- ②侍
- 悴者、若党、足軽などと呼ばれる。武士に奉公し、主人とともに戦う。侍は武士のことではない。
- ③下人
- 侍の下。中間、小者、あらしこ、などと呼ばれる。戦場では主人を助けて馬を引き、槍を持つ。
- ④百姓
- 夫、夫丸などと呼ばれる、村から駆り出されて物を運ぶ人夫。
戦場における「濫妨狼藉」と「苅田」
我々が暗黙に思い浮かべる戦国時代の「戦場」というと、NHKの大河ドラマに出てくるものが代表的です。そこでは大名を総大将とし、家臣団が戦争を指揮し、武士が戦うという姿です。もちろん雑兵は武士の手足となって矢を放ったり、鉄砲を撃ったり、突撃したり、物資の輸送にあたります。このような戦場のイメージは、①武士の視点からみた戦場です。
しかし②③④の雑兵の視点からみた戦場は違った様相になります。その代表が、戦争の一部として行われた「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」と「苅田(かりた)」です。
戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道でした。濫妨とは略奪を意味します。何を略奪するかというと、人と物です。物は農民の家財、貯蔵してある穀物、牛馬などです。濫妨はまた「乱取り」とか「乱妨取り」、「乱妨」とも呼ばれていました。狼藉とは暴力行為です。従って「濫妨狼藉」は現代用語の「乱暴狼藉」とは少し意味が違うので注意が必要です。
田畑の破壊・作物の略奪を苅田と言いました。小早川隆景の戦術書『永禄伝記』は、大名・毛利元就の戦法を伝えたものと言われています。その「攻城」の項に「苅田戦法」が記述されています。苅田戦法の結果はどうなるのか。「新版 雑兵たちの戦場」で藤本さんは次のように記述しています。
春先なら苗代の早苗やまだ青い麦が荒らされ、夏なら実った麦は奪われ、田植えのすんだ田も荒らされ、秋なら熟した畠作や稲が奪われ、冬にも収穫を収めた倉や家が焼かれ、穀物が奪われる。ことに3~5月には、実った麦をねらう「麦薙ぎ(むぎなぎ)」が、また7~9月には実った稲を狙う「稲薙ぎ(いねなぎ)」が集中した。 |
奴隷狩り
日本史と奴隷狩りというテーマなので、以降は濫妨(=略奪)の中の「人の略奪・奴隷狩り」に焦点を絞りたいと思います。
「人の略奪」は、戦国時代の各種記録で「人を捕る」「生捕る」「人取り」などと記述されています。生け捕られた人は、もちろん成人男子もいますが、女や子供がかなりの割合を占めていました。
略奪した人をどうするのか。一つは、町人や富農の下人として強制労働に従事させます。それはもちろん略奪した雑兵の下人という場合もあったでしょうが、「山椒大夫」のようにニーズのあるところに売るわけです。売買には商人(人商人)も介在しました。また後で紹介しますが、外国へも転売されたのです。
一部の生け捕られた人は、親族などが身代金を支払って身柄が返却されました。これはもちろん身代金を支払えるほど裕福な階層ということが前提です。身代金の授受にも「人商人」や海賊が介在して手数料を稼いだようです。
戦国の奴隷狩り・九州
戦国の各地の奴隷狩りの実態です。ます九州の島津藩ですが、著者の藤本さんは島津藩の家臣が書いた『北郷忠相日記』『蒲生山本氏日記』『北郷時久日記』などにみられる戦闘の記録を分析して、次のように書いています。
こうした島津軍の戦闘の記録で、いま注目したいのは、「人を捕る」「生捕る」という記事の多いことである。そのうち「敵三人打取り・・・・・・一人生捕る」というように、同じ戦場で「打取り」(戦闘で首を取る)と対になった「生捕り」は、捕虜になった兵士たち(戦争捕虜)のようでもある。 |
「取る」「生取る」など人取りの表記は島津方の日記によく似ており、累計二一四四人にのぼる。しかも生取りの数は戦死者(打取り)よりも明らかに多い。まるで、敵は殺すよりむしろ生かして捕らえよう、としているかのようである。 |
戦国の奴隷狩り・武田藩
甲斐・武田藩の軍書である『甲陽軍鑑』にも、雑兵たちの乱取りの記述が数々出てきます。『甲陽軍鑑』には武田信玄が上杉謙信と戦った北信濃の戦場が記述されていますが、その内容の解説です。
北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城(上越市)近くまで進入し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生捕った越後の人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使い(奴隷)にした、という。「越後の者をらんどり」、「らんぼうに女・わらんべを取り」の、乱取り・乱妨の被害は女性と児童に集中していた。 |
戦国の奴隷狩り・上杉藩
では、一方の上杉謙信はどうだったのか。謙信は武田信玄との戦いだけでなく、関東から北陸一円を戦場としました。永禄9年(1566)2月、上杉軍が関東に遠征し、常陸の国の小田城を攻め落としたときの様子が文書に記録されています。
小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指示)で、春の二月から三月にかけて、二十~三十文ほどの売値で、人の売り買いが行われていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。 |
以上、島津、肥後、武田、上杉の事例をあげまたが、このほか『新版 雑兵たちの戦場』には、紀伊や奥羽の事例が掲げられています。戦争における奴隷狩りは全国的な現象だったようです。
食うための戦争
戦国時代の戦争における濫妨(略奪)の大きな要因は、戦争が「食うため」「略奪が目当て」という側面を強く持っていたからです。上杉謙信の出兵の記録が分析されています。謙信は関東、北信濃、北陸へ20回以上にわたって出兵していますが、その出兵時期を調査すると2つのパターンが浮かび上がります。晩秋に出兵して年内に帰る「短期年内型」と、晩秋に出かけて戦場で年を越し春に帰る「長期越冬型」です。
北信・北陸など、国境を越えてすぐの近い戦場では、ほとんどが作荒らしか収穫狙いの短期決戦であった。それに比べると、春日山から遠い関東の戦場は、秋の収穫狙いから、冬季の出稼ぎ型(口減らし型)の長期戦争が多かった。 |
冬場に雪に閉じこめられる越後だけでなく、作物の凶作による飢饉や、戦争の苅田による農地の荒廃により「食うこと」は戦国時代には極めて切実な問題でした。戦争には「食うための戦争」という側面が強くあるのです。
秀吉の天下統一と人身売買の禁止(天正18年 1590)
秀吉の天下統一は、今まで述べた濫妨狼藉と人の売買に終止符を打ち、戦争の惨禍を絶つという大きな意味がありました。秀吉は平定した土地に「人身売買の禁止令」を次々と出していきます。天正18年(1590)に奥羽に出された秀吉令は、
| ① | 人の売り買いはすべて停止せよ。 | |
| ② | 天正16年以後の人の売買は無効。したがって、買い取った人は元に戻せ。 | |
| ③ | 以後、人の「売り」「買い」はともに違法。 |
天正18年(1590)の北条氏滅亡と奥羽地方平定を最後に、日本から戦場はなくなりました。しかし「秀吉の平和」が日本全国を覆ったまさにその瞬間、朝鮮出兵の大号令が出されたのです。
朝鮮での奴隷狩り(文禄元年-慶長3年 1592-1598)
朝鮮出兵(文禄・慶長の役。1592-1598)の大本営は、肥前・名護屋城(佐賀県唐津市)にありました。常陸・佐竹軍に従軍した武士が、名護屋城に到着して見たものを国元に書き送った書簡が残されています。それによると
朝鮮の戦場では勝ち戦が続き、戦場で生け捕られた男女が日ごと名護屋の港へ送りここまれている。自分もそれを確かに見た。首を積んだ船も来ているそうだ。 |
敵の首は大名の手柄として秀吉の首実験に備え、戦功を認めてもらうためであったが、男女の生捕りは海賊商人たちの船に積まれ、名護屋・呼子の一帯に広がる舟入りから、名護屋の町へ歩かされていたのであろう。 |
朝鮮の戦場における濫妨狼藉は相当のもので、たとえば島津軍の兵は船を使って川伝いに奥地まで入り込み、苅田や乱妨を働いていた、と本にあります。石田三成は島津義弘に島津軍の逸脱ぶりを警告したほどです。しかし、ほかならぬ秀吉自身が「捕まえた朝鮮人の中から腕利きの技術者や女性たちを選び出して献上せよ」という命令を出していました。秀吉も日本軍の大がかりな奴隷狩りを見越して、その一部の召し上げようとしていたわけです。
- 秀吉の命令の「腕利きの技術者」ということで思い出されるのが、島津軍に捕えられて薩摩に連行された朝鮮の陶芸職人たちですね。薩摩焼のルーツです。薩摩焼の窯元の一つである沈壽官家は現代まで15代続いています。
一五九八年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告発していた。日本人が無数の朝鮮人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、とくに長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮の戦場にも渡って、自ら朝鮮人を略奪した、と。 |
朝鮮の戦場から連行された人々の運命を追って、大作『文禄・慶長役における被擄人の研究』を著した内藤雋輔氏によれば、奴隷狩りはとくに朝鮮南部の諸州に集中し、侵略初期の文禄(壬辰)戦より、末期の慶長(丁酉)戦の方が十倍もの惨状を呈し、略奪連行された人々は、島津領の薩摩だけでも三万七〇〇余人はいた、との見方もあるという。 |
朝鮮出兵をもう一度振り返ると、秀吉は日本から戦場を駆逐したとたんに、朝鮮侵略をはじめているわけです。このことの重要な意味について藤木さんは次のように書いています。
秀吉の平和というのは、国内の戦場にあふれていた巨大な濫妨エネルギーに、新たなはけ口を与えることで実現され、それと引き替えにして、ようやく国内の戦場を閉鎖することができた。だから秀吉は、名誉欲に駆られ、国内統一の余勢をかって、外国に侵略に乗り出したというより、むしろ国内の戦場を国外(朝鮮)に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができた、という方が現実に近いことになるだろう。 |
大坂の陣(慶長19年-20年 1614-1615)
秀吉が死に、関ヶ原の合戦があり、時代は江戸時代になりました。しかし徳川幕府が天下を支配するようになって以降も戦争がありました。もちろんそれは、大坂冬の陣と夏の陣です。
江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。 |
興味深い文書があります。幕府は戦争が終わった後の「落人改令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出します。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出しました。この文書によると、略奪された人の数は、

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です(奉公人は「武家の奉公人」の意味)。これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めています。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いでした。蜂須賀軍の戦場での人取りだけでこの数字です。全幕府軍の戦場・戦場外での人取りの総計は、相当の数にのぼったと推定されます。
大坂の陣が終わった直後にも、徳川幕府は「人身売買の停止令」を出しました。人の略奪や人の売買が日常の街角に持ち込まれていたからです。それを抑え込んでこそ平和が実現できたのです。
秀吉の奴隷問答(天正15年 1587)と奴隷貿易
時代を少しさかのぼります。戦国時代の日本国内と朝鮮における奴隷狩り・奴隷売買は、その帰結として「奴隷貿易=海外への奴隷の輸出」を引き起こしました。16世紀の日本には、いわゆる南蛮人が多数来日し、船舶の往来も激しかったからです。
秀吉は天正15年(1587)年の4月にに南九州の島津氏を降し、全九州を平定します。そして6月に博多に軍を返すと、日本イエズス会・準管区長、ガスパール・コエリョに対し「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷としてつれていくのは何故であるか」と詰問します。コエリョはその事実を認めつつも「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人がこれを売るからだ」とつっぱねました(1587年のイエズス会・日本年報による)。
秀吉の平和の下で、日本の人身売買が初めて深刻な外交問題として論じられたことになる。その秀吉の言い分を『九州御動座記』がこう代弁していた。 |
ポルトガル国王は「日本人奴隷の輸出が布教の妨げになる」というイエズス会からの訴えに基づいて、1570年3月12日(元亀元年)に日本人奴隷取引の禁止令を出します。また、それ以降もたびたび禁止令が出されます。イエズス会も1596年に、日本人奴隷を輸出したものは破門にすると議決しました。
これらのことは裏を返すと、各種の禁令にもかかわらず奴隷貿易が続いていたことを示しています。そもそもイエズス会自身が、もともと日本から少年少女の奴隷を連れ出すポルトガル商人に公然と輸出許可の署名を与えていたのでした。
秀吉はコエリョと激論した直後の天正15年(1587)6月18日、有名な「バテレン追放令」を出します。この内容は
| ◆ | バテレンの追放 | |
| ◆ | キリスト教への強制改宗の禁止 | |
| ◆ | 神社仏閣の打ち壊しの禁止 |
| ◆ | 日本人奴隷の海外禁輸、および国内での人身売買の禁止 |
東南アジアの日本人奴隷と傭兵
奴隷だけでなく、16世紀から17世紀初頭にかけて大量の日本人が東南アジアに渡りました。この時期、東南アジアではスペイン・ポルトガルと、オランダ・イギリスが激突していたわけで、日本は傭兵や武器の供給基地となっていたのです。
東南アジアに渡った日本人は「おそらく10万人以上にのぼり、住み着いた人々もその1割ほどはいた」と推定されています。その日本人を「分類」すると、一つは自ら海を渡った人たちで、海賊、船乗り、商人、失業者、追放キリシタンなどです。二つめは西欧人に雇われて渡海した人で、伝道者、官史、商館員、船員、傭兵、労働者です。三つめが奴隷や捕虜です。
日本人傭兵は東南アジアでの戦争や抗争に大きな影響をもちました。有名なのは山田長政ですが、彼は日本では徳川方の小大名・大久保氏に仕えた駕籠をかつぐ下僕だったようです。それがシャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、最後は毒殺されました。
本の中で、スペイン領であったフィリピンの様子が紹介されています。
一五九二年(文禄元)、マニラ市外の日本町区域に隔離さされた日本人奴隷や傭兵たちは、一六〇三年(慶長八)中国系住民の大暴動が起きたときには、四百~五百人が総督に雇われて、その鎮圧に駆使され、先住民の反乱の抑えにも利用され、自らも暴動をくり返すようになっていた。一六二〇年代のマニラ近郊に住む日本人は、実に三千人にも達していた、という。 |
イエズス会のカブラルは、すでに一五八四年(天正一二)、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しよう、「彼らは打続く戦争に従事しているので、陸・海の戦闘に大変勇敢な兵隊」だ、とスペイン=ポルトガル国王に提案していた。 |
- キリスト教を布教するはずの神父が中国征服とその方法論を国王に提案するのも、ずいぶん変な話なのですが、当時の宣教師の一面が如実に現れています。中国は「征服しないとキリスト教が広まらない国」と判断したのでしょうか。神の恩寵を中国人に与えるために征服しよう、という論理でしょう。
元和6年(1620)の末、オランダとイギリスは連合して新たに「蘭英防禦艦隊」を結成し、平戸を母港とします。翌年(1621)の7月、両国の軍隊は、台湾の近海で捕らえた日本行きのポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突き出します。そして幕府に「マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルドガルの拠点)を滅ぼすために、二千~三千人の日本兵を派遣してほしい」との要請を出すのです。
秀忠令(元和7年 1621)
幕府は英蘭の日本兵派遣要請を拒否します。そして拒否しただけでなく、幕令(秀忠令)を出します。その骨子は
| ① | 人身売買の停止 男女を買い取って異国へ渡海することを停止せよ。 | |
| ② | 武器輸出の停止 武具の類を異国へ渡してはならぬ。 | |
| ③ | 海賊の停止 海上における海賊行為をやめよ。 |
①は、傭兵に陽には触れていません。しかしオランダ側が作った秀忠令のオランダ語訳には「雇用であれ人身売買であれ」と詳しく記載されています。幕府の意図は人身売買と傭兵による日本人の海外流出の阻止であり、オランダ側もそう受け取ったわけです。
当時の東南アジア情勢を考えると、日本は極めて危険な状況にありました。日本は戦争物資と傭兵の補給基地になっていたからです。特定の外国の依頼で「公式に」出兵したりするものなら、その敵対国からの日本侵略の口実を作ることにもなります。幕府の出兵拒否と秀忠令は、日本が新たな戦乱に巻き込まれるリスクを無くすための当然の処置でしょう。
オランダはこの秀忠令に困惑し、回避しようと努力したようです。しかし、平戸がある松浦藩は外国船の臨検をはじめ、武器を押収しました。秀忠令は実行され、日本人奴隷の海外流出はようやく止まりました。戦国期から続いた「公然の」人身売買も最終的に終りを迎えたのです。
幕府が鎖国に踏み切り、それを完成させるのは、秀忠令から18年後(寛永16年 1639)です。
「奴隷狩り」から見る日本史
これ以降は『新版 雑兵たちの戦場』を読んだ感想です。戦国時代の「奴隷狩り」の実態をみると、その後の、
| ◆ | 秀吉による天下統一 | |
| ◆ | 人身売買の禁止 | |
| ◆ | 鎖国(=人の往来を禁止し、交易を中国・朝鮮・オランダに限定する) | |
| ◆ | 徳川幕府による社会の安定と国内平和の維持 |
大名同士が戦争で争い「濫妨狼藉」や「苅田」を繰り返していたのでは、農地は荒廃し、農村からは人が奴隷となって流出します。その流出は、奴隷船によって海外にまで及びます。奴隷にならないまでも農地が荒れると食べていけなくなり、農民は浮浪民化し、都市に流入して社会不安を引き起こすでしょう。「人商人」が暗躍し、犯罪が多発し、それがまた社会不安を助長する。
この状況は悪循環となり、各藩の経済力にダメージを与えるでしょう。そうなれば藩の財政も苦しくなるし、日本全体の国力も低下します。天下統一の大きな意味は「戦場を日本から無くし、濫妨狼藉の負のスパイラルを断ち切り、人民の生活を安定させ、国力を回復する」ということではないでしょうか。おりしも東南アジアでは欧米の列強が争っていて、その火の粉は日本にも降りかかりつつあります。統一と安定は必須の事項でした。
その後の徳川幕府は、藩の集合体という「日本のかたち」を前提として、戦国状態に再び戻るのを避けるための徹底的な施策をとったのだと思います。その例ですが、秀吉の刀狩り・鉄砲狩りからはじまり、江戸時代は「武装解除社会」ないしは「軽武装社会」になります。
武士の命は刀と言いますが、刀は戦争の雌雄を決するものではありません。刀は戦闘の最後の接近戦や白兵戦のためのものです。戦争で重要な武器は長槍であり、弓矢などの「飛び道具」であり、戦国時代以降はもちろん鉄砲です(その後、大砲になる)。優秀な戦国武将は鉄砲を徹底的に利用しました。
- 1600年の関ヶ原の戦いを頂点とする戦争では、東西両軍合わせて約6万丁の鉄砲が動員されたというから、おそらく日本全体では10万丁に近い鉄砲があったと推定される。その当時、ヨーロッパ最大の陸軍を誇ったフランス王の軍隊には、鉄砲は1万丁しかなかったというから、全ヨーロッパを合わせても、日本一国に及ばなかったであろう。(堺屋太一『日本とは何か』講談社 1991)
この状況は、戦場の再来をなくしたいという、戦国期の反動ではないでしょうか。江戸時代の意味は、戦国期の「雑兵の視点からみた戦場」の実態を知ることによって理解が進むと、この本を読んで思いました。
No.32 - 芸能人格付けチェック [歴史・文化]
(前回から続く)
前回の No.31「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」では、という連想で書いたのですが、今回はその「芸能人格付けチェック」というTV番組(フジテレビ。現在は正月番組)そのものを考えてみたいと思います。
「芸能人格付けチェック」はどういう番組か
前回に書いた「隠岐牛とスーパーの牛肉」もそうなのですが、この番組を何回か見て思うのは、番組が表向きの装い(表層)と、隠された裏の意味(深層)を持っていることです。もちろん「芸能人の高級品判別能力をテストする番組」というのは全くのタテマエであって、出演者も司会者も視聴者も、そんな単純なことだとは思っていない。
出演者・司会者・視聴者の全員が思っている、この番組の「表層」は次のようなものです。
セレブな芸能人、つまり数々の高級品を知っているはずの芸能人が、当然分かってしかるべき高級品と普通品の区別がつかないことを暴露してしまい、それを見た視聴者が「なんだ、大したことがないね、あの芸能人は」と感じて、爽快感を得るバラエティ番組。 |
しかしここまでは「表層」に過ぎないのです。この番組の「深層」は次のようなものだと思います。
番組の問題出題者は、人が高級品に対して暗黙に抱いている「思いこみ」「固定概念」「先入観」を最大限に利用して回答者を「引っかけ」、不正解へと誘導しようとする。少なくとも、AとBのどっちが正解か分からないように回答者を混乱させようとする。 |
多くの芸能人回答者は、この深層に気づいていないようです。表層だけに捕らわれ、自分なら高級品をすぐ判別できるはずだと思い込む。番組司会者も「こんな問題はすぐに分かって当然ですよね」「これが分からないようじゃ一流ではありませんよ」という態度で囃し立てる。そして回答者は深くは考えずに問題に臨み、直感だけで高級品を判別しようとする。回答者のこういう態度は、実は出題者の思うツボであるわけです。そして回答者は「意外にも」どちらが高級品か、すぐには分からないことに気づいて、内心愕然とする。
前回の No.31「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」 で書いた「100g 15,000円の隠岐牛」と「100g 1,000円のスーパーの牛肉」問題は、まさにこのような「深層構造」を持っています。そこにどういう「落とし穴」が仕組まれていたのかは、前回に書いた通りです。そして、この深層構造をもつ問題がいろいろありました。代表的な2つをあげてみたいと思います。
ヴァイオリンの名器
楽器の問題はいろいろあったと思いますが、次のような問題が典型的です。ほぼこの通りの問題があったと記憶していますが、ビデオ録画を持っているわけではないので詳細部分は違うかもしれません。しかし本質は変わらないと思うので書いてみます。
2つのヴァイオリンが演奏されます。つまり、
| ◆ |
ストラディヴァリウスと同時代にクレモナで作られたヴァイオリン名器、時価数億万円
|
| ◆ | 現代の日本製の練習用ヴァイオリン、20万円 |
の2つです。どちらが名器でしょうか、というのが問題です。
これはかなり難しい問題だと思います。そんなの簡単だ、と思ったら、落とし穴にはまる。
この問題の「引っかけ」は、まず高級でないヴァイオリンを「日本製」「練習用」と紹介していることです。これと「クレモナの名器」が対比されて、なんとなく「一方のヴァイオリンの音が悪い」といった印象を与える。しかし事実は全く違います。
たとえば日本で最大のヴァイオリン製造会社は「鈴木バイオリン製造」で、数万円から150万円程度の楽器を製造しています。鈴木のバイオリンは100年以上の歴史をもち、中国でヴァイオリン製造が盛んになる前は世界市場でもトップのシェアでした。職人が個人技で作る「個人工房」のバイオリンはイタリアをはじめとするヨーロッパで盛んですが、大量生産するヴァイオリン(といっても熟練した職人さん達の、手仕事の分業ですが)では、日本の実力が相当のものなのです。「日本製」を否定的にとらえてはいけません。
さらに、わざわざ「練習用の」という言葉が付け加えられているのがあやしい。ヴァイオリンに「練習用」と「演奏会用」の区別があるわけではないのです。ヴァイオリンはヴァイオリンです。確かに、日本製の20万円のヴァイオリンをプロのヴァイオリニストやプロのオーケストラの団員は使わないし、音大の学生も使いません。一般の大学のオーケストラや市民オーケストラだって、コンサートマスターともなれば数百万円の楽器を持っている人はよくあるし、その団員だって日本製・20万円のヴァイオリンはあまりないでしょう。日本製の20万円のヴァイオリンは、実質的に「演奏会では使われない」というのは全くの事実です。
しかしその「演奏会には使わない」のがあたりまえの楽器を、わざわざ「練習用」と言って問題に出す。この意図は明白で「練習用」と断ることで「音がよくない」というイメージを回答者に与えることです。しかし実態は違うはずです。日本製の20万円のヴァイオリンは、上級のアマチュア・ヴァイオリニスト以上の人が弾けば、そんなに苦労なく、そこそこ美しく、そこそこ豊かで音量もある音が、いつでも出せると思います。それこそが「練習用」ヴァイオリンが果たすべき使命だからです。第1弦の高音が鳴らないとか、ハーモニクスが出ないとか、そんなことはないはずです。それでは練習にならない。
20万円という値段も微妙です。これが150万円となると「日本製でも良い音がするはず」という印象を回答者に持たれかねない。日本製の方の音が悪いという印象に誘導するためには、値段は安ければ安いほどよい。しかしさすがに5万円のヴァイオリンでは良い音はしないかもしれず、問題として元も子もなくなる(可能性がある)。20万円という値段のヴァイオリンは、そのぎりぎりの所を狙って出題されたのだと思います。フジテレビはかなり綿密に検討しているはずです。
一方、時価数億円の、300年前に作られたヴァイオリンの名器はどうでしょうか。こういった名器は「誰がどんな場所で弾いても」本来の音が出るのでしょうか。ヴァイオリニストの千住真理子さんは、ストラディヴァリウスについて次のように書いています(太字は原文にはありません)。
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もう一つ特徴的なこととして、ストラディヴァリほどの名器は、ある程度長い年月をかけて弾き込まななければ音が出ない、という点がある。本当に、実際に「音が出ない」。 |


千住真理子さん所有のストラディヴァリウス「デュランティ」
NHK「美の壺」File 131 より [ site : NHK ]
NHK「美の壺」File 131 より [ site : NHK ]
ストラディヴァリウスほどではないにしろ、名器といわれるヴァイオリンはこういった傾向を持つようなのです。「芸能人格付けチェック」の問題のように、いくらプロといえども(たぶん)練習もあまりなしに300年前のイタリアの名器を弾いて、果たして本来の音が出せるのでしょうか。しかも、それ聞くのは演奏会場ではなくてTVスタジオなのです。そこをまず疑ってかからないといけない。パッと聴いたときに豊かで美しい音色と思えるのは「そば鳴り」がする「日本製・練習用・20万円」の方である可能性は十分にあると思うのです。
この問題を「フェアな問題」にするためには、たとえば千住真理子さんに依頼し、彼女の愛用のストラディヴァリウス「デュランティ」と日本製・20万円のヴァイオリンを、演奏会場で弾き比べてもらわないといけないわけです。しかしそんなことは番組ではしない。そんなことをすると、バラエティ番組ではなくなってしまうからです。
現代アートの大家の作品
絵画の鑑賞も「芸能人格付けチェック」の定番問題の一つです。典型的な問題は次のようなものです。2つの絵が出題されます。
| ◆ |
現代美術の巨匠が描いた抽象画。市場取引価格、数百万円。
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| ◆ | 巨匠の作品に似せてフジテレビの大道具担当が描いた「作品」。市場価値ゼロ。 |
の2つです。さてどちらが巨匠の作品でしょう、というのが問題です。細部までこの通りの問題だったかどうかは記憶が鮮明ではありませんが、こういったタイプの問題が番組の一つの定番であることは確かでしょう。
これは非常に難しい問題だと思います。最低限、問題作成者がどういう罠を仕掛けているのか、想像を巡らしておく必要があります。でないと、落とし穴にはまる。
そもそも「フジテレビの大道具担当」とは、どういう経歴の人でしょうか。その人はひょっとしたら「美大のデザイン科を出て、高い競争率を勝ち抜いて、フジテレビないしは関連の専門会社に就職した」ような人ではないでしょうか。だとするとその人は、小学校から高校まで「絵が好き、美術好き」で通っていたはずです。当然、美大の入試には絵を描いただろうし、デッサンもしたはずです。入試に備えて美大入試専門の学校にも通ったでしょう。入学してからも、デザイン科だとはいえ油絵も描いただろうし、何よりも数々の美術制作の現場を見てきたはずです。そうだとすると、その人は「美術の素養が完全にあるプロ」ということになるのです。ある絵に似せて絵を描くなんて「軽い」ことかもしれない。問題作成者は「大道具担当」という言葉を持ち出すことによって「美術に疎い」という印象を作り出そうとしています。だけど、事実は全くの逆かもしれないのです。「武蔵野美大を出たフジテレビのアートディレクター」とでも紹介すれば回答者が受ける印象は全く違うはずですが、そんな紹介は絶対にされない。
さらにもう一つの落とし穴は、巨匠が描いた「現代アートの抽象画」を、あまり見慣れない人がすんなりと受け入れられるかどうか、ということです。絵画に限りませんが「現代アート」の作品の中には「現代以前のアートの約束ごとや、決まり、方法論を否定したところに妙味がある」ものがあります。そして、そういう作品を鑑賞するには「現代以前のアートの歴史を知っていないと、おもしろさが全く分からない」ことがある。色の組み合わせが変だなと思っても、それはトラディショナルな配色の決まり事の逆をやっているわけであって、そこにこそ絵の妙味があったりする。良いか悪いかは別にして、鑑賞のための予備知識がいるアートや、素人が素直には楽しめないアートが存在するのです。
比喩的にいうと、漢字には楷書・行書・草書がありますが、草書体で書かれた書の美しさを味わいたいとき、楷書体・行書体を全く知らないで味わうことはできません。楷書の書き順や筆の運びを熟知した上で、それをどう行書で「崩すか」も知っていて、さらにそれ以上の「崩れ具合」を味わうのが草書の妙味です。あたりまえですが、元のものを知らないで、元のものを崩した妙味は分からないのです。
「芸能人格付けチェック」の現代アートの問題に戻ると、我々の思いこみを排除して冷静に考えると、テレビ局の大道具担当の人が現代アート風に描いた「作品」の方が、普通の人にはすんなりと受け入れられる可能性が強いわけです。出来るだけ多くの人に、直感的に受け入れられる・・・・・・。それこそが、テレビ局の人たちが日夜、必死に追及していることなのです。
すんなりと受け入れやすい方はあやしい・・・・・・。回答者はまずそう思って「身構えて」問題に臨まないと、全く逆の答えを出す可能性が強いと思います。
高い正解率を得るには
「芸能人格付けチェック」において、大変に正解率の高い人がいます。たとえばGACKTさんで、確か No.31 で書いた2010年の隠岐牛の問題も、彼は正解したと思います。2011年のこの番組は見なかったので最新状況は分かりませんが、確か彼は連続正解の記録を作ったことがあると記憶しています。
しかしちょっと考えてみると、いくらGACKTさんが「ホンモノが分かる、真のセレブ芸能人」であったとしても「この番組で出されるような高級品の全てを味わったり鑑賞した経験があって、かつその記憶が残っている」わけではないと思うのです。いくつかは初めての経験のはずです。たとえば高級牛肉はいろいろ食べたが、隠岐牛は初めて、というような・・・・・・。
おそらく彼はこの番組の「深層」を理解しているのだと思います。つまり番組の本質が「だまそうと思う出題者と、だまされまいとする回答者のバトル」だと分かっている。だから正解にたどり着きやすくなる。そういうことではないでしょうか。
その意味では、2010年の隠岐牛の問題(No.31参照)で、断定的に隠岐牛を否定して不正解になった回答者の方(仮にAさんとしておきます)は、味覚の鋭い人だと思います。だから2つの肉の違いが明確に分かった。一般の回答者は「どちらかと言えばB」とか「Bの方が・・・・・・の気がする」というように「迷いつつ回答する」のが普通です。はっきりと「Bです」という回答者も「心の中では迷ってるのが、ありありと分かる」ことが多い。しかしAさんは即座に断定しました。味が分かるのですね。しかし、残念ながらAさんはGACKTさんと違って、この番組の「深層」を理解していなかった。だから、味覚が鋭いにもかかわらず正反対の答えを出した。
GACKTさんのような人は少数です。普通の回答者は、Aさんも含めて表層だけでこの番組をとらえ、まんまとだまされて番組の「バラエティ化」に貢献しています。そして「だまされた」ことにさえ気づかず、自分の「高級品鑑賞力」が低いのだと思い込む。もちろんこの番組はバラエティ番組なので、そういう芸能人がいないと困るわけです。番組を成立させるためには、あなたは三流だと司会者が宣告できる芸能人が絶対に必要なのです。
ブルネッロと芸能人格付けチェック
前回の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」から「極端な味」へ、そして「高級品」から「芸能人格付けチェック」へと話が飛びましたが、これを「高級品」を中心にまとめると、以下のようになると思います。
| ◆ |
高級品の中には、特質を凝縮し、突出させ、際立たせたものがある。そういった高級品をストレートに味わうと(鑑賞すると)、それに慣れている人は別にして、一般には違和感を覚えることが多い。
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| ◆ |
そのような高級品は、プロフェッショナルが行う「アレンジメント」のうまさによって違和感が解消され、本来の特質が誰にとっても心地よいものになる。それを行うのが一流の料理人であり、シェフであり、ソムリエであり、ブレンダーであり、一流のアーティストである。
|
| ◆ | 高級品を味わう(鑑賞する)には、味わう側にもバックグラウンドの知識や経験がそれなりに必要なケースがある。 |
さらに「芸能人格付けチェック」が示唆しているもう一つのことは、高級品と普及品(の上位クラス)の差は、それほど大きくはないということです。
前回書いたブルネッロ・ディ・モンタルチーノと赤ワインの話に戻ると、800円の赤ワインと5,000円の赤ワインを目隠しでテイスティングしてみて、どちらがどっちかを判別することは容易です。しかし5,000円と3万円の赤ワインでは普通の人には判別が難しいのではないか。少なくとも私には、全く自信がありません。5種類のブルネッロ・ディ・モンタルチーノのグラスがあり、その中の1つだけは3万円、あとは5,000円、テイスティングで分かりますか、と言われても、多分、分からない(ことが多い)と思います。訓練をうけた人やソムリエなら容易だろうけど・・・・・・。
| ◆ | 高級品と普及品(の上位クラス)の差は、意外にも少ない(ことがある)。特に値段の差ほどの差はない。 |
「芸能人格付けチェック」の最大の教訓はここです。高級品と普及品の判別を装っているこの番組は、実は高級品と普及品最上位クラス、ないしは超高級品と高級品の判別問題なのですね。その差はごく僅かです。だがら難しい。
| ◆ | 高級品を味わってみて(鑑賞してみて)素晴らしいと思うのは、それが高級品ということになっているから、つまり高級品だという情報がくっついているからである。普及品の上位クラスとの僅かな差を大きな差だと感じるのは、人間社会に蓄積されてきた文化の力である。 |
ということだと思うのです。「僅かの差しかない」高級品の価値を否定しているのではありません。僅かの差を拡大させて感じさせる「文化」は大切なものだと思うのです。世の中にはピンからキリまで、いろんなバリエーションがある(と感じられる)からおもしろいのです。
No.31 - ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ [歴史・文化]
No.3「ドイツ料理万歳!」で紹介しましたが、この本の中で著者の川口さんは、
と書いています。
これを受けて「彼女の意見には120%賛成です」としました。120%というちょっと大袈裟な表現になったのは、川口さんの文章、特に「太陽を一杯浴びた」とか「濃厚な大地の香り」という表現を読んで、私が初めて赤ワインを好きになった時のことを強く思い出したからです。今回はその話です。なお以下の文章で単にワインというと「赤ワイン」のことを指します。
S家のワイン・パーティー
もう随分前ですが、近くのS氏のワイン・パーティーに夫婦で招待されたことがありました。それまでS氏とは面識がなかったのですが、妻がS氏の奥さんを知っていたのと、たまたまS氏と私が同じ会社に勤めていた時期があったので、その縁で招待してくれたのだと思います。3組の夫婦が招待されていました。料理は基本的にはS氏の奥さんが作るのですが、招待された側もそれぞれオードブルを作って持ち込みました。
もちろんワインはS氏がふるまいます。彼は仕事の関係でヨーロッパへの出張が多く、空き時間をみつけてはワイナリーを巡ってワインを買い込んでいます。もちろんワインの蘊蓄も豊富です。私はその時点では「ワイン好き」ではありませんでした。もちろん昔から赤・白のワインを飲んでいたのですが、ウィスキー、日本酒、ビールなど、いろいろ飲むうちの一つのジャンルがワイン、という感じです。しかし、このワイン・パーティーの以降「私はワインが好きだ」と言えるようになったのです。
出されたワインは4種類です。最初のワインはよく覚えています。ドイツの白ワインである「フランケン」です。フランケンはボトルが特徴的な形をしているので記憶に残ったのだと思います。甘くはなく、非常にさわやかな味だったように思います。
2番目は赤ワインです。今から思えばボルドーだったと思いますが、名前は全く覚えていません。S氏が自信をもって勧めるのだからそこそこの品だとは思いますが、味の記憶もない。当時は「ワイン好き」ではないので、忘れてしまうのもやむを得ないと思います。
3番目も赤ワインです。この産地は記憶しています。ブルゴーニュです。S氏が「ロマネ・コンティの隣の畑(もしくは隣の隣の畑)」と紹介していたことを覚えているのです。ロマネ・コンティは「ワイン好き」でなくても有名で、日本で買うとすると一本、ウン10万円もする。開高健の小説「ロマネ・コンティ 1935年」も読んでいました。肝心のS氏が出したワインの名前の確かな記憶はないのですが、ロマネ・コンティの近隣の畑ということは、バベットの晩餐会に出てきた「クロ・ヴージョ」かもしれません(No.13 - バベットの晩餐会 (2) 参照)。そんな名前だったような気がします。おいしいワインでした。
そして最後、4番目に出されたのが、この文章の題にしたイタリアの赤ワイン「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」だったのです。このワインを飲んだとき「ワインとはこんなにおいしいものだったのか」と驚いてしまいました。「目を覚まされた」という印象です。非常に濃厚な味で、何かが強く凝縮されてそこにある感じです。No.3「ドイツ料理万歳!」で著者の川口さんは好みのワインとして「太陽を一杯に浴びた葡萄から作られた華やかなもの。濃厚な大地の香りのするワイン」と書いていますが、まさにそんな感じでした。
それ以降、世界のワインを飲むようになりました。ブルネッロ・ディ・モンタルチーノはブルネッロ種(サンジョヴェーゼ・グロッソ種)というイタリア特有の葡萄から作られるのですが、作り手もいろいろあるということを後から知りました。S家で飲んだブルネッロ・ディ・モンタルチーノの作り手は、今となっては分かりません。残念なことをしたものです。
フランス、イタリア、チリ、スペイン・・・・・・ワインも多様です。S家のワインパーティの当時、アメリカ西海岸への出張が多かったので、ロサンジェルスやサンノゼ付近のワインセラーへはよく通ったものです。日本の赤ワインも知りました。マスカット・ベリーAという日本固有種の葡萄がありますが、これを使った甲府市・酒折ワイナリーのワインなどは大変においしいと思います。
ところで「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」になぜ目を覚まされたのか、その理由は自分でもよく分からないのです。しかし分からないなりに考えて、以下の2つだと推測しています。
「目を覚まされた」理由1 : 極端な味
一般的に言って「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」は、フル・ボディというか、非常に濃縮感のある「強い」ワインです。特に、赤ワインの赤ワインたる特長である「渋み」や「スパイシーさ」が際立っている。数あるイタリアワインの中でも特徴的な存在だと思います。この雰囲気は、フランスであればシラー種を使ったコート・デュ・ローヌに似ています。
一言で言うと「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」は「個性が強く、しいて言うと極端」なのです。ボルドー・ワインのように数種の葡萄の個性をうまく生かし、ブレンド技術によってバランスの良い、うっとりするようなワインを作るというのではない。赤ワインが本来持っている「他のお酒にはない個性」が突出している感じなのです。その極端とも言える「個性」にダイレクトに触れて「目を覚まされた」のだと思います。「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」にもいろいろな作り手があって一概には言えないことは分かるのですが、少なくとも私の「赤ワイン原体験」はそういう感じでした。
しかし「極端な味」の良さをひとたび理解してしまうと、「極端でない味」の良さも分かってくる。フル・ボディの重いワインだけでなく、軽いさわやかなワインのよさも分かるようになる。これがおもしろいところだと、今は思っています。
「目を覚まされた」理由2 : ワインを出す順序
しかし一般的に言って「個性が強い」食材やお酒には拒絶反応が出るはずです。なぜ「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」にすんなりと感動することができたのか。
それはS氏が出したワインの順序によるのだと思っています。まずフランケンが「前座」です。そしてボルドー → ブルゴーニュ → ブルネッロと続くシーケンスが絶妙だったのではないかと思うのです。ワインもバランスがとれたものからより個性的なものへと配置されていたのではないか。(素人の)人間の舌は慣れやすいものです。こういう風に順に味わうと、以前に飲んだワインを前提として次のワインを味わってしまう。だから拒絶反応はなく、そのワインの本来の味や香りが味わえた。
S氏は料理をしたわけではありません。料理にワインを合わせたわけでもない。ワインをセレクトし、供する順序を決めただけです。しかしそれはそれで重要な行為だと思います。こういうことを考えると、料理に合わせてワインをセレクトする、あるいはその逆のワインに合わせて料理を奨めるソムリエの重要さが何となく理解できます。
「極端な味・香り」と高級食材
話は「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」から離れるのですが、一般に酒類や食材において「極端な味や香り」に存在価値があるものがありますね。「極端」というと言葉が激しすぎるのなら「個性が突出した」というか「特長が際だった」というか、そういうお酒や食材です。
たとえばスコッチ・ウィスキーのシングル・モルトがそうです。ブレンドをしないので、モルトやピートの香り、樽で熟成したテイスト、醸造所の個性などが際だってくる。ハイランド・パークなどを飲むと「これこそウィスキーの原点」という気がします。これがアイラ島で作られる「アイラ・モルト」になると、もっと極端になる。ピートの独特の強烈な香りが広がり、ここまでくるとバランスを逸しているとさえ思います。特にラフロイグ、ラガヴリンはそうです。何だか「ゆがんだ」感じがする。しかしおいしい。
もちろんブレンド・ウィスキーを否定するつもりは毛頭ありません。優秀なブレンダーがブレンド技術の粋を尽くして芳醇な味を作り出す。それは立派な芸術です。しかしそれとは別に「個性が突出した」もの、ある意味では「ゆがんだ」ものにもおいしさがあると言いたいだけです。
ワインや酒類だけでなく「高級食材」とされているものの中にも「極端な味や香り」にその存在価値があるものがあります。何かが「突出した」味や香りの高級食材です。思いつくままにあげると、
◆サシがに入った高級霜降り肉
◆マグロの大トロ
◆フォアグラ
◆トリュフ
◆青カビタイプの高級ブルーチーズ
などです。
霜降り肉と大トロを例にとりますと、肉のおいしさの重要なポイントの一つが、それぞれの肉のもつ「脂身のおいしさ」であることは間違いないと思います。しかし高級霜降り肉や大トロはちょっと「極端」です。いくら「脂身のおいしさ」といっても、あれだけ突出させれば「ゆがんだ」感じになりかねない。そこで料理人の出番になります。目の前の鉄板で焼いてくれる高級ステーキ店にいくと、シェフはものすごく気を使っています。まず肉をほどよく熟成させるのが肝心です。肉を切る厚さ、焼き方、焼き具合、客に出すときの大きさ、タイミング、付け合わせ、タレ・・・・・・。すべてに工夫がある。その工夫によって「ゆがみ」は解消し、本来のおいしさだけが残るというしかけになっています。これに人は感動する。これは大トロの「寿司」や「炙り」も同じだと思います。
フォアグラも、レバーが持っている典型的なおいしさが詰まっていることは確かですが、それ自身は「極端」です。それはあたりまえで、フォアグラは自然界には存在しません。「人工的に脂肪肝の状態にした鵞鳥の肝臓」です。ものすごく「凝縮された」感じの味ですが、しかし食材においては「凝縮」が必ずしもおいしいとは限らない。従ってフレンチのシェフは、どういう料理とどう合わせるか、ソテーならどういうソースと合わせるかが腕の見せ所になります。No.13「バベットの晩餐会 (2) 」で書いたバベットのメニューのメイン・ディッシュにフォアグラが出てきます。それはウズラ肉とパイ皮とのコンビネーションでフォアグラの最良の味を引き出すように工夫されていたのだと思います。
霜降り肉・大トロ・フォアグラなどは、単独の食材としてみると「バランスを欠いている」感じです。しかし調理の技で最高の味になる。こういった凝縮されていたり突出していたりする味は応用範囲が広く、プロの腕次第で料理のバリエーションが無限に作り出せるはずです。プロの料理人が重宝するのも、そういう所ではないかと想像します。
芸能人格付けチェック
話はますます「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」から離れるのですが、ここまで書いて、高級食材に関して思い出すTV番組があります。(現在は)正月番組であるフジTVの「芸能人格付けチェック」です。
2010年の正月に放映された「芸能人格付けチェック」で高級牛肉の問題が出されました。AとBの二つの牛肉があります。
◆ 一つは100g 15,000円の隠岐牛
◆ 一つは100g 1,000円のスーパーの牛肉
です。この2つを軽く焼いて、タレにつけて、目隠しで食べて、どちらが100g 15,000円かを当てるというクイズです。AとBのどちらが隠岐牛か、視聴者にも司会者にも明かされていませんでした。
興味津々で芸能人回答者の答えを見守っていたのですが、ある回答者が「Bは救いようのない脂っぽさ。Aがおいしい、Aが正解」というような、Bを強く否定する回答をしたのです。これを聞いて私はBが正解に違いない推測しました。そして案の定、Bが隠岐牛だったのです。なぜTVを見ているだけで正解はBだと推測したのか、その理由は以下です。
この問題の出題者は、回答者をミスリードする「引っかけ」をいろいろと仕組んでいます。まず、わざわざ「スーパーの」という冠をつけて高級でない方の牛肉を紹介していることです。「スーパーの」ということで「安物」という感じが出てくる。「安い」と「安物」は違うのですが、なんとなくイメージとして、そういう雰囲気がかもし出される。
2つ目の「引っかけ」は、回答者になる「セレブ芸能人」は自らスーパーで牛肉を買ったことがないだろうし、ましてや100g 1,000円の牛肉は買ったことがないだろう、という予測のもとにこの問題が作られていることです。その予測は案の定、当たっていたようです。ミスリードされた「セレブ芸能人」は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」を、なんとなくおいしくないものと思い込んだ。ところが事実は全く違います。それは大変においしいものなのです。
私の家の近くにおいて、最も近接した場所にあるスーパーには「100g 1,000円の牛肉」は置いてありません。そこで一番高いのは「100g 780円程度のA4級の牛肉(ヒレ肉)」です。このスーパーの売り文句は「当店の牛肉はA4級でもA5級並においしい」ということなのです。昔からこういう方針でやっています。ちゃんとしたスーパー(特に大手)のバイヤーは、安くておいしい牛肉をどうやって仕入れるか、徹底的に研究しています。それこそが、売上増に直結するスーパーの生命線だからです。バイヤーの豊富な経験にもとづいた「購買力」を甘く見てはいけません。
両親の家で「スーパーに入っている精肉店の100g 1,000円程度の牛肉(地元産プランド牛のロース肉)」を買って、すき焼きをした経験があります。それは、肉の柔らかさや脂の乗り具合、赤身とのバランスが大変よく「うっとりするぐらい、おいしくて、幸福感が得られる」ものでした。もちろん牛肉にもいろいろの部位があり、個人の好みもあります。しかし100g 1,000円は最上位の部類に入ることは間違いないと思います。「芸能人格付けチェック」の回答者は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」と聞いてまず「うっとりするぐらい、おいしいはずだ」と思わないことには、出題者の仕組んだ落とし穴にまんまとはまるわけです。
3つ目の「引っかけ」は「100g 15,000円の隠岐牛は誰が食べても最高においしいだろう」と思い込んでしまうことです。私は「100g 15,000円の隠岐牛」を食べたことがありません。従ってここからは全く推測になりますが、100g 15,000円の隠岐牛は「万人受けする味ではない」のではと、番組を見ていて想像したのです。牛肉に限らず、えてして高級な肉は、その種の肉が持っている本来の特色、その特色の部分を突出させたものが多いように思います。松阪牛などはその典型です。そういう肉をストレートに、しかも「目隠しで」味わうと、バランスを欠いた感じがして違和感さえ覚えるかもしれない。また、ややこしいことに、一般論として食材の本来の姿を際立たせたものを一番おいしいと感じるわけでもないのです。人工的なバイアスがかかった味に慣れてしまった我々は、食材の本来の味が分からなくなっていることが多々ある。
考えてみると、100g 15,000円の隠岐牛はどういう人たちが食べるのでしょうか。会社における接待・社用族や、とにかく高い牛肉を食べたいという金満家は別として、自分のお金で100g 15,000円の隠岐牛を食べる「お金持ちで、真の食通の人」というのは、いろんな牛肉を食べ尽くしていて、何か特別な味、際だった特長を100g 15,000円に求めるのだと思います。それが万人受けするとは限らない。それに対して「スーパーの100g 1,000円の牛肉」は「誰が食べてもおいしいと思う肉」であることは絶対に確かです。そういう肉でないとバイヤーは仕入れないはずです。スーパーなんだから・・・・・・。
4つ目の「引っかけ」は牛肉の調理方法です。「100g 15,000円の黒毛和牛の隠岐牛」は、プロの料理人が肉の熟成度を管理し、目の前で(客の好みも聞いて)焼き、最適にカットし、その肉に合うタレとともに焼きたてを供し、そしてそれを客が即座に食べてこそ真価を発揮するものではないでしょうか。そういった条件がない状況において「隠岐牛」は相対的に不利になると想像できるのです。我々一般人はプロの料理人と違って、料理を味わうことには慣れているけれども、食材を味わうことには全く慣れていません。普通は、料理 = 食材 + 調理技術 を味わっているのであり、特に高級食材は高度調理技術とペアで味わうことしかやったことがありません。そこがプロの料理人との違いです。高級食材を高度調理技術なしにダイレクトに味わえと言われても、そんな未経験のことは簡単ではないと思うのです。
以上のさまざまな「引っかけ」があることを想像すると「芸能人格付けチェック」の回答者が「バランスがとれた」とか「ストレートにおいしい」と感じる肉は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」の方だと推測するのは自然です。これが(この問題では)図星だったわけです。
やはりワインは、太陽を一杯に浴びた葡萄から作られた華やかなものがいいな、と思う。夜、家中が寝静まったあと、一人でそんなワインを空ける。イタリア、スペイン、フランスといった、濃厚な大地の香りのするワイン(お値段は日本の半値以下!)を飲みながら、本を読んだり、音楽を聞いたり、原稿を書いたりする。「ドイツに住んでいてよかった!」と思う至福のひとときである。 |
これを受けて「彼女の意見には120%賛成です」としました。120%というちょっと大袈裟な表現になったのは、川口さんの文章、特に「太陽を一杯浴びた」とか「濃厚な大地の香り」という表現を読んで、私が初めて赤ワインを好きになった時のことを強く思い出したからです。今回はその話です。なお以下の文章で単にワインというと「赤ワイン」のことを指します。
S家のワイン・パーティー
もう随分前ですが、近くのS氏のワイン・パーティーに夫婦で招待されたことがありました。それまでS氏とは面識がなかったのですが、妻がS氏の奥さんを知っていたのと、たまたまS氏と私が同じ会社に勤めていた時期があったので、その縁で招待してくれたのだと思います。3組の夫婦が招待されていました。料理は基本的にはS氏の奥さんが作るのですが、招待された側もそれぞれオードブルを作って持ち込みました。
もちろんワインはS氏がふるまいます。彼は仕事の関係でヨーロッパへの出張が多く、空き時間をみつけてはワイナリーを巡ってワインを買い込んでいます。もちろんワインの蘊蓄も豊富です。私はその時点では「ワイン好き」ではありませんでした。もちろん昔から赤・白のワインを飲んでいたのですが、ウィスキー、日本酒、ビールなど、いろいろ飲むうちの一つのジャンルがワイン、という感じです。しかし、このワイン・パーティーの以降「私はワインが好きだ」と言えるようになったのです。
出されたワインは4種類です。最初のワインはよく覚えています。ドイツの白ワインである「フランケン」です。フランケンはボトルが特徴的な形をしているので記憶に残ったのだと思います。甘くはなく、非常にさわやかな味だったように思います。
2番目は赤ワインです。今から思えばボルドーだったと思いますが、名前は全く覚えていません。S氏が自信をもって勧めるのだからそこそこの品だとは思いますが、味の記憶もない。当時は「ワイン好き」ではないので、忘れてしまうのもやむを得ないと思います。
3番目も赤ワインです。この産地は記憶しています。ブルゴーニュです。S氏が「ロマネ・コンティの隣の畑(もしくは隣の隣の畑)」と紹介していたことを覚えているのです。ロマネ・コンティは「ワイン好き」でなくても有名で、日本で買うとすると一本、ウン10万円もする。開高健の小説「ロマネ・コンティ 1935年」も読んでいました。肝心のS氏が出したワインの名前の確かな記憶はないのですが、ロマネ・コンティの近隣の畑ということは、バベットの晩餐会に出てきた「クロ・ヴージョ」かもしれません(No.13 - バベットの晩餐会 (2) 参照)。そんな名前だったような気がします。おいしいワインでした。
そして最後、4番目に出されたのが、この文章の題にしたイタリアの赤ワイン「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」だったのです。このワインを飲んだとき「ワインとはこんなにおいしいものだったのか」と驚いてしまいました。「目を覚まされた」という印象です。非常に濃厚な味で、何かが強く凝縮されてそこにある感じです。No.3「ドイツ料理万歳!」で著者の川口さんは好みのワインとして「太陽を一杯に浴びた葡萄から作られた華やかなもの。濃厚な大地の香りのするワイン」と書いていますが、まさにそんな感じでした。
それ以降、世界のワインを飲むようになりました。ブルネッロ・ディ・モンタルチーノはブルネッロ種(サンジョヴェーゼ・グロッソ種)というイタリア特有の葡萄から作られるのですが、作り手もいろいろあるということを後から知りました。S家で飲んだブルネッロ・ディ・モンタルチーノの作り手は、今となっては分かりません。残念なことをしたものです。
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南トスカーナ、モンタルチーノ地方の葡萄栽培地域 [Hough Johnson "The World Atlas of Wine 4th Edition" より] |
フランス、イタリア、チリ、スペイン・・・・・・ワインも多様です。S家のワインパーティの当時、アメリカ西海岸への出張が多かったので、ロサンジェルスやサンノゼ付近のワインセラーへはよく通ったものです。日本の赤ワインも知りました。マスカット・ベリーAという日本固有種の葡萄がありますが、これを使った甲府市・酒折ワイナリーのワインなどは大変においしいと思います。
ところで「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」になぜ目を覚まされたのか、その理由は自分でもよく分からないのです。しかし分からないなりに考えて、以下の2つだと推測しています。
「目を覚まされた」理由1 : 極端な味
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| ブルネッロ・ディ・モンタルチーノは19世紀末に Biondi Santi によって作り出された。Santi 家は今でもワインを醸造している。 |
一言で言うと「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」は「個性が強く、しいて言うと極端」なのです。ボルドー・ワインのように数種の葡萄の個性をうまく生かし、ブレンド技術によってバランスの良い、うっとりするようなワインを作るというのではない。赤ワインが本来持っている「他のお酒にはない個性」が突出している感じなのです。その極端とも言える「個性」にダイレクトに触れて「目を覚まされた」のだと思います。「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」にもいろいろな作り手があって一概には言えないことは分かるのですが、少なくとも私の「赤ワイン原体験」はそういう感じでした。
しかし「極端な味」の良さをひとたび理解してしまうと、「極端でない味」の良さも分かってくる。フル・ボディの重いワインだけでなく、軽いさわやかなワインのよさも分かるようになる。これがおもしろいところだと、今は思っています。
「目を覚まされた」理由2 : ワインを出す順序
しかし一般的に言って「個性が強い」食材やお酒には拒絶反応が出るはずです。なぜ「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」にすんなりと感動することができたのか。
それはS氏が出したワインの順序によるのだと思っています。まずフランケンが「前座」です。そしてボルドー → ブルゴーニュ → ブルネッロと続くシーケンスが絶妙だったのではないかと思うのです。ワインもバランスがとれたものからより個性的なものへと配置されていたのではないか。(素人の)人間の舌は慣れやすいものです。こういう風に順に味わうと、以前に飲んだワインを前提として次のワインを味わってしまう。だから拒絶反応はなく、そのワインの本来の味や香りが味わえた。
S氏は料理をしたわけではありません。料理にワインを合わせたわけでもない。ワインをセレクトし、供する順序を決めただけです。しかしそれはそれで重要な行為だと思います。こういうことを考えると、料理に合わせてワインをセレクトする、あるいはその逆のワインに合わせて料理を奨めるソムリエの重要さが何となく理解できます。
「極端な味・香り」と高級食材
話は「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」から離れるのですが、一般に酒類や食材において「極端な味や香り」に存在価値があるものがありますね。「極端」というと言葉が激しすぎるのなら「個性が突出した」というか「特長が際だった」というか、そういうお酒や食材です。
たとえばスコッチ・ウィスキーのシングル・モルトがそうです。ブレンドをしないので、モルトやピートの香り、樽で熟成したテイスト、醸造所の個性などが際だってくる。ハイランド・パークなどを飲むと「これこそウィスキーの原点」という気がします。これがアイラ島で作られる「アイラ・モルト」になると、もっと極端になる。ピートの独特の強烈な香りが広がり、ここまでくるとバランスを逸しているとさえ思います。特にラフロイグ、ラガヴリンはそうです。何だか「ゆがんだ」感じがする。しかしおいしい。
もちろんブレンド・ウィスキーを否定するつもりは毛頭ありません。優秀なブレンダーがブレンド技術の粋を尽くして芳醇な味を作り出す。それは立派な芸術です。しかしそれとは別に「個性が突出した」もの、ある意味では「ゆがんだ」ものにもおいしさがあると言いたいだけです。
- なお「ブレンド・ウィスキー」と「シングルモルト・ウィスキー」についての、もっと正確な話を No.43「サントリー白州蒸溜所」に書きました。
ワインや酒類だけでなく「高級食材」とされているものの中にも「極端な味や香り」にその存在価値があるものがあります。何かが「突出した」味や香りの高級食材です。思いつくままにあげると、
◆サシがに入った高級霜降り肉
◆マグロの大トロ
◆フォアグラ
◆トリュフ
◆青カビタイプの高級ブルーチーズ
などです。
霜降り肉と大トロを例にとりますと、肉のおいしさの重要なポイントの一つが、それぞれの肉のもつ「脂身のおいしさ」であることは間違いないと思います。しかし高級霜降り肉や大トロはちょっと「極端」です。いくら「脂身のおいしさ」といっても、あれだけ突出させれば「ゆがんだ」感じになりかねない。そこで料理人の出番になります。目の前の鉄板で焼いてくれる高級ステーキ店にいくと、シェフはものすごく気を使っています。まず肉をほどよく熟成させるのが肝心です。肉を切る厚さ、焼き方、焼き具合、客に出すときの大きさ、タイミング、付け合わせ、タレ・・・・・・。すべてに工夫がある。その工夫によって「ゆがみ」は解消し、本来のおいしさだけが残るというしかけになっています。これに人は感動する。これは大トロの「寿司」や「炙り」も同じだと思います。
フォアグラも、レバーが持っている典型的なおいしさが詰まっていることは確かですが、それ自身は「極端」です。それはあたりまえで、フォアグラは自然界には存在しません。「人工的に脂肪肝の状態にした鵞鳥の肝臓」です。ものすごく「凝縮された」感じの味ですが、しかし食材においては「凝縮」が必ずしもおいしいとは限らない。従ってフレンチのシェフは、どういう料理とどう合わせるか、ソテーならどういうソースと合わせるかが腕の見せ所になります。No.13「バベットの晩餐会 (2) 」で書いたバベットのメニューのメイン・ディッシュにフォアグラが出てきます。それはウズラ肉とパイ皮とのコンビネーションでフォアグラの最良の味を引き出すように工夫されていたのだと思います。
霜降り肉・大トロ・フォアグラなどは、単独の食材としてみると「バランスを欠いている」感じです。しかし調理の技で最高の味になる。こういった凝縮されていたり突出していたりする味は応用範囲が広く、プロの腕次第で料理のバリエーションが無限に作り出せるはずです。プロの料理人が重宝するのも、そういう所ではないかと想像します。
芸能人格付けチェック
話はますます「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」から離れるのですが、ここまで書いて、高級食材に関して思い出すTV番組があります。(現在は)正月番組であるフジTVの「芸能人格付けチェック」です。
2010年の正月に放映された「芸能人格付けチェック」で高級牛肉の問題が出されました。AとBの二つの牛肉があります。
◆ 一つは100g 15,000円の隠岐牛
◆ 一つは100g 1,000円のスーパーの牛肉
です。この2つを軽く焼いて、タレにつけて、目隠しで食べて、どちらが100g 15,000円かを当てるというクイズです。AとBのどちらが隠岐牛か、視聴者にも司会者にも明かされていませんでした。
興味津々で芸能人回答者の答えを見守っていたのですが、ある回答者が「Bは救いようのない脂っぽさ。Aがおいしい、Aが正解」というような、Bを強く否定する回答をしたのです。これを聞いて私はBが正解に違いない推測しました。そして案の定、Bが隠岐牛だったのです。なぜTVを見ているだけで正解はBだと推測したのか、その理由は以下です。
この問題の出題者は、回答者をミスリードする「引っかけ」をいろいろと仕組んでいます。まず、わざわざ「スーパーの」という冠をつけて高級でない方の牛肉を紹介していることです。「スーパーの」ということで「安物」という感じが出てくる。「安い」と「安物」は違うのですが、なんとなくイメージとして、そういう雰囲気がかもし出される。
2つ目の「引っかけ」は、回答者になる「セレブ芸能人」は自らスーパーで牛肉を買ったことがないだろうし、ましてや100g 1,000円の牛肉は買ったことがないだろう、という予測のもとにこの問題が作られていることです。その予測は案の定、当たっていたようです。ミスリードされた「セレブ芸能人」は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」を、なんとなくおいしくないものと思い込んだ。ところが事実は全く違います。それは大変においしいものなのです。
私の家の近くにおいて、最も近接した場所にあるスーパーには「100g 1,000円の牛肉」は置いてありません。そこで一番高いのは「100g 780円程度のA4級の牛肉(ヒレ肉)」です。このスーパーの売り文句は「当店の牛肉はA4級でもA5級並においしい」ということなのです。昔からこういう方針でやっています。ちゃんとしたスーパー(特に大手)のバイヤーは、安くておいしい牛肉をどうやって仕入れるか、徹底的に研究しています。それこそが、売上増に直結するスーパーの生命線だからです。バイヤーの豊富な経験にもとづいた「購買力」を甘く見てはいけません。
両親の家で「スーパーに入っている精肉店の100g 1,000円程度の牛肉(地元産プランド牛のロース肉)」を買って、すき焼きをした経験があります。それは、肉の柔らかさや脂の乗り具合、赤身とのバランスが大変よく「うっとりするぐらい、おいしくて、幸福感が得られる」ものでした。もちろん牛肉にもいろいろの部位があり、個人の好みもあります。しかし100g 1,000円は最上位の部類に入ることは間違いないと思います。「芸能人格付けチェック」の回答者は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」と聞いてまず「うっとりするぐらい、おいしいはずだ」と思わないことには、出題者の仕組んだ落とし穴にまんまとはまるわけです。
3つ目の「引っかけ」は「100g 15,000円の隠岐牛は誰が食べても最高においしいだろう」と思い込んでしまうことです。私は「100g 15,000円の隠岐牛」を食べたことがありません。従ってここからは全く推測になりますが、100g 15,000円の隠岐牛は「万人受けする味ではない」のではと、番組を見ていて想像したのです。牛肉に限らず、えてして高級な肉は、その種の肉が持っている本来の特色、その特色の部分を突出させたものが多いように思います。松阪牛などはその典型です。そういう肉をストレートに、しかも「目隠しで」味わうと、バランスを欠いた感じがして違和感さえ覚えるかもしれない。また、ややこしいことに、一般論として食材の本来の姿を際立たせたものを一番おいしいと感じるわけでもないのです。人工的なバイアスがかかった味に慣れてしまった我々は、食材の本来の味が分からなくなっていることが多々ある。
考えてみると、100g 15,000円の隠岐牛はどういう人たちが食べるのでしょうか。会社における接待・社用族や、とにかく高い牛肉を食べたいという金満家は別として、自分のお金で100g 15,000円の隠岐牛を食べる「お金持ちで、真の食通の人」というのは、いろんな牛肉を食べ尽くしていて、何か特別な味、際だった特長を100g 15,000円に求めるのだと思います。それが万人受けするとは限らない。それに対して「スーパーの100g 1,000円の牛肉」は「誰が食べてもおいしいと思う肉」であることは絶対に確かです。そういう肉でないとバイヤーは仕入れないはずです。スーパーなんだから・・・・・・。
4つ目の「引っかけ」は牛肉の調理方法です。「100g 15,000円の黒毛和牛の隠岐牛」は、プロの料理人が肉の熟成度を管理し、目の前で(客の好みも聞いて)焼き、最適にカットし、その肉に合うタレとともに焼きたてを供し、そしてそれを客が即座に食べてこそ真価を発揮するものではないでしょうか。そういった条件がない状況において「隠岐牛」は相対的に不利になると想像できるのです。我々一般人はプロの料理人と違って、料理を味わうことには慣れているけれども、食材を味わうことには全く慣れていません。普通は、料理 = 食材 + 調理技術 を味わっているのであり、特に高級食材は高度調理技術とペアで味わうことしかやったことがありません。そこがプロの料理人との違いです。高級食材を高度調理技術なしにダイレクトに味わえと言われても、そんな未経験のことは簡単ではないと思うのです。
以上のさまざまな「引っかけ」があることを想像すると「芸能人格付けチェック」の回答者が「バランスがとれた」とか「ストレートにおいしい」と感じる肉は「スーパーの100g 1,000円の牛肉」の方だと推測するのは自然です。これが(この問題では)図星だったわけです。
(以降、続く)
No.30 - 富士山と世界遺産 [歴史・文化]
No.18「ブルーの世界」で、プルシアン・ブルーを使った葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の「凱風快晴」をとりあげました。そこからの連想なのですが、画題としての富士山、富士山を愛する日本人の心、および富士山を世界遺産へ登録する運動について書いてみたいと思います。富士山と日本文化
富士山ほど絵画にしばしば取り上げられてきたテーマはないと思います。江戸時代における富士山の版画の連作は北斎だけではありません。安藤(歌川)広重も「富士三十六景」「不二三十六景」「富士見百図」などの連作を書いています。また明治以降も数々の日本画家、洋画家が富士山を描いてきました。
これらの中から一つだけ印象的な絵を日本画の中から取り上げると、2008年に東京国立博物館で「対決 - 巨匠たちの美術」という展覧会がありました。ここで並べて展示してあったのが富岡鉄斎と横山大観の作品です。富士山が芸術家に呼び起こすイメージの多様さに驚きます。
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代表作(の一つ)が富士山の絵である画家は多いし(大観、梅原龍三郎など)、ほとんど富士だけを一生描き続けた画家もいます。富士の絵だけの展覧会も開催されています。
絵画だけでなく、写真撮影のモチーフとして最も取り上げられるのも富士山ではないでしょうか。また和歌・短歌・文学にも、平安時代から数多く登場しています。
さらに大切なことですが、富士山は霊峰であり信仰の山です。山が信仰の対象になるのは日本ではあたりまえなのですが富士山もそうです。関東を中心にある1000社以上ある浅間神社は富士山を神格化した神をまつっています。その総本山は富士宮市の浅間神社で、ここの御神体は富士山そのものです。神社の奥宮は富士の頂上にあり、また8合目以上は今でもこの神社の境内のはずです。富士山に参拝する人も昔から多く、関東一円では江戸時代から「富士講」が盛んでした。現代でも白衣・金剛杖・鈴という姿の登拝者があとを絶ちません。
富士山はまた、切手や紙幣、硬貨にも使われています。つまり日本最高峰として国の象徴であり、日本を代表させる「アイコン」として使われているわけです。日の丸に代わる国旗のデザインをもし考えるとしたら、赤い丸の代わりに富士山をかたどったデザインを配置するのが適当と思えるほどです。
まとめると富士山は「信仰の対象」であり「芸術・文化との結びつき」が強く、さらに「国の象徴」にもなっているわけです。
信仰と文化:海外では・・・
海外で似たような存在はあるでしょうか。アジアに目を向けると、信仰の山・霊峰はたくさんあります。特に中国の道教の聖地である泰山や、チベット仏教とヒンズー教の聖地であるカイラス山(チベット高原)が有名です。
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東山魁夷『黄山雨過』(1978) [site : 長野県信濃美術館] | |||
ヨーロッパの山岳地帯をもつ国、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、ドイツ、スペインなどではどうでしょうか。これらの国では山を信仰するという文化的伝統はないようです。昔にあったとしてもキリスト教の影響ですたれてしまったはずです。山は登山やスキーの対象のようですが、その登山・スキーは近代以降に発達したものです
芸術、特に絵画ではどうか。ヨーロッパに有名な山はたくさんありますが、我々が知っているような著名画家の作品で特定の山を主題にした絵はあまり見た記憶がありません。マッターホルンやモンブランやモンテローザやヴェスビオ山の絵は、誰かが描いていたでしょうか。
さすがに山の「本場」のスイスでは、スイス人画家・ホドラーがユングフラウやアイガー、メンヒなどの山を主題とする絵を描いています。しかしスイスで活躍し「アルプスの画家」と言われたセガンティーニは、アルプス風景をいっぱい描いているわりには、山は背景として描かれるだけで、山を主題として描いたわけではない。山を主題にしたセガンティーニの絵はないはずです。ドイツのフリードリッヒも山岳風景をたくさん描いていますが、特定の山が主題の絵はごく少ないわけです。
フランスやイタリア、スペインは、歴史的にみてスイスやドイツ以上の絵画大国です。しかし山の景色を描いた絵はあるものの、特定の「山を主題にした絵」は少ないと思います。日本では富士山だけではなく、桜島、大山、浅間山、筑波山、磐梯山、八甲田山、出羽三山、羊蹄山などの特定の山が単独でよく画題になりますが、それと対照的な感じです。
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(ロンドン:コートールド美術館) |
ヨーロッパでは山に対する信仰がなく、かつ「山を愛でる」という行為も文化としてなかった感じです。セザンヌのように「故郷や郷土の風景や風土を愛する」というのは当然あるでしょうが・・・・・・。このことを端的に語っている記述があります。
山の名前は?
No.29「レッチェンタールの謝肉祭」でとりあげた、スイス政府外務省がスイスを対外的に紹介しているホームページがあります(http://www.swissworld.org/jp/)。ここに「ハイジ」の一節が紹介してありました。
「ねえ、見て!見て!」ハイジは興奮して叫んだ。「真っ赤に染まったわ!あの雪を見て!すごく高くて、とんがった岩!ペーター、あれは何て言う名前?」「山に名前なんてないよ」とペーターは答えた。 |
「ハイジ」は19世紀後半、1880年頃の小説です。その時点でさえ「山に名前なんてない」のです。人間社会において、モノは名前を付けられることによって初めて認識されます。名前がないということは、物理的に存在するものの、人間文化の観点からは存在しないわけです。「山の本場」のスイスでさえそうだったようです。
日本人の深層心理
以上をまとめると「信仰の対象」「芸術・文化との結びつき」「国の象徴」の3点が成立していることにおいて、富士山は世界でも特徴的だと言えると思います。似た存在としては、山水画のルーツとも言える中国の黄山ぐらいでしょうか。
とにかく日本人は、国の最高峰である以上に「富士山が好き」なようです。なぜそこまで日本人は富士山を「愛でる」のか。その背後にある日本人の富士山に対する心理を推測してみたいと思います。日本最高峰という以上に、普通の日本人が暗黙に抱いている「思い」は、
- 富士山は非常に美しく、それは日本の誇りである。さらにその美しさは世界でみても飛び抜けた美しさである。
しかしある外国人の弁なのですが「確かに富士山は美しいが、大騒ぎすることのほどでもない」という意見を読んだことがあります。新幹線に日本人と一緒に乗ったとき、車窓から見える富士山の美しさを日本人から長々と説明されて閉口したという話でした。果たして富士山は、世界の観点からみてどの程度「美しい」のでしょうか。
成層火山
富士山は成層火山(海抜3776メートル)です。つまり火口から火山灰が長年に渡って噴出され、次第に火口の周りに積もって高くなって出来た山です。従って火山地帯であれば成層火山はそんなに珍しいものではない。世界における成層火山の標高トップ3は次のとおりです。
1.コトパクシ(エクアドル。5897m)
2.キリマンジャロ(タンザニア。5895m)
3.ミスティ(ペルー。5822m)
コトパクシはエクアドルの中央部にあり、今でも噴煙をあげている活火山です。キリマンジャロは、この3つの山では一番知られているアフリカの山ですね。タンザニアの北部、ケニアとの国境付近にあります。ミスティはペルー南部にあるペルー第2の都市、アレキパの郊外にある山です。以下に掲げる写真のように、コトパクシとミスティは富士山と同じ「独立峰」で、かつ「円錐形」をしています。キリマンジャロが円錐形でないのは火口が3つあるからです。いずれも海抜6000メートルに近い高山ですが、こういった山の「威容」は海抜よりも麓から頂上までの「比高」で決まります。たとえばミスティ山のあるアレキパの街は海抜2300メートルを越えています。ミスティ山の比高は3500メートル程度でしょう。その意味では富士山と「いい勝負」です。
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成層火山の標高トップ3は以上ですが、このほかの海抜5000メートル級の山、4000, 3000メートル級の山を含めると、成層火山は世界の火山地帯にいっぱいあります。そのすべてを知っているわけはもちろんないのですが、形の美しさを問題にするなら、コトパクシやミスティーがそうであるように「富士山なみ」の山、つまり「成層火山」で「独立峰」で「円錐形・円錐台形」の山は他にもあるはずです。たとえば南アメリカのパタゴニア地方、アルゼンチンとチリの国境にあるラニン山は「成層火山」「独立峰」「円錐形」で、しかも全くの偶然ですが、標高が富士山と同じ(3776m)です。
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そもそも世界の成層火山をうんぬんする前に、日本においても成層火山は数々あり、羊蹄山(蝦夷富士)、岩木山(津軽富士)をはじめ「何々富士」が日本中にあるくらいだから、富士山のような山が世界中にあっても何らおかしくありません。標高が同じ山があってもおかしくない。それは確率の問題です。
富士山を愛する心
以上からうかがえるのは、富士山が美しい山だというのは全くその通りですが、その美しさが世界的にみて「飛び抜けていて」「ダントツ」であり「他の山を圧倒的に凌駕する美しさ」とは言えないようです。「世界に冠たる山」だという無意識下の思いには根拠がないのです。
しかし多くの日本人はコトパクシやミスティを知らないし、知らないで富士山が「世界に冠たる山だ」と深層心理で思っている。それは主観的にそうだということです。それはそれでよいと思います。富士山を「美しい」と思い「誇り」に思い「愛する」。日本の象徴であり、大切に守るべき自然である・・・・・・。新幹線で外国人に富士山の美しさを長々と説明した人の行為は、自国の誇りを対外的に説明しようとする「シンプルな愛国心」の発露だと思います。
「愛国心」というとちょっと大げさなようですが、国を構成する重要な側面は「自然」です。そして日本の場合、富士山を含む「山」は自然の極めて重要なファクターです。従って「日本を愛する」ことの一部として「富士山を愛する」ことがあって当然だと思います。
富士山と世界自然遺産
以上の考察をもとに、富士山と世界遺産の関係を考えてみたいと思います。以前に「富士山を世界自然遺産に」という動きがありましたが、最終的に日本政府はユネスコへの登録申請はを見送りました。
もちろん「形の美しい成層火山」というだけでは世界自然遺産になりません。「形の美しい成層火山」ということだけで登録ができるなら、ほかにも登録すべき山がたくさん出てくる。富士山が世界自然遺産なのに、5000メートル級のコトパクシやミスティが世界自然遺産でないのは説明がつかないわけです。
ではなぜ富士山は世界自然遺産に申請されなかったのでしょうか。その理由を探るために、登録済の日本の世界自然遺産をみてみたいと思います。日本の世界自然遺産は、
◆屋久島
◆知床
◆白神山地
◆小笠原諸島(2011年6月24日 登録)
の4つです。これらがなぜ世界自然遺産なのか。
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知床は、知床半島とその沿岸海域が世界遺産です。この海域は世界的にみても流氷が到達する南限です。流氷のもたらすプランクトンと魚類、知床半島を遡上する鮭、半島の豊富な植物と熊や鷲などの動物や鳥類、半島から海に注ぐ川がもたらす栄養分。これらが有機的に結びつけられた循環生態系を構成しています。
白神山地(秋田・青森)の世界遺産の理由は、言わずと知れたブナの原生林です。面積は世界でも最大級といわれています。
この3つの自然遺産に共通するのは、日本人として客観的に見ても世界遺産として保護する価値がある自然が残っていることです。もうひとつの共通点は、自然を保護するための厳しい規制があることです。屋久島、知床半島(遠音別岳)、白神山地は自然環境保全地域であり、法律によって開発の規制がされています。知床半島北部の観光は、船から眺めることしかできません。貴重な自然遺産として後世に残すのならこの程度の規制は当然です。
なお、4番目の自然遺産に登録された小笠原諸島ですが、ここは「東洋のガラパゴス」と言われる、生物の固有種の宝庫です。一つの例ですが、何とカタツムリの9割は固有種だと言いますね。小笠原では外来生物から固有種を守るための島民の方々の努力が続けられています。それは無人島に入るときには靴の裏の泥・土を水で洗う(外来種の種子などを持ち込まないため。観光客も)といった地道な努力の積み重ねです。また、飼い猫の飼育に数々の規制を設ける「飼いネコ適正飼養条例」もありますね。猫が希少動物を襲うことを避けるためです。
富士山とその周辺地域には、以上の4つに比べて自然遺産としての価値が弱く、かつ強力な自然保護活動もなかった、ということではないかと思います。樹海や各種の洞穴などの自然が残っていますが、5合目まで自動車道が通り、排気ガスがタレ流されています。また5合目以下はリゾート開発が進んでいます。登山道周辺や樹海がゴミだらけであり、これでは自然遺産にはならないと問題になりました。しかしゴミ問題以前に、富士山とその周辺地域の自然を保護するという強い流れになっていない。国の自然環境保全地域にも指定されていないのです。
そもそも富士山を「自然遺産」に登録しようとした意図は何でしょうか。富士山周辺の自然環境が破壊されていく現状を憂い、自然遺産に登録することによって、それを契機に屋久島・知床・白神山地なみの保護や規制を行うのが目的だとすると、それはそれで理解できます。たとえば世界遺産を契機に、
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5合目より下に厳しい開発規制を敷く |
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5合目まで通じているスバルライン、スカイラインの一般のクルマの通行は禁止する。公共交通(たとえば電気バス)のみ通行可にする。 |
| ◆ | ガイドなしでは入山できないようにする(登山道のゴミは皆無になるはず) |
などです。「遺産」は「次世代に引き継ぐ」ものです。引き継ぐために保護するのは当然です。しかし、どうもそういう目的でもなかったようです。
2009年6月、ユネスコは「ドレスデン・エルベ渓谷」の世界文化遺産登録を抹消しました。周辺の渋滞解消のため4車線の橋の建設が始まり、景観を損なうと判断されたためです。小笠原諸島の人たちは、自然保護のために数々の努力をしていますが、その中には住民生活に不便を強いるものもあるわけですね。世界遺産を守るということは、それによって「利便性」や、一般の国民が享受している「豊かさ」が一定程度失われることを意味します。その覚悟をするかどうかが、登録への出発点だと思います。
富士山と世界文化遺産
現在は富士山を「文化遺産」ないしは、文化と自然の融合体である「複合遺産」に登録しようとする運動がされています。そのポイントは、登録を推進する団体のアナウンスによると「芸術と文化の山」だとのことです。つまり初めに書いたように、日本でにおいて富士山は、絵画、短歌、文学、工芸などの主題として深く関わってきていて、かつ信仰の山だという点です。これは確かにその通りです。
その動きに反対するわけではありませんが、ちょっと危惧するのは「富士山が世界文化遺産として適当だ」という客観的判断から運動がされているのだろうか、という点です。
「富士山を世界文化遺産に」という今の運動の多くの部分は、実は「シンプルな愛国心」から来ているのではないのでしょうか。まず「富士山を世界遺産にするのだ」という「愛国心」ないしは山梨・静岡を中心とする「愛郷心」に裏打ちされた「目標」が先にあって、「世界遺産として適切な理由」が後から付け加えられているような気がする。その証拠に「自然遺産」への登録を見送ったら、手の掌を返すように「文化遺産」が持ち出されている。
「国の誇り」や「愛国心」から世界各国の人が世界遺産登録を言い出したらきりがないし、遺産としての「質」が保てません。富士山が「世界遺産」として適切と考えられるのはなぜなのか、何がユネスコに(世界に)対する訴求点なのか、遺産として何をどのような手段で次世代に伝えるべきなのか、登録を実現するためにもよく考えてみるべきだと思います。
日本の世界文化遺産
ここで自然遺産と同じように、日本の代表的な世界文化遺産をみてみたいと思います。日本の世界文化遺産は11あります。その中の代表的な以下の遺産を考えてみます。
◆京都の文化財
◆奈良の文化財
◆法隆寺地域の仏教建築
◆姫路城
◆紀伊山地の霊場と参詣道
◆原爆ドーム
◆石見銀山
これらの文化遺産を眺めてみると、自然遺産と同じように「世界というレベルで考えて、次世代に引き継ぐべき客観的な価値」が十分あると思えます。それはユネスコの世界遺産登録基準を知らなくても分かる。
京都や奈良の文化財は言うまでもないでしょう。世界的にみて京都・奈良ほど、宗教建築物、歴史的芸術(絵画・彫刻)、庭園、伝統文化の集積地域はあまりないと思います。これほどの密集地域はローマぐらいでしょうか。そのローマは、もちろん世界遺産です。
法隆寺は誰もが知っている「世界最古の木造建築」で、世界的にも有名です。法隆寺にいっぱいある国宝の仏像群を持ち出すまでもなく、この事実だけで世界文化遺産の資格はあると言えるでしょう。
姫路城は400年前に建てられてそのまま残っている木造の城郭です。これは世界的にみてもめずらしい。また白鷺城といわれる白漆喰の美しい姿は、美術品と考えても一級です。
紀伊山地の霊場と参詣道ですが、20近くのの寺院・神社と、熊野・大峰・高野山の参詣道のネットワークと、山と原生林と滝(那智)が一体となった「地域信仰複合体」です。これは千年を超える人間の活動によってできあがってきたものです。
広島の原爆ドームが世界文化遺産として適切なことは論をまたないでしょう。アメリカは反対したようですが、日本は何もアメリカへの非難や「あてつけ」のために世界遺産に登録申請したのではありません。核兵器がない世界を願ってのことです。これはプラハ演説に触発されて「オバマ大統領を広島に招こう」という運動をするのと同じ動機です。
石見銀山は、16世紀から17世紀にかけて、西のポトシ(ペルー)、東のイワミと言われたほど、銀鉱山として世界的に有名でした。No.16「ニーベルングの指輪(指輪とは何か)」で書いたように、銀は通貨や決済手段としては大変重要なもので、銀本位制をとっていた国も歴史上多々あります。ヨーロッパ製の地図で日本を単体で描いた最初の地図(ティセラの日本図)には、すでに石見の地名と銀鉱山の記述があります。当時のヨーロッパの「関心」が何にあったのかがうかがえます。また石見銀山では、まわりの自然環境を破壊することなく銀の採掘・精錬が行われたことも、次世代に残す遺産として重要です。歴上有名なスペインのビルバオ銀山やペルーのポトシ銀山の周辺が荒野になってしまったのとは大きな違いでしょう。
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ティセラ「日本図」
ポルトガルの宣教師、ルイス・ティセラ作成の日本図(1595年頃)。ヨーロッパ製の地図で、日本を単体で描いた最初の地図。[site : 九州国立博物館] |
山陰部分の拡大図
ティセラ「日本図」の山陰地方を拡大したもの。石見の位置に「Hivami」(石見)と、ラテン語で「Argenti fodinae」(銀鉱山)と書かれている。[site : 山陰中央新報] |
文化遺産の「客観性」
以上を考えると、日本の世界文化遺産は、世界に残すべき遺産としての客観的な価値が、日本人から見てもあるようです。決して日本の「ひとりよがり」ではない。また日本人として「誇りに思う」とか「日本人の愛国心」から出たものでもない。確かに、京都、奈良、法隆寺などは「日本の誇り」であり、かつ「世界文化遺産」でしょうが、それは「たまたま」と考えた方がよく、そうでないものもある。
たとえば石見銀山を「日本の誇り」だと思っていた日本人は、歴史学者や地元の人を除いて、どれだけいたのでしょうか。むしろ世界文化遺産に登録されるまで石見銀山の存在さえ知らなかった日本人が多いはずです。さらに原爆ドームのような「誇り」とは無関係な「負の遺産」として残すべきものもある。あくまで次世代に残すべき遺産としての価値の問題なのです。
そこで富士山です。富士山は「世界文化遺産」として価値がどの程度なのか、世界にどう説明できるかです。ユネスコにどのようにロジカルに説明するかです。富士山は信仰の山であり、それが文化遺産に推薦する1つのポイントになっています。確かにそうなのですが、ひつつ気になるのは「紀伊山地の霊場と参詣道」が「信仰のジャンル」で既に世界遺産になっていることです。これに比べて富士山はやや「小ぶり」な感じがする。
やはり富士山の特徴は日本人の芸術・文化活動との結びつきの強さでしょう。しかしこの点をどう対外的に説明するのか。歌舞伎や能などの伝統芸能なら無形文化財として残すことができるし、演じることができるし、見学もできます。しかし富士山に関係した歴史的文化活動の「成果」は日本中に散らばっています。どこか一カ所で「見学」することはできない。どうやって、遺産として可視化して次世代に残すのか。その工夫は我々日本人自身にとっても重要な課題だと思います。
そして思うのですが、富士山を「芸術と文化の山」として世界文化遺産に登録する際の一番の障害となるものは、皮肉なことに「世界文化遺産に登録するという活動の動機」そのものではないでしょうか。「富士山を世界遺産にする国民会議」という組織があります。そのホームページには次のように書いてありました(2011.6.24 現在)。
日本一。とえいば、富士山。 |
No.29 - レッチェンタールの謝肉祭 [歴史・文化]
No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところでヨーロッパの固有文化が残った例としてあげた「レッチェンタールの謝肉祭」の話です。
レッチェンタールの謝肉祭
以前、NHK総合で「地球に乾杯」というドキュメント番組シリーズがありました。1999年4月8日のこの番組で放映された「レッチェンタールの謝肉祭」は、非常に強い印象を残すドキュメントでした。
スイスのレッチェンタールは、イタリアにも近いアルプスの山脈に囲まれた谷です。タールは「谷」であり「レッチェン谷」という意味です。この谷を北に行くとスイス最大のアレッチ氷河にぶつかり、その奥にはユングフラウがあるという位置関係です。この谷間に沿って数個の村が連なっています。番組で紹介されたのは、このレッチェンタールの謝肉祭です。謝肉祭はキリスト教の復活祭の前の40日間である四旬節の、その前に行われる祭り(2月上旬)です。もともとキリスト教の祝祭ですが、カーニバルと呼ばれて一般名詞にもなっているように、大変世俗的な祭りとなっているケースが多いわけです。
しかしレッチェンタールの謝肉祭は独特です。それは同時に行われるチェゲッテの行事です。スイス政府観光局の日本語ホームページから引用します。
チェゲッテの面は村人が代々手作りをしていて、NHKの番組ではその製作の様子も紹介されていました。この番組の録画が手元にないので、レッチェンタールのホームページ、スイス政府(観光局、外務省)のホームページ、およびWikimediaへの投稿から「チェゲッテ」とその「面」を掲げます。
スイス政府観光局のホームページにもあるのですが、チェゲッテを見た日本人は誰しも秋田県・男鹿半島の「なまはげ」を思い出して、あまりにも似ていることに驚くはずです。「なまはげ」は大晦日なので、雪国の冬の行事という点も同じです。
ホームページに「キリスト教が伝わる以前からの宗教や悪霊払いの風習」と書いてあります。この場合の「悪霊」とはいろんな意味が考えられますが、まず第一義的には、人々を雪の中に閉じこめ一切の生産活動を不可能にする「冬をもたらしている悪霊」でしょう。冬の厳しい地帯においては、このタイプの悪霊を払うという行事や宗教儀式が世界中にあります。
「なまはげ」もそうですが、チェゲッテの面は異形というか、恐ろしいというか、大変怖い顔をしています。これは要するに、人々を苦しめている怖い「悪霊」よりさらに数倍怖くして「悪霊」を驚かせて追い出そう、という考えですよね。このコンセプトの「怖い姿」は日本にもいろいろあります。獅子舞などもそうです。不動明王(お不動さん)は、燃え盛る火を背景にカッと目を見開いた恐ろしい形相をしていますが、悪魔を払い、人の煩悩を強制的に断ち切るにはこれぐらいの形相になるのでしょう。
そしてチェゲッテ以上に印象的だったのは、「地球に乾杯」で紹介された地元の老人の言葉です。番組の録画を持ってないので不正確かもしれませんが、次のような意味の発言でした。
「村人の先祖が姿を変えて戻ってくる」
「先祖が我々を守る」
「精霊が谷へとぬけるための穴が家にあけてある」
これを聞いたとき、日本の「お盆」とそっくりだと強く思ったのを覚えています。先祖の霊がお盆の期間に現世に戻ってくる、その霊と交流し、霊を供養して、期間が終われば霊は戻っていく。お盆は、今では仏教行事の一部となっていますが、本来の仏教行事ではないはずです。それは日本人が昔からもっていた信仰、つまり先祖と代々繋がっているという概念によって、今生きている人の位置を確認し、現世の人々の安定を得るという「宗教感情」だと思います。こういった先祖崇拝や祖先霊の崇拝は、日本だけでなく世界中にあるわけです。そしてレッチェンタールにもある。
謝肉祭とは言うものの、チェゲッテやその先祖崇拝的な背景はキリスト教とは何の関係もありません。それは「キリスト教が伝わる以前からの宗教や悪霊払いの風習」の記憶であり、ヨーロッパに古くからあった神々、宗教、ないしは宗教的風習のなごりを強く感じさせるものです。
かつてはスイスの「秘境」であったレッチェンタールにキリスト教が伝わったのは非常に遅く、「地球に乾杯」では確か16世紀ごろと紹介されていたはずです。ということは、前回の No.28 に書いた、日本やマヤへのキリスト教の伝来時期と同じということになります。つまりローマ帝国の末期や中世の時代、北方十字軍が「異教徒征伐」の戦争を繰り返していた時代のレッチェンタールにキリスト教はなく、ルネサンス期になってようやく伝わった。だからチェゲッテのような行事が残った。
もちろんキリスト教が伝わった時点において、現在の形のチェゲッテと全く同じものがあったとは限りません。チェゲッテの面も新しいものがどんどん作られているようだし、昔のものがどこまで残っているのかは定かではありません。しかし何らかの類似の行事があり、それが時代を経て受け継がれてきたことは確かでしょう。そして重要なことは「先祖崇拝に根ざして現世の悪霊を払うという信仰に基づく伝統行事」が、ちゃんと(一部の)ヨーロッパには今でもあるということです。仮面の精霊(ないしは悪魔)が登場する祭りは、レッチェンタールだけでなくドイツ・オーストリア・スイスには数々あります。そしてこの種の信仰が昔はヨーロッパ中にあったのではないでしょうか。それが消滅させられたか、衰退を余儀なくされた。レッチェンタールには残ったけれども・・・・・・。
レッチェンタールの謝肉祭と老人の話に感じるのは、日本から見た「親近感」です。結局のところコアな部分、つまり誰かに押しつけられたのではなく、自然発生的に醸成され長年に渡って消滅しないで継続・伝承されてきた部分だけをとれば、日本とヨーロッパでは意外に共通部分が多いのではないか・・・・・・。そういう思いにかられた番組でした。
(補記)
レッチェンタールの謝肉祭
以前、NHK総合で「地球に乾杯」というドキュメント番組シリーズがありました。1999年4月8日のこの番組で放映された「レッチェンタールの謝肉祭」は、非常に強い印象を残すドキュメントでした。
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| スイスとレッチェンタール |
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レッチェンタールの村 - Kippel http://www.loetschental.ch/en/ |
しかしレッチェンタールの謝肉祭は独特です。それは同時に行われるチェゲッテの行事です。スイス政府観光局の日本語ホームページから引用します。
チェゲッテとは、村の男性が木で彫った恐ろしい形相の面をつけ、ヤギや羊の毛皮をかぶって扮する一種の怪物のようなもの。雪の中を歩き、夜中に家々を訪ね歩いて子供たちを驚かすという様子が、日本のナマハゲに酷似していることから良く話題にされるレッチェンタール(レッチェン谷)のユニークな祭です。キリスト教が伝わる以前からの宗教や悪霊払いの風習と、カトリックのカーニバルの風習が結びついています。さまざまなお面の種類があるのも興味深いところ。かつてチェゲッテの一団は煙突から入っていたことに由来して、煙や煙突を意味する Roich(標準ドイツ語ではRauch)がついてロイチェゲッタという名前で呼ばれることもあります。 |
チェゲッテの面は村人が代々手作りをしていて、NHKの番組ではその製作の様子も紹介されていました。この番組の録画が手元にないので、レッチェンタールのホームページ、スイス政府(観光局、外務省)のホームページ、およびWikimediaへの投稿から「チェゲッテ」とその「面」を掲げます。
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| スイス政府観光局 http://www.myswiss.jp/ |
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| http://www.loetschental.ch/en/ | スイス政府外務省 http://www.swissworld.org/jp/ |
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| [site : Wikimedia] |
スイス政府観光局のホームページにもあるのですが、チェゲッテを見た日本人は誰しも秋田県・男鹿半島の「なまはげ」を思い出して、あまりにも似ていることに驚くはずです。「なまはげ」は大晦日なので、雪国の冬の行事という点も同じです。
ホームページに「キリスト教が伝わる以前からの宗教や悪霊払いの風習」と書いてあります。この場合の「悪霊」とはいろんな意味が考えられますが、まず第一義的には、人々を雪の中に閉じこめ一切の生産活動を不可能にする「冬をもたらしている悪霊」でしょう。冬の厳しい地帯においては、このタイプの悪霊を払うという行事や宗教儀式が世界中にあります。
「なまはげ」もそうですが、チェゲッテの面は異形というか、恐ろしいというか、大変怖い顔をしています。これは要するに、人々を苦しめている怖い「悪霊」よりさらに数倍怖くして「悪霊」を驚かせて追い出そう、という考えですよね。このコンセプトの「怖い姿」は日本にもいろいろあります。獅子舞などもそうです。不動明王(お不動さん)は、燃え盛る火を背景にカッと目を見開いた恐ろしい形相をしていますが、悪魔を払い、人の煩悩を強制的に断ち切るにはこれぐらいの形相になるのでしょう。
そしてチェゲッテ以上に印象的だったのは、「地球に乾杯」で紹介された地元の老人の言葉です。番組の録画を持ってないので不正確かもしれませんが、次のような意味の発言でした。
「村人の先祖が姿を変えて戻ってくる」
「先祖が我々を守る」
「精霊が谷へとぬけるための穴が家にあけてある」
これを聞いたとき、日本の「お盆」とそっくりだと強く思ったのを覚えています。先祖の霊がお盆の期間に現世に戻ってくる、その霊と交流し、霊を供養して、期間が終われば霊は戻っていく。お盆は、今では仏教行事の一部となっていますが、本来の仏教行事ではないはずです。それは日本人が昔からもっていた信仰、つまり先祖と代々繋がっているという概念によって、今生きている人の位置を確認し、現世の人々の安定を得るという「宗教感情」だと思います。こういった先祖崇拝や祖先霊の崇拝は、日本だけでなく世界中にあるわけです。そしてレッチェンタールにもある。
謝肉祭とは言うものの、チェゲッテやその先祖崇拝的な背景はキリスト教とは何の関係もありません。それは「キリスト教が伝わる以前からの宗教や悪霊払いの風習」の記憶であり、ヨーロッパに古くからあった神々、宗教、ないしは宗教的風習のなごりを強く感じさせるものです。
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レッチェンタールの村 Ferden付近 [site : Wikipedia] |
もちろんキリスト教が伝わった時点において、現在の形のチェゲッテと全く同じものがあったとは限りません。チェゲッテの面も新しいものがどんどん作られているようだし、昔のものがどこまで残っているのかは定かではありません。しかし何らかの類似の行事があり、それが時代を経て受け継がれてきたことは確かでしょう。そして重要なことは「先祖崇拝に根ざして現世の悪霊を払うという信仰に基づく伝統行事」が、ちゃんと(一部の)ヨーロッパには今でもあるということです。仮面の精霊(ないしは悪魔)が登場する祭りは、レッチェンタールだけでなくドイツ・オーストリア・スイスには数々あります。そしてこの種の信仰が昔はヨーロッパ中にあったのではないでしょうか。それが消滅させられたか、衰退を余儀なくされた。レッチェンタールには残ったけれども・・・・・・。
レッチェンタールの謝肉祭と老人の話に感じるのは、日本から見た「親近感」です。結局のところコアな部分、つまり誰かに押しつけられたのではなく、自然発生的に醸成され長年に渡って消滅しないで継続・伝承されてきた部分だけをとれば、日本とヨーロッパでは意外に共通部分が多いのではないか・・・・・・。そういう思いにかられた番組でした。
(補記)
- 「地球に乾杯」からの引用を正確にしようと思ってNHKに問い合わせてみたのですが、この番組のアーカイブを見る手段は全くないと言われてしまいました。せめてどこか特定の場所に行って、しかるべきお金を払えば閲覧できるようにならないのでしょうかね。
NHKは「公共放送」のはずだし、私は受信料を衛星放送を含めて支払っている「NHKの顧客」だし、特にドキュメントや記録番組は「国民の財産」でもあるはずなのですが、NHKは全くそうは考えていないようです。
海外旅行が好きな人は多いと思いますが、謝肉祭(カーニバル)のように「特定の短い期間」しか開催されない行事を旅行者として体験するのは非常に困難です。リオのカーニバルぐらいのメジャーなイベントだとそれが目的で現地へ旅行する人もいるでしょうが、まさか2月上旬の雪深いスイスの片田舎へカーニバルを見に行く物好きな人は皆無だと思います。スイスまでスキーに行く人は別として・・・・・・。その意味でもNHKの「レッチェンタールの謝肉祭」のようなドキュメントは貴重です。動画のもつ伝達力は非常に強いのです。
NHKのアーカイブは国立国会図書館と同レベルに考えるべきものだと思います。NHKも是非、心を入れ替えてほしいものです。
No.28 - マヤ文明の抹殺 [歴史・文化]
前回の No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところで、
しかしアメリカ大陸へと波及した「民族伝統の神々の破壊活動」は、日本とは様相が違ったのです。
マヤ文明
マヤ文明は中米に興った文明です。現在の国名ではメキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラスなどに相当します。この地の文明は紀元前から始まり、紀元200年ごろから大きな都市が建設されはじめました。3世紀から9世紀がマヤの繁栄期です。ユカタン半島の有名なチチェン・イッツァ遺跡(世界遺産)はこの時期の後期に建設されものです。マヤは統一国家を形成することはなく、都市国家が散在して合従連衝、興亡を繰り返しました。
そして16世紀になって、この地にスペイン人がやってきたのです。
抹殺されたマヤ文明
2010年11月9日の、NHK BS hi-vison「プレミアム8 世界史発掘 時空タイムズ 古代マヤ文明」で、マヤ文字の解読の歴史と最新の研究成果が紹介されました。マヤ文明は南北アメリカ大陸で発達した文明の中では唯一、文字を持つ文明です。同じ中米のアステカ文明や南米のインカ文明には文字がありません。その意味でマヤ文字の解読は、欧米人が到達する以前の新大陸の様子を知る意味で極めて重要です。
この番組の中で、2008年にアメリカのNOVAプロダクションが製作したドキュメンターが放映されました。このドキュメンタリーはマヤ文字の解読の歴史を詳細にたどり、解読の成果として分かってきたマヤの文化を解説したものです。その前半でマヤ文字の解読が困難な理由、つまりマヤ文字が抹殺された経緯が語られています。実はマヤ文字だけでなく、マヤの伝統や宗教を含む文明そのものが地上から抹殺されたのです。2人の学者がその経緯を語っています。NPO法人「マヤ研究所」の所長、ジョージ・スチュアートと、著名なマヤ学者であるイェール大学のマイケル・コウ教授です。その部分を番組から再録します。
マヤ文字の解読
マヤ文字を書くこと読むことは禁止され、文書は町の広場で焼却処分。文字を書くと処刑される。言葉は話言葉だけが頼りで、物語は口伝で伝えるしかない・・・・・・。レイ・ブラッドベリの名作「華氏451度」(1953) を連想させる話ですが、これは小説ではなく歴史上の実話なのです。これは全くの想像ですが、おそらく「華氏451度」のように、密かに隠されたマヤ文字文書をもとに文字を伝承する秘密裏の行動が行われたのではないでしょうか。見つかると処刑されるので「命懸け」ですが、民族の誇りを伝えるという目的なら人間はその程度のことはやるものです。しかし仮にそうだとしても、マヤ文字は途絶えてしまったのです。
「かろうじて焼け残った書物、ないしは書物の一部は4点だけでした」とあります。番組ではこのうちのドレスデン絵文書(ドレスデン国立博物館)を紹介していました。この絵文書を含め文書はわずかに4点しか残らなかったのです。
マヤ文字は石碑や建造物の壁にも刻まれていました。これらの残された少ない文字を頼りに、マヤ文字を解読するという学者たちの苦闘が19世紀から始まります。マヤ文字のサンプルを入手するのは大変です。密林に分け入ってマヤの遺跡を探し、石碑などの文字を書き写すという作業から始めなければなりません。写真が発達していない時代には、絵文字の書き写しの曖昧さからくる混乱もあったようです。
学者たちの努力の結果、マヤ文字の解読は20世紀になってから急速に進展し、マヤの1500年の歴史が次第に明らかになってきました。神話、天体観測と暦(極めて精密なことで有名)、数の概念、宇宙観などです。また農業や当時の暮らしなど、大航海時代以前のアメリカの様子も解明が進んできました。現代では約4万種と言われるマヤ文字の8割が「読める」ようになったようです。しかし文書が焼却され、そこに書かれていたことが消滅してしまったことには変わりがありません。マヤ文字が読めるようになっても、読む対象が限られているのです。
文明の存在証明
一般に現代人が「古代文明」の存在を認識するのは何をもとにしているのでしょうか。一つは「石で作られた建造物の遺跡」です。ストーンヘンジ、エジプトのピラミッド、ローマのコロッセオやパンテオン、地中海世界一帯に残る水道橋、万里の長城、マチュピチュの「空中都市」などを見ると、その時代に文明が存在したことが誰の目にも明らかです。石で作られた建造物は後世に残りやすいので「文明の存在証明」には非常に有利です。
しかし「石で作られた建造物の遺跡」以上に文明の証明となるのは「文書」です。紀元前後の古代ローマや古代中国は文書が大量に残りそれが継承されているので、文明の様子が手に取るように分かるのです。遺跡がほとんどなくても「文書」が残っていてそれが解読できれば文明の様子は明らかになります。古代メソポタミア文明の遺跡はほとんど現存しませんが、大量に発掘された粘土板に書かれた楔形文字の解読が進んで、文明の様子がはっきりしてきました。
ある日本の歴史学者の発言を読んだことがあるのですが「鎌倉幕府の存在を考古学的発掘から証明することはできない、鎌倉に幕府があったことを証明できるのは文書記録」だそうです。なるほど。日本では「石で作られた建造物の遺跡」はほとんどないし、発掘物だけから鎌倉幕府の存在を証明するのは困難でしょう。
そしてアメリカ大陸に目を向けると、南米のインカの数々の遺跡やマチュピチュの「空中都市」の存在は、そこに高度な文明が存在したことの明かしです。しかしインカは文字を持っていません。その文明の内容は非常に解明しにくいのです。
では中米のマヤはどうでしょうか。現在残っているチチェン・イッツァ遺跡だけを見ても高度な文明の発達を推測できます。そしてマヤ文明は文字を持つ文明でした。もしマヤの文書が全て残っていたのなら、文字は比較的短期間に解読され、この文明の全貌が容易に明らかになったはずです。暗号解読と同じで、文字サンプルは多ければ多いほどよい。しかしそのマヤ文字の文書がたった4点を残して地上から姿を消してしまった。
マヤ文明は、16世紀に文明そのものが地上から消滅したのですが、それだけでなく文字記録が抹殺されることで歴史からも消滅してしまったのです。
文明の消滅
文化は文字がなくても発展できるし、継承できます。このような社会では口伝で継承する技術が発達するはずだし、特定分野の口伝専門家が育成されたり、さらにそれが代々引き継がれたりするはずです。南米のインカは文字なしで文明を築きました。しかし文字を前提とする文化が文字を禁止されると文化の継承は不可能でしょうね。「文字なし文化」や「別の文字文化」に移行するのが一朝一夕に行くとは思えない。それまで継承してきたものはほとんど全て失われていくでしょう。
文字を抹殺するということは、それまであった文化を全て抹殺し、しかも歴史上からも抹殺するということなのです。今からすると信じられないような「残虐行為」なのですが、400年前には実はこういうことが平気で行われていたのです。これはどう考えるべきなのでしょうか。
ヨーロッパの神々
No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後でふれたように、12世紀から13世紀にかけてヴェンド十字軍などの十字軍が組織され、北方ヨーロッパ「異教徒征伐」が繰り返えされました。この結果ゲルマン族やスラヴ族が持っていたその土地固有の宗教とそれに関連していた文化は衰退していきます。
そして十字軍を問題にする以前に4世紀末のローマ帝国の首都で、16世紀のマヤで起こったことと本質的に同じことが起こったのではないでしょうか。No.25で「ローマ人の物語」から引用した「神殿、神の像、皇帝の像、家庭の神棚などの破壊と宗教行事の廃止と禁止」そして No.27 で引用した「図書館の閉鎖」がまさにそうだと思うのです。スペイン人がマヤ文化を破壊した時には文書までもが焼却されました。しかしローマではマヤとは違ってラテン語の文書や文字は残りました。「幸いなことに」破壊したのがローマ人だったので、自分たちの言葉(文字)までは抹殺しようがなかった。
「マヤ人は悲惨な目にあった」わけですが、同じ理屈で「ローマ人も悲惨な目にあった」し、その後に「ヨーロッパ人も悲惨な目にあった」のだと思います。悲惨の程度は違いますが・・・・・・。
しかしヨーロッパにおいてはマヤとは違って、固有文化が全く消滅したわけではありません。ギリシャ・ローマ・ゲルマン・スラヴの神話は伝承され続けています。No.14 - No.17 の「ニーベルングの指輪」はそういった神話を「ネタ」にしているのでした。また紀元前からヨーロッパにあったケルト文化は、近代以降それを発掘・保存し、また伝承しようという動きが広まります。No.8「リスト:ノルマの回想」でふれたベッリーニのオペラ「ノルマ」の主人公はケルトの巫女であり、オペラのストーリーはケルト人社会とローマ軍の葛藤を描いているわけですが、これもケルトに光をあてようという大きな動きの中で出てきた一つの芸術作品だと思います。
そしてヨーロッパの固有文化を強く感じさせる典型的な例が、No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところにも書いた「レッチェンタールの謝肉祭」です。
- 「民族伝統の神々の破壊」はローマやコンスタンチノープルという首都だけでなく、ローマ帝国全域で行われました。さらにその後のヨーロッパの歴史をみると、ローマ帝国の領域の周辺へと「民族伝統の神々の破壊活動」が拡大していきます。
しかしアメリカ大陸へと波及した「民族伝統の神々の破壊活動」は、日本とは様相が違ったのです。
マヤ文明
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チチェン・イッツァ遺跡
マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神)を祀る。春分と秋分の日に太陽が沈む時、遺跡は真西から照らされ、階段の西側に蛇が身をくねらせた姿が現れる。
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そして16世紀になって、この地にスペイン人がやってきたのです。
抹殺されたマヤ文明
2010年11月9日の、NHK BS hi-vison「プレミアム8 世界史発掘 時空タイムズ 古代マヤ文明」で、マヤ文字の解読の歴史と最新の研究成果が紹介されました。マヤ文明は南北アメリカ大陸で発達した文明の中では唯一、文字を持つ文明です。同じ中米のアステカ文明や南米のインカ文明には文字がありません。その意味でマヤ文字の解読は、欧米人が到達する以前の新大陸の様子を知る意味で極めて重要です。
この番組の中で、2008年にアメリカのNOVAプロダクションが製作したドキュメンターが放映されました。このドキュメンタリーはマヤ文字の解読の歴史を詳細にたどり、解読の成果として分かってきたマヤの文化を解説したものです。その前半でマヤ文字の解読が困難な理由、つまりマヤ文字が抹殺された経緯が語られています。実はマヤ文字だけでなく、マヤの伝統や宗教を含む文明そのものが地上から抹殺されたのです。2人の学者がその経緯を語っています。NPO法人「マヤ研究所」の所長、ジョージ・スチュアートと、著名なマヤ学者であるイェール大学のマイケル・コウ教授です。その部分を番組から再録します。
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マヤ文字の解読
マヤ文字を書くこと読むことは禁止され、文書は町の広場で焼却処分。文字を書くと処刑される。言葉は話言葉だけが頼りで、物語は口伝で伝えるしかない・・・・・・。レイ・ブラッドベリの名作「華氏451度」(1953) を連想させる話ですが、これは小説ではなく歴史上の実話なのです。これは全くの想像ですが、おそらく「華氏451度」のように、密かに隠されたマヤ文字文書をもとに文字を伝承する秘密裏の行動が行われたのではないでしょうか。見つかると処刑されるので「命懸け」ですが、民族の誇りを伝えるという目的なら人間はその程度のことはやるものです。しかし仮にそうだとしても、マヤ文字は途絶えてしまったのです。
「かろうじて焼け残った書物、ないしは書物の一部は4点だけでした」とあります。番組ではこのうちのドレスデン絵文書(ドレスデン国立博物館)を紹介していました。この絵文書を含め文書はわずかに4点しか残らなかったのです。
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学者たちの努力の結果、マヤ文字の解読は20世紀になってから急速に進展し、マヤの1500年の歴史が次第に明らかになってきました。神話、天体観測と暦(極めて精密なことで有名)、数の概念、宇宙観などです。また農業や当時の暮らしなど、大航海時代以前のアメリカの様子も解明が進んできました。現代では約4万種と言われるマヤ文字の8割が「読める」ようになったようです。しかし文書が焼却され、そこに書かれていたことが消滅してしまったことには変わりがありません。マヤ文字が読めるようになっても、読む対象が限られているのです。
文明の存在証明
一般に現代人が「古代文明」の存在を認識するのは何をもとにしているのでしょうか。一つは「石で作られた建造物の遺跡」です。ストーンヘンジ、エジプトのピラミッド、ローマのコロッセオやパンテオン、地中海世界一帯に残る水道橋、万里の長城、マチュピチュの「空中都市」などを見ると、その時代に文明が存在したことが誰の目にも明らかです。石で作られた建造物は後世に残りやすいので「文明の存在証明」には非常に有利です。
しかし「石で作られた建造物の遺跡」以上に文明の証明となるのは「文書」です。紀元前後の古代ローマや古代中国は文書が大量に残りそれが継承されているので、文明の様子が手に取るように分かるのです。遺跡がほとんどなくても「文書」が残っていてそれが解読できれば文明の様子は明らかになります。古代メソポタミア文明の遺跡はほとんど現存しませんが、大量に発掘された粘土板に書かれた楔形文字の解読が進んで、文明の様子がはっきりしてきました。
ある日本の歴史学者の発言を読んだことがあるのですが「鎌倉幕府の存在を考古学的発掘から証明することはできない、鎌倉に幕府があったことを証明できるのは文書記録」だそうです。なるほど。日本では「石で作られた建造物の遺跡」はほとんどないし、発掘物だけから鎌倉幕府の存在を証明するのは困難でしょう。
そしてアメリカ大陸に目を向けると、南米のインカの数々の遺跡やマチュピチュの「空中都市」の存在は、そこに高度な文明が存在したことの明かしです。しかしインカは文字を持っていません。その文明の内容は非常に解明しにくいのです。
では中米のマヤはどうでしょうか。現在残っているチチェン・イッツァ遺跡だけを見ても高度な文明の発達を推測できます。そしてマヤ文明は文字を持つ文明でした。もしマヤの文書が全て残っていたのなら、文字は比較的短期間に解読され、この文明の全貌が容易に明らかになったはずです。暗号解読と同じで、文字サンプルは多ければ多いほどよい。しかしそのマヤ文字の文書がたった4点を残して地上から姿を消してしまった。
マヤ文明は、16世紀に文明そのものが地上から消滅したのですが、それだけでなく文字記録が抹殺されることで歴史からも消滅してしまったのです。
文明の消滅
文化は文字がなくても発展できるし、継承できます。このような社会では口伝で継承する技術が発達するはずだし、特定分野の口伝専門家が育成されたり、さらにそれが代々引き継がれたりするはずです。南米のインカは文字なしで文明を築きました。しかし文字を前提とする文化が文字を禁止されると文化の継承は不可能でしょうね。「文字なし文化」や「別の文字文化」に移行するのが一朝一夕に行くとは思えない。それまで継承してきたものはほとんど全て失われていくでしょう。
文字を抹殺するということは、それまであった文化を全て抹殺し、しかも歴史上からも抹殺するということなのです。今からすると信じられないような「残虐行為」なのですが、400年前には実はこういうことが平気で行われていたのです。これはどう考えるべきなのでしょうか。
- マヤ人は悲惨な目にあった
- 当時の、アメリカに渡ったスペイン人はひどいことをした
- ディエゴ・デ・ランダについて私はよく知らないのですが、どういう人物だったのでしょうか。
- A.冷酷非情で(本国では)人々から恐れられていた人物
B.人格高潔で(本国では)人々の敬愛を集めていた人物
- A.冷酷非情で(本国では)人々から恐れられていた人物
ヨーロッパの神々
No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後でふれたように、12世紀から13世紀にかけてヴェンド十字軍などの十字軍が組織され、北方ヨーロッパ「異教徒征伐」が繰り返えされました。この結果ゲルマン族やスラヴ族が持っていたその土地固有の宗教とそれに関連していた文化は衰退していきます。
そして十字軍を問題にする以前に4世紀末のローマ帝国の首都で、16世紀のマヤで起こったことと本質的に同じことが起こったのではないでしょうか。No.25で「ローマ人の物語」から引用した「神殿、神の像、皇帝の像、家庭の神棚などの破壊と宗教行事の廃止と禁止」そして No.27 で引用した「図書館の閉鎖」がまさにそうだと思うのです。スペイン人がマヤ文化を破壊した時には文書までもが焼却されました。しかしローマではマヤとは違ってラテン語の文書や文字は残りました。「幸いなことに」破壊したのがローマ人だったので、自分たちの言葉(文字)までは抹殺しようがなかった。
「マヤ人は悲惨な目にあった」わけですが、同じ理屈で「ローマ人も悲惨な目にあった」し、その後に「ヨーロッパ人も悲惨な目にあった」のだと思います。悲惨の程度は違いますが・・・・・・。
しかしヨーロッパにおいてはマヤとは違って、固有文化が全く消滅したわけではありません。ギリシャ・ローマ・ゲルマン・スラヴの神話は伝承され続けています。No.14 - No.17 の「ニーベルングの指輪」はそういった神話を「ネタ」にしているのでした。また紀元前からヨーロッパにあったケルト文化は、近代以降それを発掘・保存し、また伝承しようという動きが広まります。No.8「リスト:ノルマの回想」でふれたベッリーニのオペラ「ノルマ」の主人公はケルトの巫女であり、オペラのストーリーはケルト人社会とローマ軍の葛藤を描いているわけですが、これもケルトに光をあてようという大きな動きの中で出てきた一つの芸術作品だと思います。
そしてヨーロッパの固有文化を強く感じさせる典型的な例が、No.27「ローマ人の物語 (4) 」の最後のところにも書いた「レッチェンタールの謝肉祭」です。
(次回に続く)
No.27 - ローマ人の物語(4)帝政の末路 [本]
(前回より続く)
帝政による「ローマ文化」の破壊
キリスト教の国教化に至る道筋を読んで強く印象に残るのは、キリスト教徒を組織的に迫害したすぐ後の皇帝がキリスト教を公認しているということです。
ディオクレティアヌス帝(285-305)は「ローマ史上初めての本格的かつ組織的なキリスト教弾圧(第13巻:最後の努力)」に乗り出します。303年の「キリスト教弾圧勅令」は、
・キリスト教教会の破壊
・信徒の集まり、ミサ、洗礼式などの行事の厳禁
・聖書、十字架などを没収し焼却
・教会財産の没収
・キリスト教徒の公職追放
という徹底ぶりです。キリスト教を根絶しようという非常に強い意図が感じられます。
ところがその直後の皇帝・コンスタンティヌス(306-337)は、312年に有名なミラノ勅令を出してキリスト教を公認します。勅令は公認しただけであって国教としたわけではありませんが、その後のコンスタンティヌス帝は国教化に向けた動きとしか思えない行動に出るのです。この時点からテオドシウスス帝(379-395)による392年のキリスト教の国教化は一直線です。ディオクレティアヌス帝によるキリスト教の根絶を目指した大弾圧と、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認。このわずか8年の間に行われた、大弾圧から公認という政策の大転換に、帝国としての統一的な考えがあったとはとても思えません。
では、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認の理由は何でしょうか。それは塩野さんによると「支配の道具としてキリスト教を使うため」です。皇帝が帝国を支配する根拠を「神」に求めたい。この「神」の位置になりうるのは一神教の神しかない。ユダヤ教はユダヤ民族の宗教にとどまっている。消去法で残された選択肢はキリスト教しかない、というわけです。
現実世界における、つまり俗界における、統治ないしは支配の権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、とする考え方の有効性に気づいたとは、驚嘆すべきコンスタンティヌスの政治センスの冴えであった |
「支配の道具」としてキリスト教を位置づけた以上、一神教からみた「異教」は排除しなければなりません。ローマ皇帝自身、ローマの政治システム自身がローマ固有宗教の破壊に邁進し出します。それは、帝国自身による組織的かつ強権的なローマ文化の破壊だったわけです。
文明の破壊
キリスト教の国教化による影響はローマ固有の宗教の破壊だけに止まりませんでした。塩野さんは次のように書いています。
首都ローマだけでも28も存在した公共図書館をふくめ、ローマ帝国の中にあった膨大な数の図書館の閉鎖も始まったのだ。ローマ時代の公共図書館の蔵書は、バイリンガル帝国を反映してギリシャ語とラテン語の書物に2分されて公開されていたのだが、これらの書物の内容はほとんどすべて、異教の世界を叙述したものだからであった。図書館の閉鎖につづくのは、蔵書の散逸である。 |
こういう記述を読んで直感的に思うのですが、公共図書館の書物や、それから派生した各種の知的マテリアルに依存して生活していた人たちがいたはずです。哲学、語学、雄弁術、歴史、天文学、幾何学などの学者や教師、文筆で生計をたてている人などです。こういった知識人はこの時期、社会の隅に追いやられたり、攻撃されたり、おおっぴらに活動できなくなったのではないでしょうか。最低限、彼らは図書館が閉鎖され書物が散逸して意気消沈したはずです。「書物の散逸や破棄、知識の軽視」は、国の存続を危うくする行為の代表的なものだと思います。いや、国の存続を危うくするというより「文明を滅ぼす行為」です。事実、文明の中心地はその後に興ったイスラム世界になっていきます。ギリシャ・ローマの「知」を受け継いだのもイスラム世界です。アラビア語に翻訳され、バグダッドやカイロやイベリア半島のコルドバやトレドに蓄積され研究されたギリシャ・ローマの「知」は、それを西ヨーロッパが発見することでルネサンスへと繋がるわけですね。
塩野さんが書いている「図書館の閉鎖」ですが、この影響を受けて破壊され、蔵書が散逸した世界史上で非常に有名な図書館があります。アレキサンドリアの図書館です。それはプトレマイオス朝のエジプトの時代に作られ、戦乱による建物の破壊と修復を繰り返しつつ維持されてきました。それは数百年かけて蓄積されてきた、ローマ帝国の、というより地中海世界の「知」の結晶であり、文明の粋であったわけです。これを破壊してしまった。
「ローマ人の物語」の最後の数巻を読んで感じるのは、帝政が自らの保身のために、ローマの文化と文明、ローマの強み、ローマがローマたるゆえんを自らの手で破壊していくという、悲惨としか言いようのない姿です。
帝政の末路
帝政が自らの保身のために、ローマを破壊していくという結末を見るにつけ、ローマ的帝政という専制統治システムの機能不全を感じます。
皇帝が国を統治するという「帝政」の機能不全とそれがローマ帝国に与えた悪影響はいろいろあると思いますが、典型的なのは軍人皇帝の乱立です。211年から73年間に、22人の皇帝が登場しては消え、そのうち14人は謀殺だったとあります(第12巻:迷走する帝国)。238年には1年間に5人もの皇帝が(死亡で)退位し、その5人の死亡原因は3人が謀殺、1人が自殺、1人が戦死でした。ローマ皇帝は「終身」です。従って皇帝にふさわしくない人物を「意図的に」退位させるには「謀殺」しかないのでしょう。問題はなぜそのような状況に陥るのか、なぜその程度の人物が皇帝の地位につけるのかです。結局のところローマの帝政は一面からみると実質的な軍事独裁制であり、これが人の心をむしばむという「世界史における共通原理」が働いているのだと思います。第7巻「悪名高き皇帝たち」で描かれている「悪名皇帝たち」もそうです。
そのような帝政であっても優れたリーダが出てくることは当然ある。五賢帝の時代、つまりネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の皇帝の治世時代 (96-180) は優れたリーダが輩出した時代と言えるでしょう(第9巻:賢帝の世紀)。しかし「五賢帝」という言い方が広まったということは、裏を返すと「愚帝が輩出してローマが傾いた」こと人々が感じ取ったからだと思います。73年間に22人の皇帝が乱立したのは、五賢帝のすぐ後の時代(211-283)です。
そしてローマ帝国の最終段階で起こったことは、帝政が自らの保身のために、また皇帝が自らの権力を正当化するために新たな「支配の道具」を持ち込み、ローマの文化やローマがローマたるゆえんをを破壊していくという結末でした。もともとアウグストゥスが完成させたとされる帝政の目的は、簡潔に言うと「広大になった帝国の現状を見据え、意志決定を迅速にして効率的に統治するため」だったはずです。
しかし統治システムを含むあらゆる制度は遅かれ早かれ自己目的化します。自己目的化とは、その制度を作った本来の目的や狙いの実現が二の次、三の次になり、外部環境が変化しているにもかかわらず「制度を守る」ことが第一の目標になることです。なぜ自己目的化するかというと、時間がたつと本来の目的が忘れられるからだし、その制度に依存した既得権益者を生むからです。国のリーダ自身が既得権益者になるという、恐ろしい事態も起こりうる。それ以前に、リーダの周りには既得権益者が群がってくる。
優秀な統治システムとは、その統治システムが自己目的化したときに最も国としての被害が少なく、国家が生き残りやすいシステム、ないしは生き残りやすい方向に自らを修正できるシステムだと思います。そして、自己目的化したときに最悪の制度がローマ的帝政だったというのが率直な感想です。
現代国家における民主制(民主主義)は「あやうい」制度です。民主的に選ばれたリーダが市民を扇動した結果、市民の財産や生命をあやうくするような選択を市民自身が「自由意志で」する、というような事が起こる。現代日本もそれと無縁ではありません。また「民主制の中から独裁制を生む」ようなリスクもあります。完璧と思える民主制の中から、その政体を自ら否定してしまうような国を生んだ20世紀のドイツの例があります。にもかかわらず現代の先進国家の多くが民主制を選んでいる理由は究極的には一つしかないと思います。それは民主制が、制度を守ることが自己目的化したときに最も国民の被害が少なく、衰退の度合いが少なく、国が生き残る可能性が高い統治システムだからです。
混乱の時代
経済が安定的に成長し、外敵の進入少なく、国が安定している時期は、どんな統治システムでも良いのだと思います。安定期のことだけを考えて統治システムの優劣は計れない。統治システムの優劣は、経済の停滞期や下降期、ないしは危機や混迷の時代をどう乗り切れるかにかかっているはずです。「ローマ人の物語」の率直な読後感から言うと危機や混迷を「制度の力」や「システムの力」で乗り切ったのは共和制の時代です。明らかにそう見える。「第2巻:ハンニバル戦記」と「第3巻:勝者の混迷」、および「第4・5巻 ユリウス・カエサル」にはそれが鮮やかに描かれています。
第1巻から5巻までの共和制の時代のローマの政治を形容す言葉を選ぶとすると、一つは「混乱」だと思います。貴族と平民は対立し、その後融和し、再び激しく抗争する。改革を断行するリーダが出現したと思えば、その次のリーダはまったく逆行する政策をとる。そもそも国の指導者層である元老員議員同士が抗争し、内戦状態にもなり、殺し合いにさえなる。独裁的指導者と大衆的指導者がめまぐるしく交代する・・・・・・。仮にオリエントの専制国家の国王から派遣された「大使」がローマに駐在していたとすると「ローマは混乱している。この国の先は長くない」と何度も本国に報告したと思います。常にではないにせよ、そうとしか見えない状況が何度もあったはずです。しかしローマは「長くない」どころか全く逆だった。その「全く逆」を実現したのは、一見「混乱」に見えるもののベースにある「統治システム=ローマ的共和制」であり、宗教を含む広い意味での「文化」なのだと思います。
帝政前期は「パックス・ロマーナ」の時代と言われています。この「パックス・ロマーナ」は共和制の時代に作られた「財産」や「資産」を維持できた時代だと見えます。この財産を、帝政後期に完全に食いつぶしてしまった。
3月15日
「ローマ人の物語」でたびたび引用されているカエサルの言葉があります。
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この言葉の意味は「意図は正しくても、結果や事実として起きていることが、それに反することが多い。人間は意図を大切にし過ぎるから間違う。」ということでしょう。塩野さんもそう解釈しています。
これは一つの「事例」について言っていますが、これを拡大解釈して、カエサルが構想しオクタヴィアヌスが完成させたとされる「ローマの帝政」について当てはめてみるとどうなるでしょうか。広大なローマ支配地域を統治するためには、共和制ではなく一人の皇帝が効率的に統治するローマ的帝政、という「意図」は正しいと思います。しかしその帝国の400年の結果として起こったことは、自らの基盤を破壊するという自殺行為に等しいものでした。「意図は正しくても、結果や事実として起きていることが、それに反する」わけです。カエサルが構想しオクタヴィアヌスが完成させた帝政は、少なくとも失敗の端緒か遠因を作ってしまった。
優秀な人間は「自分のような人間が将来もリーダになる」ということを(そんなことはあり得ないと分かりながら)暗黙に考えてしまいます。「リーダは、目的と手段をとりちがえるような本末転倒のことはしない」と暗黙に考えてしまいます。自分がそうではないからです。しかし優秀でないリーダは必ず出ます。血筋による継承では「玉石混合」になるのはあたりまえだし、リーダが選ばれるタイプの統治システムにおいても、優秀でないからこそリーダに選ばれる(指名される)という例が多々あります。人間社会とはそういうものです。またある制度が定着すると、その制度に依存した既得権者が必ず出現し、制度本来の目的の遂行を妨害します。必然的にそういう動きになります。
紀元前44年3月15日、カエサルは「共和制維持派」の人たちに暗殺されました。「3月15日は西欧人なら誰でも知っているカエサル暗殺の日」(第4巻:ユリウス・カエサル ルビコン以後)です。この日、カエサルを暗殺した人たちは、伝統的なローマの統治体制の維持しか頭にない、保守的で、蒙昧で、先が読めず、既得権益の維持しか頭にない人たちだったのでしょうか。
むしろ、カエサルを暗殺した人たちの方が直感的にものごとの本質を理解していたのかもしれません。なぜなら最も本質をよく理解できるのは、リーダとしての素質・洞察力・実行力が十分にありながら、自分が「本当はリーダとしては愚鈍な人物かもしれないという恐れ」や「既得権にしがみつくような、リーダとしてはふさわしくない人物かもしれないという恐れ」を無自覚に抱いている人間だからです。
内部環境、外部環境の変化にマッチさせて国を運営していくためには、その阻害要因を取り除く「改革」や「変革」や「修正」が不断に必要になります。これが可能なシステムとその実行能力が国家の、そしてもっと一般化すると組織の必須要件でしょう。これが「ローマ人の物語」の、ローマの興亡に関する部分の読後感です。
神々のその後
「民族伝統の神々の破壊」はローマやコンスタンチノープルという首都だけでなく、ローマ帝国全域で行われました。さらにその後のヨーロッパの歴史をみると、ローマ帝国の領域の周辺へと「民族伝統の神々の破壊活動」が拡大していきます。たとえば12世紀から13世紀にかけては「ヴェンド十字軍」という名目のもとに「異教徒征伐」の戦争が行われ、現在のバルト3国やポーランド付近にもキリスト教が普及していきます。これにともなってその土地の固有宗教は絶滅するか、陰に追いやられて行きました。では固有宗教が全く死に絶えたのかと言うと、そうでもありません。それらは神話、伝承、民話、魔女・魔法使い・妖精の伝説や、各地の伝統行事として残ることとなります。
No.22「クラバートと奴隷 (1) 」に書いたように、ヴェンド十字軍の「ヴェンド」とは、もともとゲルマン民族からみた周辺民族、特にスラヴ人をさす言葉です。No.1, No.2 の「クラバート」において、クラバートは「ヴェンド人」と紹介されていました。このヴェンド人という言い方はドイツ語であって、自民族の言葉ではソルブ人です(No.5「交響詩・モルダウ」)。シュヴァルツコルムのクラバートは、その昔「周辺の非キリスト教民族」として征服され、キリスト教に改宗した(させられた)スラヴ系民族の末裔だという気がします。小説「クラバート」はソルブ人に伝わる「クラバート伝説」がもとになっています。水車場の親方、および彼が駆使する「魔法」や「魔法典」は、ソルブ人が本来持っていた神々や宗教の記憶ではないでしょうか。
現代においても、神々の記憶がキリスト教と共存している例もあります。以前、NHKのTV番組「地球に乾杯」で、スイスのレッチェンタールという村の謝肉祭の様子が放映されました。鬼のような異形の面をかぶった人たちが村中をまわるのですが、日本の秋田県の「なまはげ」とどこが違うのかとさえ思いました。謝肉祭ではあるものの、民族の固有宗教・文化の記憶を強く感じさせるものです。
では「ローマの神々」はどうなったのでしょうか。キリスト教(特にカトリック)には、本来の一神教ではありえない「多神教的性格」があります。
・聖母マリアの崇拝
・数々の聖者や聖人、町の守護聖人の存在
・聖者や聖人に関する「聖遺物」への崇拝
・奇蹟の伝承とその崇拝
・ヨーロッパ各地にある聖地への巡礼
などです。ローマの神々はキリスト教の枠内で、数百年の時間を経る中で、形を変えて生き残ったとも言えるでしょう。
人間集団のアイデンティティの再構築には時間がかります。と同時に、消し去ろうと思っても容易にはできないコアな部分があって、それが人間社会の持続性と、それに密接に関係している文化の発達をさえているのだと思います。
No.26 - ローマ人の物語(3)宗教と古代ローマ [本]
(前回より続く)
古代地中海世界における宗教
前回、宗教上の像や施設の破壊の経緯を「ローマ人の物語」から引用しました。以降では、古代地中海世界における宗教がどういうものだったかを振り返り、宗教の破壊がどういう意味をもつのかについての想像を巡らせてみたいと思います。
現代の我々日本人は、多くの人が冠婚葬祭やお正月は別として日常は宗教と疎遠な生活をしています。また政治に特定の宗教が影響するということは、政教分離が原則の国家では考えられません。しかし古代では邪馬台国の卑弥呼がそうであったように宗教は日常生活を支配していたし、政治や軍事とまでも結びついていました。No.8「リスト:ノルマの回想」で書いたベッリーニのオペラ「ノルマ」では、ドルイド教の巫女の神託でローマ軍との不戦(ないしは開戦)が決まるわけです。オペラはあくまでフィクションですが、このように神託で政治や軍事が動く例は、古代中国でも邪馬台国でもエジプトでもガリアでもマヤでも、世界各国にいっぱいあったわけです。
では古代地中海世界のギリシャ・ローマではどうだったのかというと、やはり神託で政治が動く例は多々ありました。まず思い出すのはギリシャにおけるデルフォイ(デルポイ)の神託です。デルフォイはパルナッソス山(アテネの西方)の麓にあった都市国家で、アポロン神殿がありました。ここでデルフォイの巫女(ピュティア)が神託を告げます。この神託はギリシャの人々に珍重され、ポリスの政策決定にも影響を与えました。ギリシャの各都市はここに財産庫を構えて神殿に献納しています。
- ちなみにミケランジェロは、カトリックの総本山であるバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画に古代地中海世界の5人の代表的な巫女を描いていますが、その一人がデルフォイの巫女です。
・・・・・・ゼウスはアテナがために木の砦をば、唯一不落の塁となり、汝と汝の子らを救うべく賜るであろうぞ。・・・・・・ |
この「木の砦」とは以前は茨の垣根に囲まれていたアクロポリスのことであり、従ってアクロポリスに籠城して戦うべきだと解釈する者もいました。しかしテミストクレスは「木の壁」を船と解釈してアテナイ市民に訴え、三段櫂船を主力としてサラミスの海戦に臨み、ペルシャ軍を破りました。もちろん指導者・テミストクレスにしてみると、神託をうまく利用して自分が正しいと考える戦術を実現しただけかもしれません。しかし印象的なのは、ペルシャ戦争においてギリシャ連合軍が最終勝利を得る転機となった「サラミスの海戦」に至る過程において神託が重要な位置を占めていることです。兵士たちが一致団結する原動力にも神託が役立ったことは想像に難くありません。歴史書に書かれていることがすべて事実とは限りませんが、歴史書に「堂々と」書かれるほど神託は身近なものであり、戦争にも影響を与えたということは、最低限認めざるを得ないと思います。- 余談ですが、巫女がトランス状態となって予言の神であるアポロンの神託を告げるのは、活断層から出てくる火山性ガスの効果だと言われています。この説は活断層が見つからないため一時否定されましたが、最近の精密な地質調査によって活断層の存在が立証されました。これについては、日経サイエンス 2004年 1月号 に詳しい論文が載っています。
「火山性ガス」と「巫女」と聞いて直感的に思い出すのは下北半島の恐山ですね。恐山は日本のパルナッソス山というところでしょうか。
ポエニ戦争と女神
この「デルフォイの神託とサラミスの海戦の顛末」と似たエピソードが共和制時代のローマにあります。ペルシャ戦争の時のギリシャのように、ローマが一大危機に陥った時の話です。これはローマと宗教の関係がどういうものかをうかがわせるものです。No.24「ローマ人の物語 (1)」でも引用した、本村凌二・東大教授の「多神教と一神教」から引用します。
前216年、ローマ軍はハンニバル率いるカルダゴ軍に大敗北を喫した。いわゆるカンナエの戦いであるが、その戦死者を上回る戦闘は第一次世界大戦までなかったといわれるほどである。このときローマ人はかかる大敗北の原因として自分たちがあがめるべき神への崇拝を怠ったからではないかと自問する。地中海世界で広く霊験あらたかと信じられていた巫女シビュラの予言にうかがいを立てると、それは小アジアのキュベレ女神であるという。このようにしてキュベレ女神の聖石は大母神としてローマの都に迎えられ、その祭礼の跡は今日でもパラティヌス丘に残されている。この女神の到着後、ローマ軍は反撃し、やがて大勝するのだから、キュベレ女神の加護たるやはかりしれないと喧伝されたにちがいない。 |
このようにして「キュベレ女神」は紀元前3世紀にオリエントからローマに初めて導入されたのですが、同じ本に次のような記述もあります。
キュベレ女神は帝政期の貨幣にも刻印され、公認の祭儀が捧げられている。牡牛と牡羊を殺害する儀礼があり、その血を全身に浴びた者は20年間神聖な人生をおくることができるという。背教者の哲人皇帝ユリアヌス(在位 361-363)にとって、キュベレは「全生命の女主人であり、あらゆる生成の原因者」であった。 |
オリエントからの外来の神であるキュベレ女神は、少なくとも600年近く、ローマで信仰されたことになります。「ローマ帝国の神々」(小川 英雄 著。中公新書。2003)という本には、ローマおよびローマ帝国内に広まったオリエント由来の神々や宗教が詳しく書かれています。それによると、主だった神だけでもキュベレ神(小アジア)、イシス神(エジプト)、ミトラス(ミトラ)教(ペルシャ由来)、ユダヤ教、キリスト教など、多彩です。キュベレ神をローマに迎えた経緯の詳細も書かれているのですが、ローマはこの神の招請のためにプブリウス・スキピオ・ナシカという名門貴族を団長とする公式使節団を小アジアのペルガモン王国に派遣しているのですね。キュベレ女神の聖石とは隕石だったようです。この聖石は紀元前204年4月4日にローマ到着し、パラティヌス丘に安置されました。
このキュベレ崇拝の輸入の効果はすぐに現れた。翌年のうちにハンニバルはアフリカに押し戻され、紀元前202年のザマの戦いでのローマの勝利によって、第二次ポエニ戦争は終わった。 |
キュベレ女神が第二次ポエニ戦争の勝利をもたらしたという「直接の因果関係」を信じるローマの指導者は、さすがに当時でもいなかったのではと想像します。ローマの指導者たちはローマ市民の気を奮い立たせ、団結を再度強固にし、カルタゴとの戦争の局面を打開するために小アジアの神を利用したのでしょう。しかしこれは非常に重要なことだと思うのです。
キュベレ女神だけではありません。オリエント由来の数々の信仰がローマに広まり、それはローマの指導者層にも及んだようです。ポエニ戦争に勝利したあとの内乱状態において、スッラとマリウスの対決があるのですが、「ローマ帝国の神々」には次のように書かれています。
第三次ポエニ戦役(前149-前146)以後の社会変動と内乱はオリエント系の宗教にとって有利に働いた。まず、シリアの地母神アタルガティス信者エウヌスの下で、シチリアのシリア人奴隷が叛乱を起こした。将軍マリウス(前157-前86)にはシリア人の女予言者マルタがいつも離れることなく従っていた。これに対して、マリウスの敵スラ(前138-前78)はカッパドキアの地母神マー・ベローナを信じていた。スラはまた、イシス女神の祭司たちを連れてきた。 |
ローマの活力
このようなエピソードを読むと、ローマ人の「多神教」、つまり「宗教的寛容」を基礎として外来の神をも受け入れ、それを活力の源泉としていくローマ人の伝統的なメンタリティがローマの発展の根幹にあるのではないかと感じます。そして前回の No.25「ローマ人の物語 (2)」で書いたように、4世紀末の時点でこれらのすべての「宗教」は抹殺されてしまいます。これはローマ人のエネルギー源を奪うことになったのではと思うのです。
キュベレ像でも聖石でも、また前回書いたニケ像でもよいのですが、ある神のモニュメント回りに集結したローマの兵士が戦勝を誓ったとします。そしてその行為が最近始まったものではなく百年というレベルの伝統だったとします。そのニケ像なりキュベレ像、聖石が倒されて破棄されたとしたらどうでしょうか。兵士たちに戦意は生まれるのでしょうか。像などは些細なことだと考えるのは、現代人の考え方だと思います。
現代においても「組織がある目標に向かって一致団結し、モチベートされることの強さ」は相当なものです。組織のリーダたるのもは、このモチベートをどうやって実現するのか、それこそが仕事だと言ってもよいでしょう。企業活動を例にとると、もちろんビジネスモデルの優劣や事業戦略の良し悪し、思い切った投資の決断や新事業への進出の判断は重要です。しかし現実はモチベートされ団結した組織さえあれば、戦略や決断はあとからついてくるということがよくある。
現代では「宗教」や「神の像」でモチベートされるわけではなく、企業なら世界最高の製品やサービスを提供するとか、誰もやったことのないことにチャレンジするとか、そういうことです。現代の国家も「戦争の惨禍からの復興」とか「先進国なみの豊かな生活」とかの目標のもとに国民が団結したときは強いし、そういう明白なものを失った時に混迷に至るのは、理解できるはずです。
宗教のありかたが国家の骨格を決めるというのは、近代以前ではあたりまえです。宗教や神のもとに結束して大きな力を発揮することは、有事である戦争に限らずよくあったはずです。ローマは、キリスト教以前の多神教の時代もキリスト教以降も、宗教と国家運営が表裏一体だったことでは一貫していたのではないでしょうか。
ローマの固有信仰
キュベレ女神はオリエントからきた「外来の」神の一つです。しかしもちろん、ローマにはそれ以前から信仰されてた神々がありました。ローマは多神教なので神は数え切れなくあるのですが、まずラテン民族の古来の神であるヤヌス、ラル、ウェスタなどがあります。ローマ建国以来の由緒ある神々は、最高神であるユピテル、ユノ、ミネルヴァの国家の主要三神、マルス、ウェヌス、ディアナなどです。またローマの版図の拡大とともにギリシャの神であるポセイドン、デュオニソス、ヘルメスなども輸入され、信仰されました。ユピテル=ゼウスなど、ローマの神とギリシャの神の同一視(習合)も起こりました。これれらの神は、国家から家庭まで、戦争から日常生活までの守り神です。もちろん国家レベルの祭祀は、国家公務員である最高神祀官・神祀官・祭司という祭司たちがとりしきります。鳥の飛び方をみて未来を占う鳥占官(アウグル)という公務員もいました。日常生活に関係した神の例として「ローマ人の物語」では、夫婦喧嘩の守護神とされた「ヴィリプラカ女神」が紹介されています。
夫と妻の間に、どこかの国では犬も食わないといわれる口論がはじまる。双方とも理は自分にあると思っているので、それを主張するのに声量もついついエスカレートする。黙ったら負けると思うから、相手に口を開かせないためにもしゃべりつづけることになる。こうなると相手も怒り心頭に発して、つい手がでる、となりそうなところをそうしないで、二人して女神ヴィリプラカを祭る祠に出向くのである。 |
相手の言い分を聞かざるを得ない状況になって、興奮が収まっていき、仲直りにつながるというわけです。
ウェスタの巫女
ローマに古くからある固有信仰からの印象的なエピソードを「ローマ人の物語」の中から取りあげます。「ウェスタの巫女」が関係したある「事件」で、これは若きユリウス・カエサルの生涯の分岐点となったものです。話の発端は「独裁者スッラ」の登場です。紀元前1世紀における「民衆派」マリウスと「元老院派」スッラの、血で血を争う内戦の詳細については「ローマ人の物語 第3巻 勝者の混迷」を読むしかないのですが、とにかく紀元前82年にスッラはこの戦いに勝利します。そして「民衆派」の一掃を目指して元老院議員80人を含む4700人の「処罰者名簿」を作成し、処刑と財産没収を始めます。この名簿に18歳の若者の名前があったのです。以下「ローマ人の物語」からの引用です。太字は原文にはありません。
スッラの作成した「処罰者名簿」には、一人の若者の名もあった。マリウスの甥でありキンナの婿であるところから、スッラにすれば若きカエサルも、一掃さるべき「民衆派」の立派な一員だった。 |
塩野さんのこの文章の意図は、引用の最後のところ、スッラが若きユリウス・カエサルを「百人のマリウス」と評したことを書くことですね。つまり「才能は、才能によってのみ認知される」ということだと思います。
しかしそれとは別に、太字の部分に注目すべきことが書かれています。太字の部分の「女祭司(ヴェスターリ)」は、普通ラテン名で「ウェスタの巫女 Vestalis」と呼ばれています(ウェスタの処女、ウェスタの聖女とも言う)。ウェスタの巫女は、かまどの火を司り、家政と結婚の神でもある「ウェスタ神 Vesta」に仕える巫女の一団(6人)です。ウェスタ神はローマの建国以前からラテン民族に伝えられてきた古い神です。巫女となる女性は6~10歳のローマ市民の子女の中から選ばれ、30年の間、実家からは離れて専用の家に住み、勤めを果たします。巫女の最大の責務はパラティヌスのウェスタ神殿の「聖なる火」を絶やさないことです。また各種の聖具を管理し、典礼に参加します。
アルベルト・アンジェラの「古代ローマ人の24時間」(関口英子訳。河出書房新社。2010)は、最新の古代ローマ研究の成果をもとに、紀元115年(皇帝トラヤヌスの時代)のある1日のローマを実況中継風に描いた本です。この中に、パラティヌスの近くで警備隊や従者に囲まれた豪華な飾りの馬車に出会う場面があります。馬車は円形の神殿の前で止まります。
最初に、ベールをかぶった高齢の女性があらわれる。続いて、華奢な女の子が手を借りながら降りてくる。おそらくまだ10歳にもなっていないだろう。ゆったりとした衣服のせいか、動きが少しぎこちない。 |
ウェスタの巫女の最大のポイントは「処女であること」です。従って巫女である間は、彼女たちは純潔を守り通さなければなりません。もしこれに反すると死刑です。この刑の執行方法は独特です。
聖なる火が消えてしまった場合や、巫女が処女を失った場合には、見せしめとしての罰が与えられる。巫女の愛人はフォルムで死ぬまで鞭打たれ、巫女も死刑にされる。ただし、巫女を殺す際には血を一滴も流してはいけないと法律で定められていたため、一塊のパンとランプとともに地下の独房に入れられ、生き埋めにされるのだ。地下の独房はカンプス・スケレラートゥス(呪われた野、の意)というあらかじめ準備された場所にあり、そのまま紛れもない墓となる。 |
実際にこの刑が行われた例が、西暦1世紀から2世紀にかけてのローマ人であるスエトニウスが書いた「ローマ皇帝伝」(国原吉之助訳。岩波文庫。1986)に出てきます。ウェスタの巫女は祭礼を司るだけではありません。塩野さんやアルベルト・アンジェラが書いてるように、ローマ市民の大変な敬意を払われていたと同時に極めて強い「権威」があったようです。この権威について Wikipedia の「ウェスタの処女 (Vestal Virgin)」の項から一部を引用すると、
| ◆ | 競技会や公演会があるときには来賓席が用意された。 |
| ◆ | ローマの女性たちとは異なり、家父長制のもとになく、財産権をもち、意志の表明や投票ができた。 |
| ◆ | 清廉潔白な人間であるとされ、条例のような公文書や重要な決定などでその意見が求められていた。 |
| ◆ | その人格は不可侵なものであった。その身体を傷つけることは死罪を意味し、つねに護衛する人間がついた。 |
| ◆ | 彼女たちは有罪となった囚人や奴隷に面会することで解放してやることができた。 |
| ◆ | 5月15日にはテヴェレ川へアルジェイと呼ばれた宗教的な藁人形を投げ込む役がまかされていた。 |
などです。我々が普通「巫女、女祭司」という言葉から受けるイメージとはかけ離れた「権威」を持っていたわけです。通常の生活から離れてローマのために身を捧げ、処女を貫き通し、厳しい掟を守り、重大な責任を負い、(身代わりの藁人形が) 毎年犠牲になる極めて特別な女性たちの集団。この「特別さ」が権威の源泉ですね。考えてみると、これに類似した話は世界中にありそうです。
- ここまで書いて直感的に思い出すのは、平安時代から鎌倉時代にあった、賀茂神社と伊勢神宮の「斎王」です。上賀茂神社・下賀茂神社では斎院、伊勢神宮では斎宮とも呼ばれていました。いずれも皇室の未婚女性から選ばれ、1~2年の準備期間の後、特別の場所に住みます。賀茂神社では京都・紫野にあった「斎院御所」、伊勢神宮の場合は「斎宮寮」です。そして巫女としての神事を行うわけです。現代の葵祭(賀茂神社の祭)で一般女性から「斎王代」が選ばれるのは古いしきたりを模しています。
斎王は天皇が皇室から神に差し出す未婚女性ですが、ウェスタの巫女の場合、差し出すのも差し出されるのもローマ市民です。このあたりは国のありようの違いが現れていて興味深いところです。
スッラは温情で処罰者名簿からはずすような「甘さ」がある人間では全くありません。冷徹で鋭利な執政官であり、独裁者だった。しかしスッラは非情な独裁者である以前に「ローマ市民」だった。だから処罰者名簿からカエサルをはずした。塩野さんがスッラとマリウスの戦いを記述した巻を「勝者の混迷」と名付けているように、当時のローマはまさに内戦状態です。民衆派と元老院派が激しく論争し、互いに殺し合っている。しかしスッラとウェスタの巫女のエピソードからうかがえるのは、処刑する者と処刑される者があったとしても、その根底のところではローマ市民としての強固な「ある種の価値観」を共有していることです。スッラの一見「甘い」と見える行動に、ローマの真の「強さ」を感じます。
ウェスタ神殿に永遠に燃えていた「ローマの運命を左右する象徴的な意味合いをもつ聖なる火」は、スッラがカエサルを処罰者名簿からはずしてから475年後に消されました。古代オリンピックの廃止と同時期です。それは、ほかでもないローマ皇帝の命令によってです。この聖なる火が消えた時点で実質的にローマは滅んだのではないでしょうか。
聖なる火はローマの信仰の極く一部です。そのほかに固有の神々があり、加えてオリエントからの外来の神々があり、数々の神殿があって各種祭祀が執り行われ、日常生活のあらゆるところに(夫婦喧嘩の守護神までの)神がいた。前回の No.25「ローマ人の物語 (2)」で「ローマ人物語」からいろいろと引用したように、それらはオリエント由来のたった一つの宗教を除いて破壊されたわけです。
ポンペイ展
2010年の3月から6月まで横浜美術館で「ポンペイ展」が開催されたので行ってきました(展示会は日本各地を巡回)。改めて思ったのはポンペイには「神殿、神の像、神を描いたフレスコ画がずいぶんある」ということです。
ポンペイは南北650メートル、東西1200メートル程度の町で、正確な人口は不明ですが、ヴェスビオ山の大噴火の当時は約8000人程度が住んでいたとされます。遺跡の地図をみると西南に公共広場(フォルム)があって、その周りに神殿がかなりあります。ちょっと数えてみただけでも、
| ◆ | アポロ神殿 |
| ◆ | カピトリウム神殿(ローマの3主神であった、ユピテル、ユノ、ミネルヴァを祭る) |
| ◆ | ラル神殿(ラルは家庭の守護神) |
| ◆ | ウェスパシアヌス帝神殿(69-79在位の皇帝) |
| ◆ | ドリス式神殿 |
| ◆ | イシス神殿(イシスはエジプト由来の神) |
という具合です。
ポンペイ遺跡からは、神殿を飾っていた数々の神の像が出土しています。神殿の名称になっている神以外にも、ウェヌス、ヘルクレス、メルクリウス、ポセイドンなど多様です。右の図はポンペイ展に展示されていたウェヌス(ヴィーナス)像(高さ90センチ)ですが、大変に優美で見事な造形です。前に古代の地中海世界にはルーブルの「ミロのヴィーナス」に匹敵する像がいろいろあったはず、という推測を書きましたが、このウェヌス像を見るとそれはほとんど確信となります。No.25「ローマ人の物語 (2)」に引用しましたが、塩野さんはローマにある「カピトリーノのヴィーナス」について「あまりに美しいために破壊するにしのびず、誰かが意図的に隠しておいたものではないか」という推測をしています。しかしこのポンペイのウェヌス像についてはこういった推測は成り立ち得ない。それは「あたりまえのように」ポンペイの町に飾られていて「たまたま」火山噴火で埋まり「運良く」土の中から掘り出されたものに過ぎないことが明白です。それでいてこのレベルの高さなのです。
一方、家庭内をみると、展示品には家の中に祭った「小ぶり」の神々の像がありました。右の図は家の守り神であるラル神の小像(高さ19センチ)です。ポンペイの家庭にはララリウムと呼ばれる小さな祠、あるいは祭壇がありました。塩野さんが「ローマ人の家にはどこでも、神棚と考えてよい、中庭に面した一角に家の守護神や先祖を祭る場所がもうけられていた」と書いている、その「神棚」です(No.25「ローマ人の物語 (2)」の引用を参照)。ラル神はそこに安置されていました。像だけでなくフレスコ画の壁画もあり、神の姿を描いたものも多数あります。展示ではディオニュソスの絵がありました。ディオニュソス信仰はローマでは禁止されていたはずなのですが「地方都市」ポンペイにまでは及んでいなかったようです。
これらを見るにつけポンペイの人たちは私的場所や公的空間にかかわらず、神々の像や絵に囲まれて生活していたことが分かります。それはローマの他の都市でも同じだったはずです。もし仮にポンペイの町が噴火で埋没せずに4世紀まで残り、キリスト教の国教化に遭遇したらどうでしょうか。これらの神殿、像、壁画、家庭内の祭壇は全部破壊され、かつ宗教行事が全部禁止されたことになります。違反すると死刑です。これはいったいどのような影響を人々に与えたのでしょうか。
あなたが京都人なら
私たちはちょっと想像力を働かせる必要があります。1600年前のローマを想像することは困難なので、現代の日本に置き換えて考えてみます。
いまあなたが仮に京都市内に生まれ育ち、京都で働いているとします。町内会の活動にも熱心で、かつ「京都人」であることに誇りを持っているとします。その誇りを支えている極めて重要なファクターは何かというと、それは京都に現存する神社・仏閣であり、1000年レベルの伝統がある京都の各種行事ではないでしょうか。
もし現在、政府によって仏教・神道が「邪教」とされ、京都においてローマ帝国と同じことが、以下のように政府の強権で実施されたと想像してみます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
主要な神社・寺院・仏閣は破壊し、その他は調度品を破棄して建物を別目的に転用する。従って祇園神社、北野天満宮、貴船神社、上賀茂神社、下鴨神社、平安神宮などの主要神社は破壊。清水寺、知恩寺、南禅寺、東本願寺、東寺、銀閣寺、金閣寺、大徳寺、大覚寺、妙心寺、龍安寺、広隆寺、高台寺、東福寺も破壊。五重の塔も破壊。仏像も破棄。広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像も三十三間堂の千手観音像も焼却処分。
仏教に関係する行事はすべて禁止。檀家組織は解体。大文字山などの五山の送り火や、お盆の種々の行事はすべて禁止。神社にまつわる行事も禁止。従って祇園祭りは廃止。祇園祭りに使用する山鉾もすべて焼却処分。葵祭も時代祭も廃止。各町内の秋祭りも禁止。新年の初詣も禁止。
個人の家にある神棚、仏壇、仏像は撤去。各家庭の台所にある「阿多古祀符 火迺要慎」と書かれた火除けの祀符も、これは愛宕神社の祀符だから破棄。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういいう事態になっても、あなたはなおかつ「京都人」だと言い続けるでしょうか。もちろん企業に勤めているので生活には困らないでしょう。しかし政府主導の「新しい京都をつくる会」に参加したいとは全く思わないでしょう。
全く同様のことが奈良でも起こったとします。そうするとすべての神社や寺院・仏像の破壊、宗教関連行事の禁止に加えて、例えば正倉院の宝物は全て焼却処分でしょう。正倉院はもともと東大寺の一部だったのですから・・・・・・。もちろん東大寺の大仏は消失します。こうなると京都・奈良以外の人たちにとっても「日本人としての誇り」の一つが完全に失われたことに気づくと思います。そして京都・奈良の人は思うでしょうね。果たしてこれは日本なのか、と。
重要なのは現代の多くの日本人はそんなに宗教に熱心ではないということです。神社は秋祭りや初詣に参加したり、七五三とか厄除け、合格祈願に訪れる程度が一般だと思います。仏教に熱心な人はもちろん多くいますが、仮に統計をとったとすると、日本人が寺院を訪れる理由は仏像鑑賞を含めた広い意味での「観光」が数で圧倒するのではないでしょうか。
にもかかわらず、神社・仏閣とそれに関連した行事・文物がすべてなくなったとすると「日本でなくなる」。宗教を甘くみてはいけないのです。1000年というレベルで長く国民に浸透した宗教は、国民のアイデンティティーの重要部分を占めています。現代日本で言うとそれは「日常生活」「年中行事」「仕事」「観光」「人生の節目」「美術・芸術」「文学」などと、さまざまな関連性をもった「巨大な体系」を作っているのです。
No.21「鯨と人間 (2)」に、日本に数え切れないぐらいある「動物供養」の話を書きました。しかし「動物供養」どころか、日本では「モノの供養」も数多くあります。人形供養、針供養を筆頭に、印章、筆、入れ歯、下駄、包丁などの「供養」が限りなくあります。そしてこれらの動物供養やモノ供養の背景には、仏教の殺生を否定する教義や、神社のアニミズム的信仰をルーツとする日本人の「宗教感情」があるわけですね。ほとんど意識はされないと思うけれど・・・・・・。動物供養やモノ供養も広い意味での「宗教体系」の一部です。
この「体系」は、一握りの誰かが決めたものではありません。長い年月をかけ、自然発生的に増殖を繰り返してできあがったネットワークです。
「宗教体系」の破壊
現代の京都・奈良と違って、古代ローマの話です。宗教と人間の日常生活や国家運営との結びつきが現代よりもよほど強いわけです。この世のあらゆる出来事は神々の意思によるものと考えられていた時代であり、占いが神々の意思を知るための大切な行為と考えられていた時代です。その「宗教体系」の破壊は国家が滅びかねないほどの影響を持つのではないでしょうか。
それだけではありません。「新たな宗教体系」として採用された当時のキリスト教は一神教です。一神教の特徴は、もちろん他の宗教との共存を拒否し非寛容であることです。しかしもう一つの特徴、むしろ一神教の最大の特徴は、塩野さんが明確に書いていますが「人間の倫理・道徳や生活スタイルに介入する」ということなのです。
ギリシャ・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト教を典型とする一神教のちがいは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。 |
当時のキリスト教を現代のキリスト教と思ってはいけません。当時のキリスト教はピュアな一神教であり、塩野さんが正確に言い当てているように「人間の行いや倫理道徳を正す役割が神の専売特許」である宗教なのです。「行いや倫理道徳を正す」というのも現代のイメージで考えると大きな間違いです。甘く見てはいけません。非常に強く人間の生き方と社会活動を拘束するものです。
たとえば、もし仮に一神教の聖職者が神の教えとして「自分が食べるものだけを生産しましょう、あとは神に祈りましょう」と説教し、農業に従事する奴隷がその通りにしたら、生産性は低下します。それが社会全体に広まったら、奴隷制度を根幹とする国は衰退するはずです。
「利子をとって金を貸すのは悪いことです。やめましょう」と聖職者が教え、国家がそれを後押し、それが国全体に広まったとしら、国の経済力は確実に衰退します。
「戦うことは悪です」と聖職者が説教し、その教えを実践する「兵役拒否者」が続出したとしたら、軍事力は間違いなく低下します。
以上はあくまで想像ですが、ありうることだと思います。実際のところ、最後の「兵役拒否者」の例は塩野さんの本に出てきます(第14巻:キリストの勝利)。「人間の行いや倫理道徳を正す」ことは国のレベルの経済や軍事にまで影響するはずです。これはちょうど現代のイスラム原理主義をかかげる人たちの行動パターンを考えてみると分かりやすいのではないでしょうか。
新渡戸稲造と「武士道」
少し脇道にそれますが「一神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割こそが神の専売特許」という塩野さんの文章に関して思い出す話があります。新渡戸稲造(1862-1933)の「武士道」(1899。明治39年。初版)です。新渡戸稲造は、その序文で次のように書いています。
約10年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。 |
新渡戸稲造が尊敬するこのベルギーの法学者にとって、倫理道徳の教育が宗教のテリトリだということは、何の疑いもなく自明のことなのですね。新渡戸稲造はこの言葉にショックを受け『武士道』書くことになるのです。普通の日本人の感覚では、倫理や道徳は「社会に共有され、受け継がれているもの」であって、特定の宗教とは関係ありません。しかしキリスト教では「人間の行いや倫理道徳を正すのが神の役割」であり、つまり、宗教なしに倫理や道徳(教育)はありえないのです。
新渡戸稲造はキリスト教徒です。尊敬する老教授の言葉にショックを受け「キリスト教を広めて日本に道徳教育を根付かせよう」と考えてもよいはずです。そう考えてキリスト教系学校を設立した人もいたわけだから・・・・・・。しかし彼はそうではなかった。新渡戸稲造の偉いところは、特定の宗教とは無関係に日本にも倫理・道徳の体系はあると考え、それを諸外国に説明するために、英文で『武士道』という本にまとめたことです。『武士道』は世界的なベストセラーになり、現代まで読み継がれています。
『武士道』の序文を踏まえて、話を古代ローマに戻します。キリスト教の国教化前後のローマ帝国では、倫理・道徳についての二つの異なる考えがあったと推定できます。
| ◆A |
古代ローマ(や日本)の伝統的考え方 倫理・道徳は、長年に渡って社会に蓄積され共有された、人間がとるべき行動や態度の規範である。特定の宗教に依存するものではない。 | |
| ◆B |
一神教(キリスト教)の考え方 倫理・道徳を人々に教えるのは宗教の役割である。それこそが宗教の存在理由である。 |
AとBはかなり違います。AをBに完全に転換するということは、並大抵ではないと思います。それは社会を作り直すことに等しく、簡単にはいかないはずです。そのAからBへの「作り直し」をローマ帝国はキリスト教の国教化でやろうとした。社会に共有された共通の価値観(A)は「国のかたち」を決める最も重要なことのはずですが、それが別のもの=キリスト教の倫理・道徳(B)になる。ローマ市民としてのアイデンティティは極めて不安定になり、国のかたちは崩れ、社会が混乱するでしょう。そういう時に強い外圧があれば、国が滅びかねない。ローマ帝国の末期で起こったことは、どうもそういうことだと感じます。
ローマ帝国と宗教の関係を考えるとき
多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。 |
インフラストラクチャの破壊
もちろん、一神教であるキリスト教という新たな宗教のもと、新たな倫理道徳や生活スタイルの体系化を前提とした国を作り、その国を発展させることは可能です。事実、西ヨーロッパは数百年かけてそうなっていきます。しかし、国家のシステム全体を再建するのは、一朝一夕にはいくはずはないのです。
塩野さんの「ローマ人の物語」の大きな特徴は、インフラストラクチャの構築にいかにローマ人が先進的であったかということが詳細に記述されていることです。道路、橋、上下水道、浴場などのハード面はもちろん、法律、教育制度などのソフト・制度面もです。「第10巻:すべての道はローマに通ず」は、1巻がまるまるこのインフラストラクチャの記述に当てられています。こうしたインフラストラクチャのほどんどは「継承」できるわけです。メインテナンスさえすれば継承できます。キリスト教の国教化以降もローマ街道は使われたし、有名な「ローマ法大全」が編纂されたのは、西ローマ帝国が滅亡した後の東ローマ帝国においてでした。しかし、こういったローマ街道に代表されるインフラストラクチャを継承したつもりでも、もっとも本質的なところ、文明を成立させていた最重要のインフラストラクチャ=「人間の心、マインド、アイデンティティ」を、宗教を破壊することによってなくしてしまったのだと思います。その「アイデンティティ」という最重要インフラストラクチャを具体的な目に見える形に可視化し、象徴していたのが、神殿、神々の像、祭壇、聖石、そしてウェスタ神殿に燃え続ける「聖なる火」だった。
No.25「ローマ人の物語 (2)」で書いたように、ローマの宗教は「ローマがローマたるゆえん」であり「ローマの最大の強み」だったのではないでしょうか。その1000年間続いた宗教体系をローマは破壊してしまいました。神の像も、宗教行事も、それと密接な関係があったはずの「人の心」もです。新たな宗教体系のもとに国を再建・再構築するのは、一朝一夕にはできないと思うのです。
(以降、続く)
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ところで本作から二十数年後、ピカソも同じダンス場を取り上げました。タイトルも『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』。しかし見てのとおり、とても同じ場所とは思えません。ルノワールの健全さを嘲笑うかのように、ピカソはこれでもかと隠微な雰囲気を盛り上げます。昼と夜との違いというより、このカフェ自体が次第に売春婦たちのたまり場へと変貌していったという事実があります。だとしても、この、ムンクのような妖しさ。これほどの退廃ムードをピカソは十九歳で、しかもスペインからパリに出てきてまだたった二ヶ月というのに、やすやすと描きあげた。真の天才というのは、実に何とも恐るべきものです。


もちろん見た目も美しいが、なんといっても魅惑的なのは音色だ。300年前には考えられなかったはずの現代の2000人の大コンサートホールに持って出て、きわめて小さな音を出しても客席の一番後ろまでピーンと美しく聞こえる、という現象には驚かされる。ほかの楽器は「そば鳴り」といって、近くでは大きくきれいな音が聞こえるが、大ホールに持って出るととたんに音が貧弱に鳴り、後ろの席まで音が通らない。ストラディヴァリは大ホールに持って出て、初めてその実力が確かめられると言える。両者の違いに大いに気づくことになるのだ。




