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No.4 - プラダを着た悪魔 [映画]


「プラダを着た悪魔」のあらずじ


No.2 『千と千尋の神隠しとクラバート(2)』で「最近もクラバート型のストーリーをもつハリウッド映画があった」と書きましたが、その『プラダを着た悪魔』(2006年公開。米映画)についてです。この映画のあらずじはざっと次のようです。



米国中西部の大学を卒業したジャーナリスト志望のアンドレア・サックス(=アンディ。演じるのはアン・ハサウェイ)は、ニューヨークの著名ファッション雑誌「ランウェイ」の編集長、ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)の第2アシスタントとして「奇跡的に」採用され、働き始めます。

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プラダを着た悪魔
ミランダは知る人ぞ知る「鬼」編集長で、雑誌の内容は隅々まで彼女の意向一つで決まり、編集部員たちは彼女を恐れ、奴隷のように従っています。ミランダのアンディに対する要求の厳しさも半端ではなく、日々の仕事についてはもちろんのこと、悪天候で欠航した飛行機を運行するよう航空会社とかけあえ、など、理不尽な要求も突きつけます。

アンディは必死にミランダの過酷な要求に従っていくのですが、なかなか彼女に認めてもらえません。その鬱積した不満を、ファッション・ディレクターのナイジェルに相談したところ「甘ったれるな」と諭されます。根本的な問題はアンディがファッションに無関心であり、世界的に著名なこの雑誌の価値を認めていないことです。つまり「ランウェイ」編集長のアシスタントは女の子のあこがれの職業であり、ここで働くなら多くの者は命も捧げる。この雑誌は多くの伝説的デザイナーを世に出した輝かしい歴史があり、単なる雑誌ではなくてファッションを志すものたちにとっての「希望の星」だ。それなのに彼女は雑誌に無関心、と・・・・・・。この言葉に目が覚めたアンディは最新ファッションを身につけるようになり、これが一つの転機となってミランダに次第に認められるようになります。

ある日、ミランダはアンディに「今年のパリコレクションには、第1アシスタントのエミリーではなくアンディをつれていく」と言います。アンディは驚いて「それはできない。エミリーはあれだけパリコレ行きを楽しみにしていて、ダイエットにもいそしんでいる、私にはできない」と言うのですが、ミランダは「決めるのはあなたよ」とアンディに迫ります。そして・・・・・・。

経緯があって、アンディはミランダとともにパリに行き、パリでもいろんなことが起こるのですが、結局、そのパリでアンディは自らの意志でミランダの元を去ることを決心します。そして映画の最後で、新聞社に転職します。


クラバート型の物語


アンディを軸に見ると、この映画は一人の女性がファッション誌の編集部という「労働の場」に入り、社会人として自立していく物語です。そこでは、編集長(ミランダ)が全てを支配していて、その命令は絶対です。アンディはこのミランダの支配下で、アシスタントという仕事を必死にこなしていきます。

ミランダは仕事がものすごくできる有能な「トップ」であり、数々のデザイナーを育ててファッション界に君臨しているわけですが、かなりのカリスマ性をもつ人物、もっと言えば、魔法使いのように描かれています。ミランダの「魔法使い」ぶりを象徴するような場面が映画に出てきます。ミランダはデザイナーや編集部員を集めた「プレビュー」と呼ばれるミーティングで、雑誌に登場させる全ての服を自分の目で直接チェックするのですが、プレビューに登場する個々のファッションは、彼女が
1回頷けば、OK
2回頷けば、非常に良い(過去1回しかなかった)
首を振れば、NO
口をすぼめると、見るに耐えない
となります。そのわずかな彼女の動作(魔法!)で、デザイナーや編集部員が一憂一喜、右往左往する様子がおもしろく描かれています。

もちろんミランダが駆使する魔法は「ファッション」という魔法です。それは、現代社会において人々の生活スタイル、趣味、思考に多大な影響を与えていて、希望やあこがれの的にもなっています。なによりもこの資本主義社会において一大産業を構成しています。雑誌「ランウェイ」の編集部のメンバーはその魔法を修得しようと、必死にミランダについているわけです。

アンディはこの魔法の一端を徐々に修得して、この業界で進むことも十分できるところまできます。事実ミランダは映画の最後で「あなたは私に似ている」とアンディに言うわけです。この言葉が引き金となって(たぶんそうです)アンディはミランダの元を去る決心をし、結局、新聞社に転職します。ミランダの生き方が良いとか悪いとか、そういう問題ではなく、自分は別の生き方をする、それが自分だというアンディの「自立」です。

この映画は、アンディが思いがけずに入った「労働の場」において「魔法使い」と対峙しながら社会で生きるすべを獲得していき、そして自立するという骨格をもっていて「クラバート」と相似型です。もちろん「千と千尋の神隠し」の場合と違って「クラバート」の影響を受けたわけではないでしょう。しかし物語の「型」が偶然に似ている例はいっぱいあります。それだけ「クラバート型」の物語が普遍的だということだと思います。


物語の型


整理して、もう一度まとめると、

クラバート
千と千尋の神隠し
プラダを着た悪魔

の3つに共通する「物語の型」があります。それを要約すると次のようです。

社会に出る前の主人公が、ふとした偶然から「労働の場」である組織の中に放り込まれる。
そこでは絶対的な権力をもつ支配者がいて、厳しいルールとともに、組織を隅々までコントロールしている。
主人公はそこに適合しようと、必死になって学び、努力する。その過程で自分なりの考えを確立し、自己を形成していく。
最後に、主人公は支配者と対決して労働の場を去る。そのことで自立を果たし、大人になる。

『クラバート』『千と千尋の神隠し』と同じく『プラダを着た悪魔』も、この「物語の型」をもっています。正確に言うとアンディがファッション誌の編集部に就職したのは彼女が応募したからで、偶然ではありません。しかし、もともと彼女はジャーナリスト志望です。たまたま応募し、面接したミランダの思いつきとも言えるような理由で採用されるのですね。「偶然にアシスタントになった」と言ってもいいと思います。

またアンディはクラバートや千尋より10歳以上も年上であり、社会通念上は少年・少女ではなく、すでに「大人」です。しかしそれは物語の時代設定や背景が他の2つと大きく異っているからに過ぎません。社会の中で自立した人間になるという意味では、アンディもまた、ミランダの支配するファション誌の編集部を通して自己を確立し、意識としてはミランダと「対決」することによって組織を去り「大人になった」わけです。


ミランダの3つのせりふ


映画にはいくつかの印象的な台詞がありますが、それはアンディではなくミランダの台詞(せりふ)に多い。どうも脚本家(女性です)はミランダのような人物にシンパシーを感じているようです。その印象的な台詞の中から3つあげておきます。

 セルリアン・ブルーの由来 

編集部で働きだしたアンディはファッションに興味がなく、ある日も安物のブルーのセーターを着てミランダのオフィスでの打ち合わせに立ち会っています。ミランダの部下の一人が、2種類のベルトのどちらを使うか迷っている、と言ったとき、アンディは思わず「ウフッ」もらしてしまいます。その直後の会話です。

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ミランダ
何か、おかしい?

アンドレア
別に・・・・・・何でもありません。ただ・・・・・・ 私にはそのベルトは全く同じに見えたので。 こんなのは初めてで・・・・・・。

ミランダ
「こんなの」ですって。

なるほど、わかったわ。あなたには関係ないことよね。あなたは家のクローゼットから、そのサエないブルーのセーターを選んだ。「私は着るものなんか気にしない人間」というこを世間に知らせるためにね。

でも知らないでしょうけど、その色はただのブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもない、セルリアンよ。

あなたはこんなことには無頓着でしょうけど、2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがその色のガウンをコレクションで発表し、すぐにイヴ・サン・ローランがセルリアンのミリタリー・ジャケットを発表した。セルリアンは、たちまち8人のデザイナーのコレクションにも登場。そしてついにはデパートにまでも広がっていき、あの悲惨な「キャジュアル服コーナー」にまで現れた。そこであなたがバーゲンの棚から選んだ。

その「ブルー」は巨大市場と無数の労働の象徴なのよ。

とても滑稽ね。あなたは「ファッションとは無縁」と思って選んだのだろうけど、そもそもあなたが着ているそのセーターは、ここにいる私たちが選んだのよ。山のようにある「こんなの」の中からね。

(映画字幕も参考にしながら訳)

尊大で傲慢なミランダが同時にもっている、自信、自負、プライド、誇り、膨大な知識。「青二才」のアンディなどではとても太刀打ちできないわけです。セルリアン・ブルーは「私たちが選んだ」と言っていますね。ファッションはデザイナーが創造するものですが、それを「選び」「世に出す」のは私たちだ、ということでしょう。ちなみに台詞の中に出てくるオスカー・デ・ラ・レンタは、この雑誌が世に出したという想定になっています。だから「私たちが選んだ」と言い切れるのです。

アンディはジャーナリスト志願です。ジャーナリストは社会のため、ファッションは「虚飾」というのが、たぶんアンディの(この時点での)暗黙の考えでしょう。しかしそういう議論は意味がない。ジャーナリストかファッション・デザイナーかが問題ではなく、仕事に対する誇りや使命感があるかないかが問題だ、ということを「セルリアン・ブルーの由来」は暗示しています。「職業に貴賎はない」というようなアバウトな言い方は誤っています。正しくは「職業に誇りをもっている限りにおいて、貴賎はない」のです。

訳に完全に自信があるわけではないので、オリジナルの脚本をあげておきます。

Miranda:
Somethig funny ?

Andy:
No. No, no, nothing's ... You know, it's just that both those belts look exactly the same to me.You know, I'm still learning about this stuff and ...

Miranda:
"This stuff" ?

Oh, okay. I see. You think this has nothing to do with you.

You go to your closet and you select, I don't know,that lumpy blue sweater, for instance because you're trying to tell the world you take yourself too seriously to care about what you put on.

But what you don't know is that that sweater is not just blue. It's not turquoise.It's not lapis.It's actually cerulean.

And you're blithely unaware of the fact that in 2002, Oscar de la Renta did a collection of cerulean gowns and then it was Yves Saint Laurent who showed cerulean military jackets.

Then cerulean quickly showed up in the collections of eight different designers.And then it filtered down through the department stores and trickled on down into some tragic Casual Corner where you, no doubt, fished it out of some clearance bin.

However, that blue represents millions of dollars and countless jobs.

And it's sort of comical how you think that you've made a choise that exempts you from the fashion industry when, in fact, you're wearing a sweater that was selected for you by the people in this room from a pile of "stuff".

このせりふのキーワードは、最初の方に2回、最後に1回出てくる "stuff" という言葉ですね。よく使う単語ですが、日本語訳がぴったりしないことが多い。映画の字幕に従って「こんなの」としました。プロの方の訳はさすがだと思います。

blithe はあまり使わない感じですが、辞書には「陽気な、気さくな、のんきな」とあります。trickle は「したたる」という意味。直前の filter(染み出す)を受けています。

なお、セルリアン・ブルーという色の説明を、No.18「ブルーの世界」に書きました。

 The decision's yours 決めるのはあなたよ 

小説「クラバート」において親方はクラバートを呼び出し「おまえ、わしの後継者になる気はないか」と問います(No.1「千と千尋の神隠し」と「クラバート」)。水車場において親方は「絶対権力者」です。職人たちに命令し、指示し、命令に従わないものを罰し、仕事だけでなく生活の隅々までを支配しています。その強権的な親方がたった一度だけ「おまえが決めろ」と言う場面がここなのです。

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「プラダを着た悪魔」においてミランダはアンディに「パリコレクションにつれていくが、The decision's yours 」と言います。映画において「パリコレ行き」は「ファッション界の正式会員」の一端に登録されるかどうかの象徴になっています。ミランダは「クラバート」の親方のような絶対権力者です。アンディを呼び出して「今年のパリコレにはあなたをつれていくことに決めた、エミリーには私から言っておく、That's all.」と宣告することはいくらでもできるはずです。しかしそうではない。エミリーを押しのけてパリコレに行くことを「決めるのはあなた」なのです。

悪魔の棲む「魔界」に人間を正式メンバーとして入れるかどうか、それを悪魔が最終的に決めることはできません。そこに入ることは大きな力を得ると同時に、失うものも巨大です。ミランダのように・・・・・・。最終的に決めるのはあくまで人間なのです。

 Go! 行って 

この映画の最後の台詞は、車中でミランダが運転手に言う「Go !」です。「行って」というわけですが、彼女の仕事観、人生観に照らすと「前進あるのみ」という意味でしょう。現代社会においてビジネスの最前線にいる人ならこの言葉はよく分かると思います。まさに前進あるのみで「前進しないと倒れてしまう」のです。ある意味では非常に厳しい、つらい状況にあるとも言えるでしょう。

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日本語題名について


日本語訳の話のついでですが、映画の日本語題名についてはちょっと違和感があります。「プラダを着た悪魔」という題では「プラダを着た悪魔、つまりミランダ」と、とられかねない。原題は

  The Devil Wears Prada

です。ごくごくシンプルに英語の教科書通りに解釈すると、

  悪魔はプラダを着ている(ものだ)

という意味ですよね。「(定冠詞の)悪魔の一般的な習性」を言っています。そうシンプルに解釈したほうが映画の内容をより正確に、深く表すと思います。

もう一つ題名についてですが「プラダ」とは何でしょうか。プラダでまず思い浮かぶのはバッグです。もちろん現在ではファッション全般をやっていますが、もともとプラダはよく知られているようにイタリアのバッグ屋さんです。そしてとても印象的なのは、映画にミランダが最初に登場するとき、ミランダ本人を映す前にミランダが持っているプラダのバッグが大写しになることです。

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そしてさらに印象的なのは、ミランダがオフィスに出勤したとき、第2アシスタントであるアンディのデスクの上にバッグをドッと置くシーンが何回も出てくることです。ミランダは「ファッションという権力」を握っているわけですが、アンディに対する「権力の行使と支配の象徴」としてバッグが使われているのです。

プラダが「バッグ」だとすると「着る」はそぐわない。英語の wear は「身につける」こと全般を言いますが、日本語では、服は着る、靴は履く、帽子はかぶる、バッグは持つ、です。ただし「悪魔はプラダをもっている」とすると「持つ」が「所有」の意味になり良くないでしょうね。このあたりは「訳」の難しいところです。「プラダ」を「バッグや衣類を含むファッション全体」ととらえて、日本語としては「着る」で代表させるというのも、もちろんありだと思います。


アンディのその後


この映画のアンディはその後どうなるのか、その「後日談」を想像してみるのもおもしろいと思います。映画の最後でアンディは新聞社に転職し、ファッションという魔法はアンディからは消えてなくなります。しかし、彼女のように優秀であればその新聞社でも頭角を現し、別の「魔法」を修得すると思われます。それはジャーナリズムという「魔法」、報道という「魔法」です。

ファッションと違ってこの「魔法」は、人々を戦争に導くよう扇動もできるし、戦争をやめさせる力になることもできます。政府の不正を暴くこともできるし、不正を隠蔽することもできる。ファッションという「魔法」の力よりも、現代社会ではもっと強大で、結果として人間の生死まで左右しかねない「魔法」です。この「魔法」を手に入れたとき、アンディはかつてミランダから自立したように、冷静に自己を振り返ることができるでしょうか。アンディの真の物語はこの映画の終わったところから始まるわけです。


メリル・ストリープ


難しいことは考えなくても、この映画はメリル・ストリープの演技を見ているだけで十分楽しめます。離婚問題を抱えたミランダがノーメイク(と一瞬思えるメイク)で、アンディに弱音を吐くシーンまであります。このシーンを含めて大袈裟な演技は一つもないのですが、さすがに「ハリウッドの至宝」と言われるだけのことはある、と納得させられました。ゴールデン・グローブ賞主演女優賞受賞作品です。



 補記 

ミランダのプラダのバッグは、アンディに対する「権力の行使と支配の象徴」として使われていると、本文中に書きました。それはその通りですが、最近ある本を読んで、もっと深い意味があるように思えてきました。

中野京子・著『名画の謎』(文藝春秋。2013)という本に、ジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1886)という有名な絵の評論が載っています(No.115「日曜日の午後に無いもの」参照)。絵は、パリ近郊のセーヌ川の中州の光景です。ここで中野さんは、この絵に出てくる女性は誰一人としてハンドバックを持っていない、と指摘していました。

ここにはバッグがない。持っている女性がひとりもいない。この時代の彼女らはごく小さなポシェットを持つことはあっても、いわゆるハンドバッグは持たなかった。財布やハンカチ、鍵、化粧品、鏡、筆記用具、メモ帳、身分証明、眼鏡、本、薬 ・・・・・・。それらを全てポシェットに入れることはできないから、その時々で少量を選んで入れたのだ。

なにしろ淑女しゅくじょは馬車で外出し、支払いその他のめんどうなことは同伴の男性に任せるものであり、ハンドバッグを持つことや働くことそれ自体も蔑視されていた。バッグをい持たないのが淑女であれば、淑女になりたがる。あるいは淑女に見せたがる女性たちも極力何も持たなかった、日傘は持っても。それが時代の文化装置というものだ。


19世紀後半のパリでは、女性はハンドバッグを持たなかった。ということは、外出時に女性がバッグをもつという習慣は20世紀以降に出来上がってきたことになります。ちなみにプラダも20世紀になってできた老舗ブランドです。

バッグには、女性が一人で外出するときに必要なすべてのものが入れられます。今では全くあたりまえすぎてそのことを何とも思わないのだけれど、歴史的に見ると、実は「バッグは女性の自立の象徴」なのですね。もちろんその自立は「一人で外出する」ということから始まったわけで、ミランダのようにキャリアを積んで経済的にも自立する女性が出現するには長い時間がかかりましたが・・・・・・。

その「女性の自立」という含意があるバッグを、さらに極端に進めて「権力の象徴」までにしたのが、この映画でのプラダだと思いました。

(2014.5.24)



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