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No.15 - ニーベルングの指環(2) [音楽]

前回より続く)

ライトモティーフの物語性(2)


前回に類似したライトモティーフとして「指環」と「ワルハラ」、「呪い」と「ジークフリート」の例をあげましたが、さらに別の例をあげます。

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『指環』の最初に出てくるライトモティーフは」「自然の生成」と呼ばれる旋律です(譜例20)。「ラインの黄金」の前奏曲の冒頭、ファゴットとコントラバスの低い連続音が続いた後にホルンで演奏される旋律で、変ホ長調の主和音を力強くシンプルに上昇する、まさに「生成していく」という感じのライトモティーフです。この旋律はその後さまざまに変奏され、「自然」や「ライン河」などの一連のライトモティーフ群を形成します。ここまでは直感的に非常によく理解できます。
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しかし「ラインの黄金」の終わりも近くの第4場になって「自然の生成」のちょっと異質な変奏が出てきます。それが短調の「エルダ」のライトモティーフです(譜例21)。エルダは大地の女神であり、全てを見通している知恵の女神です。そして譜例21とともに登場した彼女は「指環を手に入れるとき破滅が待っている。指環の呪いを恐れよ」と、神々の長であるヴォータンに警告を発します。この場面では「自然の生成」(譜例20)も登場し、譜例21がその変奏であることがクリアに分かるようになっています。

そしてそのすぐあとに、短調の別の変奏(譜例22)がヴァイオリンに現れます。このライトモティーフは「神々の没落(黄昏)」という名前がついていて、これはその後の『指環』の進行の中でしばしば現れます。

つまり譜例20を元に、譜例21、譜例22と変奏が加えられることによって、ほぼ同一のリズムでありながら、

  長調の上昇音階=生成(譜例20)
  短調の下降音階=没落(譜例22)

を表現していて、この2つの混在形のような

  短調の上昇音階=全てを見通している女神・エルダ(譜例21)

を表していることになります。これが意図的なら、どう解釈したらよいのでしょうか。

妥当な解釈は、生成・勃興は衰退・没落に変化するという暗示、あるいは生成・勃興と衰退・没落は表裏一対のものであって、すべてを見通している神はその両方を支配している、という暗示です。つまり、このオペラのテーマの一つを表現しているのだと思います(そうとしか考えられない)。

平家物語の世界を思い起こすなら「盛者必衰」でしょうか。


変奏という手法


要するにこれは「変奏」という音楽の手法を最大限に活用しているわけです。バッハのゴールドベルク変奏曲という曲がありますね。主題に続いて30曲の変奏があり最後に主題が回帰します。初めてこの曲を聞いたとき「えっ、これが全部変奏なの?」と思った記憶があります。しかしよく聞くと、旋律が類似していたり、加工されていたり、和声進行が同じであったりと、やはり変奏曲なのです。バッハに限らず、変奏はクラシック音楽の作曲技法上の最重要技術です。

この「変奏」がライトモティーフと合体するとどうなるか。ライトモティーフはある種の「意味」を持っています。意味を持っている旋律が変奏され「別の意味」で使われると、意味が重ねられて重層的な意味をもつようになるのは当然でしょう。

これは芸術上の手法としては、短歌における「本歌取り」と似ていますね。平安時代後期の歌によくあります。たとえば「私の想いは不変です」という恋歌の本歌をもとに「私の想いは非常に強い」という歌を詠めば「私の想いは以前と変わらず、非常に強い」という意味になる。ごくごく単純化するとそんな感じです。「本歌取り」は現代の歌人も使います。

  秋すぎて冬きたるらしぽやぽやと
  朝しろたえのため息をはく
    (俵万智「かぜのてのひら」より)

歌人は、読者が百人一首にある持統天皇の歌を知っていることを前提にしています。1300年の時を隔てた2つの歌のイメージが重なって(この場合は対比が鮮明になって)意味が強まるわけです。

意味を持つ旋律が変奏され別の意味で使われると、意味が重ねられて重層的な意味をもち、そしてオペラの「構図」や「テーマ」をも暗示するようになる。このことは、私が独断で言っているのではなく、ワーグナー自身が「ラインの黄金」の第1場から第2場への移行の場面(No.14 「ニーベルングの指環(1)」譜例16, 17 のところ)で「音楽で」言っていることなのです。


ライトモティーフの物語性(3)


さらにもっと進んで、ライトモティーフが『指環』のテーマそのものを直接的に指し示していると考えられる例があります。

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『指環』4部作の最後に出てくるライトモティーフは、「救済」ないしは「愛の救済」と呼ばれている旋律です(譜例23)。譜例23は「神々の黄昏」の最後の場面、つまりの『指環』全体の最終場面の第1ヴァイオリンのパートだけを抜き出したものです。この譜例23の最初の2小節が「救済」のライトモティーフです。この旋律は「神々の黄昏」の最後の7分間で支配的な旋律で、かつ「神々の黄昏」ではこの7分間にしか出てきません。
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しかしそれ以前に『指環』という長大なオペラの中で、たった一度だけこのライトモティーフが出てくる箇所があります。それは楽劇「ワルキューレ」の第3幕・第1場で、譜例19(No.14 「ニーベルングの指環(1)」参照)の「ジークフリート」のライトモティーフが初めて出てきた直後です。譜例19の説明で書いたように、この場面でブリュンヒルデは身ごもっているジークリンデをヴォータンの命令にそむいて助けるのですが、それに応えてジークリンデは「おお、もっとも高貴な奇跡よ。最も気高い乙女よ。誠実なあなたに私は感謝します。」と歌います。その時の旋律が、譜例24の「愛の救済」なのです。

なぜ「愛の救済」という名前がこのライトモティーフにつけられているのか。それはブリュンヒルデの「愛」によってジークリンデが「救済」されるからでしょう。しかし、もう少しマクロ的にこの場面を見るとどうなるでしょうか。ジークリンデは身ごもっていて、その子はのちのジークフリートです。この場面は母から子へ、現世代から次世代へ、現在から未来へ、という「命の継承」ないしは「世代の継承」の場面だと考えられます。ライトモティーフは多義的です。譜例23と譜例24が「救済」であると同時に、もっと本質的には次世代への「継承」であっても全くおかしくはない。

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「ワルキューレ」
第3幕・第1場より
譜例24の場面でブリュンヒルデはジークリンデに折れた剣を渡します。この剣は死んだジークムントの形見の剣であり、もとはと言うとジークムントの父であるヴォータンから与えられたものです。後にこの折れた剣は、ジークムントとジークリンデの子であるジークフリートのものとなり、次の楽劇「ジークフリート」ではジークフリート自身が剣をいったん溶解し、新たな剣に鍛え直します。「剣」が「継承」の象徴となっているわけです。

楽劇「神々の黄昏」の最終場面で、ブリュンヒルデは愛馬とともに火の中に飛び込み、ハーゲンはライン河に引きずり込まれ、指環は再びラインの乙女に戻り、ワルハラは炎上します。いささか唐突にすべてが初期状態に戻ってしまうようなニーベルングの指環の最終場面ですが、最後のセリフはハーゲンの「指環に近づくな」です。最後のセリフから「神々の黄昏」の終了までは4~5分もの時間があります。そこでは音楽=ライトモティーフをたよりに結末を読み解かないといけない。そして譜例23の音楽だけが最後まで残ります。その音楽が暗示していることは、この場面は決して終わりではなくて「継承」であり、次の新しい世代の始まりだということです。ここで「継承」の象徴となっているのは言うまでもなく、持ち主の変遷を重ねたあとに再びラインの乙女たちに返された「黄金の指環」です。

つまり『指環』のエンディングは、世界は再び「循環」し「回帰」するという暗示であり、これが『指環』も最も大きなテーマでしょう。ライトモティーフからシンプルに、論理的に考えるとそうなります。従って、譜例23・24は『指環』における最も重要なライトモティーフです。そして、このライトモティーフにつけるべき最適なタイトルは「継承」であり、サブタイトルとして「救済」と言うべきでしょう。


「循環」する世界観


変容し循環する世界観・・・・・・。考えてみると、これは我々日本人にとってもなじみが深いものです。私などは「循環」をテーマにした音楽作品というと、すぐに中島みゆきさんの名曲「時代」を思い浮かべるのですが、絵画に目を向けると No.5 交響詩「モルダウ」のところに書いた横山大観の「生々流転」がまさにそうで「変容」と「循環」をテーマにしています。また音楽・絵画作品だけでなく、文学や民話にも多々あります。さきほどちょっと触れた平家物語などもそうで「諸行無常」や「輪廻」などの思想をもつ仏教の影響を受けているわけですね。

今「仏教」と書いて思い出したことがあります。ちょっと唐突ですが、18世紀のイギリスにウィリアム・ジョーンズという人がいました。彼は裁判官でしたが各国の言語にも通じていました。ジョーンズは当時イギリスの植民地だったインドに判事として赴任し、そこで仕事のかたわら言語の研究を重ね、1786年に驚くべき説を発表しました。インドのサンスクリット語と古代ギリシャ語やラテン語は同一起源の言語だというのです。この説はヨーロッパの学界に大きな衝撃を与えましたが、その後の研究によりこの説は正しいのみならず、ユーラシア大陸の多数の言語を含むグループが同一起源であり、約1万年前にあった「祖語」から分岐・派生してきたということが分かってきたのです。いわゆるインド・ヨーロッパ語族(印欧語)の発見です。現在のヨーロッパの言語のほとんどは印欧語です(フィンランド語、ハンガリー語、エストニア語、バスク語を除く)。またロシア語、チェコ語などのスラブ語族や、イランを中心としたペルシャ語、そしてインドのヒンドゥー語やサンスクリット語までもが印欧語です。

印欧語を話す諸民族が同じ文化をもつとは限らないのですが、神話、歴史観、世界観には多くの類似性・共通性が認められています。その一つは、生と死が交代するという「循環・回帰する歴史観」です。「万物は流転する」と言った古代ギリシャの哲学者がいました(=ヘラクレイトス)。そのほか神性があらゆるものに宿ると考える「汎神論」や「多神教」、また「魂の輪廻」なども共通性があります。ワーグナーが『指環』の原型とした北欧神話、ドイツの伝説・叙事詩、ギリシャ神話は、もちろんこういった印欧語の文化的背景から生まれてきたものです。そしてウィリアム・ジョーンズが最初に指摘したサンスクリット語で教典が記述された宗教の代表格、それが仏教なのです。仏教はヒンドゥー教と同じく印欧語を話すインドのアーリア族の中から生まれ、中国、朝鮮半島をへて日本に伝わり、奈良時代に「国教」となり、日本に多大な影響を与えました。「ニーベルングの指環」と日本の文化がどこかで繋がっていてもおかしくはありません。

また仏教を持ち出すまでもなく、自然環境と共生してきた人々にとって「循環」はごくあたりまえの世界観です。それは横山大観が「生々流転」で描いた水→河→海→水蒸気→雨→水という循環だけではありません。森の木は老いて倒木となり、朽ちて大地に戻り、それが栄養分となって新たな木の土壌になります。秋から冬にかけて植物が枯れ、春に再生し、夏に茂り、それが繰り返されるのもそうです。「ニーベルングの指環」には「自然」や「動植物」がやたらに登場することが思い起こされますね。河、森、樹、トネリコ、洞窟、嵐、虹、日の出、小鳥、蛇、カラス、馬・・・・・・。小鳥のように、セリフをもつ動物さえあります。

「循環」の視点で世界をとらえることは「循環型社会への転換」が叫ばれているように、今後の私たちの社会のあり方にとっても極めて大切なことです。「ニーベルングの指環」というオペラを見て思うのは、ヨーロッパ文化から生まれてきた遠い国の遠い昔の話ではなく、むしろ意外に身近に感じる「親近感」なのです。

続く


 補記:デリック・クックのライトモティーフ解説 

イギリスの音楽学者、デリック・クックが「ニーベルングの指環」のライトモティーフを解説した2枚組CD(英語版)があります。この日本語対訳とライトモティーフ譜例を以下の記事に掲載しました。

No.257-261 "ニーベルングの指環" 入門(1)~(5)

(2019.06.21)


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