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No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族 [歴史]

No.18「ブルーの世界」No.19「ベラスケスの怖い絵」で奴隷に触れましたが、奴隷について思い出した話があるのでそれを書きます。No.1, No.2 『「千と千尋の神隠し」と「クラバート」』で書いたクラバートと、奴隷の関係です。

クラバート少年は水車場において、絶対的権力者である親方のもと、粉挽き職人としての労働にあけくれます。親方は職人たちの "生殺与奪権" をもっており、クラバートは外面的には "奴隷" の状態です。しかしクラバートは職人としての技術を磨き、町の少女と心を通わせ、ついには親方と対決して水車場からの脱出を果たします。クラバート少年は決して奴隷ではありません。もちろん、小説の舞台となった18世紀初頭のドイツのラウジッツ地方に奴隷制度があったというわけでもありません。

しかし、クラバート少年が属する民族に着目すると、奴隷制度とある種の関係があるのです。クラバートはソルブ語を話すソルブ人です。小説『クラバート』の作者・プロイスラーは、ヴェンド語を話すヴェンド人と書いていますが、No.5「交響詩・モルダウ」で書いたようにヴェンドはドイツ語であって、自民族の言葉ではソルブです。そしてソルブは「スラヴ民族」の中の一民族です。そのスラヴは、今の国名で言うと、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ブルガリア、セルビア、クロアチア、モラヴィア、モンテネグロなどを中心に居住する大民族集団であり、各民族が話すそれぞれの言葉はスラヴ語と呼ばれる「大言語族」に属しています。

この「スラヴ」と、英語における奴隷を意味する言葉「スレイヴ(slave)」は同一語源の言葉なのです。なぜそうなっているのか、がテーマです。


スラヴとスレイヴ(奴隷)は同一語源


英語の辞書でもっとも権威があるとされる The Oxford English Dictionary (1933。以下、OEDと略)をみると、Slave の語源の説明に、

identical with the racial name Sclavus (see Slav)

と書いてあります。「語源は民族名である Sclavus と同じであり、Slav の項を見よ」というわけです。民族の名前である現代英語 Slav の項をみると、語源は Sclavus という言葉で、それはスラヴ族を意味する中世ラテン語だとあります。

ではなぜ民族の名前が「奴隷」の語源になったのでしょうかOEDの Slave の項に、その理由の説明があります。原文とともに掲げます。


中央ヨーロッパ地域のスラヴ人たちが、征服によって奴隷の状態になっていたことによる。この意味の転用は9世紀の文献に明確な証拠がある。

・・・・, the Slavonic population in parts of central Europe having been reduced to a servile condition by conquest; the transferred sense is clearly evidenced in documents of the 9th century.

have been reduced という完了形がうまく日本語に置き換えられないのですが、意味としては「(奴隷の状態に)落とされて、それが継続した」ということですね。


実は民族の名前である「スラヴ」を「奴隷」の意味に転用したのは英語だけではないのです。

 sklaveドイツ語
 esclaveフランス語
 schiavo,-va  イタリア語
 esclavo,-va  スペイン語
 escravo,-va  ポルトガル語

などの、現代の西ヨーロッパ言語で奴隷を意味する言葉は、みな中世ラテン語の Sclavus(スラヴ)が語源であり、それが奴隷の意味に転用された、とOEDには説明してあるのです。このことは、西ヨーロッパにおいて「スラヴ人と言えば奴隷、奴隷といえばスラヴ人」という時期があったことを強く示唆しています。


中世ヨーロッパの奴隷貿易


No.20-3 環境と文明の世界史.jpg
「中央ヨーロッパ地域のスラヴ人たちが、征服によって奴隷状態になった、それがスラヴ=奴隷の理由である」というのがOEDの説明なのですが、その背景となったのが中世ヨーロッパの奴隷貿易です。スラヴ人を奴隷にしなければならない理由があったのです。No.20「鯨と人間 (1) 」でも紹介した「環境と文明の世界史」(石弘之、安田喜憲、湯浅赳男。洋泉社新書 2001)という本があります。この本の中で、湯浅・新潟大学名誉教授が、中世においてスラヴ族が奴隷になった事情に触れています。

それによると、ローマ帝国には奴隷制度があったわけですが、西ローマ帝国が5世紀末に滅びても、ヨーロッパにおいては近代まで奴隷の獲得と貿易が続きました。このときの奴隷獲得のターゲットは、主にキリスト教徒でないスラヴ族やスカンジナビアのゲルマン族でした。

9世紀、10世紀になるとヨーロッパ中世の政治体制も整い、王宮もできます。そうすると贅沢品が欲しくなる。絹、宝石、香料、陶磁器などです。これらはほとんどはオリエントからの輸入品です。これを何で支払うのか。支払うものがないときの、最後の支払い手段が奴隷だったというわけです。以下、本からそのまま引用します。


石(東京大学教授)
白人奴隷たちは、アジアまで売られていったのですか?

湯浅(新潟大学名誉教授)
どこへ行くかといったら、オリエントです。

『アラビアンナイト』の挿し絵を見ると、王様の横で白人の大男が腕組みして二人立っているでしょう。あれがそうなんだ!

湯浅
おそらくスラヴ族です。7世紀にイスラムが成立し文明の花が咲きます。そして奴隷に対する膨大な需要が生まれます。一つは労働力として、もう一つはハーレム用の娘と宦官です。それをどこから供給していたのか? 肉体労働は黒人奴隷ですよ。「ザンジ」といわれて、アフリカ東海岸から運ばれてくる。いわゆる白人奴隷は、だいたい8世紀から11世紀の十字軍時代までは東ヨーロッパやスカンジナビアで供給され、キリスト教徒の西ヨーロッパ人が彼らを捕獲するわけです。それをどこに集めるかと言うと、現在のフランス北東部にあるヴェルダンに集積します。

その仲買をやったのがユダヤ人です(バロン「ユダヤ人社会=宗教史」)。中世のユダヤ人が主にどこに集まっていたかというと、ローヌ川の流域とライン川流域です。この二つのルートを使って、スカンジナビアの白人奴隷とスラヴ奴隷をヴェルダンに集め、ローヌ川を下ってマルセイユ近くに出ます。そして、海岸伝いにスペインに入って、当時イスラム帝国の首都だったコルドバに行きます。このコルドバで奴隷を売り払うわけです。

なぜユダヤ人が奴隷の仲買をやるのか? それは、キリスト教国の人間はイスラム諸国に入れません。しかしユダヤ人は、イスラム教国にもキリスト教国にもいる。ここからユダヤ人は奴隷商人という歴史的記憶が執拗にキリスト教国の記憶にやきついた。


「白人奴隷は、だいたい8世紀から11世紀の十字軍時代までは東ヨーロッパやスカンジナビアで供給」と、湯浅さんは述べています。OEDによると、スラヴという民族名が奴隷の意味に転用されるのは(文献でたどれるのは)9世紀からとのことでした。奴隷貿易の時期と一致していることになります。

「ユダヤ民族経済史」(湯浅赳男 著。洋泉社。2008)という本には、この当時の西ヨーロッパとイスラム圏の奴隷貿易のルートが図示されています。

No.22-1 中世ヨーロッパの奴隷貿易.jpg
中世ヨーロッパの奴隷貿易(「ユダヤ民族経済史」より)

湯浅さんはこの本で次のように書いています。


購入した商品には代金を支払わなければならないが、めぼしい商品を持たない国が最後の奥の手として持ち出してくるのが奴隷である。このことは交易する二つの国の間の経済落差があまりに大きいことを示している。


No.22-2 古代ローマ人の24時間.jpg奴隷は、人間という「ありふれた」商品であり、かつ「高値で売れる」「奥の手」商品だったわけです。では、奴隷の値段はどれくらいだったのでしょうか。残念ながら、この時期の奴隷の値段について書いてある書物を読んだ記憶はありません。そこで値段の感覚をつかむために、ローマ帝国時代の奴隷の売買価格をあげておきます。「古代ローマ人の24時間」(アルベルト・アンジェラ著。関口英子訳。河出書房新社。2010)は、紀元2世紀の初頭(西暦115年)のローマを描いたものですが、この中に当時の「物価表」がでてきます。もちろん物価は時代によって変動するし、No.16「ニーベルングの指環(指環とは何か)」で紹介したように、ローマ帝国は3世紀にインフレに見舞われます。しかし2世紀初頭は政治・経済の安定期です。アルベルト・アンジェラは研究の結果、紀元2世紀初頭の1セステルティウス青銅貨が、現在の貨幣価値で約2ユーロだと結論づけています。本の訳者の関口さんはこの貨幣価値をもとに、1ユーロ=120円の換算で価格表を作っています。いくつか選択したのが次の表です。

オリーブオイル 1リットル  約720円 
並のワイン 1リットル  約240円 
小麦 1キログラム  約120円 
トゥニカ(服) 1着  約3600円 
ラバ 1頭  約12万5000円 
奴隷 1人   約29万円~60万円 

紀元2世紀のローマ帝国と8世紀~11世紀の西ヨーロッパの物価事情が似たようなものだとは限りません。しかしこの表で生活必需物資の価格と奴隷の価格を比較した感じはつかめそうです。当然と言えば当然ですが、奴隷はかなりの高額商品です。「めぼしい商品を持たない国が最後の奥の手として持ち出してくるのが奴隷である」と湯浅さんが書いているのは、ズバリだと思います。

スラヴ民族と奴隷の関係についてOEDの説明だけを読むと「(政治的ないしは軍事的理由で)征服されたスラヴ民族が、その結果として奴隷になった」と暗黙に考えてしまいます。征服が先で、奴隷はその結果だと・・・・・・。はたして、そうなのでしょうか。奴隷貿易の歴史からすると、むしろ「奴隷にするために征服された」のではないでしょうか。奴隷の需要があり、商人がいて、交易手段があり、取引で多大な利益が出る。そうすると、暴力的手段を用いてでも奴隷の供給源を開拓しにいく。これが人間社会としては自然な形だと思います。このあたりは、専門家に聞いてみたいものです。



少々わき道にそれますが「めぼしい商品を持たない国が最後の奥の手として持ち出してくるのが奴隷である。このことは交易する二つの国の経済落差があまりに大きいことを示している」という湯浅名誉教授の文章から、いやがおうでも思い浮かべるのは古代における中国大陸と日本列島の関係です。

20世紀の東洋史学の第一人者、宮崎市定(1901-1995。京都大学教授)は、「東洋史の上の日本」で次のように書いています(引用中の「幌馬車」と「トラック」は、前後の文脈上の比喩です。下線は原文にはありません)。


アジアの東西を貫く交通の大幹線において日本はその東の終点である。これから更に東は太平洋であるから進みにくい。この終点へ、青銅製の幌馬車と、鉄製のトラックとが同時についたから、さア日本は大へんだ。今まで新石器時代の惰眠をむさぼっていた日本人は、上を下への大騒動を演じた。新しい文化が輸入されるということは、今まで大した価値のなかったものに急に値が出たことを意味する。先ず第一に値が出たのは人間だ。人間をつかまえて楽浪郡へ持っていけば奴隷として買ってくれる。その代償に鏡だと刀剣だのをもらって帰れる

宮崎市定『東洋史の上の日本』(1958)
『アジア史論』(中央公論新社。2002)所載


中世ヨーロッパ奴隷貿易の終焉


スラヴ民族と奴隷の話に戻ります。湯浅さんは「白人奴隷は、だいたい8世紀から11世紀の十字軍時代までは東ヨーロッパやスカンジナビアで供給」と言っています。つまりこの間が奴隷貿易の最盛期で、その後は衰退に向かうのです。この間の事情はどうなのでしょうか。

10世紀の西ヨーロッパに「神聖ローマ帝国」が出現すると、帝国の東方に住んでいたスラブ人に対する征服と、逆に征服されたスラブ人の蜂起が繰り返されるようになります。そして12世紀に中頃(1147)にはローマ教皇の「教勅」のもとに「ヴェンド十字軍」が組織されます。十字軍というのは、当初は聖地エルサレムのイスラム教徒からの回復を目的としたものでしたが(第1回十字軍は11世紀末。1096年)、それは拡大解釈され「異教徒征伐」ための軍が東・北部ヨーロッパにも向けられたのです。このあたりの経緯は『北の十字軍』(山内進 著。講談社選書メチエ。1997)に詳しく書かれています。なお「ヴェンド」という言葉は、当時のドイツからみた周辺の異民族、特にスラヴ民族を指す言葉ですね。クラバートの民族をドイツ語で「ヴェンド人」と呼ぶのもこの名残りです。

この結果、今のポーランド、バルト3国、そしてさらにはスカンジナビア地方にまでキリスト教が広まっていきました。キリスト教徒がキリスト教徒を奴隷とすることは原則として禁止です。この結果、上の図に示された奴隷貿易は次第になくなっていきました。つまり「ヨーロッパ全域がキリスト教化されたため、次第に奴隷貿易がなくなっていった」、これが普通の説明だと思います。しかし、それだけなのでしょうか。

ここで世界史の復習をしてみたいと思います。北アフリカを支配したイスラム勢力(ウマイヤ朝)は、8世紀にジブラルタル海峡を渡り、現在のスペインにあった西ゴート帝国を滅ぼし(711)イベリア半島の多くを支配下におさめます。732年には、現在のフランスのトゥール・ポワティエでフランク王国軍と戦うという、世界史上有名な戦闘までありました(フランク王国の勝利)。フランスへの進出はなりませんでしたが、コルドバを首都としたウマイヤ朝は発展を続け、10世紀に最盛期を迎えます。しかし11世紀(1031)に複数の小国に分裂してしまいます。それらの小国は次第にキリスト教国に滅ぼされていき(=キリスト教国からみたレコンキスタ)、最後に残ったイスラム国家であるグラナダ王国が陥落したのが1492年(コロンブスのアメリカ発見の年)です。

No.22-3 Cordoba-Mezquita1.jpg
No.22-4 Cordoba-Mesquita2.jpg
「メスキータ」と
その内部の「円柱の森」

(スペイン政府観光局のホームページより)
ちなみに、10世紀のコルドバは人口が100万人を超えていて、間違いなくヨーロッパ最大の都市でした。我々が習ったヨーロッパの歴史からはイスラム世界であった頃のスペインが意図的に除外されているようなのですが、当時のコルドバは経済面でも文化面でもヨーロッパの中心です。上に掲げた「中世ヨーロッパの奴隷貿易」という図も、コルドバがヨーロッパの中心だったと考えるとよく理解できます。現在のコルドバは市内の「コルドバ歴史地区」が世界遺産に指定されています。この世界遺産の「目玉」は、スペイン政府観光局のホームページにもあるようにメスキータとユダヤ人街です。メスキータ(モスクの意)はもともとイスラム教のモスクとして建設され、レコンキスタ後にキリスト教の教会に改装されたものです。コルドバがイスラム教、ユダヤ教、キリスト教という3つの宗教が交錯する接点でだったことがよくわかります。

本題に戻ります。8世紀から11世紀という中世ヨーロッパの奴隷貿易の時期は「イベリア半島におけるウマイヤ王朝の成立から、その最盛期、国の分裂までの時期」にあたっていることになります。奴隷貿易がなくなっていったのは、奴隷を大量購入する裕福な国家がイベリア半島からなくなっていき(=需要が減少し)、かつ、最大の需要先であったオリエントまでの奴隷交易ルートが絶たれたのが原因ではないかと思うのです。奴隷の需要があり、商人がいて、交易手段があるのなら、たとえ遠隔地であってもキリスト教圏の外へ外へと奴隷の供給地を開拓しにいくはずですね。私は西洋史の専門家ではないのでこのあたりの事情はよく知らないのですが、一度、有識者に聞いてみたいと思います。

西ヨーロッパ各国の言語において「スラヴ」と「奴隷」が同一語源である理由は、今まで書いたような歴史的経緯によります。しかし初めに書いたように「スラヴ」は大民族集団で、その "本拠地" とも言えるのはロシア平原です。そしてロシア平原のスラヴ民族は中世において、西ヨーロッパ経由とは別ルートで奴隷貿易の対象になりました。松原久子氏の著作にその記述があります。


中世初期に、北部のヴァイキングがロシアの川筋に沿って黒海まで南下してきた時、奴隷は、極北の国で捕れる毛皮に次いで主要な商品だった。彼らはアルメニアの黒海沿岸で、胡椒とシナモン、絹織物、ビロード、真珠、宝石、そして北欧では常に渇望されていた砂糖などを買い、奴隷を売り込んだ。この利益の多い生きた商品の交易は、キリスト教国だったアルメニアを繁栄させ、この地域を最強の国家へと発展させたのである。

「奴隷(スレイブ)」は、語源的に「スラブ人」と同じである。大がかりな奴隷狩りが行われた。ポーランドからボルガ河に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩り専門家たちによって、スラブ人の男女が捕らえられたのである。

松原久子[著]・田中敏[訳]
「驕れる白人と闘うための日本近代史」
(文春文庫。2008。単行本は2005)
(原著はドイツ語)



西ヨーロッパ経由の奴隷貿易は、上に書いたように11世紀頃から衰退に向かいました。しかしヨーロッパの商人は、中央ヨーロッパとは別の奴隷の仕入れ先を13世紀に開拓しました。それを次回書きます。



 補記1:中世ヨーロッパの奴隷貿易 

Wikipedia に「Slavery in medieval Europe(中世ヨーロッパの奴隷)」という項目があります。残念ながら日本語はないのですが、この中に奴隷貿易の詳しい説明があります。その説明に「ユダヤ人商人」の項があって、5世紀末以降、ユダヤ人商人が奴隷貿易の中心的役割を担ったことが解説されています。その最後の方の文章を試訳とともにに引用します(参考文献の表示は省略)。

  (Wikipedia : Slavery in medieval Europeより。2018.10.6 現在)

As German rulers of Saxon dynasties took over the enslavement (and slave trade) of Slavs in the 10th century, Jewish merchants bought slaves at the Elbe, sending caravans into the valley of the Rhine. Many of these slaves were taken to Verdun, which had close trade relations with Spain. Many would be castrated and sold as eunuchs as well.

【試訳】

10世紀になってドイツのサクソン族の王国の支配者がスラヴ族の奴隷化と奴隷交易に乗り出すようになると、ユダヤ人商人はエルベ河付近で奴隷を購入し、キャラバンを組んでライン河渓谷に送った。多くの奴隷は、スペインと密接な関係があったヴェルダンに連れていかれ、去勢され、宦官として売られた。

引用に出てくるエルベ河はドレスデン市内を流れている河で、北海に注ぎます。そして、No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」で紹介した小説「クラバート」の舞台となったソルブ人(スラヴ族)の住むラウジッツ地方は、ドレスデンの北東、エルベ河の東に位置しています。「クラバート」は18世紀初頭の物語ですが、クラバートの先祖の中には奴隷となってスペインにまで売られていったものがいたことでしょう。
(2018.10.6)


 補記2:コブレンツ 

ドイツの西部、ケルンの南にコブレンツという都市があります。ここはライン河とモーゼル河(源流はフランス)が合流するという交通の要衝であり、古代ローマ人が建設した都市が発祥です(ケルンもそうです)。

このコブレンツの旧市街のヨーゼフ・ゲレス広場に「歴史の柱」というモニュメントが建っています。これは1992年の「コブレンツ発祥2000年記念」を契機に建設されたもので、コブレンツの2000年の歴史を10の年代にわけ、それぞれの年代を象徴するテーマが彫刻で表現されています。その年代の4番目は「12-13世紀」ですが、彫像のテーマは、

  Crusades and slave trade
(十字軍と奴隷貿易)

です。なるほどと思います。東ヨーロッパの「異教徒」征伐に向かった十字軍と、東ヨーロッパからの奴隷の交易でにぎわった12-13世紀のコブレンツ、というわけです。

コブレンツはライン河クルーズの下船場所(の一つ)であり、ヨーロッパ観光で訪れる人も多いと思いますが、2000年の歴史のある町です。ぜひ地元の歴史に詳しいガイドの方と訪問してみたい町です。

Koblenz-Histrory Column.jpg
コブレンツの旧市街、ヨーゼフ・ゲレス広場に立つ「歴史の柱 - History Column」。都市の2000年の歴史を、年代ごとに彫刻で表している。
(site : vanderkrogt.net)

Koblenz-Histrory Column-Descripttion.jpg
柱の前にあるドイツ語と英語を併記した説明パネル。一番下にコブレンツを象徴する「ワイン船」があり、その上に①~⑩までの年代ごとに、その年代を表すテーマが彫刻されている。①は1世紀~5世紀で、ローマ人による都市建設を表す。⑩が現代である。

Koblenz-Histrory Column-Descripttion-12_13c.jpg
④が12~13世紀で、この年代のテーマは「Crusades, slave trade」、つまり「十字軍と奴隷貿易」である。

Koblenz-Histrory Column-12_13c.jpg
12~13世紀のテーマである「Crusades, slave trade」の彫刻。この画像では中央から左に十字軍、右に奴隷の一団が彫刻されている。
(site : vanderkrogt.net)
(2018.10.6)


 補記3:中世ヨーロッパの奴隷貿易(再) 

補記1に書いたように、Wikipediaに "Slavery in medieval Europe"(中世ヨーロッパの奴隷) という項目がありますが、その第2章が "Slave Trade"(奴隷貿易)です(英語版のみ。2018.11.23 現在)。これを見るとユダヤ人奴隷商人による中央ヨーロッパからの奴隷交易は、本文に書いたフランスのヴェルダンを経由するルートだけでなく、アルプスを越えてヴェネチアに至るルートがあったようです。第2章の全文を、

No.246 - 中世ヨーロッパの奴隷貿易

に訳出しました。

(2018.11.23)


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