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No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア [歴史]

前回より続く)

前回の No.22「クラバートと奴隷(1) 」の最後に、ヨーロッパの商人は、中央ヨーロッパとは別の奴隷の仕入れ先を開拓、と書きました。ヴェネチアの興亡を描いた、塩野七生著「海の都の物語」には、前回の中世ヨーロッパとは別のタイプの奴隷貿易が書かれています。


第4回十字軍と黒海貿易


No.23-4 Delacroix-Constantinople.jpg
ドラクロア
『十字軍のコンスタンティノープル入城』
(1841)
(ルーブル美術館)[Wikipedia]
ドラクロアの、いわゆる「三虐殺画」の1枚。他の2枚と違って虐殺する方もされる方もキリスト教徒である。


No.23-1 海の都の物語.jpg
聖地エルサレムのイスラム教徒からの回復を目的とした十字軍(第1次十字軍は11世紀末。1096年)ですが、北部ヨーロッパでは12世紀に「ヴェンド十字軍」が組織され「異教徒征伐戦争」が行われたのは、前回書いたとおりです。

一方、地中海地方では何と、キリスト教国である東ローマ帝国を攻める「第4次十字軍」が組織され、首都・コンスタンティノープルを征服しました(13世紀初頭。1202-03)。十字架を掲げる国を「十字軍」が攻撃するのだから何とも奇妙な話なのですが、要するに「宗教戦争」とは無縁の、東ローマ帝国の国力の衰えにつけこんだ領土拡張・戦利品略奪戦争だったわけです。この結果、ヴェネチアはコンスタンティノープルに居留地を確保し、地中海と黒海をつなぐボスフォロス海峡を自由に通行できるようになりました。それまでヴェネチアはコンスタンティノープルでギリシャ商人が黒海沿岸から運んでくる交易品を買い、それを西欧やエジプトに運んで売っていたのですが、黒海沿岸と直接に交易できるようになったのです。おそらくそれこそが、東ローマ帝国に戦争をしかけた最大の理由だったのでしょう。

この黒海沿岸からの輸入品とは何だったのでしょうか。

塩野七生さんの「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」(中央公論社 1980)は、ヴェネツィアの勃興から終焉までの1000年を描いた興味深い本です。以下、この本から引用します。


黒海沿岸との直接の交易は、当時の商人にとっては、大変に魅力のあるものであった。まず、小麦粉に塩、それに塩漬けの魚、毛皮、奴隷が豊富であった。これらの商品、その中でも奴隷は、香味料の集散地であるエジプトやシリアの人々が欲しがる品である。これらを売って香味料や高価な布地を求め、それを西欧へ運んで売りさばく以上、ギリシア商人を介さなくてもよくなったのである。それだけ安く購入できることを意味する。イタリア商人たちが勢いづいたのも、無理からぬ話であった。


とくに、ターナをはじめとする黒海沿岸地方の諸都市に集められてくる奴隷は、黄色人種では中央アジアのタタール人、白人種ではロシアやコーカサス人たちであった。コーカサスの女はその美貌で有名で、回教徒のハレムでは、ことのほか珍重された。帆船に乗せられてボスフォロス海峡を南下し、東地中海に売られる奴隷たちは、キプロスやクレタでは農奴として、エジプトでは兵士として、また他の回教国では、兵士のほかに家事労働や妾として、需要は底がなかった。

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ヴェネチアやフィレンツェでは、金持の飾りか家事労働に少し使われる程度であったので、エキゾチックな黒人奴隷がもてはやされたが、回教国では、白人の方に高い値がついたのである。ヨーロッパ地方に供給源がなくなってしまったこともあって、黒海を新たに市場に加えられることになったのは、この面でも、西欧の商人にとっては大きな収穫であった。


ヨーロッパ地方に(奴隷の)供給源がなくなってしまった」と塩野さんが書いているのは、前回 No.22「クラバートと奴隷 (1) 」 の「ヴェンド十字軍」の説明のところで書いたように、ヨーロッパがキリスト教国化された、ということです。「黒海を新たに市場に加えられることになったのは、この面でも、西欧の商人にとっては大きな収穫であった」とありますね。ということは「西欧に奴隷の供給源がある時期には、ヴェネチア商人(西欧の商人)にとっての奴隷の供給源は西欧であった」ということです。これは前回 (No.22) の中世の奴隷貿易の話と整合的です。

No.23-3 帝国のシルクロード.jpg上記の引用に出てくる「ターナ」とは、黒海沿岸の最北部の町で、現在のアゾフ(ロシア連邦共和国)です。ターナにはヴェネチア人が都市を築いて居住し、貿易の拠点としていました。

また文中に出てくるカフカス(コーカサス)の奴隷(女性)で有名なのが「チェルケスの美女」ですね。チェルケスはカフカス地方北部の小さな地域なのですが、ここは金髪・碧眼のアングロ・サクソンにも似た風貌の人たちが多い。山内昌之・東京大学教授の「帝国のシルクロード」(朝日新書。2008)には、少し時代は下りますが、オスマン帝国の奴隷の様子が次のように書いてあります。


(オスマン)帝国の拡大につれてカフカース出身の少女が寵愛された。なかでも愛でられたのは、金髪で色白の雌鹿のような目をした八頭身の娘たちであった。顔のつくりが小さく、湖のように深い碧(みどり)の色をたたえた大きな目をもつチェルケス娘は、スルタンのハーレムだけでなく、大宰相や大臣といった帝国の大官たちのハーレムでも珍重された。グルジア、アルメニア、アブハズなどの他のカフカース女性の人気も高かった。ロシア、ウクライナ、ルーマニアといったバルカン出身の女性がハーレムにいたことは確実である。

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彼女たちは、人さらいに拉致されて来ただけでなく、困窮し零落した両親が金に目がくらんだために奴隷商人に売られたのだ。めぐりめぐって幸運をつかんだ者がスルタンのハーレムに入った。


奴隷として売られていく女性の立場から言うと、幸運な者だけがハーレムに入り、その中の一部が皇帝の寵愛をうけ、そのまた幸運な者が皇帝の子(王子)を生み、その中の一人が次期皇帝の母となったわけですね。限りなくゼロに近い確率だろうけど・・・・・・。ハーレムにさえ入れなかった奴隷は悲惨な運命をたどったでしょう。

塩野さんの本にはヴェネチアの黒海貿易を支えた貿易航路(ムーダ)の話も出てきます。当時のヴェネチアの隆盛が垣間見える記述なので、紹介します。


ムーダ


「ムーダ」とはヴェネチア政府が運営する定期貿易船の制度で、1255年に創設されました。数隻の船団を組み、春にヴェネチアを出港して秋に帰国する、または秋に出港し、翌春に帰国するというパターンでした。

「ムーダ」は基本的にガレー船(漕ぎ手がオールで漕ぐ船)でしたが、帆船も併用されていました。船と積み荷の関係を理解するため、ガレー船と帆船がどのように使い分けられていたのか、まずそれについての塩野さんの解説を引用します。太字は原文にはありません。


その確実性と安全性において優れていたガレー船で、「ムーダ」は構成されていたが、ガレー船は多数の漕ぎ手を必要とするために、輸送コストが断然高くつく。それで、香辛料や染色料、高価な織物などの軽くて価格の高い商品を優先的にガレー船に積み、軽くても価格の低い綿などは、ガレー船に余裕のあるときは定期航路で、そうでない時は帆船に積む、と決めてあったのである。最も重い商品である塩や木材の運搬は、帆船専門であった。


No.23-2 ヴェネチアの定期航路.jpg

「ムーダ」のメイン航路は4つありました。

1.ギリシア航路(コンスタンティノープル経由で黒海)
2.キプロス、シリア、パレスティーナ航路
3.アレキサンドリア航路
4.フランドル航路(ジブラルタル海峡を経由してイギリス、フランドル)

の4つです。1~3の航路は、ヴェネツィアからギリシャ(ペロポネソス半島)までは同じです。そこから、黒海方面、中東方面、エジプト方面と分かれたわけです。では、これらそれぞれの航路の、ヴェネツィアにとっての輸入品と輸出品は何だったのでしょうか。再び塩野さんの解説です。


ギリシャ航路では、輸出品はフランドルの毛織物やフィレンツェ産の織物、ドイツの金属製品やヴェネツィアのガラス工芸品。輸入品は、ぶどう酒、オリーブ油、果実、スパルタやテーベ産の絹、砂糖、はちみつ、蝋、染色料などであった。黒海地方の産物として、小麦、毛皮、皮があったが、奴隷はガレー船に積むのを禁じられていたので、コンスタンティノープル、アレキサンドリア間を往復する帆船が使われた。


アレキサンドリア航路になると、これはもう、東洋の特産物である香味料の独占市場の観を呈してくる。ヴェネツィアの輸出品は、金属製品や毛織物に、木材と奴隷であった


「奴隷はガレー船に積むのを禁止する」という政府の規制は、要するに「単位体積あたり」ないしは「単位重量あたり」の商品価値の問題ですね。ガレー船は輸送コストが高い、従って単位体積(重量)当たりの利幅が大きい商品しか積載してはダメである、奴隷は高額商品だが、輸送のコスト・パフォーマンスの観点からは木材の部類である・・・・・・。きわめてまっとうなビジネス判断です。

このムーダはメイン航路であり、そこにつながる種々の「サブ航路」があったようです。


しかし、これらの「ムーダ」にそってだけ、船が行き来していたわけではない。前に「ムーダ」を河にたとえたが、河にいくつも支流が流れ込むように、定期航路の船団の寄港地ごとに、寄港しない地からの荷を運ぶ、多くの小帆船が往来していた。その他にも大型の帆船が、塩とか小麦とか木材、塩漬けの魚、奴隷などを運ぶために、定期航路にそって航行するのが普通であった。


アンドレア・バルバリーゴという、1400年頃に生まれたヴェネチア商人が紹介されています。この商人の簿記はすべて残されているのです。その簿記から彼が「ムーダ」を活用してどんなビジネスをしていたかが分かります。


それによると、パレスティーナ、シリア、スペイン、フランドル、イギリス等にいる、二十人近くの駐在員と、代理人の契約を結んで、海外での業務を担当させていた。オリエントへは、西欧の各地から輸入した毛織物を輸出し、エジプトからは香味料、シリアからは綿、コンスタンティノープルからは金細工、黒海のターナからは奴隷を輸入し、それをまた西欧へ輸出していた。



シャイロックの反論


少々余談になります。塩野さんも書いているように、ヴェネチア人は奴隷貿易をするだけでなく、自らも奴隷を使っていました。これに関して思いだすのが、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』です。

『ヴェニスの商人』の中の、例の「人肉裁判」のシーンで、シャイロックはアントニオの借金の担保として契約書に明記した人肉1ポンドを差し出すよう、強硬に主張します。それに対し「人でなし!」などの非難ごうごうになるのですが、シャイロックは「奴隷」を持ち出して次のように反論します。

シャイロック

悪事も働かぬ手前が、なんのお裁判さばきを恐れましょうや。あなた方は、たくさんの奴隷を買って持っておいでになる。そして驢馬ろばや犬馬同然の卑しい仕事にこきつかっておいでなさる。なぜだ、それは? 金を出してお買いになったからだ。そこで、もしもこの手前が、こう申上げたら、どんなもんでございましょうかねえ? まず彼奴あいつらを、自由にしておやんなさいまし。なんなら跡取りのお婿様にでも?(以下、略)

シェークスピア『ヴェニスの商人』第4幕 第1場  
(中野好夫訳・岩波文庫)

要するに、金で買った奴隷は自分のもの、それと同じで、人肉1ポンドは大金で買ったも同然で自分のもの、早く頂戴したい、という論理です。


黒海・地中海奴隷貿易


本題に戻ります。塩野さんの解説を奴隷との関係で要約しますと、以下のようになるでしょう。

1. ヴェネチアは、黒海から地中海をむすぶ海上交易船路を運営していて、奴隷も交易品の一つだった。この交易船路において奴隷はガレー船ではなく、帆船で輸送された。
2. 奴隷の「仕入れ」は黒海沿岸(ターナなど)であり、主な販売先はキプロス、クレタ、シリア、エジプトなどの東地中海であった。また西欧に販売することもあった。
3. 黒海沿岸で奴隷になったのは、タタール人、スラヴ人、カフカス人などであった。

ヴェネチアが興隆した中世から近代の時期において、イタリアには海洋貿易で繁栄した都市国家が他にもあります。ジェノヴァ、アマルフィ、ピサなどです。中でもジェノヴァの勢力は強大で、ヴェネチアとの覇権争いが何度も起きました。そしてこの時代の黒海沿岸地方の有力な輸出品が「奴隷」であり、その奴隷にスラヴ民族も含まれていた。「スラヴ=スレイヴ」の状況は、まだ続いていたのです。


クラバートと奴隷


題名とした「クラバートと奴隷」の関連を、前回 (No.22) の内容とあわせてまとめると次のようになります。

クラバートの舞台であるドイツのラウジッツ地方(およびそれより東方)のスラヴ人たちが奴隷貿易の対象になったと推定できるのは8世紀から11世紀の頃でした。クラバートは18世紀初頭の話です。クラバートの先祖は700年以上前に「スラヴ人=奴隷」の時代を経験したのだと想像します。クラバートの物語にキリスト教の行事がたびたび出てくるように、キリスト教に改宗してからすでに長い時間が経っています。この時代に奴隷はありません。

しかしクラバートの時代、オスマン・トルコ帝国がまだ強大な勢力を誇っていました。少し前の17世紀後半には、オスマン帝国によるウィーン包囲戦(第2次ウィーン包囲。1683)という大戦闘が起きました。この戦いはヨーロッパ軍の勝利に終わり、これ以降、ヨーロッパのオスマン帝国に対する軍事的優位が確立していきます。ということは、17世紀後半にオスマン・トルコが最も強大だったということです。クラバートの物語の中には、水車場の親方が魔法使いとして神聖ローマ帝国軍に従軍し、オスマン帝国軍と戦うエピソードが出てきます(No.1「千と千尋の神隠し」と「クラバート」(1) )。親方はこの戦いでオスマン帝国軍にやとわれていた友人の魔法使いのイルコーを殺したのでした。当時の神聖ローマ帝国もオスマン帝国も、ともにスラヴ民族を含む多民族国家です。スラヴ民族同士が戦ったことも十分考えられるでしょう。オスマン帝国は奴隷を兵士にもしました。クラバートの親方が戦ったトルコ軍の中にはスラヴ人の奴隷もいたかもしれません。そしてもちろん、オスマン帝国の首都(のハーレム)には、スラヴ人の女性奴隷がいたのです。


優秀な奴隷商人


奴隷貿易の成立の条件を考えてみたいと思います。奴隷の供給源は、一つは戦争の捕虜や強制拉致です。古代ローマが周辺国と戦争をする時には、確か軍隊とともに奴隷商人が一緒についていったはずです。奴隷商人にとって戦争は大きなビジネスチャンスです。こういった「戦争捕虜」「強制拉致」「奴隷狩り」などによる奴隷は、いわば「強制奴隷」です。直感的には奴隷のほとんどが「強制奴隷」でしょう。

しかし、もう一つの非常に気になる奴隷の供給源があります。それは、前述の「帝国のシルクロード」で山内教授が指摘しているように、奴隷商人が「正当な対価」を払って奴隷を「仕入れる」ケースです。これを「半強制奴隷」と呼ぶことにします。いくらお金を積まれても、奴隷になる本人の自由意志で進んで奴隷になりたい、というケースはまれでしょうから「半強制」とします。

この「半強制奴隷」の貿易が「継続的かつ長期に」成立するとき、それがなぜ成立するのか。これが以下の考察のテーマです。これは次の3つの条件が成立するからだと思います。

条件1(需要): 奴隷を使う生活スタイルや、奴隷を使った農業・鉱業生産の地域や国が存在する。つまり「需要」がある。かつ、その需要者が奴隷という「高額商品」を購入できるほど経済的に豊かである。
条件2(商人): 交易で利益をあげようとする商人が存在し、交易のインフラストラクチャ(輸送手段など)を持っている。ないしは活用できる。ムーダのように。
条件3(供給): 貧しい者、ないしは自分は貧しいと認識している者が交易(取引)をしたいと考え、差し出すものに窮したときに、最後に出してくるのが「人」である。このシチュエーションが成立する。

まず条件1(需要)が前提です。これがないと奴隷貿易はありません。その次に重要なのは条件2(商人)つまり「奴隷商人」の存在でしょう。ちょっと「優秀な奴隷商人」はどういうものか、考えてみたいと思います。奴隷の需要があることを認識した「優秀な奴隷商人」が、武力を一切使わずに、自ら半強制奴隷の供給地を開拓し、継続的に奴隷の貿易をやって多大な利益をあげようと思ったら、おそらく次のようにすると思いますね。

まず、奴隷の供給地を探しに出かけます。香料、織物、宝飾品などの高額商品の産地には行きません。そういう地域は奴隷の供給源にならない。そこからは高額商品を輸入すればよいわけです。飢饉などで生活が困窮している地域、戦争で荒廃した地域は奴隷の有力な供給地です。しかし「継続的かつ長期の供給地」にはならないでしょう。飢饉はいずれ終わります。

優秀な奴隷商人は、めぼしい産物のない、自給自足的な生活を昔から送っている「貧しい」地域に行き、そこに拠点を築きます。そしてその地域を「商品経済」に巻き込もうとします。精製塩、食料、宝飾品、衣類など、その地域では簡単には入手できないような素晴らしい品を持っていって、そこで売るのです。めぼしい産物がない「貧しい」地域なので住民にお金は大してなく、商品はあまり売れません。しかし優秀な奴隷商人の真の狙いは商品を売ることではありません。「あなたがたは貧しいのですよ」というメッセージを住民に送り続け「自分たちは貧しいのだ」と思いこませ「お金さえあればもっと楽な生活ができる」と感化することが真の狙いです。

この「感化」が成功すると、あとは比較的簡単です。「あなたの息子(娘)を XXX のお金でどうです」と持ちかければよい。住民としては価値の高い有力な産物を作り出せればよいが(そして、それがまっとうなやり方だが)、差し出すものがなければ「人」を交易品とするしかない。

いったんこの取引が成立すると、その地域で継続的になる可能性が強いと思います。苦労して遠くの山に岩塩を取りにいくという生活ではなく、商人から精製塩をお金で買うという生活がいったん出来あがると、元には戻れない。人間の欲望を増進させる手段は限りなくあるのです。ひとたび誰かが奴隷を差し出すと、他の家族も心理的障壁がなくなります。家族を奴隷商人に売るにしても「一家のため」「地域のため」という理由づけができる。売られていく少年(少女)にしても「一家や地域のための自己犠牲」という物語が作れる。

つまり「半強制奴隷」の交易を継続的に続けようと思ったら、条件3(供給)の「自分は貧しいと認識した者が交易をしたいと考え、差し出すものに窮したときに最後に出してくるのが "人" である。このシチュエーションを成立させる」わけです。優秀な奴隷商人としては。


奴隷は過去のものか


以上の考察はあくまで想像上のものです。しかし、意味としてはこれとそっくりな状況が現代社会においても起こっているのではないでしょうか。

現代でも「人身売買」はあるようです。新聞紙にときどき発展途上国での人身売買の記事がのります。人身売買スレスレの、金銭で拘束した強制労働もあるようです。しかしこういった「人身売買」はあくまで非合法なものです。少なくとも、基本的人権を確立している現代国家において「奴隷」は、ない。

しかし現代ではそういった「非合法人身売買」ではなく、自由意志で自ら進んで奴隷的状態に身を置く人が増えているのではないでしょうか。つまり「貧しい者が交易をしたいと考え、差し出すものに窮したときに最後に出してくるのが "人" である。このシチュエーションが現代日本のある部分においても成立している」のではと思うのです。特に、決まった職業を持たず、アルバイトで食いつないで最低限の生活をしている、いわゆる「若年貧困層」と言われる人たちです。

ある人が標準的、ないしは標準以上の収入を得ようとすると、その人が「技術」「経験」「知識」「ノウハウ」「人間力」(リーダーシップ、コミュニケーション能力、等)などの「稼ぎの源泉」となる能力を持っていることが必要です。その稼ぎの源泉に対して「お金」が支払われる。企業がそういう能力をあまり持たない新入社員に給料を払うのは、何年か後に「稼ぎの源泉」を持つだろう(そして企業に貢献するだろう)という強い想定があるからです。

従って、金銭面で標準的な生活をするためには、次のA~Dのような行動に出ることが是非とも必要になります。

A. 長期の学習を行って、知識ないしは技術を身につける。この最たるものが医者や弁護士ですが、それ以外にもいっぱいあります。
B. 組織に入り、上司の叱責にも耐えながら、仕事を覚え、その分野や業界のプロをめざす。
C. 技術の伝承を目的に「弟子入り」をして、下積み生活をしながら、その道の腕を磨く。
D. 勉強ないしは実務経験によって公的資格をとり、その資格で職に就く。

これらはあくまで例なので、A~D以外にもいろいろとあります。しかしどのような方法であれ、自己の欲求を制限して努力をすることが前提になります。人間社会で生きていくためには、自らの欲望を制限し、自由行動を抑制しながら、外的環境に自己を合わせ、努力を重ねて、応分の対価が得られる労働ができるまでに自己を成長させることが必要なわけです。あたりまえだけど。

しかし現代日本の一部のメディアは、それとは別の事を言っている。つまり「A~Dのような行為に必要な自己の抑制や欲望の制限は人間的な生活に反するものだから、もっと自由に生きよう」とか「外的条件に自分をあわせるのではなく、自分のやりたいことをやろう。そのための自分探しをしよう」というようなメッセージを陰に陽にタレ流しているメディアがある。もちろん多くの人はそういったメッセージの誘惑には引っかからないのですが、小さいときから「自分の欲望を制限すること」や「自由行動を抑制すること」をしていない人間、「がまんすることの価値」や「努力することの価値」を教えられないで育った人間の中には、そういうメッセージを鵜呑みにする者も出てくる。さすがに初めから「鵜呑み」にする人は少ないのかもしれない。つまり「応分の対価が得られる労働ができるまでに自己を成長させる」努力を少しはやる。しかしすぐにそれを放棄してしまう。努力したのだけどできなかった、という自分に対する言い訳のもとに・・・・・・。

少数の潜在能力に長けた人間は、自己の抑制や規制をしなくてもうまくいくかもしれません。しかし多くの人はそうではない。「技術」「経験」「知識」「ノウハウ」「人間力」のどれもなく、短期雇用を繰り返して「差し出すものが生身の"人"しかない」状態になり、悪循環で貧困層に陥るというパターンをたどる。

もちろん、若年貧困層と言われる人たちの中には「就職した会社が倒産した」とか「会社の業績不振で解雇された」とか「体を壊して正規雇用で働けなくなった」といった、本人の責任とは言えない「かわいそうなケース」もあるのは確かです。しかしそうではなく「自由意志で」若年貧困層になる人も多いのではないか。親に「寄生」している人は外面的には貧しいと見えないはずです。だけど実態は「貧しい」。こういうケースも多いのではないか。

あえて現実と小説を比較しますと、対照的なのがクラバートNo.1, No.2) です。水車場での3年間は、絶対権力者の親方のもとでの厳しい労働の連続でした。外面的にはいかにも奴隷のように見えます。しかしクラバートは奴隷ではない。3年の間に彼は、粉ひき職人として親方にもなれるだけの技量や指導力を身につけ、水車場から脱出することによって自立します。「人間社会で生きていく」とはどういうことかが典型として描かれています。

現代社会において「差し出すものが生身の "人" しかない」貧困層に対する需要は膨大にあります。そして一部のメディアは人間の欲望を肥大化させ、それと同時に自己抑制を悪であると暗に宣伝することによって貧困層の生産に役立っています。「貧しい者が交易をしたいと考え、差し出すものに窮したときに最後に出してくるのが "人" である。このシチュエーションが成立している」のは、奴隷貿易が行われていた時代だけでなく、現代日本においてもではないでしょうか。「優秀な奴隷商人」は現代にもいるのだと思います。

No.19「ベラスケスの怖い絵」で、

世界の歴史をマクロ的に見ると「生きた人間を何の疑問も持たず、牛馬と同等の労働力や愛玩物とし、売買の対象やそれと同等の扱いとした時代」がほとんどだったわけです。そのことを忘れてはならないと思います。

と書きましたが、人間社会で起こることは突き詰めて本質を考えると、時代が1000年・2000年と違っても、そうは変わらないと思うのです。歴史を振り返る現代的な意義はそこにあると思います。



 補記1:ジェローム『奴隷市場』 

アメリカのマサチューセッツ州の西端に「クラーク美術館」があります。この美術館は建築家・安藤忠雄氏の設計による増築・改築進んでおり、そのため2011年から主要美術品を集めた巡回展が世界各国で開催されています。日本での展覧会が2013年2月9日から東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されたので行ってきました。

何しろ出展された73作品のうち59作品が日本初公開だとあります。またクラーク美術館は日本からは非常に行きにくいところにあります(ボストンからクルマで3時間)。今回展示された絵画の「実物」を見た日本人は僅かだと思います。もちろん私も初めてでした。

展示作品は印象派の絵(特に、ルノワール)が圧巻だったのですが、中には印象派の「仇敵」だったアカデミズムの大家、ジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)の作品が3点ありました。その中の1枚は有名な『奴隷市場』(1868)です。

No.23-5 奴隷市場.jpg
ジャン=レオン・ジェローム
奴隷市場』(1868)
クラーク美術館蔵
分かりにくいが、よく見ると画面の右端に黒人男性の奴隷が取引されている様子が描かれている。

この作品は「現実」を描いたものでしょうか。ジェロームは数々の取材旅行を行い、特にエジプトとトルコには7回も行ったとあります。しかし展覧会の「図録」には、19世紀においてこの絵で描かれたような戸外での奴隷取引があったという証拠はないと解説してあります。画家は時代・場所を特定せずに「想像で」この絵を描いたものと考えられます。

しかし、No.22-23「クラバートと奴隷」で書いたように、この絵と類似した情景が8世紀から18世紀のヨーロッパと地中海沿岸地域であったことは事実でしょう。そしてその場所も、ジェロームの絵が示しているような北アフリカや中東(現在のイスラム文化圏)だけでなく、イタリア、スペイン、フランス、ドイツなど(現在のキリスト教文化圏)も含まれ、また奴隷も奴隷商人も買い手も、白人からアラブ人、黒人まで多様だったのが歴史的事実なのです。

展覧会の図録でクラーク美術館の学芸員はこの絵を次のように解説していましたが、非常に正確だと思いました。

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エキゾチックな雰囲気の遠い外国に場面を置くことによって、ジェロームはこの絵を見ると想定したヨーロッパの観衆が奴隷貿易に関わっているという罪悪感を抱くことなく、この作品にアプローチすることを可能にしている。

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(2013.3.17)


 補記2:イタリア商人による奴隷貿易 

記事の本文で13世紀の第4回十字軍の結果、ヴェネチアが黒海沿岸を新たな奴隷の供給地として開拓したことを書きました。これはもちろん「新たな奴隷の供給地」であって、それ以前からヴェネチアを含むイタリアの商人たちは奴隷貿易に従事していたわけです。このあたりの歴史を Wikipedia の記述で紹介します。

前回の No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」の「補記1」で、Wikipedia の「Slavery in medieval Europe(中世ヨーロッパの奴隷)」という記事からユダヤ商人の奴隷貿易を引用しましたが、この記事にはイタリア商人による奴隷貿易も書かれています。その試訳を掲載します。念のために原文も引用しておきます(参考文献の注釈は省略しました)。



Wikipedia(2018.10.11 現在) 【試訳】

中世ヨーロッパの奴隷
 2. 奴隷貿易
  2.1 イタリア商人

ローマ法王・ザカリアス(在位:741-752)の治世の頃までに、ヴェネチアは奴隷交易での繁栄を確立した。彼らはイタリアやその他の地域から奴隷を買い、アフリカのムーア人に売った。もっともザカリアス自身はローマ外での奴隷交易を禁止したと伝えられている。

ロタール協定(訳注:ベネチアとカロリング朝フランク王国の協定。840年)によってキリスト教徒の奴隷をイスラムに売ることが禁止されると、ヴェネチア商人はスラヴ人やその他、東ヨーロッパの非キリスト教徒の奴隷の大々的な交易に乗り出した。東ヨーロッパから奴隷のキャラバンが、オーストリア・アルプスの山道を超えてヴェネチアに到着した。

ドナウ河畔のザンクト・フローリアンの近くのラッフェルステッテン(訳注:現オーストリアのアステン。リンツより少しドナウ下流)の通行税の記録(903-906)には、そんな商人たちの記述がある。商人の中にはボヘミアやキエフ公国のスラヴ人自身もいた。彼らはキエフ公国からプシェムシルやクラコフ(訳注:いずれもポーランドの都市)、プラハ、ボヘミアを経由して来ていた。

記録によると、女の奴隷は1トレミシス金貨(約1.5グラムの金。ディナール金貨の1/3)であり、女よりも圧倒的に数が多い男の奴隷は1サイガ銀貨(トレミシスより価値がかなり落ちる)であった。

宦官は非常に貴重であり、この需要に対応するため、他の奴隷市場と同じように "去勢所"(castration house)がヴェネチアに作られた。

ヴェネチアだけが奴隷貿易の拠点だったのではない。南部イタリアの都市も遠隔地からの奴隷獲得を競っていた。ギリシャやブルガリア、アルメニア、そしてスラヴ圏である。9~10世紀にはアマルフィが北アフリカへの奴隷輸出の多くを担った。

ジェノヴァは12世紀ごろからヴェネチアとともに東地中海での交易を押さえ、また13世紀からは黒海での交易を支配した。彼らはバルト海沿岸の民族やスラヴ人、アルメニア人、チェルケス人、ジョージア(グルジア)人、トルコ人、その他、黒海沿岸やコーカサス地方の民族を中東のイスラム国に売った。ジェノヴァはクリミアからマムルーク朝エジプトへの奴隷貿易を13世紀まで支配したが、東地中海でのヴェネチアの勢力が強大になると、ヴェネチアがとって代わった。

1414年から1423年の間だけで、少なくとも10,000人の奴隷がヴェネチアで取引された。



Wikipedia(as of 2018.10.11)

Slavery in medieval Europe
 2. Slave trade
  2.1 Italian merchants

By the reign of Pope Zachary (741-752), Venice had established a thriving slave trade, buying in Italy, amongst other places, and selling to the Moors in Northern Africa (Zacharias himself reportedly forbade such traffic out of Rome). When the sale of Christians to Muslims was banned (pactum Lotharii), the Venetians began to sell Slavs and other Eastern European non-Christian slaves in greater numbers. Caravans of slaves traveled from Eastern Europe, through Alpine passes in Austria, to reach Venice. A record of tolls paid in Raffelstetten (903-906), near St. Florian on the Danube, describes such merchants. Some are Slavic themselves, from Bohemia and the Kievan Rus'. They had come from Kiev through Przemysl, Krakow, Prague, and Bohemia. The same record values female slaves at a tremissa (about 1.5 grams of gold or roughly 1/3 of a dinar) and male slaves, who were more numerous, at a saiga (which is much less). Eunuchs were especially valuable, and "castration houses" arose in Venice, as well as other prominent slave markets, to meet this demand.

Venice was far from the only slave trading hub in Italy. Southern Italy boasted slaves from distant regions, including Greece, Bulgaria, Armenia, and Slavic regions. During the 9th and 10th centuries, Amalfi was a major exporter of slaves to North Africa. Genoa, along with Venice, dominated the trade in the Eastern Mediterranean beginning in the 12th century, and in the Black Sea beginning in the 13th century. They sold both Baltic and Slavic slaves, as well as Armenians, Circassians, Georgians, Turks and other ethnic groups of the Black Sea and Caucasus, to the Muslim nations of the Middle East. Genoa primarily managed the slave trade from Crimea to Mamluk Egypt, until the 13th century, when increasing Venetian control over the Eastern Mediterranean allowed Venice to dominate that market. Between 1414 and 1423 alone, at least 10,000 slaves were sold in Venice.

(2018.10.11)



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