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No.52 - 華氏451度(2)核心 [本]

前回から続く)

『華氏451度』が描くアンチ・ユートピア(続き)


クラリスの言葉による『華氏451度』の世界の描写(前回の最後の部分参照)は、この世界になじめない側からの発言でした。このクラリスの「世の中からの距離感」がモンターグの心を揺さぶることになるのです。

一方、ファイアーマンの署長であるビーティは「体制側」の人間です。彼がモンターグに、こういう世界ができた経緯や理由を語るシーンがあります。なぜ本が禁止されているのかも語られます。ここが『華氏451度』の核心と言えるでしょう。

[ビーティ]
20世紀の初期になって、映画が出現した。つづいて、ラジオ、テレビ、こういった新発明が、大衆の心をつかんだ。大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながらざるをえない。かつては書物が、ここかしこ、いたるところで、かなりの人たちの心に訴えていた。むろん訴える内容となると、書物ごとに、さまざまだった。なにしろ、まだまだ世界は、のんびりと余裕があったからだ。ところが、その後地球上は、眼と肘と口とが、ぐんぐん数をまして、人口は倍になり、3倍になり、4倍になった。映画、ラジオ、雑誌の氾濫。そしてその結果、書物はプディングの規格みたいに、可能なかぎり、低いレベルに内容を落とさねばならなくなった。

この世界では、簡略化、ダイジェスト化、短縮化が徹底的に進んでいます。
『ハムレット』を知っているという連中の知識にしたところで、例の、《これ一冊で、あらゆる古典を読破したとおなじ、隣人との会話のため、必須の書物》という重宝な書物につめこまれた1ページ・ダイジェスト版から仕入れたものだ。わかるかね? 育児室からカレッジへ、それからさらに、もとの育児室へ --- そこに、過去5世紀にわたるおれたち人類の知識の型がみられるんだ。
みなに、もっと、もっと、スポーツをやらせる必要がある。あれこそ、団体精神のあらわれであり、人生の興味の中心である。あれをやっていれば、ものを考えることがなくなる。そうじゃないか。
現代の学校教育は、研究家、批評家、知識人、創作家育成はやめた。そのかわり、ランニングやジャンプの選手、競馬の騎手、おなじくノミ屋、修繕屋、飛行士、水泳選手といった連中を育て上げる機関となっている。当然のことだが《知性》という言葉は、ここではぜったい禁句なんだ。だれもがいつも、仲間からの疎外をおそれている。
気がみじかくなって、公道で車をすっとばす群衆が無数にふえてくるが、いい傾向だ。どこへ行こうかなど、考えることはない。ただ、どこかへ行きさえすればいい。ひしめきあって、車をとばせばいいんで、どこへ行くと、目的地を決める必要はない。いわば、ガソリン避難民。街全体がモーテルに変わり、遊牧民となった人々が、潮の出入りを追って、大波のような移動をつづける。
マーケットがひろくなればなるほど、少数派の存在は例外的なケースとして、考慮の外におかねばならん。(・・・・中略・・・・)いよいよ数がすくなくなった少数派には、自分たちのことを自分たちで処理してもらわなければならぬ。つまらんことを考える著者には、タイプライターをしまいこんでもらう。そして、事実、そういうことになった。
これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった!工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効につかって、このトリックをやってのけたのだ。
万事につけ、《なぜ》ってことを知ろうとすると、だれだって不幸になるにきまっている。
国民を政治的な意味で不幸にしたくなければ、すべての問題には、ふたつの面があることを教えてはならん。
まちがっても、哲学とか社会学とかいった危険なものをあたえて、事実を総合的に考える術を教えるんじゃない。
考える人間なんか存在させてはならん。本を読む人間は、いつ、どのようなことを考え出すかわからんからだ。そんなやつらを、一分間も野放しにしておくのは、危険きわまりないことじゃないか。

華氏451度-3.jpg
レイ・ブラッドベリ
『華氏451度』
(ハヤカワ文庫NV, 1975)
前回の最後に書いた『華氏451度』の世界を表すキーワード(クラリスの言葉による)に追加するなら、「画一化」「平均化」「反知性」ということになるでしょう。

『華氏451度』の世界でなぜ本が禁止されているのかを、署長のビーティは明確に語っています。なぜ本を禁止するのかと言うと、本を読む行為が蔓延すると社会が危うくなるからなのです。

『華氏451度』における「本」と「本の所有者・読者」の関係は、ちょうど現代日本における「麻薬」と「麻薬所有者・使用者」の関係にそっくりです。麻薬は医療に必要不可欠なものですが、一般の所持・使用は厳しく禁じられています。それは社会をむしばみ、危険に陥れるものだからです。麻薬所持の密告はよくあるし(タレ込みと言うのでしょうか)、発覚すると警察が急襲し、被疑者は逮捕され、起訴・裁判となって処罰され、現物は焼却処分されます。本が麻薬とみなされる世界、それが『華氏451度』の世界です。

なお、署長のビーティですが、彼は老女の最期の言葉が16世紀の英国のヒュー・ラティマーの言葉だと即答しますね(前回の No.51「華氏451度(1)焚書」参照)。彼は本を焼き払う「体制側」の、しかも「指導層」ですが、「体制の指導層」は実は本の世界に精通していることを暗示しています。ないしは、署長のビーティは若い頃には大の読書家だったが、転向して本を抹殺する体制側になったとも考えられます。

いずれにせよ、その体制にとって本を大衆に普及させることがいかに危険か、それがよく理解できる、だから本を禁止する、ということなのでしょう。


『華氏451度』の誤解3:本が禁止されている世界


ブラッドベリの描くアンチ・ユートピアの成り立ちを読むと、この小説は単に「本が禁止されている世界」を描いたものではないことが理解できます。本の禁止は現象面にすぎません。この小説は「本を書いたり読んだりするような少数者が迫害される世界」を描いたものなのです。

『華氏451度』は本が禁止されている世界を描いた小説である、というのは表層的な見方です。本の禁止はその通りなので「誤解」というのは明らかに言い過ぎですが、本質をはずした見方であることは間違いない。

なぜ、本を書いたり読んだりするような少数者が迫害されるのか。まとめると以下のようでしょう。

大衆社会の進展とともに、刹那的な娯楽がもてはやされ、人々は均質的な欲望を持つようになり、考えることはせず、楽しく平穏無事であることが最大の価値となった。「考えること」は人を不幸にするとみなされている。

そういう時代、本を読む人は少数者となった。本を読むと、いろんな考えを巡らせ、ものごとの本質に迫ろうとするようになる。そういった少数者は一般社会からみると「うっとうしい存在」であり、多数派の「刹那的価値感をおびやかす存在」である。多数派は本を読むような人を嫌悪するようになり、そしてついには「危険分子」と見なすようになった。

その危険分子を排除し、社会からなくす手段として本の焼却がファイアーマンたちによって行われている。これは決して政府の強権だけで始まったことではない。大衆の合意の上で、むしろ大衆の要望から出来上がった制度である。

その「少数者」であり「危険分子」の一人がフェーバー教授です。小説の中でフェーバー教授は、本を読むことの意義として次の3点をあげています。要約すると、

本にはものごとの本質が示されている。《知》の核心がそこにある。
本を読むことによって「考える時間」がもてる。内容について、正否を論じあうこともできる。
「本質」と「考え」の相互作用から、正しい行動にでることができる。

の3点です。

言うまでもなく、これらのことがまさに『華氏451度』の世界において「少数者=本を読む者」が排除される理由となっています。そして裏返すと、作者・ブラッドベリの考える「人間にとっての本の意義」でもあるわけです。以上のことをまとめると、

  『華氏451度』は、究極の「反知性主義」社会を描いた小説である

と言えるでしょう。


『華氏451度』における作者・ブラッドベリの「思い」


華氏451度-4.jpg
Ray Bradbury
Fahrenheit 451
(Del Ray Book, 1996)
このペーパーバックの表紙は、1953年に最初に出版されたハードカヴァーの表紙を採用している
『華氏451度』には、この小説を書いたレイ・ブラッドベリの「思い」が濃厚に現れています。それは3つのキーワードで説明できると思います。「メッセージ」「バイアス(偏り)」「ペシミズム」の3つです。

 メッセージ 

まず非常に分かりやすいのは作者のメッセージです。つまり、

テレビ(など)の「感覚的で、与えられる情報メディア」ばかりに接し、本を読まなくなると、そのうち人間は考えることをしなくなり、その結果として為政者にいいように操縦される烏合の衆と化してしまうぞ

という警告です。『華氏451度』はこの警告を、手をかえ品をかえて描き出した小説と考えられます。これは読者にとって非常に分かりやすい。本は人類の知的資産の集合であり、それを大切にすることの重要性は誰しも納得できるはずです。

しかし『華氏451度』をそういう「分かりやすい警告を発した本」と思って安心して読んでいると、途中から「あれ、そんなはずじゃ・・・・・ 」と感じるようになるのです。

 バイアス 

バイアスというのは、作者のものの見方が少々「偏って(かたよって)」いることを言っています。人間誰しも自分なりの「偏り」があるわけで、そうだからといって非難されるわけでは全くありません。「偏り」と書くとマイナスイメージになるので「バイアス」とします。

ブラッドベリの考えには独特のバイアスがあります。たとえば『華氏451度』の世界ではスポーツが奨励され、学校教育でも重視されています。ちょっと極端に言うと「スポーツは、考えない大衆を作りだす手段」と言わんばかりの書き方がされているのです。

また書物のダイジェスト版やラジオにおける名作のダイジェスト放送、雑誌、漫画、などは『華氏451度』の世界で大手を振って流通しています。作者に言わせると、これらは知性には関係ないメディアということなのでしょう(漫画は、1950年代のアメリカ漫画を想像しないといけません)。「美術館には抽象画ばかりが並んでいる」という記述も、作者の「抽象画嫌い」がバックにあるような気がします。

小説の中で、焼却された本として名前があがっている作者もそうです(No.51参照)。古代ギリシャの劇作家からフォークナーまで、個人的経験を言うと、そのうちの2~3の本は読んだことがありますが、ほとんどは読んでいません。仮に名前のあがっている作者の本が今地球上から無くなったとしても、個人的には何の不都合もないのです。もちろん、ここにあがっているのは一部だということは分かるし、すべての本が無くなると考えると恐ろしい。しかし小説を読み進むうちに、ブラッドベリの基準からすると自分は「本に固執する少数派」なのか「本はなくてもよい多数派」なのか、どちらなのかという余計な疑いが出てくるのですね。はじめは「当然、自分は少数派だ、迫害される方だ」と思っているのですが、読み進むうちにそれは本当かという疑念が湧いてくる。果たして本のために「死ぬかもしれないリスク」をとれるのか? 自分は『華氏451度』の世界では、実は、少数者を密告し迫害する方ではないのかと・・・・・・。こう思わせるのは、ブラッドベリの「バイアス」のせいだと思います。



ある本好きの少年がいたとします。小さいころから本が好きで好きでたまらず、小学校の図書室の本は全部読破したような少年です。学校の勉強も大好きで一所懸命やるから、成績はトップクラス。そのかわり性格は内向的で、友達づきあいがうまくできず、女の子からはもてない。運動が苦手で、スポーツは大嫌い。クラスメートからは「ガリ勉」と揶揄されている。家にいても母親から「そんなに本ばかり読んでないで、外で遊んできなさい!」と追い出される。外に出ても友達と遊ぶのではなく、一人で公園に行き、花や虫を見つめ、本で読んだことを夢想する。そして星が出てきた頃、家に帰る。ちょうど、小説に出てくるクラリスのように・・・・・・。



ブラッドベリがこのような少年だったかどうかは知りません。正反対の、外向的でクラスの人気者のような少年だったかもしれない。しかし『華氏451度』を読むと、上に書いたような本好き少年がそのまま大人になって、その思いや、無理解な周囲への「うらみごと」をぶつけたような感じを受けるのですね。何となく屈折しているような、オタクっぽい雰囲気がある(悪いといっているのではありません)。ちょっと「ついていけない感じ」もします。

しかし実は、こういったバイアスがかかった雰囲気がこの小説を大変魅力的にしているのだと思います。「本は大切だ」というようなメッセージを述べただけなら、おもしろくも何ともない。この小説の価値は半減したはずです。

 ペシミズム 

さらにこの小説で感じるのは、全体に何となく漂うペシミズムです。ブラッドベリの「思い」は次のようなものではないでしょうか。

本が大好きで、本を始終読んでいる(自分のような)人間は、いずれ社会の少数者になり、そして迫害されるだろう。
科学技術やマスメディアの発達によって、人間は数千年の長きに渡って培ってきた「人間らしさ」や「知的財産」を失っていき、いずれ動物的感覚だけで生きる存在に堕ちていくに違いない。

華氏451度-5.jpg
1966年にフランソワ・トリュフォー監督は『華氏451度』を映画化した。
主演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティー
何となく作者の、文明の発達に対する嫌悪感を感じるのですね。特に20世紀文明の発達です。もちろん、古代ギリシャの哲学・文学からフォークナーに至る知的財産の蓄積は文明の発達とともにあったわけだし、それは作者も分かっています。しかしそれもピークをすぎ、あとは没落していくだけだ、というような作者のイマジネーションを感じるのです。「育児室からカレッジへ、それからさらに、もとの育児室へ」という署長の発言もあります。そして『華氏451度』において、文明をネガティブに象徴するキーワードが「石油」と「戦争」です。

ファイアーマンたちはノズルから「石油」を撒き、火焔放射器で本を焼却します。まるで「毒液」の代名詞のように繰り返される「石油」という言葉に、作者は人類の知の遺産を蝕んでいく文明を象徴させたように思います。

さらに『華氏451度』の世界では、街の上空にジェット機の編隊や爆撃機が飛びかっています。もうすぐ戦争が始まるようなのです(小説の途中で宣戦布告がある)。しかも戦争は短期で、何度も繰り返されているらしいのです。刹那的・感覚的に生きる多数の人々と、その人々とは無関係かのように国のどこか行われている戦争・・・・・・。この殺伐とした世界が文明の行き着く先だと言っているようです。

もちろん、ペシミズムだけというわけではありません。小説の最後には、本の内容を暗記で伝承していこうとする人々が出てきて(仲間はかなりの数です)、次の未来を彼らに託そう、という書き方になっています。しかし全体的に言うと、人間社会は堕ちるところまで堕ちるのだろうという、ほとんど妄想に近いような悲観的見方を感じるのです。

「バイアス」がこの小説を魅力的にしていると書きましたが、このような「ペシミズム」の雰囲気は、さらにこの小説を読者に対する問題提起の本にしていると思います。果たしてブラッドベリの想念は正しいのか、杞憂なのか、妄想だと片付けてよいのか。人間社会はこのアンチ・ユートピアの方向へ向かうのか。それとも全くその逆なのか、というような・・・・・・。

一面の真実を突いた極端な意見・ものの見方は、その前提で考えれば有益なことも多いと思います。


『華氏451度』の今日的意味


『華氏451度』が出版されたのは1953年です。この後、世界の状況は大きく変わりました。冷戦が終了し、ベルリンの壁が崩壊しました(それを促したのは、ブラッドベリが「嫌っている」テレビだと言われています)。1990年代以降はインターネットが爆発的に普及しました。インターネットにおけるホームページ、ブログ、SNS、ツィッター、動画共有サイトなどは、個人が不特定多数に対して情報発信することを可能にしました。個人が「放送局」を持つことも難しいことではありません。2011年に起こったアラブ諸国の民主化(いわゆる、アラブの春)は、インターネットなしには考えられないと思います。だからこそ、現代の独裁政権はインターネットの規制に躍起になっています。

また1953年当時と比較して出版事情も大きく変化しました。数だけからいうと、本の出版件数は飛躍的に増大しています。『華氏451度』の世界とは逆のように見えます。

そしてこの小説に関連して最も大切なことですが、本に関する状況が今、大きく変化しようとしています。それは電子書籍の本格的な普及のきざしです。デジタルデータで購入した本を専用端末やスマートフォン、タブレットPCで読むようなことが、いずれ一般的になるのかもしれません。新刊書がデジタルデータで、ないしはデジタルと紙の両方で提供されるようになると、本を読むという行為はどう変化していくのでしょうか。または変化しないのでしょうか。電子書籍はそれによって得るものも大きいが、失うものもありそうです。

このような現代の状況は『華氏451度』のアンチ・ユートピアから遠ざかったのか、それとも逆に少し近づいているのかを考えるべきでしょう。その判定ポイントは人間がより「考えるようになる」のか「考えなくなる」のか、です。考えることによって、さまざまな意見やモノの見方が生まれ、発展があるのだと思います。「多様化」「多様性」がキーワードです。それは生物も同じです。同質化し、特定環境に適合し過ぎた生物は、わずかの環境変化で絶滅してしまいます。

現代社会を一言でいうと、経済的には市場原理にもとづく資本主義社会ですが、そのバックボーンは民主主義にもとづく意志決定システムです。この民主主義の社会において、国民は一人一票の投票権をもつのですが(現代日本では実質的に一人一票からかけ離れてることが問題なのですが)、実はこのシステムがうまく機能する暗黙の大前提は「一人一人が考える人間」であることなのですね。これが崩れると、どんな異常な世界も現出するはずです。それは歴史が証明しています。もっともその時に異常だと思うのは、少数の迫害されかねない人たちだけだとは思いますが・・・・・・。

『華氏451度』は、メディアが多様化し、電子出版が立ち上がりはじめている現代にこそ、我々に熟考すべき本質的な課題をつきつけていると思います。

続く


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