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No.230 - 消えたベラスケス(1) [アート]

今まで17世紀スペインの宮廷画家、"王の画家にして画家の王" と呼ばれるベラスケスについて5回書きました。

No.  19 - ベラスケスの「怖い絵」
No.  36 - ベラスケスへのオマージュ
No.  45 - ベラスケスの十字の謎
No.  63 - ベラスケスの衝撃:王女と「こびと」
No.133 - ベラスケスの鹿と庭園

の5つです。今回はその続きで、2018年に発売されたローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)を紹介します。著者は英国の美術評論家で、もとBBCの美術担当プロデューサーです。

消えたベラスケス.jpg
ローラ・カミング
「消えたベラスケス」
五十嵐加奈子訳(柏書房 2018)


消えたベラスケス


この本については中野京子さんが書評を書いていました。まずそれを引用します。日本経済新聞の読書欄からで、下線は原文にはありません。


芸術が魂に与える力を熱く

消えたベラスケス
  ローラ・カミング

著者いわく、本書は巨匠の中の巨匠ベラスケスをたたえる書である。

その言葉どおり熱い本だ。芸術作品というものは各時代の賛美者たちが熱く語り続けることで、次代へつながれてゆく。ベラスケスはスペイン宮廷の奥に隠されていた時代にはゴヤが、公共美術館に展示されてからはマネが、その超絶技巧と魅力を喧伝けんでんしてやまなかった。今またこうして美術評論家のカミングが、17世紀の寡黙な宮廷画家に迫り、すこぶるつきに面白いノンフィクションに仕上げた。

2つの流れが交錯する。1つはヴィクトリア朝時代の書店主スネアの数奇な人生。安価でベラスケスの絵を手に入れた彼が真贋しんがん論争に巻き込まれ、ついには店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死ぬ。絵はその後忽然こつぜんと消える。カミングはスネアの足跡を辿り、絵が本物かどうか、今どこにあるのか、調査にのめり込む。

もう1つの流れは、ベラスケスの人生とスペイン・ハプスブルク家の黄昏たそがれだ。もちろんそれは彼の作品に色濃く反映されている。そもそもベラスケスが描き残したからこそ、無能王と呼ばれたフェリペ4世、血族結婚くり返しの果てに生まれたひ弱な王子や王女、宮廷に仕える小人症の慰み者たち、権力を振るう重臣らが、350年前、喜怒哀楽をもって確かに生きて呼吸していたことを我々は深く納得するのである。

カミングはベラスケスの天才性に感嘆し続ける。近くで見るとただの色の染みでしかないものが、遠目には見間違いようのないドレスの金糸になり、ひげになり、水滴になるのははぜか。何より、人物の本質をどうやってえぐりだせたのか。それは日記も手紙も残さず、全く自己を語らなかった画家その人と同じく大きなミステリだ。

これに関して本書唯一の物足りなさは、コンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系だった可能性や、傑作『キリスト磔刑たっけい図』に触れていないことだろう。

とはいえ、破産しても貧窮しても絵を手放さなかったスネア、執念で追い続けるカミングを通し、芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力のすごさには圧倒されずにおれない

美術愛好家、必読。

《評》 ドイツ文学者
中野京子
日本経済新聞(2018.3.10 朝刊)

下線のところにあるように、この本を読んでみると著者 ローラ・カミングのベラスケス作品に寄せる熱い思いが "ひしひしと" 伝わってきます。美術評論家がこれほど1人の画家に "入れ込んで" いいのかと思えるぐらいですが、それだけベラスケスが特別な存在だということでしょう。ベラスケスだから許される。最後の一文である「美術愛好家、必読」というのはその通りです。


ジョン・スネアとチャールズ1世の肖像


「消えたベラスケス」というノンフィクションの1つの軸は、ジョン・スネアという人物の生涯です。スネアは英国バークシャー州レディングで1808年頃に生まれました。レディング(Reading。リーディングとは発音しない)はロンドンの西、約60kmのテムズ河畔の町です。北西約40kmには大学で有名なオックスフォードがあります。

スネアは1838年に、レディングの叔父の書店を引き継ぎました。それ以降、印刷業や雑貨屋も兼ね、レディングの町では一応の名士になりました。

スネアは独学で絵を学び、有名絵画の版画を集めて絵の研究をしました。絵画のオークションにも参加しています。当時は公的美術館が未発達で、著名画家の絵は貴族の館に飾られているものでした。オークションは誰でも参加でき、下見会も何回かあるので本物の絵画に出会える貴重な機会だったのです。

発端は1845年10月、レディングの地元紙「レディング・マーキュリー」の広告です。それは、オックスフォード近郊にある全寮制学校「ベンジャミン・ケント男子アカデミー」のホールでオークションが開催されるという通知でした。この学校は閉鎖されることになり、備品、蔵書、絵画などの総数180点が売りに出されたのです。スネアは以前にケント校長の知人とともに学校を訪れたことがありました。

広告のなかでも "別格" の扱いだったのが「チャールズ1世の半身像、推定ヴァン・ダイク作」でした。ヴァン・ダイクの作らしき肖像画が売りに出され、しかもそれは清教徒革命で処刑されたあのチャールズ1世と知って、スネアは早速オーションの下見会に出かけました。

そこでスネアが見たのは確かにチャールズ1世の肖像でした。しかしそれは若い頃のチャールズで、明らかに皇太子時代のものです。フランドル出身のヴァン・ダイクが英国の宮廷画家として迎えられたのは1632年で、チャールズが王位についてから8年も後です。おかしいと思ったスネアは、これはベラスケスの作品ではないかと直感しました。

1623年に起こった2つの出来事です。この年の3月から、イングランドのチャールズ皇太子はスペインを訪問しました(訪問の目的は本書に詳述されています)。さらにこの1623年の夏、ベラスケスが自作の『セビーリャの水売り』を携え、故郷のセビーリャをたってマドリードにやってきました。前年に引き続き2回目の訪問です。

ベラスケスの絵の師匠はセビーリャのフランシスコ・パチェーコですが(ベラスケスの義父でもある)、パチェーコの知り合いに聖職者のファン・デ・フォンセカという人物がいて、彼は国王・フェリペ4世の礼拝堂付の司祭でした。ベラスケスはそのフォンセカに『セビーリャの水売り』を見せたのです。その出来映えに驚いたフォンセカは、すぐにその絵を買い取りました。そして自らの肖像画をベラスケスに描かせるとともに、スペイン宮廷の有力者に絵とベラスケスを紹介しました。

そのころ、スペイン国王フェリペ4世はチャールズ皇太子の対応に忙しかったのですが、宮廷で評判になったベラスケスに肖像画を描かせることにしました。そして1623年8月30日、当時18歳のフェリペがモデルとして初めてベラスケス(当時24歳)の前に立ちました。そして、その年のうちにベラスケスは宮廷画家にとり立てられることになります。

問題はこの間の歴史資料です。ベラスケスの生涯を記述した数少ない書物の一つに、後輩の宮廷画家、アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」があります。この本に、

  フェリペ4世の肖像画を制作中であったベラスケスが、そのかたわらイングランドの皇太子も描いた

との主旨の記述があるのです。さらにチャールズ皇太子のスペイン旅行の際の英国王室の経費報告書を調べると、

  皇太子は肖像画代として1100レアルを払った(1623年9月8日付)

とあります。この金額はフェリペ4世が自身の肖像画代として払った金額を遙かに超えるものです。つまり "ちゃんとした肖像画" だったことが分かります。当然、チャールズ皇太子はその絵を携えてイングランドに戻ったと考えられるのです。

オークションで "ヴァン・ダイク作「チャールズ1世像」" を安値で手に入れたスネアは、その絵の来歴を徹底的に調べ始めました・・・・・・。



それ以降のジョン・スネアの数奇な生涯について、本書はミステリのような書き方になっているので、ここで紹介するのは控えたいと思います。一言だけ付け加えると、中野京子さんが書いている "真贋論争" 以外にも "盗品疑惑" が持ちあがります。そしてその疑惑について本書の最後のところで意外な真実が明かされています。


ベラスケスの画家像に作品から迫る


Laura Cumming.jpg
Laura Cumming
(Twitterより)
本書の1つの軸がジョン・スネアの生涯なら、それと交互に語られるもう1つの軸がベラスケスの生涯と彼の作品です。ベラスケスの宮廷画家としての職業人生については公式記録があり、同時代の人が書いた伝記もあって、かなり判明しています。しかし本人の日記や書簡の類は一切残されていないため、その画家像については不明の部分が多い。ベラスケスは自己をいっさい語っていません。絵の主題を決めたのが依頼主なのか画家なのかが不明なものも多く、作品の制作意図や背景を知ることは困難です。ローラ・カミングはベラスケスが残した作品を凝視することで、画家としての姿に迫ろうとします。

たとえば、ベラスケスの絵の特徴です。ベラスケスはスケッチを残していません。習作もほとんど描かないし、カンヴァスに下書きもしない。頭に浮かべたものをそのままカンヴァスに描いています。これだけでも驚きですが、さらにその細部が "神秘的" です。中野京子さんの書評にもありますが、本書の記述を次に引用します。


ベラスケスの絵には、神秘的な部分が多々ある。どこに点を打ち、筆を走らせ、絵の具をはじき、あるいは飛散させれば、悲しげなまなざしや、シルクのドレスに照り映える日の光を表現できるのかを、彼はどうやって知ったのだろう。冷たい水が入ったコップが結露する瞬間をどうやってとらえたのだろう。彼の筆跡はときに、ひとつひとつ指で数えられるくらいまばらで、筆の動きが手にとるようにわかる。

おもわず、点字を読みとるように筆跡を指でなぞり、これほどまでに説得力をもつ "絵の言葉" を彼がいかにして生み出したのかを読み解きたくなる。ごく小さな点を取り除くと、そこに "書かれた" 内容ががらりと変わる。そんな絵が描ける画家はほかにいない。点を一つ取り去っただけで金色のブロケード(引用注:金糸・銀糸などで浮き織りをした絹織物)は輝きを失い、睫毛まつげを1本消しただけで、モデルの表情が一変する。ピンの先で置いたようなわずかな絵の具がものを言うのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.52-53
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

ベラスケスの筆遣いには、彼独特のさまざまな "筆遣いの言葉" があり、その言葉を積み重ねた "物語" がベラスケスの絵です。離れて見るとその言葉は分からないが、近づくにつれて明瞭になってくる。本書でカミングはこれに類することを何度も書いています。



これ以降は、本書で紹介されているベラスケスの代表作から何点かを年代順にとりあげ、ローラ・カミングの "解説" を引用したいと思います。美術評論家がベラスケスに迫るべく "熱く語った" 言葉は重要だと思うからです。

以下の絵の制作年は本書のものを採用しました。またベラスケスの年齢は制作年からベラスケスの生年(1599年)を単純引き算したものです。但し本書に制作した年齢が明記してあるものはそれを採用しました。下線は原文にはありません。また、原文にはない段落を追加したところがあります。


卵を料理する老婆と少年


本書によるとこの絵は、著者のローラ・カミングが8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリーで見た絵です。カミングの「初ベラスケス体験」というわけです。ふつう『卵を料理する老女』と呼ばれています。

An Old Woman Cooking Eggs.jpg
卵を料理する老婆と少年
(1618:18歳)
100.5cm × 119.5cm
スコットランド・ナショナル・ギャラリー


描かれた場面は、薄暗い居酒屋。その場にあふれる物のひとつひとつにスポットライトが当てられている。赤タマネギ、卵、白い鉢と、そこに危ういバランスで置かれた銀のナイフ、光を反射する真鍮しんちゅうの容器。どれもみな非凡で、まるで祭壇にでも並んでいるかのように、神聖かつ神秘的に見える。ベラスケスはありふれたものに最上級の敬意を払い、ひとつひとつが、まばゆいばかりに美しく描写されている。左側の少年が抱えるひもで縛ったメロンまでが、この世に与えられた新たな賜物たまもののように神々しい光を放つ。

卵を料理する老女と少年は、聖書に出てくる人物でもなければ、ただのモデルでもなく、まだ18歳だったベラスケスがこの傑作を描いた地、セビーリャの庶民だ。イングマール・ベルイマン(スウェーデンの映画監督)の映画に出てくる常連役者のように、二人は別の絵にも登場する。初期に描かれたこの絵では、人物どうしの交流や対話はなく、最低限の演出しかない。老女と少年がじっと物思いにふけっているポーズをとっているのは、描いている若き天才画家と同じ役割を二人が担っているからだ。目的は物を目立たせること ─── つまり、卵やメロン、反射するガラス瓶などを光にかざし、そこに人の注目を集めることなのだ。

この絵全体が人を魅了するために描かれたのは明らかで、目的は達成されている。真っ先に目を奪うのは、驚くべき精緻さだ。きらりと光る鍋の中で、透明な流体と不透明な白い流体が混じり合う卵。液体が一瞬にして個体に変わり、目に見える形を得る。それはちょうど、絵というものが見せる不思議な幻影に似ている。これぞまさに、ベラスケスの象徴と言える絵かもしれない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.37-38

An Old Woman Cooking Eggs(Part).jpg
ローラ・カミングの父親は画家です。画家が娘に真っ先に見せたかったのがこの絵だったのでしょう。驚くべき精緻さで描かれた物たちのなかでも、ひときわ目立つのが上の引用の下線の部分、鍋の中の卵です。液体から半液体、半固体、固体へと変化する様子がとらえられている。本書ではわざわざ、この "目玉焼き" を作っている鍋の部分図が掲げられています。カミングはこの絵を子どもの時から数え切れないくらい見たはずで、見るたびに "目玉焼き" に感心してきたのだと想像できます。


セビーリャの水売り


Waterseller of Seville.jpg
セビーリャの水売り
(1618:19歳)
106.7cm × 81cm
ウェリントン・コレクション
(Aspley House, London)

この絵は10代のベラスケスが故郷のセビーリャで描き、それを携えてマドリードに上京し、王宮の人々を驚嘆させました。ベラスケスの師匠の知人の聖職者、フォンセカがすぐに買い取った絵です。


そこに描かれるのは、働きづめの人生を送ってきた男の姿だ。顔には深いしわが刻まれ、大きな穴のあいた衣服をまとい貧しいなりをしているが、うれいを帯びた気高さがある。横にいる少年(彼はほかの絵にも登場する)は目を伏せ、うやうやしく水を受け取る。水売りが来なければ、少年は喉がからからに乾いていただろう。水なしで生きられるものはいない。触れあう二人の手が、安価だが計り知れない価値をもつものを支えている。ベラスケスは、いたって平凡な商売の場面に寓話的ぐうわてきな意味を与えた。

ひときわ透明なガラスのコップに、水に香りをつけるためのものだろうか、イチジクの実が浮いている。それらしく描くのは至難のわざだ。大きな陶器の壷は、でこぼこや焼きむらがあり、雫が垂れた跡が変色し質感も変わっている。このシーンを描いたとき、ベラスケスはまだ10代だった。

老い、つましさ、またはキリスト教的博愛の象徴として描かれた絵であろうとか、悪漢ピカレスク小説の一場面で、老人は道化者の物乞いであるとか、巨大な陶器の壷の中で寝たと言われるギリシャの哲学者ディオゲネスの肖像であるなどと、この絵には多くの解釈がなされてきたが、10代の若き画家が、格段に難しい対象を描き上げる能力を見せつけるために選んだテーマであることは確かだろう。ガラスのコップは、加熱されている卵と同じだ。卓越した技術と、この絵がもつ謎めいた陰鬱な雰囲気とがあいまって、見るものを眩惑げんわくさせると同時に当惑させる。

水売りの男はいかにも真面目そうで、威厳があり、画家からも少年からも一目置かれている。この男を貧しい道化者の物乞いと解釈した人は、本当にこの絵を見たのだろうか。

フォンセカが1627年に亡くなると、ベラスケスは彼の所有する絵の目録を作成し、《セビーリャの水売り》に最高値をつけてすぐに買い戻したという。フォンセカの未亡人にはありがたかったに違いないが、ベラスケスにとっても得るものが大きかった。若い時分に描いたかけがえのない大切な絵 ─── 彼はそれを二度と手放さず、死ぬまで手元に置いていたと伝えられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.48-49

カミングが「横にいる少年ほかの絵にも登場する」と書いているのは、たとえば先の『卵を料理する老婆と少年』です。明らかに同じ少年を描いています。なお、訳文では水を入れた壷を "陶器" としていますが、明らかに釉薬を塗らずに焼いた陶器、つまり "素焼きの壷" なので、日本語感覚ではそう訳す方が良かったと思います(ただし、全体としてこの本の訳は優れています)。

ちなみに、2018年3月24日に放映されたTV東京の「美の巨人たち」の "今日の一枚" は『セビーリャの水売り』でしたが、この絵を所有しているロンドン、アスプリー・ハウスの主任学芸員の方が「描かれているのは高価なヴェネチアン・グラスのようで、貧しい水売りが普段使うようなものではない」と解説していました。確かに、グラスの下の方には装飾が施されています。どこにでもありそうなグラスではない。

なぜヴェネチアン・グラスを登場させたのか。それはベラスケスが水売りを気高い人物として描きたかったからだ、という解説でした。宗教的な意味(たとえば洗礼)を見いだすことも可能だと・・・・・・。

カミングが言うように威厳があり、また気高さをも感じさせる人物造形にはヴェネチアン・グラスが似合うのでしょう。ただ、もう一つの理由として高価で透明度が高いヴェネチアン・グラスになみなみと水をいだ時の質感表現に挑戦したのではと思いました(しかも無花果イチジクまで入れる)。当時の上流階級の、見る人が見ればヴェネチアン・グラスとすぐ分かったのではないでしょうか。


ヴィラ・メディチの庭園


1628年、当時の大画家ルーベンスがスペインの宮廷を訪れて滞在し、王宮にある絵の模写を含め30枚もの絵画を制作しました。そのルーベンスはベラスケスに「ローマに行き芸術の都をその目で確かめてくるように」とアドバイスしました。

ベラスケスは生涯に2度、ローマを訪れて滞在していますが、第1回目はルーベンスがスペインを去った2ヶ月後、1629年の6月末からです。帰国したのは1631年1月で、およそ1年半の滞在でした。ベラスケスはローマで "ヴィラ・メディチ" に2ヶ月滞在し、その庭園を描きました。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介したように、絵は「昼」と「夕暮れ」の2枚あります。次はその「夕暮れ」の方です。

View of the Garden of the Villa Medici.jpg
ヴィラ・メディチの庭園
(1630:31歳)
48.5cm × 43cm
プラド美術館


描かれたのは、イトスギにかこまれたのどかな一角だ。古代ギリシャ風のアーチ門は薄板でふさがれ、その上のバルコニーの縁には白い布が掛けられている。建築者だろうか、庭師だろうか、二人の人物が立ち話をしており、ひとりは薄板からぶらさがるロープの端をぼんやりと持ち、クモの糸ほどに細い銀色の線が、絵の表面を斜めに走っている。

特別な場面を描いたのでもないのに、なぜか心を奪われる ─── その矛盾が、この作品を神秘的なものにしている。生け垣の上にそびえるギリシャ神ヘルメスの像は、二人の会話に聞き耳をたてているように見え、アルコープ(引用注:壁面の一部を奥に後退させて作った空間のこと)に映る影は、なかば生きているかのようだ。巨大なイトスギはその暗い木陰に太陽の熱を包み込み、衝立ついたてのようにそそり立って外の世界を遮断する。そのあいだから、紅に染まりはじめた空がわずかに見える。この場面の中央にある薄板の間がわずかに開いていて、見ているうちにふと、その瞬間から忍び出て扉の向こうを見てみたい、絵の中に入って生きたいという気持ちになる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201

この絵は "大作の名画" がオンパレードのプラド美術館の中にあっては見逃してしまいそうな小さな絵です(48.5cm×43cm)。また一見 "地味な" な絵なので、本当に見逃す危険性は高い。その見逃しそうな小さな絵の前に立って眺め入っている著者の姿が目に浮かぶような描写です。しかし、この絵の "解説" のポイントは、漆喰しっくいの壁の描き方を書いた次の文章です。つまり壁に塗る漆喰とカンヴァスに塗る絵の具の類似性がこの絵の "見どころ" だという指摘です。


ある部分には絵の具がたっぷりとなめらかに塗られ、別の部分では薄く塗られ、ときにはカンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている。つまり、描かれている対象をそっくりそのまま真似ているのだ。

この絵は、かなり小ぶりだ。こちらに背を向けて立つ人たちはごく小さく、バルコニーに布をかけている使用人などは、かろうじて見える程度だ。じつにリアルなシーンであるにもかかわらず、なぜか夢のようにおぼろげに見える。小さなカンヴァスは、もちろん外へ持ち出すのに便利だ。だがベラスケスがこのサイズを選んだのには、別の理由があったのかもしれない。離れて見ると、カンヴァスの布目がレンガの模様を再現するのにぴったりの大きさなのだ。

ここにもまた、私たちの想像が及ばないベラスケスの緻密な計算が働いている。はたして彼は、はじめからわかっていたのだろうか。それとも描いているうちに思いついたのだろうか。これは、彼の作品につねにつきまとう重大な疑問点のひとつだ。どの作品がどのようにして生まれたのか、それはゆっくりと手間をかけて描かれたのか、手早く描かれたのか。また、偶然の結果なのか、意図的に生み出されたものなのか。カンヴァスの横糸と縦糸が織りなす細かい格子模様を生かしてレンガの輪郭をかたちづくるといった点は、どこか精密工学のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201-202

下線をつけたところですが、この絵をそのように見ることができるのかと、本書を読んで思いました。美術評論家らしい着眼点です。さらにカミングは、この絵が "小さな革命" だったと続けています。


この作品は、絵画に小さな革命を起こした。単に、並外れた手法で描かれたというだけではない。描かれた理由も、物語性も、焦点も何もなさそうなのが新しいのだ。なんとなく眺めていて目に入った断片的な光景、その一瞬をとらえたこの絵はきわめて斬新で、当時の買い手がほしがった、ニンフや神殿で埋めつくされた古代ローマの風景画などとは、大きく異なっていたのである。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.202

全くの偶然ですが、ベラスケスがローマに滞在していたころ、フランスの2人の高名な風景画家、クロード・ロランとニコラ・プッサンもローマにいました。彼らは「理想的な架空の風景」を描く画家です。アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」によると、ベラスケスはロラン、プッサンと面識があり、プッサンとは共通の知人もいました。もちろん2人の風景画を知っていた。しかしベラスケスの描いた風景画は彼らのものとは全く違っていました。


メディチ家の別荘の庭園を描いたこの小さな作品について特筆すべきは、ベラスケスが実際にこの静かな庭園に出て描いたことだ。その場所、空気、ぬくもり、ローマの夏の柔らかな陽射しにいたるまで、目に入るものすべてを痛いほどの感受性でとらえ、絵の具を含ませた絵筆で記録していく。目で見たものがすぐさま手を介して絵筆に伝えられ、彼が受けた印象そのままに描かれる。この絵は、ベラスケスの作品の中でも最も印象主義的な ─── 実際の印象派が生まれるのは、まだ2世紀も先なのだが ─── 作品と言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.203

2作品ある「ヴィラ・メディチの庭園」のうち、もう一つの「昼」の方は No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介しました。明るい光の下での庭園風景という題材や筆触分割的な筆の使い方は、まさに印象派だと言っていいものです。

View of the Garden of the Villa Medici(Large- Part).jpg
「ヴィラ・メディチの庭園」の中央のアーチ門の両側を拡大した部分図。「カンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている」とローラ・カミングが説明している部分。


パブロ・デ・バリャドリード


次の作品は No.36「ベラスケスへのオマージュ」でとりあげたものです。マネは1865年に『オランピア』でサロンに入選しますが、娼婦を描いたということで評論家から罵声を浴びます。傷心のマネはマドリードに旅をし、プラド美術館でベラスケスの作品に出会います。

Pablo de Valladolid.jpg
パブロ・デ・バリャドリード
(1635:36歳)
209cm × 123cm
プラド美術館


1865年のある夏の日の夕方、エドゥアール・マネは、新たに運行が始まったパリとマドリッドを結ぶ直通列車に乗った。不快な旅は1日半も続いた。マドリッドではグラン・オテル・ドゥ・パリに泊まるが、名物だというフランス料理はとても食べられたものではなく、どの皿にも手をつけずにそのまま返した。マネが闘牛場で牛の角に突かれて死んだ闘牛士を目撃した話や、エル・グレコの絵を見るためにトレドまで足を伸ばした話は有名だ。だが、コレラが大流行するさなか、辛い長旅に耐え、言葉もまったくわからないスペインへわざわざやってきたのは、何よりもベラスケスの絵を見るためだった。

プラド美術館の細長い展示室で、マネは「悲惨な旅でくたくたになっても見にくる価値がある」"画家の中の画家" の作品と出会う。だが、それだけではなかった。彼にとって "すべての絵画を越える絵" となる作品との出会いも待っていた。その絵とは、ベラスケスが描いた宮廷の喜劇役者パブロ・デ・バリャドリードの肖像画である。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136

この絵は「道化役者」とういタイトルで呼ばれるのですが(現プラド美術館)、本書によるとマネがプラド美術館を訪れた当時、この絵には「フェリペ4世時代の有名な役者の肖像」というタイトルが付けられていました。この方が実態と合っているので、カミングは "喜劇役者" で通しています。


パブロはどこからともなく、圧倒的な姿をあらわす。光を放つ絵の表面に黒づくめの姿が不意に出現し、何もない空間に黒いシルエットがくっきりと浮かび上がる。彼をそこにつなぎとめているのは影だけだ。床はなく、みずからの確固たる存在感だけで、このひとり芝居の舞台に立っている。さっと姿をあらわすところは、まるで登場の場面のようだ。

役者は開いた両足を地につけ、持てるエネルギーを残さず体内に封じ込めようとするかのように、片手を胸のあたりに当てている。その姿を、ベラスケスが与える輪郭がしっかりと絵にとどめる。彼は不動だが、代わりに仕草が何かを物語る。ケープをつかむ手が、もう一方の手に合図を送る。するとその手は、その先に別の時と場所があるかのうように斜め下方を指す。じつに雄弁なジェスチャーだ。この絵はベラスケスの作品の中で唯一、動きが表現された肖像画でもある。饒舌じょうぜつな両手は、左手から右手へ、さらにその先の何もない空間にある思考をさす指先へと連鎖反応をもたらしながら、一緒になって掛け合い芝居を演じている。

舞台はなく、書割かきわりも、衣装も、小道具も、彼を特定の役柄や演技の枠にはめるものは何もない。パブロは自由に、ありのままの自分でいられる。この絵は彼をどんな役柄にも当てはめず、同様にどんな場所にも閉じこめていない。背後に壁はなく、建物も、設定も場面も何もなく、壁と床の境界すら消滅している。パブロが立つ空間はすでに彼の一部であり、その漠とした空間の中に、堂々たる役者の姿が浮かび上がる。右足はいつのまにか影を引きずり、その影は水面を漂う煙のごとく消えていく。パブロは一枚の絵の中で ── いや、絵の中に ── 立っている。

この絵を見たとき、マネは目を疑った。彼はマドリッドから画家仲間のアンリ・ファンタン = ラトゥールに次のように書き送った。「この絵は、これまでに描かれた絵の中で最も驚くべき作品だ。背景は消滅している。人物を包みこんでいるのは空気だ」

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136-137

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で書いたように、マネは帰国後『パブロ・デ・バリャドリード』の影響のもとに、ハムレットに扮する知人の俳優を描いた『悲劇役者』を制作しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」にも掲載)。マネはパブロを "役者" と認識していたことが分かります。そして、マネ独自の発展形が有名な『笛を吹く少年』(オルセー美術館)なのでした。



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