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No.232 - 定住生活という革命 [本]

No.226「血糖と糖質制限」で、夏井 まこと氏の著書である『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書 2013)から引用しましたが、その本の中で西田正規まさき氏(筑波大学名誉教授)の『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫。2007)に沿った議論が展開してあることを紹介しました。今回はその西田氏の「定住革命」の内容を紹介したいと思います。


定住・土器・農業


まず No.194「げんきな日本論(1)定住と鉄砲」で書いた話からはじめます。No.194 は、2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対談を本にした『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)を紹介したものですが、この本の冒頭で橋爪氏は次のような論を展開していました。

農業が始まる前から定住が始まったことが日本の大きな特色である。日本は、定住しても狩猟採集でやっていける環境にあった。世界史的には、農業が始まってから定住が始まるのが普通

定住の結果として生まれたのが土器である。土器は定住していることの結果で、農業の結果ではない。農業は定住するから必ず土器をもっているけども、土器をもっているから農業をしているのではない。
橋爪大三郎氏の論を要約
『げんきな日本論』より

日本の土器は極めて古いことが知られています。世界史的にみてもトップクラスに古い。この土器は農業とワンセットではありません。土器は定住とワンセットであり「定住+狩猟採集」が縄文時代を通じて極めて長期間続いたのが(そして、それが可能な自然環境にあったのが)日本の特色という主旨です。

人類史の中の定住革命.jpg
これはその通りですが、ここで問題は「世界史的には、農業が始まってから定住が始まるのが普通」としているところです。この認識は橋爪氏のみならず一般的なものでしょう。定住と農業はワンセットであり、それが人類史における革命だった、そこから "分業" や "階級" や "文化" や "都市" や "国家" が生まれた、つまり文明が生まれたというのが、我々が世界史で習う話だと思います。

しかし、そうではないというが西田氏の『人類史のなかの定住革命』で展開されている論です。人類史においては定住生活がまずあり、農業は定住に付帯して発達したものである。定住こそが人類史における(最初の)革命だった、というのが西田氏の論です。この論は人類史についてのみならず、人間とは何かについて深く考えさせられるので、以下にその内容を紹介します。以下の「本書」は『人類史のなかの定住革命』のことです。


遊動生活で進化した人類


"定住生活"(ないしは定住)の反対の言葉は "遊動生活"(遊動)です。本書ではまず、遊動生活がヒトの本来の姿だったことが述べられています。第1章の冒頭の文章です。


サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活をしている。そして人類もまた、出現してからの数百万年を、遊動生活者として生きてきた。遊動生活の伝統は、人類が人類となるはるか以前から、実に数千万年の歴史を持っていることになる。

人類は、出現の初期の段階で二足歩行を始めるとともに、ヒト以前からの伝統であった樹上生活を捨てた。人類を特徴づけている道具の使用や狩猟採集経済、大脳の大型化、言語の使用などは、すべて直立二足歩行の出現に伴って派生した一連の進化史的出来事と考えられている。そして人類は、今からおよそ1万年前頃、人類以前からの伝統であった遊動生活を捨てて定住生活を始めた。

西田正規まさき
『人類史のなかの定住革命』
(講談社学術文庫 2007)

遊動生活とは、互いに認知している数十人の集団が、集団に固有な一定の地域(遊動域)を、泊まり場(=キャンプ)と次々と変え、狩猟採集で食料を得るというライフスタイルを言います。集団はその中に小集団を作ることがありますが、小集団の離合集散は自由であり、またメンバーが集団を離れて別の集団に移ることも自由です。

アフリカの大地溝地帯にいた初期人類が二足歩行を始めたのが約500万年前だとすると(もっと古いという説もある)、1万年前に定住生活をはじめるまでの500万年の間、ヒトは遊動生活の中で進化してきたわけです。この間、道具の利用、道具を使った狩猟、火の使用、言語の使用、石器の高度化、撚糸よりいとと針と布の発明など、さまざまな進化がありましたが、これらのすべては遊動生活の中で培われたものです。

従来、定住生活を支える経済基盤として食料生産(農業)が重視されてきました。その背景には、遊動生活者が遊動するのは定住生活の維持に十分な経済基盤がなかったからという見方が隠されています。しかし本書は、遊動生活者は "定住したくても定住できなかった" というのは思いこみに過ぎないとしています。


人類は、長く続いた遊動生活のなかで、ヒト以前の遠い祖先からホモ・サピエンスまで進化してきたのである。とすれば、この間に人類が獲得してきた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適したものであったと予想することもできる。

そのような人類が遊動生活の伝統を捨てて定住することになったのである。とすれば、定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ、という視点が成立する。この視点に立てば、定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した、革命的な出来事であったと評価しなければならないだろう。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

ここで引用した部分が『人類史のなかの定住革命』の核心の部分です。ここで述べられている視点に立って人類の歴史を眺めてみると、新たに見えてくるものが多数ある。その "見えてくるもの" を、西田氏の縄文時代の研究と世界の人類学者の調査データを駆使して展開したのが本書です。



そもそもなぜ遊動するのか、遊動の理由は何かと問うことが重要です。世界には現在も遊動生活で狩猟採集を行っている人たちがいます。No.221「なぜ痩せられないのか」でとりあげたアフリカ、北タンザニアのハッザ族がそうでした。男たちはキリンやヒヒを狩り、女たちがイモを掘る。これが彼らの「経済基盤」になっています。アフリカではブッシュマン族やピグミー族もそうで、また東南アジアや南アメリカにも遊動生活者がいます。本書ではこれらの遊動生活者の研究データを総合し、「遊動する理由」を次のようにまとめています。

 遊動することの機能や動機 

 ◆安全性・快適性の維持
風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため
  ゴミや排泄物の蓄積からのがれるため

 ◆経済的側面
食料、水、原材料を得るため
交易をするため
共同狩猟のため

 ◆社会的側面
キャンプ構成員間の不和の解消
他の集団との緊張から逃れるため
儀礼、行事を行うため
情報の交換

 ◆生理的側面
肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。

 ◆観念的側面
死、あるいは死体からの逃避。
災いからの逃避。

普通、遊動生活=狩猟採集と言われるように、食料の確保が遊動の理由と考えれています。狩猟であたりの動物が減ったり、キャンプ周辺のイモを掘り尽くしたら他の地域に移動する。それを順々にやると遊動生活になります。もちろん狩猟採集による食料確保は重要ですが、遊動する理由はそれだけではありません。遊動生活者の研究からわかることは、遊動の理由は極めて多岐に渡っていることです。


こうしてみると、遊動生活において移動することのはたしている機能は、生活のすべてに深く関わっていることが明らかである。そうであるなら、当然のこととして、遊動生活者が定住するとなれば、遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たすことができる、新たな手法をもたなくてはならないのである。定住生活が出現するためには、それらの条件がそろっていなくてはならない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

遊動生活の理由を狩猟採集による食料確保のためと考えてしまうと、定住による食料生産(=農業)ができなかったから遊動したのだ、となります。しかし遊動するのは食料確保のためだけではないのです。この視点が本書のまず大切なポイントです。


定住生活の環境要因


「定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した革命的な出来事」とする本書の立場からすると、定住を促した何らかの要因あると予想できます。それは氷河期の終了にともなう中緯度地域の環境変化でした。

最終の氷河期は、約7万年前に始まったヴュルム氷河期です。氷河期における中緯度地域は寒帯ないしは亜寒帯であり、草原が広がり、木々もまばらな疎林の状態でした。しかしヴュルム氷河期も1万5000年前あたりから終わりを告げます。途中に "寒の戻り" がありましたが、1万年前になると地球はすっかり温暖化し、中緯度地域は現在のような温帯になりました。この温暖化に伴って中緯度地域には森林が広がってきて、これが人類の食料確保に大きな影響を与えました。定住の考古学的証拠がみつかるのは温暖化に向かう時期です。


氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄ゆうてい類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想されている。

しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。草原であれば、数キロメートルもはなれた獣を発見することもできるが、森の中では100メートル先の獣を見ることさえできない。しかもこの森に棲む獣は、アカシカやイノシシなど、氷河期の大型獣からすればいずれも小さな獣である。発見がむずかしいばかりか、障害物の多い森の中では、それまでの開けた環境では効果的であった槍を投げることもできず、たとえ獲物を倒しても肉は少ないのである。

中緯度地域における温帯森林環境の拡大は、旧石器時代における大型獣の狩猟に重点を置いた生活に大きな打撃を与えたに違いない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

中緯度地域が森林化することによって狩猟が不調になると、魚類資源や植物性食料への依存度が深まることになります。その内容が以下です。


魚類資源の利用と定住化


まず、野生動物にかわる蛋白源としての魚類が重要になります。以前の旧石器時代でもヤスやモリは使われていましたが、これらは大量のサケが川に遡上するような季節でしか効率的な漁具ではありません。

これに対して新たに出現したのはヤナ(梁)、ウケ(筌)、魚網などの定置漁具、ないしは定置性の強い漁具です。ヤナは、木や竹での子状に編んだ台を川や川の誘導路に設置し、上流から(ないしは下流から)泳いできた魚が簀の子にかかるのを待つ漁具です。ウケは、木や竹で編んだカゴを作り、魚の性質を利用して入り口から入った魚を出られなくして漁をするもので、川や池、湖、浅瀬の海に沈めて使われました。ヤスやモリで魚を突くのは大型の魚にしか向きませんが、定置漁具は小さな魚に対しても有効です。こういった定置漁具の発明が定住化を促進しました。これらの定置漁具の有効性を、本書では次のようにまとめています。

定置漁具の制作には繊維や木材を加工する高度な技術が必要であり、多くの時間と労力が必要である。

魚類資源は、陸上で主な狩猟対象となる動物と比較して単位面積あたりの生産量がはるかに大きく、しかも高緯度地域以外では年間を通じた漁獲が期待できる。

陸上動物の狩りや魚類の刺突漁は、獲物を探し、追跡し、接近して倒し、しかもそれを持ち帰らなくてはならない。こに比べて定置漁具は魚類の行動を利用した自動装置であり、必要な労力がはるかに少ない。多くの場合、その活動は単純な作業の反復で構成され、高度な熟練や体力のない女性や子ども、老人であっても行うことができる。

上の単位面積あたりの生産量のところですが、その例が本書にあります。現在の日本の湖における漁獲量は、琵琶湖で14.3トン/km2/年、中海(島根県)で37トン/km2/年です。一方、シカの生存量は700kg/km2程度と推定され、資源が枯渇しない程度に捕獲できるのは年間に20%程度とされているので、140kg/km2/年となります。縄文時代に狩られたシカ、イノシシ、サル、クマなどを合わせても数100kg/km2/年です。これと比較すると漁業資源は数10倍の量となります。漁撈は、漁具の制作に多くの労力を投下しても十分見合う漁獲が得られるのです。


ナッツ類の利用と定住化


植物性食料への依存度が深まったとき、広く利用されたのが「ナッツ類」です。ここで言うナッツとは食用になる木の実全般を言います。ナッツには、"油性ナッツ" と "デンプン質ナッツ" があります。

油性ナッツは、ハシバミ(実はヘーゼルナッツ)、ピーナッツ、アーモンド、クルミ、ピスタチオ、マツの実などで、カロリー値が高く、加熱調理をしなくてもそのままで食べられます。これらは氷河期から中緯度地域にあったものです。

一方、デンプン質ナッツは温帯森林の広がりに伴って増加したもので、クリ、各種のドングリ類、ヒシの実(水草であるヒシの実)、トチの実などです。食べるには加熱調理するか、ないしは粉にする必要があります。ただし油性ナッツより大量に食べられる。

これらナッツ類の特徴は、中緯度地域においては収穫の時期が限られることです(主に秋)。従って1年を通してナッツ類を食料にしようとすると食料保存の必要性がでてきます。特に冬は食料の採集ができないので越冬食料の保存が必須です。また漁撈も、川を遡上する魚に依存すると、それは季節性があるので捕った魚を保存する必要があります。こういった「季節性のある環境での食料保存」が定住を促した要因になりました。

また、温暖期の遺跡からはデンプン質ナッツの大量調理を示す遺物である土器や石皿(臼として使う)、磨石が出土します。これらの携帯できない道具、あるいは携帯に不便な道具も定住化を促進した要因です。なお、石器による時代区分から言うと、この時期は新石器時代の始まり(約1万年前)と一致します。



以上の、定置漁具の使用、食料保存の必要性、土器などの携帯できない道具の使用が、遊動生活から定住生活に向かった理由になりました。

定住イコール農業ではなく、農業は定住の結果として派生したものというのが本書の立場です。その農業が始まった時期は地域によって違います。西アジアが最も早く、中国やヨーロッパが続きました。日本列島では定住・狩猟採集生活の縄文時代が約8000年続き、弥生時代になって農業が始まりました。以上を概観した図が次です。

中緯度森林定住民の分布.jpg
中緯度森林定住民の分布

図にある後氷期とは、氷河期が終わって現在まで続く期間のことである。農耕が普及して社会が大型化する時期は、地域によって差異がある。農耕はまず西アジアで始まり、中国・ヨーロッパ・インドから日本・シベリア・北米東海岸と進んだ。北海道という記述があるが、北海道で非農耕社会が近代まで続いたことを言っている。
「人類史の中の定住革命」より


定住が文化を産んだ


「定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した革命的な出来事」とするのが本書の立場ですが、では具体的にどのような "定住生活に向けた再編成" が必要だったのでしょうか。その再編成では、上に述べた「遊動することの機能や動機」を別の形で実現しなければなりません。本書ではそれが6点にわけて書かれています。

 環境汚染の防止 


遊動生活をしている人類、霊長類は、食べ物の皮や残りカス、排泄物のゆくえについてほとんど注意を払わない。遊動生活の大きな利点は、あらゆる種類の環境汚染をキャンプの移動によって消去できることである。

よく言われるように、移動することは、歩くことのできない病弱者にとっては困難なことであり、生存のチャンスを減少されせることでもあるだろう。しかし、生態学的な視点に立って言えば、病弱個体が存在することは環境汚染の明らかな徴候と見ることもでき、その個体を捨て去ることで、健康で活動的な集団を維持することにもなる。病弱者を見捨てることが、たとえどれほど酷であったとしても、人類もまた生態学的な原理の範囲のなかでしか生存しえないことは認めなければならない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

定住するとゴミや排泄物をどうするかが問題になります。またノミ、ダニなどの寄生虫や病原菌の増加も避けられず、定住地を清潔に保つことが必須になります。


日常の生活でもっとも大きな問題は、ゴミや排泄物の蓄積による環境汚染である。定住生活者はこれを、清掃したりゴミ捨て場や便所を設置するなどして防がなくてはならないのである。しかし、数千万年の進化史を遊動生活者として生きてきた人類にとって、このような行動を身につけることは決して容易なことではない。我々が幼児に対して、まず排泄のコントロールを、そしてゴミの処理について、数年にもわたってしつこく訓練しなければならないのはそのためである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

人間だけではありません。清潔と排泄物のコントロールは、定住する動物ずべてが備えていなければならない行動様式です。巣を作る動物はたくさんいますが、常に巣の中を清潔に掃除し、また巣の外の一定の場所で排泄する行動を本能的にしています。イヌやネコに排泄をしつけるのが容易なのも、本来、巣の中で成長する動物だからです。一方、ヒトは「数千万年の進化史を遊動生活者として生きてきた」ので簡単ではないのです。定住によってゴミの処理が変わったことが縄文時代の遺跡に研究から推測できます。


縄文時代の遺跡には、火災によって放棄された住居跡が発掘されることがあるが、そのような住居の床には、それまで使用されていたと見られる土器や石器はあるものの、ゴミが散乱していることはなく、割れた土器や石屑、食料のカスなどは、住居の外にまとめて捨てられているのが普通である。

これに対して、縄文時代以前の旧石器時代の遺跡では、キャンプの場所であったと思われるたき火の周囲に、石屑や獣骨が散乱した状態で出土することが多く、捨てられている石屑の量もそれほど多くない。彼らは、こまめに掃除する人ではなかったし、キャンプ地の環境が悪化すれば、それを処分するのに労力をかけるよりも、むしろ移動してしまう人びとだったと解釈できるのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

 住居と木材の加工 


定住するには、年間を通じての気候変化に耐える耐久性のある住居が必要である。遊動生活者の住居は、数時間の作業によって作れる簡単なものであるが、定住者は、少なくとも数日から数十日もの労力をかけて家屋を作る。

耐久性のある屋根材は重く、それを支えるためには太い柱を立てなくてはならない。定住生活者が出現してきた新石器時代を代表する磨製石斧せきふは、こういった木材加工技術の存在を象徴的に示すものである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

磨製石斧せきふは住居を作るためだけでなく、燃料=薪をつくるため木の伐採に使われました。遊動生活では、あたりの枯れ木を拾い集めれば薪になります。しかし定住生活はそれでは成り立たず、定住地周辺の樹木を伐採する必要があります。磨製石斧はそれを効率的に行えるのでした。

 経済的条件 

住居と環境維持の他に、定住生活では水、食料、エネルギー源(薪)の調達が必要です。


定住生活の維持には、集落の近くに年中使える水場があり、必要な薪が採集でき、そして、そう遠くない範囲のなかで必要な食料のほとんどが調達できなくてはならないのである。その範囲は、資源の密度、獲得の技術、人の運搬能力や移動能力にかかわることである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

現代のアフリカの狩猟採集民の研究から、彼らの1日の行動範囲はいくら広くてもキャンプから10km以内とされています。定住を始めた人類も、この範囲内ですべての水や食料を調達する必要があったはずです。先にあげた定置漁具による漁撈やナッツ類の利用はそれを可能にするものでした。本書には定住に伴って人間と植物の関係が変化し、植物が定住地周辺で次第に "栽培化" していくことが、縄文時代の遺跡の研究から詳述されているのですが、それは割愛します。

 社会的緊張の解消 

いままでの「環境汚染の防止」「住居と木材加工」「経済的条件」は、定住した人間が生きていくための生理的条件からくる要請でした。しかし以降は、人間のメンタルな面、精神活動における「定住の条件」です。このあたりが本書の主張の大きなポイントでしょう。


定住社会にあっては、集落構成員の間に不和や不満が生じたとしても、当事者は簡単に村を出ることができず、それがさらに蓄積する可能性が強い。したがって、定住社会は、不和が激しい争いになることを防ぐためのいっそう効果的な手法を持たなくてはならない。このような要請は、権利や義務についての規定を発達させるであろうし、また、当事者に和解の条件を提示して納得させる拘束力、すなわち、なんらかの権威の体系を育む培地となるだろう。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

 死者との共存、災いとの共存 


死、あるいは死体が人に恐怖感をもたらすとしても、定住者はそれを村において逃げることもできない。したがって定住者は、死体あるいは死者ととの緊密な地縁的関係を持たざるを得ないのである。多くの定住民が採用しているその一般的な形式は、死者が住む領域として、村の近くに墓地を割り当て、死者と生者が住み分け的に共存を図ることである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

死者を葬るということは遊動生活でも行われていました。最も古くはネアンデルタール人(約40万年前~2万数千年前)が埋葬をしたことが確認されています。しかし遊動民と定住民では、死者と生者の関係がおのずと違ってきます。


消滅する死体とは別に、死者の霊が死体から離れて他の世界に飛び去るという観念が多くの民族に共有されている。そしてしばしば、死者霊の他界への飛翔を全うさせるために、多大な労力をかけた複雑な儀式がおこなわれる。このような観念的な操作も、そもそも死者から遠く逃れることのできる遊動民の社会にあっては、それを高度に複雑化させる動機を持たないと考えてよいだろう。そして定住民は、そのような観念操作を向ける目標として、墓標を立てたり墓地を囲うなどして、ことさらその場所の特異性を強調するのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

死以外にも、病気、怪我、事故など、人間にとっての "災い" は多く、それらは恐れの対象となります。遊動民であれば "災い" が起こった場所には近づかないという生活様式が可能です。しかし定住民の "災い" は定住地で起こるのであり、災いから逃げることができません。従って災いの原因を神や精霊に求め、災いの原因となった邪悪な力を定住地から追放しようとしたり、あるいは神や精霊の怒りをしずめようとします。これによって定住地が "浄化" される。このような手続きも定住化の帰結として発達するのです。本書の冒頭は次のように始まっています。

  不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく、この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。

定住生活は「不快なもの」や「危険なもの」との共存が前提です。「高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略」とは異質な生活に入るのが定住の意味です。

 心理的負荷の供給 

この「心理的負荷の供給」という項は「定住革命論」の中でも大変重要なものでしょう。つまり、狩猟採集の遊動民はキャンプを移すたびに見える風景が変化するわけです。新たな地域において食用の植物はどこにあるか、獲物はどこにいるか、薪はあるか、危険な獣はいないかなど、感覚を研ぎ澄まし、探索します。このような条件においては人間の脳の力が最大限に発揮されます。人類は数百万年前から遊動民として生活し、その中で進化し、脳を発達させてきました。しかし定住するとこの条件が一変します。


定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激し、探索能力を発揮される力を次第に失わせることになる。定住者は、行き場をなくした彼の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなくてはならない

そのような欲求が、どんな場面に向けられるのか予見することはきないにしても、定住以後の人類史において、高度な工芸技術や複雑な政治経済システム、込み入った儀礼や複雑な宗教体系、芸能など、過剰な人の心理能力を吸収するさまざまな装置や場面が、それまでの人類の歴史とは異質な速度で拡大してきたことがある。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

定住者は物理空間を移動するのではなく、心理的空間を拡大し、その中を移動することによって感覚や脳を活性化させ、本来持っている情報処理能力を働かせてきました。それが人類史に異質な展開をもたらしました。それは縄文時代にも顕著です。


縄文時代の定住者は、生計を維持するための必要性を超えたさまざまな遺物や遺構を残している。装身具や土偶、土版、石棒、漆を塗った土器や木器、過剰な文様の土器、環状列石など、いくらでもその例を見ることができるであろう。それは石器や石屑、焼け石など、生活に必要なごく実用的な遺物の多い旧石器時代の遺跡のあり方とは、きわだった対照をなしているのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

「生計を維持するための必要性を超えたさまざまな遺物」から一つだけ土版どばん取り上げると、土版とは楕円形、ないしは四角の土製の板で、何らかの呪術的目的のものです。秋田県鹿角かづの市の「大湯 環状列石」から出土した土版は、大湯ストーンサークル館に展示してあります。明らかに人体を表し、かつ数字も表現しています。

大湯環状列石から出土した土版.jpg
大湯 環状列石から出土した土版

大湯ストーンサークル館に展示さている土版の表(左)と裏(右)。1個~6個の穴で人体を表している。裏側の左右3つずつ穴は耳だと考えられている。
(site : jomon-japan.jp)



以上が「人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した」内容です。本書では以上を次のようにまとめています。


定住者は、家や集落の清掃に気を配り、丈夫な家を建て、ごく限られた行動圏内で活動し、社会的な規則や権威を発達させ、呪術的世界を拡大させるといった傾向を持つことになる。このように考えてくると、従来、ともすれば農耕社会の特質と見なされてきた多くの事柄が、実は農耕社会というよりも、定住社会の特質としてより深く理解できるのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

本書では「狩猟採集・定住社会」であった縄文時代の詳しい分析が展開されています。また定住以外の話題もあって、たとえば動物を「口型」と「手型」に分類し、人間を「手型動物の頂点」ととらえることによって人類の起源が考察されています。さらに言語の起源、家族の起源、分配の起源に関する考察もあります。このあたりは割愛したいと思います。


遊動生活で進化した人類


これ以降は本書の感想です。

現代は定住社会であり(というより1万年前からそうであり)我々はそれを何の疑いもなく受け入れています。遊動生活というのは、ふつう考えられません。"住所不定" は "犯罪者" とほぼ同一の意味で使われているほどです。世界には現代でも遊動生活を送っている人たちがいて、たとえば国境をまたいで転々としている旅芸人の集団や牧畜民がいたりします。そういう人たちは現代社会としては "困った存在" で、政府は定住させようと躍起になっている。

しかし人間は遊動生活で進化してきたという西田氏の指摘は、あたりまえのことながら改めて言われてみると斬新に感じます。人間の知恵の発揮や工夫、探求などの脳の力は遊動生活で培われた。

脳の働きだけではなく、体の構造や機能もそうです。ちょっと余談になりますが、遊動生活で連想したのが空間把握能力です。No.184「脳の中のGPS」では、脳に備わっている「自己位置把握能力」のことを書きました。また No.50「絶対方位言語と里山」ではオーストラリア原住民の "デット・リコニング能力"(=遠く離れても家の位置が分かる能力)のことを書きました。もちろん、こういった空間把握能力は定住生活でも必要ですが、遊動生活においてより必須のものでしょう。

そういう人間が定住してしまった。定住したから逆に「精神世界での遊動、心理的な遊動」を求めるようになったという指摘や、定住したからこそ権威や宗教(呪術)やルールが発達したというのは、なるほどと思いました。特に、定住生活を水・食料・薪・住居といった物理的・経済的側面だけから考えるのではなく、人の精神活動にまで広げてとらえているのが説得的です。

我々は、あくまで漠然とですが "遊動生活" へのあこがれがあるのだと思います。読書、芸術、映画などの文化装置が提供する「精神世界・心理世界での遊動」だけではもの足らず、物理的でリアルな遊動を求める。西田氏が指摘しているように、遊動・狩猟採集生活では常に神経を研ぎ澄ませているわけです。刺激も多い。我々はそういった意味での "脳の活性化" にあこがれる。現代人にとっての「旅行」の意味は(ないしは、旅行が現代の大産業になっている意味は)そこにあるのかと思いました。

ちなみに本書を読んで思い出したのが、動物園のサル山のニホンザル(あるいは自然動物公園のニホンザル)です。野生のニホンザルは遊動生活ですが、サル山のニホンザルは人間が定住生活をいています。そういう定住生活は「不和の当事者に和解の条件を提示して納得させる拘束力、すなわち、なんらかの権威の体系を育む」と、西田氏は書いています。定住ニホンザルの場合、この「なんらかの権威の体系」とは明らかに "ボスザル" ですね。ボスという存在は定住生活のニホンザル特有のものと言われています。まさに西田理論を補強しているようだと思いました。


西欧中心史観から離れる


我々は歴史の教科書で「農耕=定住=文明」のように学ぶのですが、これはやはり西欧中心史観でしょう。本書を読んでそう思いました。どの民族にとってもそうですが「歴史」は何らかのストーリーでもって自分たちのルーツから現在までを構成したものです。西欧からすると自分たちのルーツをメソポタミア文明に置くのが分かりやすい。つまり、中東における農耕(小麦栽培)の開始 → メソポタミア文明の発生 → エジプト → ギリシャ → ローマ → 西欧全体へと文明が伝播したのが歴史のメイン・ストリームであり、その他としてインドも中国もアラビアもあった、みたいな物語です。

しかし本書にあるように、中東(いわゆる肥沃な三日月地帯)は定住と農耕がきわめて近接して発生した地域で、それは世界的にみると必ずしも一般的ではありません。日本列島では「定住・狩猟採集」が縄文時代の約8000年間続いたわけです。その間に豊かな文化が生まれた。西欧中心史観からすると「定住・狩猟採集」は何となく "遅れている" ように(暗黙に)感じてしまうのですが、決してそんなことはないわけです。

"文化" は英語で culture ですが、これは cultivate(耕す)と同じ語根の言葉だということは良く知られています。これを根拠に「農耕が文化」と、我々は刷り込まれてきたわけです。しかし「耕す」という言葉に「文化」の意味を持たせてしまったのはあくまで西欧なのですね。農耕が文化をもたらしたというのは "西欧の受け売り" なのでしょう。

ここでよく考えてみると、英語には habit(習慣)という言葉がありました。habit はラテン語の「保ち続ける」の意味から派生していますが、同じ語根の inhabit は「住む」という意味です。また habitable は「居住可能な」という意味です(No.204「プロキシマb の発見とスターショット計画」参照)。つまり英語は、

  定住 → 習慣
  農業 → 文化

という言葉の構造であり、これは大変に暗示的だと思います。習慣(habit)とは「後天的に身につけた、繰り返される行動様式」のことで、人間のライフスタイルでは文化よりもっと根源的・基本的なものです。「農業」以前の根源的なものとして「定住」がある ・・・・・・。そういう示唆のように思いました。


脳は生産性を追い求める


『人類史のなかの定住革命』で書かれている食料獲得の変遷を巨視的に眺めてみると、人類の歴史は「食料獲得の生産性を追求してきた歴史」だと言えるでしょう。つまり「できるだけ少ない労力とコストで、できるだけ多くの食料やカロリーを得ること = 生産性」を人類は追求してきたわけです。

狩猟採集生活において陸上動物を狩るとすると、それは大型動物の方が効率的です。ウサギやネズミを狩るより、シカ、ウマ、ウシ、マンモスを狩る方が生産性が高い。人類は狩猟道具を工夫し、チームワークで大型動物を狩ってきました。崖にウマの群を追い込んで突き落とし、一挙に狩るようなこともあった。

大型動物が絶滅してしまったり気候変動でいなくなると、漁撈に向かう。本書に書いてあるように魚類の方が動物より生息密度が圧倒的に高いわけです。しかも定置漁具を発明・工夫して生産性をあげる。現代まで産業として続いている狩猟採集は漁業だけですが、なぜ続くかのというと、器具さえあれば現代でも成り立つほど生産性が高いからです。

植物性の食料では、定住生活においてデンプン質ナッツの利用が始まります。そのままでは食べられないドングリやクリの実を大量に集め、土器で加熱し、あるいは石皿・臼ですりつぶして利用する。デンプン質ナッツは油性ナッツと比べると大量に食べられるので(本書の指摘)、コスト(採取の労力)・パフォーマンス(得られるカロリー)が高いのですね。

その次に起こったのが小麦(イネ科穀物)の利用=農業です。小麦はナッツとは違って1年性の草本であり、種を蒔けばその年のうちに収穫できます。本書にも書いてありますが、クリやクルミは他家受粉するので品種を固定するのが困難です。しかし小麦(や稲)は自家受粉です。突然変異体を見つければ、それを選別して育種することで品種改良ができる。現在の小麦や稲は実が熟しても飛び散らないという、植物の本来の姿とはかけ離れたものですが、これは人間が収穫しやすいように選別したからそうなるのですね。

いったん高生産性が実現すると、それが前提の生活や社会になり、後には戻れず、より高い生産性を追求し続けるようになります。この "追求" の影の部分として、自然環境の破壊がありました。氷河時代にいた数々の大型動物は人類の狩りで絶滅しました(No.127「捕食者なき世界(2)」参照)。農業が文明の始まりとされているのですが、紀元前数千年の古くから文明が発達した地域は、現在ほとんどが回復不可能な荒野です。その環境破壊は現代も続いています。人間の脳は飽くことなく生産性を追求してきた。そんな感じがします。



なぜ人類は定住化に向かったのか。それは環境の変化による狩猟の不調という要因があるのでしょうが、より高い生産性を求めたからとも考えられると思いました。それは人類の探求心と工夫のたまものであり、その脳の働きは遊動生活で培われた。そいういう見方ができると思います。



 補記:石干見(いしひび・いしひみ) 

西田正規まさき氏は『人類史のなかの定住革命』の中で、定住化を促したものとして魚類資源の利用があり、その中でも定置漁具の発達があることを指摘していました。

定置漁具とは「川や池、湖、浅瀬の海などに固定的に設置され、その中に入った魚を捕獲する漁具」です。本文中に書いた定置漁具は以下のものでした。

◆ ヤナ(梁)
木や竹での子状に編んだ台を川や川の誘導路に設置し、上流から泳いできた魚が簀の子にかかるのを待つ漁具。

◆ ウケ(筌)
木や竹で編んだカゴを作り、水に沈め、入り口から入った魚を出られなくする漁具。

◆ 漁網
最も大がかりなのは、海の定置網。魚群の回遊ルートに設置し、魚を網の奥へ奥へと誘導して捕獲する漁具。

ヤナ、ウケ、定置網は現代でも使われており、実際に見たことがあるかどうかはともかく、どういうものであるかは理解しているところです。

しかし最近、これらとは全く別種の定置漁具があることを新聞で知りました。日本経済新聞の朝刊最終面(文化欄)に掲載されたので読まれた方も多いと思いますが、「石干見(いしひび・いしひみ)」です。関西かんせい学院大学の田和正孝たわまさたか教授が書かれたコラムを以下に紹介したいと思います。


潮の干満使うスロー漁法
 遠浅の海岸で石積む「石干見」歴史を追う

遠浅の海岸に大小の石を積み上げ、馬てい形や半円形の長い堤を築く。満潮時、海水がこの石積みを越えて囲いの内側に入ると、魚群もここに導かれる。干潮になり、海水が引いた囲いの中に取り残された魚を網ですくったり、手づかみでとったりする。石干見(いしひび・いしひみ)という伝統漁法である。

田和正孝
関西学院大学・教授
日本経済新聞(2019.8.30)

石干見.jpg
長崎県諫早市水ノ浦に残る石干見
長崎県の有明海沿岸や島原半島では、石干見をスクイと呼ぶ。日本経済新聞より。


「いしひび」の語源は石で作られた「ひび」で、篊とは浅海に竹や竹を立てて作った陥穽かんせい漁具のことだ。後年この呼称に石干見という漢字が当てられ、行政用語や学術用語として定着したと考えられる。

「同上」

石干見は地方によって呼称が違い、ヒビ、スクイ、スケ、イシアバ、スキ、カキなどと呼ばれています。上の画像はスクイと呼ぶ長崎県諫早市のものです。

石干見は非常にシンプルな仕掛けであり、「人類最古の漁具・漁法の一つ」と考えられているそうです。確かに、ヤナ(梁)やウケ(筌)は木材や竹を加工する技術がいるし、魚網も糸を作ってそれを編む技術がいります。しかし石干見は石を積むだけですむ。環境条件が許せば、最も容易な漁法だと考えられます。


この漁法は①遠浅の海岸であること ②潮の干満があること ③構築する材料である石やサンゴ石灰岩が存在すること ─── の条件を満たせばどこでも可能だ。国内では九州、沖縄にかつて数多く存在していた。大きいものだと堤の長さ300メートル、最高部3メートルのものもあった。現在では長崎県諫早市と沖縄県宮古島市に残る2基のみで、漁労が続けられている。維持管理や修復に手間がかかり、漁船漁業に比べて漁獲効率がはるかに低い。80年代以降は沿岸部の開発が進み、石干見漁場は消滅寸前までにいたった。

「同上」

石干見は東アジア(日本、韓国、台湾)に多くみられます。日本で現在も使われているのは2基のみとありますが、台湾海峡の澎湖ほうこ諸島(台湾島の西。中華民国)には550基が残り、そのうち100基は今でも使用されているそうです。フィリピンや南太平洋の島、オーストラリアにも残っています。

田和氏のコラムでは、フランスにも調査に行ったとありました。その田和正孝氏編の「石干見」("ものと人間の文化史 135"。法政大学出版局。2007)を見ると、フランスの大西洋岸のビスケー湾に浮かぶ島である "レ島" や "オレロン島"(いずれもフランス本土と橋でつながっている)には石干見が残っていて、実際に使用されているそうです。これらの状況からすると、遠浅の海岸で潮の干満差があるところではかつて世界的に「石干見」があったと推測できます。

「人類最古の漁具・漁法の一つ」と考えられるそうですが、いつ頃から始まったものかの実証はできないでしょう。しかし定置漁具としての石日見が極めて古いというのは、いかにもそういう感じがします。というのも、ヤナやウケと違って石日見は自然を模したものと考えられるからです。つまり、海岸に潮だまりがあるとき、そこに魚が取り残されることがあります。古代の人はそれを見て人工的にその状態を作ったのではないでしょうか。しかも作成には石を積み上げるだけでよい。メインテナンスの労力はかかるが、干潮を待って魚を手づかみすればよいわけです。

「漁船漁業に比べて漁獲効率がはるかに低い」ので現代ではすたれたのでしょうが、古代では極めて効率的な食料採集装置だったのではと思いました。

(2019.09.17)



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