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No.236 - 村上春樹のシューベルト論 [音楽]

前回の No.235「三角関数を学ぶ理由」で、村上春樹さんが「文章のリズムの大切さ」を述べた発言を紹介しました。これは「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社 2011。以下「本書」)からの引用でしたが、それ以前の記事でも本書の内容を紹介したことがありました。

No.135 - 音楽の意外な効用(2)村上春樹
No.136 - グスタフ・マーラーの音楽(1)
No.137 - グスタフ・マーラーの音楽(2)

の3つです。本書は、指揮者・小澤征爾さんとの3回にわたる対談を村上春樹さんがまとめたものですが、その「あとがき」で小澤さんが次のように書いていたのが大変に印象的でした。


音楽好きの友人はたくさん居るけれど、春樹さんはまあ云ってみれば、正気の範囲をはるかに超えている。クラシックもジャズもだ。

小澤征爾
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」
(新潮社 2011)の「あとがき」より

意味がなければスイングはない.jpg
その "正気の範囲をはるかに超えた音楽好き" である村上春樹さんが書いた音楽エッセイ集(評論集)があります。意味がなければスイングはない」(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)です。内容はジャズとクラシック音楽に関するものが多いのですが、ウディー・ガスリー、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、ブルース・スプリングスティーン、スガシカオもあるというように、フォークソングやロック、J ポップスまでを含む幅広いジャンルが対象になっています。特に、ブライアン・ウィルソンについての文章は秀逸でした。

これらの中で最も感心したのが、シューベルトの「ピアノソナタ第17番 二長調」の評論でした。これはシューベルトについて(ないしはクラシック音楽について)書かれたエッセイのなかで最も優れたものの一つでしょう。少々昔の本ですが、今回は是非それを紹介したいと思います。以下の引用における下線は原文にはありません。


シューベルトのピアノソナタ


「意味がなければスイングはない」に収められたシューベルト論は、

  シューベルト「ピアノソナタ 第17番 二長調」D850
ソフトな混沌の今日性

と題されたものです。村上さんは ピアノソナタ 第17番 二長調の話に入る前にまず、シューベルトのピアノソナタ全体の話から始めます。


いったいフランツ・シューベルトはどのような目的を胸に秘めて、かなり長大な、ものによってはいくぶん意味の汲み取りにくい、そしてあまり努力が報われそうにない一群のピアノ・ソナタを書いたのだろう? どうしてそんな面倒なものを作曲することに、短い人生の貴重な時間を費やさなくてはならなかったのか? 僕はシューベルトのソナタのレコードをターンテーブルに載せながら、ときどき考え込んだものだった。そんな厄介なものを書く代わりに、もっとあっさりとした、口当たりのよいピアノ・ソナタを書いていたら、シューベルトは ─── 当時でも今でも ─── 世間により広く受け入れられたのではないか。事実、彼の書いた「楽興の時」や「即興曲」といったピアノ小品集は、長い歳月にわたって人々に愛好されてきたではないか。それに比べると、彼の残したピアノ・ソナタの大半は、雨天用運動靴並みの冷ややかな扱いしか受けてこなかった。

村上春樹
「意味がなければスイングはない」
(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)

この出だしの "問題提起" に引き込まれます。少々意外な角度からの指摘ですが、言われてみれば全くその通りです。それはモーツァルトやベートーヴェンと比較するとわかります。村上さんによると、モーツァルトがピアノ・ソナタを書いたのは生活費を稼ぐためであり、だから口当たりのいい(しかし同時に実に美しく、深い内容をもった)曲を、注文に応じてスラスラと書いた。ベートーヴェンの場合は、もちろんお金を稼ぐためでもあったが、同時に彼には近代芸術家としての野心があり、ウィーンのブルジョアに対する「階級闘争的な挑発性」を秘めていた、となります。

しかしシューベルトのソナタはそれとは異質で、いわば謎めいています。村上さんはその理由がわからなかった、しかしあるときその謎が解けたと続けています。


しかしシューベルトのピアノ・ソナタときたら、他人に聴かせても長すぎて退屈されるだけだし、家庭内で気楽に演奏するには音楽的に難しすぎるし、したがって楽譜として売れるとも思えないし(事実売れなかったし)、人々の精神を挑発喚起するような積極性にも欠ける。社会性なんてものはほとんど皆無である。じゃあシューベルトは、いったいどのような場所を、どのような音楽的所在地を頭に設定して、数多くのピアノ・ソナタを書いたのか? そのあたりが、僕としては長いあいだうまく理解できなかったのだ。

でもあるときシューベルトの伝記を読んでみて、ようやく謎が解けた。実に簡単な話で、シューベルトはピアノ・ソナタを書くとき、頭の中にどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に「そういうものが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭に浮かんでくる楽想を、彼はただそのまま楽譜に写していっただけのことなのだ。もし自分の書いた音楽にみんなが退屈したとしても、とくにその価値を認めてもらえなかったとしても、その結果生活に困窮したとしても、それはシューベルトにとって二義的な問題に過ぎなかった。彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓ひしゃくで汲み出していただけなのだ。

そして音楽を書きたいように書きまくって31歳で彼は消え入るように死んでしまった。決して金持ちにはなれなかったし、ベートーヴェンのように世間的な尊敬も受けなかったけれど、歌曲はある程度売れていたし、彼を尊敬する少数の仲間はまわりにいたから、その日の食べ物に不足したというほどでもない。夭折ようせつしたせいで、才能が枯れ楽想が尽きて、「困ったな、どうしよう」と呻吟しんぎんするような目にもあわずにすんだ。メロディーや和音は、アルプス山系の小川の雪解け水のように、さらさらと彼の頭に浮かんできた。ある観点から見れば、それは悪くない人生であったかもしれない。ただ好きなことを好きなようにやって、「ああ忙しい。これも書かなくちゃ。あれも書かなくちゃ」と思いつつ、熱に浮かされたみたいに生きて、よくわけのわからないうちに生涯を終えちゃったわけだから。もちろんきついこともあっただろうが、何かを生みだす喜びというのは、それ自体がひとつの報いなのである。

いずれにせよ、フランツ・シューベルトの22曲のピアノ・ソナタが、こうして我々の前にある。生前に発表されたのはそのうちのたった3曲で、残りはすべて死後に発表された。

「同上」

生前に発表されたのはピアノ・ソナタは22曲のうちのたった3曲、というところが「書きたかったから書いた」という説明を裏付けています。

村上さんは「22曲のピアノ・ソナタ」と書いていますが、これはどういうカウントでしょうか。普通、第 XX 番と番号で呼ばれるのは第21番・変ロ長調が最後であり、つまり全21曲です(下の表)。しかしそれ以外に2曲あって、D567(変二長調)は第7番(変ホ長調 D568)より全音だけ調性が低くて、1楽章だけ少ない第7番の別稿です。また D769a(ホ短調)は演奏時間が約1分という本当の断片です。このどちらか(おそらくD769a)を21曲に足して、22曲ということだと思われます。

このあたりが芸の細かいところです。D567(変二長調)もD769a(ホ短調)も普通のピアニストの「シューベルト ピアノソナタ全集」には収められていない曲です。間違いなく村上さんは、この2曲ともの LP/CD を持っているのでしょう。小澤征爾さんに「正気の範囲をはるかに超えた音楽好き」と "賞賛" されるぐらいなので、その程度は当然です。

 シューベルトのピアノソナタ 

番号 調性 D番号 楽章 作曲 備考
第1番ホ長調D15731815未完
第2番ハ長調D27931815未完
第3番ホ長調D45951817
第4番イ短調D53731817
第5番変イ長調D55731817
第6番ホ短調D56621817未完
変ニ長調D56731817D568の別稿
第7番変ホ長調D56841817作品122
第8番嬰ヘ短調D57111817未完。第1楽章のみ
第9番ロ長調D57541817
第10番ハ長調D61321818未完。2つとも断片
第11番ヘ短調D62531818未完
第12番嬰ハ短調D65511819未完。提示部のみ
第13番イ長調D66431819作品120
ホ短調D769a11823断片。以前はD994
第14番イ短調D78431823作品143
第15番ハ長調D84041825第3/4楽章は断片
第16番イ短調D84541825作品42
第17番ニ長調D85041825作品53
第18番ト長調D89441826作品78「幻想」
第19番ハ短調D95841828
第20番イ長調D95941828
第21番変ロ長調D96041828

表で明らかなように、途中で放棄された未完の曲や断片だけの楽章がいろいろあり、完成作は13曲だけです。もっとも、交響曲のリストを作ったとしても「未完」が並ぶわけで、そのうちの1作品はクラシック音楽のあらゆる交響曲の中で最も有名なもののひとつです(第1・2楽章と第3楽章の断片)。シューベルトの場合「未完」が価値を落とすわけではありません。とは言え、上の表を眺めていると村上さんが言うように、心の向くままに「書きたかったから書いた」という感じが伝わってきます。


でもなにはともあれ、僕はシューベルトのピアノ・ソナタが個人的に好きだ。今のところ(というのはとくにこの五、六年のことだけれど)ベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタよりもはるかに頻繁に聴いていると思う。どうしてかとあらためて質問されると簡単には答えにくいのだが、結局のところ、シューベルトのピアノ・ソナタの持つ「冗長さ」や「まとまりのなさ」や「はた迷惑さ」が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにはベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタにはない、こころの自由なばらけ●●●のようなものがある。スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。音を素手ですくい上げて、そこから自分なりの音楽的情景を、気の向くままに描いていける。そのような、いわば融通無碍ゆうずうむげな世界が、そこにはあるのだ。

「同上」

村上さんによるとベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタはそうではないと言います。そこには作曲家の人間像がそびえていて、動かしかたく、犯しがたいポジションができている。我々はその音楽の流れや造形性、宇宙観に身を任せるしかないと ・・・・・・。


しかしシューベルトの音楽はそうではない。目線がもっと低い。むずかしいこと抜きで、我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。

僕がそういうタイプの音楽を愛好するようになったのは、時代的な要因もあるだろうし、また年齢的な要因もあるだろう。時代的なことを言えば、我々はあらゆる芸術の領域において、ますます「ソフトな混沌こんとん」を求める傾向にあるようだ。ベートーヴェンの近代的構築性(構築的近代性)や、モーツァルトの完結的天上性(天上的完結性)は、ときとして我々を ─── それらを文句なしに素晴らしいと認めつつも ─── 息苦しくさせる。そして年齢的なことを言えば、僕は、これもあらゆる芸術の領域において、より「ゆるく、シンプルな意味で難解な」テキストを求める傾向にあるかもしれない。どちらに理由がより強く僕をシューベルトのピアノ・ソナタの世界に引きつけているのか、正確に判断はできない。しかしそのいずれにせよ、シューベルトのピアノ・ソナタが 22曲もこの世界に存在しているという事実は、このところの僕にとっては、ひとつの確実なる喜びとなっている。

「同上」

ここまでが村上さんの "シューベルトのピアノ・ソナタ総論" です。ここからがいよいよ(やっと)「ピアノソナタ 第17番 二長調」の話になるのですが、村上さんの論を紹介する前に、このソナタを主要な主題・旋律とともに振り返ってみたいと思います。


ピアノソナタ 第17番 二長調 を振り返る


この曲はシューベルトの後期のピアノ・ソナタに見られる4楽章の形式です。途中に繰り返しが何回かあったりして、演奏には40分程度もかかります。なお以下で 9′46″/ 8′40″などと書いたのは演奏時間ですが、それぞれ「ヴィルヘルム・ケンプ盤 / 内田光子盤」のCDの演奏時間です。譜例はピアノ譜のト音記号(右手)の部分だけにしました。

 第1楽章 Allegro vivace :9′46″/ 8′40″ 

第1楽章は威勢のよいニ長調主和音の主題、譜例152から始まります。この主題は1小節目の2分音符と8分音符の組み合わせ、およびその後ろの3連符に特徴があります。その二つの音型が絡み合い、変奏されて曲が進行していきます。

 ◆譜例152
二長調ソナタ 第1楽章 A.jpg

譜例153が副主題です。主題とは対照的なかろやかな表情で、3連符の音型と交錯しながら発展していき、第1楽章の「提示部」を形づくります。定石どおり、提示部は同じ形で繰り返されます。

 ◆譜例153
二長調ソナタ 第1楽章 B.jpg

提示部が反復されたあとに譜例152が調性を変えて(変ロ長調)出てきて、展開部に入ります。さらに曲が進んでいくと、譜例152が冒頭と同じ形でフォルテシモで出てきて再現部になります。提示部と類似の経緯をたどり、譜例153も再現します。終結部もフォルテシモの譜例152で始まり、最後は3連符の音型が続いたあと、堂々とした風情で終わります。

 第2楽章 Con moto :10′27″/ 11′56″ 

第2楽章はゆったりとしたイ長調の旋律、譜例154で始まります。繰り返えしがあったあとに変奏が続き、再び譜例154が出てきます。

 ◆譜例154
二長調ソナタ 第2楽章 A.jpg

譜例155の新たな楽想も出てきます。前へ前へと進むような能動的な旋律ですが、これが変化し発展して音楽が進んでいきます。

 ◆譜例155
二長調ソナタ 第2楽章 B.jpg

再び譜例154が装飾音とともに回帰します。冒頭よりは動きがあります。音楽が進んだあとで譜例155も再び出てきます。曲は譜例154の断片で静かに終わります。

 第3楽章 Scherzo :9′33″/ 9′10″ 

第3楽章スケルツォは、符点音符が特徴的な譜例156の主題で始まります。この符点音符と2分音符の組み合わせがスケルツォを支配します。途中で特徴的な譜例157のフレーズも出てきます。

 ◆譜例156
二長調ソナタ 第3楽章 A.jpg

 ◆譜例157
二長調ソナタ 第3楽章 B.jpg

中間部(Trio)の主題が譜例158です。譜例156とは対照的な4分音符が連続する旋律で、静かに始まります。

 ◆譜例158
二長調ソナタ 第3楽章 C.jpg

Trioが終わると再び譜例156のスケルツォが再現します。譜例157が出てきたあと曲はピアニシモになり、動きも少なくなって静かに終わります。

 第4楽章 Rondo :9′20″/ 8′35″ 

第4楽章はロンドです。ロンド主題が何回か繰り返され、そのあいだに別の旋律が挿入される形です。2小節目からの譜例159がロンド主題です。スキップするようなこの主題は3回演奏されます。

 ◆譜例159(ロンド主題)
二長調ソナタ 第4楽章 A.jpg

次に譜例160が出てきます。この16分音符の速い動きが展開されます。

 ◆譜例160
二長調ソナタ 第4楽章 B.jpg

再びロンド主題が回帰しますが、今度は譜例159の変奏形である譜例161になっています。

 ◆譜例161(ロンド主題 A)
二長調ソナタ 第4楽章 C.jpg

この音型が展開されたあと、今度は雰囲気の違った譜例162が始まります。以降、譜例162の8分音符の音型がさまざまに変化していきます。

 ◆譜例162
二長調ソナタ 第4楽章 D.jpg

最後にロンド主題が回帰するのは、さらに変奏された譜例163です。これ以降にはピアニシモの指示があります。16分音符の速いパッセージが続き、楽章の最後へと導きます。

 ◆譜例163(ロンド主題 B)
二長調ソナタ 第4楽章 E.jpg

譜例164が最終楽章の終結部の10小節です。ピアニシモが続くなかで、すこし遅くの指示があり、ディミネンドがかかって、最後はロンド主題の断片で静かに終わります。ちょっとあっけない感じの幕切れですが、このニ長調ソナタは第1楽章を除いて、第2・3・4楽章が静かに終わるのが特徴です。

 ◆譜例164(終結部)
二長調ソナタ 第4楽章 F.jpg


ピアノソナタ 第17番 二長調 D850


村上春樹さんによるシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 二長調」の評論です。シューベルトのピアノソナタで最も愛好しているのがこの曲、というところから始まります。


シューベルトの数あるピアノ・ソナタの中で、僕が長いあいだ個人的にもっとも愛好している作品は、第17番 二長調 D850 である。自慢するのではないが、このソナタはとりわけ長く、けっこう退屈で、形式的にもまとまりがなく、技術的な聴かせどころもほとんど見あたらない。いくつかの構造的欠陥さえ見受けられる。早い話、ピアニストにとっては一種の嫌がらせみたいな代物になっているわけで、長いあいだ、この曲をレパートリーに入れる演奏家はほとんどいないという状況が続いた。したがって、世間で「これぞ名演・決定版」ともてはやされる演奏も輩出しなかった。クラシック音楽に詳しい何人かの知り合いに、この曲についての意見を求めると、多くの人はしばし黙り込み、眉をしかめる。「なんでわざわざ二長調なんですか? イ短調、イ長調、変ロ長調、ほかにいくらでも名曲があるのに、どうしてまた ?」

たしかに、シューベルトにはもっと優れたピアノ・ソナタがほかにいくつもある。それはまあ客観的な事実である。

「同上」

ちなみに、二長調のソナタは第17番 D850しかありません。上の引用の中の "イ短調" とは第16番 D845、"イ長調" とは第20番 D959(=イ長調大ソナタ。第13番 D664 はイ長調小ソナタ)でしょう。"変ロ長調" とは最後の第21番 D960 です。そして次なのですが、村上さんは吉田秀和氏(1913 - 2012)の文章を引用しています。


このあいだ吉田秀和氏の著書を読んでいて、たまたま二長調のソナタについての興味深い言及を見かけた。内田光子のこの曲の録音に対する評論として書かれたものである。ちょっと引用してみる。

この2曲では、私はイ短調のソナタは身近に感じる音楽として昔から好んできいてきたが、ニ長調の方はどうも苦手だった。第1楽章からして、威勢よく始まりはするものの、何かごたごたしていてつかみにくい。おもしろい楽想はいろいろあるのだが、いろいろと往ったり来たりして、結局どこに行きたいのか、と問いただしたくなる。もう一方のイ短調ソナタに比べて言うのは不適当かもしれないが、しかし、このソナタが見事にひきしまっていて、シューベルトもこんなに簡潔に書けるのにどうして二長調はこんなに長いのかと、歯がゆくなる。シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、二長調ソナタは冗漫に長すぎる」(『今日の一枚』新潮社 2001)

僕が吉田秀和氏に対してこんなことを言うのはいささかおそれ多いのだけど、「ほんとにそうですよね、そのお気持ちはよくわかります」と思わずうなずいてしまうことになる。でもこの文章には続きがある。

こんなわけで、私はこのソナタは敬遠してこちらからわざわざきく機会を求めるようなことはしないで来た。今度CDが出て、改めてきき直した時も、イ短調の方から始め、きき終わるとそのままニ長調はきかずに止めていた。

だが、今思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばし出る『精神的な力』がそのまま音楽になったような曲なのである(後略)」
「同上」

このあたりを読んで一目瞭然なのは、村上さんが吉田秀和氏を尊敬しているということです。自分が最も惹きつけられる音楽であるシューベルトのピアノソナタ、中でも一番愛好している「17番 二長調」を説明するときに吉田秀和氏の文章を引用するのだから ・・・・・・。村上さんほどの音楽愛好家でかつ小説家なのだから、いくらでも自分の言葉として書けるはずですが(事実、書いてきたのだけれど)、ここであえて吉田氏を引用したと思われます。そして、次のところがこのエッセイの根幹部分です。


これを読んで、僕としてはさらに深く頷いてしまうことになる。心の中からほとばしり出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲 ─── まさにそのとおりだ。このニ長調のソナタはたしかに、一般的な意味合いでの名曲ではない。構築は甘いし、全体の意味が見えにくいし、とりとめなく長すぎる。しかしそこには、そのような瑕疵かしを補ってあまりある、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に漏水し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。しかし逆説的に言えば、二長調のソナタはまさにそのような身も世もない崩れ方●●●によって、世界の「裏を叩きまくる」ような、独自の普遍性を獲得しているような気がする。結局のところ、この作品には、僕がシューベルトのピアノ・ソナタに惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されている ─── あるいはより正確に表現するなら拡散している●●●●●●ということになるのだろうか ─── ような気がするのだ。

「同上」

味を言葉で表現するのが難しいように、音楽を聴いて受ける感覚を文章で説明したり、また、音楽を言葉で評価するのも非常に難しいものです。得てしてありきたりの表現の羅列になることが多い。しかし上の引用のところは、"パイプの漏水" や "世界の裏を叩きまくる" といった独自の表現を駆使して二長調ソナタの本質に迫ろうとしています。それが的を射ているかどうか以前に、音楽を表現する文章が生きていることに感心します。


ピアニストと二長調ソナタ


村上さんがピアノ・ソナタ 第17番 二長調に惹かれたのは、約25年前にユージン・イストミンが演奏する中古のレコードを買ってからだとあります。このエッセイが書かれたのは2004年頃で、その25年前だと1979年ごろ、村上さん(1949年 生まれ)が30歳あたりです。群像新人文学賞を受賞して小説家になったのが1979年なので、ちょうどその頃に二長調ソナタと出会ったことになります。

そのイストミンのレコード以降、村上さんはこの曲のLP/CDを買い集め、このエッセイを書くために数えてみると何と15枚もあったそうです。そのリストがエッセイに掲載されています。自分でも "びっくりした" というような書き方ですが、これはもちろん誇らしい気持ちなのでしょう。おそらく15種の二長調ソナタのLP/CDを持っていることを前々から意識していて(最も愛好する曲の一つだから当然そうでしょう)、それをエッセイにしたのだと思いました。ともかく「15種の二長調ソナタのLP/CD」というところに、小澤征爾さんが言う「正気の範囲をはるかに超えた音楽好き」がよく現れています。



エッセイでは各ピアニストの演奏について村上さんなりの感想が書き綴られているのですが、最初はノルウェーのアンスネス(1970 - )で、次がハンガリー出身のシフ(1953 - )です。そして3番目が内田光子さんで、この内田さんの演奏についての文章だけを以下に紹介します。


内田光子は、前記の二人とはまったく違った演奏を繰り広げる。というか、彼女のシューベルトは、ほかのどのようなピアニストの演奏するシューベルトとも違っている。その解釈はきわめて精緻であり、理知的であり、冷徹であり、説得的であり、自己完結的であり、そういう意味では彼女の演奏は、どこを切っても金太郎飴のように、内田光子という人間がそのまま出てくる。それは演奏家として、基本的に正しいひとつの姿勢であると僕は思う。だから結局のところ、彼女の演奏を取るか取らないかは、100パーセント個人の好みの問題になってくる。そして僕個人の好みを言わせてもらえるなら、僕は内田光子の演奏を、最終的には取らない。

「同上」

内田光子さんの演奏を賞賛するのかと思って読み進むと、自分の好みではないという風に話が逆転してきます。なぜそうなのか、その理由が書いてあります。


僕が彼女の演奏するニ長調を取らない理由はいくつかあるが、そのひとつは、彼女の採用するアーティキュレーションが、いささか作為的に聞こえてしまうところだ。ほんのちょっとした感覚のすれ違いなのだが、その違和感が、聴いているうちに「ちりも積もれば」という感じでだんだんふくらんでくる。これは小説にたとえれば、その作家の文体が気に入るか入らないかという感覚に近い。もうひとつ、彼女の演奏の枠の据え方が、曲自体の生体枠に比べていささか大きすぎるような気がする。音楽の生活圏が、無理に拡大されているような雰囲気がある。

彼女のこのニ長調ソナタの演奏はよく練られ、考え抜かれたものだし、音楽的な質も高いし、構築もしっかりしているし、音楽的表情もちゃんとあるのだけれど、そのわりに人肌の温かみが伝わってこないきらいがある。少なくとも僕はそう感じた。

もちろん僕が書いてきたこれらの批判は、裏返しにすれば、そのまま称賛になりうるものだ。だから「内田のニ長調の演奏はまことに素晴らしい」と主張する方がいても、僕はその人を相手に論争するつもりはまったくない。繰り返すようだが、彼女のこの演奏は「取るか取らないか」のどちらかなのだ。

「同上」

実はいま、内田光子さんの二長調ソナタを聴きながらこの文章を書いているのですが、村上さんにならって個人的な好みを言わせてもらうと、私は「取る」ほうです。村上さんの文章を流用してその理由を書くと、

  アーティキュレーションはよく考え抜かれており、音楽的表情が豊かで、全体によく練られた質の高い演奏である。この曲の "生体枠" を拡大し、音楽の "生活圏" を広げるまでの、しっかりとした構築性がある。

内田光子 シューベルト ピアノソナタ 17&14.jpg
という感じでしょうか。村上さんが書いているように「裏返しにすれば、そのまま称賛になりうる」わけです。ちなみに上記の「ピアノソナタ 第17番 二長調 を振り返る」のところで、往年の名ピアニスト・ケンプと内田光子さんの演奏時間の比較を楽章ごとに書きました。これを見るとよく分かるのですが、内田さんは遅い楽章をより遅く、速い楽章をより速く弾いています。ここにも内田さんなりの曲の構築が現れていると思います。要するに内田さんの演奏を聴いていると二長調ソナタが名曲だと思えてくるのです。

ただし(話が横道にそれますが)内田さんのこのような演奏が "裏目" に出ることもあると思います。たとえば「第21番 変ロ長調」です。第1楽章の冒頭からの "内田流アーティキュレーション" にかすかな違和感を感じてしまい、その感じがずっと続いてしまうのですね。「第21番 変ロ長調」は誰が聴いても名曲だと思う(はずの)曲です。またどんなピアニストが弾いてもシューベルトは素晴らしいと思える(はずの)曲です。だからもう少しストレートに、シンプルに構えて欲しい。少なくとも最初の方では演奏家はステージの脇に控えていて、"シューベルト" を舞台の前面に押し出して欲しいと思うのです。途中から演奏家が前面に出て聴衆を "内田ワールド" に引きずり込むのはアリだろうけれど。

話を「第17番 二長調」に戻します。村上春樹さんにとって、この曲が名曲に聞こえてしまうような演奏はノー・グッドなのだと思います。この曲がもつバラケた感じで、ゆるい感じで、混沌としたムードが伝わってくる演奏がいいのでしょう。つまり内田光子的構築性がじゃまになる。そういうことだと思います。



村上さんのエッセイには、他のピアニストの演奏についての評論もかなり出てくるのですが省略したいと思います。何しろこのエッセイを書くために15種のLP/CDを全部聴いたというのだからびっくりします。

なお補足ですが、村上さんの小説『海辺のカフカ』(2002)には「二長調ソナタ」が出てきます。


個人的な引き出し


数々のピアニストの「二長調ソナタ」の演奏についてひとしきり述べたあと、村上さんは次のように結んでいます。


思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトの二長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・イストミンやヴァルター・クリーンや(引用注:ウィーンのピアニスト)クリフォード・カーゾン(引用注:英国のピアニスト)、そしてアンスネスといったピアニストたち ─── こう言ってはなんだけど、決して超一流のピアニストというわけではない ─── がそれぞれに紡ぎ出す優れた音楽世界に巡りあってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の●●体験なのだ。

そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的な記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。

「同上」

なるほど、"個人的な引き出し" というのは良い言葉だと思います。このブログで過去にとりあげた曲の範囲で言うと、私の "個人的な引き出し" に入っているのは、さしずめ、

バーバー ヴァイオリン協奏曲
リスト ノルマの回想ユグノー教徒の回想
ドボルザーク 交響曲 第3番
ツェムリンスキー 弦楽4重奏曲 第2番

ということになるのでしょう。これらが「世間の評価とは合致しない」のかどうかは分かりませんが(ドボルザークの3番を好きな人は多いはず)、まあそんな感じかなと思います。余談ですが、今書いたドボルザークの「交響曲 第3番」はシューベルトの「ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調」と似ているところがあります。つまり、

  精神の率直なほとばしりが作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで漏水し、交響曲というシステムの統合性を崩してしまっている

感じがします。「崩してしまっている」というのは言い過ぎかもしれませんが ・・・・・・。音楽の魅力のありよう(= 精神の率直なほとばしり)が二長調ソナタとよく似ていると思います。


音楽を言語化するということ


村上春樹さんのエッセイを読んで強く思うのは、音楽を聴いて湧き起こる感情を言語化するには、もちろん聴く人の感受性も必要なのだけれど、それよりも何よりもまず言葉をあやつる力、日本語を駆使する能力が重要だということです。

それは、味や香りの言葉による表現に似ています。No.108「UMAMIのちから」に書いたように、食べ物の食感(触感)を表現する日本語の語彙は大変豊富です(擬態語が多い)。ところが我々は、食物や酒の「味」や「香り」を表現する語彙をあまり持っていません。しかし味覚のプロは違います。たとえばソムリエですが、彼らはソムリエ伝統のボキャブラリーを駆使しながら、自分なりの表現も加えて味や香りを表現します。時としてまったく意外なたとえがあったりして、それが心に残ったりする。言葉にするということが大変に重要で、言葉と感覚が結びつき、記憶され、そのことによって言葉もより豊穣になっていき、また並行して感覚も研ぎ澄まされていくわけです。

音楽を聴いて心の中に沸き立つ感覚や感情を表現するのも、それと似ています。一般的に使われる語彙は比較的少なく、すぐにありきたりの表現に陥ってしまって、結局、たいして伝わらなくなる。音楽評論家と呼ばれる人たちの文章でもそいうのがよくあります(吉田秀和氏は例外でしょう)。その中で村上さんの文章は、さすが作家だけあると思いました。つまりシューベルトのピアノ・ソナタを(ないしは、ニ長調ソナタを)、

はた迷惑さ
融通無碍
目線が低い
ソフトな混沌
ゆるく、シンプルな意味で難解
パイプから漏水
身も世もない崩れ方
世界の裏を叩きまくるような普遍性
個人的な引き出し
記憶のぬくもり

などの言葉で、村上さんなりに描き出しています。その独自性に強く引かれました。


音楽に求めるもの


この村上春樹さんのエッセイを読んだ人で、シューベルトのピアノソナタに(今まで以上に)興味を引かれた人は多いのではないでしょうか。もちろんソナタを聴いた人は多数いるはずですが、普通は有名な数曲の範囲だと思います。私もこのエッセイを読んではじめて 17番ニ長調を "まじめに" 聴きました。

さて、その次の段階として、全集のCDを買って「シューベルトのピアノソナタの世界」にひたってみるかどうかです。断片を除くソナタの全集を出しているピアニストは、往年のケンプをはじめ、シフ、パドゥラ=スコダなど、何人かいます。シューベルトのピアノソナタの世界に "浸る" ことは十分に可能です。

果たしてそこまでやるべきかどうか。村上春樹さんは次のように書いているのでした。

  我々を温かく迎え入れ、彼の音楽が醸し出す心地よいエーテルの中に、損得抜きで浸らせてくれる。そこにあるのは、中毒的と言ってもいいような特殊な感覚である。

シューベルトのピアノソナタの「中毒的世界」に踏み込むのも、何だか怖いような気がします。自分が音楽に求めるものが変質していき、変質すると以前には戻れなくなるのでは、といった ・・・・・・。

しかし、人が「音楽に求めるもの」は多様であり、個人をとっても一つではありません。内田光子さんは「死ぬときはシューベルトを弾いていたい」と語ったそうです。モーツァルトではなくシューベルトです。特定の曲が念頭にあったのかどうかは分かりませんが、暗黙にあるのがピアノソナタのどれかである可能性もあります。また以前、ある方が書いたブログを見ていると「あらゆる音楽の中で一番好きなのはシューベルトのピアノソナタ 第21番 変ロ長調」とあり、なるほどと思いました。そこで、もし次のような質問に答えるとしたらどうでしょうか。

あらゆる音楽の中で一番好きな曲を一つだけあげなさい。

死ぬときに聴いていたいと思う音楽を一つだけあげなさい。

「一つだけ」が質問のポイントです。音楽表現のさまざまな側面を順にそぎ落としていって、最後にピュアな一曲だけ残すとしたら何を残すか。もちろん音楽のジャンルは問いません。この質問に対してシューベルトのピアノソナタ(のどれか)をあげるのは、いかにもありそうで、それは納得性の高い答かもしれません。そぎ落とそうにも落とすものがあまりない音楽。だから最後まで残る可能性が高い。

人々が「音楽に求めるもの」は極めて多様ですが、その音楽に求めるものの一つの典型がシューベルトのピアノソナタに凝縮されている。そう言えそうな気がしました。



 補記1:海辺のカフカ 

本文中に書いたように、村上春樹『海辺のカフカ』(2002年)には「シューベルトのピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調」がでてきます。図書館司書の大島さんが運転する緑色のマツダ・ロードスターの車中で、"僕"(田村カフカ)が大島さんから話を聞くところです。少々長くなりますが、新潮文庫版から引用しておきます。"僕" の1人称で書かれています。

海辺のカフカ.jpg


「僕は運転しているときには、よくシューベルトのピアノ・ソナタを大きな音で聴くんだ。どうしてだと思う?」

「わからない」と僕は言う。

「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧かんべきに演奏することは、世界でいちばんむずかしい作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびっきりの難物なんだ。この作品のひとつかふたつの楽章だけを独立して取りあげれば、それをある程度完璧に弾けるピアニストはいる。しかし四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、僕の知るかぎり、満足のいく演奏はひとつとしてない。これまでに様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っている。これなら●●●●という演奏はいまだない。どうしてだと思う ?」

「わからない」と僕は言う。

「曲そのものが不完全だからだ。ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽のよき理解者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した」

「曲そのものが不完全なのに、どうして様々な名ピアニストがこの曲に挑むんですか ?」

「良い質問だ」と大島さんは言う。そして間をおく。音楽がその沈黙を満たす。「僕にも詳しい説明はできない。でもひとつだけ言えることがある。それはある種の不完全さを持った作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける ── 少なくともある種の●●●●人間の心を強く引きつける、ということだ。たとえば君は漱石の『坑夫』に引きつけられる。『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にない吸引力がそこにはあるからだ。君はその作品を見つける。べつの言い方をすれば、その作品は君を見つける。シューベルトの二長調のソナタもそれと同じなんだ。そこにはその作品にしかできない心の糸の引っ張りかたがある」

「それで」と僕は言う。「最初の質問に戻るけれど、どうして大島さんはシューベルトのソナタを聴くんですか。とくに車を運転しているときに?」

「シューベルトのソナタは、とくにニ長調のソナタは、そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように、あまりに牧歌的に長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら、味も素っ気もないただの骨董品こつとうひんになってしまう。だからピアニストたちはそれぞれ工夫を凝らす。仕掛けをする。たとえば、ほら、こんなふうにアーティキュレーションを強調する。ルバートをかける。速弾きをする。メリハリをつける。そうしないことには間がもたないんだ。でもよほど注意深くやらなければ、そのような仕掛けは往々にして作品の品格を崩してしまう。このニ長調ソナタを弾くすべてのピアニストは、例外なくそのような二律背反の中でもがいている」

彼は音楽に耳を澄ませる。メロディーを口ずさむ。そして話を続ける。

「僕が運転をしながらよくシューベルトを聴くのはそのためだ。さっきも言ったように、それがほとんどの場合、何らかの意味で不完全な演奏だからだ。質の良い稠密ちゆうみつな不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。これしかないというような完璧な音楽と完璧な演奏を聴きながら運転をしたら、目を閉じてそのまま死んでしまいたくなるかもしれない。でも僕はニ長調のソナタに耳を傾け、そこの人の営みの限界を聞きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる。言っていることはわかる?」

「なんとか」

「悪いね」と大島さんは言う、「こういう話になると、僕はつい夢中になってしまうんだ」

「でも不完全さにも、いろんな種類があり、程度があるんでしょう」と僕は言う。

「もちろん」

比較的●●●というのでもいいんだけど、これまでに聴いたニ長調のソナタの中で、大島さんが一番優れていると思うのは誰の演奏ですか?」

「むずかしい質問だ」と彼は言う。

村上春樹『海辺のカフカ』
(新潮文庫版)

"僕" の難しい質問で、大島さんはシューベルト論をいったん中断し、緑のロードスターは夜の高速道路で最も見えにくいクルマだという話をします。特にトレーラーの運転席から見えにくくて危険だと ・・・・・・。その話のあとで、大島さんが答えます。


「一般的にいえば、演奏としてもっともよくまとまっているのは、たぶんブレンデルとアシュケナージだろう。でも僕は正直なところ彼らの演奏を、個人的にはあまり愛好しない。というか、それほど心を引かれないんだ。シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそいういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」

僕はシューベルトのソナタに耳を澄ませる。

「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。

「確かに」と僕は正直に言う。

「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君のとしならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

村上春樹「海辺のカフカ」
(新潮文庫版)

大島さんの話はあくまで小説の登場人物の言葉ですが、村上春樹さんの二長調ソナタについての(ないしは、シューベルトのソナタについての)考えを言ったものと受け取っていいでしょう。最も愛好する曲について、たとえ小説の中といえども自分の考えと違うことは書きにくいはずです。上の引用の中でキーとなるような言葉を拾い出してみると、

ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける。

質の良い稠密な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。

シューベルトというのは、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽である。

この世界において、退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。たいていの人はそのふたつを区別することができない。

などでしょう。なるほど。たいていの人は「退屈なもの」すなわち「飽きるもの」だと思っていて、その二つが別ものだとは区別できないでいる ・・・・・・。この引用の部分だけをとっても "村上春樹ワールド" が感じられると思いました。こんな "ディープな" 音楽談義を小説に取り込んでしまうのだから。



 補記2:カフェ・ベローチェのBGM 

先日の朝、カフェ・ベローチェでコーヒーを飲んでいたら、BGMにシューベルトの「ピアノソナタ 第17番 ニ長調」の第2楽章が流れてきて、思わず聴き入ってしまいました。それで思ったのですが、少なくとも「二長調ソナタ の第2楽章」はかなりの名曲ではないかと ・・・・・・。

BGMの2つあとの曲はシューマンの「子どもの情景」の第1曲("異国から")でした。はからずも「二長調ソナタ」と「子どもの情景」の対比になったのですが、シューベルトの魅力がよく分かりました。「子どもの情景」のような構築性があって美しい(かつ愛らしい)音楽ではなく、それとは対極の音楽の作り方なのに心に染み入るという魅力です。

カフェ・ベローチェは USEN と契約しているようなので、USEN のホームページで調べると「二長調ソナタ 第2楽章」の演奏はノルウェーのピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスでした。

この記事の本文で紹介した「意味がなければスイングはない」(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)の中で、村上さんは「二長調ソナタ」のLP/CDを15種類持っているとし、主要な演奏の評価を書いていました。本文では内田光子さんの部分だけを紹介したのですが、村上さんが真っ先にとりあげたのがアンスネスの演奏でした。その箇所を引用します(原文に段落はありません)。


現代の演奏からいくと、ノルウェイの気鋭のピアニスト、アンスネスの演奏がなんといっても素晴らしかった。新しい優れた録音で二長調のソナタを聴きたいという方には、迷うことなくこのCDをお勧めしたい。アンスネスは何年か前に日本に来たときにも生で聴いて、感心した記憶があるのだが、このCDにおいては(2002年録音)、彼の演奏はさらにその音楽的深度を深めている。この演奏を「シューベルト的」と呼ぶことにはいささか無理があるかもしれないが、正統的なまっすぐな演奏であることはたしかだ。

ノルウェイの出身だからというのではないけれど、第1楽章から第2楽章にかけては、まるでグリークの音楽を聴いているような、健全な「むせかえり」の感覚がある。深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。若々しく、ギャラントであり、すぐれて情感的であるが、大時代な要素は注意深く丁寧により分けられ、排除されている。

何よりも流れの筋が良い。全体の音楽のスケールは大きいが、門構えはコンパクトに抑えられている。そのへんの設定に、このピアニストの聡明さを感じないわけにはいかない。

村上春樹
「意味がなければスイングはない」
(文藝春秋 2005。文春文庫 2008)

カフェ・ベローチェのBGMで「二長調ソナタ 第2楽章」を聴いて "かなりの名曲" と思ったのは、ひょっとしたら "演奏が素晴らしい" という要素が大きいのかもしれないと、この村上さんの文章を読み返してみて思いました。

アンスネス - シューベルト.jpg

(2018.11.28)



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