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No.178 - 野菜は毒だから体によい [科学]

前回からの続きです。前回のNo.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」で書いたことをまとめると、

苦味とは(本来は)危険のサインである。

舌で苦味を感じている「苦味受容体」は、実は体のあちこちに存在し、細菌を排除するためのセンサーとして働いている。

我々が往々にして「苦いが安全な飲物・食物」を摂取するのは「苦味受容体」を活性化させるためではないか。

ということでした。No.177は日経サイエンスの記事からの紹介なのですが、記事に書いてあったのは ① と ② であり、③ はあくまで個人的な感想です。しかしなぜ ③ を思ったのかというと「植物の毒素がヒトにプラスの効果をもたらす」ことを解説した別の記事を読んでいたからでした。今回はその話です。


野菜を食べる意味


世の中一般に「野菜を食べましょう」と推奨されています。野菜を食べることは体にいい、健康にいいと、多くの情報が各種メディアで発信されています。野菜不足を補うためのサプリメントや機能性食品も数多く発売されている。では、なぜ野菜が体にいいのでしょうか。

普通の答は、消化器系を活発にする食物繊維がとれるからであり、各種のビタミンや鉄分などの栄養素の摂取であり、また、活性酸素(フリーラジカル)を弱める抗酸化作用がある各種成分が含まれているからでしょう。そう考えるのが普通です。

しかし最近の研究で「野菜や果物を食べる」ことは、一般的に考えられている以上の効果があることが分かってきました。その効果こそ、野菜や果物を食べるべき一番の理由かもしれないのです。

以下に、日経サイエンス(2016.1)に掲載された「微量毒素の効用」という解説記事から引用します。著者はマーク・マトソン教授で、ジョンズ・ホプキンス大学医学部教授、かつ米国・国立老化研究所 神経科学研究室長の方です。


微量毒素の効用


この解説記事では「なぜ野菜や果物が体によいのだろうか」という問いに対する答えとして、次のように書かれています。


いま見えはじめてきた答えは、植物が害虫から身を守るために何百万年もかけて進化させた防御策に深く関係している。植物が作り出す苦味のある化合物は天然の殺虫剤の役目を果たしている。私たちが植物由来の食品を食べると、これら低濃度の毒性化合物も摂取され、それが人体の細胞に運動や断食と同じような軽いストレスをかける。それで細胞が死ぬことはない。それどころか、弱いストレスに対抗することで、より強いストレスに耐える能力がむしろ強化される。

細胞の回復力が高まるこの現象は「ホルミシス」と呼ばれ、最近の多くの研究は果物や野菜の摂取が体によいのもホルミシスのためであることを示している。

マーク・マトソン教授
「微量毒素の効用」
日経サイエンス(2016年1月号)

植物が昆虫との戦いの中で毒素を獲得してきた経緯、およびヒトと毒素の関係については、以下のように書かれています。


果物や野菜が健康によいのは、植物がそれを食べる昆虫などの動物との間で太古の昔から繰り広げてきた戦いの偶然の副産物だ。個体として、そして種として存続するため、植物は身を守る対抗策を発達させる必要があった。そして何億年もの進化の中で、天然の殺虫剤を合成できるようになった。

それらの化合物はふつう、昆虫を殺しはしない。植物にとって捕食者が死ぬかどうかはどうでもよく、ともかくいなくなってくれればよいのだ。植物がよく使う手は害虫の神経系に作用して追い払う化合物だ。人の舌の味蕾みらいと同様の感覚器が昆虫の口にもあり、これが化合物を感知すると脳に合図が伝わり、植物を食べるのをやめるべきかが判断される。

植物にとって最大の敵は昆虫だが、私たちの祖先である初期の霊長類も、すみかとしていた熱帯林で見つけた植物の根や葉、果実を利用した。植物は食べ物や薬として役立つ一方で、場合によっては悪心おしんや嘔吐を引き起こし、死につながることもあった。

「同上」

確かに植物の毒の中には、食べると死に至るような猛毒もあります(トリカブト、イヌサフランなど。スイセンも危ない)。しかし人間にとってはごく軽い毒も多い。ヒトは長い歴史の中で、そういうものをより分け、食物とし、それを文化として伝承してきたのだと考えられます。


ホルミシス


最初の引用に「ホルミシス」という用語が出てきました。ホルミシスとは「少量なら有益だが、量が増えると有毒になる」という現象です。それを示す分かりやすい図が解説記事にあるので引用します。この図でホルミシスを起こさない毒物とは、たとえば少量でも毒になる水銀です。

ホルミシス.jpg
ホルミシスを起こす毒(上の曲線)と、起こさない毒(下の曲線)を概念的に表した図。ホルミシスを起こす毒は、微量だと体に好影響をもたらす。
(日経サイエンス 2016年1月号より引用)

解説記事では、著者が研究した脳の神経系を例にとって、ホルミシスを起こす物質があげられています。

スルフォラファン(ブロッコリー)
クルクミン(ターメリック)
カフェイン(コーヒーや茶)
カテキン(茶)
カプサイシン(唐辛子)

などです。( )はその化合物が含まれる代表的な植物です。ターメリックはカレーによく使われる香辛料ですね。脳神経においては、これらの化合物が引き金となり、結果として神経伝達物質(アセチルコリン)の量が増えたり、傷ついたタンパク質が除去されたり、抗酸化物質が増えたりします。

著者は米国・国立老化研究所 神経科学研究室長ですが、なぜその著者が植物由来の微量毒素を研究するかというと、これらが、たとえばアルツハイマー病の治療や予防に使えないかと考えているからなのです。著者の行った実験によると、カレー香辛料の一つであるターメリックに含まれるクルクミンをアルツハイマー病を発症させたマウスに投与すると、活性酸素による脳細胞の損傷が押えられ、アルツハイマー病の直接原因であるベータアミロイドの蓄積が少なくなったそうです。これはクルクミンが活性酸素を除去するのではなく、クルクミンが脳細胞にストレスを与え、それがきっかけとなって脳細胞内で抗酸化酵素の生産が始まるからだと分かりました。ヒトの体はストレスに対抗する、ないしはストレスによるダメージから回復する機能を備えています。その機能を軽いストレスで活性化させる。そこがポイントなのです。

ホルミシスを起こす物質として、トウガラシの辛味成分であるカプサイシンがあげられています。これについては日経サイエンスの記事には解説がないので、別の本から引用します。


そもそも人間の舌には辛みを感じる感覚はない。トウガラシの辛み成分であるカプサイシンは舌を強く刺激し、舌の痛覚がそれを感じる。つまり、カプサイシンの辛さは、「痛い!」と感じる辛さなのである。そこで、トウガラシを食べると人間の体は、この痛みの元となる物質を早く消化し無毒化しようとして胃腸を活発化させるわけだ。トウガラシを食べると食欲が増進するのはそのためなのである。

・ ・ ・ ・ ・ ・

トウガラシの辛み成分であるカプサイシンには、食欲増進効果だけでなく、ストレスの解消や体内の脂肪の分解を促進する働きもある。カプサイシンは胃腸から吸収されると副腎に作用し、かなり長時間にわたって、アドレナリンを主成分とする人間を興奮状態にさせるホルモンの分泌を促進するという。ネズミによる実験では、カプサイシンを投与するとアドレナリンの分泌量が最大8倍まで増えたそうだ。アドレナリンは興奮したとき大量に分泌され、筋肉に血液を集め、体内に蓄えられた脂肪の分解を促進してエネルギーを供給し、外敵に備えるように体を準備するホルモンとして知られている。アドレナリンの分泌が8倍というのは、人間が激怒したときの量である。

山本紀夫「トウガラシの世界史」
(中公新書 2016)

まとめると、トウガラシのカプサイシンは舌の痛覚を刺激し、それが "危険" のサインとなって、体のあちこちがそれに備える行動に出る、ということでしょう。我々は安全な "危険物質" を摂取することで、体を活性化し、それが健康につながっているわけです。

上の図を見て思ったのですが、ホルミシスは「ストレスから回復する体の機能」があるからこそで、その機能は長い進化の中で獲得されてきたものです。ということは、この100年程度の間に人間が作り出した化学物質は、もしそれがヒトにとって毒だとすると、水銀と同じようにホルミシスを起さない毒なのでしょう。植物の微量毒素と人間が作り出した微量毒素(放射線なども含む)を同列に論じることはできないと思いました。


人間と植物のつきあい


これ以降は記事を読んだ感想です。人と植物の毒素のつきあいを振り返ってみると、次のようにまとめられると思います。

植物は昆虫に食べられることを避けるために毒を作り出す。その毒はヒトにとって苦味として感じられる。

その苦味は基本的には「食べてはいけない」というサインである。

しかし毒のなかにはホルミシスを引き起こす毒がある。そのような毒は、微量(適量)を摂取するなら、ヒトの体を健康にする効果をもつ。

そのことをヒトは経験の蓄積で知り、それを伝承してきた。だから我々は、往々にして苦い飲物・食物を摂取する。

この観点からすると、子どもがブロッコリーや渋茶を忌避するとしたら、それは本能的行為であり、子どもとしては正しい行為ということになります。しかし大人になってもなおかつ忌避するとしたら(=いわゆる "子供っぽい舌")、それは「人類の歴史や文化をわきまえない行為」ということになるでしょう。もちろん食物や飲料には誰しも嗜好があるので、好き嫌いがあってもかまいません。かまわないのですが、苦味(渋味)があるという理由でだけで忌避するとしたら、それは子ども並みだということです。


スポーツの効用


日経サイエンスの記事の引用で、食物の微量毒素が「運動や断食と同じような軽いストレス」を与え、それが体によいという記述が出てきました。断食をしたことはないので何とも言えませんが、運動は確かにそう思います。

個人的にはランニングが趣味なのですが、ランニングというのは「体に軽いダメージ」を与える行為だと思うのですね。体はそのダメージから回復する力を内在している。常に「軽いダメージからの回復過程」に体を置くことで、健康が維持され、風邪もほとんどひかない。そういう風に思います。

もちろん「軽い」ということが重要です。蓄積するような重いダメージ、ないしはケガにつながるようなダメージでは元も子もありません。筋力の鍛え具合い、年齢、ランニングの間隔やタイミング、その時の体調などを判断し、運動量を調整することが重要です。それはランニングだけでなく、趣味でやるスポーツ全般について言えると思います。食物の微量毒素がホルミシスによって体によい影響を与えることと、スポーツが体によいことは、全くパラレルに論じることができると思いました。


使わない機能は衰える


さらに以上の話は、人間の免疫機能についても同じように考えられると思いました。No.119-120「不在という伝染病」で書かれていたことは、人間の免疫機能を正しく維持するには「微生物に接する環境」が重要であり、それによって免疫関連疾患も少なくなるいうことでした。人間は、

ストレスやダメージからの回復機能
ダメージの原因となる物質や微生物の排除機能

を持っています。こういった機能も「使わないと衰える」わけです。それは、筋肉を使わないと衰えるのとまったく同じことです。回復機能や排除機能を衰えさせないためには、常にそれが働く環境を作ることが重要ということだと思います。

健康に過ごすために、人は往々にして「不健康になる原因を取り除く」ことばかりを考えていまいます。しかし不健康になる原因は生活環境中にいっぱいあります。それを完全に排除することはできません。だとしたら、人が本来もっている「少々の不健康からはすぐに回復できる力」を鍛えておいた方が得策というものです。鍛えないまでも、衰えないような生活習慣を身につけた方がよい。そいういうことだと思いました。


サプリメントと品種改良


この「微量毒素の効用」という記事は、「サプリメント」と「野菜の品種改良」についての問題提起にもなっていると感じました。記事を読んで分かることは、

  野菜をとることと、野菜不足を補うためにサプリメントを飲むことは意味が違う

ということです。なぜなら、サプリメント(ビタミンや各種の栄養素、食物繊維など)には微量毒素が入っていないからです。サプリメントに意味が無いわけではありませんが、野菜の摂取を代替できないことを知っておくべきでしょう。

このことに関してですが、記事の中に「運動と抗酸化サプリメントの摂取の両方をやると血糖値が低下しなかったが、運動だけをすると血糖値が低下した」という、別の研究チームの実験結果が出てきます。この理由ですが、抗酸化サプリメントの摂取が運動によるホルミシスを阻害するからではと疑われています。サプリメントは野菜を代替できないのみならず、有害なこともありうる(疑い)のです。

さらに、前回のNo.177「自己と非自己の科学:苦味受容体」でも書いたのですが、

  野菜や果物に含まれる苦味物質=微量毒素を少なくするような品種改良は、人間の健康にとってマイナスになる

と理解できます。なぜならその手の品種改良は、わざわざ一番大切なものを失っているからです。これは品種改良ではなく品種改悪と呼んだ方がよいでしょう。

植物を含む自然界の仕組みは奥深いし、人間の体のしくみも解明されていないことがいっぱいあります。うわべだけを見て判断する「浅知恵」にならないようにしたいものです。




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No.177 - 自己と非自己の科学:苦味受容体 [科学]

ヒトの免疫についての記事の続きです。今までの記事でヒトの免疫について5回書きました。

  No.69自己と非自己の科学(1)
  No.70自己と非自己の科学(2)
  No.119「不在」という伝染病(1)
  No.120「不在」という伝染病(2)
  No.122自己と非自己の科学:自然免疫

の5つです。No.69とNo.70は "獲得免疫"、No.122 は "自然免疫" の話です。また No.119-120 は免疫関連疾患と "微生物の不在" の関係でした。

獲得免疫は特定の "非自己"(細菌やウイルス)に特異的に反応する免疫系です。その発動には時間がかかりますが(数日程度)、免疫記憶が成立するので2度目に同じ "非自己" が進入しようとしたときには速やかに撃退します。つまり実質的に病気にかからなくなるわけです(ワクチンの原理)。

一方の自然免疫は、自然界に存在する "非自己" の一般的な特徴(RNAや細胞壁など)に反応するため、特定の非自己を狙い撃ちすることはできませんが、反応時間が短いという特徴がありました。速効性がある免疫系です。

ヒトの免疫系は、従来、これら獲得免疫と自然免疫だと考えられてきました。しかし最近の研究で、別種の「非自己排除システム」がヒトに備わっていることが見つかってきました。それは「第2の自然免疫」とでも言うべきもので、今回はその話です。


鼻や気道の防御システム


ヒトが外界から何らかのモノを取り入れる器官というと、まず思い浮かぶのが口・食道・胃・十二指腸・小腸という消化器系です。消化器系には食物や水分とともに各種の細菌やウイルスが入ってくるので、ヒトの免疫系がそれらを排除する "最前線の戦場" となっています。

しかし外界からモノを取り込むという意味では、もう一つ重要な器官があります。鼻・気道・気管・肺という呼吸器系です。ここにも空気と一緒に細菌やウイルスなどの "非自己" が入ってきますが、最近の研究でこれらを排除するしくみがあることが分かってきました。以下に、日経サイエンス 2016年5月号の解説記事から引用します。著者はペンシルヴァニア大学のリー助教授とコーエン準教授です。引用中の下線は原文にはありません。


人は平均して1日に1万リットルを超える空気を主に鼻を通して吸い込んでおり、その空気には無数の細菌や真菌、ウイルスが含まれている。つまり鼻は呼吸器における防御の最前線に位置するわけだ。息をするたびに塵やウイルス、細菌、真菌の胞子などが鼻で捕らえられる。だが驚くことに、たいていの人は気道感染症を患うことなく自由に呼吸して歩き回っている。

その理由は、かつては思いも寄らなかったことに、舌にあるらしい。舌で苦味を感じているタンパク質、つまり「苦味受容体」が、別の役割を持っていて、細菌から体を守っていることが明らかになったのだ。私たちの研究で苦味受容体が鼻の細胞にも存在し、細菌に対して3種類の防御反応を誘発することが示された。

リー助教授・コーエン準教授
(日経サイエンス 2016年5月号)

ここで "味" について復習しておきますと、舌の味蕾みらいには、味のセンサーである「味覚受容体」があります。味覚受容体は5種類あり、甘味、苦味、うま味、酸味、塩味を検知します。これは私たちが口にした食物の情報を脳に伝えるものです。甘味は「糖」、うま味は「アミノ酸」、酸味は「酸 = 水素イオン」、塩味は「塩 = ナトリウムイオン」です。では苦味は何を検知しているのでしょうか。


苦味受容体はストリキニーネやニコチンなどアルカロイドと総称される植物由来の毒性化学物質を検知できる。そして、私たちが「苦い」と表現している味を、脳は不快なものと感じる。苦味受容体は、害を及ぼす可能性がある化学物質の存在を知らせるために進化してきたからだ。

有害物質の検知は生存に不可欠である。苦味受容体に実に多くの種類があるのはこのためだろう。甘味や塩味、酸味、うま味を感じる受容体はそれぞれ1種類しかないが、苦味受容体は少なくとも25種類ある。これらの苦味受容体はまとめて T2R と呼ばれ、おそらく多様な毒素を私たちが認識して飲み込まないようにするために進化したのだろう。

「同上」


3種の防御システム


苦味受容体は、最初の引用にあるように、細菌に対して3種類の防御反応を誘発します。それが初めて発見されたのは、肺でした。


体の別の場所にある苦味受容体が果たしている役割について手がかりが得られ始めたのは2009年のことだ。その年、アイオワ大学の研究者が肺の内面を覆う上皮細胞にT2Rを発見した。肺に吸い込まれた病原菌や刺激物質は、上皮細胞の上にあるねばねばした粘液に捕らえられる。すると、細胞表面の小さな線毛が同期して1秒間に8~15回むち打ち運動し、刺激物質を喉に向けて押し戻す。押し戻された刺激物質は、飲み込まれるか体外に吐き出される。

アイオワ大学の研究チームは、T2Rが苦味物質によって刺激されると、人間の肺上皮細胞の線毛運動が速くなることを見いだした。この発見は、害を及ぼす可能性のある吸引物質(口では苦いと感じられるもの)を気道から除去するのにT2Rが寄与していることを示唆している。

「同上」

苦味受容体が誘発する3種類の防御反応のうち、その1番目は「細胞にシグナルを送り、線毛を動かして進入物を押し出す」という防御反応です。それは肺だけでなく鼻にもあることが分かりました。



2番目の防御反応は「苦味受容体が細胞に指示して殺菌作用のある一酸化窒素を放出させる」というものです。この反応は次のように進みます。①~④の数字は下の図と対応しています。

グラム陰性菌は鼻に感染すると、アシル化 ホモセリン ラクトン(AHL)という化学物質を放出する。

このAHLは鼻の上皮細胞の線毛に存在するT2R38と呼ばれる苦味受容体(25種ある苦味受容体の一種)によって検知される。

これを受けて、細胞は一酸化窒素をガスを放出する。

このガスが細菌を殺す。

一酸化窒素プロセス.jpg
(日経サイエンス 2016年5月号より引用)

グラム陰性菌という言葉が出てきましたが、一般に細菌は「グラム陽性菌」「グラム陰性菌」「マイコプラズマ」の3種に大別できます。これについては、No.122「自己と非自己の科学:自然免疫」に説明を書きました。ヒトの病原性細菌の大多数はグラム陰性菌です。



3番目の防御反応は「苦味受容体が別の細胞にシグナルを送り、ディフェンシンという抗菌タンパク質を放出させる」というものです。この反応は次のように進みます。この反応には、ブドウ糖などを検知する甘味受容体(T1R)も関係しています。

感染性細菌が出す苦味物質が苦味受容体(T2R)に接触する。

細胞はカルシウムを放出する。

カルシウムが合図となって周辺の細胞がディフェンシンというタンパク質を作りだし、放出する。

ディフェンシンは細菌を傷つけて殺す。

その結果、ブドウ糖などの甘味物質が細菌に消費されなくなり、増加する。

甘味受容体(T1R)がブドウ糖を検知すると、苦味受容体(T2R)の活動が押さえられる。

ディフェンシン・プロセス.jpg
(日経サイエンス 2016年5月号より引用)

甘味受容体(T1R)が苦味受容体(T2R)の過剰反応を押さえる役割を担っていると考えられています。



さらに最近の研究によると、苦味受容体は鼻や肺などの呼吸器系だけでなく、体のあちこちに存在し、免疫機能を果たしていることが分かってきました。


鼻以外の器官でも、味覚受容体と免疫との関連性が見えてきた。2014年、尿路の化学感覚細胞が病原性大腸菌に出会うと、T2Rを使って膀胱を刺激して排尿を促すことが明らかになった。体が細菌を尿とともに洗い流して膀胱感染症を防ごうとしているのだろう。最近の別の研究では、好中球やリンパ球などの白血球(免疫系の主要メンバー)もT2R38を使ってグラム陰性菌が作るAHLを検知していることが示されている。

「同上」

ちなみに日経サイエンス 2013年12月号には、小腸に甘味受容体があることが書かれています。小腸が糖の甘味をキャッチすると、それがインスリンを分泌するシグナルになる。インスリンは血糖を細胞や肝臓に蓄えて血糖値を下げる働きをします。しかもこの小腸の甘味受容体は人工甘味料に "騙される" らしい・・・・・・。甘味受容体もまた、舌だけにあるわけではないのです。


自然免疫との比較


苦味受容体による細菌からの防御システムと、No.122 の自然免疫を対比すると、大きな違いはその反応時間です。自然免疫の反応は数時間かかりますが、苦味受容体は数秒から数分で反応すると言います。リー、コーエン両教授の解説記事にも、


苦味受容体は一種の "臨戦態勢" にあって、即座に反応を起こすことで、感染初期において最も重要な防御を担っているのかもしれない。他の免疫受容体(引用注:自然免疫、獲得免疫にかかわる受容体)は感染が長期化した場合に重要になるのだろう。最初の免疫反応では不十分だった場合に、免疫軍を召集するのだ。

「同上」

と書かれていました。まさに苦味受容体による防御反応は第2の自然免疫であり、最初に反応する最前線の免疫系なのです。


苦味受容体の多様性


苦味受容体の大きな特徴として解説記事で強調されているのは、その遺伝的な多様性です。


T2R苦味受容体に多くの遺伝的変異体が存在することは、免疫におけるこれらの受容体の役割をいっそう興味深いものにしている。25種類の苦味受容体のほとんどに検知能が異なる遺伝的変異体があるため、苦味物質に対する感受性は人によって異なる。

「同上」

そして、苦味物質に対する感受性の強い人は、グラム陰性菌による鼻の感染症にかかる率が低いことが書かれていました。

ここからは感想ですが、このくだりを読んで思い起こしたのが獲得免疫の多様性です(No.69-70)。免疫の働きは人によって強い・弱いがあります。"非自己" を徹底的に排除する(免疫力が強い)のが一見良いようですが、そうすると、間違って "自己" を攻撃することになりかねません。また "非自己" といっても、細菌の多くは人間と共生しているわけであり、病原性を示すものは少数です。さらに "非自己" のありようは、ヒトを取り巻く環境によって大きく変わります。つまり多様性が大切なのであって、ヒトは長い進化の中で多様性を獲得してきたわけです。

獲得免疫に関するこの多様性の話は、苦味受容体にも当てはまりそうです。しかも、苦味受容体の反応を押さえる役割(甘味受容体)もある。これも獲得免疫と似ていると思いました。


苦味の効用


苦味とは何か。それは五味(甘味、うま味、苦味、酸味、塩味)の中で、一つだけ他とは違っているようです。解説記事にあるように、

  苦味とは危険のサイン

だと理解できます。ヒトは舌で苦味を感じると、その苦味物質を吐き出す。鼻にある受容体が苦味をキャッチすると、その原因物質(細菌)を排除する。同じメカニズムが働いています。苦味のセンサーである苦味受容体は多種類あり、それはヒトが長い進化の歴史の中で獲得してきたものです。

しかし飲料・食物の中には、苦味を感じても危険でないものがあるわけです。そして我々は往々にして、そういった「安全な苦味」を口にしている。たとえばコーヒーです。コーヒーにもいろんな濃さがありますが、たとえばスターバックスのドリップ・コーヒーやエスプレッソをブラックで飲むと、それはかなり苦い。でも我々は(私は)ブラックのコーヒーやエスプレッソを飲みます。

他の飲料では、ビールが苦いわけです。ホップの苦味がないとビールではなくなります。お茶(緑茶、紅茶)も、種類や入れ方にもよりますが、苦味がある。

ここで言葉(日本語)に注意しなければならないと思います。No.108「UMAMIのちから」で書いたように、日本語では「苦い」と「渋い」を区別しますが、英語では両方とも bitter です。そして学術的に言うと「渋味」は「苦味」の中に含まれています。「渋味」というのは5つの基本味には入っていないのです。苦味受容体という場合の「苦味」は、日本語の「渋味」を含めて考えないといけない。そういう意味で、お茶は(特に緑茶は)"苦い" ものが多いわけです。さらに飲み物では、赤ワインにもブドウの皮に由来する "苦味"(=渋味)がある。基本味で言うと、酸味プラス苦味で成り立っている飲み物が赤ワインなのですね。

日常の食品でも苦いものがあります。生のニンジン、ブロッコリー、キュウリ、菜の花、芽キャベツ、ホウレン草、ピーマン、パセリ、セロリなどは(本来は)苦味を感じるものだし、その他、いろいろあると思います。柑橘類にも苦いものがある。サンマや鮎の塩焼きや、丸干しなどのワタ(魚の内臓)もそうです。我々は子どもの頃は、そういった飲料・食品は好まないのですが、大人になるにつれてしばしば(ないしは日常的に)口にするようになる。それはどういうことなのか。

それは「安全な苦味」を口にすることで、消化器系や呼吸器系の苦味受容体を活性化させ、体から "非自己"(細菌など)を排除する働きを高めているということではないでしょうか。苦味受容体が「第2の自然免疫」のセンサーとして働いていることを知ると、そういう風に思えてきました。その意味で、苦み物質を消し去るように野菜を品種改良することは、果たしていいことなのかとも考えました。甘ければいいというのは、違うのではないか。子供に "おもねる" がごとき品種改良はやめた方がいいのではないか・・・・・・。

とにかく、この記事を読んで「ブラックのコーヒーを毎日飲む理由」と「赤ワインをしばしば飲む理由」が、個人的には納得できた次第です。さらに、長い日本の歴史において日常的に緑茶を飲む習慣ができあがり、それから発展して日本文化の大ジャンル(=茶道)が確立した理由が(あくまで個人的感想としてですが)理解できました。

続く


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No.176 - 将棋電王戦が暗示するロボット産業の未来 [技術]

No.174「ディープマインド」No.175「半沢直樹は機械化できる」に続いて AI(人工知能)の話を書きます。特に人工知能とロボットの関係です。考える糸口としたいのはタイトルに書いた "将棋電王戦" なのですが、まずその前に、ロボットについて振り返ってみます。


産業用ロボット


ロボットはすでに現代社会において広く使われています。いわゆる「産業用ロボット」で、主に工場や倉庫で活躍しています。ここで言う "ロボット" とは、単なる機械ではありません。複数の工程や手順の組み合わせを自律的に行って、まとまった仕事や人に対するサービスを行う機械です。単一の動作、たとえば "瓶に液体を積める作業" だけを繰り返す機械は、ロボットとは言いません。また常に人間の指示によって動く機械、たとえば建設現場のクレーンや遠隔操縦のマジックハンドのような「非自律的な機械」も、ふつうロボットとは言いません。複数手順の組み合わせを自律的に行うのがロボットであり、そのうち、主として工場・倉庫などで使われているのが産業用ロボットです。具体的な用途としては、自動車の生産ラインにおける溶接や塗装、製品や部品の搬送、部品の研磨、電子部品の装着、製品の検査などがあります。

No.71「アップルとフォックスコン」で書いたマシニングセンター(工作機械の一種)は、ふつう "ロボット" とは呼びませんが、ロボットと同等の機械です。鴻海ホンハイ精密工業は、iPad / iPhone の外装ボディを金属塊から削って作っていますが、ここで使われているマシニングセンターは、複数のドリル・工具をとっかえひっかえして "自律的に" iPad/iPhone の複雑な曲面を切削していきます。日本のファナックの製品名は「ロボドリル」であり、このネーミングは産業用ロボットだと言っているわけです。

以上のように産業用ロボットは「自律的」に動作するのですが、この動作は人間があらかじめ "教え込んだ" ものです。一連の動作をどう進めるか、どういう条件ならどいういう風に動作を変えるかなどがあらかじめ詳しく指示されていて、その指示がプログラムとしてロボットの制御装置の中に内蔵されています。この指示通りにロボットは動きます。

産業用ロボットは日本の有力産業であり、世界のシェアの60%程度は日本企業が占めています。安川電機、ファナック、川崎重工、不二越、パナソニック、ヤマハ発動機、デンソーなどが有力メーカーです。


次世代ロボット


一方、産業用ロボットと対比する形で、今後大きく伸びると考えられているロボットがあります。それを「次世代ロボット」と呼ぶことにします。次世代ロボットは次のような特徴を備えています。

 知能化 

まず、人間の「脳の働き」がメジャーだと考えられている仕事を行うという特徴があります。力仕事や高速動作などの "物理的身体能力" を越えた仕事やサービスを行うのが次世代ロボットです。何点かの例をあげます。

二足歩行
人間とは "二足歩行するサル" という言い方もあるぐらいです。二足歩行は人間の顕著な特徴であり、脳の複雑な機能で達成されています。この二足歩行ロボットの先駆けとなったのは本田技術研究所の ASIMO です。二足歩行は、平坦な床ならまだしも、"階段を上る・下る" となるととたんに難しくなるし、"瓦礫がれきの中を進む" となると格段に難しくなります。

画像認識や音声認識
画像から意味を認識するのも、知能の働きです。たとえば手書き文字を認識したり、猫の写真をみて猫だと認識したり、顔の画像から同じ人だとわかるといった認識機能です。

言語認識
画像や音声の認識をベースに、もっと高度な知能として言葉の認識があります。言葉の意味を理解して、行動したり質問に答えたりするものです。

また、これらの機能が「固定的ではない」のが次世代ロボットです。つまり次世代ロボットの特徴として次があげられます。

学習する
ソニーのAIBOやソフトバンクのPepperがそうであるように、次世代ロボットは学習し、成長します。つまり、
使っていると、使用者に合わせるようになる
だんだんと賢くなる
次第に効率的に仕事をこなせるようになる
といった特徴、性質です。

類推する
あらかじめ学習しなかった状況、いままで無かった状況にも対応します。新しい状況にどう対応すべきか、過去の経験をもとに類推し、推論して行動を決めることができます。
これは、No.174「ディープマインド」で書いたコンピュータ将棋のプログラムと本質的に同じです。プロ棋士の過去の指し手をもとに、局面の優劣を判断する「評価関数」が決まるのですが、この評価関数はもちろん過去に現れなかった局面でも優劣を判定できます。将棋のは、序盤はともかく特に終盤は過去の棋譜と同じ形が現れることはまずないので、類推・推論ができないとコンピュータ将棋のプログラムにはなりません。

 社会で活躍 

工場や倉庫だけでなく、家庭、病院、オフィス、公共施設、小売店の店頭、リクレーション施設、道路、空、農場、牧場、海や河川、など、社会のさまざまな場所やシーンにロボットの活躍の場が広がります。その目的も、エンターテインメントから、移動、介護、窓口対応、案内、危険作業まで、さまざまです。

一つだけ例をあげると、道路を活躍の場とする自動運転車です。これは次世代ロボットの代表と言っていいでしょう。自動車各社は自動運転の公道実験を繰り返しているようで、実現時期を公表している会社もあります。公表時期が一番早いのは日産自動車で、2016年に高速道路の1車線、2018年に高速道路の複数車線、2020年に交差点を含む市街地となっています。2016年4月15日の日経新聞は、高速道路での自動運転ができるミニバン(セレナ)を2016年8月に売り出すと報じました。

高速道路の1車線限定でも自動運転ができれば、そのメリットは大です。高速道路の長距離運転をしていて一番怖いのは(私にとっては)居眠りです。眠気を感じてゾッとすることがある。万一、事故を起こしたら・・・・・・と思ってゾッとするわけです。もちろん "休み 休み" 運転するのが大原則ですが、自動運転モードにすることが可能だと非常に大きな安心材料になります。

自動運転ではありませんが、一般的になってきた「自動ブレーキ」だけでもメリットは大きい。スバル車の自動ブレーキ機能(EyeSight)を搭載したクルマは、非搭載車より1万台あたりの追突事故件数が84%も減ったそうです。スバルが2016年2月にこの調査データを公表しました。自動ブレーキだけでこの効果です。自動運転が実用化されると交通事故は激減するでしょう。

さらに、任意の道路での自動運転までいかなくても、たとえば過疎地において「自宅と、指定した数カ所を巡回するだけの自動運転」が実用化できれば、高齢者の足の確保に大きな威力を発揮するはずです。地方再生にもつながるでしょう。

 動かないロボット 

「知能化」が大きな特徴だとすると、その特徴を生かすなら「次世代ロボットは動かなくてもいい」わけです。この点で、今後一番ホットな開発競争なるのは、個人が常時携帯するスマートフォンでしょう。

No.159「AIBOは最後のモルモットか」でスマートフォンのビジネスを展開するソニーモバイルコミュニケーションズの話を書いたのですが、そこで「知性をもち、個人に対して働きかけ、役立つスマホ」や、「人工知能(AI)やロボティックスが非常に重要な要素」といった会社幹部の発言を紹介しました。全くその通りだと思います。



いろいろと書きましたが、もちろん次世代ロボットが上にあげたすべての特徴を持つというわけではありません。部分的な特徴から順次組み込まれていくはずです。現在の工場で働いている検査用ロボットの中には、画像認識だけで不良品を検出するものがあります。これなどは「次世代ロボット」の先駆けでしょう。また「知能」と言っても程度問題です。どういう特徴を備えたら「知能」と言えるのか、明確になっているわけではありません。

つまり「産業用ロボット」と「次世代ロボット」の区別は厳密なものではなく、両者の境界に属するようなロボットもいろいろあります。あくまでロボットのトレンドとして、ないしはロボット産業の方向性として、今までは「産業用ロボット」が市場の中心だったが、今後は「次世代ロボット」にシフトしていく、そいういう傾向だと言いたいわけです。そして重要なのは、

  21世紀の大産業を一つだけあげよ、と言われたとしたら、その答えは「次世代ロボット」

だと思うのです。ここに世界の産業の浮沈、大げさにいうと国の経済の盛衰がかかっていると思うのです。


将棋電王戦


以上の「産業用ロボット」と「次世代ロボット」を踏まえた上で、題名にあげた「将棋電王戦」を考えてみたいと思います。将棋電王戦は、将棋のプロ棋士とコンピュータ将棋がハンディキャップなして戦う棋戦で、ドワンゴと日本将棋連盟が主催し、過去何回か行われました。現在も「第1期 電王戦」が進行中です(2016.5.13現在)。

  第1回 将棋電王戦2012年
  第2回 将棋電王戦2013年
  第3回 将棋電王戦2014年
  将棋電王戦 FINAL2015年
  第1期 電王戦2016年

①は米長邦雄永世棋聖との1番勝負、②~④は、プロ棋士とコンピュータ将棋の団体戦(5番勝負)でしたが、⑤から方式が変わりました。⑤は、ドワンゴがスポンサーになって2015年から始まった「叡王戦」の優勝者と、コンピュータ将棋選手権「将棋電王トーナメント」の優勝プログラムとの頂上決戦(2番勝負)です。2016年は山崎隆之 八段と ポナンザ(ponanza。山本一成いっせい氏が開発したコンピュータ将棋プログラム) の戦いです(ポナンザ が先勝。2016.5.13現在。第2局は2016.5.21-22)。

ここでは、プロ棋士とコンピュータ将棋の勝ち負けを論じるのが目的ではありません。注目したいのは、この電王戦のためにデンソーが開発した将棋用ロボット(コンピュータの代わりに将棋を指すロボット=代指しロボット)です。以下はその話です。


デンソーが開発した「代指しロボット」


株式会社 デンソーは、2014年の第3回将棋電王戦から、コンピュータ将棋のプログラムの指令に従って将棋を指すロボットを提供しています。プログラムの代わりに将棋を指すので「代指しロボット」と呼ばれています。その後、改良が続けられて、現在は第3代目になっています。このロボットはデンソーの子会社、デンソーウェーブが開発したものですが、以降、デンソーもデンソーウェーブも区別せずに "デンソー" と記述します。

棋戦 ロボット名称
2014年 第3回 将棋電王戦 電王手くん
2015年 将棋電王戦 FINAL 電王手さん
2016年 第1期 電王戦 新電王手さん

将棋電王戦FINAL・第2局.jpg
将棋電王戦 FINAL・第2局の対戦風景(2015年3月23日)。プロ棋士は永瀬拓矢六段。ロボットはデンソーが開発した「電王手さん」。永瀬六段が勝利した。
(日本将棋連盟のホームページより)

まずデンソーのホームページから、これらのロボットの説明をみてみましょう。下線は原文にはありません。


【電王手くん】

「電王手くん」は、将棋界で初めてプロ棋戦に採用されたロボットアームで、2014年に開催された第3回将棋電王戦において、全5局を通じてコンピュータソフトの代指しを務めました。

棋士が安全かつストレスなく真剣勝負を行うことができるように開発され、駒が斜めになっていたり、ずれて置かれていても、アーム先端に装着したカメラが多方向から将棋の駒を認識し、1mmの誤差もない着手が可能です。また、駒をコンプレッサで吸着して移動させるので、隣の駒に触れることがなく、公式棋戦と同じ将棋盤と駒を使用することができます

デンソーのホームページより

電王手くん.jpg
電王手くん
(デンソーのホームページより)

最初に開発された「電王手くん」は、画像認識の技術が駆使されていて、駒をつかんで置くために「吸着」が使われていることが分かります。


【電王手さん】

「電王手さん」は、2014年の第3回将棋電王戦で代指しを務め話題となった「電王手くん」の代わりに、新たに開発したロボットアームです(中略)。

《駒をはさめる》
新たに開発したアーム先端のグリッパーで駒を挟んでつかみ、隣の駒に触れることなく移動が可能です。公式棋戦とおなじ将棋盤と駒が使用できます。

《成りができる》
世界初の技術となる "成駒" の動作を実現! グリッパーで駒をつかみ、裏側に回転させて成り駒にすることが可能になり、より通常に近い将棋の対局を再現します。

デンソーのホームページより

電王手さん.jpg
電王手さん
(デンソーのホームページより)

最初に開発された「電王手くん」では、駒をつかむために "吸着" が使われていました。吸着は工場のロボットでモノを搬送するのに広く使われている技術です。ホームページの説明にあるように、上から駒を吸い付けるので「隣の駒に触れることがない」というメリットがありました。

しかし第2世代の「電王手さん」では吸着を使わず、駒をはさむ特殊なグリップが開発されました。駒をはさんでも隣の駒に影響を与えない小型のグリップで、しかも駒を裏返しにできるという特殊なものです。おそらくデンソーの開発陣としては、吸着を使っているのでは技術者のプライドが許さない、どうしても人間の手の動きと同様のグリップを実現したかったのでしょう。技術者魂を感じるロボットです。


【新電王手さん】

《消音化》
厳粛な対局の雰囲気に合わせて、静かに駒をつかみ、静かに駒を指します。新電王手さんはTPOに配慮した紳士的な存在に!

《成りの高速化》
成りの時間が17秒から約7秒に大幅短縮! より早く、正確に動くことで対局のテンポを乱すようなことはありません。

デンソーのホームページより

新電王手さん.jpg
新電王手さん
(デンソーのホームページより)

第3世代の「新電王手さん」は、第2世代の技術を継承しつつ、消音化と高速化がされたようです。ということは、代指しロボットとしては一応の完成域に近づいたということだと思います。



これらのロボットを開発したデンソーの技術者のチャレンジ精神と開発力は大したものだと思います。何しろ、全く前例のない世界最初のロボットです(あたりまえだけれど)。本物の将棋盤と駒を使い、画像認識技術を駆使し、専用に開発したロボットアームとグリップの微妙な動きを制御しなれければならない。

最も大変だったのは、ロボット動作の信頼性の確保ではないでしょうか。対戦相手は生身の人間であるプロ棋士です。ロボットの誤動作や不正確な駒の動きは許されないし、駒を盤上に落とすようなこともあってはならない。工場のロボットであれは、ラインを止めてやり直しができます。しかし一発勝負ではだめです。プロ棋士の方も、コンピュータに負けるのは恥という意識があるはずだから、真剣勝負です。トラブルが起こると対局の雰囲気を壊し、プロ棋士のリズムを乱してしまう。そうなるとデンソーとしても責任を問われるでしょう。全国の将棋ファンが固唾かたずをのんで見守る棋戦を「ぶちこわす」ことにもなりかねない。また、デンソーのロゴをつけたロボットが大舞台でトラブルとなると、ブランド・イメージにもマイナスになるでしょう。

こういったハードルとプレッシャーを越えて、過去3回の棋戦を乗り切ったデンソーの技術陣は、大いに賞賛されてしかるべきだと思います。


産業用ロボット・メーカーは衰退する


しかしプロ棋士と「代指しロボット」が対決する動画や画像を見ていて、私としては大きな違和感というか、奇妙で複雑な感じを受けたのです。というのも「代指しロボット」に対する指令は、すべてコンピュータ将棋のプログラムが与えているからです。つまり「プログラム + ロボット」で1人の人間だと考えると、

コンピュータ将棋のプログラムが「頭脳」
ロボットが「腕と手と指」

に相当するのは明らかです。ロボットがやっていることは、あくまでプログラムの「代指し」に過ぎない。

さきほど書いたように、この「代指しロボット」には最先端の技術が盛り込まれています。ロボット技術者たちのチャレンジ精神も詰まっている。しかしそれでもなおかつ「代指しロボット」は "コンピュータ将棋プログラム = 頭脳" の "しもべ" であって、意志を持たない機械に過ぎません。そういうポジションに "成り下がっている" のです。どんなに「代指しロボット」が将棋をうまく指したとしても、また成り駒がうまくできたとしても、棋戦としての価値の100%はコンピュータ将棋のプログラムにあるのです。

デンソーは自動車部品メーカーとして有名ですが、一つの顔は産業用ロボットのメーカーです。「代指しロボット」は "産業" に使われるわけではありませんが、機能としては "産業用ロボット" の典型です。一方、コンピュータ将棋プログラムと代指しロボットを合わせた「複合体」を考えると、この複合体は "次世代ロボット"の典型と言えるでしょう。ゲームをプレーするまでの知能を備えた、エンターテインメント分野の次世代ロボットです。「代指しロボット」のハードウェアの中にコンピュータを埋め込み、そこでコンピュータ将棋のプログラムを動かすことなど、いくらでも(やろうと思えば)できます。対戦するプロ棋士が指した手を画像認識で判別することだってできる。そうなると本当の「将棋指しロボット」ということになります。

  将棋電王戦で我々が見た光景は、産業用ロボットが次世代ロボットに置き替わっていき、現在の産業用ロボットメーカーが衰退していくことの「暗示」

だと思えたのです。さきほど書いた「違和感」や「奇妙なで複雑な感じ」は、そいういうところからきています。



デンソーの経営陣は、将棋電王戦を見て危機感を覚えたはずです。それは、デンソーとの取引関係が深いトヨタ自動車を考えてみるとすぐに分かります。トヨタの経営陣は、グーグルがトヨタ車を改造した自動運転車の公道実験をしている映像を見て、最大級の危機感を抱いたはずです。将来の自動車の「価値」がグーグルに握られるのではないかと・・・・・・。それと同じ構図が、コンピュータ将棋のプログラムと代指しロボットです。自動車(ロボット)技術者が精魂を傾けて開発した機械が、それとは全く無関係なソフトウェア技術者によって意のままにあやつられている。そのあやつり方にこそすべての価値がある。全く同じ構図です。デンソー経営陣が危機感を抱かなかったはずがない。

ちなみに、2016年の第1期 電王戦を山崎隆之 八段と戦っているコンピュータ将棋プログラムは「ポナンザ」ですが、このプログラムを開発した山本一成氏は、AI応用ソフトを開発するベンチャービジネス、HEROZ(ヒーローズ。東京)の社員です。第1期 電王戦は、ベンチャーの頭脳が大企業(デンソー)の腕・手・指をあやつる構図なのです。

それともデンソー経営陣は「将棋はゲームだから大したことはない」と思ったでしょうか。しかし、ゲームをあなどってはいけません。No.174「ディープマインド」で書いたように、ディープマインド社のAI技術を使った「アルファ碁」は世界トップクラスの囲碁棋士に勝ったのですが、歴史的に眺めてみると、そこで使われたAI技術(深層強化学習)は「ゲームに導かれた革新」だったわけです。

デンソーのホームページを見ると、代指しロボットの開発経緯に取材した動画が公開されています(2016.5.13 現在)。技術者としてこの開発成果を誇るのは当然だし、またデンソーの広報部としてもPR(= Public Relation)の観点から、ホームページの目玉の一つとして掲載しているのだと思います。しかしもっと大きな視点からすると、代指しロボットを短期間に開発したことを誇るだけでいいのかと思うわけです。局所的に素晴らしいが大局には遅れる、ないしは、局所的に素晴らしいからこそ大局に遅れる、ということがあるのではないか。

デンソーは、代指しロボットの開発を契機に「コンピュータ将棋選手権」に参戦すべきだったと思うのですが、どうでしょうか。もちろんコンピュータ将棋のプログラムの開発は一朝一夕にはできません。すでに「コンピュータ将棋選手権」に参戦されている開発者の方に "三顧の礼を尽くして"、デンソーに迎える。そして、コンピュータ将棋のプログラムを開発するとともに、デンソーのAI技術のアドバイザーをしてもらう。ことによっては、別にAIの専門家を迎えて「本格的にAI技術や深層学習を使ったコンピュータ将棋プログラム」を開発してもいいわけです。繰り返しになりますが「知能をコンピュータで実現する技術 = AI技術」の活用は、単にゲームにとどまりません。No.174のディープマインド社は、コンピュータ囲碁ソフトを開発する会社でなく、そこで得られた技術をさまざまな社会問題にまで応用しようとしている会社です。

デンソーはロボットメーカーとしては中堅ですが、自動車部品メーカーとしては日本最大の会社であり、世界でも有数の会社です。そのデンソーが目標とする自動車部品メーカーはドイツのボッシュ社でしょう。そのボッシュは、自動運転の研究を大々的にやっています。その自動運転で使われる重要技術がAIです。上に書いたように、自動運転車こそ次世代ロボットの典型であり、自動車部品メーカーの雄であるデンソーは、そこに深くコミットせざるを得ないはずです。その自動運転車と将棋を指すロボットは「次世代ロボット」というキーワードでつながっていると思うのです。



自動車が知能化していくように、産業用ロボットも知能化して次世代ロボットへと変身していかざるを得ない。これには他の理由もあります。現在の産業用ロボットのメーカーは、ある競争にさらされようとしているからです。日経新聞の比奈田記者は、最近、次のような記事を書いていました。


産ロボ、TVの道歩む?
 参入障壁低く、後発急伸

デンマークの産業用ロボットベンチャー、ユニバーサルロボットの業績が急伸している。2015年の売上高は14年比91%増の4億1800万デンマーククローネ(約70億円)、税引き前利益は2.2倍となる10億円に達した。12年以降、販売台数ベースで年平均75%の成長を遂げている。

同社は05年に設立。製品のURシリーズは、周囲の物との接触を検知すると止まる。ヒトと並んで作業する協調型ロボットの先駆的な存在であり、ドイツの大手自動車メーカーなどで一気に採用が広がった。

従来、独KUKAやスイスのABBのほか、ファナックや安川電機などの日本勢が席巻してきたのが世界の産ロボ市場だ。ところが近年はベンチャーが台頭しており、世界的な需要地の中国でも、瀋陽新松機器人自動化といった新興メーカーが存在感を増している。

産ロボはモーターの力を引き出す高精度の減速機を調達すればつくれることから、他の製造業と比べると参入障壁は低い。大手メーカーも「キーデバイス」の減速機は調達品だ。

これに世界中の起業家が目を付けた。耐久性や品ぞろえは大手が依然として先行しているが、ユニバーサルロボットのようにきらりと光る技術と戦略があれば、風穴を開けられる。

思い浮かぶのは、高い品質を誇りながら衰退した液晶テレビだ。海外の後発の破壊的な価格戦略に押され、競争力を失った商材になお固執した電機メーカーは経営の危機を迎えた。日本の産ロボメーカーがビジネスモデルの転換を求められる日は確実にやってくる。合従連衡を含めた業界地図の変化は案外と近いかもしれない。(比奈田悠佑)

日経産業新聞(2016.4.4)

比奈田記者が書いている産業用ロボットのキーデバイスですが、ロボットのすべての関節にはモーターとともに "精密減速機" が内蔵されています。精密減速機がモーターの回転数を大きく落とすことで、ロボットは強い力を発揮する。この産業用ロボット用の精密減速機で世界の60%ものシェアを握っているのが、日本のナブテスコです。上の記事にある「デンマークの産業用ロボットベンチャー、ユニバーサルロボット」が、ナブテスコから精密減速機を調達しているということは大いにありうると思います。

比奈田記者は産業用ロボットを液晶テレビになぞらえていいますが、これはちょっと違うのではと思います。液晶テレビはロボット(=メカトロニクス製品)と違い、完全なエレクトロニクス製品(動かない、デジタル製品)だからです。しかし、ごくマクロ的なアナロジーとして読めば理解できます。そして、比奈田記者の言うビジネスモデルの転換のための重要技術が、個々のロボットの高度な作業や、工場全体のロボット群の協調作業を見据えた「知能化」だと思います。



以上の状況を考えると、将棋電王戦で、頭脳に相当するコンピュータの指示どおりに黙々と "手" を動かしているだけの「代指しロボット」は、それがいかに技術的に優れていたとしても、ロボット・ビジネスとしての凋落を暗示するように思えてしまったのです。開発したデンソーは自動車部品の大会社であり、かつ産業用ロボットメーカーです。知能化の研究や先行開発は社内で鋭意やっているのでしょう。しかし、将棋電王戦だけをみると凋落に見えたということです。


産業用ロボット・メーカーは変身し、発展する


ここまで、将棋電王戦の「代指しロボット」について否定的なことを書いたのですが、もう一度よくよく考えてみると、この「代指しロボット」は、産業用ロボットメーカーであるデンソーの大きな戦略の一環かもしれないとも思えました。それはこのロボットが、将棋の駒をつかむときの人間の(プロ棋士の)手と指の動きと同等の働きをするからです。つまりこの代指しロボットは「人間の手と指の微妙な動きを完全に模擬できるロボットを開発する」という、デンソーの大きな企業目標の一つとして位置づけられているのかもしれないと思ったわけです。

ここで思い出すのは、No.71「アップルとフォックスコン」で紹介した鴻海ホンハイ精密工業の工場の光景です。鴻海精密工業はアップル製品(iPhone や iPad など)の筐体きょうたい(= 外装ボディ)を金属の塊から "削り出す" ことで製造しています。そのための工具を自社生産する工場の様子が、下の写真の右中です(No.71に掲載した写真)。小型のマシニング・センター(=産業用ロボット)がズラッと並び、当然のことながら、人の姿はまばらです。残念ながら iPhone / iPad の筐体きょうたいの製造工場の写真はないのですが、下の工具製造工場と類似の風景であることは間違いありません。

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アップル製品の筐体と、製造のための工具、工具製造工場。工作機は数万台ある。必要な工具は内製している(日経ものづくり 2012年 11月号より引用。出典はフォックスコンの社内報「画説富士康」2010.7)

一方、アップル製品を組み立てる工場が下の光景(同じくNo.71に掲載した写真)ですが、ここはまさに "人海戦術 " です。アップルの製品は最新のデジタル技術を使い、先端のエレクトロニクス部品のオンパレードなのですが、最終組立ては人手に頼らざるを得ない。従って鴻海精密工業(ないしは、同業の製造受託会社)に委託せざるをえない。ここにアップルのビジネスモデルの最大の隘路あいろがあると考えられます。

Foxconn1.jpg
フォックスコンの組み立て工場(日経ものづくり 2012年 11月号より引用。出典はフォックスコンの社内報「画説富士康」2010.7)

もしアップル製品の最終組立てが出来るような「組立てロボット」ができたとしたらどうでしょうか。ものづくりは大変貌するに違いありません。ものづくりだけでなく、たとえば衣類の縫製ができるような「縫製ロボット」が出来たとしたら、ユニクロのビジネスモデルも大きく変わるでしょう。当然、工場の立地も変わってくる。

「組立てロボット」の開発は難しいはずです。まず人間の手に近い柔軟性を持ち、微細な動きが可能なロボット・ハンドを開発する必要があります。その制御プログラムも非常に難しそうです。高度な画像認識技術も必要だし、当然、学習する能力も必要で、つまりAIを駆使しなければならない。これは明らかに「次世代ロボット」の範疇に入るものです。

ロボットの導入コストも問題です。仮に、鴻海精密工業の中国工場の労働コストを1人・1ヶ月あたり日本円換算で10万円とすると(あくまで "仮に" です)、3交代で30万円、1年で約400万円になります。ロボットの減価償却期間を3年間とし、ランニングコストを無視すると、ロボットの価格が1200万円で人と同じということになります。ということは、その半分程度、たとえば500万円程度でロボットが導入できないと、人に置き代わるのは無理でしょう。その価格でロボットが大量生産できるかどうかです。あくまでざっとした見積もりですが、製造コスト面でも「次世代組立てロボット」は大きなチャレンジだということが分かります。中国より人件費が安い国もあります。

しかし障壁を乗り越えて「次世代組立てロボット」ができたとすると、産業構造が大きく変わります。アップルも、アメリカ国内の土地の値段が安い場所(ただし、道路のアクセスが良い所)を選んで自社工場を建ててもいいわけです。論理的にはそうなります。



ここで、前回の No.175「半沢直樹は機械化できる」で紹介したオックスフォード大学の研究チームの「雇用の未来」が思い当たります。このレポートは、AI技術によって仕事が機械に奪われる、その「奪われ易さ」を数値で出しているのですが、エレクトロニクス製品の組立て作業はどうなっているかです。レポートをみると、次の記述があります。

職 業 奪われる確率
Electromechanical Equipment Assemblers97%
Electrical and Electronic Equipment Assemblers95%

Electromechanical Equipment Assemblers は「何らかの稼働部(メカ)を電子制御する製品の組立て」であり、家電製品でいうと掃除機などでしょう。今問題にしているのは iPhone/iPad などのアップル製品の組立てなので Electrical and Electronic Equipment Assemblers の方です。この95%という確率は、全702の職業について機械に奪われそうな確率を並べた表で、上位から82番目にリストされています。意外にも、エレクトロニクス製品の組立ては機械に奪われる確率が高いと予測されているのです。前回のNo.175「半沢直樹は機械化できる」でも引用した、小林雅一著『AIの衝撃』からもう一度引用してみましょう。


これまでコンピュータ科学者やAI専門家の間では、コンピュータやロボットにも苦手な仕事があると言われてきました。その一つが新しいビジネスモデルを生み出す企業家のように創造的な仕事、あるいはマネージメントやマーケティングなど高度なコミュニケーション能力を要する仕事、さらにはベストセラー小説を書いたり大ヒット映画をプロデュースするといった芸術的な仕事です。言うまでもなくこれらは一般に高収入の職業です。

もうひとつコンピュータやロボットが苦手とする仕事は、たとえば「庭師」や「理髪業者」、あるいは「介護ヘルパー」や「料理人」などの非定型的な労働です。この主の仕事では、対象とする人や物に対する注意深い観察や器用な手先の動きが必要とされます。より専門的な用語で言い直せば「視覚や聴覚のような高度なパターン認識と、繊細な運動神経や移動運動など」を組み合わせる仕事です。これは数百万年に及ぶ進化の歴史を経て、高度な発達を遂げた人間の脳にしかできません。つまりある意味ではハイレベルの仕事でありながら、これらの職種はどちらかと言えば低賃金です。この逆説的な傾向は「モラベックスのパラドックス」と呼ばれ、1980年代にAI専門家のハンス・モラベックス氏やマービン・ミンスキー氏らが指摘したものです。

小林雅一『AIの衝撃』
(講談社 現代新書 2015)

この引用に書かれていることをまとめると、現代のコンピュータやロボットが苦手とする仕事は、二つのジャンルに分類される、つまり

創造的な仕事、高度なコミュニケーション能力が必要な仕事、芸術的な仕事(=高収入)

視覚や聴覚のような高度なパターン認識と、繊細な運動神経や移動運動などを組み合わせる仕事(=低収入)

の二種類というわけです。これは非常に納得できます。ところが、オックスフォード大学の研究チームの「雇用の未来」は見解が違います。


しかし、オックスフォード大学による「雇用の未来」調査では、今後、機械学習とロボット技術の発達により、これまで「モラベックスのパラドックス」という一種の防御壁によって守られてきた非定型的な肉体労働も、今後はロボとやAIに奪われてしまう可能性が高いとみています。

小林雅一『AIの衝撃』


機械学習とはコンピュータやロボットが各種センサーから取得した大量データ(いわゆるビッグデータ)を解析し、それによって認識能力や理解力を高めていくという技術です。これに加え、繊細な人間の手の動きを忠実に再現する、ロボット・アームなどの研究開発も急ピッチで進んでいます。

(同上)

iPhone/iPad などのエレクトロニクス製品を組立てるには「繊細な人間の手の動きを忠実に再現するロボット・アーム」が必要なことは言うまでもありません。これが出来たとして、問題はそのロボット・アーム制御するコンピュータ・プログラムの作り方です。これは、従来の産業用ロボット的な発想では無理であり、小林氏が指摘するように、AI技術の要となっている「機械学習」が必須でしょう。たとえば、人間がロボット・アームを遠隔操縦して部品を掴む様子を動画に撮る。それを大量に集めて手と指の動きを解析する。人間は部品が少々ずれても微妙な指の動きで修正できます。部品と手の位置関係によって指をどう動かせばよいのか、それを大量データをもとにした機械学習でロボットに学ばせるというやり方です。

まとめると、精巧なメカと機械学習で「視覚や聴覚のような高度なパターン認識と、繊細な運動神経や移動運動などを組み合わせる仕事」は、ロボットに置き換えられていくというのがオックスフォード大学の予測なのです。一言で言うと、ロボットの「知能化」の効果です。

現在、工場内部で各種作業を行っている産業用ロボットですが、それらもいずれ「知能化」し、現在は人間でないと無理と思われる作業、たとえばエレクトロニクス製品の組立てとか、工業用ミシンを使った服の縫製などに乗り出していく、つまり産業用ロボットが「次世代ロボット」に変身していく。そういった将来が予測できるのです。



将棋電王戦に登場したロボットの話に戻ります。デンソーの「代指しロボット」は、

  視覚や聴覚のような高度なパターン認識と、繊細な運動神経や移動運動などを組み合わせる仕事の、ごく初期段階を実現したもの

と見なすことができます(聴覚はありませんが)。つまりこのロボットを突き詰めていくと、製品組立てなどの、今はロボットには不可能と思われていることができる可能性があるのです。「代指しロボット」は、そういったデンソーの企業戦略の一環かもしれないのです。


「代指しロボット」が暗示する将来


デンソーの「代指しロボット」が予感させる産業用ロボットの将来として、「産業用ロボット・メーカーは衰退する」と「産業用ロボット・メーカーは変身し、発展する」の二つを書きました。改めてまとめると、将来についての次の2つのシナリオです。

シナリオ1
AI技術にけた勢力が勃興して「知能」の部分を担当し、現在の産業用ロボットメーカーはその手足となって指示どおりに動く存在となる。もちろん知能とモノとの接点である「手足」がなくなることはないが、全体としての価値が他企業に移転し、現在のメーカーは実質的に衰退する。

シナリオ2
現在の産業用ロボットは、知能をもった「次世代産業用ロボット」へと高度化し、組立てや縫製などの(現状のロボットでは無理な)複雑な仕事を担当することになる。つまり産業用ロボットメーカーは変身して、発展する。

この2つのシナリオの間の中間的な将来も考えれるでしょう。もちろん現在の産業用ロボットメーカーにとってのベストのシナリオは、シナリオ1における「AI技術にけた勢力」に自らがなり、かつシナリオ2も実現させることです。

デンソーは、なぜ将棋電王戦に「代指しロボット」を提供したのでしょうか。おそらくその直接的な理由は、会社の認知度の向上でしょう。デンソーの顧客は自動車会社などの企業であり、一般消費者向けの製品は(ほとんど)作っていません。将棋電王戦に "参戦" することによって認知度を上げ、ブランドの強化につなげる。そういう思惑でしょう。

しかしはからずもこの "参戦" は、現在の日本の産業用ロボット・メーカーの将来を予見させるものとなった。その予見には「明るい将来」と「暗い将来」の両方が混在しています。そして重要なことは、日本の産業用ロボットの世界シェアは60%と極めて高く、現代日本の有力産業だということです。たとえ現在のロボット・メーカーの勢力地図が変わったとしても、産業全体としては「明るい方の将来」であって欲しいと思いました。



 補記1:アディダスの国内回帰 

アップル製品の組立てが出来るような次世代ロボットが出現したら、産業構造が変わり、工場の立地も変わるだろうという意味のことを本文に書いたのですが、それに関連して、ドイツの有名なスポーツ・シューズのメーカー、アディダスが、ドイツ国内での靴の生産を再開するという記事を紹介します。


ロボットで靴大量生産
 アディダス 24年ぶり国内回帰

【フランクフルト=加藤貴行】独アディダスは24日、2017年からドイツ国内でロボットを使って靴を量産すると発表した。1993年に国内生産から撤退していたが、中国の人件費高騰やロボットの生産性向上を受け、24年ぶりに国内回帰する。欧米市場に近いドイツで生産し、トレンドへの対応も早まる。

アディダスは昨年末から独自動車部品・医療機器メーカーと協力し、本社のある独南部バイエルン州に「スピード・ファクトリー」を設置、試験的に500足を小規模生産していた。数百万単位を効率よく生産するめどがつき、大量生産へ移行を決めた。18年には米国でも量産を始める計画だ。

ロボット活用で24時間の生産が可能になり、欧米で流行に即応したモデルを柔軟に生産できる。中国やベトナムからの輸入コストも削減できる。

日経産業新聞(2016.5.26)

記事には書いてないのですが、アディダスとともに「スピード・ファクトリー」を立ち上げたのは、エクスラー(Oechsler GmbH)という会社です。ウェブサイトを見るとこの会社は、記事にあるように「自動車部品・医療機器メーカー」であって、ロボットメーカーではありません。ただ、グループ会社のエクスラー・モーションが工場自動化ラインに強みをもっているようです。ということは、既存の最新ロボットを使って、アディダスの「スポーツ・シューズ自動製造ライン」を作りあげたと推測できます。

この工場のロボットが「次世代ロボット」かどうかは別にして、アディダスの発表から分かることは、

24年ぶりに雇用がドイツ国内に復活(回帰)した。

しかしその雇用は、24年前の「スポーツシューズを手で作る」という仕事ではなく「ロボットを開発・製造する」仕事、ないしは「ロボットを工場ラインへ設置し、維持・管理する」仕事へとシフトした。

ということです。もちろん、スポーツシューズをロボットで生産できたからといって、アップルの iPhone の自動組立てや、ユニクロのキャジュアル・ウェアの自動縫製ができるわけではありません(難易度が違う)。しかしこの記事は、ロボットが産業構造や社会構造を変えてしまう可能性を秘めていることを強く示唆しています。21世紀の大産業を一つだけあげよと言われたなら "次世代ロボット"と本文に書きましたが、その思いを強くしました。



 補記2:電王戦を戦った山崎隆之 八段 

第1期電王戦は、山崎隆之 八段 対 ポナンザで行われ、ポナンザの2連勝で終わりました(第1局:2016.4.9-10。第2局:2016.5.21-22)。この棋戦に挑む山崎隆之 八段に密着取材したドキュメントが、先日NHK総合で放映されました。「NEXT 未来のために 不屈の人間力で人工知能に挑む 山崎隆之 八段」(NHK総合。2016.6.18。17:30-18:00)です。

ドキュメントを見る限り、山崎 八段の敗因は「人間である限り避けられない心理面の弱さ」が現れてしまったという感じです。そういう風に受け取りました。歩を打ってじっと自重すべきところで攻撃に転じてしまう(第1戦)。角を切って決戦に突入すべきところで守りに回ってしまう(第2戦)。いずれも控え室の予想を裏切った手でした。もちろん控え室の予想通りで勝てたとは限りません。しかし山崎八段に心理的な迷いが生じ、それが指し手に現れてしまったと感じました。

しかし、このドキュメントの最後で山崎隆之八段が語った言葉は大変に印象的で "爽やかな" ものでした。


「こんなに新鮮な気持ちで、自分の将棋を見つめ直さなければいけないという気持ちに、また帰れたかなと思うので、非常にいい経験をさせていただきました。」

「(自分にはまだ)変なこだわりとかや、頭の堅さがかなりある。もうちょっと素直な吸収力がほしいなと・・・・・・。」

山崎隆之
「NEXT 未来のために」より
(NHK総合 2016.6.18)

人工知能との戦いで山崎隆之 八段が感じたのは、自分の「変なこだわり」や「頭の堅さ」であり、彼自身がもっと欲しいのは「素直な吸収力」なのです。まさにこの "素直な" コメントは、人間と人工知能が共存していく未来を予感させるものでした。

第1期電王戦 第1局.jpg
第1期電王戦 第1局。2日目の朝に封じ手を指す 山崎隆之 八段。岩手県平泉町中尊寺。2016年4月10日。
(site : www.asahi.com)



 補記3:キヤノンの完全自動生産 

補記1でアディダスが、スポーツシューズのドイツ国内生産を再開することを紹介しました。グローバルにビジネスを行っている日本企業で国内生産にこだわっている会社の一つがキヤノンです。そのキーワードは、ロボット技術を駆使したデジタルカメラの「完全自動生産」です。

2016年7月26日、キヤノンは2016年1月~6月の連結決算を発表しました。その関連記事から紹介します。


「1ドル=100円から110円の範囲であれば、企業努力で解決する必要がある」。この日の決算会見でキヤノンの田中稔三としぞう副社長はこう語った。

田中副社長の「企業努力」とは生産の完全自動化だ。キヤノンは15年8月、18年をめどにデジタルカメラの生産を完全自動化すると発表した。

カメラの製造拠点の大分キヤノン(大分県国東市)では「テクノ棟」と呼ばれる建物の建設が進んでいる。投資額は約130億円で年内には稼働する。自動化に不可欠な製造装置を研究開発する組織が移動する予定で、テストラインも置く。

日経産業新聞(2016.7.27)


《増子律夫・キヤノン執行役員(大分キヤノン社長)のインタビューより》

一眼レフの量産機では、すでに組み立ての7割は自動化されている。全工程の自動化もテストモデルでは実験済みで、技術は基本的に確立している。残る3割は、単純に自動化すると投資対効果が見合わない、人手の方が安く済む部分だ」

「自動化で難しいのはワイヤやリード線、フレキシブル基板など軟らかい部品の取り付けだ。自動化は不可能ではないが、ひねって差し込むなどの動作が必要で、複雑な機構をもつ専用装置が必要になる。だが専用機では汎用性が失われる。カメラ業界はモデルチェンジも早いので、すぐ置き換えられなくてはいけない」

低コストでの自動化が実現できるよう、製品の構造や設計の工夫が必要だ。こうした発想は部品にも及ぶ。例えばロボットが組みやすい、つかみやすい部品を造る

「部品の製造プロセスにも踏み込んで、精度のばらつきが少なくなるよう品質管理も必要だ。精度が高くないと感圧センサーでの検査が余計に必要になる。部品を入れるトレーも装置に負担がかからない工夫が要る」

日経産業新聞(2016.7.27)

増子執行役員の言う「低コストでの自動化が実現できるよう、製品の構造や設計の工夫、部品の工夫が必要」というところがポイントだと思います。完全自動化はロボット技術だけの問題ではなく、部品設計・製品設計の課題でもあり、部品を調達する場合は部品メーカーをも巻き込むことになります。そして、このような "総力戦" は、まさに日本企業の最も得意とするところだと思いました。



 補記4:アディダスの米国生産 

「補記1:アディダスの国内回帰」の続報です。アディダスは先進国において靴のロボット生産を展開し、世界シェア1位のナイキを追撃する戦略を加速しているようです。米国での生産開始の記事がありました。


米でロボット、靴生産
 アディダス ナイキの牙城攻略

【フランクフルト=加藤貴行】スポーツ用品世界第2位の独アディダスは10日、2017年後半から米国でロボットによる靴生産を始めると発表した。当初予定より約1年の前倒しとなる。同年に稼働する独工場を上回る最大のロボット工場となり、中期的に年産50万足を見込む。

世界最大市場の米国での流行に対応し、すぐに商品を届けられる生産体制を築いて、ライバルの米ナイキの牙城に挑む。

米国工場はジョージア州アトランタに建設し、工場面積は約7万4000平方フィート(約6900平方メートル)。本社に近い独バイエルン州アンスバッハで計画する第1弾のロボット工場(4600平方メートル)より5割大きくなる。

米国ではまず17年にランニングシューズを5万足生産し、段階的に生産量を増やす。店舗からの売れ筋の情報や、マーケティング戦略に応じ、靴の色や素材、サイズを柔軟に変えられるようにする。

現状のアジアからの輸送期間とコストの大幅な削減にもつながる。生産現場は無人だが、管理や物流部門などで160人を雇用する計画だ。

アディダスの売上高に占める北米の比率は約16%。ナイキが圧倒的に強い市場で、米アンダーアーマーなどの新興勢力にも押されていた。

ただ、アディダスの足元の北米売上高は前年比で2割増収と勢いを取り戻している。米国で前倒しでロボット生産を始めることで現地でのシェア拡大を狙う。

日経産業新聞(2016.8.15)




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