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No.210 - 鳥は "奇妙な恐竜" [科学]

日経サイエンス 2017年6月号.jpg
日経サイエンス
(2017年6月号)
今までに生物の進化に関する記事を2つ書きました。

  No.  56 - 強い者は生き残れない

No.148 - 最適者の到来

の2つですが、今回はその続きです。2017年6月号の「日経サイエンス」に恐竜から鳥への進化に関する解説記事が掲載されました。英国エディンバラ大学の古生物学者、ステファン・ブルサット(Stephen Brusatte。アメリカ国籍)が書いた「羽根と翼の進化」です。最新の研究成果をふまえた、大変興味深い内容だったので、その要旨を紹介したいと思います。


始祖鳥


そもそも鳥の祖先は恐竜ではないかと言われ出したのは、今から150年も前、19世紀の半ばです。きっかけは、鳥の "先祖" である "始祖鳥" の発見でした。


1860年代、ダーウィンの親友の1人で最も声高な支持者だった英国の生物学者ハックスリー(Thomas Henry Huxley)は、鳥類の起源の謎に挑みはじめた。ダーウィンが1859年に『種の起源』を出版してからわずか数年後、独バイエルンの採石場で労働者が割った石灰岩の中から1億5000万年前の骨格が現れた。爬虫類のような鋭いかぎ爪と長い尾、鳥のような羽毛と翼を併せもつ動物の化石だった。

始祖鳥(Archaeopteryx)と命名されたこの動物が、やはりその当時に見つかりはじめていたコンプソグナトゥス(Compsognathus)などの小型肉食恐竜に不気味なほど似ていることにハックスリーは気づいた。そこで彼は、鳥類は恐竜の子孫であるという大胆な説を発表した。他の科学者は彼の説に反対し、議論はその後100年間、行ったり来たりの状態だった。

ステファン・ブルサット
(英・エディンバラ大学)
「羽根と翼の進化」
(日経サイエンス 2017年6月号)

鳥類は恐竜の子孫かどうか、ハックスリーの提唱から約100年後、議論に決着をつけるような化石が発見されました。鳥の骨格に極めてよく似た恐竜の化石が発見されたのです。


この議論は、よくあることだが、新しい化石の発見によって決着がついた。1960年代中頃、エール大学の古生物学者オストロム(John Ostrom)が北米大陸西部で驚くほど鳥に似た恐竜デイノニクス(Deinonychus)の化石を発見した。その長い前肢は翼のように見え、しなやかな体つきは活動的な動物を思わせた。

デイノニクスには羽毛まで生えていたとオストロムは推測した。もし鳥類が恐竜から進化したのなら(そのころには多くの古生物学者がこの説を受け入れ始めていた)、その進化系統のどこかで羽毛が生じなくてはならない。

S.ブルサット「羽根と翼の進化」

もし羽毛をもつ恐竜の化石が発見されたなら、恐竜から鳥類が進化したことの完全な確証になります。しかし、羽毛がついた化石を発見するのは極めて困難です。羽毛のような柔らかい組織はほとんどの場合、動物が死んで腐敗し、地中に埋まって化石化する段階で失われてしまうからです。


羽毛恐竜の化石発見


ところがオストロムの発見から約30年後の1996年になって、中国の遼寧省州で羽毛がついた恐竜の化石が発見されたのです。この化石はポンペイのように火山灰によって素早く埋められたため、完全な状態で保存されていました。その後、今までの20年間で多数の羽毛恐竜の化石が発見され、恐竜から鳥への進化の過程が解明されました。


これらの驚くべき化石はパラパラ漫画のように、太古の巨大な恐竜がどのように現生鳥類に変化したのかを教えてくれる。

「羽根と翼の進化」

その羽毛恐竜の化石の画像の一つが次です。これは解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜です。

羽毛恐竜.jpg
中国の遼寧省・錦州で発見された羽毛恐竜、チェンユアンロング(Zhenyuanlong)の化石。解説記事を書いたブルサットが発見した新種の恐竜である。
(日経サイエンス 2017年6月号)

この "パラパラ漫画" のような羽毛恐竜の化石群により、議論は完全に決着しました。


遼寧省で発見されたこれらの羽毛恐竜によって議論は決着した。鳥類は実際に恐竜から進化したのだ。ただ、この言い方は両者が完全な別物であるような印象を与える点でやや不適切かもしれない。実際には、鳥は恐竜だ。鳥類は恐竜と祖先を共有する多数の下位グループの1つであり、トリケラトプス(Triceratops)やブロントサウルス(Brontosaurus)とまったく同様に恐竜なのだ。次のように考えてもよい。コウモリが空飛ぶ変な哺乳類であるように、鳥も変な恐竜なのだ

「羽根と翼の進化」

下の図は爬虫類が哺乳類と分化してから鳥類に進化するまでの図(部分)です。このうち、6500万年前の大絶滅を生き延びたのは、哺乳類、トカゲ類、ワニ類、鳥類(新鳥類)です。なお、6500万年前より以前に絶滅した生物は点線で表されています。

恐竜から鳥への進化.jpg
(日経サイエンス 2017年6月号)

恐竜類から鳥類の移行は非常に穏やかに、徐々に進行しました。著者は骨格の統計学的解析から、系統樹上で「鳥類」と「非鳥類」の明確な区別は不可能であることを実証しています。つまり恐竜類から鳥類の移行は「継ぎ目の無い移行」なのです。


鳥の特徴


鳥類が恐竜から進化したとして、それでは鳥の特徴である "羽毛が生えた翼" は何のために発達したのでしょうか。それは恐竜が飛べない時代にできあがったと考えるしかありません。翼だけではありません。鳥類は他の動物にはない数々の特徴をもっています。

鳥の特徴.jpg
鳥類の解剖学的特徴

翼、長い前肢、短い尾骨、竜骨、貫流式の肺、叉骨(さこつ)、大きな脳など、鳥類は他の現世動物にはない特徴がある。これら特徴のおかげで鳥類は飛行できる。
(日経サイエンス 2017年6月号)

特徴を3つとりあげると、まず貫流式の肺です。鳥類の肺は哺乳類の袋状の肺とは根本的に違っています。鳥類の肺は管状で、後と前に数個の気嚢があり、空気は後ろから前へと1方向に流れるようになっています。つまり空気を吸い込むときも吐き出すときも酸素を摂取できる。飛行は極めてたくさんの酸素を消費しますが、それに都合のよい、酸素吸収効率が高い肺を持っているのです。ヒマラヤ山脈を越える渡り鳥があることはよく知られています。エベレスト(チョモランマ)に登頂する人間は酸素ボンベをしょっていきますが、鳥はボンベ無しでその上を越えられる。酸素吸収効率が高い肺があればこそです。

  まったくの余談ですが、ヒマラヤを越える渡り鳥の一種、インド雁をモチーフにした中島みゆきさんの楽曲がありました。『India Goose』です。インド雁はモンゴル高原が繁殖地で、冬季になるとヒマラヤを越えて暖かいインドで越冬します。

鳥類の肺.jpg
鳥類の貫流式の肺

肺は管状になっていて数本あり、その後ろと前に数個の気嚢がある(上図)。鳥は気嚢を膨らませて空気を取り込み(中図)、収縮させて空気を吐き出す(下図)。この両方の過程で肺に新鮮な空気が一方向に流れる。気嚢がポンプの役割を果たすので、肺は一定の形状を保ったまま酸素を吸収できる。平沢達矢「鳥類に至る系統における呼吸器の進化」(理化学研究所)より引用。
(site : www.cdb.riken.jp/emo/)

また、鳥の骨は中空です(飛ばない鳥をのぞく)。まったくの空洞ではないですが、細い骨が蜘蛛の巣のように交錯していて、空気がつまっています。飛ぶためには体は軽い方が有利であり、軽くて強度のある骨を鳥は持っています。

人間には鎖骨さこつがあります。鎖骨は一方が胸骨(胸の前面にある骨で肋骨と接続)につながり、もう一方が肩胛骨につながっています。つまり鎖骨は2本あります。しかし人間の鎖骨さこつに相当する鳥の骨は、2本が融合して1本になっています。これを、呼び方は同じですが叉骨さこつと言います。この叉骨は鳥が羽ばたくときにちょうど力を蓄えるバネの働きをし、飛行を助けています。

とにかく、他の動物にはない鳥類の体の特徴を知ると「飛行に必須の(ないしは都合のよい)仕組みのワンセットが揃っている」ように見えるのです。これらは何のために、いつごろ発達したものでしょうか。


羽はなぜ進化したか


鳥類の体の器官の最大の特徴は羽毛が生えた翼であることは言うまでもありません。これは、そもそも何のためだったのか。日経サイエンスの解説記事を書いたステファン・ブルサットがまず指摘するのは、羽毛が多目的に使えるということです。


羽毛は万能ツール、自然界のスイス・アーミーナイフだ。羽毛のおかげで、鳥類は飛行し、異性やライバルに強い印象を与え、体温を保持し、巣に座って卵を抱き暖めることができる。実際、あまりにも用途が多くて、羽毛が最初の何の目的で進化したかを解明するのは難しい。

「羽根と翼の進化」

遼寧省で発見された化石により、羽毛は最初の鳥類にいきなり生じたのではなく、それよりずっと早い時期の恐竜に生じていたことが分かってきました。それは現世鳥類の羽毛とは違ったものでした。


(最初にできた)恐竜の羽毛は、何千本もの毛髪のようなフィラメントからなる綿毛のようだった。それらの恐竜は飛べたはずがない。この羽毛は面を構成して風をとらえることができず、翼も作れなかった。だから、最初の羽毛は飛行以外の目的で進化したに違いない。おそらく小型恐竜の体温を維持するためだったのだろう。

「羽根と翼の進化」

恐竜に生じた糸状の羽毛は、やがて長くなって束になり、分岐し、中央に羽軸ができて羽を構成するようになり、そして翼へと進化していきました。

では、翼を持った恐竜は飛べたのでしょうか。中には滑空できる恐竜もいたようです。しかし遼寧省から発見された恐竜の多くは、詳しく解析すると「飛べなかった」というのが結論です。たとえば著者のブルサットが発見したチェンユアンロングですが、飛ぶには前肢が短すぎ、羽ばたきに必要なだけの胸筋もなかったと、風洞実験や数値シミュレーションで結論づけられています。それでは「恐竜の翼」はいったい何のために進化したのでしょうか。


最新の研究結果は、翼が飛行とは別の、あまり広くは認識されていない機能を果たすために進化したことを示唆している。ディスプレイだ。1つの証拠が英ブリストル大学のヴィンサー(Jacob Vinther)が始めた研究から得られている。彼は高倍率の顕微鏡を使い、恐竜化石の羽毛に色素を含む「メラノソーム」という構造を発見した。翼のある飛ばない恐竜の羽毛はカラフルだったことが判明した。カラスの羽のように玉虫色の羽毛もあった。このような光沢のある羽毛は異性を引きつけたり、ライバルを威嚇したりするのに最適だっただろう。

恐竜の羽毛が華やかに見えるということから、翼に起源についてまったく新しい仮説が生まれた。翼はそもそも自己顕示の道具として進化したという説だ。つまり翼は前肢と後肢、尾から突き出た広告塔だった。その後、優美な羽を持つ恐竜たちは突然、表面積の大きなこの翼が(物理法則によって)空気力学的機能を果たすことに気づいた。換言すれば、飛行能力は偶然に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

日経サイエンス 2017年6月号には「見えた! 恐竜の色」(J.ヴィンサー)という論文が掲載されていて、恐竜の羽の色が詳しく解説されています。「翼はそもそも自己顕示の道具として進化した」というはあくまで仮説ですが、現世鳥類でもカラフルな羽を自己顕示に使って、異性を引きつけたりライバルを威嚇したりする鳥が多数あることを思い出します。


鳥の特徴は恐竜のときに作られた


羽毛のある翼だけでなく、現世鳥類の特徴の多くは、恐竜の時代に発達したようです。


恐竜の中には、左右の鎖骨を融合させて「叉骨(さこつ)」と呼ばれる構造を生み出したものがいた獣脚類の初期のメンバーだ。この一見ささやかな変化によって前肢の基部が安定し、獲物に忍び寄る犬ほどのサイズの肉食恐竜は獲物をつかむときの衝撃をうまく吸収できるようになった。のちに鳥類はこの叉骨を転用し、羽ばたく際にエネルギーを蓄えるばねとして使うようになった。

「羽根と翼の進化」


鳥類の特徴である中空の骨と速い成長はどちらも飛行にとって重要だが、これらのルーツも古く、恐竜類にまで遡る。多くの恐竜の骨が「気嚢(きのう)」によって空洞化しており、このことは彼らが超効率的な "貫流式" の肺を持っていたことを示している。息を吸い込むときだけでなく、吐くときにも酸素を取り込める肺だ。鳥類では、貫流式の肺が飛行に適した骨格の軽量化に加え、エネルギーを大量消費する生活様式の維持に必要な酸素の供給を可能にしている。

「羽根と翼の進化」

ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館(AMNH)とモンゴル科学アカデミーの合同チームは過去4半世紀にわたって、ゴビ砂漠で恐竜の化石を集めてきました。


彼らの発見の中にはヴェロキラプトルなどの羽毛をもつマニラプトル類の保存状態のよい頭蓋骨が含まれている。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のバラノフ(Amy Balanoff)はこれらの化石をCTスキャンし、マニラプトル類の脳が大きかったこと、そして脳の最前部が拡大していたことを明らかにした。

大きな前脳のおかげで鳥類は非常に賢く、飛行という込み入った動作を制御でき、空という複雑な3次元世界をナビゲートできる。これらの恐竜がなぜこのような鋭敏な知性を進化させたのははまだわかっていないが、その化石は、鳥類の祖先が空に飛び立つ前に賢くなっていたことをはっきりと示している。

「羽根と翼の進化」

以上のような最新の研究を総合して、ステファン・ブルサットは次のように結論づけています。


鳥類のボディプランには決まった青写真があったわけでなく、その体は進化の過程で1つずつ組み立てられた寄木細工のようなものだった。鳥類は恐竜から一挙に移行したのではなく、何千万年もかけて徐々に進化したのだ。

「羽根と翼の進化」

しかし、いったん飛行可能な恐竜ができあがると、その進化の速度はそれ以前よりも格段に速くなったことも分かってきました。


どうやら、飛行可能な小型恐竜が組み立てられるとすぐに、つまり寄木細工が完成したとたん、途方もない進化の可能性が解き放たれたようだ。これらの飛行恐竜は新しい生態学的ニッチと機会を手に入れた。

「羽根と翼の進化」

6500年前に非鳥類恐竜が絶滅したときにも、鳥類恐竜は生き延びます。そして現世鳥類は1万種を越える大グループとして繁栄していて、その姿もハチドリからダチョウまで極めて多様です。



以上のような徐々で穏やかな進化は、恐竜から鳥への進化だけではないと著者は言います。つまり

魚が脚と指を持って四肢動物になる
陸生哺乳類がクジラになる
木にぶらさがってた霊長類が直立歩行するヒトになる

などの変化は、たえず変化する環境圧力によって徐々に起こってきました。進化は将来を見込んで起こるわけではないのです。


鳥は目的があって進化したのではない


以下はこの日経サイエンスの解説記事の感想です。この記事は我々にある種の教訓を与えてくれると思いました。つまり、鳥の体の数々の特徴をみると、そのすべてが飛行という目的に沿って作られているように思えてきます。まるで「飛行」という目的に向かってすべてが進化したように見えてしまう。しかし決してそんなことはないのですね。飛行に必要な数々の特徴は、飛行とは無関係に発達した。それが寄木細工のようにうまく組み合わさったとき、飛行恐竜=鳥類が誕生した。

我々は「成功した結果」だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうことがよくあります。鳥類はあまりにポピュラーであり繁栄しているので、特にそう見えます。しかしそれは「全体の中でたまたま成功した一部」だったりする。上の方に引用した進化の図でも、"失敗" して絶滅した鳥類恐竜(=鳥類)の種があることが分かります。大量絶滅の時(6500万年前)に絶滅したのは2種ありますが、それ以前に6種が絶滅しています。現世鳥類だけが "運良く" 成功した。

「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまう」のは、我々が陥りやすい「思考の落とし穴」だと思います。特に進化のように何百万年、何千万年という時間で起こるプロセスは、我々はまったく想像ができないし直感も働かないので、落とし穴に陥りやすい。どうしても人は物事に意味や意図を見いだそうとします。暗黙にでも「意味」を考えないと落ち着いていられない。

この「思考の落とし穴」は千年程度の時間スケールでも同様です。たとえば2000年程度前に作られた石造建築物が、今でも崩れることなく無傷で残っているとします。我々はそれを見て「古代人の建築技術はすごい」などと感嘆したりします。しかしそれが残っているのは「たまたま」なのかも知れません。「たまたま」上手に石組みが出来た一部の建造物が残り、大多数は2000年の時を経て跡形もなく崩壊してしまったのかも知れない。我々は崩れていった建造物を見ることはできないから「すごい」と思うのかも知れないのです。すべての古代建築がそうだと言っているのではなく、そういう可能性を考慮しておいた方が良いと思うだけです。

さらに数年~十数年単位の社会での現象でも言えそうです。たとえば企業が新事業に乗り出して成功するという例です。その企業行動には「成功要因がすべて揃っていて、それを推進したリーダーシップの優秀さを褒め称える」ような言説がよくあります。しかしそれは「結果論」ではないのか。"偶然" とか "たまたま" という要因はないのか。しかも成功要因はリーダが登場する遙か以前から企業内で醸成されていたりします。新事業に乗り出して失敗した(小さな)例を企業はいっぱい内部に抱えているはずですが、そういう情報は外部にあまり出てきません。外部から見ても華々しい成功例だけをもとに、結果論をうんぬんしてもむなしいと思います。

ベンチャービジネスもそうです。ビジネスとして成功し、大きく成長したベンチャービジネスの裏には、その数百~数千倍の "成功しなかったベンチャー" がある。一般に知られることもなく、報道されることもなく消えていったビジネスがほとんどであるわけです。

建築物の建設や企業の活動は人間の行動であり、意志の入ったプロセスです。動物の進化のような自然による環境選択とは違うのですが、「成功した結果だけをみて、その要因のすべてがあたかも計画されたように考えてしまうという思考の落とし穴」という視点からすると、教訓を得ることができるのではないかと思いました。




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No.209 - リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 [音楽]

今までにフランツ・リストの曲を2つとりあげました。

No.  8 - リスト:ノルマの回想
No.44 - リスト:ユグノー教徒の回想

の2つですが、そもそもローマのレストランのテレビでやっていた「素人隠し芸大会」で、オペラ「ノルマ」の有名なアリア「清き女神よ」を偶然に聞いたことが発端でした(No.7「ローマのレストランでの驚き」参照)。

この2つはいわゆる "パラフレーズ" 作品です。つまりそれぞれ、ベッリーニのオペラ「ノルマ」とマイヤベーアのオペラ「ユグノー教徒」のなかの数個のアリアの旋律をもとに、それを変奏したり発展させたりして自由に構成した作品です。まさにオペラを観劇したあとに、それを回想しているという風情の作品です。

今回は方向性を全く変えて、同じリストの作品ですが「ピアノ・ソナタ ロ短調」を取り上げます。なぜこの曲かというと、恩田陸さんの小説『蜜蜂と遠雷』に出てきたからです。この小説は直木賞(2016年下半期)と本屋大賞(2017年)をダブル受賞したことで大きな話題になりました。

蜜蜂と遠雷.jpg
(幻冬舎 2016)


蜜蜂と遠雷


『蜜蜂と遠雷』は、日本での国際ピアノコンクールに参加した4人のコンテスタント(16歳、19歳、20歳、28歳の4人)を中心に、彼らをとりまく友人、師匠、審査員なども含めた群像劇です。これらコンテスタントのなかで、マサル(=マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。19歳)の演奏曲目に、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」がありました。"マサル" とは日本の男性名にちなんだ名前ですが、これは父親がフランス人で母親が日系3世のペルー人だからです。マサルはジュリアード音楽院に在学中で、"ジュリアードの秘蔵っ子" という設定です。

以降『蜜蜂と遠雷』から、マサルが演奏するピアノ・ソナタ ロ短調の描写を紹介したいと思います。以降、大部分が恩田陸さんの文章の引用になってしまいそうですが、それはやむを得ません。


第3次予選


国際ピアノコンクールは第1次予選(90人)、第2次予選(24人)、第3次予選(12人)、本選(6人)と進みます。本選はオーケストラと競演するコンチェルトですが、それ以前はピアノ独奏です。

マサルは第3次予選へと進みました。第3次予選の規約は「60分を限度とし、各自が自由にリサイタルを構成する」です。マサルが選んだ曲は次の通りです。

バルトーク「ピアノ・ソナタ Sz.80」
シベリウス「五つのロマンティックな小品」
リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178」
ショパン「ワルツ 第14番 ホ短調」

もちろんこの構成における "メインディッシュ" はリストです。以下の引用では漢数字を算用数字に変えました。


フランツ・リスト作曲、ピアノ・ソナタ ロ短調。

1852年から53年にかけて作曲され、初演は1857年。

リストは既にピアニストを引退していたため、彼の弟子のハンス・フォン = ビューローが演奏した。

傑作の誉れ高いこの曲は、ソナタ形式としてはかなり異色である。ソナタと名付けたせいで、発表当時、これがソナタなのかという大論争になった。あまりにも斬新な構造だったので、激しい非難にさらされたことでも有名である。

最も特徴的なのは、通常のソナタではきっちり楽章ごとに分かれて主題部と展開部が奏されるのであるが、この曲は楽章が分かれておらず、全体でひとつづきの一楽章になっているところであろう。

30分近い大曲であり、難曲揃いのリストの曲の中でも、さまざまな技量が要求される最高級の難曲である。

その複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきたが、マサルはこの曲を聴くたびに、周到に伏線の張られた、巧みな構成の長編小説のようだと思う。

そう、これは音符で描かれた壮大な物語なのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』
第3次予選 - ロ短調ソナタ
(幻冬舎 2016)

ロ短調ソナタ.jpg
フランツ・リスト
ピアノ・ソナタ ロ短調
1854年の初版楽譜(ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社)。シューマンに献呈する旨が書かれている。IMSLP(International Music Score Library Project)のサイトより。

「あまりにも斬新な構造」で「複雑かつ精緻な構造は繰り返し研究されてきた」とありますが、たとえば Wikipedia にはその研究成果が解説されています。この曲は「単一楽章のソナタ形式」と「多楽章(4つ、ないしは3つ)のソナタ」が重ね合わされた「2重形式」です。さらに主題も複数個で構成された「主題群」であり、それらが曲全体に渡って入り組みながら変奏され、"変容して" いきます。新しい主題が現れたと思ったらそれは前の主題の変奏であったり、主題が再現したと思ったらそれは主題の展開だったり、という感じです。そのせいか "複雑に" 聞こえる曲です。

  余談ですが、「単一楽章と多楽章の2重形式」ですぐに思いだされるのが、ツェムリンスキーの「弦楽4重奏曲 第2番」(1914-1915 作曲)です。2重形式が分かりやすく実現されていて、しかも大変な名曲です。ひょっとしたらリストに(リストにも)影響されたのかもしれません。なお、ツェムリンスキーについては No.63「ベラスケスの衝撃:王女とこびと」に書きました。

一方、ロ短調ソナタを「標題音楽」と見なす意見も昔からあり、特にゲーテの『ファウスト』と結びつける解釈はリストの弟子の時代からあったそうです。だたしリスト自身は「標題」にふれるような言葉を一切残していません。

そして『蜜蜂と遠雷』に「これは音符で描かれた壮大な物語なのだ」とあるように、マサルの解釈も「標題音楽」なのです。


「ピアノ・ソナタ ロ短調」から感じる物語


マサルは子供の頃からこの曲を何回か聴いてきたし、レッスンでさらったこともありましたが、コンクールを前にもう一度譜面を丹念に読み込むことから始めます。マサルが譜面を見ながら感じた「周到に伏線の張られた巧みな構成の壮大な物語」とは、次のようなものです。


曲は ─── 物語は、さりげなく、謎めいた場面から始まる。

マサルは思い浮かべる。

一人の男が静かに歩いてくる。そっと草を踏み、暗く燃えるような目をして、冬枯れの一本道を。身なりは悪くなく、彼が卑しからぬ階級に属する人間であり、知的職業に就いていることを窺わせる。

辺りも静かだ。

寒々とした風景。空はどんよりとした厚い雲に覆われ、空気も冷たく、鳥たちの声も聞こえない。

足の下でぱきんと枯れた枝が折れる乾いた音。

ふと、男は足元に朽ち掛けた墓石が草と土に埋もれていることに気付く。年代らしきものが見えるが、文字も崩れかけ、人の世の虚しさ、はかなさだけが伝わってくる。

青年は、無表情にその墓石を踏み越えていく。

視線の先に見えるのは、小高い丘に広がる集落。

教会の尖塔や、古い城壁などが見え、由緒ある豊かな集落であることが分かる。

青年は無言だ。しかし、その目は不穏であり、ある一点をずっと見つめている ───

そう、これは何世代もの因果がからみあう悲劇。さまざまな人々の思惑が思わぬところで交錯する。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

「ピアノ・ソナタ ロ短調」の導入部は Lento assai と指示された「主題 A」(譜例76)で始まります。ゆっくりとして静かで、かつ不穏な雰囲気が漂っています。
譜例76 リスト:ピアノソナタ A.jpg
主題 A
「ピアノ・ソナタ ロ短調」の冒頭、第1小節から。曲はLento assai で始まる。なお「主題 A」は便宜的につけたもので、以下同じ。


不穏な導入部の次は、主題部分だ。この土地の中心に君臨する一族の、主要メンバーが登場する。

暴君の父、その後釜を狙う弟たち、息子たち。一族の禍々まがまがしくも華麗な歴史と因縁が語られる。常に陰謀は現在進行形であり、すでにいさかいの種はかれている。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここで導入部に続く「主題部分」とされているのは Allegro energico の「主題 B」(譜例77)と、それに続く「主題 C」(譜例78)でしょう。これが「一族のテーマ」です。冒頭の主題 A と、主題 B、主題 C の3つは、このソナタの「第1主題群」を形成していて、以降、さまざまに変奏されていくことになります。
譜例77 リスト:ピアノソナタ B.jpg
主題 B
主題 A に続く第8小節から。Allegro energico(エネルギッシュに)の部分。最も印象に残る主題で、さまざまに変奏されていく。

譜例78 リスト:ピアノソナタ C.jpg
主題 C
主題 B に続けて第13小節から演奏される。marcato(1音1音はっきりと)の指示がある。主題 B と C で一つの主題とも考えられる。


現在の状況がひとしきり語られたあとで、もうひとつの主題が現れる。

もうひとりの主人公、清新なヒロインの登場である。

一族のひとりであるが、早くに父母を亡くし、後ろ盾がないために全く誰にも相手されない。厳格だが愛情に満ちた祖母に育てられ、集落の外れでひっそりと質素に暮らしている。

美しく聡明なヒロイン。その目を見れば、彼女の中に真の勇気がはぐくまれていることを誰もが感じずにはいられない。

彼女のテーマは、その性格にふさわしく、温かく愛情に満ちた、感動的なメロディである。力強く雄大でもあり、彼女の存在が祝福されたものであることをはっきりと表しているのだ。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

ここでヒロインのテーマとされているのは、第2主題群の「主題 D」(譜例79)でしょう。さらに「主題 E」(譜例80)もヒロインのテーマの一部だと思われます。2つの主題を合わせると「美しく聡明」で「愛情に満ち感動的」で「力強く雄大」などの言葉がピッタリです。主題 E は主題 C(一族のテーマ)の変奏です。ヒロインも一族の末裔なのです。
譜例79 リスト:ピアノソナタ D.jpg
主題 D
第105小節からの新しい主題。Grandiosoと書かれている部分。「愛情・感動的・雄大」という言葉の印象がピッタリする。

譜例80 リスト:ピアノソナタ E.jpg
主題 E(= 主題 C の変奏)
第153小節からの cantando espressivo(歌うように、感情をこめて)。主題 C の変奏であるが、新しい主題のように聞こえる。


物語が動き出すのは、ある日、牧師館にいつもの手伝いに行った帰りに、ヒロインが気になる男に出会うところからだ。

集落の外れに佇み、じっと何かを見ている男。

その脇には、役人らしき男が付き添い、何かくどくどと説明している。

男を見つめるヒロイン。

初めて見るよそ者なのだが、なぜか心がざわめく。ずっと昔から知っているような気がする ───

やがて、偶然は何度も彼女と男を引き合わせる。牧場でケガした子供を介抱したことから言葉を交わすようになる二人。

男は弁護士で、依頼人の命に従い、訴訟の準備でこの土地にやってきたという。互いに心を惹かれるようになるが、ヒロインは男が時折ぞっとするような目をすることが気に掛かる。

男の存在は、少しずつ集落の中で評判になり、ひそひそと陰で噂が囁かれる。

どうのあいつは、あの一族を訴えるために誰かに雇われているらいし、と。

そのことは一族の主の耳にも遠からず入るところになる。

一族のテーマが流れる部分は、常に緊張感をはらんでいていドラマティックだ。

じわじわと一族を追いつめていく謎の男。彼の周りでは、一族の暗い部分を担ってきた者たちが不慮の事故や他愛のない喧嘩で次々と命を落としていく。

めまぐるしく場面は変わり、一族の男たちをパニックにひきずりこむ。

何が起きているのか? これは一族に対する復讐ふしゅうなのか? あの男はそれに関係しているのか? あの男を陰で操っているのは何者なのか?

彼らは互いに疑心暗鬼に陥っていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』では、ここでいったん、この物語を思い浮かべているマサルの心情が描写されます。


マサルは、さまざまな場面が目の前を通り過ぎていくのを生々しく感じる。

本当に、台詞が聴こえてくるような気さえするのだ。

ディナーでゆらめくロウソクの炎や、勝手口で情報屋に渡される銀貨の鈍い光、馬車のわだちに溜まった雨まで見えるようだ。

この物語には、華麗な登場人物がフル出演だ。気の強い美女や、深謀遠慮にけた叔母など、個性あふれるメンバーには事欠かない。

細やかな情景描写と心理描写も巧みだ。次々とドラマティックな場面が現れ、悲劇のクライマックスを目指して物語は進んでいく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語はクライマックスへと突き進んでいきます。このクライマックスで、「一族」「謎の男」「ヒロイン」の秘密が明かされます。


運命は変えられない。ひたひたと時の歯車は回り、登場人物を引き合わせ、その場所へと運んでいく。

ヒロインは、この物語の中心に、思わぬ形で巻き込まれていく。これまで一族から完全に無視されてきたのに、年頃になり誰の目にも彼女がとても美しいことが明らかになるにつれ、一族の若い男たちが秋波を送ってくるようになったのだ。当惑するヒロイン。

あの謎の男に心を惹かれていたヒロインは、誰の申込にもイエスと言うことができない。

男の方でも、ヒロインには心を許すところをしばしば見せていたが、ある日彼女が一族の末裔の一人であることを知り、逆上する。その理由を追求するヒロイン。

そして男は、ついに自分の目的が一族への復讐、一族を滅ぼすことであると告白するのである ───

物語のクライマックス。

ついに一族は、男がかつて一族の罪状を告発しようとしたため皆で殺した末の息子の子供であるこををつきとめる。当時、生まれたばかりの子供を連れて逃げようとした男の妻も、追いつめて町外れで惨殺した。しかし、彼女が連れて逃げていたはずの生まれたばかりの子供はどこにも見当たらなかった。寒い冬の夜だったし、乳児が育つ可能性は限りなく低い。きっとどこかで死んだと思っていたのに ───

一族は、男に刺客を放つ。

しかし、それぞれが疑心暗鬼に陥っていた一族のものたちは、この機会にとばかりに互いに殺し合いを始めるのである。

男も抵抗し、一族の血塗られた罪が次々と明らかになる。
そこここで血が流され、死体が転がる。

復讐に燃え、自暴自棄になった男は、ヒロインにも手を掛けようとする。

複雑な思いで男を見つめるヒロイン。

そこに悲鳴が上がる。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

『蜜蜂と遠雷』の読者は「一族の物語」をこのあたりまで読むと、最後がどういう展開になるか、だいたい予測できます。重大な秘密が明かされ、悲劇で終わる。そういう結末です。


身体を壊してずっと寝込んでいた祖母が、壁に手をついて立ち上がり、二人の姿を見つめている。

祖母は、ひとつの名前を呼ぶ。

愕然とする男。

かつて、息子の腹違いの弟とその嫁が殺されたことを祖母は知っていた。血の繋がりはなかったが、二人とはなぜか通い合うものがあったのだ。

彼女は慄然りつぜんとし、激怒した。だが、その事実を知っていることを話せば、彼女も殺されるだろう。それでも、二人を不憫ふびんに思い、嫁が生んだ子供は彼女がこっそり隠していた。彼女が生んだのは男女の双子だった。将来また相続争いの新たな火種になりそうな男児は遠く里子に出し、女児だけを自分の手元に残した。早世した息子の子供は女の子だったが、彼女もまた身体が弱く亡くなった。それを隠して、その子を自分の孫だということにしたのだ ───

二人はきょうだいだったのだ。

改めて驚愕とショックを込めて、互いの姿を見る二人。それでは、初めて見た時から心惹かれた理由は ───

男は再び絶望にうめき声を上げ、飛び出していく。

そこへ、闇に潜んでいた一族の若い男がやってきて男を刺す。彼は、ヒロインをこの男に取られたと思い、嫉妬の念から彼を付け狙っていたのだ。

闇を切り裂き、ヒロインの悲鳴が吸い込まれていく。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

物語は実質的にここで終わりですが、再び冒頭のシーンに戻って「伏線の意味」が明かされ、エンディングを迎えます。


ラストシーンは最初と同じ場所だ。

喪服に身を包んだヒロインがじっと町外れのくさむらに佇んでいる。

兄を初めて見かけた場所。

彼女は町を去ることに決めた。遠い牧師館で手伝いをすることになったのだ。

ふと、彼女は足元の草に埋もれかけた粗末な墓石に気付く。

何気なく土をけ、崩れかけた名前をみた彼女は驚いた。それは、彼女のほんとうの母親の名前だった。ここが母親の殺された場所であり、それを気の毒に思った祖母が内緒で小さな墓石を建てた場所だったのだ。

ヒロインは、やりきれない気持ちで空を見上げる。

冒頭の場面と異なるのは、雲が少しだけ明るく、遠くにわずかながら青空が覗いていること。

ヒロインは、じっとその墓石を見つめたあと、踵を返して静かにその場所を去っていく。

二度と振りかえることなく、ゆっくりとその後ろ姿が遠ざかっていく ───

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

マサルの想像した物語はここまでです。冒頭のさりげない、しかし "意味ありげな" シーンが、最後の最後で重要な意味を持つ。これは極めてよくある話のパターンです。マサルは譜面を閉じます。


かくて長い物語は一巻の終わりとなる。

ぱたんと譜面を閉じる。

いささかベタな話だけど、19世紀のグランドロマンの時代だから、これくらいベタでも許されるよな。

それに、実際、マサルにはこの曲からそういう物語が「聴こえて」きたのである。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』


大きな屋敷を隅々まで掃除する


以上の「一族の物語」は、ピアニストが ロ短調ソナタ から感じた物語という設定ですが、それは同時に音楽の聴き手が感じた物語であってもよいものです。しかし『蜜蜂と遠雷』で次に展開される文章は、あくまでピアニストの視点、曲を練習して仕上げるという立場から ロ短調ソナタ を見たものです。

譜面を閉じたマサルはピアノの前に向かい、この曲の仕上げにかかります(以下の引用で下線は原文にはありません)。


曲を仕上げていく作業は、なんとなく家の掃除に似ている。

練習していると、いつもマサルはそう思う。

綺麗な部屋を眺め、住むところを想像している分にはいいけれど、実際に暮らしてみると、話は異なる。

家を維持する掃除は、絶え間ない肉体労働だ。演奏もしかり。

常に家全体を綺麗にしておくのは難しい。

小さな家なら掃除も楽だし、そんなに時間も掛からない。短時間で綺麗になるし、ちょっとさらうだけでいつでも綺麗にしておける。

しかし、大きなお屋敷は掃除も大変だ。ずっと美しいままに保つには、細心の注意が必要になる。

ロ短調ソナタは、とんでもなく大きな屋敷だ。構造は入り組んでいて、凝った意匠もてんこもり。これまでに数多くの人間が出入りし、ピカピカにしてきたお屋敷だ。

こんな大きな家、一人で掃除しろっていうの?

門を開けるのでさえ、重たくて一苦労。車寄せまで行くにも、落ち葉を掃いていかなければならないし、元の姿がどういうものだったのか、綺麗になった時はどんなふうなのかを常に考えていなければならない。

古い壁紙や、真鍮しんちゅうの手すりなど、どうやって掃除したらいいのか分からない部分も多い。

まずは、掃除に掛かる手間や材料、掃除の方法を考え、準備をしてから掃除に掛かる。

自信はあった。マサルには最新式の掃除道具があるし、スタミナもある。

しかし掃除を始めてみると、予想以上に大変なことが分かってくる。

とてもじゃないが、ベランダの隅まで掃除が行き届かない。あまりに広くて、すぐにふうふう息切れしてしまう。

そこもあそこも掃除し残しているし、窓ガラスも拭ききれない。天井のすすを払う余裕もない。最初のうちは、長い廊下をモップ掛けするだけで精一杯。

一箇所を重点的に掃除していると、しばらくお留守になっていたところに、いつのまにかまたほこりが積もっている。

想像以上にタフな曲だった。

マサルはもう一度屋敷の外に出て、考える。

ただ闇雲に掃除するだけではとうてい綺麗にならないことが分かってくる。

持てる力のすべて、技術のすべてを駆使する総力戦になるのを覚悟する。

効率のよい方法をいろいろ試してみるものの、結局最後は、愚直に一部屋ずつ丁寧に磨いていくしかないという結論に達した。

それでも、辛抱強く磨いていくと、毎日さまざまな発見がある。

誰もが見向きもしなかった場所に、素敵な意匠があったりするし、これまで誰も掃除をしなかったクローゼットの引き出しが見つかったりする。誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

毎日繰り返し練習していると、玄関ホールにワックスをかけるタイミングも、掃除の途中で一休みするタイミングも分かってくる。

少しずつ、屋敷は綺麗になっていく。すべての部屋が、廊下が繋がり、整然とした建築当時の姿が現れてくる。

大広間に向かう階段の両端は、埃がたまりやすいからまめにモップを。

時には、すべての窓を開け放して、屋敷に風を通す。

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所も分かってくる。お客様が何かの拍子に見かけたら、「ほう、こんなところまで目配りがきいているんだ」と感心してくれる場所も把握している。

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せてくれることにも気付いた。

やがてその日はやってくる。

意識しなくても、隅々まで手が行き届いて、屋敷が生来の美しい姿を表す日。

周囲の景色の四季の変化や、季節ごとに必要な対応も理解している。

この屋敷は自分のもの。自分の一部。庭の草木のいっぽんいっぽんまで覚えているし、目を閉じれば今どんな風に揺れているのかも鮮明に浮かぶ。

そんな日がやってくるのだ。

この曲のすべてを知っていると思う瞬間

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

このあと『蜜蜂と遠雷』は、マサルがピアノコンクールの第3次予選でロ短調ソナタを弾いているシーンと重なってきて、そして曲のエンディングを迎えます。コンクール会場の聴衆は圧倒的な拍手を送ります。


「一族の物語」と「大きな屋敷の掃除」


「一族の物語」は確かに "ベタな" ストーリーです。というか、"ベタ過ぎる" 物語です(2人は兄と妹だった!!)。しかしこれはロ短調ソナタが "ベタ" というわけではありません。この物語は曲の展開をそのままなぞっているのではなく、ロ短調ソナタという曲から受ける "印象" と、物語から感じる "印象"、その印象の総体が類似するように書かれたストーリーなのです。

このストーリーの要点をいくつかのキーワードで表すと、

  不穏、謎、秘密、陰謀、醜さ、禍々まがまがしさ、嫉妬、虚しさ、復讐、因果応報、伏線、因縁、あらがえない運命、過去と現在の交錯、驚きの真実、急展開、愛情、勇気、清新さ、かすかな希望、未来への一歩

などでしょう。これらの多様な要素が絡み合って物語を構成しています。これは「複数の主題が変容を重ねて複雑な構造を作り上げている」ロ短調ソナタを言語化したものと言えるでしょう。

もう一つ、キーワードを付け加えるなら、ある種の "おどろおどろしさ" です。「異様な雰囲気が漂う、大げさな感じ」と言ったらいいのでしょうか。これはロ短調ソナタに限らずリストの特定の曲がもつ一面であり、聴き手がリストに "のめり込む" 大きな魅力となっています。そもそも『超絶技巧練習曲』などというネーミングが "おどろおどろしい" わけです。何となく "聴いてはいけない曲" といった感じがある。

恩田さんは「一族の物語」を "グランドロマン" と書いていますが、ゴシック・ロマンにも近いものです。もし一族が、かつて殺害した男とその妻の亡霊に悩まされていたとか、全く不可解な事故で一族の何人もが死に、男たちは次は自分の番かと怯えていた、というような(これまた "ベタ" な)ゴシック的要素を付け加えると、もっと "おどろおどろしく" なります。

「一族の物語」はロ短調ソナタの "標題音楽的な解釈" とみることができます。リストは他の多くの作品で標題を示したり、譜面に書いたりしていますが、標題音楽というのは「物語音楽」(オペラ、バレエの音楽など)ではないし「描写音楽」でもありません。あくまで「標題」であって、タイトルと本文の間に位置する "前置き" です。小説家は本の扉に過去の文芸作品から引用した題辞(= モットー)を書くことがありますが、そのようなものだと解釈すべきでしょう。「一族の物語」は、いささか長い "題辞" だけれど。

付け加えると「一族の物語」に登場する人物は、謎の男とヒロイン、祖母を含めて、すべて一族の人間です。ロ短調ソナタは少数の主題を変化させ、変容を繰り返すことで成り立っています。そのあたりを汲み取った物語になっています。



その次の「大きな屋敷の掃除」の文章ですが、ピアニストがロ短調ソナタを練習し「この曲のすべてを知っていると思う瞬間」にまで至る、その過程を "大きな屋敷を隅々まで掃除する" ことに例えたのは大変に印象的です。かなりのハードワークでありながら、そこにいろいろな発見があり、そして喜びがある。特に下線をつけたところ、

誰もが見向きもしなかった場所に素敵な意匠がある

誰も開けてみようとしなかったのが不思議なくらい、清新な風景の見える裏窓がある

目立たない場所だけど、念入りに掃除をしておきたい箇所

東の廊下の窓から差し込む朝日は、窓辺に飾った花をこの上なく美しく見せる

などの表現は、ロ短調ソナタの魅力をよく伝えていると思いました。


音楽を言語化する試み


恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』がどういう小説かと言うと、一つは「音楽を言語化する試み」です。上に引用したのはリストのロ短調ソナタですが、コンクールを予選から本選まで描いているので、それ以外にも様々な曲が出てきます。音楽だけでなく、自然界にある「音」も言語化の試みがされている。

その中でも特にリストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」です。この曲を「一族の物語」と「大きな屋敷を掃除する」という視点でとらえたのには感心しました。小説家でしかなしえない音楽の言語化。そういう風に思いました。

このロ短調ソナタの "言語化" を読んで考えされられたのは、音楽にとっての「複雑性」です。ロ短調ソナタは複雑だと言われていて、実際、聴いていてもそうなのですが、よくよく考えてみるとこの程度の複雑性は、小説や戯曲(演劇)、映画などではあたりまえなのです。「一族の物語」を "ベタな" 話と感じるように、この程度のストーリー展開は "あたりまえ過ぎる"。また、大きな屋敷を隅々まで掃除することを考えてみても、「もう投げ出したい」から「何と美しい光だ」まで、その時の人の感情は多様だし、掃除の過程での人の感情をたどって文章化したとしたら極めて "複雑" になるでしょう。

No.136-137「グスタフ・マーラーの音楽」で書いたことを思い出しました。マーラーのシンフォニーでは、全く異質なメロディを同時進行させたり、突如として無関係な旋律が "乱入して" きたりするのですが、「異質なものの同居、ないしは交錯」は、文学とか舞台とか映画では常套手段なのですね。マーラーのシンフォニーとロ短調ソナタでは音楽の質が全く違いますが、最初は "複雑に聴こえる" ことでは似ています。

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』における "音楽の文章化" を読んで、リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」は20世紀芸術を予見した曲だと、改めてそう感じました。音楽を文章化することでクリアに見えてくるものがある。『蜜蜂と遠雷』の狙いはそこだったのでしょう。




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