So-net無料ブログ作成

No.232 - 定住生活という革命 [本]

No.226「血糖と糖質制限」で、夏井 まこと氏の著書である『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書 2013)から引用しましたが、その本の中で西田正規まさき氏(筑波大学名誉教授)の『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫。2007)に沿った議論が展開してあることを紹介しました。今回はその西田氏の「定住革命」の内容を紹介したいと思います。


定住・土器・農業


まず No.194「げんきな日本論(1)定住と鉄砲」で書いた話からはじめます。No.194 は、2人の社会学者、橋爪大三郎氏と大澤真幸まさち氏の対談を本にした『げんきな日本論』(講談社現代新書 2016)を紹介したものですが、この本の冒頭で橋爪氏は次のような論を展開していました。

農業が始まる前から定住が始まったことが日本の大きな特色である。日本は、定住しても狩猟採集でやっていける環境にあった。世界史的には、農業が始まってから定住が始まるのが普通

定住の結果として生まれたのが土器である。土器は定住していることの結果で、農業の結果ではない。農業は定住するから必ず土器をもっているけども、土器をもっているから農業をしているのではない。
橋爪大三郎氏の論を要約
『げんきな日本論』より

日本の土器は極めて古いことが知られています。世界史的にみてもトップクラスに古い。この土器は農業とワンセットではありません。土器は定住とワンセットであり「定住+狩猟採集」が縄文時代を通じて極めて長期間続いたのが(そして、それが可能な自然環境にあったのが)日本の特色という主旨です。

人類史の中の定住革命.jpg
これはその通りですが、ここで問題は「世界史的には、農業が始まってから定住が始まるのが普通」としているところです。この認識は橋爪氏のみならず一般的なものでしょう。定住と農業はワンセットであり、それが人類史における革命だった、そこから "分業" や "階級" や "文化" や "都市" や "国家" が生まれた、つまり文明が生まれたというのが、我々が世界史で習う話だと思います。

しかし、そうではないというが西田氏の『人類史のなかの定住革命』で展開されている論です。人類史においては定住生活がまずあり、農業は定住に付帯して発達したものである。定住こそが人類史における(最初の)革命だった、というのが西田氏の論です。この論は人類史についてのみならず、人間とは何かについて深く考えさせられるので、以下にその内容を紹介します。以下の「本書」は『人類史のなかの定住革命』のことです。


遊動生活で進化した人類


"定住生活"(ないしは定住)の反対の言葉は "遊動生活"(遊動)です。本書ではまず、遊動生活がヒトの本来の姿だったことが述べられています。第1章の冒頭の文章です。


サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活をしている。そして人類もまた、出現してからの数百万年を、遊動生活者として生きてきた。遊動生活の伝統は、人類が人類となるはるか以前から、実に数千万年の歴史を持っていることになる。

人類は、出現の初期の段階で二足歩行を始めるとともに、ヒト以前からの伝統であった樹上生活を捨てた。人類を特徴づけている道具の使用や狩猟採集経済、大脳の大型化、言語の使用などは、すべて直立二足歩行の出現に伴って派生した一連の進化史的出来事と考えられている。そして人類は、今からおよそ1万年前頃、人類以前からの伝統であった遊動生活を捨てて定住生活を始めた。

西田正規まさき
『人類史のなかの定住革命』
(講談社学術文庫 2007)

遊動生活とは、互いに認知している数十人の集団が、集団に固有な一定の地域(遊動域)を、泊まり場(=キャンプ)と次々と変え、狩猟採集で食料を得るというライフスタイルを言います。集団はその中に小集団を作ることがありますが、小集団の離合集散は自由であり、またメンバーが集団を離れて別の集団に移ることも自由です。

アフリカの大地溝地帯にいた初期人類が二足歩行を始めたのが約500万年前だとすると(もっと古いという説もある)、1万年前に定住生活をはじめるまでの500万年の間、ヒトは遊動生活の中で進化してきたわけです。この間、道具の利用、道具を使った狩猟、火の使用、言語の使用、石器の高度化、撚糸よりいとと針と布の発明など、さまざまな進化がありましたが、これらのすべては遊動生活の中で培われたものです。

従来、定住生活を支える経済基盤として食料生産(農業)が重視されてきました。その背景には、遊動生活者が遊動するのは定住生活の維持に十分な経済基盤がなかったからという見方が隠されています。しかし本書は、遊動生活者は "定住したくても定住できなかった" というのは思いこみに過ぎないとしています。


人類は、長く続いた遊動生活のなかで、ヒト以前の遠い祖先からホモ・サピエンスまで進化してきたのである。とすれば、この間に人類が獲得してきた肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適したものであったと予想することもできる。

そのような人類が遊動生活の伝統を捨てて定住することになったのである。とすれば、定住生活は、むしろ遊動生活を維持することが破綻した結果として出現したのだ、という視点が成立する。この視点に立てば、定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した、革命的な出来事であったと評価しなければならないだろう。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

ここで引用した部分が『人類史のなかの定住革命』の核心の部分です。ここで述べられている視点に立って人類の歴史を眺めてみると、新たに見えてくるものが多数ある。その "見えてくるもの" を、西田氏の縄文時代の研究と世界の人類学者の調査データを駆使して展開したのが本書です。



そもそもなぜ遊動するのか、遊動の理由は何かと問うことが重要です。世界には現在も遊動生活で狩猟採集を行っている人たちがいます。No.221「なぜ痩せられないのか」でとりあげたアフリカ、北タンザニアのハッザ族がそうでした。男たちはキリンやヒヒを狩り、女たちがイモを掘る。これが彼らの「経済基盤」になっています。アフリカではブッシュマン族やピグミー族もそうで、また東南アジアや南アメリカにも遊動生活者がいます。本書ではこれらの遊動生活者の研究データを総合し、「遊動する理由」を次のようにまとめています。

 遊動することの機能や動機 

 ◆安全性・快適性の維持
風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため
  ゴミや排泄物の蓄積からのがれるため

 ◆経済的側面
食料、水、原材料を得るため
交易をするため
共同狩猟のため

 ◆社会的側面
キャンプ構成員間の不和の解消
他の集団との緊張から逃れるため
儀礼、行事を行うため
情報の交換

 ◆生理的側面
肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。

 ◆観念的側面
死、あるいは死体からの逃避。
災いからの逃避。

普通、遊動生活=狩猟採集と言われるように、食料の確保が遊動の理由と考えれています。狩猟であたりの動物が減ったり、キャンプ周辺のイモを掘り尽くしたら他の地域に移動する。それを順々にやると遊動生活になります。もちろん狩猟採集による食料確保は重要ですが、遊動する理由はそれだけではありません。遊動生活者の研究からわかることは、遊動の理由は極めて多岐に渡っていることです。


こうしてみると、遊動生活において移動することのはたしている機能は、生活のすべてに深く関わっていることが明らかである。そうであるなら、当然のこととして、遊動生活者が定住するとなれば、遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たすことができる、新たな手法をもたなくてはならないのである。定住生活が出現するためには、それらの条件がそろっていなくてはならない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

遊動生活の理由を狩猟採集による食料確保のためと考えてしまうと、定住による食料生産(=農業)ができなかったから遊動したのだ、となります。しかし遊動するのは食料確保のためだけではないのです。この視点が本書のまず大切なポイントです。


定住生活の環境要因


「定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した革命的な出来事」とする本書の立場からすると、定住を促した何らかの要因あると予想できます。それは氷河期の終了にともなう中緯度地域の環境変化でした。

最終の氷河期は、約7万年前に始まったヴュルム氷河期です。氷河期における中緯度地域は寒帯ないしは亜寒帯であり、草原が広がり、木々もまばらな疎林の状態でした。しかしヴュルム氷河期も1万5000年前あたりから終わりを告げます。途中に "寒の戻り" がありましたが、1万年前になると地球はすっかり温暖化し、中緯度地域は現在のような温帯になりました。この温暖化に伴って中緯度地域には森林が広がってきて、これが人類の食料確保に大きな影響を与えました。定住の考古学的証拠がみつかるのは温暖化に向かう時期です。


氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄ゆうてい類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想されている。

しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。草原であれば、数キロメートルもはなれた獣を発見することもできるが、森の中では100メートル先の獣を見ることさえできない。しかもこの森に棲む獣は、アカシカやイノシシなど、氷河期の大型獣からすればいずれも小さな獣である。発見がむずかしいばかりか、障害物の多い森の中では、それまでの開けた環境では効果的であった槍を投げることもできず、たとえ獲物を倒しても肉は少ないのである。

中緯度地域における温帯森林環境の拡大は、旧石器時代における大型獣の狩猟に重点を置いた生活に大きな打撃を与えたに違いない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

中緯度地域が森林化することによって狩猟が不調になると、魚類資源や植物性食料への依存度が深まることになります。その内容が以下です。


魚類資源の利用と定住化


まず、野生動物にかわる蛋白源としての魚類が重要になります。以前の旧石器時代でもヤスやモリは使われていましたが、これらは大量のサケが川に遡上するような季節でしか効率的な漁具ではありません。

これに対して新たに出現したのはヤナ(梁)、ウケ(筌)、魚網などの定置漁具、ないしは定置性の強い漁具です。ヤナは、木や竹での子状に編んだ台を川や川の誘導路に設置し、上流から(ないしは下流から)泳いできた魚が簀の子にかかるのを待つ漁具です。ウケは、木や竹で編んだカゴを作り、魚の性質を利用して入り口から入った魚を出られなくして漁をするもので、川や池、湖、浅瀬の海に沈めて使われました。ヤスやモリで魚を突くのは大型の魚にしか向きませんが、定置漁具は小さな魚に対しても有効です。こういった定置漁具の発明が定住化を促進しました。これらの定置漁具の有効性を、本書では次のようにまとめています。

定置漁具の制作には繊維や木材を加工する高度な技術が必要であり、多くの時間と労力が必要である。

魚類資源は、陸上で主な狩猟対象となる動物と比較して単位面積あたりの生産量がはるかに大きく、しかも高緯度地域以外では年間を通じた漁獲が期待できる。

陸上動物の狩りや魚類の刺突漁は、獲物を探し、追跡し、接近して倒し、しかもそれを持ち帰らなくてはならない。こに比べて定置漁具は魚類の行動を利用した自動装置であり、必要な労力がはるかに少ない。多くの場合、その活動は単純な作業の反復で構成され、高度な熟練や体力のない女性や子ども、老人であっても行うことができる。

上の単位面積あたりの生産量のところですが、その例が本書にあります。現在の日本の湖における漁獲量は、琵琶湖で14.3トン/km2/年、中海(島根県)で37トン/km2/年です。一方、シカの生存量は700kg/km2程度と推定され、資源が枯渇しない程度に捕獲できるのは年間に20%程度とされているので、140kg/km2/年となります。縄文時代に狩られたシカ、イノシシ、サル、クマなどを合わせても数100kg/km2/年です。これと比較すると漁業資源は数10倍の量となります。漁撈は、漁具の制作に多くの労力を投下しても十分見合う漁獲が得られるのです。


ナッツ類の利用と定住化


植物性食料への依存度が深まったとき、広く利用されたのが「ナッツ類」です。ここで言うナッツとは食用になる木の実全般を言います。ナッツには、"油性ナッツ" と "デンプン質ナッツ" があります。

油性ナッツは、ハシバミ(実はヘーゼルナッツ)、ピーナッツ、アーモンド、クルミ、ピスタチオ、マツの実などで、カロリー値が高く、加熱調理をしなくてもそのままで食べられます。これらは氷河期から中緯度地域にあったものです。

一方、デンプン質ナッツは温帯森林の広がりに伴って増加したもので、クリ、各種のドングリ類、ヒシの実(水草であるヒシの実)、トチの実などです。食べるには加熱調理するか、ないしは粉にする必要があります。ただし油性ナッツより大量に食べられる。

これらナッツ類の特徴は、中緯度地域においては収穫の時期が限られることです(主に秋)。従って1年を通してナッツ類を食料にしようとすると食料保存の必要性がでてきます。特に冬は食料の採集ができないので越冬食料の保存が必須です。また漁撈も、川を遡上する魚に依存すると、それは季節性があるので穫った魚を保存する必要があります。こういった「季節性のある環境での食料保存」が定住を促した要因になりました。

また、温暖期の遺跡からはデンプン質ナッツの大量調理を示す遺物である土器や石皿(臼として使う)、磨石が出土します。これらの携帯できない道具、あるいは携帯に不便な道具も定住化を促進した要因です。なお、石器による時代区分から言うと、この時期は新石器時代の始まり(約1万年前)と一致します。



以上の、定置漁具の使用、食料保存の必要性、土器などの携帯できない道具の使用が、遊動生活から定住生活に向かった理由になりました。

定住イコール農業ではなく、農業は定住の結果として派生したものというのが本書の立場です。その農業が始まった時期は地域によって違います。西アジアが最も早く、中国やヨーロッパが続きました。日本列島では定住・狩猟採集生活の縄文時代が約8000年続き、弥生時代になって農業が始まりました。以上を概観した図が次です。

中緯度森林定住民の分布.jpg
中緯度森林定住民の分布

図にある後氷期とは、氷河期が終わって現在まで続く期間のことである。農耕が普及して社会が大型化する時期は、地域によって差異がある。農耕はまず西アジアで始まり、中国・ヨーロッパ・インドから日本・シベリア・北米東海岸と進んだ。北海道という記述があるが、北海道で非農耕社会が近代まで続いたことを言っている。
「人類史の中の定住革命」より


定住が文化を産んだ


「定住化の過程は、人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した革命的な出来事」とするのが本書の立場ですが、では具体的にどのような "定住生活に向けた再編成" が必要だったのでしょうか。その再編成では、上に述べた「遊動することの機能や動機」を別の形で実現しなければなりません。本書ではそれが6点にわけて書かれています。

 環境汚染の防止 


遊動生活をしている人類、霊長類は、食べ物の皮や残りカス、排泄物のゆくえについてほとんど注意を払わない。遊動生活の大きな利点は、あらゆる種類の環境汚染をキャンプの移動によって消去できることである。

よく言われるように、移動することは、歩くことのできない病弱者にとっては困難なことであり、生存のチャンスを減少されせることでもあるだろう。しかし、生態学的な視点に立って言えば、病弱個体が存在することは環境汚染の明らかな徴候と見ることもでき、その個体を捨て去ることで、健康で活動的な集団を維持することにもなる。病弱者を見捨てることが、たとえどれほど酷であったとしても、人類もまた生態学的な原理の範囲のなかでしか生存しえないことは認めなければならない。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

定住するとゴミや排泄物をどうするかが問題になります。またノミ、ダニなどの寄生虫や病原菌の増加も避けられず、定住地を清潔に保つことが必須になります。


日常の生活でもっとも大きな問題は、ゴミや排泄物の蓄積による環境汚染である。定住生活者はこれを、清掃したりゴミ捨て場や便所を設置するなどして防がなくてはならないのである。しかし、数千万年の進化史を遊動生活者として生きてきた人類にとって、このような行動を身につけることは決して容易なことではない。我々が幼児に対して、まず排泄のコントロールを、そしてゴミの処理について、数年にもわたってしつこく訓練しなければならないのはそのためである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

人間だけではありません。清潔と排泄物のコントロールは、定住する動物ずべてが備えていなければならない行動様式です。巣を作る動物はたくさんいますが、常に巣の中を清潔に掃除し、また巣の外の一定の場所で排泄する行動を本能的にしています。イヌやネコに排泄をしつけるのが容易なのも、本来、巣の中で成長する動物だからです。一方、ヒトは「数千万年の進化史を遊動生活者として生きてきた」ので簡単ではないのです。定住によってゴミの処理が変わったことが縄文時代の遺跡に研究から推測できます。


縄文時代の遺跡には、火災によって放棄された住居跡が発掘されることがあるが、そのような住居の床には、それまで使用されていたと見られる土器や石器はあるものの、ゴミが散乱していることはなく、割れた土器や石屑、食料のカスなどは、住居の外にまとめて捨てられているのが普通である。

これに対して、縄文時代以前の旧石器時代の遺跡では、キャンプの場所であったと思われるたき火の周囲に、石屑や獣骨が散乱した状態で出土することが多く、捨てられている石屑の量もそれほど多くない。彼らは、こまめに掃除する人ではなかったし、キャンプ地の環境が悪化すれば、それを処分するのに労力をかけるよりも、むしろ移動してしまう人びとだったと解釈できるのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

 住居と木材の加工 


定住するには、年間を通じての気候変化に耐える耐久性のある住居が必要である。遊動生活者の住居は、数時間の作業によって作れる簡単なものであるが、定住者は、少なくとも数日から数十日もの労力をかけて家屋を作る。

耐久性のある屋根材は重く、それを支えるためには太い柱を立てなくてはならない。定住生活者が出現してきた新石器時代を代表する磨製石斧せきふは、こういった木材加工技術の存在を象徴的に示すものである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

磨製石斧せきふは住居を作るためだけでなく、燃料=薪をつくるため木の伐採に使われました。遊動生活では、あたりの枯れ木を拾い集めれば薪になります。しかし定住生活はそれでは成り立たず、定住地周辺の樹木を伐採する必要があります。磨製石斧はそれを効率的に行えるのでした。

 経済的条件 

住居と環境維持の他に、定住生活では水、食料、エネルギー源(薪)の調達が必要です。


定住生活の維持には、集落の近くに年中使える水場があり、必要な薪が採集でき、そして、そう遠くない範囲のなかで必要な食料のほとんどが調達できなくてはならないのである。その範囲は、資源の密度、獲得の技術、人の運搬能力や移動能力にかかわることである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

現代のアフリカの狩猟採集民の研究から、彼らの1日の行動範囲はいくら広くてもキャンプから10km以内とされています。定住を始めた人類も、この範囲内ですべての水や食料を調達する必要があったはずです。先にあげた定置漁具による漁撈やナッツ類の利用はそれを可能にするものでした。本書には定住に伴って人間と植物の関係が変化し、植物が定住地周辺で次第に "栽培化" していくことが、縄文時代の遺跡の研究から詳述されているのですが、それは割愛します。

 社会的緊張の解消 

いままでの「環境汚染の防止」「住居と木材加工」「経済的条件」は、定住した人間が生きていくための生理的条件からくる要請でした。しかし以降は、人間のメンタルな面、精神活動における「定住の条件」です。このあたりが本書の主張の大きなポイントでしょう。


定住社会にあっては、集落構成員の間に不和や不満が生じたとしても、当事者は簡単に村を出ることができず、それがさらに蓄積する可能性が強い。したがって、定住社会は、不和が激しい争いになることを防ぐためのいっそう効果的な手法を持たなくてはならない。このような要請は、権利や義務についての規定を発達させるであろうし、また、当事者に和解の条件を提示して納得させる拘束力、すなわち、なんらかの権威の体系を育む培地となるだろう。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

 死者との共存、災いとの共存 


死、あるいは死体が人に恐怖感をもたらすとしても、定住者はそれを村において逃げることもできない。したがって定住者は、死体あるいは死者ととの緊密な地縁的関係を持たざるを得ないのである。多くの定住民が採用しているその一般的な形式は、死者が住む領域として、村の近くに墓地を割り当て、死者と生者が住み分け的に共存を図ることである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

死者を葬るということは遊動生活でも行われていました。最も古くはネアンデルタール人(約40万年前~2万数千年前)が埋葬をしたことが確認されています。しかし遊動民と定住民では、死者と生者の関係がおのずと違ってきます。


消滅する死体とは別に、死者の霊が死体から離れて他の世界に飛び去るという観念が多くの民族に共有されている。そしてしばしば、死者霊の他界への飛翔を全うさせるために、多大な労力をかけた複雑な儀式がおこなわれる。このような観念的な操作も、そもそも死者から遠く逃れることのできる遊動民の社会にあっては、それを高度に複雑化させる動機を持たないと考えてよいだろう。そして定住民は、そのような観念操作を向ける目標として、墓標を立てたり墓地を囲うなどして、ことさらその場所の特異性を強調するのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

死以外にも、病気、怪我、事故など、人間にとっての "災い" は多く、それらは恐れの対象となります。遊動民であれば "災い" が起こった場所には近づかないという生活様式が可能です。しかし定住民の "災い" は定住地で起こるのであり、災いから逃げることができません。従って災いの原因を神や精霊に求め、災いの原因となった邪悪な力を定住地から追放しようとしたり、あるいは神や精霊の怒りをしずめようとします。これによって定住地が "浄化" される。このような手続きも定住化の帰結として発達するのです。本書の冒頭は次のように始まっています。

  不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく、この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。

定住生活は「不快なもの」や「危険なもの」との共存が前提です。「高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略」とは異質な生活に入るのが定住の意味です。

 心理的負荷の供給 

この「心理的負荷の供給」という項は「定住革命論」の中でも大変重要なものでしょう。つまり、狩猟採集の遊動民はキャンプを移すたびに見える風景が変化するわけです。新たな地域において食用の植物はどこにあるか、獲物はどこにいるか、薪はあるか、危険な獣はいないかなど、感覚を研ぎ澄まし、探索します。このような条件においては人間の脳の力が最大限に発揮されます。人類は数百万年前から遊動民として生活し、その中で進化し、脳を発達させてきました。しかし定住するとこの条件が一変します。


定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激し、探索能力を発揮される力を次第に失わせることになる。定住者は、行き場をなくした彼の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなくてはならない

そのような欲求が、どんな場面に向けられるのか予見することはきないにしても、定住以後の人類史において、高度な工芸技術や複雑な政治経済システム、込み入った儀礼や複雑な宗教体系、芸能など、過剰な人の心理能力を吸収するさまざまな装置や場面が、それまでの人類の歴史とは異質な速度で拡大してきたことがある。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

定住者は物理空間を移動するのではなく、心理的空間を拡大し、その中を移動することによって感覚や脳を活性化させ、本来持っている情報処理能力を働かせてきました。それが人類史に異質な展開をもたらしました。それは縄文時代にも顕著です。


縄文時代の定住者は、生計を維持するための必要性を超えたさまざまな遺物や遺構を残している。装身具や土偶、土版、石棒、漆を塗った土器や木器、過剰な文様の土器、環状列石など、いくらでもその例を見ることができるであろう。それは石器や石屑、焼け石など、生活に必要なごく実用的な遺物の多い旧石器時代の遺跡のあり方とは、きわだった対照をなしているのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

「生計を維持するための必要性を超えたさまざまな遺物」から一つだけ土版どばん取り上げると、土版とは楕円形、ないしは四角の土製の板で、何らかの呪術的目的のものです。秋田県鹿角かづの市の「大湯 環状列石」から出土した土版は、大湯ストーンサークル館に展示してあります。明らかに人体を表し、かつ数字も表現しています。

大湯環状列石から出土した土版.jpg
大湯 環状列石から出土した土版

大湯ストーンサークル館に展示さている土版の表(左)と裏(右)。1個~6個の穴で人体を表している。裏側の左右3つずつ穴は耳だと考えられている。
(site : jomon-japan.jp)



以上が「人間の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した」内容です。本書では以上を次のようにまとめています。


定住者は、家や集落の清掃に気を配り、丈夫な家を建て、ごく限られた行動圏内で活動し、社会的な規則や権威を発達させ、呪術的世界を拡大させるといった傾向を持つことになる。このように考えてくると、従来、ともすれば農耕社会の特質と見なされてきた多くの事柄が、実は農耕社会というよりも、定住社会の特質としてより深く理解できるのである。

西田正規
『人類史のなかの定住革命』

本書では「狩猟採集・定住社会」であった縄文時代の詳しい分析が展開されています。また定住以外の話題もあって、たとえば動物を「口型」と「手型」に分類し、人間を「手型動物の頂点」ととらえることによって人類の起源が考察されています。さらに言語の起源、家族の起源、分配の起源に関する考察もあります。このあたりは割愛したいと思います。


遊動生活で進化した人類


これ以降は本書の感想です。

現代は定住社会であり(というより1万年前からそうであり)我々はそれを何の疑いもなく受け入れています。遊動生活というのは、ふつう考えられません。"住所不定" は "犯罪者" とほぼ同一の意味で使われているほどです。世界には現代でも遊動生活を送っている人たちがいて、たとえば国境をまたいで転々としている旅芸人の集団や牧畜民がいたりします。そういう人たちは現代社会としては "困った存在" で、政府は定住させようと躍起になっている。

しかし人間は遊動生活で進化してきたという西田氏の指摘は、あたりまえのことながら改めて言われてみると斬新に感じます。人間の知恵の発揮や工夫、探求などの脳の力は遊動生活で培われた。

脳の働きだけではなく、体の構造や機能もそうです。ちょっと余談になりますが、遊動生活で連想したのが空間把握能力です。No.184「脳の中のGPS」では、脳に備わっている「自己位置把握能力」のことを書きました。また No.50「絶対方位言語と里山」ではオーストラリア原住民の "デット・リコニング能力"(=遠く離れても家の位置が分かる能力)のことを書きました。もちろん、こういった空間把握能力は定住生活でも必要ですが、遊動生活においてより必須のものでしょう。

そういう人間が定住してしまった。定住したから逆に「精神世界での遊動、心理的な遊動」を求めるようになったという指摘や、定住したからこそ権威や宗教(呪術)やルールが発達したというのは、なるほどと思いました。特に、定住生活を水・食料・薪・住居といった物理的・経済的側面だけから考えるのではなく、人の精神活動にまで広げてとらえているのが説得的です。

我々は、あくまで漠然とですが "遊動生活" へのあこがれがあるのだと思います。読書、芸術、映画などの文化装置が提供する「精神世界・心理世界での遊動」だけではもの足らず、物理的でリアルな遊動を求める。西田氏が指摘しているように、遊動・狩猟採集生活では常に神経を研ぎ澄ませているわけです。刺激も多い。我々はそういった意味での "脳の活性化" にあこがれる。現代人にとっての「旅行」の意味は(ないしは、旅行が現代の大産業になっている意味は)そこにあるのかと思いました。

ちなみに本書を読んで思い出したのが、動物園のサル山のニホンザル(あるいは自然動物公園のニホンザル)です。野生のニホンザルは遊動生活ですが、サル山のニホンザルは人間が定住生活をいています。そういう定住生活は「不和の当事者に和解の条件を提示して納得させる拘束力、すなわち、なんらかの権威の体系を育む」と、西田氏は書いています。定住ニホンザルの場合、この「なんらかの権威の体系」とは明らかに "ボスザル" ですね。ボスという存在は定住生活のニホンザル特有のものと言われています。まさに西田理論を補強しているようだと思いました。


西欧中心史観から離れる


我々は歴史の教科書で「農耕=定住=文明」のように学ぶのですが、これはやはり西欧中心史観でしょう。本書を読んでそう思いました。どの民族にとってもそうですが「歴史」は何らかのストーリーでもって自分たちのルーツから現在までを構成したものです。西欧からすると自分たちのルーツをメソポタミア文明に置くのが分かりやすい。つまり、中東における農耕(小麦栽培)の開始 → メソポタミア文明の発生 → エジプト → ギリシャ → ローマ → 西欧全体へと文明が伝播したのが歴史のメイン・ストリームであり、その他としてインドも中国もアラビアもあった、みたいな物語です。

しかし本書にあるように、中東(いわゆる肥沃な三日月地帯)は定住と農耕がきわめて近接して発生した地域で、それは世界的にみると必ずしも一般的ではありません。日本列島では「定住・狩猟採集」が縄文時代の約8000年間続いたわけです。その間に豊かな文化が生まれた。西欧中心史観からすると「定住・狩猟採集」は何となく "遅れている" ように(暗黙に)感じてしまうのですが、決してそんなことはないわけです。

"文化" は英語で culture ですが、これは cultivate(耕す)と同じ語根の言葉だということは良く知られています。これを根拠に「農耕が文化」と、我々は刷り込まれてきたわけです。しかし「耕す」という言葉に「文化」の意味を持たせてしまったのはあくまで西欧なのですね。農耕が文化をもたらしたというのは "西欧の受け売り" なのでしょう。

ここでよく考えてみると、英語には habit(習慣)という言葉がありました。habit はラテン語の「保ち続ける」の意味から派生していますが、同じ語根の inhabit は「住む」という意味です。また habitable は「居住可能な」という意味です(No.204「プロキシマb の発見とスターショット計画」参照)。つまり英語は、

  定住 → 習慣
  農業 → 文化

という言葉の構造であり、これは大変に暗示的だと思います。習慣(habit)とは「後天的に身につけた、繰り返される行動様式」のことで、人間のライフスタイルでは文化よりもっと根源的・基本的なものです。「農業」以前の根源的なものとして「定住」がある ・・・・・・。そういう示唆のように思いました。


脳は生産性を追い求める


『人類史のなかの定住革命』で書かれている食料獲得の変遷を巨視的に眺めてみると、人類の歴史は「食料獲得の生産性を追求してきた歴史」だと言えるでしょう。つまり「できるだけ少ない労力とコストで、できるだけ多くの食料やカロリーを得ること = 生産性」を人類は追求してきたわけです。

狩猟採集生活において陸上動物を狩るとすると、それは大型動物の方が効率的です。ウサギやネズミを狩るより、シカ、ウマ、ウシ、マンモスを狩る方が生産性が高い。人類は狩猟道具を工夫し、チームワークで大型動物を狩ってきました。崖にウマの群を追い込んで突き落とし、一挙に狩るようなこともあった。

大型動物が絶滅してしまったり気候変動でいなくなると、漁撈に向かう。本書に書いてあるように魚類の方が動物より生息密度が圧倒的に高いわけです。しかも定置漁具を発明・工夫して生産性をあげる。現代まで産業として続いている狩猟採集は漁業だけですが、なぜ続くかのというと、器具さえあれば現代でも成り立つほど生産性が高いからです。

植物性の食料では、定住生活においてデンプン質ナッツの利用が始まります。そのままでは食べられないドングリやクリの実を大量に集め、土器で加熱し、あるいは石皿・臼ですりつぶして利用する。デンプン質ナッツは油性ナッツと比べると大量に食べられるので(本書の指摘)、コスト(採取の労力)・パフォーマンス(得られるカロリー)が高いのですね。

その次に起こったのが小麦(イネ科穀物)の利用=農業です。小麦はナッツとは違って1年性の草本であり、種を蒔けばその年のうちに収穫できます。本書にも書いてありますが、クリやクルミは他家受粉するので品種を固定するのが困難です。しかし小麦(や稲)は自家受粉です。突然変異体を見つければ、それを選別して育種することで品種改良ができる。現在の小麦や稲は実が熟しても飛び散らないという、植物の本来の姿とはかけ離れたものですが、これは人間が収穫しやすいように選別したからそうなるのですね。

いったん高生産性が実現すると、それが前提の生活や社会になり、後には戻れず、より高い生産性を追求し続けるようになります。この "追求" の影の部分として、自然環境の破壊がありました。氷河時代にいた数々の大型動物は人類の狩りで絶滅しました(No.127「捕食者なき世界(2)」参照)。農業が文明の始まりとされているのですが、紀元前数千年の古くから文明が発達した地域は、現在ほとんどが回復不可能な荒野です。その環境破壊は現代も続いています。人間の脳は飽くことなく生産性を追求してきた。そんな感じがします。



なぜ人類は定住化に向かったのか。それは環境の変化による狩猟の不調という要因があるのでしょうが、より高い生産性を求めたからとも考えられると思いました。それは人類の探求心と工夫のたまものであり、その脳の働きは遊動生活で培われた。そいういう見方ができると思います。




nice!(1) 

No.231 - 消えたベラスケス(2) [アート]

前回から続く)

前回に引き続き、ローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)の紹介です。


フランシスコ・レスカーノ


この絵は No.19「ベラスケスの怖い絵」で、スペイン宮廷にいた他の低身長症の人たちの絵とともに引用しました。

Francisco Lezcano.jpg
フランシスコ・レスカーノ
(1636-38:37-39歳)
107cm × 83cm
プラド美術館


岩に腰かけたその小柄な男の絵を見るとき、私たちは視線を上に向けなければならない。絵がその人物を持ち上げている。宮廷という陰鬱な牢獄から遠く離れ、スペインの山岳地帯にいる彼は、ベラスケスの絵の中で太陽の光に包まれている。

彼の名はフランシスコ・レスカーノといい、バルタサール・カルロス王子が4、5歳のときに、遊び相手として宮廷に雇われたと伝えられる。ともに過ごした年月で、小人であるレスカーノと幼い王子の背丈がちょうど同じになった時期があったことだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105

ボストン美術館にベラスケスが描いた『バルタサール・カルロス王子』の肖像がありますが(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を掲載)、その左横に描かれているのがフランシスコ・レスカーノです(プラド美術館の公式カタログによる)。王子とほぼ同じの背丈であり、額が出っぱったレスカーノの顔の特徴がよくわかります。


レスカーノは、やさしい性格で誰からも好かれていた。深緑色の服を着た若者が彼だと言われているのは、その絵から、まさしく夢見るようなやさしさが感じられるからだ。しなやかな髪、半開きの口、画家をよく見ようと少し上に向けた顔。カンヴァスからは、心身の温もりとともに、二人の間の共感エンパシーが伝わってくる。小人の表情はやさしく、ベラスケスの筆致もまたやさしい。この肖像画は慈愛に満ちている。

レスカーノの小さな手には、何かを象徴するように、ごく小さな本が握られている。もしかすると、それはひと組のトランプかもしれない。トランプは怠惰のシンボルとされているが、レスカーノは怠けているわけではなく、気持ちのいい野外で岩にもたれ、くつろいでいる。小さな体にはやや危険な体勢かもしれないが、彼は楽々とこなし、一方の足をさりげなく岩にかけて、もう一方の足を私たちのほうに伸ばしている。

彼は自由だ。今日は休みの日で、王子の遊び相手や宮廷を楽しませる仕事から解放されている。深緑色の服やまわりの山々とは対照的に彼の顔は明るく、陽光を浴びてうっすらと微笑むその顔に絵全体の焦点が置かれている。ところが目は、片方はまぶたがかかり、もう片方には影が落ち、微妙に覆い隠されている。穏やかな目はじっと何かを ── ベラススケスを見つめ、ベラスケスもまた、友を静かに見つめ返す。彼のよどみない丁寧な筆運びには、レスカーノに対する最上級の敬意があらわれている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105-106

美術史家の中には彼を「知恵遅れ」と考えた人もいたようです。しかし、短い手足、突出した額や鼻は小人症の特徴であり、かつ、低身長症が知性に影響を及ぼすという医学的根拠はありません。ローラ・カミングが強調しているのは、スペインの宮廷にいた小人たちは、知性に欠けていたからではなく、知性に富んでいたからこそ雇われていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(スペインの作家、エリアシル・カッシーノ作)は、『ラス・メニーナス』の右端に登場するニコラス・ペルトゥサト少年を主人公にしていましたが、イタリアのミラノ近郊から連れてこられた彼が極めて知性的に描かれていたのが思い出されます。

上の引用はフランシスコ・レスカーノの絵からカミングが受ける印象を綴っているのですが、いい文章だと思います。彼女は次のように結論づけていますが、これには全く同感です。


数あるベラスケス作品の中でもとりわけ小人の絵から感じ取れるもの、それはじっと注がれる静かな視線 ── 二人のあいだで申し合わせたように交わされる、お互いへの理解だ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.107


ドン・ディエゴ・デ・アセード


次の絵は、No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」で引用しました。小説「ベラスケスの十字の謎」ではディエゴ・デ・アセードが重要な役割で登場しました。

Don Diego de Acedo.jpg
ドン・ディエゴ・デ・アセード
(1636-38:37-39歳)
107cm × 82cm
プラド美術館


ドン・ディエゴ・デ・アセードは博学な廷臣で、王家の印章を管理し、王の外交にも随行した。レスカーノと同様、彼の肖像も野外で描かれた。景色は荒涼としている。絵の具が色褪せたせいもあるだろうが、重たい灰色の空の下で雪を戴く山々のシーンでもあり、ディエゴが持つ本もまた、雪が積もっているかのように、白い大きな塊として暗闇の中に浮かび上がる。

大きな本に差し入れた小さな手で、彼はずっしりと重いページを支えている。そのポーズひとつにも、ベラスケスの最大限の敬意が込められている。ディエゴはこの本を支えるように、古参の廷臣として重責を担い、彼の指は仕事をこなすと同時に、その仕事によってうまく隠されている。体が小さいからといって、廷臣として出世できないわけではない。この絵には彼の如才なさがよくあらわれている。

いきな帽子をかぶっているが、知的な顔には苦悩が見られる。内に秘めた思いやにじみ出るわずかな感情をこれほど巧みに伝える画家が、ベラスケスをおいてほかにいただろうか?

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.113-114

「古参の廷臣として重責を担い」とカミングが書いているように、ディエゴは宮廷の重要人物の一人だったようです。そもそも "ドン" というのはスペイン語で男性の貴人につける尊称です。


ベラスケスの絵では、体の大きさに関係なく誰もが平等だ。彼は小さい人を大きく、大きい人を小さく描き、どちらにも肩入れしない。王族の全身像があるように、小人の全身像もあり、ベラスケスはどちらにもびはしない。手足が短く頭が大きい小人の絵も、ぼうっと立つ顎の長いフェリペや王の弟の絵と同様にうやうやしく、うっとりと目を輝かせている。ベラスケスは王と親交が深かったが、小人たちとも友情をはぐくんだようだ。描かれた彼らの顔からは、その結びつきの深さが感じられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115

No.161「プラド美術館の怖い絵」で、ヴァン・ダイクがチャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソンを描いた絵を引用しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でも引用)。その絵のことが本書に出てきて、ベラスケスと対比されています。


小人は、ものめずらしく衝撃的な見せ物として、同時代のほかの画家の絵にも登場する。ヴァン・ダイクは、ジェフリー・ハドソンという小人を描いた。ハドソンはチャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリアの慰み者となり、宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸などをさせられていた。

絵の依頼を受けたヴァン・ダイクは、ハドソンの背を高く見せるために小さな犬と並べて描いたが、その後、小柄な王妃の背を高く見せるために、今度はハドソンを犬がわりに使った。

ベラスケスならば、人間をけっしてこんなふうに使いはしない。何かの道具や飾りとして彼の絵に登場する人物はひとりもいない。背が高かろうが低かろうが、彼は人を人として、個性をもつひとりの人間として描く。ベラスケスにとって、異質な人間などひとりもいないのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115


インノケンティウス10世の肖像


1648年、ベラスケスは助手のファン・デ・パレーハを伴い、2度目のイタリア訪問をしました。その時に描いた傑作が残っています。古今東西の肖像画の最高傑作とも言える作品です。

インノケンティウス10世の肖像.jpg
インノケンティウス10世の肖像
(1650:51歳)
140cm × 120cm
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)


インノケンティウスという名は天真爛漫イノセントという意味だが、実際の性格はまったく違ったと伝えられる。この肖像画からまず読み取れるのは、インノケンティウス10世が恐ろしく明敏で、複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家であり、その地位を維持する才にも長けていたことだ。この絵は力強い絵だが、単なる絵の力ではなく、教皇自身がもつ力強さなのだ。描かれた表情 ─── とりわけその瞳を見れば、それがわかる。

ローマでこの絵の前に立った人はよく、刺すような視線を感じる。ともすると心の中まで見透かされそうだ、と言う。これは、展示室のどこを歩いても視線がついてくる、といった月並みな表現ではない。そのまざなしはドリルで穴を穿うがつように鋭く、執拗で、片時も目を離さず見張っているかのようだ。その鋭い眼光が、瞳以外の部分によって迫力を増す。顔を少しこちらに向けた斜めの目線、眉毛の険しい表情、これから会う人物と関わりのある書簡を持つ手、気の短さをにじませる、苛立たしげに握りかけた指。

ベラスケスは非常に軽いタッチで瞳を描いている。黒目の部分にかすかな白い点を打っただけの、信じられないほどあっさりしたタッチなのだが、その目は尽きることのないバイタリティーを秘め、片時も視線をそらさず、見るものをひたと見据える。その強烈なまなざしは、実生活において、教皇としての威光を保つのに役だったのではないだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.207-208

ローラ・カミングはインノケンティウス10世について、この引用以外にも微に入り細に渡って語っています。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野京子さんはこの肖像画について次のように書いていました。


眼には力がある。垂れた瞼を押し上げる右の三白眼。ふたつながら狡猾な光を放ち、人間などはなから信用するものかと語っている。常に計算し、値踏みし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」
(朝日出版社 2007)

美術評論家(ローラ・カミング)とドイツ文学者(中野京子)に共通しているのは、350年以上前のローマ教皇がどういう人物かについて熱く語っていることです。熱く語らざるを得ないのですね。ベラスケスの絵を見てしまった以上 ・・・・・・。1枚の絵だけを頼りに。

カミングの本には、インノケンティウス10世とスペインの意外なかかわりが書かれています。


インノケンティウス10世は、本名をジョバンニ・パンフィーリといい、1626年から3年間、教皇大使としてマドリッドに滞在していた。その間、数多くの教会に足を運び、王宮にも頻繁に訪れた。彼がスペインとのあいだに築いた強力なコネクションは、コンクラーベで自国の候補者を推すフランスの枢機卿団を不安にさせたほどであり、最終的のそのコンクラーベで、彼は教皇に選出されたのである。このようなわけで、画家とモデルは旧知の間柄だったのだ。

肖像画にモデルの人格があらわれるとすれば、この絵には無尽蔵のカリスマ性がにじみ出ていると言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.209

ローマ教皇は "コンクラーベ" において枢機卿たちの互選で決まります。要するにジョバンニ・パンフィーリ枢機卿は、本国イタリアとスペインの枢機卿たちをがっちりと押さえて教皇になったということでしょう。「複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家」(カミング)であり、「政治力でのし上がった人間」(中野京子)というのはその通りだと想像されます。

そしてベラスケスと画家とインノケンティウス10世は旧知の間柄だった。そのことがこの絵の迫真性をいっそう強くしているのだと思います。


ファン・デ・パレーハ


2度目のイタリア滞在でベラスケスは、同行させた助手のファン・デ・パレーハの肖像を描いています。

Juan de Pareja.jpg
ファン・デ・パレーハ
(1650:51歳)
81cm × 69cm
メトロポリタン美術館


二度目の旅で、ベラスケスはファン・デ・パレーハの、みごとな肖像画を描いた。パレーハはムーア人の奴隷で、1630年代からベラスケスに仕え、顔料をすりつぶして粉状にしたり、カンヴァスの用意をしたり、複製画を描いたりと、アトリエで助手をつとめていた。パレーハの肖像画に使われた顔料も、おそらく彼が自分で準備したものだったろう。パレーハ自身も才能のある画家であり、ベラスケスの原画だと間違われるほどみごとな複製画を映画いたこともあったようだ。パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」にも、ベラスケスと同様に優れた画家のひとりとして登場している。

肖像画の中のパレーハは、じつに堂々たる姿を見せている。七つの海、七つの大陸で偉業を果たしたばかりの英雄のような威厳をたたえ、オセローの格好をさせられているのも、なるほどとうなずける。彼は行動の男であり、肖像画のためにじっとしてはいるが、いつでも剣を抜けるとばかりに片手をにかけている。しかし、そう見えるだけで、実際は剣などなく、そこに置いた手も、周囲の布地よりもほんの少し存在感があるにすぎない。申しわけ程度に描かれた指はおおかた省略され、耳にいたっては、ぞんざいに赤い絵の具を置いただけだ。ベラスケスがこうした部分を曖昧にぼかしているのは、視野の周辺部分にあるものは、実際にそんなふうに見えるからだ。この絵の焦点は、顔にある。

パレーハの顔ははっきりして、りりしく、じつに表情豊かだ。そこに弱さを見るものもいるが、それは、無理やり肖像画のモデルをさせられた奴隷、主人に凝視され、あらがう力すらもてずにいる無力な男という発想から来ているのだろう。それとは逆に、冷淡で高慢、かすかに好戦的な気質を見て取る者もいる。多彩なニュアンスをもつこの絵からまず感じ取れるのは、パレーハという男がもつ人間らしい複雑性だ。どこか見覚えのあるようなその顔が、そうした感覚をいっそう深める。遠い昔の人間なのに、現代のニューヨークの街なかで見かけてもおかしくない、私たちのまわりにもいそうな感じがするのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.213-215

カミングはこの絵の表現手法にも感嘆しています。いかにもベルベットらしい毛羽立ちの表現や、生地が擦れて薄くなった部分を絵の具を薄く塗って表現していることなどですが、中でも特に白い襟です。鉛白とグレーが絶妙に配置され、近づいてみると無秩序な筆跡が、これほどまでに襟らしく見えるのはなぜなのか・・・・・・。このような感嘆の言は、本書の随所に出てきます。


フェリペ4世


ベラススケスが描いた肖像画は、フェリペ国王や王の親族、貴族、喜劇役者や道化、小人症の宮廷使用人、奴隷の助手など、身分の上下をを越えて実にさまざまです。ローラ・カミングはこれを "デモクラシー" と表現しています。国王・フェリペ4世の肖像画でさえ、それを感じさせます。

Phillip IV.jpg
フェリペ4世
(1653-56:54-57歳)
69.3cm × 56.5cm
プラド美術館


ベラスケスの絵や思想には、感傷的は部分は少しもない。彼の絵は、悲しみや憐憫の情をかきたてることもなければ、たとえばヴァン・ダイクのように、そのスタイルや華麗され見る者を萎縮させることもない。私たちは、描かれた人物と対等に見つめ合うことができる。これこそが、彼の絵ならではの "デモクラシー" だ。

それは上にも下にも向かう。ベラスケスはときに宮廷内の異端者にもっぱら同情心を示すと言われるが、それが真実でない証拠はいくらでもある。彼にとっては、どんな人間もみな平等なのだ。晩年のフェリペ王の肖像画の、痩せた老ライオンのようなその顔には、王が味わった苦悩のすべてがあらわれている。なんとも言えない悲哀が漂うその顔は、それまでベラスケスが描いたどの絵よりも生気がなく、絵の具も薄くぼやけ、人間ではなく幽霊の顔のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.337

この絵はフェリペ4世(1605年生)が48-51歳ころの作品ということになりますが、とても50歳前後には見えません。スペイン帝国が落日を迎えていた、それが伝わってくるような絵です。


ベラスケスが力点を置くのは、あらゆる人間の尊厳だ。フェリペ4世時代の記録を見れば、そしてまた、彼の女道楽、浪費、思慮に欠ける軍事行動、スペインの富と権力の愚かな無駄遣い、息子の婚約者との結婚、放蕩ほうとう(多くの庶子がいたが、男子はひとりもいなかったと言われる)、優柔不断さ、臆病さ、説得やおだてに乗りやすく、とりわけオリバーレス(引用注:フェリペ4世の寵臣)の思うままに操られてきたことを知れば、彼を軽蔑するのは難しくないだろう。それでもベラスケスは畏怖も嫌悪感も抱かず、むしろそんなフェリペに好奇心をかきたてられるのだった。

フェリぺの肖像画20点以上あり、まるで絵でできたコマ撮りの伝記のようだ。赤く、濡れたような、垂れ下がるほど前に突き出した下唇が目立つ若いころの顔。舌足らずの話し方をしたに違いなく、ピチャピチャという湿った音が聞こえてきそうだ。

そして君主となった中年期の壮麗さは、おそらくゴリーリャ(引用注:皿の意味。襞をつけずにリンネルを糊で皿状にした襟を指す)によって割り引かれてしまった。倹約を物語るその襟は彼に恩恵をもたらさず、疲れ切った顔が皿に載っているように見える。一国の王となって20年、赤みがかったブロンドの髪とあるかなきかの薄い眉は変わらないが、目は落ち窪み、まぶたは重く垂れ下がり、白い下瞼の内側が露出している。ベラスケスの目に、彼は過ちも死をも免れない生身の人間として映る。

1623年の夏の日に描かれた最初の肖像画と同様、今回もまた王の姿は間近にあるが、今の彼は苦悩に疲れ、みずからの罪も悲哀も知ったうえで、まだ前進しつづけている。あたかも自己の欠点を見出すことで、理解を得たいと願っているかのように。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.338

当然のことながらフェリペ4世については本書に多くの記述があるのですが、その最後に著者は次のような、誰もが納得するであろう一言を書いています。


フェリペ4世がその生涯で成し遂げた最大の偉業は、ベラスケスを雇ったことだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.340


ラス・メニーナス


『消えたベラスケス』にある絵の "解説" を紹介する最後は、やはり『ラス・メニーナス』です。実はこの絵のことは『消えたベラスケス』の冒頭に出てきます。20代後半だったローラ・カミングが父親を亡くし、悲しみに沈んでいるなかで訪れたプラド美術館で『ラス・メニーナス』と対面して癒された思いがつづられているのです。その前後から引用します。

Las Meninas.jpg
ラス・メニーナス
(1656:57歳)
318cm × 276cm
プラド美術館


展示室に入り、絵の前に立つ。すると絵の中の人々の目が瞬時に私の姿をとらえ、いっせいに見つめ返してくる。光沢のあるドレスをまとった王女、リボンをつけた二人の侍女、子供のように小柄な小姓、背の高い黒づくめの画家、誰の耳にも届かないつぶきを発する修道女、背後の明るい戸口の浮かび上がる廷臣。全員が私の存在に気づいている。誰がやってくるかわからないサプライズパーティーに招かれた客のように、彼らはその場に集い、わくわくしながら新たな客を待っている。そこへ私があらわれ、部屋へ ─── 現実世界の部屋ではなく彼らの部屋へ ─── 入っていく、なぜかそんな感じがするのだ。場面全体が期待に輝いている。彼らの世界に踏み入った瞬間、自分が彼らにとっての実在となり、彼らもまた自分にとっての実在となる、そんな感覚。プラド美術館で《ラス・メニーナス》の展示室に足を踏み入れた瞬間、真っ先に感じるのがそれなのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.8-9

プラド美術館には一度だけ行ったことがありますが、『ラス・メニーナス』はプラドの "他のどの絵とも違う" という印象を受けました。それどころか、過去に美術館で見たどの絵とも違う感じです。それは一言でいうと "臨場感" です。絵の前に立つと、まさに350年以上前のスペイン宮廷にいるのだという感じになる。おそらく絵の大きさと、等身大に描かれた人物と、奥が深く天井も高い部屋の構図がそう感じさせるのだと思います。上の引用と次の引用は、その "他のどの絵とも違う" 感じが的確に描写されています。


驚いて足を止め、絵に釘付けになり、身じろぎもせずその場に立ち尽くす。するとその瞬間、絵の中でもまた、おとなしい犬を足で軽く突いている小柄な小姓を除く全員が、ぴたりと動きを止める。彼らを囲む空気と、王女のホワイトブロンドの髪に揺れる光以外のすべてが静止するなか、思いやりに満ちたこの絵の中心で、幼い王女が子供らしい純粋な好奇心をみなぎらせ、じっとこちらを見ている。女の小人こびとは胸に手をあてて素直なやさしさを示し、侍女のひとりはひざまずき、もうひとりは膝を折っておじぎをし、ほかの使用人もこちらに視線を注ぎ、黒衣の廷臣までが戸口で足を止め、次の間へ案内しようと待っている。そして、こちらから裏面が見える巨大なカンヴァス、この絵に劣らぬ大作の陰からベラスケス自身も一歩踏みだし、つかのま顔を見せた魔術師のごとく無言で見つめている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

しかしこの絵の真価、そしてベラスケスの真骨頂は次に引用する部分です。"細部と全体が不連続で、それにもかかわらず繋がっている" という不思議さです。


ところが、さらに数歩近づくと、驚くほど真実味にあふれていた絵が揺らぎ出す。王女の艶めく髪は、蜃気楼しんきろうか夏の道路に立ちのぼる陽炎かげろうのように、近づくとふっと消えてしまう。女の小人の顔は判読不可能な筆跡と化し、奥に描かれた人物は至近距離では形をなさず、トレイをもつ侍女の手も、どこまでが手でどこからがトレイなのか、もはや判然としない。絵に近づけば近づくほど本物らしさが消え、どのように像を結んでいたのかさえわからなくなってしまう。それでも、溶解寸前の状態にありながら、すべてがありありと存在感をもち、陽光などは絵の中から展示室まで漂い出てきそうだ。これほど魅惑的なビジョンを生み出す絵がほかにあるだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

見るということは、網膜に映った像を脳で再構成することです。錯視図形を見ればそのことがよくわかる。ベラスケスは、絵を見る人の脳にどういうビジョンが構成されるのか、それを予測して筆をとっているわけです。本書ではないのですが、別の本からマルガリータ王女の部分のクローズアップを引用します。

Las Meninas(部分).jpg
「ラス・メニーナス」の中心にいるマルガリータ王女の拡大画像。王女の顔、ホワイトブロンドの髪、ドレス・飾り、の3つが違うタッチで描き分けられている。ドレスの部分は近づくと本物らしさが消えてしまい、なぐり書きのように見える。
「ベラスケス 生涯と作品」(東京美術 2018)より

この絵には自画像というか、画家・ベラスケスとしての自画像が描かれていますが、それについては次のように語られています。


この自画像を見ても、ベラスケスについて何かがわかるわけではないと言う人がいるとしたら(実際、よくいる)、信じられない話だ。たとえば、パレットに点々を置かれた絵の具を見てほしい。そこには、ずらりと顔を並べた人物のみならず、この絵全体を描くのに必要な色がすべて揃っている。これもまた、すべては彼が生み出したものだという事実を物語っている。

では、ベラスケスは自分の指をどう描いているのだろう。先細の指は、まるで絵筆のようだ。実際の絵筆のほうはどうかと言えば、白い絵の具でさっと引いた一本の線にすぎない。どこから見ても判別不能な傷のようでありながら絵筆以外の何ものでもない。そこにはかすかにジョークの気配さえ感じられる。絵全体に生き生きとした動きを与えた繊細な筆先が、完全に消滅する。

平らな布に筆と絵の具で色をのせ、みごとに三次元を描き出せる不思議。あるいは、静止した絵で動きを、刻々と変化する世界を表現する一方で、その絵自体が流れの中に溶けていく不思議。絵画がもつパラドックスをこれほどはっきりと見せてくれる画家は、あとにも先にもいない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.35

この絵に魅了されたピカソは、絵の構成要素をひとつひとつ分解しながら50点を越える模写の連作を描きました。その連作はバルセロナのピカソ美術館にあります。その中の1枚である『ピアノ』を No.45「ベラスケスの十字の謎」に引用しました。本書の著者のカミングによると、ピカソはそれだけの模写を描いてもこの絵を理解しきれなかったと述懐したそうです。マネの言葉があります。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。ベラスケスは油絵の具という比較的新しい画材を使い、それでできることをすべて尽くした。彼によって、油絵は行き着くところまで行ったのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334

芸術の一つのジャンルが勃興すると、比較的短い期間にそのジャンルの頂点に達してしまい、あとはその変化形が多様に拡散するということがあります。油絵は15世紀のフランドルで確立してからベラスケスまで約200年です。それからすでに350年程度が経過しています。「この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人はこの上さらに絵を描こうとするのだろう」というマネの言葉は、『ラス・メニーナス』と画家・ベラスケスを端的に表していると思いました。


芸術作品が人に与える力の凄さ


以上は著者によるベラスケスの絵の "解説" の一部です。最初に書いたように本書のもう一つの軸は、ジョン・スネアという19世紀の英国人の生涯です。その足跡を著者のローラ・カミングは徹底的に追っています。スネアは店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死にました。なぜそのような人物の生涯を追ったのか。それは、ベラスケスの1枚の絵を "愛し過ぎるほど愛した" スネアの生涯を徹底的に調べることで、著者は自らの "ベラスケス愛" を表現しようとしたと思えます。ベラスケスを称える芸術家・美術愛好家は世の中にいっぱいいるので、そうでもしないと自分の特別な "思い" を伝えられないとでもいうように・・・・・・。そんなつもりは無かったのかもしれませんが、結果としてそうなっています。

初めに紹介した中野さんの書評にあるように、この本はいろいろの意味で「芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力の凄さ」を実感させる本でした。



 補記:グレイティスト・ショーマン 

ジョン・スネアが "ベラスケス作・チャールズ皇太子の肖像" を発見した以降のことは紹介を控えるとしましたが、1点だけ書きたいと思います。スネアはその絵をロンドンのメイフェア地区のオールド・ボンド・ストリートで有料公開しました。そのあたりの本書の記述です。


1847年3月、ジョン・スネアは、オールド・ボンド・ストリート21番地の部屋を借りる。彼はちょうどいい時に、ちょうどいい場所へ、ちょうどいい絵をもたらした。イギリスではまだあまり知られていなかった天才画家による、失われた君主の失われた肖像画だ。当時、ロマンチックなヴィクトリア朝の人々の目に、チャールズ1世は "失われた君主" として映っていたようだ。

スネアの演出は細部まで行き届いていた。客は1シリングの入場料を払っい、絨毯を敷きつめた階段をのぼっていく。そして厚いカーテンをくぐると、彫刻を施した木の衝立ついたてで囲まれた小部屋のようなスペースがあり、そこで名画と対面する。日が暮れてくると、絵はガス灯で照らされた。静かな空間、美しい照明、余計なものはいっさい視界に入れない ── ベラスケスの絵なら、現代のキュレーターもまさにこのような見せ方をするだろう。スネアの狙いが人々を驚嘆させることにあったとすれば、まさしく理想的な演出であり、これに新聞各紙は素早く反応した。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

新聞各紙から高い評価を受けて展示会は成功裏に終わるのですが、その要因として「ちょうどいい時に、ちょうどいい場所」で絵を公開したと、著者は書いています。どういうことかと言うと、当時のロンドンのメイフェア地区ではしばしば有名絵画の有料展示会が開催されていたからです。ただし絵画だけでなく、種々の見せ物もあった。たとえば "エジプシャン・ホール" では、テオドール・ジェリコーの『メデューサ号の筏』(現、ルーブル美術館)の展示会が開かれましたが、ナポレオンが使った防弾馬車の展示会も開催されて大人気になったという具合です。


〈エジプシャン・ホール〉は時代の象徴であり、イギリスを代表する風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーや、権威ある水彩画画家協会も展覧会を開いた。ヴィクトリア時代にそこを訪れたある人物は、ダ・ヴィンチの聖画を間近に見たほか、1844年には、小人ツアーでヨーロッパを巡業中の「親指トム将軍」を、あんぐりと口を開けて眺めたという。興行師 P・T・バーナムがプロデュースした「世にも偉大なる小人」の見せ物は、ダ・ヴィンチ展をはるかに超える大ヒットとなった

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

実は「消えたベラスケス」のテーマになっているジョン・スネア(1808年頃生)と同時代人が、上の引用にある P・T・バーナムです(1810年生)。2017年のハリウッド映画「グレイティスト・ショーマン」は、その興行師 P・T・バーナムが主人公でした(日本公開は2018年)。演じたのはヒュー・ジャックマンです。バーナムは「親指トム将軍」をはじめとする "特異な身体的形状の人たち" や軽業の得意な人、その他 "オンリーワンの人" を集め、ニューヨークの "見せ物シアター" で興業しました。映画では、家庭の中に閉じこもって "存在しない" ことになっていた低身長症の男性をバーナムが引っ張り出し、親指トム将軍としてパフォーマンスをさせる姿が描かれていました。バーナムの一座は英国にツアーを行い、ヴィクトリア女王に面会しています。上の引用にあるバーナムのロンドンでの「世にも偉大なる小人の見せ物」は、その時のことを言っています。

The Greatest Showman - Hugh Jackman and Cast.jpg
映画「The Greatest Showman」(2017)のパフォーマーたちと主演のヒュー・ジャックマン。親指トム将軍を演じたのは、ニュージーランド出身のサム・ハンフリー。

そして映画「グレイティスト・ショーマン」では、ニューヨークの "見せ物シアター" が火災で焼け落ちた時、落胆しているバーナムに向かってパフォーマーたちが言うのですね。次のような主旨でした(髭の女性のせりふ)。

  母親は私達を恥じ、私達の存在を隠した。あなたはその暗がりの中から引き出してくれた。たぶん金儲けだけのためだったはず。だけどあなたは本当の家族をくれた。ここが私達の家だ。

バーナムの興業はニューヨークの批評家からはこきろされたのですが、異形の(ないしはユニークでオンリーワンの)パフォーマーたちはバーナムに感謝していた、そういうスタンスで映画が作られていました。

P_T_Barnum and General Tom Thumb(Wikimedia).jpg
P・T・バーナムと親指トム将軍(チャールズ・ストラットン)。Wikimediaより。本書にはこれと同じ写真が掲載されている。
「消えたベラスケス」には、そのバーナムと親指トム将軍の写真がわざわざ掲載されています。本書には多数の絵の図版が掲載されているのですが、唯一の人物写真がこれです。バーナムの件は本書の主旨からするとごく些細なエピソードに過ぎません。なぜ、ローラ・カミングはこの写真を掲載したのでしょうか。それは「17世紀スペイン宮廷(をはじめとする欧州の宮廷)に低身長症の人が集められていたこと」と、「P・T・バーナムが低身長症の人を集めて興業をやったこと」を重ね合わせたからに違いありません。

バーナムはパフォーマーから感謝されていました(=映画のストーリー)。では、17世紀の宮廷の低身長症の人たちはどうだったのか。ディエゴ・デ・アセードのように高位の廷臣もいれば、ジェフリー・ハドソンのように宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸をさせられたものもいます(ディエゴ・デ・アセードの絵の解説参照)。本書でも言及しているのですが、裸にされてバッカスの格好をさせられた超肥満の女の子もいました(No.161「プラド美術館の怖い絵」参照)。要するに "いろいろ" です。そういった人たちをスペイン宮廷では「ヘンテス・デ・プラセール(=楽しみを与える人々。慰み者)と呼んでいました(No.161)。

ただ一つ言えると思うのは、そういった "異形の人たち" に宮廷は「ポジション」を与えていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(低身長症の少年が主人公)を読むと、当時のスペイン宮廷の異様な雰囲気が伝わってくるのですが、それはあくまで現代人感覚なのでしょう。うとまれ、通常の仕事にありつくのが難しそうな人たちに、宮廷は「場」や「役割」を与えていた、ちょうど19世紀アメリカの興行師・バーナムがやったように ・・・・・・。そう考えることもできると思いました。

そして、ベラスケスという画家は、国王から "異形の人たち" までの「あらゆる人間の尊厳」を描いた。ローラ・カミングはそう言っているのでした。




nice!(0)