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No.246 - 中世ヨーロッパの奴隷貿易 [歴史]

今回は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。そもそも "奴隷" というテーマは、No.18「ブルーの世界」で青色染料である "藍(インディゴ)" が、18世紀のアメリカ東海岸の奴隷制プランテーションで生産されたことを書いたのが最初でした。

このブログは初回の No.1-2「千と千尋の神隠しとクラバート」以来、樹木の枝が伸びるように、連想・関連・追加・補足で次々と話を繋げているので、"奴隷" をテーマにした記事もかなりの数になりました。世界史の年代順に並べると以下の通りです。

紀元1~4世紀:ローマ帝国
 No.162 - 奴隷のしつけ方
 No.203 - ローマ人の "究極の娯楽"
 No.239 - ヨークの首なしグラディエーター
  No.162はローマ帝国の奴隷の実態を記述した本の紹介。No.203,239 はローマ帝国における剣闘士の話。

8世紀~14世紀:ヨーロッパ
 No.22 - クラバートと奴隷(1)スラヴ民族
 No.23 - クラバートと奴隷(2)ヴェネチア
  英語で奴隷を意味する "slave" が、民族名のスラヴと同じ語源であることと、その背景となった中世ヨーロッパの奴隷貿易。

16世紀~17世紀:日本
 No.33 - 日本史と奴隷狩り
 No.34 - 大坂夏の陣図屏風
  戦国期~安土桃山~江戸初期における戦場での奴隷狩り。

17世紀:スペイン
 No.19 - ベラスケスの「怖い絵」
  17世紀のスペイン宮廷における奴隷の存在と、宮廷にいた小人症の人たち(慰み者)。

18世紀~19世紀:アメリカ
 No.18 - ブルーの世界
 No.104 - リンカーンと奴隷解放宣言
 No.109 - アンダーソンヴィル捕虜収容所
  アメリカの独立前、18世紀のサウス・カロライナ州の奴隷制プランテーションで、青色染料の藍(インディゴ)が生産されたこと。及び、南北戦争の途中で出されたリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」の背景と歴史的意義。



以降は、No.22-23「クラバートと奴隷」でとりあげた、中世ヨーロッパの奴隷貿易の補足です。No.23の「補記2」でイタリア人商人による奴隷貿易の実態を、Wikipedia の "Slavery in medieval Europe" という項目から訳出しました(日本語版はありせん)。この項目は中世ヨーロッパの奴隷や奴隷制度全般の記述ですが、その第2章が「2.奴隷貿易」で、次のような節の構成になっています。

2. 奴隷貿易
 2.1 イタリア商人
 2.2 ユダヤ商人
 2.3 イベリア半島
 2.4 ヴァイキング
 2.5 モンゴル人
 2.6 イギリス諸島
 2.7 キリスト教徒が保有したイスラム奴隷
 2.8 中世終焉期の奴隷貿易


No.23の「補記2」は「2.1 イタリア商人」だけの訳でしたが、今回は2章全体を訳出してみることにします。「2.1 イタリア商人」も再掲します。なお、Wikipedia にある出典への参照や参考文献は省略しました。以下の Wikipedia の引用や参照はすべて2018年11月2日現在のものです。


「中世ヨーロッパの奴隷 : 第2章 奴隷貿易」(Wikipedia) 試訳

中世ヨーロッパの奴隷貿易(地図).jpg
「中世ヨーロッパの奴隷貿易」関連地図
Wikipediaから訳出した部分に出てくる地名(その他、川、峠、島の名など)の位置を示した。訳文には出てこないが、ターナとコンスタンチノープルはヴェネチアの交易の拠点となった都市である(No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」参照)


2. 奴隷貿易


中世ヨーロッパの奴隷貿易を支配したのはイスラム世界からの要求であった。しかし多くの時期、キリスト教徒の奴隷を非キリスト教徒に売るのは禁止されていた。840年にヴェネチアとカロリング朝フランク帝国で結ばれたロタール協定で、ヴェネチアは帝国内でキリスト教徒の奴隷を買わないこと、キリスト教徒の奴隷をイスラムに売らないこと約束した。教会もまたキリスト教徒の奴隷を非キリスト教徒の国へ売ることを禁止した。たとえば、922年のコブレンツ(注)教会会議(the Council)、1102年のロンドン教会会議、1171年のアーマー(注)教会会議などである。

この結果、多くのキリスト教徒の奴隷商人は、非キリスト教地域の奴隷をイスラム圏のスペイン・北アフリカ・中東へと売ることに注力した。そして非キリスト教徒の奴隷商人も、教会の規則に縛られてはいなかったが、イスラムの奴隷マーケットに注力した。東ヨーロッパや南部スウェーデンで大量に見つかるアラブのディルハム銀貨は奴隷貿易に使われたものと推測できる。つまり、スラヴ圏からイスラム圏への交易があったことを示している。

【訳注】
 コブレンツ(Koblenz)(地図)
  ドイツ西部、ライン河とモーゼル河の合流地点にある町。No.22「クラバートと奴隷(1)スラヴ民族」の「補記2」参照。
 アーマー(Armagh)
  北アイルランドの町。アイルランドにキリスト教徒を布教した聖パトリックが布教拠点の教会を設立した。


2.1 イタリア商人


ローマ教皇・ザカリアス(在位:741-752)の治世の頃までに、ヴェネチア(地図)は奴隷交易での繁栄を確立した。彼らはイタリアやその他の地域から奴隷を買い、アフリカのムーア人に売った。もっともザカリアス自身はローマ外での奴隷交易を禁止したと伝えられている。

ロタール協定によってキリスト教徒の奴隷をイスラムに売ることが禁止されると、ヴェネチア商人はスラブ人やその他、東ヨーロッパの非キリスト教徒の奴隷の大々的な交易に乗り出した。東ヨーロッパから奴隷のキャラバンが、オーストリア・アルプスの山道を超えてヴェネチアに到着した。

ドナウ河畔のザンクト・フローリアンの近くのラッフェルステッテン(注)の通行税の記録(903-906)には、そんな商人たちの記述がある。商人の中にはボヘミアやキエフ公国のスラヴ人自身もいた。彼らはキエフ公国からプシェムシルやクラコフ(注)、プラハ、ボヘミアを経由して来ていた。

記録によると、女の奴隷は1トレミシス金貨(約1.5グラムの金。ディナール金貨の1/3)であり、女よりも圧倒的に数が多い男の奴隷は1サイガ銀貨(トレミシスより価値がかなり落ちる)であった。

宦官(eunch)(注)は非常に貴重であり、この需要に対応するため、他の奴隷市場と同じように "去勢所"(castration house)がヴェネチアに作られた。

ヴェネチアだけが奴隷貿易の拠点だったのではない。南部イタリアの都市も遠隔地からの奴隷獲得を競っていた。ギリシャやブルガリア、アルメニア、そしてスラヴ圏である。9~10世紀にはアマルフィ(地図)が北アフリカへの奴隷輸出の多くを担った。

ジェノヴァ(地図)は12世紀ごろからヴェネチアとともに東地中海での交易を押さえ、また13世紀からは黒海での交易を支配した。彼らはバルト海沿岸の民族やスラヴ人、アルメニア人、チェルケス人、ジョージア(グルジア)人、トルコ人、その他、黒海沿岸やコーカサス地方の民族を中東のイスラム国に売った。ジェノヴァはクリミアからマムルーク朝エジプトへの奴隷貿易を13世紀まで支配したが、東地中海でのヴェネチアの勢力が強大になると、ヴェネチアがとって代わった。

1414年から1423年の間だけで、少なくとも10,000人の奴隷がヴェネチアで取引された。

【訳注】
 ラッフェルステッテン(地図)
  現オーストリアのアステン。リンツより少しドナウ下流の位置にある。中世には税関があった。
 プシェムシル、クラコフ(地図)
  いずれも、現ポーランドの都市。
 eunach("ユーナック")
  去勢された男性のこと。宦官は東アジア(日本以外)、中東諸国、東ローマ帝国、オスマントルコ帝国などの官吏である。去勢された奴隷=官吏というわけではないが、以下 eunach を "宦官" とした。なお castration は去勢という意味で、イタリアで発達した去勢男性歌手、カストラート(イタリア語: castrato)と同源の言葉である。

Genoese Fortress.jpg
ジェノヴァの要塞
黒海に突き出たクリミア半島の都市・スダク(ウクライナ)には、ジェノヴァが14世紀~15世紀にかけて建設した要塞が残っている。当時のイタリアの都市国家が海洋貿易で繁栄したことがうかがわれる。
(site : ukrainetrek.com)


2.2 ユダヤ商人


長距離を交易するユダヤ人の奴隷商人の記録は、少なくとも西暦492年の昔に遡ることができる。この年、ローマ教皇・ゲラシウス(注)は、テレシナ(注)のユダヤ人の友人の求めに応じて、非キリスト教徒の奴隷をイタリアへ輸入する許可を与えた。ユダヤ人は、6世紀の終わりから7世紀になるとイタリアにおける主要な奴隷商人となり、また、ガリア地方でも活躍した。ローマ教皇・大グレゴリウス(注)はユダヤ人がキリスト教徒の奴隷を保有するのを禁じたが、それはユダヤ教に改宗するのを避けるためであった。ユダヤ商人は9世紀から10世紀までにヨーロッパ大陸全体の奴隷貿易の主要な勢力となった。彼らは "ラダニテ"(注)と呼ばれることがあった。

【訳注】
 ゲラシウス
  ローマ教皇、ゲラシウス1世。在位 492-496。
 テレシナ(Telesina)
  イタリア南部、ベネヴェント(カンパニア州)の近郊の古代都市。
 大グレゴリウス
  ローマ教皇、グレゴリウス1世。在位 590-604。このブログでは、マグダラのマリアの解釈(=悔い改めた罪のある女)を確立させた教皇として書いたことがあります(No.118「マグダラのマリア」参照)。
 ラダニテ
  英語で "Radhanites"。ユダヤ人の巡回商人を指す。

ユダヤ人はキリスト教国とイスラム世界を行き来して交易できる数少ない集団の一つだった。イブン・フルダーズベ(注)は『諸道と諸国の書』において、南フランスからスペインに至るユダヤ人の交易ルートを記録している。このルートでは、女奴隷、宦官、少年奴隷が、他の商品とともに運ばれた。彼はまた、ユダヤ商人がプラハでスラヴ人奴隷を買ったことも書いている。

リヨン大司教・アゴバール(在位 816-840)の手紙、ルイ敬虔王(注)の布告、845年のモー教会会議(注)での教会法第75番によって、ユダヤ商人のスラヴ人奴隷交易ルートの存在が確認できる。それはアルプスを越えてリヨン(地図)、南フランス、スペインへと至るルートであった。

ヴァレンシュタット(注)の税関の記録(842-843)から、スイスを通る別の交易ルートの存在がわかる。それはセッティモ峠(セプティマー峠)とスプルガ峠(スプリューゲン峠)(地図)を越えてヴェネチアに至り、そこから北アフリカにへと続くルートであった。

【訳注】
 イブン・フルダーズベ
  820頃 - 912。アッバース朝イスラム帝国の官僚で地理学者。アラビア語で書かれた最古の地誌と言われる『諸道と諸国の書』を著した。
 ルイ敬虔王
  カール大帝の息子で、フランク国王・ルイ1世のこと。ドイツ語ではルードヴィッヒ1世。在位 814-840。
 モー(Meaux)
  パリの東北東 45kmにある町。
 ヴァレンシュタット(地図)
  現在のスイス東部、ヴァレン湖の湖畔の町。ちなみに、リストのピアノ曲集「巡礼の年 第1年 スイス」の第2曲は「ヴァレンシュタットの湖で」である。

10世紀になってドイツのサクソン族の王国の支配者がスラヴ族の奴隷化と奴隷交易に乗り出すようになると、ユダヤ人商人はエルベ河(地図)付近で奴隷を購入し、キャラバンを組んでライン河渓谷に送った。多くの奴隷は、スペインと密接な関係があったヴェルダン(地図)に連れていかれ、去勢され、宦官として売られた。

クリミア(地図)在住のユダヤ人商人は、16世紀から18世紀にかけてのクリミア・ハン国(タタール人国家)の奴隷や捕虜の貿易にとって大変に重要であった。

ユダヤ人はヨーロッパの奴隷貿易において、16世紀から19世紀を頂点として大きな影響力があった。


2.3 イベリア半島


ウマイア朝スペインでは、マムルーク(奴隷の兵士)の供給源として兵役年齢の男の需要が常にあった。

(ロジャー・コリンズ著「中世初期のスペイン」からの引用)
  アル・ハカム(注)は、彼の一族の中でも、華麗で豪華な王位を極めた君主であった。彼はマムルーク(奴隷の兵士)の数を増やし、それは1000人と兵馬5000頭の規模になった。また、奴隷、宦官、召使いを増やした。騎兵の親衛隊をもち、宮殿の門を守らせ、さらにマムルークの警備兵を周りに配置した。彼らマムルークはアル(Al-l)と呼ばれた。これら警備兵は、キリスト教徒か外国人であるがゆえの存在だった。彼らは2つの大きな兵舎を占め、また兵馬のための厩舎が併設されていた。

ロジャー・コリンズによると、イベリア半島の奴隷交易におけるヴァイキングの役割は仮説の域を出ない。しかし彼らの略奪行為は明確に記録されている。ヴァイキングによるアンダルシア地方への襲撃は、844年、859年、966年、971年に報告されていて、これらは8世紀半ばから10世紀末に集中したヨーロッパ各地での襲撃の時期と一致する。

イスラム圏スペインは膨大な数の奴隷を輸入し、またイスラム商人やユダヤ商人が他のイスラム世界へ奴隷を輸出する中継地の役割を担った。

アブド・アッラフマーン3世(在位 912-961)の治世下のコルドバ(地図)(ウマイヤ朝イスラム帝国の首都)では、その初期に3,750人の "サカーリバ"、つまりスラヴ人奴隷がいたが、この数は6,087人に増え、最終的には13,750人になった。イブン・ハウカル(注)、イブラヒム・アル = カラウィー、クレモナのリウトプランド司教(注)の記述によると、ヴェルダンのユダヤ商人は去勢の専門技術があり、イスラム圏スペインで大変人気のあった "去勢サカーリバ" として奴隷を売った。

【訳注】
 アル・ハカム
  ウマイヤ朝のカリフ、アル・ハカム1世。在位 796-822。
 イブン・ハウカル
  10世紀のイスラムの地理学者、歴史学者。
 クレモナのリウトプランド司教
  神聖ローマ帝国の外交官・政治家・歴史家・宗教家。920- 972。


2.4 ヴァイキング


ヴァイキングの時代(793年~約1100年)に北欧からの襲撃者は、遭遇した武力の劣る人々を捕らえて、しばしば奴隷化した。北欧諸国では彼らを "スレール"(古北欧語ではトレール)と呼んだ。スレールはほとんどが西ヨーロッパ人で、フランク人、アングロサクソン人、ケルト人などであった。多くのアイルランドの奴隷は、アイスランドを(ヴァイキングの)植民地にするための探検にかり出された。ヴァイキングは修道院を襲撃し、若くて教育を受けた奴隷を手に入れたが、それはヴェネチアやビザンチン帝国で高値で売れた。8世紀末までにスカンジナビア商人の奴隷取引地は、デンマークのへーゼビュー(地図)やスウェーデンのビルカ(地図)から、東は北方ロシアのスタラヤ・ラドガ(地図)まで広がっていた。

このような交易は9世紀にも続き、スカンジナビア人はさらに奴隷取引地を増やしていった。南西ノルウェーのカウパング(地図)や、スタラヤ・ラドガより南にあるノヴゴロド(地図)、ビザンチン帝国にさらに近いキエフ(地図)である。ダブリンやその他の北西ヨーロッパのヴァイキングの居住地は、捕虜を北へと送る基地として作られた。たとえば、"ラックス谷の人々のサガ" には、スウェーデンのブレン島(地図)の市場で西ヨーロッパからの女奴隷が売られていて、そこにロシア商人が来る様子が描かれている。

ヴァイキングたちはドイツ人、バルチック人、スラヴ人、ラテン人も捕虜にした。10世紀のペルシャの旅行家、イブン・ルスタは、スウェーデンのヴァイキング(ロシアでは "ヴァリャーグ" と呼んだ)がヴォルガ河(地図)流域のスラヴ人を襲撃し、威嚇して奴隷にしたことを記述している。奴隷はしばしばヴォルガ河の交易路を経由して、南方のビザンチンやイスラム商人に売られた。バグダッドのアフマド・イブン・ファドラーン(注)は、この交易路の出発地でヴォルガのヴァイキングがスラヴ人奴隷を中東の商人に売る様子を記述をしている。

フィンランドもヴァイキングの奴隷狩りの標的になった。フィンランドやバルト海沿岸地域の奴隷は中央アジアまで売られていった。

【訳注】
 アフマド・イブン・ファドラーン
  10世紀アラブの旅行家。アッバース朝のカリフの使節団として、ヴォルガ河中流の国、ヴォルガ・ブルガール(地図)を訪問した。彼が書いた見聞録はヴァリャーグの貴重な資料となっている。

S_V_Ivanov Trade_negotiations_in_the_country_of_Eastern_Slavs.jpg
セルゲイ・イヴァノフ(1864-1910)
東スラヴでの奴隷取引」(1909)
(M. Kroshitsky Art Museum, Sevastopol)

左側に奴隷を買い付けるイスラム商人がいるが、奴隷を売る右側の一団は服装からしてスラヴ民族のようである。もちろん想像で描かれたものだが、ファドラーンの見聞記はこのような取引がスラヴ地方やヴォルガ河沿岸で行われたことを示している。この絵は Wikipedia の "Slavery in medieval Europe" の項に掲載されている(フランス語、スペイン語などのページ)。


2.5 モンゴル


13世紀におけるモンゴルの進入と征服は、奴隷交易の新たな隆盛をもたらした。モンゴル人は職人や女、子供を奴隷にしてカラコルムやサライ(地図)に連れていき、そこでユーラシア大陸全体へと売った。多くの奴隷がロシアのノヴゴロドの奴隷市場に送られた。

クリミアにいたジェノヴァとベネチアの商人は、キプチャク・ハン国(注)との奴隷取引に携わった。ハージー1世ギレイはキプチャク・ハン国から独立してクリミア・ハン国を建国したが、そのクリミア・ハン国は18世紀に至るまでの長い間、オスマン帝国や中東との大々的な奴隷貿易を続けた。「ステップ草原の刈り取り」と呼ばれた "行事" で、彼らは多数のスラヴ人の農民を奴隷にした。

【訳注】
 キプチャク・ハン国
  ジンギス・カンの息子のジョチとその後裔の遊牧政権(=ウルス)。ジョチ・ウルスとも言う。首都はサライ。金で装飾された張幕を宮殿としたため、英語で Golden Horde(金の遊牧民)と呼ばれる。


2.6 イギリス諸島


イギリス諸島(注)では、奴隷は家畜と同じように、国内・国外を問わずに取り引きされる日用品であり、通貨のようなものであった。ウィリアム征服王はイギリスからの奴隷の輸出を禁止し、奴隷交易への国の関与を制限した。

【訳注】
 イギリス諸島(British Isles)
  ブリテン諸島とも言う。大ブリテン島、アイルランド島、およびその周辺の島を指す。


2.7 キリスト教徒が保有したイスラム奴隷


奴隷取引の主要な流れはイスラム諸国へと向かうものだったが、キリスト教徒もムスリムの奴隷を保有していた。13世紀の南フランスでは、ムスリムの捕虜を奴隷にするのはきわめて一般的だった。

たとえば1248年にムスリムの少女の奴隷がマルセイユ(地図)で売られた記録があるが、これはキリスト教徒の十字軍がセビリア(地図)とその周辺地域を攻略した時期と一致する(注)。この戦勝で地域の多数のムスリムの女性が戦利品として奴隷になり、それはアラブ側の叙事詩、たとえばセビリア攻略の同時代人であった詩人、アル・ルンディの詩にうたわれている。。

【訳注】
 セビリア攻防戦
  カスティーリャ王国(キリスト教国)のセビリア攻略は1246年にはじまり、2年間の攻防戦の末、1248年11月にカスティーリャが制圧した。いわゆる "レコンキスタ"(=キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)の重要ポイントである。この結果、イベリア半島に残ったイスラム勢力はグラダナのナスル朝のみとなったが、ナスル朝はキリスト教国と融和的であり、カスティーリャ王国の指揮下でセビリア攻撃に加わっている。レコンキスタの完成は1492年のグラダナ陥落であるが、実質的にはセビリアが制圧された時点でレコンキスタはほぼ終わったと言える。

またキリスト教徒は戦争で捕虜にしたムスリム奴隷を売った。マルタ騎士団は海賊やムスリムの商船を襲撃し、騎士団の拠点は捕らえた北アフリカ人やトルコ人を売る交易の中心になった。マルタ(地図)は18世紀末までも奴隷市場として残った。騎士団が所有するガレー船団のためには1000人の奴隷の乗組員が必要だった。


2.8 中世終焉期の奴隷貿易


ヨーロッパのキリスト教化が進むと、大がかりな奴隷貿易はさらに遠隔地からのものになった。またそれにはキリスト教徒とイスラム教徒の敵対関係が強まったこともあった。たとえばエジプトに奴隷を送るのはローマ教皇によって禁止され、この命令は1317年、1327年、1329年、1338年、最終的には1425年に出されている。というのも、エジプトに送られた奴隷は往々にして兵士となり、元のキリスト教徒の主人と戦う結果になったからである。禁止令が繰り返されたことは、そのような交易が続いていたことと、交易がより好ましくないものになったことを示している。16世紀になるとアフリカ人の奴隷が、ヨーロッパの各民族・各宗派の奴隷にとって代わった。
(Wikipediaの訳・終)

「文明の中心」と「グローバル経済」


「中世ヨーロッパの奴隷貿易」という Wikipedia の記事を読んで改めて思うのは、中世の文明の中心はイスラム国家だということと、西ユーラシア大陸の全域をカバーするグローバルな交易、の2点です。

中世ヨーロッパの奴隷貿易(地図).jpg
「中世ヨーロッパの奴隷貿易」関連地図

この地図には、奴隷という高額商品の買い手がほとんど描かれていませんが、イベリア半島南部の後ウマイヤ朝は買い手でした。首都のコルドバの人口は100万人を越え、当時のヨーロッパ最大の都市です。それよりも大きな奴隷の需要地は、現在のイランから北アフリカを版図とするアッバース朝です。中世ではこの2つのイスラム帝国が文明の中心であり、強大な経済力と軍事力を誇った。Wikipediaの記述でよく分かるのは、その結果として中世ヨーロッパの奴隷貿易があったということです。

文明の中心に関して言うと、訳文に出てくるアブド・アッラフマーン3世の息子のアル・ハカム2世(在位 961-976)は文化人で、コルドバに巨大図書館を建て、東方から50万冊に及ぶ書物を収集しました。文化の中心もまたイスラム帝国の巨大都市(コルドバ、バグダッドなど)にあったわけです。それが後のヨーロッパに引き継がれた。

このようなイスラム帝国へと続く奴隷交易ルートは、それに携わった商人が属する地域の経済発展に大きく寄与したと考えられます。ヴェネチアをはじめとするイタリア半島の海洋都市国家の繁栄や、北欧諸国の勃興は、こういった交易抜きには考えられないでしょう。ヴェネチアの勃興から衰退までの期間は、ちょうどイスラム帝国の勃興から衰退までの期間と重なっているのですが、偶然とは思えません。

ユーラシア大陸の西部で繰り広げられたグローバルな交易も印象的です。高額商品の需要がある限り、商人はその仕入れに "地の果てまで" 行く。ロシア・東欧を出発し、アルプスの標高2000メートル級の山道(セッティモ峠、スプルガ峠)を越え、ヴェネチアに至る交易路(その後、北アフリカや中東へ)があったのです。

もちろん中世ヨーロッパだけではなく、中国の絹がローマ帝国に運ばれたように、利潤があげられる貴重な商材の交易は昔から驚くほどの遠距離を越えました。そして中世ヨーロッパの奴隷貿易の場合は、商材の供給地と需要地の間に圧倒的な経済格差があり、それが交易をドライブしていた。経済のグローバル化は、程度問題こそあれ昔からそうだったことが改めて理解できました。



 Wikipediaの原文 

念のために、上の試訳のもとになった Wikipedia の原文(2018年11月2日現在)を掲げておきます。[数字] は出典・参考文献への参照ですが、文献名は省略しました。

Slavery in medieval Europe
 2. Slave trade
  2.1 Italian merchants
  2.2 Jewish merchants
  2.3 Iberia
  2.4 Vikings
  2.5 Mongols
  2.6 British Isles
  2.7 Christians holding Muslim slaves
  2.8 Slave trade at the close of the Middle Ages

2. Slave trade

Demand from the Islamic world dominated the slave trade in medieval Europe.[13][14][15][16] For most of that time, however, sale of Christian slaves to non-Christians was banned.[citation needed] In the pactum Lotharii of 840 between Venice and the Carolingian Empire, Venice promised not to buy Christian slaves in the Empire, and not to sell Christian slaves to Muslims.[13][17][18] The Church prohibited the export of Christian slaves to non-Christian lands, for example in the Council of Koblenz in 922, the Council of London in 1102, and the Council of Armagh in 1171.[19]

As a result, most Christian slave merchants focused on moving slaves from non-Christian areas to Muslim Spain, North Africa, and the Middle East, and most non-Christian merchants, although not bound by the Church's rules, focused on Muslim markets as well.[13][14][15][16] Arabic silver dirhams, presumably exchanged for slaves, are plentiful in eastern Europe and Southern Sweden, indicating trade routes from Slavic to Muslim territory.[20]

2.1 Italian merchants

By the reign of Pope Zachary (741-752), Venice had established a thriving slave trade, buying in Italy, amongst other places, and selling to the Moors in Northern Africa (Zacharias himself reportedly forbade such traffic out of Rome).[21][22][23] When the sale of Christians to Muslims was banned (pactum Lotharii[17]), the Venetians began to sell Slavs and other Eastern European non-Christian slaves in greater numbers. Caravans of slaves traveled from Eastern Europe, through Alpine passes in Austria, to reach Venice. A record of tolls paid in Raffelstetten (903-906), near St. Florian on the Danube, describes such merchants. Some are Slavic themselves, from Bohemia and the Kievan Rus'. They had come from Kiev through Przemysl, Krakow, Prague, and Bohemia. The same record values female slaves at a tremissa (about 1.5 grams of gold or roughly 1/3 of a dinar) and male slaves, who were more numerous, at a saiga (which is much less).[13][24] Eunuchs were especially valuable, and "castration houses" arose in Venice, as well as other prominent slave markets, to meet this demand.[20][25]

Venice was far from the only slave trading hub in Italy. Southern Italy boasted slaves from distant regions, including Greece, Bulgaria, Armenia, and Slavic regions. During the 9th and 10th centuries, Amalfi was a major exporter of slaves to North Africa.[13] Genoa, along with Venice, dominated the trade in the Eastern Mediterranean beginning in the 12th century, and in the Black Sea beginning in the 13th century. They sold both Baltic and Slavic slaves, as well as Armenians, Circassians, Georgians, Turks and other ethnic groups of the Black Sea and Caucasus, to the Muslim nations of the Middle East.[26] Genoa primarily managed the slave trade from Crimea to Mamluk Egypt, until the 13th century, when increasing Venetian control over the Eastern Mediterranean allowed Venice to dominate that market.[27] Between 1414 and 1423 alone, at least 10,000 slaves were sold in Venice.[28]

2.2 Jewish merchants

Records of long-distance Jewish slave merchants date at least as far back as 492, when Pope Gelasius permitted Jews to import non-Christian slaves into Italy, at the request of a Jewish friend from Telesina.[29][30][31] By the turn of the 6th to the 7th century, Jews had become the chief slave traders in Italy, and were active in Gaelic territories. Pope Gregory the Great issued a ban on Jews possessing Christian slaves, lest the slaves convert to Judaism.[31][32] By the 9th and 10th centuries, Jewish merchants, sometimes called Radhanites, were a major force in the slave trade continent-wide.[13][33][34]

Jews were one of the few groups who could move and trade between the Christian and Islamic worlds.[34] Ibn Khordadbeh observed and recorded routes of Jewish merchants in his Book of Roads and Kingdoms from the South of France to Spain, carrying (amongst other things) female slaves, eunuch slaves, and young slave boys. He also notes Jews purchasing Slavic slaves in Prague.[13][31][35] Letters of Agobard, archbishop of Lyons (816-840),[36][37][38][39] acts of the emperor Louis the Pious,[40][41] and the seventy-fifth canon of the Council of Meaux of 845 confirms the existence of a route used by Jewish traders with Slavic slaves through the Alps to Lyon, to Southern France, to Spain.[13] Toll records from Walenstadt in 842-843 indicate another trade route, through Switzerland, the Septimer and Splugen passes, to Venice, and from there to North Africa.[13]

As German rulers of Saxon dynasties took over the enslavement (and slave trade) of Slavs in the 10th century, Jewish merchants bought slaves at the Elbe, sending caravans into the valley of the Rhine. Many of these slaves were taken to Verdun, which had close trade relations with Spain. Many would be castrated and sold as eunuchs as well.[13][25]

The Jewish population of Crimea was a very important factor in the trade in slaves and captives of the Crimean Khanate (Tatars) in the sixteenth to eighteenth centuries.[42]

Jews would later become highly influential in the European slave trade, reaching their apex from the 16th to 19th centuries.[13]

2.3 Iberia

A ready market, especially for men of fighting age, could be found in Umayyad Spain, with its need for supplies of new mamelukes.

'Al-Hakam was the first monarch of this family who surrounded his throne with a certain splendour and magnificence. He increased the number of mamelukes (slave soldiers) until they amounted to 5,000 horse and 1,000 foot. ... he increased the number of his slaves, eunuchs and servants; had a bodyguard of cavalry always stationed at the gate of his palace and surrounded his person with a guard of mamelukes .... these mamelukes were called Al-l;Iaras (the Guard) owing to their all being Christians or foreigners. They occupied two large barracks, with stables for their horses.'[43]

According to Roger Collins although the role of the Vikings in the slave trade in Iberia remains largely hypothetical, their depredations are clearly recorded. Raids on AlAndalus by Vikings are reported in the years 844, 859, 966 and 971, conforming to the general pattern of such activity concentrating in the mid ninth and late tenth centuries.[44] Muslim Spain imported an enormous number[clarification needed] of slaves, as well as serving as a staging point for Muslim and Jewish merchants to market slaves to the rest of the Islamic world.[34]

During the reign of Abd-ar-Rahman III (912-961), there were at first 3,750, then 6,087, and finally 13,750 Saqaliba, or Slavic slaves, at Cordoba, capital of the Umayyad Caliphate. Ibn Hawqal, Ibrahim al-Qarawi, and Bishop Liutprand of Cremona note that the Jewish merchants of Verdun specialized in castrating slaves, to be sold as eunuch saqaliba, which were enormously popular[clarification needed] in Muslim Spain.[13] [25] [45]

2.4 Vikings

During the Viking age (793 - approximately 1100), the Norse raiders often captured and enslaved militarily weaker peoples they encountered. The Nordic countries called their slaves thralls (Old Norse: Trall).[46] The thralls were mostly from Western Europe, among them many Franks, Anglo-Saxons, and Celts. Many Irish slaves travelled in expeditions for the colonization of Iceland.[47] Raids on monasteries provided a source of young, educated slaves who could be sold in Venice or Byzantium for high prices. Scandinavian trade centers stretched eastwards from Hedeby in Denmark and Birka in Sweden to Staraya Ladoga in northern Russia before the end of the 8th century.[25]

This traffic continued into the 9th century as Scandinavians founded more trade centers at Kaupang in southwestern Norway and Novgorod, farther south than Staraya Ladoga, and Kiev, farther south still and closer to Byzantium. Dublin and other northwestern European Viking settlements were established as gateways through which captives were traded northwards. In the Laxdala saga, for example, a Rus merchant attends a fair in the Brenn Isles in Sweden selling female slaves from northwestern Europe.[25]

The Norse also took German, Baltic, Slavic and Latin slaves. The 10th-century Persian traveller Ibn Rustah described how Swedish Vikings, the Varangians or Rus, terrorized and enslaved the Slavs taken in their raids along the Volga River.[48] Slaves were often sold south, to Byzantine or Muslim buyers, via paths such as the Volga trade route. Ahmad ibn Fadlan of Baghdad provides an account of the other end of this trade route, namely of Volga Vikings selling Slavic Slaves to middle-eastern merchants.[49] Finland proved another source for Viking slave raids.[50] Slaves from Finland or Baltic states were traded as far as central Asia.[51][52]

2.5 Mongols

The Mongol invasions and conquests in the 13th century added a new force in the slave trade. The Mongols enslaved skilled individuals, women and children and marched them to Karakorum or Sarai, whence they were sold throughout Eurasia. Many of these slaves were shipped to the slave market in Novgorod.[53][54][55]

Genoese and Venetians merchants in Crimea were involved in the slave trade with the Golden Horde.[13][27] In 1441, Haci I Giray declared independence from the Golden Horde and established the Crimean Khanate. For a long time, until the early 18th century, the khanate maintained a massive[clarification needed] slave trade with the Ottoman Empire and the Middle East. In a process called the "harvesting of the steppe", they enslaved many Slavic peasants.[56]

2.6 British Isles

As a commonly traded commodity in the British Isles, like cattle, slaves could become a form of internal or trans-border currency.[57][58] William the Conqueror banned the exporting of slaves from England, limiting the nation's participation in the slave trade.[59]

2.7 Christians holding Muslim slaves

Although the primary flow of slaves was toward Muslim countries,[further explanation needed] Christians did acquire Muslim slaves; in Southern France, in the 13th century, "the enslavement of Muslim captives was still fairly common".[60] There are records, for example, of Saracen slave girls sold in Marseilles in 1248,[61] a date which coincided with the fall of Seville and its surrounding area, to raiding Christian crusaders, an event during which a large number of Muslim women from this area, were enslaved as war booty, as it has been recorded in some Arabic poetry, notably by the poet al-Rundi, who was contemporary to the events.

Christians also sold Muslim slaves captured in war. The Order of the Knights of Malta attacked pirates and Muslim shipping, and their base became a center for slave trading, selling captured North Africans and Turks. Malta remained a slave market until well into the late 18th century. One thousand slaves were required to man the galleys (ships) of the Order.[62][63]

2.8 Slave trade at the close of the Middle Ages

As more and more of Europe Christianized, and open hostilities between Christian and Muslim nations intensified, large-scale slave trade moved to more distant sources. Sending slaves to Egypt, for example, was forbidden by the papacy in 1317, 1323, 1329, 1338, and, finally, 1425, as slaves sent to Egypt would often become soldiers, and end up fighting their former Christian owners. Although the repeated bans indicate that such trade still occurred, they also indicate that it became less desirable.[13] In the 16th century, African slaves replaced almost all other ethnicities and religious enslaved groups in Europe.[64]




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No.245 - スーパー雑草とスーパー除草剤 [社会]

今まで3回に渡って、主として米国における "遺伝子組み換え作物"( = GM作物)について書きました。

  No.102 - 遺伝子組み換え作物のインパクト(1)
No.103 - 遺伝子組み換え作物のインパクト(2)
No.218 - 農薬と遺伝子組み換え作物

の3つで、特にGM作物の中でも除草剤に耐性を持つ(= 除草剤耐性型の)トウモロコシや大豆、綿花についてでした。最近ある新書を読んでいたら、その米国のGM作物の状況が出ていました。菅 正治すが まさはる氏の『本当はダメなアメリカ農業』(新潮新書 2018。以下「本書」と記述)です。

本当はダメなアメリカ農業.jpg
菅 正治
「本当はダメなアメリカ農業」
(新潮新書 2018)
著者の菅氏は時事通信社に入社して経済部記者になり、2014年3月から2018年2月までの4年間はシカゴ支局に勤務した方で、現在は農業関係雑誌の編集長とのことです。本書は畜産業を含むアメリカ農業の実態を書いたもので、もと時事通信社の記者だけあって資料にもとづいた詳細なレポートになっています。

そこで今回は、本書の中から「GM作物、特に除草剤耐性型のGM作物」と、GM作物とも関連がある「オーガニック(有機)作物」の話題に絞って紹介したいと思います。No.102、No.218 と重複するところがありますが、No.102、No.218 の補足という意味があります。

なお、本書全体の内容は「アメリカ農業・畜産業は極めて強大だが、数々の問題点や弱みもある」ということを記述したものです。"アメリカ農業がダメだ" とは書いてありません。題名の「本当はダメな」というのは(おそらく新潮社の編集部がつけた)販売促進用の形容詞でしょう。


アメリカ農業の規模


GM作物の議論に入る前に、アメリカの農業の規模を押さえておきます。アメリカ農業の3大作物はトウモロコシ・大豆・小麦で、2017年の作付け規模は以下の通りです。

トウモロコシ 3650万 ha
大豆 3646万 ha
小麦 1861万 ha

トウモロコシと大豆の作付け面積は、それぞれが日本の国土面積(3779万 ha)に匹敵するという広さです。本書には書いてありませんが、日本の可住地面積(= 国土から林野と河川・湖沼を引いた面積。いわゆる平地の面積。農地はその一部)は、国土面積の1/3程度です。「アメリカには日本のすべての平地の3倍の大豆畑があり、それと同じ広さのトウモロコシ畑がある」と表現したら、その広大さがイメージできると思います。

数字でわかるように、3大作物の中でもトウモロコシと大豆が中心的な作物です。この2つは生産に適した気候が似ていて、両方を生産する農家も多い。アイオワ州からオハイオ州に広がる "コーンベルト" と呼ばれる地域が生産の中心です。

そのトウモロコシの 35%~40% は飼料に加工され、それと同じ程度の量がバイオ・エタノールになります。10数% は輸出され、10% 程度はコーンスターチやコーンフレークなどの食品になります。

大豆は半分がそのまま輸出されますが、その大半は中国向けです。また4割程度が大豆油や家畜の飼料になります。残りは食用や工業用です。

一方、小麦はトウモロコシ・大豆の半分程度の作付面積であり、減少が続いています。そしてこれら3大作物に続くのが、

綿花 510万 ha

で、南部のテキサス州やジョージア州などの "コットン・ベルト" で生産されています。


GM作物(GMO)


遺伝子組み替え技術を使って、今までに無かった新たな性質を付与した作物を "GM作物" と呼んでいます。英語では Genetically Modified Organism であり、略して GMO と呼びます。GM作物でない、というのは Non GMO、ノン GMO です。

GM作物を世界で初めて商品化したのがモンサント社で、1996年に除草剤(グリホサート)をかけても枯れない GM大豆(= 除草剤耐性型の大豆)が最初でした。その後、モンサントのライバルであるアメリカのデュポンやダウ・ケミカル、ドイツのバイエルなどがGM作物に参入し、激しい競争を繰り広げています。米国農務省の調査によると、2017年の主要3作物の作付面積に占めるGM作物は次の通りです。

作付面積に占めるGM作物の割合
(2017年。米・農務省調査)
トウモロコシ 大豆 綿花
除草剤耐性型 12% 92% 94% 94% 11% 96%
害虫抵抗型 3% 0% 5%
除草剤+害虫 77% 0% 80%

1996年に最初に開発されてから20年で、トウモロコシ、大豆、綿花のほぼ全てがGM作物に置き換えられたわけです。ちなみに3大作物の一つである小麦については、"GM小麦" が開発されているにもかかわらず、作付面積はゼロです。その理由は「米国人が直接食べる食物だから」です(ただし、GM小麦を認可すべきだという意見が米農業界にあることが、本書で紹介されています)。

米国で商業栽培が承認されたGM作物は、18作物、175品種です。トウモロコシ、大豆、綿花が多いのですが、ジャガイモ、リンゴ、トマト、コメもあります。ただし商用栽培はほとんど行われていないようです。

ちなみに日本でのGM作物の商用栽培は、10作物、153品種が承認されています。内訳は、トウモロコシが68品種、大豆が25品種、綿花が29品種、その他が31品種ですが、日本で実際に栽培されているGM作物はサントリーが開発した青いバラだけです。ただし日本は家畜の飼料向けにアメリカからGMトウモロコシやGM大豆を大量に輸入しており、GM作物の大消費国です。


バーモント州の「遺伝子組み替え表示法」のその後


No.103の「補記」で、アメリカ北東部のバーモント州で、遺伝子組み替え表示法(= 食品にGM作物を含むという表示を義務づける法律)が制定されたことを書きました。その後の経緯が本書に詳しく載っているので紹介します。

バーモント州は人口がわずか62万人で、全米50州のなかで49番目に小さな州です(一番人口が少ないのはワイオミング州)。しかし、この小さな州の「遺伝子組み替え表示法」が全米に与えたインパクトは大きいものでした。法案は2014年5月8日に知事が署名して成立し、施行は2年後の2016年7月1日です。

当然のことながら米国の食品業界は猛反発し、食品製造業協会(GMA。Grocery Manufacturers Association)は法案の撤廃を求める訴訟をバーモント州の連邦地裁に起こしました。しかし連邦地裁は、2015年4月、GMA の訴えを退しりぞける判定を下しました。これにより2016年7月1日に法案が施行される可能性が現実味を帯びてきました。

そこで GMA は「GM食品を表示するかどうかは企業の判断に任せる」とする連邦法案の成立に軸足を移しました。しかしこの連邦法案も、2016年3月に米国上院で否決されてしまいました。この間、従来は表示義務化に反対していたキャンベル・スープやケロッグなどの食品大手が「今後は反対しない」と表明し、またフランスの大手食品会社のダノンがGM食品の取り扱いをやめると宣言しました(2016年4月)。

ここまでで食品業界の "敗北" に見えたのですが、GMA は新たに「表示は義務づけるが、商品に直接表示しなくてもよい」とする連邦法案の成立をめざし、2016年6月に上院共和党から法案として提出されました。つまり表示は「文字」のほかに「記号」や「デジタルリンク」でもいいのです。デジタルリンクとは、たとえば商品にQRコードをつけ、そこから食品メーカーのホームページにアクセスしてGM食品かどうかを調べられるというものです。

当然ながら、全米での表示義務化を求めていた「食品安全センター」などの NPO団体は「これは実質的にGM食品の非表示法案だ」と猛反対しました。しかし多くの議員が賛成に回り、上院・下院で可決され、2016年7月末にオバマ大統領が署名して成立しました。そしてこの法案の成立と同時に、2016年7月1日からバーモント州で施行された表示義務化は無効とされたのです。バーモント州の表示義務化(=商品への直接表示)は、1ヶ月で終わったということになります。

この連邦法案の成立に裏で寄与したのが、オーガニック(有機栽培)農家で作る有機取引協会(OTA。Organic Trade Association)です。OTAは、法案には欠陥があると認めながらも、食品の情報開示の一定の前進だとして賛成に回りました。当然、食品安全センターなどの NPO団体からは "裏切り" との非難を浴びたようです。

ともかく「表示は義務化、ただし表示方法は企業の選択、デジタルリンクでもOK」ということで決着したのが最新の状況です。



この顛末の感想です。菅氏が実際にやってみたところでは、QRコードからたどってGM食品を判別するのは手間であり、「実質的にGM食品の非表示法案」という NPO団体の主張はその通りのようです。

しかし、とにかく「義務化された」というのは大きいと思います。デジタルリンクだと消費者が店舗でいちいちスマホを取り出してGM食品かどうかを調べることは滅多にないでしょう。ただ、従来から表示義務化を推進してきた NPO団体はGM食品かどうかを調査できるし、その一覧をメーカーごとに広く公表することもできます。メーカーの "GM食品率ランキング" みたいなものを作ることも可能です。またスーパーなどの食品販売業者もGM食品かどうかを、たとえば POP で表示できます(そういうコストをかけても有益だという判断があればですが)。食品メーカーとしては、GM食品でありながら何らかの方法で表示しないとコンプライアンス違反になり、ブランドの毀損に繋がります。

さらに、従来から食品メーカーは「GM食品は安全で、ノンGM食品と何ら変わることがない。ことさらGM食品だと表示することは消費者に誤解を与えるし、企業のコストアップになるだけだ」と主張していたわけですが、その主張を撤回したことになります。これは大きいのではないでしょうか。

以上を考えると、有機取引協会(OTA)の「食品に関する情報開示の一定の前進」という評価は妥当だと思いました。


スーパー雑草の蔓延とスーパー除草剤


1996年にモンサント社が除草剤(グリホサート)をかけても枯れない GM大豆 を商品化して以降、グリホサートとグリホサート耐性作物の組み合わせによる農業が急速に広まりました。その状況を本書から引用します。


(米農務省が2015年5月に発表したリポートによると)グリホサートは2001年以来、米国で最も多く使われる除草剤となった。グリホサートとGM大豆を組み合わせて栽培する農地は、1996年は米国全体の 25% だったが、2006~2012年には 90% 以上に拡大した。GMトウモロコシについても、1996年の 4% から2010年 73% に急上昇している。これと反比例する形で他の除草剤のシェアは減り、除草剤ではグリホサートの独り勝ちとなっている。

菅 正治 
「本当はダメなアメリカ農業」
(新潮新書 2018)

これだけ広まったグリホサートですが、案の定、グリホサートを散布しても枯れない雑草が出現してきました。いわゆる "スーパー雑草" です。


米農務省が2015年5月に発表したリポートによると、グリホサートで枯れなくなったスーパー雑草が14種類も確認されている。スーパー雑草が生い茂れば作物の成長を阻害するため、作物の収穫量は減り、対策のための費用が増え、農家の収益は悪化する。被害を受ける農地は拡大しており、グリホサートの効力は低下していると分析した。作物別にみると、GM作物の普及が最も速かった大豆の被害が最も大きい

「本書」

しかし、雑草が特定の除草剤に対する耐性を獲得するという現象は以前から良く知られていました。それがグリホサートでも起こったに過ぎないのです。


(米国の)雑草学会によると、雑草が特定の除草剤に対する耐性を獲得し、その除草剤で枯れなくなること自体は珍しくない。1957年に最初のスーパー雑草がハワイのサトウキビ畑で確認されて以降、これまでに250種類のスーパー雑草が確認されている

しかし米国では大豆やトウモロコシのほか、綿花やテンサイの農家の大半がグリホサートという1つの除草剤に大きく依存してきたため、これまでのスーパー雑草問題とは重大性が大きく異なる。これまでは、スーパー雑草が誕生すれば、異なる除草剤に切り替えれば対処できたが、グリホサートに関しては、それに代わる除草剤がほとんどないからだ。

「本書」

グリホサートに耐性をもつスーパー雑草が出現する科学的なメカニズムは、No.102「遺伝子組み換え作物のインパクト(1)」に書いたとおりです。グリホサートは、植物が成長する基本的な仕組みのところを阻害する物質です。それは除草剤と言うより "除植物剤" であり、たとえば成長力が非常に強い竹もグリホサートで枯れます。しかし生命が生き残る仕組みは巧妙で、そういうグリホサートの効果を回避する突然変異体が現れる。グリホサートが広範囲に使われるほど、そういった変異体の出現確率は高まるわけです。

結局、「グリホサートとグリホサート耐性作物の組み合わせ」は「単一農薬の広範囲使用」に農業を誘導し、それが農家にとって深刻な事態を招いたのです。当然、モンサント社の業績も悪化し、除草剤部門もGM作物部門も売り上げが減少してリストラに追われるという状況になりました。

この事態に対応するためにモンサント社(及び大手の種子・農薬会社)がとった策は「"スーパー雑草" には、より強力な "スーパー除草剤" で対抗する」という方法でした。

モンサント社が目をつけたのは、以前から除草剤として使われていたジカンバという農薬です。モンサント社はジカンバをかけても枯れないGM大豆とGM綿花を開発し、これは2015年1月に米国農務省から認可されました。

しかしジカンバは揮発性が高く、農地に散布した後、空中に漂い、風に乗って周囲に飛散しやすいという特徴があります。つまり「ジカンバ耐性のGM大豆畑」にジカンバを散布すると、隣接した農地が「グリホート耐性のGM大豆畑」であれば、そこに飛散して大豆を枯らしてしまう危険性があるのです。案の定、2016年になると EPA(米国環境保護庁。United States Environment Prortection Agency) には、ジカンバによって作物を枯らされたという農家からの報告が多数寄せられるようになりました。農家間のトラブルも相次ぎ、殺人事件まで起っています。


2016年10月にはアーカンソー州で殺人事件も起きている。近くの農家がジカンバが自らの農地に飛散し、ジカンバへの耐性を持たない作物が枯らされたことに抗議したら射殺されたという。

地元メディアによると、第1級殺人の容疑で、アラン・カーティス・ジョーンズ容疑者(26)が逮捕された。射殺されたのは、大豆や綿花の農家マイク・ワレスさん(55)。ジョーンズ容疑者が働いていた農場で散布されたとみられるジカンバが自らの農地に飛散し、大豆を枯らされたことに腹を立て、抗議したところ、口論となり、銃で撃たれて死亡した。ワレスさんは銃を持っていなかった。

「本書」

実はモンサント社は、より揮発性の低い新しいジカンバを開発し、ジカンバ耐性大豆・綿花と同時期に EPA に認可申請をしていました。それがようやく2016年11月に認可されました(GM大豆・GM綿花は2015年1月に農務省によって認可済)。


農業界からは「ジカンバを使った新たな雑草管理が不可欠だ」(米大豆協会)との声が強まり、モンサント社も「新しいジカンバの揮発性は低く、古いジカンバのように周囲に飛散して問題になることはない」と強調、こうした声に押し切られ、EPA は2016年11月、ついに認可した。

ただ、新しいジカンバも周囲に飛散しやすいとして、EPAは認可に際し、風が強い時や空中からの散布は禁止し、農地の外に飛び出さないように、110フィート(33.5メートル)以上のバッファーを設けるなど、異例の条件も付けた。こうした条件を満たし、商品ラベルの指示どおりに使用すれば、人体や環境にとって安全だとの結論に至り、ゴーサインを出した。

「本書」

ジカンバに耐性を持たせた新GM作物と新ジカンバにより、モンサント社の業績はV字回復します。2017年8月期の純利益は、前年同期比59%増になりました。しかし、新ジカンバを市場投入しても被害はなくならなかったのです。


しかし、モンサントにとって深刻な事態も同時平行で進んでいた。前年(引用注:2016年)に続き、農家が散布したジカンバが周囲の農地に飛散し、ジカンバへの耐性を持たない作物を枯らしてしまう事態が発生していたのだ。しかも、件数は前年を大きく上回っている。

特に被害が深刻だったのは、南部のアーカンソー州だった。州当局に寄せられたジカンバに関する苦情は2017年6月から急増し、7月には600件に達した。事態を重くみた州当局は、7月11日から120日間、緊急措置としてジカンバの販売と使用を禁じることを決定した。同時に、違反した場合の制裁金をそれまでの1000ドルから2万5000ドルへと大幅に引き上げた。

「本書」

2万5000ドルの罰金というと、日本円で300万円近い大金です。アーカンソー州当局の危機感が伝わってきます。さらに深刻なのは、主な加害者も被害者も同じ大豆農家だということです。


ジカンバの飛散に関しては、特に大豆農家の被害が多く、米大豆協会は同年(引用注:2017年)10月、「被害は拡大している」との声明を出している。大豆農家から寄せられた苦情は全米で2000件を越え、全米の大豆農家の 3% 以上が被害を受けたという。

モンサントの説明どおりなら、ジカンバへの耐性を持たせたGM大豆の作付面積は2017年に2000万エーカーとなり、全米の大豆農地の2割以上を占める。しかし、裏返せば8割弱の大豆農家はジカンバ耐性を持たない大豆を生産しているため、周辺の農家が使ったジカンバが飛散してくれば作物は枯れてしまう。大豆は特にジカンバに弱い。この結果、大豆業界では多くの加害者と被害者が生まれるという深刻な事態に陥った

「本書」

被害はアーカンソー州だけではありません。大豆生産トップのイリノイ州やテネシー州、ミズーリ州など、全米の20以上の州で被害が発生しました。

最も被害が大きかったアーカンソー州では、2017年は7月11日からの120日間、ジカンバの販売と散布を禁止しましたが(上の引用)、2018年はこの禁止期間を4月16日から10月31日に拡大することを決めました。これは大豆の作付け(4~5月)から収穫(9~10月)までの期間であり、事実上のジカンバ使用禁止です。

EPA(米国環境保護庁)も2018年から「特別の訓練を受けた農家にだけジカンバを販売する」や「散布記録の保管」などの規制強化を決めました。しかしアーカンソー州のような使用禁止までには踏み込んでいません。これは、どちらかというとモンサント社の主張に沿った処置です。

モンサント社は、ジカンバの商品ラベルに記載された使用方法を守るなら(バッファー地帯の設定、専用ノズルの使用、正しい噴射圧力、など)農地外には飛散しないということを、実験やアンケートをもとに繰り返し主張しています。かつ、ジカンバとジカンバ耐性GM大豆を使用した農家からは、雑草管理で非常に満足する結果が得られたとの声が上がっています。

このような状況から、2018年のジカンバ耐性GM大豆の作付面積は、全米の大豆作付面積の4割になるだろうと予測されています。



以下は感想です。スーパー雑草とスーパー除草剤の話は、軍拡競争に似ています。他国を攻撃するミサイルを作ったとすると、それを撃ち落とすミサイル防衛システムが作られる。次には、その防衛システムを無力化するような新型ミサイルが開発される ・・・・・・。

ジカンバに耐性をもつ "ウルトラ雑草" が出現するのは時間の問題だと思われます。当然、モンサント社をはじめとする種子・農薬会社は、その出現を予測し、"ウルトラ雑草" に対抗する "ウルトラ除草剤" の研究と、それに耐性をもつ "新・新GM作物" の研究に余念がないのでしょう。だとしても、さらにその次には "スーパー・ウルトラ雑草" が出現するのでしょう。

この状況は、種子・農薬会社のビジネスが永続することを意味しています。ただし、"ウルトラ除草剤" とそれに耐性をもつ "新・新GM作物" が開発できなかったらアウトです。アウトにならないためには研究開発費がますます必要で、これは種子・農薬会社の合併・統合・巨大化を促進するでしょう。また業種を越えて、たとえば巨大穀物メジャー(穀物商社)が種子・農薬会社を買収するようなことが起こるのかもしれません。

こういった状況は、農業の主導権を農民・農業従事者ではなく、この資本主義社会の中の巨大企業が持つということを意味します。農業は製造業と違って世界のどこでも生産できるものではなく、その国の土地と自然に密着したものです。企業の存在目的を一つだけあげるなら「利益」であり、農業に企業の論理を持ち込むことは有益なことも多いと思いますが、行きすぎた利潤の追求は、一番大切なはずの農業従事者と自然環境の利益にはならない。米国のスーパー雑草とスーパー除草剤をめぐる "騒動" は、それが教訓だと思います。


GM作物で農業生産性は上がらない


全米科学アカデミー、全米技術アカデミー、米国医学研究所の3団体は、2016年5月にGM食品・GM作物に関する研究報告をまとめました。これは過去20年間に蓄積された900以上の研究報告を検証し、また80人の専門家から改めて話を聴いて400ページ近い報告書にまとめたものです。この報告書は「GM食品を食べることで人間の健康に悪影響が出るとの証拠は得られなかった」と結論づけました。

もちろん農業界や種子・農薬会社はこの報告を大歓迎しました、しかし GM食品の安全性に懸念を表明してき NGO からは、委員会メンバーは種子・農薬業界から多額の研究資金の提供を受けており、公正中立な報告ではないと批判しました。この報告書がGM食品の安全性論争に終止符を打つまでには至らなかったようです。

しかし注目すべきは、この報告書には健康問題のほかに、もう一つの重要な事実が指摘してあったことです。


もうひとつ、興味深い指摘がある。同委員会(引用注:報告書をまとめた専門化グループ)が、GM作物が導入されて以降、「米国で収穫量の増加ペースが高まったという証拠は得られなかった」と結論づけたことだ。生産性の指標として、単位面積あたりの収穫量が一般的に使われる。略して単収と呼ばれることも多いが、米国では栽培方法や品種改良といったさまざまな技術革新の成果によって、GM作物の投入以前から単収は右肩あがりで増えている。

GM作物に単収を高める効果があるのなら、GM作物の商品化以降は増加ペースが高まらなければおかしい。しかし、委員会が1980年以降の米農務省の統計を分析した結果、GM作物が投入された1990年代以降に単収の増加率が高まったとは言えないと結論づけた。モンサント社など種子メーカーは、GM作物を投入する目的について「農業生産性の増加」を挙げており、こうした業界の主張に真っ向から反論することになる。

「本書」

この委員会の指摘は重要です。つまり GM作物の導入の必要性として(種子・農薬会社によって)必ず語られるのが、増大する一方の世界に人口に対応するために農業生産性を増大させる必要があるということです。農業の適地はすでに開発し尽くされていて、農地の拡大には限界があるのです。つまり、

除草剤耐性GM作物の導入で、雑草が(低コストで)無くなり、
害虫耐性GM作物の導入で、害虫による農業被害が減少し、
乾燥耐性GM作物の導入で、干魃による農業被害が減少し、
その結果、収穫量が増えて農業生産性が増大し、
世界の食料増産に役立つ

という論理です。これが(少なくとも現時点では)正しくないことが結論づけられたわけです。GM作物に関しては、メリットとデメリットのバランスを考え直すべき時でしょう。


オーガニックへなびく消費者と Amazon の戦略


本書には、GM食物とも関係する "オーガニック商品" の状況が書かれています。アメリカ農務省(USDA。United States Department of Agriculture)は "オーガニック" であることの具体的条件を定めていて、その柱は「農薬を使わない」「化学肥料を使わない」「GM作物を使わない」の3点です。条件を満たすと「USDAオーガニック」のマークをつけて販売することができます。つまり「USDAオーガニック」の商品は自動的に「GM作物を使っていない」ことになる(= ノンGMO)わけです。

上の引用で有機取引協会(OTA)が「表示は義務化、ただし表示方法は企業の選択、デジタルリンクでもOK」という連邦法案に「一定の前進である」ことを理由に賛成したことを書きましたが(法案は成立)、オーガニックを推進したいという思いがあったのかもしれません。このオーガニック商品の伸びが顕著なようです。


有機取引協会(OTA)のまとめによると、2016年の米国でのオーガニック(有機)商品の売上高は470億ドルとなり、前年から37億ドル増え、過去最高を更新した。オーガニック商品のうち、繊維などを除いた食品が前年比 8.4%増の 430億89040万ドルとなり、全体を押し上げた。GM食品はオーガニックと名乗ることはできないため、オーガニック食品は「GM食品ではない」と判断する材料にもなる。

オーガニック食品の売り上げはこの8年間でほぼ倍増し、全食品に占めるオーガニックの割合は 0.4ポイント上昇の 5.3% となり、2016年に初めて 5% を越えた。

「本書」

本書には、2016年において、全野菜・果物の 15% はオーガニックになったとあります。この消費者の動向を見据え、大手食品メーカーもそれに対応した動きをしています。たとえばケロッグですが、"ケロッグ" ブランドのコーンフレークはGM食品ですが(QRコードによるデジタルリンクで表示)、子会社が別ブランドで展開するコーンフレークは「USDAオーガニック」や「ノンGMO」の表示を大々的に行い、オーガニックでかつGM食品でないことをアッピールしています。

このような消費者や食品業界の動向から、皮肉なことに米国産のオーガニック作物が不足し、輸入が急増する事態になっています。


米農業金融コバンクは、2017年1月、トウモロコシや大豆でオーガニック作物の輸入が急増しているとする興味深いレポートをまとめた。増化するオーガニック作物の需要に国内生産が追いつかず、輸入に頼らざるを得ないという現状を紹介している。米国はトウモロコシと大豆のいずれも世界最大の生産国だが、ほとんどはGM作物であるため、需要が高まるオーガニック作物については他国から供給を受けるという異常事態に陥っている。オーガニックの大豆やトウモロコシは、主に乳牛の飼料として使われている。

コバンクによると、オーガニック作物の不足は特に大豆で深刻で、2016年は8割を輸入に頼った。トウモロコシは5割程度だった。国内需要を国内生産で全て賄うためには、栽培面積を合計で100万~500万エーカー増やす必要があるという。2017年のトウモロコシと大豆の収穫面積(1億7220万エーカー)0.6~2.9%に相当する。

「本書」

0.6~2.9%の農地を有機栽培に切り替えるのは簡単そうに見えますが、これがそうではないのです。農務省(USDA)からオーガニックの認定を受けるには、最低3年の移行期間が必要です。また、「除草剤 + 除草剤耐性GM作物」の農業を「除草剤なし農業」にするのは農法の大転換になります。簡単には切り替えられません。

世界最大のトウモロコシと大豆の生産国であるアメリカが、ことオーガニック作物に関しては、8割(大豆)や5割(トウモロコシ)を輸入に頼るというのは、確かに異常事態です。



アメリカにおいて、オーガニックやノンGM食品にこだわってきたスーパー・マーケットが、ホールフーズ・マーケット(Whole Foods Market)です。ホールフーズは1978年の創業以来、有機野菜や自然食品、健康食品など、素材にこだわった品ぞろえを展開し、成長してきました。店内には「USオーガニック」のマークが貼られた商品や「ノンGMO」の表示がずらりと並んでいます。

アマゾン・ドット・コムは2017年6月、このホールフーズを137億ドル(日本円で約1兆5000億円)で買収すると発表し、2017年8月に買収を完了しました。アマゾンはさっそくホールフーズのオーガニック食品をネットで販売する攻勢をかけています。すでに一部の都市ではアマゾン・プライムのユーザを対象に、数千アイテムのホールフーズのオーガニック食品から 35ドル以上購入すれば2時間以内に無料配達するというビジネスを始めています。

Whole Foods - Organic Zone.jpg

Whole Foods - USDA Organic.jpg
Whole Foods の店舗内の "Organic Zone" の例と、Amazon.com で売られている Whole Foods のプライベート・ブランド商品の例。商品の右下に "USDA Organic" の表示がある。

アマゾンのホールフーズ買収は日本では「アマゾンがリアル店舗に進出」という文脈で報道されたと思うのですが、もう一つのアマゾンの狙いは、消費者の意識変化に対応して「オーガニック商材」を手に入れることでした。ひょっとしたら、これが買収の最大の狙いだったのかもしれません。


ノンGMO、オーガニックの社会的意義


以下は本書に描かれた「GM作物」「オーガニックへの動き」を読んだ感想です。オーガニックと言うと、無農薬、有機肥料、ノンGM作物ですが、これは "安全" で "健康に良い" と見なされることが多いわけです。しかし安全・健康だけでオーガニックを語ることはできない。本文中にあったように、GM作物が健康に良くないという証拠はありません。もちろん導入されてからまだ20年少々なので、長期にわたる摂取で健康に悪影響が出てくるというリスクはあります。しかし現在のところはそのリスクは顕在化していません。

むしろGM作物の問題点は、社会的な問題だと見えます。つまりGM作物はバイオテクノロジーを駆使する一握りの「大手種子・農薬会社」の農業支配を強めることになります。農民たちは企業の意のままに操られることになりかねない。またGM作物は明らかに「単一農薬の広範囲使用」に農業を誘導します。もっと大きく言うと「単一農法(品種や農薬、耕作方法)」に農業を誘導することになり、農業の多様性を奪ってしまう。これがリスクをはらんでいることは、スーパー雑草のところで見たとおりです。これが果たして「持続可能な農業」なのか。

健康問題に関して言うと、除草剤などの農薬の使用もそうです。少なくとも先進国では人体に危険を及ぼす農薬は規制され、また散布方法も規制されています。もちろん隠れたリスクは考えられて、たとえば人体には安全とされていたグリホサートも、近年発ガン性があるのではと疑われています。しかし大局的に言って、正しい農薬を正しい散布方法で使い、かつ正しく出荷すれば安全なのでしょう。

むしろ農薬の問題は「自然環境破壊」という社会的な問題だと思われます。人間には安全であっても、小動物や昆虫、土壌中の微生物にとってはそうではない(可能性がある)。日本の朱鷺が絶滅したのは餌の小動物が農薬の影響でいなくなったのが原因の一つと言われているし、メダカを見ることはほとんど無くなりました。朱鷺やメダカが絶滅しても、人間の暮らしは安泰に見えます。しかし、どこかでそのしっぺ返しがくるのではないか。人々がは潜在的にそう感じているこそ、オーガニック指向なのです。

また、化学肥料が健康に悪いという理由はありません。化学肥料は植物に必須の栄養素を人間が合成したものだからです。一方、農業・畜産の派生物から作った有機肥料は、土壌中の微生物がそれを分解し、植物の栄養素になる無機物(化学肥料の成分)を作ってくれて始めて、その有効性が発揮できます。つまり有機肥料は土壌の改善になります。だから、化学肥料より即効性がなくてコスト高であっても、有機肥料の価値があるわけです。また農業・畜産業におけるリサイクルの促進にもなります。

オーガニック(有機農法)は「農業従事者が主体の、自然によりそった農業」であり「持続可能な農業」です。だから少々高くてもオーガニック食品を選ぶというのがスジです。つまり健康問題よりも、社会的意義が大きいと思います。

工業製品と違って、食品・食料は自然環境と密接に結びついています。食料・食品に低価格や低コスト、利潤だけを求めてはならない。そのことがアメリカのGM作物の実態を通して改めて理解できるのでした。




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