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No.256 - 絵画の中の光と影 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の本(岩波書店 2018)の "さわり" を紹介しました。その三浦氏が、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されていました。日経の本紙なので読まれた方も多いと思いますが、「視覚心理学が明かす名画の秘密」の続編というか、補足のような内容だったので、是非、ここでその一部を紹介したいと思います。


左上からの光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」であったように、フェルメールの室内画のほぼすべては左上からの光で描かれています。それは何もフェルメールだけでなく、西洋画の多くが左上からの光、それも30度から60度の光で描かれているのです。その理由について No.243 であげたのは次の点でした。

画家の多くは右利きのため、窓を左にしてイーゼルを立てる。描く手元が暗くならないためである。

そもそも人間にとっては左上からの光が自然である。影による凹凸判断も、真上からの光より左上30度から60度からの光のときが一番鋭敏である。

三浦氏の「絵画の中の光と影 十選」には、この前者の理由である「画家は窓を左にしてイーゼルを立てる」ことが、フェルメール自身の絵の引用で説明されていました。ウィーン美術史美術館にある『画家のアトリエ(絵画芸術)』という作品です。

フェルメール「絵画芸術」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
画家のアトリエ」(1632-1675)
(ウィーン美術史美術館)

なるほど、これはそのものズバリの絵です。この絵において画家はマールスティック(腕鎮わんちん)の上に右手を乗せ、左上からの光でモデルの女性を描いています。現代ならともかく、照明が発達していない時代では描くときの採光が大きな問題だったと推察されます。そして、三浦氏は次のようにも書いています。


もっとも、画中の人物は右側からの光のもとで、牛乳を注ぎ、真珠をかざし、手紙を書いているのだ。右利きなら不自由なことだろう。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

この文章を読んでハッとしました。No.243 にも掲載したフェルメールの「手紙を書く女と召使い」という絵を思い出したからです。

手紙を書く女と召使い.jpg
フェルメール
手紙を書く女と召使い」(1670/71)
(アイルランド国立美術館)

2度も盗難にあったという有名な絵ですが、前々からこの絵にはある種の違和感というか、"ぎこちなさ" を薄々感じていました。この感じは何なんだろうと思っていたのですが、この絵は実は "不自然" なのです。女性がわざわざ手元を暗くして手紙を書いているからです。普通なら、座る向きを全く逆にして(ないしは窓に向かう位置で)手紙を書くでしょう。その方が明らかに書きやすい。三浦氏の文章で初めて、薄々感じていた "ぎこちなさ" の理由が分かりました。


教室の採光


「視覚心理学が明かす名画の秘密」に、学校の教室は左側に窓があり右側に廊下がある、これは多数を占める右利きの子供の手元が影にならないようにするためだろう、という話が書いてありました。この話について「絵画の中の光と影 十選」では次のようにありました。


日本でも、右利きの子供の手元が影にならないように、明治時代に『学校建築図説明及設計大要』が定められて以来、教室には左から光が入るようになっている。私たちも左上からの光に慣れているのだ。そのためフェルメールの光の方向は自然に感じられる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.4)

「視覚心理学が明かす名画の秘密」には書いてなかったのですが、「教室の左からの採光」は明治時代からの政府方針で決まったいたのですね。これは初めて知りました。


右上からの光:レンブラント


左上からの光が自然だとすると、右上からの光は "自然ではない" ということになります。この "自然ではない光" を「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、カラヴァッジョの『マタイの召命』と、キリコの『街の神秘と憂鬱』を例にとって説明してありました(No.243)。今回の「絵画の中の光と影 十選」で示されたのはレンブラントです。

レンブラント「ベルシャザルの酒宴」.jpg
レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)
ベルシャザルの酒宴」(1636-38)
(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)


この絵は旧約聖書の一場面を描いたものだそうだ。ベルシャザル王がエルサレムから略奪した器で酒を飲んでいると、虚空に右手が現れ、文字を描いた。不安にかられた王が捕囚の賢者ダニエルに意味を問うと、王の統治は長くないことが告げられ、その夜、彼は殺されたという。

フェルメールが穏やかな日々を左上からの光で描いたのに対し、レンブラントは穏やかならざる劇的な場面を右上からの光で描いた。

もっとも、キリスト教では左より右に価値が置かれ、神の右手がその働きを表すとされるので、画面右上に神の右手を描いたのだと解釈することもできる。しかし、そうだとしても、尋常ならざる強い光に慌てふためく人々の姿は、見慣れない右からの光に無意識に驚く私たちと重なるのかもしれない。そうだとすれば、右からの光はこの場面にぴったりだ。

光と影の画家レンブラントは効果的な構図を熟知していたに違いない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.5)

右上からの光が "尋常ならざる光" を表すとしたら、まさにこの絵はぴったりだと言えます。


右上からの光:応為


日本においても江戸後期になると西洋絵画の影響を受け、光と影の表現を用いる画家が出てきました。次の絵は北斎の三女の応為が描いた吉原の夜の光景です。明るい遊郭の遊女と、対比的に描かれる戸外の男たちの暗い背中、行灯あんどんの光も含めて、光と影が交錯する構図が大変に印象的です。

葛飾応為「吉原格子先図」.jpg
葛飾応為(1800頃-1866頃)
吉原格子先の図」(1818-48)
(太田記念美術館)


江戸後期に活躍した応為は西洋美術に触れ、陰影表現に心動かされたのだろう。格子や人が地面に落とす投映影と、人々の体を立体的に表す付着影を描き分け、平面的な浮世絵とは一風異なる画風を確立している。

西洋の絵画理論に、絵は左下から右上へと読まれるというものがある。そうなると光源を左上に設定するのが、全体を見渡す視点としては効果的だ。一方、日本では絵巻物でも漫画でも右から左へ進むように描かれる。仮にそれらに光源を設定するなら、右上の方が自然だろう。応為も無意識のうちに光源を右に設定し、左に伸びる影を描いたのではないか。

今や私たちの日常生活でも横書きを左から右に読む機会が増えている。そうなると、応為の描いた左に伸びる影は非現実的な印象を与えるかもしれない。遊郭という非日常的な世界を描くにはぴったりの光と影の構図ということになる。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.18)

三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、左へ伸びる影が非現実的な印象を与える例として、キリコの『街の神秘と憂鬱』があげてありました(No.243)。応為とキリコの絵は、文化的背景もテーマも描き方も全く違う絵だけれども「影の描き方と、それが人間の感情に与える効果については似ているところがある」ということでしょう。


下からの光:ドガ


左上からの光が「自然」、右上からの光が「非自然」とすると、下からの光は「まずない」ということになります。しかし、その下からの光で描いた作品があります。

ドガ「手袋をした歌手」.jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
手袋をした歌手」(1878)
(フォッグ美術館)


19世紀の初頭、パリの劇場は社交場でもあった。そのため、観客席もシャンデリアで明るく照らされていたそうだ。だが、ドガがこの絵を描いた頃には、客席を暗くし、舞台を下から照らす演出が現れたという。

この絵の不自然な陰影は、舞台下から光が当たっていることを、一瞬にして私たちに分からせる。だが、視覚判断からすると、これは例外的なケースなのだ。

私たちは陰影の位置をもとに凹凸を判断している。上方から光が当たると、膨らんだ部分は上部が光り、下部に影ができる。このため、脳は上が明るく、下部が暗いものは凸、逆に、上部が暗く、下部が明るいものは凹だと判断する。太陽にせよ、人工照明にせよ、日常光の多くは上方からくるので、この推論でたいていの場合、問題ない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

三浦氏が言っている「通常の上からの光による凹凸判断」が分かるのが次の図です。上の図は一つだけ凹のものがあると即断できます。一方、下の図は一つだけ凸のものがあると私たちは即断します。その下の図は、上の図の上下を反対にしただけです。我々の脳は上から光がくると暗黙に想定しているのです。地球上で生活している限りそれは自然です。

陰影による凹凸判断.jpg


ところが、この推論の前提を簡単にくつがえすケースがある。顔である。顔に限っては、上部が暗く、下部が明るい場合でも、鼻や頬が凹んでいるとは判断せず、下から光が当たっていると、仮説の方をひっくりかえすのだ。例外的とはそういう意味である。

特異な陰影をほどこし、背景を大胆に省略したドガのこの絵は臨場感にあふれ、とてもリアルだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.14)

人間が顔を認識するメカニズムは特別で、それは赤ちゃんのころから刷り込まれたものがあるということでしょう。

この絵ように下からの光で描かれた絵は、ほかには思い当たりません。しいて言うと、画面の下の方に置かれた蝋燭やランプだけを光源として人物を描いた場合、構図によっては人物の顔が下からの光で描かれることになります(たとえば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品など)。しかしこれは鑑賞者に光源が分かります。この絵のように「光源が不明だけれど下からの光だと瞬時に判断できる」というのではない。

その意味でこの絵は、既成概念を破って数々の実験的な構図で描いたドガの面目躍如という感じがします。


投映影と付着影:マグリット


葛飾応為が「投映影」と「付着影」を描き分けたとありましたが、本家本元のヨーロッパでは、この2種類の影そのものをテーマにした絵があります。ルネ・マグリットの作品です。

マグリット「ユークリッドの散歩道」.jpg
ルネ・マグリット(1898-1967)
ユークリッドの散歩道」(1955)
(ミネアポリス美術館)


絵の中央には、影の方向が逆の、2つの円錐えんすいが描かれている。円錐だけを取り出してみると、大きさも形も同一で、鏡像のようだ。だが、私たちはこれらを塔と道として認識する。このとき私たちは塔(立体)の付着影と、道(遠近)の投映影を区別していることになる。脳は円錐の周りの情報を統合して、最もありそうな見方を示すのだ。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)

この絵をさらに複雑にしているのは、イーゼルが窓の前にあり、どこまでが景色で、どこまでが絵なのか分からないことです。もちろん、景色も絵もすべてはマグリットが描いた2次元のカンヴァスの中にある。三浦氏は次のように書いています。


目の網膜という平面に映った像から3次元世界を知覚している私たちの日常もこれと似ている。見ている光景は、脳が選んだ見方の1つにすぎない。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.11)


色の恒常性:モネの特別な目


「視覚心理学が明かす名画の秘密」には "色の恒常性" ということが書かれていました(No.243)。つまり物体に光が当たると影ができ、色が変化する。しかし、我々の眼はもともとの色を推測して見てしまう。これが "色の恒常性" です。

19世紀、その "色の恒常性" を無視して戸外の風景を描く画家が現れてきました。印象派の画家です。「視覚心理学が明かす名画の秘密」では、ルノワールの『ブランコ』とモネの『ルーアン大聖堂』が例としてあげられていました。そのモネの『ルーアン大聖堂』が「絵画の中の光と影 十選」の最終回で解説されていました。

モネ「ルーアン大聖堂」(ポーラ美術館).jpg
クロード・モネ(1840-1926)
ルーアン大聖堂」(1892)
(ポーラ美術館)


モネはルーアン大聖堂を、さまざまな時刻や天候のもとで描き、33枚もの連作を残した。1枚として同じものはない。

日本にあるこの作品では、上部が夕日で赤く染まり、下部が前の建物の影が映り込んで灰色になっている。だがルーアンでこの建物を見た私たちは、晴れていようが曇っていようが、白い建物にしか見えないはずだ。視覚の性質で、影や陰りは無視するようになっているからだ。モネは特別な目と脳によって建物を異なる色で描き分けた。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

このモネの絵は「絵画の中の光と影 十選」の最終回です。上に引用に続けて三浦氏はシリーズ全体のまとめとして次のように書いています。


優れた絵画は視覚の秘密を明らかにする。秘密に触れると私たちの見方も広がっていく。

三浦佳世
日本経済新聞(2019.3.19)

絵画を見るひとつの視点として「視覚心理学」があり、そのことで絵画鑑賞の "幅" が広がるわけです。

画家は "見ることのプロ" です。その "見ること" とは、網膜の映像を解釈する人間の脳の働きです。その意味で、画家は「人間の脳の働きを究明するプロ」とも言えるでしょう。三浦氏の前著とあわせて、そのことがよく理解できるエッセイでした。




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No.255 - フォリー・ベルジェールのバー [アート]

No.155「コートールド・コレクション」で、エドゥアール・マネの傑作『フォリー・ベルジェールのバー』のことを書きました。この作品は、英国・ロンドンにあるコートールド・ギャラリーの代表作、つまりギャラリーの "顔"と言っていい作品です。

最近ですが、中野京子さんが『フォリー・ベルジェールのバー』の評論を含む本を出版されました。これを機会に再度、この絵をとりあげたいと思います。

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
フォリー・ベルジェールのバー」(1881-2)
(96×130cm)
コートールド・ギャラリー(ロンドン)


マネ最晩年の傑作


まず、中野京子さんの解説で本作を見ていきます。以下の引用で下線は原文にはありません。また漢数字を算用数字に直したところがあります。


『フォリー・ベルジェールのバー』は、エドゥアール・マネ最晩年の大作。画面左端にある酒瓶のラベルに、マネのサイン「Manet」と制作年「1882」が見える。この翌年、彼は51歳の若さで亡くなるのだ。

高級官僚の息子に生まれ、生涯、経済的に不自由せず、生活のため絵を売る必要もなく、生粋きっすいのパリジャン、人好きするダンディーで知られたマネだが、二十代で罹患りかんした梅毒ばいどくが進んで末期症状を迎え、壊死えしした片足を切断したものの、ついに回復できなかった。本作制作中も手足の麻痺まひや痛みに苦しみ、現地でデッサンした後はもはや外出できず、わざわざ自分のアトリエにカウンターをしつらえ、モデルをそこに立たせて描きついだ。少し絵筆を動かしてはソファで休む。その繰り返しだったという。

しかし完成作には脆弱ぜいじゃくさは感じられない。マネらしい力強い筆触と、くっきりしが黒は健在だ。構成もこれまでにない緊張感にあふれ、現実をそのまま写し取ったかに見せかけながら、実は絵画的たくらみに満ち、物語性も内包した玄人くろうと好みの絵になっている。ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。


運命の絵2.jpg
コートールド・ギャラリーはロンドンのコヴェント・ガーデンに近い「サマセット・ハウス」という建物の一角にある美術館で、その中に英国の実業家、サミュエル・コートールド(1876-1947)のコレクションが展示されています。こじんまりしたコレクションで、印象派・ポスト印象派の絵画は、わずか2室程度にあるだけです。しかし収集された絵画の質は素晴らしく、傑作が目白押しに並んでいる部屋の光景は壮観です。その中でもひときわ目を引くのが『フォリー・ベルジェールのバー』です。中野さんの説明にあるように、この作品はマネが画家としての力を振り絞って描いた生涯最後の大作です。

上の引用の最後で、少々唐突に「ラス・メニーナスを意識したものであろう」とあるのですが、これについては後で書くことにします。


フォリー・ベルジェール


マネの本作を理解するためには、題名となっている "フォリー・ベルジェール" を知る必要があります。そもそも "フォリー・ベルジェール" とはどんな場所だったのか。中野さんの解説を聞きましょう。


ここはパリのミュージックホール、フォリー・ベルジェール。建物がベルジェール通り近くにあったことからの命名だが、おそらくそれだけはあるまい。「フォリー」(Folies)は「熱狂した、酩酊めいていした」、「ベルジェール」(Bergere)は「やわらかい安楽椅子」の意なので、暗に性的奉仕する女性を想起させるねらいもあったのではないか。

設立は1869年(現存)、さまざまな階級の人々に一夜の刺激を提供する歓楽施設として、またたく間に人気を集めた。豪華な内装、きらめくシャンデリア。演目はオペラレッタやシャンソンなどの歌や演奏、パントマイムや派手なレヴュー、サーカス風の曲芸、見せ物など、実に猥雑わいざつきわまりなかった。現代日本人がイメージする劇場と違い、全客席が舞台に向いているわけでも、全観客の意識が舞台に集中するわけでもない。ボックス席ではきちんとした食事ができたし、立ち見でもバーで買った酒を飲めた。歩き回り、じゃべりまくるもの自由で、ある種の社交場としても利用された。

中野京子「同上」

上の引用のようなフォリー・ベルジェールの状況を知ると、この絵のヒロインであるスタンドバーの売り子嬢の "意味" も理解できるようになります。

実は文豪のモーパッサン(1850-1893)は、マネと同様にフォリー・ベルジェールを熟知していました(ちなみに彼も梅毒が原因で42歳で死去)。モーパッサンはマネの死の2年後(1885)に長編小説『ベラミ』を刊行しました。野心的な貧しい若者が金持ちの女性を利用してのし上がってゆく物語です。この『ベラミ』にフォリー・ベルジェールが登場し、マネが描いたスタンドバーについても書かれています。


ホールは2層で、上階ボックス席にはもっと上流人士たちが座っていた(引用注:1階は中産階級の客が多かった)。どちらにも内部をぐるりとめぐる回廊かいろうがあり、1階の大回廊には3つのスタンドバーが設置されていた。これについてもモーパッサンの容赦ない描写があり、いわく、

  「それぞれのスタンドバーには、厚化粧のくたびれた売り子が陣取り、飲料水と春を売っている。うしろの背の高い鏡に彼女らの背中と通行人の顔が映っている
(モーパッサン『ベラミ』中村佳子訳・角川文庫)

スタンドバーの売り子嬢が提供するのは飲み物だけではない、彼女たちは娼婦とさして変わらない、そう見做みなされていたわけだ。本作におけるマネのヒロインが例外ということはあり得ないだろう。

中野京子「同上」

この絵の構図の特徴は、画面下部に描かれたスタンドバーのカウンターと、その背後の画面のほとんどを占める鏡です。これによってフォリー・ベルジェール内部を活写するというしかけになっています。


カウンターには、オレンジを盛ったガラスの器や薔薇ばらを二輪活けたグラス、富裕層向けの高級シャンパンから、低所得者用の安価なイギリス産ビール(三角のラベルに Bass の文字がかすかに見える)まで、雑多な客層にあわせて取りそろえられている。

ヒロインの腕輪のすぐ下あたりに、金色の太い鏡の額縁がオレンジの器のところまで続いている。モーパッサンが書いていた「うしろの背の高い鏡」がこれだ。つまりここから上に描かれているものはどれも鏡像だ。大理石のカウンターも酒瓶も、2階のバルコニーや、その後ろにひしめく人々も、天井から下がる巨大なシャンデリアも。

ホールは紫煙しえんにけむっている。男も女も(時に子どもまで)盛んに煙草を吸った時代なので、それらに香水やら酒、料理や汗の匂いも入り混じり、よどんだ空気は息苦しいほどだったろう。そこへ楽器の調べや歌声、ダンサーが床を踏みならすステップ音、絶えざるおしゃべり、グラスや食器の触れ合う音まで加わる混沌こんとん状態である。

中野京子「同上」


背の高い鏡


絵の構図の大きな特徴は、カンヴァスの多くを鏡像が占めていることです。そしてよく指摘されることですが、この鏡像は一見リアルに見えてそうではありません。

まず、売り子嬢の向かって左にある酒瓶の鏡像が奇妙です。カウンターと鏡はカンヴァスに平行なはずなのに、酒瓶の鏡像の位置は右に偏り過ぎています。このように映るためには、鏡がカウンターに対して斜め(=向かって左に奥行きがあり、右がせり出してきている)になっていなければなりません。また、位置だけではなく酒瓶の数が不一致だし、シャンパンとビールの位置関係が鏡像で逆転しています。

何より奇妙なのは、カンヴァスの右の方の女性の後ろ姿です。これは売り子嬢の鏡像と考えるしかないわけですが、だとすると酒瓶と同じで、鏡を斜めに設置しない限りこの位置に映ることはありえない。

その売り子嬢と話している髭を蓄えたシルクハットの紳士ですが、この紳士は左右の位置関係に加えて高さが変です。フォリー・ベルジェールのスタンドバーの床はホールの床より高いので、本来なら彼女の方が紳士を見下ろすはずですが、それが逆になっている。中野さんは「厳然たる階級の上下を示すごとく、見下ろしているのは紳士だ」と書いています。

マネは意図的な空間処理をして、アートとしての構図を目指しました。中野さんは次のようにまとめています。


ありない場所にヒロインの背中が映る ─── イルージョンなのだ。フォリー・ベルジェール自体が壮麗そうれいなイルージョンなのと同じように。

中野京子「同上」


空中ブランコ乗り


中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』に描かれている2人の女性のことを書いています。一人はもちろんスタンドバーの売り子嬢ですが、もう一人は空中ブランコ乗りです。このあたりが評論のコアの部分です。

まず空中ブランコ乗りですが、カンヴァスの左上に空中ブランコと青緑の靴を履いた小さな足(=女性の足)が描かれています。情報はこれだけなので、どんな女性かはわかりません。ただ、空中ブランコ乗りは当時の貧しい少女の憧れの職業だったといいます。


空中ブランコ乗りは ── オペラ座のバレリーナと同じく ── 貧しい少女の憧れだった。報酬は多く、金持ち連中の品定めの対象なので、チャンスをつかめばステップアップできる。しかし曲乗りには常に危険が伴い、怪我けがをしたら続けられない。

後年、著名な画家ユトリロの母となり、自らも画家として名をなすシュザンヌ・ヴァラドンも、少女の頃の夢は空中ブランコ乗りだった。11歳から働きづめに働いてついに15歳で夢をかなえるが、数年後に落下してモデル業へ転じた(ロートレックが意志的で個性的な彼女を描いている)。後の展開を考えれば、ブランコから離れざるを得なくなったのも不幸とばかりは言えないが、怪我をした当初のショックはいかばかりだったか。補償も何もなかったのだ。

中野京子「同上」

The Hangover (Suzanne Valadon).jpg
アンリ・トゥールーズ = ロートレック(1864-1901)
「二日酔い(シュザンヌ・ヴァラドン)」(1887/9)
(ハーバード美術館)

ユトリロは10代でアルコール中毒になるのですが、その治療の一貫で母は息子に絵を描くことを勧めます。母は、大画家になるような絵の才能が息子にあるとは思っていなかったようです。こういった話は、シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロの "母子物語" によく出てきます。もし、ヴァラドンが空中ブランコで怪我をしなかったらモデルになることはなく、従って画家になることもなかったと推察できる。ヴァラドンとユトリロの親子関係の発端は、空中ブランコからの落下にあるとも言えそうです。


スタンドバーの売り子嬢


さて『フォリー・ベルジェールのバー』のヒロインである、スタンドバーの売り子嬢です。中野さんは彼女の境遇と心情を想像する文章を書いているのですが、そこが評論のキモの部分です。少々長くなりますが、そのあたりの文章を引用します。


大理石のカウンターに両手を乗せ、金髪の売り子嬢はまっすぐ正面を向いている。視線は定まらない。整った顔立ちとぼってりした官能的な唇。だが表情はうつろだ。ほんの一瞬、孤独が木枯こがらしのようによぎったとでもいうように。

当時の流行色は黒なので、ドレスもチョーカーも黒。肌の白さ、明るい髪の毛、そして頬紅の赤を引き立てる。レースで縁取りしたドレスの胸元はかなり大胆にあき、その谷間を隠すように生花が飾られている。上着のボタンがまっすぐ列をなし、ヒロインの存在感を強調する。

中野京子「同上」

A Bar at the Folies-Bergere.jpg
エドゥアール・マネ
「フォリー・ベルジェールのバー」
コートールド・ギャラリー(ロンドン)

"ありえない位置" に描かれた女性の後ろ姿が売り子嬢だとすると、彼女はシルクハットの紳士と向かい合っていることになります。はたしてそれは現実なのか、それともイルージョンなのか。フォリー・ベルジェールは現実世界であると同時に、客にイルージョンを提供しています。だとするとこの作品の鏡の向こうの世界も、現実の反映と同時に、その一部は幻影なのかもしれない ・・・・・・。


空虚なひとみの売り子嬢は、実際に今、紳士と向き合っているのだろうか、それとも想像の中でそう願っているだけなのか。あるいはすでにもう紳士と何か言葉をわし、期待はずれだったのか、約束はしたが心おどるものではないのか。

そもそも彼女に肝心かんじんな能力があるのだろうか。男に夢をみさせることによって、この世を乗り切る能力が ・・・・・・。

19世紀後半のパリ。あなたは貧民街に生まれた。父が誰か、知らない。母は病弱だ。あなたはろくに教育も受けられず、母と自分自身を養うために必死にかせがねばならなかった。花売り、走り使い、傘工場の工員、洗濯女、お針子、モデル、エトセトラ、エトセトラ。女性の働き口は極端に少なく、給金はすずめの涙。歌手やバレリーナになるだけの才能もない。唯一の救いは、若さと綺麗な顔。それだけを資本に短期間にい上がらねばならない。失敗したら街角に立つ老いた娼婦という末路まつろがあるのみだ。

フォリー・ベルジェールで売り子嬢の募集があった。口をきいてくれた男に何度か嫌な思いをさせられたが、耐えてようやく仕事を手に入れた。チップが多いので、実入りは悪くない。いろんな男が近づいてくる。目をみはるほどの美貌の青年にビールを売ったが、自分と同じ貧しさとギラギラした野心の匂いをぐ。用はない。相手もこちらに用はない。

やがてあなたが空中ブランコ乗りの少女と仲良くなり、ときどき言葉を交わす。似たり寄ったりの境遇だったが、観客をかす芸ができる少女をうらやむ。しかし少女は練習中にブランコから墜落し、足を痛めて店から去っていった。

数年たち、あなたはあせりだす。早く良きパトロンを見つけなければ、若い新人に仕事を奪われてしまう。髭の紳士が話しかけてきた。好きなタイプではない。しかしそんなことを言っている場合だろうか。妥協だきょうすべきではないのか。

運命の分岐点に立つあなたの前を、ふと孤独が木枯らしのようによぎった ・・・・・・。

中野京子「同上」

中野京子さんの絵画の評論は、画家が絵に込めた(ないしは秘めた)物語を解き明かす、というタイプが多いわけです。もしくは、制作の背景や画家の心情と絵画表現との関係性を明らかにするタイプです。しかし上の引用はそうではなく、絵から受ける印象をもとに物語を想像(創作)したものです。それもまた、絵画を鑑賞する一つの方法です。その中にさりげなくモーパッサンの『ベラミ』の主人公を思わせる表現(貧しいが美貌の青年)と、シュザンヌ・ヴァラドンの10代の経験(空中ブランコからの転落)を織り込んだのが、上に引用した文章なのでした。

最大のポイントは、売り子嬢の「空虚な瞳、虚ろな表情」です。引用しませんでしたが中野さんは「目の焦点はどこにも合っていない。虚無」とも書いています。もし彼女が今現在、シルクハットの紳士と会話しているのなら「虚ろな表情」はおかしいわけです。売り子嬢としての "仕事用のみ" を浮かべているはずです。しかしそうはなっていない。ということは、カンヴァスの右側に描かれた彼女と紳士の鏡像は、彼女の幻想(ないしは期待)かもしれないし、あるいは数10分前の回想かも知れない ・・・・・・。そう思わせるところがこの作品のポイントであり、そこから中野さんのような創作物語も生まれるわけです。

人は人の表情に敏感です。ちょっとした表情の変化、目や口や頬の微細な動きが作り出す "光" や "影" を感じ取ってしまいます。それは人がこの社会で生きていくために大切な能力です。マネの筆致は「空虚な瞳、虚ろな表情」とる人に感じさせるヒロインの表情を作り上げた。それがこの絵に物語性を付与した。そういうことだと思います。

この作品には何重ものたくらみや仕掛けが込められています。その仕掛けの中で、大都市パリの "今" を描き切ったものと言えるでしょう。


ラス・メニーナス


さて、『ラス・メニーナス』(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を引用)のことです。中野さんは『フォリー・ベルジェールのバー』について、

  ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス』を意識したものであろう。

と、さらりと書いているのですが、なぜそういった推測が出てきたのでしょうか。また、これは妥当なのかどうか。

一見すると『ラス・メニーナス』を意識したとは見えないのですが、おそらく「たくらみのある空間構成」という点が似ていて、そういう推測になったのだと考えられます。

一般に、画家が先人にインスピレーションを得て絵を描く場合、そのありようは多様で、かつ微妙です。思い出すのが「ラス・メニーナスへのオマージュ」として描かれた、ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)の『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(1882。ボストン美術館。以下「ボイト家の娘たち」)です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で紹介した絵ですが、しくも『フォリー・ベルジェールのバー』と同じ年に描かれました。No.36 にも書いたのですが、この絵は2010年にボストン美術館からプラド美術館に貸し出され、プラド美術館は招待作品として『ラス・メニーナス』と並べて展示しました。天下の2大美術館が「ボイト家の娘たち」はベラスケスを踏まえた絵だと認めたことになります。

一見しただけでは「ボイト家の娘たち」が『ラス・メニーナス』へのオマージュ作品とはわかりません。しかしよく見ると空間構成に類似性があります。まず手前に室内の光、その奥に闇、闇の向こうに窓の光という空間構成であることです。また、4人の姉妹を年齢順に手前から奥へと、ポーズを変えて配置して空間を演出しています。これによって一つの空間に「少女の成長 = 時間の流れ」を表現したかのように見える。2つ描かれている有田焼の大きな壷の配置も独特です。こういった「企みのある空間構成」が似ています(その他、No.36 参照)。

だとすると、マネの『フォリー・ベルジェールのバー』が『ラス・メニーナス』を意識したぐらいのことは十分にありうる。それに、マネは明白にベラスケスへのオマージュだとわかる作品を描いています。それが『悲劇役者(ハムレットに扮するルビエール)』(1866。ワシントン・ナショナル・ギャラリー)で、この絵がベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』に感銘を受けて描かれたことは、No.36「ベラスケスへのオマージュ」に書きました。

さらにマネは『ラス・メニーナス』を絶賛しています。No.230-1「消えたベラスケス」で紹介した、英国の美術ジャーナリスト、ローラ・カミングの本には、『ラス・メニーナス』を見たマネについて次のように書かれています。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

そこまで絶賛する絵なのだから、画家人生の最後に『ラス・メニーナス』を意識した絵を描くことは十分考えられると思います。『悲劇役者』ならスペイン訪問(1865)のすぐあとに描けた(1866)。しかし『ラス・メニーナス』を踏まえた絵など、そう簡単に描けるものではない。マネはいろいろと構想を練り、やっと16年後に『フォリー・ベルジェールのバー』に辿たどりついた ・・・・・・ というような想像をしてもよいと思います。

そして『ラス・メニーナス』と『フォリー・ベルジェールのバー』の類似性を言うなら、やはり「鏡」です。『ラス・メニーナス』のキー・アイテムの一つは国王夫妻が映っている鏡です。ということは、鑑賞者の位置には国王夫妻がいることになります。そのアナロジーから言うと『フォリー・ベルジェールのバー』の鑑賞者の位置にはシルクハットの紳士がいることになる。いや、そんなことはありえない、あまりに位置関係が違い過ぎる。とすると、紳士の鏡像は幻影なのか ・・・・・・。

鏡を、19世紀の時点で最大限に効果的に使った絵、それが『フォリー・ベルジェールのバー』だと言えるでしょう。


鏡の中の世界


その鏡ですが、『ラス・メニーナス』の鏡は数十センチ程度の小さなものです。これは17世紀の絵であって、当時は完全に平面の大きな板ガラスを製造するのが困難でした。ところが19世紀のマネの時代になると、技術進歩によってヒトの背丈より高いような鏡が作れるようになった。

現代の我々は、人間の背丈より高い大きな鏡を見ても何とも思いません。そういう鏡をよく見かけるからです(私の家にもある)。しかし19世紀の時点で大きな鏡を目のあたりにした普通の市民は感激したのではないでしょうか。鏡の向こうにもうひとつの世界が展開しているようにリアルに思えるのだから。

鏡で思い出すことがあります。マネと同じ年に生まれた英国の学者で作家のルイス・キャロル(1832-1898)は、1865年に『不思議の国のアリス』を出版しました。これが大変に好評だったため、キャロルは続編の『鏡の国のアリス』(1871)を出版しました。『フォリー・ベルジェールのバー』が描かれる10年前です。この本の原題は『Through the Looking Glass - 鏡を通り抜けて』で、アリスが「鏡の向こうはどんな世界だろう」と空想するところから始まるファンタジーです。原書には、まさにアリスが鏡をすり抜ける挿し絵があります。『不思議の国のアリス』ではウサギの穴が異世界への入り口でしたが、今度は「姿見」が別世界への入り口なのです。

ThroughTheLookingGlass.jpg
鏡の国のアリス」より
Through the Looking Glass
初版本にジョン・テニエルが描いた挿し絵

キャロルにとっても、大きな鏡や姿見によって "こちらの世界" と "あちらの世界" が同居するようにリアルに感じられるのが、インスピレーションの源泉となったのではないでしょうか。『鏡の国のアリス』のストーリーのキー・コンセプトは、"逆転"、"あべこべ" です。鏡の向こうの世界は、現実(=真実)を映し出すものであると同時に、左右が反転した幻影の世界、イルージョンなのです。

おそらくマネもフォリー・ベルジェールのスタンドバーの後ろにしつえられた鏡に引きつけられるものがあったのだと思います。プラド美術館で見た『ラス・メニーナス』の記憶が戻ってきたのかもしれない。

『フォリー・ベルジェールのバー』は、近代文明の産物(鏡)と大都会の歓楽街(店)、その都会で必死に生きる女性という "現代" を描き切った傑作でしょう。もちろんそこに『ラス・メニーナス』に迫ってみたいという画家としての "野心" があったのかも知れません。


英国・BBCの調査


『フォリー・ベルジェールのバー』の評論は、中野京子さんの「運命の絵」シリーズの2作目(副題:もう逃れられない)に掲載されたものですが、1作目の「運命の絵」(文藝春秋。2017.3.10)に興味深い話がのっていました。ちょっと引用してみます。


面白い調査がある。

2005年に英BBCラジオが行った聴取者アンケート、「イギリス国内の美術館でることができる最も偉大な絵画は何か」に、12万人もが回答。結果は日本人にとって(いや、たぶん世界中でも)意外なものだ。

1位 『戦艦テレメール号』
ターナー(英)
2位 『干草車』
コンスタブル(英)
3位 『フォリー・ベルジェールのバー』
マネ(仏)
4位 『アルノルフィーニ夫妻の肖像』
ファン・エイク(フランドル)
5位 『クラーク夫妻と猫のパーシー』
ホックニー(英)
6位 『ひまわり』
ゴッホ(蘭)
7位 『スケートに興じるウォーカー師』
レイバーン(英)
8位 『イギリスの見納みおさめ』
ブラウン(英)
9位 『キリストの洗礼』
デラ・フランチェスカ(伊)
10位 『放蕩児一代記』
ホガーズ(英)

投票者の年齢性別は不明だが、ちょっとこれはないのでは ・・・・・・ と思う作品がいくつか混じっている。画家10人中、6人がイギリス人(スコットランドを含む。また一人はアメリカで活躍)というのも身贔屓みびいきすぎる。「最も偉大な絵画」ではなく、単に「お気に入りの絵」とすべきではなかったか。

ロンドン・ナショナル・ギャラリー1館だけでも、ティツィアーノ、ルーベンス、ボッティチェリ、ブロンツィーンノ、ホルバインなど傑作ぞろいなのに見向きもしない。それなら我が国にゆずってほしい、とイタリア人が言いそうだ。イギリス人は視覚芸術がわかっていない、とフランス人が言いそうだ。

ただこのランキングには「文学の国」イギリスらしさが如実にょじつにあらわれており、肖像画や風景画にさえ物語性を求める傾向がうかがえる


運命の絵1.jpg
表紙の絵はシェフールの「パオロとフランチェスカ」
6人もランキング入りしたイギリス人画家の作品の中で、唯一、納得性が高いのは、1位のターナーの『戦艦テレメール号』でしょう。役目を終えた戦艦が解体のためにテムズ川を曳航されていく、夕陽を背景に、哀愁を帯びて ・・・・・・ という絵です。しかしその他の絵はあまり知らないし、名前さえ知らない画家がある。コンスタブルの『干草車』はどこかでた記憶があるのですが、忘れてしまいました(調べてみると、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。

「自国の画家びいき」になってしまったのはやむを得ないのでしょう。逆のことを考えてみたらわかります。日本で NHK が同様の調査をしたとして、エル・グレコ(大原美術館)、ゴッホ(損保ジャパン日本興亜美術館)などに加え、長谷川等伯、円山応挙、伊藤若冲、葛飾北斎、横山大観、東山魁夷の傑作がランクインしたとしても(これは例です)、一般のイギリス人に理解できるのは北斎ぐらいに違いないからです。

「自国の画家びいき」はやむを得ない。それを認めたとして、だったらジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』(テート・ブリテン)が入っていないのは、いったいどういう訳なのでしょうか ・・・・・・。やはり不思議なリストです。



不思議なリストではあるが、注目すべきは "外国画家" の作品です。ランクインした4作品のトップがマネの『フォリー・ベルジェールのバー』なのですね(しかも3位)。それも『アルノルフィーニ夫妻の肖像』や『ひまわり』といった "強豪"、その他の中野さんがあげている画家やピカソ(たとえばテート・ギャラリーの『泣く女』)などの "強豪" を押さえてのトップです。

その理由はというと、中野京子さんがあげたキーワードである "物語性" ではないでしょうか。『フォリー・ベルジェールのバー』以外の "外国画家" の作品もそうです。ファン・エイクの絵は、種々の解説にあるように明らかに物語性があります(またしても "鏡" が登場。No.93「生物が主題の絵」に画像を掲載)。デラ・フランチェスカの絵のような宗教画(や神話画)は、その背後に "物語" がべっとりと付着していることは言うまでもありません。ゴッホの『ひまわり』は、それ自体には物語性がありませんが、一般の鑑賞者は、あまりにも有名になってしまったゴッホの生涯、特にパリ→南仏→パリ近郊という約3年間の "ゴッホ物語" を意識するわけです(そう言えば、耳切り事件の直後の包帯をした自画像がコートールドにある)。

そういった中での『フォリー・ベルジェールのバー』です。この絵の前に立つと、まず "普通とはちょっと違う絵" だと直感できます。そして、売り子嬢や、カンヴァスに配置されたさまざまなアイテムを順にていくと、次第に "物語" を意識するようになる。

この絵が傑作たるゆえんは「現代を描き切ったこと」に加え、そこに込められた「物語性」である。そういうことだと思います。




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No.254 - 横顔の肖像画 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」の続きです。No.217 ではルネサンス期の女性の横顔の肖像画で傑作だと思う作品を(実際に見たことのある絵で)あげました。次の4つです。

A: ピエロ・デル・ポッライオーロ
  若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

B: アントニオ・デル・ポッライオーロ
  若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

C: ドメニコ・ギルランダイヨ
  ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

D: ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

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A と C はそれぞれ、ポルディ・ペッツォーリ美術館とティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっている作品です。そもそも横顔の4枚を引用したのは、ポルディ・ペッツォーリ美術館の "顔" が「A:若い貴婦人の肖像」だからでした。その A と B の作者は兄弟です。また D は、ミラノ時代のダ・ヴィンチの手が入っているのではないかとも言われている絵です。

これらはすべて「左向き」の横顔肖像画で、一般的に横顔を描く場合は左向きが圧倒的に多いわけです。もちろん「右向き」の肖像もあります。有名な例が、丸紅株式会社が所有しているボッティチェリの『美しきシモネッタ』です。これは日本にある唯一のボッティチェリですが、いつでも見れるわけではないのが残念です。

というように「右向き」もありますが、数としては「左向き」が遙かに多い。その「左向き」が多い理由ですが、No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で心理学者の三浦佳世氏の解説を紹介しました。左向きが多いのは、

顔の左側の方が右脳の支配によって豊かな表情を示す

画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単

西洋の絵では一般に光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされて明るく輝く

の3つで説明できると言います。そして、3番目の「西洋の絵では一般に光源を左上に設定する」理由は、

アトリエで画家は左側に窓があるようにイーゼルを立てることが多い。多くの画家は右利きだから

人間は左上からの光に最も鋭敏に反応する生理的性質がある

です。前者は、特に照明が発達していない近代以前ではそうでしょう。後者の「左上からの光に最も鋭敏に反応する」というのは心理学者らしい説明です。人間は左上からの光に照らされた状況で認知能力が最も良く働くようにできているそうです(No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」参照)。



A,B,C,D はいずれも15世紀後半のイタリア人画家による作品です。ルネサンス期のイタリアで横顔の肖像が多数描かれたからですが、しかし近代になってからも横顔の肖像は描かれていて、その中には有名な作品もあります。今回はそういった中から何点かを取り上げたいと思います。


ホイッスラー


画家の母の肖像.jpg
ジェームス・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)
画家の母の肖像」(1871)
(オルセー美術館)

この絵はオルセー美術館にあるので、実際に見たことがある人も多いと思います。ホイッスラーの代表作(の一つ)とされている作品です。

この絵のように「全身の座像を真横から描く」肖像画は、あまりない構図だと思います。著名な画家の有名作品では、ちょっと思い当たりません。近いのは、フラゴナールの『読書する娘』(1769頃。No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)や、次のカサットの作品かと思います。ただしこれらは全身像ではありません。その意味でホイッスラー絵は西洋美術史でも際だっているのではないでしょうか。

この絵の当初の題名は「灰色と黒のアレンジメント 第1番」だったそうです。黒、灰色、茶色系で統一された、モノトーンっぽい色使いが印象的です。直感的に思い出すのは同じホイッスラーの「白のシンフォニー No.1:白衣の少女」です(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」)。こちらの方は、さまざまな種類の "白" で画面が構成されています。シンフォニーが音楽用語ということからすると、アレンジメントも「音楽用語としてのアレンジメント = 編曲」だと考えられます。

ホイッスラーの母親は敬虔なクリスチャンだったようです。この絵の全体に漂うのは「静かで」「落ち着いていて」「抑制が利いていて」「謙虚で」「質素で」「礼儀正しく」「穏和な」感じです。おそらく母親は神への信仰とともにまじめに働き、子を育て、コミュニティーの一員としての役割や義務を全うしてきたのでしょう。ホイッスラーの母親の経歴は全く知りませんが、そういうことを感じさせる絵です。

その感じを倍加させているのが「構図」と「色使い」です。構図について付け加えると、背景になっているカーテン・床・壁・額縁・椅子の足の直線群と「左向き全身座像」の曲線群が対比され、調和しています。この構図のとりかたと黒・灰・茶の色使いで、画家は母親の真の姿を、その生涯を含めて表現しようとした。と同時に、この絵には画家の母親に対する敬愛の念がにじみ出ているようです。いい絵だと思います。


カサット


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メアリー・カサット(1844-1926)
秋 - リディアの肖像」(1880)
(プティ・パレ美術館)

パリで活躍したアメリカ人画家、メアリー・カサットのことは、
 No.86「ドガとメアリー・カサット」
 No.87「メアリー・カサットの少女」
 No.125「カサットの少女再び」
 No.187「メアリー・カサット展」
の4回に渡って書きました。今回もカサットの作品を引用します。

描かれているのはメアリーの8歳上の姉、リディア・カサットです。この絵が描かれる3年前(1877年。メアリーがドガに初めて会った年)、メアリーの両親とリディアはアメリカを離れてパリに移り住み、メアリーと同居を始めました。メアリーは姉をモデルにかなりの作品を描いていて、このブログではリディアがドガの姪と馬車に乗っている絵を引用したことがあります(No.97「ミレー最後の絵:続フィラデルフィア美術館」)。またルーブル美術館におけるメアリーとリディアを描写したドガの版画もありました(No.224「残念な "北斎とジャポニズム" 展」)。そのリディアはブライト病という腎臓疾患にかかっていて、1882年に亡くなります。ちなみにメアリーは父親も母親もパリで看取りました(それぞれ1891年と1895年)。

この絵はリディアが、おそらくパリの公園のベンチに座っている姿の描写だと考えられます。リアルに描かれたリディアの表情は、病気のせいか非常に固いものです。ただ、その周りには秋を感じさせるさまざまな色彩がちりばめられていて、リディアの服のあたりはまるで抽象画のようです。その対比が印象的な作品です。


クリムトの2作品


横顔を見せる少女.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横顔を見せる少女」(1880頃)
(東京富士美術館)

制作年をみてもわかるように、クリムトが18歳の頃に描いた作品です。また 24cm × 17cm という小さな絵です。日本にある作品で、八王子の東京富士美術館が所蔵していています。

今まで引用した若い女性の絵とはうってかわって、大変に暗い色調です。黒と茶色系と少しの暗緑色しか使われていない。少女の表情は左の方にある何かを凝視している感じです。何かに挑もうとしているような、鋭い視線を投げかけています。

その中で強く印象付けられるのは、ハイライトがかかった薄青色の瞳と、赤いルージュをひいた唇と、首飾りの白いきらめきです。この3つのポイントが特に目立つ。東京富士美術館の解説では「後のクリムトの絵画を特徴づける装飾性の萌芽を感じることができる貴重な作品」とありました。この絵自体に装飾性はないので「装飾性の萌芽を感じることができる」とした美術館の意図はわかりませんが、瞳・唇・首飾りだけを浮かび上がらせるようにした描き方が "萌芽" ということかもしれません。



ヘレーネ・クリムトの肖像.jpg
グスタフ・クリムト
ヘレーネ・クリムトの肖像」(1898)
(ベルン美術館)

クリムトが36歳ごろの作品です。「横顔を見せる少女」とはうってかわった感じの絵で、愛らしい少女を描いています。

ヘレーネ・クリムトはクリムトの弟・エルンストの娘で、つまりクリムトの姪です。伝記によるとエルンストは1891年に結婚、同年にヘレーネが生まれますが、翌1892年にエルンストは急死してしまいます。クリムトは残された母娘を預かる身となり、ヘレーネの法律上の保護者になります。つまりヘレーネはクリムトにとって "娘同然の" 存在だったことになります。本作はヘレーネが6歳のときの作品です。

クリムトの絵というと、その特徴は装飾性です。神話などの空想の世界をを題材にした絵はもちろん、リアルな筆致で描いた肖像にも周りに花を配置したり、装飾模様や形と色のパターンを描き込んだりする(No.164「黄金のアデーレ」)。風景画も傑作が多数ありますが、いかにも装飾的です。

それに対して「ヘレーネ・クリムトの肖像」にはクリムトらしい装飾性が全くありません。リアルに描かれた少女は横顔だけですが、あくまで愛らしく、素早い筆で描かれた衣服の描写との対比が心地よい。

この絵は、画家が "自分の子供" を描いたと考えればよいのだと思います。一般に画家の子供がモデルという絵をときどき見かけますが、その画家の画風とは違っていて "アレッ" と思うことがあります。つまり画家の本来の姿の一端を覗いたような感じを受けることがある。この絵もそういった一枚だと思います。

付け加えるとこの絵の特徴は「上半身だけを描き、顔だけでなく体も真左を向いた絵」ということです。そこが「横顔を見せる少女」(やホイッスラー、カサットの絵)と違います。この特徴は、初めに引用したルネサンス期の肖像画と同じです。ひょっとしたらクリムトは、愛らしい姪を描くときに400年前のイタリアの肖像画を踏まえたのかも知れません。

この絵は、2019年4月23日から日本で開催される「クリムト展 ── ウィーンと日本」で展示されるようです(東京都美術館、豊田市美術館)。是非、鑑賞にいきたいと思います。

【補記:2019.4.28】 2019年4月23日から東京都美術館で開催されているクリムト展で「ヘレーネ・クリムトの肖像」が展示されているので行ってきました。初めて実物を見ましたが、想像していた以上に明るく、全体がバラ色に輝いているような印象でした。背景も含めて、ところどころの "赤み" がよく利いています。大変に写実的で丁寧に描かれたヘレーネの頭部(髪・顔)と、荒々しくスピード感溢れる筆致で描かれた衣装の対比が実際に見ると強烈で、グスタフ・クリムトが極めて確かな画力をもったアーティストであることがよくわかりました。


ワイエス


Gunning Rocks.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
ガニング・ロックス」(1966)
(福島県立美術館)

ワイエスの絵は今まで、
 No.150「クリスティーナの世界」
 No.151「松ぼっくり男爵」
 No.152「ワイエス・ブルー」
の3回書きました。また、この絵を使ったワイエス展のポスターを No.151 で引用したことがあります。日本の福島県立美術館が所蔵している絵です。

題名となっている『ガニング・ロックス(Gunning Rocks)』とは何かですが、これはモデルの男性の名ではありません。ワイエスはペンシルヴァニア州のチャッズフォード(フィラデルフィア近郊)の生家と、メイン州の海岸地方であるクッシングの別荘を行き来していました。ガニング・ロックスとはクッシングにも近い、沖合いの小島の名前です。gunning とは "銃で撃つ" という意味なので、切り立った岩が突き出ているような風景を想像します。

描かれている男性はフィンランド移民とネイティヴ・アメリカンの血を等分に受け継いだウォルター・アンダーソンという人で、ワイエスは彼とよく小舟で海に漕ぎ出したそうです。

なぜ肖像画の題名を小島の名前にするのでしょうか。ワイエスの絵には、謎めいた題名が付けられていて、それが意味をもっていることがあります。福島県立美術館が所蔵する『松ぼっくり男爵』がその典型です(No.151「松ぼっくり男爵」参照)。おそらくワイエスとしては、この知人男性の今までの生涯、性格や人となり、日々の生き方を、海の中にポツンと存在する小島にたとえたのではないでしょうか。荒波にもまれても微動だにせず、厳然として屹立している小島にこの男性を重ねた ・・・・・・。あくまで想像ですが、そういう風に思います。

もう一つのこの絵のポイントは "民族" です。クッシングの近くにはフィンランド移民のコミュニティーがあったようで、そこの人たちをモデルにワイエスは絵を書いています。また『クリスティーナの世界』にも出てくるオルソン姉弟はスウェーデン移民の子です。『松ぼっくり男爵』のテーマであったカーナー夫妻はドイツ移民だし、その他、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの肖像や風俗を描いています。多様性こそアメリカの特質、というのはワイエスの信念だったようです。その一端が現れたのがこの絵だと思います。

さらに付け加えると、今まで引用してきた絵(=油絵)と違ってこの絵はドライブラッシュの技法を駆使した水彩で描かれています。ワイエスの作品は我々が暗黙に抱いている水彩のイメージを覆すものが多い。この絵もそうです。


横顔を描く


これらの肖像画を見て感じることがあります。No.217 にも書いたのですが、まず画家が表現しようとしたものは横顔の美しさ(特に女性)でしょう。また男女を含めて横顔にその人物の性格なり特徴が現れるということがあり、そこを描こうとした作品もありそうです。

しかし横顔は風貌の一部です。人物全体をとらえたという感じはしません。鑑賞者としては「正面から見た顔の輪郭」や、肖像画では一般的な「4分の3正面視のときの表情」を想像することになります。その「想像させる」ところが横顔肖像画の一つのポイントだと思います。

さらに振り返ってみると、傑作と言われる肖像画は描かれた人物の内面や性格を映し出した作品が多いわけです。少なくとも鑑賞者が人物の内面を感じてしまう絵が、名作と言われる肖像画です。この観点からすると、横顔だけの絵は画家にとって不利です。「目は口ほどに物をいい」と言うように、人は目線や目つきによってその時の人物の感情とか内面を推測するからです。しかし画家にとって不利だとはいいながら、引用した横顔肖像画は人物表現としても成功している。

横顔のモデルは画家(=鑑賞者)と視線を合わせることがありません。鑑賞者に何かを働きかけるとか、何かを訴えるような感じはしない。心理的に手前へ動き出す気配はなく、動きが止まったように感じます。人物は静かに絵の中にたたずんでいて、しかし、堂々とそこに存在している。この "感じ" が横顔の肖像画を見るポイントなのだと思います。




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No.251 - マリー・テレーズ [アート]

このブログではアートのジャンルで数々のピカソの絵を取り上げましたが、今回はその継続で、マリー・テレーズを描いた作品です。今までマリー・テレーズをモデルにした作品として、

◆『マヤに授乳するマリー・テレーズ
  No.46「ピカソは天才か」

◆『本を持つ女
  No.157「ノートン・サイモン美術館」

の2つを取り上げました。ピカソは彼女をモデルとして多数の作品をさまざまな描き方で制作していますが、今回はその中でも最高傑作かと思える絵で、『夢』(1932)という作品です。以下、例によって中野京子さんの解説でこの絵を見ていくことにします。中野さんは『夢』の解説でピカソとマリー・テレーズの出会いから彼女の死までを語っているので、それを順にたどることにします。

  以下の引用では漢数字を算用数字に改めました。また段落を増減したところがあります。下線は原文にはありません。

Picasso - Le Reve.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
」(1932)
(個人蔵)


マリー・テレーズとの出会い



1927年のパリ。45歳のパブロ・ピカソは街で金髪の少女を見かける。溌剌はつらつたる健康美にあふれた彼女にすぐ声をかけていわく、

「マドモアゼル、あなたは興味深い顔をしておられる。肖像画を描かせてください。私はピカソです」

ずんぐりした小男ながらカリスマ的魅力を放ち、すでに国際的な大画家でもあったピカソにしかできない芸当だ。

あいにくこの少女、17歳のマリー・テレーズ・ワルテルは、ピカソの名を知らず、絵画に興味は無かった。それでも彼についてゆき、モデルになり、愛人になり、妻とは離婚するとの約束を信じて子供も生む。

中野京子『美貌のひと』
(PHP新書 2018)

この出会いのエピソードは有名な話です。ピカソは街頭で30歳近く年下の少女を(結果として)ナンパしたわけですが、理由は "興味深い顔" なのです。そのマリー・テレーズの写真が次です。これは中野京子さんの本にものっている写真です。

Marie-therese-walter.jpg
マリー・テレーズ・ワルテル(1909-1977)


ピカソのミューズ



ピカソの派手な女性関係は伝説的だ。若く美しい女性からインスピレーションを受け、創造のエネルギーに転換してきた。その代わり飽きるのも速い。次から次へと恋の対象は変わってゆく。結婚は2回。愛人は無数。

ロシアの将軍の娘でバレリーナだった最初の妻は、ピカソを上流階級へと導いてくれた。写真家ドラ・マールのひりひりした感性は、ピカソを激しく刺激して傑作《泣く女》を描かせた。企業家の娘でソルボンヌ大学の学生だったフランソワーズ・ジローは、その知性と冷静さでピカソを魅了した。

中野京子「同上」

ここに出てくる3人の女性はピカソの生涯でも有名で、最初の妻のオルガ・コクラヴァはパリのピカソ美術館に有名な肖像画があります。ドラ・マールは『ゲルニカ』の制作過程を撮影したことで知られています。フランソワーズ・ジローはソルボンヌ大学の法科の出身というエリートで、父親の大反対を押し切って画家になった人です。しかし、マリー・テレーズは3人とは違いました。


そうした個性的な女性たちと比べると、マリー・テレーズは平凡だった。貧しい家に生まれ、学も才もない。にもかかわらず、彼女はかなり長くピカソのミューズであり続けた。

後年、フランソワーズ・ジローがマリー・テレーズと会ったときの印象を書いている。ギリシャ人のような輪郭りんかくの、独特な顔立ちをしており、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた理由もわかる、と

インテリの勝ち誇った表現がいやらしく感じられる。出身知性においても自分のほうが上だと言いたいようだ。マリー・テレーズがかつてピカソの愛を独占したのは、顔がエキゾチックだったからにすぎない。心や魂や才や学ではなく、肉体の「造形的」な要素が彼をきつけただけだ。

今やピカソはそんな表面的なことから離れ、本当に価値ある女性、すなわち自分に夢中で、この愛は不変である ── フランソワーズはそう言いたいのだ(たぶん)。

中野京子「同上」

中野さんによるフランソワーズ・ジローの内心の "推測" が正しいかどうかはさておき、上の下線のところ、つまり、

  (マリー・テレーズは) ギリシャ人のような輪郭りんかくの、独特な顔立ちをしており、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた理由もわかる

という発言は、その通りだと思いました。「ギリシャ人のような輪郭の、独特な顔立ち」は、上に引用したマリー・テレーズの写真を見ても感じられます。それが「ピカソに造形的な霊感を与えた」のも、全く確かに違いないと思いました。それには理由があって『本を持つ女』というピカソの作品を思い出したからです。



ここでちょっと中野さんの解説を離れて、ピカソがマリー・テレーズを描いた『本を持つ女』を振り返ってみます。この作品は No.157「ノートン・サイモン美術館」で書いたのですが、フランソワーズ・ジローの「マリー・テレーズがピカソに造形的な霊感を与えた」という発言を裏付けていると思うので、重複しますが再度取り上げます。


ピカソを引きつけた "造形的要素"


ノートン・サイモン美術館は米国・ロサンジェルス近郊のパサデナにある美術館ですが、ここにピカソの『本を持つ女』があります。

本をもつ女.jpg
パブロ・ピカソ
Woman with a Book(1932)
本を持つ女
ノートン・サイモン美術館

ノートン・サイモン美術館の公式ホームページには、次の意味のことが書いてあります。

  この絵はピカソがアングルの『モワテシエ夫人の肖像』を踏まえ、マリー・テレーズを描いたものである。

そのアングルの『モワテシエ夫人の肖像』は、現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している次の絵です。ノートン・サイモン美術館に行ったときには、この絵の写真が『本を持つ女』の傍に参考として掲示してありました。

モワテシエ夫人の肖像.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1856)
ロンドン・ナショナル・ギャラリー

本を持つ女 = マリー・テレーズのポーズはアングルの絵とそっくりです。モワテシエ夫人が持つ扇が、ピカソの絵では本に置き換えられています。本のページが "雑に" 開かれていますが、これはモワテシエ夫人が持つ "扇" をイメージしているのですね。マリー・テレーズの右上には、右向きの横顔の絵らしきものがありますが、これはアングルの「鏡に写るモワテシエ夫人の横顔」に相当します。こういう風に横顔が写ることは位置関係上ありえないのですが、絵画表現としてはしばしばあることです。

ピカソはアングルから影響を受けたとはよく言われることです。もちろん画家が先人からの影響を受けるのは当然であり、ピカソはエル・グレコから影響を受けたと自ら語っていたはずです(青の時代に典型的にみられる "引き伸ばされた身体")。ピカソは『本を持つ女』で、アングルを踏まえた絵だということを明白にしつつ、マリー・テレーズを描いた

ではなぜ『モワテシエ夫人の肖像』なのでしょうか。ロンドン・ナショナル・ギャラリーの『モワテシエ夫人の肖像』は座像ですが、その5年前に完成した夫人の立像が、ワシントン・ナショナル・ギャラリーにあります。モワテシエ夫人を真っ正面から描いた絵です。

Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
「モワテシエ夫人の肖像」(1851)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

フランソワーズ・ジローがマリー・テレーズを評した「ギリシャ人のような輪郭の独特な顔立ち」という発言でなるほどと思ったのですが、上に写真を引用したマリー・テレーズの顔立ちと、2枚のモワテシエ夫人の顔立ちには明らかな共通点があると思うのですね。つまり、鼻が高く、鼻筋がとおり、鼻筋が額へと一体化していくような彫りの深い顔立ちです(いわゆる "ギリシャ鼻")。これは古代ギリシャ彫刻によくあります。たとえば "ミロのヴィーナス" を思い浮かべるとよいと思います。

ということからすると「マリー・テレーズの顔立ちが、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた」というフランスワーズの発言はまさに図星でしょう。同様に、ピカソはアングルの『モワテシエ夫人の肖像』にビビッとくるものがあったはずです。ちなみにピカソの「新古典主義の時代」といわれる時期(1918~1925頃。マリーテレーズと会うよりは前)には、マリー・テレーズ的(ないしはモワテシエ夫人的)な顔立ちの人物を登場させた絵を多数描いています。

以上の観点からすると『本を持つ女』はピカソ作品の中でも重要な作品ということになります。「アングル」「ギリシャ的な顔」「マリー・テレーズ」という、ピカソ芸術にとって大変重要な3つの要素が交わるところで成立した絵なのだから。

Portrait of Narie-Therese 1935.jpg
パブロ・ピカソ
マリー・テレーズの肖像」(1935)
紙に鉛筆
(Gagosian Gallery. New York)

写実的に描かれたマリー・テレーズのポートレート。ピカソに霊感を与えたという顔立ちがよくわかる。マリーの写真は何枚か残っているが、それと比較してもこの絵は(いくぶんの美化はあるものの)特徴をよくとらえている。金髪のショート・ヘアを表現する濃淡の鉛筆の線が的確で、さすがと言うしかない。額のまわりの金髪の表現などは適当に描いているように見えるが、決して誰にでも出来るものではない。



「マリー・テレーズの顔立ちが、他の誰よりもピカソに造形的な霊感を与えた」のは確かだとして、しかし、ピカソにとってのマリー・テレーズはそれだけではないというのが中野さんの論です。以降、中野さんの解説に戻ります。


マリー・テレーズへの愛



フランソワーズの自惚うぬぼれは二重の意味で間違っていた。

一つには、ピカソにとってフランソワーズもワン・オブ・ゼムだったこと。彼は巧妙に彼女をあざむき、別の若い女性との再婚に踏み切っている。もう一つには、マリー・テレーズを描いた数多くの絵が証明しているように、彼女への思いが ── 永久不変というわけにはゆかなかったにせよ ── 造形的興味に留まらず、まぎれもない深い愛からきていたことだ。

それはフランソワーズをモデルにした、ピカソにしては類型的でやや面白みに欠ける作品群と比べて一目瞭然いちもくりょうぜんである。彼女のような知に勝った女性は精神の愛を肉体の愛の上に置くのだろうが、しかし恋愛には上も下もない。

肉体でつながる愛、性愛が、薄っぺらだと誰に言えようか。マリー・テレーズのエロスは、いっときピカソを圧倒したのだ。フランソワーズの知性が、いっときピカソを圧倒したように。

どちらに対しても、だがピカソはそのさなかにあっては真剣だった。

中野京子「同上」

「マリー・テレーズを描いた数多くの絵が証明しているように、ピカソには彼女への深い愛があった」という主旨を中野さんは書いていますが、その通りだと思います。『夢』や『本を持つ女』を見て感じるのは、モデルの女性を "いとおしい存在" という目で描いていることです。モデルが明確なピカソの絵で、そういう風に感じるのはマリー・テレーズが最も多いと思います(あとはドラ・マールを描いた一部の絵)。



なかなか『夢』の評論にたどりつきませんが、ここまでが『夢』を理解するために必要な前置きです。


陶酔的な『夢』


Picasso - Le Reve.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
」(1932)
(個人蔵)

ここからが中野さんの『夢』の評論です。少々長くなりますが、文章の勢いを殺さないために、そのまま引用します。


マリー・テレーズを描いた代表作が、《夢》。彼女は女盛りの22歳だ。

まろやかな曲線、優しい色彩、とろけるような官能に満ち、ピカソ彼女からある種の(身勝手かもしれないが)やすらぎを得ていたことがわかる。マリー自身もピカソの前で安心しきって無防備にまどろむ。

ピカソはとにかく絵が上手い。少年時代にはもう「ラファエロのように」描けたと豪語しており、実際そのとおりだった。アカデミズムが要求するテクニックを完璧に我が物としていたから、そのままゆけばアカデミーのトップにも君臨できたろう。

だがそんなことに興味はなかった。

彼は常に絵画の新しい領域を開拓し、自在に目まぐるしく大胆に画法を変えてゆく。どう変えようと絵は売れた。生前に売れなかった絵はない。ピカソなら線一本でも買いたいという人間が世界中にいた。今もいる。

《夢》の線をみれば納得であろう。伸びやかで軽やかな線は、単純に描けそうに見えて、その実、ピカソならではの緻密ちみつな計算の上に名人芸が披瀝ひれきされている。

色彩の配分も完璧で、赤の隣の差し色に水色(首筋)を選ぶことは普通ならありえない。グリーンの壁、格子縞こうしじまに花をあしらった茶系のタペストリー、真っ赤な椅子とネックレス、強い色に囲まれたマリー・テレーズの、肌の白さと柔らかさが引き立つ。

肉体ばかりか心も、突つかれたら相手に合わせてやんわりへこむ、かぐわしいマシュマロのようだ。どこもかしこも彼女は甘い。

顔はキュビズムの手法で描かれている。ハート型の顔面が黒く太い直線で分割されることで、下半分は横顔にも見える。マリーにキスするピカソだとの説もあるが、額から真っ直ぐ長いギリシャ鼻と金髪からして、これもマリーであろう。横顔と正面が赤い唇で合体している。うっとりと美しく。

だがここにも直接的な性愛描写がある。半円の乳房の横に目を凝らしてほしい。白っぽいために目立たないが、屹立きつりつする男性器が描き込まれている。そこから腕にかけて黄色の二本の線が漏斗ろうと状を呈し、女性器を仄めかす。

中野京子「同上」

中野京子さんは文章が上手な人ですが、この『夢』を評した文章は特にうまいと思います。当然のことながら自分が惚れ込んだ絵についての文章がえることが多く、おそらくこの絵もそうなのでしょう。

最後の方で男性器と女性器について触れられています。普通の美術評論では、2つに分割された顔の上の方が男性器を表しているとされています。もしくは、マリー・テレーズの向かって右の肩から首と顔の形が男性器の暗喩とする見方もある。また、マリー・テレーズの両手の形が女性器を表すというのが一般的な見方です。その見方からすると、この絵はピカソが自分の性愛感情をまどろんでいるマリー・テレーズに投影した絵、となるでしょう。

しかし中野さんの見方では、男性器の表現は露わになっている乳房の横(=向かって左)です。小さなデジタル画像ではそれは分からないのですが、乳房の左の方が特に白っぽく描かれています。上のデジタル画像では乳房の左の方の上下に伸びる線が屹立した男性器ということになります。また女性器はそのさらに左の方の黄色い2本の線でほのめかされているとの見方です。

この見方によると性愛描写はあくまで "仄めかし" の程度で、それよりもこの絵の素晴らしさは、安心し切ってまどろむマリー・テレーズの姿であり、彼女の白く柔らかな肌であり、それを的確な描線と強い色彩配置で作品にしたピカソの力量だ、ということになるでしょう。中野さんの文章は、このような完璧な絵を描いたピカソへの賛美と、マリー・テレーズへのシンパシーに溢れています。そのシンパシーは、ピカソとマリー・テレーズとの出会い以降を綴った文章でも明らかです。



中野さんの『夢』についての評論は、次のように結ばれています。


本作はオークションに出される度に値が高騰し、2013年にはついに1億5500万ドル(およそ170億円)で落札らくさつされた。人気の程が知れよう。

さて、現実のマリーだが、本作の4年後に妊娠。離婚するから生めと言われ、女児を産む。

しかし声をかけられてから10年近くも日陰の身を押しつけてきた男が、約束を守るはずがない。ピカソは別の愛人のもとへ去り、哀れな妻子には涙金があてがわれる。マリーはピカソの死後、自殺した。

中野京子「同上」

この最後の文章を含めて、中野さんはピカソについて辛辣な表現を何回か使っています。つまり、

巧妙に彼女(=フランソワーズ)を欺き
約束を守るはずがない
哀れな妻子には涙金

というような言い方です。確かに「多数の傑作を生み出した偉大な芸術家」という面を取り払って男女関係を軸にピカソをみると、"男のクズ" ということになるでしょう。特に女性から見ると ・・・・・・。中野さんも "許せない男" という気持ちが心のどこかにあるに違いなく、それが辛辣表現になったのだと思います。しかしそうだとしても『夢』は素晴らしい。

そして、ピカソは少なくとも『夢』を描いた時期にはマリー・テレーズに対して深い愛情を抱いていた。それは一枚の絵だけを見るだけで一目瞭然であって、間違いない。深い愛情がないとこんな絵は描けない。そう、中野京子さんは言っているのでした。

絵画とは不思議なもので、絵を見ただけで画家がモデルを愛していたのかどうかがわかる。それが真実かどうかは別にして、少なくとも鑑賞者はそう強く感じることができる。そう感じさせる一つの要因は『夢』の場合、ピカソが用いた絵画手法(スタイル)にもあるのでしょう。この作品は、「画家がモデルを見つめる目」「絵画のスタイル」「画家の力量」の3つが融合した傑作だと思いました。




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No.248 - フェルメール「牛乳を注ぐ女」 [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」は、九州大学名誉教授で心理学者(視覚心理学)の三浦佳世氏が書いた同名の著書(岩波書店 2018)の紹介でした。この本の中で三浦氏は、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』を例にあげ、

  この絵には線遠近法の消失点が2つあるが、違和感を感じない。人の眼は "遠近法の違反" については寛容

リアリズム絵画入門.jpg
という主旨の説明をしていました。この説明で思い出したのが、現代日本の画家、野田弘志氏が書いた『牛乳を注ぐ女』についての詳しい解説です(「リアリズム絵画入門」芸術新聞社 2010)。ここには "遠近法の違反" だけでなく、写実絵画として優れている点が詳細に語られています。今回は是非ともその文章を紹介したいと思います。

フェルメールの『牛乳を注ぐ女』はアムステルダム国立美術館が所蔵する絵で、2007年に日本で公開され、また、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)でも展示されています。実物を見た人は多いと思います。

野田弘志氏(1936~)は現代日本の写実絵画を牽引してきた画家で、No.242「ホキ美術館」で『蒼天』という作品を紹介しました。野田先生の文章は写実画家としての立場からのものですが、『牛乳を注ぐ女』はまさに写実絵画の傑作なので、本質に切り込んだ解説になっています。なお、以下の引用での下線は原文にはありません。また段落を増やしたところがあります。

フェルメール「牛乳を注ぐ女」.jpg
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
牛乳を注ぐ女」(1658頃)
45.5cm×41cm
(アムステルダム国立美術館)


空間の密度を描ききる



この作品に、フェルメールはたくさんの驚くべきことを描き込んでいます。まず第一に感心することは、イタリア人ならバカにしたに違いない、女性が牛乳を注ぐというごくありきたりの情景を、徹底的に真面目に描いている上に、これまで神話画や宗教画でも描かれたことのない、神々しいまでの空間の重量感を描ききっていることです。

人は人として、パンはパンとして描かれるのではなく、現実の人やパンや籠よりもはるかに重く、フェルメールはそのひとつずつに、感覚、構成力、描写力、集中力、持続力、精神力のすべてを注ぎ込んでじっくりと描き上げました。描かれたすべての物が永遠の存在に高められています。だから食べておいしいパンではなく、飲んでおいしい牛乳でもなく、弾力のある肌の魅力的な女性でもありません。でもすべてが真実として生きています。

野田弘志
『リアリズム絵画入門』
(芸術新聞社。2010)

「イタリア人ならバカにしたに違いない」とありますが、フェルメール(1632-1675)が生きた時代のイタリア(=絵画の先進国)では、依然として神話やキリスト教をテーマとする絵画や貴族・富裕層の肖像が主流であり、『牛乳を注ぐ女』のような "日常の卑近な情景" が絵になるなどとは誰も考えなかったことを言っています。


うっかり描き忘れた?


この絵は、細部を見ていくと質感表現の的確さに驚くのですが、ただ一カ所、変なところがあります。


手前から見ていくと、布の掛かったテーブルに籠、パン、壷、女性、壁とすべて手でたどり感触を確かめられそうなほどの質感をもっています。絵の具はキャンバスにしっかり食いついてあるべき位置に寸分の狂いもなく在って、物そのものになりきっています。

ただ、一カ所、うっかり描き忘れたように見える部分があります。それは右腕とミルクの入った壷との隙間の部分なのですが、この手落ちは、他の部分がいかにしっかり描かれているかを際立たせることになりました。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(部分).jpg
右腕と壷の隙間の部分は「うっかり描き忘れた」ように見える。

確かに、右腕と壷の隙間は「うっかり描き忘れた」ように見えます。この部分は後ろの壁が見えるはずで、従って右腕と壷の周辺に描かれている壁と親和性のある色が置かれてしかるべきです。

しかし本当に "うっかり" なのでしょうか。この絵のあらゆる細部が精緻に描き込まれていることを考えると、はたして "うっかり" なのかと考えてしまいます。

もし意図的だとするとどうでしょうか。「他の部分を際立たせるために意図的に描き残した」とは考えにくいわけです。こういう話があったと思います。人間は完璧ではなく、完全なるものは神しかない、神の領域を侵さないために意図的に不備な細部を残した画家がいた ・・・・・・。本当のところは誰にも分からないでしょう。


すべてが絶対不可欠


この「手落ち」の以外の描写は素晴らしいものがあります。そのことを野田先生は次のように続けています。


女性の後ろの輪郭に細い白線を塗り重ねて人物と壁のコントラストを強調し、人物を際立たせ、色彩の効果を強めたり、いったん女性の頭上に描いたものを取り去ったり、パンに点描風のタッチを入れたり、さまざまな工夫を重ねています。しかし、存在感、物質感、量感、ディテールをより確かなものにするために、無用な細部を切り捨てて大胆なモデリング(肉付け)を行っています。私はそのモデリングそのものにいつも惚れ惚れとさせられてしまうのですが、女性の頭部は卵型の深い奥行きをもった立体として、また密度の高いもの思う存在としての確かな手応えを持っています。黄色の上着も、それが安いセーム皮でできたごわごわした縫い目の粗い上着だからというのではなく、中の胴体とともに、目まいのするほどの永遠性を現出させています。

色彩も描写も明晰で、人物も物も画面のすべてが絶対不可欠のものとして、その位置でなければならないところに配置され、堂々とした構築を見せています。この絵からさまざまな教訓や寓意を読み解こうとする研究者もいますが、フェルメールがこの絵で探求した本筋からはずれていると思います。叙情、ロマンチシズム、懐旧といったものは何もありません

現物をまだ見ていない頃、私はこれがかなり大きな作品だと思っていましたが、実際はわずか40数センチ四方の大きさしかありません。なぜそんな錯覚が起きるかと言うと、画面空間の中に充溢した描かれた存在の密度があたかも外界へと溢れんばかりのパワーを持っているからなのでしょう。

「同上」

当時のオランダの風俗画には寓意を込めた絵が多々あります。フェルメールもそうで、このブログで紹介した例で言うと、たとえば No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でとりあげた『天秤を持つ女』です。後ろの壁に「最後の審判」の画中画があり、女性が天秤を持っていて、しかも机の上には金貨や真珠があるという絵です。寓意がないと考える方がおかしいでしょう。『牛乳を注ぐ女』にも何らかの寓意・教訓があるのかも知れません。

だとしても、この絵には寓意・教訓という議論を突き抜けてしまうような、質感表現の確かさがあります。野田先生のように「寓意、教訓はない」「叙情、ロマンチシズム、懐旧もない」と言い切ってしまう方がスッキリするし、この絵を的確に表現していることになると思います。


奇妙な机


そこで、「視覚心理学が明かす名画の秘密」に指摘してあった "遠近法の違反" に関係した説明です。


次に、窓際に在る手前の机を見てください。これが実に変な形をしていることに気づきませんか?

机だけを見ているとわかりにくいので、まずこの絵の遠近法の構図から説明します。遠近法の考え方は、すべての事物は無限のかなたの一点に向かって数学の理論に従って小さくなっていくというものです。この点を消失点と言います。この消失点は画家の目の高さと同じ水平線上にあるのですが、この絵でそれがどこにあるかを知る手がかりは、左側の窓枠とさんにあります。奥に向かって窓枠と桟の水平のラインは、扇の骨状になって並び、それを延長していくと一つの点で交差します。これがこの絵の消失点で、女性の右手首の少し左上の壁にあります。フェルメールは作図のためにここにピンか何かを打ったあとを残しています。

もし机が普通の長方形の形をしていたら ・・・・・・ ? 机の右側面のラインは、机の下に描かれた脚の頭の部分から消失点を結ぶ線と一致することになります。するとどうなるか。机の上にあるパンも青い布も牛乳の鍋もすべて床に落下してしまうことになります(左下図)。ということはこの絵の机は台形か五角形か、ほとんど見たこともない形をしたテーブルだということになります(右下図)。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(奇妙な机).jpg
野田弘志「リアリズム絵画入門」より

「視覚心理学が明かす名画の秘密」で三浦佳世氏は、この絵には消失点が2つあると説明していましたが、それは机が長方形であるという前提です。そうではなく野田先生のように、消失点は1つで(=女性の右手首の少し左上)机が現実にはあり得ない奇妙な形をしているという解釈も成り立つわけです。

野田先生によると、画家は人間を描く空間を作るために椅子やオブジェをわざわざ特注することがあるそうですが、それと似ています。フェルメールはこの絵の空間を創り出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に登場させた。その理由は何でしょうか。


フェルメールはなぜそんな手の込んだことをしたかと言うと、この絵の中に実体として感じられる空間を描き出したかったからです。それをイリュージョンとしてではなく、現実の空間として創り出すことがリアリズム絵画の鉄則です。フェルメールは誠実にそれに従って描いたはずです。

「同上」

ここの文章が少々わかりにくいところです。なぜ「実体として感じられる空間を描き出すために、大変奇妙な形の机を絵の中に作った」のでしょうか。その理由は後の文章を読んでいくとわかります。まず、「通常の長方形の机で、その机の上に物が全部乗る」ようにするにはどうすればよいか。


もう一つありうる構図は、机の奥の右角と消失点を結ぶ線を、手前の方に伸ばし、その線にそって机の右サイドがあった場合ですが、これだと机の右面が見えなくなり、机が前面でのさばりすぎてしまいます。空間も単純になり構成もよくありません。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(もう一つの構図).jpg
もう一つのありうる構図。この構図だと物は全部机の上に乗る。しかし見る人の視線は机でさえぎられてしまう。


フェルメールは見る人の視線を大きな空間へと誘い入れようとしています。そのとき、机の右側の側面が視線を導くためのまず手がかりとなります。もし机が普通の長方形であったなら、視線は机の手前の面でシャットアウトされてしまっていたでしょう。

机の側面をたどる私たちの目は、垂れ下がったふんわりとした布の感触を確かめ、パンを触ったあと、左に折れて牛乳を受ける鍋に行き着くこともできるし、机から離れ、女性の青い腰布の周囲をゆっくりと迂回し、数メートルの何もない室内空間に解き放たれることもできます。そして、床のアンカの上空を通って、光の満ち溢れた奥の壁に吸い込まれるようにたどり着くわけです。

ただし重要なことは、私たちの視線が図形の上を単になぞっているのではなく、堂々たる実在感と質量感を持って描かれた机の上の一つ一つの物が、私たちの目をしっかりととらえ、永遠化された存在のようにも見える女性へと導いていることです。

遠近法の数学的な原理に従えば、物は遠くにいくほど小さく不鮮明になります。「牛乳を注ぐ女」は、遠近法の原理にきちんと従っていならがら、空間は奥へ奥へと開かれていきます。いわば逆遠近法とでも言うべきなのでしょうか。その奥へ向かう広がりを創りだしているのが、この奇妙な机の右側面のラインなのです。遠近法というのは消失点に向かってすべての事物が収束していくのに、この作品では、このラインが奥に向けて扇を広げたように空間を広げていくのです。

「同上」

上の引用の中で「アンカ」とカタカナで書かれていますが、"あんか(行火)" です。一人用でポータブルの足を暖める道具が描かれている。野田先生の指摘で気づくのですが、女性の後ろ数メートルの何もない室内空間を表現するのに、この "あんか" が非常に重要なのですね。"あんか" に "上空" があることを見る人が想像するからです。


壁を描ききる


次に野田先生がポイントとしてあげているのが、後ろに描かれた壁です。この壁はフェルメールの絵の中でも独特です。


こうして、私たちの目は豊かな光を含んだ壁に至りました。この壁は、部屋だからということで、女性の後ろに描かれたというのではなく、見る人の意識が、女性の後ろを実際に通ることができる距離をもって描かれています。日本画に見られるような曖昧な背景ではなく、たたいても隣の部屋に反響しない何十センチという厚みを持っています。冷たく堅くて深い包容力を持った壁になっています。

壁をずっしりと重く描くことによって、それが鋳型いがたになって、こちら側にある室内空間が、まるで石から掘り起こしたかのように強固で微動だにしない重量感と存在感を持つようになるのです。何気ない日常の部屋の中が、重厚な実体感を持つことによって、神秘的な空間に見えてきます。牛乳を注ぐという行為そのものが、このときにしか起こり得ない厳粛な儀式のように思われてくるのです。美術史家のヨーゼフ・ガントナーがフェルメールの世界について言った「第二の聖書」という言葉を思い起こします。

壁は、単に石と漆喰しっくいの材質感を描いているだけではありません。石の表層に戯れる光の繊細なトーンを描き尽くそうとしています。窓からの光はいったん壁に広がり、増幅されてこちらに向かって透明な空間に溢れ出し、厳かな儀式に没頭する女性を背後から包み込もうとします。その一方で、窓からの直接の光が女性のしぐさに降り注ぐと、白いかぶりもの、額、左の二の腕、パン、そしてひと筋のミルクから反射される光と化して、そこにかけがえのない実在があることを明澄めいちょうに浮かび上がらせていきます。

絵のために臨時にしつらえた書き割りではなく、堆積した時間さえも封じこめるように、壁を描くことによって、この部屋の向こうにはもう一つの室内が在り、さらに外壁を抜けると町の空間につながっていく。そういう生きた現実の空間がここには在る、という意識を見る人にかきたててくれます。

「同上」

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(壁1).jpg

フェルメール「牛乳を注ぐ女」(壁2).jpg
「牛乳を注ぐ女」でフェルメールが描いた壁。女性の左上の部分図(上)と、あんかの上の部分図(下)。

フェルメールが描いた35作品(カウントの方法は No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)のうち、28点は家庭の部屋に人物が配置されている室内画です。そこにはとうぜん壁が描かれていますが、大半の作品の壁には絵やタペストリーが掛かっています。絵もタペストリーもない純粋な壁はごく少数で、その1枚が『牛乳を注ぐ女』です。ほかに "何もない壁" を描いた絵は、ベルリンにある『真珠の首飾りの女』(1662/1665)です。

フェルメール「真珠の首飾りの女」.jpg
フェルメール
真珠の首飾りの女」(1662/1665)
ベルリン国立美術館

この絵を見ると、女性を引き立たせるために窓からの光で輝く壁を描いたと感じます。また、前景の机の上に濃紺のテーブルクロスがドカッと置いてある構図は『牛乳を注ぐ女』とは違います。この絵の構図は空間を構成することではなく、真珠の首飾りをもった女性を際立たせることに主眼があると感じられます。その意味で「壁」の役割は『牛乳を注ぐ女』とは違います。

フェルメール「窓辺で手紙を読む女」.jpg
フェルメール
窓辺で手紙を読む女」(1657頃)
ドレスデン古典絵画館
もう1枚 "何もない壁" を描いた作品がドレスデンにありますが、カーテンや開いた窓にさえぎられていて "壁を描いた" という感じはしません(ただし絵としては傑作)。やはり『牛乳を注ぐ女』と『真珠の首飾りの女』が、壁に重要な意味を持たせたフェルメールの2作品でしょう。

特に『牛乳を注ぐ女』の壁は、野田先生の表現によると「壁が鋳型になって、こちら側にある室内空間が石から掘り起こしたかのような重量感と存在感を持つ」ようになっています。つまり、絵の空間構成のキーポイントとなっている壁なのです。

  ちなみに『牛乳を注ぐ女』だけでなく『真珠の首飾りの女』も、現在開催中のフェルメール展(東京展。上野の森美術館 2018.10.5~2019.2.3)で展示されています。「フェルメールの壁、2作品」を見比べて鑑賞するのもよいと思います。


全体空間の中で細部が共鳴し合う


野田先生の解説に戻ります。以上を総合して野田先生は『牛乳を注ぐ女』を次のようにまとめています。


「牛乳を注ぐ女」は、描かれた物を一つ一つ列挙したとしても、実に簡単なリストに終わってしまいます。女性の着ている物も、厨房仕事のためのごく簡素なものです。絵の右三分の一はほとんど白い壁だけになっています。それが在ることによって、机の上の質素な食品や壁の道具、女性のたたずまいに豊穣な感じを与えています。可能な限り不必要なものは取り除き、構図も単純化していくという指向は重要で、それこそが絵を深く大きなものにしているのです。

絵の細部は一見、顕微鏡的に描かれているように思われるかもしれませんが、必要不可欠な描写しか行われていません。それなのに物も人物も空間も、あたかも生々しくそこに在るかのような迫真性を持っているのは、あらゆる細部が独立したものと見なされず、全体の空間の中で、ちょうどオーケストラのバイオリンの一つの音色がそうであるように、ハーモニーを奏でるために捧げられているからです。

「同上」

野田先生の『牛乳を注ぐ女』の評論は「リアリズム絵画入門」の第5章です。この本は第1部が「制作」(第1章~第5章)で、第2部が「思索」(第6章~第9章)となっています。

野田弘志1.jpg
野田弘志
ホキ美術館のホームページより
第1部「制作」の第1~4章は、「絵画は写真とどう違うのか」「制作入門篇 デッサンとは何か」「制作心構え篇 視ること・考えること」「本制作篇 油彩画で人間を描く」となっています。そして第5章が「空間を描く フェルメールの "牛乳を注ぐ女"」です。つまり第1部は "リアリズム絵画制作教室" といった風情であり、その最後のまとめとしてあるのが『牛乳を注ぐ女』の詳細な鑑賞なのです。

野田先生は『モナ・リザ』がリアリズム絵画の最高到達点だと明言されていて、それは多くの人が納得すると思います。そして『モナ・リザ』に次ぐ傑作が(ないしは傑作群の一つが)『牛乳を注ぐ女』なのでしょう。画家の関心事(の一つ)は、2次元のカンヴァスにいかにして3次元空間を創出するかということです。第5章のタイトルに「空間を描く」とあり、また5章の最初には "空間の密度を描ききった絵" とあります。この言葉が、野田先生の考えるこの絵の最大の特質だと思います。


まとめと感想


野田先生の『牛乳を注ぐ女』についての評論のポイントを要約すると、次のようになるでしょう。

奇妙な形をした机は、その右側面のラインが、見る人の視線を奥へと誘導し、奥に向けて扇を広げたような空間感覚を作りだしている。

その視線の先に描かれているパンなどのモノ、女性の姿(特に頭部や黄色いセーム皮の服)のモデリングが素晴らしい。無用な細部を大胆に切り捨てることにより、存在感、物質感、量感、ディテールを確かなものにしている。

光の繊細なトーンがきらめいている壁は、ずっしりと重く描かれていて、手前にある室内空間の広がりを創り出している。さらにはこの室内が外界や向こう隣の部屋にまでつながっていると感じさせる。

全体として必要不可欠なものだけが配置され、必要不可欠な描写しか行われていない。しかし、あらゆる細部が共鳴し合っていて、それが生々しい迫真性を生み出している。

この要約の全体を一言でまとめると、上にも書いたように "空間の密度を描ききった絵" が適切だと思います。

このブログでは、今まで多数の絵の評論を紹介してきました。筆者は、中野京子、原田マハ、ローラ・カミングの各氏ですが、美術評論家、美術ジャーナリスト、小説家の立場からの発言です。それに対し、今回の野田弘志氏の文章は、プロの画家が傑作と評判の高い絵を評したものです。そこには画家ならではの、描き方・構図・空間構成・モデリング・調和などの視点から『牛乳を注ぐ女』の素晴らしさが語られています。そこが印象的でした。

そして『牛乳を注ぐ女』は、一見したところ "見たまま" をリアリズムの手法で描いているのだけれど、実は絵画でしか成し得えない表現に満ちているわけです。野田先生が最も言いたかったことはそこなのだと思いました。



ここからは野田先生の文章を離れて『牛乳を注ぐ女』のもう一つの素晴らしさについて書きます。この絵の色使いについてです。

この絵で目を引くのは、フェルメール・ブルーとも呼ばれる、鮮やかで強烈な青です。これには高価なラピスラズリが使われていることは有名です(No.18「ブルーの世界」参照)。さらに目に付くのは女性のセーム皮の服の黄色です。この青と黄という、補色関係の2つの色の対比がよく利いています。

このブログで過去に紹介した例だと、No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の『手紙を書く女』がそうでした。服は黄色で、テーブルクロスが青い。さらに、手紙を書く女性が着ている「白テンの毛皮がついた黄色(レモン色)のガウン」の女性像をフェルメールは6点描いていますが、ニューヨークのフリック・コレクションにある『婦人と召使い』も構図と配色がワシントンの絵とそっくりです。また、アムステルダム国立美術館の『恋文』という絵も、女性の傍の召使いのスカートが青い。

「登場人物が黄色の服を着ていて、その周辺に青色のアイテムが配置されている」という絵は他にもあります。有名な『真珠の耳飾りの少女』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)がまさにそうです。服が黄色でターバンが青い。さらに、小さな絵ですがルーブル美術館の『レースを編む女』もそうです。

ここまで、6つの作品をあげましたが、それらの中でも最も「青と黄の対比」が強烈に印象づけられるのは、明らかに『牛乳を注ぐ女』です。

こういった青系・黄系の色彩対比は近代の画家もよく使いました。最もうまいのがゴッホだと思いますが、20世紀の画家だとアンドリュー・ワイエスがその名手です(No.152「ワイエス・ブルー」)。そういった色の使い方とカンヴァスへの配置のしかたについても、『牛乳を注ぐ女』は先駆的に優れていると思います。



今までフェルメールの絵の実物を30点近く見ましたが、作品は「傑作」と「普通の絵」に分かれると思います。フェルメールのすべてが傑作というわけではありません。その「傑作の部類に確実に入るであろう絵」をあげるとすると、

デルフトの眺望(マウリッツハイス)
デルフトの小道(アムステルダム)
牛乳を注ぐ女(アムステルダム)
真珠の耳飾りの少女(マウリッツハイス)
真珠の首飾りの女(ベルリン)
窓辺で手紙を読む女(ドレスデン)

などでしょう。これはあくまで "厳選" したもので、他にも傑作はあります。

に共通するのは「寓意や教訓とは無縁」ということです。① ② は風景画なので寓意はないはずです。有名な は(一応のところ)肖像画です。本文で引用した ⑤ ⑥ は、寓意・教訓があるのかもしれないが(ありそうだが)、それを感じさせないリアリズムがあります。モノや人物、空間、風景の実在感を描くことに徹した絵にこそフェルメールの価値かあり、誰もマネできない画家の才能が発揮されている ・・・・・・。野田先生の文章を読んで、そういう風に思いました。



 補記 

本文中に、フェルメールの "何もない壁" の作例としてドレスデンにある『窓辺で手紙を読む女』をとりあげましたが、この作品については「(壁が) カーテンや開いた窓にさえぎられていて "壁を描いた" という感じはしません」と書きました。確かに、この作品の壁の描き方は『牛乳を注ぐ女』『真珠の首飾りの女』に比べて中途半端で、"何もない壁" にしては少々違和感があります。

実は、この壁にはもともと画中画が描かれていて、その復元作業が進行中だというのです。その報道がありました。


キューピッドが出現
修復作業中のフェルメールの絵画公開

NHK NEWS WEB
2019年5月7日 22時28分

何者かに上塗りされた部分を取り除く作業が進められているフェルメールの絵画、「窓辺で手紙を読む女」がメディアに公開され、これまで見えていなかったキューピッドが姿を見せました。

17世紀を代表するオランダの画家、フェルメールの絵画「窓辺で手紙を読む女」は、窓際で手紙を手にたたずむ女性を描いた作品です。以前から奥の壁にはキューピッドが描かれていて、上塗りされていることが分かっていましたが、最近の分析で上塗りはフェルメールの死後に何者かが行ったものであることが分かり、おととしから取り除く作業が行われています。

こうした中、7日、作業途中の作品がメディアに公開され、右上の壁にこれまで見えていなかったキューピッドが姿をあらわしました。作業は0.02ミリの厚みの絵の具を顕微鏡を使って慎重に取り除いていくというもので、1日に1平方センチから2平方センチしか進まないということです。

キューピッドは手紙がラブレターであることを示しているということで、顔や弓の一部を確認することができます。作業を行っているドイツ東部ドレスデンの美術館のシュテファン・コーヤ館長は「色彩に統一感が生まれ、よりフェルメールらしくなっている」と話しています。

復元作業は少なくともあと1年はかかる見通しですが、作業途中の作品は今月8日から来月16日まで、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館で一般に公開されます。


窓辺で手紙を読む女(修復中).jpg

ポイントは「最近の分析で壁の上塗りはフェルメールの死後に何者かが行ったものであることが分かり」というところですね。だから取り除く作業が行われているわけです。

実は『真珠の首飾りの女』も、もともとは壁に地図が描かれていたが白く塗りつぶされた。しかしこれはフェルメール自身がやったとされています。これはこれで女性を浮かびあがせる効果を演出しています。

というようなことからすると、初めから壁の重量感を描くのが目的(の一つ)だったような『牛乳を注ぐ女』は、やはり貴重な作品だと言えるでしょう。

(2019.5.8)



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No.244 - ポロック作品に潜むフラクタル [アート]

No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」で、三浦佳世氏の同名の著書の "さわり" を紹介したのですが、その中で、ジャクソン・ポロックのいわゆる "アクション・ペインティング"( = ドリップ・ペインティング)がフラクタル構造を持っているとありました。

日経サイエンス 2003-3.jpg
日経サイエンス
(2003年3月号)
実はこのことは 2002年の「Scientific American」誌で論文が発表されていて、その日本語訳が「日経サイエンス 2003年3月号」に掲載されました。おそらく三浦氏もこの論文を参照して「視覚心理学が明かす名画の秘密」のポロックの章を書いたのだと思います。

今回はその論文を紹介したいと思います。リチャード P. テイラー「ポロックの抽象画にひそむフラクタル」です。筆者は米・オレゴン大学の物理学の教授で、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学の物性物理学科長だった時に、ポロックの抽象画に潜むフラクタルに気づいて謎解きを始めました。


アートかデタラメか


テイラー教授の論文はまず、ジャクソン・ポロックの代表作である『Blue Poles : No.11, 1952』の話から始まります。


ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 ~ 1956)は米国の美術史を代表する抽象表現主義の画家だ。彼が傑作『Blue Poles : No.11, 1952』の制作に取りかかったのは、ある3月の嵐の夜だった。すきま風が吹き込む納屋のようなアトリエで、酒によってやけになっていた彼は床に大きなカンバスを広げた。木の棒を使い、古ぼけた缶に入った家庭用ペンキをカンバスにたらした。

もっとも、絵の具をたらす「ドリップペインティング」の試みは、この時が最初というわけではなかった。水平に置いたカンバスにペイントを連続的に注ぐという斬新な手法をポロックは開発した。これにより、絵筆で描いた途切れ途切れの線とは異なり、独特の連続した軌跡がカンバスに残る。

一見すると単純このうえないこの画法について、美術界の評価は真っぷたつに割れた。この素朴な画法は非凡な才能の発露だったのか、それともポロックは美術界の伝統をあざ笑うただの酔っぱらいにすぎなかったのか?

リチャード P. テイラー(オレゴン大学)
『ポロックの抽象画にひそむフラクタル』
(日経サイエンス 2003年3月号)

Pollock-Blue Poles No11.jpg
Jackson Pollock(1912 - 1956)
「Blue Poles : No.11, 1952」
(オーストラリア国立美術館)
ポロックの代表作で、210cm×486.8cmの作品。絵の具を何度も重ねて垂らし、複雑なパターンを描き出している。この作品の制作期間は6ヶ月に及んだ。


テイラー教授の発見


物理学者であるテイラー教授は、趣味で抽象画を描いていました。そして何と、英国のマンチェスター美術学校に入学して絵の勉強を始め、そこで偶然にもポロックの作品がもつ "ある種の規則性" に気づきました。この論文の一番おもしろいところは、この "気づき" の経緯かも知れません。


私は以前からポロック作品に興味を持ち続けていた。私自身、物理学者としての生活の傍ら、抽象画を描いていたからだ。そんなわけで、1994年に私は科学者としての仕事をひとまずやめ、絵描きに専念する決心をした。ニューサウスウェールズ大学物理学科を辞し、英国のマンチェスター美術学校に進んだ。画家になるべく、いちかばちかの挑戦に出たわけだ。

寒さの厳しい2月、美術学校は私たち学生を英国北部ヨークシャー地方の荒野に追い出し、底で見たものを1週間の滞在中に風景画に仕上げるという課題を与えた。しかし、猛烈な吹雪のために写生は不可能になり、一行は宿に足止めを食らった。そこで私たちは、自分たちに代わって自然そのものに絵を描かせようというアイデアを思いついた。

このアイデアを実行に移すため、私たちは強風で折れた木の枝を集め、巨大な構造物をこしらえた。その一部は大きな帆のような役割を果たし、周囲は渦巻く風を受けて動く。この動きが構造物の他の部分へと伝わり、そこに固定してある絵の具入りの容器を動かす。地面に広げたカンバスに絵の具がしたたり落ち、風に応じたパターンを描き出す仕組みだ。

再び嵐が近づいてきたので私たちは室内に退却し、一晩でどんな絵が出来上がるかを待つことにした。翌朝、嵐が過ぎ去り、1枚の絵が残された。驚いたことに、それがポロック作品に実によく似ていたのだ。

「同上」


カオスとフラクタル


物理学者(物性物理)であるテイラー教授は、風の力で木の枝が描き出したパターンが全くのデタラメではないことを知っていました。その背景にあるのが1960年代から発達した「カオス理論」であり、そこから派生した「フラクタル」です。


1960年代、天候などの自然現象が時とともにどう変化するかについて科学的な考察が進んだ。その結果、こうした自然現象は決してデタラメではないことがわかった。非常に微妙な秩序が背景に潜んでいるのだ。こうした性質は「カオス」と名づけられ、カオス理論という新しい科学が生まれた。

一方、1970年代になると、こうしたカオス的過程から生まれる図形に関して、新しい幾何学が生まれた。発見者のマンデルブロ(Benoit Mandelbrot)が「フラクタル」と名づけたこの図形は、普通のユークリッド図形とはまったく違う。人工的に引いた直線はギザギザのない滑らかな線だが、フラクタルな図形は細部を拡大すると似たようなパターンが繰り返し出現する。非常に複雑なパターンが集まって、図形全体を作り出しているのだ。

木の枝で作った装置が描き出した絵を見て、私はピンときた。一見すると不規則に見えるポロック作品にも微妙な秩序が隠されており、フラクタルになっているのではないか?

「同上」

フラクタル図形を特徴づけるのは "自己相似性" です。部分を拡大すると全体とよく似た図形、ないしは全体と相似形の図形が現れる。この "自己相似性" には「厳密な自己相似性」と「統計的な自己相似性」があります。

下の左の図はコンピュータで描いた木ですが、細部を拡大すると厳密に全体と相似形の図が現れます。一方、右の図は実際の木で、厳密な自己相似性ではなく、同じ統計的性質をもつパターンが繰り返し現れます。

Pollock-1.jpg
厳密な自己相似性を示す人工的に作った木(左)と、統計的な自己相似性がある実際の木(右)
(日経サイエンス 2003.3)

自己相似性をもつ図形は、厳密か統計的かにかかわらず、フラクタル次元(= D)を定義することができます。No.243「視覚心理学が明かす名画の秘密」にも書いたのですが、フラクタル次元 D の計算方法は次のようです(計算方法はテイラー教授の論文には書いてありません)。

前提として、長方形ないしは正方形の2次元の2値画像としてます。つまり真っ白の画面に黒でパターンが描かれているものとします。このような2次元・2値画像のフラクタル次元は "ボックス・カウンティング法" で計測できます。

長方形ないしは正方形の2次元・2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域(ボックス)に分けます。そしてパターンの黒がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。するとフラクタル次元 D は、N が適度に大きいとして、次のように定義できます。

  D = log P(N) / log N

もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、N の値にかかわらず D = 1 となります(=1次元)。直線は1次元の自己相似形です。もし画像が黒で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(=2次元)となります。真っ黒の画像も自己相似形です。数学的には平面を埋め尽くすような曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元 D は 2(=2次元平面と同じ)になります。

一般の画像では、Nの値を変えてP(N)を計測します。そして両対数グラフに [ N, P(N) ] の点をプロットすると、自己相似性がある場合は点が直線の近傍に並びます。その直線の傾きがフラクタル次元 D で、Nが適度に大きい範囲で「1以上、2未満」で定まります。自己相似性がないとプロットした点は直線の近傍に集まらず、一定の D が定まりません。

ちなみに N=2 だと、2×2の合計4つの小領域(ボックス)には全てパターンがあると(普通の画像では)考えられるので、

  P(2) = 4 (N = 2 のとき)

となり、D = 2 です。N が増えるとパターンが全く無い真っ白な小領域が出てきて、D の値は小さくなっていきます。N が極めて大きいとすると、小領域は「真っ黒」か「真っ白」の2種類で大部分を占めることになります。従って、画像の黒の部分の面積割合を α (0 < α < 1)とすると、

  P(N) = N × N × α (Nが極めて大きいとき)

となり、logα < log N なので、定義から D は "2に近い値" になります。つまり、N が大きくなるにつれて D = 2 に近づきます。

以上のように「D は 2 に始まり(N = 2)、N の増大に従って小さくなり、再び大きくなって 2 に近づく」という過程をたどります。画像がフラクタルであるということは、この過程において D の値が一定である N の区域がある(=それなりの大きさの N 範囲で D がほぼ一定)ということです。

フラクタル次元 D は、自己相似性をもつ図形の "複雑さ" の度合いです。D の値が小さいと繰り返し構造は目立たず、隙間の多い図形になります。D の値が 2 に近づくにつれ、自己相似の繰り返しが密になり、細部まで複雑に入り組んだ図形になります。


テイラー教授によるポロック作品の分析


ヨークシャー地方の荒野での発見のあと、テイラー教授はニューサウスウェールズ大学の研究室に戻り、ポロック作品の分析を始めました。


ポロックの作品はフラクタル次元の考え方で分析できるのだろうか。また、できるとしたらどんな方法で ?

それを明らかにしようと、私はニューサウスウェールズの研究室に戻り、カンバスに描かれたパターンをコンピューターを使って定量化することにした。コンピューターの正確さと計算能力なしでは、この種の分析は不可能だ。

そこでコンピューターの専門家に協力を求めた。半導体素子の分野で博士号を取るためにフラクタル解析を研究していたミコリッチ(Adam Micolich)と、画像処理に通じたジョーナス(Davis Jonas)の2人だ。

私たちはまずポロックの絵をスキャンしてコンピューターに取り込むことから始めた。次に、同じ大きさのマス目からなるメッシュをコンピューター上で合成し、画像にかぶせる。マス目が絵のパターンを含んでるかどうかをマス目ごとにチェックして分析すると、絵の特徴を統計的に算出できる。

マス目のサイズを小さくすれば、拡大して見るのと同様の効果が生じ、細部にわたる分析が可能だ。一滴の絵の具が残した小さな点から約1m 四方の領域まで、私たちは拡大率をさまざまに変えて調べた。

驚いたことに、ポロックの絵はフラクタルだった。しかも、大から小まであらゆる拡大率でフラクタルだ。大小のパターンでは大きさに1000倍もの開きがあるのに、すべてフラクタルだ。

自然界のフラクタル構造が発見される25年前に、ポロックはすでにそれをカンバスに描いていたのだ。

「同上」

画家になるという "いちかばちか" の挑戦のためにマンチェスター美術学校に進んだテイラー教授ですが、ニューサウスウェールズ大学の研究室に戻ったのは「自分には画家になるだけの才能がない」と自覚したからと想像します。いやそれとも、美術学校でポロック作品はフラクタルではないかと思い当たって、それがテイラー教授の学者魂に再び火を付けたのかもしれません。

ともかく、テイラー教授は 20点のポロック作品を分析しましたが、それらすべてがフラクタルでした。

Pollock-Autumn Rhythm.jpg
Jackson Pollock
「Autumn Rhythm」(1950)
266.7cm×525.8cm
(メトロポリタン美術館)

Pollock-2.jpg
「Autumn Rhythm」のうち、黒色で描かれたパターンの一部を拡大した画像。フラクタル解析は、絵のパターンを色別に分けて行う。
(日経サイエンス 2003.3)

Pollock-3.jpg
ボックス・カウンティング法により、パターンを含むマス目(薄い青)と含まないマス目(白)コンピューターでカウントする。マス目の大きさを変えながらデータを取り、これをもとにフラクタル次元を算出する。
(日経サイエンス 2003.3)


"ポロックもどき" のドリップ・ペインティングでは ・・・・・・


テイラー教授の論文には、ポロック作品ではないドリップ・ペインティングを分析した結果がのっています。それによると「非ポロック作品」はフラクタルではなく、一定の D の値は見い出せませんでした。ポロックの作品では、特にボックスの大きさが 1mm~10mm の範囲で D が一定になる傾向が強く、それに対して非ポロック作品ではこのような傾向がありません。

Pollock-4.jpg
右の列の3枚はポロックの「Number 32, 1950」を、下から上に順次拡大していったもの。拡大しても類似のパターンが現れる。左の列は非ポロック作品の例。拡大すると "まばらな" 部分が現れて全体とは違って見える。
(日経サイエンス 2003.3)

Pollock-5.jpg
横軸はパターンサイズ(=ボックスの大きさ)で、縦軸が D の値。ポロック作品ではボックスの大きさが 1mm~10mm の範囲で D が一定だが、非ポロック作品には一定の値をとる傾向が見られない。なお、横軸の左端は 0 になっているが、実際のボックスの大きさはゼロより大である。
(日経サイエンス 2003.3)

この事実を利用して、ポロックのドリップ・ペインティング作品の鑑定ができると、テイラー教授は書いています。教授はある絵画コレクターが持つ5点のドリップ・ペインティングを分析しました。コレクターはこれら5点はポロック作品だと思っていましたが、分析の結果フラクタルではないことがわかり、教授は「ポロック作品ではない」と推定しました。つまりフラクタル解析はポロック作品の "真贋判定" に使えるわけです。


年代とともに上昇するフラクタル次元


テイラー教授が 20点のポロック作品を分析して発見したもう一つの事実は、フラクタル次元 D が制作年代とともに上昇することです。


面白いことに、彼がドリップペインティングで描いていた10年あまりの期間を通じて、D の値はずっと上昇を続けた。1945年の作品では 1.12 だったものが、1952年では 1.7 になっている。さらに D が 1.9 に達した特異な例もあるが、この作品はポロック自身によって後に破棄された。

「同上」

論文によると、ポロック作品に多いのは D = 1.4~1.7 程度です。一方、人間が最も心地よいと感じるパターンは D = 1.3~1.5 程度だそうです(たとえば、雲のフラクタル次元は 1.3)。D が大きくなるにつれて、パターンはより複雑になり、稠密になります。ポロックはアーティストとしての感覚から、人間にとって心地よいパターンより少し複雑・稠密なものがアートとして最良と考えたのではないかと、テイラー教授は推測しています。D が 1.9 にまでなると複雑すぎる、だからその作品を破棄したというわけです。


ポロックの制作方法


なぜポロックはフタクタルのドリップ・ペインティングを描けたのか。それは彼の制作方法によるとテイラー教授は言っています。


ポロックの絵画は考え抜かれた技法によって計画的に描かれたことがはっきりわかる。ポロックはまず、カンバスのところどころに「島」のようなパターンを描くことから始めた。自然に見られるパターンにも、最初は小さな核のようなものから始まり、それが広がって合体していく例がある。ポロックの作画法にこれに通じた面があるのは興味深い。

彼は次に、より長い軌跡を描いてこれらの「島」を結びつけ、次第に「島」を覆い隠すようにして、クモの巣状の稠密なフラクタル図形を創出した。こうして「基礎層」ができた後は、これに従って作画を続けた。「島」を結びつける過程で、絵の複雑さ(D の値)は一筆ごとに上昇した。こうして素早く集中的な仕事をした後、ポロックは一息入れるのが常だった。

再びカンバスに向かうと、黒で描いた基礎層の上にさまざまな色の絵の具を重ね、2日から6ヶ月をかけて作品を仕上げていった。基礎層によって確立した複雑さを微調整していたのだろう。さらに、作画が完了した後にカンバスの周辺部をカットした。周辺部はフラクタル特性が低下しているので、これを除いて最適化したのだ。

「同上」

Pollock-6.jpg
ポロックの制作風景
「One」を制作中のポロック(1950年)。椅子で見守るのは妻のリー・クラスナーで、彼女も抽象主義の画家である。
(日経サイエンス 2003.3)

ポロックは「私の関心は自然のリズムにある」と語っていたそうです。テイラー教授が英国北部ヨークシャー地方で嵐の力を借りて "制作" した"作品" が "ポロック風" だったのは、当然そうなるところだったのでしょう。

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上から順に、水に揺らぐ海藻、ポロックの「Full Fantom Five」(1947年)、テイラー教授が嵐の力を借りて偶然に創作したポロック風の作品。
(日経サイエンス 2003.3)



ポロック作品はデタラメでは決してなく、そこには微妙な秩序が隠されている。その秩序とは自然界にしばしば見られる "フラクタル構造" で、ポロックにしか創り出せなかった ・・・・・・。このことを知るだけでも作品の見方が変わると思いました。


墨流し


ここからは余談です。ジャクソン・ポロックの作品の作り方で連想するのが、日本の古来の「墨流し」の技法です。水槽に水を張り、墨を垂らして慎重にかき混ぜ、流水模様を作る。その上に和紙を置いて模様を転写する技法です。これは布でもできるし、色の顔料を使ってカラー化も可能です。色を使うものは「色流し」という言い方もあるようです。掲載した画像は、京都友禅共同組合のページに掲載されている墨流し(色流し)による染色です。英語ではこの技法をマーブリングと言います。マーブル(marble)とは大理石のことで、流水模様が大理石に似ていることによります。

墨流し.jpg
京都友禅共同組合のサイトにある「色流し」の例。
この墨流しはアクション・ペンティングと似ているところがあります。職人が墨を垂らして人為的に模様を作りますが、そのコントロールには限界がある。ポロックは「私の関心は自然のリズムにある」と語ったそうですが、墨流しにも "自然のリズム" が含まれています。水面を微妙にかき回すことによる表面水流や、墨・顔料の分子同士や水分子との相互作用、そういうものが加味されて流水模様か形作られていく。当然、偶然の要素が入り込みます。人と自然の共同作業と言えるでしょう。

ひょっとしたら、ポロック作品と同じように、墨流しの達人が作った模様はフラクタル構造になっているのかもしれません。模様の作成は素人にもできます(紙・生地への転写は難しそうだけれど)。しかし人が見て "心地よい" と感じる流水模様は、ポロック作品がそうであるように誰にでもできるものではなく、技法にけた人でないと無理ではないか ・・・・・・。ポロック作品のフラクタル構造の記事を読んで、そんな連想をしました。




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No.243 - 視覚心理学が明かす名画の秘密 [アート]

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で、ルネサンス期の女性の横顔肖像画(= プロフィール・ポートレート。以下、プロフィール)で傑作だと思う4作品をあげました。

ピエロ・デル・ポッライオーロ
  「若い貴婦人の肖像」(1470頃)
 ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ)

アントニオ・デル・ポッライオーロ
  「若い女性の肖像」(1465頃)
 ベルリン絵画館

ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス
  「ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

ドメニコ・ギルランダイヨ
  「ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
 ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)

視覚心理学が明かす名画の秘密.jpg
の4作品ですが、これらはすべて左向きの顔でした。そして、「プロフィールには右向きのものもあるが(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)、数としては圧倒的に左向きが多いようだ、これに何か理由があるのだろうか、多くの画家は右利きなので左向きが描きやすいからなのか、その理由を知りたいものだ」という意味のことを書きました。

最近、ある本を読んでいたらプロフィールの左向き・右向きについての話がありました。三浦佳世『視覚心理学が明かす名画の秘密』(岩波書店 2018。以下、本書)です。そこで今回は、プロフィールの左向き・右向きも含め、本書からいくつかのトピックスを紹介したいと思います。

著者の三浦氏は九州大学名誉教授の心理学者で視覚心理学が専門ですが、父親は洋画家の安田謙(1911-1996)です。視覚心理学の知見をもとに名画を語る(なしは、名画を素材に視覚心理学を語る)にはうってつけの方でしょう。まず、西洋画における光の方向の話からです。


フェルメールの光


前回の No.242「ホキ美術館」で、生島 浩氏の『5:55』という作品について「明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成」と書きました。この作品はパッと見て "フェルメールを踏まえた絵" と感じるのですが、その一番の理由は、室内に差し込む左上の方からの柔らかな光です。本書にはまず、次のフェルメール作品が引用されています。

手紙を書く女と召使い.jpg
フェルメール(1632-1675)
手紙を書く女と召使い」(1670/71)
1974年と1986年の2回に渡って盗難にあったことで有名な作品。
(アイルランド国立美術館)

確かにフェルメールの作品には「主人公が女性で、その女性だけ、または女性を含む複数の人物が室内に配置され、左側に窓があって、左上から柔らかな光が差し込んでいる」という絵が多いわけです。中には主人公が男性というのもあるし(天文学者、地理学者)、右からの光の作品もあります(例えば、ルーブルにある刺繍をする女性の絵)。しかし圧倒的に多いのは、女性が主人公で、特に "左からの光" なのです。

しかし本書によると、この "左上からの光" は何もフェルメールに限ったこことではないようです(以下の本書からの引用で下線は原文にありません。また段落を増やしたところがあります)。


画面の左側に光源を置くのは、フェルメールに限ったことではない。視覚研究者のジェニファー・サンとピエトロ・ペローナは、欧米の著名な3つの美術館に収蔵されている絵画の光源の位置を、カタログを使って調べてみた。すると、8割近くの絵が左からの光、それも左上 30~60度の光を想定して描かれていることがわかった。

三浦佳世 
『視覚心理学が明かす名画の秘密』
(岩波書店 2018)

ではなぜ、左上からの光が多いのでしょうか。本書に書かれている一つの推測は、画家はアトリエにおいて窓を左にしてイーゼルをたてることが多いからです。なぜなら多くの画家は右利きであり、窓を左にする方が筆の先に光が当たって描きやすい。三浦氏は似た話として学校の教室を持ち出しています。記憶にある学校の教室は左側が窓で、右側に廊下があり、これは多くの子が右利きなのでノートに影が落ちないような工夫なのだろうと ・・・・・・。これは、いかにも納得性の高い説明です。

陰影による凹凸判断.jpg
陰影に基づく凹凸判断
(本書より)
しかし視覚心理学からすると、もっと本質的な理由がありそうです。それがわかるのが "陰影にもとづく凹凸判断" です。右の図にある18個の凹凸には1つだけ "仲間外れ" があります。それはどれでしょうか。

瞬時にわかると思います。そしてここが大切なのですが「へこんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」できるはずです。ところが、この絵を上下逆さにすると「膨らんでいるものが1つだけあると瞬時に判断」することになります。なぜそのような判断になるかと言うと、人は暗黙に上方向からの光を仮定しているからです。


どうやって私たち凹凸の判断をしているのだろう。まず、光は上方からやってくるという仮説を立てるようだ。その際、光源が一つだとすれば、上からの光を受けた場合、凸型だと上部は光を受けて明るくなり、下部には影ができて暗くなる。一方、凹型だとこの逆になる。つまり、人は無意識のうちに、光源を仮定し、明暗の状態を確認し、凹凸を推測しているらしい。驚くことに、こうした高度で瞬時の無意識推論は、生後6~7ヶ月にもなればできるという。

「本書」

「生後6~7ヶ月で凹凸の無意識推論ができる」ことをどうやって調べたのか、本書には書いてありませんが、かなり工夫した実験をしないとわからないはずで、是非知りたいものです。それはともかく、この「凹凸の無意識推論」には続きがあります。


先に名を挙げたサンとペローナは、複数の凹凸図形の中から「仲間はずれ」を探し出す課題(視覚探索)において、仮定される光源の位置を変えて、見つかるまでの時間を測ってみた。すると、右利きの参加者では、左上 30~60度の光に照らし出される場合に、もっとも早く「仲間はずれ」を探し出せたという。つまり人びとは真上からの光よりも、左上からの光に鋭敏だったのである。そしてこの光の方向は、フェルメールを含め、多くの西洋画家が描いたそれと一致する

「本書」

人の視覚判断は左上からの光に最も鋭敏であり、従って、左上からの光が最も自然ということになります。これが絵画に左上からの光が多い理由の推定です。


右上からの光


人にとって左上からの光が最も自然だとすると、その逆の右上からの光は「自然ではない」ということになります。そして画家はその「自然ではない」状況をうまく利用したのでないか、というのが三浦氏の推測です。その一つの例が、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるカラバッジョの『マタイの召命』です。

マタイの召命.jpg
カラバッジョ(1571-1610)
マタイの召命」(1600)
(サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会)


一心に金銭を数えている徴税人のマタイに、右上からくさび形の光が伸びている。この光をまとって現れたキリストが彼に声をかけ、名前を呼ばれたマタイが顔を上げれば、次の瞬間、彼の顔は圧倒的な光に照らし出されるだろう。マタイ改心の一瞬を予感させる構図である。

「本書」

右上からの光は "非日常の光" を暗示し、カラバッジョはそれを利用して右上からの "神の光" を描いた。そう推測できるのです。



本書にはない余談ですが、「右上からの神の光」と「改心」で思い出すのが、No.118「マグダラのマリア」で引用した2つの絵画作品、フィレンツェ・ピッティ宮が所蔵する、ティツィアーノとアルテミジア・ジェンティレスキの『悔悛するマグダラのマリア』です。

ティツィアーノの作品は有名で、「マグダラのマリア」と言えばこの絵を思い浮かべる人も多いと思います。アルテミジア・ジェンティレスキは明らかにティツィアーノを踏まえていますが、女性画家らしく裸体表現は最小限に押さえ、"決意" や "自立" といった雰囲気が伝わってくる作品に仕上がっています。またティツィアーノと違って一番強い光は胸に当たっていて、この直後に顔も強い光に照らされて改心が成就する。そのようにも見えます。これはひょっとしたらカラバッジョからインスピレーションを得たのかも知れません。

この2作品に共通するのが "右上からの神の光" です。これが "改心" というテーマを効果的にしていると考えられます。

マグダラのマリア.jpg
ティツィアーノの「悔悛するマグダラのマリア」(1533。左)と、アルテミジア・ジェンティレスキの「悔悛するマグダラのマリア」(1620頃)。いずれもフィレンツェ・ピッティ宮所蔵。



本書に戻ります。三浦氏はさらに、ジョルジュ・デ・キリコの『街の神秘と憂鬱』をとりあげています。この作品は第1次世界大戦が勃発した年に描かれました。それもあってか、無邪気に遊ぶ少女の先に "影" が待ち受けているという、不安感をかもしだす絵です。

キリコ「街の神秘と憂鬱」.jpg
ジョルジュ・デ・キリコ(1888-1978)の「街の神秘と憂鬱」(1914。個人蔵)。左は透視図法の消失点が一つではないことを示した図。
(本書より)

さらにこの絵から受ける印象としては、どうも通常の風景ではなさそうだという「違和感」であり、「どこか変だな」という印象です。


キリコの代表作はいずれも違和感や不思議な印象を喚起する。この「どこか変」な印象は、一点に収斂しない透視図法にあると、美術の本などでは常に指摘されてきた。

「本書」

しかし、本当にそれが違和感や不思議な印象の理由なのだろうか、と三浦氏は疑問を呈しています。というのも、一点に収斂しない透視図法に対して人は寛容だからです。


日常生活において、人は写真のような透視図法的な景色を見ているわけではない。全体を一度で掌握できるほど視野は広くなく、左右の目に映っている映像も異なっている。絵に描かれたような、あるいは写真に再現されえているような、一点からみた光学的な世界を見てはいないのである。

このためか線遠近法に違反している絵を見ても、私たちはそのことに気づかず、寛容である。フェルメールの「ミルクを注ぐ女」の絵では、実は線遠近法に違反して、ありえない空間が描かれている。キリコの絵と同様、消失点が一つではないのだ。このため、窓枠をたどって消失点を求め、この消失点に基づいて机の形を描くと、ミルクは机のない右の床に落ちるか、あるいは画面手前に無駄に広いスペースをもつ机の構図になってしまう。

しかし、この絵には透視図法の間違いによって奇異な印象があるというう指摘は滅多に聞かれず、リアルに描かれた絵画と評されることが多い。そうであれば、キリコの絵の違和感に関して、線遠近法の違反だけで説明することは難しい。

「本書」

牛乳を注ぐ女.jpg
フェルメール(1632-1675)の「ミルクを注ぐ女」(1658)。アムステルダム国立美術館蔵。机の消失点はミルクポットの上のところにはない。
(本書より)

では、キリコの絵の「どこか変」という印象はどこからくるのか。三浦氏は「この絵は影の方向が見慣れない」と指摘しています。


彼の描いた街の不思議な景観は影の方向、つまり光源の位置にも由来しているのではないだろうか。前章で述べたように、西洋絵画の大半は光源が左上に設定されている。絵画に限らず、日常生活でも右利きであれば、左からの証明を好む。

ところが、キリコの絵では、影は常に左に伸びている。光源が右上に設定されているからだ。つまり、彼の絵は日常で親しんでいる光の方向や、西洋絵画で見てきた影の方向と逆なのである。彼の絵の違和感は、この影の方向あるいは光源の位置にも由来しているのではないだろうか。少なくとも、キリコはそのことに意識的だったに違いない。

「本書」


左向きのプロフィール


以上を踏まえて、最初に書いた左向きの横顔肖像画(=プロフィール)が多い理由は次のようになります。三浦氏は "左からの光" を含めて3つの理由をあげています。


西洋の肖像画は左向きに描かれることが多い。それは顔の左側が右脳の支配によって豊かな表情を示すことや、画家が右利きの場合、右上から左下に筆を描きおろす方が簡単なことから説明できる。また西洋の絵では一般には光源を左上に設定するため、左向きの顔は光に照らされ、明るく輝く

「本書」

そして左向きプロフィールの代表例として、No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」で引用したピエロ・デル・ポッライオーロの「若い貴婦人の肖像」が紹介されています。

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of Young Woman.jpg
ピエロ・デル・ポッライオーロ
若い貴婦人の肖像
(ポルディ・ペッツォーリ美術館)

ここまでは、左向きプロフィールに関しての予想どおりの話の展開です。しかし、ちょっと意表をつかれたのはポッライオーロの絵とともに、右向きプロフィールの代表例として、No.121「結核はなぜ大流行したのか」で引用したムンクの「病める子ども」が紹介してあることでした。

病める子(MoMA).JPG
エドヴァルド・ムンク(1863-1944)
病める子ども」(1896)
(ニューヨーク近代美術館)

No.121で書いたように「病める子」は、15歳で結核で死んだ姉(そのときムンクは13歳)を思い出して描いた絵です。ムンクは20歳代以降、40年間にわたって何枚も「病める子」を描いていて、油絵だけでも6枚もあります。No.121で引用したのは油絵の最初の作品でしたが(1885/6。オスロ国立美術館蔵)、本書で引用してあるのはニューヨーク近代美術館(MoMA)が所蔵するリトグラフ作品です。そしてこの絵について三浦氏は次のように書いています。


右向きに描かれた少女は美しくも儚げだが、目には光が射している
「本書」

なるほど ・・・・・・。カラヴァッジョの「マタイの召命」からの類推で言うと、ムンクは「神に召されようとしている姉が、神の光を受けて目に光が宿ったところ」を描いたのでしょう。ムンクにそういう意図がなかったとしても、右からの光が暗黙に「自然ではない光」を表すのが西洋絵画の伝統なので、結果としてそれに符合するように描かれた。このリトグラフに関してはそういう感じがします。何枚もある「病める子」の中には左向きの絵もあるのですが、右向きの絵が特に印象が強いように思うのはそのせいでしょう。そう言えば、最初に描かれた油絵の「病める子」(オスロ国立美術館蔵。No.121で引用)も右向きなのでした。

ポッライオーロの描く左向きの貴婦人は明るい自然な光に照らされて、いかにも健康的で、はつらつとしています。一方のムンクの描く右向きの15歳の姉は、残り少ない命の最後の輝きのような "尋常ではない神々こうごうしさ" を感じる。三浦氏は数ある「病める子」の中からピンポイントでMoMAのリトグラフを選んだはずです。この2枚の絵を対比させて提示した三浦氏の慧眼に感心しました。


酒井抱一と「クレイク・オブライエン現象」


視覚心理学で「クレイク・オブライエン現象」と呼ばれる錯視現象があります(コーンスウィート現象とも言う)。下図(上)においては左側が暗く、右側が明るく見えます。しかし実際には境目のすぐ左側の狭い領域が暗いだけで、その他の部分の明るさは左右で同じです。境目のところを隠すと(下)、そのことがわかります。

Cornsweet illusion.png

Cornsweet illusion_proof.png
クレイク・オブライエン現象
上の図において左右の明るさは違って見えるが、実際に違うのは境目の付近だけである。下図のように境目付近を黒で隠すとそのことがわかる。
(Wikipediaより)

このように物理的には狭い領域の明るさが変化しているだけなのに、広い領域にわたって明るさが変化しているように見えるのが「クレイク・オブライエン現象」です。実は、日本の画家はこの現象を巧みに利用してきました。たとえば江戸琳派の祖である酒井抱一の「寿老・春秋七草図」です。

春秋七草図(秋).jpg
酒井抱一
寿老・春秋七草図」(秋)
(山種美術館蔵)


抱一の「寿老・春秋七草図」では、左上隅の月の輪郭付近が暗く描かれ、右斜め下に向かって急に暗さが減じられている。このため、月の部分が背景よりずっと明るく見える。しかし、実際は、月の中心と月から少し離れた領域の明るさは同一で、月の輪郭付近の暗く見える部分を隠すと、月と周りの明るさは変わらないことがわかる。

この手法であれば、月の明るさと同時に、月明かりで明るく照らされた草木の微妙な色合いも表現することができる。巧みな手法である。

物理的には境目の明るさだけが変化しているのに、知覚的には広い範囲にわたって違って見える現象を、古くから日本の画家たちは知っていた。

「本書」

酒井抱一のような月の描き方は、他にもいろいろ例があります。日本の画家は、心理学者が視覚の研究で発見する以前からこの現象を知っていて、それを絵に利用していたわけです。


モネ、ルノワールと「色の恒常性」


エーデルソン錯視と呼ばれる現象があります。下図(上)でチェッカーボードの A の部分は黒で、B の部分は白だと、我々は判断します。しかし実際には A と B は同じ色です。我々の脳は A には光が当たっているから明るいと判断し、B は円柱の影になっているから暗いと判断し、この照明状況を考慮し、照明の効果を差し引いて A は黒、B は白と判断するのです。

Adelson illusion.png
Adelson illusion_proof.png
エーデルソン錯視
Aは黒っぽく Bは白っぽく見えて違う色のようだが(上)、2つの色の間に無理矢理ブリッジを作ると(下)全く同じ色であることがわかる。
(Wikipediaより)

このような脳の働きを「色の恒常性」と呼んでいます。つまり白い壁に光が当たっている部分と影の部分があるとき、我々の脳は網膜で受け取った実際の物理的な色に修正をかけ、全体が同じ白だと判断します。

ところが印象派の画家たちはこの「色の恒常性」を無視して絵を描きました。たとえば有名なモネの「ルーアンの大聖堂」の連作です。

Rouen Cathedral.jpg
クロード・モネ
ルーアンの大聖堂
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)


モネが描いたようにこのファサードを見ることは、実は、私たちの通常の視覚からすると非常に難しい。たとえば部屋のベージュの壁面が、光と影によって白と黒ほど明るさが違っていても、私たちの知覚には白っぽいベージュと黒っぽいベージュに見えることはなく、同じベージュに見える。つまり、照明や影を差し引いて、対象のもとの色や明るさが判断できるようになっている。

「本書」

モネは、通常の脳の働きである「色の恒常性」を無視して描けたのです。上のエーデルソン錯視の例で言うと A と B を同じ色で描いた。これはすごいことです。神経生理学者のセミール・セキという人は「モネは脳で描いた。だが、何という脳だろう」と言ったそうです。

このような描き方は、ルノワールもそうだと言います。たとえばオルセー美術館の『ブランコ』という作品です。


オーギュスト・ルノアールは戸外で楽しげに語らう人やブランコに乗って遊んでいる人を描いている。そこでは木漏れ日の下にいる男性の青いスーツに大木な白い斑点が描かれ、女性の白いドレスに青い影がまだらに描かれている。人の視覚では、青いスーツはどこもが青く、白いワンピースはどこもが白く見える。ルノアールもモネと同様、色や明るさの恒常性を打ち消し、光と影が織りなす模様を服の上に大胆に描き込んだのである。

「本書」

Swing-Renoir.jpg
オーギュスト・ルノワール
ブランコ
(オルセー美術館)

よく「印象派は影にも色があることを発見した」などと言われますが、視覚心理学からすると「色の恒常性を無視して描いた」となります。その方がより正確な言い方です。さらに三浦氏は、この描き方は写真の影響ではと推測しています。


印象派の画家たちは写真の登場により、写実とは異なる表現を生み出したといわれている。だが、逆かもしれない。明るい日の写真には、人の視覚では気づかない光や影が強く写り込む。ルノアールの絵のように、光の当たったジャケットは白光りし、木漏れ日の下の顔には色ムラが映り込む。

ルノアールの描いた光景はその意味で、カメラのとらえた映像が再現されている。写真が印象派の画家たちに自然の見え方を教え、また、印象派の絵が私たちに、色や明るさの恒常性を無視した見方を教えてくれた。

「本書」


ポロックの「フラクタル次元」


本書にはオレゴン大学のテイラー教授(物理学)が行った、ジャクソン・ポロックの "アクション・ペインティング"(または "ドリップ・ペインティング")についてのフラクタル解析が紹介されています。ポロックの作品には "秘密" があるのです。"アクション・ペインティング" の代表的作品は、たとえば次の「ナンバー 14」ですが、これにどんな秘密があるのか。そのキーワードは "フラクタル" です。

Pollock_Number-14.jpg
ジャクソン・ポロック
Number 14 : Gray」(1948)
(Yale University Art Gallery)


フラクタルとは部分が全体と相似をなす構造、つまり、部分の形状が全体の形状と似ていて、部分を拡大すると同じ形状が繰り返し現れる構造を示す。フラクタルには、厳密に自己相似である場合と、統計的性質が相似的な構造をもつ場合がある。自然界には後者のパターンが多く、たとえば、雲や枝分かれする樹木、リアス式海岸などもフラクタル構造をもっている。フラクタル構造をもつものは、相似形の繰り返しからなっているので、情報の処理が簡単で、この処理流暢性が美しさや快さにつながると考えられている。ただし、生理的なメカニズムは特定されていない。

白と黒に2値化した画像では「フラクタル次元」の値は1から2までの値をとる。1に近づくと単純になり、2に近づくほど要素が増えて複雑になる。このうち、人が心地よいと感じられる値は 1.3~ 1.5 近辺で、雲や海岸線など、自然界の示すフラクタル次元はたいていこの範囲に収まると言われている。

「本書」

2値画像を念頭に補足しますと、自己相似的性質をもつ画像は一定の値の「フラクタル次元」を定義できます。自己相似的性質のない画像は、そのような一定の値は定義できません。フラクタル次元が1とは1次元であり、直線が一本書かれた画像はそうです。フラクタル次元が2とは2次元、つまりすべての点が黒で埋められた画像です。

2次元画像のフラクタル次元はボックス・カウンティング法で計測できます。この方法ですが、2次元の2値画像を1×1の正方形領域にマッピングしたとします。そして正方形の縦横をそれぞれ N 分割し、N×N 個の小領域に分けます。そして画像の黒点がある小領域の数をカウントして、その数を P(N) とします。すると、フラクタル次元 D は、N が十分に大きいとして、次のように定義できます。

  D = log P(N) / log N

もし、画像に直線が横1線に描かれているだけとしたら、P(N) = N なので、D = 1 となります(1次元)。もし画像が黒点で埋め尽くされているのなら、P(N) = N * N なので D = 2(2次元)となります。数学的には平面を埋め尽くす曲線が定義できるのですが(=空間充填曲線。ペアノ曲線など)、そのような曲線のフラクタル次元は2(=2次元平面と同じ)になります。画像が自己相似性をもつと D の値は(Nが大きい範囲で)ほぼ一定になります。自己相似性がないと、こような一定の D の値は定まりません。

テイラー教授はこの方法でポロックの絵画のフラクタル次元を求め、分析しました。


テイラーはボックス・カウンティング法という手法を使って、ポロック絵画のフラクタル解析を行ってみた。すると、一見、でたらめに描いたように見えるどの絵においてもフラクタル構造が見られ、どのようなスケールで部分を切り取ってみても、全体と相似をなしたという。しかも「ナンバー 14」という作品では、フラクタル次元の値は 1.45 と、人が快く感じられる値に一致していた。数学者がフラクタルという概念を案出する20年も前のことである。ポロックはその概念をすでに画面上で表現していたのだ。

テイラーはさらに、ポロックの1945年から54年までの作品を解析してみた。すると、フラクタル次元の値は、年代が進むにつれて上昇し続けていくことがわかった。画面はひたすら複雑になっていったのである。最盛期の1948年頃の作品ではフラクタル次元の値は 1.5 近辺で自然界に見られる値に近かった。

しかし、1950年には上限に近い 1.9 という際だって高いフラクタル値の作品を制作している。ただし、彼は後にこの作品を破棄したという。画面があまりに複雑で過密過ぎると感じたのだろう。

「本書」

本書には京都大学霊長類研究所の研究者が、スーパー・チンパンジーである "アイ" に線画を書かせ、それをフラクタル解析したことが書かれています。それによるとフラクタル構造は見いだせなかったとのことです。"アイ" の絵は残念ながら "デタラメ" だったようです。しかし、ポロック風のアクション・ペインティングを描いたとしても "デタラメ" になってしまうのは、何も "アイ" だけではありません。


実際、テイラーもポロック風の作品を作って、フラクタル解析を行っている。見かけは似ているが、フラクタル構造は見いだせなかったらしい。ポロックは自由気ままに制作していたように見えて、実は大変な「計算の上に」画面を構成したいたことがわかる。事実、ポロックは早くて2日、長いと半年をけかて一つの作品を仕上げていたという。一瞬の判断と行動、しかしそのための長い熟慮もしくは思考停止、その繰り返しが優れた作品を生み出したのだろう。

「本書」

ちなみに本書によると、テイラー教授は絵を描くのが趣味で、美術学校に通ったこともあるそうです。プロの画家ではありませんが、全くの素人でもありません。しかし、美術学校に通ったことがあって絵画が趣味程度ではポロックの域にはとても到達できないのです。

ポロックの "アクション・ペインティング" は、デタラメとはほど遠く、それはある種の "心地よさ" を生み出すように計算しつくされたものである。このことを知るだけで絵の見方も変わるでしょう。


絵画を見る視点


本書には上にあげた以外にも、視覚心理学と絵画にからむさまざまな話題が取り上げられていますが、割愛したいと思います。いずれも絵画を愛好する人なら興味深い内容でしょう。

振り返ってみると、このブログでは中野京子さんの『怖い絵』シリーズから、かなりの引用をしてきました。『怖い絵』シリーズのメッセージは、

  絵画は「見て、感じればよい」というだけでなく、描かれた背景、つまり画家の個人史、制作された時代の状況、絵画史における位置づけなどを知ることで、より興味深い鑑賞ができるし、描かれた背景を知れば "絵の意味" が一変してしまうことさえある。

ということでしょう。三浦氏の「視覚心理学が明かす名画の秘密」も、それと似ています。つまり、

  心理学の知識を踏まえて名画を見ると、より興味深い鑑賞ができるし、名画とされるその理由の一端が感じられる。

とうことです。そのことがよく理解できた本でした。



 補記 

三浦佳世氏は、2019年3月の日本経済新聞の最終面で「絵画の中の光と影 十選」と題するエッセイを連載されました。これは「視覚心理学が明かす名画の秘密」の補足のような内容です。その一部を、No.256「絵画の中の光と影」で紹介しました。

(2019.4.13)


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No.242 - ホキ美術館 [アート]

「個人美術館」という言い方があります。これには2つの意味があって、

一人のアーティストの作品だけを展示する美術館

一人のコレクターが蒐集した作品だけを展示する美術館(以下、個人コレクション美術館)

の2つです。今まで、バーンズ・コレクションからはじまって9つの "個人コレクション美術館" について書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム
  No.216フィリップス・コレクション米:ワシントンDC
  No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館イタリア:ミラノ

の9つの美術館です。これらはいずれもコレクターの名前を冠していました。また、フィリップス・コレクションとポルディ・ペッツォーリ美術館はコレクターの私邸がそのまま美術館となっている「私邸美術館」、ないしは「邸宅美術館」(朽木くちきゆりこ氏の表現)です。

今回はその「コレクター名を冠した個人コレクション美術館」の続きで、日本の美術館を紹介したいと思います。千葉市にあるホキ美術館です。ホキ美術館は実業家の保木将夫ほきまさお氏の個人コレクションの美術館で、写実絵画(リアリズム絵画)だけを展示するという、日本で唯一の(おそらく世界でも唯一の)美術館です。その建物は保木コレクションの展示専用に建てられたもので、3つの細長い廊下(=ギャラリー)を3層に重ねた構造の、大変ユニークな形をしています。大手設計会社である日建設計の設計です。

ここはテレビでも何回か紹介されたし、また本も出版されています。日本の美術館なので訪れた人も多いと思います。そしてここを訪れると、写実絵画の独特の魅力、写実絵画でしか味わえない魅力を改めて認識することになります。その "魅力" をいくつかの視点から書いてみたいと思います。

ホキ美術館.jpg


見たことがない風景


最初は風景画です。絵で "見たことがないモノや世界" を描くのはあたりまえであり、神話画から始まって、空想の世界を描いたり、パッチワークのような理想の風景を描いたりと、幾多の作例があります。

では、写実絵画の技法で描かれた風景画はどうなのでしょうか。一般に「写実」と言うと「見たままを忠実に描く」とか「写真のように描く」とか言われます。ホキ美術館に行っても "写真みたい!" と感嘆する声を時折り聞きます。はたしてそれは「写真のように見たままを描いた」ものなのか。

我々が戸外で風景を眺めるとき、眼はある一瞬では風景のどこかの狭い範囲を見ています。その範囲を次々と移動させて全体の風景を認識している。見ている狭い範囲の上下左右は、実はボケています。丸い眼球の構造上、どうしてもそうなります。また、ある時点でクリアに見えるのは一定距離の所だけで、その前後は不明瞭です。我々は眼のレンズ(水晶体)の厚みを変化させ、焦点距離を変えて近くを見たり遠くを見たりする。こういった上下左右・前後の視点の移動を繰り返し、脳がそれらをつなぎ合わせて全体の風景と認識しているわけです。

写真はどうかというと、人間の眼よりは遙かに広角の範囲を同時にとらえられます。周辺で画像が歪むということがありますが、こういった歪みをいかに少なくするかが、カメラ・メーカーの技術者の腕の見せ所です。しかし、撮影場所付近と遠方の両方に同時に焦点を合わせることは、ふつうできません(被写体深度による)。また、写真は人間の眼と違って単眼です。両眼視で風景を認識している人間とは見え方が違います。さらにシャッタースピードは数百分の1秒とか、そういう値です。写真は数百分の1秒の瞬間だけを切り取っています。

それ対して写実絵画の技法でリアルに描かれた風景は "人間の眼" とも違うし "写真" とも違います。なぜなら「広角の範囲の近くから遠くまで、そのすべてに焦点が合っているように精緻に描く」ことが可能だからです。それは画家が長い時間をかけて風景の細部をじっくりと見つめ、そこで得たさまざまな情報を平面のカンヴァスに定着させたものです。それは、実は人がいまだかつて実際に見たことがない風景であり、また、一定の焦点距離の単眼で瞬間を切り取る写真では不可能な表現です。

ホキ美術館が所蔵する、原雅幸まさゆき氏の『マナー・ハウス』という作品が次です。原氏は大阪出身で、スコットランドのエディンバラ在住の画家です。

マナーハウス.jpg
原 雅幸(1956 ~)
マナー・ハウス」(2012)

マナー・ハウスとは貴族の所有する牧場・農場に建てられた邸宅で、マナー(manor)とは "荘園" の意味です。雪の日の、あるマナー・ハウスの入り口を描いたものです。雪が降ったことで風景が一変したように感じられるところに、長い木の影を落として朝日が差し込んでいます。

もちろん、雪の日にイギリスのマナー・ハウスに行ったことがある人は(滅多に)いないでしょう。しかしこれと類似の光景に、我々は日本で出会っているはずです。向こうに続く道が雪で覆われ、両側には木々があり、朝日が差し込む ・・・・・・。雪の日の郊外や田園地帯に行ったことがなくても、そこに行って同様の光景に立ち会う姿は容易に想像できると思います。では、この絵の風景は実体験できるのかどうか。

この絵は近景を思い切り広角で描いています。かつ、マナー・ハウスへと続く道の奥までが遠近法で描かれている。そして道の両側の木々や遠方の樹木を含めて、すべてのものが写実の技法で細密に描写されています。ホキ美術館でこの絵を見ると、そのすべてが同時に眼に飛び込んできて風景を一望することになります。これは実世界では体験できないことです。写真でも無理でしょう。

この "体験" に驚きと感動を覚えるのですが、この効果は写実絵画だからこそ発揮できるものです。あくまで写実的に描かないとこの効果は薄れてしまう。まずこのあたりに、写実絵画の一つの魅力があります。

蒼天.jpg
野田 弘志(1936 ~)
蒼天」(2008)

日本における写実絵画を牽引してきた野田 弘志氏の作品で、北海道の有珠山の雄大な風景を描いています。2m×4m の大作です。

有珠山(しかも噴煙をあげている)をこのようなポジションで実際に見た人は少数だと思いますが、類似の光景に出会った人は多いでしょう。孤立山の裾野に立って山を眺めるとこういう感じになります。北海道で言うと羊諦山がそうだし、富士山の裾野を思い出してみてもいいと思います。

しかし実際にその場所で見ると、近景の林の木々と遠景の山を "同時に" 見ることはできないのですね。風景画だとそれら同時に同じ焦点距離で提示できます。これぐらいの距離になると写真で可能かもしれませんが、山肌と木々の細部が2m×4mのカンヴァスに緻密にクリアに描かれたさまは写真では表現できない。写実絵画ならではでしょう。

野田氏は絵のタイトルを「蒼天」と名付けています。画家が一番描きたかったのは、まさにその空だと思います。雲ひとつない、独特の色合いの、ピュアな空。そこに、地球内部から突き出てきたような有珠山の山塊が対峙しています。その山塊に "へばりついている" かのようにも見える林の木々。この3つを対比させることによって、自然の営みの巨大さをカンヴァスで表現したと感じます。じっと見ていると、山塊は林を圧倒するようにそびえ、画面の3分の2を占める空はその山塊を飲み込んでしまいそうな雰囲気です。自然の巨大さを順序づけると、

  林 < 山塊 < 蒼天

  ないしは、それを一般化して

生命 < 地球 < 宇宙

といった感じがします。林の手前の畑を人間の営みと考えて、それも生命の中に入れてもいいと思います。画家が空に雲を描かなかったのは、宇宙の一部としての空をイメージしたからでしょう。そういった関係性を、題名である「蒼天」を軸に一瞥いちべつできるようにしたのがこの絵のポイントです。

全くスケールの違うものを1枚のカンヴァスに押し込めた絵です。それを見る人に「生命・地球・宇宙」という風に(少なくとも私にとって)感じさせる理由は、まさにそれが写実絵画だからと思います。たとえば印象派風の筆致で林と山と空を描いたのでは、それは「有珠山風景」であって、全く違った意味の絵になるでしょう。あくまで「林・山塊・蒼天」のリアルな描写に徹しているからこそ、それが逆に「生命・地球・宇宙」を感じさせる。写実絵画でしか成し得ない表現だと思います。


存在の本質に迫る


「存在の本質」などと言うと哲学的な話のようですが、ここでは難しく考えずに「存在が、それを見る人に必然的に引き起こす印象や感情」ぐらいの意味にしておきます。

たとえば美術品としての焼き物があるとします。人がそれを鑑賞するのはまず形です。そして(絵付けがないとしたら)釉薬で焼き上げた表面の感じが重要です。表面には往々にして釉薬の流れた跡や焼きムラがあって、それを景色けしきと言ったりします。また、釉薬の細かいひび割れ(貫入かんにゅう)があったりする。それらのすべての「質感」や「味わい」を視覚(と触覚)で楽しむのが焼き物です。

人間に何らかの感情を呼び起こすモノ・存在の姿を、焼き物にならって「景色」と総称するとすると、景色は何も美術工芸品に限ったものではありません。無生物だけでなく動植物にも、身の回りの日用品にもそれぞれの景色があります。身の回りの品をじっと見ることは普通しないので、いちいち気に留めることはないのですが、ふとじっと眺めると、そこにある「存在」がある種の「印象」や「感情」を呼び起こす。それは「存在」が持っている景色に起因すると同時に、我々と「存在」の関わり合いの記憶からくるものです。人生においては「存在」との数々の出会いがあり、その記憶が無意識的にさまざまな感情を引き起こしている。

写実絵画の魅力は、「存在」の何が「印象や感情」を引き起こすのか、その本質は何かを視覚の面から追求していることにあります。

 静物 

パンと檸檬.jpg
五味 文彦(1953 ~)
パンと檸檬」(2010)

そのモノが持つ「景色」が人の感情を呼び起こす秘密はどこにあるのか、画家はそれを探求します。五味 文彦氏の静物画「パンと檸檬」(2010)もそうです。

こういったタイプのリアリズム静物画は、オランダ絵画を筆頭に現在まで膨大な作品が作られてきました。このブログでも以前にとりあげたことがあります。No.157「ノートン・サイモン美術館」で紹介したスルバランの「レモンとオレンジとバラの静物」(1633)です。そこでは絵の印象として、

静粛
質素
澄んだ空気感
すがすがしい
モノが存在をしっかりと主張している

と書きましたが、五味氏のこの絵はどうでしょうか。

題名になっている「パン」と「檸檬」以外に、「グラスに入った赤ワイン」と「栗」が描かれ、さらに「レース」と「質感が違う3種の金属器」が描かれています。明らかに画家は難しそうな素材を選んで、油絵による質感表現の限界に挑んでいる感じがします。グラスの向こうに映るパンなどは特にそういう感じがします。

しかしそれだけではありません。たとえばパンの描写をじっとみると「質素」だが「暖かみ」があって「豊穣さ」もあるといった感じを受ける。一つのパンが少しちぎられて中が見えているところなどは、その印象を倍加させているのでしょう。数個の檸檬がありますが、皮を剥いた姿も描かれていて、柑橘類が我々に与える印象、つまり瑞々みずみずしさ、清楚、鋭利、といった感じが絵筆で的確にとらえられていると思います。

さらにこの作品が優れていると思うのは、ある種の「空気感」が画面全体で表現されていることです。スルバランの絵のような、澄んだ、すがすがしい空気が静物を覆っているように感じる。

No.157「ノートン・サイモン美術館」のスルバランの絵のところで「この手の静物画は実際に絵をパッと見て好きかどうかが決まる」と書きましたが、その「パッと見て」というところは、実は絵全体がらうける「空気感」なのでしょう。五味 文彦氏の「パンと檸檬」でそのことが分かるのでした。

  

ホキ美術館には女性の肌を描いた作品が多々あります。写実絵画を描く画家には、肌の美しさや輝くような質感を描くことにこだわっている方がいます。画家はどうやって肌を描いているのか。島村 信之氏の文章を紹介します。


(島村 信之)

テンペラや油彩画の古典技法に、自然な肌色をつくるための描法として、まず一層目にテールベルトというくすんだグリーンを中間色にして、肉体部分の下地に塗っておく方法があります。寒色、次に暖色と交互に重ね合わせることで、色を自然な感じに落ち着かせる効果があります。

この技法を参考にグリーン系を肌の部分に少し形を追いながら濃淡をつけて一層目を描き、次に赤みにある暖色をかぶせて、徐々に肌色をつくっていく方法を試しました。絵の具が乾いたらまた自然な肌色になるように下層の色味を調整する絵の具を薄く塗り、色と形、そして質感を追いながら重ねていきます。

例えば少し赤が強いときはグリーンを少し多く含ませた色を上に重ね、もし黄色が強く感じたときはパープルを意識した色をつくって重ねていくといった具合です。補色にあたる色を薄く被せていくと自然な落ち着いた色に収まります。

このように微妙に調整しながら塗り重ねていくのですが、少なくとも4層以上は必要です。部分的にはさらに2、3層重ねます。油絵の透明度を効果的に使うことにより深みのある色彩や質感を得ることができるのです。


島村氏が書いている描き方はあくまで一つの例であり、かつ、おおまかなプロセスに過ぎません。画家は数々の工夫と試行錯誤を重ねて「肌」がもつ質感を油絵で表現することに挑戦します。

最も肌にこだわって描かれる画題は裸婦で、ホキ美術館にもたくさんの作品があります。上の文章を書いた島村氏も数々の裸婦を描いていますが、ここでは島村氏の「レッスン」という作品を紹介します。

レッスン.jpg
島村 信之(1965 ~)
レッスン」(2008)

モデルは島村氏の5歳の娘だそうです。島村氏は「子どもの飾らない仕草は魅力的」と言っていますが、確かにそうです。ヴァイオリンを一所懸命に弾こうとする子どもの姿が的確にとらえられている。この子はまだ演奏に上達していない段階で、ちょっと背筋を曲げて前屈みになっている姿がそのことを示しています。しかし全くの初心者(ヴァイオリンを習いだしたばかり)でもない。弓をもつ右手の格好を見ると、習い始めてから少なくとも数ヶ月は経っていると思います。一部しか見えないこの子の表情も含めて全体の仕草が大変に魅力的で、まさに "カワイイ" という感じです。

しかしもう一つ注目したいのは、この絵の真ん中に描かれている女の子の右腕です。柔らかさと弾力が同時にあり、内部から輝いているような5歳の女の子の腕が表現されています。実際に美術館でこの絵を見ると、ふくよかで、瑞々みずみずしくて、健康そのもので、おもわずさわってみたくなるような肌の感じを受けます。画家は娘のヴァイオリンのレッスンの姿を描くにあたって、右腕が真ん中にくる構図を選んだのでしょう。右腕を描きたかったのだと思います。

この感じは写真では無理な表現です。我々が写真を見るとき、それは印刷されたもの(ないしは画像ディスプレイに表示されたもの)です。印刷技術はいろいろありますが、インクを紙の表面だけに定着させたものであることには変わりありません。島村氏の「肌の描き方解説」にあるような、何層もの絵の具を塗り重ねたものではない。

油絵では、島村氏も書いているように、重ね塗りの工夫によって微妙な色の効果を実現できます。5歳の女の子の腕を実際に見たときに我々が感じる「腕の内側から発してくる光が作り出す美しさ」を近似できます。少なくとも画家は、その実物の美しさの秘密に迫ろうと工夫を重ねます。これは写実絵画でしかできない表現であり、写実絵画の魅力の一つです。また、美術館に行って実際に絵を間近に見ないとわからない魅力です。

 樹木 

木霊の囁き.jpg
五味文彦
木霊の囁き」(2010)

『パンと檸檬』と同じ五味文彦氏の作品です。タイトルにある「木霊」の "れい" とは "たましい" とほぼ同じ意味で、「肉体に宿っていて肉体を支配する働きをするもの」ですね。これは日本はもとより世界中にある考え方です。肉体は死んでも霊(魂)は生き続けるというコンセプトも世界中にあります。この作品の「木霊」という題は、描かれた木にそういった "霊" を感じたということでしょう。

ここで考えてみたいのは「リアリズムの手法で樹木を描くことの意味、林や森ではなく樹木そのものを描くことの意味」です。No.93「生物が主題の絵」のクールベとシーシキンの樫の絵のところで書いたのですが、ここで改めて書きます。

わかりやすいのが大木や巨木です。我々は大木や巨木に出会うと、人間の寿命よりはるかに長い時間(数百年、時には千年以上)をかけて成長し、風雪に耐えて生きながらえ、現在も成長を続けているという実感を持つことができます。木に触れたり叩いたりしてもビクともせず、そこに屹立している。その重量感と実在感に圧倒されます。さらに、最初はごく些細な芽生えであったはずのものが長い年月の間に数10トンもの巨大な存在になるという "生命の不思議さ" を感じ、そこまでになる植物の生命力に打たれることにもなります。

それが高じると "人智を超えた何か" を感じてしまい、神聖なものとしてとらえることになる。日本の古来の伝統では、大木や巨木に神が宿る(ないしは降臨する)という概念があり、注連縄しめなわ紙垂しでをつけた大木・巨木が至る所にあります。こういった感性は程度の差はあれ、森林が多い地域に発生した文化に共通です。

大木・巨木でなくても、樹木にたましいを感じることがあります。樹木が "動く" のはあくまで風や外圧の作用、落葉などであって、自らは微動だにせず立っています。しかし目には見えない早さで成長を続けている。そこに生命体に共通の "意志" ようなものを感じてしまいます。五味氏が「木霊の囁き」で描いた木は樹齢でいうと数十年でしょうが、そういった "木が人の感情に訴えるもの" に着目した絵でしょう。こういった「モノ=樹木が人に与える感情や感じの源泉」を絵にしようとするとき、まさに写実絵画の手法が生きてくると思います。



いま「日本では注連縄しめなわ紙垂しでをつけた大木・巨木が至る所にある」と書きましたが、注連縄と紙垂をつけた岩・巨石もしばしばあります。そこで思い出したのが、石を描いた絵画です。ホキ美術館の所蔵作品ではありませんが、写実絵画の一貫として次に引用します。

 岩・石 

火打ち石.jpg
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)
火打ち石」(1975)
テンペラ
(個人蔵)

題名が「火打ち石」となっていますが、これはもちろん火打ち石ではありません。ワイエス家はアメリカ北東部・メイン州のクッシングに別荘があり、そのクッシングの海岸にある巨石を描いたのがこの絵です。なぜ「火打ち石」かというと、この石の色と形が火打ち石に似ているということでワイエス自身が題をつけたからです。

画面の半分を砂浜が占め、中央に石をドカッと描くという絵の構図とテーマが珍しいと思います。よく見ると、石の上部には鳥の白い糞がべっとりとついているし、前方の砂浜には蟹、ムール貝、魚の骨など、海洋生物の残骸があります。何万年・何億年という期間にわたって存在し続けてきた石と、その周りで繰り広げられる生命の営みがこの絵の主題でしょう。もちろん中心のテーマは、この石を見たときに人が感じる(画家が感じた)圧倒的な存在感です。それがダイレクトに写実の手法で表現されています。

そして思うのですが、画家がこの石を見たときに湧き起こった感情と、岩・巨石に注連縄と紙垂をつける日本人の心情には、どこかに共通点があるはずです。

補足しますと、この絵は個人蔵ですが2008年のワイエス展に出展され、またチケットの絵にも採用されたので、覚えている人は多いと思います。そしてデジタル画像ではわかりにくいのですが、小さく描かれているムール貝は青色です。普通、ムール貝(=イガイ科の貝の全般)は黒のイメージですが、青色のものもあります(No.126「捕食者なき世界(1)」のカリフォルニア・イガイの画像参照)。そのポツンと小さく描かれたブルーが印象的な絵です。まさに "ワイエス・ブルー"(No.152「ワイエス・ブルー」)といった感じです。



ホキ美術館の絵に戻ります。「存在の本質に迫る」というテーマで "静物" "肌" "樹木" をあげましたが、こういったタイプのリアリズム絵画は、デジタル画像や印刷物にしてしまうと写真と何ら変わらないことになってしまうのですね。従って絵の真価を味わうためには実際に絵を見るしかありません。ホキ美術館の意義はそこにもあると思います。


人の微妙な表情に引き込まれる


次の生島 浩氏の「5:55」(2010)という絵は、ホキ美術館で一番有名な絵だそうです。題名は「5時55分」の意味です。画像ではわかりにくいのですが、右上に描かれた時計が5時55分を指しています。

5時55分.jpg
生島 浩(1958 ~)
5:55」(2010)

明らかにフェルメールを思わせる光の使い方と空間構成です。生島氏によると、モデルは画家のアトリエの近所の公民館で働いていた女性だそうです。そして、この絵の評判がいいのはモデルの女性の魅力だと語っています。


(生島 浩)

色調も地味なこの絵が、思っていたより評判が悪くないようなので、ちょっと驚いてしまいました。おそらくは、この絵に対してというよりは、この絵に登場している彼女の魅力に反応しているようにも思えます。

同上

評判が良いのは見る人が彼女の魅力に反応しているから、というのは画家の謙遜でしょう。確かにその面は大きいと思いますが、この絵を魅力的にしているもっと大きな理由があって、それはモデルの女性の微妙な表情だと思います。これは明らかに画家の自信作ではないでしょうか。

絵のタイトルの由来ですが、テレビで紹介されたときの解説によると、生島氏はこの公民館勤務の女性に「6時まで」のモデルを依頼したようです。何時から制作を始めたのかは知りませんが、とにかく6時までの条件でモデルになることを依頼し、彼女は画家のアトリエに何回か通った。

モデルとしては全くの素人です。長時間、絵のモデルになるのは大変だし、苦痛でもあるでしょう。この絵の彼女の表情は「もうすぐ6時、やっと解放されるというソワソワした感じ」と「早く6時になってほしいが、まだならないという苛立いらだち」が "ないまぜ" になっている表情なのです。あと5分で6時、それが「5:55」の意味です。

独特の表情が眼に現れています。口元は穏やかだけどキリッと結ばれていて「モデルになっている感」が見て取れます。しかし少々斜め横を見ている眼の表情が、口元の表情と微妙にズレています。付け加えると、左手の指の表情もかすかに苛立っているように感じます。

人は人の表情の変化に極めて敏感です。それは人間社会でコミュニケーションを成立させ、生活してくために大変に重要だからです。よく「眼は笑っていない」などと言います。人は笑うと眼が細くなりますが、その細くなり方がわずかに足りないと感じる。だから「眼は笑っていない」。そして「この人は笑ってはいるが、内部には別の感情がある」と直感的に判断する。人間社会で生きていくためには重要なことです。

「5:55」のモデルになった女性は、単純ではない「微妙な表情」をしています。「5:55」のタイトルの由来を知らなければ、その表情の理由はなぜなのか、見る人は無意識に「謎」を感じるでしょう。そしてその謎が、見る人を引き込むことになるでしょう。また、この絵が記憶に残ることにもなるでしょう。

モデルが見せる微妙な表情ということでは、以前に紹介した絵を思い出します。ワシントン・ナショナル・ギャラリーにある、ゴヤの「サバサ・ガルシア」という作品です。No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で紹介しました。スペイン美女の肖像ですが、この絵のモデルもよく見ると「微妙な」表情をしています。それについては、No.90 に個人的感想を書きました。生島氏の「5:55」の魅力は、このゴヤの絵と非常に似ていると思うのですね。

世界美術史に残る大画家・ゴヤと、現代日本の写実画家・生島 浩氏の作品を同列に評価するのは変かもしれませんが、そいういう比較ができることこそ(比較をしてもいいことこそ)、絵画の、ひいてはアート全般の魅力です。

そして写実ということについて言うと、人が見せる微妙な表情が暗黙の魅力なっている絵画は、写実・リアリズムの技法でないと作り出せないのです。その究極の姿は、言うまでもなくルーブル美術館の「モナ・リザ」です。生島 浩氏の「5:55」は、写実絵画がもっている魅力の一つをまさに体現した絵、そう言えると思います。


画家の「文体」を味わう


ホキ美術館で、フェルメールの「デルフトの眺望」のコピー(模写)を見ました。青木 敏郎氏の作品で、青木氏はフェルメールの絵を所蔵しているマウリッツハイス美術館(オランダ、デン = ハーグ)から苦労して許可をとり、6ヶ月間通ってコピーしたそうです。

模写:デルフトの風景.jpg
青木 敏郎(1947 ~)
模写:デルフトの眺望」(1978)
(作家蔵)

この模写はマウリッツハイス美術館が購入したいと申し出たそうです。もちろん青木氏はマウリッツハイス美術館に売らなかった。また「作家蔵」となっているので、ホキ美術館にも売らなかったということになります。この模写は青木氏の「画家としての原点」なのでしょう。だから手放さずに手元に置いておく。

それはともかく、普通、写実絵画のテーマとなるのは風景や人物や静物ですが、この絵のテーマは「フェルメールのデルフトの眺望」であり、それを極めて写実的に描写したということになります。青木氏が実際にコピーをした立場から「フェルメールのデルフトの眺望」の美しさについて語っている文章を紹介します。


(青木 敏郎)

この美しさはどこからくるのでしょうか。

これを分析するのは難しいのですが、私自身の考えとしては抽象的構築性にあると思います。例えば、屋根は屋根として木は木として十分に描いてはありません。つまり説明性が薄いのです。丁寧に、しかし細密ではなく、入念な仕事がしてあります。何か色彩とフォルムを抽象化して全体に配置したような説明性を避けて、抽象的な面に置き換え、それを構成したような、まさに抽象的要素を感じさせていることです。試しにこの絵を逆さにして見ると、本当に新鮮で美しく感じられます。

写実の美しさは描写の美しさにあるのですが、描写の説明性にあるのではなく、自然のもつ調和感、リズム、秩序を表現すれば、描写ごとにこだわる必要のないことを悟りました。

同上

この絵はマウリッツハイス美術館が購入したいと申し出ただけのことはある素晴らしい出来映えです。まるで本物のフェルメールを見ているようです。

しかし、です。私はマウリッツハイス美術館に2度行ったことがありますが、その記憶から言うと、フェルメールと青木氏では絵の印象が明らかに違うのですね。何が違うのか、それを的確に書くことは難しいのですが、表現されている風景全体の "雰囲気" と言ったらいいのか、そこから感じる光の量や空気の湿度の感じです。フェルメールの絵は「雨あがりの午前中、朝の10時」といったイメージがします。一方、青木氏のコピーは「午後の3時か4時」という感じがしました。その違いは画家の感覚の違いであって、それが絵のテイストの違いとなって現れるのでしょう。



画家で一番大切なのは独自の「画風」「スタイル」を作りあげることでしょう。画風とは、描くテーマであり、また描き方(形、色、筆の運び、・・・・・・)です。古今東西の有名な画家は、その画家の絵をみてパッと画家の名前をあげられることが多いわけです。若いころはいろいろと模索したが、ある作品を契機に独自の画風を確立した、というような話も多い。もちろんスタイルは1種類でなくてもよく、ピカソのようにスタイルをめまぐるしく変え、そのどれもで傑作を残した画家もいます。

ホキ美術館に展示されている多数の写実絵画は、一見、画風やスタイルを前面に押し出していないように見えます。写実なのでテーマは限られるし、我々が容易に想像できるテーマが多い。形や色も画家独自という風には見えないし、描き方もリアルに描くという点では似ています。しかしその似たように見える中に、画家の個性がどうしようもなく現れてしまうのですね。ちょうど2枚の「デルフトの眺望」のように ・・・・・・。似たようなテーマを似たような構図で、リアリズムに徹して描いても、絵のテイストが違ってくる。そして鑑賞する人によって、画家のテイストの好き・嫌いが出てきます。それは、ホキ美術館のギャラリーを順に巡ってみるとよく分かります。

作家・小説家の作品が好きだという場合、その文体に惹かれるということがあります。小説のストーリーやテーマ以前に、なにげない言葉のつながりや区切り方、飛躍、流れ、リズムが心地よく感じて、それが好きになるということがある。文章の意味内容やそこに含まれる警句を味わう以前に、文体そのものにひたるという、そういったタイプの読書の楽しみ方があります。

上の引用で青木氏は、写実画(風景画)の美しさは自然のもつ調和感・リズム・秩序の表現にある、という主旨を書いていました。この「調和感、リズム、秩序」というところは、小説で言うと作家の「文体」に相当すると思います。もちろん画家の「文体」には、絵の具の使い方や筆の運びなどのすべてが含まれます。

写実絵画の鑑賞は、文章作品における文体を鑑賞することに相当すると思います。これは実は、大変に "高度な" 絵画の鑑賞方法なのではないか。写実絵画の魅力の一つは、一見、見たままを写真のように描いているからこそ、そこに画家の最もプリミティブな感性と、そこからにじみ出る「文体」がナマに現れる、そのことだと思います。

No.190「画家が10代で描いた絵」で、画家が10代に描いた絵を紹介しました。ピカソ、岸田劉生、佐分 真さぶり まこと、伊東深水、高村咲子さくこの作品ですが、当然ながらすべて写実絵画です。そこに感じるのは、プロの画家を目指す少年・少女が「存在」を見つめる真摯な眼差しです。まさに写実は画家の原点です。そして、その原点のところだけを突き詰めても実に広い世界がある

我々は写実絵画だけを展示したホキ美術館を訪れることによって、絵画というアートの奥深さを感じることになるのです。




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No.231 - 消えたベラスケス(2) [アート]

前回から続く)

前回に引き続き、ローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)の紹介です。


フランシスコ・レスカーノ


この絵は No.19「ベラスケスの怖い絵」で、スペイン宮廷にいた他の低身長症の人たちの絵とともに引用しました。

Francisco Lezcano.jpg
フランシスコ・レスカーノ
(1636-38:37-39歳)
107cm × 83cm
プラド美術館


岩に腰かけたその小柄な男の絵を見るとき、私たちは視線を上に向けなければならない。絵がその人物を持ち上げている。宮廷という陰鬱な牢獄から遠く離れ、スペインの山岳地帯にいる彼は、ベラスケスの絵の中で太陽の光に包まれている。

彼の名はフランシスコ・レスカーノといい、バルタサール・カルロス王子が4、5歳のときに、遊び相手として宮廷に雇われたと伝えられる。ともに過ごした年月で、小人であるレスカーノと幼い王子の背丈がちょうど同じになった時期があったことだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105

ボストン美術館にベラスケスが描いた『バルタサール・カルロス王子』の肖像がありますが(No.19「ベラスケスの怖い絵」に画像を掲載)、その左横に描かれているのがフランシスコ・レスカーノです(プラド美術館の公式カタログによる)。王子とほぼ同じの背丈であり、額が出っぱったレスカーノの顔の特徴がよくわかります。


レスカーノは、やさしい性格で誰からも好かれていた。深緑色の服を着た若者が彼だと言われているのは、その絵から、まさしく夢見るようなやさしさが感じられるからだ。しなやかな髪、半開きの口、画家をよく見ようと少し上に向けた顔。カンヴァスからは、心身の温もりとともに、二人の間の共感エンパシーが伝わってくる。小人の表情はやさしく、ベラスケスの筆致もまたやさしい。この肖像画は慈愛に満ちている。

レスカーノの小さな手には、何かを象徴するように、ごく小さな本が握られている。もしかすると、それはひと組のトランプかもしれない。トランプは怠惰のシンボルとされているが、レスカーノは怠けているわけではなく、気持ちのいい野外で岩にもたれ、くつろいでいる。小さな体にはやや危険な体勢かもしれないが、彼は楽々とこなし、一方の足をさりげなく岩にかけて、もう一方の足を私たちのほうに伸ばしている。

彼は自由だ。今日は休みの日で、王子の遊び相手や宮廷を楽しませる仕事から解放されている。深緑色の服やまわりの山々とは対照的に彼の顔は明るく、陽光を浴びてうっすらと微笑むその顔に絵全体の焦点が置かれている。ところが目は、片方はまぶたがかかり、もう片方には影が落ち、微妙に覆い隠されている。穏やかな目はじっと何かを ── ベラススケスを見つめ、ベラスケスもまた、友を静かに見つめ返す。彼のよどみない丁寧な筆運びには、レスカーノに対する最上級の敬意があらわれている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.105-106

美術史家の中には彼を「知恵遅れ」と考えた人もいたようです。しかし、短い手足、突出した額や鼻は小人症の特徴であり、かつ、低身長症が知性に影響を及ぼすという医学的根拠はありません。ローラ・カミングが強調しているのは、スペインの宮廷にいた小人たちは、知性に欠けていたからではなく、知性に富んでいたからこそ雇われていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(スペインの作家、エリアシル・カッシーノ作)は、『ラス・メニーナス』の右端に登場するニコラス・ペルトゥサト少年を主人公にしていましたが、イタリアのミラノ近郊から連れてこられた彼が極めて知性的に描かれていたのが思い出されます。

上の引用はフランシスコ・レスカーノの絵からカミングが受ける印象を綴っているのですが、いい文章だと思います。彼女は次のように結論づけていますが、これには全く同感です。


数あるベラスケス作品の中でもとりわけ小人の絵から感じ取れるもの、それはじっと注がれる静かな視線 ── 二人のあいだで申し合わせたように交わされる、お互いへの理解だ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.107


ドン・ディエゴ・デ・アセード


次の絵は、No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」で引用しました。小説「ベラスケスの十字の謎」ではディエゴ・デ・アセードが重要な役割で登場しました。

Don Diego de Acedo.jpg
ドン・ディエゴ・デ・アセード
(1636-38:37-39歳)
107cm × 82cm
プラド美術館


ドン・ディエゴ・デ・アセードは博学な廷臣で、王家の印章を管理し、王の外交にも随行した。レスカーノと同様、彼の肖像も野外で描かれた。景色は荒涼としている。絵の具が色褪せたせいもあるだろうが、重たい灰色の空の下で雪を戴く山々のシーンでもあり、ディエゴが持つ本もまた、雪が積もっているかのように、白い大きな塊として暗闇の中に浮かび上がる。

大きな本に差し入れた小さな手で、彼はずっしりと重いページを支えている。そのポーズひとつにも、ベラスケスの最大限の敬意が込められている。ディエゴはこの本を支えるように、古参の廷臣として重責を担い、彼の指は仕事をこなすと同時に、その仕事によってうまく隠されている。体が小さいからといって、廷臣として出世できないわけではない。この絵には彼の如才なさがよくあらわれている。

いきな帽子をかぶっているが、知的な顔には苦悩が見られる。内に秘めた思いやにじみ出るわずかな感情をこれほど巧みに伝える画家が、ベラスケスをおいてほかにいただろうか?

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.113-114

「古参の廷臣として重責を担い」とカミングが書いているように、ディエゴは宮廷の重要人物の一人だったようです。そもそも "ドン" というのはスペイン語で男性の貴人につける尊称です。


ベラスケスの絵では、体の大きさに関係なく誰もが平等だ。彼は小さい人を大きく、大きい人を小さく描き、どちらにも肩入れしない。王族の全身像があるように、小人の全身像もあり、ベラスケスはどちらにもびはしない。手足が短く頭が大きい小人の絵も、ぼうっと立つ顎の長いフェリペや王の弟の絵と同様にうやうやしく、うっとりと目を輝かせている。ベラスケスは王と親交が深かったが、小人たちとも友情をはぐくんだようだ。描かれた彼らの顔からは、その結びつきの深さが感じられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115

No.161「プラド美術館の怖い絵」で、ヴァン・ダイクがチャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソンを描いた絵を引用しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」でも引用)。その絵のことが本書に出てきて、ベラスケスと対比されています。


小人は、ものめずらしく衝撃的な見せ物として、同時代のほかの画家の絵にも登場する。ヴァン・ダイクは、ジェフリー・ハドソンという小人を描いた。ハドソンはチャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリアの慰み者となり、宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸などをさせられていた。

絵の依頼を受けたヴァン・ダイクは、ハドソンの背を高く見せるために小さな犬と並べて描いたが、その後、小柄な王妃の背を高く見せるために、今度はハドソンを犬がわりに使った。

ベラスケスならば、人間をけっしてこんなふうに使いはしない。何かの道具や飾りとして彼の絵に登場する人物はひとりもいない。背が高かろうが低かろうが、彼は人を人として、個性をもつひとりの人間として描く。ベラスケスにとって、異質な人間などひとりもいないのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.115


インノケンティウス10世の肖像


1648年、ベラスケスは助手のファン・デ・パレーハを伴い、2度目のイタリア訪問をしました。その時に描いた傑作が残っています。古今東西の肖像画の最高傑作とも言える作品です。

インノケンティウス10世の肖像.jpg
インノケンティウス10世の肖像
(1650:51歳)
140cm × 120cm
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)


インノケンティウスという名は天真爛漫イノセントという意味だが、実際の性格はまったく違ったと伝えられる。この肖像画からまず読み取れるのは、インノケンティウス10世が恐ろしく明敏で、複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家であり、その地位を維持する才にも長けていたことだ。この絵は力強い絵だが、単なる絵の力ではなく、教皇自身がもつ力強さなのだ。描かれた表情 ─── とりわけその瞳を見れば、それがわかる。

ローマでこの絵の前に立った人はよく、刺すような視線を感じる。ともすると心の中まで見透かされそうだ、と言う。これは、展示室のどこを歩いても視線がついてくる、といった月並みな表現ではない。そのまざなしはドリルで穴を穿うがつように鋭く、執拗で、片時も目を離さず見張っているかのようだ。その鋭い眼光が、瞳以外の部分によって迫力を増す。顔を少しこちらに向けた斜めの目線、眉毛の険しい表情、これから会う人物と関わりのある書簡を持つ手、気の短さをにじませる、苛立たしげに握りかけた指。

ベラスケスは非常に軽いタッチで瞳を描いている。黒目の部分にかすかな白い点を打っただけの、信じられないほどあっさりしたタッチなのだが、その目は尽きることのないバイタリティーを秘め、片時も視線をそらさず、見るものをひたと見据える。その強烈なまなざしは、実生活において、教皇としての威光を保つのに役だったのではないだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.207-208

ローラ・カミングはインノケンティウス10世について、この引用以外にも微に入り細に渡って語っています。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野京子さんはこの肖像画について次のように書いていました。


眼には力がある。垂れた瞼を押し上げる右の三白眼。ふたつながら狡猾な光を放ち、人間などはなから信用するものかと語っている。常に計算し、値踏みし、疑い、裁く眼だ。そして決してゆるすことない眼。

どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのし上がった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」
(朝日出版社 2007)

美術評論家(ローラ・カミング)とドイツ文学者(中野京子)に共通しているのは、350年以上前のローマ教皇がどういう人物かについて熱く語っていることです。熱く語らざるを得ないのですね。ベラスケスの絵を見てしまった以上 ・・・・・・。1枚の絵だけを頼りに。

カミングの本には、インノケンティウス10世とスペインの意外なかかわりが書かれています。


インノケンティウス10世は、本名をジョバンニ・パンフィーリといい、1626年から3年間、教皇大使としてマドリッドに滞在していた。その間、数多くの教会に足を運び、王宮にも頻繁に訪れた。彼がスペインとのあいだに築いた強力なコネクションは、コンクラーベで自国の候補者を推すフランスの枢機卿団を不安にさせたほどであり、最終的のそのコンクラーベで、彼は教皇に選出されたのである。このようなわけで、画家とモデルは旧知の間柄だったのだ。

肖像画にモデルの人格があらわれるとすれば、この絵には無尽蔵のカリスマ性がにじみ出ていると言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.209

ローマ教皇は "コンクラーベ" において枢機卿たちの互選で決まります。要するにジョバンニ・パンフィーリ枢機卿は、本国イタリアとスペインの枢機卿たちをがっちりと押さえて教皇になったということでしょう。「複雑極まりない政治機構の頂点に首尾よくのぼりつめるほどの策略家」(カミング)であり、「政治力でのし上がった人間」(中野京子)というのはその通りだと想像されます。

そしてベラスケスと画家とインノケンティウス10世は旧知の間柄だった。そのことがこの絵の迫真性をいっそう強くしているのだと思います。


ファン・デ・パレーハ


2度目のイタリア滞在でベラスケスは、同行させた助手のファン・デ・パレーハの肖像を描いています。

Juan de Pareja.jpg
ファン・デ・パレーハ
(1650:51歳)
81cm × 69cm
メトロポリタン美術館


二度目の旅で、ベラスケスはファン・デ・パレーハの、みごとな肖像画を描いた。パレーハはムーア人の奴隷で、1630年代からベラスケスに仕え、顔料をすりつぶして粉状にしたり、カンヴァスの用意をしたり、複製画を描いたりと、アトリエで助手をつとめていた。パレーハの肖像画に使われた顔料も、おそらく彼が自分で準備したものだったろう。パレーハ自身も才能のある画家であり、ベラスケスの原画だと間違われるほどみごとな複製画を映画いたこともあったようだ。パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」にも、ベラスケスと同様に優れた画家のひとりとして登場している。

肖像画の中のパレーハは、じつに堂々たる姿を見せている。七つの海、七つの大陸で偉業を果たしたばかりの英雄のような威厳をたたえ、オセローの格好をさせられているのも、なるほどとうなずける。彼は行動の男であり、肖像画のためにじっとしてはいるが、いつでも剣を抜けるとばかりに片手をにかけている。しかし、そう見えるだけで、実際は剣などなく、そこに置いた手も、周囲の布地よりもほんの少し存在感があるにすぎない。申しわけ程度に描かれた指はおおかた省略され、耳にいたっては、ぞんざいに赤い絵の具を置いただけだ。ベラスケスがこうした部分を曖昧にぼかしているのは、視野の周辺部分にあるものは、実際にそんなふうに見えるからだ。この絵の焦点は、顔にある。

パレーハの顔ははっきりして、りりしく、じつに表情豊かだ。そこに弱さを見るものもいるが、それは、無理やり肖像画のモデルをさせられた奴隷、主人に凝視され、あらがう力すらもてずにいる無力な男という発想から来ているのだろう。それとは逆に、冷淡で高慢、かすかに好戦的な気質を見て取る者もいる。多彩なニュアンスをもつこの絵からまず感じ取れるのは、パレーハという男がもつ人間らしい複雑性だ。どこか見覚えのあるようなその顔が、そうした感覚をいっそう深める。遠い昔の人間なのに、現代のニューヨークの街なかで見かけてもおかしくない、私たちのまわりにもいそうな感じがするのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.213-215

カミングはこの絵の表現手法にも感嘆しています。いかにもベルベットらしい毛羽立ちの表現や、生地が擦れて薄くなった部分を絵の具を薄く塗って表現していることなどですが、中でも特に白い襟です。鉛白とグレーが絶妙に配置され、近づいてみると無秩序な筆跡が、これほどまでに襟らしく見えるのはなぜなのか・・・・・・。このような感嘆の言は、本書の随所に出てきます。


フェリペ4世


ベラススケスが描いた肖像画は、フェリペ国王や王の親族、貴族、喜劇役者や道化、小人症の宮廷使用人、奴隷の助手など、身分の上下をを越えて実にさまざまです。ローラ・カミングはこれを "デモクラシー" と表現しています。国王・フェリペ4世の肖像画でさえ、それを感じさせます。

Phillip IV.jpg
フェリペ4世
(1653-56:54-57歳)
69.3cm × 56.5cm
プラド美術館


ベラスケスの絵や思想には、感傷的は部分は少しもない。彼の絵は、悲しみや憐憫の情をかきたてることもなければ、たとえばヴァン・ダイクのように、そのスタイルや華麗され見る者を萎縮させることもない。私たちは、描かれた人物と対等に見つめ合うことができる。これこそが、彼の絵ならではの "デモクラシー" だ。

それは上にも下にも向かう。ベラスケスはときに宮廷内の異端者にもっぱら同情心を示すと言われるが、それが真実でない証拠はいくらでもある。彼にとっては、どんな人間もみな平等なのだ。晩年のフェリペ王の肖像画の、痩せた老ライオンのようなその顔には、王が味わった苦悩のすべてがあらわれている。なんとも言えない悲哀が漂うその顔は、それまでベラスケスが描いたどの絵よりも生気がなく、絵の具も薄くぼやけ、人間ではなく幽霊の顔のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.337

この絵はフェリペ4世(1605年生)が48-51歳ころの作品ということになりますが、とても50歳前後には見えません。スペイン帝国が落日を迎えていた、それが伝わってくるような絵です。


ベラスケスが力点を置くのは、あらゆる人間の尊厳だ。フェリペ4世時代の記録を見れば、そしてまた、彼の女道楽、浪費、思慮に欠ける軍事行動、スペインの富と権力の愚かな無駄遣い、息子の婚約者との結婚、放蕩ほうとう(多くの庶子がいたが、男子はひとりもいなかったと言われる)、優柔不断さ、臆病さ、説得やおだてに乗りやすく、とりわけオリバーレス(引用注:フェリペ4世の寵臣)の思うままに操られてきたことを知れば、彼を軽蔑するのは難しくないだろう。それでもベラスケスは畏怖も嫌悪感も抱かず、むしろそんなフェリペに好奇心をかきたてられるのだった。

フェリぺの肖像画20点以上あり、まるで絵でできたコマ撮りの伝記のようだ。赤く、濡れたような、垂れ下がるほど前に突き出した下唇が目立つ若いころの顔。舌足らずの話し方をしたに違いなく、ピチャピチャという湿った音が聞こえてきそうだ。

そして君主となった中年期の壮麗さは、おそらくゴリーリャ(引用注:皿の意味。襞をつけずにリンネルを糊で皿状にした襟を指す)によって割り引かれてしまった。倹約を物語るその襟は彼に恩恵をもたらさず、疲れ切った顔が皿に載っているように見える。一国の王となって20年、赤みがかったブロンドの髪とあるかなきかの薄い眉は変わらないが、目は落ち窪み、まぶたは重く垂れ下がり、白い下瞼の内側が露出している。ベラスケスの目に、彼は過ちも死をも免れない生身の人間として映る。

1623年の夏の日に描かれた最初の肖像画と同様、今回もまた王の姿は間近にあるが、今の彼は苦悩に疲れ、みずからの罪も悲哀も知ったうえで、まだ前進しつづけている。あたかも自己の欠点を見出すことで、理解を得たいと願っているかのように。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.338

当然のことながらフェリペ4世については本書に多くの記述があるのですが、その最後に著者は次のような、誰もが納得するであろう一言を書いています。


フェリペ4世がその生涯で成し遂げた最大の偉業は、ベラスケスを雇ったことだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.340


ラス・メニーナス


『消えたベラスケス』にある絵の "解説" を紹介する最後は、やはり『ラス・メニーナス』です。実はこの絵のことは『消えたベラスケス』の冒頭に出てきます。20代後半だったローラ・カミングが父親を亡くし、悲しみに沈んでいるなかで訪れたプラド美術館で『ラス・メニーナス』と対面して癒された思いがつづられているのです。その前後から引用します。

Las Meninas.jpg
ラス・メニーナス
(1656:57歳)
318cm × 276cm
プラド美術館


展示室に入り、絵の前に立つ。すると絵の中の人々の目が瞬時に私の姿をとらえ、いっせいに見つめ返してくる。光沢のあるドレスをまとった王女、リボンをつけた二人の侍女、子供のように小柄な小姓、背の高い黒づくめの画家、誰の耳にも届かないつぶきを発する修道女、背後の明るい戸口の浮かび上がる廷臣。全員が私の存在に気づいている。誰がやってくるかわからないサプライズパーティーに招かれた客のように、彼らはその場に集い、わくわくしながら新たな客を待っている。そこへ私があらわれ、部屋へ ─── 現実世界の部屋ではなく彼らの部屋へ ─── 入っていく、なぜかそんな感じがするのだ。場面全体が期待に輝いている。彼らの世界に踏み入った瞬間、自分が彼らにとっての実在となり、彼らもまた自分にとっての実在となる、そんな感覚。プラド美術館で《ラス・メニーナス》の展示室に足を踏み入れた瞬間、真っ先に感じるのがそれなのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.8-9

プラド美術館には一度だけ行ったことがありますが、『ラス・メニーナス』はプラドの "他のどの絵とも違う" という印象を受けました。それどころか、過去に美術館で見たどの絵とも違う感じです。それは一言でいうと "臨場感" です。絵の前に立つと、まさに350年以上前のスペイン宮廷にいるのだという感じになる。おそらく絵の大きさと、等身大に描かれた人物と、奥が深く天井も高い部屋の構図がそう感じさせるのだと思います。上の引用と次の引用は、その "他のどの絵とも違う" 感じが的確に描写されています。


驚いて足を止め、絵に釘付けになり、身じろぎもせずその場に立ち尽くす。するとその瞬間、絵の中でもまた、おとなしい犬を足で軽く突いている小柄な小姓を除く全員が、ぴたりと動きを止める。彼らを囲む空気と、王女のホワイトブロンドの髪に揺れる光以外のすべてが静止するなか、思いやりに満ちたこの絵の中心で、幼い王女が子供らしい純粋な好奇心をみなぎらせ、じっとこちらを見ている。女の小人こびとは胸に手をあてて素直なやさしさを示し、侍女のひとりはひざまずき、もうひとりは膝を折っておじぎをし、ほかの使用人もこちらに視線を注ぎ、黒衣の廷臣までが戸口で足を止め、次の間へ案内しようと待っている。そして、こちらから裏面が見える巨大なカンヴァス、この絵に劣らぬ大作の陰からベラスケス自身も一歩踏みだし、つかのま顔を見せた魔術師のごとく無言で見つめている。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

しかしこの絵の真価、そしてベラスケスの真骨頂は次に引用する部分です。"細部と全体が不連続で、それにもかかわらず繋がっている" という不思議さです。


ところが、さらに数歩近づくと、驚くほど真実味にあふれていた絵が揺らぎ出す。王女の艶めく髪は、蜃気楼しんきろうか夏の道路に立ちのぼる陽炎かげろうのように、近づくとふっと消えてしまう。女の小人の顔は判読不可能な筆跡と化し、奥に描かれた人物は至近距離では形をなさず、トレイをもつ侍女の手も、どこまでが手でどこからがトレイなのか、もはや判然としない。絵に近づけば近づくほど本物らしさが消え、どのように像を結んでいたのかさえわからなくなってしまう。それでも、溶解寸前の状態にありながら、すべてがありありと存在感をもち、陽光などは絵の中から展示室まで漂い出てきそうだ。これほど魅惑的なビジョンを生み出す絵がほかにあるだろうか。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.9

見るということは、網膜に映った像を脳で再構成することです。錯視図形を見ればそのことがよくわかる。ベラスケスは、絵を見る人の脳にどういうビジョンが構成されるのか、それを予測して筆をとっているわけです。本書ではないのですが、別の本からマルガリータ王女の部分のクローズアップを引用します。

Las Meninas(部分).jpg
「ラス・メニーナス」の中心にいるマルガリータ王女の拡大画像。王女の顔、ホワイトブロンドの髪、ドレス・飾り、の3つが違うタッチで描き分けられている。ドレスの部分は近づくと本物らしさが消えてしまい、なぐり書きのように見える。
「ベラスケス 生涯と作品」(東京美術 2018)より

この絵には自画像というか、画家・ベラスケスとしての自画像が描かれていますが、それについては次のように語られています。


この自画像を見ても、ベラスケスについて何かがわかるわけではないと言う人がいるとしたら(実際、よくいる)、信じられない話だ。たとえば、パレットに点々を置かれた絵の具を見てほしい。そこには、ずらりと顔を並べた人物のみならず、この絵全体を描くのに必要な色がすべて揃っている。これもまた、すべては彼が生み出したものだという事実を物語っている。

では、ベラスケスは自分の指をどう描いているのだろう。先細の指は、まるで絵筆のようだ。実際の絵筆のほうはどうかと言えば、白い絵の具でさっと引いた一本の線にすぎない。どこから見ても判別不能な傷のようでありながら絵筆以外の何ものでもない。そこにはかすかにジョークの気配さえ感じられる。絵全体に生き生きとした動きを与えた繊細な筆先が、完全に消滅する。

平らな布に筆と絵の具で色をのせ、みごとに三次元を描き出せる不思議。あるいは、静止した絵で動きを、刻々と変化する世界を表現する一方で、その絵自体が流れの中に溶けていく不思議。絵画がもつパラドックスをこれほどはっきりと見せてくれる画家は、あとにも先にもいない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.35

この絵に魅了されたピカソは、絵の構成要素をひとつひとつ分解しながら50点を越える模写の連作を描きました。その連作はバルセロナのピカソ美術館にあります。その中の1枚である『ピアノ』を No.45「ベラスケスの十字の謎」に引用しました。本書の著者のカミングによると、ピカソはそれだけの模写を描いてもこの絵を理解しきれなかったと述懐したそうです。マネの言葉があります。


ここが終着点だ。これを越えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネは、そういった。この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人は ── 自分も含め ── この上さらに絵を描こうとするのだろう、と。ベラスケスは油絵の具という比較的新しい画材を使い、それでできることをすべて尽くした。彼によって、油絵は行き着くところまで行ったのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.334

芸術の一つのジャンルが勃興すると、比較的短い期間にそのジャンルの頂点に達してしまい、あとはその変化形が多様に拡散するということがあります。油絵は15世紀のフランドルで確立してからベラスケスまで約200年です。それからすでに350年程度が経過しています。「この絵を凌ぐものなど生まれはしないというのに、なぜ人はこの上さらに絵を描こうとするのだろう」というマネの言葉は、『ラス・メニーナス』と画家・ベラスケスを端的に表していると思いました。


芸術作品が人に与える力の凄さ


以上は著者によるベラスケスの絵の "解説" の一部です。最初に書いたように本書のもう一つの軸は、ジョン・スネアという19世紀の英国人の生涯です。その足跡を著者のローラ・カミングは徹底的に追っています。スネアは店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死にました。なぜそのような人物の生涯を追ったのか。それは、ベラスケスの1枚の絵を "愛し過ぎるほど愛した" スネアの生涯を徹底的に調べることで、著者は自らの "ベラスケス愛" を表現しようとしたと思えます。ベラスケスを称える芸術家・美術愛好家は世の中にいっぱいいるので、そうでもしないと自分の特別な "思い" を伝えられないとでもいうように・・・・・・。そんなつもりは無かったのかもしれませんが、結果としてそうなっています。

初めに紹介した中野さんの書評にあるように、この本はいろいろの意味で「芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力の凄さ」を実感させる本でした。



 補記:グレイティスト・ショーマン 

ジョン・スネアが "ベラスケス作・チャールズ皇太子の肖像" を発見した以降のことは紹介を控えるとしましたが、1点だけ書きたいと思います。スネアはその絵をロンドンのメイフェア地区のオールド・ボンド・ストリートで有料公開しました。そのあたりの本書の記述です。


1847年3月、ジョン・スネアは、オールド・ボンド・ストリート21番地の部屋を借りる。彼はちょうどいい時に、ちょうどいい場所へ、ちょうどいい絵をもたらした。イギリスではまだあまり知られていなかった天才画家による、失われた君主の失われた肖像画だ。当時、ロマンチックなヴィクトリア朝の人々の目に、チャールズ1世は "失われた君主" として映っていたようだ。

スネアの演出は細部まで行き届いていた。客は1シリングの入場料を払っい、絨毯を敷きつめた階段をのぼっていく。そして厚いカーテンをくぐると、彫刻を施した木の衝立ついたてで囲まれた小部屋のようなスペースがあり、そこで名画と対面する。日が暮れてくると、絵はガス灯で照らされた。静かな空間、美しい照明、余計なものはいっさい視界に入れない ── ベラスケスの絵なら、現代のキュレーターもまさにこのような見せ方をするだろう。スネアの狙いが人々を驚嘆させることにあったとすれば、まさしく理想的な演出であり、これに新聞各紙は素早く反応した。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

新聞各紙から高い評価を受けて展示会は成功裏に終わるのですが、その要因として「ちょうどいい時に、ちょうどいい場所」で絵を公開したと、著者は書いています。どういうことかと言うと、当時のロンドンのメイフェア地区ではしばしば有名絵画の有料展示会が開催されていたからです。ただし絵画だけでなく、種々の見せ物もあった。たとえば "エジプシャン・ホール" では、テオドール・ジェリコーの『メデューサ号の筏』(現、ルーブル美術館)の展示会が開かれましたが、ナポレオンが使った防弾馬車の展示会も開催されて大人気になったという具合です。


〈エジプシャン・ホール〉は時代の象徴であり、イギリスを代表する風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーや、権威ある水彩画画家協会も展覧会を開いた。ヴィクトリア時代にそこを訪れたある人物は、ダ・ヴィンチの聖画を間近に見たほか、1844年には、小人ツアーでヨーロッパを巡業中の「親指トム将軍」を、あんぐりと口を開けて眺めたという。興行師 P・T・バーナムがプロデュースした「世にも偉大なる小人」の見せ物は、ダ・ヴィンチ展をはるかに超える大ヒットとなった

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.89

実は「消えたベラスケス」のテーマになっているジョン・スネア(1808年頃生)と同時代人が、上の引用にある P・T・バーナムです(1810年生)。2017年のハリウッド映画「グレイティスト・ショーマン」は、その興行師 P・T・バーナムが主人公でした(日本公開は2018年)。演じたのはヒュー・ジャックマンです。バーナムは「親指トム将軍」をはじめとする "特異な身体的形状の人たち" や軽業の得意な人、その他 "オンリーワンの人" を集め、ニューヨークの "見せ物シアター" で興業しました。映画では、家庭の中に閉じこもって "存在しない" ことになっていた低身長症の男性をバーナムが引っ張り出し、親指トム将軍としてパフォーマンスをさせる姿が描かれていました。バーナムの一座は英国にツアーを行い、ヴィクトリア女王に面会しています。上の引用にあるバーナムのロンドンでの「世にも偉大なる小人の見せ物」は、その時のことを言っています。

The Greatest Showman - Hugh Jackman and Cast.jpg
映画「The Greatest Showman」(2017)のパフォーマーたちと主演のヒュー・ジャックマン。親指トム将軍を演じたのは、ニュージーランド出身のサム・ハンフリー。

そして映画「グレイティスト・ショーマン」では、ニューヨークの "見せ物シアター" が火災で焼け落ちた時、落胆しているバーナムに向かってパフォーマーたちが言うのですね。次のような主旨でした(髭の女性のせりふ)。

  母親は私達を恥じ、私達の存在を隠した。あなたはその暗がりの中から引き出してくれた。たぶん金儲けだけのためだったはず。だけどあなたは本当の家族をくれた。ここが私達の家だ。

バーナムの興業はニューヨークの批評家からはこきろされたのですが、異形の(ないしはユニークでオンリーワンの)パフォーマーたちはバーナムに感謝していた、そういうスタンスで映画が作られていました。

P_T_Barnum and General Tom Thumb(Wikimedia).jpg
P・T・バーナムと親指トム将軍(チャールズ・ストラットン)。Wikimediaより。本書にはこれと同じ写真が掲載されている。
「消えたベラスケス」には、そのバーナムと親指トム将軍の写真がわざわざ掲載されています。本書には多数の絵の図版が掲載されているのですが、唯一の人物写真がこれです。バーナムの件は本書の主旨からするとごく些細なエピソードに過ぎません。なぜ、ローラ・カミングはこの写真を掲載したのでしょうか。それは「17世紀スペイン宮廷(をはじめとする欧州の宮廷)に低身長症の人が集められていたこと」と、「P・T・バーナムが低身長症の人を集めて興業をやったこと」を重ね合わせたからに違いありません。

バーナムはパフォーマーから感謝されていました(=映画のストーリー)。では、17世紀の宮廷の低身長症の人たちはどうだったのか。ディエゴ・デ・アセードのように高位の廷臣もいれば、ジェフリー・ハドソンのように宮廷晩餐会でパイから飛び出す芸をさせられたものもいます(ディエゴ・デ・アセードの絵の解説参照)。本書でも言及しているのですが、裸にされてバッカスの格好をさせられた超肥満の女の子もいました(No.161「プラド美術館の怖い絵」参照)。要するに "いろいろ" です。そういった人たちをスペイン宮廷では「ヘンテス・デ・プラセール(=楽しみを与える人々。慰み者)と呼んでいました(No.161)。

ただ一つ言えると思うのは、そういった "異形の人たち" に宮廷は「ポジション」を与えていたということです。No.45「ベラスケスの十字の謎」で紹介した同名の小説(低身長症の少年が主人公)を読むと、当時のスペイン宮廷の異様な雰囲気が伝わってくるのですが、それはあくまで現代人感覚なのでしょう。うとまれ、通常の仕事にありつくのが難しそうな人たちに、宮廷は「場」や「役割」を与えていた、ちょうど19世紀アメリカの興行師・バーナムがやったように ・・・・・・。そう考えることもできると思いました。

そして、ベラスケスという画家は、国王から "異形の人たち" までの「あらゆる人間の尊厳」を描いた。ローラ・カミングはそう言っているのでした。




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No.230 - 消えたベラスケス(1) [アート]

今まで17世紀スペインの宮廷画家、"王の画家にして画家の王" と呼ばれるベラスケスについて5回書きました。

No.  19 - ベラスケスの「怖い絵」
No.  36 - ベラスケスへのオマージュ
No.  45 - ベラスケスの十字の謎
No.  63 - ベラスケスの衝撃:王女と「こびと」
No.133 - ベラスケスの鹿と庭園

の5つです。今回はその続きで、2018年に発売されたローラ・カミング著『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)を紹介します。著者は英国の美術評論家で、もとBBCの美術担当プロデューサーです。

消えたベラスケス.jpg
ローラ・カミング
「消えたベラスケス」
五十嵐加奈子訳(柏書房 2018)


消えたベラスケス


この本については中野京子さんが書評を書いていました。まずそれを引用します。日本経済新聞の読書欄からで、下線は原文にはありません。


芸術が魂に与える力を熱く

消えたベラスケス
  ローラ・カミング

著者いわく、本書は巨匠の中の巨匠ベラスケスをたたえる書である。

その言葉どおり熱い本だ。芸術作品というものは各時代の賛美者たちが熱く語り続けることで、次代へつながれてゆく。ベラスケスはスペイン宮廷の奥に隠されていた時代にはゴヤが、公共美術館に展示されてからはマネが、その超絶技巧と魅力を喧伝けんでんしてやまなかった。今またこうして美術評論家のカミングが、17世紀の寡黙な宮廷画家に迫り、すこぶるつきに面白いノンフィクションに仕上げた。

2つの流れが交錯する。1つはヴィクトリア朝時代の書店主スネアの数奇な人生。安価でベラスケスの絵を手に入れた彼が真贋しんがん論争に巻き込まれ、ついには店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカに渡って貧困のうちに死ぬ。絵はその後忽然こつぜんと消える。カミングはスネアの足跡を辿り、絵が本物かどうか、今どこにあるのか、調査にのめり込む。

もう1つの流れは、ベラスケスの人生とスペイン・ハプスブルク家の黄昏たそがれだ。もちろんそれは彼の作品に色濃く反映されている。そもそもベラスケスが描き残したからこそ、無能王と呼ばれたフェリペ4世、血族結婚くり返しの果てに生まれたひ弱な王子や王女、宮廷に仕える小人症の慰み者たち、権力を振るう重臣らが、350年前、喜怒哀楽をもって確かに生きて呼吸していたことを我々は深く納得するのである。

カミングはベラスケスの天才性に感嘆し続ける。近くで見るとただの色の染みでしかないものが、遠目には見間違いようのないドレスの金糸になり、ひげになり、水滴になるのははぜか。何より、人物の本質をどうやってえぐりだせたのか。それは日記も手紙も残さず、全く自己を語らなかった画家その人と同じく大きなミステリだ。

これに関して本書唯一の物足りなさは、コンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系だった可能性や、傑作『キリスト磔刑たっけい図』に触れていないことだろう。

とはいえ、破産しても貧窮しても絵を手放さなかったスネア、執念で追い続けるカミングを通し、芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力のすごさには圧倒されずにおれない

美術愛好家、必読。

《評》 ドイツ文学者
中野京子
日本経済新聞(2018.3.10 朝刊)

下線のところにあるように、この本を読んでみると著者 ローラ・カミングのベラスケス作品に寄せる熱い思いが "ひしひしと" 伝わってきます。美術評論家がこれほど1人の画家に "入れ込んで" いいのかと思えるぐらいですが、それだけベラスケスが特別な存在だということでしょう。ベラスケスだから許される。最後の一文である「美術愛好家、必読」というのはその通りです。


ジョン・スネアとチャールズ1世の肖像


「消えたベラスケス」というノンフィクションの1つの軸は、ジョン・スネアという人物の生涯です。スネアは英国バークシャー州レディングで1808年頃に生まれました。レディング(Reading。リーディングとは発音しない)はロンドンの西、約60kmのテムズ河畔の町です。北西約40kmには大学で有名なオックスフォードがあります。

スネアは1838年に、レディングの叔父の書店を引き継ぎました。それ以降、印刷業や雑貨屋も兼ね、レディングの町では一応の名士になりました。

スネアは独学で絵を学び、有名絵画の版画を集めて絵の研究をしました。絵画のオークションにも参加しています。当時は公的美術館が未発達で、著名画家の絵は貴族の館に飾られているものでした。オークションは誰でも参加でき、下見会も何回かあるので本物の絵画に出会える貴重な機会だったのです。

発端は1845年10月、レディングの地元紙「レディング・マーキュリー」の広告です。それは、オックスフォード近郊にある全寮制学校「ベンジャミン・ケント男子アカデミー」のホールでオークションが開催されるという通知でした。この学校は閉鎖されることになり、備品、蔵書、絵画などの総数180点が売りに出されたのです。スネアは以前にケント校長の知人とともに学校を訪れたことがありました。

広告のなかでも "別格" の扱いだったのが「チャールズ1世の半身像、推定ヴァン・ダイク作」でした。ヴァン・ダイクの作らしき肖像画が売りに出され、しかもそれは清教徒革命で処刑されたあのチャールズ1世と知って、スネアは早速オーションの下見会に出かけました。

そこでスネアが見たのは確かにチャールズ1世の肖像でした。しかしそれは若い頃のチャールズで、明らかに皇太子時代のものです。フランドル出身のヴァン・ダイクが英国の宮廷画家として迎えられたのは1632年で、チャールズが王位についてから8年も後です。おかしいと思ったスネアは、これはベラスケスの作品ではないかと直感しました。

1623年に起こった2つの出来事です。この年の3月から、イングランドのチャールズ皇太子はスペインを訪問しました(訪問の目的は本書に詳述されています)。さらにこの1623年の夏、ベラスケスが自作の『セビーリャの水売り』を携え、故郷のセビーリャをたってマドリードにやってきました。前年に引き続き2回目の訪問です。

ベラスケスの絵の師匠はセビーリャのフランシスコ・パチェーコですが(ベラスケスの義父でもある)、パチェーコの知り合いに聖職者のファン・デ・フォンセカという人物がいて、彼は国王・フェリペ4世の礼拝堂付の司祭でした。ベラスケスはそのフォンセカに『セビーリャの水売り』を見せたのです。その出来映えに驚いたフォンセカは、すぐにその絵を買い取りました。そして自らの肖像画をベラスケスに描かせるとともに、スペイン宮廷の有力者に絵とベラスケスを紹介しました。

そのころ、スペイン国王フェリペ4世はチャールズ皇太子の対応に忙しかったのですが、宮廷で評判になったベラスケスに肖像画を描かせることにしました。そして1623年8月30日、当時18歳のフェリペがモデルとして初めてベラスケス(当時24歳)の前に立ちました。そして、その年のうちにベラスケスは宮廷画家にとり立てられることになります。

問題はこの間の歴史資料です。ベラスケスの生涯を記述した数少ない書物の一つに、後輩の宮廷画家、アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」があります。この本に、

  フェリペ4世の肖像画を制作中であったベラスケスが、そのかたわらイングランドの皇太子も描いた

との主旨の記述があるのです。さらにチャールズ皇太子のスペイン旅行の際の英国王室の経費報告書を調べると、

  皇太子は肖像画代として1100レアルを払った(1623年9月8日付)

とあります。この金額はフェリペ4世が自身の肖像画代として払った金額を遙かに超えるものです。つまり "ちゃんとした肖像画" だったことが分かります。当然、チャールズ皇太子はその絵を携えてイングランドに戻ったと考えられるのです。

オークションで "ヴァン・ダイク作「チャールズ1世像」" を安値で手に入れたスネアは、その絵の来歴を徹底的に調べ始めました・・・・・・。



それ以降のジョン・スネアの数奇な生涯について、本書はミステリのような書き方になっているので、ここで紹介するのは控えたいと思います。一言だけ付け加えると、中野京子さんが書いている "真贋論争" 以外にも "盗品疑惑" が持ちあがります。そしてその疑惑について本書の最後のところで意外な真実が明かされています。


ベラスケスの画家像に作品から迫る


Laura Cumming.jpg
Laura Cumming
(Twitterより)
本書の1つの軸がジョン・スネアの生涯なら、それと交互に語られるもう1つの軸がベラスケスの生涯と彼の作品です。ベラスケスの宮廷画家としての職業人生については公式記録があり、同時代の人が書いた伝記もあって、かなり判明しています。しかし本人の日記や書簡の類は一切残されていないため、その画家像については不明の部分が多い。ベラスケスは自己をいっさい語っていません。絵の主題を決めたのが依頼主なのか画家なのかが不明なものも多く、作品の制作意図や背景を知ることは困難です。ローラ・カミングはベラスケスが残した作品を凝視することで、画家としての姿に迫ろうとします。

たとえば、ベラスケスの絵の特徴です。ベラスケスはスケッチを残していません。習作もほとんど描かないし、カンヴァスに下書きもしない。頭に浮かべたものをそのままカンヴァスに描いています。これだけでも驚きですが、さらにその細部が "神秘的" です。中野京子さんの書評にもありますが、本書の記述を次に引用します。


ベラスケスの絵には、神秘的な部分が多々ある。どこに点を打ち、筆を走らせ、絵の具をはじき、あるいは飛散させれば、悲しげなまなざしや、シルクのドレスに照り映える日の光を表現できるのかを、彼はどうやって知ったのだろう。冷たい水が入ったコップが結露する瞬間をどうやってとらえたのだろう。彼の筆跡はときに、ひとつひとつ指で数えられるくらいまばらで、筆の動きが手にとるようにわかる。

おもわず、点字を読みとるように筆跡を指でなぞり、これほどまでに説得力をもつ "絵の言葉" を彼がいかにして生み出したのかを読み解きたくなる。ごく小さな点を取り除くと、そこに "書かれた" 内容ががらりと変わる。そんな絵が描ける画家はほかにいない。点を一つ取り去っただけで金色のブロケード(引用注:金糸・銀糸などで浮き織りをした絹織物)は輝きを失い、睫毛まつげを1本消しただけで、モデルの表情が一変する。ピンの先で置いたようなわずかな絵の具がものを言うのだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.52-53
(五十嵐加奈子訳。柏書房 2018)

ベラスケスの筆遣いには、彼独特のさまざまな "筆遣いの言葉" があり、その言葉を積み重ねた "物語" がベラスケスの絵です。離れて見るとその言葉は分からないが、近づくにつれて明瞭になってくる。本書でカミングはこれに類することを何度も書いています。



これ以降は、本書で紹介されているベラスケスの代表作から何点かを年代順にとりあげ、ローラ・カミングの "解説" を引用したいと思います。美術評論家がベラスケスに迫るべく "熱く語った" 言葉は重要だと思うからです。

以下の絵の制作年は本書のものを採用しました。またベラスケスの年齢は制作年からベラスケスの生年(1599年)を単純引き算したものです。但し本書に制作した年齢が明記してあるものはそれを採用しました。下線は原文にはありません。また、原文にはない段落を追加したところがあります。


卵を料理する老婆と少年


本書によるとこの絵は、著者のローラ・カミングが8歳のときに両親に連れられて行ったエディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリーで見た絵です。カミングの「初ベラスケス体験」というわけです。ふつう『卵を料理する老女』と呼ばれています。

An Old Woman Cooking Eggs.jpg
卵を料理する老婆と少年
(1618:18歳)
100.5cm × 119.5cm
スコットランド・ナショナル・ギャラリー


描かれた場面は、薄暗い居酒屋。その場にあふれる物のひとつひとつにスポットライトが当てられている。赤タマネギ、卵、白い鉢と、そこに危ういバランスで置かれた銀のナイフ、光を反射する真鍮しんちゅうの容器。どれもみな非凡で、まるで祭壇にでも並んでいるかのように、神聖かつ神秘的に見える。ベラスケスはありふれたものに最上級の敬意を払い、ひとつひとつが、まばゆいばかりに美しく描写されている。左側の少年が抱えるひもで縛ったメロンまでが、この世に与えられた新たな賜物たまもののように神々しい光を放つ。

卵を料理する老女と少年は、聖書に出てくる人物でもなければ、ただのモデルでもなく、まだ18歳だったベラスケスがこの傑作を描いた地、セビーリャの庶民だ。イングマール・ベルイマン(スウェーデンの映画監督)の映画に出てくる常連役者のように、二人は別の絵にも登場する。初期に描かれたこの絵では、人物どうしの交流や対話はなく、最低限の演出しかない。老女と少年がじっと物思いにふけっているポーズをとっているのは、描いている若き天才画家と同じ役割を二人が担っているからだ。目的は物を目立たせること ─── つまり、卵やメロン、反射するガラス瓶などを光にかざし、そこに人の注目を集めることなのだ。

この絵全体が人を魅了するために描かれたのは明らかで、目的は達成されている。真っ先に目を奪うのは、驚くべき精緻さだ。きらりと光る鍋の中で、透明な流体と不透明な白い流体が混じり合う卵。液体が一瞬にして個体に変わり、目に見える形を得る。それはちょうど、絵というものが見せる不思議な幻影に似ている。これぞまさに、ベラスケスの象徴と言える絵かもしれない。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.37-38

An Old Woman Cooking Eggs(Part).jpg
ローラ・カミングの父親は画家です。画家が娘に真っ先に見せたかったのがこの絵だったのでしょう。驚くべき精緻さで描かれた物たちのなかでも、ひときわ目立つのが上の引用の下線の部分、鍋の中の卵です。液体から半液体、半固体、固体へと変化する様子がとらえられている。本書ではわざわざ、この "目玉焼き" を作っている鍋の部分図が掲げられています。カミングはこの絵を子どもの時から数え切れないくらい見たはずで、見るたびに "目玉焼き" に感心してきたのだと想像できます。


セビーリャの水売り


Waterseller of Seville.jpg
セビーリャの水売り
(1618:19歳)
106.7cm × 81cm
ウェリントン・コレクション
(Aspley House, London)

この絵は10代のベラスケスが故郷のセビーリャで描き、それを携えてマドリードに上京し、王宮の人々を驚嘆させました。ベラスケスの師匠の知人の聖職者、フォンセカがすぐに買い取った絵です。


そこに描かれるのは、働きづめの人生を送ってきた男の姿だ。顔には深いしわが刻まれ、大きな穴のあいた衣服をまとい貧しいなりをしているが、うれいを帯びた気高さがある。横にいる少年(彼はほかの絵にも登場する)は目を伏せ、うやうやしく水を受け取る。水売りが来なければ、少年は喉がからからに乾いていただろう。水なしで生きられるものはいない。触れあう二人の手が、安価だが計り知れない価値をもつものを支えている。ベラスケスは、いたって平凡な商売の場面に寓話的ぐうわてきな意味を与えた。

ひときわ透明なガラスのコップに、水に香りをつけるためのものだろうか、イチジクの実が浮いている。それらしく描くのは至難のわざだ。大きな陶器の壷は、でこぼこや焼きむらがあり、雫が垂れた跡が変色し質感も変わっている。このシーンを描いたとき、ベラスケスはまだ10代だった。

老い、つましさ、またはキリスト教的博愛の象徴として描かれた絵であろうとか、悪漢ピカレスク小説の一場面で、老人は道化者の物乞いであるとか、巨大な陶器の壷の中で寝たと言われるギリシャの哲学者ディオゲネスの肖像であるなどと、この絵には多くの解釈がなされてきたが、10代の若き画家が、格段に難しい対象を描き上げる能力を見せつけるために選んだテーマであることは確かだろう。ガラスのコップは、加熱されている卵と同じだ。卓越した技術と、この絵がもつ謎めいた陰鬱な雰囲気とがあいまって、見るものを眩惑げんわくさせると同時に当惑させる。

水売りの男はいかにも真面目そうで、威厳があり、画家からも少年からも一目置かれている。この男を貧しい道化者の物乞いと解釈した人は、本当にこの絵を見たのだろうか。

フォンセカが1627年に亡くなると、ベラスケスは彼の所有する絵の目録を作成し、《セビーリャの水売り》に最高値をつけてすぐに買い戻したという。フォンセカの未亡人にはありがたかったに違いないが、ベラスケスにとっても得るものが大きかった。若い時分に描いたかけがえのない大切な絵 ─── 彼はそれを二度と手放さず、死ぬまで手元に置いていたと伝えられる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.48-49

カミングが「横にいる少年ほかの絵にも登場する」と書いているのは、たとえば先の『卵を料理する老婆と少年』です。明らかに同じ少年を描いています。なお、訳文では水を入れた壷を "陶器" としていますが、明らかに釉薬を塗らずに焼いた陶器、つまり "素焼きの壷" なので、日本語感覚ではそう訳す方が良かったと思います(ただし、全体としてこの本の訳は優れています)。

ちなみに、2018年3月24日に放映されたTV東京の「美の巨人たち」の "今日の一枚" は『セビーリャの水売り』でしたが、この絵を所有しているロンドン、アスプリー・ハウスの主任学芸員の方が「描かれているのは高価なヴェネチアン・グラスのようで、貧しい水売りが普段使うようなものではない」と解説していました。確かに、グラスの下の方には装飾が施されています。どこにでもありそうなグラスではない。

なぜヴェネチアン・グラスを登場させたのか。それはベラスケスが水売りを気高い人物として描きたかったからだ、という解説でした。宗教的な意味(たとえば洗礼)を見いだすことも可能だと・・・・・・。

カミングが言うように威厳があり、また気高さをも感じさせる人物造形にはヴェネチアン・グラスが似合うのでしょう。ただ、もう一つの理由として高価で透明度が高いヴェネチアン・グラスになみなみと水をいだ時の質感表現に挑戦したのではと思いました(しかも無花果イチジクまで入れる)。当時の上流階級の、見る人が見ればヴェネチアン・グラスとすぐ分かったのではないでしょうか。


ヴィラ・メディチの庭園


1628年、当時の大画家ルーベンスがスペインの宮廷を訪れて滞在し、王宮にある絵の模写を含め30枚もの絵画を制作しました。そのルーベンスはベラスケスに「ローマに行き芸術の都をその目で確かめてくるように」とアドバイスしました。

ベラスケスは生涯に2度、ローマを訪れて滞在していますが、第1回目はルーベンスがスペインを去った2ヶ月後、1629年の6月末からです。帰国したのは1631年1月で、およそ1年半の滞在でした。ベラスケスはローマで "ヴィラ・メディチ" に2ヶ月滞在し、その庭園を描きました。No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介したように、絵は「昼」と「夕暮れ」の2枚あります。次はその「夕暮れ」の方です。

View of the Garden of the Villa Medici.jpg
ヴィラ・メディチの庭園
(1630:31歳)
48.5cm × 43cm
プラド美術館


描かれたのは、イトスギにかこまれたのどかな一角だ。古代ギリシャ風のアーチ門は薄板でふさがれ、その上のバルコニーの縁には白い布が掛けられている。建築者だろうか、庭師だろうか、二人の人物が立ち話をしており、ひとりは薄板からぶらさがるロープの端をぼんやりと持ち、クモの糸ほどに細い銀色の線が、絵の表面を斜めに走っている。

特別な場面を描いたのでもないのに、なぜか心を奪われる ─── その矛盾が、この作品を神秘的なものにしている。生け垣の上にそびえるギリシャ神ヘルメスの像は、二人の会話に聞き耳をたてているように見え、アルコープ(引用注:壁面の一部を奥に後退させて作った空間のこと)に映る影は、なかば生きているかのようだ。巨大なイトスギはその暗い木陰に太陽の熱を包み込み、衝立ついたてのようにそそり立って外の世界を遮断する。そのあいだから、紅に染まりはじめた空がわずかに見える。この場面の中央にある薄板の間がわずかに開いていて、見ているうちにふと、その瞬間から忍び出て扉の向こうを見てみたい、絵の中に入って生きたいという気持ちになる。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201

この絵は "大作の名画" がオンパレードのプラド美術館の中にあっては見逃してしまいそうな小さな絵です(48.5cm×43cm)。また一見 "地味な" な絵なので、本当に見逃す危険性は高い。その見逃しそうな小さな絵の前に立って眺め入っている著者の姿が目に浮かぶような描写です。しかし、この絵の "解説" のポイントは、漆喰しっくいの壁の描き方を書いた次の文章です。つまり壁に塗る漆喰とカンヴァスに塗る絵の具の類似性がこの絵の "見どころ" だという指摘です。


ある部分には絵の具がたっぷりとなめらかに塗られ、別の部分では薄く塗られ、ときにはカンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている。つまり、描かれている対象をそっくりそのまま真似ているのだ。

この絵は、かなり小ぶりだ。こちらに背を向けて立つ人たちはごく小さく、バルコニーに布をかけている使用人などは、かろうじて見える程度だ。じつにリアルなシーンであるにもかかわらず、なぜか夢のようにおぼろげに見える。小さなカンヴァスは、もちろん外へ持ち出すのに便利だ。だがベラスケスがこのサイズを選んだのには、別の理由があったのかもしれない。離れて見ると、カンヴァスの布目がレンガの模様を再現するのにぴったりの大きさなのだ。

ここにもまた、私たちの想像が及ばないベラスケスの緻密な計算が働いている。はたして彼は、はじめからわかっていたのだろうか。それとも描いているうちに思いついたのだろうか。これは、彼の作品につねにつきまとう重大な疑問点のひとつだ。どの作品がどのようにして生まれたのか、それはゆっくりと手間をかけて描かれたのか、手早く描かれたのか。また、偶然の結果なのか、意図的に生み出されたものなのか。カンヴァスの横糸と縦糸が織りなす細かい格子模様を生かしてレンガの輪郭をかたちづくるといった点は、どこか精密工学のようだ。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.201-202

下線をつけたところですが、この絵をそのように見ることができるのかと、本書を読んで思いました。美術評論家らしい着眼点です。さらにカミングは、この絵が "小さな革命" だったと続けています。


この作品は、絵画に小さな革命を起こした。単に、並外れた手法で描かれたというだけではない。描かれた理由も、物語性も、焦点も何もなさそうなのが新しいのだ。なんとなく眺めていて目に入った断片的な光景、その一瞬をとらえたこの絵はきわめて斬新で、当時の買い手がほしがった、ニンフや神殿で埋めつくされた古代ローマの風景画などとは、大きく異なっていたのである。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.202

全くの偶然ですが、ベラスケスがローマに滞在していたころ、フランスの2人の高名な風景画家、クロード・ロランとニコラ・プッサンもローマにいました。彼らは「理想的な架空の風景」を描く画家です。アントニオ・パロミーノの「スペインの著名な画家たちの人生と作品」によると、ベラスケスはロラン、プッサンと面識があり、プッサンとは共通の知人もいました。もちろん2人の風景画を知っていた。しかしベラスケスの描いた風景画は彼らのものとは全く違っていました。


メディチ家の別荘の庭園を描いたこの小さな作品について特筆すべきは、ベラスケスが実際にこの静かな庭園に出て描いたことだ。その場所、空気、ぬくもり、ローマの夏の柔らかな陽射しにいたるまで、目に入るものすべてを痛いほどの感受性でとらえ、絵の具を含ませた絵筆で記録していく。目で見たものがすぐさま手を介して絵筆に伝えられ、彼が受けた印象そのままに描かれる。この絵は、ベラスケスの作品の中でも最も印象主義的な ─── 実際の印象派が生まれるのは、まだ2世紀も先なのだが ─── 作品と言えるだろう。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.203

2作品ある「ヴィラ・メディチの庭園」のうち、もう一つの「昼」の方は No.133「ベラスケスの鹿と庭園」で紹介しました。明るい光の下での庭園風景という題材や筆触分割的な筆の使い方は、まさに印象派だと言っていいものです。

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「ヴィラ・メディチの庭園」の中央のアーチ門の両側を拡大した部分図。「カンヴァスの布目が透けて見えるほど絵の具をこすり取り、その細かい格子模様を、漆喰から透けて見えるレンガ壁に見立てている」とローラ・カミングが説明している部分。


パブロ・デ・バリャドリード


次の作品は No.36「ベラスケスへのオマージュ」でとりあげたものです。マネは1865年に『オランピア』でサロンに入選しますが、娼婦を描いたということで評論家から罵声を浴びます。傷心のマネはマドリードに旅をし、プラド美術館でベラスケスの作品に出会います。

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パブロ・デ・バリャドリード
(1635:36歳)
209cm × 123cm
プラド美術館


1865年のある夏の日の夕方、エドゥアール・マネは、新たに運行が始まったパリとマドリッドを結ぶ直通列車に乗った。不快な旅は1日半も続いた。マドリッドではグラン・オテル・ドゥ・パリに泊まるが、名物だというフランス料理はとても食べられたものではなく、どの皿にも手をつけずにそのまま返した。マネが闘牛場で牛の角に突かれて死んだ闘牛士を目撃した話や、エル・グレコの絵を見るためにトレドまで足を伸ばした話は有名だ。だが、コレラが大流行するさなか、辛い長旅に耐え、言葉もまったくわからないスペインへわざわざやってきたのは、何よりもベラスケスの絵を見るためだった。

プラド美術館の細長い展示室で、マネは「悲惨な旅でくたくたになっても見にくる価値がある」"画家の中の画家" の作品と出会う。だが、それだけではなかった。彼にとって "すべての絵画を越える絵" となる作品との出会いも待っていた。その絵とは、ベラスケスが描いた宮廷の喜劇役者パブロ・デ・バリャドリードの肖像画である。

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136

この絵は「道化役者」とういタイトルで呼ばれるのですが(現プラド美術館)、本書によるとマネがプラド美術館を訪れた当時、この絵には「フェリペ4世時代の有名な役者の肖像」というタイトルが付けられていました。この方が実態と合っているので、カミングは "喜劇役者" で通しています。


パブロはどこからともなく、圧倒的な姿をあらわす。光を放つ絵の表面に黒づくめの姿が不意に出現し、何もない空間に黒いシルエットがくっきりと浮かび上がる。彼をそこにつなぎとめているのは影だけだ。床はなく、みずからの確固たる存在感だけで、このひとり芝居の舞台に立っている。さっと姿をあらわすところは、まるで登場の場面のようだ。

役者は開いた両足を地につけ、持てるエネルギーを残さず体内に封じ込めようとするかのように、片手を胸のあたりに当てている。その姿を、ベラスケスが与える輪郭がしっかりと絵にとどめる。彼は不動だが、代わりに仕草が何かを物語る。ケープをつかむ手が、もう一方の手に合図を送る。するとその手は、その先に別の時と場所があるかのうように斜め下方を指す。じつに雄弁なジェスチャーだ。この絵はベラスケスの作品の中で唯一、動きが表現された肖像画でもある。饒舌じょうぜつな両手は、左手から右手へ、さらにその先の何もない空間にある思考をさす指先へと連鎖反応をもたらしながら、一緒になって掛け合い芝居を演じている。

舞台はなく、書割かきわりも、衣装も、小道具も、彼を特定の役柄や演技の枠にはめるものは何もない。パブロは自由に、ありのままの自分でいられる。この絵は彼をどんな役柄にも当てはめず、同様にどんな場所にも閉じこめていない。背後に壁はなく、建物も、設定も場面も何もなく、壁と床の境界すら消滅している。パブロが立つ空間はすでに彼の一部であり、その漠とした空間の中に、堂々たる役者の姿が浮かび上がる。右足はいつのまにか影を引きずり、その影は水面を漂う煙のごとく消えていく。パブロは一枚の絵の中で ── いや、絵の中に ── 立っている。

この絵を見たとき、マネは目を疑った。彼はマドリッドから画家仲間のアンリ・ファンタン = ラトゥールに次のように書き送った。「この絵は、これまでに描かれた絵の中で最も驚くべき作品だ。背景は消滅している。人物を包みこんでいるのは空気だ」

ローラ・カミング
「消えたベラスケス」p.136-137

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で書いたように、マネは帰国後『パブロ・デ・バリャドリード』の影響のもとに、ハムレットに扮する知人の俳優を描いた『悲劇役者』を制作しました(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」にも掲載)。マネはパブロを "役者" と認識していたことが分かります。そして、マネ独自の発展形が有名な『笛を吹く少年』(オルセー美術館)なのでした。



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No.224 - 残念な「北斎とジャポニズム」展 [アート]

No.156「世界で2番目に有名な絵」で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の中の『神奈川沖浪裏』が "世界で2番目に有名な絵" であるとし、この絵が直接的に西洋に与えた影響の一例を掲げました。No.156 で書いたのは、

ドビュッシーの交響詩「海」。スコアの表紙に『神奈川沖浪裏』が使われているし、そもそも作曲のきっかけが北斎だと考えられる。
ドビュッシーの家の室内写真。ストラヴィンスキーとのツー・ショット写真だが、壁に『神奈川沖浪裏』が飾られている。
カミーユ・クローデルの彫刻作品『波』。
『神奈川沖浪裏』を立体作品にした、ドレスデン街角のオブジェ。
『神奈川沖浪裏』を童話に仕立てたスペインの絵本。
サーフィン用ウェアの世界的ブランドである Quiksilver のロゴマーク。『神奈川沖浪裏』が単純化されてデザインされている。

でした。もちろん『神奈川沖浪裏』を含む「富嶽三十六景」や「北斎漫画」など、北斎の多数の作品が19世紀以降の西欧アートに影響を与えたし、北斎だけでなく日本の浮世絵や工芸品がヨーロッパに輸出されて、いわゆる "ジャポニズム" の流れを生んだわけです。

No.187「メアリー・カサット展」で書いたのですが、カサットは1890年にパリで開催された「日本版画展」に感激し、自らも版画の制作を始めました。No.187 では 喜多川歌麿の『青楼十二時せいろうじゅうにときの刻』とカサットの『The Fitting(仮縫い)』の対比、同じく歌麿の『行水』とカサットの『湯浴み』の対比を掲げました。カサットはこの歌麿の作品そのものではないにしろ、類似の浮世絵からインスピレーションを得て作品のテーマと構図を決めたのは間違いないと思います。

そういったジャポニズムを紹介する展示会が最近、国立西洋美術館で開かれました。「北斎とジャポニズム」展です(2017.10.21 - 2018.1.28)。この展示会は国立西洋美術館の馬渕明子館長が監修したものです。馬渕館長はジャポニズム研究の専門家なので、いわば "渾身の展覧会" でしょう。なぜ北斎なのかというと、ジャポニズムの中でも北斎の影響がダントツに大きいからです(馬渕館長の言)。つまりこの展示会は「北斎が西洋美術・工芸に与えた影響」を中心テーマとしつつ、「北斎を代表格とする日本の美術が西洋に与えた影響」も俯瞰するものと言っていいでしょう。

北斎とジャポニズム展.jpg

展示会の内容は北斎の画業全般に渡っていて、"森羅万象を描き尽くそうとした" 北斎の制作態度がよく分かるようになっていました。またそれに対する西洋のジャポニズムの方も、日本紹介の書物から絵画、工芸、版画まで多様でした。全体として大変理解がしやすい良い展覧会だと思いました。



以下は、この展示会を見て "残念" と思ったことをいくつか書きます。展示会そのものが "残念" というわけでは全くありません。もっとこういう作品を展示してほしかったという意味の "残念" です。あたりまえですが、展示会のために作品を所蔵美術館(ないしは個人)から借りるのは相手がある話なので思い通りに行くとは限りません。それは十分承知した上での "無いものねだり" を以下にあげたいと思います。


雨を線で表現する


浮世絵には雨を線で表現したものが多々あります。すぐに思い浮かぶのは広重の「東海道五十三次」の『土山宿』や『庄野宿』、ゴッホも模写した「名所江戸百景」の『大はしあたけの夕立』などです。この浮世絵の影響を受けてヨーロッパでも雨を線で表現した絵が描かれるようになりました。「北斎とジャポニズム」展で対比されていたのは、北斎の『北斎画式』からの一枚と、ゴッホの『雨中の畑で種を蒔く人』という素描です。もちろん広重の "雨" の方が有名ですが、この展覧会は北斎とジャポニズムを対比するのが主旨なので、これはこれでよしとしましょう。

北斎画式.jpg
葛飾北斎
北斎画式」(1819)

雨中の畑で種を蒔く人.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
雨中の畑で種を蒔く人」(1890)
フォルクヴァンク美術館(独:エッセン)

"問題" はゴッホの方で、ここでゴッホを持ち出すのならフィラデルフィア美術館にある『雨』という油絵作品を展示して欲しかったと思います。No.97「続・フィラデルフィア美術館」で引用した絵です。

PMA - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
」(1889)
フィラデルフィア美術館

ゴッホのサン・レミ時代の絵です。小麦畑に雨が降っているという、ただそれだけの絵ですが、この雨の線の "乱れよう" は画家の心情を表しているようです。北斎の版画もゴッホの素描も「雨を線で描いた作品」です。それに対してこのゴッホは「雨を線で描くことによって何かを表現しようとした絵」で、そこが違います。この絵は、巨大美術館であるフィラデルフィア美術館でも大変印象に残る絵です。それは日本人だからでしょう。

そのゴッホが浮世絵と出会う20年以上前から浮世絵を研究し、その構図やテーマを作品に取り入れていたのがドガです。今回の「北斎とジャポニズム」展でもドガの作品が数点展示されていました。そしてドガも雨を線で表現した絵を描いています。『雨の中の騎手』というパステル画です。この絵も No.97「続・フィラデルフィア美術館」で引用しました。

Jockeys in the Rain.jpg
エドガー・ドガ
雨の中の騎手」(1880/91)
ケルヴィングローブ美術館
(英:グラスゴー)

ドガは馬が登場する絵(郊外での競馬が多い)を多数残しています。また絵画制作のためだと思いますが、小型の馬の彫像(いわゆるマケット)も残しています。ちょうど「踊り子」でやった絵画制作を「馬」でやった。今回の展示会でも、北斎漫画の馬の絵とドガの「競馬場にて」(1866/68。オルセー美術館)を対比させた展示がありました。

上に引用した絵はその「馬」と「線で描かれた雨」がミックスされています。さらに右端の馬をカットアウトした構図も浮世絵の影響を感じさせます。このドガの絵も展示して欲しかった絵なのでした。


並木越しの風景


葛飾北斎の「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」は、松並木の向こうに富士が見えるという構図で、富嶽三十六景の中でも比較的良く知られた作品です。この絵とモネの2つの絵を対比して展示してありました。

富嶽三十六景「保土ヶ谷」.jpg
葛飾北斎
富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」(1830-33)


ヴァランジュヴィルの風景.jpg
クロード・モネ
ヴァランジュヴィルの風景」(1882)
ポーラ美術館

陽を浴びるポプラ並木.jpg
クロード・モネ
陽を浴びるポプラ並木」(1891)
国立西洋美術館

モネの最初の絵の舞台であるヴァランジュヴィルとは、ノルマンディーの海岸に面した地方です。No.202「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」で「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」という作品を引用しました。たまたま見つけたポプラの木という感じで、これは並木ではありません。

一方、次の『陽を浴びるポプラ並木』は北斎も描いた "並木" で、しかもクローズアップで描いています。これはジヴェルニー付近の川沿いのポプラ並木で、モネによくある連作の中の1枚です。この絵は確かに「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」からインスピレーションを得て描かれたと思えるものです。

しかしモネの絵よりさらに北斎に近いと思えるのは、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにあるゴッホの『アルルの風景』です。この絵は No.10「バーバー:ヴァイオリン協奏曲」で引用しました。

アルルの風景.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
アルルの風景」(1889)
ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)

モネの『陽を浴びるポプラ並木』は、「ポプラ並木の向こうに見えるのはポプラ並木」ですが、ゴッホ作品では「ポプラ並木越しに見えるアルルの田園風景」です。そこが「並木越しに見える富士」により近いと感じます。北斎もゴッホも「もし並木がなかったとしても成立する絵」です。主題はあくまで富士であり、アルルの田園風景です。にもかかわらず、あえて松並木・ポプラ並木で主題を "ぶった切って"(部分的に)隠している。構図の発想が大変よく似ているのですね。浮世絵が大好きだったゴッホもまた、「富嶽三十六景 東海道程ヶ谷」からインスピレーションを受けたのだと思います。



このゴッホの絵から連想するのが、オーストリアの画家、エゴン・シーレの『4本の木』という作品です。ウィーンのベルヴェデーレ宮殿(オーストリア・ギャラリー)にあります。

4本の木.jpg
エゴン・シーレ(1890 - 1918)
4本の木」(1917)
(オーストリア・ギャラリー)

こうなると単なる風景画ではなく、思想性を感じる絵になっています。4本の木はそれぞれ何らかの象徴で、落日も何かを象徴している、というような ・・・・・・。ジャポニズムの影響とは言い難い感じもします。

しかし気になるのは、当時のウィーンがジャポニズムの "メッカ" だったことです。本展示会にもウィーンで活躍したアーティストの作品が展示されていましたが、特にヴァルター・クレムの「橋」という作品(次項)はジャポニズムそのものです。『4本の木』もインスピレーションのもとになったのかもしれません。





橋は浮世絵にたびたび現れる画題です。「北斎とジャポニズム」展で対比してあったのは、北斎の『富嶽三十六景 深川万年橋下』とヴァルター・クレムの『橋』でした。ヴァルター・クレムとはあまり聞かない名前ですが、ドイツの画家・イラストレーターで、ウィーン分離派で活躍した人です。

富嶽三十六景「深川万年橋下」.jpg
葛飾北斎
富嶽三十六景 深川万年橋下」(1830-33)

Walther Klemm - Bridge.jpg
ヴァルター・クレム(1883-1957)
」(1909より前)
オーストリア応用美術館

確かによく似ています。19世紀末から20世紀にかけてのウィーンはジャポニズムの一つの拠点で、その代表格がクリムトです。No.164「黄金のアデーレ」にクリムトの作品を引用しました(アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 1)。クリムトは日本の着物だけでなく、甲冑や能面(!)まで所有していたそうです。そんな状況を考えると、このヴァルター・クレムの作品も納得できます。

ただし "橋" がテーマの作品としては、ジャポニズムの作品を多く手がけたホイッスラーも是非展示してほしいところでした。『ノクターン:青と金色 - オールド・バターシー・ブリッジ』です。

Whistler - Nocturne.jpg
ジェイムズ・マクニール・ホイッスラー
ノクターン:青と金色 -
オールド・バターシー・ブリッジ
」(1872-75)
テート・ブリテン

普通、このホイッスラーの絵は広重の『名所江戸百景 京橋竹がし』の影響だと言われるのですが、今回は「北斎とジャポニズム」展です。北斎の橋の絵とホイッスラーを対比するのは全くOKのはずです。ちょうど "雨を線で描いた絵" で、広重でなく北斎とゴッホを対比させたように・・・・・・。実際にロンドンにあったオールド・バターシー・ブリッジは、こんなに橋桁が高くなかったようです(ホイッスラーが描いた橋の素描が残っている)。デフォルメとクローズアップを用い、それに加えてまるで水墨画のように描いたこの絵は、まさにジャポニズムに影響を受けた作品でしょう。

名所江戸百景「京橋竹がし」.jpg
歌川広重
名所江戸百景 京橋竹がし


春画


浮世絵の半数以上(6割?)は春画だと言われています。西欧の著名画家も春画を保有していたようで、木々康子氏の『春画と印象派』(筑摩書房)によるとロートレックは春画の大コレクターだったとあります。「北斎とジャポニズム」展にあったのは、北斎の『万福和合神』とクリムトの『横たわる恋人たち』でした。ほかにロダンの素描もありました。

万福和合神・上編.jpg
葛飾北斎
万福和合神上編(1821)


横たわる恋人たち.jpg
グスタフ・クリムト(1862-1918)
横たわる恋人たち」(1904/05)
ウィーン・ミュージアム

しかしここでは是非ともピカソを持ち出して欲しかったと思いました。たとえばバルセロナのピカソ美術館が所蔵している次の作品です。男女の性の場面を描いたものとしてナマナマしい感じで、クリムトよりも北斎の絵の "精神" を受けついでいると思います。

ピカソ「恋人たち」.jpg
パブロ・ピカソ恋人たち
バルセロナ・ピカソ美術館

「万福和合神」のような春画はたくさんあるので、ピカソがこれを見たかどうはは分かりません。しかしピカソにはダイレクトに北斎を踏まえたと考えられる作品があります。北斎の春画集「喜能会之故真通きのえのこまつ」に『蛸と海女』という有名な絵がありますが、これから発想を得たと考えられる『女と烏賊』です。この絵は No.163「ピカソは天才か(続)」で引用しました。ピカソも北斎のイマジネーションに驚いたのではないでしょうか。

蛸と海女.jpg
葛飾北斎蛸と海女


ピカソ「女とイカ」.jpg
パブロ・ピカソ女と烏賊
バルセロナ・ピカソ美術館

そもそもピカソは北斎を強く意識していたようです。No.163「ピカソは天才か(続)」 で引用した瀬木慎一氏(美術評論家)と浦上満氏(浦上蒼穹堂・主人)のコメントを再度掲げます。


ピカソは日本の画家の中では北斎を尊敬していました。北斎は年とってから自分のことを「画狂老人」と言っていた、あれを非常に気に入って「俺はヨーロッパの画狂老人だ」と言ったくらいです。

瀬木慎一
NHK 日曜美術館(2010.5.23)
「ピカソを捨てた花の女」より

北斎はとにかく変化へんげの画家なんです。こういう画家は西洋に一人しかいません。それはピカソ。ピカソは明らかに北斎を意識していますよ。自分で北斎の雅号にならった『西洋画狂人』と名乗っていたといわれます。近年わかったことですが、ピカソは春画も集めていて、彼のキュビズムは春画からきているという説もあるんです。

浦上満
雑誌『東京人』
(No.378 2016.12)

ほかでもない「北斎とジャポニズム」という企画展だからこそ、"ヨーロッパの画狂老人" を自認していたピカソを展示して欲しかったと思いました。


カサット


冒頭に書いたように、メアリー・カサット浮世絵に感動して自ら版画を制作しました。その例として No.187「メアリー・カサット展」で対比させた喜多川歌麿とカサットの作品をここに再掲します。

歌麿・青楼十二時 子の国.jpg
喜多川歌麿
青楼十二時せいろうじゅうにときの刻
川崎・砂子の里資料館
(大浮世絵展・2014 図録より)

The fitting.jpg
メアリー・カサット
仮縫い」(1890/91)
アメリカ議会図書館
(site : www.loc.gov)

歌麿・行水.jpg
喜多川歌麿行水
メトロポリタン美術館

The bath(The tub).jpg
メアリー・カサット
湯浴み(たらい)」(1890/91)
アメリカ議会図書館

歌麿の『青楼十二時せいろうじゅうにときの刻』で立っている女性のポーズは、女性を美しく描くための浮世絵の "定番" と言ってよいでしょう。また『行水』にみられるような「母と子、ないしは母と赤ん坊」というテーマも浮世絵でよく描かれました。カサットはこの歌麿作品そのものではないにしろ、類似の浮世絵からインスピレーションを得て作品のテーマと構図を決めたのは間違いないと思います。

しかし今回は「北斎とジャポニズム」展なので北斎と対比させる必要があります。出展されていたカサット作品は『青い肘掛け椅子の少女』でした(これ以外にもカサットの絵が2点ほどありました)。この絵は No.87「メアリー・カサットの "少女"」No.125「カサットの "少女" 再び」に詳しく書きました。No.125では絵を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーの分析に従って、背景の一部にドガの手が入っていることにも触れました。そしてこの絵と対比されていたのが『北斎漫画』の中の "布袋" の絵でしたが、これはちょっとやりすぎというか、こじつけではないでしょうか。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair (Renewal).jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

北斎漫画・初編より(部分).jpg
「北斎漫画」より
普通、モデルを使った絵はモデルにそれなりのポーズをとらせますが、このカサットの絵は違います。育ちのよい少女(ドガの友人の娘です)であれば "普段はしない格好" というか、親に見つかると厳しく叱責されるに違いない姿です。つまり、

  少女が見せるある瞬間の姿態や表情、それをカンヴァスに定着させた

と感じさせるのがこの作品です。「少女」を「踊り子」に変えたとしたら、これはまさにドガの作品の特徴です。そして北斎漫画やその他の北斎作品にも「モデルのある瞬間の姿態や表情を定着」した絵が多数あり、そこが共通している部分です。カサットは画家としてドガと親しい関係にあったので、北斎 → ドガ → カサットという影響が推測できます。またカサットが『北斎漫画』を直接見たことも考えられる。こうした「ある瞬間の定着」が「北斎とジャポニズム」展で『青い肘掛け椅子の少女』を展示した主旨のはずですが、そこに "布袋" の絵を持ち出したので何となく嘘っぽくなってしまった、そこが残念なところでした。

余談ですが『青い肘掛け椅子の少女』の特色は少女の姿態だけはなく、肘掛け椅子の配置を含む部屋の描き方にあります。床と壁の境を極端に上にとり、少し上の方から俯瞰したアングルで、椅子を不規則に配置し、しかもすべての椅子をカンヴァスからはみ出して描く。この絵の所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式ガイドに「少女がいなければほとんど抽象画」とありましたが(No.222「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」参照)、そう言いたくなるほど斬新な構図でです。


ドガ


この項は「残念」ではなく、私とっての新発見です。当然のことながら「北斎とジャポニズム」展にはドガの作品が数点出展されていましたが、"発見" はドガの次の版画に関してです。

ルーブルのメアリー・カサット.jpg
エドガー・ドガ
ルーヴル美術館絵画室の
メアリー・カサット
」(1879-80)
フィラデルフィア美術館

この版画はルーブル美術館でのメアリー・カサットの姿を描いたものです。立っているのがメアリー、座ってガイドブックを広げているのは姉のリディアです。No.86「ドガとメアリー・カサット」を書いたときにいろいろ調べていて、この版画に出会いました。ドガは他に「ルーブルの考古学室のメアリー・カサット」も制作しています。この「絵画室のメアリー」の後ろから見た立ち姿、美術館の中でパラソルを持っている姿は "何だか不思議な感じだな" と思っていたのですが、今回の展覧会で対比されていたのが『北斎漫画』の中の一品でした。なるほど、北斎を踏まえて制作されたのだとすると納得できました。

北斎漫画・九編より.jpg
葛飾北斎
北斎漫画」九編より


マティス


前々から気になっていたのですが、マティスと北斎の関係はどうなのでしょうか。「北斎とジャポニズム」展でマティスに関する展示はありませんでした。しかし気になる点があって、その一つはマティスが画家のアルベール・マルケを「我らが北斎」と呼んだと伝えられることです。アルベール・マルケはマティスと同じ "フォービスム" の画家仲間(後輩)で、フォービスムにしてはどちらかと言うと"穏やかな色使い" で、風景画を得意とした人です。森羅万象を描き尽くそうとした北斎とは制作態度がかなり違います。従ってマルケの絵だけを見ても、マティスの言う北斎との関連性は分からないのですが、たとえばマルケのデッサンの力量を北斎に比したのかも知れません。

気になる二つ目は、マティスは明らかに日本美術の影響と思われる作品を描いていることです。それはフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにある『三姉妹』という3連作です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 19 West Wall にある作品)。

Barnes10 - Room 19 - West Wall.jpg
バーンズ・コレクションの Room 19 West Wall の画像。マティスの「三姉妹」の三連作が壁一面に展示されている。

この「3人の女性を描いた3つの連作」というスタイルは「大判錦絵三枚綴り」に発想を得たものでしょう。たとえば歌麿の次の作品です。

喜多川歌麿「両国橋上下(上)」.jpg
喜多川歌麿両国橋上下(上)

バーンズ・コレクションにある『三姉妹』は「西洋絵画史上、これしかないと思える作品」です。こういう作品を制作するぐらいなら、ほかにも日本美術からインスピレーションを得た作品があるのではと思うのですね。特に北斎をヒントにした作品が ・・・・・・。

画家が他人の絵からインスピレーションを受ける場合、その内容は大変微妙です。No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、画家のサージェントがベラスケスの『ラス・メニーナス』へのオマージュとして描いた『ボイト家の娘たち』という作品を紹介しましたが、一見すると一体どこが『ラス・メニーナス』なのか分からないのです。マティスにも実はそういった作品があるのではないだろうか ・・・・・・。このあたりを「北斎とジャポニズム」展で展示して欲しかったし、展示しないまでも情報発信して欲しかったと思いました。一度、ジャポニズムの専門家である馬渕館長に聞いてみたいところです。


アートとインスピレーション


馬渕館長も各種メディアで強調していたことですが、ジャポニズムは決してコピーではありません。西洋のアーティストは、北斎をはじめとする日本の美術品の中に従来西洋になかった美を発見し、ヒントを感じ、インスピレーションを得て、それを自家薬籠中のものにして作品を作った、そういうものがほとんどでした。それがまた近代日本のアートに影響を与えたわけです。それ以前に、北斎をはじめとする江戸期の画家も西洋絵画の影響を受けています。たとえば冒頭に出した『神奈川沖浪裏』にも西洋画の影響を感じるし、北斎の遠近法画法も今回の展示会にありました。

そういったダイナミックな "影響のしあい" がこの展覧会で理解できたのでした。




nice!(1) 

No.222 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー [アート]

バーンズ・コレクションからはじまって、個人コレクションを発端とする美術館について書きました。

No. 95バーンズ・コレクションフィラデルフィア
No.155コートールド・コレクションロンドン
No.157ノートン・サイモン美術館カリフォルニア
No.158クレラー・ミュラー美術館オッテルロー(蘭)
No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館マドリード
No.192グルベンキアン美術館リスボン
No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館ロッテルダム(蘭)
No.216フィリップス・コレクションワシントンDC
No.217ポルディ・ペッツォーリ美術館ミラノ

の9つの美術館です。今回はその方向を少し転換して、アメリカのワシントン・ナショナル・ギャラリーについて書きます(正式名称:National Gallery of Art。略称:NGA。以下 NGA とすることがあります)。

  なお上記の "個人コレクション美術館" 以外にも、バーンズ・コレクションから歩いて行けるフィラデルフィア美術館(No.96No.97)について書きました。またプラド美術館の数点の絵画についても書いています(No.133No.160No.161)。

なぜワシントン・ナショナル・ギャラリーかと言うと、過去にこのブログでこの美術館の絵をかなり紹介したからです。意図的にそうしたのではなく、話の成り行き上、そうなりました。そこで、過去に取り上げた絵を振り返りつつ、取り上げなかった絵も含めてこの美術館の絵画作品を紹介しようというのが今回の主旨です。

それに、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは "個人コレクション美術館" が発端です。つまりこの美術館は、銀行家・実業家で財務長官まで勤めたアンドリュー・メロン(1855-1937)が建設・運営基金と個人コレクションを国家に寄贈し、それにもとに設立された美術館です(1941年開館)。アメリカ富裕層の財力のものすごさを感じます。ちなみにここは創立以来、入場料が無料です。「アメリカを文化国家に」という主旨で設立されたからですが、現在、国を代表するような美術館・博物館で入場無料というのは大英博物館、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとここぐらいのものではないでしょうか。

いうまでもなくアメリカ随一の「国立美術館」であり、その規模や作品数は膨大です。「国立」なのでアートの年代も13世紀から20世紀まで多岐に渡っている。その意味で、フィラデルフィア美術館と同じく "巨大美術館を紹介するのは難しい" わけですが、今回は、

  一人または複数の人物を描いた絵。人物がテーマの中心になっている絵画作品

に絞ります。また、さきほど書いたように過去にこのブログでとりあげた絵を再掲するとともに、必見と思われる絵を追加する形をとります。さらにアメリカ人画家をなるべく掲載することとします。以下は画家の生誕年順で、同一画家の作品は制作年順です。

The-National-Gallery-of-Art-in-Washington-DC.jpg
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
(National Gallery of Art. NGA)
西館の南側正面(ワシントン D.C.)


ボッティチェリ(1446-1510)


Portrait of a Youth.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
青年の肖像」(1482/1485)
(44cm×46cm)

No.160「モナ・リザと騎士の肖像」で引用した作品です。青年が右手を胸に置いて人指し指と中指を広げていますが、同じポーズの絵がプラド美術館にあります。それはエル・グレコの『胸に手を置く騎士』で、プラド美術館の代表作の一つとされている作品です。

マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像.jpg
ブロンズィーノ
マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像」(1551)
(ウフィツィ美術館)
このような手の形はルネサンス期のイタリア絵画で女性の姿によくあります。ブロンズィーノの『マリア・ディ・コジモ1世・デ・メディチの肖像』がその典型です。ボッティチェリ自身の『ビーナスの誕生』(ウフィツィ美術館)もそうで、これらは手を美しく見せるためと言われています。しかし男性の肖像画ではあまり見たことがなく、エル・グレコからこのNGAのボッティチェリを思い出したわけです。

この絵は現地で初めて知ったのですが、巨大美術館であるワシントン・ナショナル・ギャラリーの中でも印象的で、すぐに写真を撮ったのを覚えています。なぜ印象的だったかは分かりませんが、ひょっとしたらそれは「指を広げて胸に置いた右手」だったのかも知れません。


ダ・ヴィンチ(1452-1519)


Ginevra de' Benci.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ジネヴラ・デ・ベンチ」(1474頃)
(38cm×37cm)

ヨーロッパ以外にある唯一のダ・ヴィンチ作品がこの絵です。もちろんアメリカではここだけです。モデルはフィレンツェの銀行家の娘で、彼女が16歳の時の作品です。レオナルドはこの絵を22歳から描き始めました。NGAのサイトには「4分の3正面視の肖像の初期の作品の一つ」で「肖像画で風景を背景としたのはレオナルドの新しい試み」とあります。この2つともフランドル絵画では既に行われていたわけで、レオナルドは新しい画法を取り入れるのに積極的だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの女性肖像画は『モナ・リザ』『貴婦人の肖像』(ルーブル美術館)『テンを抱く貴婦人』(ポーランドのクラコフのチャルトリスキ美術館)と本作の4点しかありません。「モナ・リザ」を別格として、他の3作品に共通するのはモデルを冷静に眺めて現実を描くというか、「モデルとは距離をおいた観察と描写」を感じる絵であることです。モデルがかしこそうに見える点も共通しています。このジネヴラ・デ・ベンチの肖像もそうです。白い肌や金髪の巻き毛が精緻に描かれていて、知的で、芯が強そうで、何となく神経質で、しかし病弱そうなモデルの雰囲気がよく出ています。

貴婦人の肖像.jpg 白貂を抱く貴婦人.jpg
貴婦人の肖像
(ルーブル美術館)
白貂を抱く貴婦人
(チャルトリスキ美術館)


エル・グレコ(1541-1614)


Laocoon.jpg
エル・グレコ
ラオコーン」(1610/14)
(138cm×173cm)

この作品はエル・グレコの絶筆とされている作品で、かつ画家が生涯で描いた唯一の神話画です。中野京子さんの文章を引用します。


グレコは73歳まで生きたが、晩年には早くも人気が下降しはじめている。強烈な恍惚の画面が、次第に時勢と合わなくなったせいもあるし、個性的すぎることが、逆に飽きられたのかもしれない。

それを感じて、新たな試みに挑戦したのだろうか、宗教画家から神話画家への転換を図ろうとしたのだろうか? それともひょっとして、ギリシャ人たる自分が一枚もギリシャ神話を描かないのはどうなのかと、はたと思いついただけなのか?

グレコ絶筆と考えられているのが、最初で最後の神話画『ラオコーン』だ。これはトロイア戦争の有名な一挿話「トロイアの木馬」を主題にしている(画面中央後景に小さく木馬が見える)。ギシリャ側の奸計かんけいを見破ったトロイアの神官ラオコーンが、城内へ木馬を入れないようにと進言し、それに怒った女神アテナ(=ミネルヴァ)が海蛇を放って、ラオコーンとその二人の息子を殺すというシーンだ。

グレコは背景をトレドの町に置き換えた。そして相変わらず引き伸ばされた蒼白い人体、画面をおおう不可思議感。主題を神話に変えてもグレコのグレコらしさは、あっぱれ、微塵みじんも揺らがないのだった。

グレコは死後徐々に忘れられたいった。二世紀を経た1819年、マドリッドのプラド美術館が開館したとき、グレコは一枚も飾られなかった(現在からは想像もつかない)。

グレコ再発見者は、驚くなかれ、20世紀の表現主義の画家たちだ。ピカソも、自分の「青の時代」の人物描写がグレコの影響であることを認めている。「あのギリシャ人」の感性がいかに新しかったか、いや、新しすぎたかのあかしだ。


ラオコーン(石像).jpg
「ラオコーン像」
(バチカン美術館)
直感的に連想するのは、バチカン美術館にある有名な『ラオコーンの大理石像』です。この有名な像は1506年にローマで発掘されましたが、ギリシャ出身のエル・グレコはスペインに来る前にイタリアに滞在し、ローマにも行っています(1570年)。つまりローマでラオコーンの大理石像を見た記憶で描かれたという可能性があるわけです。ちなみに次項のルーベンスはイタリア時代にローマでラオコーンの大理石像を見ていて、そのスケッチが残されています。ローマに滞在した画家なら、ラオコーンを見るというのは自然だと考えられます。

とは言うものの、バチカンの像と違って不思議な絵です。ラオコーンと2人の息子、海ヘビ、トロイアに擬したトレドの街、木馬(=トロイアにとっては破滅の木馬)までは分かりますが、右端の3人の人物はいったい何でしょうか。まるで空中を浮揚しているようです。この解釈には議論がいろいろとあるようで、NGAの公式サイトには「たぶん、海ヘビを放ったギリシャの神々」という解釈が書いてあります

しかしこの3人はトロイア市民ということも考えられるでしょう。破滅の瀬戸際にある国家、国家を救おうとして死にゆく親子、それとは無関係に浮揚している市民、の3つを対比させることで時代の終焉を表したのかもと思います。


ルーベンス(1577-1640)


フランドル出身のルーベンスは 1600年~1608年の8年間(23歳~31歳)イタリアに滞在し、イタリア各地を回りながら古典やルネサンスの絵画に触れ、絵の研鑽と制作に励みました。次の絵はルーベンスがジェノヴァで描いたものです。

Marchesa Brigida Spinola Doria.jpg
ピーテル・パウル・ルーベンス
侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」(1606)
(153cm×99cm)

ジェノヴァの名門貴族、スピノラ家から、これも名門貴族のドーリア家に嫁いだブリジーダという女性の肖像画です。眼をひくのは銀色に輝くサテンのドレスと特大のラフ(襞襟)で、その中で堂々と正面を見据える女性の表情が印象的です。貿易や金融業で繁栄を誇ったジェノヴァの上流階級の財力と権威が想像できます。ルーベンスの筆致はドレスからラフから髪飾りまで、大変に精緻であり、画力のすごさが分かります。若きルーベンス、20代後半の傑作です。

少々わかりにくいのは背景です。室内ではなく建物の外側の感じで、ドレープがかかった赤い布が垂れている。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、実はこの絵のオリジナルはもっと大きく、ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた、それが19世紀のある時点で現在のサイズに切断されてしまったとあります。

なるほど ・・・・・・。ブリジーダは22歳で、結婚したばかりともありました。左の方に描かれていたのは "ジェノヴァ風景" のはずで、だとすると「ジェノヴァを支配する名門貴族の若き花嫁」という絵なのでしょう。


ヴァン・ダイク(1599-1641)


Marchesa Elena Grimaldi Cattaneo.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」(1623)
(243cm×139cm)

イギリス、チャールズ1世の宮廷画家だったヴァン・ダイクの作品で、No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵です。

フランドル出身のヴァン・ダイクは1620年に英国に渡りますが、師匠のルーベンスと同じように、1621年から1627年までの6年間(22歳~28歳)はイタリアに滞在し、ジェノヴァを拠点に絵の勉強と制作に励みました。この絵はジェノヴァのカッタネオ伯爵の夫人、エレナ・グリマルディを描いたものです。ずいぶん "いかつい" 感じで "勝ち気な" 雰囲気の女性ですが、それは本人をよく表しているのでしょう。

ワシントン・ナショナル・ギャラリーの公式サイトによると、ヴァン・ダイクはジェノヴァでルーベンスの「侯爵夫人 ブリジーダ・スピノラ・ドーリア」を見たことがあって、そこからインスピレーションを得たとあります。これで納得できます。上に書いたようにルーベンスのオリジナル作品において「ブリジーダは邸宅のテラスに立つ姿で、左の方には風景が描かれていた」のですが、それがヴァン・ダイクの「伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ」に引き継がれたのでしょう。

ルーベンスと違って、いちばん眼を引くのは "パラソル" です。17世紀のパラソルは木製の大がかりなもので、女性が自分で持てるような代物ではとてもなく、このように召使いがかざして歩くものでした。

もう一つのポイントはパラソルを持っている召使いで、これはアフリカから連れてこられた奴隷だと推定できます。当時のイタリアの海岸都市、ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィなどは地中海交易で繁栄し、その重要な交易品の一つが奴隷でした。またイタリアの貴族や裕福な家庭では奴隷を使っていました。No.23「クラバートと奴隷(2)ヴェネチア」で紹介しましたが、塩野七生著「海の都の物語」には「イタリアの都市ではエキゾチックな黒人奴隷がもてはやされ、回教国では白人奴隷が好まれた」という意味の記述がありました。この絵の伯爵夫人は、エキゾチックな黒人奴隷の従者にパラソルを持たせることで権力と富を誇示している感じがします。

ちなみにワシントン・ナショナル・ギャラリーにはパラソルがテーマになっているもう一枚の絵があります。それは "超有名絵画" であるモネの『パラソルの女』です(後で引用)。この二つを対比して見るとおもしろいでしょう。

ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク
ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン」(1633)
(219cm×135cm)

No.161「プラド美術館の怖い絵」で引用した絵で、英国国王チャールズ1世のきさきであるヘンリエッタを描いたものです。このブログでは17世紀のスペイン宮廷で「特異な身体的形状をもった人」を雇う(ないしは住まわせる)習慣があったことを書きました(No.19「ベラスケスの怖い絵」No.45「ベラスケスの十字の謎」No.161「プラド美術館の怖い絵」)。しかしその "習慣" は何もスペインだけではなく、ヨーロッパの宮廷に広くあった。その一例として引用したのがこの絵でした。


フェルメール(1632-1675)


寡作で有名なフェルメールの絵がそもそも何点現存しているかですが、フェルメールについての数々の著作がある朽木くちきゆり子氏の本によると(「フェルメール全点踏破の旅」集英社新書 2006)、次の通りです(以下の "ランク・・・" は今回便宜上つけたものです)。

◆ランクA : 32点
専門家にフェルメールの真作であると認めてられている作品。
このうちの1点、『合奏』は、1990年にボストンのイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館から盗まれて、現在も行方不明。

◆ランクB : 2点
真作だとする専門家が多いが、そうではないとする専門家もいる作品。
赤い帽子の女』(NGA)と『ダイアナとニンフたち』(デン・ハーグのマウリッツハイス美術館)

◆ランクC : 2点
多くの専門家は真作ではないとするが、真作だと主張する専門家もいる作品。
フルートを持つ女』(NGA)と『聖プラクセディス』(個人蔵。国立西洋美術館に寄託)。

◆新発見作 : 1点
新発見の『ヴァージナルの前に座る女
それまで贋作の疑いがあるとされていたが、10年がかりの鑑定の結果、2003年になって真作と鑑定され、サザビースのオークション(2004年)で32億円で落札された。落札者は不明。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある同名の作品とは別作品。25×22cmという小さな作品で、2008年に日本で開催されたフェルメール展で展示された。
しかし専門家全員が真作と納得しているわけではない( = ランクB)。

一般的には美術界の多数意見に従って(A + B + 新発見 = B)の合計35点をフェルメール作品としています。このうち美術館所蔵の作品は34点(盗難中を除くと33点)ですが、2点以上を所蔵している美術館をあげると次の通りです。

 ◆5点:(米)メトロポリタン美術館
 ◆4点:(蘭)アムステルダム国立美術館
 ◆3点:(蘭)マウリッツハイス美術館
 ◆3点:(米)フリック・コレクション
 ◆3点:(米)ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(英)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
 ◆2点:(仏)ルーブル美術館
 ◆2点:(独)ベルリン絵画館
 ◆2点:(独)ドレスデン絵画館

別にフェルメールをたくさん持っていることが美術館の価値を決めるわけではないのですが、アメリカの3つの美術館だけで11点、全作品の約3分の1を保有しています(盗まれた1点を加えると12点)。ダ・ヴィンチがアメリカに1点しかないのとは大違いで、フェルメールが19世紀後半以降に "再発見" されたことを如実に物語っています。これらのうち、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA)にある3点は、

  『手紙を書く女』 (A)
  『天秤を持つ女』 (A)
  『赤い帽子の女』 (B)

であり、さらに NGA にはもう一枚、

  『フルートを持つ女』 (C)

があります。つまりNGAはランクA,B,Cが全部揃っているという珍しい美術館です。NGAは『フルートを持つ女』については「Attributed to Johanness Vermeer」として展示しています。「伝・フェルメール」という感じでしょうか。もちろん『赤い帽子の女』についてNGAは断固真作だと主張しています。以下はランクAの2点です。

A Lady Writing.jpg
ヨハネス・フェルメール
手紙を書く女」(1665頃)
(45cm×40cm)

この絵のような「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の女性をフェルメールは6点描いていますが、その中の1枚です。少し微笑んだ女性を、自然体で大変おだやかな雰囲気に描いています。机の上の小物の描き方も光っています。ちなみに「白テンの毛皮のついたレモン色のガウン」の他の5枚は、メトロポリタン、フリック・コレクション、アムステルダム、ベルリン、ロンドンのケンウッド・ハウスにあります。

Woman Holding a Balance.jpg
ヨハネス・フェルメール
天秤を持つ女」(1664頃)
(40cm×36cm)

各種の解説にありますが、この絵の画中画は「最後の審判」です。このブログでは、フランスのボーヌにあるファン・デル・ウェイデンの『最後の審判』を引用しました(No.116「ブルゴーニュ訪問記」参照)。その絵でも分かるのですが一般的に「最後の審判」の描き方は、上の方に再臨したキリスト、その下に秤をもった大天使ミカエル、その横(ないしは下)にミカエルによって天国と地獄に振り分けられた人間という構図です。

この絵はその大天使が女性によって隠されていて、その代わりに女性が天秤を持っている。天秤の皿の上には何も乗っていない(=何も描かれていない)ことが判明していて、女性が天秤のバランスをとっている(?)姿になります。机の上の真珠や金貨も意味ありげです。数々の解釈がなされてきたようですが、決定版はないようです。素人目には「女性が何か重大な決断をしようとしている、ないしは決断をすべきか迷っている」と見えますが、そうとも限らない。結局、絵を見る人にゆだねられているといっていいでしょう。


フラゴナール(1732-1806)


Young Girl Reading.jpg
ジャン・オノレ・フラゴナール
読書する娘」(1769頃)
(81cm×65cm)

この絵もワシントン・ナショナル・ギャラリーの有名絵画です。フラゴナールというと "ロココ" の画家であり、宮廷や貴族の恋愛模様を描いた、いわゆる "ロココ趣味" の絵で有名です。しかしこの絵はそれとは違って家庭内での "知的な" 情景であり、享楽的な恋愛模様とは対極にある画題です。

No.217「ポルディ・ペッツォーリ美術館」でルネサンス期のイタリアの横顔肖像画を4点とりあげました。しかしこのフラゴナールの横顔作品は、特定の人物の肖像画ではないでしょう。「女性の横顔の美」と「読書という行為」がうまく融合した作品になっています。

注目すべきは描き方で、なんとなく "印象派っぽい筆致" です。印象派は絵画史における革新だったわけですが、一般的にいってアートにおける革新は、全く新しいものが突然変異のように生まれるのではなく、それ以前の時代に萌芽があるわけです。印象派に関していうと、イギリスのターナーの絵はそういう感じがします。この『読書する娘』もそういった一枚だと思います。


ゴヤ(1746-1828)


Senora Sabasa Garcia.jpg
フランシスコ・デ・ゴヤ
セニョーラ・サバサ・ガルシア」(1806/11)
(71cm×58cm)

No.90「ゴヤの肖像画:サバサ・ガルシア」で引用した絵です。この絵の感想は No.90 に詳しく書いたので、ここでは省略します。ひとつだけ繰り返すと、この絵は「ワシントンのモナ・リザ」でしょう。年齢はずいぶん違いそうですが、この絵のモデルも既婚者です。明らかにモナ・リザを意識したポーズだし、表情の "微妙な複雑さ" がモナ・リザ的です。


アングル(1780-1867)


Madame Moitessier.jpg
ドミニク・アングル
モワテシエ夫人の肖像」(1851)
(147cm×100cm)

No.157「ノートン・サイモン美術館」で引用した絵です。アングルは、この絵(立像)の他に『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を描いています(ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある)。そして No.157 で書いたように、ピカソは『モワテシエ夫人の肖像(座像)』を下敷きにしてマリー = テレーズを描いたのでした。それが『本をもつ女』という絵です。『本をもつ女』はピカソが "アングルから影響を受けた" と自ら宣言しているような絵です。

Classical Head.jpg
そしてNGAの『モワテシエ夫人の肖像(立像)』ですが、この絵から伝わってくるのは夫人の大変に豊満な感じであり、また額から鼻筋がそのまま伸びている彫りの深い顔立ちです。この風貌から直感的に連想するのが、ピカソの "新古典主義の時代" に登場する人物像です。NGAが所有するピカソの作品(「Classical Head」1922)をあげておきます。このような顔立ちはギシリャ・ローマ彫刻によくあるし、ルネサンス期の彫像にもあります(たとえばミケランジェロのダビデ像)。しかしアングルのこの絵もピカソに影響を与えた一つだったのではないかと思います。


マネ(1832-1883)


The Tragic Actor.jpg
エドゥアール・マネ
悲劇役者」(1866)
ハムレットに扮するルビエール
(187cm×108cm)

No.36「ベラスケスへのオマージュ」で引用した絵です。その主旨は、マネがプラド美術館でベラスケスを見て感動し、そのベラスケスの『道化師 パブロ・デ・バリャドリード』を踏まえて描いたのがこの作品ということでした。

Masked Ball at the Opera.jpg
エドゥアール・マネ
オペラ座の仮面舞踏会」(1873)
(59cm×73cm)

『悲劇役者』は「黒」を強調した絵でしたが、この絵も強烈に印象づけられるのは黒服の「黒」です。NGAには別に『死せる闘牛士』というマネの絵がありますが、その絵も黒服が眼につきます。一連の「黒」はマネがスペインを旅行したときの影響だと考えられます。

NGAのサイトの解説によると、右から2番目でこちらを向いているブロンドの髪の紳士は画家自身だそうです。また、上の方に足が描かれていますが、これは『フォリー・ベルジェールのバー』(1881/82)を連想させます(No.155「コートールド・コレクション」参照)。

The Railway.jpg
エドゥアール・マネ
鉄道」(1873)
(93cm×112cm)

この絵はマネの有名作品です。サン = ラザール駅を描いたこの絵は、1898年にアメリカのハブマイヤー夫妻がパリの画商のデュラン = リエルから購入したものです。夫人のルイジーン・ハブマイヤーはメアリー・カサットの友人です。No.86「ドガとメアリー・カサット」に書きましたが、ルイジーンがメアリーの勧めで購入したドガのパステル画が「アメリカ人が初めて購入した印象派絵画」でした。

フィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』という本があります。著者はサザビーズの印象派・近代絵画部門のシニア・ディレクターを勤めた人で、印象派の受容の歴史を "画商" や "オークション" の視点から描いた興味深い本です。この本に、ルイジーン・ハブマイヤーがこの絵を購入した当時のことを回想した発言がのっています。以下に引用してみます。


ルイジーン・ハブマイヤーの回想

なぜ、この絵をほしいと思ったかですって? 子どもの顔がどうしたって見えないような絵を描いたマネを、なぜ許せたかと? かろうじて見えるだけの鉄道の線路や蒸気機関車のエンジンに、なぜお金を払うのかとお聞きになるのね? 子どもはぜんぜん可愛くないし、母親もまったく醜いし ・・・・・・ 仔犬すらも魅力的でないと、おっしゃるんでしょう。そんな絵に、なぜ私たちがこれほどのお金を払うのか、お知りになりたいのね。それだけのお金があれば、ゴージャスなアカデミック絵画も、イギリスの堂々たる肖像画も、あるいは素晴らしいオリエント趣味の絵も買えるでしょうから。

私の答えは、それがアート、アート、アートだから、ということよ。そこにあなたを魅了する力があるの、私たちを魅了すると同じように。作品があなたに語りかける声に耳をすまさなくてはいけないわ。マネが感じている感動にあなたも応えなくては。その感動が彼の心臓を揺さぶり、頭をいっぱいにして、そして彼の感情を揺り動かし、ヴィジョンをとぎすまさせ、カンヴァスに筆をおかさせているのよ。それがアート、アート、アートなのだと、申し上げておきましょうね。

・・・・・・・・・・・・

子どもの両肩にかかるドレスの輪郭線を描いたこの曲線。こんな素晴らしい線をほかにどんな絵で見られるでしょう。それに彼女の金色の髪の上に次第に降り注ぎ、愛らしい首に陰影をつけている光の素晴らしさも。頭の傾き、腕の動き、そしてむっちりした小さな手が鉄柵を押さえつけている様子。画面全体の大気や光が二人の姿を包みこみ、遠くの光景との距離感を生み出しているのをご覧なさいな。そして最後に、どうぞこの色彩を見て! これほど美しく調和に満ちたものを、あなたはご覧になったことがあるかしら?


一見すると奇妙な絵です。"屋外" で "現代" を描くという意味では印象派の絵と似ています。しかし肝心の鉄道はほとんど描かれず、子どもは向こう向き、誰かに気づいて読書を中断したような女性は母親でしょうが、親子はバラバラです。都会における家族、と考えていろいろと画家の意図を推測できると思いますが、そういう "深読み" にあまり意味はないのですね。どういう絵の見方をすべきか、それを語ったのが印象派と同時代のコレクター、ハブマイヤー夫人です。この回想に尽きていると思います。

マネの代表作である『草上の昼食』や『オランピア』はオルセー美術館の至宝ですが、発表当時は大スキャンダルになりました。否定するにしろ肯定するにしろ、大きな話題となった。しかしこの『鉄道』にはスキャンダラスなところは何もありません。結局、この絵をつまらないと思って見過ごすのか、それとも(ルイジーン・ハブマイヤーのように)感動するのかが、時代の分かれ目だったのでしょう。

ちなみに『草上の昼食』(1863)『オランピア』(1863)『鉄道』(1873)の3作品はいずれもヴィクトリーヌ・ムーランがモデルですが、マネが彼女をモデルに描いた最後の作品が『鉄道』です。


ホイッスラー(1834-1903)


The White Girl.jpg
ジェームズ・ホイッスラー
白衣の少女」(1862)
白のシンフォニー No.1
(213cm×108cm)

ホイッスラーはアメリカのマサチューセッツ州に生まれ、21歳のときにパリに居を構え、その後ロンドンに拠点を設けて活躍した画家です。この絵の「白のシンフォニー No.1」という副題ですが、「白のシンフォニー」は全部で3作あり、No.2 はテート・ブリテン、No.3 はバーミンガム大学付属美術館にあります。

この絵はその題名どおり画面の大部分を占める服の「白」が目立つ作品です。ドレス、手にしている百合の花、後ろのカーテン、敷物にさまざまな色調の白が使われています。まさに「白のシンフォニー」です。このように白に白を重ねる色の使い方はあまり見たことがなく、大変に斬新な手法です。この『白のシンフォニー No.1』は発表当時、大きなスキャンダルになったようです。2014年-15年に日本で開催された「ホイッスラー展」の図録には次のようにありました。


最初の作品である《白のシンフォニー No.1》は、ホイッスラーの愛人であったジョー・ヒファーナンが一輪の百合の花を持ち、白いカーテンの前に白いドレスをまとって立っている全身肖像画である。厚塗りのパレットにはクールベの影響が現れているが、白の上に白を塗り重ねた色彩のアレンジメントともいえるこの作品は、「ジョーがラファエル前派の究極の付帯物である白百合を握り、英国の最もアヴァンギャルド的な作品である」と評されたように、ホイッスラーはある種のシンボリズムを表現しようとした。

ロイヤル・アカデミー展とサロンに落選したものの、翌年1863年の落選展で展示され、エドゥアール・マネの《草上の昼食》と話題を二分し、大きな反響とスキャンダルを巻き起こした。白地の背景に同色である白い衣服を着た女性を描いたというその表現が批判されただけでなく、ヴィクトリア朝の英国において、女性がこのように髪の毛を結わずにいるのは、寝室のみにおいてであり、純潔の象徴である白百合の花を手に持ち、ゆるやかな白いドレスを着たこのような姿を、人々は処女喪失を意味すると容易に理解することができた

小野文子(信州大学 准教授)
「ホイッスラー展(2014-15)」図録

マネの『草上の昼食』がスキャンダラスというのは理解できますが、この『白のシンフォニー No.1』がスキャンダルだとは、現代人はちょっと想像できません。今から150年前のパリ・ロンドンの画壇では絵のテーマに対して数々の制約があり、それを打ち破ろうとする画家がいたということでしょう。それが上の評言に出てくるクールベであり、マネであり、そしてホイッスラーだった。この絵のモデルとなったジョー(ジョアンナ)・ヒファーナンはクールベの『世界の起源』(オルセー美術館)のモデルとも言われる人で、それも象徴的です。

比較のために同じモデルを描いた『白のシンフォニー No.2』を引用しておきます。この絵はホイッスラーによくあるジャポニズムの影響下にある作品で、磁器の壷、朱色の椀、団扇といった典型的な日本的アイテムが配置されています。描かれている花はアザリア(ツツジ)で、この花も東アジア原産です。ちなみにワシントン D.C.のフリーア美術館にはホイッスラーがデザインしたピーコック・ルーム(孔雀の間)があり、『磁器の国の姫君』というジャポニズム作品が展示されています。

The Little White Girl.jpg
ホイッスラー
白衣の少女」(1864)
白のシンフォニー No.2
テート・ブリテン


ホーマー(1836-1910)


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ウィンスロー・ホーマー
」(1877)
(97cm×59cm)

ホーマーはボストン生まれで、アメリカの身近な自然や生活を描くのを得意とした画家です。

頬を紅潮させた女性が紅葉した木の枝を持ち、ちょっと挑戦的な視線で画家の方を向いています。何となく、この人の "勝ち気" な性格を思わせます。つまり、この絵をパッと見ると特定の人物の肖像画だと感じる。しかし題名は「秋」です。

背景は何らかの傾斜地、ないしは山道でしょうか。スカートの裾を持ちペチコートをのぞかせている姿は、今しがた坂を降りてきたように見えます。そして一面に描かれた紅葉がこの絵の特色です。背景は明確ではなく、あえて特定の景色にしなかった感じがします。秋のイメージを具現化したのでしょう。だとすると女性も、紅葉した木の枝を携えて "秋" から抜け出してきた「秋の化身」のようにも感じられる。よく西欧絵画に季節を擬人化して描いた絵がありますが、この絵もその流れにある一枚かもしれません。

なお、今回は人物画に焦点を当てたのですが、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには、ホーマー最晩年の『右と左』(1909)という重要作品があります。ハンターに撃たれる瞬間の鴨を描いた絵ですが、ジャポニズムの影響も感じる傑作です。


セザンヌ(1839-1906)


Boy in a Red Waistcoat.jpg
ポール・セザンヌ
赤いチョッキの少年」(1888/90)
(90cm×72cm)

マネの『鉄道』のところで引用したフィリップ・フック著『印象派はこうして世界を征服した』によると、この絵は NGA の設立者であるアンドリュー・メロンの息子、ポール・メロンが、1958年、ロンドンのサザビーズの競売で、当時の絵画の最高価格である22万ポンドで落札した作品とあります

赤いチョッキの少年』は、セザンヌの絵によくある連作(4点)です。1点は前向きに座っている姿で、バーンズ・コレクションのメインルーム(Room1)の North Wall にあります(No.95「バーンズ・コレクション」参照。分かりにくいですが)。1点は座って肘をついている姿で、チューリッヒのビュールレ・コレクションにあります(赤いチョッキでは最も有名)。また横向きに座っている絵がニューヨーク近代美術館(MoMA)にあります。

このNGAの絵をみても分かるのですが、さまざまな色が使われ、形が組み合わされています。色の実験、形の実験をしているようで、まさにセザンヌがモダン・アートを先導した画家だと分かります。

Harlequin.jpg
ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
(101cm×65cm)

No.114「道化とピエロ」で、ドランとピカソのアルルカン(ないしはピエロ)の絵を紹介したときに "セザンヌも描いている" と書きましたが、その絵がこれです。これは、箱根のポーラ美術館にある『アルルカン』とほぼ同じ構図です。実は『アルルカン』は計4点の連作で、1点は「ピエロとアルルカンの絵」(プーシキン美術館にある《マルディ・グラ》)、3点が「アルルカンだけの絵」で、そのうちの1枚がポーラ美術館、1枚がNGAというわけです(もう1枚は個人蔵)。

Mardi-Gras(Pushkin).jpg
ポール・セザンヌ
マルディ・グラ」(1888/90)
(プーシキン美術館)

Harlequin(Pola).jpg
ポール・セザンヌ
アルルカン」(1888/90)
(ポーラ美術館)
(62cm×47cm)

ポーラ美術館に敬意を表して、ポーラ美術館のサイトにある『アルルカン』の解説を引用します。もちろん「ポーラ版アルルカン」についての解説ですが「NGA版アルルカン」についても当てはまると思います。


(ポーラ美術館版・アルルカンの解説)

セザンヌは1880年代から1890年代初頭、風景や静物の主題を探究した後、「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」といった人物画の連作を制作する。彼は空間における人体の形態表現に取り組んだ。

本作品は《マルディ・グラ》(1888年、国立プーシキン美術館、モスクワ)を含む「アルルカン」を描いた4点のうちの1点である。謝肉祭の最終日でカーニヴァルが行なわれる謝肉の火曜日を意味するこの《マルディ・グラ》には、16世紀にイタリアからフランスに伝わった即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物アルルカンとピエロに扮した二人の若者が描かれている。アルルカンに扮しているのはセザンヌの息子ポールであり、ピエロに扮しているのは靴屋の息子でポールの友人ルイ・ギョームである。後年ポールは、1888年にパリのヴァル=ド=グラース通りのアトリエでモデルを務めたと語っている。

本作品では、アルルカンに扮したポールの姿だけが描かれている。灰色を基調とし、緑、青、紫、褐色が混ぜられた壁面と赤味がかった床は、赤と黒の菱形模様の衣装を着て帽子をかぶり、左手にバトンを持つ彼の姿を際立たせている。《マルディ・グラ》では二人の顔は描き込まれているが、本作品ではポールの表情は、まるで仮面のように単純化されている。彼は右足を一歩前に踏み出しているが、この頭部と足が画面からはみ出すほどに前進する動きは、静的な画面全体の構成を乱している。

(ポーラ美術館のWeb siteより)

『赤いチョッキの少年』と『アルルカン』のほかにNGAが所蔵するセザンヌの人物画に、画家の父を描いた有名な作品がありますが省略します。


モネ(1840-1926)


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クロード・モネ
パラソルの女」(1875)
(100cm×81cm)

No.115「日曜日の午後に無いもの」で引用した絵で、モネの妻・カミーユと息子のジャンを戸外で描いた作品です。印象派の代表作の一つであり、まさに "印象派がギッシリと詰まった" 作品でしょう。逆光の感じの出し方、雲の描き方などは秀逸です。

この絵の一つのポイントは、NGAが所蔵するヴァン・ダイクの『伯爵夫人 エレナ・グリマルディ・カッタネオ』の肖像画と同じく、"パラソル" です。この2つの絵には250年の時の経過があります。産業革命を経たフランスではパラソルが庶民でも手に入るようになり、パラソルを持って公園や戸外を散策するのが当時のパリの女性の最先端の風俗だった。そういう妻を(おそらく)幾分誇らしげに描いたのがこの絵でしょう。なお、パラソルがトレンドだったことは、この絵の10年後に描かれたスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を見ると理解できます(No.115「日曜日の午後に無いもの」参照)。


ルノワール(1841-1919)


The Dancer.jpg
オーギュスト・ルノワール
踊り子」(1874)
(143cm×95cm)

この絵もルノワール作品では有名な絵です。一つ思うのは「ドガの踊り子」とのあまりの相違です。同じ踊り子をモチーフにしながら、そこから引き出されたものが全く違う。絵画のおもしろさでしょう。


カサット(1844-1926)


メアリー・カサットの作品については、今まで4回に渡って書きました(No.86No.87No.125No.187)。従って紹介した作品も多いのですが、そのうち4点が NGA の作品です。まずそれを順に振り返りたいと思います。

Mary Cassatt - Little Girl in a Blue Armchair (Renewal).jpg
メアリー・カサット
青い肘掛け椅子の少女」(1878)
(90cm×130cm)

この絵については No.87「メアリー・カサットの少女」、および No.125「カサットの少女再び」で詳細な感想を書いたので省略します。ドガの手が入っているとされる絵で、そのあたりの事情も No.125 に書きました。No.125ではこの絵の革新性についても書いたのですが、NGAの公式ガイドブックには、この絵を評して、

  少女がいなければ、ほとんど抽象画

とあります。なるほど、その通りだと思います。

Girl Arranging Her Hair.jpg
メアリー・カサット
髪を整える女」(1886)
(75cm×63cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」の「補記」で引用した絵です。カサットが「ドガを見返してやろう」と発奮して描いた、という主旨でした。

The Boating Party.jpg
メアリー・カサット
舟遊び」(1893/94)
(90cm×117cm)

No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」で引用しました。舟の縁、帆、身体などの各種の線が渦巻きのようになって最後は子どもの顔に収斂していく構図です。ベタに塗ったような描き方は浮世絵の影響を感じます。カサットがいかに浮世絵に魅せられたかを No.187「メアリー・カサット展」に書きました。

Children Playing on the Beach.jpg
メアリー・カサット
浜辺で遊ぶ子供たち」(1884)
(97cm×74cm)

No.187「メアリー・カサット展」で引用した絵です。『青い肘掛け椅子の少女』と同じで水平線を極端に上にとり、斜め上から俯瞰した構図はいかにもカサット的です。また子どもが見せる愛らしさの一瞬をとらえているのもカサットならではでしょう。

今までこのブログで取り上げた絵だけを再掲するだけでは能がないので、NGAにあるもう一枚の作品を引用しておきます。この絵も "子どもが見せるある表情" が的確にとらえられています。大きめの麦藁帽子をかぶせられた女の子が「お母さん、わたし、こんなのかぶるの? いやだな」と言っているような感じです。

Child in a Straw Hat.jpg
メアリー・カサット
麦藁帽子の子ども」(1886頃)
(65cm×49cm)


ゴッホ(1853-1890)


Self-Portrait.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ
「自画像」(1889)
(58cm×45cm)

ゴッホが描いた36枚の自画像のうち最後の自画像といわれる絵で、サン・レミの病院での作品です。この作品はやはり "色" です。フォービズムに始まる20世紀絵画を先導した感じです。


サージェント(1856-1925)


Miss Mathilde Townsend.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
ミス・マチルド・タウンゼント」(1907)
(153cm×102cm)

この絵のモデルは、アメリカの「エリー&ピッツバーグ鉄道」の社長の娘で、父親の退職後に一家は1892年ワシントンDCに移り、彼女はそこで社交界の花形になったそうです(1999年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の図録による)。描かれた1907年というとフォービスムやキュビズムの絵画が描かれているころです。その時代にこういった「社交界絵画」には批判もあったようで、サージェントはこの絵を最後に肖像画をやめて風景画に専念したとあります。つまりサージェント最後の肖像画です。

しかし絵の価値は「何を描くか」ではなく「どう描いたか」です。「社交界絵画」だから "悪い" とか "時代遅れ" という批判はあたりません。この絵はスピード感が溢れる筆遣いにもかかわらず、「美人で、華やかで、ゴージャスで、いかにも幸せそうな富豪の娘」という感じが大変よく出ています。


ピカソ(1881-1973)


ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはピカソの「青の時代」の油彩画が3点あります。以下にその3点を掲げますが、最初の2点はNo.216「フィリップス・コレクション」で引用しました。フィリップス・コレクションが所蔵しているピカソの『青い部屋』(=「青の時代」の始まりの作品)との対比のためでした。

Le Gourmet.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
(93cm×68cm)

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パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
(105cm×69cm)

Lady with a Fan.jpg
パブロ・ピカソ
扇子を持つ女性」(1905)
(100cm×81cm)

我々は普通、ピカソの「青の時代」というと、絵のテーマとして「社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち」か「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁、孤独などの感情表現」、あるはその両方だと考えるわけです。しかし最初の『グルメ』はそうではありません。これは「青の時代」の初期作品であり、"食いしん坊" の女の子を描いていて、ユーモアを感じます。

次の『悲劇』は、いかにも「青の時代」の絵です。何らかの悲劇におそわれた漁師の家族でしょうか。子供が父親を思いやって手を差し伸べているのが印象的です。エル・グレコの「ラオコーン」のところに「ピカソはエル・グレコに影響された」という話が出てきましたが、それも分かるような "引き伸ばされた" 人物表現です。

3番目の『扇子を持つ女性』は「青の時代」の最後期の作品です。ここまでくると『悲劇』のような表現・テーマとはまた違います。この女性の姿で連想するのは何かの宗教に関連した像、仏像とかインドや古代エジプトの神の像です。あるいは何かの儀式か舞踊だとも思える。女性は無表情で、動きを止めて静止していると感じます。その手は『悲劇』の少年の両手と大変よく似ている。そういった全体の造形を追求した絵なのでしょう。この3作品を見ると「青の時代」にも多様な表現があることがわかります。



さらにNGAには「青の時代」の次の「バラ色の時代」の代表作があります。それが「サルタンバンクの家族」という大作です。

Family of Saltimbanques.jpg
パブロ・ピカソ
サルタンバンクの家族」(1905)
(213cm×230cm)

サルタンバンクとは特定に一座の属さない旅芸人です。この絵は No.114「道化とピエロ」で引用した『曲芸師と若いアルルカン』バーンズ・コレクション Room19 East Wall にある絵)によく似ています。両方とも家族を描いていて(バーンズ作品の方は兄と弟)、アクロバット(=曲芸師。赤い服)とアルルカン(菱形のパッチワークのような装束)が登場している。両方とも背景が戸外です(バーンズ作品の場合は街)。

この絵全体に静寂感が漂っています。少し曖昧に描かれた荒涼とした土地は、家族が世の中で孤独であることを暗示しているようです。6人は互いに眼を合わすことはなく、それぞれ独立しています。しかしアルルカン(ピカソ自身だと言われる)が妹の手を握っていて、家族の間の信頼や気遣いが暗示されている(バーンズ作品もそうです)。ピカソはこの時代以降、道化、ピエロ、サルタンバンクといったモチーフを折りに触れて描くわけですが、この作品は既にそれらの全てを包括しているかのようです。最初の時点で出された最終回答、そんな感じがします。


モディリアーニ(1884-1920)


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アメディオ・モディリアーニ
赤毛の女」(1917)
(92cm×61cm)

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モディリアーニ
赤毛の女
(バーンズ・コレクション)
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの絵とよく似ているが、こちらの方はイブニング・ドレス姿である。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーにはモディリアーニの作品が揃っています。『スーティンの肖像』、『キスリング夫人の肖像』、『赤ん坊を抱いたジプシーの女』などが有名ですが、ここでとりあげたのは『赤毛の女』です。この絵と非常に似た絵がフィラデルフィアのバーンズ・コレクションにあります。題名も同じ『赤毛の女』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 10 West Wall にある)。おそらく同じモデルを描いたのだと思われます。椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿がそっくりです。上の絵もそうですが、モデルになった赤毛の女性の可愛らしさと、ちょっぴりなまめかしい(ないしはコケティッシュな)感じがよく出ていると思います。

さらに「椅子の背に片腕をかけてリラックスしている姿」で思い出すのは、バーンズ・コレクションの『白い服の婦人』です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room 22 South Wall にある)。また、ノートン・サイモン美術館にある『画家の妻、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像』も似たポーズです(No.157「ノートン・サイモン美術館」参照)。いずれの絵も頭から胴にかけての逆S字形の曲線と腕の線のバランスがいい。デッサンで線を引く天才、モディリアーニの特質がよく現れていると思います。




その他、このブログで過去に引用した作品として、絵画ではありませんがドガの『14歳の小さな踊り子』のオリジナル塑像があります。この作品は No.86「ドガとメアリー・カサット」でとりあげました。また No.86 ではドガの「障害競馬 - 落馬した騎手」にも触れました(カサットが初めて見たドガの絵とされる)。

今回は人物がテーマになっている絵だけに絞ったのですが、今まで現れなかったアーティストの重要作品(人物がテーマではない絵)を2つあげておきます。一つはジョアン・ミロの『農場』(1921-22)で、画家としての初期、まだミロが無名のときの作品です。この絵は文豪のアーネスト・ヘミングウェイが友人に借金までして購入したことで有名です。ヘミングウェイは、スペイン内戦を舞台にした「誰がために鐘は鳴る」を書いたほどスペインに深く関わった作家です。

アメリカ人画家、アンドリュー・ワイエスについては No.150「クリスティーナの世界」No.151「松ぼっくり男爵」No.152「ワイエス・ブルー」の3回に渡って書きましたが、『海からの風』(1947)というワイエスの代表作の一つがNGAにあります。



ワシントン・ナショナル・ギャラリーは西館(最初に建設された本館)と東館(新館)に分かれていて、東館にはモダンアートが収集されています(ピカソはここにある)。そういった作品も含め、美術好きなら是非訪れてみたい美術館です。特に近代絵画のコレクションです。たとえば、2011年に日本で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」のキャッチ・コピーは「これを見ずに、印象派は語れない」でしたが、決して大げさではありません。

さらにワシントンにはフィリップス・コレクションがあり(No.216「フィリップス・コレクション」参照)、ホイッスラーのピーコック・ルームがある、東洋美術のフリーア美術館もあります(No.85「洛中洛外図と群鶴図」参照)。ほかにも美術館、博物館が多い。東京がそうであるように、アメリカの首都ワシントンも "アートの都市" と言っていいと思います。




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No.217 - ポルディ・ペッツォーリ美術館 [アート]

前回の No.216「フィリップス・コレクション」は、"コレクターの私邸に個人コレクションを展示した美術館" でしたが、そのような美術館のことをさらに書きます。前回も名前をあげた、ミラノにある「ポルディ・ペッツォーリ美術館」です。


ミラノ中心部の「私邸美術館」


ポルディ・ペッツォーリ美術館は、ミラノの貴族で美術収集家であったポルディ・ペッツォーリのコレクションを、その私邸に展示したものです。この私邸は美術品とともに、19世紀末にミラノ市に寄贈されました。

ミラノ中心部.jpg
JALのサイトにあるミラノの中心部、東西約2kmの範囲の地図。主な美術館・博物館の位置が示されている。
(site : www.jal.co.jp)

ポルディ・ペッツォーリ美術館.jpg
ポルディ・ペッツォーリ美術館
美術館はミラノ市の中心部にある。この写真で人が集まっているあたりにエントランスがある。
(site : www.grantouritalia.it)


ポルディ・ペッツォーリ美術館-2.jpg
(site : www.amicimuseo-esagono.it)

場所はミラノという "歴史ある都市のど真ん中" で、そこがワシントン D.C. のフィリップス・コレクションと違うところです。フィリップス・コレクションは設立後に建て増しがされていて、2棟が連結された建物になっていますが、ミラノ中心部ではそれもできないでしょう。私邸としては大邸宅ですが、ミラノ、ないしはイタリアの他の著名美術館に比べるとこじんまりしています。

ここに収集されているのは18世紀以前の絵画をはじめ、彫刻、家具・調度品、ガラス製品、陶磁器などの工芸品、タペストリーなどです。訪問者としては目当ての絵を見に行くというのではなく、イタリア貴族の館の雰囲気が濃厚に漂うなかで各種ジャンルの収集品を順々に味わう、というのが正しい態度でしょう。

しかしこの美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あります。その2点だけを見に行ったとしても、観光の時間をいた "モト" は十分にとれるでしょう。貸し出し中ではないという前提ですが・・・・・・。以下はその2点の絵画作品の話です。


ボッティチェリ:書物の聖母


書物の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
聖母子(書物の聖母)」(1480/81)
58cm×40cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

聖母マリアが幼な子キリストに祈祷書の読み方を教えている図です。幼な子は受難を予告する "茨の冠" と "3本の釘" を手にしています。小さな絵ですが、ラピスラズリの美しい青とボッティチェリ独特の優美な曲線が大変に印象的です。

ボッティチェリはたくさんの聖母子像を描いていますが、その中から傑作を3つだけあげるとすると、この『書物の聖母』と、フィレンツェのウフィツィ美術館にある『マニフィカートの聖母』『柘榴ざくろの聖母』でしょう。これがベスト・スリーだということは多くの人が納得するのではないでしょうか。ウフィツィの2作品はいずれも丸型で、その画像は以下です。

マニフィカートの聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(マニフィカートの聖母)」(1483/85)
直径118cm
ウフィツィ美術館

柘榴の聖母.jpg
サンドロ・ボッティチェリ
聖母子(柘榴の聖母)」(1487頃)
直径143cm
ウフィツィ美術館

ちなみに「マニフィカート」とは「頌歌しょうか」という意味で、祈祷書を開いたところが「マリア頌歌」なのでその名があります。また「柘榴」はキリストの受難ないしは復活の象徴です。

ウフィツィの2作品と比較しつつ『書物の聖母』をみると、『マニフィカートの聖母』と大変よく似ています。書物を開いているところとマリアとキリストの位置関係です。ただ『書物の聖母』のマリアの姿は、我が子をいつくしむのに加えて、憂いを含んだような神秘的な雰囲気がある。3作品では最も "聖母" に近い感じでしょうか。『マニフィカートの聖母』『柘榴の聖母』と、制作年が下るにつれてマリアの姿も "人間的に" なっていく感じです。『柘榴の聖母』となると、我が子の運命を予感してしまったような "うつろな" 表情です。

この3作品を比べてみても、ポルディ・ペッツォーリの『書物の聖母』は "珠玉の作品" と呼ぶにふさわしいものです。


ポッライオーロ:若い貴婦人の肖像


ポルディ・ペッツォーリ美術館にはルネサンス期の絵画の傑作が2点あると書きましたが、もう1点が、ピエロ・デル・ポッライオーロの作品です。

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of Young Woman.jpg
ピエロ・デルポッライオーロ(1443-1496)
若い貴婦人の肖像」(1470頃)
46cm×33cm
ポルディ・ペッツォーリ美術館

ピエロ・デル・ポッライオーロ(1443-1496。生年の1443年はポルディ・ペッツォーリ美術館での表示)はフィレンツェ出身の画家です。兄のアントニオも画家で、よく兄弟で仕事をしました。

当時はこういった "横顔の肖像画(=プロフィール)" が一般的だったようで、男性の絵もたくさんあります。『書物の聖母』を描いたボッティチェリも、当時のフィレンツェで絶世の美女と言われたシモネッタ・ヴェスプッチの横顔を描いていて、そのうちの1枚は日本の丸紅株式会社が所有していることで有名です(= 日本にある唯一のボッティチェリ)。

  なお、横顔は "Profile" で、横顔を描いた肖像画を "Profile Portrait" と言いますが、日本語で "プロフィール" と言うと別の意味になるので、以降、横顔肖像画と書きます。

ポッライオーロの絵に戻りますと、これは肖像なので『書物の聖母』以上に小さな絵です。髪の毛、真珠のアクセサリ、衣装が精緻に描かれていますが、それ以上にこの絵は "女性の横顔の美しさ" をダイレクトに表現しています。ある種の理想化があるのかもしれませんが、だとしても一度見たら忘れられない印象を残す絵です。



この美術館は、数々の美術品を、それが本来あるべき場所で見学できる美術館です。ここに飾られた18世紀以前の品々は、まさにポルディ・ペッツォーリ邸のようなところを飾るために制作されたからです。「本来あるべき場所で美術品を見学する」を念頭においてここを訪問するのがいいと思います。


横顔の美、ベスト作品


ここからはポルディ・ペッツォーリ美術館とは直接関係のない余談です。ピエロ・デル・ポッライオーロの "横顔肖像画" をあげたので、同様の女性の肖像で素晴らしいと思う作品を3点あげます。ポルディ・ペッツォーリの作品にこの3点を加えた計4点が、横顔肖像画(女性)の最高傑作だと思います。

Antonio del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady.jpg
アントニオ・デルポッライオーロ(1429/33-1498)
若い女性の肖像」(1465頃)
ベルリン絵画館

ピエロ・デル・ポッライオーロの兄の作品で、ベルリンにあります。全体の感じがポルディ・ペッツォーリの絵とよく似ています。兄弟合作かもしれません。ただ、この絵の女性の方が一層おだやかで柔和な感じがします。女性の性格まで見通して描かれたかのようです。

ベアトリーチェ・デステの肖像.jpg
ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディス(1455-1508)
ベアトリーチェ・デステの肖像」(1490)
アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)

ポルディ・ペッツォーリ美術館と同じミラノに、アンブロジアーナ絵画館があります。ここはミラノ観光の中心、ドォーモの前の広場の近くです。ここには、カラバッジョの『果物籠』(必見。No.157「ノートン・サイモン美術館」に画像を掲載)、ダ・ヴィンチの『楽士の肖像』、ボッティチェリの『天蓋の聖母』、ラファエロの『アテネの学堂の下絵』(完成作はバチカン教皇庁のラファエロの間)などがありますが、上に掲げた『ベアトリーチェ・デステの肖像』も必見です。ドォーモまで行ったからには、横顔肖像画(女性)のベスト4の一つを見逃す手はありません。

ジョバンニ・アンブロジオ・デ・プレディスはミラノの画家で、ミラノ時代のダ・ヴィンチと一緒に仕事をしたことがあるようです。この絵もダ・ヴィンチの手が入っているのではと言われています。ベアトリーチェ・デステ(1475-1497)はミラノ公、ルドヴィーゴ・スフォルツァの妃です。描かれた年からすると15歳~16歳ころの肖像ということになりますが、その頃に婚約・結婚したといいます。少女っぽさが少し残る中で、気品に溢れている姿です。

最後はマドリードにある絵で、ティッセン・ボルネミッサ美術館の "顔" となっているギルランダイヨの作品です。この絵については、No.167「ティッセン・ボルネミッサ美術館」に感想を書いたので、ここでは省略します。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1448-1494)
ジョヴァンナ・トルナボーニの肖像」(1489/90)
ティッセン・ボルネミッサ美術館(マドリード)



これら4つの横顔肖像画(プロフィール・ポートレート)を見て気づくことが3つあります。まず、すべて左向きの顔だということです。もちろんすべての横顔肖像画が左向きではなく、右向きの肖像もあります(たとえば丸紅が所有しているボッティチェリ)。しかし数としては圧倒的に左向きが多いように思います。このブログの過去の例だと、アンドリュー・ワイエスの『ガニング・ロックス』も左向きです(No.151「松ぼっくり男爵」にポスター画像を掲載)。

これは何か理由があるのでしょうか。コインの王様の肖像にならったのか(コインの肖像も両方あるはず)、それとも多くの画家は右利きなので左向きの方が描きやすいのか。是非その理由を知りたいものです。



4つの横顔肖像画で気づくことの2つ目は、横顔であるにもかかわらず描かれた人の性格や内面をよく捉えていると感じることです。もちろん本当の性格がどうだったか、それは不明です。ポッライオーロ兄弟の2作品は誰を描いたのかさえわかりません。しかしこれらの肖像は、本当かどうかは分からないが、人の性格や内面をよく捉えていると鑑賞者が感じてしまう絵なのです。これが肖像画の傑作と言われる作品のポイントでしょう。

その典型のような絵が、No.19「ベラスケスの怖い絵」でとりあげたベラスケスの『インノケンティウス十世の肖像』です。中野京子さんはここに描かれたローマ教皇について、


どの時代のどの国にも必ず存在する、ひとつの典型としての人物が、ベラスケスの天才によって、くっきりと輪郭づけられた。すなわち、ふさわしくない高位へ政治力でのしあがった人間、いっさいの温かみの欠如した人間。

中野京子「怖い絵」(朝日出版社 2007)
No.19「ベラスケスの怖い絵」での引用を再掲

と書いています。絵を見る人にそう感じさせる肖像画なのです。もちろん上に掲げた4つの横顔肖像画を見て "人物の内面" を感じる程度はさまざまです。しかし程度の差はあれ、鑑賞者に印象づける人物の内面・性格・パーソナリティが肖像画の価値を決める。そういう風に思います。



4つの女性の横顔肖像画を見て感じる3番目は、女性の美しさの1つのポイント、そして大きなポイントが "横顔の美しさ" だろうということです。15世紀のイタリアの画家は(そして当時のイタリア人は)それがわかっていた。それは今でも正しいと思うのです。現代日本でもありますよね。横顔のきれいな女優さんと言われる人が・・・・・・。

ここからは完全な余談になりますが、直感的に思い出すのが、まだ記憶に新しい大塚製薬のカロリーメイトのCM・広告で、満島ひかりさんが出演したものです(2012年度秋冬~)。このCMは徹底的に満島さんの横顔にこだわっています。動画では中島みゆきさんの「ファイト!」を歌う横顔のショットだったり(コピーは "どどけ、熱量")、静止画像の広告も横顔です。秀逸なのは本物のチーターと満島さんの「横顔のツーショット」です。

満島ひかりとチーター.jpg

この画像を見て確信するのですが、CM制作者はネコ科猛獣の横顔の美しさをよく分かっていたのだと思います。美しさの意味は人間とは全く違いますが・・・・・・。チーターを満島さんの引き立て役にしたのでありません。満島さんとチーターを勝負させた、ないしは互いに互いを引き立てるようにしたのです。このCMの制作者が "満島さんの横顔" をあるときに "発見" し、是非ともCMにしたいと思った、その熱意が伝わってきます。

もちろんこの広告以外にも横顔に焦点をあてたポスターや広告はたくさんあるのですが、21世紀の日本だから写真であり、動画であり、TV-CFです。しかしそんなものが全くない15世紀のイタリアでは、才能のある画家が描く肖像画しかなかった。4つの横顔肖像画に共通しているのは、いずれも高貴な女性か裕福な女性だということです。でないと高価な肖像画が描かれないからです。そういう人たちは結婚も「お見合い」であり、いわゆる「お見合い写真」のように肖像画が使われたという話を読んだことがあります。そういう極めて大切な絵に横顔を描く・・・・・・・。

4つの横顔肖像画と満島さんを並べてみて、人間の感性は時代と国を越えて類似している部分が多々あると思いました。




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No.216 - フィリップス・コレクション [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで7回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン
  No.202ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館オランダ:ロッテルダム

の7つです。今回はその継続で、アメリカのワシントン D.C.にあるフィリップス・コレクションを取り上げます。


フィリップス・コレクション


フィリップス・コレクションが所蔵する絵について、今まで2回とりあげました。まず No.154「ドラクロワが描いたパガニーニ」では、ドラクロワの『ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』という作品について、中野京子さんの解説を中心に紹介しました。

ヴァイオリンを奏でるパガニーニ.jpg
ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
ヴァイオリンを奏でるパガニーニ』(1831)
フィリップス・コレクション
(site : www.phillipscollection.org)

この絵は「大アーティストが描いた大アーティスト」であり、パガニーニの音楽の本質までとらえているという話でした。さらにその次の No.155「コートールド・コレクション」ではセザンヌの『サント=ヴィクトワール山』を取り上げています。

Mont Sainte-Victoire.jpg
ポール・セザンヌ(1839-1906)
サント=ヴィクトワール山」(1886/87)
La Montagne Sainte-Victoire(1886/7)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

これはコートールド・コレクションにある『サント=ヴィクトワール山』との比較対照のためです。両方の絵とも近景に松の木があるのが特徴で(コートールドの絵は1本の松)、松の枝の形と山の稜線がピッタリ一致することを含めて浮世絵の影響(= 北斎の富嶽三十六景)を感じるという話でした。



今回はこれらの絵を所蔵しているフィリップス・コレクションについて、ほかにどんな絵があるのか、そのごく一部ですが紹介したいと思います。フィリップス・コレクションは鉄鋼業で財をなしたフィリップス家の次男、ダンカン・フィリップス(1886-1966)が1921年に開設した美術館で、ダンカンの邸宅がそのまま美術館になっています。開館当初は237点の絵画作品でしたが、その後増え続け、現在所蔵しているアートは約3000点だそうです。

Phillips_Collection.jpg
フィリップス・コレクション
2つの建物が連結されて美術館になっている。入り口は奥の方の建物にある。


ルノワール


この美術館の "顔" となっている絵が、ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』(1880/81)です。フィリップス・コレクションと言えばこの絵、ということになっています。

Luncheon of the Boating Party - Renoir.jpg
ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
舟遊びをする人々の昼食」(1880/81)
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

パリの西の郊外、シャトゥーの町のセーヌ川に浮かぶ島は "印象派の島"(アンプレッショニスト島)と言われ、数々の印象派の画家が訪れたところです。ルノワールはここのレストラン「メゾン・ラ・フルネーズ」の常連客でした。ここのテラス席ので光景を描いた作品です。画面に登場する14人はすべてルノワールの友人や知人で、全員の名前が特定されています。一人だけあげると、画面右下に座っている男性は画家であり印象派の後援者でもあったカイユボットです。

この絵は "屋外の光の中での人物群" を描いたという意味で、この5年前に描かれた『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』に似ていますが、郊外に出かけて舟遊びに興じるという当時最先端の "レクレーション" を描いていて、より印象派っぽい感じがします。二つの対角線を基本とする構図が心地よく、背景の草木と人物群とテーブルの上の食器を異なる筆致で描き分けているのも特徴的です。ルノワールを代表作を1枚だけあげるとすると、時代の先端の雰囲気を伝えているという意味でこの絵をあげるのもアリだと思います。


フィリップス・コレクションの名画


 悔悛する聖ペテロ 

まず宗教画ですが、フィリップス・コレクションには『悔悛する聖ペテロ』と題した絵が2点あります。2つとも超有名アーティストの作品で、エル・グレコとゴヤです。2枚の絵の対比が鮮明なのでここで取り上げます。

エル・グレコ:悔悛する聖ペテロ.jpg
エル・グレコ(1541-1614)
悔悛する聖ペテロ」(1600/1605)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ゴヤ:悔悛する聖ペテロ.jpg
フランシス・ゴヤ(1746-1828)
悔悛する聖ペテロ」(1820/1824)
The Repentant St.Peter
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

今までこのブログで取り上げたキリスト教関係の宗教画はマグダラのマリアに関するものでした(No.118「マグダラのマリア」No.157「ノートン・サイモン美術館」のカニャッチの絵)。いずれも "悔い改めた罪ある女(娼婦)" というテーマですが、それは聖書とは無縁の "創作物語" を図像化したものでした。

しかし上の2作品は違って、聖書にもとづく絵であり、聖書を知っていれば理解できます。ペテロが「イエスを知らない」と否認したことを悔いる場面です。2つともペテロの代表的なアトリビュートである鍵を持っています。エル・グレコの聖ペテロは、ほぼ同じポーズの作品が6点ほどあるといいます。その作品はキリストの図像化によくあるような人物の風貌であり、いかにも使徒・聖人という感じに溢れています。エル・グレコなりの細身の顔の表現を割り引いたとしても、このような感じが一般的な使徒・聖人像でしょう。

一方のゴヤの方は「腕っぷしの強い漁師のおじさん」という仕上がりです(ペテロは漁師)。ゴヤはスペインの宮廷画家なので使徒の作例を熟知しているはずですが、この絵はあえて一般的な聖ペテロ像の真逆を行った感じがします。しかしキリストの徒であることを否認した "前科" があるという意味では、それにふさわしい人間っぽさがあるとも言える。フィリップス・コレクションの公式サイトによると「ゴヤは使徒の絵をほとんど描かなかったが、彼はこの絵をスペインを離れてフランスのボルドーに旅立つ(つまり移住する)直前に描いたと推定できる」とのことです。画家の何らかの思いがもっているのでしょう。

 シャルダン 

A Bowl of Plums.jpg
ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)
プラムを盛ったボウル」(1728頃)
A Bowl of Plums
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

18世紀フランスの画家、シャルダンの静物画です。シャルダンの静物画と言えばルーブル美術館にある "エイ" を描いた作品が有名ですが、このフィリップス・コレクションの絵も傑作です。

同時代のオランダの静物画と比べると、シャルダンは「本物と見まごうばかりに描こう」とはしていません。プラム、ボウル、ピッチャーの存在感や造形美の表現を追求し、モノの本質、モノが我々に与える特有の印象の源泉に迫ろうとしている感じです。

フィリップス・コレクションの公式サイトによると、創立者のダンカン・フィリップスはシャルダンをモダンアート = 印象派とセザンヌの先駆者と見なしていた、とあります。その視点でみると、この絵はマネの静物の先駆であり、セザンヌの静物に連なる系譜にあると言えるでしょう。ダンカン・フィリップスのアートを見る目の確かさが窺える作品です。

  なお、マネの静物画を、No. 3「ドイツ料理万歳」(アスパラガスの絵)、No.111「肖像画切り裂き事件」(プラムの絵)、No.157「ノートン・サイモン美術館」(魚の絵)で引用しました。

 マネ 

Spanish Ballet - Manet.jpg
エドゥアール・マネ(1832-1883)
スペイン・バレエ」(1862)
Spanish Ballet
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

1862年にパリで公演したスペイン舞踊団「カンプルビー座」を描いた作品です。公演に感動したマネは休演日に一座を自分のアトリエに招いてデッサンをし、この絵を完成させたといいます。No.36「ベラスケスへのオマージュ」に、マネが33歳の時に(この絵の3年後)スペインに旅行してベラスケスに感激したことを書きましたが、スペインへの憧れは以前から強かったことを感じさせます。

画面には女性2人、男性6人の合計8人が描かれていますが、描き方の程度の差が鮮明で、左奥の2人はほとんど描かれていない状態です。対して最もはっきりと存在感があるのは椅子に腰掛けている女性で、プリマ・バレリーナというのでしょうか。背景は無いに等しく、白灰色と暗茶色の2色に塗り分けられているだけです。その中で白と黒との強烈なコントラストが、スペイン舞踊の熱気を伝えています。

 ゴッホ 

The Road Menders - Gogh.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
道路工たち」(1889)
The Road Menders
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

道路の補修工事をする人たちを描いたサン・レミ時代の作品で、場所はサン・レミの街路です。この絵の黄色系の色の使い方と筆致は、No.157「ノートン・サイモン美術館」でとりあげた同時期の『桑の木』(1889)に良く似ています。もちろん『道路工たち』の木は街路樹なので桑ではありません。日本だと黄葉する街路樹と言えばまず銀杏イチョウですが、フランスなのでプラタナスかマロニエ(トチノキ)か何かでしょう。それにしては幹の樹形が少々違いますが(特に奥の方の木)、もちろん実物どおりに描くわけではなく、ゴッホはこのように感じたということだと思います。

黄葉した樹木と落ち葉で、あたりは黄色の染まっています。『桑の木』もそうですが、画家は "一面の真っ黄色" に触発されてたように思います。道路工事をする人は、あくまで脇役のように見えます。

 ボナール 

The Palm - Bonnard.jpg
ピエール・ボナール(1867-1947)
棕櫚の木」(1926)
The Palm
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションの創設者のダンカン・フィリップスは、1920年代に当時のアメリカでは無名だったボナールに着目しました。そのボナール・コレクションはアメリカ随一と言います。

南フランスのル・カネ(カンヌの隣)にあった自分の別荘からの眺めを描いた作品です。遠景の海(カンヌの入り江でしょう)と中景の家並みは光の中に輝き、対照的に近景の棕櫚や木々は日陰になっています。それに従って中央下の女性も逆光になっていて、ちょっぴり幻想的な雰囲気を醸し出しています。

 モディリアーニ 

Elena Povolozky - Modgiliani.jpg
アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)
エレーナ・パヴォロスキー」(1917)
Elena Pavolozky
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

エレーナはランス出身で、画家を目指してパリにやってきて、ロシア移民で画廊を経営しているパヴォロスキーと結婚したという経歴の女性です。モディリアーニの友人であり、金銭的な援助もしたといいます。この絵はまさにモディリアーニ的肖像画の典型で、ファンには見逃せない作品でしょう。

 ピカソ 

The Blue Room - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
青い部屋」(1901)
The Blue Room
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

このピカソの『青い部屋』は、『舟遊びをする人々の昼食』とともにフィリップス・コレクションの必見の作品です。と言うのも、これはピカソの "青の時代(1901-1904)" のごく初期の作品で、自殺した親友(カサヘマス)のアトリエで描いたとされる絵であり、この絵から青の時代が始まったとも言えるからです。我々は普通、ピカソの "青の時代" の作品と言うと、

社会的弱者、ないしは社会の底辺で生きる人たち
悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情

のどちらか、あるいは両方が絵の主題になっていると考えます。フィリップス・コレクションと同じワシントン D.C.のナショナル・ギャラリーに、その典型のような作品があります。「悲劇」という作品です(「海辺の貧しい家族」と呼ばれる)。

Tragedy - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
悲劇」(1903)
The Tragedy
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

日本で言うとポーラ美術館の『海辺の母子像 - 1902』がそのタイプの作品であり、このブログで取り上げた例だと『苦行者 - 1903』(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room18 North Wallにある)や『シュミーズの少女 - 1903』(No.163「ピカソは天才か(続)」)がそうです。

しかしフィリップス・コレクションの『青い部屋』は少々違っています。つまり「社会的弱者」や「悲しみ、不安、苦しみ、哀愁などの感情」がテーマになっていません。部屋の中で女性が入浴している(日本的感覚からすると行水をしている)姿ですが、これはドガかロートレックが描くモチーフです。後ろの壁の右の方に描かれているのはロートレックのポスターだといいます。入浴しているのが娼婦だとすると「社会の底辺で生きる人」でしょうが、それは絵からは分かりません。何気ない都会の部屋の風景です。ただし部屋が青く、青を多用した絵なのです。

思い出す絵があります。「悲劇」を所有しているワシントン・ナショナル・ギャラリーにはもう一枚の "青の時代" の傑作があります。『グルメ』と題した作品で、これも "青の時代" の初期のものです。

Le gourmet - Picasso.jpg
パブロ・ピカソ
グルメ」(1901)
Le Gourmet
ワシントン・ナショナル・ギャラリー

「食いしん坊の子供」という別名があるようですが、この絵の日本語タイトルをつけるなら "Le Gourmet" を意訳して「食いしん坊」がピッタリでしょう。何となくユーモアを感じるモチーフです。また青だけでなく暖色も使っている。

話が飛びますが、フィラデルフィアのバーンズ・コレクションに『グルメ』とよく似た絵があります。ほぼ同じ時期に描かれた『肘掛け椅子に座る子供』という絵です(No.95「バーンズ・コレクション」参照。Room19 East Wallにある絵)。

肘掛け椅子に座る子供.jpg
パブロ・ピカソ
肘掛け椅子に座る子供」(1901)
Child Seated in an Armchair
バーンズ・コレクション

この絵からうけるのは「肘掛け椅子に座って得意げな子ども」という印象です。『グルメ』と一脈通じるものを感じます。



話をもとに戻しますが、日本からフィリップス・コレクションを訪れる人は、必ずワシントン・ナショナル・ギャラリーへも行くはずです。その時には是非 "青の時代" の3作品を見比べましょう(展示してあったらですが)。その幅広さが分かると思います。なお、ワシントン・ナショナル・ギャラリーには『サルタンバンクの家族』(1905)という "バラ色の時代" の代表作もあります。

 ホッパー 

Sunday - Hopper.jpg
エドワード・ホッパー(1882-1967)
日曜日」(1926)
Sunday
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

一見してホッパーと分かる作品で、強い光が生み出すコントラストが際だっています。普段は人が行き交う都会の歩道が、日曜日の朝(だと思います)には人気がなく、全く違った様相を見せる・・・・・・。分かる感じがします。そこに葉巻をくゆらす男をポツンと配置することで、画家はアメリカの文明社会の "別の面" をすくいい取りたかったのだろうと思います。


アメリカン・モダンアート


フィリップス・コレクションの特色は、20世紀アメリカのモダン・アートが非常に充実していることです。というよりここは、MoMA(ニューヨーク近代美術館。1929年開館)より先にできたモダン・アートの殿堂という性格をもっているのです。その中から、創立者のダンカン・フィリップスと同世代の5人のアーティストを取り上げてみます。

 マーク・ロスコ 

Mark Rothko Room.jpg
ロスコ・ルーム
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

フィリップス・コレクションには、マーク・ロスコ(1903-1970)の作品だけが展示してある「ロスコ・ルーム」があり、これが美術館の大きな "ウリ" になっています。「ロスコの作品のみで出来上がった空間」は日本の川村美術館にもありますが、川村美術館のサイトの説明によるとそのような空間は世界に4つしかありません。

テート・ギャラリー(英:ロンドン)
川村美術館(千葉県佐倉市)
フィリップス・コレクション(米:ワシントン D.C.)
ロスコ・チャペル(米:ヒューストン)

の4つです。ロスコはこのような展示方法を強く望んだと言います。その意味で、日本のモダンアート愛好家は、是非ともまず佐倉に行くべきでしょう。

 ジョージア・オキーフ 

Red Hills - OKeeffe.jpg
ジョージア・オキーフ(1887-1986)
レッド・ヒル、ジョージ湖」(1927)
Red Hills, Lake George
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョージア・オキーフは夫と死別したあと、ニューメキシコ州の荒野に移り住んだことで有名です。それもあって、この絵はニューメキシコの風景を描いたものと一瞬思いますが、違います。ジョージ湖はニューヨーク州の北部にある湖で、オキーフは避暑によく訪れたといいます。

ジョージ湖の対岸の、夕日に染まる山並みを描いたものでしょう。まるで太陽の光が山々を透過してこちらに届いているように見えます。手の掌を太陽にかざしたような・・・・・・。山をこのように描いた画家はいないのではと思います。オキーフの独特の感性に惹かれる絵です。

 ジョン・マリン 

Quoddy Head - Marin.jpg
ジョン・マリン(1870-1953)
コディ・ヘッド、メイン州海岸」(1933)
Quoddy Head, Maine Coast
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

ジョン・マリンは、ニューヨークの摩天楼や橋などの題材が多い画家・版画家ですが、この水彩画は、都会とは対象的なメイン州の岬を描いています。水彩画の名手と言われたマリンらしい作品です。

 アーサー・ダヴ 

Morning Sun - Dove.jpg
アーサー・ダヴ(1880-1946)
朝日」(1935)
Morning Sun
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

アーサー・ダヴは、ヨーロッパ画壇を含めても最も早く抽象画に取り組んだ画家と言われています。とくにアメリカの土地と自然に想を得たカラフルで有機的なフォルムの作品が多い。この絵はアーサー・ダヴの作品にしてはめずらしく具象的です。

 マージョリー・フィリップス 

最後にフィリップス・コレクションで印象に残った作品を一つ。マージョリー・フィリップスの「夜の野球」です。

Night Baseball - Marjorie Phillips.jpg
マージョリー・フィリップス(1894-1985)
夜の野球」(1951)
Night Baseball
フィリップス・コレクション
( site : www.phillipscollection.org )

マージョリー・フィリップスはダンカン・フィリップスの妻であり、画家です。フィリップス・コレクションの共同設立者と言えます。

この絵は野球のナイトゲームを題材にしたという点で、妙に記憶に残る絵です。他にこういうテーマの絵がないからでしょう。考えてみると野球のナイト・ゲームは、強烈な人工の光、それに照らされた緑の芝生、その上に散らばる白いユニフォーム、色とりどりの観客席、青黒い空など、"絵になる" 要素がいろいろあると言えます。そこをうまくとらえています。


生活空間に美術品を展示する


最初にも書きましたが、この美術館はコレクターの屋敷をそのまま美術館にしたものです。そこが、同じ個人コレクションでも冒頭にあげた6つの美術館とは違います。写真のように煉瓦造りの瀟洒しょうしゃな建物がそのまま美術館になっている。このような "私邸美術館" は、著名な美術館ではめずらしいのではと思います。ニューヨークのフリック・コレクションも私邸ですが(フェルメールが3枚もある)、石造りの威風堂々とした建物であり、生活空間という感じはしません。No.19「ベラスケスの怖い絵」で、ベラスケスの「インノケンティウス十世の肖像」を取り上げましたが、この絵があるローマのドーリア・パンフィーリ美術館も私邸です。ただこの "私邸" は "ドーリア・パンフィーリ宮殿" であり、その一部が "美術館" になっている。フリック・コレクション以上に生活空間という感じはしません。

その意味でフィリップス・コレクションは、ボストン美術館の近くにあるイザベラ・ステュアート・ガードナー美術館や、ミラノのポルディ・ペッツオーリ美術館に近いものです。しかしフィリップス・コレクションの方が作品の年代やバリエーションも多様で、特に近代絵画やモダン・アートが充実しています。

生活の場と感じられる場所が、美術鑑賞には最適である ・・・・・・。これは創立者のダンカン・フィリップスの信念だったようです。それはこの美術館の名称である "フィリップス・コレクション" にも現れています。冒頭にあげた "個人コレクションを出発点とする美術館" で、正式名称が "コレクション" なのはバーンズ・コレクションとここだけです(コートールドの正式名称は "コートールド・ギャラリー")。バーンズの場合はアルバート・バーンズが集めたコレクションだけを展示しているのだから名前通りですが、フィリプス・コレクションはダンカン・フィリップスのコレクションだけではありません。しかしここは「邸宅にコレクションを展示する場所」だと主張している。その "こだわり" が名称になっていると思います。

邸宅にコレクションを展示して公開するのはいかにも富豪(近代以前なら貴族)という感じがするのですが、それは「都市型公共美術館」に対するアンチテーゼなのでしょう。訪問者からすると「美術品が本来あった場所で鑑賞できる」ことになります。

  余談ですが「都市型公共美術館に対するアンチテーゼ」として、フィリップス・コレクションとは全く違うやり方をとっているのが、箱根のポーラ美術館です。この美術館は森の中に建てられていて「自然とアートの調和を楽しむ」というのがコンセプトになっています。

ともかく、フィリップス・コレクションを訪れた人は、暖炉があり長椅子がありといった家庭的雰囲気が横溢する空間の中で、さまざまな年代のアートを鑑賞することになります。フィリップス・コレクションの最大の特色はこの点でしょう。

続く


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No.215 - 伊藤若冲のプルシアン・ブルー [アート]

No.18「ブルーの世界」で青色顔料(ないしは青色染料)のことを書いたのですが、その中に世界初の合成顔料である "プルシアン・ブルー" がありました。この顔料は江戸時代後期に日本に輸入され、葛飾北斎をはじめとする数々の浮世絵に使われました。それまでの浮世絵の青は植物顔料である藍(または露草)でしたが、プルシアン・ブルーの強烈で深い青が浮世絵の新手法を生み出したのです。絵の上部にグラディエーション付きの青の帯を入れる「一文字ぼかし」や、輪郭線を黒ではなく濃紺で刷るといった手法です(No.18)。プルシアン・ブルーが浮世絵に革新をもたらしました。

そして日本の画家で最初にプルシアン・ブルーを用いたのが伊藤若冲だったことも No.18「ブルーの世界」で触れました。その若冲が使ったプルシアン・ブルーを科学的に分析した結果が最近の雑誌(日経サイエンス)にあったので、それを紹介したいと思います。


伊藤若冲『動植綵絵』


宮内庁・三の丸尚蔵館が所蔵する全30幅の『動植綵絵』は、伊藤若冲の最高傑作の一つです。この絵を全面修復したときに科学分析が行われ、プルシアン・ブルーが使われていることが判明しました。その経緯を「日経サイエンス」から引用します。以下の引用で下線は原文にはありません。


伊藤若冲の代表作『動植綵絵』は、1999年度から6年間にわたり、大規模な修理が行われた。絹に描かれた絵から裏打ちの和紙をすべてはがし、新たに表装しなおす「解体修理」だ。作品を裏からも見ることができるまたとない機会にもなり、画面表裏からの様々な作品調査が平行して進められた。

調査の結果で最も驚きをもって受け止められたのは、作品の1つに、当時西欧から日本に伝えられたばかりの人工顔料、プルシアンブルーが用いられたいたことだ。明和3年(1766年)に描かれたとみられる「群魚図」の中のルリハタの絵である(引用注:「蛸」と「鯛」がある群魚図のうちの「鯛」)。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

群魚図(鯛).jpg
伊藤若冲『動植綵絵』より
「群魚図(鯛)」(1766)
(宮内庁 三の丸尚蔵館 所蔵)
「動植綵絵」の「群魚図」には「蛸」と「鯛」があるが、この絵は「鯛」の方である。絵の左下の隅に黒ずんだ濃紺色で描かれているのがルリハタである。黒ずんでいる理由は後述。

ルリハタ.jpg
ルリハタ
ハタ科の魚だが、鮮やかな青色の(瑠璃色の)体色と黄色の線が目立つ。"瑠璃" とはもともと仏教用語であり、鉱物としてはラピスラズリを意味する。ラピスラズリはウルトラマリン・ブルーとして西欧絵画の青に使われた。No.18「ブルーの世界」参照。

若冲の「群魚図」の分析に使われたのは「蛍光X線分析」という手法です。絵の表面に直径約2mmの微弱なX線をスポット照射します。そうするとそこにある元素が励起され、元の状態に戻るときに2次的なX線(=蛍光X線)を出します。元素が出す蛍光X線のエネルギーは元素ごとに決まっているので、どんな元素が存在するかが分かります。


『動植綵絵』全30幅の919ポイントに照射したところ、ルリハタの濃紺色の部分に鉄の存在を示すピークが現れた(下図)。鉄を含む青色であればプルシアンブルーの可能性が高い。当時、日本で青色の彩色に使われていたのは主に、藍銅鉱という鉱石を粉末にした群青か、植物からとった藍だ。いずれも鉄を含まない。

(同上)

蛍光X線スペクトル.jpg
ルリハタの蛍光X線スペクトル
鉄のピークがみられる。一般的な青色顔料である群青(藍銅鉱)や藍に鉄分は含まれない。Ca(カルシウム)のピークは下地に塗った胡粉を示している(胡粉は貝殻を砕いて作る)。
(日経サイエンス 2017.10 より)

分析を担当した早川康弘氏(東京文化財研究保存修復センター = 東文研)は、当初このデータを見落としていたといいます。というのも、プルシアン・ブルーが絵の具として頻繁に使われるようになったのは江戸時代末期の19世紀になってからであり、若冲が使っていたとは思われなかったからです。


日本に初めてプルシアンブルーが輸入されたの延享4年(1747年)である。このときは全量がオランダに返送され、日本で消費されたのは宝暦2年(1752年)からだ。1760年代までに輸入された量は全体で2.5ポンド(約1.3kg)で、極めて稀少な品だったとみられる。

絵画に用いたのはそれまで、平賀源内が1770年代前半に油彩「西洋夫人図」のドレスの胸元の模様を描いたのが最も早い例だとみられていた。本草学者で蘭学者、大名たちとも親交のあったマルチタレントの源内がいちはやく西洋の絵の具を入手し、西洋の技法で描いた絵に用いたというのは想像しやすい。だが西洋の素材や技法とあまり縁のない若冲が、その5年以上も前に使っていたというのは意外感がある。

(同上)

では、プルシアン・ブルーだと断定するにはどうするのか。江戸時代に輸入されて現在も残っているプルシアン・ブルーがあります。それと比較分析をします。


早川氏らは、ルリハタの絵を別の方法で調べてみることにした。絵の表面に白色光を照射し、反射光のスペクトルを測定する分光分析だ。古典的な手法だが、プルシアンブルーの同定にはよく用いられる。比較対照として、19世紀に鍋島藩で購入された「紅毛群青」を用いた。こちらはX線回折によってプルシアンブルーの結晶構造が確認されている。

結果は明快だった。400~850nm の広い波長域で反射率があまりかわらないプルシアンブルーに特徴的なスペクトルが得られ、鍋島藩の試料とも一致した。若冲は確かに、プルシアンブルーを使ってルリハタを描いたのだ。この結果は2009年、東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において公表された。

(同上)

可視分光スペクトル.jpg
ルリハタの可視分光スペクトル
400~850nm の広い波長域で反射率があまり変わらない。プルシアン・ブルーに特徴的な可視光スペクトルである。
(日経サイエンス 2017.10 より)







プルシアン・ブルー
この色はRGB値が "192f60"(16進数)であるが、あくまで一例である。実際に顔料・染料として使う方法によって色は変化する。


プルシアン・ブルーの合成


プルシアン・ブルーは世界初の合成顔料です。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、その発見は18世紀初頭のベルリンでした。当時ベルリンはプロイセン領だったので「プロイセンの青=プルシアン・ブルー」と呼ばれたのです。江戸時代の日本では「ベロ藍」ですが、ベロとはベルリンの意味です。その発見は全くの偶然でした。


「群魚図」から遡ること60年前の1706年ごろ、ベルリンの錬金術師ディッペル(Johann C. Dippel)の工房の一角で、染料・顔料の製造業者ディースバッハ(Johann J. Diesbach)が、カイガラムシから抽出した赤い色素、コチニールからレーキ顔料を作ろうとしていた。

(引用注) コチニールはカイガラムシから作る赤色の色素で、かつては絵の具のクリムゾンやカーマインに使われた。レーキ顔料とは、水溶性の顔料を何らかの方法で不溶性にしたもの。不溶性にすることをレーキ化と言う。

作業にはアルカリが必要だったが、たまたま切らしていたため、ディッペルから拝借した。ディースバッハがそのアルカリと硫酸鉄をコチニールに加えたところ、鮮やかなブルーが現れた

2人はさぞ驚いたに違いない。どのような反応が起きたのかはわからなかったが、予想外の青色が生じた原因がディッペルから借りたアルカリにあったことは推測できた。ディッペルは錬金術師であるだけでなく、神学者でかつ医者でもあった。動物の角や骨、血液などにアルカリを加えて乾留した「ディッペル油」を作り、薬品原料として売っていた。乾留後はアルカリを水に溶かして回収し、再び乾留に用いた。ディースバッハに渡したのは、すでに何度か乾留に使ったアルカリの炭酸カリウム溶液だった。

(同上)

動物の角や骨や血液などから作った油というのは、いかにも錬金術師が作りそうな "あやしげな" ものですが、まさにそこがこの発見物語のポイントです。ディースバッハが作ろうとしていた赤色染料・コチニールは、青色=プルシアン・ブルーの出現には関係ありません。「動物由来の成分が溶け込んだ炭酸カリウム液」と「硫酸鉄」が鍵です。日経サイエンスの記事によるとプルシアン・ブルーが生成した過程は次のようです。

ディッペルが動物の角や骨、血液などに炭酸カリウム液を加えて加熱したとき、骨や血液に含まれる炭素(C)と窒素(N)からシアン化物イオン(CN-)が生成し、それが炭酸カリウムと反応してシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)がきた。

シアン化カリウムが血液や鉄製の反応容器の含まれる鉄分(Fe)と反応して黄血塩(フェロシアン化カリウム。その名の通り黄色)ができた。

黄血塩に硫酸鉄が加わってプルシアン・ブルーができた。

日経サイエンス2017年10月号には、上記の過程をそのままに再現した実験が載っていて、見事にプルシアン・ブルーができています。それを使って画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵も掲載されています。

プルシアン・ブルーで描いたルリハタ.jpg
日経サイエンスにはプルシアン・ブルーを発見当時の製法で再現した実験が載っている。用いた動物原料は豚のレバーである。この絵は実験で作ったプルシアン・ブルーを用いて画家の浅野信二氏が描いたルリハタの絵。紙の上に描かれている。
(日経サイエンス 2017.10)

プルシアン・ブルーの結晶構造.jpg
プルシアン・ブルーの結晶構造
2価の鉄(Fe2+。黄色の丸)と3価の鉄(Fe3+。赤色の丸)が交互に結晶を作っている。
(日経サイエンス 2017.10 より)

プルシアン・ブルーの結晶の特徴は、2価の鉄(Fe2+)と3価の鉄(Fe3+)が交互に結晶を作っていることです。このように酸化度が違う金属が混在している結晶では、電子はその金属に集まります。かつ、電子は2価の鉄と3価の鉄を間を容易に移動できる。移動するときに強い光の吸収が起き、普通の物質より鮮やかな色になります。プルシアン・ブルーの場合は橙色が吸収されて青く見えます。この青は非常に "強い青" です。


プルシアンブルーの色の強さは、天然顔料のウルトラマリンの10倍以上といわれる。画家の浅野信二氏は「少し混ぜただけで全体がこの色になる。古楽器の演奏にエレキギターを持ち込むような影響力」だと語る。安定で退色しにくく、天然由来の顔料と違って確実に同じ色を作れるのも利点だ。

(同上)

しかし "強い色" は欠点にもなります。No.18「ブルーの世界」にも書いたのですが、19世紀のフランス画壇ではプルシアン・ブルーは危険な色とされ、扱いには注意が必要だったようです。No.18に書いたことを再掲します。


プルシアン・ブルーは印象派の画家が好んで使った色です。印象派は「影にも色があることを発見した」とよく言われますが、ルノアールの有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876。オルセー美術館) には、その影や衣服の表現にプルシアン・ブルーが使われています。またゴッホもこの色を好みました。アルル時代の傑作である「星降る夜」(1888。オルセー美術館)にもプルシアン・ブルーが使われています。時代が進んで、ピカソ・20歳台のいわゆる「青の時代」の諸作品は、プルシアン・ブルーを他の色とまぜて多様な青を作り出しています。この時期のピカソは深い青を特に好んだようです。

しかし、プルシアン・ブルーは次第に使われなくなり、あとで開発されたコバルト・ブルーなどの合成青色顔料にとって代わられました。それは「プルシアン・ブルーは使い方が難しい」色だったからです。パリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長は、次のようにインタビューに答えています。

  とにかく、プルシアン・ブルーは使いこなすのが難しい色です。たとえば1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。その美しさにもかかわらず、使い方がとても難しい色なのです。

ルノワールもこの色の難しさに気づいて、画家仲間に注意書きのメモを残したと言います。油絵は浮世絵と違って色と色を混ぜ、かつ重ね塗りをします。プルシアン・ブルーは油絵にとっては「危険な色」なのです。しかし巨匠たちはその危険な色に挑み、名画を生み出しました。危険を承知で挑む強烈な魅力がこの顔料にあったということでしょう。



プルシアン・ブルーの歴史


日経サイエンスの記事に戻って、プルシアン・ブルーの歴史をまとめると、以下のようになります。

(1706年)ベルリンでディッペル(錬金術師)とディースバッハ(染料・顔料業者)がプルシアン・ブルーを偶然に合成。

2人はプルシアン・ブルーの製造を開始。製法は秘匿した。1712年頃には「需要に応えきれない」との手紙が残っている。

(1724年)英国の学者がドイツから入手したプルシアン・ブルーの製法を学術誌に発表。プルシアン・ブルーの科学的研究が始まる。

(1747年)日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入された。この時は全量が返送されたので、実質的な最初の輸入は1752年。

(1766年)伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使用。

(1770年代前半)平賀源内が油彩画「西洋夫人図」にプルシアン・ブルーを使用。

(19世紀~)プルシアン・ブルーが浮世絵に多数使用される。たとえば葛飾北斎の『富嶽三十六景』であり、その制作・出版は1823年頃~1835年頃。

(19世紀~)印象派の画家が好んで使用。ピカソも「青の時代」の絵に多用。

(2009年)東京国立博物館で開かれた「皇室の名宝 ─ 日本の華」展において、伊藤若冲がプルシアン・ブルーを使ったことが公表された。


1回きりのプルシアン・ブルー


ただし、伊藤若冲が『動植綵絵』の「群魚図」にプルシアン・ブルーを使った理由は謎が残ると、日経サイエンスの記事は言います。


ひとつ疑問が残っている、なぜ伊藤若冲はこのルリハタに、プルシアンブルーを使ったのだろうか? しかも絵の具の上から墨を筋状に重ね塗りしており、もとの色があまりわからない。「この色なら、若冲のパレットにあるほかの絵の具で簡単に作れる」と東文研の早川氏は首をかしげる。貴重品だったプルシアンブルーをわざわざ使う理由が見当たらない。プルシアンブルーは若冲のほかの作品では見つかっていない。1回限りの実験だったのか。私たちが知らない理由があったのか。その点は謎のままだ。

吉田彩「"若冲の青"を再現する」
日経サイエンス(2017年10月号)

記事に「1回限りの実験か」と書いてありますが、実験ではないでしょう。『動植綵絵』は若冲の禅の師である大典顕常だいてんけんじょうがいる京都・相国寺に寄贈した絵です。若冲にとって "渾身の作" だろうし、事実、その出来映えは最高傑作と呼ぶにふさわしい。いいかげんな気持ちでプルシアン・ブルーを用いたはずがないと思います。当時は貴重で高価な絵の具です。初めて使う絵の具ということは、何度も下絵を書いて発色の具合を調べたはずです。そして『動植綵絵』に用いたと考えられる。

若冲がプルシアン・ブルーを用いたのは1回きりです。なぜかを推測すると、これは "自分には向かない絵の具" だと思ったからではないでしょうか。引用した画家の浅野信二氏やパリの絵の具専門店の店長の発言にあるように、プルシアン・ブルーは極めて "強い絵の具" であり、もっと言うと "危険な絵の具" です。上に引用したパリの老舗の絵の具専門店・スヌリエの店長の発言をもう一度思い出すと、

1グラムのプルシアン・ブルーに白の絵の具を1キログラム混ぜても、全部ブルーになってしまうほどです。また黄色の隣にこれを塗ると、黄色が段々と緑に変色してしまいます。プルシアンの発色力は、色の中でもっとも強力なものです。」

でした。近接して塗った絵の具を "食ってしまうほどの強力な青色" なのです。

一方、若冲の『動植綵絵』はどうでしょうか。この絵には「裏彩色うらざいしき」の技法が駆使されていることが分かっています。再び「日経サイエンス」から引用します。


共同で調査に当たった宮内庁三の丸尚蔵館の太田彩・主任研究官は、若冲を「色に執着した画家」と評する。例えば絹の裏面に色を置くと、表から絹目を通して見ることでやわらかい色になる。「裏彩色」と呼ばれる技法で、表から色を重ねるとさらに複雑な表情が生まれる。調査によって、若冲が『動植綵絵』に緻密な裏彩色を施していることが明らかになった。無数に描かれた南天の実1つ1つ、折り重なった紅葉の1枚1枚に、微妙に異なる裏彩色がなされていたのだ。

「若冲は、自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」と太田氏はいう。絵の具は質の良いものをふんだんに使い、どう使うとどのような色が生まれるのかを詳細に研究していた

(同上)

最も有名な裏彩色の技法は『動植綵絵』の「老松白鳳図」ですね。絹地の表から白、裏から黄を塗ることで、鳳凰の羽が金色に見えるという驚きの効果を生み出してます。その裏彩色は「老松白鳳図」だけではないのです。裏打ちしてある和紙を全部はがす解体修理をしてみると、南天の実、紅葉の葉にまで裏彩色が使われていた。この事実を考えると、若冲は『動植綵絵』以外の絵でも裏彩色を多用しているはずです。

そこでプルシアン・ブルーです。推測すると、プルシアン・ブルーは「裏彩色の技法が利かない絵の具」なのではないでしょうか。あまりに強い色であり、他の色を食ってしまうために・・・・・・。だとすると、裏彩色を駆使して「自然が持っている色をどうやって絵に残すかを追求した」若冲にとっては "使いにくい色" ということになります。実は若冲は、プルシアン・ブルーの性質(=難しさ)を良く理解していたのではないか。画家仲間に注意書きのメモを残したルノワールのように。

さらに推測を重ねると、若冲が「群魚図」のルリハタにあえて「1回きりのプルシアン・ブルー」を使った理由は、この絵に「秘密を仕掛けた」のではと思います。裏彩色もそうですが、若冲の絵には "秘密" がよくあります。肉眼では判別しがたいような細かい点々を描き込むとか、絵の具を4回も塗り重ねる(日本画で!!)といったような・・・・・・。

渾身の作に、オランダから輸入されたばかりの高価で貴重な絵の具を "そっと" 使う。それはルリハタの美しい瑠璃色を描くにはピッタリでしょう。しかも上から墨を重ねて分からないようする。それによって「群魚図」のプルシアン・ブルーを "封印" し、そしてプルシアン・ブルーの使用そのものも封印してしまう。「1回きりの秘密を仕掛けた」という解釈が最も妥当だと思います。そしてその秘密は、描かれてから243年後に現代科学の分析手法で解き明かされたわけです。


プルシアン・ブルーの現在


顔料としてのプルシアン・ブルーは、その後に開発された合成顔料であるコバルト・ブルーやセルリアン・ブルー(No.4「プラダを着た悪魔」でアンディが着ていたセーターの色)などに押されて使われなくなりました。しかしプルシアン・ブルーは顔料とは別の用途で発展します。


プルシアンブルーには色のほかにもユニークな性質が2つあり、幅広い分野で機能性材料として利用されている。

1つは鉄イオンの酸化・還元によって色が変わることだ。この性質を利用した有名な例が、図面などによく使われる青写真だ。また電気で色が変わるエレクトロクロミック材料として、電子カーテン電子ペーパーにも応用されている。(中略)

もう1つは、ジャングルジム状の結晶構造の中に様々な陽イオンや分子を出し入れできることだ。放射性セシウムの吸着剤になるほか、リチウムイオン電池やカリウムイオン電池の正極材料としても期待されており、開発が進んでいる。

(同上)

プルシアン・ブルーが放射性セシウムの吸着剤やカリウムイオン電池の正極材料になることは、No.18「ブルーの世界」の「補記」に書きました。電子カーテンは透明から不透明に多段階に変化する "ガラス" で、ボーイング 787 の窓がそうです。787に乗ると窓の下にボタンが二つあって窓の透明度を変えられます。787 の窓の材料は非公開なのでプルシアン・ブルーが使われているかどうかは分かりませんが、こういう使い方も可能な機能性材料がプルシアン・ブルーです。プルシアン・ブルーが強い青を発色して顔料になるのは、あくまで一つの機能に過ぎないのです。



18世紀初頭のベルリンで、顔料・染料業者と錬金術師が全くの偶然で合成したプルシアン・ブルーを、フランス画壇の著名画家たちが使い、若冲や北斎も使い、浮世絵に革新を起こし、さらには東日本大震災からの復興に陰で役立ち(放射性セシウムの吸着剤)、今後は次世代電池に使うべく研究されている・・・・・・。

プルシアン・ブルーは今で言う "化学" で作り出されたものですが、その化学が作り出した "機能性材料の奥深さ" がよく理解できた記事でした。




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No.205 - ミレーの蕎麦とジャガイモ [アート]


落穂拾い


No.200「落穂拾いと共産党宣言」の続きです。画家・ミレー(1814-1875)が描いた傑作『落穂拾い』ですが、No.200で書いたその社会的背景や当時の評判をまとめると以下のようになります。

落穂を拾っている3人は最下層の農民であり、地主の許可なく農地に入り、刈り取りの際にこぼれた小麦の穂を拾っている。地主はその行為を黙認しており、そういった「喜捨きしゃの精神」は聖書の教えとも合致していた。

この絵は当時から大いに人気を博し、数々の複製画が出回った。

しかしパリの上流階級からは社会秩序を乱すものとして反発を招いた。「貧困の三美神」という評や「秩序をおびやかす凶暴な野獣」との論評もあった。詩人のボードレールは描かれた農婦を "小賤民パリアたち" と蔑称している。

その理由は当時の社会情勢にあった。「共産党宣言」にみられるように労働者の権利の主張が高まり、社会の変革や改革、革命をめざす動きがあった。ミレーのこの絵は、そういった動きにくみするものと見なされた。この絵は当時の上流階級からすると「怖い絵」だった。

落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

ミレーは社会運動に参加したわけではないし、労働者や農民の権利や社会の改革についての発言をしたことはないはずです。画家はシンプルにバルビゾン周辺の「農村の実態」を描いた。

しかし描かれたのが「最下層の農民」ということが気にかかります。ミレーの真意はどうだったのか。この絵だけを見ても分からないので、他のミレーの傑作から考えてみたいと思います。誰もが認めるミレーの名画・傑作は、制作年順に、

『種まく人』(1850)
 山梨県立美術館・ボストン美術館
『落穂拾い』(1857)
 オルセー美術館
『晩鐘』(1857/59)
 オルセー美術館
『羊飼いの少女』(1864)
 オルセー美術館

でしょう。これには多くの人が合意すると思います。このうち『羊飼いの少女』は "牧畜" の情景です。以下では『落穂拾い』と同じ "農業" を描いている『種まく人』(1850)と『晩鐘』(1857/59)をとりあげます。


『種まく人』


『種まく人』は岩波書店のロゴにもなっている日本人にはなじみの絵で、山梨県立美術館とボストン美術館がほぼ同じ構図の絵を所蔵していることで有名です。またミレー崇拝者だったゴッホがこの絵をもとに「ゴッホ流・種まく人」を何枚か描いたこともよく知られています(No.158「クレラー・ミュラー美術館」参照)。

種まく人.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
種まく人」(1850)
(ボストン美術館)

この絵の特徴は農夫が傾斜地で種をまいていることです。農夫や農業を描いた絵は西洋・日本を問わずいろいろありますが、傾斜地での農業を描いたのはめずらしいのではないでしょうか。

バルビゾンに行ってみると分かりますが、あたり一帯は起伏が全く無い平原です。近くに森はあるが(フォンテンブローの森)傾斜地はありません。この絵について、山梨県立美術館でミレー担当の学芸員だった井出洋一郎氏は次のように書いています。


農夫の踏みしめる大地は明らかに傾斜しており、移住したバルビゾン村の平原ではない。故郷であるノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地である。そこで当時栽培されたのが、ミレー晩年の四季図にも出てくる、フランスで「サラセンの麦」または「黒麦」と呼ばれる「蕎麦そば」であった。今でもガレットやクッキーの素材に使うが、当時は寒冷地でも土地が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培されていたものである。燕麦えんばくよりはましだが、当然口のおごったパリジャンたちの食べるものではない。


井出さんによると「種まく人」を題材としたミレーの絵は、山梨とボストンの絵を含めて5点あります。井出さんはこれらの絵を比較検討し、描かれているのがミレーの故郷である「ノルマンディー地方、グリュシーの断崖近くの傾斜地」と結論づけています。No.97「ミレー最後の絵」で引用したのですが、倉敷市の大原美術館が所蔵するミレーのパステル画に『グレヴィルの断崖』(1871)があります。グレヴィルはグリュシーを含む地方名で、晩年にミレーが故郷を訪れて描いた作品です。ちょうどこのような断崖に続く内陸部が「種まく人」の舞台なのでしょう。

Millet - グレヴィルの断崖.jpg
ミレーグレヴィルの断崖」(1871)
(大原美術館)

この絵のもう一つのポイントは、農夫がまいている種が小麦ではなくて蕎麦だという点です。小麦よりランクが落ちるが、寒冷で痩せた土地でも育つ蕎麦を農夫はまいているのです。

パリのモンパルナス駅のそばのホテルに何回か宿泊したことがありますが、モンパルナス一帯にはブルターニュ料理を出す店が多いのですね。モンパルナス駅がブルターニュ地方と鉄道で直結しているからでしょう。ガレットを出す店が並んでいる通りもあったと記憶しています。ガレットやクレープはちょうどよいランチなので何度か行きました。ガレットは蕎麦で作るのが "正式" です。ブルターニュは、ミレーが生まれたノルマンディーのすぐ南側の大西洋沿岸地方です。つまり、ミレーの故郷 → 厳しい自然 → 蕎麦 → ガレット → モンパルナスという "つながり" があるわけです。

そして井出さんは、ミレーがこの絵を描いた真意を次のように推測しています。


ミレーがなぜこの絵をパリのサロンに出したかは、1848年の二月革命のきっかけが、パリにではなく、周囲の農村での飢饉による農民暴動にあったことを考えれば、私にもわかるような気がするし、画家はこう語っているように思える。

「あなたたちと違って、私はこんなつましく貧しいものを食べて育ってきたのだ」

「それでもおなじように大切にまき、育て、収穫することが人間の宿命であり、それが尊いことなのだ」

《種まく人》からミレーのつぶやきを聞くなら、私はこれに尽きると思っている。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

『種まく人』の背景には2つの流れがあるようです。一つは、

農村での飢饉が暴動へ発展
  ↓
パリでの二月革命(1848)
  ↓
『種まく人』(1850)

という当時のフランスの社会情勢です。『種まく人』は二月革命とは無関係ですが、社会情勢との関係で絵を捉える人もいたはずです。2つめは、

ミレーの故郷=ノルマンディー
  ↓
起伏が多く、痩せた土地
  ↓
蕎麦の栽培
  ↓
『種まく人』= 蕎麦の種をまく人

という背景です。そして、二月革命の記憶も生々しい時に『種まく人』をサロンで見たパリの上流階級の人たちは、その数年後のサロンで再び『落穂拾い』を目にした。冒頭に書いた『落穂拾い』への反発の理由が分かるのでした。


『晩鐘』


晩鐘.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
晩鐘」(1857)
(オルセー美術館)

もう一つの傑作『晩鐘』です。この絵は『種まく人』から7年後、『落穂拾い』とほぼ同時期に描かれました。まずこの絵についての中野京子さんの解説を引用します。


『晩鐘』の原題は『アンジェラスのかね』と言う。

ここはパリから南に五十キロほど下った、小さな村バルビゾン。遠くに見えるシャイイ教会が日に三度、朝昼晩とアンジェラスの鐘のを響かせ、人々に時をげるとともに、祈りをうながす。夕闇迫る今この時は、一日の終わり、つまり過酷かこくな戸外労働の終わりを意味し、若い夫婦は首をれて祈ったあと家路につくのであろう。画面右上の、ねぐらに帰るからすたちと同じように。

背景の明るさとは対照的に、ふたりの立つ前景は暗い。陽のあたる背景には積みわら名残なごりが見られ、豊かな麦畑であることが示され、影の濃い前景の土地はせ、夫婦のわずかな収穫はジャガイモである。ミレーのもう一つの傑作『落穂おちぼ拾い』と同じく、「富む背景、貧窮ひんきゅうの前景」が示されている。ジャガイモはパンを食べられない貧民の主食だった。だから手押し車にせた袋には商品用のそれ、足元の手籠てかごには自分たち用のそれと、分けて入れてある。

両手を合わせた妻と帽子を持つ夫の祈りのつぶやき、みわたる鐘の音、そして遠く烏の鳴き声と、農村の夕暮れに満ちるさまざまな音さえも聞こえてくるよう画面だ。ふたりの人間が向き合って立っているだけの単純な構図の中に、農民の人生(ひいてはその運命)、日々の労働(ひいてはその崇高さ)、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさが、みごとにとらえられている。


ちなみに「アンジェラスの鐘」(アンジェラスはラテン語で天使の意味)は「お告げの鐘」とも呼ばれ、朝昼晩の三回、「アンジェラスの祈り = お告げの祈り」を唱えるように促す鐘です。「お告げの祈り」は聖母マリアの受胎告知を記念した祈りで、"Angelus Domini"(主の御使い)という文句で始まるために「アンジェラスの祈り」と呼ばれています。

この絵には「教会」と「祈り」が描かれていて、ミレーの絵にしては珍しく宗教色の強いものです。それは描かれた経緯に関係していて、この絵はアメリカ人の注文によって描かれました。注文主はボストン生まれの作家で美術コレクター、後にボストン美術館の理事にもなったトマス・アップルトン(1812-1884)という人物です。アップルトンは1857年にバルビゾン村のミレーを訪れて注文を出します。


1857年の初め、アップルトンはバルビゾンのミレーを訪ね、この《晩鐘》を注文する。その際にアップルトンとミレーの間で、この絵のコンセプト、あるいは構図について、何らかの相談があったと思われる。というのも、この絵は鐘の音と祈りをテーマにしており、ミレーの絵の中では宗教的雰囲気が濃い。しかし、キリスト像もマリア像も十字架もこの絵にはなく、カトリックの宗教画の形式を放棄した構図なのである。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

言うまでもなくミレーは敬虔なカトリック教徒です。ミレーはなぜ宗教色を排したのでしょうか。それは注文主のアップルトンに関係していると、井出さんは言います。


調べてみて納得がいったのは、アップルトンは故郷ボストンのフェデラル・ストリート教会の熱心な信者であり、ここはアメリカにおけるユニテリアン(非三位一体派)の拠点だったのである。ユニテリアンは、キリストが神の子であっても神ではないとし、プロテスタントの中で最もリベラルな派閥である。極端に言えば、もはや宗派の区別は問題でなく、祈りが神に通じればよし。この性格を取り入れるなら、《晩鐘》はまさにユニバーサルな宗教性を持ち、世界で愛される名画の資格も同時に得ることになる。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

熱心なカトリック教徒(= ミレー)と、プロテスタントの中でも最もリベラルなユニテリアン教徒(= 絵の注文主)の出会いで生まれた "宗教画"、それが『晩鐘』だという見立てです。しかしどういう理由わけかアップルトンは完成した絵の引き取りに来なかった。ミレーは絵を売却し、紆余曲折の結果、絵は最終的にオルセー美術館に落ち着きました。

この絵が日本人の "宗教的心情" にも訴えるような "ユニバーサルな宗教性" を持っているというのは、確かにそうだと思います。



しかし、もう一つの重要なポイントがあります。それは二人が収穫している農作物がジャガイモだという点です。中野さんも書いているようにジャガイモは貧民の食べ物だったのです。井出さんは次のように書いています。


19世紀のフランス農民は、小麦が収れない地域では、蕎麦(黒麦)や燕麦を主食としていたが、それでも食べられない場合にはじゃがいもで代用した。すなわち、じゃがいもを主食としているフランスの農民の貧しい現実を、南北戦争以前にじゃがいもを主食としていたアメリカ開拓民になぞらえて描いたものではないか。

井出洋一郎
『「農民画家」ミレーの真実』

ゴッホの絵に『ジャガイモを食べる人々』という有名な絵があります。「いかにも貧しい農民」という絵であり「ジャガイモ = 貧しさ」だとよく分かります。対して『晩鐘』は、一見したところ貧しいという感じは受けないけれど、実態はゴッホの絵と同じなのです。

ジャガイモの原産地は南米のアンデス山脈で、16世紀にスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったものです。初めはヨーロッパに相当する作物がなかったため受け入れられませんでしたが、寒冷な気候に強いという特質が理解され、西ヨーロッパはいうに及ばす、東ヨーロッパ、ロシア、シベリア、中国、そして日本(特に北海道)にまで広まった。そのジャガイモに、フランス貧しい農民も救われたわけです。


ダリの "『晩鐘』論"


この絵で思い出すは No.97「ミレー最後の絵」に書いた、サルバトーレ・ダリ(1904-1989)の『晩鐘』についての発言です。ダリの生家には『晩鐘』のレプリカが飾られていて、彼は子どものころからこの絵を目にしていました。「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話」という論文断片集で、ダリは『晩鐘』について述べています。中野京子さんの本から引用します。


ダリは、女の足もとに置かれた手籠を不自然と感じる(そう言われればそんな気がしないでもない)。最初は籠ではなく、小さな ─── おそらく彼らの子どもを入れた ─── ひつぎを描いたのではないか。つまりこれは一日の終わりを感謝する祈りではなく、亡き子を土にめた後、母は祈り、父は泣いている情景だった。ところが誰かに忠告されたか、ミレー本人の気が変わったかして、最終的にこのような形に変更したのではないか、と。

確かにアンジェラス(=エンジェル)の祈りには、「聖母マリアさま、罪あるわたしたちのため、今も、臨終りんじゅうの時も、どうぞお守りください」との言葉がある。またミレー自身、友人への手紙にこう書いている。かつて信心深い祖母から、アンジェラスの鐘が聞こえるたび仕事を中断させられ、「死者たちのために祈りなさい」と言われた、それを思いだしながらこの絵を描いたのだ、と。

中野京子『怖い絵 2』
朝日出版社(2008)

もちろん中野さんは "ダリ説" を信じているのではありません。また山梨県立美術館の学芸員だった井出さんは実際にこの絵のエックス線写真を見たそうですが、

  ダリがひつぎとしたものはミレーがジャガイモの籠の位置を修正して書き直した結果、下書きがだぶったもので、ミレーの絵によくある深読みにすぎない

と、学芸員らしく断言しています(「農民画家ミレーの真実」から引用)。なぜダリがこのような "妄想" を抱いたのか。それは中野さんが示唆しているように「臨終の時も」というアンジェラスの祈りに出てくる文句に要因があるのかもしれません。

しかし思うのですが、ダリの "妄想" をかき立てた別の理由があって、それはまさにこの絵に描かれているのがジャガイモだからではないでしょうか。さきほど書いたようにジャガイモはアンデス山脈の高地が原産地であり、スペイン人が16世紀にヨーロッパに持ち帰ったものです。しかしすぐにヨーロッパに広まったわけではありません。伊藤章治氏の「ジャガイモの世界史」には次のように書かれています。


ジャガイモのヨーロッパでの普及は、迷信の壁に大きくはばまれた。

ジャガイモがもたらされるまで、ヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかった。前例のないものを口に入れることは抵抗が伴う。そこに迷信や偏見が生まれる背景があったといえよう。

現在のジャガイモは形も色もスマートで美しくなったが、ヨーロッパに移入された当時のジャガイモは、形がゴツゴツで不規則なうえ、色も悪かったという事情がこれに加わる。そんな形や色から、病気を連想、ハンセン病、クル病、肺炎、赤痢、ショウコウ熱などの原因がジャガイモだというまったく根拠のない言説が生まれ、広がっていった。さらには「催淫さいいん作用がある」ともいわれ、敬遠された。このためフランスの一部地方では、ジャガイモの栽培禁止を議会決議している。それほど抵抗や偏見は根強かった

さらにキリスト教文化圏では「ジャガイモは聖書に出てこない食物。これを食すれば神の罰が下る」との文化的偏見も加わる。

そんな迷信や偏見をはねのけ、ヨーロッパにジャガイモが広がったのはひとえに、打ち続く飢饉と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。飢えをまえに民衆は、次第に迷信や偏見を乗り越えていくのである。


ペルーのジャガイモ.jpg
アンデスのジャガイモ
現代のアンデス山脈で栽培されているジャガイモ。色は多様で、形は不規則である。スペイン人が持ち帰ったジャガイモはこのようだったと考えられる。伊藤章治「ジャガイモの世界史」より。

ダリは20世紀のスペイン人です。その時代のスペインにジャガイモに対する迷信や偏見はもうないでしょう。しかし昔の記憶がそれとなくダリに影響したとも考えられる。祖母がよく語っていたのは、昔はジャガイモを食べると神の罰が下ると言ったものだ、みたいな・・・・・。

ポイントはヨーロッパの多くの地方には、地下の茎から取れる食用植物はなかったという点です。ちなみにサツマイモもアメリカ原産であり、16世紀以前は、ジャガイモもサツマイモもヨーロッパにはありません。そこに偏見と迷信が生まれる要因があった。

「昔の記憶がそれとなくダリに影響した」というのは違うかもしれません(違うと思います)。しかしよくよく考えてみると、現代においても、

  地上からは全く見えない地下に埋まっている農作物を、土を掘り起こして収穫し、それを人間が食べるというのはジャガイモ(とサツマイモ)しかない

のです。「しかない」というのは言い過ぎですが、ごく一般的な農作物としてはそうでしょう。そしてダリはここに反応しているのではと思うのです。つまりダリは、

  土に鍬を入れて穴を堀り、かつては生命体だった "もの" を埋めて、その上に土をかぶせるという行為、つまりジャガイモを掘るのとは逆の行為を『晩鐘』に描かれている手籠から連想した

のではないでしょうか。普通の人間だと、あるいは普通のアーティストだとこういう連想はあり得ないと思います。しかしサルバトーレ・ダリは普通の感覚をもったアーティストではない(ということが、彼の作品を見るとよくわかる)のです。ジャガイモに触発された "妄想" ということもあるのではないか。



ダリの "『晩鐘』論" はさて置きます。しかしダリは別にしても、この絵にかれる人は多いと思います。その魅力どこにあるのかと言うと、中野京子さんが言うように「日々の労働の崇高さ、また貧しいながらも愛し合い信頼しあう夫婦の美しさ」であり、また井出洋一郎さんが指摘している「ユニバーサルな宗教性」でしょう。日本人にも十分理解できる宗教的感覚・・・・・・。その通りだと思います。

しかしもう一つのポイントはジャガイモです。それが、鑑賞する人に何かしらの印象を(暗黙に)残すのだと思います。その印象の内容と強さは、人によって違うかもしれないけれど・・・・・・。


『種まく人』と『晩鐘』と『落穂拾い』


『種まく人』『晩鐘』、そして『落穂拾い』というミレーの傑作農民画の3点を、農作物の観点からまとめると次のようになります。

作品 農作物
種まく人 蕎麦
晩鐘 ジャガイモ
落穂拾い 収穫されなかった小麦

この3作品はすべて、単なる農民画でありません。「明るい農村」とは真逆の世界、つまり、

貧しい農民
小麦が穫れないような厳しい環境で生きている農民

を描いたものなのです。これにはミレーの "思い" が示されていると考えるのが妥当でしょう。ミレーは意図的に、必死に生きている下層農民を描いた。それは当時のパリの「ブルジョアジーに対する毒を含んだ贈り物」(= 井出さんの『種まく人』についてのコメント)であっただろうし、またそれが絵を見る人に強い印象を与えるのだろうと思います。

補足すると、この3つの絵には農作物以外にも共通点があります。まず、暗い前景と明るい後景という描き方が同じです。さらに時刻が夕暮れ時です。「落穂拾い」と「晩鐘」は夕暮れ時がピッタリですが、「種まく人」はなぜ夕刻なのか。それは鳥に種を食べられないようにするためなのですね。昼間耕して夕暮れに種をまく。後景に小さく描かれた鳥の群れは巣に帰る姿です。



『種まく人』『晩鐘』『落穂拾い』の3作品が名画である最大の理由は、それぞれのテーマを具現化したミレーの画力であり、我々はそれをじっくり鑑賞すればいいと思います。しかし同時にこの3作は、描かれた農作物やシチュエーションを通じて「絵は時代の産物」という側面をよく表しています。そこもまた見所なのでした。

続く


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No.202 - ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで6回書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード
  No.192グルベンキアン美術館ポルトガル:リスボン

の6つです。いずれも19・20世紀の実業家の個人コレクションが美術館設立の発端となっています。今回はその続きで、オランダのロッテルダムにある「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」をとりあげます。


美術館のロケーション


オランダの美術館で No.158 で書いたクレラー・ミュラー美術館は、ゴッホの作品が好きな人にとっては是非とも訪れたい美術館ですが、この美術館はオッテルローという郊外の町の国立公園の中にあります。アムステルダムから公共交通機関を使うとすると、列車(直通、または乗り継ぎ)とバス2系統の乗り継ぎで行く必要があります。

それに対してボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダムという大都市の中心部にあり、アムステルダムからは列車1本で行けます。また途中のデン・ハーグにはマウリッツハイス美術館があるので、この2美術館をアムステルダムからの日帰りで訪問することも十分に可能です。

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館はロッテルダム駅から歩いて行けます。地下鉄なら駅一つですが、運河ぞいを散策しながら行くのがいいでしょう。駅から南方向へゆっくりと歩いて20分程度です。ちなみにロッテルダムはライン河の河口に近い港湾都市で、オランダ第2の大都市です。ここからヨーロッパ内陸の都市へ水路で行けるので、貿易や水運で大いに発展しました。

ロッテルダム.jpg
(青矢印はクレラー・ミュラー美術館 - Google Map)


ボイマンスとファン・ベーニンゲン


ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(Museum Boijmans Van Beuningen)はオランダで最も古い美術館の一つで、中世ヨーロッパから20世紀のモダンアートまでの幅広いコレクションがあります。もともと、弁護士のフランス・ボイマンス(1767-1847)が1841年に自身のコレクションをロッテルダム市に寄贈したのが始まりでした。その1世紀後、1958年に大実業家のダニエル・ファン・ベーニンゲン(1877-1955)がコレクションを市に寄贈し、これによって "ボイマンス・ファン・ベーニンゲン" という美術館の名称になりました。以下、この美術館の絵画作品を何点か紹介します。

BVB.jpg


ブリューゲル : バベルの塔(第2バージョン)


The Tower of Babel(Boijmans).jpg
ピーテル・ブリューゲル(1525/30-1569)
「バベルの塔」(1568頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この美術館の "目玉" 作品は何と言ってもブリューゲルの『バベルの塔』です。ウィーンの美術史美術館にブリューゲルの作品が展示されている部屋があり、そこに第1作目の『バベルの塔』がありますが、ブリューゲルが描いた2作目がこの作品です。ウィーン作品よりも塔の建設が進んだ段階のようです。

The Tower of Babel(Wien).jpg
ピーテル・ブリューゲル
「バベルの塔」(1563頃)
(ウィーン美術史美術館)

ロッテルダムの2作目を実際に見ると、ものすごく小さな作品です。特にウィーンの作品を先に見ているとその感じが強い。ウィーン作品は約114cm×155cmの大きさですが、ロッテルダム作品は約60cm×75cmであり、大きさでウィーンの半分、面積にすると4分の1しかありません("小バベル" と呼ばれている)。しかしそこに描かれた人の数は膨大で、約1400人といいます。これは60cm×75cmの大きさの「巨大なミニチュア画」といえるでしょう。

もちろん、美術館の展示で細部まで鑑賞するのは不可能です。鑑賞のためには近接してルーペで見る必要がありますが、ブリューゲルの傑作にそんなことはできません。ただし「現代のルーペ」があります。つまりハイビジョンや4Kの画像を撮影できるので、それを大画面で細部を順に拡大して見ることが可能なはずです。是非、美術館の常設展示としてそういったビデオ展示をやってほしいと思いました。

この絵は画家が自らの技量を示すために限界に挑戦したものと考えられます。ウィーン作品の半分の大きさにしたのもチャレンジ精神の発揮でしょう。しかし単に技量を示すためだけではない感じもします。「バベルの塔」を見て思うのは、画家の膨大で気の遠くなるような緻密な作業の積み重ねです。それは天に届く塔を作ろうとした聖書の中の人々営みの総体に重なって見えます。つまり「絵のモチーフ」と「絵の描き方」が非常にマッチしている。

ここまで書いて、No.150「クリスティーナの世界」で引用したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』を思い出しました。あの絵はテンペラ技法を使い、草の1本1本まで緻密に描き込まれています。絵を一瞥して感じるのは、制作につぎ込まれた膨大な画家の作業量です。それは、小児麻痺のクリスティーナが草原をはいつくばって自宅の小屋に少しづつ少しづつ向かう姿と重なります。またクリスティーナの人生における彼女の多大な努力の積み重ねを想像させる。

バベルの塔に戻りますと、この絵は "描き方" と "描かれたモチーフの意味内容" がピッタリとはまっています。そのあたりに絵の価値というか、見る人が暗黙に感じる魅力があるのだと思います。

この絵は日本で開催される "ブリューゲル「バベルの塔」展" で公開されます(東京都美術館 2017.4.18 ~ 7.2。大阪・国立国際美術館 2017.7.18 ~ 10.15)。展覧会のウェブサイトには次のように書かれていました。


今回の展覧会では新しい試みとして(中略)東京藝術大学COI拠点の特別協力により芸術と科学技術を融合させ、原寸を約300%拡大したブリューゲル「バベルの塔」の複製画を制作・展示します。また同拠点は「バベルの塔」の3DCG動画も制作し、多様なメディアを駆使してこの傑作の魅力に迫ります。

ブリューゲル「バベルの塔」展
公式ホームぺージより

「約300%に拡大した複製展示」は、ビデオ画像による詳細表示とともに是非やってほしいと思っていたものでした。このような展示によって初めて、この絵の真価がわかるのだろうと思います。


ファブリティウス : 自画像


ファブリティウスの絵は、以前にマウリッツハイス美術館の『ごしきひわ』という作品を引用しました(No.93「生物が主題の絵」。小品だが傑作です)。レンブラントの最高の弟子と言われるファブリティウスは、デルフトの弾薬庫の大爆発事故に巻き込まれ、32歳の若さで亡くなりました。そのときにアトリエも破壊されたので、現存する作品は10点程度といいます。その中の貴重な作品がこの自画像です。

Self-Portrait.jpg
カレル・ファブリティウス(1622-54)
「自画像」(1645頃)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵に描かれているファブリティウス本人は、一見すると "画家" という感じがしません(個人的印象ですが)。といって「画家らしい風貌とは何ですか」と問われると答えに困るのですが、この肖像から受ける "ワイルドな感じ" は、我々が一般的に思っている画家のイメージとは少しズレています。現代で言うと、激しい運動をともなうスポーツの選手、たとえばサッカー選手のような感じです(ヘアスタイルは別として)。

厚い唇は強い意志を感じさせます。野心を秘めた若手画家という風にも見える。つまり、画家のトップに君臨してやろうという意志を込めている感じです。レンブラントの最高の弟子といわれるだけあって、そういう野心をいだいてもおかしくないだけの技量があります。『ごしきひわ』を見ればその技量が直感できるのですが、この絵もそうです。注文を受けて描く肖像画とは全く違い、生身の人間をリアルに描いた感じが強い。17世紀の作品ですが、ゴヤを先取りしたような、近代絵画的な絵です。ちなみにファブリティウスは、おなじデルフトの画家・フェルメールより10歳年上です。

No.19「ベラスケスの怖い絵」で書いたように、人は顔を見ただけでその人の内面を推定・想像することを無意識にやっています。そういった想像をよりかき立てる絵が、肖像画としては良い絵なのでしょう。その意味で優れた絵だと思います。


クールベ : 果樹があるオルナンの山の風景


Mountainous landscape with fruit trees in Ornans.jpg
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)
「果樹があるオルナンの山の風景」(1873)
(Mountaineous landscape with fruit trees in Ornans)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

この絵からゴッホのポプラ並木までの4作品は印象派と関係しています。まずこのクールべの絵ですが、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館には類似の風景を描いた絵が2作品あり、そのうちの1つです。オルナンはクールべの故郷です。

以前にクールベの故郷にちなんだ絵として『フラジェの樫の木』(1864)『雪の中を駆ける鹿』(1856/57)を引用しました(No.93「生物が主題の絵」)。この両方ともいかにも "写実派" クールベらしい作品でした。しかしこのオルナンの山岳風景はちょっと違っていて、印象派の作風に似た感じがします。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館のウェブサイトの解説には「クールベは写実派として出発したが、後期には印象派に近づいた」という主旨の解説がありました。


モネ : ヴァランジュヴィルの漁師小屋


La maison du pecheur Varengeville.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(La maison du pecheur, Varengeville)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ヴァランジュヴィルはノルマンディーの英仏海峡に面した海岸地方で、避暑地として有名です。この絵を見て思い出すのはボストン美術館にある漁師小屋の作品で、ボストンに数々あるの印象派の名画の中でも最も記憶に残る絵の一つです。小屋がポツンと一つあるというモチーフが印象に残るのだと思います。

Fisherman's Cottage on the Cliffs at Varengeville.jpg
クロード・モネ
「ヴァランジュヴィルの漁師小屋」(1882)
(ボストン美術館)
ということから類推できるように、モネの漁師小屋の絵は連作です。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の解説によると、モネは少なくとも8枚の漁師小屋の絵を描いたそうです。

本作品はいわゆる対角線構図であり、左上から右下の直線で画面が2分されています。さらに「高い位置から風景を俯瞰し、水平線を画面の上の方にとる構図」は、日本の版画の影響でしょう。美術館の解説にもそう書いてありました。


ゴーギャン : 休息する牛


Vaches au repos.jpg
ポール・ゴーギャン(1848-1903)
「休息する牛」(1885)
(Vaches au repos)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

よく知られているようにゴーギャンはビジネスマン(株仲買人)から職業画家に転身した人ですが、その転身したあとの初期の作品で、ノルマンディーの風景です。

絵の構図はモネの絵と同じく対角線構図で、2つの対角線に沿って牛や木々、池が配置されています。構図の安定感は抜群といえるでしょう。筆使いは当時のトレンドの印象派そのものという感じですが、色使いに後のゴーギャンを感じさせるものがあります。


ゴッホ : ニューネンのポプラ並木


Poplars near Nuenen.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「ニューネンのポプラ並木」(1885)
(Poplars near Neunen)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのオランダ時代の絵です。その時期のゴッホの絵というと "コテコテの暗い絵" が多いのですが、この並木道の絵はそうでもありません。明け方でしょうか、空が明るく輝きはじめています。木々の葉にも明るい色が配されている。美術館の解説によると、ゴッホはパリへ移る時にこの絵を持って行き、パリで手を入れたそうです。当時のトレンドであった印象派の影響を受けた絵といえるでしょう。


ゴッホ : アルマンド・ルーランの肖像


Portrait of Armand Roulin.jpg
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)
「アルマンド・ルーランの肖像」(1888)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ゴッホのアルル時代の絵です。ゴッホは郵便配達人のルーランとその家族の絵を何枚か描きました。このブログでも No.95「バーンズ・コレクション」(ルーラン)、No.158「クレラー・ミュラー美術館」(ルーランと妻)で引用しました。MoMAにもあったと思います。この絵はそのルーランの息子を描いた作品です。

アルマンド・ルーランは当時17歳ですが、この絵を見ると髭をたくわえる伝統がある一家のようです。肖像画にはめずらしく、沈んで憂鬱そうな表情で、青春のそういう瞬間をとらえた絵なのだと思います。


ピカソ : カフェのテラスに座る女


Femme assise a la terrasse d'un cafe.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
「カフェのテラスに座る女」(1901)
(Femme assise a la terasse d'un cafe)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ピカソはパリに出てきた20歳頃に、大都会の "ナイトライフ" に関係した作品をいろいろ描いています。No.163「ピカソは天才か(続)」で引用した『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』も、夜のダンスホールの少々 "怪しい" 光景でした。この絵もド派手な身なりの女性を描いていて、一見して "その筋の女性" を想像させます。

形は非常に曖昧です。崩れてきていて、カンヴァスに溶解していくような感じです。その中で色彩だけが自己主張しています。色がもつ効果を示したかったのかもしれません。


シニャック : ロッテルダム港


Le port de Rotterdam.jpg
ポール・シニャック(1863-1935)
「ロッテルダム港」(1907)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館があるロッテルダムの波止場を描いた作品です。いわゆる "点描" の作風ですが、シニャック流の、筆致が分かる大きめの "点" で描かれていて、画面に独特の躍動感があります。全体的にシックな色調ですが、それは蒸気船に代表される近代文明と産業がテーマだからでしょう。波止場のにぎわい、ざわめき、波のきらめき、船やボートや煙の動きが伝わってきます。


カンディンスキー : The Lyrical


The Lyrical.jpg
ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)
「The Lyrical」(1911)
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館

美術館が示している英語題名は "The Lyrical" というものです。直訳は難しいですが、意訳すると "熱狂" としてもよいと思います。カンディンスキーが抽象絵画を始めた初期の作品です。

疾走する競争馬と騎手が描かれていて、その周りに赤・青・茶・緑が配置されています。抽象に踏み込んだ絵なので解釈は個人の自由ですが(もし解釈したいのならですが)、たとえばこの4色は人馬をとりまく群衆・池・大地・芝生という感じでしょうか。自由に描かれた馬と騎手の線が心地よい一枚です。




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No.201 - ヴァイオリン弾きとポグロム [アート]

前回の No.200「落穂拾いと共産党宣言」で、ミレーの代表作である『落穂拾い』の解説を中野京子・著「新 怖い絵」(角川書店 2016)から引用しました。『落穂拾い』が "怖い絵" というのは奇異な感じがしますが、作品が発表された当時の上流階級の人々にとっては怖い絵だったという話でした。

その「新 怖い絵」から、もう一つの絵画作品を引用したいと思います。マルク・シャガール(1887-1985)の『ヴァイオリン弾き』(1912)です。描かれた背景を知れば、現代の我々からしてもかなり怖い絵です。


ヴァイオリン弾き


Le Violoniste.jpg
マルク・シャガール(1887-1985)
ヴァイオリン弾き」(1912)
(アムステルダム市立美術館)

"ヴァイオリン弾き" というモチーフをシャガールは何点か描いていますが、その中でも初期の作品です。このモチーフを一躍有名にしたのは、1960年代に大ヒットしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」でした。シャガールはミュージカルの製作に関与していませんが、宣伝にシャガールの絵が使われたのです。もちろんミュージカルの原作者はロシア系ユダヤ人で、舞台もロシアのユダヤ人コミュニティーでした。

この絵について中野京子さんは「新 怖い絵」で次のように書いています。


緑色の顔の男がまっすぐこちらを見据え、三角屋根の上に片足を載せリズムをきざみつつ、ヴァイオリンをかなでる。ロシアの小村。木造りの素朴な家が点在し、屋根にも広場にも雪が積もる。煙突からは巻いたコイルのような煙が吐き出され、手前の木には鳥がつどう。画面左上に小さく、右端に大きく、教会が見える。幻想の画家シャガールらしい不思議な魅惑の世界。

ヴァイオリン弾きのコート及び背景を分割する白と暗色の組み合わせが、実に効果的だ。画面からは音楽までも流れだす。けれどそれは陽気なばかりのメロディではない。哀愁漂い、不安を内包した弦の響きに違いない。なぜなら真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっているからだ。ヴァイオリン弾きを見上げる三人の人物も不安そうだ。


この絵には、見逃してはいけない細部のポイントが3つあると思います。一つは中野さんが指摘している点で、「真っ黒い雲に追われるように、光輪をもつ聖人が空を逃げまどっている」姿です。画面の上の方に小さく描かれているので見逃してしまいそうですが、重要な点でしょう。なぜ聖人が逃げているのか。聖人は何から逃げているのか。そもそもなぜ聖人なのか。想像が膨らみます。

二つ目のポイントは、ヴァイオリン弾きの右手と左手の指です。この両手とも通常のヴァイオリニストの指とは逆の方向から弓と指板しばんを持っています。大道芸の曲芸演奏ならともかく、この持ち方でまともな音楽を奏でるのは無理でしょう。中野さんは「哀愁漂い不安を内包した弦の響きに違いない」と書いていますが、それどころではない、もっとひどい音が出るはずです。ヴィブラートなど絶対に無理です。この絵から感じる "音楽" は、音程がはずれた、不協和音まじりの、人間の声で言うと "うめき" のような音です。少なくとも "歌" は感じられない。そういったヴァイオリン弾きの姿です。

三つ目のポイントは、"逃げまどう聖人" よりさらに気がつきにくいものです。画面の右上と左上に数個の足跡が描かれています。足跡の方向からすると、右から左へと誰かが移動した跡であり、しかも左の方の足跡の一つだけ(片方だけ)が赤い。これはどういうことかと言うと、

  誰かが右手からユダヤ人の住居に押し入り、そこで鮮血が床に流れるような行為をし、その鮮血を片足で踏んで家から出て、左の方向に去った

と推定できるのです。中野さんは「新 怖い絵」でそのことを指摘しています。背景となったのが "ポグロム" です。


ポグロム



世紀末からロシア革命に至る期間、激しく大規模なポグロムがロシアに何度も何度も荒れ狂った。ポグロムはロシア語ではもともと「破壊」の意だが、歴史用語としてはユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺を指す。

ポグロムに加わり、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝・集会堂)への放火や店を襲っての金品強奪ごうだつ、老人にも女・子どもにも見境なしの暴行、レイプ、果ては惨殺に及んだのは、都市下層民や貧農、コサックなど経済的弱者が大半と言われる。だが各地で頻発ひんぱつするにつれ、ポグロムは政治性を帯びて組織化した。警官や軍人も加わったのだ。

(同上)

誤解のないように書いておきますが、ユダヤ人に対する集団的略奪・虐殺(= ポグロム)はロシアだけの現象ではありません。現代の国名で言うと、ドイツ、ポーランド、バルト三国、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどで、12世紀ごろから始まりました。特に19世紀後半からは各地でポグロムの嵐が吹き荒れました。ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストは、ポグロムが「政治性を帯びて組織化」し、頂点に達したものと言えるでしょう。中野さんが書いているのは "ロシアのポグロム" です。

シャガールは、1887年に帝政ロシア(現、ベラルーシ)のユダヤ人強制居住地区に生まれた人です。当時のロシアに居住していたユダヤ人は500万人を越え、これは全世界のユダヤ人の4割を越すといいます。シャガールが生まれたとき、ロシアではポグロムが始まっていました。画才に恵まれたシャガールは、23歳のとき初めてパリに出て4年間滞在しました。その時に描いたのが上の絵です。


ミュージカル(引用注:屋根の上のヴァイオリン弾き)における表現はソフトで、村民が全員追放されるだけだったが、現実のポグロムでは死者が数万人も出ている(数十万人という研究もあるが、正確な数字は把握されていない)。カメラの時代になっていたから、自分が殺した相手といっしょに記念写真を撮るというようなおぞましい記録まで残っている。シャガールは直接ポグロムを経験していないが、小さなころから重苦しい不安は日常だったし、キエフでなまなましい体験をした芸術家仲間から具体的な話を聞いたこともある。昨日まで挨拶を交わしていた近所の住人が、突然棍棒こんぼうだの鋤鍬すきくわだのを振り上げて襲ってくる恐怖は、いつ現実のものとなってもおかしくなかったのだ。

シャガールは絵の中にそれを描き込んでいる。もう一度『ヴァイオリン弾き』の画面に目をらしてほしい。白い雪の上にはいくつも靴跡がある。それは右からユダヤ人の家を目指して進み、左の家から出てくるが、その出てきた靴跡の一つは、何と、鮮血を踏んだごとく真っ赤ではないか !

(同上)


絵の歴史的背景


『ヴァイオリン弾き』という絵をみるとき、背景にある歴史を詳しく知らなくても十分に鑑賞が可能です。予備知識というなら、シャガールはユダヤ人で、故郷をイメージして描いたぐらいで十分です。

この絵は一見してファンタジーだと分かります。白と暗色のコラージュのような組み合わせの中に、故郷に関連した、ないしは故郷から連想・夢想するアイテムがちりばめられています。そこで特徴的なのは、

片足を屋根に乗せてヴァイオリンを弾くという、まったく釣り合いのとれない感じ
まともな音が出せそうにない、ヴァイオリン弾きの指の使い方
巨人として描かれたヴァイオリン弾きを不可解そうに見上げる3人の人物
何かから逃げているような聖人の姿

などです。そこから感じるのは「不安定感」「不安感」「ちぐはぐ」「普通の生活ではないものがある感じ」「"懐かしい故郷" とは異質なものが混ざっている感じ」などでしょう。それは画家の故郷に常に潜在していたものだと考えられます。ここまでで絵の鑑賞としては十分です。

しかしここに「ポグロム」という補助線を引いてみると、この絵から受けるすべての印象がその補助線と関係してきて、全体の輪郭がはっきりするというか、新たな輪郭が浮かび上がってきます。赤い足跡も重要な意味を帯びてくる。

そもそもなぜ屋根の上でヴァオリンを弾くのか。それはある伝承からきています。古代ローマ帝国の時代、「ネロがキリスト教徒を虐殺しているとき、阿鼻叫換あびきょうかんをよそにただ一人、屋根の上でヴァイオリンを弾くものがいた」(「新 怖い絵」より引用)という伝承です。ヴァイオリンの誕生は16世紀なので作り話だということが明白ですが、シャガールはその伝承をもとに作品化したと言います。この伝承の内容もポグロムとつながります。

ポグロムあくまで補助線であって本質ではありません。絵としての本質は、全体の構図や色使い、個々のアイテムの描写力、この絵を見るときに人が直接的に受ける印象、絵としての "強さ" などにあります。しかし、補助線が別の本質を指し示すこともある。

必ずしもそういった絵の見方をする必要はないのですが、そのような鑑賞もできるし、絵の見方は多様である。そういうことだと思いました。




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No.200 - 落穂拾いと共産党宣言 [アート]

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」で、フィラデルフィア美術館が所蔵するミレーの絶筆『鳥の巣狩りBird's-Nesters)』のことを書きました。その継続で、今回はミレーの "最高傑作" である『落穂拾い』(オルセー美術館)を話題にしたいと思います。実は『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』には共通点があると思っていて、そのことについても触れます。

  ちなみに、このブログで以前にとりあげたミレーの絵は『鳥の巣狩り』『晩鐘』『死ときこり』(以上、No.97)、『冬』『虹』(No.192「グルベンキアン美術館」)ですが、それぞれミレーの違った側面を表している秀作だと思います。

まず例によって、中野京子さんの解説によって『落穂拾い』がどういう絵かを順に見ていきたいと思います。


貧しい農民と旧約聖書


落穂拾い.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
落穂拾い」(1857)
(オルセー美術館)

この絵に描かれた光景と構図について、中野京子さんは著書「新 怖い絵」で次のように解説しています。


大地は画面の七割を占め、厚みを帯びて広がっている。『晩鐘ばんしょう』と同じく、明暗のコントラストが鮮やかだ。夕暮れのやさしいを浴びた豊穣ほうじょうな後景と、影の濃い貧困たる前景。麦藁むぎわらが天まで届けとばかりに積み上がった後景と、やっとの思いで集めた数束が画面右端に見えるだけの前景。干し草のかぐわしい匂いが漂う後景と、じめじめした土の臭いを感じさせる前景。おおぜいの人間が収穫に沸くにぎやかな後景と、三人一組であるかのような女性が腰を折って黙々と落穂を拾う前景・・・・・・。


『落穂拾い』の構図は、前景と後景の対比で成り立っています。中野さんの文章を整理してみると、

後景
明暗の対比の「明」
夕暮れのやさしい陽を浴びて豊穣
麦藁が天まで届けとばかりに積み上がる
干し草のかぐわしい匂いが漂う
大勢の人間が収穫に沸き、賑やか

前景
明暗の対比の「暗」
影が濃く貧困としている
やっとの思いで集めた数束が画面の右端に見える
じめじめした土の臭いを感じさせる
三人の女性が腰を折って黙々と落穂を拾う

となります。そしてもちろん絵の主役は "じめじめした土の臭いを感じる中で腰を折って黙々と落穂を拾う" 前景の三人です。


だがこのヒロインたちの、どっしりした存在感はどうだ。彼女らは今ここにまぎれもなく生きている。単調で厳しい労働に耐え抜く太い腰。あかぎれした無骨な手を持つ彼女らは、バルビゾンの農婦だった時代をはるかに超え、古典古代の力強い彫像のように永遠の命を与えられてここにいる。

ミレーのさりげない上手うまさが光る。画面構成はもちろんのこと、人物の動きと配置も完璧だ。はいいつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン。もう一人は、おそらく少し休んで伸びをしていたのだろう。再び目を地面に落とし、かがみ込むところだ。全体に色彩の乏しい中、かぶりものの赤と青が印象的だ(聖母マリアが身にまとう赤と青を思い出させる)。

(同上)

中野さんは、落穂を拾う三人の「どっしりした存在感」と書いていますが、確かにその通りです。西洋絵画における "モデリング" というのでしょうか、骨太の立体感が伝わってきます。絵の中に彫刻作品があるような、造形の確かさがあります。実際に見た通りに描くと、こうはならないでしょう。絵画でしか成しえない世界を作ったという感じがします。それに加えて完璧な構図と色使いのうまさがあり(赤と青が利いている)、この絵が絵画史上の名画中の名画とされていることも分かります。

ミレーによって "永遠の命を与えられた" 三人の女性、表情は定かではないが存在感抜群の三人の女性は、いったいどういう人たちだったのでしょうか。これはよく知られています。中野さんは次のように書いています。


それにしても三人はなぜ後景の皆といっしょに働いていないのだろう? 村八分にでもあっているのか?

まあ、それに近いかもしれない。広大なこの麦畑は彼女たちには何の関わりもない。雇われてさえいない。刈り取りが終わった畑に勝手に入り、おこぼれにあずかっているだけなのだ。迷惑がられていた可能性もある。入るな、拾うなと言われれば従うしかない。こうして拾っていられるのは、地主側の黙認による。それも昼の刈り入れ後から日没までのわずかな時間のみなので大急ぎだった。

(同上)

さらに "落穂拾い" が聖書で言及されていることも、よく知られていると思います。


落穂拾いについては、旧約聖書の『レビ記』や『申命しんめい記』に記述がある。いわく、畑から穀物を刈り取るとき、刈り尽くしてはならないし、落穂を拾い集めてはならない。それらは貧しいもの、孤児、寡婦かふのために残しておきなさい、と。

こうした「喜捨きしゃの精神」、反転するなら「貧者の権利」は、近年になってもまだ続いていた。ただし貧しい地方、たとえばミレーの育った寒冷で土地のせたノルマンディー地方には見られない慣習だった。だから彼は、農村の最下層たる寡婦(あるいは夫が病に倒れた女性)が落穂を拾う姿に胸を打たれたのだろう。

(同上)

ミレーは敬虔なクリスチャンであり、有名な『種まく人』も聖書に由来があります。まず、そういった信仰がベースにあり、そこに懸命に生きる人間の "けなげさ" が加わり、さらに絵としての構図や描写の素晴らしさが重なって、この絵は当時から大いに人気を博しました。数々の複製画が出回ったと言います。



以上のように「最下層の農民」と「キリスト教」が、この絵の二つの背景です。しかしこういった見方とは別に、この絵が発表された当時は全く別の観点から見る人たちがいたのです。


共産党宣言


『落穂拾い』は人々の共感を呼んだと同時に、ミレーと同時代の一部の人たちに強い反感をもたらしました。


だがミレーと同時代人の中には、この絵を「怖い」と思う人々がいた。本気で怖がり、それゆえにみ嫌う人々が・・・・・・。

当時ヨーロッパ中が揺れていたからだ。

「ヨーロッパに幽霊が出る ── 共産主義という幽霊である。ふるいヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」

あまりに有名な『共産党宣言』(マルクス エンゲルス、岩波文庫)の冒頭である。締めくくりの言葉、「万国のプロレタリア団結せよ!」もまた、人口に膾炙かいしゃした。

この書物は『落穂拾い』が発表される9年前の1848年に刊行され、次第に広く深く影響を与えつつあった。上流階級は、「下層の労働者」が分をわきまえぬ欲望を抱き、団結し、生まれついての、しかも必然的永久的であらねばならぬ「身分」の境界を越え、自分たちの神聖な領域へ割り込む気ではないかと心配し、おびえ、憤慨ふんがいした。彼らは少しでもそんな芽を感じると、文学であれ美術であれすばやく反応し、たたつぶそうとした。

(同上)

実は "落穂拾い" の主題は多くの画家によって取り上げられてきました。聖書に言及があるので当然とも言えるでしょう。その典型例がジュール・ブルトン(1827-1906)の『落穂拾いの女たちの招集』(1859)で、ミレーの『落穂拾い』(1857)と同時期に発表された作品です。

落穂拾いの女たちの招集.jpg
ジュール・ブルトン(1827-1906)
「落穂拾いの女たちの招集」(1859)
(オルセー美術館)

官展で1等をとったこの絵は、聖書の世界をあくまで美的に表現していて、ミレーが描いた現実の農民の姿とは全く違います。登場する女性は若々しく健康的で(非現実的)、前列の2人は裸足であり(これも非現実的)、拾い集めた麦も穂がたっぷりとついています(とても落穂とは思えない)。


ミレーだとこうはゆかない。保守派が猛然とみつく道理で、『落穂拾い』が発表されるや、「三人の女性には大それた意図がある。貧困の三美神のようにポーズをとっている」だの、「秩序をおびやかす凶暴な野獣」などと評された。詩人ボードレールのミレー嫌いも徹底していた。曰く、「取り入れをしていようと、種をいていようと、牝牛めうしに草をませていようと、動物たちの毛を刈っていようと、彼らはいつもこう言っているように見えます、『この世の富を奪われた哀れな者たち、だがそのわれわれが、この世を豊穣ほうじょうならしめているのだぞ!』(中略)彼らの単調な醜さの中に、これらの小賤民パリアたちは皆、哲学的でメランコリックでラファエルロ的な思い上がりをもっています。」(阿部良雄訳「一八五九年のサロン」/『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫)。

肉体労働に従事する者は「醜い小賤民」で、詩を書く自分は貴族的というわけであろう。となるとそんなやから下克上げこくじょうされたらたまったものではない。持てる者の不安と恐怖が、ミレー作品の本質を見誤らせてしまった。

(同上)


絵を見る視点


中野京子さんが「新 怖い絵」という本に『落穂拾い』をとりあげたのは、この絵が発表された当時、ある種の人たちにとっては本当に "怖い絵" だったからでした。その背景になったのは、産業革命以降の資本主義の発達と貧富の差の拡大です。そこから社会主義運動が起こってきた。それは労働者の権利の主張という範囲を越えて、階級社会の否定、ないしは革命を目指す運動にもつながってくる。特にフランスの富裕層は、70年前に大革命が起きて王制や教会が打倒されたことを想起したでしょう。ミレーに階級社会を否定する意図が無かったようですが、意図があると見なされる社会的な素地があったわけです。

現代人である我々が『落穂拾い』を見るとき、キリスト教や聖書の背景を考えないとしても、

  貧しい中で黙々と働く農婦への共感を覚え、労働の尊さに想いを馳せる

のが普通でしょう。ところが19世紀半ばのフランスでは、必ずしもそうではなかったのですね。つまり、ボードレールに代表される『落穂拾い』への非難、ないしは反感が示しているのは、

現代人の感覚だけで過去を判断してはいけない。一面的な(ないしは誤った)見方をしてしまうことがある。
絵画は描かれた時代を映すものでもある。
絵画は、見る視点のとり方によって、その解釈がガラッと変わることがある。

ということだと思いました。


『落穂拾い』と『鳥の巣狩り』


鳥の巣狩り.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
鳥の巣狩り」(1874)
(フィラデルフィア美術館)

ところで、冒頭に書いた『鳥の巣狩り』のことです。この絵に初めてフィラデルフィア美術館で出会ったとき、パッと見て何を描いているのか分かりませんでした。題名も "Bird's-Nesters" となっていて、ちょっと不可解な題です(nesters という語の意味が分かりにくい)。しばらく絵をじっと見ていると理解が進んできました。登場人物は4人で、夜の光景です。おそらく2組の夫婦なのでしょう。2人の男が明かりをかざして、画面を覆う鳥を棍棒で叩き落としています。2人の妻は、地面にいつくばるようにして叩き落とされた鳥(実際は野鳩)を拾っているところです。

現代なら、立てた棒の間にネットを張って鳥を追いこむのでしょうが(=かすみ網。日本では禁止)、棍棒で鳥を撲殺するというのは随分 "原始的な" 方法です。夜に突如として強い光を当てられると鳥はパニックになって飛び去れない。そこをうまく突いた狩猟方法のようです。

  ちなみに、この絵を所蔵しているフィラデルフィア美術館は題名を『Bird's-Nesters = 鳥の巣狩り』としています。この題名通りに鳥の巣を狩るとしたら、その目的は鳥の卵か雛をとることです。しかしこの絵は "鳥そのものを狩る" 光景です。なぜ Bird Hunting(鳥狩り)か Bird Hunters(鳥狩り人)ではないのか。その理由の推測を No.97「ミレー最後の絵」に書きました。

この『鳥の巣狩り』という絵は『落穂拾い』を連想させるところがあります。それは絵の中の2人の農婦です。

  地面に屈み込んでいる(あるいは這いつくばっている)2人の農婦が、
小麦の穂、あるいは
瀕死の野鳩(ないしは死んだ野鳩)
を拾っている光景

という点で連想が働くのです。絵の中の雰囲気はまるで違います。『落穂拾い』では、静かな夕暮れ時に2人の農婦がリズミカルに小麦の穂を拾っています。静寂の中、足音と小麦を掴むわずかな音だけが響くという光景です。一方の『鳥の巣狩り』は、野鳩の大群の啼き声と羽ばたき音が充満するなか、地面でまだバタバタと羽を動かしている瀕死の鳩を拾う光景です。地に落ちた野鳩の阿鼻叫喚あびきょうかんの中での作業です。

しかし地面に屈み込んで(あるいは "這いつくばって")何かを拾うことでは、2つの絵は共通しています。中野京子さんは『落穂拾い』を評して「這いつくばるように前進する二人が奏でるリフレイン」と書いていますが、『鳥の巣狩り』の2人の方がもっと "這いつくばって" いる。もちろん "リフレイン" どころではない光景だけれど。

落穂拾い(部分).jpg
落穂拾い」(部分)

鳥の巣狩り(部分).jpg
鳥の巣狩り」(部分)

No.97「ミレー最後の絵(続・フィラデルフィア美術館)」に書いたように『鳥の巣狩り』はミレーの絶筆です。描いた時点でミレーは死期を悟っていました。病床にあった彼は最後の最後まで手を入れ続けたといいます。なぜ彼がこの絵を描いたのか、その推測を No.97 に書きました。ミレーはノルマンディー地方の農家に生まれ、バルビゾンで農民を描いて成功した画家です。その人生の総決算が『鳥の巣狩り』だというような想像でした。

そして付け加えるなら、ミレーはこの絵を描くときに『落穂拾い』が念頭にあったのではないでしょうか。ミレーの代表作は『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』『羊飼いの少女』であり、当時からそう見なされていました。画家自身も自らの代表作と意識していたはずです。これらのうち一つをあげるとすると、やはり『落穂拾い』だと思います。ミレーは『落穂拾い』で地面に手を延ばしている2人を、人生最後の作品である『鳥の巣狩り』に再び登場させたのではないでしょうか。全く違うモノに手を延ばす2人として・・・・・・。



ミレーやコローを代表格とするバルビゾンの画家は、当時のパリで大いに人気を博したようです。都市化が進んだパリ市民には「自然へのあこがれ」があり、また「農村の牧歌的風景」や「農民の素朴さ」が求められたからでしょう。それはあくまで都会人の視点での農村・農民です。近・現代の日本でも、そういう "古きよき農村風景" を描いた絵はいろいろありました。

しかしミレーはそう単純ではなかった。あくまで農民の側に立って、農村の真実を描いたわけです。そこには、農民たちの喜び、神への感謝と祈り、労働の辛さと過酷さ、さらには "報われることがない人生に対する悲しみ" までが表現されているようです。だからこそ、見る人が見れば社会を告発している "怖い絵" にも思えたのでしょう。

そしてミレーという画家の人気の源泉、人の心を打つ理由は、まさにその点にあるのだと思います。

続く


 補記:乳しぼりの女 

『落穂拾い』における後景と前景のコントラスト、"明" と "暗" の対比に関連して思い出す絵があります。ブリジストン美術館が所蔵する『乳しぼりの女』です。ブリジストン美術館のWebサイトの解説によると、この絵はミレーが故郷のノルマンディー地方・グリュシーを訪れたときのスケッチをもとに制作したものです。

乳しぼりの女.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
「乳しぼりの女」(1854-60)
(ブリジストン美術館)

この絵では、明るい後景は画面の3分の1程度しかなく、牛と農婦を描いた薄暗い前景が大半を占めています。『落穂拾い』の3人と同じく農婦の顔や表情は全く描かれず、薄暗い中で乳絞りにいそしむ様子だけが画面の中央にシンプルに提示されている。そのかがんでいる農婦の姿は何となく『落穂拾い』を連想させます。絵としての構図の妙や農婦の存在感の表現は『落穂拾い』の方がグレードが数段上でしょうが、こういったシンプルな絵にこそ本質が現れることもあります。明るい "のどかな" 農村風景と、そこで日々行われている普通の農民の労働を対比的に描くことで、画家は農民への強いシンパシーを表したのだと思います。

続く


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No.199 - 円山応挙の朝顔 [アート]

円山応挙展ポスター.jpg
No.193「鈴木其一:朝顔の小宇宙」で、メトロポリタン美術館が所蔵する鈴木其一(1795-1858)の『朝顔図屏風』のことを書きました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手 展」で展示された作品です。

実はこのすぐあとに、もう一枚の "朝顔" を鑑賞する機会がありました。円山応挙(1733-1795)が描いた絵です。根津美術館で開催された『円山応挙 -「写生」を超えて』展(2016年11月3日~12月18日)に、その朝顔が展示されていました。今回はこの展覧会のことを書きます。

この展覧会は応挙の画業を網羅していて、多数の作品が展示されていました。国宝・重要文化財もあります。その中から朝顔を含む4作品に絞り、最後に全体の感想を書きたいと思います。


朝顔図


朝顔図.jpg
円山応挙 「朝顔図」
天明四年(1784)51歳
(相国寺蔵)

並んで展示されていた『薔薇ばら文鳥図』と二幅一対の掛け軸で、この二幅は元々 "衝立て" の両面だったと言います。朝顔の銀地に対して、薔薇文鳥は金地でした。

この絵は、画面右下のほぼ4分の1に朝顔を密集させ、それによって銀地の余白を引き立てています。朝顔の蔓は左方向横と左斜め上に延び、銀地を心地よく分割しています。花と葉の集団は画面の右端でスパッと切断されていて、さらに右への朝顔の広がりが感じられます。"完璧な構図" といったところでしょう。

"完璧な構図" と書きましたが、これは日本的な美意識だと思います。つまり、不均衡で非対称な美と、何かがあることを想像させる余白の美です。また、モチーフのカットアウトによってズームインしたような印象を与え、それによって画面の外への広がり感を出す構図のとり方です。江戸期の美術の一つの典型がここにあるような感じがしました。

それと同時に、この作品は琳派を思わせます。つまり「全面の銀の箔押し中に草花を描く」というところです。広い余白で草花を強調し、同時に銀地も映えるようにする・・・・・・。この絵の優美で、落ち着いて、洒落た感じは、江戸琳派の祖、酒井抱一(1761-1829)の絵といってもおかしくはないと思いました。

円山応挙は「写生」の画家と言われていて、それはその通りですが、今回の展覧会のテーマは「写生を超えて」となっていました。つまり「写生」を基調にしつつ、応挙が試みた様々な画風というか、スタイルの絵が展示されていました。酒井抱一を先取りするような『朝顔図』も、まさに "超えた" 絵の一枚だと思います。


白狐びゃっこ


白狐図.jpg
円山応挙 「白狐図」
安永八年(1779)46歳
(個人蔵)

白狐は日本古来の信仰である「稲荷神」であり、人々に幸福をもたらす "善狐" です。日本に生息している狐に "白狐" はいないと思うのでですが、動物の常で、稀に白い個体が出現することはあるのでしょう。なお、No.126「捕食者なき世界(1)」で書いた "ホッキョクギツネ" は冬毛が真っ白で、まさに白狐です。

この絵のポイントは、白狐を "白く描いていない" ことです。つまり絹地に何も描かないことで白狐を表現している(=塗り残し)。墨で描いた毛は体の外周から少し内側にあり、そのことで毛並みの "ふわふわ感" や "ソフトな感じ" を出しています。その感じが、全く何も描かれていない体の中の方にもつながっていると想像させます。絵画技法がピタッと決まった絵という感じです。

円山応挙は、有名な国宝『雪松図屏風』(今回の展覧会で前期に展示)の雪の表現で "描かないことで描く" 手法をとりました。それ以外にも、雪を同一の技法で描いた作品が展示されていました。たとえば『雪中水禽図』です。雪のフワフワした、軽い感じがよく出ていると思いました。

雪中水禽図.jpg
円山応挙 「雪中水禽図」
安永六年(1777)44歳
(個人蔵)

余談ですが、近代の画家で "描かないことで描く" 達人は川合玉堂だと思います。玉堂が雪景色を描いた作品を引用しておきます。「塗り残し」で動的な表現(=風)まで踏み込んでいるのが素晴らしいところです。

川合玉堂・吹雪.jpg
川合玉堂「吹雪」
大正15年(1926)

川合玉堂は岐阜出身ですが、京都に出て「円山・四条派」を学んだ人です。川合玉堂もまた円山応挙の弟子なのでしょう。

この技法が使えるのは玉堂作品にもあるように "雪" が一般的だと思いますが、それ以外では動物が考えられます。白い鳥(白鳥やシラサギなど)や白ウサギが思い浮かびますが、応挙が選んだのは神獣である狐でした。 "描かないことで描く" 手法が、ボーッと浮かび上がるような、現実の動物ではないような感じを出していて、そこが印象的でした。


藤花図屏風


重要文化財である『藤花図屏風』は、今回の展覧会で是非とも見たかった絵です。『朝顔図』と違って、こちらは総金地です。その中に、日本の和歌や絵画の伝統的なモチーフである "藤" が描かれています。

藤花図屏風.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」
安永五年(1776)43歳
(根津美術館蔵)

藤花図屏風・左隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 左隻

藤花図屏風・右隻.jpg
円山応挙 「藤花図屏風」 右隻

この屏風では、藤の幹・枝・蔓を描くのに、いわゆる「付け立て」の技法が使われています。筆や刷毛の全体に薄い墨を含ませ、先の方に濃い墨をつける。その状態で "一気呵成いっきかせいに" 一筆で描く。墨の濃淡やムラがあちこちに出現し、それによって幹・枝・蔓が表現されています。

もちろん事前にデッサンを重ねて、全体の構図を精密に決めてから描くのでしょうが、描く行為はそのものは一瞬です。やり直しはききません。いくら名手の応挙といえども、意図した以外の濃淡やムラも出るはずで、そういった偶然性も内包していると言えるでしょう。ここだけをとると、写生や写実とはほど遠い "前衛手法" という感じがします。まさに展覧会のテーマである「写生を超えた」表現です。

その一方で、藤の花と葉は時間をかけて丁寧にリアルに描いています。葉をバックに、空から降ってくるような花は華麗で美しい。その「リアルな美しさ」と「一気呵成」が違和感なく同居しているのが『藤花図屏風』です。異質なものを同居させて一つの屏風を仕立てた応挙の技量は、ちょっと感動的です。

「付け立て」に戻りますと、西欧の近代絵画に「筆触を残す描き方 = ブラッシュワーク」があることが思い出されます。つまり印象派の画家の描き方です。しかし応挙のブラッシュワークは濃淡のコントロールがあって大変に高度です。「付け立て」は日本画によくある手法ですが、その最良の例が応挙のこの絵でしょう。なお上で引用した川合玉堂ですが、玉堂の作品には「付け立てを使った藤の絵」があります。 明白に ”自分は応挙に習った” と宣言しているのです。

この『藤花図屏風』から連想したのは、印象派の絵というより、No.46「ピカソは天才か」で引用した『カナルス夫人の肖像』(バルセロナのピカソ美術館)でした。この絵においてピカソは肖像そのものを極めてリアルに描いています。しかしモデルがまとっているショールは、筆跡を生かした非常に素早いタッチです。薄いショールに最適な描き方だったのでしょう。つまり「リアルに描く緻密な筆」と「躍動する素早い筆」が同居しています。

ピカソと円山応挙は何の関係もありませんが、2枚の絵だけを見ると "一脈通じるもの" を感じます。文化的・歴史的背景や描かれたモチーフや絵画技法は全く違うのですが、絵であることは変わりません。描き方に類似のコンセプトがあったとしてもおかしくはない。こういうところに想いを馳せるのも、絵画を鑑賞する楽しみの一つだと想います。

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円山応挙 「藤花図屏風」 左隻・部分

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円山応挙 「藤花図屏風」 右隻・部分


瀑布亀図


瀑布亀図.jpg
円山応挙 「瀑布亀図」
寛政六年(1794)61歳
(個人蔵)

円山応挙が亡くなる前年に描いた絵です。この作品も異質な表現の対比が目を引きます。2匹の亀は写実的に描かれています。よく見ると簡易化しているところもありますが、受ける印象は親子亀をリアルに描いたという感じです。

一方、滝は直線をいくつか描いただけで表現されています。亀が乗っている岩も、"たらし込み" というのでしょうか、墨が滲んだ感じで、ぼんやりと描かれているだけです。滝壺は描くことさえなく、わずかな水しぶきだけで暗示されている。これらの表現は非常に抽象的です。特に滝が真っ直ぐな線だけというのが極端な抽象化で、現実とはほど遠い。これは「"勢い" の視覚表現」なのでしょう。単純な形が持つイメージの喚起力を引き出そうとしたようです。

『藤花図屏風』のような大作ではないけれど、"写実的" と "抽象的" を同居させた対比の妙という点では似通っています。晩年の応挙が描画力を自在に駆使して描いた洒落た絵、と感じました。


スタイルを超越する


今回の『円山応挙 -「写生」を超えて』という展覧会でよく理解できたのは、応挙にはさまざまな "画風" というか、描き方のスタイルがあることです。朝顔図の "琳派風" だけでなく、大和絵や南画を連想させる作品があり、絵巻物があり、また西洋っぽい遠近法を使った眼鏡めがね絵("覗き眼鏡" 用の絵)まであります。多数あった動植物の写生は素晴らしく、そういった写生が基本であることは間違いなのですが、全体を見渡すとスタイルはいろいろです。応挙は一つの画風に収斂しゅうれんする画家ではないのです。

葛飾北斎もそうですが、応挙はスタイルを超越した画家であり、その意味において江戸絵画の巨人、そういう感想を持ちました。




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No.193 - 鈴木其一:朝顔の小宇宙 [アート]

No.85「洛中洛外図と群鶴図」で尾形光琳の『群鶴図屏風』(フリーア美術館所蔵。米:ワシントンDC)を鑑賞した感想を書きました。本物ではなく、キヤノン株式会社が制作した実物大の複製です。複製といっても最新のデジタル印刷技術を駆使した極めて精巧なもので、大迫力の群鶴図を間近に見て(複製だから可能)感銘を受けました。

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「鶴が群れている様子を描いた屏風」は、光琳だけでなく江戸期に数々の作例があります。その "真打ち" とでも言うべき画家の作品、光琳の流れをくむ江戸琳派の鈴木其一きいつの『群鶴図屏風』を鑑賞する機会が、つい最近ありました。2016年9月10日から10月30日までサントリー美術館で開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展です。今回はこの展覧会から数点の作品をとりあげて感想を書きます。

展覧会には鈴木其一(1795-1858)の多数の作品が展示されていたので、その中から選ぶのは難しいのですが、まず光琳と同じ画題の『群鶴図屏風』、そして今回の "超目玉" と言うべき『朝顔図屏風』、さらにあまり知られていない(私も初めて知った)作品を取り上げたいと思います。


鈴木其一『群鶴図屏風』


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鈴木其一群鶴図屏風
ファインバーグ・コレクション
(各隻、165cm×175cm)

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鈴木其一「群鶴図屏風・左隻」

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鈴木其一「群鶴図屏風・右隻」

この屏風を、No.85「洛中洛外図と群鶴図」で紹介した尾形光琳の「群鶴図屏風」(下に画像を掲載)と比較すると以下のようです。

光琳の「群鶴図」は、かなり様式性が強いものです。水辺は抽象化されていて、川なのか池や沼なのかはちょっと分かりません。鶴の描き方もそうです。「デザインとして鶴を描いている」感じがあり、その形はスッキリしていて、あか抜けています。

そして、じっと見ていると、鶴は鶴であって鶴でないように見えてきます。鶴の一群は "何か" を象徴しているかのようです。二つの勢力が対峙している様子が描かれている、つまり「何か非常に存在感がある群れが対峙している、そのシチュエーションそのものを描いた」ような感じがします。



そして鈴木其一の「群鶴図」です。二曲一双ということもあって鶴の数は少ないのですが(光琳:19羽、其一:7羽)、水辺を抽象化して描いたのは光琳と同じです。その水辺の描き方はそっくりであり「光琳を踏まえている」と宣言しているかのようです。

しかし光琳と違うのは "鳥そのものを描いた" と感じさせることです。鶴の姿態の変化などを見ると、鶴の生態をさまざまな角度から描写している感じです。羽の具体的な様子が描き込まれているし、羽毛の表現もあります。

鈴木其一は別の「群鶴図屏風」(プライス・コレクション所蔵)を描いていて、それは光琳の「群鶴図屏風」の模写になっています。それにひきかえ、このファインバーグ・コレクションの屏風は、光琳からは離れた個性的な「群鶴図屏風」になっていると思いました。

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尾形光琳群鶴図屏風
フリーア美術館(ワシントンDC)
(各隻、166cm×371cm)

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尾形光琳「群鶴図屏風・左隻」

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尾形光琳「群鶴図屏風・右隻」



展覧会には其一のさまざまな作品があったのですが、その中でも其一の画業の集大成というべきが、次の『朝顔図屏風』です。


鈴木其一『朝顔図屏風』


メトロポリタン美術館が誇る日本美術コレクションでは、尾形光琳の『八橋図屏風』とともに、この『朝顔図屏風』が最高のクラスの作品でしょう。日本にあれば当然、国宝になるはずです。

私はメトロポリタン美術館に2度行ったことがあるのですが、いずれも『朝顔図屏風』は展示されていませんでした。季節感を配慮して夏によく展示されるということなのですが、8月中旬に行った時にも展示はなかった。作品保護のためでしょうが、こういった屏風はそれなりの展示スペースが必要なので、広大なメトロポリタン美術館といえども常設展示は困難なのかも知れません。その意味で、あこがれていた作品にやっと出会えた気分であり、今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は貴重な機会でした。

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鈴木其一朝顔図屏風
メトロポリタン美術館
(各隻、178cm×380cm)

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鈴木其一「朝顔図屏風・左隻」

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鈴木其一「朝顔図屏風・右隻」

『朝顔図屏風』の実物を見てまず思うのは、非常に大きな屏風だということです。各隻は 178cm×380cm の大きさです。比較してみると、尾形光琳の『燕子花かきつばた図屏風』(根津美術館)は 151cm×339cm (各隻)なので、それよりも一回り大きい。面積比にすると 1.3倍です。その大きさの中に多数の朝顔が、うねるように、ほとんど画面いっぱいに描かれています。

『朝顔図屏風』は光琳の『燕子花かきつばた図屏風』を連想させます。花だけをモチーフにしていることと、色使いがほぼ同じという点で大変よく似ているのです。其一は描くにあたって光琳を強く意識したことは間違いないでしょう。具体的に『燕子花図』と比較してみます。

光琳の『燕子花かきつばた図』の描き方は写実的です。一本一本の燕子花かきつばたもそうだし、群生している姿もリアルにみえる。咲いている姿そのままを描き、そこから背景を取り去ったと、まずそう感じます。構図はエレガントでシャレています。リズミカルな花の連続が気持ちよく、画面の端で群生を切り取る構図が上下左右へのさらなる広がりを感じさせます。

さらにじっと見ていると『群鶴図屏風』と同じで、燕子花かきつばたは何かの象徴のように思えます。金地に燕子花だけという極限までに単純な造形がそう思わせるのでしょう。たとえば、それぞれの燕子花は "人" の象徴であり、何らかの "行列" を描いたというような・・・・・・。何の行列かは、いろんなことが考えられるでしょう。



鈴木其一の『朝顔図屏風』も、朝顔の花と葉とツルはリアルに描かれています。その特徴は、一個一個の花の表情が全部違えてあり、それがリズムとなって屏風全体を覆っていることです。また、青色岩絵具を使った花の描き方には暖かみや柔らかさがあり、花弁には微妙な色の変化がつけてあります。

以前のNHK「日曜美術館」(2013年)で放映されたメトポリタン美術館の科学分析の結果を思い出しました。其一は『朝顔図屏風』の花弁の青を描く時に、岩絵具(群青)に混ぜるニカワの量を通常より減らしているそうです。その結果、絵の表面に岩絵具の粒子が露出し、それによって光が乱反射してビロードのような花のタッチになった・・・・・・。そういった内容でした。其一は独自の工夫をこの絵に盛り込んでいます。

そして『朝顔図屏風』が光琳の『燕子花図』と違うところ、其一のこの絵の独自性の最大のポイントは、

  『朝顔図屏風』は、全体としては現実を描いたものではないと、一見して分かるところ

です。まず、この屏風のように朝顔が生育するためには、背景として何か "格子状の竹垣のようなもの" を想定しなければなりません。しかしそういった格子は現実には見たことがありません。たとえ格子があったとしても、朝顔はこの様に渦巻くようには生育しません。あくまで下から上へと、重力に逆らって伸びるのが朝顔です。この絵は朝顔の生態を無視して描かれています。

鈴木其一は『朝顔図屏風』で何を表現したかったのでしょうか。考えられるのは、朝顔の "みずみずしさ" とともに、植物が持っている生命力です。六曲一双の小宇宙の中に蔓延する植物を描き、その生命力をダイレクトに表現した・・・・・・。それはありうると思います。

さらに考えられるのは、光琳の『燕子花かきつばた図』と同じで、何かの象徴かもしれないということです。この六曲一双の屏風を少し遠ざかって眺めると、そういう思いにかられます。つまり、朝顔の集団によって別のものを表そうとしているのでは、という感じです。

左隻には "何らかの勢力" が渦巻いています。そして右隻にも "何らかの別の勢力" がある。その二つの勢力が拮抗している、そういった印象です。京都・建仁寺の天井画では二匹の龍が絡み合っていますが、そういった絵を連想します。あるいは、葛飾北斎が信州小布施の祭屋台に描いた二面の怒濤図(男波と女波)を思い出してもいいと思います。

しかし「左隻と右隻が向かい合って、二つの勢力が拮抗している、ないしは対峙している」ということで思い出すのは、俵屋宗達以来の琳派の伝統である『風神雷神図』です。全くの個人的な想像なのですが、この『朝顔図屏風』は『風神雷神図』のもつダイナミズムを、風神・雷神とは全くの対極にある "朝顔" という、小さくて、はかなげで、清楚で、しかし生命力の溢れた存在で表現しようとしたのではないか・・・・・・、ふとそう思いました。

鈴木其一の『朝顔図屏風』は、其一の画業の集大成だと言われています。生涯のそういう時期に描かれたわけです。その集大成において其一は、朝顔という日常よく見かける花を用いて六曲一双の中に小宇宙を作り上げた。宗達や光琳以来の光琳の伝統を踏まえつつ、あくまで独自の世界、この絵しかないという世界を築いた。そいういう風に感じました。

燕子花図屏風.jpg
尾形光琳燕子花図屏風
根津美術館
(各隻、151cm×339cm)

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尾形光琳「燕子花図屏風・左隻」

燕子花図屏風(右隻).jpg
尾形光琳「燕子花図屏風・右隻」


鈴木其一『花菖蒲に蛾図』


『朝顔図屏風』という傑作のあとに何を取り上げようかと迷ったのですが、1点だけ『花菖蒲に蛾図』ということにします。これもメトロポリタン美術館所蔵の作品です。

花菖蒲に蛾図.jpg
鈴木其一
花菖蒲に蛾図
メトロポリタン美術館
(101cm×33cm)

今回の展覧会に多数展示されていた鈴木其一の作品の中には、花、草、昆虫、小動物を描いた作品がいろいろとありました。この『花菖蒲に蛾図』もそうした絵の中の一枚ですが、注目したいのは "蛾" が描かれていることです。

蛾を描いた絵というと、真っ先に思い出すのは速水御舟の『炎舞』(山種美術館。重要文化財。No.49)です。夜、焚き火の明かりに誘われた数匹の蛾が、互いに絡みあうように炎の上を舞う・・・・・・。この絵は我々が蛾に抱くイメージとピッタリ重なっています。蛾は基本的に夜行性だし、何となく "妖しい" イメージがある。それと合っています。

しかし其一の蛾は違います。夜とか夜行性をイメージさせるものは何もなく、明らかに昼間の "健康的な" 光景です。昼間に蛾がこのように花菖蒲に飛んでくることは普通ありえず、これは現実の光景ではありません。何か夢でも見ているような画題になっています。『朝顔図屏風』について "一見して現実を写したのではないことが分かる" と書きましたが、『花菖蒲に蛾図』もそれとよく似ています。

もし花菖蒲に飛んできているのが蝶だとすると、それは普通の絵です。今回の展覧会にも芍薬しゃくやくに黒アゲハ蝶がとまっている絵がありました。しかしこの絵では蛾が配置されていて、それがちょっと変わっているというか、独特です。

ここで "蛾" のイメージを考えてみると、昆虫愛好家は別として、我々の普通の感覚は「蝶は好きだが蛾は好きではない」というものです。蝶をる人の方が、蛾を愛でる人より圧倒的に多いはずです。但し、そういった現代の感覚を単純に江戸期に当てはめるのは注意すべきです。江戸時代が現代と同じだとは限りらないからです。そこは要注意です。

其一はなぜここに蛾を描いたのでしょうか。その理由は、描かれている蛾そのものにあるような気がします。この絵に描かれている蛾はオオミズアオ(大水青)です。大きさが10cm程度の、比較的大型の蛾で、その画像例を次に引用します。

オオミズアオ.jpg
オオミズアオ(大水青)

早朝に竹垣にとまっているオオミズアオを見たことがあります。今でもその場所が記憶に残っていますが、その理由は、朝の散歩で意外な蛾に出会ってギョッとしたことと、薄い緑白色というのでしょうか、独特の色をした大きな蛾の存在感に圧倒されたからだと思います。調べてみるとオオミズアオは蛾の中でも最も美しいもののひとつで、昆虫愛好家・蛾愛好家のファンも多いようです。オオミズアオは英語で Luna Moth というそうです。Luna とは月のことで、つまり青白い月光をイメージした名前であり、なるほどと思います。以上を踏まえると、鈴木其一は現実の光景とは無関係に「美しい花」と「美しい昆虫」を一つの絵に同居させた、そういうことでしょう。

そこで思い出すのが、No.49「蝶と蛾は別の昆虫か」で書いたフランスとドイツの事情です。フランス語にもドイツ語にも、一般的な言葉として蝶と蛾を区別する言葉はなく、普通使われるのは鱗翅類全体を表す単語であり(=仏:パピヨン、独:シュメッタリンク)、それは蝶も蛾も分け隔てなく指すのでした。No.49では、ドイツ人であるフリードリッヒ・シュナックが書いた「蝶の生活」の序文から、著者が蛾をこよなく愛する言葉を引用しました。再掲すると次のような文章です。


ささげる言葉

この地上のずべての鱗翅類にこの書をささげる。そのすべてがここに登場するわけではないけれども。昼の蝶と夜の蛾にこの書をささげる。たそがれのスズメガに、心を浮き立たせるように庭園や草原の花の蜜が香り、草木の茂みから薫り高い芳香がしたたるたそがれどきに活動するスズメガ類にこの書をささげる。ヤママユ類やシャクガ類に、ヤガ類やヒトリガ類にこの書をささげたい。みんな愛すべきものたちだ。

フリードリッヒ・シュナック
『蝶の生活』
(岡田朝雄訳。岩波文庫。1993)

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トビイロスズメ
シュナックがあげているスズメガの一種である。「理科教材データベース・昆虫図鑑」より。
この引用にあげられてる鱗翅類の名前はすべて蛾です。ちなみに『蝶の生活』という題名は、原文のドイツ語を正確に訳すと『鱗翅類の生活』となるのでした。

シュナックが愛情を捧げる蛾として真っ先にあげているのはスズメガですが、スズメガとオオミズアオを比較してみると、普通の人の感覚ではオオミズアオの方が美しいと感じるのではないでしょうか。もちろん人の感覚はそれぞれだし、見た目以上に蛾の習性も大切なのだろうと思います。

とにかく、シュナックの文章からも思うことがあります。つまり、文化的背景を抜きにすると、蝶も蛾も「美しいものは美しい」ということです。あたりまえだけれど・・・・・・。鈴木其一もそういった感性をもった人だったのではと想像しました。

鈴木其一の『花菖蒲に蛾図』に戻ると、花菖蒲もオオミズアオも「美しいものは美しい」わけです。蝶ではなく蛾が描かれている、と議論すること自体がおかしいのでしょう。この絵は画家の確かな観察眼、審美眼と、約束ごとや決まりにとらわれない姿勢を示しているように思いました。



以上あげた鈴木其一の3点は、いずれもアメリカの美術館や個人コレクションの所蔵作品です。こういった展示会がないと、まず作品を見るのが難しいわけです。その意味で今回の「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展は大変に貴重な機会でした。




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No.192 - グルベンキアン美術館 [アート]

個人コレクションにもとづく美術館について、今まで5回にわたって書きました。

  No. 95バーンズ・コレクション米:フィラデルフィア
  No.155コートールド・コレクション英:ロンドン
  No.157ノートン・サイモン美術館米:カリフォルニア
  No.158クレラー・ミュラー美術館オランダ:オッテルロー
  No.167ティッセン・ボルネミッサ美術館スペイン:マドリード

の5つです。今回はその "個人コレクション・シリーズ" の続きで、ポルトガルの首都、リスボンにある「グルベンキアン美術館」をとりあげます。今までの5つの美術館はいずれも、19世紀から20世紀にかけて事業で成功した欧米の富豪が収集した美術品を展示していて、コレクターの名前が美術館の名称になっていました。グルベンキアン美術館もそうです。


カールスト・グルベンキアン


カールスト・グルベンキアン(1869-1955)は、イスタンブール出身のアルメニア人です。石油王と呼ばれた人で、石油の売買で膨大な財を成しました。そして美術品のコレクターでもあった。晩年、グルベンキアンはポルトガルに移住し、遺言によって遺産と美術品がポルトガルに寄贈されました。それを元にグルベンキアン財団が設立され、財団は美術館だけでなく、オーケストラやバレエ団の運営、各種の芸術・文化活動を行っています。

以上の美術館設立の経緯は、何となく No.167 で紹介したティッセン・ボルネミッサ美術館に似ています。マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館には、ドイツの鉄鋼王、ティッセン家のティッセン・ボルネミッサ伯爵がスペイン(=5度目の妻の祖国)に売却した美術品が展示されています。「コレクターの出身国ではない国にある個人コレクション」という点が似ているのです。

スペインとポルトガルは、大航海時代に始まる "栄光の時代" に繁栄を誇りますが(その遺産がプラド美術館)、産業革命以降の資本主義の時代にはイギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国の後塵を拝しました。それでも大量の第一級の美術品が "タナボタ" 的にもたらされる・・・・・・。そういう巡り合わせの国なのかと思ってしまいます。


グルベンキアン美術館


グルベンキアン美術館は、リスボンの中心部から少し離れた北の方向にあります。メトロで言うとブルー・ラインのサン・セバスティアン駅かプラザ・デ・エスパーニャ駅が最寄駅になります。

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ゆったりとしたグルベンキアン財団の敷地の中に、数個の建物が配置されています(次の図)。その中の "Founder's Collection" となっている建物にカールスト・グルベンキアンが収集した美術品が展示されています(グルベンキアン美術館)。

Gulbenkian - Layout.jpg
この図は上が南方向(リスボン中心部の方向)である。敷地の中には3つの建物がある。左下がFounder's Collection棟で、それとつながっているのがグルベンキアン財団のビルである。上の方のModern Collection棟には現代ポルトガルのアーティストの作品がある。

Gulbenkian - Museum.jpg
Founder's Collection棟のエントランス



"Founder's Collection" として展示されている美術・工芸品は極めて幅広いものです。年代・地域で言うと、古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ・ローマ、ヨーロッパ、東アジア、アルメニアなどであり、美術・工芸品のジャンルも、絵画、彫刻、家具、銀器、装飾品、タペストリー、絨毯、タイル、陶磁器など多岐に渡っています。またカールスト・グルベンキアンはルネ・ラリックと親交があり、ラリックのガラス工芸作品が展示されています。これらの中から絵画作品を何点か紹介します。


美術館の顔


まず取り上げるべきは「美術館の顔」とも言うべき女性の肖像画で、ドメニコ・ギルランダイヨの「若い女性の肖像」です。以下、絵の英語題名はグルベンキアン美術館のもので、その日本語試訳を付けました。

Portrait of a Young Woman.jpg
ドメニコ・ギルランダイヨ(1449-1494)
Portrait of a Young Woman(1490)
(若い女性の肖像)
グルベンキアン美術館

思い起こすと、マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館の「顔」となっている絵も、ギルランダイヨの女性の肖像画でした。この点もグルベンキアンがティッセン・ボルネミッサと似ているところです。

ティッセン・ボルネミッサのギルランダイヨの絵は真横からの横顔(= Profile)でしたが、グルベンキアンの絵は典型的な "4分の3正面視(= Three Quarter View)" の絵です。しかも女性の視線は真横方向に注がれていて、まさに今、その方向に目をやった瞬間をとらえたような感じがあります。ほんのりと赤い、ふくよかな頬と、キリッと引き締まった小さな赤い唇が印象的で、何となくこのモデルとなった女性の意志の強さを感じます(個人的印象ですが)。いい絵だと思います。


近代絵画


 ターナー 

以下、グルベンキアン美術館の展示方法に従って、年代順に近代絵画を何点か紹介します。ターナーの絵は2点ありますが、その中の1点が次です。

Quillebeuf - Mouth of the Seine.jpg
ジョセフ・M・W・ターナー(1775-1851)
Quillebeuf, Mouth of the Seine(1833)
(キュバッフ、セーヌの河口)
グルベンキアン美術館

セーヌの河口の町、キュバッフ=シュル=セーヌを描いたた絵です。ターナーの絵にしばしばある、水面と空が一体になったような描き方で、その中に河口の町が小さく配置されています。人間の営みに比べた自然の大きさを表現しているように見えました。ちなみに、もう一枚あるターナーの絵は「輸送船の難破(ミノタウルス号の難破)」です。Wikipedia(日本語版・英語版)にターナーの代表作の一つとして掲載されています(2016.11現在)。

 ドガ 

Self-portrait (Degas Saluant).jpg
エドガー・ドガ(1834-1917)
Self-portrait or 'Degas Saluant'(1863)
(自画像、または "挨拶するドガ")
グルベンキアン美術館

ドガは自画像を何枚か描いていますが、最も有名なのは No.86「ドガとメアリー・カサット」で引用したオルセー美術館の自画像でしょう。しかしこのグルベンキアンの自画像もオルセーに匹敵する出来映えです。ちなみに Wikipedia の「ドガ」の項で引用されている自画像は、日本語版・英語版ではオルセーのものですが、フランス語版 Wikipedia ではこのグルベンキアンの自画像になっています(2016.11現在)。

 マネ 

Boy Blowing Bubbles.jpg
エドアルド・マネ(1832-1883)
Boy Blowing Bubbles(1867)
(シャボン玉を吹く少年)
グルベンキアン美術館

グルベンキアンの絵画では、このマネの絵が "最も記憶に残る絵" かもしれません。男の子が一人でシャボン玉を吹いているというモチーフがユニークだからです。他にあるかもしれませんが、記憶にはこの絵しかありません。例によって背景を描かず、真剣に大きなシャボン玉を作ろうとしている男の子の姿だけを捉えています。

 ミレー 

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ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
Winter(1868)
(冬)
グルベンキアン美術館

The Rainbow.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
The Rainbow(1872/73)
(虹)
グルベンキアン美術館

この2枚のパステル画は、ミレーがパステルという画材をを使いこなした絵、という感じがします。「冬」は、殆ど単色と思える暗い色調の中に、雪に覆われた畑とポツンと配置された積み藁が凍えつくような空気感を表現しています。ミレーは冬のバルビゾンを好んだようです。


ミレーは冬の風景が好きで、誰も描かない雪のバルビゾンを喜んで写生した。冬の間、画家仲間たちはパリで過ごし、村にはミレーしか残らなかったが、冬を越した者でしか春の訪れは理解できない、とミレー自身も語っている。

井出洋一郎
「農民画家」ミレーの真実
(NHK出版新書 2014)

一方の「虹」の方は、雨があがり、画面後方から太陽がさし込み出したその一瞬の光景で、全体に暗い色使いの中で、日光に照らされた緑の表現が美しい絵です。この絵で直観的に思い出すのはオルセー美術館の「春」という油絵作品で、構図がほぼ同じです。「虹」もまた春の光景ということでしょう。

Millet - Le Printemps.jpg
ジャン=フランソワ・ミレー
春 (1868/73)
(オルセー美術館)

 ルノワール 

Portrait of Madame Claude Monet.jpg
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
Portrait of Madame Claude Monet(1872/74)
(モネ夫人の肖像)
グルベンキアン美術館

若い頃のルノワールの絵の典型という感じで、青を中心に白を配した色使いが大変に美しい。シンプルで落ち着いて鮮やかな配色が、描かれたモネ夫人・カミーユを引き立てています。

 モネ 

The Break-Up of the Ice.jpg
クロード・モネ(1840-1926)
The Break-Up of the Ice(1880)
(解氷)
グルベンキアン美術館

セーヌ河が結氷したあと、気温が上がり、氷が割れて流れ出す・・・・・・。その光景をモネは何枚か描いていますが(オルセーの絵が有名)、その中の1枚です。こういう光景は現代だと、たとえばロシアのアムール河を描いたという感じです。当時でもセーヌ河はめったに結氷しなかったと言いますが、それでも大寒波が来るとこのような光景になる。「19世紀のセーヌ河は結氷したのだ」と改めて認識させられます。

モネの "解氷" の絵については、原田マハさんの評論があるので紹介します。モネはセーヌ河畔のヴェトゥイユに住んでいるとき(1878-81。38歳-41歳)に、最愛の妻であるカミーユを亡くします(1879)。モネは絵を描く意欲を失ってしまいました。


そんなとき、冬の大寒波がパリとその近郊を襲い、めったに凍らないセーヌ河が氷結します。滔々とうとうと流れるセーヌ川。そのセーヌ川さえも凍ってしまった。ここからは私の想像ですが、モネは自分の状況をセーヌに重ねて、「ついにセーヌも凍った。そして自分の心も凍りついてしまった」と思ったのではないでしょうか。

ところが、春も近づいたある朝、目覚めたら、セーヌ川の氷が解け、水面が動きはじめたのです。その瞬間に、モネは気づいたのかもしれません。「この世界は一刻たりとも止まっていない。同じ風景を見ているようでも、時間が流れている限り、それは一瞬しかない。その移りゆく世界を、自分はカンヴァスの中にとどめたい」と。

「この世界の一瞬を、生涯かけて追い求めよう」という決意。

ヴェトゥイユでの1880年の冬の経験は、モネにとって大きなターニング・ポイントになったのではないでしょうか。モネがその冬ヴェトゥイユにいて、セーヌ川の氷解を見たのは奇跡です。その瞬間がモネに訪れなかったら、私たちはモネの作品を、いまこのような形で見ることができなかったかもしれません。

このセーヌ川の氷結という出来事の中に、私はモネの連作の萌芽を感じます。

原田マハ
『モネのあしあと』
(幻冬舎文庫 2016)

モネの連作には「クルーズの峡谷」「積み藁」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」などがありますが、その先駆けとなったのがセーヌの "解氷" の絵だ、というのが原田さんの見立てです。ちなみに、引用した文章はオルセー美術館の "解氷" の絵を念頭に書かれたものですが、グルベンキアンの絵の評論としてもそのまま通用するものです。

ちなみにモネは "解氷" を10数枚描いていると思いますが、それらは数個のグループに分けることができ、各グループの絵は同じ場所から同じ構図で描いています。ただし描いた日が違う。グルベンキアン美術館の "解氷" と同じ構図の絵は、リール宮殿美術館(Palais des Beaux-Arts de Lille:フランス)と、ダニーデン市立美術館(Dunedin Public Art Gallery:ニュージーランド)にあります。

La Debacle(Musee des Beaux-Arts, Lille).jpg
リール宮殿美術館

La Debacle(Dunedin Public Art Gallery).jpg
ダニーデン市立美術館

最初に描かれたグルベンキアン美術館の絵では、セーヌ河の多くが氷に覆われています。その次のリール宮殿美術館の絵は氷がだいぶ溶けてボートが航行している。最後のダニーデン市立美術館になると氷はあまりない。つまり「定点観測」で風景と光の変化を描いています。これって、時刻によるモチーフの変化を描いた "積み藁" や "ルーアン大聖堂" と極めて似ていると思うのですね。まさにモネの連作の先駆けが "解氷" だと思います。

 カサット 

The Stocking.jpg
メアリー・カサット(1844-1926)
The Stocking(1887)
(ストッキング)
グルベンキアン美術館

このブログで何回かメアリー・カサットについて書きました。No.86「ドガとメアリー・カサット」No.87「メアリー・カサットの少女」No.125「カサットの少女再び」No.187「メアリー・カサット展」ですが、その中には「母と子」や「子ども」のモチーフが多数ありました。この絵は、パッと見てカサットだと分かる作品(パステル画)です。

ストッキングを履かせてもらう子どもの自然な仕草がとらえられています。左手は何をしているのでしょうか。描かれた女性は家政婦で、子どもは母親の方を指しているのかもしれません。ストッキングを履くのをいやがっている感じもします。

 サージェント 

Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows.jpg
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
Lady and Child Asleep in a Punt under the Willows(1887)
(柳の下のパントで眠る母と子)
グルベンキアン美術館

パント(Punt)とは、イギリスでよく見かける平底の小舟です。Puntで川を漕いて回る遊びを Punting(パンティング)と言ったりします。テムズ河、ないしはその支流の光景だと思います。サージェントの絵は、No.36「ベラスケスへのオマージュ」で、

『エドワード・ダーレー・ボイトの娘たち』(ボストン美術館)
『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(テート・ギャラリー)

を引用しました。いずれもサージェントの代表作と言うべき作品です。No.96「フィラデルフィア美術館」の『A Waterfall(滝)』という作品もありました。

グルベンキアンのこの作品は、サージェントの代表作とは雰囲気が違います。垂れ下がった柳、画面の端で切り取られた小舟、その上の女性、川面を見下ろす構図、カンヴァス全体に筆触を残す描き方・・・・・・、これらは "正統的" な印象派のモチーフや構図、描法そのものです。モネの絵だといっても通用するのではないでしょうか。この絵はサージェントが最も印象派の手法に寄り添って描いた作品でしょう。その意味で記憶に残る作品です。


The Church of Santa Maria della Salute - Venice.jpg
ジョン・シンガー・サージェント
The Church of Santa Maria della Salute, Venice(1904/1909)
(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 - ヴェネチア)
グルベンキアン美術館

この水彩画は、前作とは違ったサージェントらしい作品です。おそらく朝の光景でしょう。サルーテ教会と水路をはさんて北側(サン・マルコ広場のある側)から南を見た構図のようであり、画面の左方向、つまり東方向から光があたっています。ヴェネチアの朝の空気感と水彩画の淡くてやわらかな感触がマッチした、すがすがしい作品です。



画像の引用は以上で終わりますが、その他の主な画家では、ファン・デル・ウェイデン、カルパッチョ、ルーベンス、レンブラント、ハルス、ルイスダール、ヴァン・ダイク、フラゴナール、コロー、ファンタン=ラトゥール、ゲインズバラ、ブーディン、テオドール・ルソー、ドービニー、ボルディーニ、タウロヴなどの作品があります。

ちなみに Google Street View で内部が閲覧できる美術館というと、メトロポリタン美術館などの "超メジャー館" が思い浮かびますが、意外にもグルベンキアン美術館は Google Street View で閲覧可能です(2016.11 現在)。あくまで "小じんまりした" 美術館なので、Street View で見るにはちょうどいいと思います。

Gulbenkian - Street View.jpg
Google Street View で内部が閲覧できる美術館はメトロポリタン、MoMA、大英博物館、テート・モダン、オルセー、ウフィツィ、ウィーン美術史美術館などであるが、意外にもグルベンキアン美術館(と財団の庭園)は閲覧できる(上の画像)。マネの「シャボン玉を吹く少年」の右の絵はモネの静物画である(画像はグルベンキアン美術館のホームページで公開されている)。


グルベンキアンの北斎


下の写真は、グルベンキアン美術館のショップで見かけたカードの棚です。現代作家の作品に混じって、真ん中にあるのは葛飾北斎です。

Gulbenkian - Postcard.jpg
グルベンキアン美術館のショップにあったカードの棚。真ん中にあるのは葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中の1枚である。

この作品は、北斎の「諸国名橋奇覧」の11枚の連作の一つで、『上野こうずけ佐野舟橋の古図』です。"佐野の舟橋" というと、万葉集に歌われた歌枕であり、はかない恋を象徴しました。枕草子の「橋」の段にも出てきます。北斎の時代、佐野(今の栃木県)に舟橋はもう無かったようです。しかし舟橋そのものは日本にあり、北斎は過去を想像して描いたようです。「古図」としてあるのはその意味です。

グルベンキアン美術館はこの作品を所蔵しています。欧米の美術館で北斎の作品を見かけることはよくあるのですが、このポルトガルの首都でもそうであり、欧米における北斎の "メジャー感" が認識できます。

佐野の舟橋.jpg
葛飾北斎(1760-1849)
上野こうずけ佐野舟橋の古図
(かうつけ佐野ふなはしの古づ)
「諸国名橋奇覧」より


美術館から少し歩くと・・・・・・


ここからは余談です。グルベンキアン美術館からリスボン中心部の方向(南方向)に5分程度歩くと、エル・コルテ・イングレスというデパートがあります(上に掲げた地図参照)。スペイン各地にあるデパートですが、リスボンにも進出しています。

ここの地下1階はスーパーになっていて、また高級食料品(というか、スーパーよりワンランク上の食品や菓子)を売る店が併設されています(この店があることがポイントです)。ポルトガルの土産物を買うには最適のスポットだと思います。もしグルベンキアン美術館を訪れたなら、近くのエル・コルテ・イングレスに立ち寄られることをお勧めします。

El Corte Ingres.jpg
リスボンのデパート、エル・コルテ・イングレス。グルベンキアン美術館の方向から見た画像(Google Street View)。




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No.190 - 画家が10代で描いた絵 [アート]

No.46「ピカソは天才か」で、バルセロナのピカソ美術館が所蔵するピカソの10代の絵をとりあげ、それを評した作家の堀田善衛氏の言葉を紹介しました。

実は、ピカソの10代の絵は日本にもあって、美術館が所蔵しています。愛知県岡崎市に「おかざき世界こども美術博物館」があり、ここでは子どもたちがアートに親しめる数々のイベントが開催されているとともに、日本を含む世界の有名画家が10代で描いた絵が収集されています。この中にピカソの10代の絵もあるのです。

私は以前からこの美術館に一度行ってみたいと思っていましたが、そのためだけに岡崎市まで行くのも気が進まないし、何か愛知県(東部)を訪問する機会があればその時にと思っていました。

ところがです。今年(2016年)のお盆前後の夏期休暇に京都へ行く機会があったのですが、たまたま京都で「おかざき世界こども美術博物館」の作品展が開催されていることを知りました。会場はJR京都駅の伊勢丹の7階にある「えき」というギャラリーで、展示会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」(2016.8.11 ~ 9.11)です。これは絶好の機会だと思って行ってきました。

世界の巨匠たちが子どもだったころ.jpg


ピカソのデッサン


今回の展覧会の "目玉作品" がピカソの14歳ごろの2つの絵で、いずれも鉛筆・木炭で描かれた石膏像のデッサンです。展覧会の図録によると、ピカソの石膏像のデッサンは30点ほどしか残されていないそうで、つまり大変貴重なものです。振り返ると、No.46「ピカソは天才か」ではバルセロナにある別のデッサンと堀田善衛氏の評言を紹介しました。

この2点は、2000年に「おかざき世界こども美術博物館」がスペインの個人収集家から買い取りました。つまり岡崎で世界初公開された絵であり、それを京都で鑑賞できたというわけです。

ピカソ:女性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ(1881-1973)
女性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆
(1894-95 頃。13-14歳)

ピカソ:男性の石膏像.jpg
パブロ・ピカソ
男性頭部石膏像のデッサン
紙、鉛筆と木炭
(1895。14歳)

この2つのデッサンは、比べて見るところに価値がありそうです。石膏の女性像と男性像ですが、「静」と「動」の対比というのでしょうか。女性像の顔や髪は大変なめらかで、静かな雰囲気が出ています。特に、目尻から頬をつたって口元に至る造形と陰影の美しさは格別です。伏し目で静かにたたずんでいる女性。そういった感じが出ています。

比較して男性像の方は、顔が少しゴツゴツした感じです。髪もボリューム感がずいぶんあって "波打っている" ようです。荒々しいというと言い過ぎでしょうが、それに近い感じを全体から受けます。大きく描かれた影が強烈な光を想像させ、石膏像はその光に "立ち向かっている" というイメージです。

この2枚は、単に石膏像をリアルにデッサンしたという以上に、対象の本質に迫ろうとするピカソ少年の意図を感じます。13-14歳でこのような描き方ができたピカソは、やはり希有な画家だと思いました。



展示されていたピカソ以外の絵は、ヨーロッパの画家でいうと、モネ、ムンク、ロートレック、デュフィ、クレー、ビュッフェ、カシニョール、シーレなどでした。

また、日本人画家の10代の絵も多数展示されていました。日本画と洋画の両方です。以下はその中から何点か紹介します。


水彩画・2点


日本人画家の絵は多数あったので迷うのですが、まず水彩画を2点、岸田劉生と佐分 真さぶり まことの絵を取り上げます。

岸田劉生:秋.jpg
岸田劉生(1891-1929)

紙、水彩
(1907。16歳)

この岸田劉生の水彩の一番のポイントは、まず画面下半分の「道、土手、川」を大きく右に湾曲させた構図でしょう。「道、土手、川」の曲がり具合いが少しずつ違っていて、絵にリズムを生んでいます。画面の上半分に描かれた樹と家屋はどっしりと落ち着いていて、この上半分と下半分の対比が構図のもう一つのポイントです。全体の描き方は細やかで写実的です。

風景画はこういう風に描くのだという、お手本のような絵です。16歳のときの絵ですが、すでに "できあがっている" という感じがします。劉生は38歳という若さで亡くなったのですが、もっと長生きすれば「麗子像」のように強烈なインパクトを与える作品をいろいろと生み出したはずと思いました。16歳にしてこれなのだから。

佐分真:裏庭.jpg
佐分 真(1898-1936)
風景(裏庭)
紙、水彩
(1912。14歳)

佐分真は、岸田劉生と同じく38歳で亡くなった画家です。この絵も劉生と同じく構図がいいと思いました。庭の縁と屋根の線が画面の中心に向かっていて、それによって遠近感を出しています。画面の上に描かれた木の枝と、下の方の木の陰もうまく配置されている。

全体は淡い中間色ですが、各種の色がちりばめられています。のどかな昼下がりの裏庭の感じが、その空気感とともに伝わってきます。画家になってからの佐分真の絵は、明暗を利かせた、重厚で厚塗りの油絵が多いのですが、それとはうって変わった "爽やかな" 絵です。14歳で描いたのだから、あたりまえかも知れません。



その他、日本の洋画家では、坂本繁二郎、青木繁、安井曾太郎、小出楢重、古賀春江、村山隗多、東郷青児、関根正二、山下清などが展示されていました。


日本画


日本画もいろいろありました。鏑木清方、奥村土牛、山口華陽、平山郁夫、田渕俊夫などです。この中からひとつを取り上げると、伊東深水の「髪」と題した作品が次です。

伊東深水:髪.jpg
伊東深水(1898-1972)

絹本着彩
(1913。15歳)

伊東深水:髪(部分).jpg

伊東深水は佐分真と同年の生まれで、この「髪」は佐分の水彩画と同時期に描かれました。伊東深水は美人画で有名ですが、15歳で描いたこの絵をみると、すでに画家として成り立っている感じです。絹本けんぽんを横長に使い、女性の横顔をとらえて髪を表現するという描き方が斬新です。一目みて忘れられない印象を受けました。


高村咲子の日本画


高村咲子さくこは、高村光太郎の6歳上の姉です。この展覧会では、高村咲子が9歳から14歳で描いた5点が展示されていました。今回はじめて、光太郎に "画家" の姉がいたことを知りました。

高村咲子が "画家" として知られていないのは、わずか15歳で亡くなったからです。光太郎が10歳の時です。せめて関根正二のように20歳頃まで生きたとしたら「夭折の画家」と言われたのかもしれませんが、咲子は「夭折の画家」にもなれなかった。

しかし咲子の技量は、子どもにしては卓越しています。下に掲げた「鶴」と「猿」は、今でいうと小学生の高学年の絵ですが、とてもその年頃の子どもが描いたとは思えません。

今回の展覧会のタイトルは「世界の巨匠たちが子どもだった頃」でした。多くの画家の10代の絵が展示されていたのですが、高村咲子だけは「画家が子どもだった頃の絵」ではなく「子どもで人生を終えた "画家" の絵」というのが印象に残りました。

高村咲子:鶴.jpg
高村咲子(1877-1892)

絹本墨彩
(1888。11歳)

高村咲子:猿.jpg
高村咲子
絹本墨彩
(1889。12歳)


絵画の原点


展覧会全体の感想です。有名画家の絵がいろいろあったので、画家として名をなした以降の作品を思い浮かべながらの鑑賞もできました。

芸術家としての画家は個性を追求します。自分にしかない画風というのでしょうか、描くモチーフや描き方について、その人にしかないという独自性を追求するわけです。絵をみて「あの画家の作品だ」とか「見たことのある画風の絵だ」と思わせる "何か" です。

しかしこの展覧会の絵は、そういった画風を確立する以前に描かれたものです。そこに感じるのは、描く対象を見きわめようとする少年・少女の真剣な姿勢です。そこは多くの絵で共通している。絵画の原点がよく分かった展覧会だったと思いました。




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No.187 - メアリー・カサット展 [アート]

今回は、横浜美術館で開催されたメアリー・カサット展の感想を書きます。横浜での会期は 2016年6月25日 ~ 9月11日でしたが、京都国立近代美術館でも開催されます(2016年9月27日 ~ 2016年12月4日)。

メアリー・カサットの生涯や作品については、今まで3つの記事でとりあげました。

No.86 ドガとメアリー・カサット
No.87 メアリー・カサットの「少女」
No.125 カサットの「少女」再び

の3つです。また次の2つの記事ですが、

No.93 生物が主題の絵
No.111 肖像画切り裂き事件

No.93では、カサットの愛犬を抱いた女性の肖像画を引用し、またNo.111では、ドガが描いた「メアリー・カサットの肖像」と、その絵に対する彼女の発言を紹介しました。これら一連の記事の継続になります。

メアリー・カサット展ポスター.jpg
メアリー・カサット展
横浜美術館
(2016年6月25日~9月11日)
絵は「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880。36歳。ロサンジェルス美術館蔵)


浮世絵版画の影響


Mary Cassatt - Photo.jpg
1867年(23歳)に撮影されたメアリー・カサットの写真。彼女がパリに到着した、その翌年である。手にしているのは扇子のようである。フィリップ・クック「印象派はこうして世界を征服した」(白水社。2009)より。
今回の展覧会の大きな特徴は、画家・版画家であるメアリー・カサット(1844-1926)の "版画家" の部分を念入りに紹介してあったことです。カサットの回顧展なら当然かもしれませんが、今まで版画をまとまって見る機会はなかったので、大変に有意義な展覧会でした。

彼女が版画を制作し始めたのは日本の浮世絵の影響ですが、その浮世絵の影響はまずドガ(1834-1917)との交流から始まりました。カサットがドガに最初に出会ったのは1877年(33歳)です。その時点でドガ(43歳)は、モネやマネやといった初期印象派の仲間でも熱心な日本美術愛好家でした。横浜美術館の主席学芸員の沼田英子氏は、メアリー・カサット展の図録の解説「メアリー・カサットと日本美術」で、次のような主旨の解説しています。

 ・・・・・・・・

カサットの『桟敷席にて』にみられるような、人物をクローズアップして遠景との関係を際立たせる手法は、ドガが広重などの浮世絵から想を得て、オペラのオーケストラやカフェ・コンセールの場面に用いたものと類似しています。

オーケストラ席の楽師たち.jpg 桟敷席にて.jpg
エドガー・ドガ
「オーケストラ席の楽師たち」
(1870/72)
シュテーデル美術館
(フランクフルト)
メアリー・カサット
「桟敷席にて」(1878)
ボストン美術館
この絵はロンドンのコートールド美術館にあるルノワールを絵を踏まえて描かれたと想像するのだが、どうだろうか。

浜辺で遊ぶ子供たち.jpg
メアリー・カサット
「浜辺で遊ぶ子どもたち」(1884)
ワシントン・ナショナル・
ギャラリー
また『海辺で遊ぶ子供たち』のように場面を俯瞰的にとらえ、地面や床面を "地" のようにして人物を浮き上がらせる構図は、ドガがバレエのレッスン場面でよく用いているものです。ドガはそれを浮世絵の室内表現から着想したと考えられています。─── そう言えばカサットの『青い肘掛け椅子の少女』も室内を俯瞰的な構図で描いていました(